2010年11月27日

『運用漫談』 − (11)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その5 (承前)

 越えて十一年三月十八日、華府軍縮会議に於て、我全権の熱心なる抗争にも係らず英米の壓迫に由り、「三笠」 は廃棄處分を受けざるを得ざることゝなつたが、九月一日の大地震の為、艦底修理部破損し浸水を始めたるを以て、白濱海岸距岸百二十呎の處に擱坐せしめられたる儘、第一期廃棄作業が實施せられたのである。

 當時吾人は 「三笠」 の廃棄は英米両国が、有史以来の最大海戦に於て空前の大勝利を博したる、世界に誇るべき日本海々戦記念の對象たる我旗艦 「三笠」 を抹殺し、以て日本民族の自尊心を打拉しぎ、奉公的渇仰の目的物を粉砕せんとする奸策に外ならずと為し、憤慨したものである。

 幸にして財部大将や樺山可也少将等の 「三笠」 保存論主張と芝染太郎氏の殉教者的熱烈なる唱道に由り、十四年四月 「三笠」 を国民的記念として永久に保存すると云ふ事に決定し、時の横須賀鎮守府参謀長早川済少将を委員長とする三笠保存委員會組織せられた。

 研究の結果、「三笠」 を當時の擱坐位置に置きたる儘保存せんか、将来交通上に大不便あるのみならず、保存上多大の経費を要し、永久保存の目算立たず、且つ又共の擱坐位置海底の状況不良にして、「三笠」 は徐々に右舷側に傾斜するの傾向を生じ居る事発見せられた。

 之に由り、更に海岸近くに移動せしむる必要を生じたが、共の作業誠に難儀であつて、之が實行殆んど不可能に近きものあると、莫大の経費を要するを以て、

(一) 三笠を其の位置に置き、追ては解體すべしと云ふ議論と、

(二) 断然三笠を現在位置に移動し来り、三笠の周囲を埋立て、現状の如くして、三笠の艦型を永遠に保存すべし


 と云ふ議論の二つに別れたが、委員長宇川少将、港務部員中村虎猪中佐等の主張貫徹し、(二) 案の如く決定せられ、以て今日あるを得たのである。

 之が為に要せる作業は左の如くである。

 先づ現在位置の海底を浚渫し、岩礁を整理して、「三笠」 の艦底に符合するが如く切り取り、「三笠」 は更めて艦底浸水部に可及的防水工事を加へ、圖の如く四方に繋留し、曳出し作業の前日干潮時に錨鎖を可及的緊張し置き、翌日早朝より曳船と排水船を 「三笠」 の両舷に横附し、「三笠」 に於ては各種の排水ポンプを全力使用し得る如く準備する。

mikasa_slip_01_s.jpg

 當日午前最高潮に達するや、「三笠」 は潮水と排水の為め自然に浮揚し、錨鎖に強き緊張を及ぼしたるを以て、一斉に四隅のスリップ (注1) を切りたるに、「三笠」 は恰も飛び揚がる様な具合にて、海底の膠著を離れたるを以て、直に曳船を利用し、一且押合に曳き出し、錯雑せる岩礁の間を潜りつゝ首尾好く現位置に回航沈置せしめられたものである。

 曳行中 「三笠」 の浸水量は遥かに排水力を凌駕するものがあつて、刻々に沈下する状態たりしも、曳行作業の遂行に十分なる時間の餘裕を得られたのは、一に作業計畫と其の實施が綿密巧妙に行はれたのに由るのであつて、運用術の極致として推称するに足るものがある。

 其の後 「三笠」 の保存手入作業は聊か不充分の誹りありしも、近来大に面目を改め、一見在役艦の如く整頓し、記念品等の整理宜しきを得、拝観者をして自然に襟を正さしむるに足るものあることは慶賀に堪えない。

 然れども 「三笠」 の船體は鐵製なり、年と共に腐蝕耗損するは免かるゝ能はざる所である。 従て之が保存と補修には、尚ほ多大の考慮を要する。 運用家の研究と献策を望む。

 尚ほ 「三笠」 沈置位遣決定するや、其の計畫書を時の鎮守府長官加藤大将の閲覧に供したるに、「三笠」 の艦首方向を少しく右方に振り向くれば、艦首は恰も宮城に正向する事を発見せられ、計畫に修正を加へたるを以て、現在 「三笠」 の艦首は宮城に正向し、永遠に護国の大任を擔ひ居る次第で、亦寄なりと謂ふべきである。
(続く)

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(注1) : Slip 錨鎖や鋼索、太い麻索などを繋ぎ止めたり固定し、必要時には迅速にこれを切り離すためのものです。 下図はその使用例の一つです。


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2010年11月25日

『運用漫談』 − (10)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その5

 大正十年九月十六日、軍艦 「三笠」 が浦鹽港口アスコリッド海峡の暗礁に坐礁 (注1) した當時、逸人は第三水雷戦隊司令官として間宮海峡に居り、北海警備勤務の外に、尼港事件 (注2) の際パルチザン軍が間宮海峡閉塞の為に、同海峡最浅部に沈没せしめたる浚渫船一隻 (時價八萬圓) と大型ライター (注3) 八隻の引揚作業に従事して居つた。

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 此の作業の為には、福島熊太郎少将 (當時大佐)、福井順平造船少将 (當時造船大佐) が居られ、作業用として大浦丸、栗橋丸、扇海丸 (?) 外曳船三隻あり、又沈船曳揚用具も横須賀鎮守府に在る材料の大半を持つて居つた。

 「三笠」 坐樵の無電を受取ると、早速福島大佐に来てもらひ、濃霧の際十二節の速力で乗し揚げてゐる 「三笠」 を曳卸す事は大事業である、如何にすべきかに就き談合したが、一寸見當が付き兼ねた。

 所が翌日海軍省より 「三笠救援の為、大浦丸、栗橋丸、その外曳船一隻を至急浦鹽に派達せよ、福島大佐と福井造船大佐を浦鹽に送れ」 と云ふ様な電報が来た。

 それで早速福島大佐福井大佐と協議したが、此の命令に従ふとせば既に六萬圓餘を費つた當方面の引揚作業は九仭の功を一簣に缺き丸損となるのみならず、「三笠」 の状況を察するに、命令通り行ふとも、何程の効果をも挙げ得ざるべしと考へ、其の旨海軍省へ返電したが、何等の決定的命令も来ない。

 仍て福島大佐を 「駆逐艦にて三笠遭難に急行せしめ、其の他に裁ては同大佐の所見に基き處理す」 と云ふ報告電報を打電したるに、海軍省よりは 「貴官の意見に賛同す」 と云ふ電報が有つた。

 九月二十日駆逐艦 「白露」 は福島大佐を乗せ、先行して間宮海峡、二十三日遭難地著、二十四日駆逐艦 「夕暮」 は救難用ポンプ二臺を搭載して出発、二十七日浦鹽に著いてゐる。

 福島大佐が 「三笠」 に行つて見ると、「三笠」 の前方と左右方面には多数のホーサー (注4) を取り、或は錨を投じ、可なり頑丈に固めありしも、艦尾方向には何等の處置を施してない。 之では何か變化が起つた際、手後れとなる恐れがあるので、ストリーム・アンカー (既出) を艦首方面に投じ、控索を取らしめた。

 當時の 「三笠」 引卸計畫は先づ前部艦底破損部に應急防水處置を施し、次で艦尾に注水し、艦首を浮揚せしめて、曳出すと云ふ心算であつた様である。

 所が天佑にも、二十六日暴風起り、風力六乃至七、激浪と長濤の為、「三笠」 は自然に離礁し、初めに前方に取てあつたホーサー等は或は切れ或は無効となり、福島大佐の取らしめた一本の控索が命の綱となり、幸にして更に陸岸に吹き附けられて全く大破して了ふ事を、之が為めに免かれ得たのである。

 天佑により 「三笠」 は岩礁を離れたが、前部艦底の應急處置未だ出来居らざりし為、前部の浸水甚しく、忽にして艦首は深く水中に突込み、艦尾は高く浮揚し、推進器は空中に現はれる有様となつた。

 仍つて後部のキングストン (注5) を開き、ツリムを正さんとしたるも、後部の浸水意の如くならず、遂に後部水雷室に満水せしめ、初めて船體を水平ならしむる事を得、機械を運轉しつゝ控索を利用し、沖合に出づる事が出来た。

 此時に後部水雷砲臺長 (名を忘れた) が発射管の前後扉を開き、急速浸水せしめたる動作は全く決死的奉公精神の発露にして、大に称揚すべきものであつたと云ふ。

 扨て 「三笠」 は沖合に出づる事を得たが、浸水益々甚しく、船體は時々刻々に沈下するのが明かに見え、其の上に荒天であり、惨憺たる光景とは全く此時の状況であつて、乗員は何れも色を失ひ、一言を発するものなく、當時艦橋に在つて操縦の任に當つてゐた福島大佐の顔を見上ぐるのみであつたと云ふ事である。

 其の後大佐に就き、當時の心持を聞きたるに、大佐は 『 「三笠」 は結局沈没するだらう、自分は艦橋に立つたまゝ 「三笠」 と共に沈んで、死ぬるといふ決心であつた』 と言はれた。

 然るに是れ亦天佑にも、當時の風向は丁度浦鹽に吹込んで居つたものだから、「三笠」 は沈下しつゝも徐かに機械を運轉して、浦鹽に入港することが出来、愈々岸壁に達する頃には、艦底は遂に海底に觸著する様になつたのである。

 其の時駆逐艦を横附してポンプを之に移したが、三等駆逐艦の上甲板より 「三笠」 の上甲板へ飛下りたと云ふことである。

 「三笠」 は夫れより浦港に於て入渠し、艦底の應急修理を施し、舞鶴に回航し、更に入渠して應急修理を十分に為し、十一月二十五日横須賀に回航し、小海の岸壁に繋留した。
(続く)

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(注1) : 「三笠」 の座礁事故については、「アジア歴史資料センター」 の 『大正10年公文備考巻38 艦船15』 及び 『同巻39 艦船16』 に集録されていますので、興味のある方はご参照ください。


(注2) : 大正9年3月〜5月にニコライエフスク港 (現ニコライエフスク・ナ・アムーレ) において共産パルチザン約4千名の手により日本陸軍の駐屯部隊及び居留邦人約700名が虐殺された事件。 合わせて共産主義に同調しない市民約6000名も犠牲になったと言われています。

これも同じく 「アジア歴史史料センター」 の 『枢密院会議文書』 に 『尼港事件ノ顛末』、『外務省記録 5門 軍事』 に 『尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件 第一巻〜第五巻』、等々多数が集録されています。


(注3) : Lighter 平底の艀 (はしけ)。 だるま船、団平船、バージ (barge)、あるいは scow などは同じ種類のものです。


(注4) : Hawser 太綱、太索。 通常外周6インチ(直径48ミリ)以上のマニラなどの索を言いますが、それより細い物でも一般的にホーサーと呼ぶ場合があります。


(注5) : Kingston Valve キングストン・バルブ (金氏弁)。 大口径の海水取入弁を通称 「キングストン弁」 と呼びます。 商品名で同名のものがありますが、必ずしも、というより一般的にはこれを示している訳ではありません。 漲水装置 (Flooding Arangement) として漲水弁 (Flooding Valve) などと組み合わされて、ボイラ (缶) 室、機械室、弾火薬庫など主要な大区画に装備されています。

旧海軍で使用されたキングストン弁の一例と、弾庫の漲水装置の例を下図に示します。


kingston_01_s.jpg   kingston_02_s.jpg

     よく戦記物などで自沈の際に 「キングストン弁を開いて・・・・」 などと書かれたのがよく見られますが、この弁のことです。 ただし、これは自沈の為にあるのではなく、戦闘被害時などで船体のトリムを修正する場合や、弾火薬庫などへの注水など緊急時に使用するために装備されているもの (装置) の “一部” です。

ですから、この弁だけを開けば区画に海水が自動的に入ってくるというものではありません。 キングストン弁を含む全ての漲水装置を開放すれば、まあ自沈に役立つといえばそのとおりですが ・・・・

ただし、船体内に海水を採り入れるのは別にこの漲水装置だけではなく、通常の排水装置を逆に使っても可能です。 これはあまり知られていないことですね。 自沈の際には当然これらも使用されます。


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2010年11月24日

『運用漫談』 − (9)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その4 (承前)

 世界大戦の時、駆逐隊司令として新嘉坡方面に行動したが、其の時自分より先きに出動した部隊は出帥準備として教練射撃弾薬は総て陸揚げし、標的材料の如きも無論陸揚げして出掛けたものである。

 併し自分は敵前なれば兎も角、新嘉坡方面の警備では、時に教練射撃をやる餘地はあるだらう。 自分の隊は新造駆逐艦を以て、新に編制せられた隊であるから、訓練上から見ても教練射撃をやる必要があるので、教練射撃用の弾丸は全部積むことゝし、標的材料も二た組積むことゝして出掛け、さうして向ふへ著いてから、毎月一回宛色々の想定の下に教練射撃をやつて居つた。

 所が警備戦隊一般の士気が何時となくだれて振はないのに、獨り自分の駆逐隊員のみ元気極めて旺盛なりといふ事が誰れ言ふとなく言はれる様になり、後には司令部よりどう云ふ譯かと聞かれる様になつた。 夫れで自分が考へて見るに、何も他と異つた事はない。 只毎月二回づゝ鐵砲の音を兵員に聞かすだけの事であるといふことを発見したので、夫れを司令部に報告した所、司令部では便船を以て、教練射撃用弾薬を取寄せる事になつた。

 兵員には時々鐵砲の音を聞かすといふ事が、士気の緊張上極めて必要であり且つ有効な事であると思ふ。


 其の翌年 「春日」 艦長として濠洲方面に五ケ月餘もぶらついたが、教練射撃は許されなかつたけれども、外筒砲射撃や、演藝會や、マラソン競争や、端舟競漕抔で、士気の緊張を保つことに力めたが、五ケ月の後にも、「春日」 には日本へ帰りたい、新嘉坡へ迄でも帰りたい抔思ふ様な兵員は一人もないと言ふので、司令部を驚かしたことがあつた。

 併し乍ら此處で注意すべきは餘りに度を越えると云ふことである。

 「春日」 が初めて新嘉坡を出て、濠洲へ向ふ時に、バンカ水道に這入ると間も無く、水平線にマストヘッドが見え、夫れが軍艦らしい、見れば英国の軍艦で、何か旗を揚げてゐる、何であらうと見れば、旗は分明なるも其の意味が不明、大にまごついたが、夫は味方信號であつて大に赤面した。

 獨逸軍艦 「ヱムデン」 がペナンを荒らして、露西亜軍艦 「マンヂュリー」 を撃沈し、揚々として引揚げた。 當時日本の某巡洋艦は其の三日前に矢張りペナンに碇泊してゐて、艦長杯多数士官は上陸して居つた。 其の後艦長は

 『 「エムデン」 の話を聞くとぞつとする。 若し彼れが三日前に来たら、己れも 「マンヂュール」 艦長見た様な目に會ひ、醜名を天下に流すことになつたたらうと思ふと、冷汗が出る 』

 と曰はれて居つた。 之に類した考を自分も尚ほ一二回持つた事がある、注意すべきはどこ迄も油断大敵である。

 比の様な事を書き立てると果てがないが、要は兵員の耳目を日に新にし、轉換せしめるに在つて、夫れには實戦と實際の気分を常に彼等の眼前に彷彿せしむると同時に、一方にはユトリのある安楽な、面白い空気の中に安心立命的生活を営ましむることが大切である。

 比の位ゐの事は苟も一艦の長たるものは百も承知だらうが、夫れが案外實行されてゐないので、敢て拙筆を弄した次第である。
(続く)
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2010年11月15日

『運用漫談』 − (8)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その4

 前二回に渉りつまらん逸人の懺悔談で、諸君の御気を悪くしたらうと思はれ、恐縮の感がありますので、今回は一つ軍隊の士気を保持するには如何にすべきかに就き、逸人の所験を陳ベる事とする。

 弓も常に張り切って置くと、腰が披けて直ぐ役に立たなく成る。 さりとて又た金銀の高巻繪的装飾を施こし、観兵式的御山の大将の光を添へる一具となつても駄目である。


 逸人中尉の時、水雷艇七號の艇長心得と成つて、初めて水雷発射に出掛けた。 七號艇の発射管は固定のバウ・チューブ一門と中央旋回発射管一門とであつた。

 常時の水雷発射は只魚雷が旨く走る乎、走つて、そして浮むでくれる乎を見るのが主眼で、何等實戦的研究が行はれて居ない様に思はれたから、自分の標的を眞の敵艦と見做し (當時水雷戦隊は碇泊艦襲撃を主眼として居つた)、先づ標的に向つて突進し、バウ・チューブを発射し、直に轉舵旋回発射管を発射し、二門の発射畢つて、初めて採拾すると言ふ遣り方を取つた。

 所が掌水雷長は驚いて、『そんな事をすると、きつと魚雷を亡くするから止めてくれ』 と言うて来たが、『實戦の時はどうする乎』 の一言で之を撃退し、ヅンヅンやると、忽ちにして二本沈没、一本失踪といふへマをやつた。

 然し之は實戦的だと云ふので、兵員の士気は大に緊張し、面白がつて、魚雷発射といふと、悦び勇んでやつてくれた。


 日露戦争の時、愈ゝ旅順の包囲戦となり、哨戒区分が決まり、毎日々々同じ事を繰り返して居ったが、初めは出動して旅順沖に到り、敵の砲聾でも聞くと、士気が緊張して居ったが、後には夫れも駄目となり、乗員が軍港を思ふ様な気分が横溢して来たから、月に一回位の積りで根據地へ帰還した晩に、無禮講をやる事にして、艇長も三等兵もゴツチヤに成つて、大に暴飲をやつたが、さうすると其の翌日は丸で士気が一變して、初めて旅順方面に顔を出した時の様な元気を回復した。

 毎月の無禮講も餘り人聞きが好く無いから、時には演藝會をやつて、隠藝をやらせて見た。 下手でも構はない、一日のきまり切つた日課に疲れた兵隊に嚠喨たる尺八の音を聞かせると、彼等は恰も鶯の雛が其の親の啼く聲に聞き入つて、止り木から落ちる様な恰好で聞惚れてゐるが、夫れで澤山である。 尺八の一聲は一日の労苦は勿論、一週間の物欝さを吹き飛ばすに十分なる効果を現はすことがある。

 比の演藝會の方法は平時でも利用すると良い。 近頃は方々でもやつてゐる様に思はれるが、艦隊が戦技に熱中して、長く上陸を止めて、日夜猛訓練を續けて居る様な時でも、間を偸んで一寸やると、驚くべき効果のあつた事を記憶してゐる。


 「鞍馬」 「利根」 が遣英艦隊で英国に行つた時の事 (注1) である。 時の司令官島村中将は太平洋の眞中であらうが、印度洋の眞中であらうが、少々海が荒れ様が、平気で溺者救助教練もやれば.総端舟漕ぎ方をもやらせる。

 五月廿七日 (海軍記念日) の如きは、地中海の眞中で半目も漂泊して端舟競争をやり、旗艦鞍馬の甲板で両艦員の大祝賀會もやられると云ふ具合であつて、我等は萬里の異境に在つても、少しも、そんな考は起らず、いつも母國の軍港に居る様な気持を保持することが出来た。 兵員の士気の旺盛を保つ骨は此の様な所に在る。
(続く)

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(注1) : 明治44年の英国ジョージ5世の戴冠式並びに記念観艦式のために 「鞍馬」 「利根」 をもって遣英艦隊が編成されて派遣されたもので、指揮官は第2艦隊司令長官の島村速雄中将。 この時参謀長代理は安保清種中佐、著者は 「鞍馬」 水雷長兼分隊長 (少佐) でした。


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2010年11月14日

『運用漫談』 − (7)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その3 (承前)

 按ズルニ

 第一、航路ヲ選定スル二當リ當沿岸海面ニ於テハ此季節南東偏流アル事水路誌従来ノ航海報告及ビ海流図ノ示ス所ナルニ比較的少数ナル同艦ノ経験及ビ確實ナリトシテ信ヲ措クニハ充分ナリト謂ヒ難キ商船々長ヨリ得タル材料ニ依リ西方流壓ヲ蒙ムルべキヲ信ズル事大ニ過ギ偏東流偏南流ニ對スル顧慮比較的薄カリシ事

 第二、前夜来断へズ北西ノ強風二會シタルニ伴ヒ速カニ及ボスべキ影響ノ顧慮風壓流壓ニ對スル顧慮周到ナラザリシ事

 右二項ガ艦位ヲ不確實ナラシメタル本来ノ主因ナリトス

 此ノ結果トシテ

 當日午前八時M角ヲ認メ得ザルトキ艦ハ西方ニ壓流セラレ居ルニ非ズヤトノ疑念ヲ抱キ同時ニ北々東二變針シ陸岸ニ近カント試ミタリ

 此際更ニ思慮ヲ練リ萬一東方ニ壓流セラレタル場合ニ於ケル結果ニモ考及スルヲ最安全ナリトスべキニ西方壓流ノミニ留意シタリ

 次ニ午前八時十五分M角燈臺ノ東西線ヨリ更ニ北ニ在ラズヤトノ疑ヲ抱キタルモ安全ヲ採リM角ノ南三度西十九浬半ニ在ルモノト測定シタル時一層安全ヲ計リ更ニ多ク偏西ニ變針スルカ若クハ速力ヲ大減又ハ停止スルカノ手段ヲ執ル事ニ考及スルヲ此場合ニ於ケル最良法ト認メ得べキニ事爰ニ出デズ

 又午前八時五十五分艦位ヲ求メM角ノ南十二浬ナルヲ知リタルトキ變針一層大ナルヲ最安全ト認メ得べキニ事爰ニ出デザリシモノナリ

 尚ホ艦位不確實ノ虞アリタル時速二錘測ヲ行ヒ警戒スべキ界域ニ在ラザルヤノ探知ニ力ムル事、見張ヲ一層厳ニシテ波浪其他海面ノ状況ニ留意スルコト又當日未明以後ノ状況ハ天測可能ナリシニ由リ之ニ依テ艦位ヲ確ムベキ事是レ等ノ手段ヲ神速ニ行ヒタレバ或ハ禍害ヲ未然ニ防ギ得タル事可能ナリシナランニ前記本来ノ主因タル西方壓流ノ過信ト速カニ受ケタル影響ノ顧慮周到ナラザリシ結果トガ思慮ノ全般ヲ支配シ為ニ如上手段ノ著手敏活ナラズ測深見張天測等ノ効果拳ラザルニ先チ觸礁ノ難二罹リシ事ハ艦長ヨリ提出セル報告竝ニ艦長航海長ニ對スル質問ノ結果ニ由リ明瞭ナリ

 (私註) 艦長に對し同情的論告あるも、之を略す。

 之ヲ要スルニ前記原因二由リ艦ヲ觸礁スルニ至リ新嘉坡ニ於テ入渠ノ上工事日数約二十日間修理費概算一萬八千弗ヲ要スル損害ヲ蒙ラシメタルハ如上酌量スベキ點アリト雖モ航海上必要ナル注意ヲ缺ケルニ基因シタル事明瞭ナルヲ以テ當事者之ガ責ニ任ズべキモノトス
 
 右行為ハ海軍懲罰令第九條第十一號二該當ス依テ同令第十一條第十二條ニ依リ謹慎十二日ニ處ス

 右の判決は全く適當なるものであり、逸人の一言ない所で、豫てより向ひ風に會したる時、春日が豫想外の影響を受ける事を知れる自分が此の風壓に對する顧慮十分ならざりし事と、既に不安と危険を感じたるより後の處置緩慢なりし事は、船乗りとして許すべからざる失態である。

 逸人百度び懺悔するも、到底其の罪を償ふ事は出来ない。 只だ此の懲罰文が幾分にても後進者の参考となり得ば、逸人のせめてもの罪亡ぼしと考へる次第である。

(附記) 此の坐礁事件に就て、参考とすべき一、二件を附記する。

一、不安なる海面を航海する時、測深機の使用に骨を惜むベからずとは自分の豫ねがね唱へ居る所で、當日も年前七時半に既に気が附いて、當直賂校に命じた積りであつたが、其の命令の不徹底たりし事は艦長の罪である。命令は確實でなければならぬ。

二、坐礁後は (一) 防水扉を閉鎖する外、(二) 速に四囲の水深を計ること、(三) 艦底調査の為め潜水器を用意すること、(四) 推進機の使用には厳密なる注意を拂ふこと、(五) ストリームアンカー (注1) 運搬のこと。

 此等は其の必要が同時に起るから、豫め研究し、訓練し置く事が必要である。
(続く)

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(注1) : Stream Anchor 「中錨」 のこと。 旧海軍では軍艦が装備する錨には 「主錨」 「副錨」 「中錨」 「小錨」 の4種類があり、『海軍艦船艤装規則』 により艦種毎にこれらの大きさや装備数が決められていました。

「主錨」 (Bower Anchor) : 艦首両舷にある常用の錨で、錨泊用に使われますし、またその錨鎖は浮標 (ブイ) 繋留の時に使います。

「副錨」 (Sheet Anchor) : 主錨と同じ大きさ応急用予備錨で、通常主錨の後方に装備されました。 昭和期に入ってからは艦首装備は廃止され、次の中錨をもって副錨としました。

「中錨」 : 主錨の1/3〜1/4の大きさで、普通艦尾 (小型艦艇では中部) 付近外舷に1個置かれており、艦尾を一時的に所要の方向に維持する場合などに使用されます。 通常は錨鎖ではなく錨索を使います。

「小錨」 (Kedge Anchor) : 中錨より更に小型のもので、簡便に多用途に使用されます。 上甲板隔壁や舷側などに置かれます。


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2010年11月06日

『運用漫談』 − (6)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その3

 前回に於て、逸人の盆鎗振りの一端を白状したが、幸に艦船には何等の損害なかりし為め、共の罪を問はれずに済んで来た。

 然るに世界大戦に於ては、濠洲の西海岸に於ける軍艦 「春日」 の坐礁と云ふ大失敗を演じ、悪道盡きて、遂に奉職履歴三枚に亙る朱字を頂戴する様に成つた事は、逸人の全く以て恐縮して居る所である。

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( 元画像 : Google Earth より )

 常時の情況は左記の懲罰申渡文が要を盡して居るから、聊か長たらしいけれども、其の儘轉載することゝする。

       懲罰申渡書

 其官儀春日艦長トシテ豫テ本職ヨリ受ケタル訓令ニ基キ濠洲西岸航路警備巡航ノ目的ヲ以テ大正六年九月十二日年前八時フリーマントル出港原速十節ヲ以テゼラルトンニ向ヒ航行中 (中略) 午後七時頃ヨリ天候険悪トナリ北々西乃至北西ノ風力四乃至五ニ及ビ海上荒レ波浪高マリ艦ノ動揺ヲ加へ時々驟雨アリ

 午前零時半推測位置南緯三十度東徑百十四度三十六分ニ於テ北ニ変針シ 「ムアーポイント」 (以下M角と略称す) 燈臺ノ西三浬半ニ向ヒタルガ午前五時頃ヨリ風力少シク減ジ夕ルモ海上ノ模様依然トシ荒レ居り水平線附近ニ霞霧アリ展望十分ナラズ

 午前八時推測位置M角燈臺ノ南二十一度西十浬ニ至レルモM角ヲ認ムルヲ得ズ因テ艦へ西方ニ壓流セラレ居ルニ非ズヤトノ疑念ヲ抱キ同時ニ北々東ニ變針シ陸岸ニ近カントセリ

 然ルニ八時五分二至リ沿岸ノ霞霧稍ヤ薄ラギ陸岸餘リ遠カラザルヲ認メ再ビ北ニ變針八時十五分陸岸目標ニ依リ艦位ヲ測定セシモ正確ナラズ艦ハ巳ニM角ヲ通過シ同燈臺ノ東西線ヨリ更二北方ニ在ラズヤトノ疑ヒアリシモ安全ヲ採リM角ノ南三度西十九浬半ニ在ルモノト確定シ北々西ニ變針八時三十分電動測深機ノ用意ヲ令シ其ノ出来次第速二測深ヲ開始スベキヲ命ゼリ

 午前八時五十五分艦位ヲ求メM角ノ南十二浬ニ在ルヲ知リ餘リニ亜弗利加礁ニ近キヲ以テ直ニ北々西へ變針セントシ取舵ヲ令シタルモ其ノ時既ニ遅ク午前八時五十六分俄然艦ノ中央部ニ於テ三回ノ震動ヲ感ジ艦ノ行足忽然トシテ消滅セリ

 依テ直チニ機関停止ヲ命ジ防水扉ヲ閉鎖セリ然ルニ第一回ノ觸礁後約一分間置キニ艦ハ波浪ニ連レ振動ト動揺ヲ感ジタリ

 觸礁後機関ヲ停止スルヤ直ニ艦ノ四囲ヲ測深セナメタルニ右舷前部七尋乃至五尋右舷後部四尋三/四乃至四尋一/二左舷ハ前後部ニ渉リ四尋三/四四尋一/二ニシテ艦ノ右舷前方ニ深水部アルヲ認メタルモ推進機ノ破損ヲ顧慮シテ之ヲ使用セザリキ

 然ルニ艦ハ波浪下風壓ニヨリ漸次ニ東方ニ壓流セラレ自然ニ離礁シ艦ノ周囲ハ水深六尋以上ト成リタルヲ以テ午前九時十分厳密ナル注意ヲ以テ適宜機械ヲ使用シ艦ノ損害程度調査ノ為メM角ノ南十度東十三浬ニ投錨セリ

 投錨後初メテM角燈臺ヲ霞霧ノ裡ニ発見シ今迄M角ト推定シ居タルモノハ誤認ニシテ更ニ二浬西方ニ突出シ居ルヲ確メ觸礁位置ハ亜弗利加礁ノ東南端ナリシ事ヲ知リ又損害状況ハ戦闘航海ニ差支ナキ程度ノモノタルヲ認メ正午抜錨ゼラルトンニ向ヒ午後三時同港ニ投錨シ應急作業ニ着手セリ

 (私註) 損害状況略す。 第三缶下の清水タンクに海水浸入せる外、艦異状を認めず。事後新嘉坡 (シンガポール) に於て入渠修理したるが、同部の外板一枚取換へを要し、入渠修理等の為め、約四萬圓餘の御損を御上に掛けたのである。
(続く)
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2010年10月28日

『運用漫談』 − (5)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その2 (承前)

 夫れから間もない事である。 隍城島 (下図参照) を基地としての哨戒法は四日間宛で交代する事と成つて居つたが、一日自分は交代を終り、小平島錨地 (下図参照) に帰らんとし、午後一時出港、午後五時小平島に入港の豫定で、隍城島を出港し、極めて呑気な気持で航海しつゝあつた所が、午後二時頃旅順方面から勃海湾方面へ掛け、黄色の雲の様なものが満天に広がり、凄惨な光景を呈して来たが、自分は夫れが何なるかを知らず、濃霧の襲来かなあ位ゐに思つてゐた所が、夫れは支那人の所謂黄塵萬丈といふ奴で、どうしてどうして萬丈どころか数千萬丈だ。

 夫れから愈々此の塵幕へはいると、此の地方の特色たる三寒四温の始まりで、凜烈たる北風が暴風の様に荒れて居るではないか。 今迄の歓楽境は忽然として濃霧中の暴風地獄と成った。

 推測によると、艇の左前方には、「初瀬」 「八島」 のやられた敵機雷の敷設面たる]地點 (下図参照) があり、右前方には遇岩 (下図参照) がある。 艇の位置は充分に確信がない。 頗るまづい気持と成ったが、三寒で三日吹くといふ事に気附かず、一時の疾風だらう位ゐに考へ、其の儘続航したが、風は止めばこそ、益々強暴を加へるのみだ。

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( 元画像 : 防衛研究所図書館所蔵 『聯隊機密綴』 より )

 隍城島を出る時に、鶏二十羽、梟二羽、小鳥数羽を持つて居つたが、寒さと浪で皆な死んで了つた。

 愈々]地鮎に近づいたが、右には遇岩があり、艇位が不確實であるので、どうする事も出来ず、其儘の直進し、夜の十時過に、初めて旅順黄金山の探照燈を発見した時には、全く蘇生の思ひをなした。

 七時間の奮闘で、着物は肌迄びしょ濡れ、夫れが肩ヘドッシリと重もり掛り、押しつぶされる様に覚え、寒さは寒し、士官も水兵もへトヘトで、綿の様に疲れてゐる、正子の頃漸く小平島錨地に入ったが、沖の錨地は波浪があり、動揺がひどいから、水兵を楽にしてやらうと考へ、暗夜で危険を感じたけれども、岩礁の間を通り、奥の錨地に入港し、ヤレヤレと思ひつゝ右舷錨を投じた。

 所が約七位の風 (注1) を右舷に受けて居るから、錨は少しも効かない、次で左舷錨を投じたがまだ効かない。 艇はドシドシ左方に流され、間も無く艇尾のガード (七十一号は推進器の下に強固なる保護楯あり) が海底に触れ、艇は之を中心として艇首を九十度振り廻はし、風を全く艇尾に受けて、擱坐して了つた。

 直ちに小平島見張所を通じ、艦隊へ 『我れ坐礁』 の信號を発し、何とかしようとしたが、比の邊は一帯にファイン・サンド (注2) の遠浅であるので、艇底の傷む虞れはない、又た何とするも仕様がないので、作業を中止して休憩を命じ、天明を待つ事にした。

 其の後聞く所によると、水雷戦隊司令官や幾多の僚艦では大変心配して、何とかして救助せんとし、終夜寝なかつたといふ處もあり、大に恐縮した。

 翌朝になつて見ると、艇は全く陸上に在り、潮は遠く引き去つて居るので、艇底を調査したるに、何處も損害はない。 曩きの猴磯水道に於ける觸礁の跡を見るに、塗具が一寸剥がれてゐるのみである。

 夫れより艇底の手人や種々離礁の準備をなし、夕方の満潮を待って離礁せんとしたが、潮はー向に来ない、其の翌日も其の翌日も来ない、第四日目の朝になり、風が凪ぎると、潮は洪水の如くやつて来て、艇の處は一丈にも成つたので、楽々と沖に出る事が出来た。

 此の潮の奇なる現状は何でもない事である。 夫れは勃海湾の様な處で、一定したる北方の強風が吹き続くと、湾内の潮水は遠く南方に圧し出されて、満潮の時でも北進し来る事が出来ないが、一旦風が凪ぎると盛なる勢で迫入し来るものである。

 以上二回の失策は第一回は海図を見るにぼんやりしてゐた事、第二回は投錨に際し、風圧に対する注意皆無なりし事に原因するので、全く艇長ぼんやりの罪である。 只幸運にして何等の損害を招来せざりし為め、懲罰にもならなかつた。 之れ又た逸人の運が好かったので、神に謝する所である。
(続く)

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(注1) : 風力階級7は、強風 (moderate gale) といわれ、風速13.9〜17.1m/sで、波頭が砕けて白い泡が風に吹き流されるような状態です。


(注2): Fine Sand  海底の底質の表記法の一つで、直径0.25〜0.05ミリの細砂であることを示し、海図上では 「f.s」 と記されます。

 
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2010年10月26日

『運用漫談』 − (4)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その2

 逸人兵学校の四號生徒で、例の白井教員指導の下に、汽艇 (注1) 発着法の教練をやった時、原速力で汽艇を筏に衝突させた事がある。 其の時に教員は

  『 衝突の稽古と言ふものは計畫的に出来るものではない、只今のは汽艇と筏との衝突だが、大艦の衝突の時も同じ気分の下に行はれるものだ。 大艦を衝突させては大變である。 今の気分を忘れずに、他日の参考とする様に 』

 と言って教へてくれた。 自分は此の訓育は一生忘れる事が出来ない。

 一体艦船を衝突させたり、坐礁させたりするのは、

     (一) 事前にぼんやりして居ること、
     (二) 危険に臨んで泡を喰ふこと、
     (三) 事の起るや狼狽して、如何に之に処すべき乎を知らざる

 に基因する。

 右の汽艇の衝突も此の三拍子の揃ふたものである。 逸人性来ぼんやりであることを知るから、行船上に於ては常に之に対する注意警戒を怠らない積りであるが、生れ付きは致方ないと見え、三十八年間の海上生活中、日露戦争に際し水雷艇七十一號を坐礁させ、世界大戦中に濠洲西岸で、軍艦 「春日」 を坐礁させた。 此等は皆なぼんやりが其の大原因であった。

 日露戦争中旅順口封鎖戦には、自分は水雷艇七十一號艇長として従軍したが、封鎖破りを企図する支部ヂャンクは多く芝罘 (現在の烟台) 方面から廟島列島を根拠として居る疑があるので、一は示威運動により彼等を威圧し、一はヂャンクの錨地に進入し、疑はしき點あるものを臨検する目的を以て、同方面を巡航することゝなり、芝罘沖から西上して、登州 (現在の蓬莱) 附近の沿岸を巡航し、登州堆 (下図参照) の南方に出でんとした所が、此の附近の常時の海図は支那海図を翻繹したものか、水深は通常の通り尋を標準として居るのに、暗礁の水深を示すには、尋を以てせずして尺を以てして居つた (注2)

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( 71号の座礁位置は登州堆の右下にある水深1.3mの表示付近と考えられます。 )

 即ち一/二尋礁、一/四尋礁と云ふべき所を三尺礁、一尺五寸礁と云ふ様になつてゐる。 普通海図では、三尺岩、百尺岩と言へば、水面上三尺又は百尺の高さある岩を示したものである。

 自分は此の岩と礁の区別を考へずに、尺を使ふて居るから、水面上の高さを示して居るものだとぼんやり獨断して了ひ、常時干潮時であったから、此等の小岩がどうしても見えねばならぬのに見えないから、艇附将校にも気を附けよと命じ、双眼鏡で一生懸命に四方を見て居る内に、艇はドシンドシンと音しつゝ、身振ひをして行脚が止まつた。

 自分は直に機械を停止し、次で投錨を命じ、附近の水深を測らせたるに、何れも八尺以上ある。 夫れから交叉法により艇位を測りたるに、正しく六尺礁を乗切って居ることを知り、始めて礁と岩の間違ひに気が附いて流汗三斗したれども、自分のぼんやりの罪は免かるベくもない。 夫れから艇の損害を調査したるに、船体にも舵機にも機械にも何等損害を認めないので、まあ懲罰にもならずに済んだ。
(続く)

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(注1) : 昭和年代においては、旧海軍では 「汽艇」 とは長さ約10m、幅約2m、搭載人員約30名の蒸気推進の 「機動艇」 の一種を意味していましたが、本稿における明治中頃の兵学校においてどのようなものを使用していたのかは不明です。

 因みに、旧海軍では100トン未満の舟艇を 「短艇」 と総称し、これを 「機動艇」 「漕艇」 「櫓艇」 の3種に分類していました。 この内、機動艇には推進機関の種別により 「汽艇」 「電動艇」 「内火艇」 の3種があります。 なお 「艦載水雷艇」 というのは、推進機関の種類に関わらず、魚雷発射 (落射) 機を装備する艦船搭載の機動艇の特別呼称のことです。


(注2) : ここでいう 「尋」 は 「ファザム (fathom) 」 (1fathom = 6feet ≒ 1.8m)、「尺」 は 「呎」、即ち 「フィート (feet) 」 のことです。


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2010年10月23日

『運用漫談』 − (3)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その1 (承前)

 曳船の話が出たから、序に軍艦 「笠置」 が佐世保から大湊へ百五十噸 (?) の浮船渠を曳行中、山口縣角島燈臺の下に乗揚げた時の情況を考へて見る。 (注1)

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( 元画像 : Google Map より )

 當時 「笠置」 航海長は佐世保出港の日、初めて赴任した計りであるが、船渠を曳いてゐる。 風は左舷クォーター (注2) からニ〜三の力 (注3) で押してゐる。 之れが為、艦首は頻りに左舷に回頭しようとする傾きがある。 此等の點から當直将校に 「艦首を左舷に取られない様気を附けよ。 又明朝午前一時になれば起す様に」 と之を申継ぎとして命じて置いた。

 其の時針路を決定するのに、単に船渠を曳いて居る為に、船が風上側に向く傾向があるから、船は風上側に変位するだらうと考へて居つた様であるが、之れは反対で、艦首が風上に向ふのは、船渠が風下側に押し流さるゝ為であるから、此のリーウエイ (注4) に対して、十分に餘裕を取って置かねばならぬと言ふ考が薄かつた様に聞いてゐる。

 其の内に艦は進んで角島に近づき、豫定位置から云へば、燈臺は右舷、バウニ點位に見えるべきに、夫れが眞バウに発見された。 副直将校は変だから、直に航海長に届けようとしたるに、當直将校は 「午前一時に起せと言はれてゐるから、夫れ迄は宜しい」 と言うて、届けさせない。

 燈臺の方では、変な方向から船が来るから危険だと言うて警戒信號用の火箭を揚げて、大に注意を促がした。 「笠置」 は其の儘ずんずん進んだ。

 其の内航海長が来て (或は當直将校が驚いて?) こりゃ大変だと言うて、「取舵一杯」 を命じたが、廻はり切らん内に、ドシンと乗り揚げて了つた。

 責任は執れに在るか知らんが、曳航中の艦船が風圧を如何に受け、風圧と舵力の関係が如何様な結果を来たすかと云ふ事に対する注意の不充分たりし事が、此の不祥事の重なる原因である。

 又燈臺が意想外の方向に見えた時に、直に艦長航海長に其の旨を報告せなかつた當直将校の処置は洵に以ての外である。

 當時某将軍 (5) は此の談を聞かれて、『そんな奴は一刻も海軍に置いてはいかん、直に放り出せ』 と言うて大変憤慨せられたが、其の當直将校は所謂名士で、其の後も可なり羽を振はれて居つた様覚えてゐる。 こんな當直将校に会うては、艦長は災難である。 自他共に大に注意すべき事である。

 「富士」 「笠置」 の船渠曳船作業に就ては、確實なる記録があるだらうと思ふが、研究したいと思はれる人は就て見られ度い。
(続く)

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(注1) : この 「笠置」 の座礁事故については、その発生年月日や損傷の程度などの詳細は判りません。 もしご存じの方がおられましたらご教示下さい。

当該事故関連につきましては、「アジア歴史史料センター」 より公開されております 『明治36年公文備考巻14 艦船3』 の中に一連の史料が集録されています。 早速ご教示いただきましたHN 「ヤマナカ」 さん、ありがとうございました。 これを見る限りでは、当時としては救難などで騒いだ割には結果としてあまり大した被害もなく、大きな艦船事故とは扱われなかったようです。 どおりで旧海軍の遭難事故摘録集にも出てこないはずで。 (24日追記)


(注2) : quarter、艦尾から45度。 即ちこの場合艦尾から左45度の方位 (方向)。


(注3) : 風力2〜3は、風速4〜10ノット (1.6〜5.4m/秒)、軽風 (Light Breeze) 〜 軟風 (Gentle Breeze) と言われ、海上では漣がはっきりと目立つ段階から白波が現れ始める状態までの間です。


(注4) : Leeway、風落。 即ち、船が風下側に圧流されること。


(注5) : 海軍の事なのに将軍? 提督の誤りではないのか? と思われる方もおられるかもしれません。 が、正しくは 「提督」 と言うのは指揮官配置 (例えば艦隊司令長官など) にある将官のことで、指揮官配置にない将官 (例えば艦隊参謀長など) のことは 「将軍」 と呼びます。

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2010年10月21日

『運用漫談』 − (2)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その1 (承前)

 軍艦 「富士」 で、彼の青島で分捕た一萬噸浮ドックを、佐世保から神戸へ曳行した時に、海上保険を附ける事になった。 保険料は何でも二十五萬圓位であった様に覚えてゐる。

 日本には一つも之れに應ずる保険會社は無かった。 欧米にも無かった。 唯一つ英国の何とか云ふ保険會社が百馬力 (?) 以上の曳行力を有する曳艇を附属するならば、保険を引受けようと申出て来たので、結局其の會社にやらせる事となった。

 昔時自分は此の話を聞いて、何故に此の様な曳艇が必要か、一寸不審に思った。

 愈ゝ種々の準備が出来て、佐世保出港の日となる。 見学者が可なりの多数で、逸人も其の一人であったが、向後崎見張所に登って、「富士」 の出港振りを見たものだ。 「富士」 は恵此須湾に碇泊して居つた。

 愈ゝ抜錨して出港を初め、艦首は回頭して港内に向つたが、其の儘回頭が止まって動かない。 昔時 「富士」 の右舷バウ六點 (注1) 位の処から力一 (注2) 位ゐの風が吹いて居つた様に覚えてゐる。 愈ゝ回頭しないものだから、前記の曳艇で船渠の艫を曳き廻はし、出港した。

 向後崎見張所の見学雀連の問に議論が始まった。 其の甲は 『「富士」 は曳船をしてゐる為、回転圏が非常に大きくなつて居るから、回頭が出来なかつたが、廣い洋上へ出れば回頭は出来る』 と言ふ。

 其の乙は 『「富士」 は彼の乾舷の高い船渠を曳いて居る。 斯様な状態に在る時はどうかすると、「富士」 の舵力と船渠の受ける風圧を平均して、回頭の點から見ると、或るデッドポイントに達する時がある。 只今「富士」 の回頭が止まったのは、即ち其のデットポイントである。 斯様な場合には、曳艇の補助を受けねば、如何ともする事が出来ない。 保険會社が曳艇を附属すればと云ふ條件を附けたのは矢張りえらい』 と言ふ。

 斯様に議論が二つに分れ、双方各自の主張を執って動かない。 其の「富士」 はさつさと動いて、出て行つて了つた。 其の後聞く所に依ると、「富士」 が愈ゝ大隅海峡に臨み、之れから室戸崎に向つて変針しようとしたるに、艦首が種ケ島に向つた儘、回頭が止まつて動かないから、止むを得ず曳艇の厄介になつて、漸く神戸に達する事が出来、右の諭争は遂に乙黨の勝ちとなつた。

 此等も矢張り白井教員のツリム論の要諦を呑込んでゐさへすれば、容易に合點し得る事柄である。
(続く)

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(注1) : point、方向 (方位) の角度の単位で、360度を32点として表すものです。 1点が11.25度ですから、90度が8点、180度が16点となります。 したがって、ここで言う 「右舷バウ6点」 とは艦首から右へ67.5度の方向 (方位) であることを意味します。


(注2) : 風力、つまり風の早さを示すもので、0〜12の13段階で表したものです。正式には 「ビューフォート風力階級」 と言われます。 因みに、風力1は風速1〜3ノット (0.3〜1.5m/秒) 、至軽風(Light Air)と言われ、海上では鱗の様なさざ波があるような状態を表します。

 余談ですが、風の向き、即ち 「風向」 は風が “吹いてくる方向” を表しますが、潮流の向き、即ち 「流向」 は潮が “流れていく方向” を表します。


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2010年10月19日

『運用漫談』 − (1)

 
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 連載の開始に当たって

 これから連載を致します 『運用漫談』 は、大谷幸四郎氏が予備役編入後に海軍の離現役士官及び特務士官の親睦団体である 「海軍有終会」 の会報誌 『有終』 に昭和7年から同9年にかけて投稿したもので、これを有終会が改めて1冊に纏めて同会より刊行したものです。

 大谷幸四郎氏については、馴染みのない方が多いのではないかと思いますが、海兵23期卒 (明治29年)、以後水雷畑に進み、水雷艇艇長、駆逐艦長などの所謂 「車引き」 の道を歩まれ、身を以て波飛沫を浴びながらの勤務をされました。 このためもあって、後年この 『運用漫談』 にみられるように運用術に関する大家となられたわけです。

 第11駆逐隊司令のあとは、大正4年 「春日」 艦長に補せされたのを初めとして、以後順調に海軍将校としての出世の道を歩まれ、昭和5年に呉鎮守府司令長官を最後に予備役に編入されました。

 この 『運用漫談』 が書かれたのは昭和9年ですので、中には既に古くなってしまったことも当然ありますが、それでも現在でも充分に艦艇勤務において適用できるところも多く、所謂 「シーマンシップ」 の基本でもあって、今日にも通用する運用術の原点です。

 お読みになる方で、ご自身ではあまり船に乗られたことのない方には、少々判りにくいところ、ピンとこないところがあろうかと思います。 専門用語などについてはできるだけ注釈をつけるようにいたしますので、どうか海上勤務の一端を感じ取っていたき、船乗り気分を味わっていただければと思います。

 なお、文中に 「逸人」 とか 「船堂生」 とかが出てきますが、これは元々の 『有終』 掲載時に 「船堂逸人」 の名で発表したためで、著者大谷氏の自称のことです。

管理人 桜と錨

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『 運 用 漫 談 』

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

 その1

 逸人元来頭が悪い、殊に数に対する記憶力が極めて悪い。 従って漫談中の故事は精確と言へない。 夫に加へて怠け者で、記録類を一つも持って居ないから、凡て抽象的に陥り易い。 此の點読者の御見許しを乞ふ。

 又所謂漫談である。 其の餘沫を喰って、御迷惑を感ぜらるゝ人も多からうかを恐れるが、口幅廣い言ながら、後進教育の為めにする事であるから、之れ亦豫め御見遁がしを乞ふ次第である。

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 逸人兵学校四號生徒 (注1) の時、運用術教員に白井と云ふ三等兵曹がゐた。 昔時二等兵曹三等兵曹は未だ水兵服を着て居った。 或日力ッ夕ー帆走稽古の時に、逸人コックスン (注2) の役目で、上手廻し (注3) をやったが、どうしても旨く行かない。

 白井教員之を見て、シート (注4) を固縛して、艇員は皆艇首に集まれと言はれたから、その様にして見ると、艇は獨り手にくるりと上手廻しをやって了つたので、逸人大に恥をかかされた次第である。

 共の時白井教員は

 『 大凡行船には、ツリム (注5) に気を附ける事、帆と舵の作用の相互関係等に就て考慮する斯あらねばならぬ 』

 と言はれた。 此の事は逸人一生忘れ得ない所である。

 近代の戦艦巡洋艦等に於ても、ツリムミングタンクと言ふものがある。 之を利用して、常にツリムを良好に保つ事に注意して居る様にすれば、廻転圏や隋力等が一定して操艦上得る所が多い。

 逸人若き時、三等駆逐艦で、紀州大島沖で暴風に遇ひ、艦首を南から西に向けようと致したるに、艦首が南々西に向つた儘で、どうしても夫れ以上に回頭しない。 常時風浪強く、12節以上の速力を出す事が出来ない。 一時間餘も波と戦って居る内に、段々沖に出て、漸くにして西に回頭する事が出来た。

 之れは矢張りツリムと舵力と乾舷に受ける風圧等の相互関係から来る現象である。 ツリム状態の悪い二三等駆逐艦に乗ったもので、此の様な目に遇ったものは可なり多からうと思ふ。
(続く)

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(注1) : 海軍兵学校における最下級生のこと。 要するに1年生。 なお、兵学校は4年制の時と3年制の時とがありましたので、後者の場合は当然ながら最下級生は3号生徒になります。


(注2) : Coxswain、艇長。 海軍においては特に断りがなければ艦載艇などの 「短艇長」 を意味します。


(注3) : 帆走において風上側に間切って進む場合に、その風を受ける舷を変える時に艇首を風上側に回頭させ、そのまま風上を横切って反対舷に針路を変える操作をいいます。


(注4) : sheet、帆走において帆を展張し維持するため索のこと。


(注5) : trim、船の釣り合い (balance) のこと。 特に断り無く 「ツリム (トリム)」 と言った場合には、船体の前後の釣り合いのことで、前部吃水と後部吃水との差のことをいいます。 正規の正常な状態の時を 「イーブン・ツリム (even trim)」、それよりも前部が深く後部が浅い状態を 「ダウン・ツリム (down trim)」 又は 「バウ・ツリム (bow trim)」 と言い、その逆は 「アップ・ツリム (up trim)」 あるいは 「スターン・ツリム(stern trim)」 と言います。

 本項の例では、ダウン・ツリムにすることにより艇の重心及び浮心を風圧中心であるM點より前にすることによって、自然と艇は風上に立つように動くことをいいます。 したがって、この状態である程度の勢いを付けて走っていれば自然と艇は風上に向くような力が働き、舵を切れば、その回頭の勢いで風向きの反対側まで回ることができることを教えています。


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     本来が人員・物資輸送用であり、救命艇でもあるカッターでの帆走は、ヨットなどのような身軽なものと異なり、この上手廻しの様に運用術上の “コツ” が要求されます。


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