2010年10月12日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (21)

著 : 辰巳 保夫

 水上特攻部隊の編成と展開 (承前)

 昭和19年10月末までに編成できた震洋隊は次のとおりであった。

隊  名講習回次所        属 発令
昭和19年月日
 第1震洋隊第 1 次 父島方面特別根拠地隊 8月29日
 第2 〃第 2 次   〃 9月 5日
 第3 〃 母島警備隊
 第4 〃   〃
 第5 〃 父島方面特別根拠地隊 9月10日
 第6 〃 第3南遣艦隊 (比島)
 第7 〃   〃
 第8 〃 父島方面特別根拠地隊 (予定) 9月20日
 第9 〃 母島警備隊 (予定)
 第10 〃第 3 次 大島防備隊 (予定) 9月25日
 第11 〃 石垣島警備隊 (予定)
 第12 〃 父島方面特別根拠地隊 (予定)10月 1日
 第13 〃 第3南遣艦隊10月 5日
 第14 〃   〃
 第15 〃   〃
 第16 〃 硫黄島警備隊10月10日
 第17 〃 大島防備隊10月15日
 第18 〃   〃
 第19 〃 石垣島警備隊
 第20 〃第 4 次 高雄警備府10月20日
 第21 〃   〃
 第22 〃 大島防備隊10月25日
 第23 〃 石垣島警備隊

 これら震洋隊の所属決定は、陸海軍部の 「〇八運用に関する協定」 に準拠し、両部の間で協議し決定されたものであった。

 ところが、海軍省は重大な戦局の斜向により、のち軍令部の要望に基づいて南方諸島および南西諸島に配置する予定であったところの第8、第9、第10、第11ならびに第12震洋隊の5隊を、いずれも第3南遺艦隊司令部付として配属する処置をとった。 これによって、比島方面に配備される震洋隊は全部配備できたときは7隊となる。

 かくして我々第12震洋隊は、昭和19年10月10日頃第3南遺艦隊司令部付の命を受け、横須賀を出立いよいよ戦地に向かうことになったのであった。
(続く)

2010年10月13日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (22)

著 : 辰巳 保夫

 水上特攻部隊の編成と展開 (承前)

 第12震洋隊 (松枝部隊) 隊長松枝義久海軍中尉 (当年23歳、海兵72期、鹿児島県出身) の遺書


遺     書

 生ヲ皇国ニ享ケ天恵洽クシテ楽々悠々タル二十有余年君恩ノ宏遠深厚ナルー死以テ酬イントシテ余リアルモノニ候
 義久斯ニ大任ヲ拝シ恐懼感激措ク処ナク唯々身ノ光栄ニ戦クモノニ候
 一髪尚軽ク君命ノ重ナル今日程痛感セル事ハ御座ナク候
 身更ニ生還ヲ不期親ニ先立ツ不幸ノ罪何卒御許シ下サレ度侯
 鶴脚ノ如ク細キ赤坊ニ米汁トギスマシテ含マセラレ或ハ病魔ノ払ヒニ時ヲ屡シテ御両親様ニハ幾度力御心配ヲオカケ申候
 義久今日ノ姿誠ニ御両親様ノ賜二候
 兄上様姉上様弟、妹ニ対シ我生涯ノ恩ヲ謝スルト共ニ小生ニ代リテ忠孝ヨク致サルベク御顧仕侯
 此ノ度ノ戦ハ百年戦争ニ候へバ忠ヲ楠氏ニ比シ孝ヲ尊徳ニ比サルべク候
 永ラク御附合ヒ下サレタ皆々様ニ対シ宜敷ク御伝へ下サレ度尚若キ可愛ユキ数百ノ部下ノ御遺族ニ対シマシテハ誠ニ気ノ毒ニ候へバ小生ニ代リテ深ク謝シ下サレ度侯
 最後ニ謹ンデ大日本帝国ノ万歳ヲ御祈申上侯
義 久
      昭和十九年十月

   御両親様

     たのしみは 彼方の空の紅を
     ただ一すぢに 思い込むとき


 (この遺書は現在、海上自衛隊佐世保地方総監部史料館 (旧) に、写しは靖国神社宝物館に保存されている。)

 この遺書は松枝隊長が戦地への出発命令を受け海軍水雷学校において書かれたものであった。

 震洋艇の特別講習 (訓練) は昭和19年10月5日無事終了した。 講習終了直前の9月25日頃松枝義久少尉が我々の部隊長として正式に着任、任命され第12震洋隊の指揮を執った。 そして隊長は10月1日海軍中尉に昇進した。

 第12震洋隊の編成は攻撃隊と基地・整備隊とからなり、攻撃隊は4個艇隊に分かれた。 艇隊長は士官並びに准士官であり、玉木、山蔭両少尉 (予備学生出身)、大橋、安田両兵曹長であった。

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( 原著より 第12震洋特別攻撃隊員の記念写真  前から4列目左から3人目が著者 )

 特別攻撃隊員は乙種飛行予科練習生出身の50名 (19期30名、20期20名)、基地・整備隊員は137名 (准士官2名、下士官9名、兵126名)、総員192名であった。

 基地・整備隊員は現役の軍人が全員の2割に満たない程度で、あとは40歳前後の “国民兵“ として召集された兵士がほとんどであった。

 10月に入って侍従武官が来校し、全特別攻撃隊員は分隊点検を受け、天皇陛下からの激励のお言葉を賜わった。

 第12震洋隊は同じ特別訓練講習を受けた他の3個部隊とは別に、急拠比島方面への進出 「第3南遺艦隊司令部付」 を命ぜられ、出発することとなった。 横須賀を発つ直前の日曜日、我が部隊の攻撃隊員は上京し、宮城と靖国神社の参拝を行なった。

 約1か月にわたって猛訓練を受け、まだ任地の決らない他部隊の150名の同僚達とも決別となった。 (他部隊は11月下旬、父島母島に向け横須賀を発つ。)

 これら3部隊の総員が学生舎前から校門まで長蛇の列を作って見送る中を、昭和19年10月16日勇躍海軍水雷学校をあとに軍用列車に乗り込み田浦駅を発った。

 先陣を承わっての出発は、軍人として同僚より先に功名の花を咲かせるという誇りは更に優越の心理を誘い、意気が益々高まっていった。 胸を張っての行進は血潮湧き立ち、口の中で “海ゆかば“ をハミングしながら 「お先きに失礼」 といった感じとなった。

 これほど血湧き肉躍る我々若き特別攻撃隊員は出陣を前にし誰もが綴った遺書を一人として残さなかったことである。 それは震洋隊の行動は全くの極秘であることを守ったからであった。

 それほどに震洋艇による敵への奇襲は難事であり、秘密漏洩によって自分達の壮挙が無になることをよく知っていたからであった。 遺書に書いたことが原因で、この脆いボートによる奇襲戦法を敵に覚とられたならばとの考えがあり、自分で自分の墓穴を堀るようなことを欲しなかった。

 またそれは不思議にも部隊長の他は皆が申し合わせたように書かなかったのである。
(続く)

2010年10月14日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (23)

著 : 辰巳 保夫

 水上特攻部隊の編成と展開 (承前)

 18日の夕方、軍用列車は終着の下関駅に着き、皆は関門連絡船に乗り替え門司港駅に着いた。 門司は私の郷里であった。

 ここ門司において、先に横須賀を出発した別動隊の到着するのを待つことになった。 別動隊は我々の使用する震洋艇と色々の軍需物資を受け取り、それらのものを輸送船 「神福丸」 (栗林汽船株式会社所属、2,204トン、最大速力8ノット) に荷積し、門司港に回航、本隊と合流することになっていた。

 本隊は門司の 「三笠」 (現在の 「松尾」) という料亭に宿泊し、別動隊の到着を待った。 船待ちがなければそのまま戦地に向かっての出発であったが、九州出身の一部の者はこの船待ちの間を利用してそれぞれ郷里に帰ってくることが特別に許可された。

 時間的な制約もあり九州といえども帰郷できない者もあった。 私はその点非常に恵まれており、港からしても30分とかからなかった。 ところが四国地方出身者は何しろ遠く、また不便なため帰るに帰れなかった。 真に気の毒であった。

 7月中旬、ほんの3か月前である。 私は夏休暇で帰省したばかりであり、立派な予科練の七ツ釦姿の私を母はこの上なく喜んでくれたばかりであった。 軍服も入隊した時と違って、身体にぴったりと合い逞しくなっていた。

 突然予告なしに母の前に現われた私を見て、母は驚いた眼差しでしばらく見ていた。 父は私が10歳のとき6年間の長き患いの末この世を去った。 その後の母は看病に疲れ、手をひどく震わす何か訳の判らない病気にかかり苦しんでいたようであった。

 「今から戦地に行くのだが、ちょっと寄ってみた。」

 と突っ慳貪に私は母へ言った。 余計なことは一切母の耳に入れないことに決めた。

 私は母へ自分から進んで特別攻撃隊員を志願し、もう2度と再び会うことは出来ないのだ、生きて帰ることのないこの道を ・・・・ そのことを知ったならばと、母の心中を察すればこそ、あまりにも今の母が可哀想でならなかった。

 この時既に私のすぐ上の兄2人が相次いで戦死していた。 仏壇に灯明と線香をあげ、父兄の冥福を祈り合掌した。 そして2人の兄の白木の箱の封を切り、改めて箱の中を見た。 一人の兄は写真が1枚鋲で止められてあり、あと一人の方には何も入っていなかった。

 母は一体何をしているのだろうかと、後にいて怪訝な顔をしているだけであった。 (俺もこうなるのか) 母を慰めてやる言葉を私は他に持たなかった。 ただ 「身体に気をつけてな」 とそれだけを呟いた。

 あと3人の働き盛りの兄達はみな戦地に行っていた。 長兄の嫁は甥 (小学3年生) を疎開させ、そちらに行って留守であった。 私は時間的にその疎開先まで行けることを知り、母へ今からすぐ兄嫁に会いに行ってくると告げ、母一人をその場に残して疎開先に発った。

 兄嫁には概略ではあったが事実を話し、“帰らざる人“ となるため、くれぐれも母の面倒をお願いした。

 日も暮れたが、すぐ近くの宇佐海軍航空隊の艦爆機が夜間飛行訓練を行なっていて、時折り上空を通過して行った。

 義兄はどこでどう工面して来たのか、ビール2本を私に奮発してくれた。 物のないときに大変なことであったろう。 あまり長居もできず夜10時発の最終の軽便鉄道に乗り 「宇佐八幡駅」 を発ち、「宇佐駅」 で日豊本線の上り列車に乗り替えた。

 これで何も思い残すこともない (しかし私の心の中にはまだすっきりしないものはあった)。 だがまだ何か、別にこれということではない。

 灯火管制のされた夜行列車の中はただ暗く、そのうえ乗客も少なかった。 孤独感が急に私に押し迫ってきた。 独りしょんぼりとした寂しさ、そして自分が何やら遠く深く沈んで行くような感じに ・・・・。

 時折り汽笛が鳴る。 はっと正気に帰る我が心。 また汽笛は意地悪くも物悲しささえ誘うこともあった。

 七男坊であった手前、私は母には甘えるだけ甘えて育った。 すぐ上の戦死した兄へ小遣を1銭与えても、私には2銭くれるような母であった。

 我々の大戦果を母はあとで知り、あの甘えっ子がねえ! と私という子の短かい命を捨てて行った行為に対して、きっと許してくれることだろうと ・・・・。 私はそれでいいんだ、変った子であったと母から言われずとも自分なりに自分を認めていた。 母がそれをまた喜こんでくれることだと私は信じた。

 それ以後、まだ母に会える機会はあったが、私は母が不憫で顔を合わすことができなかった。 自分が早く立派な軍人となって、きっと母の病気を治すために ・・・・ ということが私には出来ないのであった。 こんな情ないことはなかったが、“軍人は戦場で勇敢に敵と戦い死ぬものなり“
(続く)

2010年10月15日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (24)

著 : 辰巳 保夫

 船団の “鹿島発ち”

 「神福丸」 が門司に入港してから連日、船長、部隊長及び船側の幹部は門司武官府の船団会議に出席した。

 船団会議も終り、各船は適宜六連泊地に移動することとなった。 「神福丸」 の錨も巻き揚げられた。 関門海峡の潮流は早い。 「神福丸」 が六連沖に到達したとき船団の出発の命令が発せられた。

 10月28日午後1時、既に六連沖に仮泊待機中であった大小12隻の輸送船は、指示された順序に従って掃海水道を出て行く (注) 。 この付近は関門港防衛のための味方機雷原があり、掃海水道は 「軍極秘」 のマークのされた海図を参考とし航行しなければならなかった。

(注) : 「第1海上護衛隊戦時日誌」 によると、この時の船団は 「モマ06」 で 「神福丸」 以下輸送船11隻、護衛は第1、第3、第7号海防艦の3隻 (指揮官第11海防隊司令平野泰治中佐 (海兵52期)、司令海防艦第1号海防艦) で編成され、10月22日に門司を出港しておりますが、原文のままとしています。


 船団の制形は外洋、即ち玄海灘に出てから作られる。 蓋井島 (ふたおいじま) を過ぎると、「神福丸」 はこの島を真後ろに見るように変針し、ほぼ西に近い針路になった。 いよいよ船団は玄海灘に出た。

 左手には北九州の山々があって、いつまでも名残り惜しそうに我々の船団を見送り、また見守ってくれていた。 船団は3列縦隊に制形され威風堂々という言葉どおりとなった。

 関門港を眼下に見ながら育った私は、門司港を船出していく御用船 (輸送船) をよく見送ったものだった。 満州事変、上海事変それに日支事変が続き数多くの兵士と軍馬と兵器類が積み出されて行った。 偶然にも今回、自分も同じように門司港から発つことになったのであった。

 我々は、いよいよこれから実戦に参加するのだ。 戦闘員になったのだという実感が深まり一段と緊張の度合が強くなってきた。

 我々は輸送船 「神福丸」 に乗っているものの、こと船団及び船に関する知識など一切無知の状態下にあった。 そこでごく簡単ではあるが当時 「神福丸」 に乗組んでおられ、我々と行動を共にされ、ただ一人の生残者でもある北川2等航海士に次のように当時の船団等のことについて語ってもらった。


 船団には、航海中何隻かの海軍艦艇が護衛のために付いた。 これらの艦艇はいずれも小型艦艇で俗に毛じらみ艦隊といわれるものであった。

 いままで一度も隊列を組む等集団となって行動するということは商船にはあまりなかった。 そのため船団として行動するには一定の基準守則があり、これを守られなければ絶対に集団行動を行うことが出きない。

 したがってこの基礎的ではあるが基準守則を各船に徹底させるため、護衛艦側が主催となって打ち合わせ会、いわゆる船団会議が開かれたのである。

 船団がある港を出港する前には必ず開かれた船団会議においては、まず行き先が知らされ船団名が与えられそれに続いて基準船が決められた。 基準船はその船団中比較的優秀な船、いわゆるベテラン船長 (数多く船団を組み、行動したことのある船長) の乗った船が当てられた。

 そして航路、船団速力、船団の陣形 (隊形)、連絡方法及び航路付近の状況並びに戦況などの決定や説明があって会を終えるのが常であった。
(続く)

2010年10月16日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (25)

著 : 辰巳 保夫

 船団の “鹿島発ち“ (承前)

 航海中は、日没から日出時まで敵潜水艦から身を守るためジグザグ運動を連続実施した。 ジグザグ運動は海軍で定められた船団航行要程によって、10数種類もの方法が規定されてあった。 護衛艦側から 「何時何分からジグザグ運動Aとする」 と指令があれば、その時刻から一斉に指示されたジグザグ運動が開始された。

 ジグザグ運動を整一に行うには正しい時刻が必要となったが、それは毎日の正午、基準護衛艦のマストに時刻整合のための信号が揚がり、各船はその信号によってその日その日統括された時刻整合を行なった。

 ジグザグ運動も回を増し慣れてくるとスムーズに実施できたが、杓子定規で測るようになかなか上手くはいかない。 軍艦と違って商船は隊列を組んでの行動はほとんど行なわなかった。 またそのような訓練をする機会もなかった。 船団を組むことは戦時となり急に必要となったことである。

 大小まちまちの船体、機械の回転数の違い、その上海上模様が一定しないので編隊航行は輸送船側にとって至難の技であった。 中には相当複雑なジグザグ運動もあり、ちょっと間違うとすぐ衝突しそうになることも度々あった。

 比較的距離、間隔を詰めて実施する航行中の種々の運動には商船幹部は非常に神経を使った。 しかも、これを夜間の暗闇でやらなければならなかった。 いま思い出すとまだ当時の様子が目の前に浮かび、ぞーっとする。

 隻数が増すとどうしても各船間の距離、間隔が乱れ、護衛隊指揮官からお目玉を項だいすることもよくあったが、たまには 「タダイマノ、ジグザグウンドウ、ミゴトナリ」 とお褒めの言葉もあった。

 15隻以内の船団では縦は3列か4列であった。 相互の連絡と行動の敏速性を挙げるため船団の隊形をなるべく狭めることが要求される。 したがって各列間の間隔は1,000メートル、前後の距離は2〜300メートルであった。

 特にこの距離を保つためには相当の熟練を要した。 操船に当たる者は色々と工夫し、六分儀を使ったり、窓ガラスや窓枠に目安となる目印を付けるなどした。

 航海士及び機関士等船員の当直交替は4時間制が採られた。 航海士や甲板員は外況の見える勤務であり、機関部員に比較すれば緊迫の度合いがすぐ読みとれたが、機関部の当直員は当直勤務に立つその都度、奈落の底に自分が嵌ってゆくような心境であったようだ。

 彼等は機械から出る騒音と40度を超す熱気の中で、逐次変わる速力変化に対応し、すぐ要求された速力へ機関の回転数を整える作業は容易なことではなかった。

 船の行動は無理に無理を重ねたような運航の状態であった。 これは当時の輸送船 (一般民間船) 全てに言うことができた。 我が 「神福丸」 も御多聞に漏れずトラック島方面からフイリッピンを経由して横須賀に入港し、まだ荷揚げの終らないうちに次の輸送任務の命令を受けたのである。

 一息も休むことなく第12震洋隊を比島方面に輸送する重大任務に従事したのであった。 したがって機関の保守整備をする時間など到底ありえなかった。 このような実状下に置かれた船員は不平の出る暇さえなかった。

 いつ機関に故障が生じるかは誰一人として予測することもできなかった。 だましだまし使うという表現があるが、正にその通りであった。

 若しも機関故障で船がストップでもしようものならば、たちまちにして敵潜水艦の餌食になることはいうまでもない。 また魚雷攻撃を受けた場合は必ずといって間違いのないほど機関部に魚雷が当たった。

 だから機関部員は魚雷が当たったらどうやって逃げ出そうかと、常にそのことの不安が脳裏から離れなかったようだ。 機関部員の労苦は並々ならぬものがあった。

 当時船員不足は深刻であり、欠員者の補充のないまま次の任務に就くのが普通になってしまった。 やっと補充された船員の質・技量等は決して満足のできるものではなく、そんな望みを持つことさえ通用しない時世になった。

 乗組員 (人間) の疲労度も既に限界を越えていたと言っても過言ではなかった。 何といっても軍隊の兵員の豊富な活用からすれば民間徴用船である輸送船船員のそれとでは雲泥の差であり、正に酷使に近かった。
(続く)

2010年10月17日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (26)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団の “鹿島発ち“ (承前)

 我々特別攻撃隊員を、他の者達は搭乗員と呼んだ。 搭乗員は予科練時代に鍛えられたモールス符号による送受信訓練により発光信号はもとより、手旗信号・旗旒信号と視覚信号は何でもござれの腕前であり、その真価を試すときがきた。

 護衛艦側から来る信号を受信し、またその逆の送信に、あるいは僚船間の連絡に一役買うことになった。 そこで搭乗員は主に信号の送受と見張りの任務を受け持っこととなり、船橋と後部に配置され当直に立った。

 搭乗員達は実戦を一度も経験したことのない、言うなれば巣箱を離れたばかりの 「ひよこ」 と同然であり、これから戦場の諸々の体験を身に着けていくのである。 今までに過してきた予科練時代の猛訓練からみれば、むしろ実戦部隊に出ての雰囲気は何かしら間の抜けたような気さえする錯覚に陥るところもないではなかった。

 玄海灘は穏かであった。 がしかし、曇空から薄日が時折り射してはいたもののあまり良い天気ではなかった。 まずここ玄海灘で敵機の襲撃を受ける心配はなかった。 したがって対空見張りはさほど気をつかう必要はなかった。

 だが対潜見張りについては玄海灘といえども少しも気が抜けない状況下にあった。 米潜水艦による被害の報告は既に日本海方面にまで及ぶようになっていた。

 部隊長は航空母艦 「海鷹」 及び 「大鷹」 にて勤務してこられ、敵潜水艦の近況を十分知っておられた。 門司出港の前日まで我々に敵潜の状勢について説明され、また、色々参考となる知識を授けてくれた。

 この船団の行く先はフィリッピンのマニラ港であった。 我々の闘いは開始された。 第12震洋隊に対する大本営の期待は非常に大きく、我々の乗った 「神福丸」 は船団中央部に置かれた。

 全て船団中の輸送船は 「神福丸」 の “速力8ノット“ に合わすことになった。 「神福丸」 はこれ以上のスピードを出すことができなかったからである。

 「神福丸」 は大正初期頃造られた船で、当時にあってもかなり旧式の貨物船の部類であった。 燃料は石炭、蒸気を使うレシプロエンジンはゴットンスットン、ゴットンスットンと船中にその昔を響かせながら走った。

 船の構造を大別すると、前部、中部及び後部からなり、前部、後部はそのほとんどが区画のない加藍洞の船倉であった。 中部は船橋と機関室があり、いわゆる船の心臓部であった。

 前部の船倉は荷物を満載し、人の出入はできなかった。 我々隊員は全て後部の船倉に起居することとなった。 後部の船倉には震洋艇の箱詰めを3段積みにし、その上に板を張りコモ敷とした。 そこに毛布1枚を敷き、あと1枚を腹の上に乗せてごろ寝をしたのである。 寝室の天井は低く、不用意に立ち頭をぶつけることがしばしばあった。

 見張り当直に立つ以外我々は食っちゃあ寝、食っちゃあ寝の毎日が続くのであった。 救命ジャケットを枕に次の当直時間の来るまで睡眠をとった。 もうこの時になって、余計な人生の四方山話などする者は一人としていなかった。 寝た時はそれぞれの頭と頭、足と足が向き合うようにし、足が通路に向くようにして休んだ。

 すわ一大事の時のために服は着たままであった。 自分自身の装着品は暗闇の中でもすぐ持ち出せるように身近なところに置き、ある者は天井から吊り下げてあった。
(続く)

2010年10月18日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (27)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団の “鹿島発ち“ (承前)

 船団は黙々として進んだ。 日没が近づき 「総員配置に就け」 の命令が出た。 日没時及び日出時の前後約1時間、空襲並びに敵潜水艦の雷撃から自分達を守るため総員が配置に就いて見張りを厳重にした。 この時、私は義兄から貰った高価な紫外線除けのサングラスをかけ見張りに立った。

 日はとっぷり暮れて夜となった。 真っ暗な海、べっとり粘りつくような感じの海、バウで切られた波と船べり付近の小さな波に夜光虫が不気味に光り、隣りにいて海を見つめる同僚の横顔が線色に映える。 こんなに夜光虫で海が光れば雷跡も案外と早く見つけることができるであろう、と自分勝手な考えを抱く。 総員配置は解かれた。

 私は夜10時から当直に立つことになっていたため、何が何んでも早く寝ることにした。 8時には安田艇隊長が当直士官として 「火の元点検」 に回ってきた。 彼は特に安田隊の者については身体の具合は悪くないか、他に変ったことはないか、と一人一人に声をかけていった。

 船のエンジンの音は相も変らぬ規則正しいリズムに乗って響いていた。 ワッチ以外の者は皆、横になって休んでしまった。

 10時から2時間見張り当直に立つ。 初めての当直ということもあってか、時間内は身体がこちこちに緊張し、随分疲れてしまった。

 それは、自分の担当しているこの見張りが 「神福丸」 の安全はもとより、部隊全員の生死のカギを握っているという自覚と、いますぐそこに潜望鏡や雷跡が現われるような感覚が常にあったからである。 次直にバトンを渡したとき、こちこちになった自分の両肩を拳で叩いた。 直を解かれすぐ船倉に帰り寝た。

 それからどれくらいの時間が経ったであろうか? すっかり寝込んでしまっていた。 そんな時である。 「グワァーン」 突然、猛烈な大音響。

 ガバッと跳ね起き素早く救命ジャケット、鉄帽、そのほか自分の装着物を手に持ち、半長靴をつっかけるようにして上甲板に出た。 地震のように船が揺れた。 正に寝耳に水とはこのことか。

 この時 「神福丸」 (自船) に魚雷が当たったのかと瞬時思ったが、目の前の僚船 (注) に大きな火柱が揚がっていた。 それを横目で見ながら私は船橋へとまっしぐらに駆け上がった。

(注) : 当該被雷船舶は貨物船 「御影丸」 (武庫汽船所属、2741トン) 、雷撃したのは米潜 「Croaker」 (SS-246)  なお 「第1海上護衛隊戦時日誌」 によると、雷撃は10月24日0430で位置 N32-56、E125-54 とされています。


 船橋に着いて初めて頭に鉄帽をかぶり、胸に救命ジャケットをつけた。 しーっと燃える僚船を見つめながらであった。 ジャケットの紐を結んでいる時自分の手が震えているのに気づいた。

 ところが手ばかりではなかった。 腰から下がまるで電気でも通されているように小さく震えているではないか。 強く噛みしめた奥歯を少しでも弛めると、なお歯がカタカタと鳴っていた。 初めての経験! だが震えはあるが不思議なことに恐怖感は全然なかった。 武者震いなのか?

 大きく深呼吸をし、下ッ腹に力をグイと入れると、腰から上の小さな震えはすぐ止まった。 何しろ不意を突かれたためいささか驚いた。 「よし、いつでもどこからでも来てみろ」 今までの見張りよりも更に気合が入り背筋を伸ばし、皆の口元は真一文字に近く、きりりと引き締まった。
(続く)

2010年10月19日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (28)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団の “鹿島発ち“ (承前)

 敵潜から雷撃を受けた位置は済州島南方約40海里の海面であることがわかった。 午前2時をとっくに過ぎた時であった。 雷撃を受けた僚船は火炎に包まれながらあっと言う間に黒い海の中に吸い込まれていった。

 我々はただ見とれるばかりで、その僚船に手をかすこともせず、また哀れみの心をかける余裕すらなかった。 ただ沈黙の中に船はジグザグを繰り返しつつ進むだけであった。

 「俺が一番先に雷跡を発見してやるぞ」 と自分に言いきかせるようにした。 もう今は自分の船だけが残る、いや沈められてたまるものかと祈るだけであった。

 12サンチの双眼鏡について真っ暗な海を凝視する。 双眼鏡の視野の上4分の1ぐらいのところに水平線を置き、船首方向から横方面へとゆっくり見落しのないように移動していく。

 目も慣れて水平線と空と海の境もうっすらとわかった。 波の一つ一つをめくるようにして調べていった。 すぐ大きな声が出せるように、時折り自分で試めすかのように心掛けた。 見張りこそ我らの命であった。

 それから1時間ぐらい経ったとき、また前方の僚船にパッと火柱が揚がった (注) 。 続いて大爆発音、海面をビ一ンという音とともに水面の水が跳る。 次は自分の番か、と全神経を尖らせただ雷跡の発見に努めた。

(注) : 当該被雷船舶は 「月山丸」 (北日本汽船所属、4515トン)、雷撃したのは同じく米潜 「Croaker」 (SS-246)


 雷撃を受けたが僚船は沈まなかった。 メラメラと火炎をあげながら浮かんでいる。 その火の明りで他の味方輸送船団の一隻一隻が手に取るように照らし出されていた。

 各船は自己の出し得る最高の速力を出し、被雷現場から少しでも遠ざかるよう懸命であった。 一斉回頭もした。 整然としていた船団の隊形も、第2撃以後は散々伍々に近い状態となっていた。

 「神福丸」 は他の僚船から次第に離れていった。 船足が実に遅い。 1時間経っても被害船からどれほども離れてはいなかった。 幸いにも被害船の火炎はどんどん小さくなってくれた。

 こんな時は “ただ運を天に任すのみ“ という言葉がピッタリであった。 誰一人として喋る者とていなかった。 喉が無性に乾く、だが飲む水はなく生つばを幾度となく飲み込んだ。

 第2撃を受けてから以後はいくら待てども次の襲撃はなかった。 東の空から夜が明けはじめた。 西の空はまだ真っ暗であり、その下に敵潜野郎が潜み、我々から遠ざかって行くかのように感じた。
(続く)

2010年10月21日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (29)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 船団の “鹿島発ち“ (承前)

 だんだん明るくなってくる空と海。 ところが辺りを見回しても護衛艦と僚船は見当たらなかった。 全く夜が明けた。 美しい朝日の昇る夜明けではなかった。

 1隻の護衛艦 (駆潜挺) が本船に接近して来た (注) 。  我々は完全に船団から置いてきぼりをくってしまったのかと思っていた折り、駆潜艇1隻といえども我々は非常に心強くなった。

(注) : 「第1号海防艦戦時日誌」 によると、この護衛艦は駆潜艇ではなく第7号海防艦とされていますが、原文のままとしました。


 「神福丸」 1隻だけでは丸腰同然である。 東シナ海のど真ん中で1隻だけが置き去りにされ、これから先はどうなることだろう、と不安と焦燥感がみなの脳裏をかすめようとする矢先でもあった。

 駆潜艇は手旗信号で本船を呼んでいた。 それを見張中の搭乗員の一人が見つけ応答したところすぐ信文を送り始めた。

 「キセンワ サクヤ ヒガイヲウケタ ガッサンマル ヲ エイコウセヨ、ワレ タダイマカラ ユウドウスル」

 続いて

 「センダンワ コノママ タイワン二ムケ ゾッコウスル」

 信号文の了解を出すとすぐ駆潜艇は、くるりと向きを変えた。 「神福丸」 も直ちに転舵し駆潜艇に続いた。

 折角ここまで来ていながら先に進めないとは ・・・・。 これほど残念なことはなかった。 搭乗員は皆歯を食い縛って悔しがった。 何ともいえない気持である。 引き返すとは、自分も傷つき引き返すのではない。

 昨夜1隻の僚船が沈められ、1隻が損傷を受け航行不能となったが、護衛艦は皆健在のようであった。 撃沈された僚船からの生存者は一人もいなかった (注)

(注) : 「第1号海防艦戦時日誌」 によると、沈没した 「御影丸」 は船長以下8名が救助されたとされています。


 私は昨夜、敵潜水艦の攻撃を受けている時、我が 「神福丸」 だけは絶対に沈まないと確信していた。 また沈められるという感情も全然持っていなかった。

 それというのはこうである。 私は以前、迷信じみたこんな話を聞いたことがあった。 「船にねずみのいる間は、決してその船は沈むことがない」 と ・・・・。 この話をどれほど信じられるかは疑問であったが、しかし実際の形となって私達の前に出現したのである。

 第1撃を受ける寸前まで “ねずみ” の騒ぐ鳴き声で、時々目を覚ますことがあった。 それから僚船の被雷の轟音で船倉内にいたねずみが1番先に驚き、まだ横になっていた我々の腹や顔の上を走り、逃げ回った。 ねずみが船を助けるのでもなかろう。

 この話を眉唾と思う人はそう思っても一向に差支えない。 これが真実であるのか? 偶然にも、昨夜の体験から 「ねずみの話」 を私は信用できるようになったのである。
(続く)

2010年10月22日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (30)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 「月山丸」 を曳航して

 1隻の駆潜艇と 「神福丸」 は、傷ついた僚船 「月山丸」 救援のため東シナ海を北上するのであった。 4直制の当直も2直制になった。 それはなお一層対潜見張りを厳重にするためである。

 駆潜艇との距離があまり離れないようにするため 「神福丸」 はジグザグ運動をかなり緩やかなものに変え、ほぼ直進に近い針路でもって後を追った。

 2時間ぐらい航走したところで、前方の水平線に2本マストが見えてきた。 恐らく 「月山丸」 であろう。

 マストから下の部分も段々水平線上に浮かびあがってきた。 「月山丸」 は5,000トン以上もあろうか、傾斜もなくただ沈黙のまま浮かんでいた。 救援の2隻との距離はどんどん近くなっていった。

 「曳航用意!」

 「月山丸」 は後部に魚雷が当たり、舵とスクリューが全然使えなくなり、全く自分の力では動けない状態となっていた。 そして昨夜の恐怖の海に漂流を続けていたのである。

 風は大して吹いてはいないが、どんよりとした空は今にも雨が降り出しそうであった。 短かい時間ではあったが、「神福丸」 では曳航に関する計画がなされ、その計画に従い後部甲板に曳航用のマニラロープが船倉から引き出された。

 このロープは曳航専用のものらしく、今まで一度も使われた形跡はなく、真新しかった。 松枝部隊からも手の空いている者はほとんどこの作業に自分から進んで出て手作業をもって応援をした。

 曳航用口一プの先端は外舷に添わせて前甲板へ導かれた。 作業指揮官の1等航海士の片手が高く挙がり曳航準備は全く整った。 「曳航準備よし」 の合図は時機もよく、精密に計算されたようにその時を得ていた。

 敵潜水艦の潜在海面での作業は一刻の猶予も許されないのである。 「神福丸」 は 「月山丸」 の船尾側から曳航のための近接を開始した。

 「月山丸」 は 「神福丸」 の倍もある中型の貨客船であった。 近づくにつれ同船の被害か所が痛々しく我々の目にも入ってきた。 後部喫水線付近の鋼板が捲れ上がっていた。

 「月山丸」 の方から曳航索を取り込むための細いロープが 「神福丸」 に投げ渡された。 そのロープの先に曳航用の大きなマニラロープが結び合わされ、するすると 「月山丸」 に向かって操り出されていく。

 「月山丸」 に乗り込んでいた陸軍兵士たちの間から歓声が揚がった。 彼等にとっては、それこそどうなることであろうかと心配していた今までの絶命的な境地から一変して、今救援の味方の船が来て、しかもこれから “動けるのだ! 助かったのだ!“ という実感がこみあげてきたのであろう。

 始めは 「わあー、わあー」 という声で、我々 「神福丸」 ではどうしたのだろうかと驚いたのだが、その歓声の中から 「有り難う」 「よろしくたのむぞ」 という声がはっきりと聞えてきた。 2隻の距離はどれほどもない、ここで魚雷を1発食おうものなら、それこそ2隻とも御陀仏になってしまう。 陸軍兵士の歓声は制止された。

 両船の作業指揮官と船長はそれぞれ大きなメガホーンをとり出し連絡を交わす。 こうして曳航用のロープの先端は 「月山丸」 の船首のビット (繋船柱) にしっかりと巻き止められた。 全神経を打ち込んでの作業は1回のミスもなく、スムーズに運んだ。 そしてすぐ曳航が始まった。
(続く)

2010年10月23日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (31)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 「月山丸」 を曳航して (承前)

 「神福丸」 の船橋では、久保船長の元気一杯気合のこもった声に皆は完全に呑まれてしまった。 「スロー前進」 「エンジンストップ」 が小刻みに連続して発令された。 マニラロープが張り始める、「パリイ」 「パッパリイ」 「パリイー、ギギィ」 とロープが軋む、すぐ機械を止める。

 我々は総員配置について見張りを厳重にした。 「対潜、対空見張りを厳となせ」 更に船内スピーカーに号令が追い打ちをかけるように流れた。 ロープもさることながら我々の緊張は正に満月のように引かれた弓弦のようであった。

 「月山丸」 の舵が使えないこともあってか、加速されると真後でなく斜め後方になりさも 「申し訳けない」 といったような姿で 「神福丸」 についてくる。

 ロープの直径は7〜8センチはあろう、だが1本だけであった。 緊急時の切断のため巻き止められたビットの側にボースン (甲板長) が大斧を持って待機していた。

 曳航速力4〜6ノット、6ノットが精一杯のスピードであった。 幸にも海上は平穏であり、順調な曳航の滑り出しであった。 両船の護衛は駆潜艇ただ1隻のみ。 駆潜艇は少し距離を開き両船の前方をカバーするように左に右に絶えず動き回り響戒に懸命であった。 運を天に任かすよりほかに我々のなす術はなかった。

 「月山丸」 に乗っている者達に 「元気を出せよぉ−」 と激励してやりたいような気持であった。 こちらのそんな気特が通じたのか、どうやら生気が湧いてきたかのように明るさを感じさせるのであった。

 さて、これからどこまでこの曳航を続けるのか? 昨日この付近にいた敵潜水艦も、まだそう遠くには去っていないだろう。 この私ですら人に言われなくてもそれぐらいの判断はつく。

 「左30度、潜望鏡!」

 突然、左舷見張りの亀井が指を指して叫んだ。 一瞬背中を暖かいものが流れる思いがした。 皆の視線はそちらの方向に向いた。

 信号員は素早く 「月山丸」 と駆潜艇に信号を送った。 「月山丸」 の機銃座に戦闘員が配置に就く様が手に取るように見える。 右前方にいた駆潜艇は全速力で左側に移動を始めた。

 しかし、その方向には何も見当たらない。 大分風が出てきた。 そして波が立ってきた。 私は12サンチの双眼鏡でその付近の海面を丹念に捜索した。 亀井は 「キラッと何かが光った」 と言っていた。

 皆は全ての双眼鏡と肉眼とで捜す。 潜望鏡を捜すと同時に雷跡に対しても警戒をする。 魚雷は雷跡の先端から50〜100メートル前方を疾走してくるのである。

 突然、「月山丸」 の機銃が同船の左前方の海面に向かって火を吹いた。 我が方でも船橋の機銃員はその方向に構えた。 潜望鏡に向かって射ったのだろう。 来るぞ! 私は倍率の大きい12サンチ双眼鏡でじっとその付近を見つめた。

 私も何かが見えたような気がした。 弾着点付近に何かある。 それが何であるかを確かめる。 ところが海面にぽっくり、ぽっくり浮き沈みしているものが目にはいった。

 「あれは、ビール壜!」

 と思わず大きな声が出てしまった。 「月山丸」 側でもそれと分ったらしく、手旗信号で 「ホンセンノ モクヒョウ ハ アヤマリナリ」 と知らせてきた。 全てが事なく終わってほっとした。 ゴクリと生つばを飲み込む者さえあった。
(続く)

2010年10月24日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (32)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 「月山丸」 を曳航して (承前)

 ぱらぱらと小雨が落ちてきた。 そうこうしているうちに駆潜艇から指令が出た。

 「コノ エイコウワ サイシュウトウ キョウダイジマハクチ、シンロ ホクホクセイ ニ トレ」

 午後2時半頃になり、水平線の彼方に山の頂の部分がうっすらと見えてきた。 これが済州島であろう。 あともう一息であった。 私は同僚と12サンチ双眼鏡の見張りを交代し、海図台の海図であとどのくらいの距離か確かめることにした。 その距離は約20マイルであった。

 駆潜艇のマストにはラッパ状の電波探信儀 (初期のレーダー) のアンテナが装備されてあった。 また 「神福丸」 には簡便式の水中探信儀と船橋に左右2挺の13ミリ機銃が装備されており、海軍から10名ほどの兵士が派遣され、これらを操作していた。 けれども電波探信儀、水中探信儀という近代兵器による捜索よりも、まだまだ人間の目、耳による基本的な捜索方法が何よりも勝っており、一番の確実性があった。

 曇空のためか日暮れがぐんと早かった。 そんな日暮れ近く、やっとの思いで済州島兄弟島泊地にたどり着いた。

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 曳航索が放される。 「神福丸」 は大きく針路を曲げ、「月山丸」 の泊地進入を見守る。 今までの惰力で 「月山丸」 は前進していった。 少しでも陸岸に近くなるように進む。 済州島の島半分以上の占める大きな山が、今は我々の一団に上から覆い被さるようであった。

 「月山丸」 は遂に投錨した。 「神福丸」 と駆潜艇はそれを見届けたのち続いて錨を投げ込んだ。 裸に近いような高い山、麓には貧しそうな民家が転在していたがおおよそ殺風景なところであった。 東の空から黒い重い雲がもうすぐそこに迫ってきた。 すっかり我々も疲れてしまった。 あたかも自分たちの手で 「月山丸」 を引いてきたかのように ・・・・。

 今晩はこの泊地で仮泊することになった。 「月山丸」 乗組の日本兵2,000余名は助かったのである。 入港後間もなく、数名の遺体と負傷兵が陸に揚げられたが、それに続いて残る全員も今晩のうちに陸に揚がることになった。

 夜明けとともに 「神福丸」 は、傷ついた 「月山丸」 をこの泊地に残し、駆潜艇とともに一旦門司港に向かうことになった。

 いま我々の脳裡には前進基地へ向かってただ前進あるのみであった。 がしかし誰の悪戯であろう前進の歯車を狂わされてしまった。 日本軍隊には後退はないと教え込まれた我々は、無性に残念で残念でたまらなかった。

 今はもぬけの殻同様となった 「月山丸」 を独り置いて泊地を去る。 共に戦ってきた僚船を置き去りにしてゆくことの切なさ、また忍びない気持を胸に秘め、段々と遠ざかり小さくなってゆく船影を私はじっと船橋の陰から眺めていた。 そして戦いという現実の厳しさを心底から味わうのであった。

 この日の東シナ海及び玄海灘は大きく荒れた。 私は気分が悪くなり昼飯はあまりすすまなかった。 昼食のときに出た小粒の梅干を種子だけになってからも口に食わえ、口の中でしゃぶったりした。

 かくして 「神福丸」 は山口県吉見沖で駆潜艇と別れ、同日遅く一旦六連泊地に仮泊し、翌朝錨地が変更され、再び門司港片上沖のブイに錨鎖を取った。 我々はまた振り出しへと戻って来たのである。

 再び門司に帰ってきたときの自分は完全に邪念を捨て去り、ただ任務一途に邁進する力強い軍人となっていた。 「邪心を去れ」 これは予科練入隊当時に受けた教訓であるが、その境地に近づいていた。

 安田艇隊長は公用で陸に上るとき、私を必ず同伴した。 そして彼は私に 「家に帰って来い」 と言うのであった。 私は彼の人情は分らないではなかったが、そうした私個人だけに与えてくれる別待遇を私は快く受ける気持になれなかったし、また私自身、今更生家に向けて足を運ぶ気持もなく、その必要も感じなかった。 折角の彼の好意を断ることができず、約束の待合せの時間まで波止場付近で時間を費やした。

 仮泊3日目、門司海軍武官府からの指令が出た。 「三池港に回航せよ」 「神福丸」 は単独の航海をもって三池港に回航したのである。

 昭和19年11月1日、我々19期生は海軍3等飛行兵曹に、後輩の20期生出身者は海軍飛行兵長にそれぞれ特別進級を与えられた。
(続く)

2010年10月25日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (33)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 三池港 (大牟田) で

 港の入口にある水門の扉に、満潮時の水位が濡れてまだ残っていた。 有明海に面したこの三池港は、韓国の仁川港とともに、干満の差が非常に大きいことは有名である。 そのことは、既に小学生のとき地理の授業で教わっていたが、実際にこの目で見て確かめるのは初めてであった。

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( 当時の三池港  元画像 : 1945年版の米軍地図より )

 干潮時になると港内の水位が低くなってしまうので、船の出入港は満潮時に行なわれる。 あとは水門を閉じて、港内の水位を保ち、入港している船を保護するのである。 それは船の修理などに用いられるドックと同じ方法であった。

 11月4日、大牟田市内で専修女学校 (「大牟田高等女学校」のこと?) をやっておられる青木コハキ校長先生が、同校全員で 「神福丸」 を訪れ、我々を慰問して下さることになった。 早朝から、みなの動きが活発になってきた。 がなんとなく、そわそわして落ち着きがなかった。

 部隊長と青木先生とは知己の関係にあり、また当時部隊長の妹松枝久子さんは三池の武官府に勤め、青木先生の宅に下宿住いをしていたこともあって、部隊長が青木先生をお訪ねしたのであった。 そこで先生から若い兵隊さん達に、是非生徒らの芸を被露し、お慰めしようということになったのである。

 学校から衣装や道具類を運ぶため、我々の中から作業員が出た。 「神福丸」 の前甲板船倉の上に特設の舞台も作られた。

 九州といえども11月初旬ともなれば朝は冷える。 煙突の煙などが棚引いていた。 朝靄の中から上着はセーラー服、下は黒モンペ姿の女学生の一団が岸壁の近くに到着した。

 この女学生の一団をカッターや通船を出し、また武官府から借りた大発で迎えたのである。 船上から隊員総出の大歓声と拍手が起こる。 古い船のためタラップが急なこともあってか、そのタラップを女学生は怖々と登る。 皆の中から女学生の手を取って、登る手助けをしてやる者もいた。

 俄造りの舞台はぎしぎしと鳴った。 歌あり、踊りあり、寸劇ありで乙女たちの真心が特設の狭い舞台に漲って、次から次にやんやの破れんばかりの拍手が続いた。 元気一杯でまさにハチ切れんばかりであった。

 女学生と搭乗員のコーラスも出た。 搭乗員たちの中から飛び入りが出る。 それがひどい調子外れであったため観覧席からどっと笑い声が湧いた。 なかでも中山正の “同期の桜” の独唱は皆の心を打った。

 谷口少尉、安田、大橋、藤田の各兵曹長による 「炭坑節」 の踊りが出た。 さすが海軍の古勇士の貫録十分、その手、足さばきは見事であった。 皆の中から 「いつ、どこで習ったのか」 というヤジまでが飛んだ。

 皆よりも身体の一回り大きい基地隊員の代表北川上等衛生兵が舞台に上がり、正調 「木曾節」 を歌った。 皆はその歌声に手拍子を入れる。 彼の歌声は菊の香高き澄みきった秋空に響き渡った。

 私はじっと目を瞑りこの歌を聞いた。 彼の声は、彼の郷里 “木曾“ の山奥にまで届けとばかりに歌っているようであった。 私の耳には彼の歌の余韻に 「おっ母さーん」 という声が乗っているように聞え、我が胸の中にじーんとしたある痺れを誘うのであった。

 この特別の演芸会はたっぷり3時間以上も続いた。 ついこの前の出来事であった、あの恐怖の被雷のこともすっかり忘れさせてしまうほどである。 こんな和やいだ催しものを見、また聞くのも久し振りのことであった。

 今の我々は時として笑い声を出すことすら忘れかけていたのではなかっただろうか。 お陰で我々は思う存分腹の皮の痛くなるほど笑うことができた。
(続く)

2010年10月26日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (34)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 三池港 (大牟田) で (承前)

 こうして続いた演芸会も終わり、舞台を片付け始める頃、部隊長から搭乗員に対し女学生を学校まで見送るよう命令が出た。 片付けが終わったら船はまたもとの堅い冷たい鉄の船に変わっていった。 私も最後の便のカッターを漕ぎ、女学生を学校へ送り、道具類の運搬に汗を流した。

 夕闇が迫り、三池港は静かに暮れていった。 我々にとっては誠に有意義な一日であった。 私も入れて数名で一組になった者達は学校でお茶などを御馳走になり、ある者は先生を含めた女学生と話に花を咲かせる場面もあった。

 学校を出た我々はひと時ではあったが久し振りに狭い船の中の生活を忘れ大牟田の市街を闊歩したのである。

 三池港での在泊は約1週間続いた。 その間搭乗員はいくつかの組に分かれ青木先生の家や学校に招待され、沢山のご馳走や慰問の品をいただいた。

 女学生と搭乗員達は同じ年代であり、話の通ずるところはあった。 このように乙女達と話し語り合うなど想像だにしなかったことである。 我々は予科練に入隊して以来これまでの約2か年間は、青春もただ国のため、天皇陛下のためにとひたすら猛訓練に明け暮れたのであった。

 我々のこの短かく、そして残された後わずかな人生の日々の中に、果たして恋をするという人の心やそのような心の余裕を持ち合せていたであろうか。 軍務に没頭するが故に、例え恋をする人の心は持ち合わせていても、人を悲しませるようなことを私はもう望まなかった。

 「神福丸」 の機関に少々のトラブルがあったが、同船機関員の徹夜の修理作業によって2、3日で復旧したとのことであった。

 なお、この停泊中、士気を鼓舞するため同船搭載の通船 (伝馬船) を利用して各艇隊対抗の漕艇競技を行った。 それぞれ各艇隊には磯浜育ちの腕達者がいた。 追いつ追われつの接戦を展開したが、最終漕者になって安田隊は艇隊長自身の物凄い追い込みによってトップとなり凱歌を挙げた。
(続く)

2010年10月27日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (35)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 再度の船団出撃

 11月10日、雲一つない紺碧の空、船団出撃命令が下った。 早朝、三池港を出港することになった。 我が部隊は特命を受け秘密裡の出動のため、華やかな出征の見送りはなくそれは寂しい旅立ちであった。

 青木先生と10数名の女生徒の見送りを受けた。 船出をこうして見送られるのも初めてでありこれが終わりでもあった。 お互いに手を振り別れの言葉と激励する言葉の飛び交う中を、我々を乗せた 「神福丸」 は静かに動きだした。

 見送る人と周りにあった港のあらゆるものが我々から次第に遠ざかって行く。 我々のすべてが今までの静から動へと一変してしまった。

 もう見送る人の声も届かない。 細い「神福丸」の煙突から別れの汽笛が再度鳴り響くとひときわ我々の心の中を揺さぶった。 これという意味は別になかったが心なしか物悲しさを誘う。

 船団とはいうものの 「神福丸」 ただ1隻、単独の出港であった。 日本よ、さらば! 生れ育った懐しい国、美しい日本、桜の国よ、我々はいま目の前に見えている祖国の土をもう二度と再び踏むことはできない。 それは改めて言うまでもなく我々特攻隊員には凱旋というもののない出港であった。

 海の水は更に我々と陸との緑を遠く離していった。 右に雲仙を見、左に阿蘇の外輪山を展望しながら有明海に出て橘湾を横切る。 躍る黒潮、南の風だ、胸は高なる炎の阿蘇だ ・・・・ 幼いころ歌った “九州健児の歌“ が浮かんできた。

 正午頃、右に野母半島の樺島を眺めつつ長崎沖に差し掛かる。 ここで長崎港及び佐世保港から出港した船団主力部隊と合同し、船団は完全に制形された。 (注)

(注) : 「神福丸」 が合同したのは 「モマ07」 船団とされています。 同船団は 「第1海上護衛隊戦時日誌」 の船団運航線表では11月10日に門司出港とされていますが、護衛艦艇の行動表では護衛の 「第8号海防艦」 「第9号海防艦」 「第28号海防艦」 「第54号海防艦」 の全てが11月8日〜10日まで三池港在泊、同10日1500出港となっています。

 船団が護衛艦艇なしに門司 (あるいは佐世保) から運航されるとは考えられませんので、船団の全てが三池港に集合し、10日にここから出港したものと考えられます。 ただし、本回想録に記されているように、「神福丸」 は足が遅いため広い海面で船団を組むまでの間の敵潜の恐れのない橘湾を単独で先に出港したことは充分にあり得る話しです。

 なお、同戦時日誌によると、モマ07船団は、輸送船12隻、護衛艦艇は先の海防艦4隻と第24号特設駆潜艇の5隻、運航指揮班第5班、指揮官森繁二大佐 (海兵33期) とされています。


 船団は五島沖に出て針路を北西にとる。 針路が北西にとられたところで私にはこの船団の行く手に何か不幸が待ち構えているような不吉な予感がしてならなかった。

 何故この船団は北西に針路をとるのだろうか (我々の行く、台湾・比島方面とは反対であった) 。 このままの針路で進めば、この前と同じように済州島の南に行くのだ。 あそこでは雷撃を食って痛い目に遭わされたではないか (まだどれほども日は経っていなかった) 。 どうして前回と似たコースを選ぶのだろう。 今回もきっと敵潜水艦に待ち伏せを食ってやられるぞ ・・・・。
(続く)

2010年10月28日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (36)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 再度の船団出撃 (承前)

 船団が更に北寄りの針路に変針して間もなく不吉の前兆が訪れた。 しかもそれが白昼であった。 船団中の1隻から大音響が上がった (注) 。 昼間でもあり、また私は当直中ということもあってか、それほどに驚くこともなかった。 それに我が船団部隊の上空に飛行艇の護衛があり、おまけにまだ五島の島々が見えるところであったからである。

(注) : 被雷は 「三保丸」 (日本郵船所属、4667トン)、雷撃したのは米潜 「Queenfish (SS-393) 」  「第1海上護衛隊戦時日誌」 によれば、被雷は11月11日0906、N30-24、E127-58 とされています。 なお、同船には第20震洋隊が乗船しており、同12日単独で佐世保に帰投しています。


 白昼しかも護衛機のいる船団を攻撃した敵潜水艦は大胆であり立派であった。 がしかしその狙いはあまり正確ではなかったようである。 かろうじて攻撃を仕掛けた、ハッキリ言うならばその攻撃は通りすがり的な攻撃の感がしないでもなかった。

 当の我が船団部隊にあっては隊列、隊形を乱すことなく整然たる行進を続行した。 雷撃を受けた僚船は沈みはしなかったが、最初黒煙を吐きながらわずかに進んでいたが洋上にばったり止まってしまった。

 無情なり、これが戦場での掟ともいうか傷ついた僚船はその場に置いてきぼりになるのであった。 その船影は船団から離れ次第に遠く小さくなっていった。

 だが無情な戦場の中にあって船団部隊指揮官は情があり、また涙があった。 今の我々のためにはかけがえのない虎の子であった上空の護衛機を傷ついた僚船を守るために派遣したのであった。

 派遣された飛行艇は僚船からたち昇る一条の黒煙を中心に、その上空をぐるぐると旋回し続けていた。 敵航空機による空襲はないにしても、敵潜水艦による海上封鎖は厳しく、今では長崎沖にまで出没する現実となってきた。

 五島列島の島影も僚船を護衛する飛行艇もいつしか我々の視界から消え去ってしまった。 幾度か敵潜水艦を欺瞞するための変針もあったが、我が船団部隊の基準針路は魔の淵 “済州島南方海面“ に向けて進むのであった。

 日は既に西に傾き始める。 南方進出のこともあって我々には冬のための着るものは何一つとしてなかった。 生地の薄い第三種軍装から寒さが通してくるのであった。 変わりやすい東シナ海の天候、日中の青空も今はすっかり雲に覆われてしまった。 これから暮れて行く夜の海が我々に何をもたらすことか ・・・・。

 飛行機が奇襲をかけても音が先にくる。 それに比べ潜水艦は不意に攻撃をかけてくるのであった。 それに対し我が船団部隊は海の上で身を隠すところとてない。 身を護るためのものはといえば護衛艦の防御力だけであった。

 か弱い護衛部隊の護衛力にすがりながら10隻余の輸送船は不規則な之字運動を繰り返しながら、それはあたかも無言の行者の行進のようにさえ感じるのであった。

 どうして船団部隊がこのようなコースをとるのか、それは私たちには分からないことであった。 恐らく防護力の小さなこの船団部隊をできるだけ少ない消耗に抑えて目的地に着くか、ということであったろう。

 要するに天の加護を待ち、地の利を大いに活用する以外に策はなかったものと思う。 水深の浅い海面 (40メートルより浅い海面) を選びコースを設定したものと思われた。

 「神扁丸」 を除いて他の各船は14、5ノットの速力を出し得る高速船であった。 この船団に 「神福丸」 はかろうじて組み入れてもらったのである。 他の船は生気に満ちていた。
(続く)

2010年10月29日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (37)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 再度の船団出撃 (承前)

 ここで我々の乗組んだ輸送船、運命の女神 「神福丸」 の装備について触れておこう。

 船体はもちろん鉄製であったが、船橋部は木製で、その船橋の両サイドに13ミリ機銃が各1挺、後部の舵機室 (甲板上にあった) の後ろに古い型の歩兵砲が1門、この歩兵砲は明治時代いわゆる日露戦役当時を偲ばせるような代物であり、鉄の車輪付きであった。 砲の側に曲がりなりにも砲弾が10発ほど置かれてあった。

 またその隣には後部から投げ込めるように円筒形の爆雷が数個、以上であり、これ以外の重火器類は見ようにも見ることができなかった。 この装備では、敵の飛行機、潜水艦にどれほどの対応ができよう。 だが無いよりはましであり、我々の気持はあえてこの貧弱な武装に頼ることもなかった。

 次は我々の船団を護衛する護衛艦艇の状況を申し述べておこう。 10〜15隻からなる輸送船に対して7〜10隻の護衛艦艇が配備された。 10隻といえばかなりの隻数である。

 しかし問題はその内容であった。 護衛指揮に当たる駆逐艦は0〜1隻、しかもこれが古い型のいわゆる2等駆逐艦であった。 駆逐艦のないときは海防艦が当たったようである。

 後は4隻ぐらいの駆潜艇と他はほんの申し訳けとしか思えない特設駆潜艇 (俗に言う 「駆特」、木造、280トン) であった。 これらからなる護衛艦艇を称して 「毛じらみ艦隊」 と言った。

 この毛じらみ艦隊によって守られつつ東シナ海を突破するのであった。 「毛じらみ艦隊」 と非常に卑下したような言い方をして申し訳ないがこの艦隊の働きによってこそ、我々はこれから迫りくる幾多の難関を無事通過することができたのである。

 潜水艦は船団の針路の前方でじっと待ち受ける。 そして魚雷攻撃を掛ける。 攻撃の効果を確認しながら攻撃後の運動へと移る。 空になった発射管に再び魚雷を装填しながら船団の前方に迂回し、そして船団に対し第2撃を加える。

 潜水艦の艦内は非常に狭い、蒸し暑い、そのうえ空気は濁っている。 その狭い艦内で魚雷装填作業を行うのである。

 第1撃終了から第2撃を船団に与えるための攻撃位置につき、再び敵船団を攻撃するまでには約1時間の時間が必要であった。 この間潜水艦側にあっても並み並みならぬ努力が必要であり、忍耐と重労働の連続であった。

 艦内魚雷装填作業は別としても、第1回の攻撃後、敵護衛艦の反撃をかいくぐり、次の攻撃位置に着くまでには種々の困難を突破しなければならなかった。

 我が船団部隊にしても、敵潜水艦にしても食うか食われるか虚々実々の戦でこそあった。 離隔、追跡並びに接敵運動、攻撃と目まぐるしい潜水艦の側からして敵船団の足が速いということはこうした攻撃のチャンスが1度しか得られないことにもなる。

 ところが、我々のこの船団には 「神福丸」 という足の遅い船が加わっていたため潜水艦は楽々と再度の攻撃をかけることができたのである。 「神福丸」もせめて12ノットの速力が出せればある程度敵潜水艦の脅威から逃がれることができたであろう。

 部隊長の話では、「神福丸」 の足が遅いため、実は船団のある船長や司令部の参謀の中で 「神福丸」 を船団の中に組み入れることをいぶかる声があったとか。
(続く)

2010年10月31日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (38)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 再度の船団出撃 (承前)

 また嫌な夜となった。 昼間のこともあり、またこの前のこともあってか、とっぷり暮れた海は不気味であった。 敵潜水艦の潜んでいる (確実度は100パーセントに近かった) 東シナ海は、ゆっくりとうねりを伴い吹く風の音はうす笑の声に似ていた。 海の水はべっとりとして恰も油のごとく粘っこく暗夜に光るのであった。

 暮れて、もうどれくらい時間がたっただろう。 突然、夜の静寂が破られた。

 「ガインー」  尖光もなく不意に大きな火柱が海の上に立つ。 大音響が轟く。 すわ一大事、敵潜の襲撃である。 同時に2隻の僚船が一瞬にして火祭にあげられたのである。(注)

(注) : 被雷したのは 「鳴尾丸」 (山下汽船所属、4823トン) と 「玉洋丸」 (東洋汽船所属、5396トン)、雷撃したのは米潜 「Berb (SS-220)」  「第1海上護衛隊戦時日誌」 では、11月12日0402、N31-30、E125-57 とされています。

 この襲撃によって取り残された 「神福丸」 以外の船団は、2時間後の0609に再び米潜 「Peto (SS-265)」 の雷撃を受け 「辰昭丸」 (辰馬汽船所属、2746トン) が沈没。 更には航行不能となって 「仁洋丸」 により曳航されていた 「玉洋丸」 も14日には再度米潜 「Spadefidh (SS-411)」 の雷撃を受けて沈没しています。

 なお、「玉洋丸」 には第14、第15震洋隊が乗船、「鳴尾丸」 には当該隊用の震洋が搭載されていました。


 船団はたちまち阿修羅の巷と化してしまった。 他の船がどうなってしまったのか我々には皆目分からなかった。 急な尖光に目つぶしを食ってしまった。 今まで静寂そのものであった自分の耳までが爆音で驚いたのか、鼓膜の振動がやまずにいた。

 そんな中を突然目の前に 「赤々」 「青々」 の緊急信号 (全艦船緊急右 (左) 一斉回頭を示す) が現れそれを見て一瞬どきりとした。 敵潜水艦は複数であろうか? そんな考えが突飛に頭に浮かぶ。 時折り 「グヮグヮァン」 「ググヮン」 と味方艦艇のほうり込んだ爆雷の炸裂音も加わる。

 自分の船に今魚雷が当たったらどうなる (我々はここで死ぬことはできない。 ちくしよう!) 。 どうするのか、そのときは間髪を入ず海へ飛び込むのだ。 あれこれ考える余裕も必要もなかった。 胸につけた救命ジャケットを上から両の手の拳で強く叩いて、深呼吸をし気を鎮めた。

 不思議なことにもうこのとき震えるようなことはなかった。 「神福丸」 船上の第12震洋隊の誰一人として気が動転するような者はいなかった。 沈着そのものである。 これは激しい日頃の猛訓練と度重なる体験によって培われた胆力がそうさせたのであろう。

 さらに私は救命ジャケットの紐を堅く締め直した。 それも目を皿のようにして正しく形容のとおりであった。 真っ暗闇の中の海の面を凝視して、雷跡を、そして潜望鏡を捜した。 もうそれより他に打つ手はなかった。

 パサパサの頭が痺くなり、頭に思わず手がゆきガリガリと掻いた。 頭の毛が逆毛立っているのがありありと分かった。
(続く)

2010年11月01日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (39)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 再度の船団出撃 (承前)

 私は敵潜水艦よりも 「神福丸」 に魚雷が当たるとどうなる ・・・・ そのことのほうが気になった。 「ガアン」 ときたら、まずは飛び込む、それも1秒をいやその何分の一を争う問題であった。

 それというのは我々の乗っている 「神福丸」 の船倉には震洋艇に装備する猛威力の弾頭 (炸薬) が積んであったからである。 我々は震洋艇もろとも敵艦船にこの炸薬を叩きつけるのだ。 1発で中型艦を轟沈させることのできる代物であった。 その炸薬が1発ならず50発以上も積んでいるのだった。

 更に震洋艇を基地において隠蔽格納するためトンネルを堀るが、その壕堀り用のダイナマイトが多量にあった。 もし魚雷が 「神福丸」 に当たればこれらが一瞬にして誘爆するのだ。 すればひとたまりもない。 我々は船もろとも木端微塵になってしまう。 皆はよくこの事を知っていた。

 「雷跡をよく見張れ!」 「いつでも飛び込めるようにしておけ」 と、部隊長と、その後を追いかけるような艇隊長の大きな声が続いた。

 だが、その後は幸いにも続いての雷撃はなかった。 全く驚愕の海であった。 時間はあっという間に経つ。 全員の緊張はなおも続く。 地獄行きを誰が知っているのか。

 雷撃を受けたのは何時ころだったろうか、午後9時半頃であったろうか、それ以来ずっと総員配置が続いた。 目が乾いてチカチカしてくる。 私は双眼鏡で見張りを続けていた。

 いつの間にか辺りに1隻の僚船も護衛艦も見当たらなかった。 のろまな 「神福丸」 は皆に置いてきぼりを食ってしまったのである。

 「神福丸は健在なり」

 かくして東シナ海の真っただ中の一人旅が始まった。 何に頼ろう、そんな心境だ。 たった1隻、しかも敵潜水艦の確実な潜在海面を。 ああ! これからどうなることであろう。 海を飛び越えて行くような奇跡でも起こらない限り安らぎはなく、ひとまず安全な港に着かねばならなかった。

 空が白み始めた。 ところがはるか南の水平線に雲か煙かまだはっきりしなかったが疑わしいながら煙らしいものが見えてきた。 「右前方の水平線に煙」 と同期の佐藤が怒鳴った。 今までだれ一人として喋べる者とていなかったそんな状況の中で、その声を聞いた途端一瞬身体中に温かいものがすーと流れていった。

 やがて緊張も幾らかほぐれ、頸から両肩の当たりにあった重みが取れていった。 高い船橋から真下の波をじっと見ていると、その波に小さな泡、大きな泡が寄り添い混ざり、また打ち返されながら船から離れ、ウエーキとなって遠く後に続きながら果てしない大海原に消えてゆく。 こうして見ていると 「神福丸」 はさも快速艇と同じように高速を出して走っているように感じる。

 頑張れ 「神福丸」 それ行け、それ走れ! 俺達は決して敵潜なんぞに食われないぞ! これからどうなるかわからないが、この先の我々の運命、だが犬死だけはしたくなかった。
(続く)

2010年11月04日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (40)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 敵潜荒れ狂う東シナ海を単独航

 雲か煙か紛らわしいそれは、佐藤の報告どおり煙であった。

 見付けたもの (目に入ったもの) は素早く何でも報告することだ。 これが何よりも大切なことである。 発見が若し間違いであったにしてもそれでよいのだ。 誰かが何かを不十分ながら見て、それを黙っていたならば、それが我々の悲しい運命に繋がるのである。 「あれは?」 だけでもよいのだ。 自分一人の目で見たもの、耳に聞こえた音が全員の命に繋がっていた。

 佐藤の報告は時間の経つほどに正しく船の煙であることが立証された。 マストも見えてきた。 前原は更にその船が昨夜まで一緒にいた船団中の1隻であることも確認した (注)

(注) : 当該輸送船がモマ07船団の12隻中の 「神福丸」 及び雷撃を受けた4隻以外の何れであるかは不明です。 もしご存じの方がおられましたらご教示をお願いします。


 煙は朝の重い空気に水面を這うように棚引いていた。 石炭を焚いているのであろうか、重油であろうか、それにしても煙を出すことはよくない。 この船は我々に発見されただけで済んだが、若しこれが敵潜水艦であればそれこそどんな目に遭ったことであろう。

 煙を出せば自分の在りかを他に知らすことになり、自分を危険に曝すことになる。 だから船の機関部の人達は、なるべく煙を出さないよう努力するのである。

 向こう側もこちらを発見したのか、急速に両船は近づいた。 「お前も無事だったのか」 とお互の船同志が、さも語り合うようであった。 こんな広い海原の真っただ中、お互いは日本の船、昨夜別れ別れになったばかりなのに ・・・・。

 手旗で信号を送り船と船の会話をする。 同期の宮崎が手旗を原画も正しく、すらすらと送った。

 「ドコニイカレルヤ」
 「マコウニムカウ」
 「ワレキイルン」
 「・・・・・・」
 「ドウコウサレルヤ」

 しばらくたっても返事がない。 僚船は自分の行く先だけを告げたが、それ以後は返事を返さなかった。

 それにしても先行していた僚船は馬鹿に足が重い。 8ノットの 「神福丸」 の後になり、続いて来るがいつの間にか距離は開いていった。

 「どうかしたのか」 と尋ねたりいぶかっている暇はない。 労いまたは優しい声をかけてやる余裕すらない。 全力で一刻も早く、いまは目指す基隆港へ逃げ込むだけであった。

 こちらは何一つ僚船を護衛する力の持ち合わせもない。 お互いが励まし合い、全速力でいま目指す目的地に向かうだけだった。

 黒い船体の僚船には、陸軍の兵士が一杯乗っていた。 上甲板で、ある者は座っており、ある者は横になっていた。 約3時間、本船の真後ろにいたが段々後方になり、針路を南南西に向けたようであった。

 「あれはどうかしたのだろうか?」
 「ジグザグをして待ってやろうか」
 「こんなところでもたもたしていると危いぞ」
 「仕方が無い、本船はともかく基隆に直行だ」
 「今は、ただ運を天に任すだけだ!」

 と 「神福丸」 の久保船長は独りつぶやくのであった。

 とうとう僚船とも別れ別れになってしまった。 海図の本船の位置を見たが、いまどのあたりにいるのかそれは分からなかった。 いずれにしても基隆までおおよそ300マイルはあるだろう。 これからどうなることだろう。 思案は尽きなかった。

 かくしてただ1隻残った僚船からも見放され、敵潜水艦の荒れ狂うこの東シナ海で、今は出会う船とてない。
(続く)