2010年12月05日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (66)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 いよいよマニラに向けて

 12月4日、待ちに待ったマニラ向けの船団 (注) に伍して、再び苦難の航海に挑むことになる。 最後の日本領土 (台湾高雄港) から離れる日となった。

(注) : 当該船団については 「タマ34船団」 と考えられますが、詳細は不明です。 「第1海上護衛隊戦時日誌」 も何故かこの昭和19年12月分がありませんので確認できません。


 高雄停泊は10日足らず (まま) ではあったが、これということも起こらず全くのんびりとした日々であった。 この間我々は十分な休養も取りすっかり頬の筋肉までが緩んでしまったような感じさえするようであった。

 出港準備もすべて完了した。 港内での風は意外に強く我々の頬を横なでしていった。 風もさることながら今までの緩んでいた気持も岸壁に取っていた舫索が1本、1本と外されていく、その度に以前の緊張した気分に戻っていった。

 岸壁と船の間が次第に離れていく。 最後の1本の舫索が岸壁側のボラードから外され、輪になったマニラロープのエンドの部分がボチャンと大きな音をたてて海面を叩いた。 そして蛇が水面を泳いでいるような格好でスルスルと船に跳び込んできた。

 陸地との縁が全く切れて 「神福丸」 は静かな内港の海の上をゆっくりと滑るように動き始めた。 いよいよ日本とサラバである。

 これまで各港を発ち、去るに際しては時と場所によってそれぞれに違った形の離別感があったが、しかし、この高雄港での出港は二度と再び日本に戻ることができないという感じが極端に強く、日本の土地から永遠に去ってしまうという特別な感情が一層の切実さを加わえ身に染みて感じる一面もあった。

 だがその離別感は決して女々しさからくるものではなかった。 それは我々特別攻撃隊員の誰もが心底から願う “日本の勝利” “日本国の永遠の栄” と “日本民族の生存” をただ祈ってやまなかったからであった。 “必ずや勝つぞ!” と ・・・・。

 日本との決別は、我々の任務の決行と死期が真近に迫り来つつあることを併せ意味するものであった。 こうした我々の出立を今見送ってくれる人は誰一人としてなく、ただ物言わぬ台湾の山河が暖かく見送ってくれていた。

 我々はじっと甲板上に立って四周を眺めたり、また一点を見詰めたりするのであった。 「はるかなる郷里の父母、兄弟姉妹よお達者で ・・・・」 とこんなことを祈っているのかもしれないが、皆の気持を私は知ることができなかった。 今では覚悟は十分過ぎるほどにできており、今更何の未練もなかったもののやはり我々は生身の人間、さすが心の弱さまでは捨て去ることができなかった。

 幾度となくこうした試練に立たされる運命をむしろ憎いような気すらした。 誰の顔を見ても口元が更にキリリと引き締まっていた。

 高雄港外に出るところはぐっと狭くなっていて、その狭い水道を抜けると外洋で南シナ海に続いている。 先に出港した大型船や護衛艦艇が掃海水道を出た沖合で船団の制形を待ち漂泊していた。 船団での配備位置が中央列 (船団の隊形は3列縦隊) の最後尾ということもあって 「神福丸」 の出港が一番最後であった。

 「神福丸」 が指定された船団の位置に着くころには既に船団基準船から 「船団部隊出発」 の信号旗が降ろされ発動となった。

 船団護衛のための護衛艦艇も今ではかなり少なくなったようである。 この船団の護衛艦の中で一番大きいのが駆逐艦 「呉竹」 (排水量824トン、2等駆逐艦、大正11年建造、一時現役から退いていたがこの第2次大戦によって再役、第1護衛隊に所属、我々のこの船団を護衛し、その後間もなく昭和19年12月30日バシー海峡において米潜の攻撃により沈没した) であり、駆逐艦はただの1隻であった。 「呉竹」 を除けば後は駆潜艇2隻と駆潜特務艇 (木造) 3隻からなりまことに虚弱な護衛部隊で、これら船団部隊の指揮を 「呉竹」 が執った。
(続く)

2010年12月04日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (65)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団出撃命令を待つ一時 (承前)

 私はこの時、ただ黙々として南京豆を食らうだけでは芸がなさすぎると思い、彼に震洋艇による突入時のことについてついロを開いてしまった。

 「艇隊長、自分の艇が完全に目標を捕え、攻撃針路に入り舵を固定、全開したスロットルレバーも固定、撃突間違いなしの状態であれば、必ずしも艇とともに自爆するに及ばないでしょう。」

 「 ・・・・ 」

 彼は黙ったままであった。 更に私は話を続けた。

 「自分は、このように首尾よく敵を捕捉攻撃できた場合、何度でも震洋艇に乗って、機会あるごと攻撃に参加することを考えますが ・・・・」

 と言った。 すると彼は

 「そんなことができると思うか。」

 と軟かい口調で言って返した。 そして続けて

 「敵は必ず防戦してくる。 その中を突っ込むのだ。 それに100mや1501mぐらいの距離で、例え艇から脱出ができたとしても、生きておられるかが問題だ。」

 と言った。 彼は既に実戦の体験も豊富な古武士であった。 多くの戦闘を経てきた故の考えから話をしていた。

 それは〇四兵器が敵艦船に命中した時の衝撃により、例え海中に乗員が脱出しえたとしても腹などに水中発傷、いわゆる腸の切断等の傷害を受け、助かることはほとんど稀なのである。

 「後から、脱出した生残者を我が方の魚雷艇が収容しに来ることだが、それはあくまで言い訳だよ。 そんなことができようはずがない。」

 ときっぱり私の意見をはねつけた。 別に私の考えは死を恐れての発言でないことは彼も十分承知していた。 私はただ七生報国の精神に基づく考えであり、決して無闇に死に急ぎをすることはないと考えるだけであった。 彼はしばらく間を置いてから

 「そんな考えはかげだ。」

 と言った。 かげそのものの意味が何のことであるのか理解できなかったが、それは宗教的な意味のある言葉に違いないと直感はあった。

 彼は私にお前の考えは卑怯だと言うのでもなかった。 彼はそのことを言った後は腕を組み、大きな目は閉じ、そして座禅中を思わせるように背筋をぴんと張っていた。

 彼は米軍が作戦行動を起こすとき、日本軍側とは問題にならないほど多くの艦船を注ぎ込むことを知っているようであった。 彼は目を閉じている間に過ぎしある戦闘の場面を思い浮かべていたのではなかっただろうか。 彼は目を閉じたまま口を開いて

 「その時になってみなければ分からんことだ。 何度もか? そんなことができると思うか。」

 と語尾は強く、それは私を諭すように言った。 既に幾つかの戦闘に参加した者と、まだ一度も戦闘の場に出たことのない者との考えとでは格段の差があった。 しかし、その時私はまだ自分の考えの甘さが分からなかった。

 もうそんな堅い話、深刻な話はよせと言うのか突然彼は立ち上がり、部屋の隅の戸棚から葉書を四つ切りにした程度の印刷した紙の束を取り出し、私の前に差し出しながら

 「これを使う者があれば配ってやれ。」

 と言って私に手渡した。 皿の中の南京豆はもうどれほども残っていなかった。 私は彼に

 「ご馳走様でした。」

 と礼を述べ部屋を出た。 彼はコクンと首を前に曲げて会釈した。

 彼から手渡された紙片には “〇〇〇優待券” と大きな赤い字で印刷があり、他に小さな字でゴチャゴチャと書かれてあったが、私はその券は映画か芝居の招待券かと思い、それを確かめずにクラスの者に渡したのである。 私は戦後になって、その優待券がなんの券であったか気付いたような始末である。 その時の彼は私に、そんな難しいことを言わずに少しは社会勉強でもして来いと言いたかったのかもしれなかった。

 もうとっくに、我らの戦いは肉弾一撃あるのみと覚悟を決め切っていた彼は、この機に及んで生をとるか、死をとるかというような野暮な考えも、哲学めいた論議も既に望まず、また必要としなかったのであろう。
(続く)

2010年12月01日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (64)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団出撃命令を待つ一時 (承前)

 安田兵曹長、彼は私の直属の上官、詳しく言えば第12震洋隊安田隊の隊長である。 彼のことについては既に述べたこともあるが、彼は毎夜の巡検時、必ず自分の部下の一人一人の健康状態をつぶさに見て回ることを1日として欠かさなかった。 これは簡単なようでなかなかできることではない。 したがって部下も非常に彼を信頼していた。 彼はすべて卒先垂範をもって部下に示す型の軍人であった。

 ある日、私はラッタルを滑り降りるようにして来た彼と通船ダビットのある甲板で行き合った。 その時、彼は私に

 「士官室の私の部屋で待っておれ。」

 と言った。 今日も上陸外出が許され、過半数の者は不在で、船内はガランとして静かな状態のときであった。 私は他にこれという用もなかったので、すぐ彼の部屋へ行った。 扉をノックしたが誰の返事もなかった。 そのまま中に入り彼を待つことにした。

 船の古いこともあってか名ばかりの士官室で、丸い小さな舷窓が一つあったが暗く煤けたような汚ない小部屋、畳2枚とわずかな板敷、畳はすり切れい草が2〜3本浮き上がって、今にも床の藁が出てきそうな感じであった。

 部屋の隅には 「安田」 「藤田」 と銘の入った行李が置いてあり、長押 (なげし、日本建築で柱と柱を繋ぐ水平材のこと) 替わりの板に無造作に打った釘、それに軍帽、2本の白線のついた戦闘帽と皮ベルト付きの短剣が掛けてあった。

 壁の上半分は鉄板であとの部分はベニヤ板と羽目板といった造りで、そんな暗い部屋の中を少しでも明かるく見せようとするのか、羽目板と鉄板との境界の桟 (さん) の上に 「さくら」 と 「ひかり」 の煙草の箱が交互に並べて置いてあった。

 しばらくして、彼がこの部屋に戻ってきた。 彼は白い陶器の大皿に炊りたての南京豆を持っていた。 香ばしい南京豆の臭がぷーんと私の臭覚を震わせた。

 「おい、食べろ。 大分待たせたな。」

 と言いながら畳の上にドスンと腰を下ろした。 彼は座るやいなや10粒ぐらいを1度に鷲掴みにし、ぽいと口の中へ放り込み食べ始めた。

 「南京豆とは珍らしいですね。」 (どこから彼は手に入れてきたのだろう)

 と私が言うと、元々色の黒い彼が、更に日焼けした顔をニヤリと綻ばせ白い歯を出して笑って見せた。

 旨そうに食う彼を私は見とれていた。 彼は、そら食へよと言うように大きな目で目くぼせをした。 彼の年令はまだ30前ではあるが、目尻にしわが多かった。

 更に彼がふた口、みロやった後私も口に豆を放り込み、彼に負けないように久し振りの南京豆を味わいつつ食った。

 横須賀を発つ数日前、第12震洋隊の攻撃隊員は彼の引率で宮城と靖国神社の参拝を行った。 その時、靖国神社の境内で一時解散があったが私は神社の横にあった記念館内を見物していて集合時刻に遅れたことがあった。 この時の彼は、遅れてきた私に向かって

 「靖国神社の前で時間を切る (時間に遅れること) とは何事だ!」

 と叱ったのである。 彼は誰かと待ち合わせをしていたらしく、それで時間をとても気にしていたようであった。 一旦集合し、後はすぐ自由解散となったのに ・・・・ と、どえらく叱りつけたその時の彼の顔を私は忘れもしなかった。

 そんなことをふと思い出しながら、今は別人のような彼と私は南京豆を食べ続けた。 彼は突然、

 「お前、煙草をやるのか。」

 と言って私に煙草を勧めたが、私は首を横に振り断った。

 これまで直属の上官とは言え、特別の作業がある以外個人的にしろほとんど彼と膝を折って話をするようなことはなかった。 これまた不思議と言えば不思議な上官と部下であった。
(続く)

2010年11月30日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (63)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団出撃命令を待つ一時

 高雄に着いて間もなくマニラ向けの船団が一つあったが、この船団は高速船団であったため、足の遅い 「神福丸」 はその船団に編入してもらえず (注) 、この後の船団に回されてしまった。 初め係船ブイに係留のままであったが、4、5日経って岸壁に移動した。

(注) : 「第1海上護衛隊戦時日誌」 によれば、「神福丸」 が高雄に入港した11月23日に輸送船11隻及び護衛艦10隻よりなる船団 (船団名不詳) が、11月30日には輸送船2隻及び護衛艦7隻よりなる船団 (船団名不詳) がそれぞれマニラに向け出港しています。 この2つのどちらかが該当するものと考えますが、詳細は不明です。


 今朝、高雄軍需部に行った者が糧食等の他にどっさり慰問袋と慰問品を受領してきた。 その中には蓄音機、いわゆるレコードプレーヤーがあった。

 私達は空襲に備えての立直を終え船倉に入った。 ところが、甘い、甘い女性の歌声か聞えてきた。 それは全く予期しなかったことであり、初めは誰かが声色で女のような声を出して歌っているのだとばかり思っていた。

 そろそろ一人や二人頭のおかしくなるのが出現しても不思議ではない、そんな今日この頃でもあった。

  南から南から、 飛んで来た来た渡り鳥
  うれしさに、 楽しさに、
          富士のお山を眺めてる
  あかねの空、 晴れやかに
  昇る朝日は美しい、 その姿、 見た心
          ちょっと一言聞かせてね

 と大体こんな歌詞であった。 久し振りに聞く女性の歌声。 今日この頃は男ばかりの、しかも緊張に緊張を重ね、ぎすぎすとした日常の生活の中にあって、この歌声ほど我々の心の中に和らぎを与えてくれるものはなかった。 そして今までの嫌な思い出を洗い流し全てを忘れさせてくれるかのような、それはそれは不思議な力があった。

 他に軍歌調の堅い歌も幾つかあったが、そんな歌は口ずさみ、覚える意欲さえ起こらなかった。 皆はこの歌をすぐに覚えてしまい口ずさむようになった。 媚薬にでも酔わされたかのようにという表現は少々大げさであろうか。

 これから俺達の向かう南の国は、さも素晴らしい所であるかの如くに聞えるのであった。 そしてこの歌は一刻も早く南方の前線へ行きたい我々の心を揺さぶるのであった。

 この歌から受ける南の国のイメージは明るく、皆は妖術にでも掛けられたかのごとき心持すらするのであった。 それは戦場へ向かう中での平和で静かな1ページでもあった。

 意外に多くの日数を費やしてしまった船旅、いつ目的地に着くのか分からない現在である。 もう一息というところにあることは事実である。

 その頃の日本軍側の情報は直接自分達の耳に入ってこなかったが、益々敗色は濃くなりつつあることは感じ取れていた。 我々が早く前戦へ行って敵艦隊に打撃を加え劣勢を挽回しなければと気は焦るばかりであった。

 一旦決意したこの意志を容易に曲げるような我々ではなかった。 真っ直ぐに目的に向かって突き進む我々、護国の鬼となるべく勇往まい進の気性は、益々燃えてやまなかった。

 がしかし、我々個人の一人一人はこうした反面、実に気の優しいやつばかりであった。

 慰問品の中には野村胡堂著の 「銭形平次捕物帖」 などの本があったが、私は本を読む気になれず、ただページをペラペラと捲り、一部分を拾い読みするのが関の山であった。
(続く)

2010年11月27日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (62)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 しばらくして、木下が何やら私の耳元で言い始めた。

 「いよいよ戦地への出発だなあ!」

 とっさに見た彼の顔に、何だか浮かないようなものを感じた。

 「お袋はどうしているだろう。」

 と彼は言って後は黙ってしまった。 木下は愛媛県の出身であった。

 そうだ、我が部隊で木下のほか四国勢の同期の桜は6名いた。 彼等は横須賀を発ち、門司、三池、基隆と経由し今高雄に来ているが、その間 (決死隊員を志願してからも含めて) 彼等以外の者は何らかの形で郷里に帰るとか、また肉親と面会をするなどのことができたが、彼等四国勢にとっては誠に気の毒なことで時間的にその余裕が全くなかったのである。

 その他にと言えば、我が隊 (安田隊) に秋田谷がいた。 彼の両親は樺太 (現在のサハリン) にいることを彼から常々聞いており知っていた。 だから秋田谷に対しては外出時一緒に行動するなどして私なりの方法で気を使ってやっていたが、木下の今の言葉は全く突然であった。

 木下の心の中が瞬時ながら分かり過ぎるほどに理解もできる。 まるで我が胸に刃でも突き刺されたような感じすら覚えるのであった。 彼が可哀想であり、不憫さが一度に込み上げてきた。

 それに引き換え、自分は幸せ過ぎるほど恵まれていたと言えよう。 もう今となってはどうすることもできないことである。 彼に同情はするものの、幾ら私が慰めの言葉を彼に言ってやってもどうにもならないことを私は知っていた。

 「お前、四国だったなあ。」

 と私は、ただ一言だけ彼に返した。

 辺りは、かなり薄暗くなってきた。 空にはいつの間にか一番星、二番星と煌めく星が多くなっていた。 こうして木下に同情を寄せるとともに、私はロの中でゆっくりした調子をもって、しかも哀愁を込め

        更けゆく秋の夜   旅の空の
        侘びしき思いに   一人悩む
        恋しや古里      懐し父、母
        ・・・・

 歌と交錯しなから頭の中には 「これで俺も童貞で終わるのか。 俺だって男だ。」

 歌詞を全部覚えていなかったので途中からハミングとなったがしばらく続けた。 時も、光景も、心の中も皆、曲にピッタリとよく調和がとれ、心憎いぐらいであった。

 今の自分は、身も心も生れながらのそのままで汚れを知らぬ人間だ。 この身の潔白さにおいて他の誰にも負けない自信はあった。 またこんな姿で死ぬことは自分ながら一種の誇りでもあった。

 だが何を隠そう、ある一面では自分の人生の中に何か物足りぬ侘びしさのある事実を拭い去ることができなかった。

 私は急に歩調をとり、靴の踵をカツ、カツと鳴るほど活発な歩き方に変えた。 すると、木下が 「お前、どうしたんだ」 と横から言葉を掛けた。 それは、我ながら他愛ない仕草ではあったが、自分の心を励まし、また木下の気持を瞬時ながら反らせるためにした動作に過ぎなかった。

 元々私はひょうきんなところがあり、幼い頃よく家族の者を笑わせたが、何の意味があろう。


 船に帰り着いてしばらく経ち、船倉内の居住区が騒がしくなった。 それは高雄海軍警備府内の先任警衛伍長室に我が隊の搭乗員を拘束しているので身柄を引き取りに来いということであった。

 その時、帰船時刻の門限も迫っていたが、調査の結果末帰船の搭乗員が14、5名あった。 既に帰船したある基地隊員の話では、昼間巡邏に引き連れられた搭乗員達を街で見掛けたとのことであった。

 木下と私の2人が帰船した時、既に警備府から連絡を受けており、当隊の先任下士官がこれらの者を貰い下げに行っていたようであったが、埒があかず部隊長を寄こせということになったようである。

 結局は部隊長自身の出頭により、拘束搭乗員の引き取り騒ぎは落着となった。 拘束の理由、海軍服装規定に違反したかどによる。 即ち半長靴 (飛行靴) をみだりに着用、しかも外出時にも関わらずということであった。
(続く)

2010年11月26日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (61)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 毎日鉄船の船倉の中で野郎ばかりの雑居した生活、そして荒海と敵潜水艦の恐怖と闘い続けてきた現在、そうした中にあって、今こうした雰囲気は私自身にとってまたとない平和の一瞬であった。

 少女のお父さんは高雄警備府で働いているとのことであった。 少女はハンドルに手を添えて歩く。 私は自転車の荷台に軽く手を置き押してやるように、木下は私のすぐそばを歩いていた。

 約5分ぐらいの同道であったろうか、彼女は気持の明るい心の優しい子で (特にそのように私の心にだけ写ったのかも ・・・・)、彼女は時折り私と木下を笑わせることもあった。 冬の陽は西に傾けば落ちて行くのも早い。 そろそろ彼女と別れなければならないところに来た。

 「私はこちらの道に曲がって行きますから、兵隊さんお元気で、さようなら ・・・・」

 と丁寧なお辞儀をして、自転車に乗った。 そしてペダルを強く踏んでスタートした。

 だが私は荷台に当てていた手をしばらく放さず一緒に走った。 どうして手を放さなかったのであろう。

 私には少々意地悪な気もないではなかったが、私としても恋を知らないやぼ天でもない。 急に冷たい元の生活へと変わろうとしている運命へ抵抗をしようと、だから私は荷台を持ったその手をしばらく放さなかった。

 女性を交えての我が青春の1ページ、「俺も男の子である」 という意識もある。 咲かずに終わる青春の花、僅かながらも得たこの和やかな雰囲気を誰が引き裂いてしまうのか ・・・・。 少しでも長く、私は彼女にいてもらいたい。 そして彼女と私達は青春の語らいを続けたいと欲するのであった。

 なおも彼女の乗った自転車の荷台に手をやりながら一緒にしばらく走った。 こんな気持のある自分は、まだまだ精神力の弱い、弱い軍人なのか。

 そうなのかも知れない。 だからといって、これからの自分の人生 ・・・・ 決戦場に向かい、敵と相刺し違えて死ぬ決意のほどは些かも変わってはいないのだ。

 そのことについては何一つの矛盾も、疑問も抱いてはいない。 そのような胸中にありながら ・・・・ やはり私も人間であるのか、センチメンタルな心情を捨て去ることはできなかった。 如何にも “女性を恋する年頃” であったからだ。

 背後から木下の声が耳に入った。

 「おい、手を放してやれよ。」

 私は、ハッとして思わず手を放した。 少女は後を振り向きニコッと笑い、「さようなら」 と言って元気よくペダルを踏み、私達2人を残して去って行く。 時折り振り返り片手を挙げる。 私と木下はその都度、それに答えきように手を振って返した。

 少女の姿は間もなく道の途中で左折し消え去ってしまった。 アカネ色になった空は実に美しく、また変わって行くのも早かった。 私の心の中は恰も1本の細いローソクに灯された火が吹き消されたような感じすらしないでもなかった。
(続く)

2010年11月25日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (60)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 外出の門限は午後7時であった。 街を歩き回ってもこれという当てもないので、早目に帰船することにし、同期の木下と2人で帰路を共にした。

 もう日暮も近くなったのか、太陽が大分西に傾いていた。 街の中心部を貫通する大通りから埠頭の脇を通る三差路の辺りに来るともう都会の気配はほとんどなくなってしまった。

 三差路から小道になる。 その少し手前で私は今まで歩いてきた大通りの方をなにげなく振り返って見た。 すると50mぐらいのところに年は13、4であろうか、少女が自転車に乗ってこちらにやって来る。

 少女は私達に近くなってチリン、チリンとベルを鳴らした。 そしてそのまま私達を追い抜くのかと思ったところ、彼女は自転車からピョンと跳び降り、

 「兵隊さん達どこまで行くの?」

 と声を私達に掛けた。 私達は自転車が通れるように道の端に身を寄せ、自転車を避けたのであるが、突然声を掛けられ少々驚いたのである。

 「この先の船に帰るんだよ。」

 と私は答えた。 少女は

 「途中まで一緒に行ってもいいですか?」

 と言う。 少女はモンペではないがズボンのようなものをはいており、上衣は夏姿であった。 可愛い子であった。 オカッパの髪、優しそうな品のある顔をしていた。 私は

 「家は近く ・・・・」

 と尋ねたところ、少女は自転車を押しながら

 「この先を途中から左に折れればすぐ ・・・・」

 と答えた。

 30年を経た現在、当時少女を交えた3人の会話した内容については、あまり正確に覚えてはいないが ・・・・。

 「台湾の言葉で、娘さんと言うのは何というの?」

 と尋ねた。 するとその少女は

 「娘と言うのは、ギナとかザポギナと言うのよ。」

 と教えてくれた。 木下は初めから何だかバツの悪るそうな顔をしていて、私と少女の2人の会話にただ頭を大きく動かし、肯くだけであった。

 「兵隊さん達は、戦地に行くの?」

 その返事に対しては、「そうだ」と言うほか言いようはなかった。 通りすがりの少女に自分達のことを話して聞かせることもない。 また秘密である我々の行動に関してはロを堅くせざるを得なかった。

 大牟田を出発して以来女性と話し合ったのもこの少女とだけであった。 そしてそれが木下にとっては最後になったのである。
(続く)

2010年11月24日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (59)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 土曜、日曜日の両日上陸外出が許された。 夜の宿泊こそなかったが銭湯で思う存分今までの垢を落としてくることになった。

 高雄の中心街に出る道を、埠頭に沿って行くことにした。 公用便で通った道は大分大回りをしたことが後でよく分かった。

 埠頭は10月の大空襲による被害の跡がまだ生々しく、港の砂糖倉庫が爆撃され倉庫の中には山と積まれた砂糖が大きな唐米袋のまま焼け焦げており、また一部が露天に野積みしてあった。

 倉庫の入口から砂糖が溶けて飴状になり外に流れ出していた。 「ああ、なんともったいない」 と皆口を揃えたように言う。 袋が破れ出ている砂糖を皆で代わる代わる手で摘み舐めた。 少々辛味はするが、甘さは十分であった。 幼い頃食べたカルメラ焼を思い出す。 出来損ないの砂糖菓子など思いは様々であった。

 誰だか四つんばいになり、飴状の砂糖をなめた。 「帝国海軍軍人のする格好ではないぞ」 などと声が飛び出し、それを見て皆は腹を抱えるようにドッと笑った。 我々は、軍人として最高の偉業を担って、己が任務にまい進する堅固な精神の持主である反面、まだ、あどけなさの去りきらない少年の群像でもあった。

 内地では物資不足のときであり、砂糖不足はもちろんのこと。 この砂糖が内地に運ばれればどれだけの人が喜ぶであろうと思わず嘆息した。

 日中の日差しはまだ夏のそれと変わらなかった。 高雄の繁華街にはまだほど遠い郊外のこんもりと繁った林の一隅に、1軒の古びた商店があった。 小さな構えで、田舎の道端によくある駄菓子屋である。

 その店頭にサイダー瓶に 「パインジュース」 を詰めて売っていた。 瓶は少々埃っぽかったが暑いので私達はそれを買って飲んだ。 パインアップルの実の擦りつぶしたものが混っていて、それがザラザラと舌に触った。 現在のパインアップルの缶詰の中のシロップのようには、ねっとりとはしていなかった。 内地においては当時こんなものですら口にすることができない時勢であった。 私には甘い高貴な味に感じられた。

 台湾名物であるバナナは見当たらなかった。 腹一杯食ってやろうと張り切って入ったのだが、今はその季節でなく、町で一つも売っていなかったのは実に残念であった。

 国防色の軍服、それに半長靴、中には軍刀を手に提げた者もいた。 銘々が思いのままに街を散策した。 10月4日、〇四艇の講習が終わった時点では日本刀を護身用として所持していた者も少なかったが、高雄に来た頃には大小合わせ、約8割の者が郷里から取り寄せるなどして持っていた。

 高雄は海軍警備府、通信隊、航空隊などがあり、街には海軍の兵士が多く外出している関係もあって、巡邏 (巡回警備、いわゆるパトロール) 隊が幾組も街を巡回し、兵士達の規律の維持に当たっていた。

 ここ高雄は佐世保鎮守府の管轄下にあり、「佐鎮の巡邏は鬼より怖い」 と海軍内では専らの定評があった。 我々第12震洋隊の搭乗員の服装がこの巡邏の目に留まったのである。

 通常の外出に半長靴を履くことは許されていなかった。 私達は街の目抜き通を闊歩しなかったこともあって、彼等に出合うこともなかったが、搭乗員のうち10数名が捕まってしまった。
(続く)

2010年11月23日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (58)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 石炭の搭載が終わり、続いて石炭の焚き滓を団平船に移載する作業を行った。 こうした作業にも我々は率先して加わってゆき、スコップ捌きに熱がこもっていた。

 戦時における航海中の艦船は、紙片一つと言えども勝手に海中に投棄することは禁じられていた。 それは敵航空機や潜水艦などに、自分はおろか味方部隊の存在まで知らせることになるからである。

 ある一人の不注意から敵側に情報を与え敵側の作戦を優位にさせ、ひいては予期せぬ味方部隊の大敗北を招く結果にならぬとも限らない。

 したがって、「神福丸」 はあまり広くもない機関室上部の露天甲板に、航海中出た石炭の焚き滓を足の踏場もないほど堆く積み上げていた。 しかもそれは1週間足らずの航海によるものであった。

 さすが北回帰線に近い高雄は、11月下旬というのにまだ暑い。 搭載及び移載作業が終わり、「総員洗濯用意」 の号令が掛かった。 船の水タンクが満タンとなり、水船に残った水を我々の洗濯のために提供してくれることになったからである。 

 「神福丸」 の前甲板のスカッパーなどを塞ぎ、水が溜められ甲板が応急的に洗濯場となった。 久し振りに肌に触れることのできた水、各人は両手、両足を水に浸して水の感触を十分に味わった。

 水から与えられる喜び! まるでその仕草は幼い子供が水遊びをする格好に似ていた。 着ている服が濡れようと問題にしなかった。

 私は洗濯を始める前、両手の掌一杯に水をすくい思う存分顔を洗った。 洗濯が終わり、桶、空樽までを動員して溜めた水で体の汗を流し、さっぱりとした。


 その日の午後、私は公用便を命ぜられ郵便物を出しに行くことになった。 独り交通船に乗り陸に上がった。 交通船の着いたところは埠頭の岸壁のある中央部から相当離れた南側の隅のようであった。

 そこには人気がほとんどなく、そのうえ私は初めての土地であるため全くもって方向音痴であった。 果してどちらに向かって行けばよいのやら一瞬躊躇うような気持もないではなかった。 ええ、ままよと自分の鼻の向いた方に向かって歩いた。

 余程この辺りは人里離れた所であったに違いない。 人に道を尋ねようにも、人はおろか犬にさえ行き合わなかった。 約15分ぐらい歩いたところで転々と民家が見えてきた。 その家々は練瓦塀の内側にパパイヤの樹や芭蕉の葉がよく繁茂していた。

 この辺りに来てやっと自転車に乗った人に出合った。 全く助けの神である。 その人を止めて郵便局を尋ねると、快く道を教えてくれた。 だがここからは大分遠距離にあることが分かった。 埠頭岸壁に沿って行けば、小さいが郵便局があったのだが、もうここからでは本局の方が近いとのことであった。

 私はその人に 「有り難う御座いました」 とお礼の言葉を述べ、軍隊生活中、これ以上になかった元気一杯、後ろにそっくり返るほどの最高の挙手の敬礼を送って別れた。 実に頼りない使いではあったが、自分以外の誰かが使いに出たとしても恐らく同じような状態であったに違いない。

 ところがである。 やっと探し当てた郵便局に国旗が掲げてあり、「本日休業」 の看板が出されてあった。 それもそのはず、本日は 「新嘗祭」 である。 うっかりしていた。 戦地に向かっている自分の頭の中には既に祭日などという観念がなくなってしまっていたのである。

 手紙類は投函したが、為替等の事務的なものはまた持って帰るよりほかに手がなかった。 当直士官は私を公用便に出し、私の乗った交通船が 「神福丸」 から遠く離れ、いまにも船着場に着こうとしている時今日は祭日であることに気付いたそうである。
(続く)

2010年11月22日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (57)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地

 11月23日午前8時頃、「神福丸」 は高雄港の内港の係船ブイに、舫綱を取った。

 私のいたブリッジでは、船長が船を操る大きな声と、間断なく機械室に指令するテレグラフのベルもやみ、今まで張りつめていた一切の緊張が、頭の天辺から足の爪先の方へ抜けてゆくがごとく感じるのであった。

 本当にやれやれという実感を味わう。 こんな時は決まったように私の頭の中を、過去の海上での出来事が走馬燈の絵のように矢継ぎ早に巡っていった。

 ここ日本最南端の都市高雄、我々の目指す激戦地フィリピン群島も、もうすぐ手の届くような距離になった。

 内港の空にはかもめが4、5羽飛び交っていた。 彼女達は餌を求めてか入港後間もない本船の船尾付近に集まって来た。 そして物見高げに急上昇したり、急降下したり、その動きが実にせせこましく見えた。

 10メートルもない距離に近づき、上空からキョロ、キョロと首を回しながら 「あんた方、どこからお出でやした」 と言わんばかりの顔付きをし、覗き込んでゆくのであった。

 内港は恰も河を思わせるような所で、波一つ立たない静かな港であった。 高雄の街は平坦な街であったが、港の出入口に当たる部分が小高い丘陵になっていてそこは要塞地帯となっていた。

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( 当時の高雄市  元画像 : 1945年版の米軍地図より )

 程無くして、水船と燃料の石炭を積んだ団平船が横付けし、総員で石炭搭載作業を行った。

 船乗りと水、船乗りにとって何が一番大切かと言えばそれは水である。 水は命の次に大切なものであり、日常生活には不可欠なものである。 したがって予定どおりの航海が終えればそれほど節水に意を用いることもないが、戦時ともなればいつ、どこで、どのような異状事態が発生するか、それはだれも予知できるところではない。

 だから、起こる可能性を十分に計算し、不測の事態に我々は備えざるを得ないのである。 そのためには普段から節水する習慣を身に付けておかなければならないことは言うまでもない。

 特に、海軍の日常生活においては節水に関する限り徹底した躾教育が行われた。 「神福丸」 にあっても例外ではなく、一旦出港すると、たかがコップ1杯の水と言えども我々の自由にはならなかった。 飲料水の取り出し口には手押し式ポンプが取付けてあったが、そのポンプのハンドルは出港するとすぐ取り外し、格納されるのであった。

 航海が何日も続く、そうなれば朝、顔を洗うことも、歯を磨くこともできなかった。 ましてや大量に水を消費する入浴にあってはおいておやである。 したがって、我々は基隆を出港し、高雄に入港するまで身体を洗うことも、身体を拭くこともできなかった。

 皆が所持していた官給品の下着はせいぜい3、4着程度であり、航海中ほとんど着替えることもしなかった。 例え着替えたとしても今まで着ていたものを洗濯することができないので、おのずから着のみ着のままの状態を続けざるを得なかったのである。

 このようなとき、薄緑色に着色されたシャツが1着我々に支給されていたが、そのシャツを専ら着る習慣となっていた。 汚れめが目立たないことにことよせ、またそれは無精者にはもってこいというものであった。 少年期の体臭は異様な臭気となって船内に漲っていたことであろう。

 横須賀を出発して以来1か月が早や過ぎてしまい、シャツの色も汗の塩分で部分的に変色し、白いむらと緑のまだら模様になってきた。 それというのはこの緑色のシャツの染め方が悪いのか、安い染料で染めたものと思う。
(続く)

2010年11月21日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (56)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 窃盗の犯人は誰だ (承前)

 翌日再び集合が掛けられ、くだんのことについての調べがまた始まった。 決まりきったような脅し文句を我々に向かって次から次へと浴びせかけるのであった。

 「今まで待ったが、誰一人として申し出た者がなかった。」

 「よし、お前達がそういう気持でおるのならば、こちらはどうしてもお前たちの中から犯人を捜し出してみせる。」

 「普通の泥棒と訳が違う、貴重な部隊の糧食を盗んだのだ。」

 と決め付けてきた。

 「申し出があったなれば、その者だけの説諭で終わったのであるが ・・・・ 」

 と言い、3人が顔を見合わせた。 だが搭乗員の誰もが何食わぬ顔をしているのを見て彼らは手をやき、次の戦法を決行しようとお互が目配せをした。 先任下士官はもう一人の下士官に顎で合図をした。 すると彼は何やらを取りにその場を去って行った。

 「今から、皆の指紋を採る。」

 と前置きし、更に強行な手段へと事態は移行していった。 幸いにも暴力的な制裁をもって我々を屈服させようとする手段には出なかった。 先の下士官は手に白紙と印肉の函を持ってきた。 そして我々の指紋探りが始まったのである。

 白紙1枚を使って一人分となるよう、両手の指の指紋を採った。 紙の右端に 「〇〇2飛曹」 あるいは 「××飛長」 と書き留めていった。 ごつごつした下士官の指が自分の指をつかみ、印肉の函にその指の先を入れ、印肉の付いた指を押しつけ半回転するようにして、一本一本の指の指紋を採る。 これほどに屈辱感を感じたこともなかった。

 全く、おれたちは犯罪者ではないぞ、お前達の奴隷でもないぞと憎しみが湧く ・・・・。 皆の指紋採取が終わって、

 「この指紋は、入港したら高雄憲兵隊に出向き、憲兵による捜査をお願いする。 皆はそのつもりでいるように ・・・・ 」

 と最後はあっけない幕切れであった。 いよいよ憲兵のお出ましか。 内心穏やかならない事態の進捗に、我々の胸中は揺さぶられるのであった。

 こうした重大事件 (彼らが言う、またビタミン剤一缶の亡失らしいこの事件) の犯人調べに、部隊を含む他の士官が一人として同席していないのはどうも解せないところであった。

 私のようなあまりよくない頭で考えて ・・・・、若しも、我々の中から犯人が挙げられた場合、これからの任務行動はどうなるのか、攻撃隊の編成はと、矢継ぎ早やに心配が頭の中を走った。 この事件に憲兵が乗り出さねばならないほど重大なのか、我が部隊が重大任務を帯びて戦地に直行しなければならないときだけに疑問とする節が多々あった。

 どうも今回のことは、T少尉ほか部隊の先任下士官達が独断で実行した窃盗犯人探しのようであった。 我々の日頃の態度が、彼らからみてどうも目立ち過ぎたように感じていた。 そこで、彼らはこの辺でちょいと搭乗員達に気合を入れておかなければというような空気がないでもなかった。

 この憲兵に調査を依頼する件は、その後何一つとして音沙汰はなかった。 人の話では、彼らが部隊長に申し出て、一喝され反古になったとか ・・・・。

 それにしてもいまいましい彼らの横暴な日本海軍下士官根性とでも言うか、このような態度はいただけぬものがあった。 予科練時代を含めて、理の通らない暴力による制裁をもって部下をしごく下士官の悪習を見てきたが、これこそは我が海軍の恥部ではなかっただろうか。

 自分達も若いながらも下士官となっていたが、部下指導に当たる場合、決して暴力や脅しなどで部下を屈服させ従えるような野蛮な行為は絶対にやらないぞと、重ね重ね肝に銘じるのであった。

 「真の勇者は、野蛮な教育から決して生まれるものではない。」
(続く)

2010年11月20日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (55)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 窃盗の犯人は誰だ (承前)

 私達の前に立っている3人は、見るからに意地の悪そうな顔をして突っ立っていた。

 このように総員が集められ、注意を受ける場面は、予科練時代ではしょっちゅうあったことである。 だから別に驚くこともなかった。 久し振りに予科練時代を思い出すのであった。

 銀バイならば、これほど騒ぎたてることもなかっただろうが、盗んだのではよくないことだ。

 海軍では 「銀バイ」 という言葉がある。 それはある物品 (主に食料品関係が多い) を正規の手続並びにルートを経て受領するのでなく、別のルート、すなわち顔や役職を利用して手に入れることを言った。

 物によっては食料品以外のものもあったが、この言葉の意味は分かりやすく言うと、“うまい物には大きなハエ (特に大きな銀色のハエ)、すなわち銀ハエ (イ) が止まる” ということから出たようである。

 今回の出来事は誰かが盗んだのであろう。 がしかし、搭乗員が必ずしも盗んだとは限らないことであった。 それというのは、この船倉に住んでいた者は士官を除いた総員であり、搭乗員ばかりに疑いをかけるのもおかしな話であった。

 だから搭乗員は誰一人として自分がやったと言って申し出る者がいなかったのである。 長い間の黙秘が続き、とうとうその日は解散となった。

 我々搭乗員間では、日ごろからどうしてもT少尉になじめなかった。 それというのもこのT少尉に接した者はみな決まったように何か一言嫌味を言われることがあったようである。

 彼は常に気が荒れていたのか、オステリー (女性のヒステリーをもじり、男だからオスそれにテリーを付けて) 気味であったのか、自分の憂さを我々に向けていたように思えた。 彼からみれば小輩の我々を常に小馬鹿にしていた。 そういう態度がありありと見えたのである。

 “いけ好かないやつだ” という感情が知らず知らずのうち我々の間には芽生えていた。 したがって特に用のある以外は彼に近づく気風はなかった。

 このように和気あいあい、闘志満々の特別攻撃隊員の我々にとって、我が隊の上官の中には必ずしも従属できる人ばかりではなかった。 憎さが蓄積したあまり、時々我々のロから冗談ながら

 「あやつ、戦地に着いたら思い知らせてやる。 彼の宿舎の下にダイナマイトを仕掛け、小屋もろとも木端微塵にぶっ飛ばしてやるぞ。」

 と ・・・・。 彼らが引き揚げた後、先輩格の19期の者の中には、アハハハ ・・・・ と彼らを嘲けり笑う者すらいた。

 威圧によって下級者を屈服させようとする気風は軍隊生活における部下従属法であろうか。 こうした方法を今までよく体験したものの、愚者の行う常套手段と私は考えるのである。
(続く)

2010年11月19日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (54)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 窃盗の犯人は誰だ

 高雄港外に仮泊し、今日の夕食は久し振りに搭乗員皆一堂に会しての食事ができた。 とかく航海中は当直勤務中の者がいて、こうした団欒の時が失われ気味であった。 いつも食事の準備は後輩の20期が自主的にやってくれていたが、今晩は彼らに代わって自分達でやった。

 海軍では、1日でも早く入隊した者が先任者であり、後任者は礼を尽くさなければならなかった。 その関係は誠に厳しく、不文律として代々受継がれてきた。

 そこでこの不文律を破るわけではないが、今の我々の境遇にあってはそんな習慣は捨て去ってしまいたかった。 志を同じくし、行動を共にする者 (19期と20期) 全てが同待遇であり、差別があってはならないと私は考えるのであった。

 予科練に入隊して以来、猛訓練の毎日であった。 まだ子供同然の自分達は、自分自身のことをするだけが精一杯で、他に目を向ける余裕すらない毎日の生活を送ってきた。 だから、心の底から人に情けをかけるなどの美徳は、およそ出そうにも出すことのできない状態であった。

 最近になって僅かながらも他人に対して思いやりの心が表面に出せるようになった。 自分としては実に素晴らしい成長であった。 そうした気分で食べる食事は実に美味しかった。

 皆の食事が終わろうとした頃、先任衛兵伍長がやってきて、我々搭乗員は食事の後片づけを済ましたならば、総員集合するように達せられた。

 何事であろうかと疑惑感が先に走る。 後片づけが終わりその旨を告げると、我々の前にT少尉と先ほどの先任衛兵伍長、とそれに後一人の先任下士官の3名が現れた。

 T少尉 (特務士官) は集まった我々に向かって、やおら身体を左半身に構え、おもむろに口を開き、低いドスの利いた声でまず口火を切った。

 「お前達、搭乗員総員集まってもらったのは他でもない。 本船のこの下 (そこで床をトン、トンと蹴る) 船倉に搭載してあった特別糧食が、何者かの仕業によって盗まれた。」

 「 ・・・・ 」

 「これは、お前達の中に不心得者がいて、その者が盗んだとしか思えない。」

 T少尉は、我々に向かって “どうだい” というような顔をした。

 「盗んだ者は素直に申し出ろ。」

 と口調が厳しかった。 我々搭乗員は、「 ・・・・ 」 皆口を堅く結んで、何も語らなかった。

 そういえば、私も、この度の航海は時化のときが多く、船の動揺も大きかったため、居住区の敷板の透き間から手袋が下の船倉に落ちたとき探しに行ったことがあった。 そのとき手袋は船倉の下のほうまで落ちず、中途の震洋艇の箱詰めの木枠に引っ掛かっていた。 拾って帰るときビタミン剤の入った缶の口が開いているのを私は見た。 そうだ!

 またこの航海中、このビタミン剤と同じものを誰かに貰って食ったことをふと思い出した。 このビタミン剤は幼少の頃食べたチャイナマーブルという菓子があったが、それによく似たもので栄養補助剤である。 糖で覆われているこの錠剤は、甘い菓子のなくなったときだけに、それは菓子代わりになり、我々の舌を僅かながらも喜ばせてくれたわけである。

 若しやそれが問題の “やつ” ではなかっただろうか。 私はてっきり配給されたものだと思い貰って食べたのであるが ・・・・。
(続く)

2010年11月18日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (53)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 第1遊撃部隊の内地回航

 11月15日1234 豊田連合艦隊司令長官は連艦隊電令作第419号をもって次のように発令したのである。

  一、第1遊撃部隊 (「大和」)、第3戦隊 (「長門」 「金剛」)、「矢矧」、駆隊艦4隻 (損傷艦駆逐艦ヲ含ム) ハ燃料満載ノ上内地二回航、夫々所属軍港二於テ急速整備ヲ実施スベシ

  二、第31戦隊ノ駆逐艦2隻ハ第1遊撃部隊指揮官ノ指揮ヲ受ケ、基隆付近迄之ガ護衛二従事スベシ

  三、第1遊撃部隊指揮官 「ブルネイ」 発以後第1項以外ノ南西方面所在第1遊撃部隊兵力 (「高雄」 「妙高」 ヲ除ク) ヲ南西方面部隊指揮下ノ作戦指揮下ニ入ル


 以上のような連合艦隊司令長官の命令により、11月16日1830、「大和」 以下第1遊撃部隊及び第3戦隊の戦艦は内地に向けブルネイを出発したのである。

 駆逐艦の4隻は第17駆逐隊 (「浦風」 「磯風」 「浜風」 「雪風」) であり、後の2隻は第31戦隊の 「桐」 及び 「梅」 が充当された。

 しかしこの内地回航部隊は回航の途中、11月21日未明、台湾北部の東シナ海で 「金剛」 と 「浦風」 が米潜 「シーライオン」 (Sealion, SS-315) の魚雷攻撃を受け沈没したのであった (日本の戦艦の中で潜水艦の攻撃により撃沈されたのは、この 「金剛」 が最初であった)。 この2隻の他は、23日瀬戸内海西部に到着したのである。

 以上のようにこの戦艦群は 「比島沖海戦」 に敗北を喫し、かつては世界最強を誇った日本大海軍のいまは生き伸びた全勢力なのであった。 もはや東シナ海も含めて東南アジア海域の我が制海権は完全に連合軍側に移ってしまっていたのである。

 そんなことも知らずに我々は東シナ海を通過してきたが、いかに東シナ海及び台湾海峡付近における敵潜水艦の活動か活発であったかと ・・・・。


 「神福丸」 は高雄を目前にした20日の夕方、高雄及び台湾南部方面に警戒警報が発令され、高雄港外及び台湾南西部方面を航行中の全日本艦船は洋上に避退せよということになったのである。

 高雄港はすぐそこの丘の裏側だと、船長が我々に教えてくれたが残念ながら入港はできない。 そこで 「神福丸」 は右折し、シナ大陸へ向かう針路をとった。 なかなか自分たちの思うようにはいかないものだ。

 高雄港に尻を向けて今晩は流浪の旅か。 11月ももう下旬になった。 内地での朝夕は大分冷えることであろうが、さすが北回帰線の近くであるこの地方は、まだ初秋を思わせるような暑さが残っていた。 ゴロ寝の毛布もただ腹に当てるだけだが首にはべっとりと汗をかくほどであった。

 日中、オープンブリッジにいるせいもあってか顔が日焼けしてみるからに遥ましくなってきた。 最近では顔も洗わない毎日となり、しょろ、しょろと生えた不精ひげで誰もが1段と精気の漲ったように見えるのであった。

 21日、22日とただあてもなく洋上を彷徨う航海が続き少々だれ気味となっていたところ、22日正午前になって 「空襲警報」 を受信し、「敵機が来るか」 と緊張の度合が深まりぴりりっとしたものを感じた。

 敵機動部隊による襲撃を受ければ、こちらは 「神福丸」 ただ1隻であり、たちどころにして海の藻屑となることは火を見るよりも明らかであった。 我々の目は全て南の空へ向けて注がれた。

 「上空も見落とすな!!」 「太陽の方向をよく見張れ!!」

 かくして約2時間はまたたく間に流れていった。 とうとう爆音を聞かないまま 「空襲警報」 は解除となり、続いて 「警戒警報」 も解除となった。

 警報の解除の報が船長に報告されるや否や、待っていましたとばかり 「神福丸」 はくるりと目指す高雄港へ船首を向けたのである。 日没時までには、港外の泊地に着くことができることを航海士が船長へ告げていた。

 風はやや強かったが、海上はそれほど波が立っていなかった。 いくらか予定より早く、まだ日のある内に高雄港外の安全泊地に投錨した。 誰の顔を見ても、やれやれという表情が満ち溢れていた。

 高雄港も基隆港と同じように、味方の機雷堰で港が厳重に防御してあった。 そのため港内に入港するには 「軍極秘」 と記されたチャート (海図) に従わなければならなかった。

 投錨を終え、一息いれた船長と航海士が海図台に軍極秘のチャートを広げ、明日の入港計画を練っていた。 両人の真剣な表情に、私はしばらくの間見とれてしまった。 港外に仮泊はしたものの、内港の方に入らなければ、決して安心はできないのである。

 熱帯樹の茂る陸岸も、今では全て黒一色の闇の中に吸い込まれてしまい、ただ波打ちぎわに不鮮明ながら白い波が見え、その波音だけがざあ、ざあと耳にこだましてくるのであった。
(続く)

2010年11月17日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (52)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 単独高雄に向かう

 11月19日の早朝、基隆港を出港、「神福丸」 は単独で高雄港へ進出することになった。 また護衛艦なしの航海であった。

 軍艦 「青葉」 の左舷側を通過するとき、「青葉」 ではサイドパイプが吹かれ、「総員上甲板、神福丸に帽振れ」 と号令がかけられた。

 本船側も非番直員は総員上甲板に出て見送りに答え、一生懸命、帽子やタオル等を振った。 被害を受けた巡洋艦 「青葉」 の姿は痛々しく、日本海軍の衰勢をなんとなく感じさせるようでならなかった。

 港口を出て進路を左へ、左へととる。 左手には台湾北部の連山が見える。 陸岸からあまり遠ざからないようにして航海する。 針路は西から段々と南に変わって行き、不気味なほど敵機の空襲に遭うこともなかった。 こうして単独の航海をしていると、平和時の船旅であればさぞかし楽しいことであろうと・・・・。

 この方面の海上模様はすぐに変わりやすい。 「神福丸」 は全速力8ノットで走る。 対空、対港の警戒を一時も緩めることはできない。 気分的には台湾の沿岸の航海であるというなんとなく気楽さがあり緊迫感はなかった。

 まる一昼夜の航海は何の変哲もなかった。 正午頃、緯度の上からみて澎湖諸島の東方海上を通過する。 空はどんよりとしていたが視界はその割には遠方までよかった。 波4、うねり3と海面は躍る。

 午後1時頃、「前方水平線に、黒いものが見える」 と見張りが叫ぶ。 「大型船だ」 次に 「大型艦だ」 と報告が変わってきた。 12サンチ双眼鏡で確かめると、それは日本の軍艦、しかも戦艦の楼のようである。

 「戦艦らしい」 見る見るうちに水平線から巨体を現し、こちらへ近づいてくる。 戦艦だ!

 ところが戦艦に違いないと思うが、どうも横幅が大き過ぎる。 おかしいなあ、奇妙な戦艦だ。 初めは前後の船が重なって見えるのだと思っていた。 ところが安田兵曹長が 「あれは大和だ」 と言った。

 世界最大の戦艦 「大和」、6万2干3百トンである。 レイテ沖の海戦では同型艦の 「武蔵」 が主砲の一斉射で一度に敵機を約10機撃墜したという話を聞いた。 それは 「青葉」 で聞いたばかりの話であった。

 こんな所で戦艦群に遭うとは夢にも思わなかったことである。 斜め反航 「的角右20度」 (的角右20度とは、「大和」 の針路を零度として、自分の方向角が左に20度ということである) ぐらいであった。

 戦艦は単縦陣 (一列縦隊) でその両側に駆逐艦がいる。 縦陣列を作っていた。 「神福丸」 の右30度ぐらいになったとき、先頭に巡洋艦 「矢矧」、次に戦艦 「金剛」 か 「榛名」、その次は同 「長門」、一番殿 (しんがり) が 「大和」 であることが分かった。

 両外側の駆逐艦は戦艦群に比べると、まるで問題にならないほど小さく見える。 その駆逐艦は波しぶきを上甲板までかぶりながら走っている。 速力は24〜25ノットであろう。

 堂々たる我が海軍の威容、戦艦群を一目見ようと 「神福丸」 の上甲板には総出の見物となった。 日本海軍健在なり、我々はこの勇姿を見て大いに勇気の増すところとなった。

 この 「大和」 を中心とした戦艦群は比島沖海戦を終え、日本内地に向け北上中であった。 反航であり、また高速力のため見るみる間に過ぎ去ってしまった。 私達はこれらの艦艇に今後の活躍を期待し、心の中で健闘を祈った。

 ところが、この堂々たる戦艦群には、我々の知らない事情があった。 それは次のとおりである。
(続く)

2010年11月16日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (51)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 潜水艦による対日海上交通破壊戦

  潜水艦の増強

 米潜水艦の建造は、開戦以来強力に推進されてきた。 そして続々と増強された潜水艦部隊は、レイテ進攻作戦に至るまで常に対日海上交通破壊戦の主役として活躍してきた。

 この潜水艦を中心とする海上交通破壊戦により日本船舶はその大多数を喪失し、回復の為の努力も実らないまま更に減少の傾向を辿っていった。

 この日本船舶の喪失は直ちに潜水艦の攻撃目標の減少にも繋がった。 しかし物量でものをいう米本国にあっては、なおも潜水艦の建造を進めていったのである。

 昭和18年7月及び10月米潜水艦3隻は宗谷海峡から日本海に侵入していたが、日本海に対しては潜水艦作戦の圏外に置かれていた。 これは10月 「ワァホー号」 (Wahoo, SS-238) という潜水艦の喪失を契機として日本海への侵入を一応断念したためでもあった。

 そこで日本海における米潜水艦の行動は別として、太平洋海域で活動する潜水艦数は、喪失したものも多数あったがそれにもかかわらず昭和19年末には156隻となっていた。

 これが昭和20年8月の終戦時にはなんと182隻に増加していた。 これはいかに日本海上交通破壊戦を徹底的に遂行したかを物語るものである。


  戦果の減少

 このような米潜水艦の増強にもかかわらず、潜水艦による船舶の撃沈数は昭和19年12月以降急激に減少を始めた。 この主な原因は、日本船舶の減少に伴い目標が著しく減ってしまったうえに、航空部隊特に空母搭載機に目標をさらわれる結果となったからである。

 目標の減少については米太平洋潜水艦部隊司令官ロックウッド中将は、「12月の撃沈成績は芳しくない。 目標が減少し、かつ小型になった。 日本は海上交通を放棄したのではないか。」 と、また 「1月の撃沈成績は極めて少量である。 2月の撃沈成績は従前のものに比べ更に少なく誠にわずかである。」 と嘆いていたということである。

 同潜水艦部隊は雷撃目標が減少したので黄海の浅い海面、満洲及び朝鮮半島沿岸、あるいは日本本土の港湾へと極めて危険な海面に進出、行動しなければならなくさせられたのである。
(続く)

2010年11月15日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (50)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 当時の海上護衛と米潜水艦の概要

 昭和19年11月における門司からマニラへの出撃船団の状況は海上護衛総司令部等の資料によれば次のとおりであった。

   門司−高雄   南航1回 (12隻)
   高雄−マニラ  南航6回 (40隻)

 このように門司からマニラに向け出発した船団はただ1つであり、その船団名をモマ07船団と称した。 船団隻数12隻に対し護衛艦の数は5隻であった。 我々を乗せた 「神福丸」 は、多分この船団内の1隻として門司を出港したのだと思う。

 戦局の逼迫とも関連して、各船団航行中の全敵数も次第に増加の傾向をたどり、特に敵航空機との会敵回数の増加は特徴的であった。 これにつれて船舶の被害の割合いも急激に増加していった。 当時この方面の海上護衛を担当した第1海上護衛隊の 「戦時日誌」 によると、19年11月における船団等に関する資料は次のとおりである。

船団数会敵回数全船団に対する
100分比
船舶数被害船舶全船舶に対する
100分比
 
39
(8)
34

87.2

233
(3)
29

12.4
      上記の数字中 ( ) 内 は航空機による数を表わし、内数。

 残念ながら12月分については、資料の収集難及び欠除によって判明しない。

 「捷号作戦」 後、米潜水艦は依然ルソン海峡及びルソン島西方海域に蝟集するとともに、米機動部隊並びに在支米空軍の活動はいよいよ活発化し、比島方面補給に対する妨害と並んで、我が南西方面航路に対する遮断作戦を強化してきた。

 同方面の護衛を担任する第1海上護衛隊の責務はますます重大化するとともに、その護衛作戦は困難の度合を加えていったのである。

 この情勢に対し、第1護衛隊は全力を傾注して護衛作戦を遂行していった。 第1護衛隊は19年12月10日付で、第1護衛艦隊に昇格したのであり、このことからみても、如何にこの方面の海上輸送及び海上護衛任務が重要な問題であったか。 いわゆる南方の戦線における日本軍の戦闘力を左右する補給線の確保に結びつくからであった。


 米国の対日海上交通破壊戦

 相次ぐ戦線の後退と、米国の対日海上交通破壊戦の強化により、逐時縮小を余儀なくされていった日本の海上交通は、米軍による比島攻略作戦の進展とともにますます困難の度合を早めていった。 米軍の比島進出が日本の南方資源航路の中央部を締めあげる形となったからである。

 うち続く船舶の喪失は、既に日本の戦力維持に必要な海上輸送力を失わせていた。 しかし依然戦争遂行に全力を傾ける日本は、昭和19年末頃においては主として、本土 − 朝鮮、満洲及び北支間の海上輸送を推進するとともに、既に絶えようとする南方資源航路を細々ながらも維持していた。

 本期間において、米軍は上記の海上交通に対し徹底的な海上交通路破壊作戦を展開した。 そしてその手段として、従来の潜水艦による魚雷攻撃、航空機による爆撃に加え大規模な機雷戦を実施したのである。
(続く)

2010年11月14日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (49)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 軍艦 「青葉」 を訪れる

 昭和19年9月中旬から10月初めにかけて米機動部隊の動きが活発となり、比島方面はもちろんのこと、台湾及び沖縄方面まで圧力をかけてくるようになった。

 同年10月12日から約2日間にわたり台湾沖で航空戦が展開されており、台湾方面は敵艦載機による大空襲を受けたのである。 また10月23日からは 「比島沖海戦」 が行われ、ますます日本側は艦艇及び航空機の損耗が大きく、重大な危機へと追込まれていったのである。

 第16戦隊の旗艦であった巡洋艦 「青葉」 は、10月23日 (比島沖海戦の初頭)米潜 「ブリーム」 (Bream, SS-243) から雷撃を受け、機関室に浸水し航行不能となってしまった。 その後僚艦 「鬼怒」 に曳航されマニラに入港したのである。

 マニラにおいて自艦航行可能となるまでの応急修理を行い、内地で大々的な修理を行うため、マニラを発ち、途中基隆港に寄港したのであった。 我々が敵潜水艦の網の目をかいくぐり、命からがら基隆に逃げ込んだ時、図らずも 「青葉」 もまた基隆港に一時その身を寄せていたのである。

 「青葉」 は左舷側、カタパルト (飛行機射出台) の下あたりの外板が大きく捲れ上がっており、生々しい傷痕が痛々しく私達の目に刺さるようであった。

 11月17日、今日も半舷上陸外出が許可された。 しかし、搭乗員については希望する者は皆許されたのである。 私は上陸外出することを止め、日中自分の身の回り整理などをして過ごした。

 その日、朝から雨が降っていたが午後には雨も上がった。 安田兵曹長が残留している私達の所に来て、今夜部隊長が 「青葉」 に行かれるが、その時搭乗員を4、5名連れて行くからその者を今のうちに決めておくようにとのことであった。

 日が暮れて、私、阪東、小川、関根と宮沢の5人は 「神福丸」 のカッターを漕ぎ、部隊長に連れだって「青葉」を訪れた。 私は海軍に入隊して初めて軍艦のラッタルを登り内部を見ることができた。 したがって他の者達も私同様胸をときめかせながら部隊長と同行したのである。

 「青葉」 の右舷梯 (まま) にカッターを横付けすると、副直士官が降りてきて部隊長に用件を伺った。 そして一旦副直士官は艦内に戻り、代って当直士官と2、3人の士官が出てきた。

 「上がって来いよ」 と上から声が掛かる。 部隊長は右手を挙げ 「はい」 と答えた。 「皆も連れて来いよ」 既に舷梯の中ほどにいた部隊長は皆に向かって手招きをしなからラッタルを登る。 舷門番兵の規律は厳正で厳めしく感じた。 皆 「青葉」 艦上の人となったのである。 部隊長と私達は第一士官次室 (ガンルーム) に案内された。

 「貴様・・・・」
 「貴様・・・・」

 と、部隊長と同クラスの士官あるいは先輩の話は 「貴様」 ばかりがいやにハデに聞こえて、我々は少々面食らってしまった。 この優しい 「貴様・・・・」 の洗礼が終わり、部隊長は第一士官次室の一同に私たちを紹介してくれた。

 「そうかそうか、皆若いのになあ。」

 と彼等は肯いていた。 若い海軍士官は日焼けし、きりりっといかにも海の男らしく皆精悍な目付をしている。 これに反し我々は少々てれぎみであった。

 「君達はいくつだ。」

 若くても俺達は海軍々人だ、年を聞くのは少し失礼ではないかと思ったが、「18です」 と阪東が代表して答えた。

 「まだ若いのになあ。」
 「しっかり頼むぞ。」

 私達は 「はい」 と声を揃えて言った。

 「あとは俺達が必ず守るぞ。」
 「俺達も続いて行くぞ。」
 「大きな戦果を頼むぞ。」 と激励の言葉が続く。

 「松枝、菓子などあるのか。」

 部隊長はコックンと頭を軽く肯いてみせた。

 「皆、そこにあるのを心置きなく食べてくれ。」

 これから最前線に向かう者と内地に帰る者との心と心が互いに触れ合う。

 やがて 「青葉」 の副長もこられ、色々と気を使われ我々を励まし労ってくれた。 部隊長から副長へ、我々の任務とこれからの行動等についてあらましの説明をされた。

 約2時間の後 「青葉」 を去ることになった。 士官室の総員が舷門まで出て見送ってくれた。 情け深い人達、部隊長の先輩の甲板士官の目には涙が光っていた。

 この夜の気分は爽快であり勇気付けられた。 帰りのオール捌きは一段と元気が加わった。 士官室での話の中で関大尉による神風特別攻撃隊が出現したことを知り、飛行機の連中に先陣を取られたのかと悔しさが湧いた。 門司を出てもう3週間以上も経つというのに、モタモタしてまだこんな所にいることが歯がゆくてならなかった。

 「残念ながら如何ともなし難し」

 震洋も神風に負けぬくらいの奴をきっとやってみせるぞ、と決意が更に堅くなっていった。
(続く)

2010年11月13日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (48)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 基隆に寄港す (承前)

 ふと気がついた時私のすぐ側に幼い男の子が2人いた。 誰を待っているのか、父親であろうか、お母さんだろうか、勤め先から帰って来る人を待っているのであろう。 2人の年は6歳と4歳ぐらいである。 中国系らしい可愛いい顔の子供たちであった。 私は彼等に声をかけてみた。

 「年はいくつ?」

 すると2人は、それぞれ可愛らしい指で私に教えてくれた。 やはり自分の思っていた年に間違いはなかった。

 「お父さんを待っているの?」

 と尋ねると2人は揃ってこっくりと肯き、「うん」 と言った。 2人が父親を待っている姿がなんといじらしくもあり、この子供の心の中に急に飛び込んでみたいような気分になってしまった。 弟のほうが兄に比べ人なつっこく、たどたどしいなまりのある口調で

 「兵隊さん、だれを待っているの?」

 と私に問いかけてきた。 私は首を振りながら

 「誰も待っていないんだよ。」

 というと、弟は 「ふーん」 とホームのほうを気にしながら返事をした。

 子供の履いたズボンの膝にはふせ当てがしてあった。 戦争中の物資不足がこんなところまで及んでいる。 それでもこんな服を着ているところを見れば、子供たちは中以上の生活をしている家庭のようであった。

 私と弟の方とはすぐ仲良しになり話をした。 兄の方は内気で人見しりをするのか、私の顔を見ながらズボンを摺り挙げたのち、一言もしゃべらず改札口の木柵に両肘をつき頬杖をしてホームの方へ向いた。 その格好は半人前というか、木柵にやっと届いたような姿で可愛いい。 弟も兄のしている格好を真似しようとしたが、背伸びしてもそれはできなかった。

 しばらくして私は2人に気付かれないように、そっとその場を離れ駅の売店に行った。 2人に菓子をと思い買い求めた。 ありふれた菓子ではあったが、それを持ってまた2人の傍に踵を返した。

 まず弟に菓子を与え、兄にやろうとしたが遠慮をしてすぐに受け取ってはくれなかった。 それに比べ弟は遠慮も何もなく両手を差し出し受け取ってくれた。 遠慮して受け取らない兄の分を弟に渡すと、彼はしかたなく受け取るような表情をしやっと受け取ってくれた。 そして私のほうに振り向きペコンと頭を下げニコリと笑い顔を返した。 キャラメルようの菓子を弟はすぐ口に頬ばりしゃぶっていた。

 次の到着列車が入ってきた。 が子供達の父親は帰ってこなかった。 この次の列車かも知れないと私は二人に同情を寄せた。 私はいつまでも駅にいるわけもいかず船へ帰ることにした。

 「それでは、兵隊さんは帰るからね。」

 というと2人は目を大きくして驚いたような顔をし、「さようなら」 と言った。 弟は数歩私についてきていきなり私の手を握り、

 「兵隊さんとそこまで行く。」

 と言う。 握った可愛いい軟かい手から温くもりが私の手に伝わってきた。 駅の玄関まできて、

 「兄ちゃんのところへお帰り。」

 というと、彼は口に菓子を入れたままだったのでうなずき、元いた兄のところへと駆けて行った。 菓子の袋を両手でおさえ胸に当てて走っていた。

 こうして2人の子供と過した短かい時間ではあったが非常に楽しく感じ、現在でも目をつぶれば当時の2人の顔さえ浮ぶほど頭の中に残っている。 私には弟はいないがまるで弟達と一緒にいたような時間でもあった。 人を慰める心をまだまだ私は忘れてはいなかったようである。

 大したことではないが (他の人にあっては本当につまらないことかもしれないが) 死を直前にしてとても大きな善行をしたような明るい気分になっていた。

 夜空には美しく星が煌めいていた。 目の前はずーっと長く暗い道が続き、あるところまでは道路がハッキリと見えていた。 船へと帰る道ではあったが、それがなんと私の人生の花道でもあるかのようにさえ見えるのであった。

 急に母のあの優しい子守唄が聞きたくなった。 すると不思議にどこからともなく聞えてくるようであった。 私はその歌声に合わせるかのように口ずさみ歌う。 すると心の中がサッパリとした爽やかさに変わり、踏む我が足音は勇ましく耳に響く、私はなおも力強く胸を張って人通りのない夜道を元気よく活歩した。
(続く)

2010年11月12日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (47)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 基隆に寄港す (承前)

 こうして街の中をひと通り見物し、もう行くあてもなく日暮近くなってしまった。 街を見物したからとて土産物など買って帰る必要もなくなったいまでは、ただ陸の上を歩くだけである。 これから帰船するまでの道は2、3人で行動することにして皆別れ別れになった。

 最後になるかもしれない陸の上での自分。 だが私は精一杯、生きるための足掻をしてみようという気も別になかった。 孤独な沢の淵に立っているような自分、どこまでもいくらでも静寂の中に埋もり続けておれる心境にさえなっていた。

 この心境は決して意気消沈してしまったということではない。 これはむしろ別世界の人生を歩く人のようであった。 素晴らしい目標に向かって進む我身には赤い赤い血潮が熱さを感じるほどに流れているようであった。

 台湾に米軍機の空襲 (台湾沖航空戦の前後) があって以来、ここ基隆の街は日暮れてから街灯も消えた暗い街になっていた。

 帰路の道すがらこれといった考えもなく、ただ足を運んでいた。 ところがふと私の目の前に広場が現れてきた。 どう見てもそれは駅のようである。 外観は大きな建物であるが正気が失せたようにみえた。

 止まったままの蒸気機関車が吐く蒸気の音が、ぐっとスローな調子でシューポー、シューポーと聞えてくる。 建物の正面に 「基隆駅」 と書かれた掲示が暗いながらも読めた。

 基隆駅は台湾の北の玄関口である。 私は幼い頃、正午を船に示めす時刻標示塔のある小高い丘に立って門司駅 (現在の門司港駅) から発着する列車をよく眺めたものであった。 その門司駅と基隆駅の駅舎が実によく似ている。 懐しい思いにひかれ駅舎に近づいてみた。 駅舎内部もこれまた実によく似た構造であった。

 冬の暮れは暗くなるのも早い。 時間的にいって勤め帰りの人で駅は賑わう頃のようであった。 大きな駅舎内は灯火管制され全体に暗かった。 人々の動きがせせこましく感じる。 そんな中で発車を告げるべルが鳴り響く、発車時刻の間際に駆けつけた人が5、6人走って行く。 その人達はやっと列車に間に合ったようである。

 入れ替わるようにして到着の列車が入ってきた。 発車した機関車が勇ましく蒸気を吐く。 その昔がしばらく余韻を残しながら続いていた。 一時の間改札口は人、人、人で混み合いが続いていた。

 私はただこのような人の動きをじっと見ていたのである。 それも何という目的のないままであった。

 ラッシュを過ぎるとさすがに駅舎内のざわめきも消えて、何とはなしに寂しさを呼び、次第に静穏な状態となってきた。 天井から吊り下げられた電灯。 それを覆った黒いカバーの締め付けが足りないのか、漏れた明りが天井で奇妙な蜘蛛の巣模様を描いていた。

 待合室の暗がりには発車時間を待つ人が一杯いた。 木製で背部のある長椅子がとても堅く、またそこにいる人達があたかも置物のように見えた。

 改札口で到着列車を待つ人、見えにくい列車の発・到着時間の掲示を仰いで見ている人、子供達もいる。 近くで立ち話をしている人の声が耳に入るが、何を話しているのか聞きとれない。 その言葉が内地の言葉と違っていた。

 古びた台椅子に客を座らせ、暗い明りの下で靴磨き屋が忙しい手つきで独り働いていた。

 私は辺りの雰囲気を味わうだけで基隆駅での1時間を過してしまった。 送る人と送られる人、迎える人と迎えられる人、これらの人々には様々の表情があった。 私はこれらの表情を人間としてではなく、駅舎内のあるものになったような気持でじっと見つめていたのである。

 私達にはもう決戦場がすぐ近くに迫まり、目の前で見る人たちの生活、いうなればこうした裟婆の生活がもはや我々には別社会のものとなり、無縁のものとなってしまったのである。

 既に失なわれてしまったこうした社会が懐かしいとも思わなかった。 若者の抱く複雑な “青春の思考“ すら既に生じなかった。 ただ一途に戦場に向かう。 そして敵艦来りなば我身を顧みず肉弾をもって敵に当たる。 祖国の為に ・・・・、このことだけしかもう頭の中にはなかった。
(続く)