2011年01月26日

『運用漫談』 − (31)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その12 (承前)

 大正十年頃桑島 (省三) 中将は、第二水雷戦隊司令官として減軸航行に頼る燃料節約の事を研究せられ、帝國海軍の爲めに大に貢献された。 其の結果が今日の減軸航行の基を成して居る。

 船堂生は桑島司令官の後を受けた (注1) が、常時減軸航行は其の時信號命令に依り實施する様に成つて居たが其の利益の多い事は疑ひ無い事と、信號の煩雑を避ける爲めに戦隊命令を以て十四節以下の速力で行動する時は、令無くして減軸航行を行ふ事を原則とし、陣形運動や出入港若くは狭水道通過等に當りては、時の緩急を見て艦長が任意に終始することが出来る様にした。

 創意と活用とは、運用術に於ても戦術に於ても等しく緊要事項である。 一端を掲げて全般を知る人にして始めて之を能くするのであるが、吾人凡人としては、何事にも能く注意して其由来を研究する習慣をつけ居れば、幾分かは人後に落ちざるを得るのである。


 之は第一水雷戦隊司令官の時 (大正10年〜11年) のことである。 艦隊が大湊から函館に回航する事と成つた。 大湊から函館迄は航程七十一浬 (約131.5km) である。 出港の三日前に戦隊命令を以て、大湊から函館迄の間で各艦の燃料節約競技を行ふ事にした。

 其の方法は出港直前、競技委員の手に依り各艦の在庫燃料を精細に計量し、函館著後再び之を計り、行動中の燃料と淡水量の消費量を算出させた。 各駆逐隊の回航方法及び針路等は全く各司令各艦長に一任し、只其の當日中に回航し終ればよい事にして、各駆逐艦が編隊で行はうが、単独航行をしようが、曳船で行はふが、総て勝手たるベしと言ふ事にした。

 此の命令に接するや、各駆逐艦に於ては機関部員は勿論、艦長當直将校から水兵迄全員一致して、如何にせば燃料節約が出来るかと言ふ研究に熱中し、深夜蒸汽の漏洩部を検するものあり、ブルーム (注2) を以て艦外底の海草を清掃するものあり、全く一生懸命であつた。

 扨て愈々出港となると、錨を揚げるに揚錨機を使用せずしてケプスタン (注3) を用ゆるものあり、入港する時は早くより速力を停止して後退を用ひずして投錨し、又た揚錨機を使用せず、途中一切の電燈を使用せずして油燈若くは蝋燭を以て代へたるものあり、単独航行のものあり、編隊のものあり、各隊各艦の工夫千種萬別であつたが、最後の成績を見るに、各艦の消費量従来の統計に依りて算出したる標準に比し、一般に二割乃至二割半を節約し得る事を示し、殊に戦隊中消費量最も高かりし駆逐艦 「蕨」 の如きは、五割の箇約を得たるを見、隊員一同我ながらに驚かされた。

 依て全隊に對し競技の努を賞すると同時に平素の浪費を責め、大に戒飭する處あり、委細を中央に報告したるに、此の報告は艦政本部に於て大好評を博したといふことであつた。

 将校が機関部の事を知り機関将校が艦橋の事を知る事は大切なる事である。 前掲の様な事でも艦橋と機関部との考へが相一致して始めて行はれるもので、故に始めて燃料節約の徹底を期する事が出来るのである。 萬事は一事である。

 横須賀鎮守府で駆逐隊の兵科士官に機関術の講習をやせた事がある。 兵科士官の得る處豫想外に大なるものありしと同時に教官たりし機関長も、講習員の質問に依り大に啓發されたと言ふ談を聞いて居る。

 艦橋と機関室と相知り相親む事の必要は、誰れも否定するのは無からうが、其の方法と實施に就ては一般に無関心の傾きが多い。 指導者の留意を促がす次第である。
(続く)

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(注1) : 桑島省三少将 (当時) は大正8年12月1日〜9年11月30日の間第3水雷戦隊司令官で、9年12月1日付けで第2水雷戦隊司令官になっております。 著者はこの桑島少将の後を受けて9年12月1日〜10年11月30日の間第3水雷戦隊司令官でしたので、このことを指しているものと考えます。 とすると、この減軸運転の件は第3水雷戦隊でのこと?


(注2) : broom  艦船では一般に長柄付きのブラシのことを指します。


(注3) : capstan、キャプスタン  車地、捲揚機、係船機などと和訳され、要するに錨の錨鎖を巻き上げる装置のことですが、ここでは電動の揚錨機を使わずに人力で巻き上げたという意味です。


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2011年01月25日

『運用漫談』 − (30)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その12

 軽巡や駆逐艦等に於て燃料節約の爲めに減軸航行を行ふ事は今日當然の事とせられて居るが、其の由来を温ねて見るのも一寸面白からう。


 明治の初年に 「磐城」 と云ふフリゲートが在つた。 帆走汽走両用に出来て居つて、其の艦尾にスタルン・ウエル (?) というて井戸の様な穴があり、帆走中は推進器を引揚げ、速力と舵カの邪魔とならざる様にする事が出来ることになつて居た。 是れが滅軸航行の元祖であらう。

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( 「磐城」  本家サイト所蔵 『藤木軍艦写真集』 より )

 明治三十一、二年頃である。 駆逐艦が始めて出来て、日本は英國のソオニイクロフト會社で 「叢雲」 型六隻、ヤロウ會社へ 「曙」 型六隻を注文して造らせた。 是等の駆逐艦は皆回航員を派遣して、日本に回航せしめたが、其内の一隻 「東雲」 丈けは英國人に請負はして日の丸の旗で横須賀迄回航して来た。

 此回航員の頭領は英國の豫備海軍少佐であつた様に覚えてゐる。 請負であるから燃料の如きは節約すればする程請負人の所得となる。 又た時間も出来る丈け短縮すれば夫れ丈け請負人の利益となるから、燃料を兵員室や士官室抔へも積み込み、寄港地を少くして途中随分努力して来た様である。

 慥か 「叢雲」 であつた様に覚えてゐるが、英國を出發する時は 「東雲」 より一足先きに出たが、途中で暫らく競走的になり、日本に著いた時は 「東雲」 より後れた様に覚えてゐる。

 此の 「東雲」 は途中殆んど全航程を片舷航行でやつて来て、大に燃料を節約して請負人は大儲をしたとの談であつた。 然し他の一面には機械の使用に無理があり、途中手人の不足した傾きがあると云ふ悪口もあつたが、「東雲」 の生涯を通じ格別の影響ほ無かつた様である。 浅間敷やうであるが、人間は利益を見せると種々の工夫をするものである。

 駆逐艦 「朧」 であつたかと思ふ。 回航の途中モルタか、スエズ運河かで、航路浮標に推進器を引掛け、片舷機使用不可能と成りしも、入渠する迄もないから、其の儘片舷航行で日本迄やつて来たが、其の時幾許の燃料節約が出来たか聞いてゐないが、可成の節約が出来たと思うてゐる。 然かも之が爲めに 「朧」 の機械が悪く成つたと言ふ如き事は無かつた様である。


 大正五年船堂生は第十一駆逐隊司令として新嘉坡方面で行動した。 或る時急に駆逐艦二隻をバタビヤ方面に派遣する事と成り、「杉」 と 「榊」 が其の任に常る事となつた。

 「榊」 型は推進軸三軸であつたが、其の中央機は開放修理中であつたので、其の使用を止め、二軸で航行する事にした。 全航程約二千五百浬であつたが、「榊」 の燃料節約には一寸驚かされたのである。 此の時は不使用軸のフレンヂ (注1) を切り離してあつたから、殊更に節約が多かつた様である。

 新嘉坡の行動を終り日本へ歸航する事となつた時に、彼の方面に約五箇月居つたが爲めに、艦外底に長さ六寸程の青い海草が一面に繁茂し、其の燃料消費に及ぼす影響可驚ものあるを發見した。

 計算して見ると、往航の時に比し殆んど二倍の燃料を要するので、寧ろ新嘉坡で入渠する方が遥かに経済的であると言ふ事になり、断然意を決して入渠し、外底を塗換へ歸航の途に就いたが、出發してから日本へ著く迄、連日暴れ通しであつた。 若し外底を塗り換へて居なかつたならば、途中でひどい目に遭つたかも知れぬと思うてゐる。

 熱帯地方では僅々三箇月で、日本沿岸の殆んど一年分程の海草が茂生する。 外底の状況は決して馬鹿にしてはならない。

 更に進んで外底塗料の一大改善を研究する必要がある。 昔時日本はインターナショナル塗料を使用して居たが、英國海軍は草色の塗具で、日本のに此し三倍以上の効力ある塗料を使つて居た。 共の成分の秘密を知るを得ざりしは今でも残念に思うてゐる。
(続く)

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(注1) : flange、フランジ  ここでは 「軸継手」 のことで、推進軸の接合部を指します。 プロペラが抵抗にならない様に、フランジでの接続を切り離してその先の推進軸とプロペラを誘転させたものと考えます。


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2011年01月24日

『運用漫談』 − (29)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その11 (承前)

 危険を冒して猛訓練を行ふと言ふ事に就ては、大に議論の餘地がある。 訓練の爲めに、陛下の御艦を損傷しては申譯けが立たぬではないかとは、自分の屡々攻撃された處である。

 然し自分は常に言ふ。 御艦を損傷しなければよいぢやないかと自分は考へる。 訓練は實戦的見地の下に國家の爲めに行ふものであって、點取り主義や、世渡り手段に堕してはならない。

 實戦の光景を眼前に見せて行ふ猛訓練に於ては、船を損傷した實例は却つて少ない。 損傷は多く平穏無事の時に起つて居る。 危険なる行動中は、各員の注意が極めて緊張して居るから怪我抔は容易に起らないが、其の行動了りて平常に復歸せんとする時に、却つて怪我の多きものである。


 明治四十四年か?の大演習の時である。 赤軍の司令長官は寡言沈黙を以て有名なる某大将であつた。

 赤軍は例により烏合の衆であつて、日露戦争中分捕つた露國製の各艦が修理初めて成り、夫れが殆んど全部揃うて赤軍に編入されたので、赤軍艦隊は一見露國艦隊の観があつた。 英国製軍艦に慣れた我が将士に取つては、萬事不慣で、共の訓練は中々六づかしいものがあつた。

 赤軍各艦隊の基礎訓練に與へられたる時間と燃料とは、之れ又た誠に少ないものであつたが爲めに、幕僚の作つた訓練計畫は日々指令するに非ずして、打ッ通しの表にされて居り、一の作業から次の作業へ連鎖的に移つて行くのであつて、中には随分危険と思はれる節もあつたが、長官は其の計畫に就て一言も言はれず、其の儘實行せしめた。

 第一期、第二期、第三期に亙る演習も無事に進行し、犬吠崎沖で統監より演習中止の令が下つた。 そこで自分は横濱沖迄行くには時間が剰るので、半速で航進する事を届けに行つた處、長官は初めて口を開かれ、今迄は艦隊全隊が緊張してゐた爲に故障が起ら無かつたが、故障の起るのは之れからであるから、注意する様信號せよと言はれた。

 自分は将軍の沈黙の裏に、深謀熟慮測るべからざるもの有るを感じ、思はず頭が下がつたのである。

 何の要も無いのに危険を冒かす事は以ての外であるが、奈破崙翁が言ふた如く、戦争は危険を冒さずしては行はれない。 一切の訓練は實戦的見地の下に、國家の爲めに行はれねばならぬ。 之れが爲めには随分猛烈な冒険的行動も課せられねばならぬ。

 由来實戦的訓練は我が帝國海軍の傳統的訓練法であるが、傳へ聞くところ、今日の艦隊の訓練法が如何に徹底的なるかは想像に餘りあるものがあるとのことで、自分は大に愉快に感じて居る。

 天の成せる英雄でない限りは、大抵の人は突然危険に直画すると、狼狽して事を誤まるものである。 故に平常より豫め危険に慣らし置くを要する。 之れは技術的よりは精神的の訓練であつて、自分は之を称して 「睾丸の上下訓練」 と名づけたものだ。

 又た平常の訓練に於ては、少々艦を傷めても、艦長の首くらゐで済むが、不熟練の爲め戦場で不覚を取り、艦の操縦を誤まるが如き事有つては、事皇國の興廃に関する原因と成る事がある。 能く々々考ふべきことである、そして同時に活きた訓練を行ふべきである。
(続く)
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2011年01月23日

『運用漫談』 − (28)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その11 (承前)

 船堂生舞鶴要港部に勤務して居た時 (大正11年〜12年) の事である。 京都師団の某将軍が新任の挨拶に来られた。 時は厳寒の際である。

 海兵團の練兵場の雪は八寸程も積んで居り、四面白皚々たる光景であつた。 海兵團の新兵は散兵教練の爲め、雪で散兵壕を作り、之れに向つて攻防の訓練をやつて居つた。

 将軍が司令官室に這入いられたから、自分は窓を開いて雪の軍港の美景を紹介した。 すると将軍は今日は、更によき教訓を得たと言はれるから、夫れは何かと聞くと、あの新兵の教育振りである、雲の中のあの猛訓練である。 彼の様にやりさへすれば、訓諭も何も要らない、精神教育は自然に出来て居ると、連りに褒められた。 ストーブで顔が赤くなる程温くもつて居た自分は、一寸また顔が赤くなるを覚えた。

 其の後に聞いた談である。 将軍は要港部から重砲隊に行かれ、更に福知山聯隊を視閲された。 所が聯隊長 (?) の現状申告の中に、當地は雪が多いので訓練が思ふ様に行かない、との文句が有つたらしい。 将軍の怒聲は雷の如く爆發した。

 『陸上に於ける訓練は、陸軍が其の範を示して海軍に教へるのが本来である。 要港部に往け、司令官は雪が有るから却つて面白い訓練が出来ると言はれた、要港部を見て来い」 と。

 視閲の結果は、勿論不首尾であつた。 お気の毒に思うてゐる。


 其の後舞鶴要港部で基本演習をやるので、福知山聯隊へ案内状を出した。 處が陸軍大学出のチャキチャキの青年将校が見学に来た。 演習は三晝夜打ッ通しである。 連日雨天であつて大に収獲があつた。

 演習終了後、其の青年将校の感想を聞いた處が、海軍の演習を見学するのは始めてで、何事も目新らしく感じた。 が、其の中で最も深く感じた事は、大佐たる艦長が一切の責任を自から引受けられ、常に陣頭に立ち、而かも上下を通じて心身共に最も労苦するものは艦長共の人であると云ふ事と、今一つは作業實施に當つては、上下共に一切の障碍を眼中に置かず、嬉々として仕事に従事して居ると云ふ事である。

 聯隊に於ては濡れた練兵場で伏姿でも命ずると、青年将校等は残酷だなんて不平を言ふ悪風がある。 之れからは、どんな事が在つても、決して不平は言はないと決心した、と言ふから、自分はその事その事と奨励してやつた。

 陸軍の行軍振り杯を見ると、其の不撓不屈の士気旺溢せるを見て感心させられるが、陸軍から海軍を見ると亦面白い處が見える。 他山の石とは是なんありである。
(続く)
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2011年01月22日

『運用漫談』 − (27)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その11

 船堂生 (著者のこと) の友人で今は九州の某地で某職工学校の校長さんを勤めて居られる某大佐がある。

 大正十年頃のことであつたと思ふ。 大佐は横須賀鎮守府の練習駆逐隊の司令であった。 練習駆逐隊は練習燃料の外に少し許りの自隊訓練用の燃料を供給されて居たが、其量は極めて少量であつたから、之を消費するには最も経済的に遣らなければならなかつた。

 或る時練習作業の合ひ間を得て自隊の訓練の爲めに出動せんとした。 共の日朝来天候極めて平穏にして、駆逐隊の出動には 「持つて来い」 の好天気で、各駆逐艦は夫れぞれ、出港準備に取り掛らんとした時に、司令駆逐艦にスルスルと信號が揚げられた。 日く、「天候平穏に付き出港取止め」 と。

 『天候平穏に付き出港取止め』 − 如何にも面白い信號である。 讀めば讀む程妙味のある信號である。

 平穏なる天候の下に平凡なる訓練を行うても訓練は訓練である。 それで司令の職責を盡したと言ふ事も十分言ひ得るのである。 が、訓練は國家の爲めに行ふ訓練であつて、司令の申譯け用の訓練であつてはならぬ。

 燃料は少量である、之を以て國家の爲めになる如き訓練を行はんとせば、平凡なる申譯的訓練であつてはならぬ。 荒天の下に困難なる作業を遂行せしめる時は、訓練上の効果は之を平凡時の夫れに此し數倍乃至數十倍の効果がある。

 大佐の狙らふ處は茲に在つた。 國家の爲めに有効なる訓練を行ふ外、他意は無いのである。

 険悪なる天候を冒して出動し、困難なる作業を課する、其處には幾多の危険が伏在して居る。 重大なる責任は司令の双肩に掛つて居る。 然かも猶ほ之を冒して出動する、斯くてこそ初めて帝国海軍の實力は向上し充實するのである。

 報告は見事に書く、理窟は能く言ふ、立ち廻はりは中々お上手である。 併し敢爲も無ければ創意も無い。 徒らに先例の糟粕を襲踏するのみにして、事勿れ主義を金科玉條とし、手も出さなければ足も出さない。 一切の責任を他に負はしめて顧みざるのみならず、自己の失策を自己の失策なりと自から告白する勇気すら無い。 之が當世で在る。

 其の中に於て揚げた信號が、「天候平穏に付き出港取止め」 である。 何と面白い信號ではないか。

 時の寒暑を問はず晝夜を論ぜず、天候風雨を顧みず、爲さんと欲する作業は、何時でも之を實行すると言ふ習慣をつける事は大切である。
(続く)
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2011年01月21日

『運用漫談』 − (26)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その10 (承前)

 昭和二年佐世保沖で行はれた小演習の時のことである。 自分は赤軍司令長官として働く事と成つた。 赤軍主力は 「陸奥」 「金剛」 で、之れに一箇水雷戦隊が附属して居た。 例の通り赤軍は俄か仕立の烏合の衆である。 殊に両艦長は餘り艦の扱ひに慣れて居られなかつた。

 併し作戦上夜間佐世保軍港を無燈で出入せねばならない様な事も有るので、之れに對する訓練も行はねばならぬし、又た水雷戦隊の襲撃訓練を、大にやらなければ成らないと言ふ情況であつた。

 此の訓練の爲めに許るされたる日數は第一期丈けで僅かに一週間、燃料も亦た僅々一晝夜半分であつたと思ふ。

 夫れで随分無理と思ふけれども、前述第三水雷戦隊でやつたやうに佐世保軍港と寺島水道の間で連日訓練を課し、佐世保軍港を出る時は、日没後一時間とし、出ると直ちに襲撃運動を行はしめ、夜間寺島水道に投錨し、又た寺島水道を出る時は午前二時若くは三時頃とし、途中襲撃運動を課し、拂暁佐世保軍港に入港すると言ふやうな具合にしたが、此の一週間で二箇月程の稽古が出来たとはお追従か知らんが、麾下一同の讃辞であつた。

 愈々第二期に入り両軍對抗となりたる時、赤軍はタ暮薄暗い時に佐世保を出港し、夜通し襲撃を受けたが、徒らに敵駆逐隊を回避せずして積極的に之を攻撃し、無信號無燈の儘で随分思ひ切つた行動を執つたが、両艦共實に見事にやつて呉れたので大に嬉しかつた。

 前の三十晝夜あれば相當の訓練が出来ると言ふたが、夫れはどうするかと言ふに次の如くする。

 即ち毎月一晝夜分の割合で年度始めに基本長に七箇月分の燃料を給與し、六月末まで所属軍港に在りて勝手に訓練に従事させるのである。 而して共の訓練の標準は、年度初頭に長官より指示し置き、尚ほ軍港在泊の先任者をして軽く監督せしめるやうにする。

 艦隊の集合は七月上旬とし、集合せば直ちに猛訓練に着手し、年度諸作業を終了する如く指導する。 之れに要する燃料は二十晝夜である。 而して基本長の基礎訓練長官の意に満たざるものある時は、どんどん馘首する。

 斯くすれば長官は六月迄は東京附近にありて中央との連絡を取り、又時々地方を巡視して基本長の訓練振りを検すればよいのである。 斯くして尚ほ三晝夜分残るが之れをば豫備とし、適宜使用する事とする。

 以上は當時の僅少なる豫算時代の事であるが、近来の如く諸作業増加し、総てが大まかになつて居る時には當て嵌るまいが、大まかになれば大まかになる丈け燃料の使用には更に留意せねばなるまい。 粒々辛苦の結晶はどこ迄も粒々辛苦の結晶である。

 此處で一言したきは海防思想の普及に對し艦隊が努力する事である。

 逸人第一水雷戦隊司令官 (昭和11年〜12年) のとき、年度作業を終り艦隊を解き所属軍港に歸港せしむる時に、夫れ夫れの隊に命じて沿岸都市に寄港せしめ市民に軍艦拝観の機會を得せしめたが、豫想外の好果を得た。

 第二艦隊の時 (昭和3年) に艦隊を横須賀ばかりに置かずに品川に廻はし、東京市民に拝観の機会を得せしめたところ、乗組員に少々不便を與へた気味ありしも、幾萬の東京市民に相當の海事思想を吹き込んだ事と信じて居る。

 艦隊の集合開散の時を利用し、一両日の日數を海事思想普及の爲めに割く事は必ずしも無駄でなからう。 夫れが爲に要する燃料は殆んど無くて済む筈である。 昔は艦隊は能く沿岸巡航を行ひ到る處で拝観を許るしたから、海事思想普及に大變便利であつたが、今日は作業の都合でそんな事は出来ないから、せめては艦隊各艦の離合集散の時機丈けでも旨く運用されたいものである。
(続く)
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2011年01月20日

『運用漫談』 − (25)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その10

 逸人教育本部 (注1) に居た時 (明治42年〜44年) の事である。 竹敷要港部の魚雷検定發射が鎮海湾で行はるゝので、其の視察に出掛けた。 昔時の魚雷検定發射は固定標的に對し航路標を沿うて航走しつゝ發射するので、今日から見ると、幼稚極まるものであった。

 發射終了し歸途に就かんとした時に、要港部幕僚より、竹数は附近に適常なる魚雷發射場なき爲め、何時も鎮海湾に来て發射する。 従って往復に日子を要し、規定されたる出動日数 (出動日数は一箇月一週間かであつて航海加俸の都合でかう制限を附せられて居つた) と燃料丈けでは不足で、一つ事業を施行せば他は何事も出来ないから、東京へ歸つたら出動日数と燃料を増額する様取計つて呉れ、との注文を受けた。

 自分は之に對して、夫れは意外なる要求である、自分は諸作業を行ふに竹敷程良い處はないと思うて居る。 呉や横須賀邊では港を出れば直ぐ魚雷發射や艦砲射撃が出来る。 然れども湾内平水であるから、船乗として訓練が出来ない。 之れが爲めには、態々計晝を立てゝ出掛けねばならぬ。 然るに竹敷では港を出れば直ぐ洋中である。

 今若し自分をして艇隊の行動を計晝せしめるならば、夕刻若くは夜中に出港して對馬海峡内で種々夜戦の稽古を行ひ、翌朝射場に達し射場を構成し、射撃若くは發射作業を行ひ、若し其の日済まねば其位置に投錨し、翌日引續き作業を継續し (常時の魚雷は今日の如く發射毎に分解調整を行はず、同一魚雷を五、六回も連續發射したものである) 發射終れば其の夜引揚げ、途中又た各種想定の下に演習訓練をやりつゝ竹敷に歸へればよいから、之れを呉などに比すれば、どれ位都合が良いか知れない。

 然るに鎮海で魚雷發射を行ふからと言うて朝方竹敷を出て夕刻馬山浦 (注2) に著き、上陸を許るし、翌朝射場に行き、發射を行ひ、夜は又馬山浦に歸つて上陸し、翌朝又射場に出掛け發射了れば又た馬山浦に歸へり、共翌朝のそのそ馬山を出て竹敷に歸へると言ふ様にするから、多大な時間と燃料とを空費し何の得る處無くして終るのだ。

 燃料の不足ぢやない、脳味噌の不足ぢやと言うて遣つた處、そりや理窟ぢやが中々さうは行かぬものぢやと言ふ事で有つたが、頭の使ひ様で物と時間と、従つて努力がどれ程節約が出来るか大に考ふべき事である。


 逸人第三水雷戦隊司令官の時のことである。 該戦隊は横須賀の第六駆逐隊、呉の 「平戸」、舞鶴の三十一駆逐隊より成り、修理の都合か何かで二月十一日に漸く鎮海湾に集合し、三月末日迄佐世保方面に於て訓練に従事し、五月下旬間宮水道に行き、北海警備に就く事と成つて居つた。

 規則に依れば何も年度作業全部を行ふ必要はなかつたが、自分は三月末日迄に各隊各艦の一切の年度作業を行ひ、夫れより朝鮮東岸を巡航し、浦鹽沖より一旦舞鶴に歸へり、種々の準備を整へ五月下旬北海道を経て間宮海峡に進出するの計晝を立てた。

 然るに年度作業を行ふ爲に割當てたる日數は僅かに五十日であるから、大に促成訓練を行はねば成らぬ。 依つて各隊が初めて所属軍港を出るや高速教練運轉を行ひ、尚ほ其の速力にて對州東水道にて 「平戸」 に封し襲撃を決行せよと命じた。 處が初めての事ではあり、天候も悪るかりし爲め、何れも失敗に経つたが、司令及び艦長の苦心研究其他大に得る處があつた。

 夫れから鎮海に著き紀元節を祝し、翌日から水雷發射や射撃の初歩訓練を行ひ、陸戦隊訓練も二回もやり、二月の下旬鎮海を出て途中襲撃演習、佐世保軍港封鎖及び封鎖線突破抔種々の演習を行ひつゝ佐世保に入港し、夫れより寺島水道を根據として各種の戦闘作業を行ふ事と成つた。

 其の間佐世保出港は大抵夜中若くは夕刻とし、途中襲撃演習や夜間發射を行ひ、又た寺島水道 (注3) を出て佐世保に入る時には、午前三時頃抜錨して夜明けに佐世保港口に達する如くし、途中は相變らず襲撃の訓練を行ふ事としたが、僅々一箇月にして各隊の技倆は驚くばかりに進歩した。
 
 戦闘發射計畫は全然自分が計畫するやうに成つて居たので、戦闘運轉と晝夜間の戦闘射撃と夜間戦闘發射とを一行動中に行つて了ふと言ふ計畫を立てたが、日本で初めての事で、教育本部の第一課長もわざわざ視察に来られた。 三月の下旬に軍艦 「最上」 が第三水雷戦隊に加へられたので、「平戸」 と 「最上」 を標的として駆逐隊に襲撃させたものだから、右の様な藝當が出来たのである。

 戦闘作業は見事に順當に行はれたが、中には襲撃の際に泡を喰つて標的に対し反對方向に發射した駆逐艦も有つた。 随分猛烈な作業たりしも、故障も無く見事に行はれたと言うて見学者連より称讃された。

 二月十一日に集合して以来、日を閲すること五十一日、燃料の消費二十一晝夜で此の成績を挙げたので其の後教育本部に行き、今日の艦隊の訓練程度迄なれば、自分は二十五晝夜分か三十晝夜分の燃料さへあれば澤山だと豪語した處が、馬鹿な事をしやべるなと言うて叱られたが、矢張り物はやりやうで、窮すれば通ずる途のあるものである。
(続く)

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(注1) : 海軍省の外局として明治33年に設置されましたが、ワシントン海軍軍縮条約に伴う海軍の縮小・整理により大正12年に廃止され、海軍省教育局となりました。


(注2) : 現在の馬山市。 旧海軍の施設が本格的に東隣の鎮海に移転・集約されたのは日韓併合後のことで、それまではこの馬山浦を利用しました。


(注3) : 佐世保港外の艦隊錨地・作業地。 文中では 「寺島水道」 とありますが、本来の寺島水道は狭隘で潮流も早いため、錨地には適しませんので、下図に示す本来の寺島錨地のことです。


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( 元画像 : Google Map より )

      この寺島錨地は旧海軍時代から艦隊の作業地・仮泊地として有名で、海上自衛隊も活用してきましたが、最近では艦艇の運用方法の変化と共に、作業地としてはあまり利用されなくなりました。

 なお、佐世保在籍の艦艇の台風避泊地としても使用されることがありますが、南西方向が大きく開けているため、風向き (台風の進路) に左右されます。


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2011年01月19日

『運用漫談』 − (24)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その9 (承前)

 畏れ多い事であるが、有栖川威仁親王殿下が、横須賀海兵團の後任分隊長であらせられた時の事である。 殿下は水兵と共に起床され、水兵と同時に朝食を召上られるのを常とされた。

 常時の士官室士官も、随分行儀が悪くて夜ふかしをして朝寝坊、八時頃起きて来て食事をして、ヤレ汁が冷いの不味の、何んのと口汚なく従兵や賄を罵り散らす。

 或時一番分隊長が盛に賄を罵倒してゐるので、殿下は御静かに一番分隊長、僕はネー、朝早く頂くが、朝早く頂くと、此の御汁でも大變おいしいよと、仰せられたので、一番分隊長の顔は、見る間に赤くなり青くなり、冷汗背を潤ほすと言ふ有様。

 夫れから一番のみならず一同が大變お静かに成つたとの事である。 反省せよ。 殿下に對して顔を赤くせねば成らぬ青年将校は居ないか? 居なければ幸である。

    下るほど見上げらるるや藤の花


 電燈節約で八釜しく言ふたが、時と場合を考へぬと大恥をかく事がある。

 「春日」 艦長の時 (大正5〜6年) である。 新嘉坡方面に出勤せんとし香港に入港した。 士官達は上陸して遅く歸航したが、翌日其訴ふる處によると、昨夜支那船の船頭に大に軽蔑されたと言ふ事である。

 それは 「春日」 は日本に於ける例規により、毎夜十一時には電気燈を消して石油燈に代へる事に成つて居る。 之は石炭の節約と労力の節約の爲めである。 處が右の士官達が船頭に日本軍艦 「春日」 に往けと言ふと、船頭笑つて日く、ジャパン・プーアー、ジャパン・プーアーと言ふ。 其の理由は在泊艦船は何れも終夜電燈を點じ居るに、「春日」 丈け薄暗い石油燈を使用してゐるからである。

 自分は其の談を聞いて吾れ誤てりで、直に終夜電燈を點ずる事にした。

 今日の軍艦の舷門には、其の手摺に添うて三つ若くは四つの電燈が點いて居るが、あれは英国皇帝の戴冠式に参列した遺英艦隊の輸入である。 夫れ迄はドンナ高い舷梯でも、燈火は其の最下段に一個丈けで、而かも油燈であつたから、誠に陰気臭いものであつた。

 従つて上陸して夜る晩く歸へる時も陰気臭いので、自然陸泊したい様な気分に成るのであつたが、舷梯に多数の燈火を點ずる様に成つて、陽気で歸艦するのが愉快に成つた。 一寸した事が豫想外の好果を得る事がある。


 節約の序でに一つ機密費の節約に就て書いて見る。

 大戦中海峡方面の警備の時である。 艦長の機密費は一年二百圓であつた。 之では自動車にも乗れない、所は熱帯地方である、汗だくで総督訪問、夫れこそ國辱である。 自動車会社 (邦人経営) と契約して半額にして貰ふたが、夫れでも自腹を切らねばならなかつた。

 併しまあ夫れはそれでよいとして、一番困つた事は外国人招待である。 數ヶ月も居れば其處其處で招かれて御馳走に成るから、時には返禮に接待せねば成らぬ。 御馳走は立食位にすれば至極安値に行くが、記念の御土産をせがまれるので、夫れには大に苦心した。

 水兵帽のペンデントが大に賞美されるのであるが、いつもいつもペンデントと言ふ譯に行かず、ふと思ひ附いたのが日本製烟管とキザミ烟草である。 之は大變珍重がられて、ドンナ富豪の令嬢でもキヤツキヤツ言うて嬉しがつたのである。 其の價は驚く勿れ四十銭であつた。

 又た或る艦長は油繪が上手であつたが、平常暇に任かせて繪ハガキを塗りちらし、それを贈り物としたが、大變喜ばれたとの事である。 藝は身を助けるとは此の事である、嗜しなむべきである。
(続く)
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2011年01月16日

『運用漫談』 − (23)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その9 (承前)

 入浴に就て序に今一つ陳ベる。 艦長になると、艦長一人でバスを有つて居り、而かも夫れが清水である。 随分贅澤だ。 夫れで自分は湯は深さ一尺以上は不用とし、又別にバケツを備へさせ、湯船の上に幅一尺餘の板を供へさせ置き、沸ひたる湯をバケツに取り、右の板の上に置き、ちと不潔の様だが掛け湯を使はず、直に湯船に飛び込み、其儘で石鹸を使ひ垢を落したる後に、バケツの湯にて顔を洗ひ、身體を流して入浴を終る事 (郵船會社等の客船、洋式ホテルの浴室附き客室は大抵此の式の筈) とした。

 斯くすると清水の節約が出来るのみならず、汚れる處は湯船の中のみなる故、自分で掃除が出乗るのみならず、あの大きなグレーチング (注1) を少しも濡らさぬことになる。 従って従兵の努力を省く事夥しくものがあり、且つ浴室が何時も乾燥して居り気待もよいし、尚ほ又船體保存上非常に爲めになる。 尤も使用後の湯を他に利用するとか、又旗艦抔にて幕僚が利用する抔言ふ時は此の限りでない。 織田信長は爪を摘んで人物を試したと言ふ。 眞理は脚下にある心すべき事と思ふ。

 近頃の艦内では蒸溜水を使用する爲め、清水の供給が豊富だ。 従つて其の浪費も夥しい。 昔の帆船時代の人に見せたら驚死するだらう。 今日水の節約抔八釜しく言へば天保銭 (注2) 何を言ふかと嘲けるであらう。 然かし艦内に於て一升の蒸湖水は幾多の労力を要し、値ひ幾許銭なるや、ビールより高價のものではないか。

 又二十燭光一個の燈火が、一時間幾銭を要するやを計算せよ。 而して士官室で王公の如く威張つてゐる士官様御自分の家に還れ、然かく浪費し、然かく乱用する事が出来るか、又さうせねば士官様の資格が保て無いか。

 物を乱用するのみならず兵員を乱用する。 私室の整頓士官室の整頓一切は、従兵の仕事とし遣りッぱなし取散らし、入湯するや従兵二人も呼んで背を流さしたりして、寧ろ得意として居るに非ずや。

 自分も元来不始末の風がありて、常に自から愧ぢて居る。 此の十數年来自分の寝具は必ず自分で仕末する事とし、之を自分の修養としてやつて来てゐる。 朝早く起きて自己の寝具を仕末し了る時の気持は實によい気特である。

 東郷大将は皇國の興敗此の一戦にありと信號された。 自分は皇國の興敗は寝具仕末の一拳にありと、毎日信號してゐる。 自分の事は自分にせよだ。 修身斎家、治國平天下だ。 一身の仕末が出来て始めて一艦が整ひ、全艦隊を統率する事が出来るのだ。 敢て青年士官の反省を望まざるを得ぬ。

 悪口序でにもう一つ言ふ。 水交社抔に行くと、大聲で給仕を呼びくだらぬ事を罵つて居るエライ士官様を屡々見て苦々しき思ひをさせられる事が多い。 水交社丈けでも呑気に、と言ふ事は考へんでも無いが、今少しく紳士的にやられたらどうだらう。 威張る丈けが能でもあるまい、威張る奴はまさかの時にくた張る奴と知れだ。
(続く)

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(注1) : Grating、格子・スノコのこと。 ここでは浴室の鉄甲板 (又はタイル張り) の上に敷かれた木製のスノコのことです。


(注2) : 一般的には陸軍大学校の卒業者が佩用する徽章のことで、転じてその卒業者を指します。 徽章の形が天保銭に似ていたことからこう呼ばれました。 海軍大学校でも明治25年に制定され、明治30年に新しい徽章となってから大正11年まで用いていたことがあります。 したがって、実際には本稿執筆時には既にありませんが、ここでは海軍大学校卒業者を指します。 なお、著者の大谷中将自身は海軍大学校を出ておりません。


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2011年01月13日

『運用漫談』 − (22)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その9 (承前)

 島村 (速雄) 大将が 「初瀬」 艦長の時であった。 常時の機関長は一寸奇人で中々いける方で、飲むと随分やつた人であつた。

 一日艦内點検があつて機関室内の倉庫に行かるゝと、麻の大きな袋が二個有るから何かと問ふと、機関長は之に答へて之れはオークム (注1) である。 機械の磨き手入には此のオークムが一番よい。 之れは自分が毎朝甲板流しの跡を歩いて、甲板に散つてゐるスオーブ (注2) の切れ端を拾ひ集めて作つたものであると言はれると、島村艦長内心大に驚かれ、此の人にして此の用意あるか、我れ人を見る明無かりけりと感ぜられ、間も無く定期進級の時来り、機関長は一躍大佐となられたのである。

 帆船時代にはこんな事は當然であつたが、「初瀬」 時代には大半忘れられて居た。 現代はオークムを知らない甲板士官や副長が居られはせんかな。 三省すべきである。 悪口は扨て置き機関長の進級祝ひは又格別で、佐世保中の大評判であった。

 煉炭の一塊やオークムの一袋なんて、けちくさい事を言ふ勿れと冷笑するだらうが、勝敗の決する基は此處に在る。

 佛國革命戦争の時である。 ネルソンが佛蘭西艦隊をツーロンに封鎖し、之を my fleet と称し三年間もツーロンの沖に頑張て封鎖して居つた時である。 佛蘭西艦隊は港内に在つて物資豊富だから準備萬瑞到らざる無きに係らず、ネルソンは始終洋中に在つて風浪と闘ひ、且つ交通不便の上に、時の海軍大臣が非常に経費節約に八釜敷かりし爲め、修理材料など容易に送らないので、ネルソン艦隊の貧乏さと来ては驚くばかりであつて、ネルソンも随分不平を言ふたもんだが、慥か前後三回であつたと思ふ。 フランス艦隊は脱出を企てたが、出る度毎に暴風に遇ひ、佛艦隊は帆は破れ、マストは折れ、ほうぼうの爲體で逃げ還つたが、ネルソン艦隊は平然として少しも港外を離れなかつたのである。

 海上に於ける技能の熱否の差もあるが、兎に角物の節約と時の利用にはネルソンが如何に巧妙であつたか、想像に餘りある様思ひ忍ばれる。 英佛両艦隊勝敗の原因は慥かに此處に基因してゐる。


 第三水雷戦隊司令官の時である。 軍艦 「平戸」 が旗艦であつた。 「平戸」 の艦長室浴室にある湯沸器は、建造當時は最新式であつたが、具合が悪いと言うて之を使用せず、湯沸器の上部に別に蒸気管を取り附け直接蒸汽で湯を沸かして居つたから、自分は左様の筈は無い、湯沸器を生かして使へと命じて手入をさせ、やつて見ると立派に使へるのみならず、あのギヤーギャー言ふ八釜しい音 (注3) も無く成り非常に具合がよい。

 處が使つて見ると湯を沸かした蒸気が復水して、ドレーン (注4) となり湯船の中へポチポチ落ちて居る。 湯は鹽湯 (注5) であるから之れは無益と思ひ、右のドレーンパイプを湯船の外に出し洗濯罐に受けさせて見ると、一度湯を沸かす爲めにウォシタブ (注6) の 「大」 一杯と 「小」 一杯の清水が取れ、而かも夫れで幕僚一同の顔洗水に使つて餘り在るを知り、後には隊内の餘材を以て立派な清水タンクを作り、之れに右のドレーンを垂らし込む事とした。 之れで見ると幕僚用として毎日 「大」 一杯のウォシタブの水を、只捨てゝ居つたのである。

 其後は此の様な諸點に気が附かれたと見えて、今日のドレーンは総て密閉式となり、一滴も只は捨てない様に成つて居るから結構であるが、今でも不注意から蒸汽と清水の浪費は驚くべきものがあらうと思ふ。

 逸人が一塊の煉炭と雖も、皆な國民の粒々辛苦の結晶なりと絶叫するは此處である。 注意の上にも注意すべきである。
(続く)

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(注1) : Oakum、槙肌 (まいはだ)。 本来は古い麻索などを解して麻屑のようにしたもののことで、艦船の板目の隙間に詰めて漏水を防いだり、機械類の油汚れの清掃などに用いられました。


(注2) : Swab  モップ、棒雑巾のこと。


(注3) : 金属パイプを通して蒸気を浴槽に流すと、その流量によってはバルブの所を中心にパイプの振動で大変に喧しい音が出ることがあります。 これは現在の艦船でも同じです (^_^;


(注4) : drain  排水又は漏水するもののことですが、このことから正規の使い道のないような水 (液体) のことも意味します。 ここではいわゆるポタポタ落ちる “水滴” のことです。


(注5) : いわゆる 「海水風呂」 です。 真水節約のためで、特に航海中は艦長と言えども通常はこの様にしました。 慣れると真水よりも体がポカポカと温まって、健康上も良いと言われています。 海自でも昭和40年代頃までは時々海水風呂だったことがあります。


(注6) : Wash Tub、洗い桶のこと。 旧海軍・海自の艦船乗員は通常これを 「オスタップ」 と呼びます。


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2011年01月12日

『運用漫談』 − (21)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その9

 人の運用に就て今少しく書きたいが、どうも理に落ちていかないから、時と物の運用に移る。

 運用は最安全にして最近の航路を取る趣意上、時と物とは相関聯して離れざる関係にあるから、一處にして書き立てる事にする。

 軍艦 「鞍馬」 で遣英艦隊 (注1) に派遣せられた時の事である。 印度洋を過ぎ紅海に入りしは四月の末なりしも、熱帯圏に在る事とて中々暑い。 然るに士官室を見ると晝夜共電燈を點じ、電気フアンは全力運轉をやつてゐる。

 其の下で汗だくで仕事したり、遊んだりしてゐる自分は、之を見て馬鹿々々しくてたまらんので、そつとスヰツチを切つて、電燈は實際必要なるもの丈け残す事に力めつゝあつた。

 ところが暫らくして艦隊機関長 (注2) から、水雷長、君はえらいことをやるネ。 何故に電燈を消すかと言ふから、第一此の暑いのに不必要な電燈を點ずるが爲めに、どれ位い士官室が暑くなるか知れない。 熱い電燈の中でフアンを掛けて、其の下で汗だくだくだ。 當世百馬鹿の好標本だ。 自分の室には二十四時間中三十分とは點じないから非常に涼しい。 夫れに電気の浪費だ。 電燈を少しばかり消した迚、何もならんか知らんが、煉炭一つ節約が出来てもよいぢやないか、と申したるに、水雷長、えらい、機関官が君の半分丈けでも燃料に気を附けてくれたらなア、と連りに感嘆せられた。

 二十四時間に百数十噸の石炭を消費して居る電燈を消した位いで、どうなるかとは、機関官始め士官室連の輿論であつたが、自分は此の心が大事だ、利益の大小ではないと信じて疑はないから、海上に於ける全生涯を通じて此の主義は變へなかつた。 今でも變へない。

 第一水雷戦隊司令官の時に、旗艦は 「龍田」 であつた。 前任司令官より 「龍田」 の司令官室は艦橋の直ぐ下で便利だが、夏は熱くて夜なんど寝られないとの申し繼ぎで有つた。

 自分は夏の夜は書見の時の外は一切の燈光を自分で消した。 さうすると副官や従兵が来て點燈する。 − 自分が消燈する − 言うて聞かず − 初めは中々骨が折れるが、間も無く命令が行はれるやうになると、艦内中で一番涼しい室に成り、幕僚連を羨ましめたが、幕僚連は依然として點燈してフアンを掛けて平気だ。

 「龍田」 級で碇泊中艦内全部が此の主義でやれば、どれ位ゐ平常用燃料が節約されたであらう。 又夏如何に艦内が涼しかつたであらう。 度し難きは縁無き衆生である。

 英国で有名な運用家チャアルス・べレスフォード大将 (注3) が、地中海艦隊司令長官で在つた時である。 艦隊命令で各艦に毎月の平常用燃料消費高を報告させて、同型艦に就き一定の標準消費量を定め置き、夫れ以上に消費したるものには其の超過消費高に應じ、或は一週間又は一晝夜、電燈の點燈を禁じ、夜は蝋燭を以て用を済ませと言ふ罰則を設けたるに、多大な節約が出来たと言ふ事が常時のネーバル・エンド・ミリタリー・レコードに掲載されてあつた。

 面白い實験であると思ひ、自分は夫れからべレスフォードが大好きになつて、今は故人であるが今でも尚ほ敬慕して居る。
(続く)

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(注1) : 既出、第8回をご参照ください。


(注2) : 艦隊司令部の幕僚の一人。 艦隊機関長の職務は、本稿の明治44年の段階では 「艦隊条例」 によって次のように規定されています。

「 第21条 機関長は司令長官の命を承け艦隊の機関船体及び兵器に関することを掌理し、各艦船及び諸隊機関長の職務を監視す 」

 これが昭和19年改正の 「艦隊令」 (大正3年に 「艦隊条例」 に替わり制定) では次のとおりとなります。

「 第40条 機関長は司令長官又は司令官の命を承け艦隊又は戦隊の機関、艦内工作及び航空機の整備並びに船体の現状調査に関することを掌り各艦船部隊の機関長、工作長及び整備長の職務並びに機関科員、工作科員及び整備科員の教育訓練を監視す 」

 なお、艦隊機関長は司令部の幕僚ではあっても参謀ではありません。 したがって、参謀飾緒は着けません (着けられません)。


(注3) : Charles Beresford  彼の経歴などについては次をご参考にしてください。



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2011年01月09日

『運用漫談』 − (20)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その8 (承前)

 或る人は善く部下を知り之れと恩愛の情を結び、『此艦長の爲めならば水火も辞せずと言ふ様に撫育して、部下を統御するを要す』 とて世俗の親分子分の様な関係を作つて得々たる人があるが、自分は軍隊内に於て親分子分の如き私的関係を作る事は一種の反逆行爲であると考へている。

 畏れ多き申分であるが、吾人の親分は 上御一人の外何人でも無い筈である。 親分子分の関係すら既に然りである。 藩閥、閨閥、財閥殊に級閥等の如き閥族的醜関係が軍紀風紀を撹乱するの大害に至ては、眞に以ての外なるものがある。 慎みても慎むべきは人事上の公平無私なる事である。

 尚ほ亦た有爲の士にして、甲の艦長の下なれば宜しきも、乙の如き艦長の下に於ては駄目なりと言ふ様な人物がある。 是等は如何に特種の技能を有するとも、軍人としては落第であることを忘れてはならぬ。

 以上は主として部下統御上心得べき事に就て述べたが、次には自分の頭脳其物の経済的運用に就て少しく陳べよう。

 一體仕事を爲すには、何事に係らず先づ足場を片附けて身體手足の運動を無碍自由ならしむる事が必要である。 頭脳の仕事も亦之と同様であつて、艦船の操縦其の他萬般の作業に取掛る時には、常に日常の雑務や人世の俗務の如きは片端から片附けて仕舞ひ、事に當ては何等の後悔や杞憂や関心を要するなからしめ、頭脳を全くクリヤーにして居る事が必要である。

 更に深く之を論ずれば、吾人は常に禅学的究竟心理に達し居るべきであるが、そんな理窟を言ふと又々脱線するから漫談の本位に返へる。

 頭を楽にするには仕事を成るべく簡易にする等が必要である。 例へば艦船の出港法に就ても如何に操縦すべきかに就ては千變萬化の遣方が有らうが、自分は常に之を一定して居つた。

 夫れは時の状況と港湾の形勢を見て、回頭方向を定めた。 以上は殆んど総ての場合に内方の推進器を後進半速となし起き、外方の推進機と舵柄のみを操縦して其位置に於て回頭すると定めてゐたのである。

 斯くすると、頭の使方は極めて簡単で艦の行足如何を見て外側推進器のみを操つて居ればよいので、何れかと言へば、舵柄も餘り動かす要を見なかった。

 此方法は一見迂遠な様なれども決して然らず、長い間の艦隊勤務中、決して他艦に後れを取らなかつたのである。 其内でも軍艦 「鹿島」 の推進機は内廻りであるから、大變むづかしいとの評判であつたが、矢張右の方法一天張でやつたが、少しも困難を感じなかつた。

 尤も駆逐艦等で強風に逆つて回頭するを要する時は、右の内側機を後進原速若くは全速にして急速に回頭するを要する場合もある。 又横附けをする時でも愈々横附に臨むときは、被横附艦に少し許りの角度を以て進み、外側舷の推進機のみを一寸後進を掛ければよい様にもつて行く事に一定して居つたが、頭が楽で時間も短く、仕事は大變楽且つ安全であつた。

 右の様に日常の事は大抵の事は夫れぞれ自己の判断で一定の規準を作つて置くと、部下も其気心を知り、萬事順調に行くのみならず、咄嗟の出来事があつても、臨機應變に頭を働かす事が出来るのである。 所謂運用の妙は一心に在りとは此の邊の妙諦を謡つたものであると思ふ。

 軍艦 「音羽」 であつたと思ふ。 営口に入港する時水先人を傭つた處が、水先人は 「音羽」 が両舷機であるを見て、片舷機で入港さしてくれと言ふから、何故かと訊くと、自分は常に単軸の商船のみを使つて居るので、両舷機を使ふと頭が混雑していけないからとの事であつたから、言ふが儘に運轉さした處が、見事に入港繋留したと言ふ。 味ふべき事である。
(続く)
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2011年01月06日

『運用漫談』 − (19)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その8 (承前)

 逸人が 「春日」 艦長を拝命したるは逸人に取りては始めての艦長生活である。 窮屈なる水雷艇駆逐艦に慣れたる眼には、一切が贅澤で勿體ない様な気がした。 其の一つは従兵である。

 従兵長は掌砲章を持つ三等兵曹で、其の下に掌砲兵一掌水雷兵一の水兵二名と従僕一人、其の他浴室當番として機関兵一名が毎日交代で来る様に成つて居た様に覚えてゐる。 どう考へても勿惜ない。

 それで副長を呼んで、従卒は総て特技章を持たざる徴兵で澤山である。 艦長一身の身の廻りを世話するのに、軍人の手を煩はすと言ふ事は只さへ不本意である。 殊に折角海軍で身を立て且つ御上の御用に立つ爲めに特種教育を受けたるものを 「気がきくから」 と言ふ位ひで、従兵の様な軍務外の用に使ふことは以ての外である。 尚ほ水兵二名を一名とし、其代りに機関兵一名を加へ浴室當番は廃したらばよからうと話し、其通りにした。

 此の機関兵一名を加へた事は、従兵の中に機関兵が一人居ると、電燈や浴室器具の故障、共他機関部へ使に遣る時等に萬事好都合であつたからである。

 右の如くして間もなく機関長来り、艦長が従兵に機関兵を取られたる爲め機関部は大悦びで大變部下が使ひよく成つたと言ふから驚いたのである。

 夫れで自分は只さへ少ない中から、新に役員を取つて気の毒に思ふて居るのに、却て大悦びだと言ふのは何故かと聞きたるに、役員の内にて艦長室従兵は最上の名誉とされて居る。 然るに今迄は内規で機関兵は士官室以上には使はない様に成つて居つたのに、夫れを艦長が打破されたから大悦びで、最も優良なる兵を選抜して出したとの事であつた。

 上来の事は洵に何でも無い事であるが、此の一事の爲めに艦内の調和が無言の中に旨く行き、一年有餘の間、南洋、印度洋方面等に於て無味単調なる警備勤務等に服したるも、少しも士気倦怠の事なく済ます事が出来た。

 其の後 「敷島」 に行き 「鹿島」 に行き、右と同様の経験を得たが、次で 「扶桑」 に行きたる時は、一般に機関兵が艦長室に使はれる様に成つて居つた。

 従兵一人の事が夫れ程の影響の在る筈はないと言ふかも知らぬけれども、人心の動きは極めて機微なるものがあるから、注意の上にも注意を要する。 著任初めの一寸とした事で、此の艦長は物の解つた艦長だと言ふ事が知れると、夫れから萬事はとんとん拍子でうまく行くものである。


 逸人が某水雷艇の艇長と成った時に、朝鮮の元山で赴任し、直に出港して鎮海湾松眞に回航した。 眞夏の暑い日であった。

 松眞に入港投錨し、防備隊司令官に敬意を表する爲めに上陸して行きつゝある時、背後より機関兵曹長が走り来り、『艇長今日は機関部が大悦びである、御禮を申上げます』 と言ふから、何故かと聞きたるに、『先の艇長は誠に用心深い御方で、入港等に中々時間が掛る、浮標を取る時等は殊に然りで冬季ならばよいが、暑中炎天の時に微速力停止等にて三十分餘もぐず附かれると、機関部は炒れ附く様である。 本日は入港用意の號令が掛つて五分間も経たざる内に 「機械よろし」 の號令が在つた。 機関部は大助かりである』 と。

 自分も一寸驚いたが、夫れから後は艇内の空気が非常によく成り、對州海峡 (対馬海峡) に於ける長い間の警備哨戒勤務中でも懲罰兵は一人も出さすに済んだ。

 又出入港の時に必要も無いのに、寒い前甲板に長く水兵を立たせたり、熱い炎天の時に機関兵の苦労も知らずに 「機械よろし」 を忘れたりすると、如何な名士でも直に全艦の兵員に馬鹿にされて、一切が旨く行かない様に成る。 注意すべき事である。

 右の様な事を溯つて辿つて行けば際限が無い事で、然かも極めて細微なる事で、つまらぬ様に見えるけれども、軍隊統御の要諦は斯様な機微なる點に在るものである。

 而して之等は殊更に考へて計畫的にやつても一時は成功するかも知れないが、長時日の間には化の皮が表はれて、却つて有害となることがあるから、一切は奉公の至誠と部下を愛する熱情の發露にして、自然に發したるものでなければならぬ。 自分は此の點を考慮して 『運用の妙は一誠に在り』 と唱へ来て居る。
(続く)

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2011年01月05日

『運用漫談』 − (18)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その8

 運用と経済は寧ろ同一語である。 筍も経済を無視する運用は、畢竟エネルギーの浪費にして、延いては國力の叛逆的消耗である。 英海軍の運用書に航海術を定義して

 航海術とは最も安全にして最も近距離なる航路を選擇する術なり。

 と書いてあるのを見た。 蓋し至言である。

 艦船の運用操縦は勿論、上は國策の遂行、戦略戦術の實施より、下は一塊の石炭一條の小索の利用節約に至るまで、海軍全般に亙り大小一切の事業、一として此の定義の外に出るを許されない。

 然るに世間には往々安全第一を唱へて徒らにエネルギーを空費し、甚しきは所謂 『事勿れ主義』 を金科玉條として重なる時間と莫大なる人力と燃料とを浪費し、一年の勤務を無爲に済せば以て我事了れりとするでも名士がある。

 一塊の煉炭一滴の重油も皆是れ國民の粒々辛苦の結晶である。 海軍存立の唯一理由たる戦闘能力の訓練向上以外に、決して其の浪費は許るされてない事を考慮反省せねばならぬ。

 又た自己の怠慢と不覚により艦船兵器を破壊し又腐蝕せしめて、恬として恥づるを知らざる没分曉漠が居る。 一個のボルト、一本のピンと雖、之れ亦國民の粒々辛苦の結晶たるのみならず、一朝有事の際に當りては其完備と否とは勝敗の數を定め、國運の消長に関することあるを銘記し、寸分の苟且偸安を許るさないのである。

 逸入嘗て某新任駆逐艦長より 『初めて艦長の重任を拝命したが艦長たるものゝ心得を訓へてくれ』 と問はれたるに由り、『一本のボルト一個のナットの破損と雖、其原因の何たるを問ふを許るさず、総て艦長自身の責任なりと心得よ』 と答へたるに、同駆逐艦長は之を座右の銘とせられ、優秀なる名艦長の名を博された事實がある。

 質の良を以て數の缺を補ひ、世界の平和と人道の支柱たる皇國々防の第一線に立つべき吾人海軍々人たるもの、豈に夫れ深思熟慮せずして可ならんやである。


 扨て経済的見地より視たる運用術は何を目標とするのかと言ふに、夫れは人と物と時の三つである。 而して人は精紳力體力の二つに分れ、物は其利用法と保存手人の二つに区分され、時は緩急宜しきを得る事である。

 人の運用に就ては之を精神的に見れば、人事行政を公平無私にし、適材適所を得せしめ、賞罰を明にして軍規を粛正にし、上下一致戮力協心の實を挙げ、常に士気をして倦まざらしむるにある。

 之を體力より見る時は、戦術其物にして動静常に宜しきに副ひ、虚實縦横、分合自在ならしむるに在る。

 然し斯様な大問題に就て、理窟を言ふ事は漫談の運用に非ずして乱用となるから、逸人本来の立場に還へり、ここに一老艦長として體験談を試みる事とする。
(続く)
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2011年01月04日

『運用漫談』 − (17)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その7 (承前)

 艦位保持の根本要求は汽醸軍紀にあると云ふたが、其の例証として逸人第七駆逐隊司令の時の實験を述べる。

 常時罐部員の汽醸能力を検定する爲めに、検定汽醸をやつたが、其の方法は碇泊中の或る一艦を指定し、其の一罐に臨時に排気管を取付け、發生蒸気は總て舷外海水中に放棄せしめ、焚火員の汽醸能力を測定するといふことになつてゐた。 而して之が爲めに行ふ豫備訓練も時々此の方法を取つた。

 自分は此の捨てる蒸汽が惜くてたまらない、何とかして之を航動用に利用する方法はないかと考へ、先づ自隊のみの検定汽醸法を作つた。 其の方法は何時でも航海四時間以上に及ぶ時を選び、一罐全力を原速力とし、各艦の乗組機関官を検定委員とし、艦隊番號順序若くは對艦毎に交代して乗組ましめ、汽醸成績記録を取らせることゝした。

 所がここに意外な成果を發見した。 それは右の如くして検定気醸を始めると、今迄隊列不整にして黒烟を吐き、寔に醜悪なる状態を呈して居つたものが、黒烟全く其の跡を絶ち隊列は令せずして整然となり、全四時間を通じて、艦長は殆んど回轉變更を要せなかつたが、愈々検定を畢り、検定委員を自艦に歸らしめ、再び行進を起すや、隊列忽ち乱れ、烟突は黒烟濛々と揚り、艦長如何に機関部を叱咤するも、何の効果もなかつた。

 爾後艦長は成るべく航海は検定汽醸に依ることゝされたいと懇請止まなかつたといふ事實である。 此の結果第七駆逐隊の隊形整然たることは戦隊中の評判となり、如何なる遠距離に於ても隊形により其の第七駆逐隊たることを知るを得と言はれ、司令の鼻の高さ三丈なりしが、其の秘傳は一に汽醸軍規の如何にあることを知らないものが多かつたのである。

 以上は主として艦位に及ぼす推進器の回轉に就て陳べたが、操舵手の巧拙も亦艦位保持に大なる影響を及ぼすものである。 而して操舵に就ても回轉同様、成るべく舵を動かさずして済む工夫を要する。

 前續艦が操縦拙にして列外に逸したるときの如きは、必ずしも其の航跡に従ふを要しない。 更に其の次の前續艦若くは旗艦を標準として進み、徐ろに前續艦の復歸を待ちつゝ其の航跡に入る様にすれば宜ろしい。

 又其の航跡に入るにしても、一々操舵を命令するよりも、前續艦の右舷端舟を目標とせよとか、或は左舷ヤーダーム (注1) を目標とせよとか云ふ具合にして、徐ろに前續艦の通跡に入り、漸次目標を換へて、其の正後に入る様にせば、遅い様でも實際は意外に早く列を正し得るものである。 注意すべきは、何事も気を利かすことである。

 機械萬能の今日、一切は數理的に行はれて然るべきである。 隊列の變化、航路の變更等に由て来る艦位の變動に對し取るべき處置に就ても、之れ又數理的に計畫し實行すれば宜しいけれども一瞬にして一切の機微を知り、機械と人力を浪費せずして、靈妙なる運用を全うすることは船乗の本領である。 敢て當事者の一助として以上の経験談を試みた次第である。
(続く)

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(注1) : yardarm、桁端。 元来は帆船の帆桁の先端のことですが、現代艦船においてはマストの横桁の端を指します。


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2011年01月03日

『運用漫談』 − (16)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その7 (承前)

 前續艦の艦尾に起る浪の状況も之に注意して居れば、それに依つて前續艦の推進器の回轉状況を推知することが出来る。 之れは大抵原速十二節のときは、半節位ゐの差迄知ることが出来た。

 前續艦の距離に依り、自艦の位置を正すに當つても、単に前續艦のみに依らず、先頭艦は勿論總ての前續艦の距離を測定し、其の全長の伸縮に留意し、始めて自艦の速力を加減する様にすることが必要である。

 自分は戦艦に長として四番艦若くは五番艦の位置に配せられることが多かつたが、常に旗艦のみを標準とし、其の間に在る僚艦は眼中に置かないといふ方寸でやつたが、左様にすると、僚艦も自分の艦に做つて位置を正すから、自然に全體の隊形が早く整ふ様に見えた。

 列中に在て測距器具に依らずして自艦の位置を知るもう一つの方法は、前續艦の艦尾に起る浪を利用することである。 前續艦の艦尾に超されたる何番目の浪は幾米の處に起るといふことを豫め研究して置き、自艦の艦首を何番目の浪に保ち居れば、定距離に在るといふことを會得する。 さうすると測拒器抔要らないのであつて、之を圖示すればざつと左の通である。

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 一寸考へると何でも無い様であるけれども、少し気を附けると、色々のものが参考となることがあるから如何に測距器が完備してゐても、之を萬能視せずして、諸般の現象に注意することが必要である。

 近来の艦橋の状況を見るに、當直の測距手は殆んど十秒おきに何百何十米、近づきます ・・・・ 遠ざかります ・・・・ と大聲で報告し、艦橋は八釜しくて仕様がない。 然し之を聞かないと一刻も安心が出来ないと云ふ當直将校や艦長がある。

 自分は大嫌ひで、一斉沈黙を命じたことは屡次であつた。 それで自分は考へた、測距器の指針を電気装置により、艦長の目前と機関室と汽罐室に表示することの出来る様な通報器が出来たらば、艦橋は嘸かし静かになるだらうと。 發明家に一つ工夫してもらひたい。

 艦隊の旗艦若くは先頭艦の回轉不良の爲め、全體の隊列不斉を来たす事例は非常に多い。 故に先頭に在る艦の隊列の不整は第一に自艦の回轉不良に基くものなるを想ひ、列の整頓を命ずる前に、先づ自艦の回轉を調整することに留意せねばならぬ。

 自艦の回轉を調節するに就ては、艦橋と機関室との心理的調和が必要である。 之が爲めには、當直将校は今より一層機械に関する理解を増し、當直機関官 (機関科士官) も隊列保持に就き研究するを要する。

 機械に對し無理解なる當直将校が餘りに馬鹿気た神経病者の様な命令を頻繁に下すと、機関部は奔命に疲るゝのみならず、正確なる回轉數を知る能はざる状況に陥り、遂には艦橋の命令を蔑視し、命令は通報器を往復するのみに止まることがある。 傳令は其の當直将校の聲を覚え、あゝ又あの當直将校かと言うて冷笑してゐる。 注意すべき事である。

 距離の調整の緩急と機関部に於ける命ぜられたる回轉數を得るに要する時間等をよく考察し、回轉變更の回數は可及的少數に止めることに留意し、常に自から當直機関室の位置にある考にてやれば、一切は無事圓満に運ぶものである。

 艦橋と機関室との連絡を完うするには、艦橋に於て常に當直の機関官と運轉下士と汽醸下士の名を知ることが必要である。 之が爲めには、毎直此等の人の名を航海日誌に記入して置くと宜しい。 斯くする事は何か機関部を壓迫するかの様に見えるけれども、艦橋に於て機関部員の技倆の優劣と苦心の情況とを知ることが出来て、それが相互の諒解の基礎となる。

 逸人第二艦隊副官の時である。 「磐手」 が旗艦で、他は新造の 「平戸」 型三隻であつたが、新造艦の事迚、回轉が仲々揃はない。 従つて隊列が整はない。 仍て各艦に毎直の當直将校と機関官の名を報告せしめ、旗艦に於て毎五分間に各艦の距離を測定し、統計曲線圖を作り、航海後各艦に回覧させることにしたが、隊列整頓上大に有効であつた。
(続く)
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2011年01月02日

『運用漫談』 − (15)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その7

 艦隊列中に於ける艦位保持法は測距器具の完備し、測距技術の向上せる今日、之を日露戦役以前の六分儀若くは目測に依る外、何等の依るべきもの無かりし昔に比較するときは、其の難易全く霄壌の差がある。

 従って昔日の苦心談をしても、今日格別の役にも立つまいと思はれるけれども、謂ふ所の船乗眼なるものは機械萬能の今日と雖も、千變萬化の稱ある海上に於ける各種の操艦術より、延いては指揮統帥其の他萬般に亙り、依然として其の重要性を有するを以て、つまらぬ昔話と雖も、運用術の心理的原則研究の資とするに足ると思考さるゝので、敢て逸人の経験談を試みることゝする。


 逸人が三等艇 (注1) の艇長心得 (注2) を拝命したのは中尉の晩年であった。 時の司令其中佐は仲々八釜し屋であつたが、距離を詰めて居れば御機嫌が良かつた。 それに距離を詰めて居れば、目測が比較的精確で、位置の保持も容易であつたから、自分は常に前續艦との水面距離を十五米に保つことに定めて居つた。

 當時の三等艇にはテレグラフ (注3) は無い、無論回轉指示器等も無い。 艇長の立つて居るカンニングタワー (注4) と機械室との通信は唯一本の傳聲管のみであつたが、それで萬般の要務を辨じたもので、面白い事には、罐前よりカンニングタワー迄スチームパイプを導き、其れに壓力計 (マノメーター) を附してあつたから、艇長は何時でも汽罐の汽醸状態を知ることが出来た。

 艇長に赴任して初めて艇隊で出動した時の事である。 艦隊運動が始まつたものだから、艦位に注意して居ると、他の艇は位置を八釜しく言はるゝのに、自分の艇は少しも小言を喰はない。

 旨いわいと自惚れつゝ、一寸後方を見ると、乗組機関兵曹長が、(田中と云ひ、文字の無き男なれども、實地に掛けては抜群の誉れがあった。 之れが機関長である。) 機関室入口のハッチに腰を掛け、掌を上下して、何か機関室に合圖をしてゐる。 何事かと思つて聞いて見ると、機関長から距離を目測して、機械の回轉を増減しつゝあり、何も艇長を煩はす要がないのである。 自分は開いた口が塞がらなかつた。


 常時艇長として何に依つて艦位を保持したかと云ふことに就き、測器に依つてやることは誰しもやることであるから之を説かないことゝし、其の他に就て愚見を述べる。

 元来艦位の保持は機械の回轉の正確に在る。 而して固轉の正確は汽醸状態の正確にして不變なるに在るから、罐前の汽醸軍規の如何は直ちに艦位の正否に影響する。 従つて何よりも汽醸状態を知ることが大事である。

 前きに述べたる如く、カンニングタワーに汽壓計があつて、自艦の罐前の状況が明かであるから、之に對して機関部に注意すると、一度定めた回轉數はそんなに變へるに及ばない。 前續艦との距離も、距離を測るよりも共の汽醸状態に注意することが必要である。

 而して其の汽醸状態を知るには烟突から出る煤烟の状況で能く判る。 黒く濃い煤烟を出すときは、前續艦の蒸汽が下らんとする前兆であるから、自分も回轉を減らすことを考へる。 之れに反して前艦が煙を出さずに徐かに陽炎を吐いてゐるときは、其の汽醸状態が極めて良好なることを示してゐるから、斯様なときは自分の回轉を増すことに留意せねばならぬ。 此の事は前續艦の總てに對しても、此の留意を要するのみならず、後續艦に就ても亦然りである。
(続く)

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(注1) : 三等水雷艇のこと。 当時は20トン以上70トン未満のもの。


(注2) : 当時水雷艇の艇長は内令定員として少佐又は大尉と規定されていました。 したがって人事補職上一階級下位のものがその職に就く場合は 「心得」 として発令されました。 当然その職にある間に進級すれば 「心得」 は外れます。


(注3) : Telegraph、通信器  単に 「テレグラフ」 と言った場合は、通常は 「速力通信器」 のことを指します。


(注4) : Conning Tower、司令塔



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2010年12月27日

『運用漫談』 − (14)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その6 (承前)

 「運用の妙は一心にある」 と云ふことは意味が判然しない。 「運用の妙は一誠に在り」 だ。 唯夫れ至誠初めて神に通ずる。 神謀鬼策も至誠から出たものでなければ嘘である。

 又た自分は運用の眼は八方に在りと主張する。 何事も馬車馬的ではいけない。 四圍八方に著目して居れば、初めて萬全の途が見出せるものである。

 霧中航行の際は、正横後も時々見る必要がある。 霧には切れ目があるから、前に見えずとも後に見ゆることがある。 又水深を測りて、艦位を定めることも大に利用せねばならぬ。

 之れが爲めには英國の海圖は誠に好く出来て居る。 軍艦 「鞍馬」 「利根」 が英國を一周した時、同國北海岸は殆んど霧中であったが、海圖と測深に依て、安全に航海が能きた。

 軍艦 「春日」 で、印度洋で連日濃霧に悩まされ、只太陽の方向一つ (水準線見えず、高度不確實) で艦位を確かめつゝコロンボに入港したことがある。 「敲けよ開かれん」 だ。 考へれば手段は幾らでもある。

 位置を確實に知る爲めには、自己の運動を可及的正確にすることが必要である。 速力を無暗に變更したり、針路を無茶苦茶に變更したりして、航海長に正確な位置を記入せよと云ふのは、無理な注文である。

 逸人或る年の演習で、審判官として某旗艦に乗つてゐた時の事である。 伊勢湾を出た艦隊は海流に押されて、豫定より早く伊豆諸島の南西に近づいた。

 雨天で霧模様で、艦位が定めにくい暗夜であったが、其の暗中に在て、右往左往、丸で無方針に漂泊して、夜を明かすことになつた。

 此の潮流の強い處で此の行動だ。 自分は船乗として見るに見兼ねて、参謀に對し、

 『 少くとも時間速力を一定して、針路は可成八點か四點宛と定めて行動し、艦の位置を推定するに便利の様にしたらよからう、さうすれば陸岸に接近する危険も比較的少からう 』

 と忠告すると、それから其の様に行動した。 それでも、翌朝濃霧の裡に三宅島を発見した時は、何んでも十浬程の誤差があり、其の他の各隊は之れ以上の誤差があつたとか云ふことである。

 因に此の演習は濃霧の爲め、両軍殆んど相見えずして了つたのである。 何でも無い様だが、大事のことゝ思ふ。

 又艦位を確實にするには、各速力に對する機関回転を確實にして置くことも必要である。

 逸人嘗て曇天の暗夜、咫尺も辨ぜざる中で、館山湾に於て、全然自己の時計のみにより變針行動し、水雷艇隊を率ゐて、湾内深く碇泊せる軍艦 「扶桑」 を陸方面より襲撃した事がある。

 那古北條海岸の岩礁の如きは、僅に二百米を離して潜航したが、平常の測程に誤差なきを知つてゐたから、何等遅疑する所がなかつたが、後から航跡を入れて見ても、少しも誤算は無かつたのである。

 「扶桑」 は全く豫想外の處から襲撃されたものだから、水雷を全部發射する迄気附かなかつた。 遣れば遣れるものである。

 斯様な事を数へ立てれば果てしが無いから、此の邊で筆を止め、次には艦隊の列中に於ける艦位の保持に就て書いて見よう。
(続く)
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2010年12月23日

『運用漫談』 − (13)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その6 (承前)

 されば常に自己の艦位を確實に知るには如何にすべきかと云ふに、海上の情況は千變萬化であつて、一々之に應ずるは到底人力の及ばない所であるが、只船乗リとして不断の注意を怠らない様にするの外はない。

 逸人の先輩某艦長が

 『 水雷艇乗りは當直将校として最も安心され得るが、航海長としては最も不安心である 』

 と言はれたから、其の理由を聞くと、水雷艇乗りは當直中に種々の手段を盡して艦位を測定し、記入してくれる風があるから、安心して船を任せるが、之れを航海長たらしむると、乱暴な航路を取るから危険だと言はれた。

 要は此處に在る。 海上は文字通リ流動性であつて、船は汽車の如く軌道を走つてゐない。 従つて航行中決してぼんやりして居ることを許さない。 目に觸るゝ一物だも之を等閑に附してはならない。 機に應じ變に臨み、時々之をチェックして置くときは、圖らずも是が其の用を爲し、不慮の災害を避けることが能きる。

 前述甲軍の錯誤は全然天測のみに信頼した結果で、當日午後二時頃迄は〇〇崎の山頂が見えて居つたから、之をチェックすれば、艦位の東偏は速に分明したらうと思はる。

 此の演習の終りに、第二戦隊が横濱港口から磐州鼻沖に回航し、指定の泊地に就いたことがある。 此の時朝霧があり、展望極めて不充分で、横濱から第一艦隊は見えなかつた。

 戦隊は豫定の針路を東行したが、間もなく羽根田南方の浮標が見えたから、艦位は直ぐ測定が出来、それから東方に第一戦隊の艦影を認めることが能きたが、其の方向は第二戦隊の艦首よりは寧ろ右方に見え、其の位置の不正なることは一目瞭然であつたが、旗艦航海長は之に気附かずして、位置不正なる一戦隊を基準として自から針路を南方に轉じ、豫定の行動を取つたから、戦隊が碇泊位置に就かんとして反轉する際は、殆んど海岸の四尋線に接近し居り、自分は非常に危険を感じたが、幸に無事であつた。

 後とで旗艦航海長に之を訊いた所、航海長は驚いて位置を測定して見た。 すると艦隊旗艦の位置は一浬餘南方に偏してゐることが知れた。 之れは一に艦隊旗艦の位置を正確なるものと過信したのと、又た旗艦が平然として標準旗 (注1) を掲げ居り、自己の位置の偏して居ることを知らせなかつた爲めである。

 尚ほ千葉沿岸に接した時、陸上のピッケット (注2) や附近の浮標抔を見ても、位置の偏してゐることは容易に判つたのである。 顧慮すべきは過信であると同時に、四圍の状況に注意し、自己の立場を確認是正することである。


 軍艦多摩で、暗夜に栗田湾 (注3) に入港したことがある。 粟田湾に臨む迄は、経ケ崎や博奕崎の燈光により、艦位を正しくすることが能きたが、愈々奥の方に入り錨地に就かんとしたる際は、燈臺の利用すべきものが無いから、左方に突出して朧ろ気に見ゆる山頂を唯一の目標とし、共の方位により錨地に就かんとしたが、方位の變ずるに従ひ山形も變化するから、測定は刻々に不正確に陥る傾向があった。 愈々投錨して見ると、大變左方に偏位してゐることを知り、錨地を變更した。

 此の際愈々錨地に向つた時に、艦首に當つて民家の顕著なる燈光があつた。 今若し之を目標として、測距儀で距離を測り、艦位と燈光の関係位置を定め、爾後距離の變化に依り錨位に進めば、何の苦労もなく、又た極めて確實安全であつた筈だ。

 失禮な言分だが、「阿房の一つ覚え」 といふ諺がある。 大学校や航海学校を出た自称机上戦術家や運用家には、こんな手合が可なりある。 留意すべき事だ。
(続く)

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(注1) : 海軍の旗旒の一つである 「番号」 旗の別名  この旗旒1つを掲げた場合には、当該艦が部隊 (艦隊) 全体の運動の基準となることを表します。

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     この旗旒の詳細な使用方法については、本家サイトの 『史料展示室』 で公開しております 『海軍信号規程』 (昭和18年海軍省極秘第435号別冊) をご参照ください。



     なお、この旗旒を 『万国船舶信号旗』 (現在の国際信号旗) として使用する場合は、第2代表旗 (Second Sub) となります。


(注2) : picket  本来は先の尖った杭のことですが、ここではその様な形状で顕著な方位測定上の目標となるもののことを言います。


(注3) : 舞鶴と天橋立のある宮津湾との中間にあり、訓練中などの仮泊地としてよく利用されるところです。


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( 元画像 : Google Map より )
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2010年12月22日

『運用漫談』 − (12)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その6

 大凡自己の位置、即ち立場を正確に知るといふ事は、一切の事に處するに必要である。 人間としても、頭相應腕相應に其の止まるべき立場がある。 之を忘れると不平が起つたり、又沐猴にして冠するものとして笑はれたりする。 注意すべきは常に自から反省して、自己の立場を確認する事である。

 艦船の運用に當つても、此の自己の位置、即ち自艦の位置を確實に知ると云ふ事が何よりも大切である。

 一切の運用は自己の位置を知って之を根基となし、以て初めて行動を起すべきものである。 一切の失敗衝突坐礁等は殆んど其の総てが、自己の位置を誤認して盲動するから起るものであると言うて差支へない。

 近頃は艦船の運用航海に使用さるゝ諸機械が非常に發達して、逸人等が大尉時代に比べると、天測用具も天測諸元も従つて天測計算法等も非常に進歩して簡単に成り、測距器具も殆んど完成の域に達し、全く隔世の感がある。

 然るに尚ほ衝突坐礁等が共の跡を絶たざるは何故乎。 共の原因は色々あらうが、機械が發達するに従つて、船乗の自艦の位置を確認すると云ふ注意心が薄れ来つた事も其の一因なるべしと思ふ。

 漫談第二第三の二回に亙る逸人の失敗談も、其の歸する所は一に自己の位置を知らずして盲動したと云ふ事に基因する。

 ヂュツトランド海戦に於て、英将ヂェリコーがビーチー将軍より接敵の報に接し、縦陣列から戦闘序列に展開するに當り、少くとも廿分間ぐづついたために、獨逸艦隊の先頭を十分に包圍壓迫するの機を失し、之を殲滅するの好機を逸したのは、主として自己の主力とビーチー隊の艦位に約十浬餘の錯誤ありて、獨逸艦隊の位置を正確に知ることが能きなかつた爲めである。

 而して當時海上靄霧の爲め、展望十分ならざ少し事は、ジェリコーの行動を大に掣肘するものありしとは云へ、敵弾が既にビーチー隊を飛越え、ジェリコー隊最右翼列の先頭艦バーラム號附近に落下しつゝあるに係らず、尚ほ自隊の推測位置に膠著して、率然として好機に應ずる能はず、遅疑逡巡したる形跡のあることは、将軍の爲め採らざる所である。

 近頃の艦船には、艦橋附近に作戦室が出来てゐて、非常に確實に作戦計畫を廻らすことが能きる様になつてゐる。 併し餘り作戦室の作戦に膠著して、活戦場の活機を掴むことを忘れると、飛んだ恥をかくことになる。

 ジュリコーの此の失策も、此の様な事に原因して居るのではないかと思ふ。 此の様な例は日本でも、演習等で屡々有つた事ではない乎。 注意を要する。

 一瞬時の燈光の漏洩、一首半句の無電が勝敗を決する本源となることを知らねばならぬ。

 某年度の大演習に於て、某地沖に於ける最後の甲乙両軍主力の對抗戦の時に、甲軍が自己の艦位に廿浬餘の誤測あるを知らざりし爲め、豫期に反して日没頃乙軍と行違ひの状況となりたることを知り、反轉して再び夜戦に移らざるを得なかつたが、常時乙軍水雷戦隊の勢が十分でなかつたのは、甲軍の幸とする所であつたけれども、若し乙軍にして十分の水雷戦隊勢力を有してゐたとすれば、甲軍は相當の損害を蒙つたことであらう。

 斯様な實例を算へ立てると、大は艦隊よリ小は一艦一艇に至る迄、其の實例は蓋し枚挙に暇がない。
(続く)
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