2010年12月20日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (81)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 再び、ルソン海峡に向けて (承前)

 停泊していた環礁を出るとながめは一望して広い海原となった。 行く手にルソンの北端の山々が見える。 素晴らしく遠くまで視野が伸びた。 丁度、春景色を思わせるように紫の霞のようなものがかかっていた。

 もうこの海はバブヤン水道であろう (たとえこの海がバシー海峡であったとしても、バシー海峡とは考えたくなかった)。 この水道を過ぎれば、敵潜水艦の餌食になることも半減する。 それは水深がぐっと浅くなってくるからだ。 護衛の飛行艇のいるうちに早くルソンの北端に辿り着きたいものだ。

 幸いにも海は静かであった。 先日、敵潜水艦の荒れ狂った海と同じ海、時化てものすごく荒れ狂った海、そうした同じ海、海はこうも変化の激しいところか。 海の表情のこうも変わるのには今更ながら驚かされるのであった。

 8ノットの老船は何の変哲もなくゆっくりと、しかも蝸牛 (かたつむり) のごとく進むだけであった。 はやるものは人間の心のみ・・・・、「神福丸」 はむしろそんな我々の気持を諭すかのようにも見えた。 ただ運を天に任すのみとはこのことをいうのであろうか、まさにそれ以外考えられるものは何もない。

 約4時間航走した。 すぐそこにルソンの北端が来た。

 「左前方の岸辺に、大型船1」

 私は船橋の誰にも聞こえるような声を出した。 倍率の大きい双眼鏡でその船から何か新しいことが、と食い入るように眺めた。 1隻以外には何も見えない。 今のところ人の姿もまだ認めることのできないほど遠い。 時の進むほどに新しいことが分かる。 同船は

 「停止の模様」

 「錨を打っている」

 「約20度ほど傾斜している」

 左前方にあった同船が30分も経つと、ほとんど「神福丸」の船首になった。 この辺りは潮流が大分速いようであった。

 その船までの距離は、もう1,000mもない。 段々近づく、すると船首の船体に浮き彫りにされたネームがあり、「安国丸」 (前出) と書かれてあった。 なお黒塗りの煙突には日本製鉄のマークがあった。 私はこの船が1万トンもあるのではと思った。

(最近、ある資料によれば、5,800トン、昭和19年12月7日沈没、ポチドール沖となっており、我々と同じ船団の1隻であったことが分かった。)

 甲板上に人が出てきた。 手摺につかまりこちらを見ている。 だがその船にいる人影は船員だけのようでまばらに見えるだけであった。 恐らく敵潜水艦の攻撃を受け、全く航行ができなくなったらしい。 ピーンと張った錯鎖がやっとその船体を支えているように見えた。

 「神福丸」 はできるだけこの船に近づいたが、色々と船の状況を聞いてやる余裕がなかった。 大型船の側では救援に来てくれたものと思っていたのだろうが・・・・。

 戦場においてはこのような味方同志の薄情がよく通用するようである。 こちらは大任を帯びているために、とにかく急いでいる。 こんな所でまごまごしているとお互い、2隻ともお陀仏になってしまう。

 悪いが御免よ、と口にこそ出して言わないが相手に同情を寄せる心は皆同じである。 それが証拠に皆の目は可哀想にと言わんばかりの瞳で、じっと 「安国丸」 に視線を投げ掛けていた。

 「神福丸」の久保船長は、「安国丸」 へ手旗信号を送った。

 「御健闘を祈る。」

 いとも簡単明瞭であった。 戦争中幾多の危険と困難を克服し戦い続けてきた船長である。 相手船長もまたしかりであろう。 これが精一杯の真心を込めた激励であり、老船長の優しさを表す言葉でもあった。

 護衛艦側では1隻の駆潜艇をしばらくそこに残し連絡を取らせるようでもあった。

 もう陸岸もすぐそこになった。 今まで長時間護衛してくれた飛行艇も任務終了を我々に知らせるかのように比較的高度を下げ上空を通過し、左旋回、右旋回を繰り返した。

 もうこれでお別れか最後は大きな機体を左右に振るバンクをして、ふわり、ふわり高度を上げながら北に針路をとった。 見る見るうちに小さくなっていく。

 飛行機と我々、まだ私の心の中にあったパイロットとなる夢をこの飛行艇は奪い取って去ってゆくかのようであった。 やがて点となり、更に更に小さくなっていつ消えたともなく青空に吸い込まれていった。
(続く)

2010年12月21日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (82)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 再び、ルソン海峡に向けて (承前)

 本当に、やっとの思いとでもいうか我々はルソン島の北端にたどり着いた。 まだまだこれから先の航海は険しさが予想される。

 この航海の目的地はマニラということであった。 ここから約600マイルで激戦地レイテがある。 もう今では敵兵団もルソン島南部に上陸していた。 我々の任務決行の日も一日一日と近くなったことを感じ、緊褌一番、四股でも踏もうかと思うような気持となってきた。

 「いつ、何が起こっても、すぐ舵を左に取って陸岸に突っ込み船だけは沈めないぞ!」

 と船長は至近の沿岸航行を決意された。 海外線まで張り出た立ち木一本一本が数えられるほどその距離は近かった。 砂浜もところどころ続く、砂の白さが反射光線で輝き目が痛む。 左舷側で起こるウエーキが波打ち際の岩を洗う。 その音さえ聞えるようであった。

 ルソン島の北、南国特有の澄んだ空気、ハッキリとした色彩で景色が映える。 濃淡を適度に配ったうっそうと茂る潅木が海岸線に迫ってきていた。 こんな色を平和色というのか ・・・・。 一つ岬を回ったかと思うとまた前方に岬が現れる。

 ところがそんな平和色の中から突然痛々しいほどの機帆船らしいものの残骸が出てくる。 それも一つ、二つではなくなってきた。 これは最近のものである。 恐らく敵機動部隊の空襲によるものであろう。

 急拠、今夕はサンフェルナンド港に寄港、夜航海をしないことが皆に告げられた。

 私の見張区域が陸岸側となっていつまでも続く。 見まいとしても海浜の様子が目に入ってくる。 木立ちが透けて水田がチラホラと見えてきた。 水田では現地人の働いているのが見える。 水牛の背に現地人の子供が乗り、その手に持った木の小枝が動いていた。

 近くがもうすぐ戦場になろうとしているときなだけに、それが何と長閑な風情であることか。 戦っているのは日本軍と連合軍だけのことかもしれない。 現住民達には何の関わりのないことかも ・・・・。

 海の上には 「神福丸」 のウエーキ1本だけが大きく海岸線と平行に残っていた。 戦争こそなければ、また船の残骸が目に入らなければ、今の風景は詞となり絵となるであろうことを ・・・・。

 船はサンフェルナンド港に近くなってきた。 見張当直も代わってフリーの立場となったが、変わりゆく景色を見ようと船橋に残った。 「神福丸」 のピストンの振音が大海のときと違った音で聞こえていた。

 また海防艦の新しい残骸があった (注) 。 艦首を北に向け、悲しくも後部のほとんどは水没していた。 恐らく日本に向けていたのだろう。 まだ赤錆もなかった。 こんな艦艇の残骸を見る度に戦場の一角に突入した気配が増々加わってきた。

(注) : 当該位置付近での海防艦の戦没は、期日から考えると9月21日の空爆により放棄された 「第5号海防艦」 と考えられますが、詳細は不明です。


 午後も3時頃、南方の澄みきった空にキラリと光るものを発見した。 すかさず岡田の声、

 「飛行機!」
 「右10度、高角20度」
 「こちらに向かってくる」

 思わず、身体がぐいと緊張する。 そら来たぞ。 その方向を凝視する。 確かに私の目も光ったのは見た。 全員見張となって皆の目が更に確認するために飛行機を探す。 爆音はするが岡田以下の者にはまだ機体は見えない。 続いて三浦が、

 「あすこだ!」

 と指差した。 やがて皆もそのものを認めたのである。

 「対空戦闘、配置に就け」

 小型機が近づく。 爆音は味方機のものらしい (爆音を聞いてほぼ敵味方が分かるようになったのか)。 はっきりしないがすべて警戒態勢をとらなければならない。 ここまでくると皆、敏捷となった。

 その飛行機は紛れもなく味方機であった。 海軍機、99式艦爆1機、我々の向かう方向と正反対に向かって飛んでゆく。 機体の迷彩色の中に 「日の丸」 も見えた。 間もなくして味方の機影は足早に北の大空に吸い込まれていった。

 先輩の誰かが乗っているのであろう。 空の護りは彼等に頼るのみ。 今や飛行機に乗る望みも消えうせてしまった。 この飛行機こそ、私が見た日本機の最後のものであった。

 夕方近くなったが、まだ明るいうちにサンフェルナンド港に錨を入れた。

San_Fernando_sat_01_s.jpg
( 現在の San Fernando 港   Google Earth より )

(続く)

2010年12月22日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (83)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 サンフェルナンドの夜は更けて

 陸の上では、多くの陸軍兵士が気ぜわしく動き回るのが見える。 大型輸送船が空襲を受けたのであろう、港の中央部の海岸に乗り揚げ、無残にも赤腹をさらけ出し巨体を横たえていた。

 北側の浜辺には椰子の木 (私はこの辺りに茂った木を見ると、何でも椰子に見えた) の林が海の中にまで伸びて、その林の中に我々の震洋艇と同じ陸軍の〇八艇が隠されているのを私はこの目で見た。


 バシー海峡で救助された陸軍の兵士が急にこのサンフェルナンドで陸上に移されることになった。 余り急なことなので彼らの表情には言い知れぬ様々なものがあった。 陸軍の大発が3隻やってきた。 そして彼らがその大発に移乗する。

 約1週間ではあったが彼らは私達と同じ釜の飯を食った仲間でもあった。 これから別れるとなると別れが惜しいのは誰も同じことだろう。 去りゆく彼らは落日を背に受け、その姿には活気がなく、とぼとぼと物悲しさを誘う。

 彼らを元気よく送り出そうとした私の目も、ついには彼らを直視するに忍びなかった。 やがてこの地サンフェルナンドも激戦地になるのではないかと。

(それから半月後の1月5日、マニラ進攻のための米上陸部隊の第1陣は、このサンフェルナンドを含むリンガエン湾一帯に大上陸作戦を開始したのであった。)

 陸上戦闘と言えば我々は予科練時代に受けた訓練のみであり、実戦の体験はない。 だが私は頭の中で彼らの戦場で活躍している場面を想像してみるのであった。

 銃砲弾が猛烈に飛び交い、そこここで炸裂する。 轟音の中での白兵戦、また斬り込み戦をと・・・・。

 彼らが大発に乗り遠ざかって行く、その後を追うように私は願った。 もっと元気を出して、頑張ってください。 更に加えて心の底から彼らの武運長久を祈った。


 いよいよ我々は目指す比島の一角にきた。 我々の目に入ってくる南方の景色は何とも言えぬ色彩を持っていた。 今日もまた南シナ海へ真紅の太陽か沈んで行く。 もうこの頃になって我が心を慰めてくれるものは、こうした 「自然の景観」 の他には何も見当たらなかった。

 聖戦とはいうものの戦争そのものは人間同士の争いである。 戦争は破壊を呼び、破滅を誘う、そして戦いの深まるにつれ人の心をますます荒ぶ方向へと引き込んでゆく。

 かちかちのごちごちのそして冷たい生活環境の輸送船の中で、今楽しみとすることは何もない。 楽しみをこの生活の中に見付け出そうとする努力もまた方法も既にない現状であった。

 そんな環境の中にあって太陽の力、自然の景観、自然の美、いわゆる自分たちを取り巻く自然はその大きな力をもって我々のすべてを抱擁し、ややもすれば崩れんとする心を支え強く生きることを教えてくれるのであった。

 日も既に落ち、「神福丸」 を中心とした地球上の一際のものから明かりのすべてを奪ってしまった。 すべてのものが墨汁の中に没してしまったと言っても過言ではなかろう。 月と星ぐらいと言うがそれもなかった。


 船内の燈火管制も厳しい。 我々の住む居住区では、食事のときに食器の音等で一時ざわめくが、今それ以外でする音といえば鼻をすするとか、咳をするほかは人間の立てる音が最小限に止まっていた。 鼻を突き合わすようにしなければ仲間同士が判別できないような船内、そして蒸すように暑かった。

 船内で私も皆と同じようにごろりと横になっていたが、今夜ほど寝苦しい夜もなかった。 一人気の向くままに上甲板に出て夜風に涼を求めることにしたのである。 巡検も既に終わり、時刻は10時にほど近い頃であった。

 突然、サンフェルナンドの奥に当たる山腹から明々とかがり火が・・・・。 暗黒の中のこうした火の明かりは奇妙なほど輝き、くっきりと浮かび上がって見えた。 するとまた、あちら こちらに、すぐ近くの山腹でも同じようなかがり火が揚がった。

 船橋での見張当直貝も含めて、「あれは、何だろう」 得体の知れない怪げな火、直感的な思考が走る。 そのことはすぐ部隊長へ報告された。 「神福丸」 の船橋は急にざわめいてきた。 船長もこのことを聞き、船橋に上がってきた。 「神福丸」の幹部と我が部隊の士官の協議が船橋で始まったのである。

 その結果、それは 「ゲリラの狼煙」 であることが分かった。 この地方の山腹には敵側のゲリラが潜伏しており、港に入港船があった場合など洋上の潜水艦、あるいは他方のゲリラへ連絡の狼煙を揚げ信号するのだそうである。 まさに、この火もそうしたゲリラの信号だと判断された。
(続く)

2010年12月23日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (84)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 サンフェルナンドの夜は更けて (承前)

 フィリピンといえばもともとスペイン領であったが、1898以来アメリカ領となった。 したがって日本占領下にあるといえども住民はアメリカ国民である。 いかに良政によって秩序が保たれているとしても、住民の親米的な根を絶つことはできない。

 したがってその住民たちがアメリカに協力的なことは疑う余地もなかった。 安田、藤田、大橋の各兵曹長は船橋の片隅でこうしたフィリピンでのゲリラの活発な活動のあることを論じ合っていた。

 船長はこの事態を重くみて、準備出来次第出港することを決意し、宣言した。 そして船長と部隊長は早期出港の意志を護衛部隊指揮官に告げ、了承を受けるため、暗夜ひそかに通船を降ろし、駆逐艦「呉竹」へと向かった。 程なくして2人は帰ってきた。 早期の出港は直ちに了解、許可が下りた。

 護衛部隊側では1隻の駆潜艇のサンフェルナンド入港が遅れたため、その艇が入港し水等の搭載が終了し次第 「神福丸」 の後を迫って出港することになった。 また1隻の大型漁船が程なく入港するが、その漁船もマニラまで同行するとのことであった。

( 12月13日、西進中(ミンドロ島上陸作戦のための)の機動部隊を伴った米上陸部隊は、ネグロス島西側から南シナ海に向け行動していた。 14日になり、その兵力、空母3、特設空母6、巡洋艦等大型艦20、駆逐艦50、輸送船約85、上陸用舟艇約110と報告されてきた。 しかし、「神福九」 等にはこのことは分かっていない。)

 かくして、夜が明けてからの出港をにわかに変更し、深夜の暗黒を利用して 「神福丸」 はサンフェルナンドを出港したのである。 次の港は、いよいよマニラ港である。 長かった航海もどうやらこれで終了になるであろうと考えるとき、我々の心に何某かの明るさが湧いてきた。

 サンフェルナンドを離れれば、すぐリンガエン湾口の横断であった。 夜明け頃後方から護衛部隊と大型漁船とが迫って来るのが見えてきたが、湾口中央部付近でほぼ合同した。 昨夜の狼煙の1件もあり、リンガエン湾口の横断は不気味で何か危険を一杯孕んでいるような感じがしてならなかった。

 全速8ノットの 「神福丸」 は対岸の山を見詰めながら約4時間もの時間を費やし、幸いにも何事も起こらずリンガエン湾の横断に成功したのであった。 この横断こそマニラに達するまでに残された一大関門でもあった。

 この横断中、我々は目を皿にしてという言い方があるが、特に潜水艦に対する見張りをこれ以上にない傾重な態度をもって当たった。 だからこの4時間もの時間は今までで最高に長い時間のような気もした。 我々は今更 「神福丸」 の足ののろさを驚きともしなかった。

 陸軍関係の生残者たちが下船したこともあって、朝食からは配食量が少し多くなり、久し振りに食器のカチャン、カチャンという音を耳にした。 だが生鮮食糧は既になく、明けても暮れても乾燥鶏卵 (現代でいうインスタント食品の類でそれは粉末である) などが卓上に多く出るようになった。

 サンフェルナンドではわずかな水を補給したが、それは飲み水程度で入浴できるほどの量ではなかった。 もう我々の身体はべとべととして、肩口辺りを指先で擦ると垢がぽろぽろと落ちてきた。 着た切り雀同様の軍服 (第三種) の襟や背中まで汗が滲み出ていた。
(続く)

2010年12月24日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (85)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 あっ、グラマンの編隊だ

( 12月14日、敵機動部隊が近海を行動しているのも知らずに ・・・・ )

 この分で行くと今夜半コレヒドール島の北水道を通過し、マニラ湾に進入できると皆に告げられた。 「神福丸」 はなるべくロスを少なくするためジグザグ運動を止め、昨日と同じように海岸線に寄れるだけ近寄って直線に近いコースを採って走った。

 ゴールを目指し一目散に走る 「神福丸」 はいつもよりは数倍も早いような気もする。 マニラは我々キャラバンの求める砂漠の中のオアシスみたいに感じないでもなかった。

 午後1時頃、後方から単艦行動の輸送艦が高速で追って来る。 そしてみるみるうちに追い越されてしまった。 やはり軍艦は通いや、と感心しながらちょっとの間それに見とれていた。

 そんな時であった。 爆音、と誰かが言った。 その時もうすぐ目の前の上空に、ずんぐりもっくりした敵コンソリデーデット (B−24) 1機が飛来していた。 全く機先を制せられた感じだ。 間髪を入れず 「対空戦闘」 の号令が掛かる。

 大型機にしては爆音が余りにも低い、全く我々は虚を突かれた。 これこそ招かざる客の到来であった。 我が方の兵力には幸いにも、今追い越さんとする輸送艦が加わっていた。

 B−24は我々の上空を軽く一周すると、改めて一隻、一隻の艦船を見物でもするかのように、高度3〜400メートル、いやもっと低空にし、悠々と旋回飛行を始めた。 別に攻撃をすぐにかけてくる気配もない。

 我々は、今まさに、海空の決戦が始まるかと固唾を飲んだ。 時間が経つほどにB−24は太々しく我が方を侮るかのような態度に見えた。

 B−24は少しスピードを上げたかと思うと高度を下げ始めた。 そして輸送艦に向かって近づいていった。 輸送艦は 「神福丸」 から大分の距離があった。 我々はまず高見の見物である。

 輸送艦はB−24が上空近くなって一斉射撃の砲火を放った。 黄色の硝煙をかぶりながら走っていた。 ところがB−24は鈍重そうな機体をのらりくらりさせながら輸送艦の上空を飛び去り、旋回する。 「神福丸」 護衛の各艦は漸次距離を開き戦闘隊形をとった。

 次は駆逐艦 「呉竹」 へ向かった。 「呉竹」 の前甲板の水上砲が、パーッと火を吹く、それに続いてズズンと大きな昔が伝わってきた。 その一瞬皆は、B−24が撃墜されるのでないかと思った。 ところがいかに、その砲弾の落下点にポチャンと水柱が上がった。 ありゃ、なあんだ! あべこべの方向ではないか。

 このとき初めて水上砲による応戦の効果を見た。 案外と目標に当たらないものだということを知る。 B−24は爆弾で攻撃はしなかった。 純然たる偵察だけか任務なのだろうか、それとも小型で小数な艦艇と見くびっているのか、飛んでいる様子の太々しさが憎い。

 日本側の艦艇はB−24が十分射程距離内に来てからでないと射撃をしない。 まるで飛行機の側は遊び回っているようである。 各艦は上空に近づくと、たちまち砲火の火蓋を切った。 黄と黒と紫の硝煙の花を自己の艦上に咲かせた。 「神福丸」 とその後に続く大型漁船には一度も訪れなかった。

 このB−24の飛来は戦争の厳しさの中にも、何かしらのんびりとしたような戦闘にしか見えなかった。 実際の戦闘は、こんなものかと錯覚を生じる。 B−24はこんな動作をしながら20分以上も我が方の上空を旋回し続ける。

 「あいつは偵察専門だ、いまに艦載機のお客が来るぞ!」

 と部隊長が全員に喚起した。 私も一瞬そうだったのかと思った。 道理で爆弾の一つも、機銃掃射もやらなかったのだ、と。 十分にこちら側のことを偵察したのであろうか、旋回の途中からぐいと機首を上げ、上昇姿勢を続けながら入道雲のある面の空に機影を消して行った。

 「その場に休め」
 「対空見張りを厳となせ」

 次に来るお客様に備えることになった。 我々は実の空襲の恐ろしさは何も知らない。 意外と平気な気持ちで敵機の飛来を待った。
(続く)

2010年12月25日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (86)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 あっ、グラマンの編隊だ (承前)

 B−24が立ち去って、30分ぐらい経っただろうか、駆潜艇から赤い煙の信号弾が揚がった。 そら 「空襲警報だ!」 駆潜艇にはラッパ型の電波探信儀 (初歩のレーダー) が装備されていたが、それで目標を捕捉したらしい。

 右手前方 (南西の方向) から爆音が聞こえてきた。 それ! 先のB−24の連絡によって、お客さんが来た、と直感が頭の中を走った。 その爆音は単機のものではなく複数のものであった。 改めて 「対空戦闘」 が下命された。

 「両側の機銃はよいか」

 「対空戦闘用意よし」

 こんな声が飛ぶ、

 「必要以外の者は船橋から降りろ。」

 その声を聞いて下に行く者もいた。 はや3機編隊のグラマン艦上戦闘機が高度はあるが 「神福丸」 の右正横上空に姿を現した。 その後に続いて1編隊がいた。 6機だ。 6機は一旦我々の上空を通過、後方に回って大きく左旋回、編隊を解き始めた。 すんなり1列縦隊となり始める。

 いよいよ、これからら対決だ! 高度1,000メートル以上、色々の色に塗られた敵機、B−24に比べ身のこなしも軽い。 旋回中の1機、太陽の光を受けて風防ガラスと翼が光る。 続いてまた1機、キラッ、キラッ ・・・・ 5機目の旋回を見ていたとき、

 「突っ込んでくる敵機、撃ち方始め!」

 の号令が掛かった。 右上空、太陽を背にして先頭の1機が急降下を始めた。 全く基本どおりの攻撃である。 護衛艦艇には日もくれず、まず1番機は、「神福丸」 目掛けて攻撃の矢を向けてきた。

 太陽の中から出たと思うと主翼の中央部から、パッ、パッ、パッ・・・・ と小さな火が出た。 そして両翼端から細い1条の白い煙が尾を引く。 敵機はグウーンと一遍で大きくなる。

 「本船を狙っている!」

 と誰かが叫ぶ。 本船の船橋両端にある機銃が応戦する。 射手が相当あがっているのだろうか、

 「落ち着いて、よく狙え!」

 と注意されていた。 グワァー、バリバリィーとまるで敵機は本船のマストに引っ掛かるのではないかと思われるほどの超低空で通過した。 アメリカ海軍のマークを付けたグラマンは後方に去る。 船橋の機銃座から曳光弾が走るが、機銃の音はもう耳に入らなかった。

 「この野郎」 自分達の持っている敵愾心は十分過ぎるほどあったが、手に持っているのは双眼鏡だけであり対応武器は何もなかった。 自己が敵機と対抗のできないのが残念でならなかった。 味方の機銃弾はなかなか当たらない。

 過ぎ去る敵機のパイロットがこちらへ顔を向け振り返って見ていた。 パイロットの顔が瞬時であったがはっきり見えた。 ロをきりりと結んで、橙色の飛行服が印象的だった。 敵ながら勇敢な奴だ!

 「ズズンー」

 ものすごい音と大きなショックを船が受けた。 右舷側海中に至近弾、グラマンの爆弾だ、船橋の自分達より、より高く泥色の水柱が上がった。 水柱の落ちるとき、水霧が船橋一帯の私達の顔の表面を撫でていった。

 「ちくしょう」 思わず口から声が出る。 せめても自分の手に小銃でもあれば、パイロットの奴を狙い撃ちにしてやるのにと思った。

 2番機が1番機のすぐに後に続く、3機目も太陽のに入った。 2番機も全く1番機同様、しかも機銃掃射を浴びせ掛けていった。 突然、右側の機銃台から

 「弾をくれ!」 「次の弾、弾だ!」

 と大きな声。 私は声のする方を見たが辺りに人影がない。

 「よしきた。」

 と私は遅れながらも相づちを打ち、咄嗟的にそばにあった砲側弾薬筐の中に頭から突っ込み、両手で重い弾倉をグイと持ち上げようとした。

 ・・・・ しかし、それからのことは、私には何が起こったのか何も分からない日が続いたのである。 3機目のグラマンの投下した小型爆弾が 「神福丸」 の船橋右舷に命中したのであった。


 その空襲からおおよそ2箇月半も過ぎたある日、別府海軍病院で私と同じく特別攻撃隊員として同席した大貫 (現姓、水戸) がその当時の、その後の模様を話してくれたのであった。 彼も私の負傷したとき同じく敵弾で左足首をやられていた。

 爆弾命中、右銃座は射撃員もろとも宙を飛び海に落ちた。 そして後続の駆潜艇に人間は助けられたそうである。 T少尉と20期の花香は船橋で名誉の戦死。 そのときT少尉は首だけが船橋の片すみに残されていたとか。

 このときの戦闘は約6時間にも及び、「神福丸」 は無数の弾痕を船体に残し、約15名の戦死者を出したが、なお健在であったということである。

 夕闇が来てこの戦闘は終わった。 まさに、運強さ船、船の名のごとく神の福を満身にたたえた船であったのか?

 この戦闘で 「神福丸」 の航海予定は大きく崩れてしまった。 そして朝、夜の明けるころコレヒドール島の北水道を通過し、マニラ湾に入った。

 マニラ港をすぐ目の前にして、再度敵艦載機多数の銃爆撃を受け、「神福丸」 はこれら爆弾を1発も受けることなくかわした。 幸いにもこのときはマニラ地区及びその周辺の防備陣地からの掩護射撃があり、比較的長時間にわたる戦闘ではあったが、大きな被害もなく、「神福丸」 は余裕しゃくしゃくと言いたいのだが、実のところ命からがらという複雑な表情をしながらマニラ港に入港、第12震洋特別攻撃隊の輸送という大任を成し遂げたのである。

 米軍はミンドロ島上陸作戦を目前にし、基地航空部隊をもって連日フィリピン中・南部にある日本軍の飛行場及び基地を攻撃した。 米機動部隊もまたこれら基地航空部隊と相呼応し、12月14日から3日間北部フィリピンにある日本軍に対し徹底した攻撃をかけたのであった。

 「神福九」 とその護衛艦艇がバターン半島の北部スビック湾の沖合を航行中受けた空襲、及び翌日マニラ湾内において受けた空襲は、いずれもこの敵機動部隊の艦載機によるものであった。
(続く)

2010年12月26日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (87)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 12震コレヒドール島へ配属

 幾度か敵潜の攻撃と群がる敵艦載機の襲撃を受けたが、いつも奇蹟的にというか幸運に恵まれてというか、我々と 「神福丸」 はかすり傷程度の損傷を受けただけで見事マニラ港の岸壁にゴールインした。

 松枝部隊長はマニラ入港後直ちに第3南遺艦隊司令部に赴き、第12震洋隊のマニラ到着を報告した。 そして司令部からの命令を受けたのである。

 「今夜中にコレヒドール島へ移れ。 その後は同島の守備に当たれ。」

 いわゆる、マニラ湾口防衛部隊の一員として配属されたのであった。 部隊長の帰船と同時にこの命令は下達された。

 「神福丸」 と第12震洋隊は今日まで苦楽を共にし、この感激すべきマニラ到着を祝い、また 「神福丸」 に対して感謝とねぎらいの言葉を掛けるその暇さえなく、夜を徹してのコレヒドール島への移動作業が展開されたのである。

 「神福丸」 に積み込まれてあった積荷はもちろんのこと、軍需部からは更に必要な兵器、糧食、酒保物品等の緊急補給を受け、これらすべての物資を小舟艇に移載し、マニラの土を一歩も踏むことなくコレヒドール島へ直行した。


 敵大部隊はすぐ目前に迫った

 既にフィリピン全域における制海及び制空権は完全に敵側のものとなっていた。 横須賀を経ち丸々2箇月かけて 「神福丸」 は幾多の苦闘を続けながら、これらを無事に切り抜けマニラに着き大任を果たした。

 昭和19年12月15日 「神福丸」 のマニラ入港はマニラへ到着した日本の輸送船 (2,000トン以上の) の最後の船でもあった。 しかし 「神福丸」 もまた4日後の12月19日マニラ湾口において悲しくも敵潜により撃沈された。


 米軍ミンドロ島に上陸

 米軍を主とした連合軍は昭和19年10月19日レイテに上陸した。 以後苦戦しながらも随所で日本軍を撃破し、12月上旬に至たり、後は地上における掃討戦を残すのみとなり、レイテ方面の作戦に一応の 「けり」 をつけ、次の作戦目標を 「ルソン進攻、マニラの奪回」 に移し、準備の出来次第実施と決意したのであった。 その第1段の作戦がミンドロ島の上陸作戦となった。

 米第3艦隊はウルシーで2週間の休養をとった後、ミンドロ島上陸作戦部隊に合流した。 そのミンドロ島上陸部隊は護衛艦艇多数 (空母3、特設空母6、巡洋艦等20数隻、駆逐艦50) と輸送艦船約85、上陸用舟艇110からなる大部隊であった。 12月13日この機動部隊を伴った大部隊はネグロス島を西側から北上しミンドロ島に接近した。

 ミンドロ島への上陸を前にして、米軍側は基地航空部隊をもって連日フィリピン中南部にある日本軍の飛行場に攻撃を加えた。 更に14日から3日間連続して機動部隊は北部フィリピンにある日本軍に対し徹底した攻撃を加えたのである。 ( 「神福丸」 は洋上においてこの機動部隊の艦載機の攻撃を受けた。) これに対し日本軍側は特攻機をもって敵機動部隊に対し反撃を加え抵抗した。

 日本軍側にあっては敵がミンドロ島に上陸して来るとは全然予測していなかった。 15日になって情報を総合した結果、初めて敵がミンドロ島に上陸することを確認したのであった。

 連合軍のミンドロ島の獲得は、今後中・北部ルソン攻略の前進航空基地を設置することにあり、これにより更に大きな足場を築かんがためであった。 米軍はたちまちにして日本軍側の無防備状態に近いミンドロ島を無血占領したのであった。

 一方フィリピン方面における日本海軍航空部隊の実働兵力は12月17日現在28機であり、20日台湾方面から新編の特攻隊として37機、戦闘機17機が増勢された。

 ルソン進攻中の米機動部隊は18日同方面を襲った台風に遭遇し、駆逐艦3隻が転覆沈没、6〜7隻の艦艇が大破、800名以上の将兵が死亡した。 そのほか軽空母、戦艦及び巡洋艦の搭載機146機に被害を受け喪失した。

 増勢された日本海軍航空兵力による攻撃及び特攻攻撃は、連日夜間に敢行されたが敵に大打撃を与えるには至らなかった。 しかも日本軍によるミンドロ島の米軍に対する逆上陸作戦は全く行われなかったのである。
(続く)

2010年12月27日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (88)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 コレヒドール島の守備

 コレヒドール島に移った第12震洋隊は、虎の子である震洋艇をまず同島の樹木の間に隠蔽し、その次に兵器、糧食を安全な場所に格納した。 それからの毎日は震洋艇をまずもって安全に守らなければならなかった。 そのため全員をもって同島の一角に格納壕を掘り続けたのであった。

 洋上において負傷した者 (玉木少尉、私、大貫と 「神福丸」 の北川2等航海士の4名) は、マニラ入港後コレヒドール島に行くことなく、直ちに第103海軍病院に送られ療養することとなり、本隊から離れることになってしまった。

 私は後頭部を始め下腿部などに16箇所に及ぶ傷を受け、全く意識のない状態が丸2日も続いた。 そして入院後は幾らか意識は回復したというものの、しばらく高熱が続き虚脱したような状態から抜け出すことができなかった。

 部隊のコレヒドール島への移動が終わり一段落したころ、北川上衛が連絡を兼ねて見舞に来てくれたそうであるが、その時のことは私には全然記憶がない。

 敵は大軍をミンドロ島に無血上陸させたものの、その後大きな進攻作戦は年の明けるまで行わなかった。

 この間、日本海軍水上部隊は巡洋艦 「足柄」 「大淀」 と駆逐艦6隻からなる艦艇をもって12月26日サンホセ湾に突入した。 だがこの殴り込み作戦は大した戦果もなく、約100名の斬り込み隊を上陸させたにすぎず、全く空振りに終わった。


 コレヒドール島の守備について語る前に、まずここでマニラ方面防衛部隊についてあらましではあるが触れておこう。

 昭和19年7月頃、フィリピン方面にある日本陸海軍の間で、敵上陸時の陸上戦闘の指揮に関する協定が結ばれた。 この協定によりその指揮は各重要地区とも所在陸海軍指揮官の中の最先任者がこれを執ることに決定された。

 12月下旬、ルソン各地所在海軍部隊に対し、南西艦隊から各地防衛部隊の編成が令され、12月22日マニラ防衛部隊が編成された。

 次はマニラ湾口の戦闘準備についてであるが、昭和19年9月10日海軍第31特別根拠地隊が新編された。 当時コレヒドール島には海軍少尉を長とするコレヒドール防備衛所があったにすぎなかった。 同所には根拠地隊水警科 (302名) の一部の兵が配置され、聴音による哨戒、湾口の警戒及び水路に対する響導が主たる任務であった。

 敵の比島進攻が進むにつれ、10月末の比島沖海戦での沈没艦 ( 「武蔵」 「熊野」 「木曽」 「鈴谷」 「最上」 )の一部生残者及び 「鬼怒」 の全生残者をコレヒドール島陸上防備のため配置された。

 昭和17年米軍から占領以来放置されたままであったマニラ湾口各島の要塞砲等の再使用が決まり、これら要塞及び砲の整備等のため11月になって設営隊が投入され、砲台工事、トンネル工事も始められた。

 更に中部比島方面に進出配置される予定であった震洋特別攻撃隊 (第7、第9、第10、第11、第12及び第13震洋隊の人員) は同方面の進出が不可能となり、6隊はすべてコレヒドール島に配備されることになった。
(続く)

2010年12月28日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (89)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 コレヒドール島の守備 (承前)

 11月14日 「コレヒドールを骨幹とする海上阻止を強化するため、海軍協同を大いに期待する。」 という 「尚武策定」 のルソン島作戦要綱が決意された。 そして陸軍部隊からも1個大隊が配備された。

 またこうした要塞砲の整備とともに合計11の防空隊がコレヒドール島の外方にあるガバリオ、カラバオ島に配備された。

 かくしてこのコレヒドール島にある全部隊は 「マニラ湾口防衛部隊」 として発足し、同部隊指揮官は第31特別根拠地隊副長の板垣大佐が任命されたのである。

 12月20日 「尚武策定」 の中南部ルソン地区作戦指導要領によれば、「コレヒドール水道地区の守備部隊をもって、同地区を死守させ、震洋特別攻撃隊を密かに協同して敵艦隊のマニラ湾への進攻を撃砕する。」 と立案計画されていた。

 そこで震洋6隊の戦力を有効に発揮させるため統一指揮官の必要を認め、南西方面艦隊参謀小山田少佐が水上特攻隊指揮官に任命され、一応防備強化に邁進した。

  昭和20年1月末におけるマニラ湾口防備兵力の概要

      コレヒドール島  約4,500
      ガバリオ島       約400
      カラバオ島        373
      マリベレス       約160
      他に設営隊      干数百

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( コレヒドール島周辺   元画像 : 1954年版の米軍地図より )

 コレヒドール島は、この大戦当初の激戦の跡そのままに放置された状態であり、緑のネムの木が道路を覆っていた。 またそこかしこに赤い熱帯樹の花が咲き誇り、夜はあちこちで大トカゲが 「トッキー、トッキー」 と奇妙な声で鳴き、一見全く戦を知らない平和な島を思わせるのであった。

 第12震洋隊の隊員は以前米軍が使用していた兵舎を改築してそこに居住することとなった。

 木々はよく繁茂し、過ぎし日の日本軍のコレヒドール島進攻作戦がいかに激しかったかを物語るかのように幹には当時の砲弾が食い込んでおり、また大樹の枝もとなどに弾片がうまく止まっている、そんな光景があちこちに見られた。

 12月23日 「敵艦隊北上中」 の報告が舞い込んだ。

 急拠出撃準備中の第7震洋隊において火気取扱不良による失火 (実は装薬テスト中の震洋艇1隻にトラックが接触、このため大爆発となった) があり、震洋艇に装備した爆発尖がショートして爆発事故を起こし、一瞬にして震洋艇75隻、陸軍特攻艇14隻を焼失、第7震洋隊員90名のほか陸海軍兵士150名の尊い人命を失い、兵舎8棟を全焼した。

 この敵に関する情報は後で虚報であることが分かったが、誠に痛々しい悲劇であった。

 この間第12震洋隊では連日震洋艇の格納壕掘り、艇頭部の炸薬の取付け及び艇の整備に没頭し、ついに昭和20年の元旦は休みもなく続けられたのである。

 敵側の宣伝放送は日増しに募り、レイテ及びミンドロ島方面の戦闘の模様を流した。 一日の重労働を終えて休みながら毎日この放送を聞かされるのであった。 「糞ったれ、野郎ども嘘ばかり言いやがって・・・・」 とこの放送を聞き流すのであったが、またこの放送を聞くことによって我々はますます士気が奮い立つのであった。

 既に最前線という雰囲気も強くなり、元旦がやってきたがもう祝祭日どころではなかった。 毎日震洋艇のための壕掘りや、整備が続く、元旦の夜は隊員全員でビールや酒を酌み交わし声高らかに腹の底から 「同期の桜」 や 「若鷲の歌」 を歌った。 搭乗員達の中で酒に無縁の者は、基地隊員の心を込めて作った特大の大福餅にかぶりつき、餅に酔う者さえいた。
(続く)

2010年12月29日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (90)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて

 今にも小便が漏れそうだ。 意識のないまま反射的に体をそのような要求に応じて動かそうとする。 そのとき自分の寝かされていた担架と床との間は5センチとはなかった。 変なところに寝ているなあーとは感じながらも ・・・・、足を動かそうとしたが、自分の体全体が釘づけにされたように重い。

 担架の端から持ち上げようとした右の足先きがずるりと床に滑べるようにして落ちた。 その瞬間、その足先きから頭へ向かって強烈な電流がグイと走った。 「ギャー」 という我ながらわけの分からぬ大きな声で叫んだのである。

 何一つとして物音もないシーンと静まりかえった病院の廊下に、この声は異様な音となって響きわたった。 異様な声を耳にした看護婦が詰所から飛び出してきた。 看護婦が何か言っているが全然私には分からない。 だが自分は病院にいることだけは分かった。

 副木に支えられた右足、その大腿部の付け根に、誰がしてくれたのか止血帯がしっかりと締めてあり、今はその止血帯が肉に食い込まんばかりで痛く感じるのであった。

 私は 「神福丸」 船上で敵機の爆撃のショックを受けて以来、丸2日以上も意識をなくし、そのまま永遠の眠りとなるかもしれない状態を続けていたのである。

 弾片に食いちぎられ、骨折した右足が床に滑り落ちたそのお陰か、こうした眠りから覚めたのであった。 小便がしたくなったことによる一連の動作が奇声発生に繋がり、私という個人が兵士として、また人間として再起し得る者として認められることになったのである。

 だからこの奇声発生という現象がなかったならば、私は恐らくそのまま病院の廊下に放置された状態で、後はどうなったことであろう。

 それからというものは、私の目の前を軍医、看護兵、看護婦が足繁く行き来した。 夕暮も迫まるころから私はギブス室に移され、脊髄液を採られ、下半身の麻酔注射を受け、骨折した足に軍医が額に汗をかきながらギブス包帯を巻いてくれたことを断片的に思い出す。

 ギブス包帯の表面に血が診み出し、それを頼りにギブスを丸く切り取り、外傷を受けた部分の治療が容易にできるようにし、初めてベットというものに寝かされた。

 それからは1日に1回か、2日に1回の回診があったが、包帯でぐるぐる巻きにされた頭は激痛が走り、ぼーとした頭は何も考える力さえなく、ただベッドにねじ伏せられたような状態が続いた。 彼の大久保彦左衛門の16歳の初陣の忍傷ではないが、自分も大小合わせて16箇所に及ぶ負傷であった。

 数日経って気が付いたのであるが、ある看護婦が綿に包帯を巻いて作った円座を私の尻の下に置いてくれていた。

 体温40度3分、看護婦がもそもそと何か言いながら体温計を片手で振り、カルテに記入している姿が目に写った。
(続く)

2010年12月30日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (91)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 その日は喉が無性に渇き、水が飲みたくて飲みたくてたまらなかった。

 “重傷者に水を飲ませてはいけない” と、それとはなしに聞いたことはある。 私はどうして水を飲んでいけないのかはっきりした理由は分からなかった。

 そこで重傷を負っている自分が、今ここで水を要求したとしても果たして水をくれるものか、また仮に要求が通ったにしても、水を持ってきてくれるには相当の時間がかかることを知っていた。

 そこでふと気が付く。 氷枕。 水は飲めない (生命は惜しかった) が氷ならばと思う。 そこで寝たまま手を枕元に回し、氷枕のものをいただくことにしたのである。

 元気な者がするように中々上手に事が運ばない。 頭の下から引きづり出した氷枕を自分の胸の横に持ってきた。 氷枕内の氷が大分解けていたらしく、どぼんどぼんして取扱いにくく、胸の上に乗せたが、それがとても冷たく感じて長く胸の上に置いておくことはできなかった。

 いずれにしてもこんなことは手早くやってのけなくてはと、気は焦るばかりであった。 両手をぐっと伸ばし氷枕の口の部分が上になるようにして差し上げ、四苦八苦して口金を外したのであった。

 口金は外したものの容易に水を飲むことはできない。 それというのは、上向きに寝て頭部を少しも動かすことのできない状態と、氷枕の口が自分のロよりはるかに大きく、自分の口まで氷枕の口を傾けると、中の水がドッと一度にきそうで、どうしても水を飲むことはできなかった。

 氷枕を差し上げていた腕の力も全く衰え、早くやろうと気ばかりが焦り始めた。 へまなことをして氷枕を下の床へでも落とそうものなら大変なことになるぞ ・・・・ と、あれこれ考えた挙句の果て、やっと氷枕の中から氷のかけら1個を取り出し、片手で氷枕を支え、もう一方の手で氷を握り顔に押し付けてこすった。

 突然下の方でカチャンと音がした。 口金を床に落としてしまったのである。 思わぬミスを、えらいことをしてしまった。 重傷患者は水を飲んではいけないことが重くのし掛かってくるような思いになり、自分ながら悪いことをしたと観念せざるを得なかった。

 「看護婦さーん」 と我ながら最高に哀れな声を出して救いを求めた。 そのときは遅悪く 「巡検5分前」 という時間であった。 だが不幸中の幸というか、病室の入口に看護婦さんはいたらしく、すぐに来てくれた。

 「あなた、水を飲んだのね。」

 私が何も言わないのに看護婦は床の上に落ちた氷枕の口金を拾って私の目の前に差し出して言った。 彼女のそれほど大きくはなかった声は、シーンと静まりかえった病室内に ・・・・、女の黄色い声は誰の耳にも聞こえたことであろう。

 彼女の声が部屋の隅に当たってこだまとし私の耳に返ってくる。 その代わりに、1人、2人、3人と荒々しい男の声が返ってきた。

 「そんなことをする奴は死んじまえ。」

 と、それらの声は私の胸に強く突き刺さるように聞こえた。

 その夜遅くなって、前線で重傷を負ったらしい1人の兵士が、この病室内に運び込まれてきた。 その兵士は相当の重傷を負っているらしく、夜通し 「水をくれ、水、水を ・・・・」 と叫び続けていたが、夜明け頃にはウーン、ウーンというわめく声も絶えたらしく元通りの静かな病室に還っていた。
(続く)

2010年12月31日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (92)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 今ではマニラ地区も完全に制空権を取られており、朝早くから敵機の定期便 (空襲) であろう爆音が聞こえる。 ミンドロ島辺りの航空基地を、はや敵側は使い始めたのであろう。

 爆音に追っ掛けられるように 「空襲警報」 のサイレンがうなり出す。 私がこの病院に入院したころは、警報が出ると、歩ける (比較的元気のある) 患者が看護員を手伝って、私たちのような寝たきりの患者を、それぞれが寝ているベッドの下に移し、それから銘々は安全な場所へ避退するといった状態であったが、今では空襲の回数も増し、避退する者たちにも余裕がなくなったのか、寝たきりの患者はベッドの上に置き去りにされたままになった。

 ドドン、ドドーンと爆弾か高射砲の音か、それは私には分からないが大きな炸裂音が聞こえてくる。 私自身、身動きすらできない無抵抗の状態に置かれ、今ではどうにでもなれという捨てばち的な考えにならざるを得なかった。 どうわめこうと叫ぼうと、今更どうなるわけでもなかった。 ただ成り行きに任せるのみ。

 そのうえ自分の寝ている真上に、大きく豪華なシャンデリヤが下がり、数多くのガラス玉は鋭利な刃物のどとく不気味な色に輝きながら、私を狙っていた。 全く俎上の鯉とはこのことか。 この第103海軍病院は元フィリピンの女子大学であったとか。

 今の自分にできることといえば、尿意を催したくなったとき、ベッドの上まで溲瓶を吊り上げる作業がやっとであり、それ以外にできる動作は、食事のときに食器から口まで食べ物を運ぶ手と、上下左右に回せる目の玉だけであった。

 一刻も早く歩けるようになりたい、そして皆のいるコレヒドールに戻ることを願うだけだ。

 12月25日といえばクリスマスである。 この日マニラを出る貨物船があり、急にこの病院に収容中の重傷患者に内地送還が言い渡され、早速送還準備が始められたが、間もなく今回は貨物船ということもあって、重傷患者を乗せるということが一転し軽傷患者に変更され、歩ける者という条件が付けられた。

 結局この度の患者輸送に関しては、直接私には何の関係もないこととなったが、こうしためまぐるしい動きには、痛めつけられている自分の頭は、うまく回転せず、ついて行けなかった。

 後日、この貨物船はマニラ港を出港して間もなく、湾内において敵機の攻撃を受け撃沈され、この船に乗った患者達は、悲しくも船諸共あえない最期を遂げたことを知らされた。 (注)

(注) : 当該船舶については期日に一致するする記録が見あたりませんので船名等は不明です。 12月29日ですと 「明隆丸」 (明治海運、4739トン) 及び 「菱形丸」 (元米貨物船 「Bisayas」、2833トン) が門司に向けマニラを出港し、サンフェルナンド寄港中の1月2日に空襲を受けて沈没していまので、この何れかの可能性がありますが ・・・・ ?


 昭和20年の元日を2日後に迎える日の朝、この日は珍しく空襲もなく静まりかえった朝であった。 病院の庭の片隅から景気よく餅を搗く音と人の声が聞こえてきた。 日本軍兵士のこんな元気のよい声を聞くのも久し振りのことであった。

 こうして元気よく搗かれた餅が、元日の朝、雑煮となり私たちの食膳に配ばれ、気持ばかりの正月を祝った。
(続く)

2011年01月02日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (93)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 飯を食う以外に能のない男、それは今の自分のこと。 ただ何となく目をつぶり食うことと眠ることだけの毎日が続いた。

 ところがある日突然、私の鼻にプーンと土の香りがしてきた。 目を無意識のうちに開けると、私の目の前に20期の三浦が立っているではないか。 真っ黒に日焼けし、歯が白く元気に満ち溢んばかりであった。

 「眠っているのかと思いしばらく声をかけないでいましたよ。 マニラまで公用使できたんです。」

 「皆元気でがんばっていますよ ・・・・ 」

 と言い、上から私を覗き込むようにして見ていた。 余り突然で全く予期しなかったことで私は夢を見ているのではないかと自分の目を疑うような気持で、しばらく彼を見詰めた。

 懐かしいという感情が私の身体一杯に漲り、直ちにそれが爆発しそうなまでの状態になった。 皆と別れてからのことを、色々と尋ねようと思ったが、余りにも突然な出来事なので私はろくに口が利けないでいた。

 三浦にしても同僚達のことを知らせたかったのであろうが、黙って目と目で語り合うような時を過してしまった。

 「早くよくなって、一日も早くコレヒドールに帰ってきてください。 皆も待っていますよ ・・・・ 」

 彼は我々特攻隊員の中でも一番ちゃめっ気のある男で、いつも冗談などを言っては皆を笑わせていた。 恐らく今私の目の前に立っている三浦もその頃の三浦と少しも変わってはいないのだろうか ・・・・。

 彼も下士官になり右腕に2等兵曹の階級章が着けられていた。 私は彼に 「おめでとう」 を言ってやった。 彼がここに来てどれほどの時間がたったであろうか。 わずかな時間であったろうが、彼はここにおれる時間が余りない。

 彼はコレヒドール島に帰る定期船の発船時間が迫っていることを私に告げ、胸の内ポケットから2通の封筒を差し出し、また持ってきた風呂敷包の中にわずかではあるが、菓子、みかんの缶詰、石けんなどが入れてあると付け加えた。

 そして彼は姿勢を正し、元気溌剌とした挙手の礼を私に送ってくれた。 いつにもない三浦の顔、その顔を私は忘れまいと彼の目をじっーと見詰め、その視線をそらせないでいた。

 私にとってこれが同僚達と永遠の別れになるような気がしてならなかった。 彼はそんな私の気持を十分に理解してくれたと思うが、くるりと私に背を向けるや足早やに私の傍から消えるかのように去って行った。

 私の寝ているベッドの近くには窓もなく日中でも薄暗い、病室の白い壁、白で覆われたベッド、病室内のほとんどのものは白一色で、全体的に冷たい感じを私に与えるのであった。

 そんな中で、今し方三浦が届けてくれた橙色の風呂敷包みと、自分の名前の記された衣嚢が、横の空きベッドに横たわり異色を留めていた。 衣嚢は薄汚れていて、あの長い苦しい航海を物語るかのようであった。

 思い掛けない朋輩との再会もあったが、夕方になっても電燈も灯すことのできない燈火非常管制下、ただ眠る他ない暗い夜がやってきて、燃えるような風呂敷の橙色が次第に闇の中に吸い込まれていった。
(続く)

2011年01月03日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (94)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 夜が明け、昨日もらった封書を読むことにした。 紙の香りが鼻を突く、部隊長と安田艇隊長からのものであった。 安田艇隊長のは、鉛筆の走り書きでこう記されてあった。

 辰巳2飛曹

 目出度い新年を病床に迎え、寒心に堪えざる事と思っております。

 昨日、北川上衛 (上等衛生兵) より益々元気にてその後順調に快方に向いおるとの由承り安心致しておる次第です。 良きにつけても一層療養に努めて全快の一日も早からん事を祈ります。

 お陰様で自分を始め班員一同も大元気で新年を迎ふる事が出来たが片腕と頼んでいた君が入院中で実に寒心残念だった。 君の分は皆で頑張らねばならぬ事と、年頭の挨拶に班員に達した。

 目下のところあと2日で頭部 (震洋艇の装薬) の装着も終り、試運転も半分は済み、結果極めて良好です。 之からは愈々大馬力で基地設営に掛る心算です。 元日の2日は休みなしで、晩も遅くまで準備で頑張って君達の仇をとると皆で張り切っている有様です。

 本日マニラ行の便がありますので衣嚢を依頼せるに付御査収被下度。 部隊にて貸与せし品は班員にて保管しあり。 着色事業服負傷時着用せるものは処分せるに付一着入れある分使用被度。 財布は見当らざる様なるも持参しある為と推思致しおります。

 恐らくこの手紙は三浦を待たせて書いたものであろう。


 今朝になって急に病院内の空気が慌ただしくなってきた。 看護婦が小走りしながら

 「今日病院船が入港し、皆を収容するようになりました。」

 と告げていった。 そして患者のそれぞれの胸の上にポイと5枚ずつの荷札を置いていったのである。 自分の荷物に荷札を付けておけということだ。

 何から何まで人手に頼らなければ何一つできない今の私、看護婦や看護兵の絶対数が足りないこともあって、重傷患者だからといって決して甘やかすようなことはなく、現実は余りにも厳しかった。

 我々もまたこのような現実に対して、どうかして少しでも遅れまい、手を焼かせまいと努力せざるを得なかった。 荷札に自分の名を書いてもらわなければ。 幸にも朝夕2回病室内を掃除して回る現地人の掃除人に書いてもらうことができた。

 人間というものはえてして苦しい環境にあると自分勝手な甘い考えを抱くものだ。 荷札の配られた後に三浦が来てくれたのであればよかったのにと、ふとそんな考えを抱く。

 ところがその途端、それに逆らうような自省の心がわいた。 三浦といわずコレヒドール島に進出した同僚達は、任務を遂行するまで、今最も精神的な努力を必要とするときである。

 彼らは一日一日が厳しい精神力との闘であり、雄々しく生き抜いていた。 彼らの成功を祈るならば何人といえども彼等の心の中に一点たりとも心の乱れるような要因は与えてはならないのである。

 重傷により痛めつけられた私の頭は、余り複雑な思考ができないにしても、愛する戦友たちのため、この程度の気を通うことぐらいはできた。

 ところで、自分は一体何のためにこの比島前戦まできたのだ! 何のためにだ! ああ無情なり、自分独りだけがどうして、一人だけ志を遂げ得ないのだ。 名誉ある任務から外されてしまうなんて無念この上なし。

 「俺をコレヒドールに帰してくれ、皆のいる所へ ・・・・ 」

 悔しさばかりがただ残る。 だがこんなところで、この状態で、幾らわめき叫んでも、それが受け入れられるものでもない。 軍人として最高の名誉あるこの任務への参加は、はかない夢に終わってしまった。

 あれほど堅固だった自分の意志も、グラマンが投下した一発の爆弾によって砕かれ、あまつさえ運命までが大きく一変されてしまった。 私と第12震洋隊との結び付きは、見舞いにきてくれた三浦と別れたその瞬間をもって、永遠に切れてしまったのである。

 それから戦後30年以上経った今日、今なお当時のままの三浦の姿が私の目の前から消えないでいる。
(続く)

2011年01月04日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (95)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 その日の午後になって患者の病院船への移動が始まった。 元日を中にしてこの一週間は敵側の空襲もなく、無気味に近い静かな毎日が続いた。 そんな静かな外況とは裏腹に、当病室内はざわめきに近い騒音が流れていた。

 次ぎ次ぎと患者は運び出されて行くが、どうしてか作業に当たっている人々に活気がなかった。 レイテ、ミンドロ島へと敵大部隊の攻略は進み、今ではもうすぐそこに敵がいる状勢を隠すことはできない。

 次はここマニラに敵が攻撃を ・・・・。 今日この頃の静けさは、あたかも 「嵐の前の静けさ」 に似た感がしないでもなかった。 まさにその前兆かもしれない。 誰から教わるともなく私ですらそんな予感がしていた。

 話によると、この病院に配属されている者も、半分は病院船に移り、半分はここに残留するとか ・・・・。

 私は午後の3時を大分過ぎてやっとベッドから担架に移され野外に運び出された。 雲一つない真っ青な空が私の上に覆いかぶさる。 緑の中に白亜の病院の建物が浮かび上がって見えた。

 直射日光の当たる芝生の上に降ろされた担架、胸と大腿部を皮バンドで締め付けられ、私は太陽がまぶしく薄日で景色を見るより仕方がなかった。 このマニラに来て初めて見る野外の景色は、ただ真っ青な空だけであるかのような錯覚にとらわれないでもなかった。

 相当時間芝生の上で待たされ、やっとと思えるころ患者輸送車に乗せられた。 走る車中から斜陽に映える市街の景色が小躍りしなから後へ後へと去って行く。 心なしか敵に追われ敗走するかのような感があった。

 急に頭が下がり患者輸送車は坂を滑り降りるようにして全然人気のない軍港らしいところに着いた。 岸壁には2本マストで白塗りの病院船 「第2氷川丸」 が横付けしており、着くとすぐ私はこの大きな病院船の船腹に吸い込まれるようにして収容された。

 患者を積み終えたが、この病院船はすぐ出港はしなかった。 この船こそ日本の船としてマニラを出帆する最後のものとなったのである。 夜の闇を利用し、政府の要人とその家族であろうか、急拠内地へ引き揚げるための一般人が乗り込んできた。 そんなこともあってマニラ港を出港したのは午後9時であっただろう。

 そして夜半、私にとって最も関係深いコレヒドール、そのコレヒドール島北水道を通過した。 フィリピン群島から刻一刻と遠ざかっていった。 我独り痛める心の中、肉を裂かれる思い、ああ如何ともなし難し。

 マニラ湾を出た 「第2氷川丸」 は、「近海に敵大艦隊あり」 の報に接し緊急厳戒態勢に入った。 夜が明けるや否や、上空に敵機が飛来した。 敵機はあたかも味方病院船と感違いしているのか、護衛をするかのようにピタリとくっつき行動した。

 こんなことがあってか 「第2氷川丸」 は北の日本に向かう針路は採れず、南に針路を採らざるを得なかった。 南へ南へと航海は続けられ、1月10日無事シンガポール港に入港した。

 同船は日本への回航を控え、この港においてしばらく米軍側のフィリピン北部における新上陸作戦の状況を静観する他なかったのである。 病院船であるからといって、この航海は絶対に安全であるという保証は何もない。 ますます日米の戦闘は激烈化するばかりであった。
(続く)

2011年01月05日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (96)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 空襲は激化し、戦機刻々と迫まる

 敵のミンドロ島基地利用が日本軍の比島作戦、ひいては台湾 − 南支 − 佛印方面戦略物資の本土への還送などに大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない。

 12月30日、大本営は 「早くて明春」 「まず南部ルソンに敵が来攻する」 と敵情判断し上奏されたが、一方現地の比島方面軍では (同月26日現在) 「1月上旬敵来攻」 「最初から敵主力はリンガエンにくる。 又はバタンガス方面 (ルソン島南西部、ミンドロ島との最近接地) から来攻」 という敵情判断をもっており、前者か後者かの予想は五分五分の線であった。

 年が明けるや敵艦船はほとんどがレイテ湾に集結、1月2日次期上陸作戦を目差し逐次レイテ湾を出撃、行動を起こした。 同日0800、我が海軍機はダバオ東北東370マイルに約100隻の大船団部隊が北西進中であることを、またレイテ湾内に約100隻の船団が集結しているのを発見し我が方に報告された。

 3日朝スリガオ海峡に空母4、巡洋艦5を基幹とする2群が認められ、同日朝から台湾では敵機動部隊による空襲が始まっていた。

 またその日、ミンダナオ海では敵特設空母12、戦艦4、巡洋艦8、駆逐艦など49隻からなる驚くべき大艦隊が西進中であるという報告が入った。 その報告を受けるや、この敵艦隊に対し我が方は航空機による特攻攻撃を敢行、敵にかなりの損害を与えた。

 1月5日午後、既に報告のあった同一目標であろう敵艦船の大部隊がマニラ西方の洋上 (南シナ海) を北上した。 この敵に対しマニラ市近郊の航空基地クラークとニコラスから我が特攻機が出撃、全力をもって攻撃したのである。

 また一方我が海上部隊も駆逐艦をもってこの敵に奇襲攻撃作戦をかけるべく近接したが、その途中において不幸にも敵哨戒機に発見され、敵の海空及び潜水艦による執拗な反撃を受け、この作戦は不成功となり敗亡してしまった。 またこの時甲標的 (特殊潜航艇) による攻撃も決行されたが命中もなく終わった。

( この日の前夜、私達を乗せた病院船 「第2氷川丸」 は、この大部隊の直前かそれとも真ん中かははっきりしないが、とにかく常識では考えられないところをトコトコと潜り抜けてきたのであった。)

 同じ頃コレヒドール島にいた第12震洋隊を含む日本軍将兵の耳にも、「空母5隻からなる敵機動部隊北上中」、「敵5個師団、リンガエンの我が軍の猛反撃を受け退却中」 などと、次から次に情報が舞い込んでいた。

 第12震洋隊の若き特攻隊員は我々にも早く出撃命令が出ないものかと胸をときめかしながら待っていた。 ところがこの時、皮肉にもコレヒドール島から見た西方の洋上を北上して行く敵艦船大部隊があった。

 しかし自分たちの目で多くの敵艦船 (格好もよし) を眺めつつも、それが余りにも洋上遠距離にあり、大砲も震洋艇も及ばず、ただあれよあれよと指差すだけ、皆は地団太踏むなどして悔しがるのみ、みすみす獲物を見逃がす結果となってしまった。

 1月5、6日の両日、我が軍の航空機はこの敵にリンガエン方面で攻撃を加え相当の打撃を与えた。 だがルソン方面にある我が航空兵力は著しく飛行機を消耗し、そのうえ敵側の我が基地に対する空襲も激しく基地の機能をすっかり叩かれてしまった。 そして6日敵艦艇はリンガエン湾方面に艦砲射撃を開始し、8日まで続けた。

 1月7日、コレヒドール島内においてはまたもや格納中の機雷が誘発する事故が起こり、敵と戦わずして熱烈な闘志に燃える多くの兵士と貴重な兵器類を損耗した。

 1月8日、フィリピン方面における我が航空部隊の再編が行われたが、航空機の保有絶対数が不足し、局地偵察を行うだけの兵力をルソン島に残し、司令部はこの重大時機に台湾及び昭南方面へ移動してしまった。

 このことは最高司令部のある者だけは知っていたが、ほとんどの日本軍兵士はこのような事実のあったことを知らないでいた。
(続く)

2011年01月06日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (97)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 空襲は激化し、戦機刻々と迫まる (承前)

 1月9日朝、米第6軍 (クルーガー中将指揮) を主力とする敵大部隊 (5個師団) がリンガエン正面から上陸作戦を開始した。 当時の戦況は大本営陸軍部 「戦訓特報」 によれば次の如く記されている。

 9日の戦況

1 上陸開始。 0720頃敵輸送船はリンガエンに近接、上陸を開始せり。 即ちサントトマス沖輸送船50隻、ダモルテス沖輸送船45隻は距岸8粁にありてその舟艇はサンファビアン、ダグパン方面に前進し、0940その第1波をもってサンファビアン、リンガエン正面に上陸せり。


2 1630頃桟橋構築ダモルテス南方約10粁に揚陸場2か所を構築、輸送船約30隻碇泊し 陸岸との間に上陸用舟艇約40隻盛に往復中なり。 リンガエン東約7粁に桟橋を設け輸送船横付しあり。 その沖に輸送船約60隻を認む。 リンガエン湾中央よりわずかに東寄りに戦艦、巡洋艦 (数不明) 停止しあり。


3 上陸兵力、当面の敵兵力は最少限歩兵師団2、戦車師団1にして主力をもってサンファビアン地区、1部をもってリンガエン及びその西方地区に上陸、橋頭堡を占拠中なり。


4 橋頭堡。 ダグパン及びリンガエンに上陸せる敵は9日夕現在、海岸より約2粁、幅員約6粁の橋頭堡を占拠す。


5 海上挺進部隊 (陸軍〇八特攻艇、海軍の震洋艇と同じ特攻艇部隊) の攻撃。 我が海上挺進部隊 (約70隻) は2400を期し、敵輸送船団に対し爆雷肉攻を敢行し、其の20〜30隻を撃沈せるもののごとし、0200 (10日) 頃湾内海上において数十の爆発音を聞く。


 と敵上陸の状況を語っている。

 10日、敵はなおも500トン以上の上陸用舟艇約200隻、それ以下の舟艇約100隻を運行し重材料及び戦車師団を上陸させた。 艦砲射撃は9日に比べ閑散とはなったが、一度狙った地域は地上に一物も残さないように破壊した。

 射撃地域の左右にまず発煙弾を撃ちその中を砲撃、2平方メートル内に約3発あての弾丸を撃ち込んできた。 そのうえ上空からはグラマン戦闘機のし烈な攻撃も続いた。

 11日、12日なおも敵の上陸部隊は続き、我が軍は水際でこの敵を殲滅せんものと最大級の抗戦を続けたのである。 この両軍の戦闘の光景はまさに台風の来襲を思わせ、修羅の巷と化し、人間同士の戦とは大凡思えぬ惨状を呈した。

 抵抗に抵抗を続けた我が陛軍部隊も、15日頃には前線の一部を突破されカミリンを占領された。 必死の我が軍は各所において敵に挺身攻撃を実施し、一部の小部隊にあっては玉砕するなどよく善戦をもって敵の阻止に当たった。

 しかしマニラ奪回を目差し進む米軍は破竹の勢いとなり、我が軍のそうした阻止戦の効果はそれほどに上がらなかった。 敵は21日タルラックを、22日にはカパス及びオードネルを占領、23日バンバン飛行場を陥れ、24日敵は早くも同飛行場の使用を開始した。
(続く)

2011年01月07日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (98)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 空襲は激化し、戦機刻々と迫まる (承前)

 27日敵はアンへレスを占領、マニラまで後80キロと迫った。 29日マニラ湾口に敵南下主力部隊とは別の部隊3万が上陸、続いて30日にはナスグブに上陸、31日の夜9時、米戦闘車両約100はマニラ街道に入り快速南下し、2月3日これら敵先遣部隊はついにマニラ市北部に到達した。

 同日午後戦車30を先頭に装甲車約100の敵は一挙にマニラ市内に突入、直ちに敵国捕虜収容所 「サントトーマス大学」 に突入奪取、またゲリラ部隊の蜂起行動も市内の各所に挙がった。

 いよいよ2月6日マニラ市内では日米両軍の壮絶な市街戦が展開され、両軍の死闘が市内各所で繰り返された。 日本軍側にあっては “マニラ防衛” に関する作戦計画段階で陸海軍間の意志が二つに分かれ、結局は海軍の陸上部隊のみによってマニラの防衛に当たることになる。

 かくして海軍陸戦隊は強敵とよく善戦したが、いかにせん物量による敵の攻撃の前には全く問題とならなかった。 かつまた敵軍を前にして抗戦中、背後からゲリラの伏兵に襲撃されるなど悪戦苦闘の連続であり、勇敢なる兵士たちは最後の一兵になるまでと念じ徹底抗戦を続けたが、しかし奮闘の甲斐なく全員戦死に近い敗北となった。

 一方、コレヒドール島は1月10日、20日及び23日と敵の空襲があった。 この時既に空を飛ぶ飛行機は青い星のマークの米軍機ばかりとなり、特に23日B−24 10機による爆撃のため第4号海軍トンネルの弾薬が誘発、大爆発を起こし各砲弾、装薬5,519発を一度に焼失してしまった。

 24日は戦爆連合の百数十機が飛来、26日も5〜60機と続いて飛来した。 このようにして米軍側はコレヒドール要塞を上陸前に徹底的に叩かんものと空襲は日増しに激しくなるばかりであった。

 在コレヒドール島日本軍将兵にも、いよいよこの島へも敵の上陸作戦が展開されるのではないかという感が高まってきた。

 敵機は地上の施設、兵舎はもちろんのこと道路に至るまで徹底過ぎるほどの銃爆撃を行い破壊していった。 これまでの銃爆撃で兵舎4棟は完全に吹っ飛び、震洋艇25隻、そのほか高角砲、機銃砲台などの陣地にも相当の被害が出た。

 見るも無惨、爆撃によって吹っ飛ばされた兵舎、残されたものはただコンクリートの土台石だけ。 丘の岩膚さえもギザギザの鋸歯状に変わってしまった。 敵機の爆撃の正確さを思う存分昧わされる結果となった。

 敵艦載機はあたかも 「あぶ」 の如く払えども払えども逃げないという形容のとおりであった。 1人の日本兵士を見付けるや、どこどこまでも上空を旋回しながら追っ掛け回した。 そうして見失うや、見失った場所をさも掘り返しでもするように繰り返し銃撃し、そんなにまでと言いたくなるほど執拗でまた念の入った攻撃振りであった。

 平和時、樹木の鬱蒼と茂った島影も今では完全にその姿を変え、新生小火山を思わす容貌となった。 こうした敵機の攻撃は、日本軍兵士はもとより地上のあらゆるものに対し虱潰しという表現そのままであった。

 24日の空襲が起因してか、28日島内トンネルの中の火薬庫で火薬類が引火、大爆発となった。 そして陸軍が使用していた桜トンネル以外の全トンネルの入口が埋没、また約300名の兵士を失った。

 米空軍側の発表によれば、1月下旬から約10日間コレヒドール島に投下した爆弾は一平方マイルにつき3,000トンであった。 これは、これまで米軍の南西太平洋各戦線の中での最大密度の爆弾投下量であったといわれる。

 かくして島の地上に存在するもの立木、道路、建物、電柱、そして旗竿とことごとくが粉砕され、もはや我々日本軍兵士は地上に住むことすらできずトンネル内に退避せざるを得なくなった。 それでもなお敵機の攻撃は続き、地下数十メートルの壕内にいてもその物凄さを直接身体に感じ取ることができた。
(続く)

2011年01月08日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (99)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 空襲は激化し、戦機刻々と迫まる (承前)

 ついにモグラ同様となった我が軍は、昼間なおも高射砲や機銃をもって執拗な敵機と応戦し続けた。 しかしその甲斐もなく次から次へと砲や機銃は破壊され、兵員もバタバタとなぎ倒され、日増しにその被害も大きくなるばかり。 我が軍が敵に反撃するための唯一の頼みはただ震洋艇のみとなった。

 既に敵の爆撃などにより他隊の震洋艇は敵と戦わずしてその大半を失ったが、第12震洋隊だけは幸いにも〇四兵器の損耗はなく健在であった。 こうして第12震洋隊に課せられた使命こそまことに重大なものとなった。

 このような戦況の中で、第12震洋隊の搭乗員達は呑気千万といえよう、地上の出来事には一切動じることなく沈着冷静であった。

 時折搭乗員の先任者は部隊長のもとに行き情報を集めるなどして出撃時機の到来を待ち望み、小山田特攻指揮官に我々の出撃時機を要求するなど士気はまさに横溢せんばかりであった。

 部隊長はこのような搭乗員達を前にし

 「ありがとう、諸君のこのような士気盛んなる姿に感謝する。 いま暫くの辛抱だ、堪えてくれ。 きっと近日中に大戦果を挙げ得る日が来るから ・・・・ 」

 と、なだめ諭し微笑を返えす頼もしい場面も幾度かあった。

 1月30日午後1時、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦8隻、掃海艇15隻など約30隻からなる敵艦艇がスビック湾に進入し、約1,500名の米兵が同湾湾口にあるグランデ島に上陸した。

 同日コレヒドール地区指揮官の板垣大佐はコレヒドール島における日本側残存戦力についての報告をした。

 それによると14サンチ砲9門、同弾薬1門につき70発、12サンチ高角砲5、同弾薬100、8サンチ砲7、同弾薬220、25ミリ3連装機銃4、同弾薬3,200、25ミリ単装機銃20、同弾薬1,400、13ミリ機銃20、同弾薬1,800、7.7ミリ機銃14、同弾薬2,600、震洋艇100、魚雷艇2、糧食の損害軽微なお島内各部との連絡は夜間徒歩伝令による、と付け加えられた。

 2月2日、敵魚雷艇2隻がガラバオ島に近接、同島の我が軍はこれと交戦した。

 2月6日、敵機19機がコレヒドール島に来襲し銃爆撃を加える。 米軍はかつて自分達の手で築いた要塞であるため島内のどこに何があるかなど実に島内事情については詳しく知っていた。 そんなこともあってか爆撃の精度も実に正確そのものであった。

 またこの日敵機の爆撃に呼応するがごとく魚雷艇数隻がマニラ湾口付近に姿を現し終日行動するようになった。

 2月9日、早朝から終日延べ190機の敵機が飛来、銃爆撃を見舞い、島内弾庫に誘発を招き大中口径砲の砲弾約5,300発、燃料約80トンを焼失した。

 2月10日、敵の戦艦を含む巡洋艦群と駆逐艦、潜水艦を併せた強力な米艦隊がマニラ湾口に現れ、コレヒドール島を洋上から艦砲射撃にて攻撃を始めた。

 この時我が軍の陸上砲は敵艦艇と交戦、この砲撃戦は14日まで連日のごとく続けられた。 この間における我が方の戦果、敵掃海艇1隻撃沈、しかし我が方の損害は震洋艇19隻を大破され使用不可能となった。

 2月13日、敵駆逐艦に護衛された掃海艇2隻がいよいよマニラ湾に進入、米軍側が投下敷設した機雷の掃討を大胆にも開始した。 これを発見した我が砲台部隊は直ちにこの敵に砲火を浴せ敵艦に甚大な損害を与えた。

 ところが敵もさるもの、マリベレス方面から新手の艦艇を繰り出し、ここにコレヒドール要塞砲と敵艦艇との間に壮絶な砲撃戦が展開され、敵は更に航空機の応援を得て抵抗する要塞砲及び日本守備隊に徹底的な攻撃を加え、物量による力で圧倒しねじ伏せようとするのであった。
(続く)

2011年01月09日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (100)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 震洋特別攻撃隊の出撃

 2月15日午前8時45分、「敵上陸用舟艇、大型8隻、小型約40隻、北水道二進入シツツアリ」 と、また続いて午前10時8分 「敵ハ、マリベレス西方付近ニ上陸シツツアルモノノゴトシ」 と、マニラ湾口部隊からの電報を受け取った。

 この時、米艦艇は約1時間にわたって、バタアン半島の先端部マリベレス地区に対し猛烈な艦砲射撃を加えた後、午後3時マリベレス上陸戦を展開した。

 同日午後9時頃、搭乗員達の元へ長く長く待ち望んでいた時が遂にやってきた。

 「震洋隊松枝部隊は、スビック湾内にいる敵船団部隊を撃滅すべし。」

 と特攻部隊指揮官小山田少佐から命令が下った。 この当時の模様を第12震洋隊の先任下士 (基地隊員、横須賀から搭乗員と同行しただ1人の生残者) である樫村上衛曹はこう手紙に記されている。

 そうです、当時のこの事は私にとっては一生忘れることのできないことです。 出撃命令を受け、喜び勇んだ搭乗員の顔、それをどのように表現すればよいでしょう。 水を得た魚、そんな単純な表現では決してなかった。 長い長い苦痛からやっと解放されたというか、この時点での彼らの気持を誰が完全に、そしてうまく理解し得たことでしょう。

 早速搭乗員達は下着類を真新しいものに取り替え、全員白装束となった。 全員服装が整った後、搭乗員総員集合、部隊長を中心にし、これが最初であり、しかも最後となる作戦計画を車座になり練った。 実に熱の入った会合であった。

 それが終わると皆は別離の酒杯を交わした。 それから搭乗員たちは 「出撃時刻」 までの問わずかな時間ではあったが、仮眠をとることになった。

 搭乗員以外の我々は全員で壕内やそのほかあちこちと格納されてあった震洋艇を水際まで運び出し、出撃準備のためエンジンなどの調整を行った。 先任下士である私は、特に若い搭乗員達が出撃のために必要とするものをあれこれと細かく気を配ばり準備してやったのである。

 私はある用事のため搭乗員達の仮眠しているそばを通った。 ところが高鼾が聞えてきたのには驚いた。 皆の寝姿たるや何と大胆不敵、大の字を画いていた。 どこの国の軍人が、後残すこと3〜4時間の我が命を知りつつも、このようにして死の間際に高鼾をかきながら眠ることのできることを ・・・・。

 私は搭乗員達のこの胆力のあるさまを見て、この度の出撃は必ずや成功するものと信じてやまなかった。

 いよいよ出撃の時刻がきた。 全部の震洋艇の整備と点検が終わった。 爆装の点検も終わり、燃料タンクは満タンにした。 そして各艇へ予備の燃料として石油缶が2缶あて増配された。

 あちこちの格納壕から運び出された震洋艇が水際にズラリと並んだ。 空には低く薄い雲がかかり流れていく、六日の月がその雲を切るかのように浮かぶ。 海はねっとりと暗黒の中で冷たさはなくむしろ温かさを感じさせた。 静かな海、静かな人の群、今まで高麗鼠のように働いていた人の群が一時止まった。 気象条件も最適、出撃にはもってこいの状況であった。

 搭乗員達は仮眠から、がばと跳ね起き飛行服を着け始めた。 彼らには、特に海軍上層部の取り計らいにより、最後を飾るに相応しく、また彼らを最後まで飛行兵として、また勇者としてのプライドを持たせんがため、航空機搭乗員と同じ服装をもって出撃することを許したのである。

 救命ジャケットの紐がきつく締められる。 彼らにピストルが渡され、弾40発と3発の手榴弾が与えられた。 中には日本刀を背中にたばさんだ者もいた。 少年達はまさに武者人形のごとし ・・・・。

(続く)