2011年01月15日

回想録 『第12震洋隊物語』 の連載を終えて

 105回にわたって連載してきました辰巳保夫氏の回想録 『第12震洋隊物語』 (原題 : 「17フィートのベニヤボート」 ) が完結いたしました。

 この回想録を本ブログにて掲載いたしました理由などについては、第1回の冒頭に記したとおりです。


 最後までお読みいただいた方々には感謝申し上げます。

 本回想録は、前に連載いたしました森栄氏の 『聖市夜話』 や高橋定氏の 『飛翔雲』 とはまたちょっと違ったタッチのものですが、これはこれで貴重なものであり、お楽しみいただけたのではと思っております。

 ただ、管理人としての忌憚のないところを述べさせていただくと、本回想録を読み終わった後に残るものは、どうしようもない “虚しさ” です。

 第12震洋隊の特攻隊員はもちろん、その基地隊員、彼らの教育に関わった人々、輸送船や護衛艦艇、等々 ・・・・ そして震洋の開発と生産に関わった人々 ・・・・

 これだけ多くの人と物と時間を注ぎ込みながら、最終的な戦果はたったこれだけのものなのか、と。

 これは決して死んでいった彼らを誹謗するものではありません。 彼ら特攻隊員始め、この作戦実行までに関わった全ての人々は、日本のために本当に真剣な努力を払い、高潔な志を持っていたことは間違いありません。 それは日本人として高く評価すべきものです。

 それだけにかえって “虚しい” のです。 その努力と思いを、少なくとももっと別な、もっと有効・有意義な方向へ向けられなかったのかと。

 戦後の今日ではなく、当時においてさえ、米海軍の能力と対応振りを正しく把握し評価していれば、この震洋程度のものがどの程度の成果を発揮できるものなのか、を認識できなかった筈はありません。

 これ即ち、組織の上に立つ者の見識であり、人間性であり、責任感に帰すべきものです。

 “貧すれば鈍する” で済まされる話しではありません。 これが今日に活きる、彼らの命の代償としての教訓でしょう。

 翻って今の日本はどうなのか? 余りにお寒い現状に “ぞくっ” とします。

 私事で申し訳ありませんが、管理人自身としても約40年にわたり日本の防衛のために微力ながら尽くしてきたつもりです。

 日本を背にして、外に向かって両足を踏ん張り両手を拡げて ・・・・ しかしながら、定年退官して、ふっと後を振り返って目にしたのは、これが守ってきたはずの本当の日本の姿なのか、と。 いや、約40年、外に向いていた間に、日本は内側から崩壊してしまったのか、と。

 私個人として本回想録に “虚しさ” を感ずる根本は、ここにあります。

回想録 『第12震洋隊物語』 − (105・完)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本軍の善戦も空し、ついに 「コ」 島要塞は米軍の手に (承前)

 極度に窮した水を至る所に求め、当初は野菜など水煮の缶詰の水を、次にビールなどから採り喉を潤したりした。 そして地下トンネル内に立て籠もった我が兵士達は最後の1兵となるまで敵に抗戦するのだと意気込み、生き続けたのである。

 がしかし一時の間に合わせ的な措置は島内全日本軍兵士の喉の渇きを癒すことはできなかった。 喉の渇きは日増しに募り、遂にある者は渇きのために気も狂わんばかりになり、小便溜用の缶に潜った小水を口にする一幕もあった。 水と人間、水と戦闘、数えれば痛々しいばかりの水による教訓を学んだのである。

 かかる最悪の状況下にありながら、また数々の悲運にさいなまされながら我が日本軍兵士は、よく指揮官の統率に従い一糸の乱れもなく敵と戦った。

 そして夜ごと、斬り込み決死隊をもって敵兵舎に、また敵陣地に殴り込みの奇襲をかけ、敵兵と刺し違える自決の形をとり、敵を悩まし続けた。 これは我が軍に残された唯一の戦闘方法でしかなかった。

 17日夜 (板垣大佐の死後) から、18日、19日と敵との交戦が続いた。 そして戦闘の度ごとに兵士の消耗がひどく、大部分の兵士はこの間の戦闘で傷つき倒れた。

 負傷兵が続出しても、この者達をこれといった医療手当を施すすべもなく、負傷兵を横目に見ながら、ただ手を拱くばかりであった。

 20日に至り台地方面の我が軍は陣地の大半を喪失し、本格的な戦闘はほば終結したも同然となった。 同日敵の小型連絡機が島にある飛行場に着陸、直ちに使用を開始した。

 23日午後3時、日本軍はもうこれまで、後は神頼みしかなかった。 神が我が皇軍のために何か異変を与えくれますように ・・・・。 その異変により頽勢を挽回してくれるものと、ただそれだけを願った。

 そしてもうこれより他にない最後の手段をもって我が軍は敵に当たった。 海岸のトンネル内に残った大量の爆薬を詰め、この爆薬の炸裂によって、自分達の上にいる敵を一挙に吹っ飛ばし殲滅せんものと図ったのである。

 大成功を夢見つつ爆薬に点火した。 ところがトンネルの入口は過日爆発事故及び敵側の砲、爆撃によって埋没し塞がっており、思いもよらずこの爆風は敵側へではなく、皮肉にも逆に我が方へ向かって炸裂してしまった。

 この爆破後、直ちに敵へ二の矢を射つベく待期中であった我が斬り込み決死隊約200名は、一瞬にしてこの爆風になめられ尊い命を奪われてしまった。 なんと不幸なことよ。 我に利あらず、窮するうえに加えて悲劇、悲運は続く、皇軍に神の加護なし、神風は吹かず。

 2月24日に至り、我が軍指揮官小山田少佐は、残留する日本軍兵士に対し

 「戦はもはやこれまで、これ以上敵に対しての抵抗も無駄であり、我に勝算なし。 いま生ある者はこの島から脱出せよ。」

 と悲壮なる命令を下した。 この命令を下した少佐自身午後に行われた戦闘で壮烈な戦死を遂げ散った。

 桜トンネル方面部隊約800名の我が軍兵士は同夜なおも敵陣に斬り込み攻撃をかけたが成功せず惨敗。 いよいよ27日我が軍はコレヒドール島東部の先端地区に追い詰められ、准士官以上の軍人は全て自決し、その後約150名の下士官兵は米軍に投降した。

 敵将マッカーサーは大東亜戦争開戦間もない昭和17年3月、日本軍の猛進撃にこのコレヒドール要塞を捨て豪州方面へ脱出した。 その時彼は、「予は必らずや帰ってくる」 と予言したが、それから数えて満3年、昭和20年3月2日彼は再びコレヒドール島に上陸、そしてマリンタヒルに高々と勝利の星条旗を掲げたのである。

 一方、いまだ米軍に投降せず台地方面に残った約300名の我が軍兵士は、3月上旬、暗夜を利用し対岸のバタアン半島方面に脱出を決行した。 その時約100名は海上において米軍の捕虜となり、その他の者は行方不明となる。 その時からくもバタアン半島に脱出し得た者はごく僅かであったとか ・・・・。

 かくして日本軍全兵士はあらん限りの力を振り絞り敵とよく戦ったが、その甲斐もなくマッカーサー元師の率いる連合軍の軍門に伏し、この島における戦闘は終結した。

( 終戦直後の昭和21年1月、同島西端のジャングル内に18名の日本軍兵士の生存していることが判明し、これらの兵士達は間もなく米軍側に収容されたということである。)

(『第12震洋隊物語』 完)

2011年01月14日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (104)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本軍の善戦も空し、ついに 「コ」 島要塞は米軍の手に (承前)

 敵はトンネルの外方から内部の日本軍に向け小銃、機関銃はもとより、手榴弾、バズーカ砲、迫撃砲、火炎放射器とあらゆる火器を動員して攻撃をかけてきた。 トンネル内の日本軍将兵は、まさに 「袋の中のネズミ」 同様となり生き地獄さながらの状態に追い込まれてしまった。

 糧食、当時コレヒドール島における日本軍の糧食は今後2箇年間龍城しても持ち堪えるだけの量を保有していた。 ところが残念なことには水不足という難題が大きくのしかかってきた。

 敵は上陸するやいなや地上にあった全島の給水を掌る給水本管のメインバルブを閉め切ってしまったのである。 元々このコレヒドール要塞は米軍の手によって構築されたものであり、どこに何があるかは我が庭同然であったのだ。

 水、水、水、人間が生きるためにどれほど水が大切なものであるか、水 (特に飲み水) の欠乏は日増しに募り、あたかも日本軍兵士の首は真綿で締められる状態になり、致命的な打撃となってきた。

 20年1月の下旬、前所属の艦艇がマニラ湾付近で米軍の攻撃を受け損傷、その後急拠第12震洋隊に転属となった関口上曹 (苦闘の末、コレヒドール陥落の直前同島から海上経由脱出、奇跡的な生き残り、現在東京都足立区在住 (著者執筆当時) ) は、この時の水との闘いを次のように語っている。

 連日の空襲、それに加えて敵艦艇による艦砲射撃が続く。 物量にあっては米軍には到底勝てっこはない。 そのうえ地下要塞の中に “もぐら” 同様封じ込まれ窮地に陥っていたが、日本軍兵士の土気はなおも旺盛であった。

 だが如何にせん水道本管の元栓を閉められ一滴の飲み水を得ることができなくなった。 苦戦を強いられ、なおかつ苦汁を舐めさせられる運命となった。 我々は、そこここにわずかながら湧き水の出るところを知っていた。 だが米軍もまたこれを知っていたのである。

 地上では激戦が展開され苦戦の連続、日増しに兵力・火力を消耗し、あまつさえ体力も消耗し疲労が甚だしい通気が悪く異常なまでに蒸すトンネル要塞の中、こうした状態に追い込まれながら敵と戦うためには水を求めるための闘いを併行しなければならなかった。

 このため日本軍は夜の闇を利用し、各隊から水汲決死隊を派出した。 ところが敵は先刻からこちら側がそうするであろうことを予知し、湧き水の出る所を狙撃兵で囲み待ち構えていたのである。

 極めて成功率の低い水汲決死行をどうしても敢行しなければならなかった日本軍側の計画はまさに悲痛の極度であった。 何から何まで全てが悲惨な戦いであった。

 これ以上の犠牲者を出したくないのは誰もが願うところであり、あえて敢行し一滴の水を求めて ・・・・。 一滴の水は生きて戦うために必要欠くべからざるものであった。

 同決死隊員は1度に数個の水筒を背負う。 水筒はある意味では防弾となり隊員の身を守ってくれた。 湧き水の出る場所に匍匐前進し水を汲んだ。 敵狙撃兵はそうはさせじと四方から日本兵士を阻止する。 半ば無謀に近いこの決死行は、例え成功したとしても僅かに水筒一個分の水を得るのがやっとという状況であった。

 恐らく敵狙撃兵達は愚行に近い日本兵の行動を笑いながら (ガムを噛みながら) 待ち伏せをし、我が水汲決死隊員を狙い撃ちにしていたことであろう。

 かくして水による絶命的なまでのピンチに立たせられた日本軍の抗戦力は、次第次第に低下せざるを得なかったのである。
(続く)

2011年01月13日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (103)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 日本軍の善戦も空し、ついに 「コ」 島要塞は米軍の手に

 この震洋艇の攻撃のあったことを、米国の戦記 (第2次大戦における米海軍作戦史 第13巻 サミエル・エリオット・モリソン) に次のごとく記されている。

 At about 0315 on Februaru 16, a number of Japanese 17-foot suicide boats succeeded in making an undetected approach and sank three of these support craft. LCS(L)-27 sunk five of the midgets; then a sixth blew up close aboard and put her put of action. About 30 of these boats had been sent to Mariveles from Corregidor during the night of 15-16 February. One was spotted and blown up by Conyngham about a mile and a half southwest of Mariveles at 0700 on the 16th.
( Samuel Eliot Morison 『 History of United States Naval Operations in World War II Vol.XIII : The Liberation of the Philippines ; Luzon, Mindanao, the Visayas 1944-1945 』 p202より )

 コレヒドール島では震洋特別攻撃隊の大成攻があって喜んだのも束の間の出来事となった。 それというのも、米軍はマニラ市の完全占領を目前にし、2月15日新たにマリベレス付近に新兵力を上陸させてバタアン半島に足場を作り、0830〜1000の間ミンドロ島基地を発進したパラシュート部隊 (米第503空挺連隊) がコレヒドール島西方高地 (トップサイド) に降下、この降下部隊と相呼応するがごとくマリベレスから歩兵上陸部隊をもってマリンタ南岸に上陸、コレヒドール島攻略の火の手を上げた。

 10時過ぎ 「敵パラシュート部隊が降下している」 と 「南桟橋に敵大部隊が接近しつつあり」 という我が地上監視哨からの報告が続々と飛び込んできた。

 一方特別攻撃隊を送り出した後、まだ疲れも取れず後片付けも終わらないままの残された第12震洋隊基地隊員は全てコレヒドール島防衛部隊の直接指揮下に入った。 そして各トンネルに分散配属された。

 しかしこれら隊員は敵と戦うため必要とする小銃すら持たない状態であった。 皆の配属されたトンネルは今まで住み慣れた所と違い勝手も分からず、そのうえ外部の様子は尚更分からなかった。 いよいよ敵兵と膚と膚を合わせる対決は時間の問題となった。 白兵戦の展開もすぐ目前に来た。

 遂に敵が ・・・・、緊迫する。 10時40分、敵兵が上陸用舟艇数十隻に分乗し、ものすごい速さで白波を押し分けながら南桟橋に突進してくるのが見えた。

 かくして1240、敵味方の砲銃弾が轟音を立てながら往き交う混乱の中、島中央部の台地に米パラシュート部隊の第2陣が降下した。

 これら米部隊は直ちに合流し、マリンタ高地 (桜トンネルの上部) を制圧した。 このため我が守備隊は残念ながらも大きく2分されてしまった。

 コレヒドール島に敵上陸の報を受けた大河内第3南遺艦隊司令長官は、板垣大佐に宛てて

 『 「コレヒドール」 派遣隊ハ全力ヲ挙ゲ積極果敢、攻撃ヲ反覆驕敵ヲ撃滅スベシ 』

 と打電してきた。

 17日未明、トンネル内の我が軍指揮所において誤爆事件 (鹵獲ロケット弾の発射試験を行ったところ爆発) が起こり、そのため敵と戦わずしてまた数多くの死者を出すに至った。 そのうえ我がコ島防衛軍指揮官の板垣大佐もこの事故で重傷を負った。

 指揮は小山田少佐が代わって執ることになったが、その夜、板垣大佐は敵の手榴弾をまともに受け戦死を遂げた。
(続く)

2011年01月12日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (102)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 震洋特別攻撃隊の出撃 (承前)

 あれほど騒がしかった岸辺の出撃の絵巻も、今はただシーンと静まりかえった。 そして何とも言いようのない不気味な海となってしまった。 今まで我々の身体の中にあった温もりを奪い去られたのであろうか。 身震いすら出る。

 特別攻撃隊員を送った後の気持、それは何にも例えようがなかった。 私も長年海軍生活をしたが、こんな寂しい思いを味わせられたことははかになかった。 こんな精神状態に置かされるのならどうしてこの俺も彼らと同じように震洋艇に乗って ・・・・ とさえ思うのであった。

 「では、元気でな。」
 「必ず死んだ奴のかたきはとってやるからな。」
 「しっかり頼むぞ。」
 「うん、大戦果を見ていてくれ。」
 「山から俺達の戦果はよく見えるからな。」
 「皆よくやってくれたなぁ。」

 そんな別れのときの言葉がいつまでも余韻を残しながら耳の奥に残って消えなかった。 それは送り出したときの疲れが一遍に出てきたからなのであろうか。 それからの私達はずぶ濡れの服のまま、だれが誘うともなく ・・・・、我々の足は島中央部の丘へ向かって動きだしたのであった。

 丘を登る自分の足は引きずるように重かった。 丘の地面は敵の爆撃と艦砲射撃によって崩壊され、以前の面影は全くなかった。 私たちはスビック湾の見えるところに腰をおろし、特攻隊成功の火炎の揚がるのを今か今かと、焦るような気特を抑えつつ待ったのである。

 だがこうして待つ時間は長い。 既に1時間は経ったというのに何の変哲もなかった。

 (一体どうしたのであろう。)
 (スビック湾に敵はいなかったのでは ・・・・)

 私は私なりの思案を巡らすようになった。 もう攻撃隊が出撃してから相当の時間がたった。 半ば諦めと焦燥にかられ、苛立たしささえ感じ始めた。

 (失敗だったのだろうか。)

 残された隊員はそれでも眠気などはなかった。 そして誰一人として丘を降りようとする者はいなかった。

 午前3時頃であった。 スビック湾らしい方向 (実際はマリベレス湾) に真紅の見事な炎が揚がった。 それに続いて大紅蓮の炎と火玉が、たちまちのうちに空は夕焼けのようになった。 しばらく間を置いて 「ダダーン」 「ダダーン」 とものすごい地響を伴った轟音が我々の鼓膜をつんざかんばかりに強く打った。

 「万歳」
 「すごいなぁ」
 「やった、やった」

 とそこここで大歓声が揚がった。 そして丘にいた者は立ち上がり雀躍して喜ぶ。 誰かれかまわず近くにいる者の背中をバシッバシッと叩いて喜ぶ者、互に手を取り合って喜ぶ者、そんな中で私は目に見える光景の凄まじさに唖然とし、しばらくの間ただ嘆息するばかりであった。

 燃える敵艦か、炎の中に小さな黒点が点々と見えた。 肉弾的中。

 「米鬼の野郎ども、ざまあみやがれ!」
 「日本男児の底力を見たか。」

 そこここの丘の上では特別攻撃隊の成功を祝う喜びと、今までの自分達の苦労の報われたことの嬉しさが一度に重なって出てきた。 嬉し涙か、何の涙か、またしても私の目からは止めどなく涙が出てきた。 あちこちで鳴咽する声もあった。 敵艦の燃える炎に照らし出された海の勇士達の頬には感激に咽ぶ2条の線がしばらくの間光り、そこには勇士達の散華を哀れむ心すらあった。

(続く)

2011年01月10日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (101)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 震洋特別攻撃隊の出撃 (承前)

 「出撃準備よし」 整備係の先任下士の手が上がった。 既に水上にあった部隊長の艇のエンジンが回転数を上げ 「出撃用意」 と合図し、水際を離れた。 続いて 「行くぞ!」 部隊長の元気に溢れた声と共に、さっと右手が上段から振り降ろされ沖を指す。

 水の中にいる基地隊員も陸の上にいる基地隊員も、次から次へと震洋艇を繰り出すため無我夢中となって働いた。 2番、3番、4番艇と部隊長の艇に続く。 搭乗員達は飛行帽の上から締めた “日の丸” の鉢巻きをもう1度締め直し、自艇へサッと跳び乗って行く。

 この瞬間まで海軍で鬼兵曹とアダ名され通してきた自分であった。 だが、この時になって鬼の仮面が取れ人間に帰った?

 横須賀を発って以来、長かった数々の苦難の日々をともに乗り越えてきた彼らが、今自分達 (基地隊員) だけを残して旅立って行く。 死出の旅路へ。 もう2度と再び私達は彼らの顔を見ることのできない時となった。

 これが最後だ。 そんな感情が頭の中に ・・・・。 それからというものは、彼らの出撃して行く後ろ姿を追いながら ・・・・。 可愛い我が子を人身御供に出すかのような悲痛な面持ちに変わる。

 無性に熱い涙が湧いてきた。 こんな涙顔を見られれば彼らに笑われるかもしれないと、堪えようとするがよけいに止まらず、私の両頬を涙は伝い、そして流れ落ちていった。

 そんな自分の気特とは裏腹に、若い搭乗員達は笑顔で 「御苦労様でした」 と我々に手を差し伸べながら握手を求めた。 一人一人震洋艇に跳び乗って行く。 落ち着き払った別れの態度であった。

 基地隊員のある者はこの日のためにと胸まで水に浸かりながら艇を海の中へ押し出していた。 懸命になり過ぎて足を滑べらし、アップ、アップする者さえいた。 それを見てどこからか 「慌てるな」 と叱咤の声が飛ぶ。

 愛艇に乗った搭乗員に向かった基地隊員から 「しっかり頼むぞ!」 と激励の言葉が飛ぶ、「ワッハッハッ、大丈夫、大丈夫」 と疲らは大声で返しながら固めた掌で我が胸を叩き、その腕を直角に折って胸を張る。

 あたかも彼らは沖へ訓練に出るかのように深刻な表情は何一つ見受けられなかった。 誰1人として死期を目前にした人間とは思えない。 見送る我々に向かって彼らは皆張り切れんばかりの元気のこもった最後の挙手の敬礼を返した。

      国おもう この日のために若桜
                散って甲斐ある命なりせば

 満ち満ちた真のこれこそ誠の武人、大和魂軍人の姿であろう。

 艇隊長以上が持っている赤い懐中電燈の信号が闇の海の上で点滅していたが、それもやがて見えなくなり、最後の艇の姿も闇に消え、エンジンの音すらも聞えなくなった。

(続く)

2011年01月09日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (100)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 震洋特別攻撃隊の出撃

 2月15日午前8時45分、「敵上陸用舟艇、大型8隻、小型約40隻、北水道二進入シツツアリ」 と、また続いて午前10時8分 「敵ハ、マリベレス西方付近ニ上陸シツツアルモノノゴトシ」 と、マニラ湾口部隊からの電報を受け取った。

 この時、米艦艇は約1時間にわたって、バタアン半島の先端部マリベレス地区に対し猛烈な艦砲射撃を加えた後、午後3時マリベレス上陸戦を展開した。

 同日午後9時頃、搭乗員達の元へ長く長く待ち望んでいた時が遂にやってきた。

 「震洋隊松枝部隊は、スビック湾内にいる敵船団部隊を撃滅すべし。」

 と特攻部隊指揮官小山田少佐から命令が下った。 この当時の模様を第12震洋隊の先任下士 (基地隊員、横須賀から搭乗員と同行しただ1人の生残者) である樫村上衛曹はこう手紙に記されている。

 そうです、当時のこの事は私にとっては一生忘れることのできないことです。 出撃命令を受け、喜び勇んだ搭乗員の顔、それをどのように表現すればよいでしょう。 水を得た魚、そんな単純な表現では決してなかった。 長い長い苦痛からやっと解放されたというか、この時点での彼らの気持を誰が完全に、そしてうまく理解し得たことでしょう。

 早速搭乗員達は下着類を真新しいものに取り替え、全員白装束となった。 全員服装が整った後、搭乗員総員集合、部隊長を中心にし、これが最初であり、しかも最後となる作戦計画を車座になり練った。 実に熱の入った会合であった。

 それが終わると皆は別離の酒杯を交わした。 それから搭乗員たちは 「出撃時刻」 までの問わずかな時間ではあったが、仮眠をとることになった。

 搭乗員以外の我々は全員で壕内やそのほかあちこちと格納されてあった震洋艇を水際まで運び出し、出撃準備のためエンジンなどの調整を行った。 先任下士である私は、特に若い搭乗員達が出撃のために必要とするものをあれこれと細かく気を配ばり準備してやったのである。

 私はある用事のため搭乗員達の仮眠しているそばを通った。 ところが高鼾が聞えてきたのには驚いた。 皆の寝姿たるや何と大胆不敵、大の字を画いていた。 どこの国の軍人が、後残すこと3〜4時間の我が命を知りつつも、このようにして死の間際に高鼾をかきながら眠ることのできることを ・・・・。

 私は搭乗員達のこの胆力のあるさまを見て、この度の出撃は必ずや成功するものと信じてやまなかった。

 いよいよ出撃の時刻がきた。 全部の震洋艇の整備と点検が終わった。 爆装の点検も終わり、燃料タンクは満タンにした。 そして各艇へ予備の燃料として石油缶が2缶あて増配された。

 あちこちの格納壕から運び出された震洋艇が水際にズラリと並んだ。 空には低く薄い雲がかかり流れていく、六日の月がその雲を切るかのように浮かぶ。 海はねっとりと暗黒の中で冷たさはなくむしろ温かさを感じさせた。 静かな海、静かな人の群、今まで高麗鼠のように働いていた人の群が一時止まった。 気象条件も最適、出撃にはもってこいの状況であった。

 搭乗員達は仮眠から、がばと跳ね起き飛行服を着け始めた。 彼らには、特に海軍上層部の取り計らいにより、最後を飾るに相応しく、また彼らを最後まで飛行兵として、また勇者としてのプライドを持たせんがため、航空機搭乗員と同じ服装をもって出撃することを許したのである。

 救命ジャケットの紐がきつく締められる。 彼らにピストルが渡され、弾40発と3発の手榴弾が与えられた。 中には日本刀を背中にたばさんだ者もいた。 少年達はまさに武者人形のごとし ・・・・。

(続く)

2011年01月08日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (99)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 空襲は激化し、戦機刻々と迫まる (承前)

 ついにモグラ同様となった我が軍は、昼間なおも高射砲や機銃をもって執拗な敵機と応戦し続けた。 しかしその甲斐もなく次から次へと砲や機銃は破壊され、兵員もバタバタとなぎ倒され、日増しにその被害も大きくなるばかり。 我が軍が敵に反撃するための唯一の頼みはただ震洋艇のみとなった。

 既に敵の爆撃などにより他隊の震洋艇は敵と戦わずしてその大半を失ったが、第12震洋隊だけは幸いにも〇四兵器の損耗はなく健在であった。 こうして第12震洋隊に課せられた使命こそまことに重大なものとなった。

 このような戦況の中で、第12震洋隊の搭乗員達は呑気千万といえよう、地上の出来事には一切動じることなく沈着冷静であった。

 時折搭乗員の先任者は部隊長のもとに行き情報を集めるなどして出撃時機の到来を待ち望み、小山田特攻指揮官に我々の出撃時機を要求するなど士気はまさに横溢せんばかりであった。

 部隊長はこのような搭乗員達を前にし

 「ありがとう、諸君のこのような士気盛んなる姿に感謝する。 いま暫くの辛抱だ、堪えてくれ。 きっと近日中に大戦果を挙げ得る日が来るから ・・・・ 」

 と、なだめ諭し微笑を返えす頼もしい場面も幾度かあった。

 1月30日午後1時、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦8隻、掃海艇15隻など約30隻からなる敵艦艇がスビック湾に進入し、約1,500名の米兵が同湾湾口にあるグランデ島に上陸した。

 同日コレヒドール地区指揮官の板垣大佐はコレヒドール島における日本側残存戦力についての報告をした。

 それによると14サンチ砲9門、同弾薬1門につき70発、12サンチ高角砲5、同弾薬100、8サンチ砲7、同弾薬220、25ミリ3連装機銃4、同弾薬3,200、25ミリ単装機銃20、同弾薬1,400、13ミリ機銃20、同弾薬1,800、7.7ミリ機銃14、同弾薬2,600、震洋艇100、魚雷艇2、糧食の損害軽微なお島内各部との連絡は夜間徒歩伝令による、と付け加えられた。

 2月2日、敵魚雷艇2隻がガラバオ島に近接、同島の我が軍はこれと交戦した。

 2月6日、敵機19機がコレヒドール島に来襲し銃爆撃を加える。 米軍はかつて自分達の手で築いた要塞であるため島内のどこに何があるかなど実に島内事情については詳しく知っていた。 そんなこともあってか爆撃の精度も実に正確そのものであった。

 またこの日敵機の爆撃に呼応するがごとく魚雷艇数隻がマニラ湾口付近に姿を現し終日行動するようになった。

 2月9日、早朝から終日延べ190機の敵機が飛来、銃爆撃を見舞い、島内弾庫に誘発を招き大中口径砲の砲弾約5,300発、燃料約80トンを焼失した。

 2月10日、敵の戦艦を含む巡洋艦群と駆逐艦、潜水艦を併せた強力な米艦隊がマニラ湾口に現れ、コレヒドール島を洋上から艦砲射撃にて攻撃を始めた。

 この時我が軍の陸上砲は敵艦艇と交戦、この砲撃戦は14日まで連日のごとく続けられた。 この間における我が方の戦果、敵掃海艇1隻撃沈、しかし我が方の損害は震洋艇19隻を大破され使用不可能となった。

 2月13日、敵駆逐艦に護衛された掃海艇2隻がいよいよマニラ湾に進入、米軍側が投下敷設した機雷の掃討を大胆にも開始した。 これを発見した我が砲台部隊は直ちにこの敵に砲火を浴せ敵艦に甚大な損害を与えた。

 ところが敵もさるもの、マリベレス方面から新手の艦艇を繰り出し、ここにコレヒドール要塞砲と敵艦艇との間に壮絶な砲撃戦が展開され、敵は更に航空機の応援を得て抵抗する要塞砲及び日本守備隊に徹底的な攻撃を加え、物量による力で圧倒しねじ伏せようとするのであった。
(続く)

2011年01月07日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (98)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 空襲は激化し、戦機刻々と迫まる (承前)

 27日敵はアンへレスを占領、マニラまで後80キロと迫った。 29日マニラ湾口に敵南下主力部隊とは別の部隊3万が上陸、続いて30日にはナスグブに上陸、31日の夜9時、米戦闘車両約100はマニラ街道に入り快速南下し、2月3日これら敵先遣部隊はついにマニラ市北部に到達した。

 同日午後戦車30を先頭に装甲車約100の敵は一挙にマニラ市内に突入、直ちに敵国捕虜収容所 「サントトーマス大学」 に突入奪取、またゲリラ部隊の蜂起行動も市内の各所に挙がった。

 いよいよ2月6日マニラ市内では日米両軍の壮絶な市街戦が展開され、両軍の死闘が市内各所で繰り返された。 日本軍側にあっては “マニラ防衛” に関する作戦計画段階で陸海軍間の意志が二つに分かれ、結局は海軍の陸上部隊のみによってマニラの防衛に当たることになる。

 かくして海軍陸戦隊は強敵とよく善戦したが、いかにせん物量による敵の攻撃の前には全く問題とならなかった。 かつまた敵軍を前にして抗戦中、背後からゲリラの伏兵に襲撃されるなど悪戦苦闘の連続であり、勇敢なる兵士たちは最後の一兵になるまでと念じ徹底抗戦を続けたが、しかし奮闘の甲斐なく全員戦死に近い敗北となった。

 一方、コレヒドール島は1月10日、20日及び23日と敵の空襲があった。 この時既に空を飛ぶ飛行機は青い星のマークの米軍機ばかりとなり、特に23日B−24 10機による爆撃のため第4号海軍トンネルの弾薬が誘発、大爆発を起こし各砲弾、装薬5,519発を一度に焼失してしまった。

 24日は戦爆連合の百数十機が飛来、26日も5〜60機と続いて飛来した。 このようにして米軍側はコレヒドール要塞を上陸前に徹底的に叩かんものと空襲は日増しに激しくなるばかりであった。

 在コレヒドール島日本軍将兵にも、いよいよこの島へも敵の上陸作戦が展開されるのではないかという感が高まってきた。

 敵機は地上の施設、兵舎はもちろんのこと道路に至るまで徹底過ぎるほどの銃爆撃を行い破壊していった。 これまでの銃爆撃で兵舎4棟は完全に吹っ飛び、震洋艇25隻、そのほか高角砲、機銃砲台などの陣地にも相当の被害が出た。

 見るも無惨、爆撃によって吹っ飛ばされた兵舎、残されたものはただコンクリートの土台石だけ。 丘の岩膚さえもギザギザの鋸歯状に変わってしまった。 敵機の爆撃の正確さを思う存分昧わされる結果となった。

 敵艦載機はあたかも 「あぶ」 の如く払えども払えども逃げないという形容のとおりであった。 1人の日本兵士を見付けるや、どこどこまでも上空を旋回しながら追っ掛け回した。 そうして見失うや、見失った場所をさも掘り返しでもするように繰り返し銃撃し、そんなにまでと言いたくなるほど執拗でまた念の入った攻撃振りであった。

 平和時、樹木の鬱蒼と茂った島影も今では完全にその姿を変え、新生小火山を思わす容貌となった。 こうした敵機の攻撃は、日本軍兵士はもとより地上のあらゆるものに対し虱潰しという表現そのままであった。

 24日の空襲が起因してか、28日島内トンネルの中の火薬庫で火薬類が引火、大爆発となった。 そして陸軍が使用していた桜トンネル以外の全トンネルの入口が埋没、また約300名の兵士を失った。

 米空軍側の発表によれば、1月下旬から約10日間コレヒドール島に投下した爆弾は一平方マイルにつき3,000トンであった。 これは、これまで米軍の南西太平洋各戦線の中での最大密度の爆弾投下量であったといわれる。

 かくして島の地上に存在するもの立木、道路、建物、電柱、そして旗竿とことごとくが粉砕され、もはや我々日本軍兵士は地上に住むことすらできずトンネル内に退避せざるを得なくなった。 それでもなお敵機の攻撃は続き、地下数十メートルの壕内にいてもその物凄さを直接身体に感じ取ることができた。
(続く)

2011年01月06日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (97)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 空襲は激化し、戦機刻々と迫まる (承前)

 1月9日朝、米第6軍 (クルーガー中将指揮) を主力とする敵大部隊 (5個師団) がリンガエン正面から上陸作戦を開始した。 当時の戦況は大本営陸軍部 「戦訓特報」 によれば次の如く記されている。

 9日の戦況

1 上陸開始。 0720頃敵輸送船はリンガエンに近接、上陸を開始せり。 即ちサントトマス沖輸送船50隻、ダモルテス沖輸送船45隻は距岸8粁にありてその舟艇はサンファビアン、ダグパン方面に前進し、0940その第1波をもってサンファビアン、リンガエン正面に上陸せり。


2 1630頃桟橋構築ダモルテス南方約10粁に揚陸場2か所を構築、輸送船約30隻碇泊し 陸岸との間に上陸用舟艇約40隻盛に往復中なり。 リンガエン東約7粁に桟橋を設け輸送船横付しあり。 その沖に輸送船約60隻を認む。 リンガエン湾中央よりわずかに東寄りに戦艦、巡洋艦 (数不明) 停止しあり。


3 上陸兵力、当面の敵兵力は最少限歩兵師団2、戦車師団1にして主力をもってサンファビアン地区、1部をもってリンガエン及びその西方地区に上陸、橋頭堡を占拠中なり。


4 橋頭堡。 ダグパン及びリンガエンに上陸せる敵は9日夕現在、海岸より約2粁、幅員約6粁の橋頭堡を占拠す。


5 海上挺進部隊 (陸軍〇八特攻艇、海軍の震洋艇と同じ特攻艇部隊) の攻撃。 我が海上挺進部隊 (約70隻) は2400を期し、敵輸送船団に対し爆雷肉攻を敢行し、其の20〜30隻を撃沈せるもののごとし、0200 (10日) 頃湾内海上において数十の爆発音を聞く。


 と敵上陸の状況を語っている。

 10日、敵はなおも500トン以上の上陸用舟艇約200隻、それ以下の舟艇約100隻を運行し重材料及び戦車師団を上陸させた。 艦砲射撃は9日に比べ閑散とはなったが、一度狙った地域は地上に一物も残さないように破壊した。

 射撃地域の左右にまず発煙弾を撃ちその中を砲撃、2平方メートル内に約3発あての弾丸を撃ち込んできた。 そのうえ上空からはグラマン戦闘機のし烈な攻撃も続いた。

 11日、12日なおも敵の上陸部隊は続き、我が軍は水際でこの敵を殲滅せんものと最大級の抗戦を続けたのである。 この両軍の戦闘の光景はまさに台風の来襲を思わせ、修羅の巷と化し、人間同士の戦とは大凡思えぬ惨状を呈した。

 抵抗に抵抗を続けた我が陛軍部隊も、15日頃には前線の一部を突破されカミリンを占領された。 必死の我が軍は各所において敵に挺身攻撃を実施し、一部の小部隊にあっては玉砕するなどよく善戦をもって敵の阻止に当たった。

 しかしマニラ奪回を目差し進む米軍は破竹の勢いとなり、我が軍のそうした阻止戦の効果はそれほどに上がらなかった。 敵は21日タルラックを、22日にはカパス及びオードネルを占領、23日バンバン飛行場を陥れ、24日敵は早くも同飛行場の使用を開始した。
(続く)

2011年01月05日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (96)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 空襲は激化し、戦機刻々と迫まる

 敵のミンドロ島基地利用が日本軍の比島作戦、ひいては台湾 − 南支 − 佛印方面戦略物資の本土への還送などに大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない。

 12月30日、大本営は 「早くて明春」 「まず南部ルソンに敵が来攻する」 と敵情判断し上奏されたが、一方現地の比島方面軍では (同月26日現在) 「1月上旬敵来攻」 「最初から敵主力はリンガエンにくる。 又はバタンガス方面 (ルソン島南西部、ミンドロ島との最近接地) から来攻」 という敵情判断をもっており、前者か後者かの予想は五分五分の線であった。

 年が明けるや敵艦船はほとんどがレイテ湾に集結、1月2日次期上陸作戦を目差し逐次レイテ湾を出撃、行動を起こした。 同日0800、我が海軍機はダバオ東北東370マイルに約100隻の大船団部隊が北西進中であることを、またレイテ湾内に約100隻の船団が集結しているのを発見し我が方に報告された。

 3日朝スリガオ海峡に空母4、巡洋艦5を基幹とする2群が認められ、同日朝から台湾では敵機動部隊による空襲が始まっていた。

 またその日、ミンダナオ海では敵特設空母12、戦艦4、巡洋艦8、駆逐艦など49隻からなる驚くべき大艦隊が西進中であるという報告が入った。 その報告を受けるや、この敵艦隊に対し我が方は航空機による特攻攻撃を敢行、敵にかなりの損害を与えた。

 1月5日午後、既に報告のあった同一目標であろう敵艦船の大部隊がマニラ西方の洋上 (南シナ海) を北上した。 この敵に対しマニラ市近郊の航空基地クラークとニコラスから我が特攻機が出撃、全力をもって攻撃したのである。

 また一方我が海上部隊も駆逐艦をもってこの敵に奇襲攻撃作戦をかけるべく近接したが、その途中において不幸にも敵哨戒機に発見され、敵の海空及び潜水艦による執拗な反撃を受け、この作戦は不成功となり敗亡してしまった。 またこの時甲標的 (特殊潜航艇) による攻撃も決行されたが命中もなく終わった。

( この日の前夜、私達を乗せた病院船 「第2氷川丸」 は、この大部隊の直前かそれとも真ん中かははっきりしないが、とにかく常識では考えられないところをトコトコと潜り抜けてきたのであった。)

 同じ頃コレヒドール島にいた第12震洋隊を含む日本軍将兵の耳にも、「空母5隻からなる敵機動部隊北上中」、「敵5個師団、リンガエンの我が軍の猛反撃を受け退却中」 などと、次から次に情報が舞い込んでいた。

 第12震洋隊の若き特攻隊員は我々にも早く出撃命令が出ないものかと胸をときめかしながら待っていた。 ところがこの時、皮肉にもコレヒドール島から見た西方の洋上を北上して行く敵艦船大部隊があった。

 しかし自分たちの目で多くの敵艦船 (格好もよし) を眺めつつも、それが余りにも洋上遠距離にあり、大砲も震洋艇も及ばず、ただあれよあれよと指差すだけ、皆は地団太踏むなどして悔しがるのみ、みすみす獲物を見逃がす結果となってしまった。

 1月5、6日の両日、我が軍の航空機はこの敵にリンガエン方面で攻撃を加え相当の打撃を与えた。 だがルソン方面にある我が航空兵力は著しく飛行機を消耗し、そのうえ敵側の我が基地に対する空襲も激しく基地の機能をすっかり叩かれてしまった。 そして6日敵艦艇はリンガエン湾方面に艦砲射撃を開始し、8日まで続けた。

 1月7日、コレヒドール島内においてはまたもや格納中の機雷が誘発する事故が起こり、敵と戦わずして熱烈な闘志に燃える多くの兵士と貴重な兵器類を損耗した。

 1月8日、フィリピン方面における我が航空部隊の再編が行われたが、航空機の保有絶対数が不足し、局地偵察を行うだけの兵力をルソン島に残し、司令部はこの重大時機に台湾及び昭南方面へ移動してしまった。

 このことは最高司令部のある者だけは知っていたが、ほとんどの日本軍兵士はこのような事実のあったことを知らないでいた。
(続く)

2011年01月04日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (95)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 その日の午後になって患者の病院船への移動が始まった。 元日を中にしてこの一週間は敵側の空襲もなく、無気味に近い静かな毎日が続いた。 そんな静かな外況とは裏腹に、当病室内はざわめきに近い騒音が流れていた。

 次ぎ次ぎと患者は運び出されて行くが、どうしてか作業に当たっている人々に活気がなかった。 レイテ、ミンドロ島へと敵大部隊の攻略は進み、今ではもうすぐそこに敵がいる状勢を隠すことはできない。

 次はここマニラに敵が攻撃を ・・・・。 今日この頃の静けさは、あたかも 「嵐の前の静けさ」 に似た感がしないでもなかった。 まさにその前兆かもしれない。 誰から教わるともなく私ですらそんな予感がしていた。

 話によると、この病院に配属されている者も、半分は病院船に移り、半分はここに残留するとか ・・・・。

 私は午後の3時を大分過ぎてやっとベッドから担架に移され野外に運び出された。 雲一つない真っ青な空が私の上に覆いかぶさる。 緑の中に白亜の病院の建物が浮かび上がって見えた。

 直射日光の当たる芝生の上に降ろされた担架、胸と大腿部を皮バンドで締め付けられ、私は太陽がまぶしく薄日で景色を見るより仕方がなかった。 このマニラに来て初めて見る野外の景色は、ただ真っ青な空だけであるかのような錯覚にとらわれないでもなかった。

 相当時間芝生の上で待たされ、やっとと思えるころ患者輸送車に乗せられた。 走る車中から斜陽に映える市街の景色が小躍りしなから後へ後へと去って行く。 心なしか敵に追われ敗走するかのような感があった。

 急に頭が下がり患者輸送車は坂を滑り降りるようにして全然人気のない軍港らしいところに着いた。 岸壁には2本マストで白塗りの病院船 「第2氷川丸」 が横付けしており、着くとすぐ私はこの大きな病院船の船腹に吸い込まれるようにして収容された。

 患者を積み終えたが、この病院船はすぐ出港はしなかった。 この船こそ日本の船としてマニラを出帆する最後のものとなったのである。 夜の闇を利用し、政府の要人とその家族であろうか、急拠内地へ引き揚げるための一般人が乗り込んできた。 そんなこともあってマニラ港を出港したのは午後9時であっただろう。

 そして夜半、私にとって最も関係深いコレヒドール、そのコレヒドール島北水道を通過した。 フィリピン群島から刻一刻と遠ざかっていった。 我独り痛める心の中、肉を裂かれる思い、ああ如何ともなし難し。

 マニラ湾を出た 「第2氷川丸」 は、「近海に敵大艦隊あり」 の報に接し緊急厳戒態勢に入った。 夜が明けるや否や、上空に敵機が飛来した。 敵機はあたかも味方病院船と感違いしているのか、護衛をするかのようにピタリとくっつき行動した。

 こんなことがあってか 「第2氷川丸」 は北の日本に向かう針路は採れず、南に針路を採らざるを得なかった。 南へ南へと航海は続けられ、1月10日無事シンガポール港に入港した。

 同船は日本への回航を控え、この港においてしばらく米軍側のフィリピン北部における新上陸作戦の状況を静観する他なかったのである。 病院船であるからといって、この航海は絶対に安全であるという保証は何もない。 ますます日米の戦闘は激烈化するばかりであった。
(続く)

2011年01月03日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (94)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 夜が明け、昨日もらった封書を読むことにした。 紙の香りが鼻を突く、部隊長と安田艇隊長からのものであった。 安田艇隊長のは、鉛筆の走り書きでこう記されてあった。

 辰巳2飛曹

 目出度い新年を病床に迎え、寒心に堪えざる事と思っております。

 昨日、北川上衛 (上等衛生兵) より益々元気にてその後順調に快方に向いおるとの由承り安心致しておる次第です。 良きにつけても一層療養に努めて全快の一日も早からん事を祈ります。

 お陰様で自分を始め班員一同も大元気で新年を迎ふる事が出来たが片腕と頼んでいた君が入院中で実に寒心残念だった。 君の分は皆で頑張らねばならぬ事と、年頭の挨拶に班員に達した。

 目下のところあと2日で頭部 (震洋艇の装薬) の装着も終り、試運転も半分は済み、結果極めて良好です。 之からは愈々大馬力で基地設営に掛る心算です。 元日の2日は休みなしで、晩も遅くまで準備で頑張って君達の仇をとると皆で張り切っている有様です。

 本日マニラ行の便がありますので衣嚢を依頼せるに付御査収被下度。 部隊にて貸与せし品は班員にて保管しあり。 着色事業服負傷時着用せるものは処分せるに付一着入れある分使用被度。 財布は見当らざる様なるも持参しある為と推思致しおります。

 恐らくこの手紙は三浦を待たせて書いたものであろう。


 今朝になって急に病院内の空気が慌ただしくなってきた。 看護婦が小走りしながら

 「今日病院船が入港し、皆を収容するようになりました。」

 と告げていった。 そして患者のそれぞれの胸の上にポイと5枚ずつの荷札を置いていったのである。 自分の荷物に荷札を付けておけということだ。

 何から何まで人手に頼らなければ何一つできない今の私、看護婦や看護兵の絶対数が足りないこともあって、重傷患者だからといって決して甘やかすようなことはなく、現実は余りにも厳しかった。

 我々もまたこのような現実に対して、どうかして少しでも遅れまい、手を焼かせまいと努力せざるを得なかった。 荷札に自分の名を書いてもらわなければ。 幸にも朝夕2回病室内を掃除して回る現地人の掃除人に書いてもらうことができた。

 人間というものはえてして苦しい環境にあると自分勝手な甘い考えを抱くものだ。 荷札の配られた後に三浦が来てくれたのであればよかったのにと、ふとそんな考えを抱く。

 ところがその途端、それに逆らうような自省の心がわいた。 三浦といわずコレヒドール島に進出した同僚達は、任務を遂行するまで、今最も精神的な努力を必要とするときである。

 彼らは一日一日が厳しい精神力との闘であり、雄々しく生き抜いていた。 彼らの成功を祈るならば何人といえども彼等の心の中に一点たりとも心の乱れるような要因は与えてはならないのである。

 重傷により痛めつけられた私の頭は、余り複雑な思考ができないにしても、愛する戦友たちのため、この程度の気を通うことぐらいはできた。

 ところで、自分は一体何のためにこの比島前戦まできたのだ! 何のためにだ! ああ無情なり、自分独りだけがどうして、一人だけ志を遂げ得ないのだ。 名誉ある任務から外されてしまうなんて無念この上なし。

 「俺をコレヒドールに帰してくれ、皆のいる所へ ・・・・ 」

 悔しさばかりがただ残る。 だがこんなところで、この状態で、幾らわめき叫んでも、それが受け入れられるものでもない。 軍人として最高の名誉あるこの任務への参加は、はかない夢に終わってしまった。

 あれほど堅固だった自分の意志も、グラマンが投下した一発の爆弾によって砕かれ、あまつさえ運命までが大きく一変されてしまった。 私と第12震洋隊との結び付きは、見舞いにきてくれた三浦と別れたその瞬間をもって、永遠に切れてしまったのである。

 それから戦後30年以上経った今日、今なお当時のままの三浦の姿が私の目の前から消えないでいる。
(続く)

2011年01月02日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (93)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 飯を食う以外に能のない男、それは今の自分のこと。 ただ何となく目をつぶり食うことと眠ることだけの毎日が続いた。

 ところがある日突然、私の鼻にプーンと土の香りがしてきた。 目を無意識のうちに開けると、私の目の前に20期の三浦が立っているではないか。 真っ黒に日焼けし、歯が白く元気に満ち溢んばかりであった。

 「眠っているのかと思いしばらく声をかけないでいましたよ。 マニラまで公用使できたんです。」

 「皆元気でがんばっていますよ ・・・・ 」

 と言い、上から私を覗き込むようにして見ていた。 余り突然で全く予期しなかったことで私は夢を見ているのではないかと自分の目を疑うような気持で、しばらく彼を見詰めた。

 懐かしいという感情が私の身体一杯に漲り、直ちにそれが爆発しそうなまでの状態になった。 皆と別れてからのことを、色々と尋ねようと思ったが、余りにも突然な出来事なので私はろくに口が利けないでいた。

 三浦にしても同僚達のことを知らせたかったのであろうが、黙って目と目で語り合うような時を過してしまった。

 「早くよくなって、一日も早くコレヒドールに帰ってきてください。 皆も待っていますよ ・・・・ 」

 彼は我々特攻隊員の中でも一番ちゃめっ気のある男で、いつも冗談などを言っては皆を笑わせていた。 恐らく今私の目の前に立っている三浦もその頃の三浦と少しも変わってはいないのだろうか ・・・・。

 彼も下士官になり右腕に2等兵曹の階級章が着けられていた。 私は彼に 「おめでとう」 を言ってやった。 彼がここに来てどれほどの時間がたったであろうか。 わずかな時間であったろうが、彼はここにおれる時間が余りない。

 彼はコレヒドール島に帰る定期船の発船時間が迫っていることを私に告げ、胸の内ポケットから2通の封筒を差し出し、また持ってきた風呂敷包の中にわずかではあるが、菓子、みかんの缶詰、石けんなどが入れてあると付け加えた。

 そして彼は姿勢を正し、元気溌剌とした挙手の礼を私に送ってくれた。 いつにもない三浦の顔、その顔を私は忘れまいと彼の目をじっーと見詰め、その視線をそらせないでいた。

 私にとってこれが同僚達と永遠の別れになるような気がしてならなかった。 彼はそんな私の気持を十分に理解してくれたと思うが、くるりと私に背を向けるや足早やに私の傍から消えるかのように去って行った。

 私の寝ているベッドの近くには窓もなく日中でも薄暗い、病室の白い壁、白で覆われたベッド、病室内のほとんどのものは白一色で、全体的に冷たい感じを私に与えるのであった。

 そんな中で、今し方三浦が届けてくれた橙色の風呂敷包みと、自分の名前の記された衣嚢が、横の空きベッドに横たわり異色を留めていた。 衣嚢は薄汚れていて、あの長い苦しい航海を物語るかのようであった。

 思い掛けない朋輩との再会もあったが、夕方になっても電燈も灯すことのできない燈火非常管制下、ただ眠る他ない暗い夜がやってきて、燃えるような風呂敷の橙色が次第に闇の中に吸い込まれていった。
(続く)

2010年12月31日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (92)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 今ではマニラ地区も完全に制空権を取られており、朝早くから敵機の定期便 (空襲) であろう爆音が聞こえる。 ミンドロ島辺りの航空基地を、はや敵側は使い始めたのであろう。

 爆音に追っ掛けられるように 「空襲警報」 のサイレンがうなり出す。 私がこの病院に入院したころは、警報が出ると、歩ける (比較的元気のある) 患者が看護員を手伝って、私たちのような寝たきりの患者を、それぞれが寝ているベッドの下に移し、それから銘々は安全な場所へ避退するといった状態であったが、今では空襲の回数も増し、避退する者たちにも余裕がなくなったのか、寝たきりの患者はベッドの上に置き去りにされたままになった。

 ドドン、ドドーンと爆弾か高射砲の音か、それは私には分からないが大きな炸裂音が聞こえてくる。 私自身、身動きすらできない無抵抗の状態に置かれ、今ではどうにでもなれという捨てばち的な考えにならざるを得なかった。 どうわめこうと叫ぼうと、今更どうなるわけでもなかった。 ただ成り行きに任せるのみ。

 そのうえ自分の寝ている真上に、大きく豪華なシャンデリヤが下がり、数多くのガラス玉は鋭利な刃物のどとく不気味な色に輝きながら、私を狙っていた。 全く俎上の鯉とはこのことか。 この第103海軍病院は元フィリピンの女子大学であったとか。

 今の自分にできることといえば、尿意を催したくなったとき、ベッドの上まで溲瓶を吊り上げる作業がやっとであり、それ以外にできる動作は、食事のときに食器から口まで食べ物を運ぶ手と、上下左右に回せる目の玉だけであった。

 一刻も早く歩けるようになりたい、そして皆のいるコレヒドールに戻ることを願うだけだ。

 12月25日といえばクリスマスである。 この日マニラを出る貨物船があり、急にこの病院に収容中の重傷患者に内地送還が言い渡され、早速送還準備が始められたが、間もなく今回は貨物船ということもあって、重傷患者を乗せるということが一転し軽傷患者に変更され、歩ける者という条件が付けられた。

 結局この度の患者輸送に関しては、直接私には何の関係もないこととなったが、こうしためまぐるしい動きには、痛めつけられている自分の頭は、うまく回転せず、ついて行けなかった。

 後日、この貨物船はマニラ港を出港して間もなく、湾内において敵機の攻撃を受け撃沈され、この船に乗った患者達は、悲しくも船諸共あえない最期を遂げたことを知らされた。 (注)

(注) : 当該船舶については期日に一致するする記録が見あたりませんので船名等は不明です。 12月29日ですと 「明隆丸」 (明治海運、4739トン) 及び 「菱形丸」 (元米貨物船 「Bisayas」、2833トン) が門司に向けマニラを出港し、サンフェルナンド寄港中の1月2日に空襲を受けて沈没していまので、この何れかの可能性がありますが ・・・・ ?


 昭和20年の元日を2日後に迎える日の朝、この日は珍しく空襲もなく静まりかえった朝であった。 病院の庭の片隅から景気よく餅を搗く音と人の声が聞こえてきた。 日本軍兵士のこんな元気のよい声を聞くのも久し振りのことであった。

 こうして元気よく搗かれた餅が、元日の朝、雑煮となり私たちの食膳に配ばれ、気持ばかりの正月を祝った。
(続く)

2010年12月30日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (91)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて (承前)

 その日は喉が無性に渇き、水が飲みたくて飲みたくてたまらなかった。

 “重傷者に水を飲ませてはいけない” と、それとはなしに聞いたことはある。 私はどうして水を飲んでいけないのかはっきりした理由は分からなかった。

 そこで重傷を負っている自分が、今ここで水を要求したとしても果たして水をくれるものか、また仮に要求が通ったにしても、水を持ってきてくれるには相当の時間がかかることを知っていた。

 そこでふと気が付く。 氷枕。 水は飲めない (生命は惜しかった) が氷ならばと思う。 そこで寝たまま手を枕元に回し、氷枕のものをいただくことにしたのである。

 元気な者がするように中々上手に事が運ばない。 頭の下から引きづり出した氷枕を自分の胸の横に持ってきた。 氷枕内の氷が大分解けていたらしく、どぼんどぼんして取扱いにくく、胸の上に乗せたが、それがとても冷たく感じて長く胸の上に置いておくことはできなかった。

 いずれにしてもこんなことは手早くやってのけなくてはと、気は焦るばかりであった。 両手をぐっと伸ばし氷枕の口の部分が上になるようにして差し上げ、四苦八苦して口金を外したのであった。

 口金は外したものの容易に水を飲むことはできない。 それというのは、上向きに寝て頭部を少しも動かすことのできない状態と、氷枕の口が自分のロよりはるかに大きく、自分の口まで氷枕の口を傾けると、中の水がドッと一度にきそうで、どうしても水を飲むことはできなかった。

 氷枕を差し上げていた腕の力も全く衰え、早くやろうと気ばかりが焦り始めた。 へまなことをして氷枕を下の床へでも落とそうものなら大変なことになるぞ ・・・・ と、あれこれ考えた挙句の果て、やっと氷枕の中から氷のかけら1個を取り出し、片手で氷枕を支え、もう一方の手で氷を握り顔に押し付けてこすった。

 突然下の方でカチャンと音がした。 口金を床に落としてしまったのである。 思わぬミスを、えらいことをしてしまった。 重傷患者は水を飲んではいけないことが重くのし掛かってくるような思いになり、自分ながら悪いことをしたと観念せざるを得なかった。

 「看護婦さーん」 と我ながら最高に哀れな声を出して救いを求めた。 そのときは遅悪く 「巡検5分前」 という時間であった。 だが不幸中の幸というか、病室の入口に看護婦さんはいたらしく、すぐに来てくれた。

 「あなた、水を飲んだのね。」

 私が何も言わないのに看護婦は床の上に落ちた氷枕の口金を拾って私の目の前に差し出して言った。 彼女のそれほど大きくはなかった声は、シーンと静まりかえった病室内に ・・・・、女の黄色い声は誰の耳にも聞こえたことであろう。

 彼女の声が部屋の隅に当たってこだまとし私の耳に返ってくる。 その代わりに、1人、2人、3人と荒々しい男の声が返ってきた。

 「そんなことをする奴は死んじまえ。」

 と、それらの声は私の胸に強く突き刺さるように聞こえた。

 その夜遅くなって、前線で重傷を負ったらしい1人の兵士が、この病室内に運び込まれてきた。 その兵士は相当の重傷を負っているらしく、夜通し 「水をくれ、水、水を ・・・・」 と叫び続けていたが、夜明け頃にはウーン、ウーンというわめく声も絶えたらしく元通りの静かな病室に還っていた。
(続く)

2010年12月29日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (90)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 独り病院に送られて

 今にも小便が漏れそうだ。 意識のないまま反射的に体をそのような要求に応じて動かそうとする。 そのとき自分の寝かされていた担架と床との間は5センチとはなかった。 変なところに寝ているなあーとは感じながらも ・・・・、足を動かそうとしたが、自分の体全体が釘づけにされたように重い。

 担架の端から持ち上げようとした右の足先きがずるりと床に滑べるようにして落ちた。 その瞬間、その足先きから頭へ向かって強烈な電流がグイと走った。 「ギャー」 という我ながらわけの分からぬ大きな声で叫んだのである。

 何一つとして物音もないシーンと静まりかえった病院の廊下に、この声は異様な音となって響きわたった。 異様な声を耳にした看護婦が詰所から飛び出してきた。 看護婦が何か言っているが全然私には分からない。 だが自分は病院にいることだけは分かった。

 副木に支えられた右足、その大腿部の付け根に、誰がしてくれたのか止血帯がしっかりと締めてあり、今はその止血帯が肉に食い込まんばかりで痛く感じるのであった。

 私は 「神福丸」 船上で敵機の爆撃のショックを受けて以来、丸2日以上も意識をなくし、そのまま永遠の眠りとなるかもしれない状態を続けていたのである。

 弾片に食いちぎられ、骨折した右足が床に滑り落ちたそのお陰か、こうした眠りから覚めたのであった。 小便がしたくなったことによる一連の動作が奇声発生に繋がり、私という個人が兵士として、また人間として再起し得る者として認められることになったのである。

 だからこの奇声発生という現象がなかったならば、私は恐らくそのまま病院の廊下に放置された状態で、後はどうなったことであろう。

 それからというものは、私の目の前を軍医、看護兵、看護婦が足繁く行き来した。 夕暮も迫まるころから私はギブス室に移され、脊髄液を採られ、下半身の麻酔注射を受け、骨折した足に軍医が額に汗をかきながらギブス包帯を巻いてくれたことを断片的に思い出す。

 ギブス包帯の表面に血が診み出し、それを頼りにギブスを丸く切り取り、外傷を受けた部分の治療が容易にできるようにし、初めてベットというものに寝かされた。

 それからは1日に1回か、2日に1回の回診があったが、包帯でぐるぐる巻きにされた頭は激痛が走り、ぼーとした頭は何も考える力さえなく、ただベッドにねじ伏せられたような状態が続いた。 彼の大久保彦左衛門の16歳の初陣の忍傷ではないが、自分も大小合わせて16箇所に及ぶ負傷であった。

 数日経って気が付いたのであるが、ある看護婦が綿に包帯を巻いて作った円座を私の尻の下に置いてくれていた。

 体温40度3分、看護婦がもそもそと何か言いながら体温計を片手で振り、カルテに記入している姿が目に写った。
(続く)

2010年12月28日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (89)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 コレヒドール島の守備 (承前)

 11月14日 「コレヒドールを骨幹とする海上阻止を強化するため、海軍協同を大いに期待する。」 という 「尚武策定」 のルソン島作戦要綱が決意された。 そして陸軍部隊からも1個大隊が配備された。

 またこうした要塞砲の整備とともに合計11の防空隊がコレヒドール島の外方にあるガバリオ、カラバオ島に配備された。

 かくしてこのコレヒドール島にある全部隊は 「マニラ湾口防衛部隊」 として発足し、同部隊指揮官は第31特別根拠地隊副長の板垣大佐が任命されたのである。

 12月20日 「尚武策定」 の中南部ルソン地区作戦指導要領によれば、「コレヒドール水道地区の守備部隊をもって、同地区を死守させ、震洋特別攻撃隊を密かに協同して敵艦隊のマニラ湾への進攻を撃砕する。」 と立案計画されていた。

 そこで震洋6隊の戦力を有効に発揮させるため統一指揮官の必要を認め、南西方面艦隊参謀小山田少佐が水上特攻隊指揮官に任命され、一応防備強化に邁進した。

  昭和20年1月末におけるマニラ湾口防備兵力の概要

      コレヒドール島  約4,500
      ガバリオ島       約400
      カラバオ島        373
      マリベレス       約160
      他に設営隊      干数百

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( コレヒドール島周辺   元画像 : 1954年版の米軍地図より )

 コレヒドール島は、この大戦当初の激戦の跡そのままに放置された状態であり、緑のネムの木が道路を覆っていた。 またそこかしこに赤い熱帯樹の花が咲き誇り、夜はあちこちで大トカゲが 「トッキー、トッキー」 と奇妙な声で鳴き、一見全く戦を知らない平和な島を思わせるのであった。

 第12震洋隊の隊員は以前米軍が使用していた兵舎を改築してそこに居住することとなった。

 木々はよく繁茂し、過ぎし日の日本軍のコレヒドール島進攻作戦がいかに激しかったかを物語るかのように幹には当時の砲弾が食い込んでおり、また大樹の枝もとなどに弾片がうまく止まっている、そんな光景があちこちに見られた。

 12月23日 「敵艦隊北上中」 の報告が舞い込んだ。

 急拠出撃準備中の第7震洋隊において火気取扱不良による失火 (実は装薬テスト中の震洋艇1隻にトラックが接触、このため大爆発となった) があり、震洋艇に装備した爆発尖がショートして爆発事故を起こし、一瞬にして震洋艇75隻、陸軍特攻艇14隻を焼失、第7震洋隊員90名のほか陸海軍兵士150名の尊い人命を失い、兵舎8棟を全焼した。

 この敵に関する情報は後で虚報であることが分かったが、誠に痛々しい悲劇であった。

 この間第12震洋隊では連日震洋艇の格納壕掘り、艇頭部の炸薬の取付け及び艇の整備に没頭し、ついに昭和20年の元旦は休みもなく続けられたのである。

 敵側の宣伝放送は日増しに募り、レイテ及びミンドロ島方面の戦闘の模様を流した。 一日の重労働を終えて休みながら毎日この放送を聞かされるのであった。 「糞ったれ、野郎ども嘘ばかり言いやがって・・・・」 とこの放送を聞き流すのであったが、またこの放送を聞くことによって我々はますます士気が奮い立つのであった。

 既に最前線という雰囲気も強くなり、元旦がやってきたがもう祝祭日どころではなかった。 毎日震洋艇のための壕掘りや、整備が続く、元旦の夜は隊員全員でビールや酒を酌み交わし声高らかに腹の底から 「同期の桜」 や 「若鷲の歌」 を歌った。 搭乗員達の中で酒に無縁の者は、基地隊員の心を込めて作った特大の大福餅にかぶりつき、餅に酔う者さえいた。
(続く)

2010年12月27日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (88)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 コレヒドール島の守備

 コレヒドール島に移った第12震洋隊は、虎の子である震洋艇をまず同島の樹木の間に隠蔽し、その次に兵器、糧食を安全な場所に格納した。 それからの毎日は震洋艇をまずもって安全に守らなければならなかった。 そのため全員をもって同島の一角に格納壕を掘り続けたのであった。

 洋上において負傷した者 (玉木少尉、私、大貫と 「神福丸」 の北川2等航海士の4名) は、マニラ入港後コレヒドール島に行くことなく、直ちに第103海軍病院に送られ療養することとなり、本隊から離れることになってしまった。

 私は後頭部を始め下腿部などに16箇所に及ぶ傷を受け、全く意識のない状態が丸2日も続いた。 そして入院後は幾らか意識は回復したというものの、しばらく高熱が続き虚脱したような状態から抜け出すことができなかった。

 部隊のコレヒドール島への移動が終わり一段落したころ、北川上衛が連絡を兼ねて見舞に来てくれたそうであるが、その時のことは私には全然記憶がない。

 敵は大軍をミンドロ島に無血上陸させたものの、その後大きな進攻作戦は年の明けるまで行わなかった。

 この間、日本海軍水上部隊は巡洋艦 「足柄」 「大淀」 と駆逐艦6隻からなる艦艇をもって12月26日サンホセ湾に突入した。 だがこの殴り込み作戦は大した戦果もなく、約100名の斬り込み隊を上陸させたにすぎず、全く空振りに終わった。


 コレヒドール島の守備について語る前に、まずここでマニラ方面防衛部隊についてあらましではあるが触れておこう。

 昭和19年7月頃、フィリピン方面にある日本陸海軍の間で、敵上陸時の陸上戦闘の指揮に関する協定が結ばれた。 この協定によりその指揮は各重要地区とも所在陸海軍指揮官の中の最先任者がこれを執ることに決定された。

 12月下旬、ルソン各地所在海軍部隊に対し、南西艦隊から各地防衛部隊の編成が令され、12月22日マニラ防衛部隊が編成された。

 次はマニラ湾口の戦闘準備についてであるが、昭和19年9月10日海軍第31特別根拠地隊が新編された。 当時コレヒドール島には海軍少尉を長とするコレヒドール防備衛所があったにすぎなかった。 同所には根拠地隊水警科 (302名) の一部の兵が配置され、聴音による哨戒、湾口の警戒及び水路に対する響導が主たる任務であった。

 敵の比島進攻が進むにつれ、10月末の比島沖海戦での沈没艦 ( 「武蔵」 「熊野」 「木曽」 「鈴谷」 「最上」 )の一部生残者及び 「鬼怒」 の全生残者をコレヒドール島陸上防備のため配置された。

 昭和17年米軍から占領以来放置されたままであったマニラ湾口各島の要塞砲等の再使用が決まり、これら要塞及び砲の整備等のため11月になって設営隊が投入され、砲台工事、トンネル工事も始められた。

 更に中部比島方面に進出配置される予定であった震洋特別攻撃隊 (第7、第9、第10、第11、第12及び第13震洋隊の人員) は同方面の進出が不可能となり、6隊はすべてコレヒドール島に配備されることになった。
(続く)

2010年12月26日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (87)

著 : 辰巳 保夫 (乙飛練19期)

 12震コレヒドール島へ配属

 幾度か敵潜の攻撃と群がる敵艦載機の襲撃を受けたが、いつも奇蹟的にというか幸運に恵まれてというか、我々と 「神福丸」 はかすり傷程度の損傷を受けただけで見事マニラ港の岸壁にゴールインした。

 松枝部隊長はマニラ入港後直ちに第3南遺艦隊司令部に赴き、第12震洋隊のマニラ到着を報告した。 そして司令部からの命令を受けたのである。

 「今夜中にコレヒドール島へ移れ。 その後は同島の守備に当たれ。」

 いわゆる、マニラ湾口防衛部隊の一員として配属されたのであった。 部隊長の帰船と同時にこの命令は下達された。

 「神福丸」 と第12震洋隊は今日まで苦楽を共にし、この感激すべきマニラ到着を祝い、また 「神福丸」 に対して感謝とねぎらいの言葉を掛けるその暇さえなく、夜を徹してのコレヒドール島への移動作業が展開されたのである。

 「神福丸」 に積み込まれてあった積荷はもちろんのこと、軍需部からは更に必要な兵器、糧食、酒保物品等の緊急補給を受け、これらすべての物資を小舟艇に移載し、マニラの土を一歩も踏むことなくコレヒドール島へ直行した。


 敵大部隊はすぐ目前に迫った

 既にフィリピン全域における制海及び制空権は完全に敵側のものとなっていた。 横須賀を経ち丸々2箇月かけて 「神福丸」 は幾多の苦闘を続けながら、これらを無事に切り抜けマニラに着き大任を果たした。

 昭和19年12月15日 「神福丸」 のマニラ入港はマニラへ到着した日本の輸送船 (2,000トン以上の) の最後の船でもあった。 しかし 「神福丸」 もまた4日後の12月19日マニラ湾口において悲しくも敵潜により撃沈された。


 米軍ミンドロ島に上陸

 米軍を主とした連合軍は昭和19年10月19日レイテに上陸した。 以後苦戦しながらも随所で日本軍を撃破し、12月上旬に至たり、後は地上における掃討戦を残すのみとなり、レイテ方面の作戦に一応の 「けり」 をつけ、次の作戦目標を 「ルソン進攻、マニラの奪回」 に移し、準備の出来次第実施と決意したのであった。 その第1段の作戦がミンドロ島の上陸作戦となった。

 米第3艦隊はウルシーで2週間の休養をとった後、ミンドロ島上陸作戦部隊に合流した。 そのミンドロ島上陸部隊は護衛艦艇多数 (空母3、特設空母6、巡洋艦等20数隻、駆逐艦50) と輸送艦船約85、上陸用舟艇110からなる大部隊であった。 12月13日この機動部隊を伴った大部隊はネグロス島を西側から北上しミンドロ島に接近した。

 ミンドロ島への上陸を前にして、米軍側は基地航空部隊をもって連日フィリピン中南部にある日本軍の飛行場に攻撃を加えた。 更に14日から3日間連続して機動部隊は北部フィリピンにある日本軍に対し徹底した攻撃を加えたのである。 ( 「神福丸」 は洋上においてこの機動部隊の艦載機の攻撃を受けた。) これに対し日本軍側は特攻機をもって敵機動部隊に対し反撃を加え抵抗した。

 日本軍側にあっては敵がミンドロ島に上陸して来るとは全然予測していなかった。 15日になって情報を総合した結果、初めて敵がミンドロ島に上陸することを確認したのであった。

 連合軍のミンドロ島の獲得は、今後中・北部ルソン攻略の前進航空基地を設置することにあり、これにより更に大きな足場を築かんがためであった。 米軍はたちまちにして日本軍側の無防備状態に近いミンドロ島を無血占領したのであった。

 一方フィリピン方面における日本海軍航空部隊の実働兵力は12月17日現在28機であり、20日台湾方面から新編の特攻隊として37機、戦闘機17機が増勢された。

 ルソン進攻中の米機動部隊は18日同方面を襲った台風に遭遇し、駆逐艦3隻が転覆沈没、6〜7隻の艦艇が大破、800名以上の将兵が死亡した。 そのほか軽空母、戦艦及び巡洋艦の搭載機146機に被害を受け喪失した。

 増勢された日本海軍航空兵力による攻撃及び特攻攻撃は、連日夜間に敢行されたが敵に大打撃を与えるには至らなかった。 しかも日本軍によるミンドロ島の米軍に対する逆上陸作戦は全く行われなかったのである。
(続く)