2010年10月17日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (26)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団の “鹿島発ち“ (承前)

 我々特別攻撃隊員を、他の者達は搭乗員と呼んだ。 搭乗員は予科練時代に鍛えられたモールス符号による送受信訓練により発光信号はもとより、手旗信号・旗旒信号と視覚信号は何でもござれの腕前であり、その真価を試すときがきた。

 護衛艦側から来る信号を受信し、またその逆の送信に、あるいは僚船間の連絡に一役買うことになった。 そこで搭乗員は主に信号の送受と見張りの任務を受け持っこととなり、船橋と後部に配置され当直に立った。

 搭乗員達は実戦を一度も経験したことのない、言うなれば巣箱を離れたばかりの 「ひよこ」 と同然であり、これから戦場の諸々の体験を身に着けていくのである。 今までに過してきた予科練時代の猛訓練からみれば、むしろ実戦部隊に出ての雰囲気は何かしら間の抜けたような気さえする錯覚に陥るところもないではなかった。

 玄海灘は穏かであった。 がしかし、曇空から薄日が時折り射してはいたもののあまり良い天気ではなかった。 まずここ玄海灘で敵機の襲撃を受ける心配はなかった。 したがって対空見張りはさほど気をつかう必要はなかった。

 だが対潜見張りについては玄海灘といえども少しも気が抜けない状況下にあった。 米潜水艦による被害の報告は既に日本海方面にまで及ぶようになっていた。

 部隊長は航空母艦 「海鷹」 及び 「大鷹」 にて勤務してこられ、敵潜水艦の近況を十分知っておられた。 門司出港の前日まで我々に敵潜の状勢について説明され、また、色々参考となる知識を授けてくれた。

 この船団の行く先はフィリッピンのマニラ港であった。 我々の闘いは開始された。 第12震洋隊に対する大本営の期待は非常に大きく、我々の乗った 「神福丸」 は船団中央部に置かれた。

 全て船団中の輸送船は 「神福丸」 の “速力8ノット“ に合わすことになった。 「神福丸」 はこれ以上のスピードを出すことができなかったからである。

 「神福丸」 は大正初期頃造られた船で、当時にあってもかなり旧式の貨物船の部類であった。 燃料は石炭、蒸気を使うレシプロエンジンはゴットンスットン、ゴットンスットンと船中にその昔を響かせながら走った。

 船の構造を大別すると、前部、中部及び後部からなり、前部、後部はそのほとんどが区画のない加藍洞の船倉であった。 中部は船橋と機関室があり、いわゆる船の心臓部であった。

 前部の船倉は荷物を満載し、人の出入はできなかった。 我々隊員は全て後部の船倉に起居することとなった。 後部の船倉には震洋艇の箱詰めを3段積みにし、その上に板を張りコモ敷とした。 そこに毛布1枚を敷き、あと1枚を腹の上に乗せてごろ寝をしたのである。 寝室の天井は低く、不用意に立ち頭をぶつけることがしばしばあった。

 見張り当直に立つ以外我々は食っちゃあ寝、食っちゃあ寝の毎日が続くのであった。 救命ジャケットを枕に次の当直時間の来るまで睡眠をとった。 もうこの時になって、余計な人生の四方山話などする者は一人としていなかった。 寝た時はそれぞれの頭と頭、足と足が向き合うようにし、足が通路に向くようにして休んだ。

 すわ一大事の時のために服は着たままであった。 自分自身の装着品は暗闇の中でもすぐ持ち出せるように身近なところに置き、ある者は天井から吊り下げてあった。
(続く)

2010年10月16日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (25)

著 : 辰巳 保夫

 船団の “鹿島発ち“ (承前)

 航海中は、日没から日出時まで敵潜水艦から身を守るためジグザグ運動を連続実施した。 ジグザグ運動は海軍で定められた船団航行要程によって、10数種類もの方法が規定されてあった。 護衛艦側から 「何時何分からジグザグ運動Aとする」 と指令があれば、その時刻から一斉に指示されたジグザグ運動が開始された。

 ジグザグ運動を整一に行うには正しい時刻が必要となったが、それは毎日の正午、基準護衛艦のマストに時刻整合のための信号が揚がり、各船はその信号によってその日その日統括された時刻整合を行なった。

 ジグザグ運動も回を増し慣れてくるとスムーズに実施できたが、杓子定規で測るようになかなか上手くはいかない。 軍艦と違って商船は隊列を組んでの行動はほとんど行なわなかった。 またそのような訓練をする機会もなかった。 船団を組むことは戦時となり急に必要となったことである。

 大小まちまちの船体、機械の回転数の違い、その上海上模様が一定しないので編隊航行は輸送船側にとって至難の技であった。 中には相当複雑なジグザグ運動もあり、ちょっと間違うとすぐ衝突しそうになることも度々あった。

 比較的距離、間隔を詰めて実施する航行中の種々の運動には商船幹部は非常に神経を使った。 しかも、これを夜間の暗闇でやらなければならなかった。 いま思い出すとまだ当時の様子が目の前に浮かび、ぞーっとする。

 隻数が増すとどうしても各船間の距離、間隔が乱れ、護衛隊指揮官からお目玉を項だいすることもよくあったが、たまには 「タダイマノ、ジグザグウンドウ、ミゴトナリ」 とお褒めの言葉もあった。

 15隻以内の船団では縦は3列か4列であった。 相互の連絡と行動の敏速性を挙げるため船団の隊形をなるべく狭めることが要求される。 したがって各列間の間隔は1,000メートル、前後の距離は2〜300メートルであった。

 特にこの距離を保つためには相当の熟練を要した。 操船に当たる者は色々と工夫し、六分儀を使ったり、窓ガラスや窓枠に目安となる目印を付けるなどした。

 航海士及び機関士等船員の当直交替は4時間制が採られた。 航海士や甲板員は外況の見える勤務であり、機関部員に比較すれば緊迫の度合いがすぐ読みとれたが、機関部の当直員は当直勤務に立つその都度、奈落の底に自分が嵌ってゆくような心境であったようだ。

 彼等は機械から出る騒音と40度を超す熱気の中で、逐次変わる速力変化に対応し、すぐ要求された速力へ機関の回転数を整える作業は容易なことではなかった。

 船の行動は無理に無理を重ねたような運航の状態であった。 これは当時の輸送船 (一般民間船) 全てに言うことができた。 我が 「神福丸」 も御多聞に漏れずトラック島方面からフイリッピンを経由して横須賀に入港し、まだ荷揚げの終らないうちに次の輸送任務の命令を受けたのである。

 一息も休むことなく第12震洋隊を比島方面に輸送する重大任務に従事したのであった。 したがって機関の保守整備をする時間など到底ありえなかった。 このような実状下に置かれた船員は不平の出る暇さえなかった。

 いつ機関に故障が生じるかは誰一人として予測することもできなかった。 だましだまし使うという表現があるが、正にその通りであった。

 若しも機関故障で船がストップでもしようものならば、たちまちにして敵潜水艦の餌食になることはいうまでもない。 また魚雷攻撃を受けた場合は必ずといって間違いのないほど機関部に魚雷が当たった。

 だから機関部員は魚雷が当たったらどうやって逃げ出そうかと、常にそのことの不安が脳裏から離れなかったようだ。 機関部員の労苦は並々ならぬものがあった。

 当時船員不足は深刻であり、欠員者の補充のないまま次の任務に就くのが普通になってしまった。 やっと補充された船員の質・技量等は決して満足のできるものではなく、そんな望みを持つことさえ通用しない時世になった。

 乗組員 (人間) の疲労度も既に限界を越えていたと言っても過言ではなかった。 何といっても軍隊の兵員の豊富な活用からすれば民間徴用船である輸送船船員のそれとでは雲泥の差であり、正に酷使に近かった。
(続く)

2010年10月15日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (24)

著 : 辰巳 保夫

 船団の “鹿島発ち”

 「神福丸」 が門司に入港してから連日、船長、部隊長及び船側の幹部は門司武官府の船団会議に出席した。

 船団会議も終り、各船は適宜六連泊地に移動することとなった。 「神福丸」 の錨も巻き揚げられた。 関門海峡の潮流は早い。 「神福丸」 が六連沖に到達したとき船団の出発の命令が発せられた。

 10月28日午後1時、既に六連沖に仮泊待機中であった大小12隻の輸送船は、指示された順序に従って掃海水道を出て行く (注) 。 この付近は関門港防衛のための味方機雷原があり、掃海水道は 「軍極秘」 のマークのされた海図を参考とし航行しなければならなかった。

(注) : 「第1海上護衛隊戦時日誌」 によると、この時の船団は 「モマ06」 で 「神福丸」 以下輸送船11隻、護衛は第1、第3、第7号海防艦の3隻 (指揮官第11海防隊司令平野泰治中佐 (海兵52期)、司令海防艦第1号海防艦) で編成され、10月22日に門司を出港しておりますが、原文のままとしています。


 船団の制形は外洋、即ち玄海灘に出てから作られる。 蓋井島 (ふたおいじま) を過ぎると、「神福丸」 はこの島を真後ろに見るように変針し、ほぼ西に近い針路になった。 いよいよ船団は玄海灘に出た。

 左手には北九州の山々があって、いつまでも名残り惜しそうに我々の船団を見送り、また見守ってくれていた。 船団は3列縦隊に制形され威風堂々という言葉どおりとなった。

 関門港を眼下に見ながら育った私は、門司港を船出していく御用船 (輸送船) をよく見送ったものだった。 満州事変、上海事変それに日支事変が続き数多くの兵士と軍馬と兵器類が積み出されて行った。 偶然にも今回、自分も同じように門司港から発つことになったのであった。

 我々は、いよいよこれから実戦に参加するのだ。 戦闘員になったのだという実感が深まり一段と緊張の度合が強くなってきた。

 我々は輸送船 「神福丸」 に乗っているものの、こと船団及び船に関する知識など一切無知の状態下にあった。 そこでごく簡単ではあるが当時 「神福丸」 に乗組んでおられ、我々と行動を共にされ、ただ一人の生残者でもある北川2等航海士に次のように当時の船団等のことについて語ってもらった。


 船団には、航海中何隻かの海軍艦艇が護衛のために付いた。 これらの艦艇はいずれも小型艦艇で俗に毛じらみ艦隊といわれるものであった。

 いままで一度も隊列を組む等集団となって行動するということは商船にはあまりなかった。 そのため船団として行動するには一定の基準守則があり、これを守られなければ絶対に集団行動を行うことが出きない。

 したがってこの基礎的ではあるが基準守則を各船に徹底させるため、護衛艦側が主催となって打ち合わせ会、いわゆる船団会議が開かれたのである。

 船団がある港を出港する前には必ず開かれた船団会議においては、まず行き先が知らされ船団名が与えられそれに続いて基準船が決められた。 基準船はその船団中比較的優秀な船、いわゆるベテラン船長 (数多く船団を組み、行動したことのある船長) の乗った船が当てられた。

 そして航路、船団速力、船団の陣形 (隊形)、連絡方法及び航路付近の状況並びに戦況などの決定や説明があって会を終えるのが常であった。
(続く)

2010年10月14日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (23)

著 : 辰巳 保夫

 水上特攻部隊の編成と展開 (承前)

 18日の夕方、軍用列車は終着の下関駅に着き、皆は関門連絡船に乗り替え門司港駅に着いた。 門司は私の郷里であった。

 ここ門司において、先に横須賀を出発した別動隊の到着するのを待つことになった。 別動隊は我々の使用する震洋艇と色々の軍需物資を受け取り、それらのものを輸送船 「神福丸」 (栗林汽船株式会社所属、2,204トン、最大速力8ノット) に荷積し、門司港に回航、本隊と合流することになっていた。

 本隊は門司の 「三笠」 (現在の 「松尾」) という料亭に宿泊し、別動隊の到着を待った。 船待ちがなければそのまま戦地に向かっての出発であったが、九州出身の一部の者はこの船待ちの間を利用してそれぞれ郷里に帰ってくることが特別に許可された。

 時間的な制約もあり九州といえども帰郷できない者もあった。 私はその点非常に恵まれており、港からしても30分とかからなかった。 ところが四国地方出身者は何しろ遠く、また不便なため帰るに帰れなかった。 真に気の毒であった。

 7月中旬、ほんの3か月前である。 私は夏休暇で帰省したばかりであり、立派な予科練の七ツ釦姿の私を母はこの上なく喜んでくれたばかりであった。 軍服も入隊した時と違って、身体にぴったりと合い逞しくなっていた。

 突然予告なしに母の前に現われた私を見て、母は驚いた眼差しでしばらく見ていた。 父は私が10歳のとき6年間の長き患いの末この世を去った。 その後の母は看病に疲れ、手をひどく震わす何か訳の判らない病気にかかり苦しんでいたようであった。

 「今から戦地に行くのだが、ちょっと寄ってみた。」

 と突っ慳貪に私は母へ言った。 余計なことは一切母の耳に入れないことに決めた。

 私は母へ自分から進んで特別攻撃隊員を志願し、もう2度と再び会うことは出来ないのだ、生きて帰ることのないこの道を ・・・・ そのことを知ったならばと、母の心中を察すればこそ、あまりにも今の母が可哀想でならなかった。

 この時既に私のすぐ上の兄2人が相次いで戦死していた。 仏壇に灯明と線香をあげ、父兄の冥福を祈り合掌した。 そして2人の兄の白木の箱の封を切り、改めて箱の中を見た。 一人の兄は写真が1枚鋲で止められてあり、あと一人の方には何も入っていなかった。

 母は一体何をしているのだろうかと、後にいて怪訝な顔をしているだけであった。 (俺もこうなるのか) 母を慰めてやる言葉を私は他に持たなかった。 ただ 「身体に気をつけてな」 とそれだけを呟いた。

 あと3人の働き盛りの兄達はみな戦地に行っていた。 長兄の嫁は甥 (小学3年生) を疎開させ、そちらに行って留守であった。 私は時間的にその疎開先まで行けることを知り、母へ今からすぐ兄嫁に会いに行ってくると告げ、母一人をその場に残して疎開先に発った。

 兄嫁には概略ではあったが事実を話し、“帰らざる人“ となるため、くれぐれも母の面倒をお願いした。

 日も暮れたが、すぐ近くの宇佐海軍航空隊の艦爆機が夜間飛行訓練を行なっていて、時折り上空を通過して行った。

 義兄はどこでどう工面して来たのか、ビール2本を私に奮発してくれた。 物のないときに大変なことであったろう。 あまり長居もできず夜10時発の最終の軽便鉄道に乗り 「宇佐八幡駅」 を発ち、「宇佐駅」 で日豊本線の上り列車に乗り替えた。

 これで何も思い残すこともない (しかし私の心の中にはまだすっきりしないものはあった)。 だがまだ何か、別にこれということではない。

 灯火管制のされた夜行列車の中はただ暗く、そのうえ乗客も少なかった。 孤独感が急に私に押し迫ってきた。 独りしょんぼりとした寂しさ、そして自分が何やら遠く深く沈んで行くような感じに ・・・・。

 時折り汽笛が鳴る。 はっと正気に帰る我が心。 また汽笛は意地悪くも物悲しささえ誘うこともあった。

 七男坊であった手前、私は母には甘えるだけ甘えて育った。 すぐ上の戦死した兄へ小遣を1銭与えても、私には2銭くれるような母であった。

 我々の大戦果を母はあとで知り、あの甘えっ子がねえ! と私という子の短かい命を捨てて行った行為に対して、きっと許してくれることだろうと ・・・・。 私はそれでいいんだ、変った子であったと母から言われずとも自分なりに自分を認めていた。 母がそれをまた喜こんでくれることだと私は信じた。

 それ以後、まだ母に会える機会はあったが、私は母が不憫で顔を合わすことができなかった。 自分が早く立派な軍人となって、きっと母の病気を治すために ・・・・ ということが私には出来ないのであった。 こんな情ないことはなかったが、“軍人は戦場で勇敢に敵と戦い死ぬものなり“
(続く)

2010年10月13日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (22)

著 : 辰巳 保夫

 水上特攻部隊の編成と展開 (承前)

 第12震洋隊 (松枝部隊) 隊長松枝義久海軍中尉 (当年23歳、海兵72期、鹿児島県出身) の遺書


遺     書

 生ヲ皇国ニ享ケ天恵洽クシテ楽々悠々タル二十有余年君恩ノ宏遠深厚ナルー死以テ酬イントシテ余リアルモノニ候
 義久斯ニ大任ヲ拝シ恐懼感激措ク処ナク唯々身ノ光栄ニ戦クモノニ候
 一髪尚軽ク君命ノ重ナル今日程痛感セル事ハ御座ナク候
 身更ニ生還ヲ不期親ニ先立ツ不幸ノ罪何卒御許シ下サレ度侯
 鶴脚ノ如ク細キ赤坊ニ米汁トギスマシテ含マセラレ或ハ病魔ノ払ヒニ時ヲ屡シテ御両親様ニハ幾度力御心配ヲオカケ申候
 義久今日ノ姿誠ニ御両親様ノ賜二候
 兄上様姉上様弟、妹ニ対シ我生涯ノ恩ヲ謝スルト共ニ小生ニ代リテ忠孝ヨク致サルベク御顧仕侯
 此ノ度ノ戦ハ百年戦争ニ候へバ忠ヲ楠氏ニ比シ孝ヲ尊徳ニ比サルべク候
 永ラク御附合ヒ下サレタ皆々様ニ対シ宜敷ク御伝へ下サレ度尚若キ可愛ユキ数百ノ部下ノ御遺族ニ対シマシテハ誠ニ気ノ毒ニ候へバ小生ニ代リテ深ク謝シ下サレ度侯
 最後ニ謹ンデ大日本帝国ノ万歳ヲ御祈申上侯
義 久
      昭和十九年十月

   御両親様

     たのしみは 彼方の空の紅を
     ただ一すぢに 思い込むとき


 (この遺書は現在、海上自衛隊佐世保地方総監部史料館 (旧) に、写しは靖国神社宝物館に保存されている。)

 この遺書は松枝隊長が戦地への出発命令を受け海軍水雷学校において書かれたものであった。

 震洋艇の特別講習 (訓練) は昭和19年10月5日無事終了した。 講習終了直前の9月25日頃松枝義久少尉が我々の部隊長として正式に着任、任命され第12震洋隊の指揮を執った。 そして隊長は10月1日海軍中尉に昇進した。

 第12震洋隊の編成は攻撃隊と基地・整備隊とからなり、攻撃隊は4個艇隊に分かれた。 艇隊長は士官並びに准士官であり、玉木、山蔭両少尉 (予備学生出身)、大橋、安田両兵曹長であった。

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( 原著より 第12震洋特別攻撃隊員の記念写真  前から4列目左から3人目が著者 )

 特別攻撃隊員は乙種飛行予科練習生出身の50名 (19期30名、20期20名)、基地・整備隊員は137名 (准士官2名、下士官9名、兵126名)、総員192名であった。

 基地・整備隊員は現役の軍人が全員の2割に満たない程度で、あとは40歳前後の “国民兵“ として召集された兵士がほとんどであった。

 10月に入って侍従武官が来校し、全特別攻撃隊員は分隊点検を受け、天皇陛下からの激励のお言葉を賜わった。

 第12震洋隊は同じ特別訓練講習を受けた他の3個部隊とは別に、急拠比島方面への進出 「第3南遺艦隊司令部付」 を命ぜられ、出発することとなった。 横須賀を発つ直前の日曜日、我が部隊の攻撃隊員は上京し、宮城と靖国神社の参拝を行なった。

 約1か月にわたって猛訓練を受け、まだ任地の決らない他部隊の150名の同僚達とも決別となった。 (他部隊は11月下旬、父島母島に向け横須賀を発つ。)

 これら3部隊の総員が学生舎前から校門まで長蛇の列を作って見送る中を、昭和19年10月16日勇躍海軍水雷学校をあとに軍用列車に乗り込み田浦駅を発った。

 先陣を承わっての出発は、軍人として同僚より先に功名の花を咲かせるという誇りは更に優越の心理を誘い、意気が益々高まっていった。 胸を張っての行進は血潮湧き立ち、口の中で “海ゆかば“ をハミングしながら 「お先きに失礼」 といった感じとなった。

 これほど血湧き肉躍る我々若き特別攻撃隊員は出陣を前にし誰もが綴った遺書を一人として残さなかったことである。 それは震洋隊の行動は全くの極秘であることを守ったからであった。

 それほどに震洋艇による敵への奇襲は難事であり、秘密漏洩によって自分達の壮挙が無になることをよく知っていたからであった。 遺書に書いたことが原因で、この脆いボートによる奇襲戦法を敵に覚とられたならばとの考えがあり、自分で自分の墓穴を堀るようなことを欲しなかった。

 またそれは不思議にも部隊長の他は皆が申し合わせたように書かなかったのである。
(続く)

2010年10月12日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (21)

著 : 辰巳 保夫

 水上特攻部隊の編成と展開 (承前)

 昭和19年10月末までに編成できた震洋隊は次のとおりであった。

隊  名講習回次所        属 発令
昭和19年月日
 第1震洋隊第 1 次 父島方面特別根拠地隊 8月29日
 第2 〃第 2 次   〃 9月 5日
 第3 〃 母島警備隊
 第4 〃   〃
 第5 〃 父島方面特別根拠地隊 9月10日
 第6 〃 第3南遣艦隊 (比島)
 第7 〃   〃
 第8 〃 父島方面特別根拠地隊 (予定) 9月20日
 第9 〃 母島警備隊 (予定)
 第10 〃第 3 次 大島防備隊 (予定) 9月25日
 第11 〃 石垣島警備隊 (予定)
 第12 〃 父島方面特別根拠地隊 (予定)10月 1日
 第13 〃 第3南遣艦隊10月 5日
 第14 〃   〃
 第15 〃   〃
 第16 〃 硫黄島警備隊10月10日
 第17 〃 大島防備隊10月15日
 第18 〃   〃
 第19 〃 石垣島警備隊
 第20 〃第 4 次 高雄警備府10月20日
 第21 〃   〃
 第22 〃 大島防備隊10月25日
 第23 〃 石垣島警備隊

 これら震洋隊の所属決定は、陸海軍部の 「〇八運用に関する協定」 に準拠し、両部の間で協議し決定されたものであった。

 ところが、海軍省は重大な戦局の斜向により、のち軍令部の要望に基づいて南方諸島および南西諸島に配置する予定であったところの第8、第9、第10、第11ならびに第12震洋隊の5隊を、いずれも第3南遺艦隊司令部付として配属する処置をとった。 これによって、比島方面に配備される震洋隊は全部配備できたときは7隊となる。

 かくして我々第12震洋隊は、昭和19年10月10日頃第3南遺艦隊司令部付の命を受け、横須賀を出立いよいよ戦地に向かうことになったのであった。
(続く)

2010年10月11日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (20)

著 : 辰巳 保夫

 水上特攻部隊の編成と展開 (承前)

 震洋艇の運用については捷号作戦の性質上から海軍部と陸軍部とは密接に協調すべきであった。 それは陸軍側においても、「震洋」 と同種の特攻艇 「〇れ」 を大量に建造し訓練に入っていた。

 陸海軍部は、この種特攻艇を総称して 「〇八」 と略称し、その展開、指揮系統及びその他について協定を結んだ。 その協定は次のとおりであった。


運用に関する中央協定

                                        昭和19年8月8日
                                        大本営陸軍部
                                        大本営海軍部

  第1 運用方針

1 敵ノ来攻ニ対シ敵輸送船団等ヲ主トシテ泊地ニ於テ捕捉撃滅シ、敵ノ上陸企図ヲ撃砕シ戦局ノ転換ヲ策ス
之ガ為敵来攻ノ算大ナル方面ヨリ逐次8、9、10月頃ヲ目途ニ諸準備ヲ完整ス

2 使用方面、時機ニ関シテハ奇襲的使用ト大量集中使用トニ依り、敵ニ震憾的打撃ヲ与フルヲ主眼トシ両軍緊密ナル連絡協調ノ下之ヲノム


  第2 運用要領

1 展 開
  附表及附図ノ如ク予定ス (略)
  但シ資材整備ノ状況、情勢ノ推移ニヨル本予定ヲ変更スルコトアリ
2 輸 送

  両軍ノ積極的協カニ依り展開ノ迅速確実ヲ図ルヲ主眼トシ、細目ニ関シテハ別途協議ス

3 両軍ノ関係

(1) 同一方面所在ノ陸海軍〇八並ニ魚雷艇隊運用ニ関シテハ、其ノ総合成果ヲ最大ナラシムル如ク之ヲ協同統制シ、特ニ基地設定、訓練、運用ニ於テ彼我緊密二提携シ長短相補フ如ク相互積極的ニ支援ス

(2) 両軍〇八ノ指揮協定関係ヲ定ムルコト次ノ如シ
 (イ) 小笠原方面
     陸軍〇れヲ父島方面特別根拠地隊司令官ノ指揮下ニ入ラシム
 (ロ) 北東方面

    〇れ魚雷艇隊ノ運用ニ関シ第27軍司令官、北東方面艦隊司令長官間ニ於テ相互協定ス

 (ハ) 南西諸島方面

    第32軍司令官、沖縄方面根拠地隊司令官間ニ於テ相互協定ノ上、各島嶼ニ於ケル指揮関係ヲ定ム

 (ニ) 台 湾

    台湾軍司令官、高雄警備府司令官間ニ於テ相互協定ノ上、指揮関係ヲ定ム

 (ホ) 比 島

    第14方面軍司令官、第3商連艦隊司令官間ニ於テ相互協定ノ上、指揮関係ヲ定ム

4 所在魚雷艇隊ハ〇八卜協同作戦ス、嚮導任務ニ服スル魚雷艇ハ当該〇八指揮官ノ指揮下ニ入ルモノトス


  第3 企図秘匿

1 陸軍〇れ艇、海軍〇四艇ヲ総合シ〇八ト略称シ、〇八ニ依ル兵力、戦法ヲ 「震天」 ト呼称ス

2 訓練、輸送、基地設定、展開ニ於テハ一般住民、敵潜空ノ偵察ニ対シ厳ニ企図ヲ秘匿ス

3 展開遅延其ノ他ノ事情ニ依り所定ノ兵力ヲ展開シ得サル為確実ナル効果ヲ期待シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ、其ノ方面ニ於ケル本兵力ノ使用ヲ取止ム

  之力為国軍全般トシテ初回ノ使用ヲ予想セラルル方面ニ対シテハ、之力使用開始ニ関シ大本営ヨリ事前ニ明示スルヲ本則トス




 このように協定され、関係指揮官に指示した。 大本営では大量の兵力を極秘裡に敵上陸予想地点に集中し、敵の意表をついて敵上陸兵団をその泊地、輸送船上に撃滅しようとしたわけである。 兵力の使用については、現地部隊指揮官は大本営の許可が必要であった。
(続く)

2010年10月10日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (19)

著 : 辰巳 保夫

 「震洋」の建造と要員の状況

 「震洋」の建造と要員の教育訓練はいちおう順調に進んだ。 「震洋」 の建造は予定計画数を下回るがかなりの成績であった。 要員の状況は8月16日最初の50名が卒業、8月末に200名(これが我々であった)。 その後月400名が見込まれた。 大森中将は

 「一番心配したのは特攻兵器を整備しても、決死の志願者があるかどうかということであった。 ところが、募集してみると下士官や練習生に志願者が多かったので安心した。」

 と語ったということである。


 特攻兵器「震洋」の戦法

 当時考えられていた震洋隊の基本戦法は、敵の予想上陸正面に近い海岸に発進基地をつくり、艇を洞穴に入れるか樹木で隠しておき、敵船団が入泊すれば夜間に持ち出して浮かべ、隊長のあとに50隻の震洋艇が編隊で続行して敵に肉迫し、最後は高速で突撃に転じ衝撃するものであった。 ただし、震洋隊の使用にはかなりの困難性を伴った。

 発進基地を適確に選定して準備するのに、まず、確率上大きな危険があった。 また 「震洋」 はベニヤ板製であるため耐波性がなく、荒天時の航行が困難であり、かつガソリンエンジン使用のため、敵火力により容易に炎上する弱点があった。 夜間航行が原則であり、これには高度の能力と熟練を要したのである。

 海軍中央部は、「回天」 と同様、「震洋」 においても最後の段階 (敵艦船への突入寸前) で乗員の脱出を強く望んでいた。 8月16日、中央で特攻兵器の用法について全般方針を検討した際、草鹿連合艦隊参謀長は、必死の戦であるので成果のあがる兵器を持たせてやりたいと述べ、「一割生還ノ方途ヲ考へテモライタイ」 と述べたということである。 また、井上海軍次官は、捨て身の戦法の有益なことを認めつつも、「脱出装置」 の準備について発言する一場面もあった。

 だが、海軍中央部は脱出については特別の準備をすることもなく 「震洋」 の建造を進めた。海軍省では、「震洋」 を艦艇としてではなく、兵器として取り扱った。 したがって、震洋隊の編成が可能となったとき、その展開は海軍部の編成によることなく、海軍大臣が 「震洋」 を所定の部隊に供給する形式となったのである。


 水上特攻部隊の編成と展開

 海軍中央部は、予定していた 「震洋」 の衝撃効果実験を結局は実施せずに終った。 軍務担当者はそれは 「装置が簡明」 なため、必ずしも実験を行なう必要を認めなかったという。

 時に、大本営海軍部は捷号作戦に間に合わせるよう、震洋隊の編成と展開を急ぐことになった。
(続く)

2010年10月09日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (18)

著 : 辰巳 保夫

 横須賀での外出 (承前)

 この日の外出時間の門限いわゆる帰隊時刻は夕食時までであった。 横須賀は軍港であり軍都であった。 したがって海軍さんが一杯でうようよしていた。 それに兵曹、士官がまるで多い。 だから敬礼また敬礼でひどい時には30メートルぐらい手を挙げっぱなしということもあって、青春を謳歌するとか腹一杯清浄な空気を吸って英気を養うということはほど遠い感じがした。

 当時の軍港の風景などは、高塀で囲まれており外部から軍港の施設の見えるところは鎮守府の正門 (現在の米海軍基地のゲート) から菊の御紋のついた鎮守府の庁舎とその森とガントリークレーンだけであった。

 正午過ぎからはどこをどううろついたか覚えない。 あと外出時間も2時間あまりとなり、横須賀駅から一駅区間ではあるが田浦に向かった。 当時は国鉄の電車を利用するのが一番便利でありこれを利用した。

 田浦駅で降車し海側の道を行けばすぐ水雷学校の正門に出るが、山側の道を歩いてみようということになった。 横須賀−田浦間の道路は約5か所のトンネルがある。 毎朝足を強くするためこの道路を駈足した。 当時は走る自動車も少なく、特に早朝はほとんど走ってなく静かなところであった。

 一つトンネルを潜ると、そこに田浦下士官集会所(現在社会館のあるところ)があり、ここを覗いてみようということになった。

 建物は横須賀のそれとは比較にならないほど小さなものであったが、その中にはかなりの兵隊さんがいた。 食堂でおいしそうなカレーライスを売っていた。 見たら食わずにおれなくなった。

 若いんだなあ、カレーライスをペロリと平らげ外に出ようとしたとき、何の為に列を作っているの判らない列が目に入った。 並んでいる兵隊になんとはなしに尋ねてみると、菓子を間もなく売り出すということであった。 その答の終るか終らないうちに販売が始まった。

 ところが、ここでは兵曹が大威張りで、皆の並んだ列に割り込んでいる。 醜い姿であった。 日本海軍の一番悪い点であった。 私はこの醜い姿に対してはすごく抵抗を感じたが、当時はどうにもならないことであった。

 兵隊は早くから列を作り順番を待っていたのだから、中には不満を口に出すのは当然のことであろう。 私が見ていたときにやはり下士官に向かって不満の何やらを言った兵がいた。 ところがその下士官は兵の軍帽をパッと取って列と反対方向へポーンと投げやった。

 何という光景であろう。 嫌やだ嫌やだこんなことを今更見たくなかったのですぐ外に出た。 私はこういう下士官の行為に対しては反感を抱かざるを得なかった。 優悦感からの行為であろうか。 先任者として当然行なえる行為であると思っていたのであろうか。

 上級者になれば下級者に絶対的服従を教えたことは軍人として当然と考えられるが、それが逸脱して下級者を圧服せしめるような行為となってそれが日常の生活の中に表われ、一般社会に出てまでも傲慢な振舞をしていたのである。 自分だけはどうしてもそんな海軍軍人になりたくなかった。

 予科練での生活の中でも班長であった下士官の中にこのような人がいた。 自分達に与えられた特権だとして、また自分達もこのようにして教育を受けたので暴行を下級者に施など賢い者のすることではない。

 一部の中堅下士官のこのような横暴な態度は、兵を教育する者としての資質に欠ける行動ではなかっただろうか。
(続く)

2010年10月08日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (17)

著 : 辰巳 保夫

 横須賀での外出 (承前)

 ここは兵専用の食堂であり、ここで1番の先任は兵長の階級をつけた者であった。 海軍ではよくいうが 「牛の糞にも段々」 と ・・・・。 これら先任者たちの振舞には少なからず私たちは頭にきていた。 販売時間が来ても列があまり進まない。 それもそのはず、割り込者がいるからである。 1等兵や我々の前に彼等はふてぶてしい態度で割り込む。

 「いっちよ、やったろか。」

 20期の一ノ瀬と今井が後を振り向き目くぼせをした。 私達の一番先に並んでいたのが中山と細田で、2人は顔も凄みみがあった。

 「よし、ハエを追っ払うか。」

 と一ノ瀬と今井の間に割り込んだ海軍水兵長を引っ張り出した。 中山が切り出した。 少し顔をしかめて凄みをつけ、

 「おい、お前たちは何んじゃあ! 人が黙っていると思って。」
 「なんでそこに入るんだ。」
 「皆でこうして早くから列を作って並んでいるんだぞ。」
 「いい加減にしろ。」
 「食べたいのはみな同じだ、兵長といって大きな顔をするな! 俺たちは9月1日に3等兵曹になっているけれど、この前ボカチンを食って階級章がないんだ。 しかたがないからここで並んでいるんだ。 すぐ戦地に行くんだ。 後について並んで食ったらどうだ!」

 と一喝、そのあとに続いて

 「甘い顔をするな。」

 とつけ加えた。 (ボカチンとは雷撃を受けて撃沈されたこと。) 芝居を打ったのである。 古参の兵長達は、ぎょろりとした目でこちらを見た。 “鳩が豆鉄砲を食らった顔” とはこんな感じの顔だろう。

 「皆も俺達も近いうちに死ぬんだ、殺生なことをするな。」
 「皆長いこと待っていたんだ。 列もそんなに長くはないし、後へつけ!」

 こちらも少々むかっ腹も立っていたし、その上腹も減っているやらで、元気をつけてしゃべったので連中もぎくりとしたらしくよく通じた。

 「ちぇ−!」 と言ったのもいたが、しぶしぶと5、6名の兵長が列の後についた。 だが一人だけはすでに丼を手にしていた。 列に並んでいた後任になる連中は、おおやってくれたぜというような顔をしていた。 それからの列の進行はスムーズに運んでいった。

 私達もそれぞれの手に二つのうちの一つを持って、一つのテーブルに集まって食べた。 私は鉄火丼を初めて食った。 その時のマグロ丼の旨かったこと。 未だにその時の味が忘れられない。

 当時品物不足が現われ始めていた頃でもあったが、海軍御用の業者によって売られていたようであった。 ご飯の上にぺロッと大きな1枚のマグロの切り身が乗っていた。 値段の割には旨く、若い私達ですら、量も腹九分といったところであった。
(続く)

2010年10月07日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (16)

著 : 辰巳 保夫

 横須賀での外出

 日曜日に外出が許された。 久し振りであったためか、心の中は日頃になくそわそわしていた。 特別訓練中に日曜の数が何回かはあったが、今はこの時のことだけしかよく覚えていない。 他の日曜には外出しなかったようである。

 19期は九州、四国、近畿地方および中部地方 (石川県の付近) の出身者であったため関東地方の地理には疎く、また横須賀の町についてはほとんど知らなかった。 とにかく19期は揃って、東郷元帥のご遺徳を偲ぶためもあり、まず軍艦 「三笠」 を見学することにした。

 艦内には数多くの陳列品があり、日本海海戦における日本海軍の奮闘の勇姿を目の当たりに見ているようであった。 私自身は特に旅順港閉塞隊の当時の様子、並びに広瀬中佐のことなどを前々から知っておきたかった。 三笠の最後部にあった長官室などは見事なものであった。 この日の午前中は艦内の見学で大半の時間を過したようであった。

 引率しての外出は1回もなかった。 それでもあれば、この時繁華街の方に行ったであろうが、三笠からストレート、横須賀海軍下士官集会所 (現在のEMクラブ) (現在の横須賀芸術劇場や旧プリンスホテルがある 「横須賀ベイスクエア」 の所にあった) に足の先が向いてしまった。

 まだ皆は酒も飲まず、そして女遊びをする年ではなかった。 むしろ食い気一方である。 私は海軍時代月の手当をいくらぐらい貰ったのかあまり記憶がない。 2等飛行兵 (入隊してすぐの頃) 当時は1円2、30銭ぐらいではなかったろうか。 田浦に来てからの手当もおいておやである。 案外呑気なものだったのであろう。 何しろ三重空時代とは違い大分多く貰ったことは事実である。

 集会所の2階では催し物をやっていたようであり、舞台衣裳を着たおばはん連が何かと忙しそうな足どりで廊下を往き来していたのを覚えている。 別に大劇場の劇など見る気はしなかった。

 それよりも何か食べるべえと皆で1階にある兵隊さん用の食堂に行った。 まだ食べ物は売ってなく、料金前払い制、12時15分から販売すると書いた半紙大の紙が貼りつけてあり、調理室の壁、いわゆる料金払い口のすぐ上に、“鉄火丼” とあと一つ何か変った名の2品しかなかった。

 「“てつびどんぶり” とはなんかいね。」

 と私は側にいた九州育ちに尋ねた。 するとどちらも首を横に振った。 後にいたのが 「ワッハハハハッ」 と笑って 「鉄火とはマグロたいね」 と教えてくれた。 「マグロか」  私は鉄火丼に決めた。 変った名のはあまり食べんことにしていた。 食って 「うへえ!」 では・・・・。

 まだ販売時間まで間がある。 列に並んで順番を待たなければならなかった。 ちょっと下士官専用の食堂をのぞきに行ったりした。 下士官の方では燗壜 (かんびん) を並べ、猪口でちびりちびりやっている下士官連がいた。

 もうその頃、私達は正規の軍服 (7つ釦) は返納して第3種軍装 (国防色の木綿服) だけであった。 階級は飛行兵長であり、20期は上等飛行兵であった。

 列に並んで販売時間を待っているとなかなかおもしろい。 並んでいる列に平気で割り込むのが現れる。 それも販売時間になるとやたら多くなってくる。 不法侵入である。

 海軍では古参がやたらと幅を効かす風習があった。 1日でも先に入隊したとか、同じ階級であれば1日でも早く進級した者が俗に先任者である。 先任者に対し後任者は敬礼はもちろんのこと、彼等の命令には絶対服従しなければならなかった。 不服なことがあり、口答えなどしたときにはびんたが飛んできた。

 この時の不法侵入者がこの古参連中なのである。
(続く)

2010年10月06日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (15)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 9月下旬からはいよいよ本格的な夜間の襲撃訓練に入った。 日没ごろ訓練艇に乗り込む。 追浜沖のブイに係留停泊中の駆逐艦から上陸員がボートを漕いだり、内火艇に乗ってくるのにすれ違った。 我々は彼等とは逆にこれから沖に向かって夜間の訓練に出て行くのであった。

 この頃では、もう艇の操縦も心得たものとなり、エンジンが途中でストップするような無様なこともやらなくなった。 4つの部隊が同一の訓練艇を時間制で使用した。
 もう特別訓練の日も残り少なくなった頃、やたらと支給品の配給があった。 それも予科練時代いろいろと恩きせがましく、しかも少ない給金で買って食ったのと全く違う、全部無料支給であった。 菓子あり飲みもの缶詰ありで、ありがたく頂いた。 量もあり、頂くのはいつも決まって夕食後であった。

 夕食後はすぐ訓練準備にかかり、ゆっくり菓子類を食べる暇もなかった。 とかなんとかいって、ついつい救命ジャケットの内側に入れて訓練に出かけることがあった。 帰路の途中、もぐもぐという塩梅だ。

 といっても訓練中は絶対食いながらということをしなかったことをお断りしておく。 軍紀厳正、いやしくも死をかける訓練の最中で菓子をむしゃむしゃ食いながらやるとはなんたることだ! 副長にでも知れたらそれこそ大目玉が飛び出すのではなかっただろうか。 反省するというか、そんなことでは駄目だぞと自分で自分を叱ってはいた。

 訓練を終えて帰ってくる時の夜景を眺めながら、甘いものでも食うのはちょっと乙なものであった。 これは皆が皆、そうではなかったので誤解されないように。 私なんぞは魂の抜けたところがあったのかも知れない。

 西に日が沈む、東京湾に出て富士山を見るのが楽しみであった。 夕焼富士、それが秋は異様に赤くまた紫に変ってゆく、北斉の画いた絵のように。 だがやはり実物は何よりも美しい。 何回見ても見惚れる姿であった。
(続く)

2010年10月05日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (14)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 この特別訓練中、またこんなことがあった。 他の隊で起こったことである。 巡洋艦「大淀」に向かって突入訓練を行なっていたとき、ある艇があまり近くまで近づきすぎ、回頭する際バランス代りを努めていた者が回頭の煽りを食って海に投げ出され、その同僚を救助するという一幕もあったようである。

 振り落とされた者は艇の頭部にある舫索をしっかり握り最後まで放さなかったとのことであり、落ちた者の上を艇が通れば人身事故になるところであった。

 海上訓練中、時折り空襲に対する警戒警報が発せられた時もあった。 私達が突入訓練の目標として 「大淀」 を利用していた時、警報が出た。 「大淀」 の方では警戒配備に就き、艦橋付近には大分多くの人が現われ始めていた。

 ところが 「大淀」 の当直士官か副直士官かはっきりしなかったが、我々の方に向かって盛んに手を振っていた。 あっちに行けという感じであった。 しかし我々にあっては警戒警報も何のそのであった。

 とうとう腕にマークをつけた当直の士官がメガホンを持ち出し、堪りかねたのか 「あっちに行け、警戒警報発令中だぞ!」 と怒鳴られたこともあった。

 警戒警報が出てからこんなこともあった。 長浦から潜水艦 (呂号) が急拠出港してきた。 警戒のための分散避泊であろう。 緊急出港のため、長浦港の出口を過ぎる頃から相当スピードを出していた。 もうその時は 「大淀」 は出港していなかった。

 適当な突撃目標もなかったため、丁度良い目標が出て来てくれたわいと咄嗟に考えが浮んだ。 「よし、あいつだ」 とばかり潜水艦の方へ艇首を向け、相対的に良い状態になったとき突っ込め、とそんな荒計画を立て実行に移った。

 ぐんぐん相方は接近した。 潜水艦からは何の注意の喚起もなく進んでくる。 この場合は小型の船が避けることになっている。 潜水艦の右前方から突入訓練を開始した。 潜水艦まであと50メートル、「取舵一杯」、左に我が艇を緊急回頭した。

 ところが潜水艦から出てくるウェーキ、それが案外と大きい。 突然目の前にウェーキの山。 「あっ!」 と思わず声が出た。 このままでは潜水艦のウェーキと平行になり煽りを食って転覆する。

 速断速決、今度は面舵に転舵、ウェーキを間切ぎろうとした。 自分の艇もスピードがかなりあった。 ウェーキの山の向うは凄い谷。 「あっ、ウェーキが谷になっている」 一瞬困った、がもう遅い。 山のようなウェーキを跳び越すことにした。

 ウェーキの山に上がりフワーと艇が空を飛んだ。 その一瞬ズドン、べリッという音が一度に起こり、乗っていた者にはかなり物凄いショックを感じた。

 ベニヤだ、すぐ浸水してくるぞと予想した。 しかし何ともなく、浸水もなく心配はいらなかった。 案外強い船体であることを逆に驚かされた。 その時からベニヤだがこの船は相当の強度があるという自信を持っことになった。

 この時、艇には3人が同乗していた。 村岡と関根と私の3人はお互い顔を見合わせた。 ところが関根は軽いウインクをし、村岡は口をとんがらせ、お前相当無茶をやるなあと言わんばかりの表情をし、私はペロリと舌を出した。 操縦は私がしていたからである。 大事に至らなくてよかった。
(続く)

2010年10月04日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (13)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 秋田谷の言った、白いものが何ものであるか2人で見直して見た。 するとそれは海岸の石垣 (岸壁) であった。 まだ100メートル以上はあった。

 「このパイプの口が冷却水側だろ。」

 彼もはっきりそうだと言わない。 だがぐずぐずしておれない、私は意を決し自分の思った側のパイプに海水を汲んで入れることにした。

 彼の手袋を外させ、彼の両方の手でパイプのロにあたかも漏斗のようにさせ、私は艇の外舷に身を乗り出し、“垢汲み” で海水を汲んでその中に懸命に入れた。 小さなロからは思うように水は入らない。 岸壁との関係を気にしながらである。

 そうこうしているうち岸壁との距離が20メートル足らずとなった。 私は艇の中にいる彼にオールを探させ、手探りで捜し出したオールを私は手にしっかりと持ち、なるべく岸壁に寄せられないように漕いだ。 懸命の努力も自然の力に勝つことはできない。 彼も私に代ってオールを握る。

 「秋田谷、エンジンをかけてみろ。」

 岸壁はもうそこに来ている。 秋田谷は無言のうちにすぐエンジンスターターを引っ張った。 ウウウーン、クンタンクン ・・・・ としばらく音を立てて、セルモーターが回るが起動はしない。

 もう絶体絶命、岸壁を艇が擦ったりすればそれはベニヤ板、御陀仏になってしまい、海水温度を2人して計らなければならなかった (海軍では海へ落ちることを 「海水温度を計る」 と言った)。 2人とも航空機搭乗員用の救命ジャケットを着けているので溺れることはまずなかった。

 「秋田谷、お前も出てこい。」

 そして2人は両方の足を艇外に出し踏ん張って頑張った。 約20分ぐらいであろうか、もう無我夢中であった。

 「おーい、お前たちは何をしているんだ。」

 と懐中電灯で照らされたほうに顔を向けるだけ、野中と中村の乗った艇がすぐ近くに来ていた。 やっと救いの神子が来たわいな。

 私は1人で踏ん張っているから、すぐ秋田谷に自分の艇の頭の舫索を投げて渡し、曳航してもらうように言った。 素早い動作で舫がとられ、間もなく曳航されることになった。

 自艇スターンを当てないように一跳し、やっと岸壁から離れ、今までの死闘も束の間の幕となった。 それからは曳航されているのでもう呑気なものであった。 彼と2人で

 「今夜はえらい目に合ったなあ。」

 と大笑いをした。 息のつく間もないとは少し大袈裟だが、飛行服のポケットの中に入れておいた菓子のことはすっかり忘れていた。

 「おい、菓子でも食えや。」

 と暗いのを幸い、ポリポリと食べながら長浦港へと帰路についた。 僚艇も訓練が終りどんどん追越して行く。

 長浦港に停泊中の大小さまざまの潜水艦から、一斉に巡検ラッパが喨々な音色で響き渡って来る。 陸上の燈火が水面に映り、細長く一条、二条三条と、それがゆらりゆらりと動いている。 戦時の最中であるが長閑な軍港内の夜景であった。

 巡検とは海軍生活の1日の締めくくりであり、艦内等の点検を行なう。 私達は今まで厳格にこの巡検を1回も欠かさず受けてきたのである。 だが今このようにして海の上で艦艇や陸上部隊の各所から聞えてくるラッパの音を開きながら、第三者的存在の立場について味わう巡検の光景は格別なものであった。

 後日、故障艇のエンジンを整備員が分解検査をしたところ、潤滑油に大量の海水が混入していたことが発見されたとのことであり、誰かが海水を潤滑油注入口から入れたのだろうということになった。

 そんなに海水が入るわけがないと、そしてエンジンが赤く銹ていて、すんでのところ使いものにならなくなる寸前だったと、特別訓練中の搭乗員総員が整備担当准士官に大発破を食らった。

 その犯人は誰か、我が輩であった。 潤滑油注入口と冷却水注入口とが判らなかったとは ・・・・。
(続く)

2010年10月03日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (12)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 今日も実艇による訓練、「エンジン快調」 隊列を組んで長浦港を出て行き、港外、横須賀防波堤付近で突撃訓練を繰り返した。

 ある時は、将旗のへんぽんと翻える巡洋艦「大淀」に向かって突入、敵艦を想定しての実物目標艦としては最適であった。 この時 「大淀」 は連合艦隊旗艦とのことであった。 「大淀」 の後甲板から将官らしき人がじっと我々の訓練を見ておられた。 その人こそ司令長官の豊田副武海軍大将であった。

 マル四艇は欠点があった。 高速で運転中、スロットルレバーを急速に低速とすると、次にまた高速で走ることができなかった。 それはエンジンが加熱して高温となり、海水を利用しての循環冷却水が蒸気となって、冷却水排出口から噴出する結果となり、艇はストップしてしまい、しばしば訓練中の僚艇から取り残されることがあった。

 1週間ぐらい経って、いよいよ部隊編成が行なわれることになった。 19期の私達から名前が呼ばれていった。  ところが20期の者はそれぞれ好きなところへ適当に付けといわれ、個人の自由意志による妙な部隊編成がなされたのである。 このことは、第12震洋隊を選んだ20期生は生死の運命の別れとなった。

 第12震洋隊は隊長未定のまま編成され、香西少尉 (宣良、海兵72期) が兼任された。

 昼間の訓練も10日あまりで終り、あとは夜間における訓練へと進んでいった。 夕暮の迫る頃、長浦の港内を出て行く、追浜海軍航空隊 (現在の日産自動車追浜工場のあるところ) の方向に夕焼富士がくっきりと空に浮かんで見える。 富士山は美しい。 富士山が遠景できるときは時化るという。 案の定、暗くなってくるに従って海上は少し荒れてきた。

 夜間の突入訓練の最中であった。 私と20期の秋田谷と二人で艇に乗っていた。 エンジンが急停止し、そのあと再びエンジンが掛らなくなってしまった。 先に説明したあれである。

 真っ暗な海の上、北風も大分強い、艇の甲板は滞れて滑べる。 そのうえ艇は油が飛散している。 動揺も大きくなってきた。 エンジン室の天蓋を外して私は上半身を頭からその中に突っ込み、

 「お前は外を響戒しろ。」

 と秋田谷に言った。

 「あいよ。」

 と返事が返る。 エンジンの焼けた臭いとビルジの臭いが鼻をつく、おまけに艇がひどく揺れる。

 「秋田谷、お前海に落ちるなよ。」

 「なに、落ちるもんですか。 どうですか、何か判りましたか。 エンジンはかかりそうですか。」

 私はエンジンを外から手探りで触ってみたが、とても熱い、手の触れることができる代物ではなかった。 暗いので昼間のようにはいかなかった。 動揺が激しくなって頭を下げ身体を曲げていることも楽ではない。 自分の足は舷外に出している。 ぴんと挙げた足を秋田谷が押えてくれていた。 波頭も砕けてきた。

 「大丈夫ですか、私が代って見ましょうか。」

 と彼が言ってくれた。 私には実のところこれ以上はどうすることも出来なかった。

 「お前、ちょっと見てくれるか。 俺にはさっぱり判らんわい。」

 と彼と交代したが、やはり駄目であった。 また彼と代わりエンジンのそこかしこを外方から調べていたところ、

 「何か判らないが白いものが見えますよ。」

 と秋田谷が言って私の尻を叩いた。 もう大分陸岸の方に流されているのは判っていた。

 「近くに係留ブイがあるから注意しろよ。」

 「秋田谷、ここから海水を汲んで入れてみようか。」

 と彼に言ったが、彼は一瞬怪訝そうな顔をした。 実際のところ、私にはこれ以上手がつけられなかった。 エンジンの講義中に居眠りをしていたことを悔いる結果となってしまった。

 冷却するために海水を汲み、早く冷やしてやればよいだろうと考えたからであった。 エンジン本体から垂直に立ったパイプが2本あったが、冷却水を迎え水するところのパイプがどちらであったか判らなかった。
(続く)

2010年10月02日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (11)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 私達は飛行兵となるべき教育を受けてきたため、海に対する知識というものはあまりなかった。 まず海がどんなものであるかの体験をするため、艦載水雷艇 (大型艦の内火艇) による機動艇訓練が実施されることになった。

 その日は低気圧があったのか風が相当強く、またそのうえ横須賀付近の地形もまだよく判らない我々であった。 横須賀の田浦から観音埼を回り、久里浜まで行く海上コースであった。 横須賀港の防波堤を過ぎると北風が非常に強く、機動艇は木の葉のごとくに翻弄され、最悪のコンデションの航海、私達は観音崎の裏側に艇が回るまで船酔の連続であった。

 生れて初めて経験する船酔、それが月並なものではなかった。 海上は白波が折れてくる。 その上を飛沫が走る。 艇の窓は開けることができない。 そんな状態の中で、風と波としぶきがやってくる。

 反対側の窓を顔の出せる程度に開け、「ゲ−、ゲー」 と吐きっぱなしの強行軍が始まった。 さすが艇指揮をしている兵曹長は、海の古強者、平気な顔をして操舵室で舵輪を握っていた。

 その日、我々は艇の操舵を習うのが主目的であったが、荒天とそのうえ機雷原の中を航行する難コースの突破もあって、酔ぱらいの我々はとうとう舵輪を握ることなく浦賀水道を通過し、無事久里浜に入港した。

 上陸した正面に、ぺルリ提督上陸記念碑があったが、この碑に誰が書いたのか、「敵国降伏」 の大文字が白ペンキで書かれ、碑に刻み込まれてある文字がかすかに読みとれるような状態となっていた。

 マル四艇を量産している海軍工作学校の一部を見学し、再び機動艇に乗り横須賀への帰路についた。 帰路は北風も相当弱くなって、往きの時ほどの船酔もなく、幾分ふらふらながら舵輪を交替で握り、「宜候」 (よ〜そろ〜) 「面舵」 (おも〜か〜じ) 「取舵」 (と〜りか〜じ) を発唱しながら横須賀に帰投した。

 海軍軍人となってこの時初めて船酔を体験したが、それが余りにも酷く、べろべろの状態となり、船酔の辛さをいやというほど知らされたのであった。


 特攻兵器の特別訓練は1か月足らずで仕上げなくてはならないため、昼夜を問わない猛訓練に入っていったのであった。 最初のうち艇の構造、エンジンの構造及び作動など基礎知識を教わり、その後、すぐ実物の艇による訓練へと移っていった。 緑色に塗られたマル四艇 (震洋) は、我々の間では 「雨がえる」 と綽名を付けた。

 前半、昼間の訓練が続いた。 高速になると艇の前半分以上が水面から浮き上がって、後に長くウェーキを残していく。 水面を滑べるように突っ走って行く。 乗り心地は満点であった。

 この艇はベニヤ板張りの船体、「トヨタ」 の自動車用エンジンであり、頭部に1トン近い炸薬を搭載装備する。 他には何一つとして敵に対する攻撃武器はなかった。 実際の戦闘では奇襲戦法を行ない、敵の艦船にこの艇を叩きつけるのである。

 訓練中の艇には、炸薬は積んでいない。 そのため前部が浮きあがり前方の見通しが悪くなる。 後部の操縦席からは、立ち上がらなければ前はよく見えなかった。

 そのため訓練中は2人で乗ることになった。 そして1人は前部のバラスト代りとして前部炸薬室の蓋の上に腹這いとなり、適当な時間になると2人は交替し操縦訓練を行なったのであった。

 高速の飛沫は、乗員はもちろんのこと艇の甲板も濡らして、そのうえ滑べる。 少し波が立ってくるとダダアダダアと波頭を切るようにして滑走する。 時折り起こる大きな波のときは跳び超える。 遠くで走る僚艇の姿は勇壮であり男性的であった。
(続く)

2010年10月01日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (10)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練

 特攻兵器、それはマル四艇であった。 私はがっかりした。 それもそのはず特攻兵器というからには、精巧を極めたものを頭に画いていたからである。 あまりにも自分の想像していたものと違いすぎるような感じがしてならなかった。 それは空を飛ぶ特殊兵器、または人間魚雷等を予想していたからである。

 私の本心を言うと、「特殊兵器とはこれか、こんなベニヤ板のボートか」 と口にこそ出さなかったが、思わず嘆息を漏らさざるを得なかった。 これは私唯一人の感じだったかも知れない。 飛行機とマル四艇の差 ・・・・。 死を覚悟して来たものの、こういうところが人間の弱さなのであろう。

 「こんなものが海水に保つものだろうか?」

 海水といっても幅が広い、荒天時のことも考える。 いくらか不安は残る。 少年の頭をして考えても、大分危っかしい代物である思いがした。 複雑な感懐が小さな頭の中をかけ巡って行った。 あまりにも酷いとも思えた。

 着いた日の一日は何も手につかなかった。 一夜明け、海軍水雷学校教頭の某大佐 (有賀幸作、海兵45期)、目玉のぎょろりとした、そして赤ら顔のきつい人であった。 元気は人一倍あるかのように、軍服 (第三種軍装、俗にいう陸戦服) から張り切った気力が溢れ出ているような感じが受け止められた。 その軍服が木綿でなく絹だったのか、生地が普通のものと違った感じであった。

 マル四艇の実物を見学に行った。 大佐は現物を目の前にして我々に語った。

 「これから私が君達の面倒をみることになった。 力一杯に勤めるつもりでいる。 どんなに小さなことでもよい、君達に心配なことがあればどしどし私に相談してくれ、お世話させていただく。 この特攻兵器は極秘ものである。 当学校のうち、私達関係者以外は何をするものか誰も知らない。 軍規厳正な諸君にあっては、このようなことは絶対にあり得ないことと思うが、くれぐれも他にどんなことがあっても口外しないようにしてくれ。」

 というような話であり、また大いに奮起せざるを得なくなる激励の言葉もほかに続いた。

 この時までに、既にマル四艇の特別訓練は第1次として一般兵科出身の兵曹の志願者をもって実施され、既に戦場に配備中とのことであった。 いつまで迷っていて何になる。

 「よし、やるぞ! 先に行った奴に決して負けないぞ。」

 今までの訝っていた気持が一変した。 それから以後というものは、毎日の訓練も熱が入り、若い我々は和気藹々のうち、特別訓練に邁進して行ったものである。
(続く)

2010年09月30日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (9)

著 : 辰巳 保夫

 〇一兵器から〇九兵器まで (承前)

 軍令部は同じ月、海軍省側にこれら兵器の各種緊急実験の要望を提示し、軍令部から艦政本部に〇一兵器から〇九兵器までの仮名称を付し、これらの研究、試作および整備を命じ、担当主務部を定めて特殊緊急実験を急がせたのであった。

     〇一兵器 ・・・・ 潜水艦攻撃用潜航艇
     〇二兵器 ・・・・ 対空攻撃用兵器 (対空電探と高高度対空ロケット)
     〇三兵器 ・・・・ 可潜魚雷艇
     〇四兵器 ・・・・ 船外機付衝撃艇 (のち 「震洋」)
     〇五兵器 ・・・・ 自走爆雷
     〇六兵器 ・・・・ 人間魚雷 (のち 「回天」)
     〇七兵器 ・・・・ 電探関係
     〇八兵器 ・・・・ 電探防止関係
     〇九兵器 ・・・・ 特攻部隊用兵器 (のち 「震海」)

 このような軍令部の要望は従来における方針に比べまさに爆発的であり、艦政本部側によっても 「これだけ造ってくれれば必ず額勢を挽回できると信じ、もしこれができなければ必ず敗戦となる。」 と極めて切羽詰まった強硬手段として、実現に突進したのである。

 同年6月、嶋田軍令部総長は 「奇襲兵器の促進係を設け、実行委員長を定めること」 を命じた。 この実行委員長に当時海軍水雷学校長の大森仙太郎中将を選んだ。

 大森中将が特殊兵器の研究整備の責任者として就任した時点で、最も進んでいたのが〇四兵器であった。 衝撃効果の確認は終了していなかったが、各所で既に量産態勢に入っていた。 7月300隻、8月500隻、9月600隻、そして10月には800隻を建造する計画であった。

 一方海軍省側は、これら各兵器の乗員について準備を進め、従来からの甲標的のほか、〇四、〇六、〇九各兵器についてそれぞれ決死の志願者を募集し、大尉以下の初級士官と下士官兵がやがて訓練に入り得る状態となった。


 〇四兵器実用までの推移

 既に量産に入っていた〇四兵器には、重要な兵器装備 (爆薬の装備) 工事の問題があった。 海軍中央部は東京湾方面で建造したものは横須賀海軍工廠で、名古屋以西で建造されたものについては佐世保海軍工廠で装備するように措置した。

 要員準備のほうは、第1期進出兵力50隻分に対しては、既に発令済となり、また第2期進出兵力200隻分に対するものは7月16日発令の予定であった。 〇四艇要員は、差し当たり7月以降毎月300隻分を準備するよう考慮していた。

 〇四艇の教育訓練は、初期のものを横須賀海軍水雷学校で実施し、その後は長崎県川棚町にある臨時魚雷艇訓練所で行なうように計画され、教育期間は1か月とした。


 特攻兵器に命名

 大森中将は19年8月末、これまで仮名称で呼んでいた特攻兵器に対し固有名称をつけることを考えてきたが、〇四兵器には 「震洋」、〇六兵器には 「回天」、〇九兵器には 「震海」 と名付けることとなった。 これらの名称はいずれも明治維新時の船名から採ったもので、このことから 「〇四艇」 とか 「震洋艇」 という両方の呼び名が混用されるようになったのである。
(続く)

2010年09月29日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (8)

著 : 辰巳 保夫

 震洋 (〇四) 艇の登場

(注) : 本項以降に出てくる 「〇四」 「マル四」 などは 「〇」 の中に漢数字が入ったものですが、通常のフォントにはありませんので全てこの表記で代用しています。


 我々が三重空を発ち、横須賀海軍水雷学校へ来るに至った理由となるそれまでの海軍中央部の考えと特攻兵器についての推移を説明しておこう。

 我が軍の南東方面の敗勢が歴然となった昭和18年の中頃から、多くの者が米国の圧倒的な物量と、米軍の攻勢に対抗するため必死必殺の特別攻撃の決意断行を真剣に考えるようになった。

 その中には連合艦隊首席参謀黒島大佐があった。 同大佐は 「モーター・ボートに爆薬を装備して、敵艦に撃突させる方法はないであろうか?」 と大本営の海軍部幕僚に語っていた。

 同年7月同大佐は軍令部軍備担当の責任者として、軍令部第2部長に就任し、大本営海軍部が特別攻撃を採用するうえにおいて決定的な意義をもつこととなった。

 同大佐は 「突飛意表外の方策」 により 「必死必殺の戦」 を主張していた一例として、「戦闘機による衝突撃」 の戦法を、また 「爆薬を装備したモーター・ボート」 を挙げ、後者がやがて水上特攻の 「震洋」 (〇四) に発展したのである。

 この当時まで既に特攻兵器として甲標的 「蚊竜」 (特殊潜航艇) があり、開戦時のハワイ真珠湾攻撃以来シドニー、ディエゴワルス (マダガスカル島) およびルンガ泊地 (ガダルカナル島) の攻撃に使用された。

 甲標的は色々改良されたが、構造がかなり複雑で、必ずしも量産に適さなかった。 また攻撃効果も不十分などと間題点があった。 このため戦局の悪化に伴い海軍中央部は昭和19年2月、人間魚雷の試作を命じ、これが日本海軍の組織的な特攻作戦を採用する第1番手の狼煙 (のろし) となった。


 〇一兵器から〇九兵器まで

 昭和19年春、古賀峯一海軍大将の連合艦隊司令部が壊滅した。 その直後の4月、軍令部第2部長黒島少将は第1部長の中沢少将と 「作戦上急速実現を要する兵力」 として次の7つのものを挙げたのである。

     1 飛行機の増翼 (航続距離を倍加し、戦力を4倍に)
     2 体当たり戦闘機
     3 小型潜水艦 (航空界の戦闘機のようなもの)
     4 局地防備用可潜艇 (航続距離500海里、50センチ魚雷2本搭載)
     5 装甲爆破艇 (艇首に1トン以内の爆薬装備)
     6 自走大爆雷
     7 大威力魚雷 (1名搭乗、速力50ノット、航統距離40,000メートル)

 以上のもののうち、局地防備用可潜艇はすでに生産中であった 「甲標的」 であり、大威力魚雷は既に試作命令の出た人間魚雷 「回天」、装甲爆破艇こそ後の 「震洋」 であった。
(続く)

2010年09月28日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (7)

著 : 辰巳 保夫

 横須賀

 一般の乗客の乗った列車の後部に、我々の乗る車両が特別に2両連結されてあり、その車両に私達は乗り込んだ。 特別車両になっていたため座席は十分にあった。 高茶屋駅 (紀勢本線) での停車時間は短かく、乗り込むのが精一杯であり見送りに来た人達と話をする暇もなかった。

 夜行列車である。 座席に一人掛も出来る。 座席と座席の間に衣嚢を置いて身体全体を伸ばした。 その日の疲れもひどくすぐ眠ってしまった。

 夜中の12時過ぎふと目が覚めたとき、「名古屋、名古屋」 という駅の放送が耳に入って来た。 そして間もなく発車のベルが聞こえていたが後はまた眠ってしまった。 どこに行くのか皆目我々には判らないままであった。

 夜が明けた。 見える車窓外の景色は芋畠が続くだけであり、このあたりがどの辺であるか見当もつかない初めての地であった。

 それからいくらか時間が経って小高い丘の上に、花崗岩で出来た観音様の像の首から上の部分だけが見えてきた。 その観音様を真横に見て列車はしばらく停車していた。 駅名は判らないが20期の連中が 「おおふな」 だと言っていた。

 やがて再び列車は走りだした。 ここらの畠もやはり芋畠ばかりであった。 そして鎌倉、逗子と駅名が過ぎた。 どうも横須賀に向かっているらしかった。

 「次の駅で降りるぞ、下車準備」

 引卒の士官の命令がかかった。 停車時間が少ないので素早く降りてしまわなければならないため、列車の停車しない前から衣嚢を自分のすぐ横に立てて下車の用意をし、停車するのを待った。

 列車は停止し下車した。 プラットホームの柱に掲示してある駅名は 「たうら」 と書かれてあった。 駅の辺りを見回すと何と殺風景なところだと感じた。 改札口を出ると大きな倉庫と高い塀が自分達にのしかかって来るようなところであった。

 「この先には迫浜海軍航空隊があるんだ。」

 とこの辺りの地理に詳しい誰かの言うのが聞こえた。 私の心の中でそうか迫浜に行くのか、と憶測した。 追浜と鈴鹿の両航空隊は海軍航空廠がすぐ横にあるため、特攻兵器は航空機に関連あるものと推量したのであった。 しかし、迎えの車両等が全然来ていない。 変だなあと思った。

 すると引卒の士官が 「衣嚢を担げ」 と命じた。 肩に衣嚢を担ぎ、4列縦隊で行進した。 肩の衣嚢を二度ほど担ぎ変えるくらい行進したとき、列は止まった。 その目の前に青銅を鋳造して作った門標に 「海軍水雷学校」 と書かれてあった。 この学校に来たのである。

 魚雷だ、人間魚雷なのかと咄嗟に考えた。 出迎えは皆立派な海軍士官であった。 着くまで一向に判らなかった任地はこの水雷学校であった。

 我々はこの学校の学生舎に案内され、ひとまず学校内における簡単な規則などの説明を受け、あとは荷物類の片付けや整理を行なった。

 学生舎は海軍士官専用の建物であり、我々はこの学生舎の一部に居住することとなった。 そして特別訓練を受ける者は学校側の下士官兵と隔離するため烹炊所も学生舎内のものを使用した。

 まずここでの生活の中で予科練と違うことは、班長がいないこと、兵曹長が我々の世話をしてくれることであった。

 午後になって、これからの訓練等における指導官が紹介された。 藤川大尉、香西少尉ほか尉官3名、准士官4名であった。 ここで初めて、我々に特殊兵器なるものが発表されたのであった。
(続く)