2010年11月05日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (41)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 敵潜荒れ狂う東シナ海を単独航 (承前)

 天候の急変も更に我々に重くのしかかって来るのであった。 どんよりとして今にも一雨ありそうな気配の行き先の空は、まだ陽の高い午後というのに、乳白色の雲が墨滴に侵されたように、あるいは乱れ飛び、あるいは舞い上がる。 異様なまでに不吉感を誘う。

 急に風が強くなってくる。 低気圧の接近か前線の通過であろう。 何もない海原の上、風速は15、6メートルを超える。 風はヒューヒューと鳴りはじめ白波も波頭を砕き、しぶきが海面を走る。

 幸にも風は背後からであった。 11月中旬というのに風は生ぬるく頬を打つ。 だいぶ南へ下がったのであろうか。 目指す台湾の岸辺もすぐ近くになったのではなかろうか。

 だが風向は北北東であった。 煙突から吐く排気ガスが船橋のオープンにいる我々の背後から吹き付け、硫黄の臭が鼻をつき息苦しい。 タオルで鼻と口を覆いマスク代りにした。 見張りも悪戦苦闘であった。 これでは見張力も半減してしまう。

 我々搭乗員は5直に分かれ当直に立つこととなった。 10名中2名は信号を引き受け、後は見張りに専念した。 私は予科練時代、信号競技には分隊 (約200名) の選手として出場した経験もあってか、多分に自信はあった。 また他の者も大同小異、相当腕には自信があったと思う。 受信用紙に筆記せず、すらすらと信号を受けるなど、「神福丸」 の船員の係はもう私達に任せっきりであった。

 3時間ごとの当直を追ってゆく。 艇隊長が一人づつ直の長、いわゆる哨戒長となった。 交替10分前に整列して、哨戒に対する注意が哨戒長から示達された。 10分間は前直者とダブルで立直し特に夜間は十分眼が慣れ、初めて前直者が持ち場を離れ交替するのが常であった。

 当直は極めて厳正であった。 食うか食われるかの戦であり、誰に言われなくともそれは規律正しく守られていた。 毎日の生活は当直に立つことが主となり、後の時間は食事を除いて寝ていようが自分の雑事をしようがそれは勝手であった。

 私は第4艇隊 (安田隊とも言った) であり、艇隊長は海軍兵曹長安田兼寿 (秋田県天王町出身) であった。 当時彼は27、8歳でなかったかと思う。 三船敏郎を思わせるいい男であった。

 毎夜8時、海軍では 「巡検」 が行われる。 が今では戦闘に準ずる哨戒航行中であるため、その巡検は 「火の元点検」 というものに代わり、非番の艇隊長によって行われた。

 ところがその 「火の元点検」 の直後、安田兵曹長は自分の部下である第4艇隊員の状況について見て回ることを一日として欠かすことがなかった。 そして一人一人に声をかけてゆくのであった。

 「言うは易し、だが行うは難し」 と諺にもあるように普通の人達にはなかなか実行のできることではない。 私達はこの艇隊長を信頼し、この人と共にいつでも死ねる思いを持ち、常に兄のような、いやそれ以上の親しさを感じたものであった。

 丁度予科練時代の豊田兵曹長 (人は鬼兵曹長と言ったが) といい、私はよい上司に比較的恵まれた。

 横須賀を発つ頃事務をこの安田兵曹長がやっておられ、私はよく彼の手伝いをしたものであった。 人一倍私は彼に可愛がられた、と自負できるものであった。 これは何も豊田兵曹長からの中継ぎがあったわけでもないだろう ・・・・。
(続く)

2010年11月06日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (42)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 敵潜荒れ狂う東シナ海を単独航 (承前)

 船内は相当揺れる。 船倉の下の方で、ガタンガタンと船体に金属片が当たるような妙な音がする。

 仮設の舞台のような板張りの床にゴザと毛布を敷いて寝ていたが、揺られている間に毛布がめくれる。 また床を毛布にくるまったまま滑べるなどで寝ておれたものではなかった。

 日用品を入れた袋などが隅に転がり、その果て床の隙間から下の船倉の積荷の間に落ちることもあった。 寝たまま床に釘付けされた垂木 (滑べり止め用) を踏ん張るのも容易ではなかった。

 こんな時も、「神福丸」 は機械を休めることなく、ただひたすらに黙々として基隆へ向けて進んでいた。 昼間は何事も起こらずに過ぎ、そして夜もまた無事に過ぎ去った。

 だが私には夜の当直交替時にこんなことがあった。 私は動揺のため睡眠不足だったのか当直員整列の時間に遅れてしまった。 つい今しがた誰かが私を起こしたような気もして、がばと跳ね起き、上甲板の整列場所に急いだ。

 うかつであった。 そんな気持を十分胸に秘めながら、だがもうその時は2分ほど整列時間を過ぎていたのである。 私のいないことがわかり起こしに来ることは別になかったが、丁度哨戒長は人員点呼を終え、今から私を呼びにやらせようとするところらしかった。

 起きぬけの眠む気がまだ残っており、目もまだ闇に慣れていない状態だった。 ボイーンと一発、目から無数の星が出た。 私は大男のT哨戒長の拳を顎にもらった。 眠む気は一瞬に吹っ飛んでしまった。

 言い訳をするのではないが遅れた理由は別に気が弛んでいるわけでもなく、また戦時を問わず当直勤務の重大さを忘れたわけでもなかった。 だがこの無言の一発は、私を大いに反省させ、私の心を更に発奮させる偉大な力であった。

 我々には何かの加護があるのか、誰にも分からない運のよさがあった。 まずまず不思議なことでしかない。 荒れている天候と海、これも恵みの一つであり運を左右する一因であろうか。

 次の日が来た。 夜が明ける頃には嵐も過ぎ去っていた。 日中、これまた敵味方を問わず1機の飛行機、いや1羽の鳥すらも出くわすことがなかった。 しかし一時足りとも気を抜くことはできない。 基隆港に入港するまでは ・・・・。

 この辺りは水深が深い、そして基隆の近くまで水深100メートル以上が続いた。 だからなお敵潜水艦の待ち伏せが十分予想し得るところであった。

 午後1時を過ぎた頃、亀井、細田の両名が台湾北部の山々を発見した。

 「おーい、山が見えてきたぞ!」

 一瞬、ああよかった、と安堵の息をついた。 「あと一息だ!」 と部隊長が皆を励ますように叫んだ。 それに続いて 「よく見張れよ、油断は禁物だ」 「・・・・」 「この辺は一番潜水艦の多いところだ」 と士官のうちの一人が、やれやれと思った皆の気を引き締めるため叱咤激励した。

 そうなんだ、基隆港の入口には敵潜水艦の侵入を阻止するため防潜網が張り巡らされてある。 この防潜網区域及び機雷堰の中の掃海水路 (掃海の終った安全水路) を通り抜けなければ、もう大丈夫だと決して言えない。 情報によると基隆港をすぐ目の前にして撃沈されたという事例はごく最近にもあった。

 行く手、基隆港の入口左側に高い岩山がある。 頂上近くに銃眼のある壕のようなもの (トーチカ) が点々と見えてきた。 夕日を背にして日陰となったその岩山が紫緑色に映え聾え立ち、もう手の届きそうな感じになってきた。

 いよいよ基隆港外の掃海水路に入った。 進路がくるくると変則的に変えられる。軍極秘と記された海図にある入港針路に従う。 船体をほぼ港の入口に対して横に向けることもあった。

 本当に苦しかった東シナ海の単独航海、思わず過ぎきし後方の海を見渡すのであった。 感無量言うに言えぬ気持になる。 そして頭上の空を仰いで見た。 高い高い空の半分をいわし雲と箒で掃いたような雲がかかり、次第に夕焼に侵されていく様は見事であり、私達の小さな胸に叙情を与えるのであった。

 夕空と陸影と海、いずれもが雄大で華麗な色調に包まれ、いずこの果てで人間どもは戦争をやっているのかと言わんばかりの素知らぬ風情は心憎い。

 久保船長の操船する号令がひときわ大きく聞こえるようになった。 間もなく港外に投錨するらしい。 ガラガラ ・・・・ と錨が海に投げ込まれた。

 そよと吹く風が暖い、さすがに台湾である。 長かった生死を懸けた激しい海の上での闘い (動) は安楽の地に着いた静の姿に我々全てを変えていった。 暮れ行く空、他国の空の美しさに見とれ、私はすぐ船橋から下に降りてその足を留めてしばらく変わりゆく風景に見とれていた。

 我々は一歩前進した。 台湾から比島はすぐだ。 つい先頃台湾沖航空戦があったばかりだ。 ふと我に返り、そう思うと身も心も更に一段と引き締まって来るのであった。
(続く)

2010年11月07日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (43)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 基隆に寄港す

 同じ夜であるというのに、あの海上での苦闘を続けた夜と、港に入港しての夜とはこれほども違うものか。 港といってもまだ港外ではあったが、何の不安もなかった。 我々は目に見えないある偉大な力に庇護されているかのようである。

 入港して間もなく、闇の中からランチが近づき 「神福丸」 に横付けした。 ランチで訪れた人、それは基隆防備隊司令部の某海軍大佐である。 部隊長と船長は舷門で同大佐を迎えた。

 黒の軍服を着た大佐はラッタルを上まで登りきらないうちから、 「よく来た、よく来た」 と笑顔を湛えながら、半ば駆けるようにして登ってこられた。 部隊長と船長に握手を求め、代わる代わる挨拶を交し、左の手で軽く背中を叩き、また彼は左手を握手した上に被せるようにして握ぎり締めるのであった。

 「よく無事で来れたなあ! 東シナ海を単独で ・・・・ さぞ大変だったろう。」

 大佐は前後にコクコクと頭を振りながら言った。 船長はその言葉に答えるように

 「いや、大変でした。 ・・・・」

 とただそれだけを返した。 青年士官の部隊長は半ば顔を紅潮させ口元に笑みを浮べるのみであった。

 「無事でよかった、よかった。 昨日も港の入口で1隻が被害を受けたばかりだよ。」
 「・・・・・・」
 「ご苦労さん。」

 と、更に労をねぎらうように大佐は付け加えて言った。 3人は船長室の方へと歩きだした。 大佐は、近くにいた私達にも一瞥をくれながら

 「明朝、奥の岸壁に横付をしてくれ、手配は全部済んでおる。 水は鱈腹あるので、洗濯など思う存分やらせてくれ。」

 と言っておられた。

 翌朝、「神福丸」 は港内の岸壁に横付けした。 土の香がプンーと匂ってくる。 だが岸壁に横付けしたからといっても勝手気ままに陸へ上がることは許されない。 軍隊というものは、常に団体による生活であり規律というものがある。 個人の自由奔放な行動は許されなかった。

 港内には今朝入港したらしく巡洋艦 「青葉」 がおり (注) 、そのほか小型の貨物船が2隻いるだけで、ひっそり閑としていた。 先行した船団は1隻すらもその姿を見ることができなかった。 後で聞いた話では船団部隊は 「神福丸」 など足の遅い船をやりっ放して上海方面に直行したとか ・・・・。

(注) : 本稿では日付が記載されておりませんが、「青葉」 は11月11日高雄、翌12日基隆入港とされていますので、この日とすると日付が合いません。 「神福丸」 の基隆入港は11月14〜16日頃と考えられますが、正確な日付は判りません。

 なお、モマ07船団は13日泗礁山に入港し16日出港、16〜17日三門湾仮泊を経た後、19日に高雄に入港しています。 また、「神福丸」 が高雄入港の前日に同港港外で被害を受けたとされる船舶については不明です。


(続く)

2010年11月09日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (44)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 基隆に寄港す (承前)

 やがて洗濯の許可が出て、陸に上がることが許された。 銘々に今まで貯めた汚れ物を手にして早速岸壁の土を踏んだ。

 やはり何といっても陸はいいものだ。 久し振りに踏む土、土の香、そして素足に伝わってくる土からの温もり。 土は我々の生に息吹を吹きかけ、更に我々に強く勇ましく生きることを教えるかのようでもあった。

 岸壁から水道の蛇口のある所までは30メートルぐらいで、洗濯をするにはもってこいの広いセメントのたたきがあり、しかも屋根付で格好の場所であった。 我々は汚れ物を競うようにし、恰も水辺で遊ぶ小鳥達のようにはしゃぎながら洗濯をした。 これほど水をふんだんに使えたことも久し振りであった。

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( 1945年当時の基隆市  左下が基隆駅  元画像 : 1945年版の米軍地図より )

 正午前、我々に外出が許されることが知らされた。 台湾は初めて来た土地でもあり、また門限が夜8時までと割に長い外出許可時間のこともあって、これという用もない私は好奇心の上から外出をすることに決めた。

 上陸員整列、藤田兵曹長から上陸中の注意事項、特に機密の漏洩について総員を集めての示達がなされた。 食べ物については特に注意するようにとのこと、また、伝染病発生による立入り禁止区域があるので十分守るようにとのことであった。

 初めて踏む台湾の土、しかし基隆の街については誰もが予備知識すら持っていなかった。 港から銘々街へと向かったが、何時とはなしに10名ぐらいが一塊となり、団体行動をするような空気になっていった。

 我々の歩いたところは基隆市街のほんの一部分に過ぎなかったものと思われる。 建物は練瓦造りの家が割合に多く、街路の一部も練瓦敷のところが見られた。 この街、いやこの地方は年間を通じて雨が非常に多いということもあってか、繁華街の歩道は屋根付きであった。

 ここ基隆の家々は今まで暮してきた日本内地の家とは全く趣を変え、展望する風景までがまるで違う。 こちらはあらゆるものが中国風というのか、中国服を着た人が案外多かった。 人のタイプそのものも何となく中国人といった感じであった。 内地の人達も相当見かけたが、中国系の人のほうが圧倒的に多いような気がした。

 纏足 (てんそく) をした初老の婦人を見かけることができた。 普通の人の歩幅よりぐっと短かいヨチヨチとした歩調で子供を乳母車に乗せて舗道を行く様子は異様にさえ感じる。 油ののった丸ポチャの顔立ちは上品な人のようであった。
(続く)

2010年11月10日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (45)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 基隆に寄港す (承前)

 ある街角に来たとき、遠くからシンバルなどではやし立てる一団があり、こちらに向かってくるのが見えた。 一体あれは何んだろう? と興味深かくその場に立ち止まり私達の近くに来るのを待った。 私は最初お祭りかなと思ったのである。

 「あれは中国式の葬式だよ。」

 と誰かが言った。 だがしかし、私は初めて見るこの異様な一団がどうしても葬列とは思えず、半信半疑であり、また興味津津といった心情であった。 国外の知識にはまるで疎い私の頭の中には日本式の葬儀の感覚だけがあり、それにしてもあまりに違いすぎる風俗風習には驚かざるを得なかった。

 やがてその一団が近くに来て、やはり誰かが言ったとおり葬式の長蛇の列であることを私は認めたのである。 葬列の中にいる人達は国、人種はたとえ違っていても悲しみに沈んだその姿は少しも変わる事なく、しずしずと下を向きながら歩き続けていた。 私たちも喧嘩なシンバルの音を退けて、まず哀悼の意を捧げた。

 だが異様なものを見たい好寄心だけは去っていなかった。 この葬列の中の鳴りものだけは人々のそれとは違い突調子に賑やかであり、どうもその辺のことが私には解せなかった。 初めてこの目で見ての感想は、珍らしいというよりいささか驚きに近かった。

 この葬式は金持ちの人のものらしく、白一色に包まれた長い列は特に印象的であった。 棺を担ぐ人たちのすぐ後に 「泣き女」 が20人ほど牛車のようなものに乗って続き、伏したまま大きな声を出し泣いていた。

 「泣き女」 というものを薄々知ってはいたものの、こんなに多いとは意外でもあった。 近くではドラの音がすべてのものを制し耳にガンガンと響き、「泣き女」 はドラの音に負けじと泣き声をはりあげていた。

 ところがである、その 「泣き女」 の中の1人が時々白い布を覆ったままピョコンピョコンと頭をあげた。 そして遂には布の下をチョイと持ちあげ、その裾からあたりの様子を垣間見るのである。

 だが彼女の日には1滴の涙、その跡すらもついてなく、声だけで一生懸命ご奉仕していますといわんばかりに、ケロリとした顔付きを見せた。 全体の悲しさに包まれた雰囲気をちょっとした彼女の動作が何かしら面白さ、滑稽さを醸し出させるのであった。

 こうして私達は葬列の遠くに去るまでその場に立ち止まり、しばらくの間見送った。
(続く)

2010年11月11日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (46)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 基隆に寄港す (承前)

 我々は全くの方向音痴ではあったが何食わぬ顔をして街の中を歩いたのである。 「立入禁止」 の地区について交番のお巡りさんに尋ねることにした。 宮崎が皆を代表して交番に入っていったのである。

 「〇〇町はどのあたりですか。 そこは赤痢が流行しているそうですが ・・・・」

 巡査は意外であったのか、驚いたような顔をし、宮崎とともに外へ出てきた。

 「なになに、伝染病だと ・・・・ それ本当かね。」

 と反対に巡査が私達に教えを請うような結果となってしまったのである。 正に彼は虚を突かれたような感じであった。

 ややしばらくして、彼は伝染病発生地区が 「作り事」 であることに気付いたのである。 始め彼はそんなことを誰から聞いたのかというような顔をしていたが、彼は首を横に振りながら、

 「いま基隆で伝染病の流行っているところはないよ。 そんな連絡はまだ受けてないよ。」

 私達は呆気にとられてしまった。 聞きに入った宮崎はばつが悪るそうに頭を掻くのであった。 巡査は我々に比べるとはるかに大人であった。

 「その町は風紀上よくない。 君達のような若い兵隊さんの行くところではない町だよ。 そら、その大通を ・・・・」

 と彼は見通しのできるところまで更に出てきて、指を差しながら私達にその方向を教えてくれた。 架空の 「立入禁止区域」、それは上司が私達のためを思って俄ににでっち上げたものであったことを ・・・・。

 このときは巡査の直感によって誰かの作り事であることがすぐに判ったが、他にも影響を与える恐れのあるこの種の作り事はよほど考えた上で、それを行わないと得てして大事になる可能性がないでもない。 我々を汚れのない身体のまま死なせたい上司の気持は分からないでもなかったが ・・・・。 我々はお巡りさんにお礼を言って別れた。

 しばらく歩いているうちに中華街にきた。 そこは露地裏といったほうが当たるかもしれない。 見る人はほとんどが中国系の人達であった。 私が子供のころ見た写真画報に上海事変当時のものがあったが、その写真と余り変わらない情景であった。

 便衣を着た人もいて、どこからか手榴弾でも投げつけられるのではないかと錯覚を起こしそうであった。

 中国風のお寺の前、そこには屋台店が10軒ばかり並んでいた。 私達は辺りのすべてのものが珍しく、通りすがりに売っているものなどを横目で見ながら歩いた。

 その大分は食べ物のようであり、どの屋台にも3ないし5人の中国系労働者が長椅子に座っていて、ある者は長い箸を使いおいしそうに食べていた。

 ところが食べている人が手を動かし、身体を動かすその度に黒い小さな虫が舞いあがる。 それがなんと蝿ではないか。 更によく見ると、屋台の台、戸棚、鍋、椀などに一杯蝿が集っている。 「フェー」 と口には出さなかったが驚き、驚き!!

 その中の1人がいま正に食べようとする手を休めて、通りすがりの私たちに向かってニヤリと白い歯を出して笑い、どうだ、うまいぞ、食ってみないか、というような表情をした。 食っているものは熱く煮た汁のようなものであった。

 そこを通り抜けて山下が、

  「中国では食べ物に蝿が集まるほど、うまい食べ物だそうだ。」

 という。 私を含めて皆は 「ほおー」 と言いながらそれに頷いた。 なるほど売っている人もいっこうに蝿を追わない理由がそれで分かった。
(続く)

2010年11月12日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (47)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 基隆に寄港す (承前)

 こうして街の中をひと通り見物し、もう行くあてもなく日暮近くなってしまった。 街を見物したからとて土産物など買って帰る必要もなくなったいまでは、ただ陸の上を歩くだけである。 これから帰船するまでの道は2、3人で行動することにして皆別れ別れになった。

 最後になるかもしれない陸の上での自分。 だが私は精一杯、生きるための足掻をしてみようという気も別になかった。 孤独な沢の淵に立っているような自分、どこまでもいくらでも静寂の中に埋もり続けておれる心境にさえなっていた。

 この心境は決して意気消沈してしまったということではない。 これはむしろ別世界の人生を歩く人のようであった。 素晴らしい目標に向かって進む我身には赤い赤い血潮が熱さを感じるほどに流れているようであった。

 台湾に米軍機の空襲 (台湾沖航空戦の前後) があって以来、ここ基隆の街は日暮れてから街灯も消えた暗い街になっていた。

 帰路の道すがらこれといった考えもなく、ただ足を運んでいた。 ところがふと私の目の前に広場が現れてきた。 どう見てもそれは駅のようである。 外観は大きな建物であるが正気が失せたようにみえた。

 止まったままの蒸気機関車が吐く蒸気の音が、ぐっとスローな調子でシューポー、シューポーと聞えてくる。 建物の正面に 「基隆駅」 と書かれた掲示が暗いながらも読めた。

 基隆駅は台湾の北の玄関口である。 私は幼い頃、正午を船に示めす時刻標示塔のある小高い丘に立って門司駅 (現在の門司港駅) から発着する列車をよく眺めたものであった。 その門司駅と基隆駅の駅舎が実によく似ている。 懐しい思いにひかれ駅舎に近づいてみた。 駅舎内部もこれまた実によく似た構造であった。

 冬の暮れは暗くなるのも早い。 時間的にいって勤め帰りの人で駅は賑わう頃のようであった。 大きな駅舎内は灯火管制され全体に暗かった。 人々の動きがせせこましく感じる。 そんな中で発車を告げるべルが鳴り響く、発車時刻の間際に駆けつけた人が5、6人走って行く。 その人達はやっと列車に間に合ったようである。

 入れ替わるようにして到着の列車が入ってきた。 発車した機関車が勇ましく蒸気を吐く。 その昔がしばらく余韻を残しながら続いていた。 一時の間改札口は人、人、人で混み合いが続いていた。

 私はただこのような人の動きをじっと見ていたのである。 それも何という目的のないままであった。

 ラッシュを過ぎるとさすがに駅舎内のざわめきも消えて、何とはなしに寂しさを呼び、次第に静穏な状態となってきた。 天井から吊り下げられた電灯。 それを覆った黒いカバーの締め付けが足りないのか、漏れた明りが天井で奇妙な蜘蛛の巣模様を描いていた。

 待合室の暗がりには発車時間を待つ人が一杯いた。 木製で背部のある長椅子がとても堅く、またそこにいる人達があたかも置物のように見えた。

 改札口で到着列車を待つ人、見えにくい列車の発・到着時間の掲示を仰いで見ている人、子供達もいる。 近くで立ち話をしている人の声が耳に入るが、何を話しているのか聞きとれない。 その言葉が内地の言葉と違っていた。

 古びた台椅子に客を座らせ、暗い明りの下で靴磨き屋が忙しい手つきで独り働いていた。

 私は辺りの雰囲気を味わうだけで基隆駅での1時間を過してしまった。 送る人と送られる人、迎える人と迎えられる人、これらの人々には様々の表情があった。 私はこれらの表情を人間としてではなく、駅舎内のあるものになったような気持でじっと見つめていたのである。

 私達にはもう決戦場がすぐ近くに迫まり、目の前で見る人たちの生活、いうなればこうした裟婆の生活がもはや我々には別社会のものとなり、無縁のものとなってしまったのである。

 既に失なわれてしまったこうした社会が懐かしいとも思わなかった。 若者の抱く複雑な “青春の思考“ すら既に生じなかった。 ただ一途に戦場に向かう。 そして敵艦来りなば我身を顧みず肉弾をもって敵に当たる。 祖国の為に ・・・・、このことだけしかもう頭の中にはなかった。
(続く)

2010年11月13日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (48)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 基隆に寄港す (承前)

 ふと気がついた時私のすぐ側に幼い男の子が2人いた。 誰を待っているのか、父親であろうか、お母さんだろうか、勤め先から帰って来る人を待っているのであろう。 2人の年は6歳と4歳ぐらいである。 中国系らしい可愛いい顔の子供たちであった。 私は彼等に声をかけてみた。

 「年はいくつ?」

 すると2人は、それぞれ可愛らしい指で私に教えてくれた。 やはり自分の思っていた年に間違いはなかった。

 「お父さんを待っているの?」

 と尋ねると2人は揃ってこっくりと肯き、「うん」 と言った。 2人が父親を待っている姿がなんといじらしくもあり、この子供の心の中に急に飛び込んでみたいような気分になってしまった。 弟のほうが兄に比べ人なつっこく、たどたどしいなまりのある口調で

 「兵隊さん、だれを待っているの?」

 と私に問いかけてきた。 私は首を振りながら

 「誰も待っていないんだよ。」

 というと、弟は 「ふーん」 とホームのほうを気にしながら返事をした。

 子供の履いたズボンの膝にはふせ当てがしてあった。 戦争中の物資不足がこんなところまで及んでいる。 それでもこんな服を着ているところを見れば、子供たちは中以上の生活をしている家庭のようであった。

 私と弟の方とはすぐ仲良しになり話をした。 兄の方は内気で人見しりをするのか、私の顔を見ながらズボンを摺り挙げたのち、一言もしゃべらず改札口の木柵に両肘をつき頬杖をしてホームの方へ向いた。 その格好は半人前というか、木柵にやっと届いたような姿で可愛いい。 弟も兄のしている格好を真似しようとしたが、背伸びしてもそれはできなかった。

 しばらくして私は2人に気付かれないように、そっとその場を離れ駅の売店に行った。 2人に菓子をと思い買い求めた。 ありふれた菓子ではあったが、それを持ってまた2人の傍に踵を返した。

 まず弟に菓子を与え、兄にやろうとしたが遠慮をしてすぐに受け取ってはくれなかった。 それに比べ弟は遠慮も何もなく両手を差し出し受け取ってくれた。 遠慮して受け取らない兄の分を弟に渡すと、彼はしかたなく受け取るような表情をしやっと受け取ってくれた。 そして私のほうに振り向きペコンと頭を下げニコリと笑い顔を返した。 キャラメルようの菓子を弟はすぐ口に頬ばりしゃぶっていた。

 次の到着列車が入ってきた。 が子供達の父親は帰ってこなかった。 この次の列車かも知れないと私は二人に同情を寄せた。 私はいつまでも駅にいるわけもいかず船へ帰ることにした。

 「それでは、兵隊さんは帰るからね。」

 というと2人は目を大きくして驚いたような顔をし、「さようなら」 と言った。 弟は数歩私についてきていきなり私の手を握り、

 「兵隊さんとそこまで行く。」

 と言う。 握った可愛いい軟かい手から温くもりが私の手に伝わってきた。 駅の玄関まできて、

 「兄ちゃんのところへお帰り。」

 というと、彼は口に菓子を入れたままだったのでうなずき、元いた兄のところへと駆けて行った。 菓子の袋を両手でおさえ胸に当てて走っていた。

 こうして2人の子供と過した短かい時間ではあったが非常に楽しく感じ、現在でも目をつぶれば当時の2人の顔さえ浮ぶほど頭の中に残っている。 私には弟はいないがまるで弟達と一緒にいたような時間でもあった。 人を慰める心をまだまだ私は忘れてはいなかったようである。

 大したことではないが (他の人にあっては本当につまらないことかもしれないが) 死を直前にしてとても大きな善行をしたような明るい気分になっていた。

 夜空には美しく星が煌めいていた。 目の前はずーっと長く暗い道が続き、あるところまでは道路がハッキリと見えていた。 船へと帰る道ではあったが、それがなんと私の人生の花道でもあるかのようにさえ見えるのであった。

 急に母のあの優しい子守唄が聞きたくなった。 すると不思議にどこからともなく聞えてくるようであった。 私はその歌声に合わせるかのように口ずさみ歌う。 すると心の中がサッパリとした爽やかさに変わり、踏む我が足音は勇ましく耳に響く、私はなおも力強く胸を張って人通りのない夜道を元気よく活歩した。
(続く)

2010年11月14日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (49)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 軍艦 「青葉」 を訪れる

 昭和19年9月中旬から10月初めにかけて米機動部隊の動きが活発となり、比島方面はもちろんのこと、台湾及び沖縄方面まで圧力をかけてくるようになった。

 同年10月12日から約2日間にわたり台湾沖で航空戦が展開されており、台湾方面は敵艦載機による大空襲を受けたのである。 また10月23日からは 「比島沖海戦」 が行われ、ますます日本側は艦艇及び航空機の損耗が大きく、重大な危機へと追込まれていったのである。

 第16戦隊の旗艦であった巡洋艦 「青葉」 は、10月23日 (比島沖海戦の初頭)米潜 「ブリーム」 (Bream, SS-243) から雷撃を受け、機関室に浸水し航行不能となってしまった。 その後僚艦 「鬼怒」 に曳航されマニラに入港したのである。

 マニラにおいて自艦航行可能となるまでの応急修理を行い、内地で大々的な修理を行うため、マニラを発ち、途中基隆港に寄港したのであった。 我々が敵潜水艦の網の目をかいくぐり、命からがら基隆に逃げ込んだ時、図らずも 「青葉」 もまた基隆港に一時その身を寄せていたのである。

 「青葉」 は左舷側、カタパルト (飛行機射出台) の下あたりの外板が大きく捲れ上がっており、生々しい傷痕が痛々しく私達の目に刺さるようであった。

 11月17日、今日も半舷上陸外出が許可された。 しかし、搭乗員については希望する者は皆許されたのである。 私は上陸外出することを止め、日中自分の身の回り整理などをして過ごした。

 その日、朝から雨が降っていたが午後には雨も上がった。 安田兵曹長が残留している私達の所に来て、今夜部隊長が 「青葉」 に行かれるが、その時搭乗員を4、5名連れて行くからその者を今のうちに決めておくようにとのことであった。

 日が暮れて、私、阪東、小川、関根と宮沢の5人は 「神福丸」 のカッターを漕ぎ、部隊長に連れだって「青葉」を訪れた。 私は海軍に入隊して初めて軍艦のラッタルを登り内部を見ることができた。 したがって他の者達も私同様胸をときめかせながら部隊長と同行したのである。

 「青葉」 の右舷梯 (まま) にカッターを横付けすると、副直士官が降りてきて部隊長に用件を伺った。 そして一旦副直士官は艦内に戻り、代って当直士官と2、3人の士官が出てきた。

 「上がって来いよ」 と上から声が掛かる。 部隊長は右手を挙げ 「はい」 と答えた。 「皆も連れて来いよ」 既に舷梯の中ほどにいた部隊長は皆に向かって手招きをしなからラッタルを登る。 舷門番兵の規律は厳正で厳めしく感じた。 皆 「青葉」 艦上の人となったのである。 部隊長と私達は第一士官次室 (ガンルーム) に案内された。

 「貴様・・・・」
 「貴様・・・・」

 と、部隊長と同クラスの士官あるいは先輩の話は 「貴様」 ばかりがいやにハデに聞こえて、我々は少々面食らってしまった。 この優しい 「貴様・・・・」 の洗礼が終わり、部隊長は第一士官次室の一同に私たちを紹介してくれた。

 「そうかそうか、皆若いのになあ。」

 と彼等は肯いていた。 若い海軍士官は日焼けし、きりりっといかにも海の男らしく皆精悍な目付をしている。 これに反し我々は少々てれぎみであった。

 「君達はいくつだ。」

 若くても俺達は海軍々人だ、年を聞くのは少し失礼ではないかと思ったが、「18です」 と阪東が代表して答えた。

 「まだ若いのになあ。」
 「しっかり頼むぞ。」

 私達は 「はい」 と声を揃えて言った。

 「あとは俺達が必ず守るぞ。」
 「俺達も続いて行くぞ。」
 「大きな戦果を頼むぞ。」 と激励の言葉が続く。

 「松枝、菓子などあるのか。」

 部隊長はコックンと頭を軽く肯いてみせた。

 「皆、そこにあるのを心置きなく食べてくれ。」

 これから最前線に向かう者と内地に帰る者との心と心が互いに触れ合う。

 やがて 「青葉」 の副長もこられ、色々と気を使われ我々を励まし労ってくれた。 部隊長から副長へ、我々の任務とこれからの行動等についてあらましの説明をされた。

 約2時間の後 「青葉」 を去ることになった。 士官室の総員が舷門まで出て見送ってくれた。 情け深い人達、部隊長の先輩の甲板士官の目には涙が光っていた。

 この夜の気分は爽快であり勇気付けられた。 帰りのオール捌きは一段と元気が加わった。 士官室での話の中で関大尉による神風特別攻撃隊が出現したことを知り、飛行機の連中に先陣を取られたのかと悔しさが湧いた。 門司を出てもう3週間以上も経つというのに、モタモタしてまだこんな所にいることが歯がゆくてならなかった。

 「残念ながら如何ともなし難し」

 震洋も神風に負けぬくらいの奴をきっとやってみせるぞ、と決意が更に堅くなっていった。
(続く)

2010年11月15日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (50)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 当時の海上護衛と米潜水艦の概要

 昭和19年11月における門司からマニラへの出撃船団の状況は海上護衛総司令部等の資料によれば次のとおりであった。

   門司−高雄   南航1回 (12隻)
   高雄−マニラ  南航6回 (40隻)

 このように門司からマニラに向け出発した船団はただ1つであり、その船団名をモマ07船団と称した。 船団隻数12隻に対し護衛艦の数は5隻であった。 我々を乗せた 「神福丸」 は、多分この船団内の1隻として門司を出港したのだと思う。

 戦局の逼迫とも関連して、各船団航行中の全敵数も次第に増加の傾向をたどり、特に敵航空機との会敵回数の増加は特徴的であった。 これにつれて船舶の被害の割合いも急激に増加していった。 当時この方面の海上護衛を担当した第1海上護衛隊の 「戦時日誌」 によると、19年11月における船団等に関する資料は次のとおりである。

船団数会敵回数全船団に対する
100分比
船舶数被害船舶全船舶に対する
100分比
 
39
(8)
34

87.2

233
(3)
29

12.4
      上記の数字中 ( ) 内 は航空機による数を表わし、内数。

 残念ながら12月分については、資料の収集難及び欠除によって判明しない。

 「捷号作戦」 後、米潜水艦は依然ルソン海峡及びルソン島西方海域に蝟集するとともに、米機動部隊並びに在支米空軍の活動はいよいよ活発化し、比島方面補給に対する妨害と並んで、我が南西方面航路に対する遮断作戦を強化してきた。

 同方面の護衛を担任する第1海上護衛隊の責務はますます重大化するとともに、その護衛作戦は困難の度合を加えていったのである。

 この情勢に対し、第1護衛隊は全力を傾注して護衛作戦を遂行していった。 第1護衛隊は19年12月10日付で、第1護衛艦隊に昇格したのであり、このことからみても、如何にこの方面の海上輸送及び海上護衛任務が重要な問題であったか。 いわゆる南方の戦線における日本軍の戦闘力を左右する補給線の確保に結びつくからであった。


 米国の対日海上交通破壊戦

 相次ぐ戦線の後退と、米国の対日海上交通破壊戦の強化により、逐時縮小を余儀なくされていった日本の海上交通は、米軍による比島攻略作戦の進展とともにますます困難の度合を早めていった。 米軍の比島進出が日本の南方資源航路の中央部を締めあげる形となったからである。

 うち続く船舶の喪失は、既に日本の戦力維持に必要な海上輸送力を失わせていた。 しかし依然戦争遂行に全力を傾ける日本は、昭和19年末頃においては主として、本土 − 朝鮮、満洲及び北支間の海上輸送を推進するとともに、既に絶えようとする南方資源航路を細々ながらも維持していた。

 本期間において、米軍は上記の海上交通に対し徹底的な海上交通路破壊作戦を展開した。 そしてその手段として、従来の潜水艦による魚雷攻撃、航空機による爆撃に加え大規模な機雷戦を実施したのである。
(続く)

2010年11月16日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (51)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 潜水艦による対日海上交通破壊戦

  潜水艦の増強

 米潜水艦の建造は、開戦以来強力に推進されてきた。 そして続々と増強された潜水艦部隊は、レイテ進攻作戦に至るまで常に対日海上交通破壊戦の主役として活躍してきた。

 この潜水艦を中心とする海上交通破壊戦により日本船舶はその大多数を喪失し、回復の為の努力も実らないまま更に減少の傾向を辿っていった。

 この日本船舶の喪失は直ちに潜水艦の攻撃目標の減少にも繋がった。 しかし物量でものをいう米本国にあっては、なおも潜水艦の建造を進めていったのである。

 昭和18年7月及び10月米潜水艦3隻は宗谷海峡から日本海に侵入していたが、日本海に対しては潜水艦作戦の圏外に置かれていた。 これは10月 「ワァホー号」 (Wahoo, SS-238) という潜水艦の喪失を契機として日本海への侵入を一応断念したためでもあった。

 そこで日本海における米潜水艦の行動は別として、太平洋海域で活動する潜水艦数は、喪失したものも多数あったがそれにもかかわらず昭和19年末には156隻となっていた。

 これが昭和20年8月の終戦時にはなんと182隻に増加していた。 これはいかに日本海上交通破壊戦を徹底的に遂行したかを物語るものである。


  戦果の減少

 このような米潜水艦の増強にもかかわらず、潜水艦による船舶の撃沈数は昭和19年12月以降急激に減少を始めた。 この主な原因は、日本船舶の減少に伴い目標が著しく減ってしまったうえに、航空部隊特に空母搭載機に目標をさらわれる結果となったからである。

 目標の減少については米太平洋潜水艦部隊司令官ロックウッド中将は、「12月の撃沈成績は芳しくない。 目標が減少し、かつ小型になった。 日本は海上交通を放棄したのではないか。」 と、また 「1月の撃沈成績は極めて少量である。 2月の撃沈成績は従前のものに比べ更に少なく誠にわずかである。」 と嘆いていたということである。

 同潜水艦部隊は雷撃目標が減少したので黄海の浅い海面、満洲及び朝鮮半島沿岸、あるいは日本本土の港湾へと極めて危険な海面に進出、行動しなければならなくさせられたのである。
(続く)

2010年11月17日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (52)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 単独高雄に向かう

 11月19日の早朝、基隆港を出港、「神福丸」 は単独で高雄港へ進出することになった。 また護衛艦なしの航海であった。

 軍艦 「青葉」 の左舷側を通過するとき、「青葉」 ではサイドパイプが吹かれ、「総員上甲板、神福丸に帽振れ」 と号令がかけられた。

 本船側も非番直員は総員上甲板に出て見送りに答え、一生懸命、帽子やタオル等を振った。 被害を受けた巡洋艦 「青葉」 の姿は痛々しく、日本海軍の衰勢をなんとなく感じさせるようでならなかった。

 港口を出て進路を左へ、左へととる。 左手には台湾北部の連山が見える。 陸岸からあまり遠ざからないようにして航海する。 針路は西から段々と南に変わって行き、不気味なほど敵機の空襲に遭うこともなかった。 こうして単独の航海をしていると、平和時の船旅であればさぞかし楽しいことであろうと・・・・。

 この方面の海上模様はすぐに変わりやすい。 「神福丸」 は全速力8ノットで走る。 対空、対港の警戒を一時も緩めることはできない。 気分的には台湾の沿岸の航海であるというなんとなく気楽さがあり緊迫感はなかった。

 まる一昼夜の航海は何の変哲もなかった。 正午頃、緯度の上からみて澎湖諸島の東方海上を通過する。 空はどんよりとしていたが視界はその割には遠方までよかった。 波4、うねり3と海面は躍る。

 午後1時頃、「前方水平線に、黒いものが見える」 と見張りが叫ぶ。 「大型船だ」 次に 「大型艦だ」 と報告が変わってきた。 12サンチ双眼鏡で確かめると、それは日本の軍艦、しかも戦艦の楼のようである。

 「戦艦らしい」 見る見るうちに水平線から巨体を現し、こちらへ近づいてくる。 戦艦だ!

 ところが戦艦に違いないと思うが、どうも横幅が大き過ぎる。 おかしいなあ、奇妙な戦艦だ。 初めは前後の船が重なって見えるのだと思っていた。 ところが安田兵曹長が 「あれは大和だ」 と言った。

 世界最大の戦艦 「大和」、6万2干3百トンである。 レイテ沖の海戦では同型艦の 「武蔵」 が主砲の一斉射で一度に敵機を約10機撃墜したという話を聞いた。 それは 「青葉」 で聞いたばかりの話であった。

 こんな所で戦艦群に遭うとは夢にも思わなかったことである。 斜め反航 「的角右20度」 (的角右20度とは、「大和」 の針路を零度として、自分の方向角が左に20度ということである) ぐらいであった。

 戦艦は単縦陣 (一列縦隊) でその両側に駆逐艦がいる。 縦陣列を作っていた。 「神福丸」 の右30度ぐらいになったとき、先頭に巡洋艦 「矢矧」、次に戦艦 「金剛」 か 「榛名」、その次は同 「長門」、一番殿 (しんがり) が 「大和」 であることが分かった。

 両外側の駆逐艦は戦艦群に比べると、まるで問題にならないほど小さく見える。 その駆逐艦は波しぶきを上甲板までかぶりながら走っている。 速力は24〜25ノットであろう。

 堂々たる我が海軍の威容、戦艦群を一目見ようと 「神福丸」 の上甲板には総出の見物となった。 日本海軍健在なり、我々はこの勇姿を見て大いに勇気の増すところとなった。

 この 「大和」 を中心とした戦艦群は比島沖海戦を終え、日本内地に向け北上中であった。 反航であり、また高速力のため見るみる間に過ぎ去ってしまった。 私達はこれらの艦艇に今後の活躍を期待し、心の中で健闘を祈った。

 ところが、この堂々たる戦艦群には、我々の知らない事情があった。 それは次のとおりである。
(続く)

2010年11月18日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (53)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 第1遊撃部隊の内地回航

 11月15日1234 豊田連合艦隊司令長官は連艦隊電令作第419号をもって次のように発令したのである。

  一、第1遊撃部隊 (「大和」)、第3戦隊 (「長門」 「金剛」)、「矢矧」、駆隊艦4隻 (損傷艦駆逐艦ヲ含ム) ハ燃料満載ノ上内地二回航、夫々所属軍港二於テ急速整備ヲ実施スベシ

  二、第31戦隊ノ駆逐艦2隻ハ第1遊撃部隊指揮官ノ指揮ヲ受ケ、基隆付近迄之ガ護衛二従事スベシ

  三、第1遊撃部隊指揮官 「ブルネイ」 発以後第1項以外ノ南西方面所在第1遊撃部隊兵力 (「高雄」 「妙高」 ヲ除ク) ヲ南西方面部隊指揮下ノ作戦指揮下ニ入ル


 以上のような連合艦隊司令長官の命令により、11月16日1830、「大和」 以下第1遊撃部隊及び第3戦隊の戦艦は内地に向けブルネイを出発したのである。

 駆逐艦の4隻は第17駆逐隊 (「浦風」 「磯風」 「浜風」 「雪風」) であり、後の2隻は第31戦隊の 「桐」 及び 「梅」 が充当された。

 しかしこの内地回航部隊は回航の途中、11月21日未明、台湾北部の東シナ海で 「金剛」 と 「浦風」 が米潜 「シーライオン」 (Sealion, SS-315) の魚雷攻撃を受け沈没したのであった (日本の戦艦の中で潜水艦の攻撃により撃沈されたのは、この 「金剛」 が最初であった)。 この2隻の他は、23日瀬戸内海西部に到着したのである。

 以上のようにこの戦艦群は 「比島沖海戦」 に敗北を喫し、かつては世界最強を誇った日本大海軍のいまは生き伸びた全勢力なのであった。 もはや東シナ海も含めて東南アジア海域の我が制海権は完全に連合軍側に移ってしまっていたのである。

 そんなことも知らずに我々は東シナ海を通過してきたが、いかに東シナ海及び台湾海峡付近における敵潜水艦の活動か活発であったかと ・・・・。


 「神福丸」 は高雄を目前にした20日の夕方、高雄及び台湾南部方面に警戒警報が発令され、高雄港外及び台湾南西部方面を航行中の全日本艦船は洋上に避退せよということになったのである。

 高雄港はすぐそこの丘の裏側だと、船長が我々に教えてくれたが残念ながら入港はできない。 そこで 「神福丸」 は右折し、シナ大陸へ向かう針路をとった。 なかなか自分たちの思うようにはいかないものだ。

 高雄港に尻を向けて今晩は流浪の旅か。 11月ももう下旬になった。 内地での朝夕は大分冷えることであろうが、さすが北回帰線の近くであるこの地方は、まだ初秋を思わせるような暑さが残っていた。 ゴロ寝の毛布もただ腹に当てるだけだが首にはべっとりと汗をかくほどであった。

 日中、オープンブリッジにいるせいもあってか顔が日焼けしてみるからに遥ましくなってきた。 最近では顔も洗わない毎日となり、しょろ、しょろと生えた不精ひげで誰もが1段と精気の漲ったように見えるのであった。

 21日、22日とただあてもなく洋上を彷徨う航海が続き少々だれ気味となっていたところ、22日正午前になって 「空襲警報」 を受信し、「敵機が来るか」 と緊張の度合が深まりぴりりっとしたものを感じた。

 敵機動部隊による襲撃を受ければ、こちらは 「神福丸」 ただ1隻であり、たちどころにして海の藻屑となることは火を見るよりも明らかであった。 我々の目は全て南の空へ向けて注がれた。

 「上空も見落とすな!!」 「太陽の方向をよく見張れ!!」

 かくして約2時間はまたたく間に流れていった。 とうとう爆音を聞かないまま 「空襲警報」 は解除となり、続いて 「警戒警報」 も解除となった。

 警報の解除の報が船長に報告されるや否や、待っていましたとばかり 「神福丸」 はくるりと目指す高雄港へ船首を向けたのである。 日没時までには、港外の泊地に着くことができることを航海士が船長へ告げていた。

 風はやや強かったが、海上はそれほど波が立っていなかった。 いくらか予定より早く、まだ日のある内に高雄港外の安全泊地に投錨した。 誰の顔を見ても、やれやれという表情が満ち溢れていた。

 高雄港も基隆港と同じように、味方の機雷堰で港が厳重に防御してあった。 そのため港内に入港するには 「軍極秘」 と記されたチャート (海図) に従わなければならなかった。

 投錨を終え、一息いれた船長と航海士が海図台に軍極秘のチャートを広げ、明日の入港計画を練っていた。 両人の真剣な表情に、私はしばらくの間見とれてしまった。 港外に仮泊はしたものの、内港の方に入らなければ、決して安心はできないのである。

 熱帯樹の茂る陸岸も、今では全て黒一色の闇の中に吸い込まれてしまい、ただ波打ちぎわに不鮮明ながら白い波が見え、その波音だけがざあ、ざあと耳にこだましてくるのであった。
(続く)

2010年11月19日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (54)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 窃盗の犯人は誰だ

 高雄港外に仮泊し、今日の夕食は久し振りに搭乗員皆一堂に会しての食事ができた。 とかく航海中は当直勤務中の者がいて、こうした団欒の時が失われ気味であった。 いつも食事の準備は後輩の20期が自主的にやってくれていたが、今晩は彼らに代わって自分達でやった。

 海軍では、1日でも早く入隊した者が先任者であり、後任者は礼を尽くさなければならなかった。 その関係は誠に厳しく、不文律として代々受継がれてきた。

 そこでこの不文律を破るわけではないが、今の我々の境遇にあってはそんな習慣は捨て去ってしまいたかった。 志を同じくし、行動を共にする者 (19期と20期) 全てが同待遇であり、差別があってはならないと私は考えるのであった。

 予科練に入隊して以来、猛訓練の毎日であった。 まだ子供同然の自分達は、自分自身のことをするだけが精一杯で、他に目を向ける余裕すらない毎日の生活を送ってきた。 だから、心の底から人に情けをかけるなどの美徳は、およそ出そうにも出すことのできない状態であった。

 最近になって僅かながらも他人に対して思いやりの心が表面に出せるようになった。 自分としては実に素晴らしい成長であった。 そうした気分で食べる食事は実に美味しかった。

 皆の食事が終わろうとした頃、先任衛兵伍長がやってきて、我々搭乗員は食事の後片づけを済ましたならば、総員集合するように達せられた。

 何事であろうかと疑惑感が先に走る。 後片づけが終わりその旨を告げると、我々の前にT少尉と先ほどの先任衛兵伍長、とそれに後一人の先任下士官の3名が現れた。

 T少尉 (特務士官) は集まった我々に向かって、やおら身体を左半身に構え、おもむろに口を開き、低いドスの利いた声でまず口火を切った。

 「お前達、搭乗員総員集まってもらったのは他でもない。 本船のこの下 (そこで床をトン、トンと蹴る) 船倉に搭載してあった特別糧食が、何者かの仕業によって盗まれた。」

 「 ・・・・ 」

 「これは、お前達の中に不心得者がいて、その者が盗んだとしか思えない。」

 T少尉は、我々に向かって “どうだい” というような顔をした。

 「盗んだ者は素直に申し出ろ。」

 と口調が厳しかった。 我々搭乗員は、「 ・・・・ 」 皆口を堅く結んで、何も語らなかった。

 そういえば、私も、この度の航海は時化のときが多く、船の動揺も大きかったため、居住区の敷板の透き間から手袋が下の船倉に落ちたとき探しに行ったことがあった。 そのとき手袋は船倉の下のほうまで落ちず、中途の震洋艇の箱詰めの木枠に引っ掛かっていた。 拾って帰るときビタミン剤の入った缶の口が開いているのを私は見た。 そうだ!

 またこの航海中、このビタミン剤と同じものを誰かに貰って食ったことをふと思い出した。 このビタミン剤は幼少の頃食べたチャイナマーブルという菓子があったが、それによく似たもので栄養補助剤である。 糖で覆われているこの錠剤は、甘い菓子のなくなったときだけに、それは菓子代わりになり、我々の舌を僅かながらも喜ばせてくれたわけである。

 若しやそれが問題の “やつ” ではなかっただろうか。 私はてっきり配給されたものだと思い貰って食べたのであるが ・・・・。
(続く)

2010年11月20日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (55)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 窃盗の犯人は誰だ (承前)

 私達の前に立っている3人は、見るからに意地の悪そうな顔をして突っ立っていた。

 このように総員が集められ、注意を受ける場面は、予科練時代ではしょっちゅうあったことである。 だから別に驚くこともなかった。 久し振りに予科練時代を思い出すのであった。

 銀バイならば、これほど騒ぎたてることもなかっただろうが、盗んだのではよくないことだ。

 海軍では 「銀バイ」 という言葉がある。 それはある物品 (主に食料品関係が多い) を正規の手続並びにルートを経て受領するのでなく、別のルート、すなわち顔や役職を利用して手に入れることを言った。

 物によっては食料品以外のものもあったが、この言葉の意味は分かりやすく言うと、“うまい物には大きなハエ (特に大きな銀色のハエ)、すなわち銀ハエ (イ) が止まる” ということから出たようである。

 今回の出来事は誰かが盗んだのであろう。 がしかし、搭乗員が必ずしも盗んだとは限らないことであった。 それというのは、この船倉に住んでいた者は士官を除いた総員であり、搭乗員ばかりに疑いをかけるのもおかしな話であった。

 だから搭乗員は誰一人として自分がやったと言って申し出る者がいなかったのである。 長い間の黙秘が続き、とうとうその日は解散となった。

 我々搭乗員間では、日ごろからどうしてもT少尉になじめなかった。 それというのもこのT少尉に接した者はみな決まったように何か一言嫌味を言われることがあったようである。

 彼は常に気が荒れていたのか、オステリー (女性のヒステリーをもじり、男だからオスそれにテリーを付けて) 気味であったのか、自分の憂さを我々に向けていたように思えた。 彼からみれば小輩の我々を常に小馬鹿にしていた。 そういう態度がありありと見えたのである。

 “いけ好かないやつだ” という感情が知らず知らずのうち我々の間には芽生えていた。 したがって特に用のある以外は彼に近づく気風はなかった。

 このように和気あいあい、闘志満々の特別攻撃隊員の我々にとって、我が隊の上官の中には必ずしも従属できる人ばかりではなかった。 憎さが蓄積したあまり、時々我々のロから冗談ながら

 「あやつ、戦地に着いたら思い知らせてやる。 彼の宿舎の下にダイナマイトを仕掛け、小屋もろとも木端微塵にぶっ飛ばしてやるぞ。」

 と ・・・・。 彼らが引き揚げた後、先輩格の19期の者の中には、アハハハ ・・・・ と彼らを嘲けり笑う者すらいた。

 威圧によって下級者を屈服させようとする気風は軍隊生活における部下従属法であろうか。 こうした方法を今までよく体験したものの、愚者の行う常套手段と私は考えるのである。
(続く)

2010年11月21日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (56)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 窃盗の犯人は誰だ (承前)

 翌日再び集合が掛けられ、くだんのことについての調べがまた始まった。 決まりきったような脅し文句を我々に向かって次から次へと浴びせかけるのであった。

 「今まで待ったが、誰一人として申し出た者がなかった。」

 「よし、お前達がそういう気持でおるのならば、こちらはどうしてもお前たちの中から犯人を捜し出してみせる。」

 「普通の泥棒と訳が違う、貴重な部隊の糧食を盗んだのだ。」

 と決め付けてきた。

 「申し出があったなれば、その者だけの説諭で終わったのであるが ・・・・ 」

 と言い、3人が顔を見合わせた。 だが搭乗員の誰もが何食わぬ顔をしているのを見て彼らは手をやき、次の戦法を決行しようとお互が目配せをした。 先任下士官はもう一人の下士官に顎で合図をした。 すると彼は何やらを取りにその場を去って行った。

 「今から、皆の指紋を採る。」

 と前置きし、更に強行な手段へと事態は移行していった。 幸いにも暴力的な制裁をもって我々を屈服させようとする手段には出なかった。 先の下士官は手に白紙と印肉の函を持ってきた。 そして我々の指紋探りが始まったのである。

 白紙1枚を使って一人分となるよう、両手の指の指紋を採った。 紙の右端に 「〇〇2飛曹」 あるいは 「××飛長」 と書き留めていった。 ごつごつした下士官の指が自分の指をつかみ、印肉の函にその指の先を入れ、印肉の付いた指を押しつけ半回転するようにして、一本一本の指の指紋を採る。 これほどに屈辱感を感じたこともなかった。

 全く、おれたちは犯罪者ではないぞ、お前達の奴隷でもないぞと憎しみが湧く ・・・・。 皆の指紋採取が終わって、

 「この指紋は、入港したら高雄憲兵隊に出向き、憲兵による捜査をお願いする。 皆はそのつもりでいるように ・・・・ 」

 と最後はあっけない幕切れであった。 いよいよ憲兵のお出ましか。 内心穏やかならない事態の進捗に、我々の胸中は揺さぶられるのであった。

 こうした重大事件 (彼らが言う、またビタミン剤一缶の亡失らしいこの事件) の犯人調べに、部隊を含む他の士官が一人として同席していないのはどうも解せないところであった。

 私のようなあまりよくない頭で考えて ・・・・、若しも、我々の中から犯人が挙げられた場合、これからの任務行動はどうなるのか、攻撃隊の編成はと、矢継ぎ早やに心配が頭の中を走った。 この事件に憲兵が乗り出さねばならないほど重大なのか、我が部隊が重大任務を帯びて戦地に直行しなければならないときだけに疑問とする節が多々あった。

 どうも今回のことは、T少尉ほか部隊の先任下士官達が独断で実行した窃盗犯人探しのようであった。 我々の日頃の態度が、彼らからみてどうも目立ち過ぎたように感じていた。 そこで、彼らはこの辺でちょいと搭乗員達に気合を入れておかなければというような空気がないでもなかった。

 この憲兵に調査を依頼する件は、その後何一つとして音沙汰はなかった。 人の話では、彼らが部隊長に申し出て、一喝され反古になったとか ・・・・。

 それにしてもいまいましい彼らの横暴な日本海軍下士官根性とでも言うか、このような態度はいただけぬものがあった。 予科練時代を含めて、理の通らない暴力による制裁をもって部下をしごく下士官の悪習を見てきたが、これこそは我が海軍の恥部ではなかっただろうか。

 自分達も若いながらも下士官となっていたが、部下指導に当たる場合、決して暴力や脅しなどで部下を屈服させ従えるような野蛮な行為は絶対にやらないぞと、重ね重ね肝に銘じるのであった。

 「真の勇者は、野蛮な教育から決して生まれるものではない。」
(続く)

2010年11月22日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (57)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地

 11月23日午前8時頃、「神福丸」 は高雄港の内港の係船ブイに、舫綱を取った。

 私のいたブリッジでは、船長が船を操る大きな声と、間断なく機械室に指令するテレグラフのベルもやみ、今まで張りつめていた一切の緊張が、頭の天辺から足の爪先の方へ抜けてゆくがごとく感じるのであった。

 本当にやれやれという実感を味わう。 こんな時は決まったように私の頭の中を、過去の海上での出来事が走馬燈の絵のように矢継ぎ早に巡っていった。

 ここ日本最南端の都市高雄、我々の目指す激戦地フィリピン群島も、もうすぐ手の届くような距離になった。

 内港の空にはかもめが4、5羽飛び交っていた。 彼女達は餌を求めてか入港後間もない本船の船尾付近に集まって来た。 そして物見高げに急上昇したり、急降下したり、その動きが実にせせこましく見えた。

 10メートルもない距離に近づき、上空からキョロ、キョロと首を回しながら 「あんた方、どこからお出でやした」 と言わんばかりの顔付きをし、覗き込んでゆくのであった。

 内港は恰も河を思わせるような所で、波一つ立たない静かな港であった。 高雄の街は平坦な街であったが、港の出入口に当たる部分が小高い丘陵になっていてそこは要塞地帯となっていた。

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( 当時の高雄市  元画像 : 1945年版の米軍地図より )

 程無くして、水船と燃料の石炭を積んだ団平船が横付けし、総員で石炭搭載作業を行った。

 船乗りと水、船乗りにとって何が一番大切かと言えばそれは水である。 水は命の次に大切なものであり、日常生活には不可欠なものである。 したがって予定どおりの航海が終えればそれほど節水に意を用いることもないが、戦時ともなればいつ、どこで、どのような異状事態が発生するか、それはだれも予知できるところではない。

 だから、起こる可能性を十分に計算し、不測の事態に我々は備えざるを得ないのである。 そのためには普段から節水する習慣を身に付けておかなければならないことは言うまでもない。

 特に、海軍の日常生活においては節水に関する限り徹底した躾教育が行われた。 「神福丸」 にあっても例外ではなく、一旦出港すると、たかがコップ1杯の水と言えども我々の自由にはならなかった。 飲料水の取り出し口には手押し式ポンプが取付けてあったが、そのポンプのハンドルは出港するとすぐ取り外し、格納されるのであった。

 航海が何日も続く、そうなれば朝、顔を洗うことも、歯を磨くこともできなかった。 ましてや大量に水を消費する入浴にあってはおいておやである。 したがって、我々は基隆を出港し、高雄に入港するまで身体を洗うことも、身体を拭くこともできなかった。

 皆が所持していた官給品の下着はせいぜい3、4着程度であり、航海中ほとんど着替えることもしなかった。 例え着替えたとしても今まで着ていたものを洗濯することができないので、おのずから着のみ着のままの状態を続けざるを得なかったのである。

 このようなとき、薄緑色に着色されたシャツが1着我々に支給されていたが、そのシャツを専ら着る習慣となっていた。 汚れめが目立たないことにことよせ、またそれは無精者にはもってこいというものであった。 少年期の体臭は異様な臭気となって船内に漲っていたことであろう。

 横須賀を出発して以来1か月が早や過ぎてしまい、シャツの色も汗の塩分で部分的に変色し、白いむらと緑のまだら模様になってきた。 それというのはこの緑色のシャツの染め方が悪いのか、安い染料で染めたものと思う。
(続く)

2010年11月23日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (58)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 石炭の搭載が終わり、続いて石炭の焚き滓を団平船に移載する作業を行った。 こうした作業にも我々は率先して加わってゆき、スコップ捌きに熱がこもっていた。

 戦時における航海中の艦船は、紙片一つと言えども勝手に海中に投棄することは禁じられていた。 それは敵航空機や潜水艦などに、自分はおろか味方部隊の存在まで知らせることになるからである。

 ある一人の不注意から敵側に情報を与え敵側の作戦を優位にさせ、ひいては予期せぬ味方部隊の大敗北を招く結果にならぬとも限らない。

 したがって、「神福丸」 はあまり広くもない機関室上部の露天甲板に、航海中出た石炭の焚き滓を足の踏場もないほど堆く積み上げていた。 しかもそれは1週間足らずの航海によるものであった。

 さすが北回帰線に近い高雄は、11月下旬というのにまだ暑い。 搭載及び移載作業が終わり、「総員洗濯用意」 の号令が掛かった。 船の水タンクが満タンとなり、水船に残った水を我々の洗濯のために提供してくれることになったからである。 

 「神福丸」 の前甲板のスカッパーなどを塞ぎ、水が溜められ甲板が応急的に洗濯場となった。 久し振りに肌に触れることのできた水、各人は両手、両足を水に浸して水の感触を十分に味わった。

 水から与えられる喜び! まるでその仕草は幼い子供が水遊びをする格好に似ていた。 着ている服が濡れようと問題にしなかった。

 私は洗濯を始める前、両手の掌一杯に水をすくい思う存分顔を洗った。 洗濯が終わり、桶、空樽までを動員して溜めた水で体の汗を流し、さっぱりとした。


 その日の午後、私は公用便を命ぜられ郵便物を出しに行くことになった。 独り交通船に乗り陸に上がった。 交通船の着いたところは埠頭の岸壁のある中央部から相当離れた南側の隅のようであった。

 そこには人気がほとんどなく、そのうえ私は初めての土地であるため全くもって方向音痴であった。 果してどちらに向かって行けばよいのやら一瞬躊躇うような気持もないではなかった。 ええ、ままよと自分の鼻の向いた方に向かって歩いた。

 余程この辺りは人里離れた所であったに違いない。 人に道を尋ねようにも、人はおろか犬にさえ行き合わなかった。 約15分ぐらい歩いたところで転々と民家が見えてきた。 その家々は練瓦塀の内側にパパイヤの樹や芭蕉の葉がよく繁茂していた。

 この辺りに来てやっと自転車に乗った人に出合った。 全く助けの神である。 その人を止めて郵便局を尋ねると、快く道を教えてくれた。 だがここからは大分遠距離にあることが分かった。 埠頭岸壁に沿って行けば、小さいが郵便局があったのだが、もうここからでは本局の方が近いとのことであった。

 私はその人に 「有り難う御座いました」 とお礼の言葉を述べ、軍隊生活中、これ以上になかった元気一杯、後ろにそっくり返るほどの最高の挙手の敬礼を送って別れた。 実に頼りない使いではあったが、自分以外の誰かが使いに出たとしても恐らく同じような状態であったに違いない。

 ところがである。 やっと探し当てた郵便局に国旗が掲げてあり、「本日休業」 の看板が出されてあった。 それもそのはず、本日は 「新嘗祭」 である。 うっかりしていた。 戦地に向かっている自分の頭の中には既に祭日などという観念がなくなってしまっていたのである。

 手紙類は投函したが、為替等の事務的なものはまた持って帰るよりほかに手がなかった。 当直士官は私を公用便に出し、私の乗った交通船が 「神福丸」 から遠く離れ、いまにも船着場に着こうとしている時今日は祭日であることに気付いたそうである。
(続く)

2010年11月24日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (59)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 土曜、日曜日の両日上陸外出が許された。 夜の宿泊こそなかったが銭湯で思う存分今までの垢を落としてくることになった。

 高雄の中心街に出る道を、埠頭に沿って行くことにした。 公用便で通った道は大分大回りをしたことが後でよく分かった。

 埠頭は10月の大空襲による被害の跡がまだ生々しく、港の砂糖倉庫が爆撃され倉庫の中には山と積まれた砂糖が大きな唐米袋のまま焼け焦げており、また一部が露天に野積みしてあった。

 倉庫の入口から砂糖が溶けて飴状になり外に流れ出していた。 「ああ、なんともったいない」 と皆口を揃えたように言う。 袋が破れ出ている砂糖を皆で代わる代わる手で摘み舐めた。 少々辛味はするが、甘さは十分であった。 幼い頃食べたカルメラ焼を思い出す。 出来損ないの砂糖菓子など思いは様々であった。

 誰だか四つんばいになり、飴状の砂糖をなめた。 「帝国海軍軍人のする格好ではないぞ」 などと声が飛び出し、それを見て皆は腹を抱えるようにドッと笑った。 我々は、軍人として最高の偉業を担って、己が任務にまい進する堅固な精神の持主である反面、まだ、あどけなさの去りきらない少年の群像でもあった。

 内地では物資不足のときであり、砂糖不足はもちろんのこと。 この砂糖が内地に運ばれればどれだけの人が喜ぶであろうと思わず嘆息した。

 日中の日差しはまだ夏のそれと変わらなかった。 高雄の繁華街にはまだほど遠い郊外のこんもりと繁った林の一隅に、1軒の古びた商店があった。 小さな構えで、田舎の道端によくある駄菓子屋である。

 その店頭にサイダー瓶に 「パインジュース」 を詰めて売っていた。 瓶は少々埃っぽかったが暑いので私達はそれを買って飲んだ。 パインアップルの実の擦りつぶしたものが混っていて、それがザラザラと舌に触った。 現在のパインアップルの缶詰の中のシロップのようには、ねっとりとはしていなかった。 内地においては当時こんなものですら口にすることができない時勢であった。 私には甘い高貴な味に感じられた。

 台湾名物であるバナナは見当たらなかった。 腹一杯食ってやろうと張り切って入ったのだが、今はその季節でなく、町で一つも売っていなかったのは実に残念であった。

 国防色の軍服、それに半長靴、中には軍刀を手に提げた者もいた。 銘々が思いのままに街を散策した。 10月4日、〇四艇の講習が終わった時点では日本刀を護身用として所持していた者も少なかったが、高雄に来た頃には大小合わせ、約8割の者が郷里から取り寄せるなどして持っていた。

 高雄は海軍警備府、通信隊、航空隊などがあり、街には海軍の兵士が多く外出している関係もあって、巡邏 (巡回警備、いわゆるパトロール) 隊が幾組も街を巡回し、兵士達の規律の維持に当たっていた。

 ここ高雄は佐世保鎮守府の管轄下にあり、「佐鎮の巡邏は鬼より怖い」 と海軍内では専らの定評があった。 我々第12震洋隊の搭乗員の服装がこの巡邏の目に留まったのである。

 通常の外出に半長靴を履くことは許されていなかった。 私達は街の目抜き通を闊歩しなかったこともあって、彼等に出合うこともなかったが、搭乗員のうち10数名が捕まってしまった。
(続く)

2010年11月25日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (60)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本最後の寄港地 (承前)

 外出の門限は午後7時であった。 街を歩き回ってもこれという当てもないので、早目に帰船することにし、同期の木下と2人で帰路を共にした。

 もう日暮も近くなったのか、太陽が大分西に傾いていた。 街の中心部を貫通する大通りから埠頭の脇を通る三差路の辺りに来るともう都会の気配はほとんどなくなってしまった。

 三差路から小道になる。 その少し手前で私は今まで歩いてきた大通りの方をなにげなく振り返って見た。 すると50mぐらいのところに年は13、4であろうか、少女が自転車に乗ってこちらにやって来る。

 少女は私達に近くなってチリン、チリンとベルを鳴らした。 そしてそのまま私達を追い抜くのかと思ったところ、彼女は自転車からピョンと跳び降り、

 「兵隊さん達どこまで行くの?」

 と声を私達に掛けた。 私達は自転車が通れるように道の端に身を寄せ、自転車を避けたのであるが、突然声を掛けられ少々驚いたのである。

 「この先の船に帰るんだよ。」

 と私は答えた。 少女は

 「途中まで一緒に行ってもいいですか?」

 と言う。 少女はモンペではないがズボンのようなものをはいており、上衣は夏姿であった。 可愛い子であった。 オカッパの髪、優しそうな品のある顔をしていた。 私は

 「家は近く ・・・・」

 と尋ねたところ、少女は自転車を押しながら

 「この先を途中から左に折れればすぐ ・・・・」

 と答えた。

 30年を経た現在、当時少女を交えた3人の会話した内容については、あまり正確に覚えてはいないが ・・・・。

 「台湾の言葉で、娘さんと言うのは何というの?」

 と尋ねた。 するとその少女は

 「娘と言うのは、ギナとかザポギナと言うのよ。」

 と教えてくれた。 木下は初めから何だかバツの悪るそうな顔をしていて、私と少女の2人の会話にただ頭を大きく動かし、肯くだけであった。

 「兵隊さん達は、戦地に行くの?」

 その返事に対しては、「そうだ」と言うほか言いようはなかった。 通りすがりの少女に自分達のことを話して聞かせることもない。 また秘密である我々の行動に関してはロを堅くせざるを得なかった。

 大牟田を出発して以来女性と話し合ったのもこの少女とだけであった。 そしてそれが木下にとっては最後になったのである。
(続く)