2011年02月27日

『運用漫談』 − 連載を終えて

 50回に分けて連載してきました大谷幸四郎海軍中将著 『運用漫談』 が終わりました。

 本連載を読まれて、もしかすると船に乗られたことのない方々の中にはここで例示された事項を採り上げて、 “旧海軍とはこんなにお粗末なことをやっていた組織だったのか” と言い出される人がおられるかも知れません。

 しかしちょっと考えればそれは間違いであることがお判りになるでしょう。

 この 『運用漫談』 は部内に対する啓蒙書であって、部外一般に対する海軍の案内書ではありません。

 したがって、ここで示されているものはそのための例であって、“気を付けないとこういう傾向に陥りますよ” という注意喚起なのです。

 この点はお読みになる際にご注意いただきたいと思うと同時に、船乗りとしての一つの着眼点であり、「シーマンシップ」 とはこういうところにもある、ということをご理解いただけたらと思います。

 そして、私としては海上自衛隊の現役諸官にも温故知新として是非じっくりと味わって欲しいものの一つと考えているのですが ・・・・


 余談ですが、写真は今でも大事にしている私の 「テスト・ハンマー」 です。

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 これは昔三菱長崎造船所に修理で入った時に、同社の親しくしていた方が廃材で作ってくれたものです。 高張力鋼の非常に堅いもので、ちょっとやそっと物を叩いたくらいでは傷一つ付きません。

 これを貰ってからは、停泊中や修理中に艦の甲板を見回る時にはほとんどいつも持って歩くことにしました。 そして船体に銹が出始めているところを見つけると、これでトントンとやってペンキを剥がしておきます。

 船というのは銹はつきものです。 ですから、ちょっと時間が経つと到るところに出来ます。 初めはペンキの下の鋼材の表面に出来ますが、放っておくとドンドンと広がり、そしてその赤茶色がペンキの表面にも出てきます。

 こうなる前の、下の銹でペンキがちょっと浮いたくらいの時に、早めに、かつ徹底的に銹を落としておくことが肝心です。

 船では船体整備の担当エリアが乗員一人一人に割り当てられていますが、皆日々大変に忙しいので、銹落としはついつい後回しになって、後で纏めて一気にやろうという傾向になってしまいます。

 しかしながら、こまめに早め早めにやっておくと、結局はそれが後で一番楽ができる方法であり、また船体を長持ちさせることなのです。

 で、艦長が自ら銹の出かかったところをトントンとやってペンキを剥がしておくと、その場所の担当者はすぐにやらざるを得なくなります。

 そして時々は乗員一同に、日頃の船体整備の大切さと、そのやり方のノウハウを話して聞かせることにしていました。

( 実は、意外とこの銹落としのコツを知らない若い幹部や隊員も多いのです。)

 幹部や乗員の中には “艦長自らこんなことをしなくても” と思っていた者もいたかもしれません。 でも、船乗りの基本的な躾はやはり艦長自らやり、また言って聞かせることも大切な事だと思っています。 そしてこれを次の世代にキチンと伝えることも。

 このテスト・ハンマー、私の良き思い出の品であり、大切な宝物です。

管理人 桜と錨
posted by 桜と錨 at 14:33| Comment(3) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月26日

『運用漫談』 − (50)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その17 (承前)

 艦船の壽命とは其の期間には一切の戦闘と難航海の要求に堪へる事を必要とする事を意味する。 即ち建造當時と同様の強度と整頓を要するのである。 前述の青年将校等の考では、只浮いて居て平穏の日に走る事が出来ればよい位ゐに思うて居る様である。 以ての外の心得違ひである。

 艦船は其の乗員に取つては依つて以て皇國を防護し、吾人一切の責務を奉仕する唯一無二の神聖なる殿堂である。 其の美化浄化は吾人が神に奉仕する必須任務であるのみならず、夫れに依つて初めて吾人の精神が美化され浄化されるのである。

 之を少しも考へずして艦船を一夜の露を凌ぐ下宿屋の如く考へ、又た自己の栄達の爲めの一時的腰掛と考ふる徒輩の何ぞ多きや、敢て苦言を呈する次第である。

 明治天皇が彼の明治二十六年に議会が海軍豫算を削減したる時に、御自から五年間毎年内帑金三十萬圓を割かれて戦艦 (「富士」 「八島」) の建造費に當てられ、同時に御日常の御調度を極度に御節的あらせたことは、周知の通りで洵に畏れ多い極みである。

 一天萬乗の 君が斯く迄も御心を傷められて出来た帝国海軍である。 夫れを何ぞや、自己の怠慢や不覚に依り或は腐蝕せしめ、或は破壊し缺損せしめて、上 陛下に對し奉り、下萬民に對して果して何の申開きがあるか、吾人の大聲叱呼して一般の留意を叫ぶは此處にあるのである。

 諸點検や巡視検閲等を以て形式的なりとして之を軽視するものが往々あるが、如何に形式的でも之に由つて艦船が整頓され、手入され、美化される効果の偉大なるものある事は識者の確認する處であつて、彼の毎夕行ふ軍事點検の如き之を励行すると否らざるとに依つて其の艦長の能否を判断する事が出来る。

 又た艦内巡視に當つても之を省略する事なく萬遍に行ひ、巡視を受くるものとして失望を感ぜざらしむるを要する事は衆知の事であるが、兎もすれば實行されない。

 右に就て自分の敬服してる處では上述の池田大佐が 「扶桑」 艦長たりし時の艦内巡視である。 大佐は巡視に一週間を要するとされてゐた。 毎日午前半日を巡視に當て、作業服を着けて艦底から石炭庫倉庫一切を巡視し、腐蝕部其の他を調査して之を手入せしめたのである。 自分は其の徹底振りには全く驚かされたのである。

 長官としての検閲は恒例検閲さへやればよいのであるが、自分は著任後は一應各部の巡視を行ひ、且つ年末に莅みて年末巡視を行ふ事としたが、長時日に亙る戦技訓練や演習を終りたる艦船は相當に整頓を乱だし、各部の手入不充分を来し居る事は當然であるので、之を整頓せしめ掃除せしめて引締りたる気分にて越年せしむる事は、各般の點に渉り最も必要と思ふのである。 當事者の留意を促がす次第である。


 運用漫談も一寸した気分から書き初めたが、意外に戸惑い、回を重ぬる事十七回に及び、兵学校の帆走稽古から艦隊作業や保存手入を経て、諸點検巡視まで済んだから、此の邊で御免を蒙むる事とする。

        運用漫談 (大尾)
posted by 桜と錨 at 12:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月24日

『運用漫談』 − (49)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その17 (承前)

 船堂生大湊要港部司令官の時 (大正11年〜12年) である。 所属駆逐隊の恒例検閲を行ひ、青年将校に就て保存手入の要領を試問したが、其の答が振つて居る。 曰はく、駆逐隊の生命は十年である、本艦は建造以来既に七年を経過して居る故、残る所は僅に三年である、故に錆止め抔する必要は無い、寧ろ其の時間を以て専ら戦術訓練に利用するに加かずと。

 自分は其の餘りに打算的なるに驚き、其の教育日誌を調べ、如何程の戦術的訓練が行はれて居るかを見たるに、殆んど皆無であつた。 かう言ふ手合は口先きばかりは旨いが、實行は皆無と言ふ連中であるが、今日の全海軍に渉り斯の如き徒は果して居ないのであらうか? 聞き度いものである。


 艦船壽命の事に就き現 「三笠」 艦長池田大佐 (武義、海兵32期) の實験談を聞いたから略述する。

  大正十三年頃であったと思ふ、大佐は大正十二年末第二十一駆逐隊司令として佐世保に赴任したが、當時第三豫備艦たりし二十一駆逐隊は其の保存手入誠に不充分なる點ありしも、其の儘命に由り旅順に回航し、極力手入に従事したるに、某駆逐艦の兵員室の水準線附近に漏水するを發見し、直に内張りを外し検査したるに附近一帯の外鈑の腐蝕甚しく、荒天の航海等に堪へ難きものあるを覚え、艦齢未だ十年に足らざるに係らず、既に此の如き状態にあるに驚き、各艦長をして徹底的に腐蝕部を調査せしめたるに、水準線附近に於ける下甲板と外鈑との接触部には衣服箱やソッファーや、机若くは戸棚等固著的に取附けあり、是を取脱すに非すんば其の部の手入不可能なる爲め、建造以来全く手を着けざる有様にあるを發見したるに由り、佐世保歸港後其の詳細の状況に意見を附し、鎮守府に報告すると共に全海軍の駆逐艦に通告し警戒された。

 之は發表すると、よく分るのだが、茲に之を差し控えねばならぬことを遺憾とする。 夫れより大佐は横須賀鎮守府附第一駆逐隊に轉任され、その筆法で調査を行ひたるに、前記の駆逐隊と同様の状態に在るを發見し、之を鎮守府長官に報告したるに大に是認する處と成りしが、何分にも時間と人員不足の爲め十分の手入を爲す能はず、種々講究の結果、遂には在港艦船毎週一日の夜間訓練を行ふ事と成り、當日は総員の上陸を止め、総員にて艦内手入に従事すると言ふ例を開くに到つたのである。

 大佐は夫れより巡洋艦 「由良」 に轉じ、更に 「扶桑」 に轉じたるが、到る處右の筆法で調査したるに之れ又た同様の状態であり、到る處の當局者を警醒したのである。
(続く)
posted by 桜と錨 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月22日

『運用漫談』 − (48)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その17 (承前)

 船堂生其の後水雷学校々長と成り、教材用魚雷の實況を調べたるに、其の大部分が工廠にて修理中、甚しきものは、三年も工廠に在りて未竣工であると言ふ有様であつて、教材の整理困難を感するのみならず、使用魚雷も時には不足を感ずると言ふ事を聞き、前述の事例を思ひ出し早速造兵部に交渉し、学校の魚雷分解教場に職工を派遣してもらふ事にし、修理魚雷を未修理の儘受取り来り、教材としてドシドシ分解し修理せしめたるに 間も無くして教材一切の整理が出来た。

 其の後も比の方法を續けたが之に依りて教育費に多大 (其の精確なる數字を忘れたるを遺憾とす) の節約を得たのみならず、練習生の魚雷修理工業上の知識を組織的に完全に向上せしむる事を得たのである。

 以上の二例は艦隊竝に学校の魚雷分解手入場が造兵部と壁一重の陸續きにして、而かも近距離たりし爲め、容易に行はれたるものにして、艦船等に於ては實行困難なるものあらんが、工廠と艦船との通常なる妥協に依り、艦船に魚雷職工を派遣するか、又は工廠の魚雷修理工場の一部を割きて艦船乗員の魚雷手入作業に充當する等の方法を講ずる事とせば、相當の成果を挙げ得べしと思ふのである(此種の方法は目下實行せられてゐるかと思ふ)。

 又た此のプリンシプルに準じて艦船の一切の修理に應用せんか、修理費の節約と其の所要日数の短縮は蓋し豫想外のものあるべしと信ずるのである。

 坂本 (一) 将軍 (海兵7期) (注1) が横須賀工廠長の時 (明治43年〜大正元年) の事である。 将軍のお話に依れば将軍は一週間以上の修理日数を要する艦船は必ず陸岸に横附せしめる事とされた。

 然るに多くの艦船長は餘り陸岸繋留を好まない、夫れは教育訓練上の都合や取締上の都合から来てゐるのであるが、斯くの如き艦長に對しては将軍は常に、『陸岸繋留にすれば一週間内で修理が出来るが浮標繋留なれば一箇月を要する。 夫れでも宜敷いか?』 と言うて聞かされると、何れも皆な悦んで陸岸繋留をした。

 その副産物として横須賀港務部員の艦船繋留に関する運用術が非常に向上したとは當時港務部員たりし某大佐の實話である。

 今一つの事例は軍艦 「扶桑」 が進水して呉の繋船堀に於て艤装中の話である。 常時繋船堀は其の突堤の長さが短かかりし爲め、「扶桑」 の約半身は海中に突出して居たが係り技術官の談に據ると、此の海中に突出し居る部と否らざる部との間に、工事の進捗能率上豫想外の差があるとの事であつた。 職工使役上大に考ふべき事である。
(続く)

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(注1) : 以前もお話ししましたが、旧海軍では 「提督」 と 「将軍」 という言葉を使い分けていました。 即ち現に艦隊などの部隊指揮官配置にある将官を 「提督」 と言い、それ以外の配置の将官は 「将軍」 と呼びます。 海軍の将官であれば誰であっても 「Admiral」 という意味で総て 「提督」 と言った訳ではありません。


posted by 桜と錨 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月21日

『運用漫談』 − (47)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その17

 修理費をフンダンに掛けて保存手入が出来得れば文句は無いのであるが、夫れでは運用の用は無いのである。 そんな考へでは幾ら修理費を費やしても、ホントの修理は出来ないのみならず、浪費に終るのが常態である。

 ネルソンが洋中で無け無しの材料で修理手入した艦隊が、ツーロン港内で修理費に厭かして完備した佛国艦隊に勝つた事は前に談した通りである。

 修理費は如何に少額でも国民の粒々辛苦の結晶である。 之を消費する吾人海軍々人たるもの豈に夫れ苦心惨憺せずして可ならんやである。


 船堂生第二艇隊司令の時 (明治42年) である。 第二艇隊は横須賀鎮守府所属で長浦に繋留するを常として居た。 長浦には第一第二第三水雷艇隊の外に駆逐隊三隊が碇泊して居り、其の魚雷の分解手人や調整等は全部陸上の魚雷調整場で行はれて居た。

 此の調整場へは常に一名の伍長と、一、二名の職工が派遣されて居り、魚雷の具合の悪い處や破損した處があれば共の場で之を修理し、若し其の場で出来ないものがあれば其の部分丈け外づし、便宜の時に工場に持ち行き修理して来ると言ふ具合にやつて居た。 勿論之が爲には修理請求手續きは済ましてあつた。

 此の方法は誠に妙であつた。 魚雷職工と水兵と混じり合うて魚雷を整備するので、水雷兵の魚雷工業能力が非常に向上するのみならず、魚雷修理費を多分に節約する事が出来た。

 此の考は時の造兵部の先任検査官河田 (勝治) 中佐 (海兵17期) の著想であつたと聞いて居る。 何でも中佐のお話では年に四萬圓程度の修理費の節約が出来ると言はれて居た。

 艦船兵器修理規程に依れば、魚雷の修理を要する時は其の缺損部を指摘して修理請求書を提出し、魚雷を工場に送る。 工廠にては之を運搬し、作業の順次が来る迄は魚雷格納室に置く。 週間手入や月次手入を行ひ、愈々其の修理に着手せんとせば再び運搬工を使役して修理工場に運び、分解調査の上缺損部を修理し結合調整の上、之を格納庫に送り返へし、始めて修理竣工の通知を艦船に發し、艦船からは之を受取りに行くのである。

 即ち魚雷機構の一部缺損を修理する爲め、魚雷全體の運搬から分解結合調整諸手入まで全部工場の事でやるから、共の工費の増大する事推して知るべしである。

 然るに前述の方法に由れば、是等の費用は一切水兵の手でやり、且つ修理請求の前に一應水兵の手でやるべきものなるを以て、何も二重手間にもならないのであるから、言はゞ工廠の手間は全く無駄の手間と言ひ得るのである。

 漫然として繁文縟禮の奴隷と成り、空々寂々何の無す無き徒と、一寸頭を働かせる人との差は右の如き千里の差と成るのである。
(続く)
posted by 桜と錨 at 19:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月19日

『運用漫談』 − (46)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その16 (承前)

 艦内の整頓に當りては工廠の力を借りる他力主義を廃して、何でも自力更生主義で行く事が大いに必要である。

 「扶桑」 の梯子も其の一例であるが、第一に反省すべきは艦内の機械工場の設備である。 其の立派なる事は民間中流の鐵工場に勝るものがある。 夫れを知らずにアレも工廠コレも工廠と言うて修理請求を山の様に出して平然たるものがある。 近頃は艦内工業が大變奨励されて居ると聞き悦ばしいが、「扶桑」 艦長の時の一例をもう一つ書いて見よう。

 大正九年の末である。 「扶桑」 は艦隊作業を終つて呉に歸港して乗員は休暇を許るされて居た處、皇太子殿下が 「鹿島」 かに召されて瀬戸内海を御通過に成らせられ、大三島神社御参拝と言ふ事に成り、其の時の御上陸用として 「扶桑」 の水雷艇を使ふから出せ、と言ふ命令が下つた。

 「扶桑」 の水雷艇は艦隊で猛烈に使用せし爲めメチヤメチヤに汚れ、殊に煙突は其附根のフレンヂが折れてワイヤーでステー (注1) を取つて居り、総て是等は修理請求中であつたから、此の様な不様なものを御目に掛ける事は艦長として堪へ難い處である。

 「鹿島」 にも水雷艇がある、鎮守府にも長官用があるぢや無いかと色々文句を言ふたけれ共、「扶桑」 から是非出せ、外のは皆いけないと言ふ。 夫れなれば工廠で煙突丈でも修理してくれと言ふと、二週間を要するが御召の時は一週間に迫まつて居るから工廠では出来ないと言ふ。

 餘り馬鹿々々しいので、ヨシ引受けます、と言うて機関長に右のフレンヂを作り直せと言ふと、大きいから艦内で鋳物が出来ないと言ふ。 夫れなれば防備隊の工場を借りたらよいと言ふと、兵員が上陸せねばならぬから人手が不足だと言ふ。

 ヨシ夫れなれば機関部の工業員は上陸止めだと言ふ事で晝夜兼行でやる事と成つたが、夫れ迄やつた事の無い大鋳物であるから、三度失敗して四日目に漸く出来、其の間に艇内の掃除手入も出来、煙突もヒシャゲた處を打ち直ほし、まるで新造の様になり、ピカピカする様になつた。 愈々仕上げて見ると實に立派だ。

 そして立ち所に御用を勤め了り長官からほめられた。 工廠の連中をも驚かしてやつた。 早速機関長を呼んでエ業員を大に賞揚し、全員に七十二時間の臨時外出を許るしてやつた處、工業員も大悦びであつた。 やればやれるものだ、又た十分やる設備と腕とはあるのだ。


 船堂生第一水雷戦隊勤務中の事である。 八月頃で艦隊の軍港歸還期迄には二、三ケ月を剰してゐる時であつた。 麾下某駆逐艦が横附けの際カッターを破損せしめたと言うて修理を請求して来た。

 其のカッターは半舷を無くして居るので、旗艦の船匠師も手の附け様が無いと言うて修理不可能、軍港歸還迄旗艦に預かる事とすると言うて報告して来たから、夫れはイケない、駆逐艦のカッター位ゐは旗艦で造る位ゐの能力がある筈だ、幾日掛つてもよいから艦内で修理せよと命じたるに、一週間を要せずして修理が出来た。

 此度で一寸附言する。 昔は斯様な作業は艦内では不可能として居たが、艦船に鋸機械が備へられ、随意の技が出来る様に成つたので、容易に斯様な事業が出来るのである。 船匠長の不可能と言ふたのは畢竟昔の隋力である。 頭の進歩と言ふ事が必要である。
(続く)

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(注1) : stay  支索、維持索のこと。
posted by 桜と錨 at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年02月17日

『運用漫談』 − (45)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その16 (承前)

 整頓と清潔に就てもう一つ注意すべきは美的観念である。

 倉庫係等は此の美術眼が必要である。 例へば此處に澤山の螺廻 (ねじまわし) がある、之れを仕末するに只並べて置くよりは、共の大小長短を利用して花模様にするとか富士山型にするとかして置く、さうすると、之を取り出したり又収めたりするものは、自然に其の美を破壊したく無くなり、所謂 「整頓を保たんとせば整頓を崩さゞるにあり」 が、文句を言はずして行はれる。

 清潔に就てもさうである。 如何にも美しいと言ふ様な感じを與へる様にして置くと、之を汚すのに非常に注意するのである。

 諺に濡れぬ先こそ露をも厭へと言ふ事がある。 美い着物の裾でも濡れぬ内は大事にするが、一度濡れると平気で露の中へ這入るものである。 船内の整頓も清潔も其の通り、吾人の節操も魂も亦其の通りである。 濡れぬ先こそ露をも厭へ、之れが清潔の根本である。 汚れる事混雑する事は右の如く傳染するが、清潔も整頓も亦た傳染するものである。


 第十一駆逐隊司令の時 (大正4年〜5年) である。 新造駆逐艦揃ひであるが、此の種の駆逐艦級には傳馬船が二隻宛備へ附けられて居た。 之れが汚れ易くて仕様が無いので、大に考へた。 そして其原因は塗方が悪いと言ふ事に気がついた。

 常時の塗方は規定に従ひ外側は総鼠、内側は総白で何等の美観が無い。 殊に其の外側には番號として大きな不細工な文字が書かれ、丸で廃船の様な風であつたので、自分はカッターの様に右舷の傳馬船の内側上縁に青線、左舷の傳馬船には赤線を入れ、番號を廃めて艦名に變へて見たのである。 さうすると大邊美しく見え出し、夫れから汚れ方がズット少なく成つた。 今日は多分之が塗り方となつて居ると思ふ、面白いものである。

 扶桑艦長時代である。 扶桑が出来上つたのは大正四年である。 自分が艦長となつたのは九年であるが、乗り込んで見ると其の穢い事と錆びて居る事に驚き副長を呼んで叱りつけた處、どうしても綺麗に成らぬと言ふ。 見て居ると成程勉強して居る、兵員は一生懸命である。 夫れで此の汚れる原因は何かを考へた。

 扶桑が出来上つて僅々五年餘である。 然るに其の上中板の梯子は全部銹が浮いて居る、之れはメッキが不十分であるからである。 依つて副長に梯子の鍍金の全部やりかへを請求せよと命じた所、請求は再三したけれども作業が大きく経費が重大と言ふ理由で却下される許りであると言ふ。

 ヨシ夫れなればと言ふので総員の手で先づ右舷側の上中甲板の梯子を全部外づし、滑止めの眞鍮鈑を脱し、脚部の腐蝕した處は銹を落して當金を加へ、夫れから造船部に行き、「片舷の全梯子を鍍金工場の鍋の側へ持つて来るから鍍金してくれ、鍍金が出来たらば兵員の手で取りに来る、夫れから後は全部艦員でやる」 と申込んだ處、夫れならば譯はないと言ふから、先づ右舷側を済まし、次で左舷側を済ますと、艦内は銀色燦然として輝き渡り所謂金殿玉楼と成つた。 さあかうなると働く兵員の心も輝き、他の各部が見る間に美化されてしまつたのである。


 第十一駆逐隊の時 (前出) である。 自分は僚艦横附けが好きである。 横附すると隊員全體が兄弟の様な気特に成り、従つて統御が意の如く成るものである。

 此の駆逐隊は新造揃ひである。 従つて手入法や整頓の方法が同型艦ではあるがまちまちであるから、横附けさせて置いて准士官や下士官をして順次に各艦を見学させたが、三人集まれば文珠の智恵で、優れた處劣つた處を見て研究し反省せしめて非常に得る處があつた。

 近頃の艦船は同型艦で一戦隊が出来て居る。 戦隊内で各艦交互に見学せしむると大なる利益があると思ふ。 お勧めする次第である。
(続く)
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2011年02月15日

『運用漫談』 − (44)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その16

 抑々ものを清潔にするには先づ整頓をよくせねばならぬ。 自分は常に掃除の八割は整頓であると唱へて居る。 整頓が出来れば掃除と清潔は先づ出来上つたと言うてよい。 整頓をせずしてむやみに塗り立てたりしても、夫れは田舎娘がお白粉を塗りたくる様なもので駄目である。

 而して清潔と整頓を保つにはどうすればよいかと言ふに、自分は整頓せんとせば 「整頓を崩さゞるに心掛けよ、清潔ならんとせば先づ汚さゞるに留意せよ」 と注意して来たものである。

 不注意に汚し不注意になげ込み、夫れが爲めに一挙手一投足の労で済む事を、十人役も百人役もにする事が如何に多いか、之れは分隊長や分隊士の大に気をつけねばならぬのみならず、吾人日常でも大に気を附けるべき事である。

 整頓を良くするに就ては、設計委員艤装委員からして之に留意せねばならぬ。 設計委員には時とすると若い技術官が来る。 経験不足からして飛んでも無い事をする。 某軽巡の艤装に當り驚いた事は、ハンドレール、スタンションがウォター・ウェー (注1) の中央に立つて居り、水は全く流れないのみならず、其の爲めに甲板洗方の仕事の多いこと驚くべきものがあつた。 極細かい事であるがこんな例は幾らもある。

 自分は某軽巡の艤装委員の副長を命ぜられた事が有つた。 設計によるとシート・アンカー (既出) が甲板へ平らに置く様に成つて居た。 若し之を其の儘に置かんか運搬作業は勿論、其の附近の甲板の掃除がどんなに面倒であつたか知れたものでない。

 依つて自分は之を運搬する時に使用する汽艇の両ダビット間の外舷に添はして締着する事にした。 外舷が穢くなると言ふ議もあつたけれども夫れは一寸注意すればよいので、年中大きな錨がデッキにゴロゴロしてゐるより利する處幾許ぞや、又た錨運搬の作集の迅速なるを得た事も幾許ぞやであつた。

 談が艤装の事に走つたから一寸艤装に就て書いて見よう。

 艤装委員と成るとアレが欲しいコレが欲しいと言うて無やみに取り込みたがる傾きがある。 處が造船家の方になると重量の開係もあれば豫算の関係もあるのでオイ夫れと承知しないので、えて造船家と艤装委員の啀み合が起るものである。 欲しいものは幾らでもあるが、船は戦争するものであると言ふ立脚點を忘れてはならぬ。

 前述の副長の時に戻る。 著任して見ると、さあアレが欲しいコレが欲しいが山積してゐる。 係り造船官に申出ると例の 「重量と換算」 を以て来る。 ヨシ夫れでは之れは不用だ、比のボイスチューブは此處で切れ、此の送水管は此處で切つて呉れ、と言うて調べて見ると可驚ほど重量の軽減が出来るのみならず、至極便利に成るから其の換りにコレコレを申出た。 さあさうなると造船官の方が閉口して大抵のものはやつてくれた。

 此處で一寸注意するが、設計に當りパイプアレンヂメントの様なものは、他の重要設備の爲めに軽現され勝ちで、爲めに不便や重量増加を来す事大なるものがある事に留意する要がある。

 船堂生、某駆逐隊の司令たりし時に、新たに竣工した駆逐艦が編入されて来た。 艦長大に要領を得て、係り造船官と親交を結んだものだから、随分色々の物を取り込み至れり盡せりの感があつた。 然し自分は戦争と言ふ見地から之を見て艦長には気の毒であつたけれ共、之れは不要、彼れは不要で、不要物を取外し、傳馬船二隻に満載して陸上の豫備艦倉庫に預けた事があつた。 之れは恐らく一生彼の駆逐艦の陸上倉庫に在つた事と思うて居る。

 近頃の最新式艦船を見るに、電気要具の發達や指揮装置の完成の爲めに、其の器械の多いこと、行き届いて居ること驚くべきものがある。 拝観して一寸考へさせられた。 軍艦は戦争するものである、敵弾は遠慮會釋も無く飛んで来る、一發此處へ来たら三萬五千噸台なしと成る。 十何吋の舷側装甲鈑何の用ありやである。 是れは大に考慮すべき事と思ふ。

 可成完全に、可成簡単に、可成軽快に、可成頑丈に、之れは設計上にも艤装上にも両立し難きコントラストではあるが、夫れだけ大に研究と留意を要する事である。

 設計や艤装上の理窟を言へば際限が無い。 漫談も簡単を要する。 艤装に就ては是れ位としよう。
(続く)

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(注1) : warter way、舷側にある水捌けのこと。

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2011年02月13日

『運用漫談』 − (43)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その15 (承前)

 船堂生呉鎮守府奉職中 (呉鎮守府司令長官、昭和3年〜4年) の事である。 全國安全週間の日、工廠を巡視したが種々の警句金言が張られ、工場一般緊張の色漲り誠に見事であつたが、不圖気の附いたのは使用道具の揃へ方が、まちまちであつた事である。

 而して其の道具の揃方如何に依つて、其職工の能率と良否が判明する様覚えたので、巡視後、覚書として上記の次第を陳べ、尚ほ (一) 職工は就業の始めには先づ當日の使用機械と道具に對し御早ようと挨拶し、終業の際はお休みと挨拶すること。 (二) 就業の始めに常つては當日の事業を考へ、道具を如何に揃へ置くを便とするやを考へて之を揃へ、使用後は成るべく原位に戻す様にする事。 (三) 年末には半日を休んで道具祭りを行うては如何と注意したるに、當事者の共鳴を得たが、其年末に道具祭りの成績著しきものありたりとの報せに接した。

 呉工廠に於て今日上記三項が其の一部でも尚ほ行はれて居るや否や知るを得ざるも、職工は道具を以て働き、道具に依つて給料を得道具に依つて生活し、道具に依つて一家を保育し、道具に依つて國家に奉仕する事が出来るのである。 道具は職工存在を保證する神様である。 之を敬し之を愛して始めて優秀なる職工たるを得るのである。 最もよく鉋を磨くものは、最も秀でたる大工であるとは大工道の本領である。 俸給袋を手にせば萬事了れりとし、道具を工場の一隅に打捨て省みざるが如きは以ての外の心得違ひである。

 船堂生は常に思ふ、海軍のみならず、帝國一切の公私工場が年中作業の一として日を定めて荘厳なる道具祭りを行はんか、上下敬意の風、期せずして工場に満ち、罷工怠業の如き悪風は容易に一掃するを得べしと。

 又しても漫談が飛んでもなき横道に迷ひ込んだが、序でに愛と汗とを以て濁世を救はんとする修養團の二大誓願を掲げて参考に供する。 同愛の士日夕三唱されん事を望む。

       修養團二大誓願

     人よ醒めよ、醒めて愛に歸れ、愛なき人生は暗黒なり。 共に祈りつゝ総ての人と親しめ、吾が住む郷に一人の争ふものもなき迄に。


     人よ起てよ、超ちて汗に歸れ、汗なき社會は堕落なり。 共に祈りつゝ総ての人と働け、吾が住む里に一人の怠る者もなきまでに。


 自動車王フォードは可憐の新聞賣子から僅々半生の年月の間に、一躍二十億餘萬弗の長者と成つた。 成金の世界的レコードの保有者である。 彼れはよく廃棄されたる鑛山を買ひ、廃棄されたる鐵道を買収し、忽ちの間に之を有利繁栄の鑛山及び鐵道に化する魔術師的特技を持つて居ると言はれて居る。

 而して其の魔術の種は清潔第一の四字であると言ふから面白い。 廃鐵道廃鑛山を買取るや彼れの行ふ第一着手は、先づ其の事務所を整頓し掃除し、ペンキを塗換へ燦然たる美観たらしめる。 然る後は萬事は放てトントン拍子に好轉する、とは彼れの信條であり、彼れの成功の秘訣と成つたのである。 清潔なる哉清潔なる哉である。

 日本民族は世界に於て最も清潔なる民族である。 我が神道の禊祓の結びの句に「拂ひ玉へ清め玉へ」の祈詞がある。 船堂生は各種の宗教の祈詞を研究して見たが、何れも皆自己主義で自己の幸福安寧を祈願するのが普通であつて、「拂ひ玉へ清め玉へ」 ほど清き尊き祈願は無い様に覚え、神前に叩頭 (ぬか) づく時は拂ひ玉へ清め玉への外何事も祈らないのである。

 武士は腰刀の銹を以て魂の銹とし、貞婦は鏡の曇を以て貞操の曇とする。 是れは日本武士道の本領である。 前項に於て吾人は艦船兵器は吾人の傳家の寶刀であると言ふた。 之を保存し手入するは自己の魂を保存するので有る。 日課手入は自己の魂の日課手入である。

 神前に在りて拂ひ玉へ清め玉へと祈る心を以て、艦船の保存手入に精進し、清潔第一を以てモットーとせよ。 既に六根清浄の境地に達せんか、外国人フォードの教へを待つ迄もなく、艦船兵器の保存手入は自然に完成せざらんとしても能はざるものがあらう。

 斯く談じ来りて目下帝國海軍の艦船の現状に思を致すとき、訓練作業の猛烈繁劇なる事はさる事ながら、傳家の寶刀果して一片の曇なきか、聊か疑ひなき能はず。 切に反省を促がす次第である。
(続く)
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2011年02月11日

『運用漫談』 − (42)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その15

 「運用の妙は一誠に在り」とは船堂生の多年の主張である。 誠は自己に對しては反省となり努力と成りて表はれ、他に對しては愛と敬と成りて表はる。

 孔子は忠恕を説き釋尊は慈悲を説き、基督は愛を唱へ、モハメッドはコウランと剣を以て立つたが、四者各々其の詞を異にするも其の意は即ち我が誠にして、皇道の一端の現はれに外ならぬのである。

 誠の力、愛の力が統御上如何に大なるものであるかに就ては、第九項に於て既に略述した通りである。 愛の最も大なる現れは愛國であるが、吾人海軍軍人に取りては夫れが愛隊と成り、愛艦と成り保存手人と成る迄に至らぬばならぬが、口に愛國を唱へつゝ愛人愛艦の實行に及ぶもの、何と少なきを覚ゆるものあるは誠に遺憾とする處である。

 艦内の一切に對し自己の一身を愛する如くする事、否な自己全幅の愛を捧げて自艦に奉仕するのが艦乗 (ふなのり) の本分である。 毎朝の甲板洗方は艦船の顔を洗ふ事である、日課手人は艦船の身仕舞である、毎土曜日の大掃除は其の入浴である。 吾人は日常果して自己の顔を洗ひ身仕舞を爲し、又た入浴するが如く、日常作業に愛と誠を捧げて居るか。

 茲で一寸注意するが兎もすると一週間に一度も顔を洗ひ得ざる三等兵ある事に留意する事である。 蚊一疋に刺れても髪一本抜かれても疼痛を訴ふるが、ボルト一本折れ、スタンション一本曲りても、之を我身を切らるゝ如く痛感する乗員果して幾人あるか、自他共に大々的反省を要する次第である。

 誠の力は絶大である。 全身愛を集中して事に當らんか、所謂精神一到であつて事として成らざるなき筈である。 其の成らざるは畢竟愛の足らざる結果である。

 帝國々民全體が今一層國に奉仕する誠と愛があつたならば、華府會議も倫敦会議も今日とは餘程異つたものであり得て、従つて五・一五事件の如き不祥事も起らずに済んだであらうに。 否らずして事今日に及ぶ、之れ蓋し天の吾人の怠慢に對して下し給ふた天譴である。 上下共に大に慎み大に畏むべきの至りである。

 愛には敬が伴はねばならぬ、敬なき愛は溺愛にして痴情の愛に堕する虞れがある。 上は下を愛し下は上を敬せよと言うて、愛と敬とは階級に依つて違ふ如く説く人あるも、船堂生は否らず。 上下交々相愛し、相敬して始めて眞の愛が實現さるゝものであると信ずる。 夫婦間の愛、殊に然りである。

 艦船兵器の保存手入に於ても、愛と共に敬が伴はねばならぬ。 明治十年頃迄は敬神愛人の風一般に敦きものあり、農民の如きは田畑は勿論、鋤や鍬の如きも之を神として祭つたものである。

 然るに明治十五、六年頃より浅薄なる洋学流行し、外尊内卑利己享楽の悪風一般を風靡し、男女の痴情を以て愛の本體と考へ、敬の何たるを知らざるのみならず、敬を無視するを以て得意と考ふるに到り、延いて以て今日の天譴的最大國難を招来するに到つたのである。 深く戒まざるべけんやである。

 帝國軍艦には大神宮若くは其の艦名に因みたる色々の神様を勧請し来り、守護神として祭つて居る。 誠に結構であるが、毎朝其の守護神を禮拝するに當り、乗員は果して何を祈つて居るか。 自己の安全幸福のみを祈る不心得者は果して無いか、注意を要する。

 陛下の軍艦は吾人海軍々人の生命である。 一切である。 軍の守護神を祭るは即ち軍艦其のものを祭るのである。 軍艦其物は神である、大砲も水雷も機関も罐も一切神である。 是を保存し手入するは即ち神に對する奉仕であり、お祭りと心得べきである。

 座臥行住、神は常に吾人の前に在らせらるゝのであると知れば、茲に始めて眞の愛と敬とが表現され、完全なる保存手入が行はれ艦と乗員と共に一體と成り、神聖なる護國の神剣と成り、皇道扶翼の根幹と成るのである。 尊き哉保存手入作業哉である。
(続く)
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2011年02月09日

『運用漫談』 − (41)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その14 (承前)

 船堂生少尉の時分である。 魚雷の機構は餘り復雑して居るので、其の分解手入や結合調整は、頭の粗雑なデッキ将校や水兵の能はざる處であるとでも思はれたか、魚雷掛りの機関官を置き、殊に魚雷に関する教育を受けた機関兵曹を水雷手として配せられ、是等機関部員が魚雷の機関手入から調整まで総て行ひ、發射管の手入と装填發射のみが水雷長と水雷部員の任務であつた。

 従て魚雷發射に際し故障でも起きると、責任争ひが起るのみならず、魚雷の成績は一向振はないのであつた。

 常時某巡洋艦の水雷長で、殆んど病的に責任を恐るゝ人があつた。 此の水雷長は嘗て水雷艇を衝突沈没せしめ、多数の殉職者を生ぜしめた辛き體験を受けられた人で、其の責任回避癖は大に同情すべきものとされて居つた。

 此の巡洋艦が伊勢湾で魚雷發射を行ふた時の話である。 水雷長は自から標的を照準し、發射し、魚雷が水面に落るや否や直に艦橋より駈け降り、甲板の煙草盆の處に来り 『魚雷の水面に落ちる迄は自分の責任である。 夫れ以上は水雷機関士の責任であるから自分は知らない』 と言ひつゝ、スパ!スパ!と煙草を燻ゆらし、魚雷が偏斜しようが、沈没しようが我れ関せず焉で平然として居られた。 是れは極端な一例である。 責任を分擔する事にすると、斯の如き無責任観念に堕するものである。


 現在飛行隊の構成に就て見るに、其の操縦搭乗員と準備員とを全く別々にして居り、其の成績は誠に立派に挙げられ居るので、門外漢たる船堂生の何等杞憂を要せざる處であるが、何とかして操縦者自からが、自己受持の飛行機を自から準備し得る様にし、又た自から準備すべきものとせば、更に好成績を挙げ得るに非ずやとは、船堂生の永年懐抱する處の疑問である。


 談が脱線して責任論に成つたが、序でに艦船保存手入と責任と言ふ事に就て今少しく述べる。

 昔は保存手入は殆んど総て副長と甲板士官の仕事の様に思はれ、精励なる副長は甲板士官と共に朝から晩迄跣足で艦内を走り廻はつたものであつたが、現今は分隊受持と成り、各分隊長は其の受持區域の保全に関して責任を持ち、副長は之を総括すると言ふ事に成り、萬事整然と成つた様だが、果して理想通り行はれて居るか。

 第八項に於て船堂生は、始めて駆逐艦長を拝命したる友人に、螺子一本の折損と雖も其の原因の何たるを問はず、総て艦長の責任であると心得よと忠言したと言ふたが、此の考は今日でも少しも變らない。

 艦長は副長に委任し、副長は分隊長に一任し、分隊長は又分隊下士に一任して顧みず、保存手入は只だ日課喇叭の號音に依つて機械的に行はるゝのみと言ふ様な艦は果して無いか。

 分隊長は終日其の受持區域を見廻はり自から手入作業を監視し、副長は巡検其の他に由り一般を監視し、艦長は週一回の艦内巡視に依り更に之を監督し、司令官は年一回の恒例検閲に依り艦隊全部の保存手入の當否を検すると言ふ事に成つて居るので、保存手入に関する制度は至れり盡くせりであるが、果して夫れが何程の熱を以て行はれて居るか、大に一般の反省を望まざるを得ない。


 船堂生 「敷島」 艦長の時 (大正6年〜7年) であつたと思ふ。 一日作業後に後甲板に立つて居た。 甲板掃除の號音に従ひ甲板は掃除され、甲板士官は 「宜シー」 と當直士官に報告し、當直将校は休憩の喇叭を吹かせんとしたから、自から一寸之を待たしめ、更に甲板掃除の喇叭を吹かせた。

 再び掃除し再び 「甲板宜シー」 と届けられた。 三度甲板掃除の喇叭を吹かしめた。 三度掃除し三度 「甲板宜シー」 が届けられた。 一同は變な顔附きをして居る。

 依つて総員を集めて只今三度甲板掃除を命じた、一同は變な顔附きをして居るが、三度掃除して三度共殆んど同量の塵が集まつたでないか。 軍艦の甲板掃除は役者が舞臺で行ふ掃除とは異なる處が無ければならぬ、と言うて訓戒した處、夫れから甲板掃除が徹底味を帯びて来た。

 現今艦隊各艦の保存手入が此の 「敷島」 の芝居的甲板掃除に堕して居るものは無いか、敢て皮肉くる次第ではないが問ふて見たい。
(続く)
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2011年02月07日

『運用漫談』 − (40)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その14 (承前)

 船堂生少尉の時である。 軍艦 「敷島」 回航委員の末席に加へられた (明治32〜33年)

 回航員は定員の三分の二に達せざる少数である。 其の上に英国著早々受取つた 「敷島」 の艦内の不潔な事、實に驚くべき有様で、甲板は泥と塵の踏み固められた約一寸厚さの汚物で覆はれて居り、汚い談だが下甲板の隅や、艦底等には、ウカとすると黄金佛の伏兵に足を拂はるゝと言ふ有様であつたが、受領後三ケ月足らずで日本に歸り、直に大演習に加はり、畏れ多くも 明治大帝の御召艦と成ると言ふので、此の 「敷島」 を清浄にし美化するに就ては、艦副長以下乗員一同の苦心と努力は豫想外のものがあつた。

 此の難作業の直接其の衝に當りたる副長井手鱗六少将 (海兵8期) の立てられた計畫は、(一) 艦内の整頓と掃除手入は総て副長之を司り、兵員全部と作業時間の全部を之に當てる。 (二) 総ての兵器と倉庫は之れを分隊員に渡すが、之れを整頓し手入する爲めにと言うて、別に作業時間も作業兵員も與へない。 然し分隊員は何人も皆完全に 「敷島」 を回航する名誉と任務を有するから、各自の努力に依つて其の重任を果すべしと言ふにあつた。 随分無茶な命令である様に見えるが、此の計畫は美事に成功したのである。

 當時艦内一般の兵器には半年間位ひは大丈夫と言ふ防錆グリースで塗り固められて居たが、其のグリースに就ては、「敷島」 の前に日本に回航した軍艦 「出雲」 が苦き経験を嘗めたものである。 「出雲」 は此のグリースを信用して、兵器には全く手を附けず、艦内諸手入に全力を注いで来た爲め、誠に美事な美しさで歸朝したが、グリースの効力全からず、筒 (「月」偏に「唐」) 中等に發銹し、長く砲員を苦るしめたものである。 此事は 「敷島」 回航員もよく聞かされて居たから、何とかせねばならぬと考へて居た。

 然るに副長の注文は前掲の通りであるが、事情又た止むを得ざるものがあるので、分隊員は副長に對し、必ず兵器は分隊員の手で立派に日本へ持ち還へる事を盟ひ、早速グリースを拭ひ去り、日中の休み時間は勿論、就寝後も起きて各受持兵器の手入をなし、受領當時は恰も豚小屋の観ありしケースメートは、忽ちにして洗ひ清められ、兵員相互間にケースメートには靴の儘入る事を禁じ合ひ、間も無くして共の甲板は甜めてもよい様に清浄にせられ、ウツカリ靴穿きの儘で立入らうものならばぶんなぐられ相な勢であつた。

 此の様な次第で、大砲等はピカピカに磨き上げられ、丸で鏡の様に輝き、艦内の掃除整頓も立派に出来上り、回航歸著の時は見る人をして驚かすに足るものあり、御召艦として十二分に任務を盡す事が出来たのである。 各自の責任を明かにし、自分のものなりと考へさすと、斯の如き好成績を挙げ得るものである。


 明治三十三年頃船堂生中尉で、佐世保水雷團第三艇隊の艇長心得 (注1) を命ぜられた時分の事である。

 當時の水雷艇には固有の定員なく、命課は総て隊の名に於てせられ、艇員は司令の命令に依つて定められたものであつた。 のみならず艇員は絶て陸上兵舎に起臥し、各艇には當番のもの丈けを配乗し置き、イザ出動と成ると、兵員はハンモックを持ち、士官は海圖を持つて乗込んだものであつて、此艇は自分のものだと言ふ感じが薄く、従て各艇の保存手人は誠に不十分であつたので、石田一郎司令 (海兵11期) 、山田亨司令 (東京商船学校) 、高松公冬司令 (海兵14期) 等相謀り、上司の許可を得て各艇の艇員を固定して艇内に起居する事にしたが、間も無くして艇内の整頓行き届き見違へる様に成つた。

 此れと相似た事が後年潜水艦の發達時代にも起つた。 初期の潜水艦は艦内狭隘にして居住出来兼ねたる爲め、母艦若くは防備隊に起臥したものだが、其後潜水艦發達して艦内居住可能なるに及び、艦内の保存手人等大に改善されたのである。
(続く)

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(注1) : 著者の経歴を見ると、この中尉の時は佐世保第一水雷艇隊、明治35年の大尉の時が佐世保第三水雷艇隊とされています。 誤植と考えられますが、詳細は不明でので、そのままとしております。


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2011年02月05日

『運用漫談』 − (39)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その14

 本年度 (昭和八年度) の国家総豫算は二十二億四千萬圓である。 其の内海軍費は経常臨時合計三億七千萬圓、陸軍費は四億五千嵩圓にして、国防費は両者合計八億二千萬圓の巨額に達して居る。

 此の世智辛ひ世の中で、此様な莫大なる費用を投じて行ふ帝国々防の眞の根幹は、何と言うても海軍艦船兵器の精鋭充實にある。

 従つて是等艦船兵器の保存手人の重任に當る海軍々人の任務の重、且つ大なるものあるは言ふ迄も無いが、果して如何程の注意と努力が拂はれて居るか、敢て数字を掲げて留意を喚起する次第である。

 日本武士道の傳銃的精神の中に、傳家の寳刀を大切にし、其の精美を以て誇とし、何を措いても此れ丈けは錆びさせないと言ふ精神がある。 吾人海軍々人に取りては、艦船兵器は即ち傳家の寳刀である。 昔の武士は刀の鯉口を鏡として髯の解れを正したものである。

 吾人は各自のお預りして居る兵器を磨き立て、鏡の様に保存するを以て何よりもの誇とせねばならぬのであるが、現在吾人は果して何程の精神を艦船兵器の保存手入に打ち込み、之れが爲めに何程の努力を拂うて居るか。

 艦船乗員の二六時中の業務は数時間の教育訓練の外は、総て此の艦船兵器の保存手入に費やされ、日課作業として海上生活の本體となつて居るのであるから、敢て不足を言ふべき限りでは無いが、既に日課事業と成つて居るので自然に慣れることに成り、其の精神を忘れて形式的に走り、保存手入の實を十二分に挙げ得ざる恨みなきにしも非ずと思量さるゝ故、以下保存手入に就き漫談を試みることゝする。

 保存手入に関する心得に就ては兵学校、運用学校 (注1)、機関学校等の教科書の外、種々の出版物があるので、茲には只船堂生の體験に就き思ひ出づる儘に書いて見る。


 艦船兵器を自己の傳家寶刀と心得よと言ふた。 又た御上のものを自分の所有物の如く大切にせよと言ふ訓示は度々聞く處であるが、之に對して自分のものと心得よと言ふは以ての外の不都合である。 御上のものであればこそ自分のもの以上に大切にすべしと心得よと言ふのが本當であると言ふ人がある。

 誠に尤も至極で、殊に一切を国家に捧げるを本領とする吾人海軍々人に取りては、全く一言無い處である。 併し悲哉、人間は利己本位の動物である。 自分の物と思へば大切にするが、公のものと言へば粗雑にする弱點がある。

 比較は聊か非倫の嫌ひはあるが、彼のマルクスの共産主義が事實上共殺主義に堕し、露国の 「共働農業組合」 政策が全然 「共不働農業組合」 と成り畢つた事は、全く此の利己的本能の典型的事例である。 注意すべきは實際と理論の相達である。
(続く)

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(注1) : 海軍航海学校、砲術学校、水雷学校など、それぞれ担当する船体・武器・装備機器についてその運用法 (操作取扱・保存整備) を教える術科学校のことを指します。 「海軍運用学校」 というのがあったわけではありません。


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2011年02月03日

『運用漫談』 − (38)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

三、郡役所廃止せられて間も無き事とて、地方町村と縣當局との連絡極めて悪しく、當時京都府知事は内務部長警察部長等を率ゐ宮津に出張せしも、何村が何れに在り、其の住民幾何、其の交通路如何等は、殆んど不明にて手の附け様なき有様であつた。 此の様な事にて一朝有事の際、果して如何、寒心に堪へざるものがあると思はしめた。

今ま若し郡役所あり、郡長ありしならんか、地方情況は手に取る如く知られて、如何に救護を利したか抔考へ、郡役所廃止の有害無益なりし事を痛感した。 (郡役所廃止されて町村の経費は却つて増加してる。)  其の後市町村と縣との連絡大に進み、警察に由る連絡も大に改善せられたが、今尚ほ郡に比すべき中間機関の設立を望む聲朝野に絶えざるものあるは、蓋し止むを得ざる事なりと信ずるのである。


四、震災後第四日であつたと思ふ。 先任参謀をして網野より岩瀧に至る激震地を徒歩横断せしめ、始めて精確なる情報を得て一般の救護作業を利した。 又た第七日目のことである。 自分は自動車を駆つて道路を修繕しつゝ、岩瀧より網野の隣村鳥取村に出でたるに、到る處の住民は自動車の聲を聞き、救援の途開けたるを知り頗る安堵した。


五、奥丹の地震の時は先例の有る事とて、全國よりの救援施設が理想的に殺到した感ありしも各地より来る救護班の中には高い旅費日當を取り、眞新しいショーベルを擔ぎ、仕事の命令が無いからと言うて毎日々々ブラブラ歩き廻はり、丸で地震見物の様な有様で、之れに宿所を用意し糧食の配給の世話もせねば成らぬので、却つて被害地の厄介と成つたものが多かつたが、此の時舞鶴の兵員と職工は、殆んど自費で出張し、片端から道路を修繕し、倒壊家屋を起こし、負傷者を救護したので、海軍は到る處神様のやうに思はれた。

陸軍某聯隊よりも救護班が来た。 之は戦時装備で剣突鐵砲と實弾携帯でやつて来たが、来て見ると弾薬よりは米麦、鐵砲よりはショーベルが必要であると言ふ事が解り、一寸皮肉で有つた。 留意を要する事である。


 六、震災後長く奥丹地方に在りて地震学の研究を進められたる今村博士 (明恒、東大地震研究所、教授) の談に依れば、今回の地震に依り従来は地震計に依り平面的にのみ地殻の變動を知り得たるに、今回の實験に依り之を立體的に測知する事を得るに到り、震源が何の地にして深さ幾何の點にあるかを知り得るのみならず、震源地の遠近も一層明かに知るを得る様に成つたとの事である。


 尚ほ博士より左の訓戒を受けた。

 一、地震の時の火災は地震其の物より来る災害を十倍にするを例とす。 何よりも注意すべきは火災を防ぐ事である。


 二、第一震に倒壊せざる家屋は餘震では倒れるもので無い。 故に餘震に恐るゝ事なく安心して火を消し、然る後ち人を救ひ、財物を取り出すも決して遅きに非ず、何よりも防火を先きにすべきである。


 以上の外、奥丹地震に就ても、まだ記すべき事多々あるが、餘りに長談議と成るので、此の位ゐにして擱筆する。
(続く)
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2011年02月01日

『運用漫談』 − (37)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 東京大地震に就ては話は幾らもあれ共之れ位に止め、序でに奥丹地震に就て陳ベる。

 奥丹地震は昭和二年三月二日午後六時半に、與謝海沿岸の岩瀧村から日本海沿岸網野へ掛けて起つた地盤の變動である。 自分は當時越後方面旅行中で、小川温泉で宿泊中であつたが、電報には敢て歸るに及ばすと有るも、餘震断へずと有るから事態容易ならずと考へ、翌早朝の一番列車で歸途に就き舞鶴要港部に著いたが、午後七時過ぎであった。

 早速参謀長の報告を聞くに、地震は與謝海の奥より網野方面に亙り損害甚大なるも、他は大した事は無い、之に對する部署は駆逐隊を宮津湾と網野沖に派し連絡に當らしめ、駆逐艦敷設艇等を利用し地方官憲と協力して治安維持、負傷者救護、被服糧食配給等に従事せしめて居ると言ふ事で、萬事誠に能く行き届き、自分が在部して居ても是れ以上の事は出来ないと思はれた故、大に参謀長の處置を賞讃したるに、参謀長謙遜して曰く、『嘗て大地震のお談を食卓で聞いて居りましたから、それを應用した丈けである』 と。

 日頃食卓等にて行ふ雑談の効果が、斯様な時に表はれるかと思ふと、雑談も亦た軽視を許るさざるものがある。 (注1)

 奥丹の地震は其二年前に城崎地方の地震があり、更に其の前に東京大地震の先例があるので、一般人の覚悟も大地震の如く恐慌に堕せず、又た救援の方法も迅速に順調に行はれたのであるが、二三の實験を列挙して参考の資とする。

一、當時第九駆逐隊は宮津沖にて魚雷發射を行ひ、宮津湾に碇泊し上陸許可中であったが、地震と共に直ちに防火隊を上陸せしめたるに、其の上陸するや約一里を離れた岩瀧村に散歩に行きたる一兵員馳せ返へり、岩瀧の惨状宮津に幾倍すと報じたる爲め、防火隊をば直ちに岩瀧方面と其の附近に馳付けしめ、更に第二防火隊を宮津に揚げ警護に當らせる事としたが、岩瀧村民は地震後二時間ならずして海軍の救護隊来りたるを見て、海軍は地震を豫知せしに非ずやと驚き且つ感謝した。


二、宮津方面より京阪地方竝に東京方面の一切の電信線破損せし爲め、約三日間一切の通信は海軍の無線電信に依る外無かりしが、殊に網野方面の情況は道路破壊して交通不自由の爲め、何等の詳報を得る能はざりしが、震災翌日警官数十名を駆逐艦に便乗せしめ網野方面に到らしめ、救護と通信に従事せしめたるに、其の効果甚大のものあり、住民は神の如く海軍を敬ひ之に感謝せり。

 尚ほ一般の通信には、鐵道系に由る通信と、警察系に依る通信と、電信郵便に頼るものとの三つがあるが、此の三者を統一し連絡せしめ利用すると、地震の如き不時の際大に有効なる事を實験した。

(続く)

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(注1) : 余談ですが、ご存じの方はほとんどおられないと思いますので少々補足を。


 旧海軍時代からの伝統・慣習として、業務実施中の直接の指導だけではなく、食事などの気さくな雰囲気の時を利用して、艦長などの先任者が雑談的に自己の経験談や色々なノウハウを後輩達に継承することが行われてきました。

 この伝統・習慣は海上自衛隊にも引き継がれまして、停泊中の夕食後も艦長や副長以下ほとんどの幹部が士官室に残り、上陸員が出払うまでの間、ソファーでカードをやったり、またテーブルではその他の幹部がそれぞれテレビを見たり雑談をしている時に、艦長などが合間合間に色々なことを話し聞かせました。

 また、寄港地などでは艦長や副長が若い幹部を引き連れて飲みに出掛けるのが常でした。 この時も、一杯やりながらワイワイやっている中でさり気なく艦船勤務のことや人生訓的なことなど色々語り聞かせることが行われてきました。

 管理人の経験からしても、実際の実務中の指導はもちろんですが、これらの話しの中にも非常に為になり、また後々まで頭の中に残ることが多かったと思います。

 非常によい伝統・習慣だったのですが、残念なことに現在の海上自衛隊の艦船勤務ではこれらはほとんど見られなくなってしまいました。

 夕食を食べ終わったら若手の幹部達は直ぐに士官室からいなくなってしまいます。 その理由は早く自室に戻って書類作業を続けないと、その日に上陸できるかどうかも判らないからです。 それくらい書類が増えています。

 また、寄港地でも若い幹部達は僚艦の気の合う同期達数人では飲みに出ることもありますが、艦長などと飲みに出掛ける者はほとんどいなくなりました。 自分の金を出してまで何で上司に気を使いながら飲まなければならないのか、と。

 それに最近は上陸しても飲み歩く若い隊員 (幹部も海曹士も) が極端に少なくなりました。 特に寄港地では、知らないお店で飲むより、一日でも早く母港に帰り彼女とデートしたり下宿で一人ノンビリする方が余程マシ、と思っているようです。

 お役所的に非常に細かい規則類が増え、また作業マニュアルがドンドン厚くなっていく一方で、この様な文書などでは決して伝えられない本当に活きた教訓やノウハウの継承手段が消えていっています。

 そして艦船勤務の楽しさ、海の男のロマン、などは過去のこととなりつつあります。
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2011年01月31日

『運用漫談』 − (36)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 震災後自分は能く逗子鎌倉方面の友人等の家庭を訪問した。 訪問する時は大抵堅麺麭一袋をお土産にしたものである。

 或る時友人の處に行くと、毎々堅麺麭は有難いが、町にも家にも野菜が絶無で閉口だと言ふ。 成る程、町の八百屋は未だ開いて無い。 友人の家には、二十歳を頭に十八、九の三人の男子が居るから、五十銭持つて一寸郊外に行け、農民の畠には買手と運搬者が無い爲め、瓜や茄子が腐りつゝある。 彼れを買つて来れと言ふた處が、三人の男は飛んで行つたが百姓も大悦びで、僅か五十銭で野菜をどつさり背負うて歸つて来た。

 震災に驚いて買ふ町人も賣る農民も、こゝに気が附かないのである。 此の様な間の抜けた談はえて有勝ちである。 地震は火事や洪水では無い。 家は倒れても田野には米も實りつゝ有れば野菜も在る。 泡を喰ふのが悪いのである。


 大地震中の出来事で朝鮮人問題ほど馬鹿々々しい問題は無い。 朝鮮人問題で田浦方面が噪ぎ出したのは九月二日の夜からである。 三日の朝には市民は竹槍や脇差抔を持ち出し、戦々兢々として連りに朝鮮人襲来を唱へる。 馬鹿な事を言ふ勿れ、と言うても聞かない。 各戒厳所で喇叭吹奏行軍を行つたが、之は人心鎮撫上非常に効果があつた。

 田浦トンネルの傍らの山間に、當時の鐵道復線工事に従事して居た朝鮮人夫數十名の居住するバラックが在つたが、水雷学校より人を遣はし、堅く外出を禁じ、糧食等は学校より送る事と爲し、之が保護に當りしが、彼等も克く命に服したる爲め幸に事なきを得たが、怯怖に堕せる彼等が若し市中に逃げ出さんか、如何なる惨事を仕出かしたかも知れないので、余は大に當直将校の機敏を感謝したのである。

 追濱飛行隊にて千葉方面より逃げ乗れる漁夫を見て、朝鮮人来襲と誤認したるものあり、船橋無線電信所にても朝鮮人来に驚かされてSOSを打電したる當直将校あり、流言蜚語百出し、世間一般が恐慌に襲はれ居たりとは言へ、誠に情け無き話である。

 余は日露戦前、朝鮮警備の任務に當りたる事がある。 日本漁夫と朝鮮住民との闘争事件屡々起りしが、原因の多くは、日本漁夫の横暴にある、依つて之を戒めたるに日く、何に朝鮮人十人位なれば日本人一人で澤山であると威張つて居た。 軍隊を率ゐる将校にして、其の気魄一漁夫にも如かざるものありと思へば残念である。

 朝鮮人来襲に関する流言蜚語絶えず人心を刺戟し、行人皆な兇器を携帯し居り、中には不逞の徒無きにしも非ずとの事たりしを以て、九月五日命令を發して一切の兇器と竹槍の携帯を禁止したるに、其の効果顕著にして忽ちにして人心の安心を得たのである。

 朝鮮人問題は文明國日本の一大汚辱なりとて、大に日本人を罵倒する日本人が居るが、桑港震災後の無政府状態や、其の後支那某地に起りたる震災其の後の奪掠と虐殺の情態等に比すれば、其の惨害は實に雲泥の差がある。

 日本人なればこそ彼の大震災に際しても、彼の如き立派なる相互扶助、秩序維持を得たのである。 米國大使ウッド氏をして讃嘆措く能はざらしめたのは無理はない。 それを知らすして此の一朝鮮人事件を以て、日本を野蛮國なり到底欧米先進國に及ばすと叫び廻はる外尊内卑の非日本人がある。 叱り遣く次第である。
(続く)
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2011年01月30日

『運用漫談』 − (35)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 鎌倉から田浦に馳せ著ける際、苦がき経験を自から嘗めたると、晝夜を別たず右往左往する老若の避難民及び救護者等の苦心を見、道路整理の急務なるを感じ、在校兵員を中心とし一般市民を督促し、各部落の破損道路の修理復舊に努力せしめたが、三日にして鎌倉より沼津間水道トンネル入口迄、次で葉山迄自動車を運轉せしめることが出来るやうになつた。

 然るに自動車運轉手が、自宅破損の爲め出業を肯んぜざりしかば、運轉手自宅は水兵若くは郷黨にて修理せしむる事とし、半ば強いて出業せしめたるに、間も無くガソリンの缺乏を訴へて来た。 依つてガソリンは海軍より補給する事としたるに、次には運賃を暴騰せしめたるによつて、直ちに令を發して各區の運賃を一定して再び暴利を貧る能はざらしめた。

 何ほ又た徒歩交通者の絡繹織るが如くなるや、到るところ路傍に牛乳を鬻ぐもの續出せしが、之れ亦た暴利を貪るものありし故、一瓶十銭と一定せしめた。

 一瞬にして一切を廃滅に歸せられ、狼狽と恐怖のどん底に堕ちた民心をば、第一に脅やかすものは糧食の缺乏である。

 九月二日鎮守府に到り、民心安定の爲め一日も早く糧食庫を開くの急務なるを説きたるに、経理部當局は稍々難色ありしが、自分は学校に還へり調査せしめたるに、生糧品は僅々一両日分なりしも、貯蔵糧食は約五日分ありしかば、直ちに倉庫を開いて堅麺麭及び米麦の袋入りを取り出し、之れを水兵に擔がしめ、田浦逗子鎌倉葉山方面を歩き廻はらしめたるに、海軍より糧食来るの聲は忽ちにして一般市民の不安を一掃するに足るものがあつた。 爲めに水雷学校の倉庫は空虚となり、一寸不安を感じたるも、間もなく鎮守府の倉庫開かれ安心したり。

 地震の地域は案外狭少なるものである、救援の手は立ち所に到るものである。 然して狼狽せる民心の安定は、一刻の遅延を許るさない。 徒らに杞憂に堕するは取らざる處である。 之れ亦た平常より留意を要する點である。

 糧食不足の聲は忽ちにして米穀商人の米穀隠蔽と成り、暴利と成るものである。 戒厳中、其々商店は多量の米穀を隠蔽し居れりとの密告は屡々来た。 依つて衛兵を派して倉庫點検を行はしめたるに、銃剣の前には如何なる暴利商人も、忽ちにして蒼くなるのみであるので、間もなく一人の暴利商をも見ざる様に成つた。

 戒厳指揮官としては殆んど生殺與奪の實権を有して居る。 之を乱用するは沙汰の限りなるも、之を善用せば天下は太平極楽である。 善政的専政政治を思ふや切なるものがある。

 東京大地震の報は天下の耳目を聳動せしめた。 東京糧食缺乏の聲は、天下を患へしめ、救援の手は八方より東京に注がれたが、一切の陸上交通設備は杜絶せられた爲め、海上より輸送が唯一の頼みと成り、而かも其の第一著は海軍艦船に依るのが當然である。

 然して海軍艦船の東京入港の報が如何に人心に安定を與ふるかを考ふる時、其の入港は一瞬一刻を争ふものがある。

 然るに常時某巡洋艦は、某地より救護糧食を満載し来りしが、艦長が夜間東京湾進入に不安を感じ、湾外に一夜を空費して翌日入港したとの噂を聞いた。 不慣なる艦長の技倆不足は兎も角、船乗りとして事の本末を解せざる不覚者なりとの誹りは到底免るべくもない。

 海軍々人たるもの、艦船運用の術に就き平素より留意すべき要ある事は、斯様な時に備ふる爲めである。 名士連の留意を望む次第である。
(続く)
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2011年01月29日

『運用漫談』 − (34)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13 (承前)

 学校に著いて見ると非常呼集が命ぜられて居る。 鎮守府竝に其の他との電信電話は総て破壊されて用を成さず、只だ一の連絡は愛宕山の信號所を経てする手旗信號あるのみだが、之れ迚も電話線なき爲め不便極まるものであつた。 長浦掘割も山崩れの爲め閉塞せられ、汽艇は第三區を迂回するので、鎮守府に行くのは半日仕事である。

 船堂生故茲に於て大に考へさせられた。 地震である。 餘震は頻々として来り、一切は恐怖と不安である。 然かし戦争では無い。 此の際一刻も早く人心の安定を計り、應急善後の處置を講ずるのが何よりも先きである。

 而して其の第一著は全市民の家庭の安堵よりせねばならぬが、家庭を最も安心せしめ最も能く保護するもの一家の主人に如くものは無い。 非常呼集中たりしも、當地附近に家族を有するものと横須賀附近 (東京府神奈川縣竝に近縣) 出身のものには、此際自宅に歸らしむるが上分別であると考へ、各自三晝夜の歸省を許るす事とし、其の他の者は水雷学校に在りて一切の警戒と救護作業に従事する事とした。

 次で戒厳令發布さるゝや、水雷学校は防備隊と共に田浦逗子鎌倉三崎方面の戒厳を受持つ事と成つたので、各地に戒厳事務所を設けたが、各事務所の監督士官は各々其地在住の士官を以て之に當てたるに、全焼の爲め軍服を有せず、浴衣掛けにて當直すると言ふ具合にて、稍や不規律に見えしも、各自在住地の事とて土地を知り、人を知り居り、且つ親切之れに伴ふものありし故、萬事圓満に行はれ、諸作業意の如く運び、大に一般住民の感謝を博し得たのである。

 戒厳本部として学校では、幹部職員と家族を有せざりし教官と、田浦在住者が當直に當らせる事とし、他鎮守府所属の練習生多数を使役し、萬般の業務に當りたるが、之れ又た極めて圓滑に行はれたのである。

 震災直後最も痛切に感じたものは、通信連絡と交通路の復舊である。 通信連絡に就ては、鎮守府建築科に就き相談したるも、地震の爲め工夫意の如く出勤せず、何日になれば復舊出来るや不明なりと言ふので、電信線路に精通する技手一名を借り来り、水雷学校の電信兵を使用し、二日間にして鎮守府より軍需部を経て、水雷学校、造兵部、防備隊迄の電話線の假修理を終へ、更に追濱飛行隊に延ばし、一方は逗子鎌倉等の戒厳事務所との連絡を完ふする事を得た。

 又た九月二日なりしと思ふが、横須賀附近在住の士官にして艦隊勤務中のものに對し、當時判明し得たる家庭の安否を無線電信により打電したるに、之が艦隊としては、横須賀方面より得たる確實なる第一信なりし迚、其の後艦隊勤務者より深甚なる感謝を受けたのである。

 震災の如き事變に際し、無線電信の利用は最も有効にして、昭和二年の奥丹震災の際も、第九駆逐隊の無線電信が何よりも効果を挙げた。 狼狽は禁物である。 平常より注意すべき事である。
(続く)
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2011年01月28日

『運用漫談』 − (33)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その13

 大地震當日、即ち大正十二年九月一日船堂生は、午前八時半鎌倉著の列車で家族と家財道具一切を引具し、七年間住み慣れた須磨より鎌倉に移轉したのである。

 昔時船堂生は横須賀水雷学校に勤務して居たが、暑中休暇中須磨に歸省し居たるに、會々淡路の芦屋沖で潜水艦七〇號が沈没したので、共の査問委員を命せられ、調査上豫定より一日後れて鎌倉に入つたのである。

 豫て借家の世話を頼み置きたる友人宅に一先づ落著き、午前十時頃友人と共に新借家へ出掛けたが、借家は扇谷の一番奥の山腹に在る文化住宅であつたが、基が近くて淋しいと言ふので、第二、第三候補住宅を見聞に出掛け、第三候補住宅の二階で大地震に出會はしたのである。

 大に驚かされて飛出して見ると、鶏小屋に犬が飛び込んだ様な阿鼻叫喚の聲が四隣を満たして居る。 共の聲は鶏の聲に非ずして、救ひを求むる人の聲であつた。

 顔に負傷して血を浴びた女中が、阿嬢様が此處に下敷になつてゐるから助けて呉れと言ふので、案内役の友人と共に助けんとしたが大きな瓦屋根が押冠ぶさつて居るので、二人位の力ではどうする事も出来ない。

 附近を顧みれば一切の破滅である。 御互の家族も、どう成つてゐるか知れぬので、友人と分れて自宅に馳著けて見ると、自宅は一枚岩上の文化住宅で、極めて軽く出来て居るので家は安全であり、家族は友人の妻君と共に庭前の杉林の中に避難中である。

 直に友人の妻君を歸らしめ振向ひて鎌倉町を見下ろすと、火災の煤煙が數ケ所に燃え上り物凄き光景を呈して居る。

 當日は水雷学校の休暇明けの日であつて出勤すべき筈であつたが、土曜日であるし、前述の都合も有つたのでサボつて居たのであるが、コリヤ大變と言ふので急ぎ軍服を着けて、晝食も取る間も無く水雷学校に向け走つたのである。

 潜水艦事件の爲め豫定が後れて此の不覚を取つたが、若し豫定通り前日に著いて居たれば、第二候補住宅に這入て居たに違ひない。

 第二住宅は第一震で微塵に倒潰したが、第一住宅は何等の損害無く鎌倉中で損害最も少き住宅で有つた爲め、家族も無事なりしのみならず、忽ちにして友人の避難所と成り、一時は五家族も同棲して居たが、之が爲め自分は全く安心して活動が出来たと思ふと、運命の數奇を感ぜざるを得ないのである。

 鎌倉より水雷学校迄は約三里である。 倒壊と火災の中に狼狽して馳せ廻はる老弱男女の顔を見ると、何だか世紀末の光景を想はしむるものがあつた。

 前友人の住宅は恰も途中に在つたが全潰である。 只一人の愛嬢は病臥中で家根の下敷と成つたけれど、屋根を破つて今救ひだした處であると言ふ。 相互の無事を祝しつゝ相分れて学校に向つて走つた。

 鐵道のトンネルは、皆な山崩れの爲め入口が潰れて居たが、田浦逗子間の海軍水道トンネルは、煉瓦巻きは施して無いが通行が出来るので走り込んで見ると、途中で餘震の爲めに土塊がバラバラ落ちる、道は暗い、落ちた土塊に躓き轉倒する、と言ふ有様で、漸くにして水雷学校に辿り着いたのが午後三時である。

 博忠王殿下を始め奉り、一同無事で練兵場に集り居たるを見て、初めてホット胸撫で下ろしたのである。

 四囲の光景は破滅であり、崩壊である、地獄の相である。

 長浦湾口の重油庫の火災は、黒煙濛々天に冲し、千米突餘の空中に龍舌の如き火焔を吐いてゐる。 裂けたる重油タンクより海を掩うて流れ出でたる重油に點火し、海上一面は火の海と成り、夫れが南西より強く吹く二百十日の強風に壓流せられ、沖へ々々と進んで行く。

 第三區には修理中の榛名が繋留して居るが、其の運命や如何を気遣はれしも、火の海は榛名を避けて千葉沖に流れ去つた。 當時幸にして風が陸方面より吹きたる爲め、一應は安心であつたが、風向一變せんか、長浦一帯は忽ちにして焦土と化する恐があるので、一寸警戒を緩める事も出来ざりしが、幸に其の事なかりしは又た好運の一であつた。

 横須賀方面は大火災を起し炎々天を焦がしつゝある。 東京は如何と見ると一切の通信絶え、天に跨る大入道雲が其の大火災を偲ばしむるものがある。 東京全滅、大阪大火災抔の流言蜚語は刻々に飛ぶのみである。 當時の光景は到底筆紙の盡くす能はざる處である。 讀者の想像を俟つ外はない。
(続く)
posted by 桜と錨 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)

2011年01月27日

『運用漫談』 − (32)

著 : 大谷幸四郎 (元海軍中将、海兵23期)

  その12 (承前)

 又横須賀鎮守府第二艇隊司令の時 (明治42年) のことである。 長浦の艇隊炭庫に永年に捗りつもつた煉炭の粉が、約八十噸程あつて只さへ狭き炭庫の大部を占領して居つたが、粉炭は水雷艇の罐には使へないので一同大に困つて居つたから、長浦の造兵部に相談したる處、造兵部には粉炭が却つて善い罐があると言ふので、運賃は造兵部持ちとして練炭三十噸と交換して貰らひ、大に隊の活動に資する事が出来た。

 又呉の第七艇隊司令の時 (明治40年〜41年) である。 呉から舞鶴軍港竹敷要港部に渉り二週間に跨る三等艇隊 (3等水雷艇の艇隊のこと、既出) としては破天荒的な大基本演習をやつた。

 演習計畫中に竹敷に於て燃料搭載を行ふ様になつて居つたが、竹敷の炭庫に日露戦争の餘りもので約八百噸の帳簿外の煉炭があつて其の始末に困つて居た。 人夫貨丈け出せば三等艇四隻の満載量位ひは只で遣らうと言ふから、或るへソ繰金で宜敷やり、満載して呉に歸り、時の鎮守府機関長を驚かした事がある。

 此の機関長は誠に要領を得た人で予が行動すると言へば、幾らでも遣り繰りして燃料を呉れた。 そして言はるゝには、何でもよいから働け、働きさへすれば得る所は失ふ處に此し更に大なるものがある、燃料なんかどうでもしてやるから大に働けと言はれて居た。

 米國海軍の實力如何に就ては兎角の批評を聴くが、彼の惜気も無く燃料を消費してノべツに訓練をし、行動して居る點から見て、其處に或る者がある。 決して侮つてはならぬとは予の常に考ふる處である。


 只今予はヘリクリ金で宜敷やると言ふ事を言ふた。 加藤 (友三郎) 元帥は其の総理大臣たりし時に、不當支出は宜敷が、不正支出は不可なりと言ふ答辨をして大蔵大臣を驚かした事がある。

 今日は諸法規が調ひ会計検査法も巌重であるから、不當支出なんかも無くなつたが、予の若い時分には随分思切つた事をやつたものだ。

 どうしてヘソ繰りが出来たかは天機洩らすべからずだが、臍繰りで新造水雷艇の食器が出来たり、旅順沖で分捕つたメリケン粉が、日本製馬賊に荒らされた大連港務部の二十人前の食器に化けたりしたもので、天勝嬢以上の奇術をやつたものである。

 然し茲で断つて置くが、此の臍繰金は総て乗員の努力で出来たもので、不當支出であるが断じて不正支出でなく、依て以て國家を利してゐる處が大にある。 今日世間の法網を潜りて行はるゝ合法的不正支出とは雲泥の差のある事は我輩の保證する處である。 之れを運用の妙と言ふも豈夫れ不可ならんやである。

 物と時の節約は之で終りとする。
(続く)
posted by 桜と錨 at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 『運用漫談』(完)