2010年09月21日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (1)

 連載開始に当たって

 本回想録は、辰巳保夫氏が第19期乙種飛行予科練習生として三重海軍航空隊に入隊し、その後志願して第12震洋隊に配属となり、そして同隊と共にフィリピンへ進出した時の物語です。

 先の回想録 『聖市夜話』 及 び『飛翔雲』 と同じく、私が若かりし時代に海上自衛隊の部内誌に連載されました。

 しかしながら、その後この回想録は再び世に出ることはなく、そして本回想録が掲載された海自部内誌そのものも、今日となってはもうほとんど残っておりません。 私が知る限りでは2か所のみです。

 私も定年退官した今、この素晴らしい回想録が現役の若い海上自衛官のみならず、ましてや一般の方々の目に触れず、このまま消え去ってしまうのは如何にも惜しい、勿体ない、そう思わずにはいられません。

 著者の辰巳保夫氏については、残念ながら私は戦後に海上自衛隊に入隊され、本回想録を投稿された時には横須賀教育隊勤務だったとしか存じ上げません。 もし詳しい経歴などをご存じの方があれば是非ともご教示いただきたいと思います。

 ご本人のその後のことなども判りませんので、私のこのブログでの掲載に当たり著作権などについての許諾は得ておりません。 また海自の発行元にも版権や編纂権上の承諾も得ておりません。

 したがって、正式にはそれらのことを無視したものであることを承知の上で掲載いたします。 それは上に記したとおりの気持ちからです。

 このブログにご来訪の皆様も、是非じっくりお読みになり、この回想録の素晴らしさを味わって下さい。

 ただし、正当な権利を有する方からの要求があった場合には直ちに削除することは言うまでもありません。 これが前提での掲載であることを予めお断りしておきます。

 なお、海自部内誌に連載された時の元々の標題は 『17フィートのベニヤボート』 ですが、ブログでの掲載に当たりカテゴリーの長さの都合上もあって 『第12震洋隊物語』 とさせていただきました。

管理人 桜と錨

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回想録 『第12震洋隊物語』 (原題 : 「17フィートのベニヤボート」)

著 : 辰巳 保夫

 まえがき

 この手記は、“海軍特別攻撃隊” 「第12震洋隊」 を中心とした隊員の物語である。

 時は昭和19年の夏、南太平洋上及びその周辺において日米両軍の死闘は熾烈をきわめ、米軍の反撃は急速化し、7月サイパン島守備隊は玉砕、連合軍は次いでグアム島、テニアンへ上陸、8月テニアン守備隊玉砕、グアム島守備隊も粉砕されるなど日本軍の敗退の報が次から次へと知らされ、軍人はもとより日本全国民は皇国日本の危急存亡をかける一大決戦の迫ったことをひしひしと身に感じ、総力を挙げて連合軍の猛反撃を食い止めんものと立ちあがったのである。

 かかる重大戦局を前にし、海軍軍人の一人としてまた憂国の志士として、この危急を救わんがため若き飛行予科練習生の一団が肉弾による決死行をみずから志願し、比島戦線に出陣し敵艦に壮烈な体当たりを敢行、名誉の戦死を遂げたのである。
(続く)

2010年09月22日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (2)

著 : 辰巳 保夫

 決死隊への志願

 暑い日ざしの毎日が続き太陽は容赦なく照りつける。 埋立て作られた練兵場の砂が焼けてムーとする。 雄飛館のある松林を、伊勢湾から吹いてくる風が時おりざあーッという音を立てる。 松林はかなり長く続いていてそこで風が遮られこちらまで届かない。 皮肉にも音だけが涼しさを感じさせる。 がしかし、われわれの肌を慰めてはくれなかった。

 ここ三重海軍航空隊は、土浦海軍航空隊とともに海軍少年飛行兵を育成する練習 (教育) 航空隊である。 私達はこの三重海軍航空隊で最初に入隊した。 そして1年7か月以上の歳月は過ぎ、今では最上級の練習生として猛訓練の日々を送っていた。

 乙種飛行予科練習生の教育課程もほどなく終えて、次は実際の飛行術を身につけるべき飛行練習生の教育課程に進むのである。 予科練終末の学期試験の日程も掲示板に張り出された。

 その頃、米軍の反撃は日増しにつのり、グアムに上陸、B−29が中国の基地から北九州を空襲、サイパン、テニアンの守備隊玉砕との報が次ぎ次ぎと我々の耳に入り、直接戦闘員でない我々も戦局の重大さを大いに感じさせられ、これを憂うる心が日増しに大きくなっていった。

 約1か月前、私達は休暇を与えられ郷里へ帰って来た。 予科練時代における休暇はこれが先にも後にも1回だけであった。

 時、昭和19年8月の末日である。 太陽の照りつける午後1時、「19期及び20期生は総員剣道場に集合」 という号令が拡声機から流れた。 当時三重海軍航空隊には甲種・乙種及び特乙と飛行練習生は5千ないし6千人はいた。

 道場では、練習生以外は分隊長、分隊土といえども人払いを受け内部に入れなかった。 道場の神座を背にして古瀬貴季司令 (大佐、海兵42期) が、その側に副長とあと1人の海軍士官の3人だけが残った。

 今からなにが起こるのであろうか、みんなの心の中は少なからず動揺せざるを得なかった。 副長ならばいざ知らず、司令が一段高いところに立っておられる。

 副長の顔を見ると、いつでもわれわれが入隊して間もない頃、大声で叱られたときのことを思いだす。 副長は高橋中佐 (俊策、海兵48期) であり、かの 「月月火水木金金」 (曲の題名は 『艦隊勤務』) の作詞者である。

 その時はこうであった。 副長が号令台上から総員集合した練習生を見おろして、「お前達は帝国海軍軍人か」 と一喝、

 「昨夜、お前達の中の1人が雄飛館の食堂の丼鉢の中に××をした。」
 「何たる行為だ。」
 「軍人たる者は恥を知れ。」
 「そんな躾をだれがしたか。」
 「当分の間酒保は禁止する。」

 ××のところは伏せておこう。

 総員集合があるとまた何か事件でも、だれかが何かやらかしたのではないかと邪推をした。 また、何か重大なニュースがあるのか、練習生だけの集合だぞ、と走馬灯のように素早く頭の中をつまらぬ憶測が浮かぶ。 実のところまだ何が飛び出すかわからない。 やや長い時間が経った。

 一旦司令は高い台から降りられ再度その位置に立たれた。

 「頭右っ!」

 練習生は一斉に司令に対し頭を向け注目した。

 「直れ!」

 大道場は広い、そこへ大勢の人、電灯はついていたが暗く感じる。 司令が練習生に向かって、口調も軽く切り出された。
(続く)

2010年09月23日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (3)

著 : 辰巳 保夫

 決死隊への志願 (承前)

 「練習生諸君に告げる。 今や戦局は重大時機に至った。 このことについては諸君は既に承知していることと思う。 私は諸君が海軍少年飛行兵として立派に巣立つ日を楽しみにしている。 諸君がこの航空隊を出て飛練へと進み、先輩に劣らぬ武勲輝やく空の勇士として前線で勇ましく活躍されることを願いつつ、毎日諸君の元気な姿を見守り続けてきた。 日本海軍としても諸君が一日も早く大空へ向かって羽ばたく日の来てくれることを待っているのである。」

 司令は一呼吸されたのち姿勢を正され、

 「さて、諸君にただ今この道場へ集まってもらったのは他でもない。 この度、海軍軍令部から特別任務を敢行するため特殊兵器を使用し、戦局の挽回策を計画実行することとなった。 諸君は程なくして卒業であることは万々、司令として承知している。 諸君の念願である空の勇士として進ませたい気特は変らないのである。 がしかし、この特別任務を行なえる者としては諸君以外にないのである。 それは諸君ほどに軍人精神の旺盛な海軍軍人も他にはない。 そこで諸君にこの重大な特別任務を引き受けて貰いたいのである。 司令としても、現在の諸君の立場を考えるとき、このようなことを伝えるのは真に偲び難い、断腸の思いである。」

 さらに司令は付け加えられた。

 「この中で、よし、俺がやろうという者だけでよい。 恐らく全員が志願してくれることだろう。 だが現状では全員というわけにもゆかないのである。 十分考えた上で、私の今話したことに対する返事を望む。」

 と結ばれた。 もう話の終る頃の司令の言葉は途切れ途切れになることさえあった。 再び注目の敬礼が終り司令は台から降りられた。 道場内は2千人余の人熱れで蒸し返っていた。

 次に台上へ参謀肩章を付けた海軍士官が上がったが、場内はし〜んと静まり返っていた。 しばらく沈黙が続いた。 無言のままで同僚の顔をちらりと見る者、黙想を続けている者、足元に目をやりじっと下を見ている者、顎に手をやって考えている者、口をきりりと結び腕組みをしている者、様々であった。 しかしいずれも皆紅顔の美少年であった。

 しばらく間を置いて副長から話があった。

 「諸君、事の内容は司令から伺ったとおりである。 司令のお気持を十分察してくれたことと思う。 司令も私も諸君を立派な飛行兵として育ててきた。 卒業間近かの諸君をいずれにせよ手離すことは真に残念でならない。 それでは特別任務を志願してくれる者は手を挙げて貰いたい。」

 ほとんどの練習生は待っていたとばかりに勢いよくその手を挙げた。 挙げた手で副長の姿も見えなかった。 俺は行くぞ、必ず行くぞ、と誇らしげに後を振り返って見る者もいた。 前後左右で、うん、とお互同志で頷き合う者もいた。 元気よく挙がった手は万花が1度に咲いたようであった。

 「よし、手を降ろせ。 ありがとう、ありがとう。」

 副長は目頭を押さえておられた。 四つ切りの半紙が間もなくして集まった総員に配られた。 副長は、その四つ切り半紙の1枚を左手で高く挙げ、

 「いま皆に紙が渡されたことと思う。 前にいる者から順番に鉛筆が回って行くと思う。 それでは記入の仕方を説明する。 書く要領は、2重丸は大熱望、丸は熱望、次にバツは志望しない者と、以上の様にして記入してもらう。」

 「ただし、2重丸以外の者は名前等一切書かなくてよい、○または×でよし。 2重丸を書いてくれた者だけは、誰が書いてくれたのか後で見ても判らないので分隊と氏名を同時に記入してくれるように。 念の為であるが、人員の制限もあり、大熱望が余り多い時はこちらで改めて人選をさせてもらうので承知されたい。」

 それぞれの記入が終り、半紙は集められ総員集合は解散となった。 自分は2重丸を書いたが、急に郷里の母の顔が浮んできた。 ばらばらと道場から外へ出た。 蒸し暑かった道場から出た途端、もう秋がすぐそこにやって来たかのように涼しさを感じた。

 頭上を明野ケ原を基地とする陸軍の戦闘機が割と低空で飛び去って行った。 「隼」(陸軍戦闘機)であろう。 急に飛行機に乗って空を飛んでいる奴が羨ましく感じた。 隊伍を整えながら兵舎へ帰る足取りが心なしか重く感じた。 俺は2重丸だったがどうだろうか? 選に入いれるであろうか? 意を決した後も何か複雑な心境は残った。
(続く)

2010年09月25日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (4)

著 : 辰巳 保夫

 三重空よ、さらば

 9月3日であった。 午前8時にいつものように課業整列があり、午前2時限目の座学 (教室において行なう普通学などをいう) の時間であった。 数学 「三角解法」 の教務中であった。 かなり難しかった。

 「ある時刻に母艦を飛び立った偵察機が、数時間索敵行に出てその後母艦に帰艦する」 という問題で、三角で解くには自分達だけの力では少々苦労であった。 クラスの中で頭のいいのが1人2人、数学の教官と馴れあいになったような格好で教務が進んでいた。

 突然、私の分隊の猪原教員が教室の前のドアを開けて入ってきて、数学の教官と何やら話をしていたが、教員は皆の方に向かって 「辰巳練習生」 と私の名前を呼んだ。 私はすぐ 「はい」 と返事をした。 「今すぐ兵舎に帰って来て下さい」 と教員の口調は日頃の命令調の言葉遣いと全く変っていた。 私は教科書等を片付け、手提カバンに入れ唯一人教室から出た。

 特別任務を志願したのはつい3日前のことであった。 以外に早いので少々驚いた。 外はだれも歩いていない。 別に走ることもないのに自然に走った。

 兵舎に帰ると先任教員の持田班長から、「今晩三重空を退隊することになったので、今から退隊準備をしなさい」 と言い渡された。 豊田分隊士もそのあと私に同じようなことを言った。

 豊田兵曹長と私は、適性飛行も終わり操縦・偵察に別けられて以来1年以上我々の分隊士として務めてきた人であった。 特に私を可愛がってくれた人であり、私もまた彼を兄のように慕える人であった。

 時々分隊士に呼ばれ彼の私室において会話などをすることもあった。 彼はよく私に井村屋の生菓子などを振舞ってくれたものだ。

 分隊士は航海術を専攻し、志願兵から叩きあげられた優秀な海軍軍人であった。 手旗、発光及び旗りゅう信号と航海術の基礎術科を彼に教わったのである。 私はよく受信テストの採点の手伝いをさせられた。

 次のようなこともあった。 予科練では朝1時間、夜は2時間半余りの温習という別科時間があった。 時どき分隊士は練習生の学習状況を見回るために自習講堂に足を運んでこられた。 そして私の耳と、あと一人分隊士と同県の出身の油布という練習生の耳を後から来てよく引っ張ったものである。

 誰か教室の後側のドアから入って来た。 皆真剣に学習をしているので後を振り向いて見たりするような者は誰一人としていない。 また誰が入ってこようと我々にとって関係はなかった。

 だれか私の後に人が来たなと感じた、その途端、耳をぐいと引っ張られ耳がパリと鳴った。 「痛い」 だが皆の勉強の邪魔になるため声を出すわけにはゆかない。
 「保さん、やっとるかね。」

 と分隊士が耳元で小声で言う。 私と分隊士はそんな間柄であった。

 これで分隊士ともお別れである。 目と目が合った。 分隊士は両手を伸ばし私の肩を押さえるようにして軽く叩いた。 私は何だかばつが悪く、一瞬合った目を外さざるを得なかった。
(続く)

2010年09月26日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (5)

著 : 辰巳 保夫

 三重空よ、さらば (承前)

 午前の教務が終り、同僚達がどやどやと兵舎に帰って来た。

 「お前が行くのか?」

 「いつだ?」

 「今日の夕方にはここを退隊するそうだ。」

 こんなやりとりが幾度も続いた。

 私も即日の退隊とあって忙しく身の回りの整理をした。 転属先など全然判らない。 我々の持物といっても別に引越しするほどの大荷物があるわけでもなく、衣嚢に自分の衣類を整頓よく入れるぐらいのことであった。

 私の分隊から選ばれた者は11名であった。 予科練時代私は特に親しいという者はいなかった。 私はまた余り人から好かれるような人物でもなく、余り目立たない存在であり、自分なりにそう感じてもいた。

 何しろ毎日が猛訓練であり、皆がゆっくりと寛ぎ団欒するというような余裕がなかった。 そのせいもあったであろう。 教育方針であったかも知れない。

 とにかく朝起きて夜眠るまでほとんど駈足で兵舎から練兵場へ、練兵場から講堂へと広い敷地内を走って移動するのである。 当時そのハ−ドワークを物語るものは軍靴の踵であった。 軍靴の踵は大傾斜にすり減った。 その靴で走っていた。

 余談であるが昭和19年になってからは靴を修理する半張りの皮がくじ引による分配制となり、なかなか修理をしたくともできない状態であった。 この時既にある程度日本軍隊には物資不足が深刻なことになりつつあった。

 「散髪をしてやろう。」

 「うん、有難う。」

 日頃あまり話もしたことのない同僚までが声をかけてくれた。 嬉しい情景である。 散髪といっても当時は皆くるくる坊主の丸刈り頭であり、バリカン一つでことが済んだ。

 隊内には理髪店はあったが、多人数の練習生向きではなく、我々は相互援助による練習生同志での方法をとっていた。 いつも仲の良い者同志でお互に頭を丸め、身も心もすっきりしたものだった。

 今日は班員総がかりとは言えないが私にいろいろと気を使ってくれる。 4人ぐらいが交代しながら頭の毛を刈ってくれた。 バリカンが少々切れないこともあってか、それとも刈ってくれる同僚の気がはやるためか、時折り 「あ、痛え」 と声を出すほどの賑やかな光景もあった。 そこかしこで他の10名の者も頭の毛を刈ってもらっていた。

 「これはひどいトラ刈りだ。」

 「借せ、俺がやったる。」

 隣りでも時折爆笑が起こっていた。 夏である。 暑い。 汗で身体がべっとりするので首の周りに刈られた毛が付く。 上半身は裸であり終ってからくっついた毛をバタバクと自分の手で払い落す者、なかにはタオルではたいてもらっている者もいた。

 こうして、いつもより楽しそうな、また賑やかな散髪は終った。 長い間、このように生活を共に過ごしてきた皆である。 急に今日限りで別れるとあって 「惜別感」 は余計に強かった。 私は日頃あまり感じなかった班員の心の温かさがぐいと胸に刺さる思いであった。

 この特別任務のため選ばれた者は乙種19期、20期生合わせて200名であった。 飛行予科練習生から特別攻撃隊員として特別任務のために選出されたのは、今回が始めてのことであり全く異例の出来事であった。

 雄飛館で壮行会が行なわれた。 皆は未成年であったため酒こそは出なかったが、海の幸、山の幸で盛り沢山の料理が並べられた。 片手で掴めないほどの大きなオハギ、お頭付きの大きな鯛の塩焼、こんな豪勢な料理の並べられた膳の前に座ったことは今昔通じてもない。 それほどに色々の料理が、しかも若者が飛び付きそうな嗜好を凝らしたものが、一人一人の前に出されたのである。

 司令のほか分隊長、分隊士はもちろんのこと、先任教員や同期生の代表者も同席することになり、豪華な壮行会となった。

 司令が送別の辞を述べられる。

 「君達の栄えある壮途を祝してここに壮行会を行なうことになった。 よくぞ決心してくれた。 君達のような軍人がいる限り必ずや日本軍は勝利を収めることと確信しておる。 ありがとう。 司令もこの航空隊にあって諸君達の教育の任を負ってきたが、こんなに誇らしく感じたことも初めてである。 大いに奮闘して大任を全うしてくれ。 私は海軍生活も長いが、このような諸君を送ることもまずなかった。 諸君の目の前にある料理は、当隊補給長が急な限られた時間の中にあって物資を集め、調理員全員が総力を上げて作ってくれたのである。 どうか心置きなく食べて下さい。 郷里のお袋さんが作ってくれたのだと思って・・・・。 三重空での食事もこれが最後となったが、苦しいときは必ず三重空での訓練のことを思い出してくれ・・・・。 最後に諸君の大成功を祈っております。」

 と結ばれた。

 若くて育ち盛り、食べ盛りの我々の胃袋も、さすが全部を平らげることはできなかった。

     “雲出の川瀬月澄みて
      太平洋の波寄する、神風伊勢の香良州浜
      世紀の空をかけるべき
      雄叫び挙ぐる高らかに
      われらは空の少年兵”

 最後に三重海軍航空隊の隊歌を歌いつつ会は解散となった。 苦しかった、長かった飛行予科練習生の生活がまさに終らんとしているのであった。 私達は下っ腹に力をいれ、腕をふり大きな声で隊歌を歌った。
(続く)

2010年09月27日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (6)

著 : 辰巳 保夫

 三重空よ、さらば (承前)

 午後六時、「総員見送りの位置につけ」 の号令がかかり、我々は見送られる人となった。 いつもは送る側で卒業してゆく先輩達を見送ったものだ。 今はその逆である。

 送る側は整然として行なわれるのが常であり、終って 「解れ」 の令のあるまで列を崩さなかった。 ところが、我々の列が庁舎前を過ぎて間もなく、突然見送りの列がわれわれの方へ崩れるように近寄って来た。 それからは両側から元気の溢れた在隊の者達に狭まれてしまった。

 「頑張れよ。」
 「ご苦労さま。」
 「元気でやって下さい。」
 「自分達の分までやって下さい。」
 「大戦果を待っています。」

 そんな声の中から、同期の桜が 「俺もすぐ後か行くからな」 といろいろの激励の言葉の数々が飛び交わされ、ついには怒号にも似た歓声に変ってしまった。

 それからというものは我々200名は、その歓呼の声と人の波をかきわけ、かきわけして、やっとの思いをし隊門の外側まで出ることができた。

 我々は列を正し、隊の方に向かい送ってくれた者へ挙手の敬礼をした。 次いで先任者の声で一斉に帽振れを行ない、夕日を背にした見送側の盛大な別れの帽振れを受けた。 白い帽子が紅に変り、赤そして黒くなってゆく。

 今日の夕日はことのほか赤い。 松林をとおして伊勢の海がギラギラと見事な色に映えて輝く。 それはあたかも私達の前途を、そして成功を祝ってくれているかのようであった。

 「散る桜 残る桜も散る桜」

 私の七つ釦の制服の釦が五つになっていた。 どれほど見送りの模様がもの凄いものであったか ・・・・。

 隊のバスで高茶屋の駅についた。 もうとっぷりと日は暮れ、田舎町のこのあたりでは駅舎の近くに、チラリ、ホラリと灯火がある程度であった。 私達を運ぶ列車が着くまで、まだ大分時間がある様子であった。

 いつの間にか私の前に豊田分隊士が立っていた。 私は半ばびっくりした。 今日1日の忙しい日程であったため、もの待ちぶたさでついこっくりとしたところであった。

 「身体に十分気を付けてくれ。」

 「いろいろ御心配をおかけしました。 思う存分やります。 でっかいのを待っていて下さい。」

 と私はつけ加えた。 分隊士は、

 「君は七男だそうだな。」

 と意味あり気に言った。 それ以後はもう分隊士との会話はなかった。 私は分隊士が傍に立っていることが、私の心中にせつない思いを感じさせた。 だから私は、分隊士がしばらくどこかに行ってくれないものかと、そんな気持にもなった。

 分隊士は他の練習生には厳しかった上官の一人であった。 訓練の時など誰かが陰で鬼兵曹長と言ったのを聞いたこともある。 分隊士が横を向き、その顔に駅舎の明かりが薄く当たったとき、鬼兵曹長の頬に一条の線が走った跡があった。

( こんなあどけない者達が、自分達から進んで重大任務を、そして死んでゆくのか ・・・・。)
(続く)

2010年09月28日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (7)

著 : 辰巳 保夫

 横須賀

 一般の乗客の乗った列車の後部に、我々の乗る車両が特別に2両連結されてあり、その車両に私達は乗り込んだ。 特別車両になっていたため座席は十分にあった。 高茶屋駅 (紀勢本線) での停車時間は短かく、乗り込むのが精一杯であり見送りに来た人達と話をする暇もなかった。

 夜行列車である。 座席に一人掛も出来る。 座席と座席の間に衣嚢を置いて身体全体を伸ばした。 その日の疲れもひどくすぐ眠ってしまった。

 夜中の12時過ぎふと目が覚めたとき、「名古屋、名古屋」 という駅の放送が耳に入って来た。 そして間もなく発車のベルが聞こえていたが後はまた眠ってしまった。 どこに行くのか皆目我々には判らないままであった。

 夜が明けた。 見える車窓外の景色は芋畠が続くだけであり、このあたりがどの辺であるか見当もつかない初めての地であった。

 それからいくらか時間が経って小高い丘の上に、花崗岩で出来た観音様の像の首から上の部分だけが見えてきた。 その観音様を真横に見て列車はしばらく停車していた。 駅名は判らないが20期の連中が 「おおふな」 だと言っていた。

 やがて再び列車は走りだした。 ここらの畠もやはり芋畠ばかりであった。 そして鎌倉、逗子と駅名が過ぎた。 どうも横須賀に向かっているらしかった。

 「次の駅で降りるぞ、下車準備」

 引卒の士官の命令がかかった。 停車時間が少ないので素早く降りてしまわなければならないため、列車の停車しない前から衣嚢を自分のすぐ横に立てて下車の用意をし、停車するのを待った。

 列車は停止し下車した。 プラットホームの柱に掲示してある駅名は 「たうら」 と書かれてあった。 駅の辺りを見回すと何と殺風景なところだと感じた。 改札口を出ると大きな倉庫と高い塀が自分達にのしかかって来るようなところであった。

 「この先には迫浜海軍航空隊があるんだ。」

 とこの辺りの地理に詳しい誰かの言うのが聞こえた。 私の心の中でそうか迫浜に行くのか、と憶測した。 追浜と鈴鹿の両航空隊は海軍航空廠がすぐ横にあるため、特攻兵器は航空機に関連あるものと推量したのであった。 しかし、迎えの車両等が全然来ていない。 変だなあと思った。

 すると引卒の士官が 「衣嚢を担げ」 と命じた。 肩に衣嚢を担ぎ、4列縦隊で行進した。 肩の衣嚢を二度ほど担ぎ変えるくらい行進したとき、列は止まった。 その目の前に青銅を鋳造して作った門標に 「海軍水雷学校」 と書かれてあった。 この学校に来たのである。

 魚雷だ、人間魚雷なのかと咄嗟に考えた。 出迎えは皆立派な海軍士官であった。 着くまで一向に判らなかった任地はこの水雷学校であった。

 我々はこの学校の学生舎に案内され、ひとまず学校内における簡単な規則などの説明を受け、あとは荷物類の片付けや整理を行なった。

 学生舎は海軍士官専用の建物であり、我々はこの学生舎の一部に居住することとなった。 そして特別訓練を受ける者は学校側の下士官兵と隔離するため烹炊所も学生舎内のものを使用した。

 まずここでの生活の中で予科練と違うことは、班長がいないこと、兵曹長が我々の世話をしてくれることであった。

 午後になって、これからの訓練等における指導官が紹介された。 藤川大尉、香西少尉ほか尉官3名、准士官4名であった。 ここで初めて、我々に特殊兵器なるものが発表されたのであった。
(続く)

2010年09月29日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (8)

著 : 辰巳 保夫

 震洋 (〇四) 艇の登場

(注) : 本項以降に出てくる 「〇四」 「マル四」 などは 「〇」 の中に漢数字が入ったものですが、通常のフォントにはありませんので全てこの表記で代用しています。


 我々が三重空を発ち、横須賀海軍水雷学校へ来るに至った理由となるそれまでの海軍中央部の考えと特攻兵器についての推移を説明しておこう。

 我が軍の南東方面の敗勢が歴然となった昭和18年の中頃から、多くの者が米国の圧倒的な物量と、米軍の攻勢に対抗するため必死必殺の特別攻撃の決意断行を真剣に考えるようになった。

 その中には連合艦隊首席参謀黒島大佐があった。 同大佐は 「モーター・ボートに爆薬を装備して、敵艦に撃突させる方法はないであろうか?」 と大本営の海軍部幕僚に語っていた。

 同年7月同大佐は軍令部軍備担当の責任者として、軍令部第2部長に就任し、大本営海軍部が特別攻撃を採用するうえにおいて決定的な意義をもつこととなった。

 同大佐は 「突飛意表外の方策」 により 「必死必殺の戦」 を主張していた一例として、「戦闘機による衝突撃」 の戦法を、また 「爆薬を装備したモーター・ボート」 を挙げ、後者がやがて水上特攻の 「震洋」 (〇四) に発展したのである。

 この当時まで既に特攻兵器として甲標的 「蚊竜」 (特殊潜航艇) があり、開戦時のハワイ真珠湾攻撃以来シドニー、ディエゴワルス (マダガスカル島) およびルンガ泊地 (ガダルカナル島) の攻撃に使用された。

 甲標的は色々改良されたが、構造がかなり複雑で、必ずしも量産に適さなかった。 また攻撃効果も不十分などと間題点があった。 このため戦局の悪化に伴い海軍中央部は昭和19年2月、人間魚雷の試作を命じ、これが日本海軍の組織的な特攻作戦を採用する第1番手の狼煙 (のろし) となった。


 〇一兵器から〇九兵器まで

 昭和19年春、古賀峯一海軍大将の連合艦隊司令部が壊滅した。 その直後の4月、軍令部第2部長黒島少将は第1部長の中沢少将と 「作戦上急速実現を要する兵力」 として次の7つのものを挙げたのである。

     1 飛行機の増翼 (航続距離を倍加し、戦力を4倍に)
     2 体当たり戦闘機
     3 小型潜水艦 (航空界の戦闘機のようなもの)
     4 局地防備用可潜艇 (航続距離500海里、50センチ魚雷2本搭載)
     5 装甲爆破艇 (艇首に1トン以内の爆薬装備)
     6 自走大爆雷
     7 大威力魚雷 (1名搭乗、速力50ノット、航統距離40,000メートル)

 以上のもののうち、局地防備用可潜艇はすでに生産中であった 「甲標的」 であり、大威力魚雷は既に試作命令の出た人間魚雷 「回天」、装甲爆破艇こそ後の 「震洋」 であった。
(続く)

2010年09月30日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (9)

著 : 辰巳 保夫

 〇一兵器から〇九兵器まで (承前)

 軍令部は同じ月、海軍省側にこれら兵器の各種緊急実験の要望を提示し、軍令部から艦政本部に〇一兵器から〇九兵器までの仮名称を付し、これらの研究、試作および整備を命じ、担当主務部を定めて特殊緊急実験を急がせたのであった。

     〇一兵器 ・・・・ 潜水艦攻撃用潜航艇
     〇二兵器 ・・・・ 対空攻撃用兵器 (対空電探と高高度対空ロケット)
     〇三兵器 ・・・・ 可潜魚雷艇
     〇四兵器 ・・・・ 船外機付衝撃艇 (のち 「震洋」)
     〇五兵器 ・・・・ 自走爆雷
     〇六兵器 ・・・・ 人間魚雷 (のち 「回天」)
     〇七兵器 ・・・・ 電探関係
     〇八兵器 ・・・・ 電探防止関係
     〇九兵器 ・・・・ 特攻部隊用兵器 (のち 「震海」)

 このような軍令部の要望は従来における方針に比べまさに爆発的であり、艦政本部側によっても 「これだけ造ってくれれば必ず額勢を挽回できると信じ、もしこれができなければ必ず敗戦となる。」 と極めて切羽詰まった強硬手段として、実現に突進したのである。

 同年6月、嶋田軍令部総長は 「奇襲兵器の促進係を設け、実行委員長を定めること」 を命じた。 この実行委員長に当時海軍水雷学校長の大森仙太郎中将を選んだ。

 大森中将が特殊兵器の研究整備の責任者として就任した時点で、最も進んでいたのが〇四兵器であった。 衝撃効果の確認は終了していなかったが、各所で既に量産態勢に入っていた。 7月300隻、8月500隻、9月600隻、そして10月には800隻を建造する計画であった。

 一方海軍省側は、これら各兵器の乗員について準備を進め、従来からの甲標的のほか、〇四、〇六、〇九各兵器についてそれぞれ決死の志願者を募集し、大尉以下の初級士官と下士官兵がやがて訓練に入り得る状態となった。


 〇四兵器実用までの推移

 既に量産に入っていた〇四兵器には、重要な兵器装備 (爆薬の装備) 工事の問題があった。 海軍中央部は東京湾方面で建造したものは横須賀海軍工廠で、名古屋以西で建造されたものについては佐世保海軍工廠で装備するように措置した。

 要員準備のほうは、第1期進出兵力50隻分に対しては、既に発令済となり、また第2期進出兵力200隻分に対するものは7月16日発令の予定であった。 〇四艇要員は、差し当たり7月以降毎月300隻分を準備するよう考慮していた。

 〇四艇の教育訓練は、初期のものを横須賀海軍水雷学校で実施し、その後は長崎県川棚町にある臨時魚雷艇訓練所で行なうように計画され、教育期間は1か月とした。


 特攻兵器に命名

 大森中将は19年8月末、これまで仮名称で呼んでいた特攻兵器に対し固有名称をつけることを考えてきたが、〇四兵器には 「震洋」、〇六兵器には 「回天」、〇九兵器には 「震海」 と名付けることとなった。 これらの名称はいずれも明治維新時の船名から採ったもので、このことから 「〇四艇」 とか 「震洋艇」 という両方の呼び名が混用されるようになったのである。
(続く)

2010年10月01日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (10)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練

 特攻兵器、それはマル四艇であった。 私はがっかりした。 それもそのはず特攻兵器というからには、精巧を極めたものを頭に画いていたからである。 あまりにも自分の想像していたものと違いすぎるような感じがしてならなかった。 それは空を飛ぶ特殊兵器、または人間魚雷等を予想していたからである。

 私の本心を言うと、「特殊兵器とはこれか、こんなベニヤ板のボートか」 と口にこそ出さなかったが、思わず嘆息を漏らさざるを得なかった。 これは私唯一人の感じだったかも知れない。 飛行機とマル四艇の差 ・・・・。 死を覚悟して来たものの、こういうところが人間の弱さなのであろう。

 「こんなものが海水に保つものだろうか?」

 海水といっても幅が広い、荒天時のことも考える。 いくらか不安は残る。 少年の頭をして考えても、大分危っかしい代物である思いがした。 複雑な感懐が小さな頭の中をかけ巡って行った。 あまりにも酷いとも思えた。

 着いた日の一日は何も手につかなかった。 一夜明け、海軍水雷学校教頭の某大佐 (有賀幸作、海兵45期)、目玉のぎょろりとした、そして赤ら顔のきつい人であった。 元気は人一倍あるかのように、軍服 (第三種軍装、俗にいう陸戦服) から張り切った気力が溢れ出ているような感じが受け止められた。 その軍服が木綿でなく絹だったのか、生地が普通のものと違った感じであった。

 マル四艇の実物を見学に行った。 大佐は現物を目の前にして我々に語った。

 「これから私が君達の面倒をみることになった。 力一杯に勤めるつもりでいる。 どんなに小さなことでもよい、君達に心配なことがあればどしどし私に相談してくれ、お世話させていただく。 この特攻兵器は極秘ものである。 当学校のうち、私達関係者以外は何をするものか誰も知らない。 軍規厳正な諸君にあっては、このようなことは絶対にあり得ないことと思うが、くれぐれも他にどんなことがあっても口外しないようにしてくれ。」

 というような話であり、また大いに奮起せざるを得なくなる激励の言葉もほかに続いた。

 この時までに、既にマル四艇の特別訓練は第1次として一般兵科出身の兵曹の志願者をもって実施され、既に戦場に配備中とのことであった。 いつまで迷っていて何になる。

 「よし、やるぞ! 先に行った奴に決して負けないぞ。」

 今までの訝っていた気持が一変した。 それから以後というものは、毎日の訓練も熱が入り、若い我々は和気藹々のうち、特別訓練に邁進して行ったものである。
(続く)

2010年10月02日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (11)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 私達は飛行兵となるべき教育を受けてきたため、海に対する知識というものはあまりなかった。 まず海がどんなものであるかの体験をするため、艦載水雷艇 (大型艦の内火艇) による機動艇訓練が実施されることになった。

 その日は低気圧があったのか風が相当強く、またそのうえ横須賀付近の地形もまだよく判らない我々であった。 横須賀の田浦から観音埼を回り、久里浜まで行く海上コースであった。 横須賀港の防波堤を過ぎると北風が非常に強く、機動艇は木の葉のごとくに翻弄され、最悪のコンデションの航海、私達は観音崎の裏側に艇が回るまで船酔の連続であった。

 生れて初めて経験する船酔、それが月並なものではなかった。 海上は白波が折れてくる。 その上を飛沫が走る。 艇の窓は開けることができない。 そんな状態の中で、風と波としぶきがやってくる。

 反対側の窓を顔の出せる程度に開け、「ゲ−、ゲー」 と吐きっぱなしの強行軍が始まった。 さすが艇指揮をしている兵曹長は、海の古強者、平気な顔をして操舵室で舵輪を握っていた。

 その日、我々は艇の操舵を習うのが主目的であったが、荒天とそのうえ機雷原の中を航行する難コースの突破もあって、酔ぱらいの我々はとうとう舵輪を握ることなく浦賀水道を通過し、無事久里浜に入港した。

 上陸した正面に、ぺルリ提督上陸記念碑があったが、この碑に誰が書いたのか、「敵国降伏」 の大文字が白ペンキで書かれ、碑に刻み込まれてある文字がかすかに読みとれるような状態となっていた。

 マル四艇を量産している海軍工作学校の一部を見学し、再び機動艇に乗り横須賀への帰路についた。 帰路は北風も相当弱くなって、往きの時ほどの船酔もなく、幾分ふらふらながら舵輪を交替で握り、「宜候」 (よ〜そろ〜) 「面舵」 (おも〜か〜じ) 「取舵」 (と〜りか〜じ) を発唱しながら横須賀に帰投した。

 海軍軍人となってこの時初めて船酔を体験したが、それが余りにも酷く、べろべろの状態となり、船酔の辛さをいやというほど知らされたのであった。


 特攻兵器の特別訓練は1か月足らずで仕上げなくてはならないため、昼夜を問わない猛訓練に入っていったのであった。 最初のうち艇の構造、エンジンの構造及び作動など基礎知識を教わり、その後、すぐ実物の艇による訓練へと移っていった。 緑色に塗られたマル四艇 (震洋) は、我々の間では 「雨がえる」 と綽名を付けた。

 前半、昼間の訓練が続いた。 高速になると艇の前半分以上が水面から浮き上がって、後に長くウェーキを残していく。 水面を滑べるように突っ走って行く。 乗り心地は満点であった。

 この艇はベニヤ板張りの船体、「トヨタ」 の自動車用エンジンであり、頭部に1トン近い炸薬を搭載装備する。 他には何一つとして敵に対する攻撃武器はなかった。 実際の戦闘では奇襲戦法を行ない、敵の艦船にこの艇を叩きつけるのである。

 訓練中の艇には、炸薬は積んでいない。 そのため前部が浮きあがり前方の見通しが悪くなる。 後部の操縦席からは、立ち上がらなければ前はよく見えなかった。

 そのため訓練中は2人で乗ることになった。 そして1人は前部のバラスト代りとして前部炸薬室の蓋の上に腹這いとなり、適当な時間になると2人は交替し操縦訓練を行なったのであった。

 高速の飛沫は、乗員はもちろんのこと艇の甲板も濡らして、そのうえ滑べる。 少し波が立ってくるとダダアダダアと波頭を切るようにして滑走する。 時折り起こる大きな波のときは跳び超える。 遠くで走る僚艇の姿は勇壮であり男性的であった。
(続く)

2010年10月03日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (12)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 今日も実艇による訓練、「エンジン快調」 隊列を組んで長浦港を出て行き、港外、横須賀防波堤付近で突撃訓練を繰り返した。

 ある時は、将旗のへんぽんと翻える巡洋艦「大淀」に向かって突入、敵艦を想定しての実物目標艦としては最適であった。 この時 「大淀」 は連合艦隊旗艦とのことであった。 「大淀」 の後甲板から将官らしき人がじっと我々の訓練を見ておられた。 その人こそ司令長官の豊田副武海軍大将であった。

 マル四艇は欠点があった。 高速で運転中、スロットルレバーを急速に低速とすると、次にまた高速で走ることができなかった。 それはエンジンが加熱して高温となり、海水を利用しての循環冷却水が蒸気となって、冷却水排出口から噴出する結果となり、艇はストップしてしまい、しばしば訓練中の僚艇から取り残されることがあった。

 1週間ぐらい経って、いよいよ部隊編成が行なわれることになった。 19期の私達から名前が呼ばれていった。  ところが20期の者はそれぞれ好きなところへ適当に付けといわれ、個人の自由意志による妙な部隊編成がなされたのである。 このことは、第12震洋隊を選んだ20期生は生死の運命の別れとなった。

 第12震洋隊は隊長未定のまま編成され、香西少尉 (宣良、海兵72期) が兼任された。

 昼間の訓練も10日あまりで終り、あとは夜間における訓練へと進んでいった。 夕暮の迫る頃、長浦の港内を出て行く、追浜海軍航空隊 (現在の日産自動車追浜工場のあるところ) の方向に夕焼富士がくっきりと空に浮かんで見える。 富士山は美しい。 富士山が遠景できるときは時化るという。 案の定、暗くなってくるに従って海上は少し荒れてきた。

 夜間の突入訓練の最中であった。 私と20期の秋田谷と二人で艇に乗っていた。 エンジンが急停止し、そのあと再びエンジンが掛らなくなってしまった。 先に説明したあれである。

 真っ暗な海の上、北風も大分強い、艇の甲板は滞れて滑べる。 そのうえ艇は油が飛散している。 動揺も大きくなってきた。 エンジン室の天蓋を外して私は上半身を頭からその中に突っ込み、

 「お前は外を響戒しろ。」

 と秋田谷に言った。

 「あいよ。」

 と返事が返る。 エンジンの焼けた臭いとビルジの臭いが鼻をつく、おまけに艇がひどく揺れる。

 「秋田谷、お前海に落ちるなよ。」

 「なに、落ちるもんですか。 どうですか、何か判りましたか。 エンジンはかかりそうですか。」

 私はエンジンを外から手探りで触ってみたが、とても熱い、手の触れることができる代物ではなかった。 暗いので昼間のようにはいかなかった。 動揺が激しくなって頭を下げ身体を曲げていることも楽ではない。 自分の足は舷外に出している。 ぴんと挙げた足を秋田谷が押えてくれていた。 波頭も砕けてきた。

 「大丈夫ですか、私が代って見ましょうか。」

 と彼が言ってくれた。 私には実のところこれ以上はどうすることも出来なかった。

 「お前、ちょっと見てくれるか。 俺にはさっぱり判らんわい。」

 と彼と交代したが、やはり駄目であった。 また彼と代わりエンジンのそこかしこを外方から調べていたところ、

 「何か判らないが白いものが見えますよ。」

 と秋田谷が言って私の尻を叩いた。 もう大分陸岸の方に流されているのは判っていた。

 「近くに係留ブイがあるから注意しろよ。」

 「秋田谷、ここから海水を汲んで入れてみようか。」

 と彼に言ったが、彼は一瞬怪訝そうな顔をした。 実際のところ、私にはこれ以上手がつけられなかった。 エンジンの講義中に居眠りをしていたことを悔いる結果となってしまった。

 冷却するために海水を汲み、早く冷やしてやればよいだろうと考えたからであった。 エンジン本体から垂直に立ったパイプが2本あったが、冷却水を迎え水するところのパイプがどちらであったか判らなかった。
(続く)

2010年10月04日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (13)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 秋田谷の言った、白いものが何ものであるか2人で見直して見た。 するとそれは海岸の石垣 (岸壁) であった。 まだ100メートル以上はあった。

 「このパイプの口が冷却水側だろ。」

 彼もはっきりそうだと言わない。 だがぐずぐずしておれない、私は意を決し自分の思った側のパイプに海水を汲んで入れることにした。

 彼の手袋を外させ、彼の両方の手でパイプのロにあたかも漏斗のようにさせ、私は艇の外舷に身を乗り出し、“垢汲み” で海水を汲んでその中に懸命に入れた。 小さなロからは思うように水は入らない。 岸壁との関係を気にしながらである。

 そうこうしているうち岸壁との距離が20メートル足らずとなった。 私は艇の中にいる彼にオールを探させ、手探りで捜し出したオールを私は手にしっかりと持ち、なるべく岸壁に寄せられないように漕いだ。 懸命の努力も自然の力に勝つことはできない。 彼も私に代ってオールを握る。

 「秋田谷、エンジンをかけてみろ。」

 岸壁はもうそこに来ている。 秋田谷は無言のうちにすぐエンジンスターターを引っ張った。 ウウウーン、クンタンクン ・・・・ としばらく音を立てて、セルモーターが回るが起動はしない。

 もう絶体絶命、岸壁を艇が擦ったりすればそれはベニヤ板、御陀仏になってしまい、海水温度を2人して計らなければならなかった (海軍では海へ落ちることを 「海水温度を計る」 と言った)。 2人とも航空機搭乗員用の救命ジャケットを着けているので溺れることはまずなかった。

 「秋田谷、お前も出てこい。」

 そして2人は両方の足を艇外に出し踏ん張って頑張った。 約20分ぐらいであろうか、もう無我夢中であった。

 「おーい、お前たちは何をしているんだ。」

 と懐中電灯で照らされたほうに顔を向けるだけ、野中と中村の乗った艇がすぐ近くに来ていた。 やっと救いの神子が来たわいな。

 私は1人で踏ん張っているから、すぐ秋田谷に自分の艇の頭の舫索を投げて渡し、曳航してもらうように言った。 素早い動作で舫がとられ、間もなく曳航されることになった。

 自艇スターンを当てないように一跳し、やっと岸壁から離れ、今までの死闘も束の間の幕となった。 それからは曳航されているのでもう呑気なものであった。 彼と2人で

 「今夜はえらい目に合ったなあ。」

 と大笑いをした。 息のつく間もないとは少し大袈裟だが、飛行服のポケットの中に入れておいた菓子のことはすっかり忘れていた。

 「おい、菓子でも食えや。」

 と暗いのを幸い、ポリポリと食べながら長浦港へと帰路についた。 僚艇も訓練が終りどんどん追越して行く。

 長浦港に停泊中の大小さまざまの潜水艦から、一斉に巡検ラッパが喨々な音色で響き渡って来る。 陸上の燈火が水面に映り、細長く一条、二条三条と、それがゆらりゆらりと動いている。 戦時の最中であるが長閑な軍港内の夜景であった。

 巡検とは海軍生活の1日の締めくくりであり、艦内等の点検を行なう。 私達は今まで厳格にこの巡検を1回も欠かさず受けてきたのである。 だが今このようにして海の上で艦艇や陸上部隊の各所から聞えてくるラッパの音を開きながら、第三者的存在の立場について味わう巡検の光景は格別なものであった。

 後日、故障艇のエンジンを整備員が分解検査をしたところ、潤滑油に大量の海水が混入していたことが発見されたとのことであり、誰かが海水を潤滑油注入口から入れたのだろうということになった。

 そんなに海水が入るわけがないと、そしてエンジンが赤く銹ていて、すんでのところ使いものにならなくなる寸前だったと、特別訓練中の搭乗員総員が整備担当准士官に大発破を食らった。

 その犯人は誰か、我が輩であった。 潤滑油注入口と冷却水注入口とが判らなかったとは ・・・・。
(続く)

2010年10月05日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (14)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 この特別訓練中、またこんなことがあった。 他の隊で起こったことである。 巡洋艦「大淀」に向かって突入訓練を行なっていたとき、ある艇があまり近くまで近づきすぎ、回頭する際バランス代りを努めていた者が回頭の煽りを食って海に投げ出され、その同僚を救助するという一幕もあったようである。

 振り落とされた者は艇の頭部にある舫索をしっかり握り最後まで放さなかったとのことであり、落ちた者の上を艇が通れば人身事故になるところであった。

 海上訓練中、時折り空襲に対する警戒警報が発せられた時もあった。 私達が突入訓練の目標として 「大淀」 を利用していた時、警報が出た。 「大淀」 の方では警戒配備に就き、艦橋付近には大分多くの人が現われ始めていた。

 ところが 「大淀」 の当直士官か副直士官かはっきりしなかったが、我々の方に向かって盛んに手を振っていた。 あっちに行けという感じであった。 しかし我々にあっては警戒警報も何のそのであった。

 とうとう腕にマークをつけた当直の士官がメガホンを持ち出し、堪りかねたのか 「あっちに行け、警戒警報発令中だぞ!」 と怒鳴られたこともあった。

 警戒警報が出てからこんなこともあった。 長浦から潜水艦 (呂号) が急拠出港してきた。 警戒のための分散避泊であろう。 緊急出港のため、長浦港の出口を過ぎる頃から相当スピードを出していた。 もうその時は 「大淀」 は出港していなかった。

 適当な突撃目標もなかったため、丁度良い目標が出て来てくれたわいと咄嗟に考えが浮んだ。 「よし、あいつだ」 とばかり潜水艦の方へ艇首を向け、相対的に良い状態になったとき突っ込め、とそんな荒計画を立て実行に移った。

 ぐんぐん相方は接近した。 潜水艦からは何の注意の喚起もなく進んでくる。 この場合は小型の船が避けることになっている。 潜水艦の右前方から突入訓練を開始した。 潜水艦まであと50メートル、「取舵一杯」、左に我が艇を緊急回頭した。

 ところが潜水艦から出てくるウェーキ、それが案外と大きい。 突然目の前にウェーキの山。 「あっ!」 と思わず声が出た。 このままでは潜水艦のウェーキと平行になり煽りを食って転覆する。

 速断速決、今度は面舵に転舵、ウェーキを間切ぎろうとした。 自分の艇もスピードがかなりあった。 ウェーキの山の向うは凄い谷。 「あっ、ウェーキが谷になっている」 一瞬困った、がもう遅い。 山のようなウェーキを跳び越すことにした。

 ウェーキの山に上がりフワーと艇が空を飛んだ。 その一瞬ズドン、べリッという音が一度に起こり、乗っていた者にはかなり物凄いショックを感じた。

 ベニヤだ、すぐ浸水してくるぞと予想した。 しかし何ともなく、浸水もなく心配はいらなかった。 案外強い船体であることを逆に驚かされた。 その時からベニヤだがこの船は相当の強度があるという自信を持っことになった。

 この時、艇には3人が同乗していた。 村岡と関根と私の3人はお互い顔を見合わせた。 ところが関根は軽いウインクをし、村岡は口をとんがらせ、お前相当無茶をやるなあと言わんばかりの表情をし、私はペロリと舌を出した。 操縦は私がしていたからである。 大事に至らなくてよかった。
(続く)

2010年10月06日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (15)

著 : 辰巳 保夫

 特攻兵器の猛訓練 (承前)

 9月下旬からはいよいよ本格的な夜間の襲撃訓練に入った。 日没ごろ訓練艇に乗り込む。 追浜沖のブイに係留停泊中の駆逐艦から上陸員がボートを漕いだり、内火艇に乗ってくるのにすれ違った。 我々は彼等とは逆にこれから沖に向かって夜間の訓練に出て行くのであった。

 この頃では、もう艇の操縦も心得たものとなり、エンジンが途中でストップするような無様なこともやらなくなった。 4つの部隊が同一の訓練艇を時間制で使用した。
 もう特別訓練の日も残り少なくなった頃、やたらと支給品の配給があった。 それも予科練時代いろいろと恩きせがましく、しかも少ない給金で買って食ったのと全く違う、全部無料支給であった。 菓子あり飲みもの缶詰ありで、ありがたく頂いた。 量もあり、頂くのはいつも決まって夕食後であった。

 夕食後はすぐ訓練準備にかかり、ゆっくり菓子類を食べる暇もなかった。 とかなんとかいって、ついつい救命ジャケットの内側に入れて訓練に出かけることがあった。 帰路の途中、もぐもぐという塩梅だ。

 といっても訓練中は絶対食いながらということをしなかったことをお断りしておく。 軍紀厳正、いやしくも死をかける訓練の最中で菓子をむしゃむしゃ食いながらやるとはなんたることだ! 副長にでも知れたらそれこそ大目玉が飛び出すのではなかっただろうか。 反省するというか、そんなことでは駄目だぞと自分で自分を叱ってはいた。

 訓練を終えて帰ってくる時の夜景を眺めながら、甘いものでも食うのはちょっと乙なものであった。 これは皆が皆、そうではなかったので誤解されないように。 私なんぞは魂の抜けたところがあったのかも知れない。

 西に日が沈む、東京湾に出て富士山を見るのが楽しみであった。 夕焼富士、それが秋は異様に赤くまた紫に変ってゆく、北斉の画いた絵のように。 だがやはり実物は何よりも美しい。 何回見ても見惚れる姿であった。
(続く)

2010年10月07日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (16)

著 : 辰巳 保夫

 横須賀での外出

 日曜日に外出が許された。 久し振りであったためか、心の中は日頃になくそわそわしていた。 特別訓練中に日曜の数が何回かはあったが、今はこの時のことだけしかよく覚えていない。 他の日曜には外出しなかったようである。

 19期は九州、四国、近畿地方および中部地方 (石川県の付近) の出身者であったため関東地方の地理には疎く、また横須賀の町についてはほとんど知らなかった。 とにかく19期は揃って、東郷元帥のご遺徳を偲ぶためもあり、まず軍艦 「三笠」 を見学することにした。

 艦内には数多くの陳列品があり、日本海海戦における日本海軍の奮闘の勇姿を目の当たりに見ているようであった。 私自身は特に旅順港閉塞隊の当時の様子、並びに広瀬中佐のことなどを前々から知っておきたかった。 三笠の最後部にあった長官室などは見事なものであった。 この日の午前中は艦内の見学で大半の時間を過したようであった。

 引率しての外出は1回もなかった。 それでもあれば、この時繁華街の方に行ったであろうが、三笠からストレート、横須賀海軍下士官集会所 (現在のEMクラブ) (現在の横須賀芸術劇場や旧プリンスホテルがある 「横須賀ベイスクエア」 の所にあった) に足の先が向いてしまった。

 まだ皆は酒も飲まず、そして女遊びをする年ではなかった。 むしろ食い気一方である。 私は海軍時代月の手当をいくらぐらい貰ったのかあまり記憶がない。 2等飛行兵 (入隊してすぐの頃) 当時は1円2、30銭ぐらいではなかったろうか。 田浦に来てからの手当もおいておやである。 案外呑気なものだったのであろう。 何しろ三重空時代とは違い大分多く貰ったことは事実である。

 集会所の2階では催し物をやっていたようであり、舞台衣裳を着たおばはん連が何かと忙しそうな足どりで廊下を往き来していたのを覚えている。 別に大劇場の劇など見る気はしなかった。

 それよりも何か食べるべえと皆で1階にある兵隊さん用の食堂に行った。 まだ食べ物は売ってなく、料金前払い制、12時15分から販売すると書いた半紙大の紙が貼りつけてあり、調理室の壁、いわゆる料金払い口のすぐ上に、“鉄火丼” とあと一つ何か変った名の2品しかなかった。

 「“てつびどんぶり” とはなんかいね。」

 と私は側にいた九州育ちに尋ねた。 するとどちらも首を横に振った。 後にいたのが 「ワッハハハハッ」 と笑って 「鉄火とはマグロたいね」 と教えてくれた。 「マグロか」  私は鉄火丼に決めた。 変った名のはあまり食べんことにしていた。 食って 「うへえ!」 では・・・・。

 まだ販売時間まで間がある。 列に並んで順番を待たなければならなかった。 ちょっと下士官専用の食堂をのぞきに行ったりした。 下士官の方では燗壜 (かんびん) を並べ、猪口でちびりちびりやっている下士官連がいた。

 もうその頃、私達は正規の軍服 (7つ釦) は返納して第3種軍装 (国防色の木綿服) だけであった。 階級は飛行兵長であり、20期は上等飛行兵であった。

 列に並んで販売時間を待っているとなかなかおもしろい。 並んでいる列に平気で割り込むのが現れる。 それも販売時間になるとやたら多くなってくる。 不法侵入である。

 海軍では古参がやたらと幅を効かす風習があった。 1日でも先に入隊したとか、同じ階級であれば1日でも早く進級した者が俗に先任者である。 先任者に対し後任者は敬礼はもちろんのこと、彼等の命令には絶対服従しなければならなかった。 不服なことがあり、口答えなどしたときにはびんたが飛んできた。

 この時の不法侵入者がこの古参連中なのである。
(続く)

2010年10月08日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (17)

著 : 辰巳 保夫

 横須賀での外出 (承前)

 ここは兵専用の食堂であり、ここで1番の先任は兵長の階級をつけた者であった。 海軍ではよくいうが 「牛の糞にも段々」 と ・・・・。 これら先任者たちの振舞には少なからず私たちは頭にきていた。 販売時間が来ても列があまり進まない。 それもそのはず、割り込者がいるからである。 1等兵や我々の前に彼等はふてぶてしい態度で割り込む。

 「いっちよ、やったろか。」

 20期の一ノ瀬と今井が後を振り向き目くぼせをした。 私達の一番先に並んでいたのが中山と細田で、2人は顔も凄みみがあった。

 「よし、ハエを追っ払うか。」

 と一ノ瀬と今井の間に割り込んだ海軍水兵長を引っ張り出した。 中山が切り出した。 少し顔をしかめて凄みをつけ、

 「おい、お前たちは何んじゃあ! 人が黙っていると思って。」
 「なんでそこに入るんだ。」
 「皆でこうして早くから列を作って並んでいるんだぞ。」
 「いい加減にしろ。」
 「食べたいのはみな同じだ、兵長といって大きな顔をするな! 俺たちは9月1日に3等兵曹になっているけれど、この前ボカチンを食って階級章がないんだ。 しかたがないからここで並んでいるんだ。 すぐ戦地に行くんだ。 後について並んで食ったらどうだ!」

 と一喝、そのあとに続いて

 「甘い顔をするな。」

 とつけ加えた。 (ボカチンとは雷撃を受けて撃沈されたこと。) 芝居を打ったのである。 古参の兵長達は、ぎょろりとした目でこちらを見た。 “鳩が豆鉄砲を食らった顔” とはこんな感じの顔だろう。

 「皆も俺達も近いうちに死ぬんだ、殺生なことをするな。」
 「皆長いこと待っていたんだ。 列もそんなに長くはないし、後へつけ!」

 こちらも少々むかっ腹も立っていたし、その上腹も減っているやらで、元気をつけてしゃべったので連中もぎくりとしたらしくよく通じた。

 「ちぇ−!」 と言ったのもいたが、しぶしぶと5、6名の兵長が列の後についた。 だが一人だけはすでに丼を手にしていた。 列に並んでいた後任になる連中は、おおやってくれたぜというような顔をしていた。 それからの列の進行はスムーズに運んでいった。

 私達もそれぞれの手に二つのうちの一つを持って、一つのテーブルに集まって食べた。 私は鉄火丼を初めて食った。 その時のマグロ丼の旨かったこと。 未だにその時の味が忘れられない。

 当時品物不足が現われ始めていた頃でもあったが、海軍御用の業者によって売られていたようであった。 ご飯の上にぺロッと大きな1枚のマグロの切り身が乗っていた。 値段の割には旨く、若い私達ですら、量も腹九分といったところであった。
(続く)

2010年10月09日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (18)

著 : 辰巳 保夫

 横須賀での外出 (承前)

 この日の外出時間の門限いわゆる帰隊時刻は夕食時までであった。 横須賀は軍港であり軍都であった。 したがって海軍さんが一杯でうようよしていた。 それに兵曹、士官がまるで多い。 だから敬礼また敬礼でひどい時には30メートルぐらい手を挙げっぱなしということもあって、青春を謳歌するとか腹一杯清浄な空気を吸って英気を養うということはほど遠い感じがした。

 当時の軍港の風景などは、高塀で囲まれており外部から軍港の施設の見えるところは鎮守府の正門 (現在の米海軍基地のゲート) から菊の御紋のついた鎮守府の庁舎とその森とガントリークレーンだけであった。

 正午過ぎからはどこをどううろついたか覚えない。 あと外出時間も2時間あまりとなり、横須賀駅から一駅区間ではあるが田浦に向かった。 当時は国鉄の電車を利用するのが一番便利でありこれを利用した。

 田浦駅で降車し海側の道を行けばすぐ水雷学校の正門に出るが、山側の道を歩いてみようということになった。 横須賀−田浦間の道路は約5か所のトンネルがある。 毎朝足を強くするためこの道路を駈足した。 当時は走る自動車も少なく、特に早朝はほとんど走ってなく静かなところであった。

 一つトンネルを潜ると、そこに田浦下士官集会所(現在社会館のあるところ)があり、ここを覗いてみようということになった。

 建物は横須賀のそれとは比較にならないほど小さなものであったが、その中にはかなりの兵隊さんがいた。 食堂でおいしそうなカレーライスを売っていた。 見たら食わずにおれなくなった。

 若いんだなあ、カレーライスをペロリと平らげ外に出ようとしたとき、何の為に列を作っているの判らない列が目に入った。 並んでいる兵隊になんとはなしに尋ねてみると、菓子を間もなく売り出すということであった。 その答の終るか終らないうちに販売が始まった。

 ところが、ここでは兵曹が大威張りで、皆の並んだ列に割り込んでいる。 醜い姿であった。 日本海軍の一番悪い点であった。 私はこの醜い姿に対してはすごく抵抗を感じたが、当時はどうにもならないことであった。

 兵隊は早くから列を作り順番を待っていたのだから、中には不満を口に出すのは当然のことであろう。 私が見ていたときにやはり下士官に向かって不満の何やらを言った兵がいた。 ところがその下士官は兵の軍帽をパッと取って列と反対方向へポーンと投げやった。

 何という光景であろう。 嫌やだ嫌やだこんなことを今更見たくなかったのですぐ外に出た。 私はこういう下士官の行為に対しては反感を抱かざるを得なかった。 優悦感からの行為であろうか。 先任者として当然行なえる行為であると思っていたのであろうか。

 上級者になれば下級者に絶対的服従を教えたことは軍人として当然と考えられるが、それが逸脱して下級者を圧服せしめるような行為となってそれが日常の生活の中に表われ、一般社会に出てまでも傲慢な振舞をしていたのである。 自分だけはどうしてもそんな海軍軍人になりたくなかった。

 予科練での生活の中でも班長であった下士官の中にこのような人がいた。 自分達に与えられた特権だとして、また自分達もこのようにして教育を受けたので暴行を下級者に施など賢い者のすることではない。

 一部の中堅下士官のこのような横暴な態度は、兵を教育する者としての資質に欠ける行動ではなかっただろうか。
(続く)

2010年10月10日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (19)

著 : 辰巳 保夫

 「震洋」の建造と要員の状況

 「震洋」の建造と要員の教育訓練はいちおう順調に進んだ。 「震洋」 の建造は予定計画数を下回るがかなりの成績であった。 要員の状況は8月16日最初の50名が卒業、8月末に200名(これが我々であった)。 その後月400名が見込まれた。 大森中将は

 「一番心配したのは特攻兵器を整備しても、決死の志願者があるかどうかということであった。 ところが、募集してみると下士官や練習生に志願者が多かったので安心した。」

 と語ったということである。


 特攻兵器「震洋」の戦法

 当時考えられていた震洋隊の基本戦法は、敵の予想上陸正面に近い海岸に発進基地をつくり、艇を洞穴に入れるか樹木で隠しておき、敵船団が入泊すれば夜間に持ち出して浮かべ、隊長のあとに50隻の震洋艇が編隊で続行して敵に肉迫し、最後は高速で突撃に転じ衝撃するものであった。 ただし、震洋隊の使用にはかなりの困難性を伴った。

 発進基地を適確に選定して準備するのに、まず、確率上大きな危険があった。 また 「震洋」 はベニヤ板製であるため耐波性がなく、荒天時の航行が困難であり、かつガソリンエンジン使用のため、敵火力により容易に炎上する弱点があった。 夜間航行が原則であり、これには高度の能力と熟練を要したのである。

 海軍中央部は、「回天」 と同様、「震洋」 においても最後の段階 (敵艦船への突入寸前) で乗員の脱出を強く望んでいた。 8月16日、中央で特攻兵器の用法について全般方針を検討した際、草鹿連合艦隊参謀長は、必死の戦であるので成果のあがる兵器を持たせてやりたいと述べ、「一割生還ノ方途ヲ考へテモライタイ」 と述べたということである。 また、井上海軍次官は、捨て身の戦法の有益なことを認めつつも、「脱出装置」 の準備について発言する一場面もあった。

 だが、海軍中央部は脱出については特別の準備をすることもなく 「震洋」 の建造を進めた。海軍省では、「震洋」 を艦艇としてではなく、兵器として取り扱った。 したがって、震洋隊の編成が可能となったとき、その展開は海軍部の編成によることなく、海軍大臣が 「震洋」 を所定の部隊に供給する形式となったのである。


 水上特攻部隊の編成と展開

 海軍中央部は、予定していた 「震洋」 の衝撃効果実験を結局は実施せずに終った。 軍務担当者はそれは 「装置が簡明」 なため、必ずしも実験を行なう必要を認めなかったという。

 時に、大本営海軍部は捷号作戦に間に合わせるよう、震洋隊の編成と展開を急ぐことになった。
(続く)

2010年10月11日

回想録 『第12震洋隊物語』 − (20)

著 : 辰巳 保夫

 水上特攻部隊の編成と展開 (承前)

 震洋艇の運用については捷号作戦の性質上から海軍部と陸軍部とは密接に協調すべきであった。 それは陸軍側においても、「震洋」 と同種の特攻艇 「〇れ」 を大量に建造し訓練に入っていた。

 陸海軍部は、この種特攻艇を総称して 「〇八」 と略称し、その展開、指揮系統及びその他について協定を結んだ。 その協定は次のとおりであった。


運用に関する中央協定

昭和19年8月8日 
大本営陸軍部 
大本営海軍部 


  第1 運用方針

1 敵ノ来攻ニ対シ敵輸送船団等ヲ主トシテ泊地ニ於テ捕捉撃滅シ、敵ノ上陸企図ヲ撃砕シ戦局ノ転換ヲ策ス
之ガ為敵来攻ノ算大ナル方面ヨリ逐次8、9、10月頃ヲ目途ニ諸準備ヲ完整ス

2 使用方面、時機ニ関シテハ奇襲的使用ト大量集中使用トニ依り、敵ニ震憾的打撃ヲ与フルヲ主眼トシ両軍緊密ナル連絡協調ノ下之ヲノム


  第2 運用要領

1 展 開
  附表及附図ノ如ク予定ス (略)
  但シ資材整備ノ状況、情勢ノ推移ニヨル本予定ヲ変更スルコトアリ
2 輸 送

  両軍ノ積極的協カニ依り展開ノ迅速確実ヲ図ルヲ主眼トシ、細目ニ関シテハ別途協議ス

3 両軍ノ関係

(1) 同一方面所在ノ陸海軍〇八並ニ魚雷艇隊運用ニ関シテハ、其ノ総合成果ヲ最大ナラシムル如ク之ヲ協同統制シ、特ニ基地設定、訓練、運用ニ於テ彼我緊密二提携シ長短相補フ如ク相互積極的ニ支援ス

(2) 両軍〇八ノ指揮協定関係ヲ定ムルコト次ノ如シ
 (イ) 小笠原方面
     陸軍〇れヲ父島方面特別根拠地隊司令官ノ指揮下ニ入ラシム
 (ロ) 北東方面

    〇れ魚雷艇隊ノ運用ニ関シ第27軍司令官、北東方面艦隊司令長官間ニ於テ相互協定ス

 (ハ) 南西諸島方面

    第32軍司令官、沖縄方面根拠地隊司令官間ニ於テ相互協定ノ上、各島嶼ニ於ケル指揮関係ヲ定ム

 (ニ) 台 湾

    台湾軍司令官、高雄警備府司令官間ニ於テ相互協定ノ上、指揮関係ヲ定ム

 (ホ) 比 島

    第14方面軍司令官、第3商連艦隊司令官間ニ於テ相互協定ノ上、指揮関係ヲ定ム

4 所在魚雷艇隊ハ〇八卜協同作戦ス、嚮導任務ニ服スル魚雷艇ハ当該〇八指揮官ノ指揮下ニ入ルモノトス


  第3 企図秘匿

1 陸軍〇れ艇、海軍〇四艇ヲ総合シ〇八ト略称シ、〇八ニ依ル兵力、戦法ヲ 「震天」 ト呼称ス

2 訓練、輸送、基地設定、展開ニ於テハ一般住民、敵潜空ノ偵察ニ対シ厳ニ企図ヲ秘匿ス

3 展開遅延其ノ他ノ事情ニ依り所定ノ兵力ヲ展開シ得サル為確実ナル効果ヲ期待シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ、其ノ方面ニ於ケル本兵力ノ使用ヲ取止ム

  之力為国軍全般トシテ初回ノ使用ヲ予想セラルル方面ニ対シテハ、之力使用開始ニ関シ大本営ヨリ事前ニ明示スルヲ本則トス




 このように協定され、関係指揮官に指示した。 大本営では大量の兵力を極秘裡に敵上陸予想地点に集中し、敵の意表をついて敵上陸兵団をその泊地、輸送船上に撃滅しようとしたわけである。 兵力の使用については、現地部隊指揮官は大本営の許可が必要であった。
(続く)