2010年11月26日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (61)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 毎日鉄船の船倉の中で野郎ばかりの雑居した生活、そして荒海と敵潜水艦の恐怖と闘い続けてきた現在、そうした中にあって、今こうした雰囲気は私自身にとってまたとない平和の一瞬であった。

 少女のお父さんは高雄警備府で働いているとのことであった。 少女はハンドルに手を添えて歩く。 私は自転車の荷台に軽く手を置き押してやるように、木下は私のすぐそばを歩いていた。

 約5分ぐらいの同道であったろうか、彼女は気持の明るい心の優しい子で (特にそのように私の心にだけ写ったのかも ・・・・)、彼女は時折り私と木下を笑わせることもあった。 冬の陽は西に傾けば落ちて行くのも早い。 そろそろ彼女と別れなければならないところに来た。

 「私はこちらの道に曲がって行きますから、兵隊さんお元気で、さようなら ・・・・」

 と丁寧なお辞儀をして、自転車に乗った。 そしてペダルを強く踏んでスタートした。

 だが私は荷台に当てていた手をしばらく放さず一緒に走った。 どうして手を放さなかったのであろう。

 私には少々意地悪な気もないではなかったが、私としても恋を知らないやぼ天でもない。 急に冷たい元の生活へと変わろうとしている運命へ抵抗をしようと、だから私は荷台を持ったその手をしばらく放さなかった。

 女性を交えての我が青春の1ページ、「俺も男の子である」 という意識もある。 咲かずに終わる青春の花、僅かながらも得たこの和やかな雰囲気を誰が引き裂いてしまうのか ・・・・。 少しでも長く、私は彼女にいてもらいたい。 そして彼女と私達は青春の語らいを続けたいと欲するのであった。

 なおも彼女の乗った自転車の荷台に手をやりながら一緒にしばらく走った。 こんな気持のある自分は、まだまだ精神力の弱い、弱い軍人なのか。

 そうなのかも知れない。 だからといって、これからの自分の人生 ・・・・ 決戦場に向かい、敵と相刺し違えて死ぬ決意のほどは些かも変わってはいないのだ。

 そのことについては何一つの矛盾も、疑問も抱いてはいない。 そのような胸中にありながら ・・・・ やはり私も人間であるのか、センチメンタルな心情を捨て去ることはできなかった。 如何にも “女性を恋する年頃” であったからだ。

 背後から木下の声が耳に入った。

 「おい、手を放してやれよ。」

 私は、ハッとして思わず手を放した。 少女は後を振り向きニコッと笑い、「さようなら」 と言って元気よくペダルを踏み、私達2人を残して去って行く。 時折り振り返り片手を挙げる。 私と木下はその都度、それに答えきように手を振って返した。

 少女の姿は間もなく道の途中で左折し消え去ってしまった。 アカネ色になった空は実に美しく、また変わって行くのも早かった。 私の心の中は恰も1本の細いローソクに灯された火が吹き消されたような感じすらしないでもなかった。
(続く)

2010年11月27日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (62)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 しばらくして、木下が何やら私の耳元で言い始めた。

 「いよいよ戦地への出発だなあ!」

 とっさに見た彼の顔に、何だか浮かないようなものを感じた。

 「お袋はどうしているだろう。」

 と彼は言って後は黙ってしまった。 木下は愛媛県の出身であった。

 そうだ、我が部隊で木下のほか四国勢の同期の桜は6名いた。 彼等は横須賀を発ち、門司、三池、基隆と経由し今高雄に来ているが、その間 (決死隊員を志願してからも含めて) 彼等以外の者は何らかの形で郷里に帰るとか、また肉親と面会をするなどのことができたが、彼等四国勢にとっては誠に気の毒なことで時間的にその余裕が全くなかったのである。

 その他にと言えば、我が隊 (安田隊) に秋田谷がいた。 彼の両親は樺太 (現在のサハリン) にいることを彼から常々聞いており知っていた。 だから秋田谷に対しては外出時一緒に行動するなどして私なりの方法で気を使ってやっていたが、木下の今の言葉は全く突然であった。

 木下の心の中が瞬時ながら分かり過ぎるほどに理解もできる。 まるで我が胸に刃でも突き刺されたような感じすら覚えるのであった。 彼が可哀想であり、不憫さが一度に込み上げてきた。

 それに引き換え、自分は幸せ過ぎるほど恵まれていたと言えよう。 もう今となってはどうすることもできないことである。 彼に同情はするものの、幾ら私が慰めの言葉を彼に言ってやってもどうにもならないことを私は知っていた。

 「お前、四国だったなあ。」

 と私は、ただ一言だけ彼に返した。

 辺りは、かなり薄暗くなってきた。 空にはいつの間にか一番星、二番星と煌めく星が多くなっていた。 こうして木下に同情を寄せるとともに、私はロの中でゆっくりした調子をもって、しかも哀愁を込め

        更けゆく秋の夜   旅の空の
        侘びしき思いに   一人悩む
        恋しや古里      懐し父、母
        ・・・・

 歌と交錯しなから頭の中には 「これで俺も童貞で終わるのか。 俺だって男だ。」

 歌詞を全部覚えていなかったので途中からハミングとなったがしばらく続けた。 時も、光景も、心の中も皆、曲にピッタリとよく調和がとれ、心憎いぐらいであった。

 今の自分は、身も心も生れながらのそのままで汚れを知らぬ人間だ。 この身の潔白さにおいて他の誰にも負けない自信はあった。 またこんな姿で死ぬことは自分ながら一種の誇りでもあった。

 だが何を隠そう、ある一面では自分の人生の中に何か物足りぬ侘びしさのある事実を拭い去ることができなかった。

 私は急に歩調をとり、靴の踵をカツ、カツと鳴るほど活発な歩き方に変えた。 すると、木下が 「お前、どうしたんだ」 と横から言葉を掛けた。 それは、我ながら他愛ない仕草ではあったが、自分の心を励まし、また木下の気持を瞬時ながら反らせるためにした動作に過ぎなかった。

 元々私はひょうきんなところがあり、幼い頃よく家族の者を笑わせたが、何の意味があろう。


 船に帰り着いてしばらく経ち、船倉内の居住区が騒がしくなった。 それは高雄海軍警備府内の先任警衛伍長室に我が隊の搭乗員を拘束しているので身柄を引き取りに来いということであった。

 その時、帰船時刻の門限も迫っていたが、調査の結果末帰船の搭乗員が14、5名あった。 既に帰船したある基地隊員の話では、昼間巡邏に引き連れられた搭乗員達を街で見掛けたとのことであった。

 木下と私の2人が帰船した時、既に警備府から連絡を受けており、当隊の先任下士官がこれらの者を貰い下げに行っていたようであったが、埒があかず部隊長を寄こせということになったようである。

 結局は部隊長自身の出頭により、拘束搭乗員の引き取り騒ぎは落着となった。 拘束の理由、海軍服装規定に違反したかどによる。 即ち半長靴 (飛行靴) をみだりに着用、しかも外出時にも関わらずということであった。
(続く)

2010年11月30日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (63)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団出撃命令を待つ一時

 高雄に着いて間もなくマニラ向けの船団が一つあったが、この船団は高速船団であったため、足の遅い 「神福丸」 はその船団に編入してもらえず (注) 、この後の船団に回されてしまった。 初め係船ブイに係留のままであったが、4、5日経って岸壁に移動した。

(注) : 「第1海上護衛隊戦時日誌」 によれば、「神福丸」 が高雄に入港した11月23日に輸送船11隻及び護衛艦10隻よりなる船団 (船団名不詳) が、11月30日には輸送船2隻及び護衛艦7隻よりなる船団 (船団名不詳) がそれぞれマニラに向け出港しています。 この2つのどちらかが該当するものと考えますが、詳細は不明です。


 今朝、高雄軍需部に行った者が糧食等の他にどっさり慰問袋と慰問品を受領してきた。 その中には蓄音機、いわゆるレコードプレーヤーがあった。

 私達は空襲に備えての立直を終え船倉に入った。 ところが、甘い、甘い女性の歌声か聞えてきた。 それは全く予期しなかったことであり、初めは誰かが声色で女のような声を出して歌っているのだとばかり思っていた。

 そろそろ一人や二人頭のおかしくなるのが出現しても不思議ではない、そんな今日この頃でもあった。

  南から南から、 飛んで来た来た渡り鳥
  うれしさに、 楽しさに、
          富士のお山を眺めてる
  あかねの空、 晴れやかに
  昇る朝日は美しい、 その姿、 見た心
          ちょっと一言聞かせてね

 と大体こんな歌詞であった。 久し振りに聞く女性の歌声。 今日この頃は男ばかりの、しかも緊張に緊張を重ね、ぎすぎすとした日常の生活の中にあって、この歌声ほど我々の心の中に和らぎを与えてくれるものはなかった。 そして今までの嫌な思い出を洗い流し全てを忘れさせてくれるかのような、それはそれは不思議な力があった。

 他に軍歌調の堅い歌も幾つかあったが、そんな歌は口ずさみ、覚える意欲さえ起こらなかった。 皆はこの歌をすぐに覚えてしまい口ずさむようになった。 媚薬にでも酔わされたかのようにという表現は少々大げさであろうか。

 これから俺達の向かう南の国は、さも素晴らしい所であるかの如くに聞えるのであった。 そしてこの歌は一刻も早く南方の前線へ行きたい我々の心を揺さぶるのであった。

 この歌から受ける南の国のイメージは明るく、皆は妖術にでも掛けられたかのごとき心持すらするのであった。 それは戦場へ向かう中での平和で静かな1ページでもあった。

 意外に多くの日数を費やしてしまった船旅、いつ目的地に着くのか分からない現在である。 もう一息というところにあることは事実である。

 その頃の日本軍側の情報は直接自分達の耳に入ってこなかったが、益々敗色は濃くなりつつあることは感じ取れていた。 我々が早く前戦へ行って敵艦隊に打撃を加え劣勢を挽回しなければと気は焦るばかりであった。

 一旦決意したこの意志を容易に曲げるような我々ではなかった。 真っ直ぐに目的に向かって突き進む我々、護国の鬼となるべく勇往まい進の気性は、益々燃えてやまなかった。

 がしかし、我々個人の一人一人はこうした反面、実に気の優しいやつばかりであった。

 慰問品の中には野村胡堂著の 「銭形平次捕物帖」 などの本があったが、私は本を読む気になれず、ただページをペラペラと捲り、一部分を拾い読みするのが関の山であった。
(続く)

2010年12月01日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (64)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団出撃命令を待つ一時 (承前)

 安田兵曹長、彼は私の直属の上官、詳しく言えば第12震洋隊安田隊の隊長である。 彼のことについては既に述べたこともあるが、彼は毎夜の巡検時、必ず自分の部下の一人一人の健康状態をつぶさに見て回ることを1日として欠かさなかった。 これは簡単なようでなかなかできることではない。 したがって部下も非常に彼を信頼していた。 彼はすべて卒先垂範をもって部下に示す型の軍人であった。

 ある日、私はラッタルを滑り降りるようにして来た彼と通船ダビットのある甲板で行き合った。 その時、彼は私に

 「士官室の私の部屋で待っておれ。」

 と言った。 今日も上陸外出が許され、過半数の者は不在で、船内はガランとして静かな状態のときであった。 私は他にこれという用もなかったので、すぐ彼の部屋へ行った。 扉をノックしたが誰の返事もなかった。 そのまま中に入り彼を待つことにした。

 船の古いこともあってか名ばかりの士官室で、丸い小さな舷窓が一つあったが暗く煤けたような汚ない小部屋、畳2枚とわずかな板敷、畳はすり切れい草が2〜3本浮き上がって、今にも床の藁が出てきそうな感じであった。

 部屋の隅には 「安田」 「藤田」 と銘の入った行李が置いてあり、長押 (なげし、日本建築で柱と柱を繋ぐ水平材のこと) 替わりの板に無造作に打った釘、それに軍帽、2本の白線のついた戦闘帽と皮ベルト付きの短剣が掛けてあった。

 壁の上半分は鉄板であとの部分はベニヤ板と羽目板といった造りで、そんな暗い部屋の中を少しでも明かるく見せようとするのか、羽目板と鉄板との境界の桟 (さん) の上に 「さくら」 と 「ひかり」 の煙草の箱が交互に並べて置いてあった。

 しばらくして、彼がこの部屋に戻ってきた。 彼は白い陶器の大皿に炊りたての南京豆を持っていた。 香ばしい南京豆の臭がぷーんと私の臭覚を震わせた。

 「おい、食べろ。 大分待たせたな。」

 と言いながら畳の上にドスンと腰を下ろした。 彼は座るやいなや10粒ぐらいを1度に鷲掴みにし、ぽいと口の中へ放り込み食べ始めた。

 「南京豆とは珍らしいですね。」 (どこから彼は手に入れてきたのだろう)

 と私が言うと、元々色の黒い彼が、更に日焼けした顔をニヤリと綻ばせ白い歯を出して笑って見せた。

 旨そうに食う彼を私は見とれていた。 彼は、そら食へよと言うように大きな目で目くぼせをした。 彼の年令はまだ30前ではあるが、目尻にしわが多かった。

 更に彼がふた口、みロやった後私も口に豆を放り込み、彼に負けないように久し振りの南京豆を味わいつつ食った。

 横須賀を発つ数日前、第12震洋隊の攻撃隊員は彼の引率で宮城と靖国神社の参拝を行った。 その時、靖国神社の境内で一時解散があったが私は神社の横にあった記念館内を見物していて集合時刻に遅れたことがあった。 この時の彼は、遅れてきた私に向かって

 「靖国神社の前で時間を切る (時間に遅れること) とは何事だ!」

 と叱ったのである。 彼は誰かと待ち合わせをしていたらしく、それで時間をとても気にしていたようであった。 一旦集合し、後はすぐ自由解散となったのに ・・・・ と、どえらく叱りつけたその時の彼の顔を私は忘れもしなかった。

 そんなことをふと思い出しながら、今は別人のような彼と私は南京豆を食べ続けた。 彼は突然、

 「お前、煙草をやるのか。」

 と言って私に煙草を勧めたが、私は首を横に振り断った。

 これまで直属の上官とは言え、特別の作業がある以外個人的にしろほとんど彼と膝を折って話をするようなことはなかった。 これまた不思議と言えば不思議な上官と部下であった。
(続く)

2010年12月04日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (65)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団出撃命令を待つ一時 (承前)

 私はこの時、ただ黙々として南京豆を食らうだけでは芸がなさすぎると思い、彼に震洋艇による突入時のことについてついロを開いてしまった。

 「艇隊長、自分の艇が完全に目標を捕え、攻撃針路に入り舵を固定、全開したスロットルレバーも固定、撃突間違いなしの状態であれば、必ずしも艇とともに自爆するに及ばないでしょう。」

 「 ・・・・ 」

 彼は黙ったままであった。 更に私は話を続けた。

 「自分は、このように首尾よく敵を捕捉攻撃できた場合、何度でも震洋艇に乗って、機会あるごと攻撃に参加することを考えますが ・・・・」

 と言った。 すると彼は

 「そんなことができると思うか。」

 と軟かい口調で言って返した。 そして続けて

 「敵は必ず防戦してくる。 その中を突っ込むのだ。 それに100mや1501mぐらいの距離で、例え艇から脱出ができたとしても、生きておられるかが問題だ。」

 と言った。 彼は既に実戦の体験も豊富な古武士であった。 多くの戦闘を経てきた故の考えから話をしていた。

 それは〇四兵器が敵艦船に命中した時の衝撃により、例え海中に乗員が脱出しえたとしても腹などに水中発傷、いわゆる腸の切断等の傷害を受け、助かることはほとんど稀なのである。

 「後から、脱出した生残者を我が方の魚雷艇が収容しに来ることだが、それはあくまで言い訳だよ。 そんなことができようはずがない。」

 ときっぱり私の意見をはねつけた。 別に私の考えは死を恐れての発言でないことは彼も十分承知していた。 私はただ七生報国の精神に基づく考えであり、決して無闇に死に急ぎをすることはないと考えるだけであった。 彼はしばらく間を置いてから

 「そんな考えはかげだ。」

 と言った。 かげそのものの意味が何のことであるのか理解できなかったが、それは宗教的な意味のある言葉に違いないと直感はあった。

 彼は私にお前の考えは卑怯だと言うのでもなかった。 彼はそのことを言った後は腕を組み、大きな目は閉じ、そして座禅中を思わせるように背筋をぴんと張っていた。

 彼は米軍が作戦行動を起こすとき、日本軍側とは問題にならないほど多くの艦船を注ぎ込むことを知っているようであった。 彼は目を閉じている間に過ぎしある戦闘の場面を思い浮かべていたのではなかっただろうか。 彼は目を閉じたまま口を開いて

 「その時になってみなければ分からんことだ。 何度もか? そんなことができると思うか。」

 と語尾は強く、それは私を諭すように言った。 既に幾つかの戦闘に参加した者と、まだ一度も戦闘の場に出たことのない者との考えとでは格段の差があった。 しかし、その時私はまだ自分の考えの甘さが分からなかった。

 もうそんな堅い話、深刻な話はよせと言うのか突然彼は立ち上がり、部屋の隅の戸棚から葉書を四つ切りにした程度の印刷した紙の束を取り出し、私の前に差し出しながら

 「これを使う者があれば配ってやれ。」

 と言って私に手渡した。 皿の中の南京豆はもうどれほども残っていなかった。 私は彼に

 「ご馳走様でした。」

 と礼を述べ部屋を出た。 彼はコクンと首を前に曲げて会釈した。

 彼から手渡された紙片には “〇〇〇優待券” と大きな赤い字で印刷があり、他に小さな字でゴチャゴチャと書かれてあったが、私はその券は映画か芝居の招待券かと思い、それを確かめずにクラスの者に渡したのである。 私は戦後になって、その優待券がなんの券であったか気付いたような始末である。 その時の彼は私に、そんな難しいことを言わずに少しは社会勉強でもして来いと言いたかったのかもしれなかった。

 もうとっくに、我らの戦いは肉弾一撃あるのみと覚悟を決め切っていた彼は、この機に及んで生をとるか、死をとるかというような野暮な考えも、哲学めいた論議も既に望まず、また必要としなかったのであろう。
(続く)

2010年12月05日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (66)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 いよいよマニラに向けて

 12月4日、待ちに待ったマニラ向けの船団 (注) に伍して、再び苦難の航海に挑むことになる。 最後の日本領土 (台湾高雄港) から離れる日となった。

(注) : 当該船団については 「タマ34船団」 と考えられますが、詳細は不明です。 「第1海上護衛隊戦時日誌」 も何故かこの昭和19年12月分がありませんので確認できません。


 高雄停泊は10日足らず (まま) ではあったが、これということも起こらず全くのんびりとした日々であった。 この間我々は十分な休養も取りすっかり頬の筋肉までが緩んでしまったような感じさえするようであった。

 出港準備もすべて完了した。 港内での風は意外に強く我々の頬を横なでしていった。 風もさることながら今までの緩んでいた気持も岸壁に取っていた舫索が1本、1本と外されていく、その度に以前の緊張した気分に戻っていった。

 岸壁と船の間が次第に離れていく。 最後の1本の舫索が岸壁側のボラードから外され、輪になったマニラロープのエンドの部分がボチャンと大きな音をたてて海面を叩いた。 そして蛇が水面を泳いでいるような格好でスルスルと船に跳び込んできた。

 陸地との縁が全く切れて 「神福丸」 は静かな内港の海の上をゆっくりと滑るように動き始めた。 いよいよ日本とサラバである。

 これまで各港を発ち、去るに際しては時と場所によってそれぞれに違った形の離別感があったが、しかし、この高雄港での出港は二度と再び日本に戻ることができないという感じが極端に強く、日本の土地から永遠に去ってしまうという特別な感情が一層の切実さを加わえ身に染みて感じる一面もあった。

 だがその離別感は決して女々しさからくるものではなかった。 それは我々特別攻撃隊員の誰もが心底から願う “日本の勝利” “日本国の永遠の栄” と “日本民族の生存” をただ祈ってやまなかったからであった。 “必ずや勝つぞ!” と ・・・・。

 日本との決別は、我々の任務の決行と死期が真近に迫り来つつあることを併せ意味するものであった。 こうした我々の出立を今見送ってくれる人は誰一人としてなく、ただ物言わぬ台湾の山河が暖かく見送ってくれていた。

 我々はじっと甲板上に立って四周を眺めたり、また一点を見詰めたりするのであった。 「はるかなる郷里の父母、兄弟姉妹よお達者で ・・・・」 とこんなことを祈っているのかもしれないが、皆の気持を私は知ることができなかった。 今では覚悟は十分過ぎるほどにできており、今更何の未練もなかったもののやはり我々は生身の人間、さすが心の弱さまでは捨て去ることができなかった。

 幾度となくこうした試練に立たされる運命をむしろ憎いような気すらした。 誰の顔を見ても口元が更にキリリと引き締まっていた。

 高雄港外に出るところはぐっと狭くなっていて、その狭い水道を抜けると外洋で南シナ海に続いている。 先に出港した大型船や護衛艦艇が掃海水道を出た沖合で船団の制形を待ち漂泊していた。 船団での配備位置が中央列 (船団の隊形は3列縦隊) の最後尾ということもあって 「神福丸」 の出港が一番最後であった。

 「神福丸」 が指定された船団の位置に着くころには既に船団基準船から 「船団部隊出発」 の信号旗が降ろされ発動となった。

 船団護衛のための護衛艦艇も今ではかなり少なくなったようである。 この船団の護衛艦の中で一番大きいのが駆逐艦 「呉竹」 (排水量824トン、2等駆逐艦、大正11年建造、一時現役から退いていたがこの第2次大戦によって再役、第1護衛隊に所属、我々のこの船団を護衛し、その後間もなく昭和19年12月30日バシー海峡において米潜の攻撃により沈没した) であり、駆逐艦はただの1隻であった。 「呉竹」 を除けば後は駆潜艇2隻と駆潜特務艇 (木造) 3隻からなりまことに虚弱な護衛部隊で、これら船団部隊の指揮を 「呉竹」 が執った。
(続く)

2010年12月06日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (67)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 いよいよマニラに向けて (承前)

 昨今の敵潜水艦の恐怖に対し余りにも劣勢な護衛部隊の内容は、大任を帯びて決戦場に向かう我々に 「何と頼りない」 という不安感を与えたことか。 果たして目的地に無事着くことができるのであろうかと ・・・・。

 フィリピン方面の戦闘も “レイテ危うし”、米軍の猛反撃は正に怒涛のごとき勢いとなって押し寄せていた。 我が日本海軍の主力も、昭和19年10月の末に行われた 「比島沖海戦」 において決定的なまでの大打撃を被り、あわや壊滅寸前に近い損害を受け、打ちひしがれてしまったのであった。

 比島沖海戦以後、台湾方面及びフィリピン方面、いわゆる南シナ海全域における制空権及び制海権は完全に連合軍側に移り、今や米機動部隊及び米潜水艦の独壇場と化してしまった。 したがって、この船団の行く手は必ずしも楽観できるものではなく、ルソン海峡の突破も容易な情勢ではなかった。

 我々は今 「神福丸」 だけに命を託して運をただ天に任せて、目的地であるフィリピンのある基地に向かって進みつつあった。

 ある基地という表現をあえて用いたのは、刻々と変わってゆく戦況下にあって、大本営が当初計画していた我が第12震洋隊の前進基地 「ミンダナオ島ダバオ付近」 は既に敵側の “レイテ攻略作戦” における機動部隊の行動圏内になっており、この地への進出は不可能となり、当然変更されることに間違いなかったからである。

 こんな状況の中での南シナ海突破は容易なことでないことは私達若輩ですら判断できるところであった。 それにしてもこのような虚弱な艦艇の護衛でルソン海峡を乗り切ることができるだろうか。

 もしも敵潜により 「神福丸」 もろとも沈められるようなことになれば一体どうしてくれるんだと、我が方の手薄な護衛力に我々の身体にある血が煮え繰り返えるような思いであった。

 この船団の7隻のうち、果たして何隻が無事マニラに、またマニラと言わずせめてルソン島の北端へでもたどり着くことができるであろうかと、ただ幸運を祈るのみであった。

 もうこのときにおけるルソン海峡の横断は日本船団の決死行となっていた。 我々の比島進出は至難の業となったのである。 幾重にも巡らされた苦難を我々はただ黙々とかいくぐり目的達成のために進まなければならなかった。 猛威を奮う敵潜の前にあっては、正に 「飛んで火に入る夏の虫」 同然の我々であった。

 台湾南端 (ガランピ岬) からルソン島北端まで200マイルであり、その間にはルソン海峡 (バシー海峡、バリンタン水道及びバブヤン水道) がある。 日本海上輸送部隊は、この海峡を渡らねばフィリピンに援軍と必要物資を送り届けることができないのであった。 悲しいかな、我が方にあっては惨事の必ずや起こることを知りつつも、この道の強行突破をあえて試みなければならなかったのである。

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 他にシナ大陸・仏印 (ベトナム) の沿岸を迂回航行する手段はあったが、危険率においては50歩100歩であり、やたら遠回りをするだけで余り効果と期待は持てなかった。 戦局は切羽詰まっており既に日本軍側には迂回したりなどする時間的な余裕は少しもなかったようである。

 この船団7隻のうち、5隻の大型船には関東軍部隊の将兵が満載に近い状態で乗船しており、比島戦線へ急行していたのであった。 この兵力の着くのを日本軍側はどれほどに期待していることであろう。

 護衛を担当する部隊にしても、この全兵力を無事フィリピンに届けたかったのであろう、高雄−マニラ間のピストン護衛作戦を連続して行い、今ではもう疲れ果てていた。

 船団の全船は、我が 「神福丸」 の速力に合わせてしずしずと進む。 空は晴れたり、曇ったりしていたが南東の風は相当強くなっていた。 ガランピ岬が目前になった。 岬の南側は相当大きなうねりがあり、岬に当たって砕け、変化の大きい潮目となっていた。

 潮目をよ切ってからは 「神福丸」 もこのうねりに乗り、大きな動揺を始めだした。 冬期におけるルソン海峡特有の大時化の中に入ってしまったのである。 船団の後方についていた護衛の駆潜特務艇がうねりに全く翻弄され、その船体が波間からたまに見えるような状態となってきた。

 各船の距離は 約1,000mであった。 本船のすぐ前を行く大型船ですらうねりに翻弄されるようになり、大うねりの中に隠れ、あるときはマストの上部をわずかに見せることもあり、ガバと巨体をうねりに持ち上げられこちらからは仰いで見るようなこともあった。

 船団部隊はもみくちゃにされ敵に対する備えどころか自然の猛威の前にはなす術もなかった。 正に生きんがための苦闘が操り返されて、そんな中で私たちは船橋の大双眼鏡にしがみ付き、常に基準を水平線に置き、動揺に合わせ片時も目を海面から放さない苦難の見張りを続けたのである。
(続く)

2010年12月07日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (68)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 いよいよマニラに向けて (承前)

 当直勤務でないときは、気が張り詰めていないためか、この大時化には勝てず船酔いでぐったりとなってしまった。 もう我慢もできず、外舷に行って、何度も何度も「ゲェー、ゲェー」 と口の中に指を入れて思い切り胃の中のものを吐き出してやった。 もう胃の中から出るものがないのか、黄色い酸っぱい胃液であった。

 鼻から目の方へその液が回ったのか、目から涙、鼻から鼻汁、口からよだれ、こんな苦しい体験は過去に全くなし。 手で口を中心に額半分を横にプイと拭った。

 バウに当たったうねりが砕けて泡となり見事なブルーの海を掻き交ぜる。 不意にポンと私の肩を叩いた者がいた。

 こんなところを他人に見られまいとする自分にもプライドがあり、人目につかないところでやっていたのだが、私は半分空ろな目をし首だけを半分回して振り返えると、同期の大寺が、「口直しに、これでも食わんか」 と鹿児島弁混じりで、よく熱したパパイヤ1個を私の目の前に差し出した。

 見るからにうまそうなパパイヤ、「有り難う」 手にするやいなや、私はそれをガブリと一息に食った。 ところが、そのパパイヤの味の妙なこと、変な臭いがした。 もう出ないかと思ったゲーがまた続いて出た。

 その苦しいこと、散々な目に合ってしまったのである。 戦友の思いやりが裏目に出てしまった。 だが戦友とはいいものだ、物陰からじっと私の苦しんでいる姿を見て哀れに思ったのであろう。 なんと優しいではないか。 私の苦しみを少しでも和らげてやろうと ・・・・。

 そんなことがあって以来、私はパパイヤを口にすることは全然やめてしまった。 後にも先にも私は “南国の珍味” 果実パパイヤを口にくわえただけであった。


 長い時間揺られているうちに船酔いは幾分和らいできた。 このうねりの中でもう一つおかしな話がある。 船の後部に外舷から外側に張り出して我々の使用する特設の木製便所があった。 いわゆるバラックで内部の床板の中心部の1枚が抜いてあり、そこから大小便を真下の海へストレートに放棄するのである。 中途半端な室内の高さ、天井が低く首を少し曲げて入らなければならなかった。 話はこの特設便所の中での出来事であった。

 抜いてある床板から下を見ると南海特有の真っ青な海の水と錆くれて赤茶けた船体がよく調和し色彩が鮮やかに映え、むしろ目が痛いくらいであった。 うねりと船の動揺によって海面 (海水) が床板から10cmぐらいまでになったり、また7〜8mぐらいの高さになったりした。

 何も下を見ずに用足しをすればよいものを、つい下を見たくなるのは人間の本能なのか? 水が近くなったとき、そのうち床上までに水が上がってくるのではなかろうかとも思え、そんなとき思わず下げていたズボンを両手でつかんでうねりの周期に合わせ腰を浮かしたり、原姿に還ったり、常に下を見ながらの爆弾投下 (糞尿の投下) をしなければならなかった。

 距離が開いたとき投下すると2、3秒を数えたのち、ポチャンと弾着 (着水) を認めた。 こんな様子の観察は我ながらおかしかった。 航空偵察員のコースを進むべきであった自分の今はしがない爆弾投下練習でもあった。

 ところが人に見せられない運動を数回繰り返しているうち、ポチョン、と意外な弾着があり、落ちたものが違った。 ありゃりゃ! これはどうしたことか、人絹の紐で腰のバンドに結び付けていた 「お守り」 まで投下してしまったのである。 何とついていない男よ! 「お守り」 を落としてしまうとは、全く ・・・・。

 俺には遂に神の加護もなくなってしまったではないか、さてこれからは何におすがりをすれば良いのやら、と一瞬そんなことすら考えたことがあったが、我が輩は何食わぬ顔をして便所から出た。

 ところが自分の頭の中は 「お守り」 をなくしたことが去らなかったのか、5段ほどの木製の階段で足を滑らし尻で一度に降りてしまった。 尾てい骨をしこたま打ってウーともアーともつかぬ奇声を発し甲板上に尻もちを付いてしまった。

 これはまず早々神の祟りがあったのだろう。 転んで咄嗟に辺りを見るあたり、誰かにこんな姿を見られた場合の恥ずかしさがあってのことだった。


 うねりは依然変わらず、いつ治まるのか見当すら付かなかった。 このうねりに駆潜特務艇は全く運動の自由が利かなくなった。 艇はうねりの坂を登ったり、またうねりの坂を下る。 船が坂を登ったり下ったりする光景を見たのはこれが初めての体験であった。

 遂に駆潜特務艇に対し船団部隊指揮官からの指令が飛んだ。

 「クトク ノ ゴエイニンム ヲ トク、 タカオ ニ ムカエ ニウコウゴ シジ ヲ マテ」

 護衛艦艇の数は更に少なくなり、船団後方の護衛は皆無となってしまった。 それにまた嫌な夜が次第に近づいていた。 行く手の空には暗雲が垂れこめ更に夜のくるのを早めたのである。
(続く)

2010年12月08日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (69)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 我々の知らない間の日米両軍の戦況

 19年10月20日、連合軍はレイテ湾正面から上陸を開始した。

 これより先、10月12日から16日までの間に戦われた “台湾沖航空戦“ は日本海軍部隊が大戦果を収めたものと信じ切っていた大本営陸軍部は、10月20日従来のルソン地上決戦方針を変更してレイテ地上決戦を決定したのである。

 この結果、10月末から12月上旬までに南方軍司令部では約2個師団の陸軍兵力をルソン島からレイテ島に送った。

 10月24日から26日の間に行われた 「比島沖海戦」 において栗田艦隊は敵機動部隊に大打撃を与えたものと日本軍作戦指導部では判断、また基地航空部隊による航空撃滅戦も併せ有利に展開中と思われていた。

 だがこれらの判断は大きな誤算であり、大打撃を受けたのは敵側ではなく、実は我が海軍部隊の方であった。

 敵はこの余勢に乗り空、海からの妨害は日増しに募り、レイテに送った我が2個師団の陸軍兵力はその輸送の途上において大損害を被り、レイテ地上戦は遂時日本軍側の不利な状勢となってしまった。

 一方、精鋭部隊をレイテ決戦に抜かれたルソン島の防備は極めて手薄な状態となってしまった。 そこで、この兵力の補充のため日本本土及び中国大陸・満洲方面からの救援を求めたが、これら各方面からの増援兵団は東シナ海、バシー海峡で輸送中の船舶の被害続出に伴いその兵力をほとんど消耗する結果となり、ルソン決戦の戦備までも重大な支障を来すこととなったのである。

 日本水上部隊にあっても、また 「比島沖海戦」 及びレイテ輸送によって多数の護衛艦及び輸送艦船を失った。 「比島沖海戦」 における艦艇の損害は日本海軍の存亡をも危ぶまれる状態にあり、実質的にその機能を喪失してしまった。

 また陸海軍航空部隊もこの戦闘に主力を投入した。 10月20日初めて 「神風特別攻撃隊」 (海軍) が編成され、同月25日敵水上兵力に対し必殺の攻撃を敢行、敵に多大の損害を与えた。

 続いて陸軍航空部隊も攻撃戦力の主体を “特攻“ に置くことになり、海軍航空部隊とともに最も敵側に脅威を与えたのである。

 以後敵側はこれら空からの特攻攻撃に対して対空砲火による防衛を強化したため、我が方は戦果も挙がったが、またそれにつれて航空兵力の損耗も著しく、敵に致命的損傷を与えるには至らなかった。

 一方、米第3艦隊はウルシーで2週間の休養を取り、11月23日再びフィリピン東方海面に出現、ルソンにある日本軍航空基地への徹底的な攻撃を始めた。 これはレイテの北西方300マイルにあるミンドロ島に連合軍を上陸させるための準備作戦であった。

 この戦爆連合の敵機動部隊及び進出基地航空部隊は、連日中部・北部ルソンの我が重要軍事拠点を襲撃したのである。 また同時期ミンドロ攻撃部隊 (陸上戦闘部隊1万2干、航空部隊9千5百、及び同管理補給部隊6千を運ぶ第7艦隊進攻船団) は、スリガオ海峡やミンダナオ及びスル海を経てミンドロ島を目指して出発していた。

 12月に入りキンケイド提督の率いる米第7艦隊は、これに応じ護衛空母6隻を主力とし、その護衛兵力 (戦艦群、巡洋艦群及び駆逐艦群) を伴った大援護部隊を派遣、これと合同した。 その上、これら大部隊を支援するため米第5空軍もレイテから出動することとなった。
(続く)

2010年12月09日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (70)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 魔のバシー海峡

 高雄を出港して約8時間 (約60マイル) もかかってガランピ岬を通過、その台湾最南端のガランピ岬が後ろに遠ざかって行く。 椰子の木であろうか、ビンロー樹であろうか、見えていた木立も段々小さくなり島に吸収され大時化のためはっきりしない水平線の中に消えていった。

 夕方近くになって2度スコールに似た一時的な豪雨が船団部隊を叩いていった。 さすが北緯22.5度北回帰線より南に下がったところは、12月というのに暑い、そして蒸す。

 誰の顔も脂ぎっており、ピリッ!としていた。 どんなことがあってもこの難関を必ずや切り抜けてみせるぞ! という決意に燃えた表情を窮うことができた。 日焼けした顔が一段と男らしくなってきた。

 雨も今はなく曇り空であったが、海上模様は最悪、超大型のうねりは一向に衰えそうにもなかった。


 夜になって、月も星もない、その上、船の燈火も一つとてない全くの闇夜である。 こんな大うねりでは敵潜も雷撃することかできないであろう。 こうした天候は神の加護によるものであろうか?

 こんな時化の中で潜水艦は魚雷を撃ち出すためにはどうしても潜望鏡を海面に出さなければならないだろう。 そうすれば船体が海上にポッカリ露出するに決っている。 それに魚雷も狙ったようには走ってくれないだろう ・・・・ などとあくまで自分本意の当てにもならない憶測などをしてみることもあった。

 この辺りの海は特に夜光虫が多いのか、船のかき分ける波が青白く線状に光る。 だが、今では夜光虫の輝きを見て綺麗だなあ! と感心などするようなことはもうなかった。 このような不気味な輝きが我々を死へと誘う前奏曲になるかもしれないという予感めいたものがあったからである。

 12月4日、午後10時15分前 (注) 、「当直員交替用意」 を次直員に知らせる伝令がブリッジから降りていった。 私も10時で次直に当直を交代し休むことができると思っていた。 日没時からの長い当直と船の動揺のため相当疲れていた。 ヒュウー、ヒュウーと間断なく叫び続ける風の音の中から、次直者の整列の整備を届ける声が微かに聞えてきた。

 自分の当直も後5分間かと密かに思った (少々緊張し切った気が緩む)。 そんなときであった。 私は7倍双眼鏡で見張りしていた。 その目の前 ( 「神福丸」 の右正横) に 「第31播州丸」 (750トン) という名の小型船が並行して航行していた。 距離は2000mはあっただろうか、夜は割合に近く感じた。

 ところがその 「播州丸」 はディーゼルエンジンであったか、煙突から火の粉を出し始めたのである。 それにしても火の粉の出ようが少し多すぎるようであった。 私のすぐ側にいた大橋兵曹長が

 「おい、隣りの 「播州丸」 が煙突から火の粉を出しだしたぞ!」

 「 ・・・・ 」

 「今頃火の粉を出すとボガーンと1発もらうぞ。」

 と言った。 そう大橋兵曹長が言い終わった、その瞬間である。

 「ガ、ガァーン」

 我々の目の前に大輪の紅蓮の炎がパーッ! と弾くように咲いた。 その火炎は我々の頭上をも越えていった。

 闇に慣れていた私の目も急な閃光のため暫くは何も見えなくなってしまった。 やっと見えるようになった時、もうそこには 「播州丸」 の影も形も見当たらなかった。 1発にて轟沈であった。

(注) : 『 The Official Chronology of the U.S.Navy in World War II 』 によると、米潜 「Trepang (SS-412) 」 による 「第31播州丸」 雷撃は 「タマ34船団」 に対する襲撃2日目の12月7日 18゜54'N 120゜49'E とされていますが、本稿では回想録のままとしています。


(続く)

2010年12月10日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (71)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 魔のバシー海峡 (承前)

 束の間の出来事、束の間の気の緩みからきた眠気も一瞬にして吹っ飛んでしまった。 たちまちのうちに船橋の人気も多くなった。

 この驚きは表現することのできないほどの恐怖と緊張とに変わってしまった。 私の全身は軍人精神注入棒で殴られたときのように強ばってしまった。 誰も皆そうであったろう。

 それから立て続けに、右、左で他船が、2撃、3撃の雷撃を受けた (注) 。 今まで真っ暗であった闇の海が、まるで煌々と明かりのついた港を思わせるような情景となってしまった。

 雷撃を受け燃え揚がる僚船がすぐ横にいる。 だが助けてやることも、火を消してやることもできない。 そんなことをしていれば自分もまたお陀仏になってしまう。

 緊急一斉回頭を意味する赤、赤の2連の信号燈が目の前を走って行く。 一瞬ビクリとするがそれは味方の護衛艦である。 燃える炎で光る海を駆潜艇が横切っていく、もの悲しいサイレンを吹鳴しなから ・・・・。 時折 「ズスン、ズスン」 と威嚇のために投下された味方の爆雷が炸裂する。 荒れ狂った海。

 「雷跡をよく見張れ、本船にも来るぞ!」

 と一段大きな声が耳から脳へ突き刺ささるように聞える。 荒れ狂った敵潜水艦、「ちくしょう」 と奥歯をかみ締める以外にもはや我々には打つ手はなかった。

 この明るい海から一刻も早く脱出しなければならない。 身を守る術は暗闇に逃げ込むことだ! 気は焦るが全速8ノットのノロマではどうすることもできない。 その上被雷回避の之字運動を中止することのできない哀れさ。 今はただ運を天に任すのみ ・・・・。 僚船も護衛艦もただ右往左往するだけのように感じた。

 私達は味方艦船の被雷現場に遭遇したのもこれで4度目であった。 何度体験しても平気でおれるものではない。 いずれのときも尻に火がついたような感じであった。

 憎いやつめ、米潜野郎!

 これが戦である。 食うか食われるか。 味方側に水中聴音機なるものも装備はしていたものの、それがどれほどの効果を挙げ得たことか? 米潜に対する事前の防護手段は、まだまだ見張力が何よりもまして一番頼りにし得る何ものでもなかった。

 悲しいかな、我らの行く手はまだ険しい。 待っているのは死だけのように思えた。 バシー海峡、死の海、だが我々は何がなんでもこの海を (この死線を) 乗り超えなければならないのだ。 こんなところで犬死はしたくない。 俺達は生き抜かなければならないのだ。 目的があるんだ ・・・・。

(注) : 当該被雷船舶名などについては不明です。  『 The Official Chronology of the U.S.Navy in World War II 』 によると、タマ34船団に対する米潜 「Segundo (SS-398) 」 「Trepang (SS-412) 」 「Razarback (SS-394) 」 の3隻による連合攻撃は、最初が12月6日で、「福洋丸」 (東洋汽船、5463トン)、「仁洋丸」 (東洋汽船、6862トン)、「山国丸」 (?)、「乾城丸」 (乾汽船、6933トン)、「安国丸」 (日本製鉄、5794トン) 及び 「神福丸」 が雷撃を受けたとされています。 この内 「神福丸」 を除き、「乾城丸」 は翌7日に再襲撃を受けて沈没、「安国丸」 は後に艦載機の空爆を受けて沈没しています。 また 「山国丸」 については日本側の記録にはありませんので不明です。 したがって、この日の襲撃で沈没したのは (先の 「第31播州丸」 の他) 「福洋丸」 と 「仁洋丸」 の2隻と考えられます。


(続く)

2010年12月11日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (72)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 魔のバシー海峡 (承前)

 ある程度時間が経過した。 燃える僚船が右後方になったり、左後方になったりしながら大分遠く離れていった。 被害を受けなかった僚船が今なお闇の中で白くクッキリと浮かび出されていた。 今の今まで空を仰ぐような余裕もなかったが、しょぼしょぼと雨の降っているのに気が付いた。

 誰か知らないが私の背後でブリキ缶を叩き破っていた。 そして、彼は怒鳴った。

 「おい、乾パンだ。 皆食べろ、今のうちに腹に入れておけ。」
 「少しでも艮いから食べろ。」
 「空腹で泳ぐと、保たないぞ。」
 「そら食え、食え。」

 だが、私は後ろを振り向き乾パンを自分から取ることをしなかった。 見張りをしながら片手を後ろへ出すと、誰かがその掌に乾パンを4、5枚の乗せてくれた。 自分の目は常に海を凝視して、雷跡の発見に努めた。

 貰った乾パンを無造作に口に入れた。 水もなかったが乾パンはよく喉を通っていった。 そのとき食った乾パンは格別に旨かった。 心臓の鼓動がいつもより大きく生きていることを自分自身に告げるかのようであった。

 第1撃を受けてからかれこれ30分くらいは過ぎたが、次の敵潜の魚雷攻撃はなかった。 今はシーンと静まり返った海を、「神福丸」のレシプロ機関のピストンの音だけがいやに耳につくようになった。

 右後方に残された2隻の僚船はまだ燃え続け、時々中空に閃光が揚がっていた。 それは積荷の火薬類に火がつき爆発を起こしているのであろう。

 その爆発音も聞き取れないほど、今は距離も離れ遠くなってしまった。 可哀想うに、「私達は先に行きますよ」 とただ被害船が沈没しないように祈るのみであった。

 他人の不幸を目の当たりにして、みすみす見捨て行かねばならないほどやるせない気持ちはない。 「悪いが許してくれ」 助けることができるものであれば助けてやりたいのは人情というものだ。

 かくするうち、「福神丸」 はまた1隻だけとなり独航を開始する運命となった。 どうしてこうも1隻だけが取り残されるのだろう。

 時間の経つのは早いようで遅い、また遅いようで早い、この二つのことが同時に言える矛盾の中で我々はがむしゃらに生きようとしていた。 左舷側で斉賀が叫んだ。

 「左前方に白い船」 「同航の模様」

 私も彼の言った方向をちらっと見た。 まさしくそれは船であり、大型船であった。 先程まで一緒の船団内にいた僚船 (船名不明) であった。

 僚船は速力を落としながら航行し、やがて 「神福丸」 の左正横となり、更に後方へ落ちて行った。 船室に溢れるほどの兵士を債載しているのか、上甲板に蠢く人影も見えた。

 「あの船は一体なにをしているのだろう。」

 僚船の行動がおかしい。 危険な海域であるために他人ごとであるが余計な心配をする。 後に遅れていった僚船は更に遅れ、そのうち船影が闇の中に吸い込まれ見えなくなった。

 私は側にいた前原と宮崎に 「何時だ」 と尋ねた。 前原が時計をしている左腕を高く揚げ、夜光虫の光を利用し時計の文字をしきりと見ていたが 「11時48分だ」 と教えてくれた。
(続く)

2010年12月12日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (73)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 魔のバシー海峡 (承前)

 後部の見張員から

 「先ほどの船がまた近づいてくる。」

 と報告があった。 なるほど、今度は相当スピードを上げていた。 左後方から 「神福丸」 の右舷側に出るような針路をとっている様子であった。

 僚船は大分速力の出る船らしかった。 どんどん追い上げてきた。 闇の中でも目は慣れて、その目に僚船の船体の緑色が入ってきた。 夜光虫の輝きでその船のウェーキまでが見えた。

 いつの間にか船橋には我々の仲間である搭乗員14、5名が集まっていた。 僚船までの正構距離は500から700mぐらいであろうか?

 「今度は俺達を追い越して行くのか。」

 「しかし早い船だなあ。」

 「こちらもあんなに足が早いといいんだがなぁ。」

 とだれかが独り言を言った。 私は、こんなところで変に、もたついている僚船に不吉な予感がした。 やがて 「ガァーン」 と1発お見舞がくるぞと思った、そのときである。

 「ガガン」

 大音響、百雷の絶叫、音が先か光が先か 「神福丸」 までが海面から飛び上がりそうな音 ・・・・。 またもや私の目の前で僚船の惨事が起こった。 もうその瞬間、1万トンに近い大型船は船首を海に突っ込み全身火だるまとなっていた。 (注1)

(注1) : 当該被雷船舶名などは不明です。

 甲板の至るところから人が真っ赤に映えた海へ飛び込んでいる。 その数は ・・・・ 数えることができない。 船の乾舷は相当に高い。 高さも何も彼等は考える暇もないのであろう。

 見る見るうちに真っ赤に焼けた船体がジューと奇妙な音を残しながら、そのまま海の中に。 船の速度も落とさないままであった。 馬の声、犬の声も混じっていた。 僚船の炎で私の顔も熱さを感じた。 あれよあれよと思う間に僚船はねっとりとした海に吸い込まれ船体が消えて行った。

 何とものすごい光景よ! 阿鼻叫喚。 思わず固唾を呑み、ただ合掌するのみ ・・・・。 次は自分達の番だ、「飛び込み方用意よし」 と自分の心に言い聞かせるように、我が方の不幸のときに備えた。

 「よく雷跡を見ろ」 と叱咤激励の男らしい声が飛ぶ。 自分の頬を自分の掌で打って励ます。 敵潜水艦は概略本船の右正接にいることは間違いなかった。

 それから5分ぐらい経った時、「グワーン」 衝撃で首がガタンとなった。 そして上半身が浮き上がり、飛び込み用意の姿勢もあってか危うく海に落ちるところであった。

 「どうした、異状はないか。」

 すごい音、船が何かの上を乗り越えでもしたような音と衝撃であった。 不発魚雷が命中したのである。 船体はうねりの山に乗っていたときでもあり、大きく船首を振った。

 何と幸運な船よ、「神福丸」! その名が示すごとく ・・・・、「神福丸」 は魚雷が不発であったために沈まなかった。 近くには1隻の船も、もう見当たらなかった。 しかし、この荒天の中にあって敵潜は敵ながら見事な攻撃ぶりであった。 少なくとも2隻以上の潜水艦による攻撃であったろう。

 この夜の襲撃の模様を米潜艦長は下記のように記している。 (注2)

 TREPANG (SS-412, Commander R. M. Davenport) caught one of the last herds to be trapped by a submarine in Luzon Strait. The marus hove in sight on the evening of December 6th. Davenport directed a night surface attack, and in a two-hour battle TREPANG torpedoed and sunk three cargomen - Bansyu Maru No.31, Jinyo Maru, Fukuyou Maru - for a total of some 13,000 tons. The shooting in "Convoy College" was almost over.

(注2) : 上記のものは 「United States Submarine Operations in World War II」 (Theodore Roscoe, 1949) の427頁からの引用と考えられます。


(続く)

2010年12月13日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (74)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 バシー海峡の一環礁に身を寄せて

 もう誰の顔にも、眠気など吹っ飛んで微塵もなかった。 それから何時間も総員見張りによる緊張の連続であった。 こういう場から早く脱出しようと願う心の中は皆同じであろう。 後2時間もすれば夜も次第に白み始めるであろうと、ただひたすらに夜明けを心して待ち望んだ。 頑張るのだ!

 「もう島が見えるころだぞ。」

 と突然、部隊長が皆を励ますかのように大声で叫ぶように言った。 皆の目は暗闇の中でも相当遠くまで効くまでになっており、誰の目も爛々と輝いていた。

 部隊長の声が消えてどれくらいの時間が経ったであろうか、

 「左前方に島らしいものが見える。」

 と渡部が叫んだ。 あまりの元気良い声に一同の目が一瞬の間そちらを向く。 渡部の指先がその方向を指していた。 確認はそちら側の見張りに任せることにした。 ああ良かった、助かった、と一瞬安堵の思いが流れた。

 船は心持ちその島らしきものの見えた方向に変針したようであった。 島らしきものが見えた方向が、今では私の見張責任区域となった。

 一生懸命それらしいものを探すが私の目にはそれらしいものが入ってこなかった。 水平線にそれらしいものがあるようでもあり、また違うようでもあった。 15分ぐらいしてそれは島ではなく黒い雲の塊であったことが分かった。

 激しかった敵潜の奇襲の雷撃から身を守るため色々と避行運動をしたので 「神福丸」 は自分の確実な位置を見失っていた。


 我々は先ほどの島らしいものが島ではなく雲であったが落胆するようなことはなかった。 間違いであったことに対する気持の反応も早かった。 食うか食われるかの瀬戸際である。 我々は敵潜に今食われるか、今食われるかといった感じの方が実のところ強かった。 心の動揺もさほどになし。

 船橋一円はもとの静寂に戻り、隣にいる者の鼻息が聞き取れるほどであった。 戦闘はなお継続中、だから我々は確実な事実又は情報を捕まなければ決して気を抜くことも、気持を転換することもやってはならない。 それは最後の最後においてどんな敵の伏兵のために敗れることがあるかもしれないからである。

 常に敵は我々を撃滅すべく色々の秘策を練り狙っていることを銘記しなければならない。 戦いの場にあって瞬時たりとも気を抜くが如き油断は絶対に禁物である。

 こうして何も起こらない暗い大海での空間は長い。 その長い空間の中で我々は終局の大任を果たすまでは例えどんなことがあっても生き続けるのだと自分自身に言って聞かせるだけであった。

 このようにして死に直面した場面が重なる度に、我々はただ死を超越し大義に生きるという心境の度合が一層固められていくのであった。

 だが幾ら口で上手を言うことができても、つまり私自身は人間である。 不意に雷撃を受けたりすれば誰しも人間は同じ精神的な脆さが出る。 やはり誰にしても恐ろしいことには変わりはない。

 今では、初めのように恐ろしさから起こる震えなどはなくなった。 むしろ何が起こっても揺るがないというか、自分ながら落ち着きのあることを感じるのであった。 俗にいう 「度胸が座る」 とでもいうのであろうか? これまで4度にも及ぶ被雷現場に遭遇し、幾らか免疫にでもなったのであろうか ・・・・。

 我々は自から進んで選んだ決死隊への道である。 この長い決死行に、また続く恐怖や幾多の試練にもめげず誰一人として大任を遂行することを至上の念願とし、途中にして意志を転ずるような者はなかった。 試練を受ける度に 「敵を撃ちてしやまん」 の気魄が更に更に高まるばかりであった。
(続く)

2010年12月14日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (75)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 バシー海峡の一環礁に身を寄せて (承前)

 東の空が白み始めるころになってやっと島を見付けた。 今度は確実に島であった。 待望の島をこの目で見たが、喜びを喜びの声にして出さなかった。 嬉しい気持をすぐそのまま表面に出すことのできない複雑な心境でもあった。

 まだまだその島まではかなりの道のりがあった。 島、それはどこの何という島か、まず1番に知りたいのはそのことであった。 こういう状態にあって島を発見したことが決して嬉しくないと私は言っているのではない。

 うねりはもう余り気にならないほどに和らいでいた。 人間は土の上に住む動物なり。 このことは長年海上で生活をした者のだれもが口を揃えたように言うそうだが、私も本当にそうだと思った。 続いて小島が二つ、三つと視界内に入ってきた。
 船橋で海を睨み身じろぎだにしない船長の横顔が、海面から反射するわずかな光に白く光って見える。

 船長は私達がこの 「神福丸」 に乗り込んできた当時の印象とはおおよそ変わってしまった。 髯も生え、着ている服も汚れ、常に被っていた帽子も庇に手垢が目立ち薄汚い感じさえする親父になっていた。

 今こうして我々は生き続けていられる。 これはこの船長の大奮闘のお陰にほかならなかった。 船長は

 「島に近づけるぞ。 錨泊できるところがあればそこに錨を下ろす。」

 という。 護衛する駆潜艇が1隻後方の水平線付近からこちらに向かってきた。 その駆潜艇に船長は信号を送り仮泊することの了承を得た。 自船の位置も分かった。 適当な仮泊地に向け取舵に転舵した。 ここは環礁になっているようであり、出入り口はここだけのようであった。

( この泊地がムサベイという名であったことを覚えていたが、今日フィリピン海峡の水路諸誌を調べてみるが、マラ環礁のムサベイは記されているもののタルヒル島の付近か、カラヤン島の近くか確認することができないでいる。) (注)

(注) : 当該泊地について、下図のとおり 「Fuga 島」 西端に小島とで囲まれた 「Musa Bay」 というのがあります。 「Calayan 島」 周辺を含め、バシー海峡には他に敵潜の襲撃を逃れるための適当な泊地や環礁と言えるものは見あたりませんので、記述内容からしてもここで間違いないものと考えます。


musabay_01_s.jpg
musabay_02_s.jpg
( 上図は#381番の古い海図から、下図は1945年版の米軍地図から )

 遂に魔のバシー海峡は完全に渡ることができずに終わった。 入江のやや中央付近で錨鎖を止めてあったスリップが切られ、ガラガラガラと錨鎖は赤錆の埃を上げながら錨ともども元気よく海に飛び込んでいった。

 やがて東の空が真っ赤になり椰子の林越しの水平線から真紅の太陽が昇ってきた。 今朝は昨夜の天候とは打って変わり上天気であり魅せられるほどの美しい日の出となった。

 投錨も終わりその日の出に合わせるかのように船橋では幹部の祝杯を挙げる一幕もあった。 船橋の窓から差し込む朝日の光、狭い部屋の中は赤と紫の二色に分かれ人の横顔が照り映え見事であった。

 この祝杯は今日の無事を祝ってか、それともこれから先の幸運を祈ってか・・・・。 まるで太陽が我々の無事を祝うかのようであった。
(続く)

2010年12月15日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (76)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 バシー海峡の一環礁に身を寄せて (承前)

 昨夜半から本朝未明まで激烈を極めた敵潜からの攻撃を回避し、悪戦苦闘しながらの航海から開放された今、睡眠不足も加わり悪夢から覚めた後のような疲が全身にどしっと押し掛かってきた。 そして運ぶ足もいつになく重く感じるのであった。

 遅くなったがどうやら乗員一同の朝食も終わり、少し横にでもなろうかと思ったころ、見張から駆遂艦 「呉竹」 と駆潜艇がこの環礁に入港してくるとの報告があった。 「呉竹」 から信号がくる。

 「ホンカン ニ キユウジヨセル セイゾンシヤ ヲ キセン ニ シユウヨウサレタイ」

 「神福丸」 からはすぐ了解の返信が送られ、「呉竹」 のボートで生残者が送られてきた。 「呉竹」 の生残者の移載が終わると、次は2隻の駆潜艇がそれぞれ収容した生残者を移乗させたのである。

 「呉竹」 も駆潜艇もまだ漂流中の生残者を求めて休むこともなく、踵を返すようにこの入江を出ていった。 3、4時間して 「呉竹」 及び駆潜艇は再び生残者を乗せて入港してきた。 もうその数は合せて20名に足りなかった。

 こうして護衛艦艇に助けられ本船に移された生き残りの兵士はしめて450余名 (陸軍兵士300余名、海軍兵士150名) であった。

 1隻の駆潜艇は移載が終わると、我が船団部隊の護衛任務が解かれ高雄へ向け去ってしまった。

 「御苦労さま、卸健闘を祈る。」

 去る者、残る者お互いが自分の手を思う存分振って別れを惜しむのであった。 環礁の入口を回り駆潜艇が姿を消すまで我々も上甲板で見送った。

 「神福丸」 では、生残者が加わり乗り組員の総数は650名以上となった。 生残者達の大多数は濡れた服を着たままであった。 中には半乾きの者もいた。 変形はしているものの軍帽を被っている者、戦闘帽の者、無帽でいる者、だが皆の目はいずれも充血して真っ赤になっていた。 そのうえ彼等の足には靴という靴がほとんどなかった。

 昨夜まで皇軍と言いその名を世界に轟かせた日本軍の勇姿も一夜にしてすっかり変わり果て、見るからにみすぼらしく、むしろ哀れささえ感じさせるほどであった。

 今回の船団に乗り込んでいた関東軍からの比島増援部隊1万なにがしの兵士はことごとく輸送船もろともバシー海峡において海の藻屑と化してしまったのである。 もし、この1万余名の兵士と武器類が無事比島に揚陸され、最前線に送り込まれたならば、と我ながら痛惜に堪えなかった。

 かくして7隻の我が船団は悲しくも6隻 (?) が米潜水艦の餌食となり、最も重要である兵力を無意味に消耗してしまった。 「神福丸」 と我々は、またもや無傷のまま残ったのである。

 「我等の任務はますます重大となってきた。 こうして生き抜いてきた今、どんなことがあっても震洋隊を基地まで送り届けなければならない。 よってここから出発するに当たっては飛行機の護衛がなければ決して動かない。」

 と久保船長は断固たる決断の意志を表明したのである。 このことは直ちに 「呉竹」 に乗艦中の護衛部隊指揮官へ伝えられた。

 私達は軍人としては若輩であるが、しかし過去の短かい軍人生活において絶対服従の精神などと色々軍紀についての厳しい観念を身に付けていたものである。 ところが今回このような久保船長の軍の権力をも恐れない発言に驚いたのである。 こんな発言が許されるのだろうかと内心不安な面もあった。

 だが私のこうした心配はいらなかったのである。 それは非常緊急やむを得ない場合、輸送船船長は自己の輸送船とその輸送物等の安全を守ることのできるとき、船長の独断による行動権が与えられていたのである。

 それからというものは、このバシー海峡の中の小さな環礁ムサベイの入江の中で戦の最中とは思えないのんびりとした1週間を過ごしたのであった。
(続く)

2010年12月16日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (77)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 バシー海峡の一環礁に身を寄せて (承前)

 冬季のルソン海峡は西太平洋に発生した台風の通路であった。 我々がこのとき差し掛かったバシー海峡は台風通過時であったようだ。

 強風に荒れ狂う海、敵潜が牙をむき潜む海、雨こそないが闇の海は、我が船団の前進を拒むかのようであり、また我が船団には最悪の状況であった。

 この海峡を魔のバシー海峡といい、この海峡を通過する日本船団の難コースであることは前々から聞いて承知していたものの、不吉の予測はそのまま現実となってしまった。

 魚雷が船に命中し炸裂する。 全く不意を突かれた。 猛烈な火炎は爆風とともに一瞬にして火炎地獄と化してしまう。 こうした魚雷の一撃は、静寂を守り続けてきた身辺を一転し阿鼻叫喚の巷へ将兵を追い込み、生と死のいずれか一つに振り分けてしまったのである。

 これほど人間の存在、人間の力の弱さを見せ付けられたこともなかった。 こんな一瞬の悲惨事から幸いにも一旦逃がれ得て海上に漂う将兵は 「おれは生きているんだ」 と意識を持つ。

 ところがそれも束の間、次は味方艦艇の投下した爆雷が炸裂する。 生残者はただ口々に何ごとかを唱え祈る。 だがそんなことに一向お構いなく、爆雷は無情にも彼らの臓物をぶち切ったのである。

 戦場での出来事は全く常識では考えられない。 それらの事象は人間である兵士達に慈悲もなく、冷淡、冷酷それ以外の何ものでもなかった。 また揚げ句の果てには、奈落の底に蹴落とし死へ引きずり込むのであった。

 なるが故に、生き残った者の命は尊い。 これぐらい生の尊さを教えられる実訓もほかに例をみないであろう。

 昨夜の激闘の海で、じかに様々な体験を味わった生残者たちの労苦を、一回として漂流等を体験していない私達は到底知り得るものではないだろう。 がしかし、それがどれほどの辛さであったかは大凡の理解も、また察しもつく。

 「神福丸」 の甲板上にはところ構わず生き残りの兵士達が半病人のように疲れきった身体を横にして仮眠をとっていた。 もう立ち上がる余力すら失ったようであった。

 私はそうして休んでいる彼らのそばを通り抜けることがあったが、そのとき彼らに対し優しくその労をねぎらい、また同情を寄せる気持はあったが、その気特を口に出し彼らに与えることはできなかった。 それは余りにも彼らが気の毒に思えてならなかったからだ。

 彼らが 「神福丸」 に収容されてから、かれこれ4、5時間が経過した。 その頃になると若い者の疲労回復は早く、あそこ、ここと起き上がる者が出始めた。 大きな船に収容されたという安心感もあってか疲れの回復も意外と早かったようである。 けれども数時間経っても彼らの顔には笑いがなかった。

 停泊中といえども戦は終わったわけではない。 哨戒、すなわち見張りによる警戒は絶えず続けられており、私達搭乗員は相も変わらず船橋にあって見張りに就いていた。

 この入江内に停泊していれば、敵潜水艦から雷撃を受けるようなことはまずない。 そういう情勢判断の下に対空見張りに重点が置かれた。 航海中、前・中・後部と分かれていた見張員もこの停泊中の見張りは船橋ただ1箇所にまとめられた。

 救助された兵士たちの疲もほとんど癒えたのであろう、彼らの動きに活気が出てきた。 彼らが加わり、第12震洋隊で専有していたときの船内の空気とは変わった感じになったのは事実である。 今までになかった人間社会のざわめきに似た異様な気配すらしてくるのであった。

 彼らの身体から “俺たちは生き残ったのだ” と言わんばかりの、それは何か得体の知れないあるものが発散してくるようであった。 私はそのとき、既に彼らとは異なった世界に住む人間であるかのような心境にあった。
(続く)

2010年12月17日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (78)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 バシー海峡の一環礁に身を寄せて (承前)

 私は当直勤務でもないのに船橋へ登り、高いところから 「神福丸」 をやや速い速度で一巡してみた。 そこで私の目に入ってくるものは、今まで1匹の小鳥さえいなかった甲板上とは変わり、救助された兵士たちの人生の再出発のうごめきであった。

 前甲板から始まって、船倉の覆の上、荷積みの大発の上、更に後甲板と目の届くところはいずこも色とりどりの服で花が一面に咲いたかのようになっていた。


 ふと私の目は煙突甲板の一隅を指して止まった。 煙突甲板には幾らかの距離をおいて5、6人の陸軍兵士が座ったり、寝そべったりしていた。 ところが煙突のすぐそばに2人の兵士がいた。

 2人は互に相対するような位置にあり、私のいる場所からは両人の動作が手に取るように見えるが、兵士の側からでは自分と反対の側に人がいることは分からなかった。

 初めのうち2人は、ともに着たままの濡れた服を乾かすため煙突に身体をくっつけ、立ったり座ったりしていたが、そのうち1人の兵士は、シャツ様になった軍服の上衣のボタンを二つほど外し、自分の腹に巻いてあった布の中から小さな布袋を取り出したのである。

 彼のいる場所は他の誰からも見えないところであった。 だが高い場所にいる私には別に気を止めなかったようである。

 彼は取り出した布袋から折り畳んであった濡れた紙片をやおら摘み出し、袋の中を更に確かめるような仕草をするのであった。 そしてニコッとほくそ笑んだ。 取り出した紙片、それは紙幣であった。

 彼は改めて辺りの人気のないのを確かめるように一瞥した。 誰も近くにいないことを確かめた後、1枚1枚丹念に、しかも破れないように気遣いながら紙幣をはがし始めたのである。

 上手にはがし広げた紙幣を煙突に張り付け、掌でペシャ、ペシャと軽くたたく、お礼の数は少なくとも13枚以上はあった。 100円札も数枚はあった。

 彼は疲れた身体を休めることもさることながら、まず、これまで膚身放さず大切に守りぬいてきた虎の子がどうしても気になってならなかったのか、ここでそれを確かめずにはおれなかったのであろう。

 煙突表面の熱は、彼にあってはまさにおあつらえ向きであり、張り付けた紙幣が焦げることもなく、しかも早く乾いた。 こうしたし兵士の動作も、おれは助かったのだということを表現する人間の本能的な所作なのであろう。

 それに反し我々特別攻撃隊員にとっては、もはや金など何の魅力でもなかった。 彼らは見事に死線を突破し、生の新しい活動に向かって進む心の落ち着きを取り戻したのであろう。

 彼は後2、3枚というところで、偶然ながら空を仰いだ。 そのため彼の目と私の目とが、ばったり合ってしまった。 彼はニヤリと笑う、私もそれに合わせニコッとして答えてやったが、かえって私の方が、ばつの悪い思いをした。

 救助された兵士達のうちで、彼のように大金をしっかりと膚身放さず持っていた者はあまりいなかったのではなかろうか。

 彼以外の者はほとんど皆着のみ着のままであり、何一つとして余分なものは携帯しておらず、それが証拠に、日本軍人の魂であるべきはずの1挺の小銃、また1発の小銃弾ですらも持っていなかったのである。


 彼らのほとんどが元気を取り戻した。 その頃になって彼らは皆一様に自分の顎を撫で、痛い痛いと声を出し痛がっていた。 それは自分の生命を救ってくれた救命具で顎をこすられ膚が擦りむけ、赤ベっとになっていたからであった。

 彼らは我々搭乗員の誰よりも年齢的に上であったが、彼らの所作を見ていると何だか子供めいた動きにしか取れなかった。
(続く)

2010年12月18日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (79)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 バシー海峡の一環礁に身を寄せて (承前)

 こうして 「神福丸」 上においては人員の倍増によるしわ寄せが訪れてきた。 それは食糧不足という皮肉な現象であった。

 生存の兵士達に対し 「神福丸」 側はもとより、我が震洋隊としても何一つとして彼らに満足すべきものを与えてやることができなかったのである。 ただ与え得るものといえば “食べ物” と “2人に1枚の毛布” だけであった。

 ところが食べ物にしても食事は1日3度でなく2度ということになった。 食事が1日2回だけという処置は彼らだけではなく 「神福丸」 に乗船している者すべてに対してであった。

 こうした処置がとられた理由は、初めにも言ったとおり急激な人員の増加、それに加えてこの泊地からの出発も、いつ前進基地に到達できるか、これら未定の要素を多く拘えていたからである。

 第12震洋隊自身としては別に食糧事情が窮迫していたのではなく、あくまでも糧食を節約する目的のためにとられた措置であった。

 日本軍側の比島方面に対する補給路線は、敵潜の暗躍によって全く閉されたも同じ状態であった。 このことは今改めて申すまでもなく、過去 「神福丸」 が通過してきた東シナ海並びにルソン海峡におけるそれを見れば火を見るより明かなことである。

 こうした補給の実情を誰に聞くこともなく今の自分達が一番よく知っていることであった。 レイテにおける決戦も日本軍に利あらず、我々と敵との対峙はもう間近に迫り、硝煙がそろそろ漂ってくるのではないか、とそんな錯覚すら起こさないでもなかった。 日本軍のこうした物資不足は全体的なものとなっていた。

 「神福丸」 船上における食物の分配は全員皆同格であり、誰一人として差別待遇は認められなかった。 このことは育ち盛りである少年期の我々にとっては非常に辛いことであった。

 これも戦いに勝たんがためである。 勝つためにはあらゆる苦難を克服しなければならないことはいうまでもない。

 食事減配の処置に併せて、次のような処置も取られた。 救助された兵士たちは、特別又は緊急作業を行うとき以外は日常の作業に服さなくてよい。 分かりやすく言えばエブリタイムス休んでおれ (用のない者は寝転んでおれ) ということとなった。

 1日2回の配食が実施されて、2日目のことである。 1食につき握り飯1個の割当が我々搭乗員だけは1個半の支給となった。

 半個の増加となったわけはこうである。 搭乗員達は 「もう余命いくばくもない」、と我が基地隊員皆の同情と真心によって彼らが特に自分達の分配量を減らし、その分を我々に回してくれたのであった。

 隊内の気風は、誰に言われるとなくこのようにお互が思いやりの精神の湧いてくる今日この頃であった。

 食べ物が満足でないということは、普通それにつれて人の心も荒んでくるものであるが、船内誰一人として不平を漏らす者はいなかった。

 甘い菓子類はさらさらなかった。 部隊長、艇隊長は若い育ち盛りの我々に対しては随分と気を遺っていたようである。 年齢から言っても7〜10歳の隔たりがあり可愛い弟のようなものであった。


 この環礁の入江に停泊して何日目のことであろう。 突然、我々搭乗員に煙草 (ほまれ) の配給があった。 しかも、それが1カートンである。

 私はそれまで一度も煙草を吸ったことはなかった。 それもそのはず、17歳にはまだ2箇月もある未成年である。 貰ったものの、それは何のためにと、煙草を手に抱えて疑問に思った。

 海軍軍人とはいえ、未成年者である以上喫煙は許されなかった。 予科練時代はもちろんのことであった。 何で今頃そんな自分達に煙草を支給するのか、その真意のほどが分からなかった。

 やがて藤田兵曹長が

 「君達に先程煙草を配ったが、それは決して吸えというのではない。 菓子をやろうと思ったが、今はその菓子がない。 そこで君達にも全隊員と同じように煙草を分配したのである。 マニラに着けば早速酒保物品を受け込むであろう。 したがって煙草は吸わずにそのまま持っておれば、そのとき菓子と交換してやる。」

 と説明した。 それからどれほどの時間が経ったであろう。 同期の桜の鼻の穴から、口から薄い紫煙が立ち昇るようになった。 彼らは喫煙経険者だったのであろうか、さも旨そうに煙草を燻らしていた。

 このとき、別段煙草は吸ってはいけない、ただ持っておけ、ということではなかった。 俺もちょっとだけ吸ってみようか ・・・・、そんなに旨いものかなあ ・・・・、と私も思うようになってしまった。

 煙草がすぐ手元にあることもあってか、2日目、私はついに自制心を失ったのか、誘惑に負けたのか、面自半分な気持でたばこを吸ってみることになった。 あくまでもテストをするという気持であった。

 ぷかっ、ぷかっ、吸ってみたものの ・・・・、予想していたものと余りにも違う。 口にわずかの煙を含む、口の中に煙草のやに気が残る。

 初めて吸った煙草の感想は ・・・・、何んでこんなものを吸うのだろうか ・・・・ と、さも旨そうに吸っている連中の気持ちが分からなかった。

 煙草の煙、それは休暇で帰省中、乗り合わせた列車内で大人達の吸う煙草の煙がむんむんするほど立ちこめ鼻をつき、嫌な思いをしたことがある。 したがって、煙草に対する嫌悪は普通でなかった自分が、これで自から自戒を破ってしまったことにもなった。

 また、このようなテストするような気持で吸った煙草が、そのとき以後現在まで30年も続き、一度として煙草を手から放すことのできない愛煙家になるなんて夢にも思わぬことであった。
(続く)

2010年12月19日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (80)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 再び、ルソン海峡に向けて

 バシー海峡の中にある環礁内で小休止、一日一日と何もない日が続いた。 ここに仮泊して早や1週間、我々は十分過ぎるほどの休養をとった。 我々は戦闘員というものの直接手に武器を持っていない。 そのためか最前線も近いというのに意外と緊迫感が薄い。

 久保船長は、いつまでもこのような仮泊の状態で頑張り続けることの無駄をよく知っており、機会あらば1日も早くこの地から脱出し、マニラに向かうことを松枝部隊長と常に協議していた。

 けれども、船長はあくまで飛行機による護衛なしでは出港はしないと、初めの決意は少しも変えなかった。 船長のこのような決意も、それを曲げないことも私には分かり過ぎるほどよく理解することができたが、こうして日時がたつほどにいらだたしさを覚えるのであった。 あまりこんなところでもたもたしていたんでは、我々の任務を果たす時期を逸してしまうのでは・・・・、と。

 敵潜水艦によって散々な目に遥わされた過去の日のことは、もう大分薄れていた。 戦争というものは過去の出来事を割と簡単に忘れさせてしまうものである。 また悪い過去の出来事を早く忘れ去ることは兵士として生きてゆくために必要なことかもしれない。

 何はともあれ 「第12震洋隊」 の当面の重要課題は、少しでも前に向かって進むことである。 だが一兵士である自分が幾らじたばたしたとて、どうにもならないことであった。


 12月11日昼過ぎ、護衛艦側に無電が入り、「神福丸」 援護のための航空機を明朝派遣する旨連絡があった。 待ちに待った朗報であった。 我々の身体に生気が漲ってくる。

 12月12日、いよいよ今朝は出港である。 夜明け前から出港準備に掛かった。 微風が入江の海の上を渡っていく、その風が膚に触れて爽やかであった。 夜明けの近い空には明けの明星が煌めき、まだ淡いベールのような薄い雲はあったが、その奥には青い青い空を覗かせていた。

 やっとこの入江から出られる。 これからはまた厳しい航海が続くであろうが、こうした男を懸けた道へ向かって進むことの喜びを誰が知っているであろう。

 爆音が微かに聞こえる。 「総員配置」 に就く。 久し振りの爆音、敵味方不明の爆音が近づく (おそらく味方護衛機であろう)、まだ午前6時前であった。

 北東方から大型機らしい爆音 「あっ、あそこだ!」 朝日の昇りかけて赤い島の上空に、キラリと機体が光った。 それは飛行艇である、味方の。

 「来た、来たぞ、来てくれたんだぞ。」

 念願かなった喜びが歓声となって揚がった。 飛行艇が環礁の椰子の木立ちの上を、段々高度を下げながらこちらに向かってくる。 1機だ。

 人間とは欲深なものだ。 もう1機、どこからか飛んでくるのでは、と更に期待する。 改めて周囲を見渡したが、1機以上の機影はどこにもなかった。 翼端にクッキリと 「日の丸」 が、そして鮮かであった。

 「遂に、来てくれたか。」

 1機だけでも、今は心強い限りである。 船長の顔はニコリともしない。 だが嬉しかったことは人一倍であったろう。 船上の者は、皆この飛行艇に護衛を依存しきっていた。

 「頼みます、願います。」

 と心の中でこう祈った。

 誰の頭の中も私と同じであっただろう。 それは欲をいうならば、後1機の飛行機が欲しいところであった。 もしここに敵戦闘機が飛来しようものなら、1撃のもとに撃ち落とされてしまうのではないかと、先の先までを案ずるからである。

 当時の日本軍の手持ち兵力では、1機の飛行機がもはや貴重で決して無駄なことに使えないときであり、虎の子同然であった。 飛行機が足りない、燃料も足りない、そのうえ色々の兵器も弾薬も乏しい現状であった。

 海上護衛を担当した上級司令部にあっては種々の悪条件の中をよくもこうして 「神福丸」 1隻のために護衛機を派遣してくれたものだ。 さぞかし十分な護衛を付けてやりたかったことであろう。

 激しい彼我攻防戦の続く中・南部ルソンの戦局において、日本軍側は1滴の石油、1発の銃弾も喉から手の出るほど欲しいときであった。

 飛行艇は幾度となく上空を旋回する。 その度ごとに爆音が私達の身体を震動させ勇気づけたのであった。
(続く)