著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)
敵潜荒れ狂う東シナ海を単独航 (承前)
天候の急変も更に我々に重くのしかかって来るのであった。 どんよりとして今にも一雨ありそうな気配の行き先の空は、まだ陽の高い午後というのに、乳白色の雲が墨滴に侵されたように、あるいは乱れ飛び、あるいは舞い上がる。 異様なまでに不吉感を誘う。
急に風が強くなってくる。 低気圧の接近か前線の通過であろう。 何もない海原の上、風速は15、6メートルを超える。 風はヒューヒューと鳴りはじめ白波も波頭を砕き、しぶきが海面を走る。
幸にも風は背後からであった。 11月中旬というのに風は生ぬるく頬を打つ。 だいぶ南へ下がったのであろうか。 目指す台湾の岸辺もすぐ近くになったのではなかろうか。
だが風向は北北東であった。 煙突から吐く排気ガスが船橋のオープンにいる我々の背後から吹き付け、硫黄の臭が鼻をつき息苦しい。 タオルで鼻と口を覆いマスク代りにした。 見張りも悪戦苦闘であった。 これでは見張力も半減してしまう。
我々搭乗員は5直に分かれ当直に立つこととなった。 10名中2名は信号を引き受け、後は見張りに専念した。 私は予科練時代、信号競技には分隊 (約200名) の選手として出場した経験もあってか、多分に自信はあった。 また他の者も大同小異、相当腕には自信があったと思う。 受信用紙に筆記せず、すらすらと信号を受けるなど、「神福丸」 の船員の係はもう私達に任せっきりであった。
3時間ごとの当直を追ってゆく。 艇隊長が一人づつ直の長、いわゆる哨戒長となった。 交替10分前に整列して、哨戒に対する注意が哨戒長から示達された。 10分間は前直者とダブルで立直し特に夜間は十分眼が慣れ、初めて前直者が持ち場を離れ交替するのが常であった。
当直は極めて厳正であった。 食うか食われるかの戦であり、誰に言われなくともそれは規律正しく守られていた。 毎日の生活は当直に立つことが主となり、後の時間は食事を除いて寝ていようが自分の雑事をしようがそれは勝手であった。
私は第4艇隊 (安田隊とも言った) であり、艇隊長は海軍兵曹長安田兼寿 (秋田県天王町出身) であった。 当時彼は27、8歳でなかったかと思う。 三船敏郎を思わせるいい男であった。
毎夜8時、海軍では 「巡検」 が行われる。 が今では戦闘に準ずる哨戒航行中であるため、その巡検は 「火の元点検」 というものに代わり、非番の艇隊長によって行われた。
ところがその 「火の元点検」 の直後、安田兵曹長は自分の部下である第4艇隊員の状況について見て回ることを一日として欠かすことがなかった。 そして一人一人に声をかけてゆくのであった。
「言うは易し、だが行うは難し」 と諺にもあるように普通の人達にはなかなか実行のできることではない。 私達はこの艇隊長を信頼し、この人と共にいつでも死ねる思いを持ち、常に兄のような、いやそれ以上の親しさを感じたものであった。
丁度予科練時代の豊田兵曹長 (人は鬼兵曹長と言ったが) といい、私はよい上司に比較的恵まれた。
横須賀を発つ頃事務をこの安田兵曹長がやっておられ、私はよく彼の手伝いをしたものであった。 人一倍私は彼に可愛がられた、と自負できるものであった。 これは何も豊田兵曹長からの中継ぎがあったわけでもないだろう ・・・・。
(続く)

