2019年08月09日

お出かけ 4

今日は午後までで無罪放免に。

水天宮ピットは宿のすぐ裏。 ここ、都立日本橋高校の校舎だったところをそのまま使ってるんですよね。

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広島にたどり着きました。

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今日からお盆休みの人が多いのか新幹線は激混みでした (^_^;

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2019年08月08日

お出かけ 3

今日も一日ここで。水天宮ピットの大スタジオ。

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隣は箱崎公園を挟んで巨大なIBMのビルです。

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で、今日は20時まで。


う〜ん、明日は帰れるかな〜 (^_^;

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2019年08月07日

お出かけ 2

昨日に引き続き

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27日の初演に向けて稽古は順調に進んでいます。

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良い役者さんが揃っています。

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で、今日も終わりは21時 (^_^;
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2019年08月06日

お出かけ

出発!

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着いた! 今回はここ。

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で、今日の終わりは結局21時 (^_^;

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2019年08月01日

兵学校の江田島移転と 「東京丸」


『世界の艦船』 9月号に掲載された拙稿 『呉鎮守府開設130周年』 記事の補遺3つ目です。

拙稿記事では呉鎮守府だけでなく、江田島の海軍兵学校にも触れておりますので、こちらについて少し補足を。


ご存じのとおり、東京築地に置かれていた海軍兵学校は、明治22年の呉鎮守府開設に先立つ21年8月1日に江田島に移転、同月15日に同地で開庁しました。

この江田島への移転については、将来の海軍将校たる青年達の教育の場として築地はその環境的に問題が多いとして議論がなされ、明治16年の第2海軍区の軍港の適地調査の際にその候補の一つとしてあげられていたものの、何分にも離島であることから鎮守府設置の地としては採用されませんでしたが、却ってこの環境が海軍将校生徒教育の場として最適なものとして選ばれました。

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( 海軍兵学校建築工事前の江田島 )

このため明治19年5月に呉に鎮守府設置が決まった翌6月には兵学校の江田島移転が決定され、これによって直ちに測量と用地買収が行われた後、早くも建設工事が始まりました。

そして明治21年5月末には敷地及び幾つかの建物及び教官・職員官舎などが概成したことにより、上記のように8月に移転となったわけです。

しかしながら、この時にはまだ肝心な生徒館などは完成しておらず、このため水兵屯船となっていた 「東京丸」 に所要の改造を加えた上でこれを回航、現在の表桟橋から陸奥砲塔付近にかけての海岸に繋留してこれを 「生徒学習船」 としたのです。

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( 移転直後の海軍兵学校 左端が生徒学習船 「東京丸」 )

この 「生徒学習船」 の用途は、まだ未完成であった生徒及び指導教官用の居住及び厨房、生徒の温習室、講堂、教官室などの施設の代用としてです。

下の写真は同船を右前方の陸岸から撮影した割とよく知られた有名なものです。

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もう一つは同じ時期に同船の右後方の陸岸から撮影したもので、こちらは珍しい写真と思います。

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この 「東京丸」 ですが、『世界の艦船』 の拙稿記事の注釈にも述べましたように、元々は1864年 (元治元年) に米国で建造された蒸気推進の木造船 「ニューヨーク号」 で、明治7年に三菱商会が購入の上これを 「東京丸」 と改名して三菱蒸気船会社が運航したもので、旧陸軍及び海軍も人員及び物資などの輸送に利用しました。

その後この 「東京丸」 は三菱会社所属となっていたものを、明治18年に旧海軍がこれを水兵屯船として購入、エンジン等の撤去や諸室の改修などを行いましたが、20年になってこれを兵学校の生徒学習船とすることが決定され、神戸の小野浜造船所で所要の改装工事を行った後、翌21年2月に江田島まで 「摩耶」 により曳航し、兵学校敷地の海岸近くに並行に錨で四方を固めて繋留しました。 陸上との交通には現在の表桟橋近くに浮き桟橋が設けられています。

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(『海軍兵学校沿革 巻2』より 「東京丸」 の船内配置図 )

陸上に生徒館などが新築されるまでとは言いながら、当時既に船齢24年の老朽木造船であり、諸室が改修されていたとはいえ、採光不足や船底の漏水を初めとしてこの種の用途としては劣悪の環境であったとも言われています。

そして明治26年6月15日に生徒館等が完成して全てをこれらの陸上施設に移し、同7月3日には 「東京丸」 は早くも売却のために呉鎮守府に引き渡されています。


余談ですが、『坂の上の雲』 でも有名な廣瀬武夫は江田島移転翌年の明治22年4月22日に、秋山真之は23年7月17日に卒業していますので、両名とも江田島では卒業までこの 「東京丸」 で起居しており、後に新築される赤レンガの生徒館では全く過ごしたことがないことになります (^_^)


そこで疑問が出ます。

築地時代には、明治5年に海軍兵学校の前身である海軍兵学寮が元の海軍操練所から引き継いだ木造平屋の建物から、新築の洋風二階建ての木造の学舎に移転し、ここで明治9年には海軍兵学校と改称されました。

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( 海軍操練所 )

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( 明治5年新築された海軍兵学寮学舎 )

しかしながらこの新築木造学舎は何故か10年ほどで老朽化したとされ、このため明治16年隣接地に東京で最初、かつ東洋一の規模と謳われた二階建て洋風煉瓦造りの生徒館が新築されてここに移ったのです。

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( 明治16年新築された新生徒館 )

したがって、明治21年にはこの新生徒館はまだ築5年に過ぎなかったわけで、如何に生徒教育の環境のためとは言いながら、わざわざ急いで江田島に移転し、しかも老朽化した環境劣悪な 「東京丸」 を使用せずとも、江田島での生徒館など全ての施設の完成を待ってからでも決して遅くはなかったはずです。

ではなぜ江田島移転を急いだのか?

これについては、明文化された史料が残されていませんが ・・・・

明治20年に海相の西郷従道が欧米視察途中に英海軍大臣との間でジョン・イングルスを招聘して日本海軍で将校に対する高等教育を行う話しとなり、これにより海軍大学校の創設が持ち上がったのです。

しかしながら、当時はこの新設する大学校のための施設を新たに求めることが困難であったことから、江田島移転が決まっていた海軍兵学校の施設をこれに当てることとしたため、その移転が早められたのではないかと考えられます。

実際のところ、『世界の艦船』 の拙稿でも書きましたように、明治21年7月14日には 「海軍大学校官制」 が、続いて同17日には 「海軍大学校條例」 が制定され、8月1日兵学校の江田島移転直後の15日にはこの築5年の新生徒館をそのまま使用して開校準備に入り、同28日に正式に開庁しました。

そして翌9月には第1期の学生を募集して11月にはその選抜試験が行われ、合格者は11月15日には早くも課程が開始(実際の授業は26日から)されるという、実に段取りの良さだったのです。

早い話が、海軍大学校新設のために兵学校は追い出されたとも (^_^;

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前 : 「 呉鎮守府の司令部壕 」


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2019年07月31日

鮎の塩焼きに挑戦


いつもの小さなお魚屋さんの前まで行きましたら、大将が目ざとく私を見つけて “今日のお勧めは鮎! 何匹?” と何も言う前から (^_^)

でも今が旬の鮎、なかなか良さそうな色と形でしたので、つい “じゃ、3匹” この大将の押しにはいつも負けます。

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残念ながら養殖物ですが、天然物はほとんど入りませんし、入荷したとしても大変に高価ですので、まあ、そこは致し方ないかと。

で、今日は私も塩焼きにチャレンジしてみることに。

軽く流水で洗って表面のヌメリをとってから、両面に軽く振り塩を。 そして電子レンジで適当にメニューを選んでチン。

我が家はオール電化仕様でガスがありませんので ・・・・

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覗き窓から焼け具合を見て時間を調整しますが、もう少し焼いた方が良かったかも。 次回への反省です (^_^;

でも、なかなか美味しかった。 家内もこれならまあまあと。

私は子供の頃はお魚が大嫌いでした (というより当時はまだ美味しいお魚がなかなか流通していませんでした) が、自分で給料を貰うようになって小料理屋さんでお酒を飲み出してからは、肴として段々と食べるようになりました。

今回もちょっと苦いキモを口に入れて、鮎ってこんなに美味しいものだったのかな〜、っと。 歳をとったせいもあるのでしょうね (^_^)

また今度良いものがあったら再チャレンジしてみましょう。

posted by 桜と錨 at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2019年07月30日

呉鎮守府の司令部壕


『世界の艦船』9月号に掲載された拙稿 『呉鎮守府開設130周年』 記事の補遺2つ目で、最近になって観光の目玉の一つとして一般公開もされるようになった 呉鎮守府の司令部壕 です。


ここは一般的には呉鎮守府の “司令部地下壕”“地下作戦室” などと言われていますが、昭和20年4月撮影の米軍偵察写真及び昭和22年の米軍による航空写真をご覧いただいてお判りのように、ここは鎮守府庁舎下の 地下に掘られた防空壕ではなく、地上に構築された いわゆる “掩体壕” なのです。

そして完成後にカモフラージュとして上部に薄く盛り土がなされ、樹木なども植えられたようですが、この時の状況はハッキリしません。

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( 1945年4月撮影の米軍呉地区航空偵察写真より加工 )

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( 1947年の米軍航空写真より加工 )

この作戦室用の掩体壕が、上の米軍写真に見るように、遅くとも昭和20年4月には作られていたことは確かですが、正確にはいつ建設されたのかはハッキリしておりません。 そして、この司令部壕が終戦までにどの程度機能し、使用されたのかも不詳です。

ただし、新鎮守府庁舎の地階 (庁舎外ではなく庁舎内) からここへ通じる通路も設けられていることからも、鎮守府の作戦室用であったことは間違いありません。

もちろん “作戦室用” とは言っても、単なる一つの広い作戦室ではなく、それに付属する通信室や幕僚部などの作業室、機材室や電源室などが併設された、いわゆる 「司令部壕」 であることは言うまでもありません。


そして終戦後に米軍が進駐した時、鎮守府庁舎地区には第10軍団の呉基地隊が置かれましたが、その時のこの司令部壕の状況については不詳です。

次いで昭和21年に英連邦軍 (正式には英連邦占領軍 (BCOF、British Commonwealth Occupation Force) ) が米軍と交代した時、この司令部壕には英連邦軍の 「司令部通信隊司令部」 に加え、「英連邦軍司令部信号事務所」 と呉〜メルボルン間の無線通信の 「呉ドーバー交換局」 が置かれたとされています。

後者は同年5月に江田島に移転し、代わって 「アンザック交換局」 が置かれましたが、このため呉と江田島間には25本の海底通信ケーブルが新たに敷設され、その交換業務はこの司令部壕で行われました。

この時点で、「信号事務所」 ではメルボルンや日本各地との間に無線通信系とテレタイプ系の併せて24チャンネルを所掌していたとされています。


そして同年12月には英連邦軍用の有線電話回線の運用のためにこの壕内に 「広島通信局工務部呉出張所」 が置かれたのを切っ掛けに、これが22年10月には 「呉電気工事局第1電話交換所」、24年 「呉特別電話局」 となっています。

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( 昭和23年撮影とされる元鎮守府司令部壕 )

昭和31年に英連邦軍が撤退し、翌32年には日本に返還されて海上自衛隊呉地方総監部が移転してきましたが、その時のこの司令部壕内の物理的な状況については不詳です。

ただし、以後最近に至るまで海上自衛隊ではこの司令部壕は主として総監部などの不用品の倉庫となっておりましたので、壕内部は英連邦軍撤退時に機材等を撤去した状態のままであったと考えられます。

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( 平成12年管理人撮影の元鎮守府司令部壕 )

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( 平成29年管理人撮影の元鎮守府司令部壕内部の状況 )

最近の部外者による本司令部壕の調査結果として、

前回調査の概要 : 以前発掘調査された地下壕は,旧地下作戦室だと思われていたが,調査を進める中で,電話交換室であることが判明。

などとするものがありますが、当該司令部壕は、呉鎮守府作戦室用としては長くともせいぜい半年〜1年間であったのに対して、その後の英連邦軍による10年間にわたる電話交換所等としての使用で、かつ改修工事も何度か行われていることから、昭和32年から現在に至るまでほぼ放置状態のままの海自倉庫としてどちら側の使用の跡が残っていたのかは、言わずもがなのことでしょう。

もし本当に当該司令部壕が “作戦室用” ではなく、“鎮守府としての電話交換室用” であったとするなら、是非ともその根拠を知りたいところです。

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前 : 「 初代呉鎮守府庁舎 」

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2019年07月29日

初代呉鎮守府庁舎

『世界の艦船』 9月号の拙稿 『呉鎮守府創設130周年 呉基地と江田島教育の歩み』 の紙面に入りきれなかったことについて、写真なども含めてここで追加としてご紹介をしたいと思います。

そのまず第1は、なんと言っても 初代の呉鎮守府庁舎 についてでしょう。

例えば、地元である呉市の 『呉市史』 全8卷でも、そして呉市制100周年の時に出された様々な出版物などでも、何故かハッキリと書かれていないのがこの最初の呉鎮守府庁舎のことです。

これらのこともあって、『世界の艦船』 の拙稿でも触れましたが、現在の海上自衛隊呉地方総監部庁舎として今に残る元鎮守府庁舎の赤煉瓦の建物、実はこれは2代目のものであることをご存知の方はどれだけおられるでしょうか?

そしてそれどころか、初代の建物が実に昭和57年の建て替えに至る同56年まで “現役” のものとして存在したことはほとんど知られていないのではと思います。


明治19年から開始された呉鎮守府の工事ですが、第1期〜第3期に分けられた中で、何故か肝心の鎮守府庁舎の建築はその第1期分には含まれておらず、第2期以降に予定されていたのかどうかも不詳です。

このため、明治22年の呉鎮守府開庁の時には、完成していた呉軍港司令部本部をその庁舎としました。 当初は軍港司令部も同居していたのですが、軍港司令部の制度が明治26年の鎮守府條例改正により廃止されてしまいましたので、以後は鎮守府庁舎専用となっています。

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( 明治23年頃とされる初代呉鎮守府庁舎 左は海側からの表玄関たる大階段 )

因みに、この大階段は明治20年頃には既に出来上がっていたとされています。

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( 同じく明治23年頃とされる陸側から見た初代呉鎮守府庁舎 )

しかし、明治38年に発生した芸予地震により損壊してしまったため、急遽隣接する敷地に新たに鎮守府庁舎が建設されて明治40年には完成したとされています。

これが今も海上自衛隊呉地方総監部庁舎として残る2代目の新鎮守府庁舎なのです。

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( 昭和14年の呉鎮守府開庁50周年記念絵葉書より 新旧鎮守府庁舎 )

ところが、この新庁舎建設と併せて、損壊した旧庁舎も2階部分を撤去した平屋として復旧されており、ここには鎮守府の人事部、その後同経理部が置かれました。

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( 明治40年代撮影とされる平屋として復旧された初代鎮守府庁舎 )

そしてこの復旧された旧庁舎も第2次大戦の終戦間際まで使用されたのですが、しかしながら昭和20年の呉空襲の際に新庁舎と共に被災して使用不能となってしまいました。

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( 昭和22年米軍撮影の航空写真より加工 )

このため、終戦直後に進駐した米軍、続いてこれと代わった英連邦軍は、被害を受けなかった木造の旧呉海軍軍法会議の建物をその司令部として使用せざるを得なかったのですが、昭和23年になって英連邦軍の手によって新旧両庁舎共に修復され、司令部はここに移転したのです。

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( 昭和28年撮影とされる雪景色の修復された新旧の元鎮守府庁舎 )

そして英連邦軍の撤収に伴う返還により、昭和32年に海上自衛隊の呉地方総監部はそれまでの大和通り (現在の呉警備隊) にあった庁舎からここに移って現在に至っております。

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( 昭和29年撮影の当初総監部が置かれていた旧西部航路啓開部本部庁舎 )

呉地方総監部が移転してきた以降は、修復された初代鎮守府庁舎は総監部第2庁舎として防衛部などが置かれていたのですが、平屋で手狭であったことと、2度の損壊により建物本体が劣化したことなどもあり、昭和56年になって建て替えのために取り壊されてしまい、その跡地には翌57年に今も存在するコンクリート3階建てのものが新築されました。

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( 昭和49年撮影の国土地理院航空写真より加工 下が初代鎮守府庁舎 )

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( 昭和56年撮影の同上より加工 建替のため解体された初代鎮守府庁舎 )

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( 昭和61年撮影の同上より加工 新築された呉地方総監部第2庁舎)

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( 現在の呉地方総監部 左が初代鎮守府庁舎跡に建てられた第2庁舎 )

ここで問題なのが、この昭和57年の呉地方総監部第2庁舎の建て替えに伴う、前年56年の旧鎮守府庁舎の取り壊しの際、海上自衛隊も呉市も知ってか知らずか判りませんが、なぜこの歴史的建造物の保存の路が採れなかったのでしょうか?

元々が軍港司令部本部としての建物であったとはいえ、呉鎮守府開設時から16年間にわたり初代の呉鎮守府庁舎であったのであり、その後2度の損壊に遭いながらも2度とも修復され、昭和57年の建替までの間、現用の建物として存続していた貴重なものであるにも関わらず、です。

返す返すも残念なことであったと言わざるをえません。

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2019年07月28日

『一般計画要領書』 潜水艦の部 公開完了 !


今週の本家サイトの更新として、先週に引き続き 『史料展示室』 の 『一般計画要領書』コーナーにて 『潜水艦の部』 で最後に残っておりました 「伊172、173」 「伊174」 「伊176」 「呂1100」 の4ファイルを追加公開しました。


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これにて潜水艦の部の全てが終了し、『一般計画要領書』 の全ての公開が完了しました。

この 『一般計画要領書』 ですが、これだけの量の旧海軍文書が残されているにも関わらず、本サイト以外では未だに一般に公開されているのを見たことはありませんので、その意味ではここで公開している意義と意味があるものと思っております。

私の時間の都合もあって、ここまでくるのに長くかかってしまいましたが、このような貴重なものを本家サイトにて公開する機会をいただきましたHN 「閑居不善庵」 氏、また一部欠落部分の補完にご協力いただきましたHN 「陸奥」 氏には厚くお礼申し上げる次第です。

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2019年07月27日

土用の丑の日は鰻を


今日は土用の丑の日ですが、土曜日と重なりました。 それに昼前には既に30度を超える暑さ。

で、やはり鰻を食べなければ、と昼過ぎにということで予約してありましたので、家内と一緒に (^_^)

いつもの小さなお魚屋さん、ここは基本として鮮魚しか置いてないのですが、このところ毎年この日は若大将の趣味で、店頭にコンロを持ち出して蒲焼きを作ります。

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もちろん毎日市場で自ら選んでくる鮮魚と同じように、事前に業者に注文しておいたものを仕入れてきますのでモノに間違いはありません。 今年は愛知三河の一色産。

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若大将曰く、鹿児島産で一番のものがあるんだけど、このご時世、一年以上前から池ごと業者に買い取られてしまうので、流石にこれは手に入らない、と。

この若大将、もちろんこれで修行をしたわけではありませんので専門店で焼いたようにはいきませんが、それでも仕入れる鰻そのものが良いこともあって、最近ではかなりの人気です。

今年は予約分のみだそうで、注文し忘れた常連さんも次々に訪れますがその度に “残念ながら今日は ・・・・” と。 もちろん店頭に焼き上がったものは一つも並んでいません。

午前中から焼き続けで、中には近所で分けるんだとかで一人で十数本注文していた人もいたとか。 私達が受け取りに行った時にも、まだまだ次から次へと焼いていきます。

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近くには出来合いの蒲焼きを沢山並べているところもありますが、まったくお客さんが寄りついている様子はありません。 売れ残ったらどうするのでしょうね (^_^;


呉では鰻どころか何故か海鮮料理のお店も少ないのですが、それでも鰻を出すところは何軒かあるにはあります。

しかしながら例によって、ネット検索で評価は高く表示されるものの口コミ欄などを見てもわざとらしく ・・・・ わざわざ出かけてそれなりの (というよりかなり高い) 値段のものを食べてみようという気になるようなところはまずありません。

そこまでしなくとも、このお魚屋さんの若大将の焼く鰻で十分です。 しかも大変に美味しかった (^_^)

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posted by 桜と錨 at 21:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 気ままに