再び、ルソン海峡に向けて (承前)
停泊していた環礁を出るとながめは一望して広い海原となった。 行く手にルソンの北端の山々が見える。 素晴らしく遠くまで視野が伸びた。 丁度、春景色を思わせるように紫の霞のようなものがかかっていた。
もうこの海はバブヤン水道であろう (たとえこの海がバシー海峡であったとしても、バシー海峡とは考えたくなかった)。 この水道を過ぎれば、敵潜水艦の餌食になることも半減する。 それは水深がぐっと浅くなってくるからだ。 護衛の飛行艇のいるうちに早くルソンの北端に辿り着きたいものだ。
幸いにも海は静かであった。 先日、敵潜水艦の荒れ狂った海と同じ海、時化てものすごく荒れ狂った海、そうした同じ海、海はこうも変化の激しいところか。 海の表情のこうも変わるのには今更ながら驚かされるのであった。
8ノットの老船は何の変哲もなくゆっくりと、しかも蝸牛 (かたつむり) のごとく進むだけであった。 はやるものは人間の心のみ・・・・、「神福丸」 はむしろそんな我々の気持を諭すかのようにも見えた。 ただ運を天に任すのみとはこのことをいうのであろうか、まさにそれ以外考えられるものは何もない。
約4時間航走した。 すぐそこにルソンの北端が来た。
「左前方の岸辺に、大型船1」
私は船橋の誰にも聞こえるような声を出した。 倍率の大きい双眼鏡でその船から何か新しいことが、と食い入るように眺めた。 1隻以外には何も見えない。 今のところ人の姿もまだ認めることのできないほど遠い。 時の進むほどに新しいことが分かる。 同船は
「停止の模様」
「錨を打っている」
「約20度ほど傾斜している」
左前方にあった同船が30分も経つと、ほとんど「神福丸」の船首になった。 この辺りは潮流が大分速いようであった。
その船までの距離は、もう1,000mもない。 段々近づく、すると船首の船体に浮き彫りにされたネームがあり、「安国丸」 (前出) と書かれてあった。 なお黒塗りの煙突には日本製鉄のマークがあった。 私はこの船が1万トンもあるのではと思った。
(最近、ある資料によれば、5,800トン、昭和19年12月7日沈没、ポチドール沖となっており、我々と同じ船団の1隻であったことが分かった。)
甲板上に人が出てきた。 手摺につかまりこちらを見ている。 だがその船にいる人影は船員だけのようでまばらに見えるだけであった。 恐らく敵潜水艦の攻撃を受け、全く航行ができなくなったらしい。 ピーンと張った錯鎖がやっとその船体を支えているように見えた。
「神福丸」 はできるだけこの船に近づいたが、色々と船の状況を聞いてやる余裕がなかった。 大型船の側では救援に来てくれたものと思っていたのだろうが・・・・。
戦場においてはこのような味方同志の薄情がよく通用するようである。 こちらは大任を帯びているために、とにかく急いでいる。 こんな所でまごまごしているとお互い、2隻ともお陀仏になってしまう。
悪いが御免よ、と口にこそ出して言わないが相手に同情を寄せる心は皆同じである。 それが証拠に皆の目は可哀想にと言わんばかりの瞳で、じっと 「安国丸」 に視線を投げ掛けていた。
「神福丸」の久保船長は、「安国丸」 へ手旗信号を送った。
「御健闘を祈る。」
いとも簡単明瞭であった。 戦争中幾多の危険と困難を克服し戦い続けてきた船長である。 相手船長もまたしかりであろう。 これが精一杯の真心を込めた激励であり、老船長の優しさを表す言葉でもあった。
護衛艦側では1隻の駆潜艇をしばらくそこに残し連絡を取らせるようでもあった。
もう陸岸もすぐそこになった。 今まで長時間護衛してくれた飛行艇も任務終了を我々に知らせるかのように比較的高度を下げ上空を通過し、左旋回、右旋回を繰り返した。
もうこれでお別れか最後は大きな機体を左右に振るバンクをして、ふわり、ふわり高度を上げながら北に針路をとった。 見る見るうちに小さくなっていく。
飛行機と我々、まだ私の心の中にあったパイロットとなる夢をこの飛行艇は奪い取って去ってゆくかのようであった。 やがて点となり、更に更に小さくなっていつ消えたともなく青空に吸い込まれていった。

