朝5時〜6時ごろ宿を出発し夜8時〜8時半ごろに戻る毎日でした。 それでも雨に祟られたり、仕事の段取りのためがあったりで、不規則ながらもお休みの日がありましたので、それらを利用して散策した金沢市内をご紹介したいと思います。
ところでその金沢ですが、私にとっては大変に懐かしいところでもあります。
と言いますのも、中学生時代の3年間、ここ金沢市内に住んだことがありまして、今では 「21世紀美術館」 となっている場所にありました中学校に、これも今は無き路面電車で通学していたからです。
多感な時期を過ごしたこともあって、今回の滞在で約半世紀の間の古都金沢の変貌振りを目にし、またその一方では昔の姿のものも数多く残っていることを見まして、若かりし頃の思い出に耽ることができました。
私が住んでおりました頃の金沢市の中心部と、現在の様子です。
( 昭和37年の国土地理院空中写真より )
中央が当時の県庁地区、その北側が金沢城趾、東側が兼六園とそれに続く本多の森、県庁の南側がかつての 「金沢大学教育学部附属中学校」、広坂通り (現百万石通り) 西側に香林坊交差点があります。
( Google Earth より )
当時、私にとっては重大な懸案事項がありました。 それは、当時の中学男子は黒の詰め襟学生服でこれはまあ良いとしても、金沢の市立中学は全て坊主頭、白ズックの肩掛け鞄、白の運動靴、筆記具は鉛筆のみ。 もちろん腕時計など論外。
小学校6年の2学期に東京から転校したての私にとって、これは耐え難いものでした。
そこで色々調べたところ、金大附属中学だけは長髪、革鞄、革靴に加え、万年筆や腕時計などもOKということが判りました。 早速、翌日から分厚い全国有名中学入試問題集が新たな友となりました。 勉強嫌いの私にとって受験勉強はたったこれ1冊が全てでしたが、それでも何とか合格。
でも、まあ何と言いますか、考えてみれば結構いい加減な受験の動機ではあったわけで ・・・・ (^_^;
( 同附属中学は現在では正式名称が 「金沢大学人間社会学域学校教育学類附属中学校」 という大変に長いというか、私に言わせればバカバカしい名前に変わってしまっています。 日本の大学教育がおかしくなった現れの一つです。 )
( 当時の校門付近 )
( 教室棟と体育館、奥は兼六園の林 )
金大附属中学は1学年4クラス。 定員の半分は附属小学校からの持ち上がり組み、残り半分が受験組で、これらの混成のクラス編制。 自由闊達な校風の大変に良い学校でした。 級友もガリ勉屋などはほとんどおらず、いつも連れ立っては遊び歩いていた思い出ばかりです。
( 昭和45年、防大夏季定期訓練移動時の輸送機上より )
同校は平成7年に附属高校がある平和町に移転し、この跡地には平成16年に現在の 「21世紀美術館」 が建てられました。
( 元の校門付近から見たところ )
同地には今では当時の附属中学を偲ばせるものは全くありませんで、敷地の片隅に記念碑が一つポツンとあるだけです。
そう言えば、当時丁度梶光夫の歌う 『青春の城下町』 (作詞:西沢 爽、作曲:遠藤 実) が大ヒットしまして、私の好きな歌の一つとなり、いつも口ずさんでいたものでした。
流れる雲よ 城山 (しろやま) に
のぼれば見える 君の家
灯りが窓に ともるまで
見つめていたっけ 逢いたくて
ああ青春の 思い出は
わがふるさと 城下町
( 金沢城趾の本丸跡の一角から昔の校舎方向を見る )
もちろん城趾に登っても彼女の家が見えるわけはなかったのですが、それはそこ、ロマンチストな青年だったということで (^_^;
我が家は寺町1丁目にあった一戸建てを借り上げた社宅でした。 どうなったか知りたくて散策がてら見に行ってきましたが ・・・・ 周りの町内の様子はかなり変わってしまっていますが、まだありました! 当時でも既に相当古いものでしたが、相応のリフォームされてはいるものの現在でも未だに健在です。
( 左 : 現在の状況 右 : 昭和45年旅行途中時のもの )
東京から金沢へ移った早々の冬、市内でも積雪1mを遥かに超えて (最深181cm) 史上1位となった 「38年豪雪」 での町内挙げての雪かきと共に懐かしい思い出です。
(吹雪が収まれば毎日放課後はスキーを担いで近くのスキー場へ)
金沢の路面電車は昭和42年には全面廃止されてしまいました。 毎日の通学や休日のお出かけなどで、常に手軽な足として利用していましたので、非常に思い出深いものがあるのですが、残念ながら我が家の古いアルバムにはこの路面電車が写ったものが一枚もありません。
替わりと言ってはなんですが、「はーさんの鉄道・旅・よしなし草」 という素晴らしいサイトで紹介されておりますのでご参照下さい。