2016年10月08日

コーヒー・ブレイク


世の中三連休ですが、別にどこかに出かける予定があるわけではなく、その一方で原稿は全く進まず ・・・・ で、何はともあれコーヒー・ブレイク。

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ここは先日見つけたところですが、確かにコーヒーは美味しいです。 今日のコーヒーはコロンビア。

あっパフェは、まあついでに、です。 季節ものですから (^_^;

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2016年10月07日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続3・補)


防衛研究所所蔵史料を再確認していましたら、10月24日の 「武蔵」 沈没時の戦死傷者表が出てきました。

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(「武蔵」 戦死傷者表 元画像 : 防衛研究所所蔵史料より )

これに基づき先の記事を少し修正・加筆して見たいと思います。

「武蔵」 生存者は隔離された? (続) :

この 『菲島沖海戦ニ於ケル戦死傷者表』 によりますと、下士官兵は

  戦死者 :   235名
  行方不明者 : 749名 (内傭人3名)

であり、先の 「戦闘詳報」 からは出撃時の乗艦者数は2287名ですので、生存者数は1303名となります。

これは 「戦闘詳報」 記載の員数と一致しますが、戦死者と行方不明者の内訳は若干異なります。

そして、生存者1303名の内、戦傷者は

  受診者 :    67名
  入院者 :   116名

とされていますので、コレヒドールに収容されたのはこの入院者を除く1187名であったと考えられます。

准士官以上については生存者73名には重傷者はおりませんので、この73名全員がコレヒドールに収容されたものと考えられ、下士官兵との合計は1260名となります。


なお意外なのは、出撃時に便乗していた准士官以上及び同相当官の7名の内4名は 「島風」 に移乗したことが判っていますが、残りの3名のその後は不明です。

また、「摩耶」 の生存者も含めた下士官兵の便乗者の内、「島風」 に移乗したとされる者 (これも正確な数は不詳ですが) 以外の状況も判りません。

もちろん入院者116名のその後は判りませんが、もしかすると何人かは2回に分けて内地に帰還した者の中、あるいは比島からの最後の便となった昭和20年年明け早々の病院船 「第二氷川丸」 の乗船者に含まれていたのかもしれません。

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前 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続3)

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2016年10月04日

秋月型 「初月」 の最終装備状態について


別記事にてHN 「小島」 さんからお尋ねいただきましたが当該項の内容についてではありませんので、私の回答と併せこちらに纏めて記事とします。


お尋ねの件は次のものです。

 秋月型について、特に初月について (最終時の武装の配置) をよく知りたい


あ号作戦後の状況について各海軍工廠が調査したものを故福井静夫氏が纏めた 『各艦機銃電探哨信儀等現状調査表』 という史料があり、これに 「初月」 も含まれています。

これについては最近になって光人社から復刻されましたが、何しろ9千円近い価格です。

この内の駆逐艦についてでしたら 『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』 (光人社) の巻末に元のものを書き直したものが掲載されていますので、これをご覧いただくのが手っ取り早く、またこれで十分ではないでしょうか。

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ただし、「初月」 については昭和19年6月30日現在のものとされています。

したがって、「初月」 はエンガノ沖海戦において10月25日に戦没しておりますので、それまでの間に変化があったのかどうかは私も調べたことはありませんので判りません。


なお、この史料は従来故福井静夫氏の著作物とされていますが、上記のとおり、各海軍工廠が作成した調査表を氏が職務上の命により纏めた “公文書” であり、いわゆる氏の “著作物” ではないことには注意が必要です。

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( 元画像 : HP 「海軍砲術学校」 所蔵の複製版より )

そして本来ならこれは復刻出版するような性格のものではなく、むしろ 「アジ歴」 や 「大和ミュージアム」 などのしかるべきところで一般に公開すべきもの、と私なら考えますが ・・・・ ?

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2016年10月03日

海上警備隊と旧海軍軍人


ネット某所で昭和25年に創設された警察予備隊への旧陸軍軍人の採用状況について話題になっておりました。

では昭和27年に創設された海上警備隊の場合についてはどうだったのか、と思われる方もおられると思いますので少々。


警察予備隊では昭和25年の創設時にはまだ戦後の公職追放もあって旧陸軍軍人は採用されませんでした。

しかしながら、当然のこととして軍事組織とはどういうものかさえ満足に理解していない一般の人々を集めてもまともに機能するわけがありません。

そこで26年には取り敢えず陸士58期 (終戦直前に少尉に任官) を採用したものの結局上手く行かず、知識及び経験のある佐尉官の旧軍人を採用せずにはおられませんでした。

これに対して昭和27年4月に創設された海上警備隊 (僅か4ヶ月後には 「警備隊」 となる) は、この警察予備隊での反省と海軍という特殊性もあり、また旧海軍軍人の採用もかなりの程度が可能な情勢となったことから、当初から旧海軍軍人が含まれました。

とは言っても、組織そのものが海上保安庁の一部局だったこともあり、保安庁からの転換者が主流を占めたのは当然のことです。

そして旧海軍軍人の採用に当たって、特に幹部については定員枠による採用数の関係や戦後既に7年も経っていたことなどから、それほどスンナリ行ったわけではありません。

それに旧海軍での知識・経験は有っても米海軍方式の採用により全く一からの出直しであったため、これに馴染めず拒否反応を示す者もかなりあったと聞いています。


そこでこれらの全体像ですが、

海上警備隊創設時の状況や経緯、そしてこれに先立つ 「Y委員会」 のことになどついては、一般の方々が入手できるものとして 「 (財) 水交会」 から出ている鈴木総兵衛著 『聞書・海上自衛隊史話』 があります。

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当該書はかつて水交会会報誌 『水交』 に連載されたものを改めて1冊に纏め直して出版したもので、このテーマについてその概要と流れを掴むには最適のもの、というより現在までのところこれしかないと言っても過言ではないでしょう。

なにしろ、後になって出された学者や研究者などがものしたものと異なり、当時の中枢にいた当事者が書いたものですから。

しかしながらデータなどの具体的な面ではやや足りないところもあり、かつ公的な裏付けも必要になりますので、やはり当該書だけでは不完全と言えます。

この足りない部分については、昭和57年に海上自衛隊が 『海上自衛隊二十五年史』 を 「本編」 及び 「資料編」 の2分冊で公刊しており、海上警備隊創設時の人事的なことも一応網羅されています。

JMSDF_History25_cover_s.jpg  JMSDF_History25_2_cover_s.jpg

ただし、残念ながらこの年史は 「部内限り」 に指定されていたため、一般向けには公開されていませんので、まず目にされたことはないと思います。

( 国立国会図書館には平成15年の 「50年史」 は収蔵されてますが、この 「25年史」 はありません。 ただ、最近では時々古書店に出回っているようですが ・・・・ )


これらを要約すると、海上警備隊への旧海軍軍人の採用状況は、国内情勢、そして組織そのものが保安庁出身者に牛耳られていたことなど考慮すると “まあ上手くやった” のかなと評価されます。

そして何よりも、まず教官要員を最優先したことと、一から米海軍方式に従ったことがその後に繋がっていると言えます。


で、これで終わりなんですが、やはり具体的な数字などを挙げて説明しないと手抜きかな ・・・・ (^_^;

posted by 桜と錨 at 20:30| Comment(1) | TrackBack(0) | 気ままに

2016年10月02日

昨日は渋谷


日付が変わってしまい、もう一昨日のことになってしまいました。

5ヶ月 (?) ぶりに渋谷へ出ましたが、代々木公園の国立競技場と野外ステージ間の通りで北海道フェアをやっていました。

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通りの両側と野外ステージ前広場に多数の出店・屋台が並び、通りの中央はテーブルと椅子がズラリと揃えられて巨大なフードコートと化していました。

金曜日の昼でしたが大勢のグループや家族連れの来場者があり、それぞれ思い思いの食べ物買ってきてはテーブル席に集まって、ワイワイガヤガヤ。 もちろんお肉や焼き牡蠣などで一杯やるグループも。

う〜ん、今日の打合せはここでやってもよいのではと思ったり (^_^;

フェアは100mくらいで、その向う側は普段の通りの姿。 何となく木々の葉の色も秋が近づいた雰囲気になってきています。

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で、13時半から始まった打合せですが、途中で2回のトイレ休憩があっただけ。 フッと気が付けば21時を回っていましたので、取り敢えず今回はここまでとました。

まだ具体的な内容はどうなるか判らない企画ではありますが、私と同様な部外からの参加者の皆さんもそれぞれ好きなテーマだけに中身の大変濃い討議となりました。 さて今後どの様に形作られて行くのか、これからが楽しみです。

結局宿に入ったのは22時頃。 ともかく何か食べに (と言うより一杯やりに) 出ることに。

しかしながら、花金ということもあってかこの時間でも渋谷の街はどこも若い人達が溢れており、お店も一杯のところばかりです。

折角の機会に新規開拓もままならず、仕方なくここならと思って以前一度お邪魔したことのある沖縄料理のお店へ。

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が、なんと外人さん数名も含めてここもほぼ一杯。 でも一人ですので何とかカウンター席に座れました。

もちろんここに来ればこれです。 まずは泡盛の水割り。

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本当は40度の瑞泉のロックでチビチビやりたかったのですが、最近めっきり弱くなりましたので我慢して27度の久米仙の水割りで (^_^;

注文した肴は沖縄では有名なものばかり。

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最後の写真のものはご存じですか? 豚のしっぽをトロトロになるまで煮込んだものです。 なかなかの珍味。

う〜ん、ちょっとカロリー高過ぎの夕食かな (^_^)


で、今朝はゆっくり起きて、昼頃代官山でのディアゴさんのジャズ・イベントに顔を出したいと思っていたのですが ・・・・ 急用ができまして帰宅することに。 これはちょっと残念。

そこで、朝食と昼食を兼ねてこれを。 駅弁屋さんで見つけたご飯の無いおかずだけのセットもの。 まさに車中でのビールのおつまみにピッタリです。

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安い割にはボリュームもあり、なかなか美味しかったです。

えっ、お土産は、ですか? もちろんそこは忘れません。 これが無いと家に入れてもらえませんので (^_^;

posted by 桜と錨 at 00:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2016年09月29日

呉海軍工廠テキスト 『軍艦ノ発達』


以前神田の古書店で入手した福井静夫編の呉海軍工廠テキスト 『軍艦ノ発達』 についてご紹介しました。


ご存じのとおり福井氏は戦後になって自分がかつて関わった史料に手を入れ、元々の作成時の内容からかなり変わっていることがあります。 ですから、このテキストについてもその有無と私の所持する複製が何時の段階のものであるのかを確認したいと思っていたところです。

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( いずれも管理人所有の複製版 )

そこで 「大和ミュージアム」 に収蔵されている福井史料の中にこれの元の原紙がないかどうかを問い合わせたところ、複製なら一冊あるとの回答がありましたので先日見に行ってきました。

結果的には、私が持っているものと全く同じ原紙からの複製で、綴じ方が多少異なるだけのものでした。 そして同館には元々の原紙は収蔵されていないとのこと。

しかしながら、同館収蔵の複製には福井氏自身による書込がありまして、それによってこのテキストの経緯などについて幾分判明しました。 その要旨は次のとおりです。

1.昭和19年7〜8月に工廠実習の学生・生徒用のテキストとして第1巻分を作成・配布し、20年初頭これに第2巻も合わせたものを完成。

 福井氏本人曰く、内容は Hovgaard 著 「Modern Warships」 の和訳ほぼそのままで、これに訂正・修正を加え、更に氏の勤務録より追加を行った。

2.昭和20年4月兵学校教官の内示があり、その講義用として最終的な纏めを実施。

3.戦後になって、昭和27〜28年に青陽社 (注) によりブループリント30部を印刷・製本し、20冊は造船工業会などに、そして10部を海幕用として配布。 海幕は更に別途青陽社に10〜20冊の増刷を発注した。

(注) : 現在東京の港区にある 「(株) 青陽社」のことと思われます。

そして元々の原紙では、(何故か) わざわざ米国の 「米」 を 「獣偏に米」、同じく英国の 「英」 を 「獣偏に英」 と書いていたものを、この戦後の再印刷の時に正しく 「米」、「英」 と修正したとしています。

大和ミュージアム収蔵分も私の複製もこの修正跡がありますので、戦後増刷分であることは間違いありません。

また、同館のものは目次が第1巻と第2巻のそれぞれの表紙の後にありますが、私の複製では両方の目次が冒頭の合冊表紙の後に纏められています。

そして私のものは明らかにブループリントからコピーしたものであることから、海幕が別に発注した増刷分 (おそらく原紙は使わせて貰えなかった) の1冊であり、これがどこからか古本で流れたものであると考えられます。

・・・・ ということで、残念ながら 「大和ミュージアム」 には元々の原紙は無く、しかも福井氏の書込には戦時中に印刷したもの1冊は仮製本して所蔵していると記されていますが、これも同館にはありませんでした。

これらは今どこにあるのか ? もしご存じの方がおられましたら是非ご教示下さい。
posted by 桜と錨 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月25日

艦内電話装置配置図


本家サイトの50万名ご来訪感謝記念企画の第4弾のコンテンツを作らなければならないところですが、ちょっと変なものに捕まってしまいまして延期させていただきます。

その変なものとは 「あさかぜ」 就役時の 『艦内電話装置配置図』 です。

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昔コピーしておいたものをディジタル化しようとしたのですが、コピーの写りが大変に悪いため、ゴミ取りなどの加工とよく見えないところを何とかと作業を始めましたが、これが大変に手間暇を要することがわかりました。

下図は艦橋構造物の第02甲板 (3層目) で、航海艦橋やCICがあるところですが、この図面だけでもやっとここまでです。

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船体内の各甲板になるとちょっと完成は何時になることやら ・・・・ (^_^;

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( 第2甲板 まだ未加工です )

この 『艦内電話装置配置図』 というのは、艤装工事の時に各種の艦内通信装置について “ここにこういうものを取り付けますよ” というもので、一般艤装図の上にこれを書き加えたものです。

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( 上の第02甲板図の一部 航海艦橋艦長席付近 )

確か当時でも10部程度しか作られなかったと記憶していますので、その意味でも大変にめずらしく、一般の方々がご覧になったことはまず無いと思います。

この図を元に工事がなされますが、艤装員の艤装要望などにより変更されることもあります。 このため就役時の最終的なものはこの図を修正した縮小版と各通信系統ごとの一覧表が一緒になって完成図書の中に綴じられることになります。

既に退役した古い艦のものですが、艦艇の艤装時の図面の中にはこういうものも含まれていますという、取り敢えずご参考までにご紹介を。
posted by 桜と錨 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 現代戦のこと

2016年09月24日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続3)


やっと本題に入ります (^_^;

それでは、何のために約1400名もの生存者を一個所に集めておく必要があるのでしょうか?

そうです、乗っていた艦の事後処理と残った乗員の次の配置への準備を“早急に”実施しなければならないからです。 旧海軍ではこれら全てを総称して 「残務処理」 と呼んでいました。

大きく分けると次の様な事項があります。


1.艦及び乗員の状況の調査・確認

出港時の乗艦者の確認から始まって戦闘時の状況、生存者、負傷者、戦死者そして行方不明者にいたる迄を一人一人について調査し纏める必要があります。

沈没によってほとんど全ての記録が失われたことから、これらを確認するだけでも物凄い労力を要するものであることはお判りいただけるかと。 その成果を総括したものの一つが 「戦闘詳報」 であるわけです。

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( 「武蔵」 戦闘詳報表紙 元画像 : 防衛研究所所蔵史料より )


2.戦死者及び行方不明者の取扱

戦死者について士官は海軍省へ、准士官及び下士官兵は所管の鎮守府へ一人一人について正規の報告しなければなりません。

もちろんその前提として、1.の調査で戦死者は誰が何時どこでどの様な状況で戦死したのか、それを誰が確認したのかを、行方不明者も同様で、特に最後は誰がどの様な状況で見たのかを明確にしなければなりません。

そして、もし誰かが戦死者の遺品、遺髪などを持っていた (預っていた) としたら、それの送付手続きも必要になります。

3.個人の記録の確認

入隊以来の各個人の経歴などを記した 「履歴表」 は失われておりますので、この記載事項を可能な限り復元しながら、各個人の次の配置決定に備えなければなりません。

階級、特技、賞罰、俸給額はもちろん、過去の経歴などは全てこれに基づいているからです。

そして最終的には内地に帰って、将校は海軍省、准士官以下は所管の鎮守府人事部にある履歴原簿と照合しなければなりません。

4.官給品の支給

沈没時に戦闘配置から着の身着のままで海に投げ出されたわけですから、身の回りのものは何もありません。

一人一人に規定の衣服・装備品などの支給が必要になりますので、誰に何を支給したかの貸与簿も一から作り直しです。

正式な支給品は次のようなものがありますが、もちろん一度に全てを揃えることはできませんので、何時何を支給したのかをきちんと記録していく必要があります。

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そして履歴表がありませんので、制服に着ける階級章、特技章、善行章なども一つ一つ間違いのないように確認する必要があります。


以上の事務処理・手続きだけでも相当な期間を要しまず。 副長以下の主要メンバーが内地送還となった頃に、ようやく 「戦闘詳報」 などの主な事項の目途が立ってきた時期でしょう。


そして更に重要なことは、この残務処理のために1400名もの人数を一個所に集めますので、そのため総員用の食住が必要になります。

宿舎に士官・准士官・先任の下士官・その他の下士官兵に分けた部屋や事務室などが必要ですし、生活及び事務に必要な物品も整えなければなりません。

食事も毎日三度三度の烹炊員や主計員を主体とした体制を作らなければならないことです。 どこかの部隊の食堂に行って並べば何時でもセルフで食べられる、などということはあり得ませんので、ともかく 「武蔵」 乗員として自活できるように、1400名分の食材 (生糧品、貯糧品) の補給体勢、調理場と調理器具、配膳の道具類等などを整えなければなりません。 それもコレヒドールに着いたその日から直ちにです。

加えて、戦闘や脱出時に数多くの乗員が多かれ少なかれ負傷しており、これらの治療も必要になります。 海軍病院へ入院を要するような重傷者は別として、それ以外の負傷者の介護などの面倒は基本的に全て自分達で行うことになります。


これら全てが如何に煩雑であり多忙を極めるものであったかは皆さんもご想像がつくと思います。

したがって、これらのこと全てを行う施設として、「武蔵」 沈没の翌日10月25日、急にその受け入れを担当することとなった31特根としては、コレヒドールが最適であり、しかもここしか選択肢がなかったと考えられます。

通常ならば、これらの残務処理を行いつつ順次内地送還を待ち、内地において最終的に残務処理の残りを行うことになります。

これらの個人個人の事務処理のカタがついたところで、初めて正式に各自の次の補職替えの手続きに進むことができるのです。


以上の “残務処理” とそれに伴う要措置事項の必要性について、これまで語られてきた生存者の処遇・待遇についての話しの中では “スッポリと” 抜け落ちて、コレヒドールという “僻地” に収容されたことのみが一人歩きしているように思えます。

例えば、10月18日までにマニラだけで既に給糧艦 「伊良湖」 を始めとする21隻の海没・放棄艦船の乗員がおり、そして10月18日以降は更に 「最上」 を始めとする実に92隻の艦船の乗員がマニラに収容されていたのです。

そして戦況は、「武蔵」 の乗員でさえ何とか2回の機会を捉えて620名を内地送還するのがやっとであり、そしてマニラを中心とするルソン島やその周辺の防衛体制強化の必要から、正規に送り込まれる部隊以外に多数の兵員の充足に迫られていたのです。

したがって、前回お話ししたコレヒドール収容以降の 「武蔵」 生存者の状況も、ある意味では日本海軍としても止むに止まれぬものであったと言えるでしょう。

「武蔵」 乗員という、いわば選び抜かれた多数の熟練兵は、全海軍のどこの艦船・部隊でも喉から手が出るほど欲しかったことは間違いないことなのですから。

そして、当時の旧海軍には 「武蔵」 沈没を秘匿するような必要性も余裕も無かったといえますし、それは既にお話しした実際の経緯からも、その様な事実は全く無かったと結論付けられます。


が “しかし” です。

この様な “残務処理” のことや戦況がよく判っているのは准士官以上の一部です。 そして下級の士官や下士官兵になる程、こういう自分の置かれた状況というものを理解する知識に乏しいでしょう。

いちいち事細かに説明して納得させるような事柄ではなく、淡々と事務処理を進めればいいだけのものだからです。

もちろん上陸 (外出) などは論外です。 服装 (階級章や善行章など全てを含む) が各個人で正しいものでなければならないことはもちろんですし、なにしろ肝心なお金を持っていません。

給与簿がないと個人個人の俸給額が決められませんので支給できませんし、また個人の貯金通帳や印鑑も無くしたのですから。

したがって、残務処理が全て完了するまでは基地内に “幽閉状態” となることは当然なことなのです。 外に出したくとも出せないのです。

しかしながら、こう言う海軍として当然の措置である境遇におかれることを十分に理解できない下士官兵の中には、これを “隔離された” と感じる者がいたとしても不思議ではないでしょう。

ましてや 「武蔵」 の乗員であればこそ、それが “沈没を隠すために” と結び付いてもおかしくはありません。

そして悪いことに、副長以下が1ヶ月後に、第2陣がその後に内地帰還となり、そのあとは便が無かったわけです。

フィリッピンを巡る戦況などは判らずに後に残された者達が “自分達は棄民” と感じたとしても、それはあり得ないことではないと思います。


これが結局戦後になって、生き残り乗員達の回想や手記となって世間に広まり、“日本海軍は 「武蔵」 の沈没を隠すためにコレヒドールに隔離した” とまことしやかに流布されることになります。


余談ですが、先日放映されたNHKのドラマ 「戦艦武蔵」 でもその様な流れになっています。

元々の台本ではもっと強い表現のものだったのですが、プロデューサーや監督さんに事実としての “隔離” はなかったものの、生存者の感情として “中には” そう思った者がいたとしてもそれはあり得る話しで、このストーリーはこれはこれで有りですよ、とお話しし納得いただきました。

そしてそういう個人の自然な感情になるように配慮していただいております。

(この項終わり)

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2016年09月22日

お彼岸


今日はお彼岸の中日。 生憎の天気でしたが、日頃の不精をお詫びかたがた家内とお墓参りに行ってきました。

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秋分の日の祭日ですので、小雨の中を結構墓参に来られている家族の方々が多かったです。


で、帰りはお約束の休憩 (^_^) 新規開拓ということで、ポツンとある小さなカフェにお邪魔してみました。

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専門店を謳うだけはあって、コーヒーはなかなか美味しかったです。 時々は寄ってもいいかも。

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2016年09月19日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続2・補)


ちょっと本来の主題からは外れますが、折角の機会ですからHN 「大隅」 さんからコメントをいただいたマニラ湾口の人工島 「エルフレール島」 (El Fraile Island) についてご紹介したいと思います。

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( 現在のエルフレール島 元画像 : ネットより (サイト名失念) )

この島は元々は次の上の写真のように天然の小さな岩礁でしたが、1909年から米陸軍によってこの上に巨大なコンクリート砲台の人工島が築かれ、1930年代には下の写真のような姿になっていたとされています。

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( 米陸軍の戦前史料より )

米軍の正式名称で 「ドラム要塞 (Fort Drum)」、占領後の日本軍ではその姿から通称 「軍艦島」 と呼ばれていました。

ここには14インチ連装砲塔2基を始め6インチ単装砲及び3インチ単装砲がそれぞれ4基づつ装備され、これに関連して屋外には探照燈台兼見張台のマスト、将校居住棟、そして内部には弾火薬庫や機械設備が完備する他、充実した居住設備なども設けられました。

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( 米陸軍の戦前史料より )

1942年5月に日本軍によって占領されましたが、この占領時の要塞の状態については各砲台の概略以外はほとんど判りません。 (陸軍史料によると少なくとも外観的には屋外のマストや建物などは残っていなかったようです。)

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( 占領時の同島遠景写真  元画像 : 防衛研究所所蔵の陸軍史料より )

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( 占領時の同島略図  元画像 : 防衛研究所所蔵の陸軍史料より )

要塞に装備されていた各砲台については陸軍の手によって調査が行われ、北砲台の6インチ砲2門以外 「使用不能」 と判断されていますが、あまりにもラフな報告書しか残されていませんので詳細が不明で、どの程度のものであったのか判りません。

14インチ連装砲塔2基4門も、あるいは工作部などによって本格的な修理を行えば何門かは使用できるようになったのかもしれません。

一方で米側の記録によると、降伏時に3インチ砲を除き他の砲全てについて駐退装置を除去した上で、砲身内に砲弾のみを装填しこれを遠隔爆破させて使用不能とし、弾火薬庫内には海水を充填した他、可能な限り島内各部の破壊を行ったとされています。

結果的に同島占領後は、陸軍によって1944年後半頃までほぼ放置状態であったとされています。

そして44年後半になってから前述したようにコレヒドールを始めとするマニラ湾口の防御強化が始まり、かつての米軍の水上砲台などの再活用、再整備が行われたとされたわけですが、同年12月に編成されたマニラ湾口防衛部隊についてさえもきちんとした記録が残されておりませんので、詳細は全く不明です。

僅かに二復史料の中に 「武蔵」 乗員35名がここに配置され、そして45年3月25日の爆発により全員戦死と記録される以外は、全くその状況は不明です。 この35名が何時何のために配置されたのかも判りません。


一方米陸軍の公刊戦史では、2月に魚雷艇1隻が偵察のため上陸を試みたものの、守備隊 (海軍) の抵抗を受け、戦死1名及び戦傷6名を出して撤退しています。 ただし、日本側が使用したのは機銃のみとされています。

おそらくこの時の守備隊が 「武蔵」 の乗員であったと考えられますが、これによって米側は同島が無人のまま放置されていたのではないことを初めて知ることになります。

そして本格的な奪還のため、4月13日になって米軍側は上陸用舟艇に乗った陸軍部隊などが同島に上陸、内部に爆薬及び燃料 (一説ではディーゼル油とガソリンの混合物とされています) を投入し爆破しました。 この時、日本軍守備隊との銃撃戦により戦傷者1名を出したものの、後日日本兵69名全員の死亡を確認したと記録されています。

しかし、この日本軍守備隊69名とはいったいどこの部隊がいつ配置されたのかも判りません。

そして米軍によって更に2回にわたり内部が徹底的に爆破され、現在残るのはこの残骸の姿です。

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( 元画像 : 米軍史料より )

なお、このエルフレール島の歴史などについては、次のURLに素晴らしいサイトがあります。 昔及び現在の同島の写真なども豊富ですので、是非一度お訪ねください。



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