2010年10月19日

『運用漫談』 − (1)

 
mandan_00.jpg

 連載の開始に当たって

 これから連載を致します 『運用漫談』 は、大谷幸四郎氏が予備役編入後に海軍の離現役士官及び特務士官の親睦団体である 「海軍有終会」 の会報誌 『有終』 に昭和7年から同9年にかけて投稿したもので、これを有終会が改めて1冊に纏めて同会より刊行したものです。

 大谷幸四郎氏については、馴染みのない方が多いのではないかと思いますが、海兵23期卒 (明治29年)、以後水雷畑に進み、水雷艇艇長、駆逐艦長などの所謂 「車引き」 の道を歩まれ、身を以て波飛沫を浴びながらの勤務をされました。 このためもあって、後年この 『運用漫談』 にみられるように運用術に関する大家となられたわけです。

 第11駆逐隊司令のあとは、大正4年 「春日」 艦長に補せされたのを初めとして、以後順調に海軍将校としての出世の道を歩まれ、昭和5年に呉鎮守府司令長官を最後に予備役に編入されました。

 この 『運用漫談』 が書かれたのは昭和9年ですので、中には既に古くなってしまったことも当然ありますが、それでも現在でも充分に艦艇勤務において適用できるところも多く、所謂 「シーマンシップ」 の基本でもあって、今日にも通用する運用術の原点です。

 お読みになる方で、ご自身ではあまり船に乗られたことのない方には、少々判りにくいところ、ピンとこないところがあろうかと思います。 専門用語などについてはできるだけ注釈をつけるようにいたしますので、どうか海上勤務の一端を感じ取っていたき、船乗り気分を味わっていただければと思います。

 なお、文中に 「逸人」 とか 「船堂生」 とかが出てきますが、これは元々の 『有終』 掲載時に 「船堂逸人」 の名で発表したためで、著者大谷氏の自称のことです。

管理人 桜と錨

-------------------------------------------------------------

『 運 用 漫 談 』

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

 その1

 逸人元来頭が悪い、殊に数に対する記憶力が極めて悪い。 従って漫談中の故事は精確と言へない。 夫に加へて怠け者で、記録類を一つも持って居ないから、凡て抽象的に陥り易い。 此の點読者の御見許しを乞ふ。

 又所謂漫談である。 其の餘沫を喰って、御迷惑を感ぜらるゝ人も多からうかを恐れるが、口幅廣い言ながら、後進教育の為めにする事であるから、之れ亦豫め御見遁がしを乞ふ次第である。

cutter_sailing_02_s.jpg

 逸人兵学校四號生徒 (注1) の時、運用術教員に白井と云ふ三等兵曹がゐた。 昔時二等兵曹三等兵曹は未だ水兵服を着て居った。 或日力ッ夕ー帆走稽古の時に、逸人コックスン (注2) の役目で、上手廻し (注3) をやったが、どうしても旨く行かない。

 白井教員之を見て、シート (注4) を固縛して、艇員は皆艇首に集まれと言はれたから、その様にして見ると、艇は獨り手にくるりと上手廻しをやって了つたので、逸人大に恥をかかされた次第である。

 共の時白井教員は

 『 大凡行船には、ツリム (注5) に気を附ける事、帆と舵の作用の相互関係等に就て考慮する斯あらねばならぬ 』

 と言はれた。 此の事は逸人一生忘れ得ない所である。

 近代の戦艦巡洋艦等に於ても、ツリムミングタンクと言ふものがある。 之を利用して、常にツリムを良好に保つ事に注意して居る様にすれば、廻転圏や隋力等が一定して操艦上得る所が多い。

 逸人若き時、三等駆逐艦で、紀州大島沖で暴風に遇ひ、艦首を南から西に向けようと致したるに、艦首が南々西に向つた儘で、どうしても夫れ以上に回頭しない。 常時風浪強く、12節以上の速力を出す事が出来ない。 一時間餘も波と戦って居る内に、段々沖に出て、漸くにして西に回頭する事が出来た。

 之れは矢張りツリムと舵力と乾舷に受ける風圧等の相互関係から来る現象である。 ツリム状態の悪い二三等駆逐艦に乗ったもので、此の様な目に遇ったものは可なり多からうと思ふ。
(続く)

======================================

(注1) : 海軍兵学校における最下級生のこと。 要するに1年生。 なお、兵学校は4年制の時と3年制の時とがありましたので、後者の場合は当然ながら最下級生は3号生徒になります。


(注2) : Coxswain、艇長。 海軍においては特に断りがなければ艦載艇などの 「短艇長」 を意味します。


(注3) : 帆走において風上側に間切って進む場合に、その風を受ける舷を変える時に艇首を風上側に回頭させ、そのまま風上を横切って反対舷に針路を変える操作をいいます。


(注4) : sheet、帆走において帆を展張し維持するため索のこと。


(注5) : trim、船の釣り合い (balance) のこと。 特に断り無く 「ツリム (トリム)」 と言った場合には、船体の前後の釣り合いのことで、前部吃水と後部吃水との差のことをいいます。 正規の正常な状態の時を 「イーブン・ツリム (even trim)」、それよりも前部が深く後部が浅い状態を 「ダウン・ツリム (down trim)」 又は 「バウ・ツリム (bow trim)」 と言い、その逆は 「アップ・ツリム (up trim)」 あるいは 「スターン・ツリム(stern trim)」 と言います。

 本項の例では、ダウン・ツリムにすることにより艇の重心及び浮心を風圧中心であるM點より前にすることによって、自然と艇は風上に立つように動くことをいいます。 したがって、この状態である程度の勢いを付けて走っていれば自然と艇は風上に向くような力が働き、舵を切れば、その回頭の勢いで風向きの反対側まで回ることができることを教えています。


cutter_sailing_01_s.jpg

     本来が人員・物資輸送用であり、救命艇でもあるカッターでの帆走は、ヨットなどのような身軽なものと異なり、この上手廻しの様に運用術上の “コツ” が要求されます。


posted by 桜と錨 at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年10月21日

『運用漫談』 − (2)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その1 (承前)

 軍艦 「富士」 で、彼の青島で分捕た一萬噸浮ドックを、佐世保から神戸へ曳行した時に、海上保険を附ける事になった。 保険料は何でも二十五萬圓位であった様に覚えてゐる。

 日本には一つも之れに應ずる保険會社は無かった。 欧米にも無かった。 唯一つ英国の何とか云ふ保険會社が百馬力 (?) 以上の曳行力を有する曳艇を附属するならば、保険を引受けようと申出て来たので、結局其の會社にやらせる事となった。

 昔時自分は此の話を聞いて、何故に此の様な曳艇が必要か、一寸不審に思った。

 愈ゝ種々の準備が出来て、佐世保出港の日となる。 見学者が可なりの多数で、逸人も其の一人であったが、向後崎見張所に登って、「富士」 の出港振りを見たものだ。 「富士」 は恵此須湾に碇泊して居つた。

 愈ゝ抜錨して出港を初め、艦首は回頭して港内に向つたが、其の儘回頭が止まって動かない。 昔時 「富士」 の右舷バウ六點 (注1) 位の処から力一 (注2) 位ゐの風が吹いて居つた様に覚えてゐる。 愈ゝ回頭しないものだから、前記の曳艇で船渠の艫を曳き廻はし、出港した。

 向後崎見張所の見学雀連の問に議論が始まった。 其の甲は 『「富士」 は曳船をしてゐる為、回転圏が非常に大きくなつて居るから、回頭が出来なかつたが、廣い洋上へ出れば回頭は出来る』 と言ふ。

 其の乙は 『「富士」 は彼の乾舷の高い船渠を曳いて居る。 斯様な状態に在る時はどうかすると、「富士」 の舵力と船渠の受ける風圧を平均して、回頭の點から見ると、或るデッドポイントに達する時がある。 只今「富士」 の回頭が止まったのは、即ち其のデットポイントである。 斯様な場合には、曳艇の補助を受けねば、如何ともする事が出来ない。 保険會社が曳艇を附属すればと云ふ條件を附けたのは矢張りえらい』 と言ふ。

 斯様に議論が二つに分れ、双方各自の主張を執って動かない。 其の「富士」 はさつさと動いて、出て行つて了つた。 其の後聞く所に依ると、「富士」 が愈ゝ大隅海峡に臨み、之れから室戸崎に向つて変針しようとしたるに、艦首が種ケ島に向つた儘、回頭が止まつて動かないから、止むを得ず曳艇の厄介になつて、漸く神戸に達する事が出来、右の諭争は遂に乙黨の勝ちとなつた。

 此等も矢張り白井教員のツリム論の要諦を呑込んでゐさへすれば、容易に合點し得る事柄である。
(続く)

======================================

(注1) : point、方向 (方位) の角度の単位で、360度を32点として表すものです。 1点が11.25度ですから、90度が8点、180度が16点となります。 したがって、ここで言う 「右舷バウ6点」 とは艦首から右へ67.5度の方向 (方位) であることを意味します。


(注2) : 風力、つまり風の早さを示すもので、0〜12の13段階で表したものです。正式には 「ビューフォート風力階級」 と言われます。 因みに、風力1は風速1〜3ノット (0.3〜1.5m/秒) 、至軽風(Light Air)と言われ、海上では鱗の様なさざ波があるような状態を表します。

 余談ですが、風の向き、即ち 「風向」 は風が “吹いてくる方向” を表しますが、潮流の向き、即ち 「流向」 は潮が “流れていく方向” を表します。


posted by 桜と錨 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年10月23日

『運用漫談』 − (3)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その1 (承前)

 曳船の話が出たから、序に軍艦 「笠置」 が佐世保から大湊へ百五十噸 (?) の浮船渠を曳行中、山口縣角島燈臺の下に乗揚げた時の情況を考へて見る。 (注1)

tsunoshima_map_01_s.jpg
( 元画像 : Google Map より )

 當時 「笠置」 航海長は佐世保出港の日、初めて赴任した計りであるが、船渠を曳いてゐる。 風は左舷クォーター (注2) からニ〜三の力 (注3) で押してゐる。 之れが為、艦首は頻りに左舷に回頭しようとする傾きがある。 此等の點から當直将校に 「艦首を左舷に取られない様気を附けよ。 又明朝午前一時になれば起す様に」 と之を申継ぎとして命じて置いた。

 其の時針路を決定するのに、単に船渠を曳いて居る為に、船が風上側に向く傾向があるから、船は風上側に変位するだらうと考へて居つた様であるが、之れは反対で、艦首が風上に向ふのは、船渠が風下側に押し流さるゝ為であるから、此のリーウエイ (注4) に対して、十分に餘裕を取って置かねばならぬと言ふ考が薄かつた様に聞いてゐる。

 其の内に艦は進んで角島に近づき、豫定位置から云へば、燈臺は右舷、バウニ點位に見えるべきに、夫れが眞バウに発見された。 副直将校は変だから、直に航海長に届けようとしたるに、當直将校は 「午前一時に起せと言はれてゐるから、夫れ迄は宜しい」 と言うて、届けさせない。

 燈臺の方では、変な方向から船が来るから危険だと言うて警戒信號用の火箭を揚げて、大に注意を促がした。 「笠置」 は其の儘ずんずん進んだ。

 其の内航海長が来て (或は當直将校が驚いて?) こりゃ大変だと言うて、「取舵一杯」 を命じたが、廻はり切らん内に、ドシンと乗り揚げて了つた。

 責任は執れに在るか知らんが、曳航中の艦船が風圧を如何に受け、風圧と舵力の関係が如何様な結果を来たすかと云ふ事に対する注意の不充分たりし事が、此の不祥事の重なる原因である。

 又燈臺が意想外の方向に見えた時に、直に艦長航海長に其の旨を報告せなかつた當直将校の処置は洵に以ての外である。

 當時某将軍 (5) は此の談を聞かれて、『そんな奴は一刻も海軍に置いてはいかん、直に放り出せ』 と言うて大変憤慨せられたが、其の當直将校は所謂名士で、其の後も可なり羽を振はれて居つた様覚えてゐる。 こんな當直将校に会うては、艦長は災難である。 自他共に大に注意すべき事である。

 「富士」 「笠置」 の船渠曳船作業に就ては、確實なる記録があるだらうと思ふが、研究したいと思はれる人は就て見られ度い。
(続く)

======================================

(注1) : この 「笠置」 の座礁事故については、その発生年月日や損傷の程度などの詳細は判りません。 もしご存じの方がおられましたらご教示下さい。

当該事故関連につきましては、「アジア歴史史料センター」 より公開されております 『明治36年公文備考巻14 艦船3』 の中に一連の史料が集録されています。 早速ご教示いただきましたHN 「ヤマナカ」 さん、ありがとうございました。 これを見る限りでは、当時としては救難などで騒いだ割には結果としてあまり大した被害もなく、大きな艦船事故とは扱われなかったようです。 どおりで旧海軍の遭難事故摘録集にも出てこないはずで。 (24日追記)


(注2) : quarter、艦尾から45度。 即ちこの場合艦尾から左45度の方位 (方向)。


(注3) : 風力2〜3は、風速4〜10ノット (1.6〜5.4m/秒)、軽風 (Light Breeze) 〜 軟風 (Gentle Breeze) と言われ、海上では漣がはっきりと目立つ段階から白波が現れ始める状態までの間です。


(注4) : Leeway、風落。 即ち、船が風下側に圧流されること。


(注5) : 海軍の事なのに将軍? 提督の誤りではないのか? と思われる方もおられるかもしれません。 が、正しくは 「提督」 と言うのは指揮官配置 (例えば艦隊司令長官など) にある将官のことで、指揮官配置にない将官 (例えば艦隊参謀長など) のことは 「将軍」 と呼びます。

posted by 桜と錨 at 16:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年10月26日

『運用漫談』 − (4)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その2

 逸人兵学校の四號生徒で、例の白井教員指導の下に、汽艇 (注1) 発着法の教練をやった時、原速力で汽艇を筏に衝突させた事がある。 其の時に教員は

  『 衝突の稽古と言ふものは計畫的に出来るものではない、只今のは汽艇と筏との衝突だが、大艦の衝突の時も同じ気分の下に行はれるものだ。 大艦を衝突させては大變である。 今の気分を忘れずに、他日の参考とする様に 』

 と言って教へてくれた。 自分は此の訓育は一生忘れる事が出来ない。

 一体艦船を衝突させたり、坐礁させたりするのは、

     (一) 事前にぼんやりして居ること、
     (二) 危険に臨んで泡を喰ふこと、
     (三) 事の起るや狼狽して、如何に之に処すべき乎を知らざる

 に基因する。

 右の汽艇の衝突も此の三拍子の揃ふたものである。 逸人性来ぼんやりであることを知るから、行船上に於ては常に之に対する注意警戒を怠らない積りであるが、生れ付きは致方ないと見え、三十八年間の海上生活中、日露戦争に際し水雷艇七十一號を坐礁させ、世界大戦中に濠洲西岸で、軍艦 「春日」 を坐礁させた。 此等は皆なぼんやりが其の大原因であった。

 日露戦争中旅順口封鎖戦には、自分は水雷艇七十一號艇長として従軍したが、封鎖破りを企図する支部ヂャンクは多く芝罘 (現在の烟台) 方面から廟島列島を根拠として居る疑があるので、一は示威運動により彼等を威圧し、一はヂャンクの錨地に進入し、疑はしき點あるものを臨検する目的を以て、同方面を巡航することゝなり、芝罘沖から西上して、登州 (現在の蓬莱) 附近の沿岸を巡航し、登州堆 (下図参照) の南方に出でんとした所が、此の附近の常時の海図は支那海図を翻繹したものか、水深は通常の通り尋を標準として居るのに、暗礁の水深を示すには、尋を以てせずして尺を以てして居つた (注2)

toshutai_chart_01_s.jpg
( 71号の座礁位置は登州堆の右下にある水深1.3mの表示付近と考えられます。 )

 即ち一/二尋礁、一/四尋礁と云ふべき所を三尺礁、一尺五寸礁と云ふ様になつてゐる。 普通海図では、三尺岩、百尺岩と言へば、水面上三尺又は百尺の高さある岩を示したものである。

 自分は此の岩と礁の区別を考へずに、尺を使ふて居るから、水面上の高さを示して居るものだとぼんやり獨断して了ひ、常時干潮時であったから、此等の小岩がどうしても見えねばならぬのに見えないから、艇附将校にも気を附けよと命じ、双眼鏡で一生懸命に四方を見て居る内に、艇はドシンドシンと音しつゝ、身振ひをして行脚が止まつた。

 自分は直に機械を停止し、次で投錨を命じ、附近の水深を測らせたるに、何れも八尺以上ある。 夫れから交叉法により艇位を測りたるに、正しく六尺礁を乗切って居ることを知り、始めて礁と岩の間違ひに気が附いて流汗三斗したれども、自分のぼんやりの罪は免かるベくもない。 夫れから艇の損害を調査したるに、船体にも舵機にも機械にも何等損害を認めないので、まあ懲罰にもならずに済んだ。
(続く)

======================================

(注1) : 昭和年代においては、旧海軍では 「汽艇」 とは長さ約10m、幅約2m、搭載人員約30名の蒸気推進の 「機動艇」 の一種を意味していましたが、本稿における明治中頃の兵学校においてどのようなものを使用していたのかは不明です。

 因みに、旧海軍では100トン未満の舟艇を 「短艇」 と総称し、これを 「機動艇」 「漕艇」 「櫓艇」 の3種に分類していました。 この内、機動艇には推進機関の種別により 「汽艇」 「電動艇」 「内火艇」 の3種があります。 なお 「艦載水雷艇」 というのは、推進機関の種類に関わらず、魚雷発射 (落射) 機を装備する艦船搭載の機動艇の特別呼称のことです。


(注2) : ここでいう 「尋」 は 「ファザム (fathom) 」 (1fathom = 6feet ≒ 1.8m)、「尺」 は 「呎」、即ち 「フィート (feet) 」 のことです。


posted by 桜と錨 at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年10月28日

『運用漫談』 − (5)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その2 (承前)

 夫れから間もない事である。 隍城島 (下図参照) を基地としての哨戒法は四日間宛で交代する事と成つて居つたが、一日自分は交代を終り、小平島錨地 (下図参照) に帰らんとし、午後一時出港、午後五時小平島に入港の豫定で、隍城島を出港し、極めて呑気な気持で航海しつゝあつた所が、午後二時頃旅順方面から勃海湾方面へ掛け、黄色の雲の様なものが満天に広がり、凄惨な光景を呈して来たが、自分は夫れが何なるかを知らず、濃霧の襲来かなあ位ゐに思つてゐた所が、夫れは支那人の所謂黄塵萬丈といふ奴で、どうしてどうして萬丈どころか数千萬丈だ。

 夫れから愈々此の塵幕へはいると、此の地方の特色たる三寒四温の始まりで、凜烈たる北風が暴風の様に荒れて居るではないか。 今迄の歓楽境は忽然として濃霧中の暴風地獄と成った。

 推測によると、艇の左前方には、「初瀬」 「八島」 のやられた敵機雷の敷設面たる]地點 (下図参照) があり、右前方には遇岩 (下図参照) がある。 艇の位置は充分に確信がない。 頗るまづい気持と成ったが、三寒で三日吹くといふ事に気附かず、一時の疾風だらう位ゐに考へ、其の儘続航したが、風は止めばこそ、益々強暴を加へるのみだ。

X-point_map_01_s.jpg
( 元画像 : 防衛研究所図書館所蔵 『聯隊機密綴』 より )

 隍城島を出る時に、鶏二十羽、梟二羽、小鳥数羽を持つて居つたが、寒さと浪で皆な死んで了つた。

 愈々]地鮎に近づいたが、右には遇岩があり、艇位が不確實であるので、どうする事も出来ず、其儘の直進し、夜の十時過に、初めて旅順黄金山の探照燈を発見した時には、全く蘇生の思ひをなした。

 七時間の奮闘で、着物は肌迄びしょ濡れ、夫れが肩ヘドッシリと重もり掛り、押しつぶされる様に覚え、寒さは寒し、士官も水兵もへトヘトで、綿の様に疲れてゐる、正子の頃漸く小平島錨地に入ったが、沖の錨地は波浪があり、動揺がひどいから、水兵を楽にしてやらうと考へ、暗夜で危険を感じたけれども、岩礁の間を通り、奥の錨地に入港し、ヤレヤレと思ひつゝ右舷錨を投じた。

 所が約七位の風 (注1) を右舷に受けて居るから、錨は少しも効かない、次で左舷錨を投じたがまだ効かない。 艇はドシドシ左方に流され、間も無く艇尾のガード (七十一号は推進器の下に強固なる保護楯あり) が海底に触れ、艇は之を中心として艇首を九十度振り廻はし、風を全く艇尾に受けて、擱坐して了つた。

 直ちに小平島見張所を通じ、艦隊へ 『我れ坐礁』 の信號を発し、何とかしようとしたが、比の邊は一帯にファイン・サンド (注2) の遠浅であるので、艇底の傷む虞れはない、又た何とするも仕様がないので、作業を中止して休憩を命じ、天明を待つ事にした。

 其の後聞く所によると、水雷戦隊司令官や幾多の僚艦では大変心配して、何とかして救助せんとし、終夜寝なかつたといふ處もあり、大に恐縮した。

 翌朝になつて見ると、艇は全く陸上に在り、潮は遠く引き去つて居るので、艇底を調査したるに、何處も損害はない。 曩きの猴磯水道に於ける觸礁の跡を見るに、塗具が一寸剥がれてゐるのみである。

 夫れより艇底の手人や種々離礁の準備をなし、夕方の満潮を待って離礁せんとしたが、潮はー向に来ない、其の翌日も其の翌日も来ない、第四日目の朝になり、風が凪ぎると、潮は洪水の如くやつて来て、艇の處は一丈にも成つたので、楽々と沖に出る事が出来た。

 此の潮の奇なる現状は何でもない事である。 夫れは勃海湾の様な處で、一定したる北方の強風が吹き続くと、湾内の潮水は遠く南方に圧し出されて、満潮の時でも北進し来る事が出来ないが、一旦風が凪ぎると盛なる勢で迫入し来るものである。

 以上二回の失策は第一回は海図を見るにぼんやりしてゐた事、第二回は投錨に際し、風圧に対する注意皆無なりし事に原因するので、全く艇長ぼんやりの罪である。 只幸運にして何等の損害を招来せざりし為め、懲罰にもならなかつた。 之れ又た逸人の運が好かったので、神に謝する所である。
(続く)

======================================

(注1) : 風力階級7は、強風 (moderate gale) といわれ、風速13.9〜17.1m/sで、波頭が砕けて白い泡が風に吹き流されるような状態です。


(注2): Fine Sand  海底の底質の表記法の一つで、直径0.25〜0.05ミリの細砂であることを示し、海図上では 「f.s」 と記されます。

 
posted by 桜と錨 at 14:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年11月06日

『運用漫談』 − (6)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その3

 前回に於て、逸人の盆鎗振りの一端を白状したが、幸に艦船には何等の損害なかりし為め、共の罪を問はれずに済んで来た。

 然るに世界大戦に於ては、濠洲の西海岸に於ける軍艦 「春日」 の坐礁と云ふ大失敗を演じ、悪道盡きて、遂に奉職履歴三枚に亙る朱字を頂戴する様に成つた事は、逸人の全く以て恐縮して居る所である。

african_reef_s.jpg
( 元画像 : Google Earth より )

 常時の情況は左記の懲罰申渡文が要を盡して居るから、聊か長たらしいけれども、其の儘轉載することゝする。

       懲罰申渡書

 其官儀春日艦長トシテ豫テ本職ヨリ受ケタル訓令ニ基キ濠洲西岸航路警備巡航ノ目的ヲ以テ大正六年九月十二日年前八時フリーマントル出港原速十節ヲ以テゼラルトンニ向ヒ航行中 (中略) 午後七時頃ヨリ天候険悪トナリ北々西乃至北西ノ風力四乃至五ニ及ビ海上荒レ波浪高マリ艦ノ動揺ヲ加へ時々驟雨アリ

 午前零時半推測位置南緯三十度東徑百十四度三十六分ニ於テ北ニ変針シ 「ムアーポイント」 (以下M角と略称す) 燈臺ノ西三浬半ニ向ヒタルガ午前五時頃ヨリ風力少シク減ジ夕ルモ海上ノ模様依然トシ荒レ居り水平線附近ニ霞霧アリ展望十分ナラズ

 午前八時推測位置M角燈臺ノ南二十一度西十浬ニ至レルモM角ヲ認ムルヲ得ズ因テ艦へ西方ニ壓流セラレ居ルニ非ズヤトノ疑念ヲ抱キ同時ニ北々東ニ變針シ陸岸ニ近カントセリ

 然ルニ八時五分二至リ沿岸ノ霞霧稍ヤ薄ラギ陸岸餘リ遠カラザルヲ認メ再ビ北ニ變針八時十五分陸岸目標ニ依リ艦位ヲ測定セシモ正確ナラズ艦ハ巳ニM角ヲ通過シ同燈臺ノ東西線ヨリ更二北方ニ在ラズヤトノ疑ヒアリシモ安全ヲ採リM角ノ南三度西十九浬半ニ在ルモノト確定シ北々西ニ變針八時三十分電動測深機ノ用意ヲ令シ其ノ出来次第速二測深ヲ開始スベキヲ命ゼリ

 午前八時五十五分艦位ヲ求メM角ノ南十二浬ニ在ルヲ知リ餘リニ亜弗利加礁ニ近キヲ以テ直ニ北々西へ變針セントシ取舵ヲ令シタルモ其ノ時既ニ遅ク午前八時五十六分俄然艦ノ中央部ニ於テ三回ノ震動ヲ感ジ艦ノ行足忽然トシテ消滅セリ

 依テ直チニ機関停止ヲ命ジ防水扉ヲ閉鎖セリ然ルニ第一回ノ觸礁後約一分間置キニ艦ハ波浪ニ連レ振動ト動揺ヲ感ジタリ

 觸礁後機関ヲ停止スルヤ直ニ艦ノ四囲ヲ測深セナメタルニ右舷前部七尋乃至五尋右舷後部四尋三/四乃至四尋一/二左舷ハ前後部ニ渉リ四尋三/四四尋一/二ニシテ艦ノ右舷前方ニ深水部アルヲ認メタルモ推進機ノ破損ヲ顧慮シテ之ヲ使用セザリキ

 然ルニ艦ハ波浪下風壓ニヨリ漸次ニ東方ニ壓流セラレ自然ニ離礁シ艦ノ周囲ハ水深六尋以上ト成リタルヲ以テ午前九時十分厳密ナル注意ヲ以テ適宜機械ヲ使用シ艦ノ損害程度調査ノ為メM角ノ南十度東十三浬ニ投錨セリ

 投錨後初メテM角燈臺ヲ霞霧ノ裡ニ発見シ今迄M角ト推定シ居タルモノハ誤認ニシテ更ニ二浬西方ニ突出シ居ルヲ確メ觸礁位置ハ亜弗利加礁ノ東南端ナリシ事ヲ知リ又損害状況ハ戦闘航海ニ差支ナキ程度ノモノタルヲ認メ正午抜錨ゼラルトンニ向ヒ午後三時同港ニ投錨シ應急作業ニ着手セリ

 (私註) 損害状況略す。 第三缶下の清水タンクに海水浸入せる外、艦異状を認めず。事後新嘉坡 (シンガポール) に於て入渠修理したるが、同部の外板一枚取換へを要し、入渠修理等の為め、約四萬圓餘の御損を御上に掛けたのである。
(続く)
posted by 桜と錨 at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年11月14日

『運用漫談』 − (7)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その3 (承前)

 按ズルニ

 第一、航路ヲ選定スル二當リ當沿岸海面ニ於テハ此季節南東偏流アル事水路誌従来ノ航海報告及ビ海流図ノ示ス所ナルニ比較的少数ナル同艦ノ経験及ビ確實ナリトシテ信ヲ措クニハ充分ナリト謂ヒ難キ商船々長ヨリ得タル材料ニ依リ西方流壓ヲ蒙ムルべキヲ信ズル事大ニ過ギ偏東流偏南流ニ對スル顧慮比較的薄カリシ事

 第二、前夜来断へズ北西ノ強風二會シタルニ伴ヒ速カニ及ボスべキ影響ノ顧慮風壓流壓ニ對スル顧慮周到ナラザリシ事

 右二項ガ艦位ヲ不確實ナラシメタル本来ノ主因ナリトス

 此ノ結果トシテ

 當日午前八時M角ヲ認メ得ザルトキ艦ハ西方ニ壓流セラレ居ルニ非ズヤトノ疑念ヲ抱キ同時ニ北々東二變針シ陸岸ニ近カント試ミタリ

 此際更ニ思慮ヲ練リ萬一東方ニ壓流セラレタル場合ニ於ケル結果ニモ考及スルヲ最安全ナリトスべキニ西方壓流ノミニ留意シタリ

 次ニ午前八時十五分M角燈臺ノ東西線ヨリ更ニ北ニ在ラズヤトノ疑ヲ抱キタルモ安全ヲ採リM角ノ南三度西十九浬半ニ在ルモノト測定シタル時一層安全ヲ計リ更ニ多ク偏西ニ變針スルカ若クハ速力ヲ大減又ハ停止スルカノ手段ヲ執ル事ニ考及スルヲ此場合ニ於ケル最良法ト認メ得べキニ事爰ニ出デズ

 又午前八時五十五分艦位ヲ求メM角ノ南十二浬ナルヲ知リタルトキ變針一層大ナルヲ最安全ト認メ得べキニ事爰ニ出デザリシモノナリ

 尚ホ艦位不確實ノ虞アリタル時速二錘測ヲ行ヒ警戒スべキ界域ニ在ラザルヤノ探知ニ力ムル事、見張ヲ一層厳ニシテ波浪其他海面ノ状況ニ留意スルコト又當日未明以後ノ状況ハ天測可能ナリシニ由リ之ニ依テ艦位ヲ確ムベキ事是レ等ノ手段ヲ神速ニ行ヒタレバ或ハ禍害ヲ未然ニ防ギ得タル事可能ナリシナランニ前記本来ノ主因タル西方壓流ノ過信ト速カニ受ケタル影響ノ顧慮周到ナラザリシ結果トガ思慮ノ全般ヲ支配シ為ニ如上手段ノ著手敏活ナラズ測深見張天測等ノ効果拳ラザルニ先チ觸礁ノ難二罹リシ事ハ艦長ヨリ提出セル報告竝ニ艦長航海長ニ對スル質問ノ結果ニ由リ明瞭ナリ

 (私註) 艦長に對し同情的論告あるも、之を略す。

 之ヲ要スルニ前記原因二由リ艦ヲ觸礁スルニ至リ新嘉坡ニ於テ入渠ノ上工事日数約二十日間修理費概算一萬八千弗ヲ要スル損害ヲ蒙ラシメタルハ如上酌量スベキ點アリト雖モ航海上必要ナル注意ヲ缺ケルニ基因シタル事明瞭ナルヲ以テ當事者之ガ責ニ任ズべキモノトス
 
 右行為ハ海軍懲罰令第九條第十一號二該當ス依テ同令第十一條第十二條ニ依リ謹慎十二日ニ處ス

 右の判決は全く適當なるものであり、逸人の一言ない所で、豫てより向ひ風に會したる時、春日が豫想外の影響を受ける事を知れる自分が此の風壓に對する顧慮十分ならざりし事と、既に不安と危険を感じたるより後の處置緩慢なりし事は、船乗りとして許すべからざる失態である。

 逸人百度び懺悔するも、到底其の罪を償ふ事は出来ない。 只だ此の懲罰文が幾分にても後進者の参考となり得ば、逸人のせめてもの罪亡ぼしと考へる次第である。

(附記) 此の坐礁事件に就て、参考とすべき一、二件を附記する。

一、不安なる海面を航海する時、測深機の使用に骨を惜むベからずとは自分の豫ねがね唱へ居る所で、當日も年前七時半に既に気が附いて、當直賂校に命じた積りであつたが、其の命令の不徹底たりし事は艦長の罪である。命令は確實でなければならぬ。

二、坐礁後は (一) 防水扉を閉鎖する外、(二) 速に四囲の水深を計ること、(三) 艦底調査の為め潜水器を用意すること、(四) 推進機の使用には厳密なる注意を拂ふこと、(五) ストリームアンカー (注1) 運搬のこと。

 此等は其の必要が同時に起るから、豫め研究し、訓練し置く事が必要である。
(続く)

======================================

(注1) : Stream Anchor 「中錨」 のこと。 旧海軍では軍艦が装備する錨には 「主錨」 「副錨」 「中錨」 「小錨」 の4種類があり、『海軍艦船艤装規則』 により艦種毎にこれらの大きさや装備数が決められていました。

「主錨」 (Bower Anchor) : 艦首両舷にある常用の錨で、錨泊用に使われますし、またその錨鎖は浮標 (ブイ) 繋留の時に使います。

「副錨」 (Sheet Anchor) : 主錨と同じ大きさ応急用予備錨で、通常主錨の後方に装備されました。 昭和期に入ってからは艦首装備は廃止され、次の中錨をもって副錨としました。

「中錨」 : 主錨の1/3〜1/4の大きさで、普通艦尾 (小型艦艇では中部) 付近外舷に1個置かれており、艦尾を一時的に所要の方向に維持する場合などに使用されます。 通常は錨鎖ではなく錨索を使います。

「小錨」 (Kedge Anchor) : 中錨より更に小型のもので、簡便に多用途に使用されます。 上甲板隔壁や舷側などに置かれます。


posted by 桜と錨 at 19:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年11月15日

『運用漫談』 − (8)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その4

 前二回に渉りつまらん逸人の懺悔談で、諸君の御気を悪くしたらうと思はれ、恐縮の感がありますので、今回は一つ軍隊の士気を保持するには如何にすべきかに就き、逸人の所験を陳ベる事とする。

 弓も常に張り切って置くと、腰が披けて直ぐ役に立たなく成る。 さりとて又た金銀の高巻繪的装飾を施こし、観兵式的御山の大将の光を添へる一具となつても駄目である。


 逸人中尉の時、水雷艇七號の艇長心得と成つて、初めて水雷発射に出掛けた。 七號艇の発射管は固定のバウ・チューブ一門と中央旋回発射管一門とであつた。

 常時の水雷発射は只魚雷が旨く走る乎、走つて、そして浮むでくれる乎を見るのが主眼で、何等實戦的研究が行はれて居ない様に思はれたから、自分の標的を眞の敵艦と見做し (當時水雷戦隊は碇泊艦襲撃を主眼として居つた)、先づ標的に向つて突進し、バウ・チューブを発射し、直に轉舵旋回発射管を発射し、二門の発射畢つて、初めて採拾すると言ふ遣り方を取つた。

 所が掌水雷長は驚いて、『そんな事をすると、きつと魚雷を亡くするから止めてくれ』 と言うて来たが、『實戦の時はどうする乎』 の一言で之を撃退し、ヅンヅンやると、忽ちにして二本沈没、一本失踪といふへマをやつた。

 然し之は實戦的だと云ふので、兵員の士気は大に緊張し、面白がつて、魚雷発射といふと、悦び勇んでやつてくれた。


 日露戦争の時、愈ゝ旅順の包囲戦となり、哨戒区分が決まり、毎日々々同じ事を繰り返して居ったが、初めは出動して旅順沖に到り、敵の砲聾でも聞くと、士気が緊張して居ったが、後には夫れも駄目となり、乗員が軍港を思ふ様な気分が横溢して来たから、月に一回位の積りで根據地へ帰還した晩に、無禮講をやる事にして、艇長も三等兵もゴツチヤに成つて、大に暴飲をやつたが、さうすると其の翌日は丸で士気が一變して、初めて旅順方面に顔を出した時の様な元気を回復した。

 毎月の無禮講も餘り人聞きが好く無いから、時には演藝會をやつて、隠藝をやらせて見た。 下手でも構はない、一日のきまり切つた日課に疲れた兵隊に嚠喨たる尺八の音を聞かせると、彼等は恰も鶯の雛が其の親の啼く聲に聞き入つて、止り木から落ちる様な恰好で聞惚れてゐるが、夫れで澤山である。 尺八の一聲は一日の労苦は勿論、一週間の物欝さを吹き飛ばすに十分なる効果を現はすことがある。

 比の演藝會の方法は平時でも利用すると良い。 近頃は方々でもやつてゐる様に思はれるが、艦隊が戦技に熱中して、長く上陸を止めて、日夜猛訓練を續けて居る様な時でも、間を偸んで一寸やると、驚くべき効果のあつた事を記憶してゐる。


 「鞍馬」 「利根」 が遣英艦隊で英国に行つた時の事 (注1) である。 時の司令官島村中将は太平洋の眞中であらうが、印度洋の眞中であらうが、少々海が荒れ様が、平気で溺者救助教練もやれば.総端舟漕ぎ方をもやらせる。

 五月廿七日 (海軍記念日) の如きは、地中海の眞中で半目も漂泊して端舟競争をやり、旗艦鞍馬の甲板で両艦員の大祝賀會もやられると云ふ具合であつて、我等は萬里の異境に在つても、少しも、そんな考は起らず、いつも母國の軍港に居る様な気持を保持することが出来た。 兵員の士気の旺盛を保つ骨は此の様な所に在る。
(続く)

======================================

(注1) : 明治44年の英国ジョージ5世の戴冠式並びに記念観艦式のために 「鞍馬」 「利根」 をもって遣英艦隊が編成されて派遣されたもので、指揮官は第2艦隊司令長官の島村速雄中将。 この時参謀長代理は安保清種中佐、著者は 「鞍馬」 水雷長兼分隊長 (少佐) でした。


posted by 桜と錨 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年11月24日

『運用漫談』 − (9)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その4 (承前)

 世界大戦の時、駆逐隊司令として新嘉坡方面に行動したが、其の時自分より先きに出動した部隊は出帥準備として教練射撃弾薬は総て陸揚げし、標的材料の如きも無論陸揚げして出掛けたものである。

 併し自分は敵前なれば兎も角、新嘉坡方面の警備では、時に教練射撃をやる餘地はあるだらう。 自分の隊は新造駆逐艦を以て、新に編制せられた隊であるから、訓練上から見ても教練射撃をやる必要があるので、教練射撃用の弾丸は全部積むことゝし、標的材料も二た組積むことゝして出掛け、さうして向ふへ著いてから、毎月一回宛色々の想定の下に教練射撃をやつて居つた。

 所が警備戦隊一般の士気が何時となくだれて振はないのに、獨り自分の駆逐隊員のみ元気極めて旺盛なりといふ事が誰れ言ふとなく言はれる様になり、後には司令部よりどう云ふ譯かと聞かれる様になつた。 夫れで自分が考へて見るに、何も他と異つた事はない。 只毎月二回づゝ鐵砲の音を兵員に聞かすだけの事であるといふことを発見したので、夫れを司令部に報告した所、司令部では便船を以て、教練射撃用弾薬を取寄せる事になつた。

 兵員には時々鐵砲の音を聞かすといふ事が、士気の緊張上極めて必要であり且つ有効な事であると思ふ。


 其の翌年 「春日」 艦長として濠洲方面に五ケ月餘もぶらついたが、教練射撃は許されなかつたけれども、外筒砲射撃や、演藝會や、マラソン競争や、端舟競漕抔で、士気の緊張を保つことに力めたが、五ケ月の後にも、「春日」 には日本へ帰りたい、新嘉坡へ迄でも帰りたい抔思ふ様な兵員は一人もないと言ふので、司令部を驚かしたことがあつた。

 併し乍ら此處で注意すべきは餘りに度を越えると云ふことである。

 「春日」 が初めて新嘉坡を出て、濠洲へ向ふ時に、バンカ水道に這入ると間も無く、水平線にマストヘッドが見え、夫れが軍艦らしい、見れば英国の軍艦で、何か旗を揚げてゐる、何であらうと見れば、旗は分明なるも其の意味が不明、大にまごついたが、夫は味方信號であつて大に赤面した。

 獨逸軍艦 「ヱムデン」 がペナンを荒らして、露西亜軍艦 「マンヂュリー」 を撃沈し、揚々として引揚げた。 當時日本の某巡洋艦は其の三日前に矢張りペナンに碇泊してゐて、艦長杯多数士官は上陸して居つた。 其の後艦長は

 『 「エムデン」 の話を聞くとぞつとする。 若し彼れが三日前に来たら、己れも 「マンヂュール」 艦長見た様な目に會ひ、醜名を天下に流すことになつたたらうと思ふと、冷汗が出る 』

 と曰はれて居つた。 之に類した考を自分も尚ほ一二回持つた事がある、注意すべきはどこ迄も油断大敵である。

 比の様な事を書き立てると果てがないが、要は兵員の耳目を日に新にし、轉換せしめるに在つて、夫れには實戦と實際の気分を常に彼等の眼前に彷彿せしむると同時に、一方にはユトリのある安楽な、面白い空気の中に安心立命的生活を営ましむることが大切である。

 比の位ゐの事は苟も一艦の長たるものは百も承知だらうが、夫れが案外實行されてゐないので、敢て拙筆を弄した次第である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年11月25日

『運用漫談』 − (10)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その5

 大正十年九月十六日、軍艦 「三笠」 が浦鹽港口アスコリッド海峡の暗礁に坐礁 (注1) した當時、逸人は第三水雷戦隊司令官として間宮海峡に居り、北海警備勤務の外に、尼港事件 (注2) の際パルチザン軍が間宮海峡閉塞の為に、同海峡最浅部に沈没せしめたる浚渫船一隻 (時價八萬圓) と大型ライター (注3) 八隻の引揚作業に従事して居つた。

askold_map_01_s.jpg

 此の作業の為には、福島熊太郎少将 (當時大佐)、福井順平造船少将 (當時造船大佐) が居られ、作業用として大浦丸、栗橋丸、扇海丸 (?) 外曳船三隻あり、又沈船曳揚用具も横須賀鎮守府に在る材料の大半を持つて居つた。

 「三笠」 坐樵の無電を受取ると、早速福島大佐に来てもらひ、濃霧の際十二節の速力で乗し揚げてゐる 「三笠」 を曳卸す事は大事業である、如何にすべきかに就き談合したが、一寸見當が付き兼ねた。

 所が翌日海軍省より 「三笠救援の為、大浦丸、栗橋丸、その外曳船一隻を至急浦鹽に派達せよ、福島大佐と福井造船大佐を浦鹽に送れ」 と云ふ様な電報が来た。

 それで早速福島大佐福井大佐と協議したが、此の命令に従ふとせば既に六萬圓餘を費つた當方面の引揚作業は九仭の功を一簣に缺き丸損となるのみならず、「三笠」 の状況を察するに、命令通り行ふとも、何程の効果をも挙げ得ざるべしと考へ、其の旨海軍省へ返電したが、何等の決定的命令も来ない。

 仍て福島大佐を 「駆逐艦にて三笠遭難に急行せしめ、其の他に裁ては同大佐の所見に基き處理す」 と云ふ報告電報を打電したるに、海軍省よりは 「貴官の意見に賛同す」 と云ふ電報が有つた。

 九月二十日駆逐艦 「白露」 は福島大佐を乗せ、先行して間宮海峡、二十三日遭難地著、二十四日駆逐艦 「夕暮」 は救難用ポンプ二臺を搭載して出発、二十七日浦鹽に著いてゐる。

 福島大佐が 「三笠」 に行つて見ると、「三笠」 の前方と左右方面には多数のホーサー (注4) を取り、或は錨を投じ、可なり頑丈に固めありしも、艦尾方向には何等の處置を施してない。 之では何か變化が起つた際、手後れとなる恐れがあるので、ストリーム・アンカー (既出) を艦首方面に投じ、控索を取らしめた。

 當時の 「三笠」 引卸計畫は先づ前部艦底破損部に應急防水處置を施し、次で艦尾に注水し、艦首を浮揚せしめて、曳出すと云ふ心算であつた様である。

 所が天佑にも、二十六日暴風起り、風力六乃至七、激浪と長濤の為、「三笠」 は自然に離礁し、初めに前方に取てあつたホーサー等は或は切れ或は無効となり、福島大佐の取らしめた一本の控索が命の綱となり、幸にして更に陸岸に吹き附けられて全く大破して了ふ事を、之が為めに免かれ得たのである。

 天佑により 「三笠」 は岩礁を離れたが、前部艦底の應急處置未だ出来居らざりし為、前部の浸水甚しく、忽にして艦首は深く水中に突込み、艦尾は高く浮揚し、推進器は空中に現はれる有様となつた。

 仍つて後部のキングストン (注5) を開き、ツリムを正さんとしたるも、後部の浸水意の如くならず、遂に後部水雷室に満水せしめ、初めて船體を水平ならしむる事を得、機械を運轉しつゝ控索を利用し、沖合に出づる事が出来た。

 此時に後部水雷砲臺長 (名を忘れた) が発射管の前後扉を開き、急速浸水せしめたる動作は全く決死的奉公精神の発露にして、大に称揚すべきものであつたと云ふ。

 扨て 「三笠」 は沖合に出づる事を得たが、浸水益々甚しく、船體は時々刻々に沈下するのが明かに見え、其の上に荒天であり、惨憺たる光景とは全く此時の状況であつて、乗員は何れも色を失ひ、一言を発するものなく、當時艦橋に在つて操縦の任に當つてゐた福島大佐の顔を見上ぐるのみであつたと云ふ事である。

 其の後大佐に就き、當時の心持を聞きたるに、大佐は 『 「三笠」 は結局沈没するだらう、自分は艦橋に立つたまゝ 「三笠」 と共に沈んで、死ぬるといふ決心であつた』 と言はれた。

 然るに是れ亦天佑にも、當時の風向は丁度浦鹽に吹込んで居つたものだから、「三笠」 は沈下しつゝも徐かに機械を運轉して、浦鹽に入港することが出来、愈々岸壁に達する頃には、艦底は遂に海底に觸著する様になつたのである。

 其の時駆逐艦を横附してポンプを之に移したが、三等駆逐艦の上甲板より 「三笠」 の上甲板へ飛下りたと云ふことである。

 「三笠」 は夫れより浦港に於て入渠し、艦底の應急修理を施し、舞鶴に回航し、更に入渠して應急修理を十分に為し、十一月二十五日横須賀に回航し、小海の岸壁に繋留した。
(続く)

======================================

(注1) : 「三笠」 の座礁事故については、「アジア歴史資料センター」 の 『大正10年公文備考巻38 艦船15』 及び 『同巻39 艦船16』 に集録されていますので、興味のある方はご参照ください。


(注2) : 大正9年3月〜5月にニコライエフスク港 (現ニコライエフスク・ナ・アムーレ) において共産パルチザン約4千名の手により日本陸軍の駐屯部隊及び居留邦人約700名が虐殺された事件。 合わせて共産主義に同調しない市民約6000名も犠牲になったと言われています。

これも同じく 「アジア歴史史料センター」 の 『枢密院会議文書』 に 『尼港事件ノ顛末』、『外務省記録 5門 軍事』 に 『尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件 第一巻〜第五巻』、等々多数が集録されています。


(注3) : Lighter 平底の艀 (はしけ)。 だるま船、団平船、バージ (barge)、あるいは scow などは同じ種類のものです。


(注4) : Hawser 太綱、太索。 通常外周6インチ(直径48ミリ)以上のマニラなどの索を言いますが、それより細い物でも一般的にホーサーと呼ぶ場合があります。


(注5) : Kingston Valve キングストン・バルブ (金氏弁)。 大口径の海水取入弁を通称 「キングストン弁」 と呼びます。 商品名で同名のものがありますが、必ずしも、というより一般的にはこれを示している訳ではありません。 漲水装置 (Flooding Arangement) として漲水弁 (Flooding Valve) などと組み合わされて、ボイラ (缶) 室、機械室、弾火薬庫など主要な大区画に装備されています。

旧海軍で使用されたキングストン弁の一例と、弾庫の漲水装置の例を下図に示します。


kingston_01_s.jpg   kingston_02_s.jpg

     よく戦記物などで自沈の際に 「キングストン弁を開いて・・・・」 などと書かれたのがよく見られますが、この弁のことです。 ただし、これは自沈の為にあるのではなく、戦闘被害時などで船体のトリムを修正する場合や、弾火薬庫などへの注水など緊急時に使用するために装備されているもの (装置) の “一部” です。

ですから、この弁だけを開けば区画に海水が自動的に入ってくるというものではありません。 キングストン弁を含む全ての漲水装置を開放すれば、まあ自沈に役立つといえばそのとおりですが ・・・・

ただし、船体内に海水を採り入れるのは別にこの漲水装置だけではなく、通常の排水装置を逆に使っても可能です。 これはあまり知られていないことですね。 自沈の際には当然これらも使用されます。


posted by 桜と錨 at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年11月27日

『運用漫談』 − (11)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その5 (承前)

 越えて十一年三月十八日、華府軍縮会議に於て、我全権の熱心なる抗争にも係らず英米の壓迫に由り、「三笠」 は廃棄處分を受けざるを得ざることゝなつたが、九月一日の大地震の為、艦底修理部破損し浸水を始めたるを以て、白濱海岸距岸百二十呎の處に擱坐せしめられたる儘、第一期廃棄作業が實施せられたのである。

 當時吾人は 「三笠」 の廃棄は英米両国が、有史以来の最大海戦に於て空前の大勝利を博したる、世界に誇るべき日本海々戦記念の對象たる我旗艦 「三笠」 を抹殺し、以て日本民族の自尊心を打拉しぎ、奉公的渇仰の目的物を粉砕せんとする奸策に外ならずと為し、憤慨したものである。

 幸にして財部大将や樺山可也少将等の 「三笠」 保存論主張と芝染太郎氏の殉教者的熱烈なる唱道に由り、十四年四月 「三笠」 を国民的記念として永久に保存すると云ふ事に決定し、時の横須賀鎮守府参謀長早川済少将を委員長とする三笠保存委員會組織せられた。

 研究の結果、「三笠」 を當時の擱坐位置に置きたる儘保存せんか、将来交通上に大不便あるのみならず、保存上多大の経費を要し、永久保存の目算立たず、且つ又共の擱坐位置海底の状況不良にして、「三笠」 は徐々に右舷側に傾斜するの傾向を生じ居る事発見せられた。

 之に由り、更に海岸近くに移動せしむる必要を生じたが、共の作業誠に難儀であつて、之が實行殆んど不可能に近きものあると、莫大の経費を要するを以て、

(一) 三笠を其の位置に置き、追ては解體すべしと云ふ議論と、

(二) 断然三笠を現在位置に移動し来り、三笠の周囲を埋立て、現状の如くして、三笠の艦型を永遠に保存すべし


 と云ふ議論の二つに別れたが、委員長宇川少将、港務部員中村虎猪中佐等の主張貫徹し、(二) 案の如く決定せられ、以て今日あるを得たのである。

 之が為に要せる作業は左の如くである。

 先づ現在位置の海底を浚渫し、岩礁を整理して、「三笠」 の艦底に符合するが如く切り取り、「三笠」 は更めて艦底浸水部に可及的防水工事を加へ、圖の如く四方に繋留し、曳出し作業の前日干潮時に錨鎖を可及的緊張し置き、翌日早朝より曳船と排水船を 「三笠」 の両舷に横附し、「三笠」 に於ては各種の排水ポンプを全力使用し得る如く準備する。

mikasa_slip_01_s.jpg

 當日午前最高潮に達するや、「三笠」 は潮水と排水の為め自然に浮揚し、錨鎖に強き緊張を及ぼしたるを以て、一斉に四隅のスリップ (注1) を切りたるに、「三笠」 は恰も飛び揚がる様な具合にて、海底の膠著を離れたるを以て、直に曳船を利用し、一且押合に曳き出し、錯雑せる岩礁の間を潜りつゝ首尾好く現位置に回航沈置せしめられたものである。

 曳行中 「三笠」 の浸水量は遥かに排水力を凌駕するものがあつて、刻々に沈下する状態たりしも、曳行作業の遂行に十分なる時間の餘裕を得られたのは、一に作業計畫と其の實施が綿密巧妙に行はれたのに由るのであつて、運用術の極致として推称するに足るものがある。

 其の後 「三笠」 の保存手入作業は聊か不充分の誹りありしも、近来大に面目を改め、一見在役艦の如く整頓し、記念品等の整理宜しきを得、拝観者をして自然に襟を正さしむるに足るものあることは慶賀に堪えない。

 然れども 「三笠」 の船體は鐵製なり、年と共に腐蝕耗損するは免かるゝ能はざる所である。 従て之が保存と補修には、尚ほ多大の考慮を要する。 運用家の研究と献策を望む。

 尚ほ 「三笠」 沈置位遣決定するや、其の計畫書を時の鎮守府長官加藤大将の閲覧に供したるに、「三笠」 の艦首方向を少しく右方に振り向くれば、艦首は恰も宮城に正向する事を発見せられ、計畫に修正を加へたるを以て、現在 「三笠」 の艦首は宮城に正向し、永遠に護国の大任を擔ひ居る次第で、亦寄なりと謂ふべきである。
(続く)

======================================

(注1) : Slip 錨鎖や鋼索、太い麻索などを繋ぎ止めたり固定し、必要時には迅速にこれを切り離すためのものです。 下図はその使用例の一つです。


slip_01_s.jpg
posted by 桜と錨 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年12月22日

『運用漫談』 − (12)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その6

 大凡自己の位置、即ち立場を正確に知るといふ事は、一切の事に處するに必要である。 人間としても、頭相應腕相應に其の止まるべき立場がある。 之を忘れると不平が起つたり、又沐猴にして冠するものとして笑はれたりする。 注意すべきは常に自から反省して、自己の立場を確認する事である。

 艦船の運用に當つても、此の自己の位置、即ち自艦の位置を確實に知ると云ふ事が何よりも大切である。

 一切の運用は自己の位置を知って之を根基となし、以て初めて行動を起すべきものである。 一切の失敗衝突坐礁等は殆んど其の総てが、自己の位置を誤認して盲動するから起るものであると言うて差支へない。

 近頃は艦船の運用航海に使用さるゝ諸機械が非常に發達して、逸人等が大尉時代に比べると、天測用具も天測諸元も従つて天測計算法等も非常に進歩して簡単に成り、測距器具も殆んど完成の域に達し、全く隔世の感がある。

 然るに尚ほ衝突坐礁等が共の跡を絶たざるは何故乎。 共の原因は色々あらうが、機械が發達するに従つて、船乗の自艦の位置を確認すると云ふ注意心が薄れ来つた事も其の一因なるべしと思ふ。

 漫談第二第三の二回に亙る逸人の失敗談も、其の歸する所は一に自己の位置を知らずして盲動したと云ふ事に基因する。

 ヂュツトランド海戦に於て、英将ヂェリコーがビーチー将軍より接敵の報に接し、縦陣列から戦闘序列に展開するに當り、少くとも廿分間ぐづついたために、獨逸艦隊の先頭を十分に包圍壓迫するの機を失し、之を殲滅するの好機を逸したのは、主として自己の主力とビーチー隊の艦位に約十浬餘の錯誤ありて、獨逸艦隊の位置を正確に知ることが能きなかつた爲めである。

 而して當時海上靄霧の爲め、展望十分ならざ少し事は、ジェリコーの行動を大に掣肘するものありしとは云へ、敵弾が既にビーチー隊を飛越え、ジェリコー隊最右翼列の先頭艦バーラム號附近に落下しつゝあるに係らず、尚ほ自隊の推測位置に膠著して、率然として好機に應ずる能はず、遅疑逡巡したる形跡のあることは、将軍の爲め採らざる所である。

 近頃の艦船には、艦橋附近に作戦室が出来てゐて、非常に確實に作戦計畫を廻らすことが能きる様になつてゐる。 併し餘り作戦室の作戦に膠著して、活戦場の活機を掴むことを忘れると、飛んだ恥をかくことになる。

 ジュリコーの此の失策も、此の様な事に原因して居るのではないかと思ふ。 此の様な例は日本でも、演習等で屡々有つた事ではない乎。 注意を要する。

 一瞬時の燈光の漏洩、一首半句の無電が勝敗を決する本源となることを知らねばならぬ。

 某年度の大演習に於て、某地沖に於ける最後の甲乙両軍主力の對抗戦の時に、甲軍が自己の艦位に廿浬餘の誤測あるを知らざりし爲め、豫期に反して日没頃乙軍と行違ひの状況となりたることを知り、反轉して再び夜戦に移らざるを得なかつたが、常時乙軍水雷戦隊の勢が十分でなかつたのは、甲軍の幸とする所であつたけれども、若し乙軍にして十分の水雷戦隊勢力を有してゐたとすれば、甲軍は相當の損害を蒙つたことであらう。

 斯様な實例を算へ立てると、大は艦隊よリ小は一艦一艇に至る迄、其の實例は蓋し枚挙に暇がない。
(続く)
posted by 桜と錨 at 13:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年12月23日

『運用漫談』 − (13)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その6 (承前)

 されば常に自己の艦位を確實に知るには如何にすべきかと云ふに、海上の情況は千變萬化であつて、一々之に應ずるは到底人力の及ばない所であるが、只船乗リとして不断の注意を怠らない様にするの外はない。

 逸人の先輩某艦長が

 『 水雷艇乗りは當直将校として最も安心され得るが、航海長としては最も不安心である 』

 と言はれたから、其の理由を聞くと、水雷艇乗りは當直中に種々の手段を盡して艦位を測定し、記入してくれる風があるから、安心して船を任せるが、之れを航海長たらしむると、乱暴な航路を取るから危険だと言はれた。

 要は此處に在る。 海上は文字通リ流動性であつて、船は汽車の如く軌道を走つてゐない。 従つて航行中決してぼんやりして居ることを許さない。 目に觸るゝ一物だも之を等閑に附してはならない。 機に應じ變に臨み、時々之をチェックして置くときは、圖らずも是が其の用を爲し、不慮の災害を避けることが能きる。

 前述甲軍の錯誤は全然天測のみに信頼した結果で、當日午後二時頃迄は〇〇崎の山頂が見えて居つたから、之をチェックすれば、艦位の東偏は速に分明したらうと思はる。

 此の演習の終りに、第二戦隊が横濱港口から磐州鼻沖に回航し、指定の泊地に就いたことがある。 此の時朝霧があり、展望極めて不充分で、横濱から第一艦隊は見えなかつた。

 戦隊は豫定の針路を東行したが、間もなく羽根田南方の浮標が見えたから、艦位は直ぐ測定が出来、それから東方に第一戦隊の艦影を認めることが能きたが、其の方向は第二戦隊の艦首よりは寧ろ右方に見え、其の位置の不正なることは一目瞭然であつたが、旗艦航海長は之に気附かずして、位置不正なる一戦隊を基準として自から針路を南方に轉じ、豫定の行動を取つたから、戦隊が碇泊位置に就かんとして反轉する際は、殆んど海岸の四尋線に接近し居り、自分は非常に危険を感じたが、幸に無事であつた。

 後とで旗艦航海長に之を訊いた所、航海長は驚いて位置を測定して見た。 すると艦隊旗艦の位置は一浬餘南方に偏してゐることが知れた。 之れは一に艦隊旗艦の位置を正確なるものと過信したのと、又た旗艦が平然として標準旗 (注1) を掲げ居り、自己の位置の偏して居ることを知らせなかつた爲めである。

 尚ほ千葉沿岸に接した時、陸上のピッケット (注2) や附近の浮標抔を見ても、位置の偏してゐることは容易に判つたのである。 顧慮すべきは過信であると同時に、四圍の状況に注意し、自己の立場を確認是正することである。


 軍艦多摩で、暗夜に栗田湾 (注3) に入港したことがある。 粟田湾に臨む迄は、経ケ崎や博奕崎の燈光により、艦位を正しくすることが能きたが、愈々奥の方に入り錨地に就かんとしたる際は、燈臺の利用すべきものが無いから、左方に突出して朧ろ気に見ゆる山頂を唯一の目標とし、共の方位により錨地に就かんとしたが、方位の變ずるに従ひ山形も變化するから、測定は刻々に不正確に陥る傾向があった。 愈々投錨して見ると、大變左方に偏位してゐることを知り、錨地を變更した。

 此の際愈々錨地に向つた時に、艦首に當つて民家の顕著なる燈光があつた。 今若し之を目標として、測距儀で距離を測り、艦位と燈光の関係位置を定め、爾後距離の變化に依り錨位に進めば、何の苦労もなく、又た極めて確實安全であつた筈だ。

 失禮な言分だが、「阿房の一つ覚え」 といふ諺がある。 大学校や航海学校を出た自称机上戦術家や運用家には、こんな手合が可なりある。 留意すべき事だ。
(続く)

======================================

(注1) : 海軍の旗旒の一つである 「番号」 旗の別名  この旗旒1つを掲げた場合には、当該艦が部隊 (艦隊) 全体の運動の基準となることを表します。

flag_2ndsub_s.jpg

     この旗旒の詳細な使用方法については、本家サイトの 『史料展示室』 で公開しております 『海軍信号規程』 (昭和18年海軍省極秘第435号別冊) をご参照ください。



     なお、この旗旒を 『万国船舶信号旗』 (現在の国際信号旗) として使用する場合は、第2代表旗 (Second Sub) となります。


(注2) : picket  本来は先の尖った杭のことですが、ここではその様な形状で顕著な方位測定上の目標となるもののことを言います。


(注3) : 舞鶴と天橋立のある宮津湾との中間にあり、訓練中などの仮泊地としてよく利用されるところです。


kuritawan_map_01_s.JPG
( 元画像 : Google Map より )
posted by 桜と錨 at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2010年12月27日

『運用漫談』 − (14)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その6 (承前)

 「運用の妙は一心にある」 と云ふことは意味が判然しない。 「運用の妙は一誠に在り」 だ。 唯夫れ至誠初めて神に通ずる。 神謀鬼策も至誠から出たものでなければ嘘である。

 又た自分は運用の眼は八方に在りと主張する。 何事も馬車馬的ではいけない。 四圍八方に著目して居れば、初めて萬全の途が見出せるものである。

 霧中航行の際は、正横後も時々見る必要がある。 霧には切れ目があるから、前に見えずとも後に見ゆることがある。 又水深を測りて、艦位を定めることも大に利用せねばならぬ。

 之れが爲めには英國の海圖は誠に好く出来て居る。 軍艦 「鞍馬」 「利根」 が英國を一周した時、同國北海岸は殆んど霧中であったが、海圖と測深に依て、安全に航海が能きた。

 軍艦 「春日」 で、印度洋で連日濃霧に悩まされ、只太陽の方向一つ (水準線見えず、高度不確實) で艦位を確かめつゝコロンボに入港したことがある。 「敲けよ開かれん」 だ。 考へれば手段は幾らでもある。

 位置を確實に知る爲めには、自己の運動を可及的正確にすることが必要である。 速力を無暗に變更したり、針路を無茶苦茶に變更したりして、航海長に正確な位置を記入せよと云ふのは、無理な注文である。

 逸人或る年の演習で、審判官として某旗艦に乗つてゐた時の事である。 伊勢湾を出た艦隊は海流に押されて、豫定より早く伊豆諸島の南西に近づいた。

 雨天で霧模様で、艦位が定めにくい暗夜であったが、其の暗中に在て、右往左往、丸で無方針に漂泊して、夜を明かすことになつた。

 此の潮流の強い處で此の行動だ。 自分は船乗として見るに見兼ねて、参謀に對し、

 『 少くとも時間速力を一定して、針路は可成八點か四點宛と定めて行動し、艦の位置を推定するに便利の様にしたらよからう、さうすれば陸岸に接近する危険も比較的少からう 』

 と忠告すると、それから其の様に行動した。 それでも、翌朝濃霧の裡に三宅島を発見した時は、何んでも十浬程の誤差があり、其の他の各隊は之れ以上の誤差があつたとか云ふことである。

 因に此の演習は濃霧の爲め、両軍殆んど相見えずして了つたのである。 何でも無い様だが、大事のことゝ思ふ。

 又艦位を確實にするには、各速力に對する機関回転を確實にして置くことも必要である。

 逸人嘗て曇天の暗夜、咫尺も辨ぜざる中で、館山湾に於て、全然自己の時計のみにより變針行動し、水雷艇隊を率ゐて、湾内深く碇泊せる軍艦 「扶桑」 を陸方面より襲撃した事がある。

 那古北條海岸の岩礁の如きは、僅に二百米を離して潜航したが、平常の測程に誤差なきを知つてゐたから、何等遅疑する所がなかつたが、後から航跡を入れて見ても、少しも誤算は無かつたのである。

 「扶桑」 は全く豫想外の處から襲撃されたものだから、水雷を全部發射する迄気附かなかつた。 遣れば遣れるものである。

 斯様な事を数へ立てれば果てしが無いから、此の邊で筆を止め、次には艦隊の列中に於ける艦位の保持に就て書いて見よう。
(続く)
posted by 桜と錨 at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月02日

『運用漫談』 − (15)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その7

 艦隊列中に於ける艦位保持法は測距器具の完備し、測距技術の向上せる今日、之を日露戦役以前の六分儀若くは目測に依る外、何等の依るべきもの無かりし昔に比較するときは、其の難易全く霄壌の差がある。

 従って昔日の苦心談をしても、今日格別の役にも立つまいと思はれるけれども、謂ふ所の船乗眼なるものは機械萬能の今日と雖も、千變萬化の稱ある海上に於ける各種の操艦術より、延いては指揮統帥其の他萬般に亙り、依然として其の重要性を有するを以て、つまらぬ昔話と雖も、運用術の心理的原則研究の資とするに足ると思考さるゝので、敢て逸人の経験談を試みることゝする。


 逸人が三等艇 (注1) の艇長心得 (注2) を拝命したのは中尉の晩年であった。 時の司令其中佐は仲々八釜し屋であつたが、距離を詰めて居れば御機嫌が良かつた。 それに距離を詰めて居れば、目測が比較的精確で、位置の保持も容易であつたから、自分は常に前續艦との水面距離を十五米に保つことに定めて居つた。

 當時の三等艇にはテレグラフ (注3) は無い、無論回轉指示器等も無い。 艇長の立つて居るカンニングタワー (注4) と機械室との通信は唯一本の傳聲管のみであつたが、それで萬般の要務を辨じたもので、面白い事には、罐前よりカンニングタワー迄スチームパイプを導き、其れに壓力計 (マノメーター) を附してあつたから、艇長は何時でも汽罐の汽醸状態を知ることが出来た。

 艇長に赴任して初めて艇隊で出動した時の事である。 艦隊運動が始まつたものだから、艦位に注意して居ると、他の艇は位置を八釜しく言はるゝのに、自分の艇は少しも小言を喰はない。

 旨いわいと自惚れつゝ、一寸後方を見ると、乗組機関兵曹長が、(田中と云ひ、文字の無き男なれども、實地に掛けては抜群の誉れがあった。 之れが機関長である。) 機関室入口のハッチに腰を掛け、掌を上下して、何か機関室に合圖をしてゐる。 何事かと思つて聞いて見ると、機関長から距離を目測して、機械の回轉を増減しつゝあり、何も艇長を煩はす要がないのである。 自分は開いた口が塞がらなかつた。


 常時艇長として何に依つて艦位を保持したかと云ふことに就き、測器に依つてやることは誰しもやることであるから之を説かないことゝし、其の他に就て愚見を述べる。

 元来艦位の保持は機械の回轉の正確に在る。 而して固轉の正確は汽醸状態の正確にして不變なるに在るから、罐前の汽醸軍規の如何は直ちに艦位の正否に影響する。 従つて何よりも汽醸状態を知ることが大事である。

 前きに述べたる如く、カンニングタワーに汽壓計があつて、自艦の罐前の状況が明かであるから、之に對して機関部に注意すると、一度定めた回轉數はそんなに變へるに及ばない。 前續艦との距離も、距離を測るよりも共の汽醸状態に注意することが必要である。

 而して其の汽醸状態を知るには烟突から出る煤烟の状況で能く判る。 黒く濃い煤烟を出すときは、前續艦の蒸汽が下らんとする前兆であるから、自分も回轉を減らすことを考へる。 之れに反して前艦が煙を出さずに徐かに陽炎を吐いてゐるときは、其の汽醸状態が極めて良好なることを示してゐるから、斯様なときは自分の回轉を増すことに留意せねばならぬ。 此の事は前續艦の總てに對しても、此の留意を要するのみならず、後續艦に就ても亦然りである。
(続く)

======================================

(注1) : 三等水雷艇のこと。 当時は20トン以上70トン未満のもの。


(注2) : 当時水雷艇の艇長は内令定員として少佐又は大尉と規定されていました。 したがって人事補職上一階級下位のものがその職に就く場合は 「心得」 として発令されました。 当然その職にある間に進級すれば 「心得」 は外れます。


(注3) : Telegraph、通信器  単に 「テレグラフ」 と言った場合は、通常は 「速力通信器」 のことを指します。


(注4) : Conning Tower、司令塔



posted by 桜と錨 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月03日

『運用漫談』 − (16)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その7 (承前)

 前續艦の艦尾に起る浪の状況も之に注意して居れば、それに依つて前續艦の推進器の回轉状況を推知することが出来る。 之れは大抵原速十二節のときは、半節位ゐの差迄知ることが出来た。

 前續艦の距離に依り、自艦の位置を正すに當つても、単に前續艦のみに依らず、先頭艦は勿論總ての前續艦の距離を測定し、其の全長の伸縮に留意し、始めて自艦の速力を加減する様にすることが必要である。

 自分は戦艦に長として四番艦若くは五番艦の位置に配せられることが多かつたが、常に旗艦のみを標準とし、其の間に在る僚艦は眼中に置かないといふ方寸でやつたが、左様にすると、僚艦も自分の艦に做つて位置を正すから、自然に全體の隊形が早く整ふ様に見えた。

 列中に在て測距器具に依らずして自艦の位置を知るもう一つの方法は、前續艦の艦尾に起る浪を利用することである。 前續艦の艦尾に超されたる何番目の浪は幾米の處に起るといふことを豫め研究して置き、自艦の艦首を何番目の浪に保ち居れば、定距離に在るといふことを會得する。 さうすると測拒器抔要らないのであつて、之を圖示すればざつと左の通である。

dist_wake.jpg

 一寸考へると何でも無い様であるけれども、少し気を附けると、色々のものが参考となることがあるから如何に測距器が完備してゐても、之を萬能視せずして、諸般の現象に注意することが必要である。

 近来の艦橋の状況を見るに、當直の測距手は殆んど十秒おきに何百何十米、近づきます ・・・・ 遠ざかります ・・・・ と大聲で報告し、艦橋は八釜しくて仕様がない。 然し之を聞かないと一刻も安心が出来ないと云ふ當直将校や艦長がある。

 自分は大嫌ひで、一斉沈黙を命じたことは屡次であつた。 それで自分は考へた、測距器の指針を電気装置により、艦長の目前と機関室と汽罐室に表示することの出来る様な通報器が出来たらば、艦橋は嘸かし静かになるだらうと。 發明家に一つ工夫してもらひたい。

 艦隊の旗艦若くは先頭艦の回轉不良の爲め、全體の隊列不斉を来たす事例は非常に多い。 故に先頭に在る艦の隊列の不整は第一に自艦の回轉不良に基くものなるを想ひ、列の整頓を命ずる前に、先づ自艦の回轉を調整することに留意せねばならぬ。

 自艦の回轉を調節するに就ては、艦橋と機関室との心理的調和が必要である。 之が爲めには、當直将校は今より一層機械に関する理解を増し、當直機関官 (機関科士官) も隊列保持に就き研究するを要する。

 機械に對し無理解なる當直将校が餘りに馬鹿気た神経病者の様な命令を頻繁に下すと、機関部は奔命に疲るゝのみならず、正確なる回轉數を知る能はざる状況に陥り、遂には艦橋の命令を蔑視し、命令は通報器を往復するのみに止まることがある。 傳令は其の當直将校の聲を覚え、あゝ又あの當直将校かと言うて冷笑してゐる。 注意すべき事である。

 距離の調整の緩急と機関部に於ける命ぜられたる回轉數を得るに要する時間等をよく考察し、回轉變更の回數は可及的少數に止めることに留意し、常に自から當直機関室の位置にある考にてやれば、一切は無事圓満に運ぶものである。

 艦橋と機関室との連絡を完うするには、艦橋に於て常に當直の機関官と運轉下士と汽醸下士の名を知ることが必要である。 之が爲めには、毎直此等の人の名を航海日誌に記入して置くと宜しい。 斯くする事は何か機関部を壓迫するかの様に見えるけれども、艦橋に於て機関部員の技倆の優劣と苦心の情況とを知ることが出来て、それが相互の諒解の基礎となる。

 逸人第二艦隊副官の時である。 「磐手」 が旗艦で、他は新造の 「平戸」 型三隻であつたが、新造艦の事迚、回轉が仲々揃はない。 従つて隊列が整はない。 仍て各艦に毎直の當直将校と機関官の名を報告せしめ、旗艦に於て毎五分間に各艦の距離を測定し、統計曲線圖を作り、航海後各艦に回覧させることにしたが、隊列整頓上大に有効であつた。
(続く)
posted by 桜と錨 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月04日

『運用漫談』 − (17)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その7 (承前)

 艦位保持の根本要求は汽醸軍紀にあると云ふたが、其の例証として逸人第七駆逐隊司令の時の實験を述べる。

 常時罐部員の汽醸能力を検定する爲めに、検定汽醸をやつたが、其の方法は碇泊中の或る一艦を指定し、其の一罐に臨時に排気管を取付け、發生蒸気は總て舷外海水中に放棄せしめ、焚火員の汽醸能力を測定するといふことになつてゐた。 而して之が爲めに行ふ豫備訓練も時々此の方法を取つた。

 自分は此の捨てる蒸汽が惜くてたまらない、何とかして之を航動用に利用する方法はないかと考へ、先づ自隊のみの検定汽醸法を作つた。 其の方法は何時でも航海四時間以上に及ぶ時を選び、一罐全力を原速力とし、各艦の乗組機関官を検定委員とし、艦隊番號順序若くは對艦毎に交代して乗組ましめ、汽醸成績記録を取らせることゝした。

 所がここに意外な成果を發見した。 それは右の如くして検定気醸を始めると、今迄隊列不整にして黒烟を吐き、寔に醜悪なる状態を呈して居つたものが、黒烟全く其の跡を絶ち隊列は令せずして整然となり、全四時間を通じて、艦長は殆んど回轉變更を要せなかつたが、愈々検定を畢り、検定委員を自艦に歸らしめ、再び行進を起すや、隊列忽ち乱れ、烟突は黒烟濛々と揚り、艦長如何に機関部を叱咤するも、何の効果もなかつた。

 爾後艦長は成るべく航海は検定汽醸に依ることゝされたいと懇請止まなかつたといふ事實である。 此の結果第七駆逐隊の隊形整然たることは戦隊中の評判となり、如何なる遠距離に於ても隊形により其の第七駆逐隊たることを知るを得と言はれ、司令の鼻の高さ三丈なりしが、其の秘傳は一に汽醸軍規の如何にあることを知らないものが多かつたのである。

 以上は主として艦位に及ぼす推進器の回轉に就て陳べたが、操舵手の巧拙も亦艦位保持に大なる影響を及ぼすものである。 而して操舵に就ても回轉同様、成るべく舵を動かさずして済む工夫を要する。

 前續艦が操縦拙にして列外に逸したるときの如きは、必ずしも其の航跡に従ふを要しない。 更に其の次の前續艦若くは旗艦を標準として進み、徐ろに前續艦の復歸を待ちつゝ其の航跡に入る様にすれば宜ろしい。

 又其の航跡に入るにしても、一々操舵を命令するよりも、前續艦の右舷端舟を目標とせよとか、或は左舷ヤーダーム (注1) を目標とせよとか云ふ具合にして、徐ろに前續艦の通跡に入り、漸次目標を換へて、其の正後に入る様にせば、遅い様でも實際は意外に早く列を正し得るものである。 注意すべきは、何事も気を利かすことである。

 機械萬能の今日、一切は數理的に行はれて然るべきである。 隊列の變化、航路の變更等に由て来る艦位の變動に對し取るべき處置に就ても、之れ又數理的に計畫し實行すれば宜しいけれども一瞬にして一切の機微を知り、機械と人力を浪費せずして、靈妙なる運用を全うすることは船乗の本領である。 敢て當事者の一助として以上の経験談を試みた次第である。
(続く)

======================================

(注1) : yardarm、桁端。 元来は帆船の帆桁の先端のことですが、現代艦船においてはマストの横桁の端を指します。


posted by 桜と錨 at 20:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月05日

『運用漫談』 − (18)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その8

 運用と経済は寧ろ同一語である。 筍も経済を無視する運用は、畢竟エネルギーの浪費にして、延いては國力の叛逆的消耗である。 英海軍の運用書に航海術を定義して

 航海術とは最も安全にして最も近距離なる航路を選擇する術なり。

 と書いてあるのを見た。 蓋し至言である。

 艦船の運用操縦は勿論、上は國策の遂行、戦略戦術の實施より、下は一塊の石炭一條の小索の利用節約に至るまで、海軍全般に亙り大小一切の事業、一として此の定義の外に出るを許されない。

 然るに世間には往々安全第一を唱へて徒らにエネルギーを空費し、甚しきは所謂 『事勿れ主義』 を金科玉條として重なる時間と莫大なる人力と燃料とを浪費し、一年の勤務を無爲に済せば以て我事了れりとするでも名士がある。

 一塊の煉炭一滴の重油も皆是れ國民の粒々辛苦の結晶である。 海軍存立の唯一理由たる戦闘能力の訓練向上以外に、決して其の浪費は許るされてない事を考慮反省せねばならぬ。

 又た自己の怠慢と不覚により艦船兵器を破壊し又腐蝕せしめて、恬として恥づるを知らざる没分曉漠が居る。 一個のボルト、一本のピンと雖、之れ亦國民の粒々辛苦の結晶たるのみならず、一朝有事の際に當りては其完備と否とは勝敗の數を定め、國運の消長に関することあるを銘記し、寸分の苟且偸安を許るさないのである。

 逸入嘗て某新任駆逐艦長より 『初めて艦長の重任を拝命したが艦長たるものゝ心得を訓へてくれ』 と問はれたるに由り、『一本のボルト一個のナットの破損と雖、其原因の何たるを問ふを許るさず、総て艦長自身の責任なりと心得よ』 と答へたるに、同駆逐艦長は之を座右の銘とせられ、優秀なる名艦長の名を博された事實がある。

 質の良を以て數の缺を補ひ、世界の平和と人道の支柱たる皇國々防の第一線に立つべき吾人海軍々人たるもの、豈に夫れ深思熟慮せずして可ならんやである。


 扨て経済的見地より視たる運用術は何を目標とするのかと言ふに、夫れは人と物と時の三つである。 而して人は精紳力體力の二つに分れ、物は其利用法と保存手人の二つに区分され、時は緩急宜しきを得る事である。

 人の運用に就ては之を精神的に見れば、人事行政を公平無私にし、適材適所を得せしめ、賞罰を明にして軍規を粛正にし、上下一致戮力協心の實を挙げ、常に士気をして倦まざらしむるにある。

 之を體力より見る時は、戦術其物にして動静常に宜しきに副ひ、虚實縦横、分合自在ならしむるに在る。

 然し斯様な大問題に就て、理窟を言ふ事は漫談の運用に非ずして乱用となるから、逸人本来の立場に還へり、ここに一老艦長として體験談を試みる事とする。
(続く)
posted by 桜と錨 at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月06日

『運用漫談』 − (19)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その8 (承前)

 逸人が 「春日」 艦長を拝命したるは逸人に取りては始めての艦長生活である。 窮屈なる水雷艇駆逐艦に慣れたる眼には、一切が贅澤で勿體ない様な気がした。 其の一つは従兵である。

 従兵長は掌砲章を持つ三等兵曹で、其の下に掌砲兵一掌水雷兵一の水兵二名と従僕一人、其の他浴室當番として機関兵一名が毎日交代で来る様に成つて居た様に覚えてゐる。 どう考へても勿惜ない。

 それで副長を呼んで、従卒は総て特技章を持たざる徴兵で澤山である。 艦長一身の身の廻りを世話するのに、軍人の手を煩はすと言ふ事は只さへ不本意である。 殊に折角海軍で身を立て且つ御上の御用に立つ爲めに特種教育を受けたるものを 「気がきくから」 と言ふ位ひで、従兵の様な軍務外の用に使ふことは以ての外である。 尚ほ水兵二名を一名とし、其代りに機関兵一名を加へ浴室當番は廃したらばよからうと話し、其通りにした。

 此の機関兵一名を加へた事は、従兵の中に機関兵が一人居ると、電燈や浴室器具の故障、共他機関部へ使に遣る時等に萬事好都合であつたからである。

 右の如くして間もなく機関長来り、艦長が従兵に機関兵を取られたる爲め機関部は大悦びで大變部下が使ひよく成つたと言ふから驚いたのである。

 夫れで自分は只さへ少ない中から、新に役員を取つて気の毒に思ふて居るのに、却て大悦びだと言ふのは何故かと聞きたるに、役員の内にて艦長室従兵は最上の名誉とされて居る。 然るに今迄は内規で機関兵は士官室以上には使はない様に成つて居つたのに、夫れを艦長が打破されたから大悦びで、最も優良なる兵を選抜して出したとの事であつた。

 上来の事は洵に何でも無い事であるが、此の一事の爲めに艦内の調和が無言の中に旨く行き、一年有餘の間、南洋、印度洋方面等に於て無味単調なる警備勤務等に服したるも、少しも士気倦怠の事なく済ます事が出来た。

 其の後 「敷島」 に行き 「鹿島」 に行き、右と同様の経験を得たが、次で 「扶桑」 に行きたる時は、一般に機関兵が艦長室に使はれる様に成つて居つた。

 従兵一人の事が夫れ程の影響の在る筈はないと言ふかも知らぬけれども、人心の動きは極めて機微なるものがあるから、注意の上にも注意を要する。 著任初めの一寸とした事で、此の艦長は物の解つた艦長だと言ふ事が知れると、夫れから萬事はとんとん拍子でうまく行くものである。


 逸人が某水雷艇の艇長と成った時に、朝鮮の元山で赴任し、直に出港して鎮海湾松眞に回航した。 眞夏の暑い日であった。

 松眞に入港投錨し、防備隊司令官に敬意を表する爲めに上陸して行きつゝある時、背後より機関兵曹長が走り来り、『艇長今日は機関部が大悦びである、御禮を申上げます』 と言ふから、何故かと聞きたるに、『先の艇長は誠に用心深い御方で、入港等に中々時間が掛る、浮標を取る時等は殊に然りで冬季ならばよいが、暑中炎天の時に微速力停止等にて三十分餘もぐず附かれると、機関部は炒れ附く様である。 本日は入港用意の號令が掛つて五分間も経たざる内に 「機械よろし」 の號令が在つた。 機関部は大助かりである』 と。

 自分も一寸驚いたが、夫れから後は艇内の空気が非常によく成り、對州海峡 (対馬海峡) に於ける長い間の警備哨戒勤務中でも懲罰兵は一人も出さすに済んだ。

 又出入港の時に必要も無いのに、寒い前甲板に長く水兵を立たせたり、熱い炎天の時に機関兵の苦労も知らずに 「機械よろし」 を忘れたりすると、如何な名士でも直に全艦の兵員に馬鹿にされて、一切が旨く行かない様に成る。 注意すべき事である。

 右の様な事を溯つて辿つて行けば際限が無い事で、然かも極めて細微なる事で、つまらぬ様に見えるけれども、軍隊統御の要諦は斯様な機微なる點に在るものである。

 而して之等は殊更に考へて計畫的にやつても一時は成功するかも知れないが、長時日の間には化の皮が表はれて、却つて有害となることがあるから、一切は奉公の至誠と部下を愛する熱情の發露にして、自然に發したるものでなければならぬ。 自分は此の點を考慮して 『運用の妙は一誠に在り』 と唱へ来て居る。
(続く)

posted by 桜と錨 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月09日

『運用漫談』 − (20)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その8 (承前)

 或る人は善く部下を知り之れと恩愛の情を結び、『此艦長の爲めならば水火も辞せずと言ふ様に撫育して、部下を統御するを要す』 とて世俗の親分子分の様な関係を作つて得々たる人があるが、自分は軍隊内に於て親分子分の如き私的関係を作る事は一種の反逆行爲であると考へている。

 畏れ多き申分であるが、吾人の親分は 上御一人の外何人でも無い筈である。 親分子分の関係すら既に然りである。 藩閥、閨閥、財閥殊に級閥等の如き閥族的醜関係が軍紀風紀を撹乱するの大害に至ては、眞に以ての外なるものがある。 慎みても慎むべきは人事上の公平無私なる事である。

 尚ほ亦た有爲の士にして、甲の艦長の下なれば宜しきも、乙の如き艦長の下に於ては駄目なりと言ふ様な人物がある。 是等は如何に特種の技能を有するとも、軍人としては落第であることを忘れてはならぬ。

 以上は主として部下統御上心得べき事に就て述べたが、次には自分の頭脳其物の経済的運用に就て少しく陳べよう。

 一體仕事を爲すには、何事に係らず先づ足場を片附けて身體手足の運動を無碍自由ならしむる事が必要である。 頭脳の仕事も亦之と同様であつて、艦船の操縦其の他萬般の作業に取掛る時には、常に日常の雑務や人世の俗務の如きは片端から片附けて仕舞ひ、事に當ては何等の後悔や杞憂や関心を要するなからしめ、頭脳を全くクリヤーにして居る事が必要である。

 更に深く之を論ずれば、吾人は常に禅学的究竟心理に達し居るべきであるが、そんな理窟を言ふと又々脱線するから漫談の本位に返へる。

 頭を楽にするには仕事を成るべく簡易にする等が必要である。 例へば艦船の出港法に就ても如何に操縦すべきかに就ては千變萬化の遣方が有らうが、自分は常に之を一定して居つた。

 夫れは時の状況と港湾の形勢を見て、回頭方向を定めた。 以上は殆んど総ての場合に内方の推進器を後進半速となし起き、外方の推進機と舵柄のみを操縦して其位置に於て回頭すると定めてゐたのである。

 斯くすると、頭の使方は極めて簡単で艦の行足如何を見て外側推進器のみを操つて居ればよいので、何れかと言へば、舵柄も餘り動かす要を見なかった。

 此方法は一見迂遠な様なれども決して然らず、長い間の艦隊勤務中、決して他艦に後れを取らなかつたのである。 其内でも軍艦 「鹿島」 の推進機は内廻りであるから、大變むづかしいとの評判であつたが、矢張右の方法一天張でやつたが、少しも困難を感じなかつた。

 尤も駆逐艦等で強風に逆つて回頭するを要する時は、右の内側機を後進原速若くは全速にして急速に回頭するを要する場合もある。 又横附けをする時でも愈々横附に臨むときは、被横附艦に少し許りの角度を以て進み、外側舷の推進機のみを一寸後進を掛ければよい様にもつて行く事に一定して居つたが、頭が楽で時間も短く、仕事は大變楽且つ安全であつた。

 右の様に日常の事は大抵の事は夫れぞれ自己の判断で一定の規準を作つて置くと、部下も其気心を知り、萬事順調に行くのみならず、咄嗟の出来事があつても、臨機應變に頭を働かす事が出来るのである。 所謂運用の妙は一心に在りとは此の邊の妙諦を謡つたものであると思ふ。

 軍艦 「音羽」 であつたと思ふ。 営口に入港する時水先人を傭つた處が、水先人は 「音羽」 が両舷機であるを見て、片舷機で入港さしてくれと言ふから、何故かと訊くと、自分は常に単軸の商船のみを使つて居るので、両舷機を使ふと頭が混雑していけないからとの事であつたから、言ふが儘に運轉さした處が、見事に入港繋留したと言ふ。 味ふべき事である。
(続く)
posted by 桜と錨 at 15:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)