著 : 辰巳 保夫
水上特攻部隊の編成と展開 (承前) 18日の夕方、軍用列車は終着の下関駅に着き、皆は関門連絡船に乗り替え門司港駅に着いた。 門司は私の郷里であった。
ここ門司において、先に横須賀を出発した別動隊の到着するのを待つことになった。 別動隊は我々の使用する震洋艇と色々の軍需物資を受け取り、それらのものを輸送船 「神福丸」 (栗林汽船株式会社所属、2,204トン、最大速力8ノット) に荷積し、門司港に回航、本隊と合流することになっていた。
本隊は門司の 「三笠」 (現在の 「松尾」) という料亭に宿泊し、別動隊の到着を待った。 船待ちがなければそのまま戦地に向かっての出発であったが、九州出身の一部の者はこの船待ちの間を利用してそれぞれ郷里に帰ってくることが特別に許可された。
時間的な制約もあり九州といえども帰郷できない者もあった。 私はその点非常に恵まれており、港からしても30分とかからなかった。 ところが四国地方出身者は何しろ遠く、また不便なため帰るに帰れなかった。 真に気の毒であった。
7月中旬、ほんの3か月前である。 私は夏休暇で帰省したばかりであり、立派な予科練の七ツ釦姿の私を母はこの上なく喜んでくれたばかりであった。 軍服も入隊した時と違って、身体にぴったりと合い逞しくなっていた。
突然予告なしに母の前に現われた私を見て、母は驚いた眼差しでしばらく見ていた。 父は私が10歳のとき6年間の長き患いの末この世を去った。 その後の母は看病に疲れ、手をひどく震わす何か訳の判らない病気にかかり苦しんでいたようであった。
「今から戦地に行くのだが、ちょっと寄ってみた。」
と突っ慳貪に私は母へ言った。 余計なことは一切母の耳に入れないことに決めた。
私は母へ自分から進んで特別攻撃隊員を志願し、もう2度と再び会うことは出来ないのだ、生きて帰ることのないこの道を ・・・・ そのことを知ったならばと、母の心中を察すればこそ、あまりにも今の母が可哀想でならなかった。
この時既に私のすぐ上の兄2人が相次いで戦死していた。 仏壇に灯明と線香をあげ、父兄の冥福を祈り合掌した。 そして2人の兄の白木の箱の封を切り、改めて箱の中を見た。 一人の兄は写真が1枚鋲で止められてあり、あと一人の方には何も入っていなかった。
母は一体何をしているのだろうかと、後にいて怪訝な顔をしているだけであった。 (俺もこうなるのか) 母を慰めてやる言葉を私は他に持たなかった。 ただ 「身体に気をつけてな」 とそれだけを呟いた。
あと3人の働き盛りの兄達はみな戦地に行っていた。 長兄の嫁は甥 (小学3年生) を疎開させ、そちらに行って留守であった。 私は時間的にその疎開先まで行けることを知り、母へ今からすぐ兄嫁に会いに行ってくると告げ、母一人をその場に残して疎開先に発った。
兄嫁には概略ではあったが事実を話し、“帰らざる人“ となるため、くれぐれも母の面倒をお願いした。
日も暮れたが、すぐ近くの宇佐海軍航空隊の艦爆機が夜間飛行訓練を行なっていて、時折り上空を通過して行った。
義兄はどこでどう工面して来たのか、ビール2本を私に奮発してくれた。 物のないときに大変なことであったろう。 あまり長居もできず夜10時発の最終の軽便鉄道に乗り 「宇佐八幡駅」 を発ち、「宇佐駅」 で日豊本線の上り列車に乗り替えた。
これで何も思い残すこともない (しかし私の心の中にはまだすっきりしないものはあった)。 だがまだ何か、別にこれということではない。
灯火管制のされた夜行列車の中はただ暗く、そのうえ乗客も少なかった。 孤独感が急に私に押し迫ってきた。 独りしょんぼりとした寂しさ、そして自分が何やら遠く深く沈んで行くような感じに ・・・・。
時折り汽笛が鳴る。 はっと正気に帰る我が心。 また汽笛は意地悪くも物悲しささえ誘うこともあった。
七男坊であった手前、私は母には甘えるだけ甘えて育った。 すぐ上の戦死した兄へ小遣を1銭与えても、私には2銭くれるような母であった。
我々の大戦果を母はあとで知り、あの甘えっ子がねえ! と私という子の短かい命を捨てて行った行為に対して、きっと許してくれることだろうと ・・・・。 私はそれでいいんだ、変った子であったと母から言われずとも自分なりに自分を認めていた。 母がそれをまた喜こんでくれることだと私は信じた。
それ以後、まだ母に会える機会はあったが、私は母が不憫で顔を合わすことができなかった。 自分が早く立派な軍人となって、きっと母の病気を治すために ・・・・ ということが私には出来ないのであった。 こんな情ないことはなかったが、“軍人は戦場で勇敢に敵と戦い死ぬものなり“
(続く)