2011年01月12日

『運用漫談』 − (21)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その9

 人の運用に就て今少しく書きたいが、どうも理に落ちていかないから、時と物の運用に移る。

 運用は最安全にして最近の航路を取る趣意上、時と物とは相関聯して離れざる関係にあるから、一處にして書き立てる事にする。

 軍艦 「鞍馬」 で遣英艦隊 (注1) に派遣せられた時の事である。 印度洋を過ぎ紅海に入りしは四月の末なりしも、熱帯圏に在る事とて中々暑い。 然るに士官室を見ると晝夜共電燈を點じ、電気フアンは全力運轉をやつてゐる。

 其の下で汗だくで仕事したり、遊んだりしてゐる自分は、之を見て馬鹿々々しくてたまらんので、そつとスヰツチを切つて、電燈は實際必要なるもの丈け残す事に力めつゝあつた。

 ところが暫らくして艦隊機関長 (注2) から、水雷長、君はえらいことをやるネ。 何故に電燈を消すかと言ふから、第一此の暑いのに不必要な電燈を點ずるが爲めに、どれ位い士官室が暑くなるか知れない。 熱い電燈の中でフアンを掛けて、其の下で汗だくだくだ。 當世百馬鹿の好標本だ。 自分の室には二十四時間中三十分とは點じないから非常に涼しい。 夫れに電気の浪費だ。 電燈を少しばかり消した迚、何もならんか知らんが、煉炭一つ節約が出来てもよいぢやないか、と申したるに、水雷長、えらい、機関官が君の半分丈けでも燃料に気を附けてくれたらなア、と連りに感嘆せられた。

 二十四時間に百数十噸の石炭を消費して居る電燈を消した位いで、どうなるかとは、機関官始め士官室連の輿論であつたが、自分は此の心が大事だ、利益の大小ではないと信じて疑はないから、海上に於ける全生涯を通じて此の主義は變へなかつた。 今でも變へない。

 第一水雷戦隊司令官の時に、旗艦は 「龍田」 であつた。 前任司令官より 「龍田」 の司令官室は艦橋の直ぐ下で便利だが、夏は熱くて夜なんど寝られないとの申し繼ぎで有つた。

 自分は夏の夜は書見の時の外は一切の燈光を自分で消した。 さうすると副官や従兵が来て點燈する。 − 自分が消燈する − 言うて聞かず − 初めは中々骨が折れるが、間も無く命令が行はれるやうになると、艦内中で一番涼しい室に成り、幕僚連を羨ましめたが、幕僚連は依然として點燈してフアンを掛けて平気だ。

 「龍田」 級で碇泊中艦内全部が此の主義でやれば、どれ位ゐ平常用燃料が節約されたであらう。 又夏如何に艦内が涼しかつたであらう。 度し難きは縁無き衆生である。

 英国で有名な運用家チャアルス・べレスフォード大将 (注3) が、地中海艦隊司令長官で在つた時である。 艦隊命令で各艦に毎月の平常用燃料消費高を報告させて、同型艦に就き一定の標準消費量を定め置き、夫れ以上に消費したるものには其の超過消費高に應じ、或は一週間又は一晝夜、電燈の點燈を禁じ、夜は蝋燭を以て用を済ませと言ふ罰則を設けたるに、多大な節約が出来たと言ふ事が常時のネーバル・エンド・ミリタリー・レコードに掲載されてあつた。

 面白い實験であると思ひ、自分は夫れからべレスフォードが大好きになつて、今は故人であるが今でも尚ほ敬慕して居る。
(続く)

======================================

(注1) : 既出、第8回をご参照ください。


(注2) : 艦隊司令部の幕僚の一人。 艦隊機関長の職務は、本稿の明治44年の段階では 「艦隊条例」 によって次のように規定されています。

「 第21条 機関長は司令長官の命を承け艦隊の機関船体及び兵器に関することを掌理し、各艦船及び諸隊機関長の職務を監視す 」

 これが昭和19年改正の 「艦隊令」 (大正3年に 「艦隊条例」 に替わり制定) では次のとおりとなります。

「 第40条 機関長は司令長官又は司令官の命を承け艦隊又は戦隊の機関、艦内工作及び航空機の整備並びに船体の現状調査に関することを掌り各艦船部隊の機関長、工作長及び整備長の職務並びに機関科員、工作科員及び整備科員の教育訓練を監視す 」

 なお、艦隊機関長は司令部の幕僚ではあっても参謀ではありません。 したがって、参謀飾緒は着けません (着けられません)。


(注3) : Charles Beresford  彼の経歴などについては次をご参考にしてください。



posted by 桜と錨 at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月13日

『運用漫談』 − (22)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その9 (承前)

 島村 (速雄) 大将が 「初瀬」 艦長の時であった。 常時の機関長は一寸奇人で中々いける方で、飲むと随分やつた人であつた。

 一日艦内點検があつて機関室内の倉庫に行かるゝと、麻の大きな袋が二個有るから何かと問ふと、機関長は之に答へて之れはオークム (注1) である。 機械の磨き手入には此のオークムが一番よい。 之れは自分が毎朝甲板流しの跡を歩いて、甲板に散つてゐるスオーブ (注2) の切れ端を拾ひ集めて作つたものであると言はれると、島村艦長内心大に驚かれ、此の人にして此の用意あるか、我れ人を見る明無かりけりと感ぜられ、間も無く定期進級の時来り、機関長は一躍大佐となられたのである。

 帆船時代にはこんな事は當然であつたが、「初瀬」 時代には大半忘れられて居た。 現代はオークムを知らない甲板士官や副長が居られはせんかな。 三省すべきである。 悪口は扨て置き機関長の進級祝ひは又格別で、佐世保中の大評判であった。

 煉炭の一塊やオークムの一袋なんて、けちくさい事を言ふ勿れと冷笑するだらうが、勝敗の決する基は此處に在る。

 佛國革命戦争の時である。 ネルソンが佛蘭西艦隊をツーロンに封鎖し、之を my fleet と称し三年間もツーロンの沖に頑張て封鎖して居つた時である。 佛蘭西艦隊は港内に在つて物資豊富だから準備萬瑞到らざる無きに係らず、ネルソンは始終洋中に在つて風浪と闘ひ、且つ交通不便の上に、時の海軍大臣が非常に経費節約に八釜敷かりし爲め、修理材料など容易に送らないので、ネルソン艦隊の貧乏さと来ては驚くばかりであつて、ネルソンも随分不平を言ふたもんだが、慥か前後三回であつたと思ふ。 フランス艦隊は脱出を企てたが、出る度毎に暴風に遇ひ、佛艦隊は帆は破れ、マストは折れ、ほうぼうの爲體で逃げ還つたが、ネルソン艦隊は平然として少しも港外を離れなかつたのである。

 海上に於ける技能の熱否の差もあるが、兎に角物の節約と時の利用にはネルソンが如何に巧妙であつたか、想像に餘りある様思ひ忍ばれる。 英佛両艦隊勝敗の原因は慥かに此處に基因してゐる。


 第三水雷戦隊司令官の時である。 軍艦 「平戸」 が旗艦であつた。 「平戸」 の艦長室浴室にある湯沸器は、建造當時は最新式であつたが、具合が悪いと言うて之を使用せず、湯沸器の上部に別に蒸気管を取り附け直接蒸汽で湯を沸かして居つたから、自分は左様の筈は無い、湯沸器を生かして使へと命じて手入をさせ、やつて見ると立派に使へるのみならず、あのギヤーギャー言ふ八釜しい音 (注3) も無く成り非常に具合がよい。

 處が使つて見ると湯を沸かした蒸気が復水して、ドレーン (注4) となり湯船の中へポチポチ落ちて居る。 湯は鹽湯 (注5) であるから之れは無益と思ひ、右のドレーンパイプを湯船の外に出し洗濯罐に受けさせて見ると、一度湯を沸かす爲めにウォシタブ (注6) の 「大」 一杯と 「小」 一杯の清水が取れ、而かも夫れで幕僚一同の顔洗水に使つて餘り在るを知り、後には隊内の餘材を以て立派な清水タンクを作り、之れに右のドレーンを垂らし込む事とした。 之れで見ると幕僚用として毎日 「大」 一杯のウォシタブの水を、只捨てゝ居つたのである。

 其後は此の様な諸點に気が附かれたと見えて、今日のドレーンは総て密閉式となり、一滴も只は捨てない様に成つて居るから結構であるが、今でも不注意から蒸汽と清水の浪費は驚くべきものがあらうと思ふ。

 逸人が一塊の煉炭と雖も、皆な國民の粒々辛苦の結晶なりと絶叫するは此處である。 注意の上にも注意すべきである。
(続く)

======================================

(注1) : Oakum、槙肌 (まいはだ)。 本来は古い麻索などを解して麻屑のようにしたもののことで、艦船の板目の隙間に詰めて漏水を防いだり、機械類の油汚れの清掃などに用いられました。


(注2) : Swab  モップ、棒雑巾のこと。


(注3) : 金属パイプを通して蒸気を浴槽に流すと、その流量によってはバルブの所を中心にパイプの振動で大変に喧しい音が出ることがあります。 これは現在の艦船でも同じです (^_^;


(注4) : drain  排水又は漏水するもののことですが、このことから正規の使い道のないような水 (液体) のことも意味します。 ここではいわゆるポタポタ落ちる “水滴” のことです。


(注5) : いわゆる 「海水風呂」 です。 真水節約のためで、特に航海中は艦長と言えども通常はこの様にしました。 慣れると真水よりも体がポカポカと温まって、健康上も良いと言われています。 海自でも昭和40年代頃までは時々海水風呂だったことがあります。


(注6) : Wash Tub、洗い桶のこと。 旧海軍・海自の艦船乗員は通常これを 「オスタップ」 と呼びます。


posted by 桜と錨 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月16日

『運用漫談』 − (23)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その9 (承前)

 入浴に就て序に今一つ陳ベる。 艦長になると、艦長一人でバスを有つて居り、而かも夫れが清水である。 随分贅澤だ。 夫れで自分は湯は深さ一尺以上は不用とし、又別にバケツを備へさせ、湯船の上に幅一尺餘の板を供へさせ置き、沸ひたる湯をバケツに取り、右の板の上に置き、ちと不潔の様だが掛け湯を使はず、直に湯船に飛び込み、其儘で石鹸を使ひ垢を落したる後に、バケツの湯にて顔を洗ひ、身體を流して入浴を終る事 (郵船會社等の客船、洋式ホテルの浴室附き客室は大抵此の式の筈) とした。

 斯くすると清水の節約が出来るのみならず、汚れる處は湯船の中のみなる故、自分で掃除が出乗るのみならず、あの大きなグレーチング (注1) を少しも濡らさぬことになる。 従って従兵の努力を省く事夥しくものがあり、且つ浴室が何時も乾燥して居り気待もよいし、尚ほ又船體保存上非常に爲めになる。 尤も使用後の湯を他に利用するとか、又旗艦抔にて幕僚が利用する抔言ふ時は此の限りでない。 織田信長は爪を摘んで人物を試したと言ふ。 眞理は脚下にある心すべき事と思ふ。

 近頃の艦内では蒸溜水を使用する爲め、清水の供給が豊富だ。 従つて其の浪費も夥しい。 昔の帆船時代の人に見せたら驚死するだらう。 今日水の節約抔八釜しく言へば天保銭 (注2) 何を言ふかと嘲けるであらう。 然かし艦内に於て一升の蒸湖水は幾多の労力を要し、値ひ幾許銭なるや、ビールより高價のものではないか。

 又二十燭光一個の燈火が、一時間幾銭を要するやを計算せよ。 而して士官室で王公の如く威張つてゐる士官様御自分の家に還れ、然かく浪費し、然かく乱用する事が出来るか、又さうせねば士官様の資格が保て無いか。

 物を乱用するのみならず兵員を乱用する。 私室の整頓士官室の整頓一切は、従兵の仕事とし遣りッぱなし取散らし、入湯するや従兵二人も呼んで背を流さしたりして、寧ろ得意として居るに非ずや。

 自分も元来不始末の風がありて、常に自から愧ぢて居る。 此の十數年来自分の寝具は必ず自分で仕末する事とし、之を自分の修養としてやつて来てゐる。 朝早く起きて自己の寝具を仕末し了る時の気持は實によい気特である。

 東郷大将は皇國の興敗此の一戦にありと信號された。 自分は皇國の興敗は寝具仕末の一拳にありと、毎日信號してゐる。 自分の事は自分にせよだ。 修身斎家、治國平天下だ。 一身の仕末が出来て始めて一艦が整ひ、全艦隊を統率する事が出来るのだ。 敢て青年士官の反省を望まざるを得ぬ。

 悪口序でにもう一つ言ふ。 水交社抔に行くと、大聲で給仕を呼びくだらぬ事を罵つて居るエライ士官様を屡々見て苦々しき思ひをさせられる事が多い。 水交社丈けでも呑気に、と言ふ事は考へんでも無いが、今少しく紳士的にやられたらどうだらう。 威張る丈けが能でもあるまい、威張る奴はまさかの時にくた張る奴と知れだ。
(続く)

======================================

(注1) : Grating、格子・スノコのこと。 ここでは浴室の鉄甲板 (又はタイル張り) の上に敷かれた木製のスノコのことです。


(注2) : 一般的には陸軍大学校の卒業者が佩用する徽章のことで、転じてその卒業者を指します。 徽章の形が天保銭に似ていたことからこう呼ばれました。 海軍大学校でも明治25年に制定され、明治30年に新しい徽章となってから大正11年まで用いていたことがあります。 したがって、実際には本稿執筆時には既にありませんが、ここでは海軍大学校卒業者を指します。 なお、著者の大谷中将自身は海軍大学校を出ておりません。


posted by 桜と錨 at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月19日

『運用漫談』 − (24)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その9 (承前)

 畏れ多い事であるが、有栖川威仁親王殿下が、横須賀海兵團の後任分隊長であらせられた時の事である。 殿下は水兵と共に起床され、水兵と同時に朝食を召上られるのを常とされた。

 常時の士官室士官も、随分行儀が悪くて夜ふかしをして朝寝坊、八時頃起きて来て食事をして、ヤレ汁が冷いの不味の、何んのと口汚なく従兵や賄を罵り散らす。

 或時一番分隊長が盛に賄を罵倒してゐるので、殿下は御静かに一番分隊長、僕はネー、朝早く頂くが、朝早く頂くと、此の御汁でも大變おいしいよと、仰せられたので、一番分隊長の顔は、見る間に赤くなり青くなり、冷汗背を潤ほすと言ふ有様。

 夫れから一番のみならず一同が大變お静かに成つたとの事である。 反省せよ。 殿下に對して顔を赤くせねば成らぬ青年将校は居ないか? 居なければ幸である。

    下るほど見上げらるるや藤の花


 電燈節約で八釜しく言ふたが、時と場合を考へぬと大恥をかく事がある。

 「春日」 艦長の時 (大正5〜6年) である。 新嘉坡方面に出勤せんとし香港に入港した。 士官達は上陸して遅く歸航したが、翌日其訴ふる處によると、昨夜支那船の船頭に大に軽蔑されたと言ふ事である。

 それは 「春日」 は日本に於ける例規により、毎夜十一時には電気燈を消して石油燈に代へる事に成つて居る。 之は石炭の節約と労力の節約の爲めである。 處が右の士官達が船頭に日本軍艦 「春日」 に往けと言ふと、船頭笑つて日く、ジャパン・プーアー、ジャパン・プーアーと言ふ。 其の理由は在泊艦船は何れも終夜電燈を點じ居るに、「春日」 丈け薄暗い石油燈を使用してゐるからである。

 自分は其の談を聞いて吾れ誤てりで、直に終夜電燈を點ずる事にした。

 今日の軍艦の舷門には、其の手摺に添うて三つ若くは四つの電燈が點いて居るが、あれは英国皇帝の戴冠式に参列した遺英艦隊の輸入である。 夫れ迄はドンナ高い舷梯でも、燈火は其の最下段に一個丈けで、而かも油燈であつたから、誠に陰気臭いものであつた。

 従つて上陸して夜る晩く歸へる時も陰気臭いので、自然陸泊したい様な気分に成るのであつたが、舷梯に多数の燈火を點ずる様に成つて、陽気で歸艦するのが愉快に成つた。 一寸した事が豫想外の好果を得る事がある。


 節約の序でに一つ機密費の節約に就て書いて見る。

 大戦中海峡方面の警備の時である。 艦長の機密費は一年二百圓であつた。 之では自動車にも乗れない、所は熱帯地方である、汗だくで総督訪問、夫れこそ國辱である。 自動車会社 (邦人経営) と契約して半額にして貰ふたが、夫れでも自腹を切らねばならなかつた。

 併しまあ夫れはそれでよいとして、一番困つた事は外国人招待である。 數ヶ月も居れば其處其處で招かれて御馳走に成るから、時には返禮に接待せねば成らぬ。 御馳走は立食位にすれば至極安値に行くが、記念の御土産をせがまれるので、夫れには大に苦心した。

 水兵帽のペンデントが大に賞美されるのであるが、いつもいつもペンデントと言ふ譯に行かず、ふと思ひ附いたのが日本製烟管とキザミ烟草である。 之は大變珍重がられて、ドンナ富豪の令嬢でもキヤツキヤツ言うて嬉しがつたのである。 其の價は驚く勿れ四十銭であつた。

 又た或る艦長は油繪が上手であつたが、平常暇に任かせて繪ハガキを塗りちらし、それを贈り物としたが、大變喜ばれたとの事である。 藝は身を助けるとは此の事である、嗜しなむべきである。
(続く)
posted by 桜と錨 at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月20日

『運用漫談』 − (25)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その10

 逸人教育本部 (注1) に居た時 (明治42年〜44年) の事である。 竹敷要港部の魚雷検定發射が鎮海湾で行はるゝので、其の視察に出掛けた。 昔時の魚雷検定發射は固定標的に對し航路標を沿うて航走しつゝ發射するので、今日から見ると、幼稚極まるものであった。

 發射終了し歸途に就かんとした時に、要港部幕僚より、竹数は附近に適常なる魚雷發射場なき爲め、何時も鎮海湾に来て發射する。 従って往復に日子を要し、規定されたる出動日数 (出動日数は一箇月一週間かであつて航海加俸の都合でかう制限を附せられて居つた) と燃料丈けでは不足で、一つ事業を施行せば他は何事も出来ないから、東京へ歸つたら出動日数と燃料を増額する様取計つて呉れ、との注文を受けた。

 自分は之に對して、夫れは意外なる要求である、自分は諸作業を行ふに竹敷程良い處はないと思うて居る。 呉や横須賀邊では港を出れば直ぐ魚雷發射や艦砲射撃が出来る。 然れども湾内平水であるから、船乗として訓練が出来ない。 之れが爲めには、態々計晝を立てゝ出掛けねばならぬ。 然るに竹敷では港を出れば直ぐ洋中である。

 今若し自分をして艇隊の行動を計晝せしめるならば、夕刻若くは夜中に出港して對馬海峡内で種々夜戦の稽古を行ひ、翌朝射場に達し射場を構成し、射撃若くは發射作業を行ひ、若し其の日済まねば其位置に投錨し、翌日引續き作業を継續し (常時の魚雷は今日の如く發射毎に分解調整を行はず、同一魚雷を五、六回も連續發射したものである) 發射終れば其の夜引揚げ、途中又た各種想定の下に演習訓練をやりつゝ竹敷に歸へればよいから、之れを呉などに比すれば、どれ位都合が良いか知れない。

 然るに鎮海で魚雷發射を行ふからと言うて朝方竹敷を出て夕刻馬山浦 (注2) に著き、上陸を許るし、翌朝射場に行き、發射を行ひ、夜は又馬山浦に歸つて上陸し、翌朝又射場に出掛け發射了れば又た馬山浦に歸へり、共翌朝のそのそ馬山を出て竹敷に歸へると言ふ様にするから、多大な時間と燃料とを空費し何の得る處無くして終るのだ。

 燃料の不足ぢやない、脳味噌の不足ぢやと言うて遣つた處、そりや理窟ぢやが中々さうは行かぬものぢやと言ふ事で有つたが、頭の使ひ様で物と時間と、従つて努力がどれ程節約が出来るか大に考ふべき事である。


 逸人第三水雷戦隊司令官の時のことである。 該戦隊は横須賀の第六駆逐隊、呉の 「平戸」、舞鶴の三十一駆逐隊より成り、修理の都合か何かで二月十一日に漸く鎮海湾に集合し、三月末日迄佐世保方面に於て訓練に従事し、五月下旬間宮水道に行き、北海警備に就く事と成つて居つた。

 規則に依れば何も年度作業全部を行ふ必要はなかつたが、自分は三月末日迄に各隊各艦の一切の年度作業を行ひ、夫れより朝鮮東岸を巡航し、浦鹽沖より一旦舞鶴に歸へり、種々の準備を整へ五月下旬北海道を経て間宮海峡に進出するの計晝を立てた。

 然るに年度作業を行ふ爲に割當てたる日數は僅かに五十日であるから、大に促成訓練を行はねば成らぬ。 依つて各隊が初めて所属軍港を出るや高速教練運轉を行ひ、尚ほ其の速力にて對州東水道にて 「平戸」 に封し襲撃を決行せよと命じた。 處が初めての事ではあり、天候も悪るかりし爲め、何れも失敗に経つたが、司令及び艦長の苦心研究其他大に得る處があつた。

 夫れから鎮海に著き紀元節を祝し、翌日から水雷發射や射撃の初歩訓練を行ひ、陸戦隊訓練も二回もやり、二月の下旬鎮海を出て途中襲撃演習、佐世保軍港封鎖及び封鎖線突破抔種々の演習を行ひつゝ佐世保に入港し、夫れより寺島水道を根據として各種の戦闘作業を行ふ事と成つた。

 其の間佐世保出港は大抵夜中若くは夕刻とし、途中襲撃演習や夜間發射を行ひ、又た寺島水道 (注3) を出て佐世保に入る時には、午前三時頃抜錨して夜明けに佐世保港口に達する如くし、途中は相變らず襲撃の訓練を行ふ事としたが、僅々一箇月にして各隊の技倆は驚くばかりに進歩した。
 
 戦闘發射計畫は全然自分が計畫するやうに成つて居たので、戦闘運轉と晝夜間の戦闘射撃と夜間戦闘發射とを一行動中に行つて了ふと言ふ計畫を立てたが、日本で初めての事で、教育本部の第一課長もわざわざ視察に来られた。 三月の下旬に軍艦 「最上」 が第三水雷戦隊に加へられたので、「平戸」 と 「最上」 を標的として駆逐隊に襲撃させたものだから、右の様な藝當が出来たのである。

 戦闘作業は見事に順當に行はれたが、中には襲撃の際に泡を喰つて標的に対し反對方向に發射した駆逐艦も有つた。 随分猛烈な作業たりしも、故障も無く見事に行はれたと言うて見学者連より称讃された。

 二月十一日に集合して以来、日を閲すること五十一日、燃料の消費二十一晝夜で此の成績を挙げたので其の後教育本部に行き、今日の艦隊の訓練程度迄なれば、自分は二十五晝夜分か三十晝夜分の燃料さへあれば澤山だと豪語した處が、馬鹿な事をしやべるなと言うて叱られたが、矢張り物はやりやうで、窮すれば通ずる途のあるものである。
(続く)

======================================

(注1) : 海軍省の外局として明治33年に設置されましたが、ワシントン海軍軍縮条約に伴う海軍の縮小・整理により大正12年に廃止され、海軍省教育局となりました。


(注2) : 現在の馬山市。 旧海軍の施設が本格的に東隣の鎮海に移転・集約されたのは日韓併合後のことで、それまではこの馬山浦を利用しました。


(注3) : 佐世保港外の艦隊錨地・作業地。 文中では 「寺島水道」 とありますが、本来の寺島水道は狭隘で潮流も早いため、錨地には適しませんので、下図に示す本来の寺島錨地のことです。


terashima_map_01_s.jpg
( 元画像 : Google Map より )

      この寺島錨地は旧海軍時代から艦隊の作業地・仮泊地として有名で、海上自衛隊も活用してきましたが、最近では艦艇の運用方法の変化と共に、作業地としてはあまり利用されなくなりました。

 なお、佐世保在籍の艦艇の台風避泊地としても使用されることがありますが、南西方向が大きく開けているため、風向き (台風の進路) に左右されます。


posted by 桜と錨 at 18:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月21日

『運用漫談』 − (26)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その10 (承前)

 昭和二年佐世保沖で行はれた小演習の時のことである。 自分は赤軍司令長官として働く事と成つた。 赤軍主力は 「陸奥」 「金剛」 で、之れに一箇水雷戦隊が附属して居た。 例の通り赤軍は俄か仕立の烏合の衆である。 殊に両艦長は餘り艦の扱ひに慣れて居られなかつた。

 併し作戦上夜間佐世保軍港を無燈で出入せねばならない様な事も有るので、之れに對する訓練も行はねばならぬし、又た水雷戦隊の襲撃訓練を、大にやらなければ成らないと言ふ情況であつた。

 此の訓練の爲めに許るされたる日數は第一期丈けで僅かに一週間、燃料も亦た僅々一晝夜半分であつたと思ふ。

 夫れで随分無理と思ふけれども、前述第三水雷戦隊でやつたやうに佐世保軍港と寺島水道の間で連日訓練を課し、佐世保軍港を出る時は、日没後一時間とし、出ると直ちに襲撃運動を行はしめ、夜間寺島水道に投錨し、又た寺島水道を出る時は午前二時若くは三時頃とし、途中襲撃運動を課し、拂暁佐世保軍港に入港すると言ふやうな具合にしたが、此の一週間で二箇月程の稽古が出来たとはお追従か知らんが、麾下一同の讃辞であつた。

 愈々第二期に入り両軍對抗となりたる時、赤軍はタ暮薄暗い時に佐世保を出港し、夜通し襲撃を受けたが、徒らに敵駆逐隊を回避せずして積極的に之を攻撃し、無信號無燈の儘で随分思ひ切つた行動を執つたが、両艦共實に見事にやつて呉れたので大に嬉しかつた。

 前の三十晝夜あれば相當の訓練が出来ると言ふたが、夫れはどうするかと言ふに次の如くする。

 即ち毎月一晝夜分の割合で年度始めに基本長に七箇月分の燃料を給與し、六月末まで所属軍港に在りて勝手に訓練に従事させるのである。 而して共の訓練の標準は、年度初頭に長官より指示し置き、尚ほ軍港在泊の先任者をして軽く監督せしめるやうにする。

 艦隊の集合は七月上旬とし、集合せば直ちに猛訓練に着手し、年度諸作業を終了する如く指導する。 之れに要する燃料は二十晝夜である。 而して基本長の基礎訓練長官の意に満たざるものある時は、どんどん馘首する。

 斯くすれば長官は六月迄は東京附近にありて中央との連絡を取り、又時々地方を巡視して基本長の訓練振りを検すればよいのである。 斯くして尚ほ三晝夜分残るが之れをば豫備とし、適宜使用する事とする。

 以上は當時の僅少なる豫算時代の事であるが、近来の如く諸作業増加し、総てが大まかになつて居る時には當て嵌るまいが、大まかになれば大まかになる丈け燃料の使用には更に留意せねばなるまい。 粒々辛苦の結晶はどこ迄も粒々辛苦の結晶である。

 此處で一言したきは海防思想の普及に對し艦隊が努力する事である。

 逸人第一水雷戦隊司令官 (昭和11年〜12年) のとき、年度作業を終り艦隊を解き所属軍港に歸港せしむる時に、夫れ夫れの隊に命じて沿岸都市に寄港せしめ市民に軍艦拝観の機會を得せしめたが、豫想外の好果を得た。

 第二艦隊の時 (昭和3年) に艦隊を横須賀ばかりに置かずに品川に廻はし、東京市民に拝観の機会を得せしめたところ、乗組員に少々不便を與へた気味ありしも、幾萬の東京市民に相當の海事思想を吹き込んだ事と信じて居る。

 艦隊の集合開散の時を利用し、一両日の日數を海事思想普及の爲めに割く事は必ずしも無駄でなからう。 夫れが爲に要する燃料は殆んど無くて済む筈である。 昔は艦隊は能く沿岸巡航を行ひ到る處で拝観を許るしたから、海事思想普及に大變便利であつたが、今日は作業の都合でそんな事は出来ないから、せめては艦隊各艦の離合集散の時機丈けでも旨く運用されたいものである。
(続く)
posted by 桜と錨 at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月22日

『運用漫談』 − (27)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その11

 船堂生 (著者のこと) の友人で今は九州の某地で某職工学校の校長さんを勤めて居られる某大佐がある。

 大正十年頃のことであつたと思ふ。 大佐は横須賀鎮守府の練習駆逐隊の司令であった。 練習駆逐隊は練習燃料の外に少し許りの自隊訓練用の燃料を供給されて居たが、其量は極めて少量であつたから、之を消費するには最も経済的に遣らなければならなかつた。

 或る時練習作業の合ひ間を得て自隊の訓練の爲めに出動せんとした。 共の日朝来天候極めて平穏にして、駆逐隊の出動には 「持つて来い」 の好天気で、各駆逐艦は夫れぞれ、出港準備に取り掛らんとした時に、司令駆逐艦にスルスルと信號が揚げられた。 日く、「天候平穏に付き出港取止め」 と。

 『天候平穏に付き出港取止め』 − 如何にも面白い信號である。 讀めば讀む程妙味のある信號である。

 平穏なる天候の下に平凡なる訓練を行うても訓練は訓練である。 それで司令の職責を盡したと言ふ事も十分言ひ得るのである。 が、訓練は國家の爲めに行ふ訓練であつて、司令の申譯け用の訓練であつてはならぬ。

 燃料は少量である、之を以て國家の爲めになる如き訓練を行はんとせば、平凡なる申譯的訓練であつてはならぬ。 荒天の下に困難なる作業を遂行せしめる時は、訓練上の効果は之を平凡時の夫れに此し數倍乃至數十倍の効果がある。

 大佐の狙らふ處は茲に在つた。 國家の爲めに有効なる訓練を行ふ外、他意は無いのである。

 険悪なる天候を冒して出動し、困難なる作業を課する、其處には幾多の危険が伏在して居る。 重大なる責任は司令の双肩に掛つて居る。 然かも猶ほ之を冒して出動する、斯くてこそ初めて帝国海軍の實力は向上し充實するのである。

 報告は見事に書く、理窟は能く言ふ、立ち廻はりは中々お上手である。 併し敢爲も無ければ創意も無い。 徒らに先例の糟粕を襲踏するのみにして、事勿れ主義を金科玉條とし、手も出さなければ足も出さない。 一切の責任を他に負はしめて顧みざるのみならず、自己の失策を自己の失策なりと自から告白する勇気すら無い。 之が當世で在る。

 其の中に於て揚げた信號が、「天候平穏に付き出港取止め」 である。 何と面白い信號ではないか。

 時の寒暑を問はず晝夜を論ぜず、天候風雨を顧みず、爲さんと欲する作業は、何時でも之を實行すると言ふ習慣をつける事は大切である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 13:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月23日

『運用漫談』 − (28)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その11 (承前)

 船堂生舞鶴要港部に勤務して居た時 (大正11年〜12年) の事である。 京都師団の某将軍が新任の挨拶に来られた。 時は厳寒の際である。

 海兵團の練兵場の雪は八寸程も積んで居り、四面白皚々たる光景であつた。 海兵團の新兵は散兵教練の爲め、雪で散兵壕を作り、之れに向つて攻防の訓練をやつて居つた。

 将軍が司令官室に這入いられたから、自分は窓を開いて雪の軍港の美景を紹介した。 すると将軍は今日は、更によき教訓を得たと言はれるから、夫れは何かと聞くと、あの新兵の教育振りである、雲の中のあの猛訓練である。 彼の様にやりさへすれば、訓諭も何も要らない、精神教育は自然に出来て居ると、連りに褒められた。 ストーブで顔が赤くなる程温くもつて居た自分は、一寸また顔が赤くなるを覚えた。

 其の後に聞いた談である。 将軍は要港部から重砲隊に行かれ、更に福知山聯隊を視閲された。 所が聯隊長 (?) の現状申告の中に、當地は雪が多いので訓練が思ふ様に行かない、との文句が有つたらしい。 将軍の怒聲は雷の如く爆發した。

 『陸上に於ける訓練は、陸軍が其の範を示して海軍に教へるのが本来である。 要港部に往け、司令官は雪が有るから却つて面白い訓練が出来ると言はれた、要港部を見て来い」 と。

 視閲の結果は、勿論不首尾であつた。 お気の毒に思うてゐる。


 其の後舞鶴要港部で基本演習をやるので、福知山聯隊へ案内状を出した。 處が陸軍大学出のチャキチャキの青年将校が見学に来た。 演習は三晝夜打ッ通しである。 連日雨天であつて大に収獲があつた。

 演習終了後、其の青年将校の感想を聞いた處が、海軍の演習を見学するのは始めてで、何事も目新らしく感じた。 が、其の中で最も深く感じた事は、大佐たる艦長が一切の責任を自から引受けられ、常に陣頭に立ち、而かも上下を通じて心身共に最も労苦するものは艦長共の人であると云ふ事と、今一つは作業實施に當つては、上下共に一切の障碍を眼中に置かず、嬉々として仕事に従事して居ると云ふ事である。

 聯隊に於ては濡れた練兵場で伏姿でも命ずると、青年将校等は残酷だなんて不平を言ふ悪風がある。 之れからは、どんな事が在つても、決して不平は言はないと決心した、と言ふから、自分はその事その事と奨励してやつた。

 陸軍の行軍振り杯を見ると、其の不撓不屈の士気旺溢せるを見て感心させられるが、陸軍から海軍を見ると亦面白い處が見える。 他山の石とは是なんありである。
(続く)
posted by 桜と錨 at 12:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月24日

『運用漫談』 − (29)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その11 (承前)

 危険を冒して猛訓練を行ふと言ふ事に就ては、大に議論の餘地がある。 訓練の爲めに、陛下の御艦を損傷しては申譯けが立たぬではないかとは、自分の屡々攻撃された處である。

 然し自分は常に言ふ。 御艦を損傷しなければよいぢやないかと自分は考へる。 訓練は實戦的見地の下に國家の爲めに行ふものであって、點取り主義や、世渡り手段に堕してはならない。

 實戦の光景を眼前に見せて行ふ猛訓練に於ては、船を損傷した實例は却つて少ない。 損傷は多く平穏無事の時に起つて居る。 危険なる行動中は、各員の注意が極めて緊張して居るから怪我抔は容易に起らないが、其の行動了りて平常に復歸せんとする時に、却つて怪我の多きものである。


 明治四十四年か?の大演習の時である。 赤軍の司令長官は寡言沈黙を以て有名なる某大将であつた。

 赤軍は例により烏合の衆であつて、日露戦争中分捕つた露國製の各艦が修理初めて成り、夫れが殆んど全部揃うて赤軍に編入されたので、赤軍艦隊は一見露國艦隊の観があつた。 英国製軍艦に慣れた我が将士に取つては、萬事不慣で、共の訓練は中々六づかしいものがあつた。

 赤軍各艦隊の基礎訓練に與へられたる時間と燃料とは、之れ又た誠に少ないものであつたが爲めに、幕僚の作つた訓練計畫は日々指令するに非ずして、打ッ通しの表にされて居り、一の作業から次の作業へ連鎖的に移つて行くのであつて、中には随分危険と思はれる節もあつたが、長官は其の計畫に就て一言も言はれず、其の儘實行せしめた。

 第一期、第二期、第三期に亙る演習も無事に進行し、犬吠崎沖で統監より演習中止の令が下つた。 そこで自分は横濱沖迄行くには時間が剰るので、半速で航進する事を届けに行つた處、長官は初めて口を開かれ、今迄は艦隊全隊が緊張してゐた爲に故障が起ら無かつたが、故障の起るのは之れからであるから、注意する様信號せよと言はれた。

 自分は将軍の沈黙の裏に、深謀熟慮測るべからざるもの有るを感じ、思はず頭が下がつたのである。

 何の要も無いのに危険を冒かす事は以ての外であるが、奈破崙翁が言ふた如く、戦争は危険を冒さずしては行はれない。 一切の訓練は實戦的見地の下に、國家の爲めに行はれねばならぬ。 之れが爲めには随分猛烈な冒険的行動も課せられねばならぬ。

 由来實戦的訓練は我が帝國海軍の傳統的訓練法であるが、傳へ聞くところ、今日の艦隊の訓練法が如何に徹底的なるかは想像に餘りあるものがあるとのことで、自分は大に愉快に感じて居る。

 天の成せる英雄でない限りは、大抵の人は突然危険に直画すると、狼狽して事を誤まるものである。 故に平常より豫め危険に慣らし置くを要する。 之れは技術的よりは精神的の訓練であつて、自分は之を称して 「睾丸の上下訓練」 と名づけたものだ。

 又た平常の訓練に於ては、少々艦を傷めても、艦長の首くらゐで済むが、不熟練の爲め戦場で不覚を取り、艦の操縦を誤まるが如き事有つては、事皇國の興廃に関する原因と成る事がある。 能く々々考ふべきことである、そして同時に活きた訓練を行ふべきである。
(続く)
posted by 桜と錨 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月25日

『運用漫談』 − (30)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その12

 軽巡や駆逐艦等に於て燃料節約の爲めに減軸航行を行ふ事は今日當然の事とせられて居るが、其の由来を温ねて見るのも一寸面白からう。


 明治の初年に 「磐城」 と云ふフリゲートが在つた。 帆走汽走両用に出来て居つて、其の艦尾にスタルン・ウエル (?) というて井戸の様な穴があり、帆走中は推進器を引揚げ、速力と舵カの邪魔とならざる様にする事が出来ることになつて居た。 是れが滅軸航行の元祖であらう。

banjou_01_s.jpg
( 「磐城」  本家サイト所蔵 『藤木軍艦写真集』 より )

 明治三十一、二年頃である。 駆逐艦が始めて出来て、日本は英國のソオニイクロフト會社で 「叢雲」 型六隻、ヤロウ會社へ 「曙」 型六隻を注文して造らせた。 是等の駆逐艦は皆回航員を派遣して、日本に回航せしめたが、其内の一隻 「東雲」 丈けは英國人に請負はして日の丸の旗で横須賀迄回航して来た。

 此回航員の頭領は英國の豫備海軍少佐であつた様に覚えてゐる。 請負であるから燃料の如きは節約すればする程請負人の所得となる。 又た時間も出来る丈け短縮すれば夫れ丈け請負人の利益となるから、燃料を兵員室や士官室抔へも積み込み、寄港地を少くして途中随分努力して来た様である。

 慥か 「叢雲」 であつた様に覚えてゐるが、英國を出發する時は 「東雲」 より一足先きに出たが、途中で暫らく競走的になり、日本に著いた時は 「東雲」 より後れた様に覚えてゐる。

 此の 「東雲」 は途中殆んど全航程を片舷航行でやつて来て、大に燃料を節約して請負人は大儲をしたとの談であつた。 然し他の一面には機械の使用に無理があり、途中手人の不足した傾きがあると云ふ悪口もあつたが、「東雲」 の生涯を通じ格別の影響ほ無かつた様である。 浅間敷やうであるが、人間は利益を見せると種々の工夫をするものである。

 駆逐艦 「朧」 であつたかと思ふ。 回航の途中モルタか、スエズ運河かで、航路浮標に推進器を引掛け、片舷機使用不可能と成りしも、入渠する迄もないから、其の儘片舷航行で日本迄やつて来たが、其の時幾許の燃料節約が出来たか聞いてゐないが、可成の節約が出来たと思うてゐる。 然かも之が爲めに 「朧」 の機械が悪く成つたと言ふ如き事は無かつた様である。


 大正五年船堂生は第十一駆逐隊司令として新嘉坡方面で行動した。 或る時急に駆逐艦二隻をバタビヤ方面に派遣する事と成り、「杉」 と 「榊」 が其の任に常る事となつた。

 「榊」 型は推進軸三軸であつたが、其の中央機は開放修理中であつたので、其の使用を止め、二軸で航行する事にした。 全航程約二千五百浬であつたが、「榊」 の燃料節約には一寸驚かされたのである。 此の時は不使用軸のフレンヂ (注1) を切り離してあつたから、殊更に節約が多かつた様である。

 新嘉坡の行動を終り日本へ歸航する事となつた時に、彼の方面に約五箇月居つたが爲めに、艦外底に長さ六寸程の青い海草が一面に繁茂し、其の燃料消費に及ぼす影響可驚ものあるを發見した。

 計算して見ると、往航の時に比し殆んど二倍の燃料を要するので、寧ろ新嘉坡で入渠する方が遥かに経済的であると言ふ事になり、断然意を決して入渠し、外底を塗換へ歸航の途に就いたが、出發してから日本へ著く迄、連日暴れ通しであつた。 若し外底を塗り換へて居なかつたならば、途中でひどい目に遭つたかも知れぬと思うてゐる。

 熱帯地方では僅々三箇月で、日本沿岸の殆んど一年分程の海草が茂生する。 外底の状況は決して馬鹿にしてはならない。

 更に進んで外底塗料の一大改善を研究する必要がある。 昔時日本はインターナショナル塗料を使用して居たが、英國海軍は草色の塗具で、日本のに此し三倍以上の効力ある塗料を使つて居た。 共の成分の秘密を知るを得ざりしは今でも残念に思うてゐる。
(続く)

======================================

(注1) : flange、フランジ  ここでは 「軸継手」 のことで、推進軸の接合部を指します。 プロペラが抵抗にならない様に、フランジでの接続を切り離してその先の推進軸とプロペラを誘転させたものと考えます。


posted by 桜と錨 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月26日

『運用漫談』 − (31)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その12 (承前)

 大正十年頃桑島 (省三) 中将は、第二水雷戦隊司令官として減軸航行に頼る燃料節約の事を研究せられ、帝國海軍の爲めに大に貢献された。 其の結果が今日の減軸航行の基を成して居る。

 船堂生は桑島司令官の後を受けた (注1) が、常時減軸航行は其の時信號命令に依り實施する様に成つて居たが其の利益の多い事は疑ひ無い事と、信號の煩雑を避ける爲めに戦隊命令を以て十四節以下の速力で行動する時は、令無くして減軸航行を行ふ事を原則とし、陣形運動や出入港若くは狭水道通過等に當りては、時の緩急を見て艦長が任意に終始することが出来る様にした。

 創意と活用とは、運用術に於ても戦術に於ても等しく緊要事項である。 一端を掲げて全般を知る人にして始めて之を能くするのであるが、吾人凡人としては、何事にも能く注意して其由来を研究する習慣をつけ居れば、幾分かは人後に落ちざるを得るのである。


 之は第一水雷戦隊司令官の時 (大正10年〜11年) のことである。 艦隊が大湊から函館に回航する事と成つた。 大湊から函館迄は航程七十一浬 (約131.5km) である。 出港の三日前に戦隊命令を以て、大湊から函館迄の間で各艦の燃料節約競技を行ふ事にした。

 其の方法は出港直前、競技委員の手に依り各艦の在庫燃料を精細に計量し、函館著後再び之を計り、行動中の燃料と淡水量の消費量を算出させた。 各駆逐隊の回航方法及び針路等は全く各司令各艦長に一任し、只其の當日中に回航し終ればよい事にして、各駆逐艦が編隊で行はうが、単独航行をしようが、曳船で行はふが、総て勝手たるベしと言ふ事にした。

 此の命令に接するや、各駆逐艦に於ては機関部員は勿論、艦長當直将校から水兵迄全員一致して、如何にせば燃料節約が出来るかと言ふ研究に熱中し、深夜蒸汽の漏洩部を検するものあり、ブルーム (注2) を以て艦外底の海草を清掃するものあり、全く一生懸命であつた。

 扨て愈々出港となると、錨を揚げるに揚錨機を使用せずしてケプスタン (注3) を用ゆるものあり、入港する時は早くより速力を停止して後退を用ひずして投錨し、又た揚錨機を使用せず、途中一切の電燈を使用せずして油燈若くは蝋燭を以て代へたるものあり、単独航行のものあり、編隊のものあり、各隊各艦の工夫千種萬別であつたが、最後の成績を見るに、各艦の消費量従来の統計に依りて算出したる標準に比し、一般に二割乃至二割半を節約し得る事を示し、殊に戦隊中消費量最も高かりし駆逐艦 「蕨」 の如きは、五割の箇約を得たるを見、隊員一同我ながらに驚かされた。

 依て全隊に對し競技の努を賞すると同時に平素の浪費を責め、大に戒飭する處あり、委細を中央に報告したるに、此の報告は艦政本部に於て大好評を博したといふことであつた。

 将校が機関部の事を知り機関将校が艦橋の事を知る事は大切なる事である。 前掲の様な事でも艦橋と機関部との考へが相一致して始めて行はれるもので、故に始めて燃料節約の徹底を期する事が出来るのである。 萬事は一事である。

 横須賀鎮守府で駆逐隊の兵科士官に機関術の講習をやせた事がある。 兵科士官の得る處豫想外に大なるものありしと同時に教官たりし機関長も、講習員の質問に依り大に啓發されたと言ふ談を聞いて居る。

 艦橋と機関室と相知り相親む事の必要は、誰れも否定するのは無からうが、其の方法と實施に就ては一般に無関心の傾きが多い。 指導者の留意を促がす次第である。
(続く)

======================================

(注1) : 桑島省三少将 (当時) は大正8年12月1日〜9年11月30日の間第3水雷戦隊司令官で、9年12月1日付けで第2水雷戦隊司令官になっております。 著者はこの桑島少将の後を受けて9年12月1日〜10年11月30日の間第3水雷戦隊司令官でしたので、このことを指しているものと考えます。 とすると、この減軸運転の件は第3水雷戦隊でのこと?


(注2) : broom  艦船では一般に長柄付きのブラシのことを指します。


(注3) : capstan、キャプスタン  車地、捲揚機、係船機などと和訳され、要するに錨の錨鎖を巻き上げる装置のことですが、ここでは電動の揚錨機を使わずに人力で巻き上げたという意味です。


posted by 桜と錨 at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月27日

『運用漫談』 − (32)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その12 (承前)

 又横須賀鎮守府第二艇隊司令の時 (明治42年) のことである。 長浦の艇隊炭庫に永年に捗りつもつた煉炭の粉が、約八十噸程あつて只さへ狭き炭庫の大部を占領して居つたが、粉炭は水雷艇の罐には使へないので一同大に困つて居つたから、長浦の造兵部に相談したる處、造兵部には粉炭が却つて善い罐があると言ふので、運賃は造兵部持ちとして練炭三十噸と交換して貰らひ、大に隊の活動に資する事が出来た。

 又呉の第七艇隊司令の時 (明治40年〜41年) である。 呉から舞鶴軍港竹敷要港部に渉り二週間に跨る三等艇隊 (3等水雷艇の艇隊のこと、既出) としては破天荒的な大基本演習をやつた。

 演習計畫中に竹敷に於て燃料搭載を行ふ様になつて居つたが、竹敷の炭庫に日露戦争の餘りもので約八百噸の帳簿外の煉炭があつて其の始末に困つて居た。 人夫貨丈け出せば三等艇四隻の満載量位ひは只で遣らうと言ふから、或るへソ繰金で宜敷やり、満載して呉に歸り、時の鎮守府機関長を驚かした事がある。

 此の機関長は誠に要領を得た人で予が行動すると言へば、幾らでも遣り繰りして燃料を呉れた。 そして言はるゝには、何でもよいから働け、働きさへすれば得る所は失ふ處に此し更に大なるものがある、燃料なんかどうでもしてやるから大に働けと言はれて居た。

 米國海軍の實力如何に就ては兎角の批評を聴くが、彼の惜気も無く燃料を消費してノべツに訓練をし、行動して居る點から見て、其處に或る者がある。 決して侮つてはならぬとは予の常に考ふる處である。


 只今予はヘリクリ金で宜敷やると言ふ事を言ふた。 加藤 (友三郎) 元帥は其の総理大臣たりし時に、不當支出は宜敷が、不正支出は不可なりと言ふ答辨をして大蔵大臣を驚かした事がある。

 今日は諸法規が調ひ会計検査法も巌重であるから、不當支出なんかも無くなつたが、予の若い時分には随分思切つた事をやつたものだ。

 どうしてヘソ繰りが出来たかは天機洩らすべからずだが、臍繰りで新造水雷艇の食器が出来たり、旅順沖で分捕つたメリケン粉が、日本製馬賊に荒らされた大連港務部の二十人前の食器に化けたりしたもので、天勝嬢以上の奇術をやつたものである。

 然し茲で断つて置くが、此の臍繰金は総て乗員の努力で出来たもので、不當支出であるが断じて不正支出でなく、依て以て國家を利してゐる處が大にある。 今日世間の法網を潜りて行はるゝ合法的不正支出とは雲泥の差のある事は我輩の保證する處である。 之れを運用の妙と言ふも豈夫れ不可ならんやである。

 物と時の節約は之で終りとする。
(続く)
posted by 桜と錨 at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月28日

『運用漫談』 − (33)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13

 大地震當日、即ち大正十二年九月一日船堂生は、午前八時半鎌倉著の列車で家族と家財道具一切を引具し、七年間住み慣れた須磨より鎌倉に移轉したのである。

 昔時船堂生は横須賀水雷学校に勤務して居たが、暑中休暇中須磨に歸省し居たるに、會々淡路の芦屋沖で潜水艦七〇號が沈没したので、共の査問委員を命せられ、調査上豫定より一日後れて鎌倉に入つたのである。

 豫て借家の世話を頼み置きたる友人宅に一先づ落著き、午前十時頃友人と共に新借家へ出掛けたが、借家は扇谷の一番奥の山腹に在る文化住宅であつたが、基が近くて淋しいと言ふので、第二、第三候補住宅を見聞に出掛け、第三候補住宅の二階で大地震に出會はしたのである。

 大に驚かされて飛出して見ると、鶏小屋に犬が飛び込んだ様な阿鼻叫喚の聲が四隣を満たして居る。 共の聲は鶏の聲に非ずして、救ひを求むる人の聲であつた。

 顔に負傷して血を浴びた女中が、阿嬢様が此處に下敷になつてゐるから助けて呉れと言ふので、案内役の友人と共に助けんとしたが大きな瓦屋根が押冠ぶさつて居るので、二人位の力ではどうする事も出来ない。

 附近を顧みれば一切の破滅である。 御互の家族も、どう成つてゐるか知れぬので、友人と分れて自宅に馳著けて見ると、自宅は一枚岩上の文化住宅で、極めて軽く出来て居るので家は安全であり、家族は友人の妻君と共に庭前の杉林の中に避難中である。

 直に友人の妻君を歸らしめ振向ひて鎌倉町を見下ろすと、火災の煤煙が數ケ所に燃え上り物凄き光景を呈して居る。

 當日は水雷学校の休暇明けの日であつて出勤すべき筈であつたが、土曜日であるし、前述の都合も有つたのでサボつて居たのであるが、コリヤ大變と言ふので急ぎ軍服を着けて、晝食も取る間も無く水雷学校に向け走つたのである。

 潜水艦事件の爲め豫定が後れて此の不覚を取つたが、若し豫定通り前日に著いて居たれば、第二候補住宅に這入て居たに違ひない。

 第二住宅は第一震で微塵に倒潰したが、第一住宅は何等の損害無く鎌倉中で損害最も少き住宅で有つた爲め、家族も無事なりしのみならず、忽ちにして友人の避難所と成り、一時は五家族も同棲して居たが、之が爲め自分は全く安心して活動が出来たと思ふと、運命の數奇を感ぜざるを得ないのである。

 鎌倉より水雷学校迄は約三里である。 倒壊と火災の中に狼狽して馳せ廻はる老弱男女の顔を見ると、何だか世紀末の光景を想はしむるものがあつた。

 前友人の住宅は恰も途中に在つたが全潰である。 只一人の愛嬢は病臥中で家根の下敷と成つたけれど、屋根を破つて今救ひだした處であると言ふ。 相互の無事を祝しつゝ相分れて学校に向つて走つた。

 鐵道のトンネルは、皆な山崩れの爲め入口が潰れて居たが、田浦逗子間の海軍水道トンネルは、煉瓦巻きは施して無いが通行が出来るので走り込んで見ると、途中で餘震の爲めに土塊がバラバラ落ちる、道は暗い、落ちた土塊に躓き轉倒する、と言ふ有様で、漸くにして水雷学校に辿り着いたのが午後三時である。

 博忠王殿下を始め奉り、一同無事で練兵場に集り居たるを見て、初めてホット胸撫で下ろしたのである。

 四囲の光景は破滅であり、崩壊である、地獄の相である。

 長浦湾口の重油庫の火災は、黒煙濛々天に冲し、千米突餘の空中に龍舌の如き火焔を吐いてゐる。 裂けたる重油タンクより海を掩うて流れ出でたる重油に點火し、海上一面は火の海と成り、夫れが南西より強く吹く二百十日の強風に壓流せられ、沖へ々々と進んで行く。

 第三區には修理中の榛名が繋留して居るが、其の運命や如何を気遣はれしも、火の海は榛名を避けて千葉沖に流れ去つた。 當時幸にして風が陸方面より吹きたる爲め、一應は安心であつたが、風向一變せんか、長浦一帯は忽ちにして焦土と化する恐があるので、一寸警戒を緩める事も出来ざりしが、幸に其の事なかりしは又た好運の一であつた。

 横須賀方面は大火災を起し炎々天を焦がしつゝある。 東京は如何と見ると一切の通信絶え、天に跨る大入道雲が其の大火災を偲ばしむるものがある。 東京全滅、大阪大火災抔の流言蜚語は刻々に飛ぶのみである。 當時の光景は到底筆紙の盡くす能はざる處である。 讀者の想像を俟つ外はない。
(続く)
posted by 桜と錨 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月29日

『運用漫談』 − (34)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 学校に著いて見ると非常呼集が命ぜられて居る。 鎮守府竝に其の他との電信電話は総て破壊されて用を成さず、只だ一の連絡は愛宕山の信號所を経てする手旗信號あるのみだが、之れ迚も電話線なき爲め不便極まるものであつた。 長浦掘割も山崩れの爲め閉塞せられ、汽艇は第三區を迂回するので、鎮守府に行くのは半日仕事である。

 船堂生故茲に於て大に考へさせられた。 地震である。 餘震は頻々として来り、一切は恐怖と不安である。 然かし戦争では無い。 此の際一刻も早く人心の安定を計り、應急善後の處置を講ずるのが何よりも先きである。

 而して其の第一著は全市民の家庭の安堵よりせねばならぬが、家庭を最も安心せしめ最も能く保護するもの一家の主人に如くものは無い。 非常呼集中たりしも、當地附近に家族を有するものと横須賀附近 (東京府神奈川縣竝に近縣) 出身のものには、此際自宅に歸らしむるが上分別であると考へ、各自三晝夜の歸省を許るす事とし、其の他の者は水雷学校に在りて一切の警戒と救護作業に従事する事とした。

 次で戒厳令發布さるゝや、水雷学校は防備隊と共に田浦逗子鎌倉三崎方面の戒厳を受持つ事と成つたので、各地に戒厳事務所を設けたが、各事務所の監督士官は各々其地在住の士官を以て之に當てたるに、全焼の爲め軍服を有せず、浴衣掛けにて當直すると言ふ具合にて、稍や不規律に見えしも、各自在住地の事とて土地を知り、人を知り居り、且つ親切之れに伴ふものありし故、萬事圓満に行はれ、諸作業意の如く運び、大に一般住民の感謝を博し得たのである。

 戒厳本部として学校では、幹部職員と家族を有せざりし教官と、田浦在住者が當直に當らせる事とし、他鎮守府所属の練習生多数を使役し、萬般の業務に當りたるが、之れ又た極めて圓滑に行はれたのである。

 震災直後最も痛切に感じたものは、通信連絡と交通路の復舊である。 通信連絡に就ては、鎮守府建築科に就き相談したるも、地震の爲め工夫意の如く出勤せず、何日になれば復舊出来るや不明なりと言ふので、電信線路に精通する技手一名を借り来り、水雷学校の電信兵を使用し、二日間にして鎮守府より軍需部を経て、水雷学校、造兵部、防備隊迄の電話線の假修理を終へ、更に追濱飛行隊に延ばし、一方は逗子鎌倉等の戒厳事務所との連絡を完ふする事を得た。

 又た九月二日なりしと思ふが、横須賀附近在住の士官にして艦隊勤務中のものに對し、當時判明し得たる家庭の安否を無線電信により打電したるに、之が艦隊としては、横須賀方面より得たる確實なる第一信なりし迚、其の後艦隊勤務者より深甚なる感謝を受けたのである。

 震災の如き事變に際し、無線電信の利用は最も有効にして、昭和二年の奥丹震災の際も、第九駆逐隊の無線電信が何よりも効果を挙げた。 狼狽は禁物である。 平常より注意すべき事である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月30日

『運用漫談』 − (35)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 鎌倉から田浦に馳せ著ける際、苦がき経験を自から嘗めたると、晝夜を別たず右往左往する老若の避難民及び救護者等の苦心を見、道路整理の急務なるを感じ、在校兵員を中心とし一般市民を督促し、各部落の破損道路の修理復舊に努力せしめたが、三日にして鎌倉より沼津間水道トンネル入口迄、次で葉山迄自動車を運轉せしめることが出来るやうになつた。

 然るに自動車運轉手が、自宅破損の爲め出業を肯んぜざりしかば、運轉手自宅は水兵若くは郷黨にて修理せしむる事とし、半ば強いて出業せしめたるに、間も無くガソリンの缺乏を訴へて来た。 依つてガソリンは海軍より補給する事としたるに、次には運賃を暴騰せしめたるによつて、直ちに令を發して各區の運賃を一定して再び暴利を貧る能はざらしめた。

 何ほ又た徒歩交通者の絡繹織るが如くなるや、到るところ路傍に牛乳を鬻ぐもの續出せしが、之れ亦た暴利を貪るものありし故、一瓶十銭と一定せしめた。

 一瞬にして一切を廃滅に歸せられ、狼狽と恐怖のどん底に堕ちた民心をば、第一に脅やかすものは糧食の缺乏である。

 九月二日鎮守府に到り、民心安定の爲め一日も早く糧食庫を開くの急務なるを説きたるに、経理部當局は稍々難色ありしが、自分は学校に還へり調査せしめたるに、生糧品は僅々一両日分なりしも、貯蔵糧食は約五日分ありしかば、直ちに倉庫を開いて堅麺麭及び米麦の袋入りを取り出し、之れを水兵に擔がしめ、田浦逗子鎌倉葉山方面を歩き廻はらしめたるに、海軍より糧食来るの聲は忽ちにして一般市民の不安を一掃するに足るものがあつた。 爲めに水雷学校の倉庫は空虚となり、一寸不安を感じたるも、間もなく鎮守府の倉庫開かれ安心したり。

 地震の地域は案外狭少なるものである、救援の手は立ち所に到るものである。 然して狼狽せる民心の安定は、一刻の遅延を許るさない。 徒らに杞憂に堕するは取らざる處である。 之れ亦た平常より留意を要する點である。

 糧食不足の聲は忽ちにして米穀商人の米穀隠蔽と成り、暴利と成るものである。 戒厳中、其々商店は多量の米穀を隠蔽し居れりとの密告は屡々来た。 依つて衛兵を派して倉庫點検を行はしめたるに、銃剣の前には如何なる暴利商人も、忽ちにして蒼くなるのみであるので、間もなく一人の暴利商をも見ざる様に成つた。

 戒厳指揮官としては殆んど生殺與奪の實権を有して居る。 之を乱用するは沙汰の限りなるも、之を善用せば天下は太平極楽である。 善政的専政政治を思ふや切なるものがある。

 東京大地震の報は天下の耳目を聳動せしめた。 東京糧食缺乏の聲は、天下を患へしめ、救援の手は八方より東京に注がれたが、一切の陸上交通設備は杜絶せられた爲め、海上より輸送が唯一の頼みと成り、而かも其の第一著は海軍艦船に依るのが當然である。

 然して海軍艦船の東京入港の報が如何に人心に安定を與ふるかを考ふる時、其の入港は一瞬一刻を争ふものがある。

 然るに常時某巡洋艦は、某地より救護糧食を満載し来りしが、艦長が夜間東京湾進入に不安を感じ、湾外に一夜を空費して翌日入港したとの噂を聞いた。 不慣なる艦長の技倆不足は兎も角、船乗りとして事の本末を解せざる不覚者なりとの誹りは到底免るべくもない。

 海軍々人たるもの、艦船運用の術に就き平素より留意すべき要ある事は、斯様な時に備ふる爲めである。 名士連の留意を望む次第である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 12:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月31日

『運用漫談』 − (36)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 震災後自分は能く逗子鎌倉方面の友人等の家庭を訪問した。 訪問する時は大抵堅麺麭一袋をお土産にしたものである。

 或る時友人の處に行くと、毎々堅麺麭は有難いが、町にも家にも野菜が絶無で閉口だと言ふ。 成る程、町の八百屋は未だ開いて無い。 友人の家には、二十歳を頭に十八、九の三人の男子が居るから、五十銭持つて一寸郊外に行け、農民の畠には買手と運搬者が無い爲め、瓜や茄子が腐りつゝある。 彼れを買つて来れと言ふた處が、三人の男は飛んで行つたが百姓も大悦びで、僅か五十銭で野菜をどつさり背負うて歸つて来た。

 震災に驚いて買ふ町人も賣る農民も、こゝに気が附かないのである。 此の様な間の抜けた談はえて有勝ちである。 地震は火事や洪水では無い。 家は倒れても田野には米も實りつゝ有れば野菜も在る。 泡を喰ふのが悪いのである。


 大地震中の出来事で朝鮮人問題ほど馬鹿々々しい問題は無い。 朝鮮人問題で田浦方面が噪ぎ出したのは九月二日の夜からである。 三日の朝には市民は竹槍や脇差抔を持ち出し、戦々兢々として連りに朝鮮人襲来を唱へる。 馬鹿な事を言ふ勿れ、と言うても聞かない。 各戒厳所で喇叭吹奏行軍を行つたが、之は人心鎮撫上非常に効果があつた。

 田浦トンネルの傍らの山間に、當時の鐵道復線工事に従事して居た朝鮮人夫數十名の居住するバラックが在つたが、水雷学校より人を遣はし、堅く外出を禁じ、糧食等は学校より送る事と爲し、之が保護に當りしが、彼等も克く命に服したる爲め幸に事なきを得たが、怯怖に堕せる彼等が若し市中に逃げ出さんか、如何なる惨事を仕出かしたかも知れないので、余は大に當直将校の機敏を感謝したのである。

 追濱飛行隊にて千葉方面より逃げ乗れる漁夫を見て、朝鮮人来襲と誤認したるものあり、船橋無線電信所にても朝鮮人来に驚かされてSOSを打電したる當直将校あり、流言蜚語百出し、世間一般が恐慌に襲はれ居たりとは言へ、誠に情け無き話である。

 余は日露戦前、朝鮮警備の任務に當りたる事がある。 日本漁夫と朝鮮住民との闘争事件屡々起りしが、原因の多くは、日本漁夫の横暴にある、依つて之を戒めたるに日く、何に朝鮮人十人位なれば日本人一人で澤山であると威張つて居た。 軍隊を率ゐる将校にして、其の気魄一漁夫にも如かざるものありと思へば残念である。

 朝鮮人来襲に関する流言蜚語絶えず人心を刺戟し、行人皆な兇器を携帯し居り、中には不逞の徒無きにしも非ずとの事たりしを以て、九月五日命令を發して一切の兇器と竹槍の携帯を禁止したるに、其の効果顕著にして忽ちにして人心の安心を得たのである。

 朝鮮人問題は文明國日本の一大汚辱なりとて、大に日本人を罵倒する日本人が居るが、桑港震災後の無政府状態や、其の後支那某地に起りたる震災其の後の奪掠と虐殺の情態等に比すれば、其の惨害は實に雲泥の差がある。

 日本人なればこそ彼の大震災に際しても、彼の如き立派なる相互扶助、秩序維持を得たのである。 米國大使ウッド氏をして讃嘆措く能はざらしめたのは無理はない。 それを知らすして此の一朝鮮人事件を以て、日本を野蛮國なり到底欧米先進國に及ばすと叫び廻はる外尊内卑の非日本人がある。 叱り遣く次第である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月01日

『運用漫談』 − (37)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 東京大地震に就ては話は幾らもあれ共之れ位に止め、序でに奥丹地震に就て陳ベる。

 奥丹地震は昭和二年三月二日午後六時半に、與謝海沿岸の岩瀧村から日本海沿岸網野へ掛けて起つた地盤の變動である。 自分は當時越後方面旅行中で、小川温泉で宿泊中であつたが、電報には敢て歸るに及ばすと有るも、餘震断へずと有るから事態容易ならずと考へ、翌早朝の一番列車で歸途に就き舞鶴要港部に著いたが、午後七時過ぎであった。

 早速参謀長の報告を聞くに、地震は與謝海の奥より網野方面に亙り損害甚大なるも、他は大した事は無い、之に對する部署は駆逐隊を宮津湾と網野沖に派し連絡に當らしめ、駆逐艦敷設艇等を利用し地方官憲と協力して治安維持、負傷者救護、被服糧食配給等に従事せしめて居ると言ふ事で、萬事誠に能く行き届き、自分が在部して居ても是れ以上の事は出来ないと思はれた故、大に参謀長の處置を賞讃したるに、参謀長謙遜して曰く、『嘗て大地震のお談を食卓で聞いて居りましたから、それを應用した丈けである』 と。

 日頃食卓等にて行ふ雑談の効果が、斯様な時に表はれるかと思ふと、雑談も亦た軽視を許るさざるものがある。 (注1)

 奥丹の地震は其二年前に城崎地方の地震があり、更に其の前に東京大地震の先例があるので、一般人の覚悟も大地震の如く恐慌に堕せず、又た救援の方法も迅速に順調に行はれたのであるが、二三の實験を列挙して参考の資とする。

一、當時第九駆逐隊は宮津沖にて魚雷發射を行ひ、宮津湾に碇泊し上陸許可中であったが、地震と共に直ちに防火隊を上陸せしめたるに、其の上陸するや約一里を離れた岩瀧村に散歩に行きたる一兵員馳せ返へり、岩瀧の惨状宮津に幾倍すと報じたる爲め、防火隊をば直ちに岩瀧方面と其の附近に馳付けしめ、更に第二防火隊を宮津に揚げ警護に當らせる事としたが、岩瀧村民は地震後二時間ならずして海軍の救護隊来りたるを見て、海軍は地震を豫知せしに非ずやと驚き且つ感謝した。


二、宮津方面より京阪地方竝に東京方面の一切の電信線破損せし爲め、約三日間一切の通信は海軍の無線電信に依る外無かりしが、殊に網野方面の情況は道路破壊して交通不自由の爲め、何等の詳報を得る能はざりしが、震災翌日警官数十名を駆逐艦に便乗せしめ網野方面に到らしめ、救護と通信に従事せしめたるに、其の効果甚大のものあり、住民は神の如く海軍を敬ひ之に感謝せり。

 尚ほ一般の通信には、鐵道系に由る通信と、警察系に依る通信と、電信郵便に頼るものとの三つがあるが、此の三者を統一し連絡せしめ利用すると、地震の如き不時の際大に有効なる事を實験した。

(続く)

======================================

(注1) : 余談ですが、ご存じの方はほとんどおられないと思いますので少々補足を。


 旧海軍時代からの伝統・慣習として、業務実施中の直接の指導だけではなく、食事などの気さくな雰囲気の時を利用して、艦長などの先任者が雑談的に自己の経験談や色々なノウハウを後輩達に継承することが行われてきました。

 この伝統・習慣は海上自衛隊にも引き継がれまして、停泊中の夕食後も艦長や副長以下ほとんどの幹部が士官室に残り、上陸員が出払うまでの間、ソファーでカードをやったり、またテーブルではその他の幹部がそれぞれテレビを見たり雑談をしている時に、艦長などが合間合間に色々なことを話し聞かせました。

 また、寄港地などでは艦長や副長が若い幹部を引き連れて飲みに出掛けるのが常でした。 この時も、一杯やりながらワイワイやっている中でさり気なく艦船勤務のことや人生訓的なことなど色々語り聞かせることが行われてきました。

 管理人の経験からしても、実際の実務中の指導はもちろんですが、これらの話しの中にも非常に為になり、また後々まで頭の中に残ることが多かったと思います。

 非常によい伝統・習慣だったのですが、残念なことに現在の海上自衛隊の艦船勤務ではこれらはほとんど見られなくなってしまいました。

 夕食を食べ終わったら若手の幹部達は直ぐに士官室からいなくなってしまいます。 その理由は早く自室に戻って書類作業を続けないと、その日に上陸できるかどうかも判らないからです。 それくらい書類が増えています。

 また、寄港地でも若い幹部達は僚艦の気の合う同期達数人では飲みに出ることもありますが、艦長などと飲みに出掛ける者はほとんどいなくなりました。 自分の金を出してまで何で上司に気を使いながら飲まなければならないのか、と。

 それに最近は上陸しても飲み歩く若い隊員 (幹部も海曹士も) が極端に少なくなりました。 特に寄港地では、知らないお店で飲むより、一日でも早く母港に帰り彼女とデートしたり下宿で一人ノンビリする方が余程マシ、と思っているようです。

 お役所的に非常に細かい規則類が増え、また作業マニュアルがドンドン厚くなっていく一方で、この様な文書などでは決して伝えられない本当に活きた教訓やノウハウの継承手段が消えていっています。

 そして艦船勤務の楽しさ、海の男のロマン、などは過去のこととなりつつあります。
posted by 桜と錨 at 13:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月03日

『運用漫談』 − (38)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

三、郡役所廃止せられて間も無き事とて、地方町村と縣當局との連絡極めて悪しく、當時京都府知事は内務部長警察部長等を率ゐ宮津に出張せしも、何村が何れに在り、其の住民幾何、其の交通路如何等は、殆んど不明にて手の附け様なき有様であつた。 此の様な事にて一朝有事の際、果して如何、寒心に堪へざるものがあると思はしめた。

今ま若し郡役所あり、郡長ありしならんか、地方情況は手に取る如く知られて、如何に救護を利したか抔考へ、郡役所廃止の有害無益なりし事を痛感した。 (郡役所廃止されて町村の経費は却つて増加してる。)  其の後市町村と縣との連絡大に進み、警察に由る連絡も大に改善せられたが、今尚ほ郡に比すべき中間機関の設立を望む聲朝野に絶えざるものあるは、蓋し止むを得ざる事なりと信ずるのである。


四、震災後第四日であつたと思ふ。 先任参謀をして網野より岩瀧に至る激震地を徒歩横断せしめ、始めて精確なる情報を得て一般の救護作業を利した。 又た第七日目のことである。 自分は自動車を駆つて道路を修繕しつゝ、岩瀧より網野の隣村鳥取村に出でたるに、到る處の住民は自動車の聲を聞き、救援の途開けたるを知り頗る安堵した。


五、奥丹の地震の時は先例の有る事とて、全國よりの救援施設が理想的に殺到した感ありしも各地より来る救護班の中には高い旅費日當を取り、眞新しいショーベルを擔ぎ、仕事の命令が無いからと言うて毎日々々ブラブラ歩き廻はり、丸で地震見物の様な有様で、之れに宿所を用意し糧食の配給の世話もせねば成らぬので、却つて被害地の厄介と成つたものが多かつたが、此の時舞鶴の兵員と職工は、殆んど自費で出張し、片端から道路を修繕し、倒壊家屋を起こし、負傷者を救護したので、海軍は到る處神様のやうに思はれた。

陸軍某聯隊よりも救護班が来た。 之は戦時装備で剣突鐵砲と實弾携帯でやつて来たが、来て見ると弾薬よりは米麦、鐵砲よりはショーベルが必要であると言ふ事が解り、一寸皮肉で有つた。 留意を要する事である。


 六、震災後長く奥丹地方に在りて地震学の研究を進められたる今村博士 (明恒、東大地震研究所、教授) の談に依れば、今回の地震に依り従来は地震計に依り平面的にのみ地殻の變動を知り得たるに、今回の實験に依り之を立體的に測知する事を得るに到り、震源が何の地にして深さ幾何の點にあるかを知り得るのみならず、震源地の遠近も一層明かに知るを得る様に成つたとの事である。


 尚ほ博士より左の訓戒を受けた。

 一、地震の時の火災は地震其の物より来る災害を十倍にするを例とす。 何よりも注意すべきは火災を防ぐ事である。


 二、第一震に倒壊せざる家屋は餘震では倒れるもので無い。 故に餘震に恐るゝ事なく安心して火を消し、然る後ち人を救ひ、財物を取り出すも決して遅きに非ず、何よりも防火を先きにすべきである。


 以上の外、奥丹地震に就ても、まだ記すべき事多々あるが、餘りに長談議と成るので、此の位ゐにして擱筆する。
(続く)
posted by 桜と錨 at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月05日

『運用漫談』 − (39)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その14

 本年度 (昭和八年度) の国家総豫算は二十二億四千萬圓である。 其の内海軍費は経常臨時合計三億七千萬圓、陸軍費は四億五千嵩圓にして、国防費は両者合計八億二千萬圓の巨額に達して居る。

 此の世智辛ひ世の中で、此様な莫大なる費用を投じて行ふ帝国々防の眞の根幹は、何と言うても海軍艦船兵器の精鋭充實にある。

 従つて是等艦船兵器の保存手人の重任に當る海軍々人の任務の重、且つ大なるものあるは言ふ迄も無いが、果して如何程の注意と努力が拂はれて居るか、敢て数字を掲げて留意を喚起する次第である。

 日本武士道の傳銃的精神の中に、傳家の寳刀を大切にし、其の精美を以て誇とし、何を措いても此れ丈けは錆びさせないと言ふ精神がある。 吾人海軍々人に取りては、艦船兵器は即ち傳家の寳刀である。 昔の武士は刀の鯉口を鏡として髯の解れを正したものである。

 吾人は各自のお預りして居る兵器を磨き立て、鏡の様に保存するを以て何よりもの誇とせねばならぬのであるが、現在吾人は果して何程の精神を艦船兵器の保存手入に打ち込み、之れが爲めに何程の努力を拂うて居るか。

 艦船乗員の二六時中の業務は数時間の教育訓練の外は、総て此の艦船兵器の保存手入に費やされ、日課作業として海上生活の本體となつて居るのであるから、敢て不足を言ふべき限りでは無いが、既に日課事業と成つて居るので自然に慣れることに成り、其の精神を忘れて形式的に走り、保存手入の實を十二分に挙げ得ざる恨みなきにしも非ずと思量さるゝ故、以下保存手入に就き漫談を試みることゝする。

 保存手入に関する心得に就ては兵学校、運用学校 (注1)、機関学校等の教科書の外、種々の出版物があるので、茲には只船堂生の體験に就き思ひ出づる儘に書いて見る。


 艦船兵器を自己の傳家寶刀と心得よと言ふた。 又た御上のものを自分の所有物の如く大切にせよと言ふ訓示は度々聞く處であるが、之に對して自分のものと心得よと言ふは以ての外の不都合である。 御上のものであればこそ自分のもの以上に大切にすべしと心得よと言ふのが本當であると言ふ人がある。

 誠に尤も至極で、殊に一切を国家に捧げるを本領とする吾人海軍々人に取りては、全く一言無い處である。 併し悲哉、人間は利己本位の動物である。 自分の物と思へば大切にするが、公のものと言へば粗雑にする弱點がある。

 比較は聊か非倫の嫌ひはあるが、彼のマルクスの共産主義が事實上共殺主義に堕し、露国の 「共働農業組合」 政策が全然 「共不働農業組合」 と成り畢つた事は、全く此の利己的本能の典型的事例である。 注意すべきは實際と理論の相達である。
(続く)

======================================

(注1) : 海軍航海学校、砲術学校、水雷学校など、それぞれ担当する船体・武器・装備機器についてその運用法 (操作取扱・保存整備) を教える術科学校のことを指します。 「海軍運用学校」 というのがあったわけではありません。


posted by 桜と錨 at 13:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月07日

『運用漫談』 − (40)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その14 (承前)

 船堂生少尉の時である。 軍艦 「敷島」 回航委員の末席に加へられた (明治32〜33年)

 回航員は定員の三分の二に達せざる少数である。 其の上に英国著早々受取つた 「敷島」 の艦内の不潔な事、實に驚くべき有様で、甲板は泥と塵の踏み固められた約一寸厚さの汚物で覆はれて居り、汚い談だが下甲板の隅や、艦底等には、ウカとすると黄金佛の伏兵に足を拂はるゝと言ふ有様であつたが、受領後三ケ月足らずで日本に歸り、直に大演習に加はり、畏れ多くも 明治大帝の御召艦と成ると言ふので、此の 「敷島」 を清浄にし美化するに就ては、艦副長以下乗員一同の苦心と努力は豫想外のものがあつた。

 此の難作業の直接其の衝に當りたる副長井手鱗六少将 (海兵8期) の立てられた計畫は、(一) 艦内の整頓と掃除手入は総て副長之を司り、兵員全部と作業時間の全部を之に當てる。 (二) 総ての兵器と倉庫は之れを分隊員に渡すが、之れを整頓し手入する爲めにと言うて、別に作業時間も作業兵員も與へない。 然し分隊員は何人も皆完全に 「敷島」 を回航する名誉と任務を有するから、各自の努力に依つて其の重任を果すべしと言ふにあつた。 随分無茶な命令である様に見えるが、此の計畫は美事に成功したのである。

 當時艦内一般の兵器には半年間位ひは大丈夫と言ふ防錆グリースで塗り固められて居たが、其のグリースに就ては、「敷島」 の前に日本に回航した軍艦 「出雲」 が苦き経験を嘗めたものである。 「出雲」 は此のグリースを信用して、兵器には全く手を附けず、艦内諸手入に全力を注いで来た爲め、誠に美事な美しさで歸朝したが、グリースの効力全からず、筒 (「月」偏に「唐」) 中等に發銹し、長く砲員を苦るしめたものである。 此事は 「敷島」 回航員もよく聞かされて居たから、何とかせねばならぬと考へて居た。

 然るに副長の注文は前掲の通りであるが、事情又た止むを得ざるものがあるので、分隊員は副長に對し、必ず兵器は分隊員の手で立派に日本へ持ち還へる事を盟ひ、早速グリースを拭ひ去り、日中の休み時間は勿論、就寝後も起きて各受持兵器の手入をなし、受領當時は恰も豚小屋の観ありしケースメートは、忽ちにして洗ひ清められ、兵員相互間にケースメートには靴の儘入る事を禁じ合ひ、間も無くして共の甲板は甜めてもよい様に清浄にせられ、ウツカリ靴穿きの儘で立入らうものならばぶんなぐられ相な勢であつた。

 此の様な次第で、大砲等はピカピカに磨き上げられ、丸で鏡の様に輝き、艦内の掃除整頓も立派に出来上り、回航歸著の時は見る人をして驚かすに足るものあり、御召艦として十二分に任務を盡す事が出来たのである。 各自の責任を明かにし、自分のものなりと考へさすと、斯の如き好成績を挙げ得るものである。


 明治三十三年頃船堂生中尉で、佐世保水雷團第三艇隊の艇長心得 (注1) を命ぜられた時分の事である。

 當時の水雷艇には固有の定員なく、命課は総て隊の名に於てせられ、艇員は司令の命令に依つて定められたものであつた。 のみならず艇員は絶て陸上兵舎に起臥し、各艇には當番のもの丈けを配乗し置き、イザ出動と成ると、兵員はハンモックを持ち、士官は海圖を持つて乗込んだものであつて、此艇は自分のものだと言ふ感じが薄く、従て各艇の保存手人は誠に不十分であつたので、石田一郎司令 (海兵11期) 、山田亨司令 (東京商船学校) 、高松公冬司令 (海兵14期) 等相謀り、上司の許可を得て各艇の艇員を固定して艇内に起居する事にしたが、間も無くして艇内の整頓行き届き見違へる様に成つた。

 此れと相似た事が後年潜水艦の發達時代にも起つた。 初期の潜水艦は艦内狭隘にして居住出来兼ねたる爲め、母艦若くは防備隊に起臥したものだが、其後潜水艦發達して艦内居住可能なるに及び、艦内の保存手人等大に改善されたのである。
(続く)

======================================

(注1) : 著者の経歴を見ると、この中尉の時は佐世保第一水雷艇隊、明治35年の大尉の時が佐世保第三水雷艇隊とされています。 誤植と考えられますが、詳細は不明でので、そのままとしております。


posted by 桜と錨 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)