2009年12月16日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その26

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (16)

   その7 漂 流 (承前)

 少し落ち着いてきた頃、仰向けのままで空を見た。 空はただ青く生物は何もいなかった。 雲一つなく、星が見えた。 太陽は私を照らしているのではないように思った。

 暫く経ってから、国分飛曹長の声が聞こえた。

 「隊長、大丈夫ですか・・・・」

 弱々しい声であった。 私は、周囲の海面を恐る恐る見回してから、国分飛曹長の傍へ泳ぎ寄った。

 血がひどく流れていたのでびっくりして調べてみると、右上膊部が弾丸で切り割かれ、ギリギリ巻いたマフラーから滲み出る血が、ちぎれた毛糸の尖端のように海水に溶けて散っていた。

 もっとひどかったのは、着水のショックで彼の座席の後方に立ててあった旋回銃の銃身が倒れ、長さ10糎もある照星が首の後部に突き刺さったのである。 その傷は腕よりもひどいようであった。

 彼の顔面は既に蒼白となり、親に叱られて泣き出す前の幼児のような悲しさと淋しさを湛えた目であった。 このままで数刻の内に彼は死ぬだろう。 助けてやらねばならなかった。

 先ず、彼の首の手当にかかったが、首は強く縛ることができないし、マフラーと飛行服の端布では処置に窮したので、私の救命袗を折りたたんで、彼の首の傷口に当てて枕にし、引き割いたマフラーで、それを彼の頭と顔に固縛した。

 私は浮き身術を心得ていたし、14時間遠泳の体験もあったので、救命袗は要らないのだ。 上膊部の傷は腕の付け根を強く縛って止血し、骨の見える上膊部を飛行服で巻いた。

 彼は手当の途中で、「隊長! 殺して下さい」 とせがんだ。

 彼は着水した時、拳銃と日本刀 (小刀) を座席に置いて偵察バッグだけを持って脱出したのであったが、拳銃を持っていたら、恐らく自分の頭を射ち抜いていたであろう。 偵察バッグを最後まで手放さなかったことは、偵察員として見上げたものだし、拳銃を座席に忘れてきたことも怪我の功名であった。

 「隊長、私を射ち殺して下さい。 どうせ死ぬんですから早く射って下さい。」

 と、その後も繰り返しせがんだが、私は黙って彼の傷口をもう一度改め、救命袗と傷口の間にマフラーを締め直し海水が直接傷口を洗わないようにして、彼から4、5米離れた。 そして、殺してくれと言っても取り合わなかった。

 彼の傷の手当で一時間ばかりかかった。 太陽は直上にあった。 国分はもう殺してくれとは言わなくなった。

 余談になるが、後年彼が横須賀で結婚披露をやった時、私は招かれて、彼と彼の家族達と一緒に飲んだ。 その時、

 「私に射殺されていたら、今、君は大酒は飲めない筈だ。 せめて今日からは節酒すると約束しろ。」

 と言って、この時の話をした。 彼のお袋さんがとても喜んでくれたが、彼はその後も大酒を止めないので、叱りつけると、

 「殺されたつもりで飲んでいます。」

 と答えた。 愉快な奴だが、大酒はいくら注意しても直らなかった。 しかし、仕事に関する限り、責任感が強く、極めて几帳面な男であった。

 今、生死の竿頭にあって、母親の看護でも夢に見ているのであろう。 泣いているようであった。
(続く)

2009年12月17日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その27

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (17)

   その7 漂 流 (承前)

 その頃、沛然としてスコールが来襲した。 風を伴った凄い雨であった。 私は国分の傍に泳ぎ寄った。 二人は疲労の極であったが、天与の水を飛行帽に受けて、心ゆくまで飲んだ。

 海面は泡立ち、突風によって横なぐりにしぶきが飛び、視界は2、3米になったが、離れないように注意しあった。

 水を飲んで少し、元気を回復した。顔に当る雨水も気持がよかったが、灼熱の太陽がその間だけ天空から消えたのもありがたいことであった。

 それよりも、この時私は声を出すことができたのだ。 喉に詰っていた柔らかい塊を、天与の水と一緒に飲み込んでしまったからだろう。

 このスコールは、私達の生きようとする気力を蘇らせてくれた。 それは、二人の人間を、海上漂流という生き方の中に安定させたということだ。 人間をその場の環境に最も早く順応させるものは真水であった。 真水とはそんな力を持っているものであった。

 その頃から、私の頭の中には、いろんなことが去来し始めた。

 死に対する恐怖、焦燥、絶望の苦しみを断ち切るために、自殺することはどうであろうか。 どうせ死ぬなら、一寸刻み五分刻みになって魚腹を肥やすより、今直ぐ死ぬ方が楽だ。 国分もそれを望んでいるではないか! そして、どうしようかと迷うこと自体が面倒くさくなって、拳銃の銃口をじっと見つめたりした。

 しかし一方では、二人の周囲には二人を殺すものは沢山いるではないか。 目前に浮かぶかも知れない敵潜水艦も、鱶も、食物を与えてくれない神の意志も、嵐も灼燃の太陽も、あらゆるものが私を抹殺するために存在している。 そ奴等に委せておけばいいではないか。

 この二つの気持が激しく葛藤し始めた。 そこには、二つの選択があった。 「直ちに」 と 「やがてそのうちに」 ということ、「自ら」 と 「外敵によって」 ということ、「苦しさを消す」 と 「それに耐える」 ということ、「考える」 と 「面倒くさい」 ということの選択であった。

 私は常日頃、自殺ということについては 「今生きている」 ということは、「今自殺するという生き方」 よりも正しいと思っていた。 これは、軍人の死の哲学としても正しいと思っていたのだ。 しかし、極めて幼稚な二つの選択を迫られて、この哲学は空しいものであった。

 そして、改めて簡単率直に割り切って決心した。 それは、「生きるということを死と対置して考えまい」 ということであった。 それによって生か死かの選択を否定しようと思ったのだ。 これが二つの選択に対する解答であった。

 その後は空気を肺に一杯吸い込んで、その内の20パーセントから30パーセントで浅く呼吸しながら仰向けになった。 全身の力を抜くと、ちょうど耳の穴まで水に浸って浮力が安定し、下半身が約30度の角度で水中に垂れた。 (腹式呼吸を特に鍛練すると、もっと水平になる。)

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( 原著より  海軍兵学校における浮き身の演練 )

 右脇腹の傷が、改めてズキンズキンと痛んだが、どうしようもないので我慢することにした。

 いつの間にか眠った。 時々空気を吐き過ぎて、顔に水をかぶり、目が醒めた。 私は子供の時からよく眠った。 大きくなってからも、厳しく思いつめた後は必ず眠るという習性があった。 海の上でもそのとおりによく眠った。 このまま死ぬかも知れないという心配よりも、眠るという習性の方が強かったのであろう。

 目を醒ました時は太陽が西に傾いていた。 私の頭脳はまだはっきりしていたが、体力が衰えているのが解った。 出血の故であったと思う。

 夕刻頃、再び激しいスコールがあった。 今度は寒さと空腹を覚えた。 体も心も、静かに澄み渡るようであった。 どのようにして、生命を終えるのであろうか。 鱶か、空腹か、嵐か、出血か、それとも不帰の睡眠か。

 何れにしても、私がここで、どんな死に方をしようと、誰も知らないし、知ってもらおうとも思わない。 戦争はこのまま続き、地球上の営みは、私に関係なく、時間の経過とともに動いていくだろう。

 この時間の流れの中で、一人で死んでいくのだ。 これは、生まれた時から決まっていたのだ。 父母、兄弟、妻子も、上官も同僚も部下も、皆それぞれが、ただ一人で生きてきて、一人で死んでいくのだ。

 孤独とは、そういうことだった。 それは死よりもきびしい寂しさであった。 寂然として心の凍る思いだった。
(続く)

2009年12月18日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その28

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (18)

   その7 漂 流 (承前)

 やがて夕暮が近づいた。 キラキラ輝いていた海面は灰色に変り、肢体に触れる海水が願色に変っていった。 うねりのリズムの中でく眠るでもなく、醒めるでもなく漂った。 この時は、幻覚と知覚とが交錯していたのであろう。

 その頃、国分飛曹長が、

 「隊長! 鱶です! 鱶の大群です。」

 と叫んだ。 その声で幻覚が消えた。 鱶は群棲しない、大群で行動することはないと思ったが、大群と聞くと無気味であった。 私は戦おうと思った。

 彼の指す方向の、うねりの山の中腹に、白く大きい魚の腹が見えた。 それは、私達がうねりの谷間に落ちる毎に見えた。 時々燐光のようにキラリと光った。

 私は急いで褌を解き、国分の腰に結びつけていた偵察バッグから航法目標弾 (銀粉袋) を取り出して褌の端に結びつけ、その重さで水中に長く垂らした。 その時、一つの袋が破れ、銀粉が海面に拡がった。

 国分も、「隊長! 褌を解きますっ!」 と言ったが、重傷の彼に褌が解けるとは思わなかった。 しかし、手伝ってやる暇はなかった。

 この銀粉はきっと鱶を恐がらせるだろうと思ったので、もう一個の袋を開けて海面に撒くと、銀粉は非常な速さで海面に拡がった。

 その銀粉の上に私は両脚を伸ばして、足を国分の両手で握らせ、となめした蜻蛉のような形になった。 左手に拳銃を持って一杯伸ばし、右手で海面を叩いた。 鱶が私達を見たら、きっと大きい動物のように見えるだろうと思った。

 しかし、薄暮は急速に夜に変り、拡がった銀粉の下は全くの暗黒となり、何も見えなくなった。 うねりの中腹に見えた、大魚は鱶であったか海豚であったか解らなかった。

 五分ばかりその姿勢で浮かんでいたが、疲れたので止めた。 鱶に食われて、これ以上出血すれば死ぬだろうが、それは食われた時のこと。 鱶であろうと何であろうと、戦って負けたら死ぬまでだ。 そして、

 「なる通りになれ」

 と思った。 この気持が、鱶よりも恐ろしいことだとはその時考えなかった。


 余談になって恐縮であるが、この時解いた 「褌」 について紹介させてもらおう。

 この時の私の褌は、日本古来の泳法、水夫流の締め方で、海軍兵学校が、徳川時代から伝承したものであった。

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( 原著より )

 褌は長さ六尺というが、私は身長曲尺で五尺七寸であるから鯨尺で五尺七寸の褌を使っていた。 巾は股間のものを十分包み得ればよく、布地は厚いものがよい。

 この結び方は、水中の活動が自由で、絶対に解けない。 但し、方法によっては簡単に解けて、他の目的に流用できる。 暗夜でも5秒以内で解いたり結んだりできるのが船乗りの躾とされていた。

 これに比べて、ナプキンに細紐をつけたような略式の褌は、駈足の時、外れてズボンの下から垂れ下がるし、洗濯の乾場に困る。 このタイプは目下米海軍で3H (Hang the Husband's Husband) と称して流行しているそうであるが、本来これは褌の異端者であって本筋はあくまで六尺だ。

 六尺は、大化の改新後、税制が確立されて麻布 (栲 (たえ) ) が物納される頃から存在した1300年末の日本の歴史的遺産である。

 昭和時代になって、パンツがこれに代ったが、パンツと称するものは、緊褌一番、水上であれ水中であれ、戦わねばならない時には役に立たない。

 日本海海戦の時、秋山参謀が軍服の制服のズボンの上に六尺を締めて、「皇国の興廃この一戦にあり」 の名句を起案したのはその好例であろう。
(続く)

2009年12月19日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その29

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (19)

   その7 漂 流 (承前)

 やがて夜が訪れた。 星はキラキラ輝いていたが、小波のない海面は暗かった。 時々小魚が跳ねた時だけ小波に星の光が反射して、キラリと光った。

 うねりのままに漂いながら、夢か現か解らない漠たる中で、静かで強い、柔らかで重い圧力が私を締めつけ始めた。 それは、私の生命の源泉を押し潰そうとする悪魔の力のように思えた。

 この力からはもう逃れられそうになかったが、私は

 「俺はお前に殺されるわけはない。 俺は俺の力だけで生きてきたのだ。 お前とは関係はないっ! それでも、お前は俺を殺す気か。 お前は誰だ。 お前は何ものだっ。」

 と、最後の抵抗をした。 この抵抗は遊離しようとする魂と、それを防ごうとする本能との戦いであったと言えるだろう。

 例えば、奈良朝の初期まで、日本人は、死者を直ちに埋葬しないで、精霊の復元を願って、もがりして精霊と死霊との抗争と安定の期間を置いたが、私の抵抗はこのもがりの由来を肯定するものと言えるのではあるまいか?

 それはともかく、この抵抗の果てに、私は疲れて果てて昏睡状態に入ったようであった。


 ところで、昏睡というのは医学的にはどんな状態を言うのであろうか?

 これについて今でも不思議に思っていることが二つある。 それは、この時の昏睡の中で楽しい夢と幻想が去来したということ。 もう一つは断片的ではあったが、夢や幻想の中味が理論的で相当緻密な推理力と判断力を伴っていたということだ。

 その実態を2、3紹介しよう。

 中学3年の時、私はサッカーの選手になった。 4年の時キャプテンになって、四国大会で優勝した。 兵学校の時には、クラスチームの主将となり、上級生、下級生と20数回戦って無敗であった。 海軍中尉の時、旧制広島高校の公式試合に、制服のままで主審をやったり、海軍大尉の時、操縦練習生チームを率いて、幾度か土浦の予科練習生と試合をやったりした。

 この体験が幻想か夢の中に現われて、左ウィングからセンタリングしてくる球を、ゴールの左隅にシュートしたのである。 そしてその時の左足に残った爽快な感触と瞬間的に使ったテクニックを覚えているのだ。 左の足首を左に曲げるテクニックを。 不思議なことだと思う。

 七、八歳の頃、日の出を待つ夏の宵に近所の友達と鬼ごっこをした。 真赤な月が印象的であったが、幻想の中では、その月を見つめながら、少年時代の未知の世界に対する心の高鳴りが無限に拡がリ、声高らかに 「山の彼方の空遠く、幸住むと人の言う」 と歌った。 しかし、私はこの歌を歌ったことはなかったし歌詞も知らなかった。 何故夢や幻想に現われたか解らない。

 昭和4年10月、中学校の修学旅行の時、奈良から伊勢松阪へ行く電車の中で、福岡女子高校の修学旅行生の一人が私の目の前で電車に酔って苦しんでいたので、私は、コウモリ傘の中に、その女学生の胃袋の中のものを全部吐かせてやった。 電車を降りて、松阪駅前の便所わきの水道で傘を洗っていると、その女学生が私の前に立って、ピョコンと一つお辞儀をした。

 幻想の中では、その女学生は真青な顔とキラキラ光る日で私を見つめ、両手をさし延べていたが、私は今までそんなことを夢想もしていなかった。

 昭和12年7月、錦浦飛行場に着陸した時、飛行機が路面の柔らかい飛行場エンドで逆立ちをしたことがあったが、幻想の中では次々に着陸する飛行機が逆立ちをした。 私もその一人であったが、私には現実の経験はその時まで一度もなかった。

 こんな幻想はあるべきものであろうか? それとも夢であろうか? 医者に尋ねたことはまだないが、夢であれ、幻想であれ、私の過去の願望や思考とあまりにも懸け離れていると思う。

 両親に対するものは今考えると夢であったのか、或いは回想であったのか区別がつかないが、漂流中を通じて、ずっと意識にあったような印象がある。

 その中で、父と母との違いは、甘くて他愛ない夢の中で母に会い、夢が暗転して、海洋や地球や宇宙の絶対的な力の威力と戦い始めると、親父が登場して来るということであった。

 女房の夢は一度も見なかったように思うが、それについては (私事を申し上げて恐縮であるが) 訳がある。

 私達は結婚後6か月経った時、支那事変が勃発し、私は即日戦場に出撃して全力を尽くして戦った。 その時、妻の幸福を願い、子供の健やかな成長を願ったことは当然であったが、その内容が現代とは違っている。 支那事変中は、遺族の生活や子供の教育については、国家が十分に保証していたので私達はそれを気にしなかった。

 そして、戦いながら妻に望んだことは、「妻自身が自らを高めることによって、夫婦の生活を、広く、深く、優雅ならしめるための努力をしてほしい」 ということであった。

 家庭経済の運営よりも、子供の教育よりも、妻自身の繊細で愛情豊かな人間性を第一に求めていたのであって、良妻賢母で、経済的な 「しっかり者」 は求めていなかったのである。 それが漂流中の夢と幻想の中で、妻のことを想わなかった理由であったと思う。

 ともあれ、死の直前の昏睡の中で楽しい夢を見たり、懐かしい幻恩に捕われることもあるということは、人間の臨終というものを考え直したいと思う。

 死の床の側で泣いているのは遺族ばかりで、死ぬ当人は楽しい夢を見ているという冒涜的な死に方もあるのだ。 要するに昏睡の体験は貴重なものであったと思っている。
(続く)

2009年12月20日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その30

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (20)

   その7 漂 流 (承前)

 時々波をかぶって目を醒ました。 海上の夜は長かった。 暗黒は不安と恐怖を呼ぶ。 朝の光が早く見たかった。 それは、生物の本能であろうが、その 「朝が早くきてほしい」 という願いが、「朝がくれば何とかなる」 という気拝に変わるのであった。 そして朝を待ちくたびれて、再び深い昏睡に入ったようであった。

 深い昏睡から醒めたのは、東の空が白みかかった頃であった。 南の洋上の暁は短かった。 雲間から太陽が顔を出すように、水平線から太陽が出ると直ぐ昼になった。

 その頃であった。うねりの山の中腹に、大きい鱶が白い腹を見せた。 それは3米以上の凄い奴であった。 疲れは吹き飛んだ。

 「国分! 鱶だ! 水中を見張れ。」

 と怒鳴り、急いで銀粉を海面に撒き、頭を水中に突っ込んで拳銃の安全装置を外して、鱶が近接するのを待った。

 国分は、救命袗の枕を外して身構えた。 銀粉は、一夜海水に浸っていたためか、海面に拡がらず、水中はうねりを通す朝の光で明るかった。 鱶は私達の約10米周辺を、ぐるぐると回り始めた。 腹部に第一撃を加えてくるつもりであろう。

 一分ばかり経った。 暫く姿を隠していた巨大な海魔めは、私に向かって直線で襲って来た。 私は、4、5米近くに鱶の大きく赤黒い口を見た瞬間、拳銃の引金を引いた。

 水中で拳銃を射ったのは始めてであったが、空中で射った時の数十倍の反動を受けて、私の右手は捻挫した。

 それだけでは済まなかった。 もの凄い水圧を全身に受けて、右の鼓膜を破り (今でも少し聞こえ難い)、腹を大きい棒で殴られたような衝撃を受けた。

 特に下腹部の衝撃はひどく、睾丸が切れて飛び、腹が破れたかと思った。 後で恐る恐る小便をしてみると、ちぎれるように痛かった。

 しかし、結果は成功であった。 私は海軍兵学校の時、拳銃を千発以上射った経験があったので、この時、腕を一杯伸ばし、海面近くから裏返った鱶の口を下向きに撃ったのが幸いしたのであろう。

 もしも、腕を少しでも曲げて射ったり、水中深く拳銃を沈めて射っていたら、恐らく鼓膜は両方とも完全に破れ、眼は失明し、腹に内出血していたであろう。

 鱶に命中したかどうか、弾丸の行方は解らなかったが、鱶も激しい水圧で、私以上の衝撃を受けたのであろう。 二度と現われなかった。

 拳銃は、尾栓がガタガタになり、弾倉は吹き飛んで海底に沈んだ。 勿論、撃針も折れていたであろう。 拳銃は、水中では絶対に使用すべからず。


 緊褌一番の戦いを終えて、ぐったりとなった。 眼も耳も腹も痛んだので、仰向けになって、じっと我慢していた。 疲労の極限がきたようであった。 母艦 「瑞鶴」 を発進してから一昼夜を経過していた。

 私は中学時代からスポーツで鍛え、兵学校、候補生時代には烈しい訓練を受け、少尉時代は一年間の艦隊訓練に服し、柔道、相撲、短艇で鍛えに鍛え、連合艦隊の柔道大全で優勝するだけの体力があった。

 飛行学生の一年間にも、野球、テニス、ラグビー、サッカー、水泳など、何でもやって十分の自信があり、一昼夜くらいの漂流で気力体力を消耗し尽くすような生優しい体とは思わなかったが、出血と空腹には勝てなかったのだ。

 ともあれ、この時、心身に、沈み行くような静寂を感じた。 頭脳の一部だけが、冴えわたっていた。 死が近づいていたのではなかろうか。 傷の痛みも感じなかったように思う。

 僅かに残った理性で、この人生に悔いはないと思った。 日本の運命を決する戦闘で、飛行隊長としてやるべきことはやった。 先に逝った部下達も、きっと私を迎えてくれるであろうと思った。 そして、最後に父を思った。

 私の父は、四国道後平野の南西隅の造り酒屋の当主であった。 曽祖父が徳川時代に、酒樽乾場の一隅に寺小屋を開き、父はその影響を受けて、儒学と歴史の好きな村夫子であった。

 日露戦争の時、広島大本営で、明治天皇の検食をしたことを、生涯の誇りにしていた。 とても可愛がってくれたが、恐ろしい父であった。

 しかし、私は子供心に還って、この父のもとに行こうと思った。 そこが一番安らかな所のように思えた。 親父が死んでから9年目であった。
(続く)

2009年12月21日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その31

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (21)

   その7 漂 流 (承前)

 やがて、私の精神は現前の事象から離れ、夢も幻想も消え、完全な空白の状態に入っていったようであった。 それからどのくらいの時間が経ったか知らない。 国分飛曹長が、

 「隊長! 船です、船です。」

 と叫んでいた。 夢の中で聞いたような気がする。 何回も何回も聞いて、段々と意識を回復したようであった。

 長い時間がかかったようで、案外短かったのかも知れない。 船がぼんやりと網膜に写った。 しかし、自分と船と何の関係があるのか解らなかった。 漂流していることを忘れていたのだ。

 暫く経ってから、突然現実を理解した。 私の鼓動は激しく回転を始めた。 夢ではない。 夢ではない。

 船は、私達の方向に、船首を約30度の交角で近づきつつあった。 5千米もなかった。 7、8千噸の乾舷の低い燃料満載のタンカーであった。 私は全身の疲れを吹き飛ばし、最後の力を燃やした。

 「国分! うねりの山に乗った時、水を空中にかき上げろっ! 声を出すなっ! 大きい声を出すと死ぬぞっ。」

 と大きい声を出した。 私は偵察バッグと拳銃を捨て、できるだけ身軽になって、貴後の力を絞り、巻き足立ち泳ぎで、臍が海面に出るほど力泳し、その反動で水を空中高くかき上げた。

 「国分! 頑張れ、褌を振り回せっ!」

 と言った。 国分は枕を外し、褌を外し、左手でそれを振った。

 この興奮の中で、私はふと、あの船は日本の船かな、と思った。 船が見えた時、狂喜してそれを確かめなかった。

 もし敵の船だったら、その場で死のうと思った。 故障した拳銃でも、一発は射つことができるかも知れないのに、先刻捨てたのは惜しいことをしたと思った。 そして、

 「国分! 敵の船なら、即刻死ぬんだぞ!」

  と言った。 国分は、「ハイ!」 と元気よく答え、救命袗をゆっくりと脱いでいた。

 船は刻々と近づいてきた。 全神経を眼に集中して船を凝視した。 しかし、日章旗はどこにも見えない。

 生か! 死か!

 船は速力をゆるめ、百米くらいに接近した。 甲板上に、人は一人もいない。 前後甲板に、12糎くらいの大砲が一門ずつ特設されていたが、その砲側にも人はいなかった。 二人の狂喜は数刻のうちに終わるのか。 全身が緊張で震えた。

 その時、錨甲板に真黒い男が顔を出して、「オーイ」 と呼んだ。 日本人だ。 日本人だった。 日本の船だった。 その瞬間全身の力が抜けて、私は国分の救命袗につかまった。 深呼吸を一回、二回と腹の底に吸い込んで、

 「日本だ。 日本だ。 日本の船だ!」

 と天に向かって叫んだ。 涙が滂沱として頬を流れた。 国分飛曹長が泣きながら、「隊長! 隊長!」 と叫んだ声は、今でも私の耳にある。 それは帛を裂くような絶叫であった。

 船は7、80米に近づいた。 私は静かに海面を泳ぎ始めた。 国分にも無理に泳がせた。 ボートに引き揚げられる時の体調を整えるためであった。 ボートから爪竿が出された瞬間に、海底深く沈んだ例がどんなに多かったことか、それを私は見てきたのだ。 爪竿を握った瞬間の安心と、握力不足のために沈んで行くのだ。

 私は船に向かって静かに、ゆっくりと泳いだ。 息を吐く度に 「お母さん、お母さん」 と小さい声で母を呼び、手足の運動のリズムに合わせた。

 こうして、私達は、日本郵船 「玄洋丸」 に救われた。 傷の手当を受け、コック長の、真心のこもった粥を三杯とスープを一杯飲んで、36時間眠り続けた。


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( 原著より )


 後 記

 自爆した勝見と平田が、もし着水していたら、彼等もこの船に救われたと思う。 残念であった。

 葬儀は、11月7日に行なわれた。 被葬者の中に私達二人も含まれていた。 というのは、私がトラック島の 「瑞鶴」 に帰り着いたのは、「玄洋丸」 に拾われてから11日目の11月7日であり、その間、「玄洋丸」 は無線封止をしていたので、私達の消息は 「瑞鶴」 に伝わらず、戦死と認定されていたからであった。

 私達は、私達の葬式の始まる一時間前に 「瑞鶴」 の舷梯を踏んだわけだ。 艦長に挨拶を済ませて、私の部屋に帰ったところ、そこは艦爆隊の遺品整理室になり、24人の遺品が積み上げてあった。

 葬儀場に当てられていた下部格納庫へ行ってみると、中央に、「故海軍少佐高橋定之英霊」 と書かれた垂れ幕と位牌が飾られていた。 私は自分の英霊に手を合わせたあと、垂れ幕と位牌を焼却するように指示した。

 私の形見分けは、慣例に従い、飲み友達に分配されていたが、それを返してくれとは言わなかった。 明日は、彼等から形見分けを貰うかも知れないからであった。 皆は私達二人のために祝盃を挙げてくれた。

 個室に落ち着いた時、勝見、平田ら22人のために心ゆくまで泣いた。
(第2話終わり)

2009年12月23日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その32

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (1)

   その1 生と死と

          銀翼連ねて南の前線
          揺がぬ守りの海鷲達が
          肉弾砕く敵の主力
          栄ある我等ラバウル航空隊

                  数をばたのんで寄せくる唯中
                  必ず勝つぞと飛びこむ時は
                  胸に挿したる基地の花が
                  ニッコリ笑うラバウル航空隊

          海軍精神燃えたつ闘魂
          いざ見よ南の輝く太陽
          雲に波に敵を破り
          轟くその名ラバウル航空隊

                  沈めた敵艦堕した敵機も
                  忘れて見つめる夜更の星は
                  我に語る友のみ霊
                  勲は高しラバウル航空隊

 これは、「ラバウル海軍航空隊の歌」 である。 昭和19年から終戦まで、旧海軍の若いパイロット達によく唄われた想い出の歌であるが、この歌詞の作者は、今から語る 「ラバウル航空隊」 艦爆隊長T大尉だと言われている。

 今は亡きT大尉のために、この歌を唄いながら、この一文を彼に献げたい。


 昭和18年3月下旬、私は 「瑞鶴」 艦爆隊21機を率い、トラック島からラバウル基地に進出した。

 この基地は、南緯5度東経151度、ニューブリテン島の東瑞ラバウルに在り、緒戦より終戦まで激戦に次ぐ激戦を繰り返し、最後まで不敗を誇った精強無比の 「ラバウル航空隊」 の母体となった基地である。

 この基地には東西2つの飛行場があって、西の飛行場には、第十一航空艦隊 (陸上航空部隊) の中攻隊と戦闘機隊約100機が展開し、東の飛行場には、同じく艦爆隊と戦闘機隊約50機が展開していたが、私達第三艦隊 (母艦部隊) の艦爆隊が進出したのは、東の飛行場であった。

 東の飛行場は、山の下の飛行場とも呼ばれ、ラバウル湾に面した標高零米の低地にあった。

 私達は、T大尉に案内されて指揮所に入った。 その建物は、ランウェイから100米ばかり山手寄りの5、6米の高台の上に設けられ、板葺きの高床式平屋で風通しがよかった。 四面に広い廊下を廻らし、その外周には、バナナとパパイヤが群生して黄金色の実をつけていた。

 この指揮所からは、飛行場とラバウル湾が一望の下にあった。 ランウェイの両側の整備地区には、零戦隊と艦爆隊及び今着陸したばかりの私達の艦爆隊合計約100機が、パパイヤ、野薔薇、棗、グイノミ等の小灌木林に囲まれて分散され、椰子の大木がその上を覆っていた。

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( 原著より  著者のスケッチ )

 灼熱の太陽が燦々と輝き、椰子の木影が、珊瑚と火山灰の混じった灰色の大地に版画のように太く黒い線を投げていた。 背景は紺碧の海と空、灌木林の中にはハイビスカスやブーゲンビリヤも混じっているらしく、赤、黄、紫の花が、金糸銀糸の刺繍のように浮き上がっていた。

 左手ラバウル湾口の直ぐ北西を見ると、小さく可愛いい擂鉢型の火山があって、そこから流れ出た熔岩が海中に固まって自然の浴槽を形づくり、温泉が湧き、湯煙りが立ち昇っていた。

 数か月間母艦の背中に住み慣れていた私達には、総てが新鮮で柔らかい眺めであったが、それにも増して私達の気持を和やかにしてくれたのは、湾内から飛行場を通ってこの指揮所に吹き上げてくる薫風であった。

 この風は乾燥して清々しく、ドリアンやマンゴーの強烈な香りを柔らかく薄めて、乙女の体臭か、お袋の膚の香りのように和やかであった。私は廊下の折り椅子に坐って、この風を腹の底まで吸い込んで古里の人を想った。
(続く)

2009年12月24日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その33

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (2)

   その1 生と死と (承前)

 「隊長!」 と呼ぶ声に我に返って室内に入ると、ラバウル艦爆隊と三艦隊艦爆隊の搭乗員が全員集まっていた。 T隊長の挨拶で席に着き、両部隊の初顔合わせの小宴が始まった。

 テーブルの上にはビールが林立し、パパイヤと一口バナナの山があったので、母艦搭乗員はその水々しさに目を見張った。 母艦から持参した肉類の缶詰は、栄養不足のラバウル搭乗員にとっては最高の魅力であるらしく、彼らの旺盛な食慾を刺激した。

 若い者達は食べるだけ食べ、飲むだけ飲んで、解散して行った。 後に、古参搭乗員が十数名残ったので、座席を改め、一つのテーブルを囲んだ。 これら十数名の搭乗員は、支那事変以来の絶えて久しい戦友達であった。

 数年に亘る戦闘によって鍛えられた不屈の眼光と、日焼けした真黒い顔は、支那事変当時の面影を一変させてはいたが、それぞれが持っていた人間の匂いは昔と少しも変わってはいなかった。

 暫くの間、ものも言わずに相手を見つめていたが、やがて軽口が出始めた。

 「貴様、生きとったか?」

 「うん。 貴様は珊瑚海に着水して駆逐艦に拾われたそうだが、鱶からも敬遠されたのか?」

 「貴様は怪我をしたと聞いたが・・・・。 手術前よりナイスになった!」

 「子供は?」

 「うん。 二人の息子の父だ。」

 「俺とこは娘ばかりでがっかりだ。」

 挨拶代りの軽口が一通り終ると、T隊長は酒の準備を命じ、濡れた布に包んで窓辺に並べてあったパパイヤをテーブルに運ばせた。 (ラバウルには冷蔵庫も氷もなかったので、濡れた布に包んで涼風に当てて冷やした。)

 二、三杯の酒が回ると、遠い過去と現在をつなぐ時間の壁が圧縮されて、ここがラバウルかトラック島か区別がつかなくなり、堰を切ったように喋り始めた。 一別以来、数年間の苦闘の歴史を語らずにはいられない衝動が、奔流となって迸っているのであった。

 想えば、今ここに集まった十数名の運命が、対米戦争の縮図と言えるものであった。 私達は4年有半に亘って、殆ど欠けることなく支那事変を戦い抜いてきたが、対米戦に入ってから、ミッドゥエイで、珊瑚海で、南太平洋で、或いはガダルカナルで、半数に減ってしまった。 そして、昭和18年4月現在、急ピッチで消耗が進行しつつあった。

 従って、一見明朗で無邪気な軽口を叩いてはいるが、既に戦争の大局的帰趨に一片の光明も見えなくなり、日々の戦闘は、ただ戦術的闘争の中で、相手が目の前にいるから戦うだけであって、死ぬまで生きるという必然性だけがそこにあるのであった。

 それは既に生と死の対置ではなく、限定された仲間同士が、お互いの愛情だけを見つめあって生きている姿であった。

 対米一年半の戦いで、こうなるとは私は予想もしていなかった。 ・・・・ お互いの愛情を見つめあう以外に喜ぶことも悲しむことも何もないようになろうとは! しかし、それしかないから、それで十分であったのかも知れない。

 やがて私達は深淵に沈んで行くような沈黙に襲われた。 私は一人一人の目を見つめた。 T隊長と視線が合うと、彼は静かに立って長恨歌を吟じ始めた。 数名の者がこれに和した。 吟詠のリズムだけが人間らしい感情を刺戟するのであった。

 唄い終って私達は、生きていたらまた会おうという挨拶だけを残して別れた。
(続く)

2009年12月25日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その34

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (3)

   その1 生と死と (承前)

 この日から5日目の4月1日に、ソロモンの制空権の奪回作戦が発動されたのである。 「イ号作戦」 と言う。

 4月3日、先ず零戦部隊の精鋭が、中攻隊とともに、ガダルカナル、ポートモレスビーで圧倒的に敵戦聞機をやっつけた。 敵は、私達の眥 (まなじり) を割く進撃の前に沈黙したのである。

 しかし、物量にものを言わせて反撃を計り、強力な補給船団がガダルに入港したのであった。 艦爆隊にとって、好機到来である。

 4月8日、ガダルの北方ツラギ湾に仮泊した敵補給船団を強襲する作戦が私達に与えられた。 兵力は 「瑞鶴」 とT部隊の艦爆隊合計36機、中攻、戦闘機約90機、総計124機であった。

 私は艦爆隊と直衛戦闘機隊を連れて、4月7日、ラバウルからブイン基地に進出した。 T隊長を始め、支那事変以来の私の部下達が、一団となってツラギ攻撃を実施することになったのだ。 私は、T隊長と夕食を共にした。


 余談になるが、この時の夕食は悪食家の山本栄大佐 (46期) や、「瑞鶴」 飛行長松本中佐 (正平、59期) も一緒であった。 鰐の肉が食卓にあった。 食後、松本中佐は私に、

 「俺と君との交際は7年になるが、今君が、生か死か乾坤一番の戦いに臨むというのに、君の記念品を一つも持っていない。 また、君が死んだら、俺が君の家へ挨拶に行くことになるだろうが、その時、写真の一つくらいは持って行きたいから、君の写真を撮らしてくれ。」

 と。 私は飛行長が私の家へ行って、母と妻に私の死を告げる時のことを想像した。 私の母は、私が支那大陸に出征して以来、自分の命を縮めて息子と代ることを願い、祖先の霊に祈り続けているが、私が先立ったと聞いたら、取り乱すかも知れない。

 しかし、それは私と母との間の深い愛情の絆の終焉であって、私と母とだけの問題だ。 どんな人も介入することはできないし、されたくもない。 飛行長はこんな私の気持を承知しておられるようには見受けられなかったので、

 「どうぞお撮り下さい。」

 「全身にしようか、上半身にしようか?」

 「どちらでも宜しい。 それよりも、ブインとラバウルの風景写真を母に見せて下さい。 母はきっと喜びます。」

 と答えた。 ところが、この時の私の上半身像が、母の最も喜んだ写真で、死ぬまで手放さなかったのであった。 緑とはおかしなものだと思う。

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( 原著より  著者 )

(続く)

2009年12月27日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その35

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (4)

   その1 生と死と (承前)

 さて、明ければ4月8日、私達艦爆36機と艦戦24機、納富健次郎大尉、荒木中尉、吉村中尉 (四次ソロモン海戦以後全員戦死) 達は、黎明をついてブインを発進した。

 敵船団はツラギ湾内に仮泊中であり、巡洋艦駆逐艦数隻及び敵戦闘機P38が、常時警戒中であるという情報であった。

 私の作戦は、ガダルカナル飛行場に突入する態勢を見せて進撃し、急速に反転してツラギ湾内を奇襲する計画であったが、ツラギ上空に達した時、6千米附近に断雲があったので、それを利用して直接ツラギ湾内に殺到したのであった。 戦果は挙がった。

 大型輸送船5隻、駆逐艦2隻を轟沈し、陸上施設を爆破、大火災を起こさせた。 攻撃後、36機の艦爆は全機一列横隊となって、海面を零米で這いながらブインに向かった。

 やがて襲い来る敵戦闘機の追跡に対し、全機協力して反撃しなければならない。 爆撃終了後約10分、P38 3機が味方零戦部隊の目をかすめて追尾して来た。 いよいよ喰うか喰われるかの戦闘が始まるのだ。

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 P38は、九九艦爆より速力が約80ノット速いが、旋回性能が悪く小回りがきかない。 だから、襲われた艦爆機の両側の2機が急激にエンジンを絞り、P38と頭を並べて側面から旋回銃で射てば、P38は急上昇して逃げなければならなくなる。

 一方艦爆隊は、自分がP38に狙われているか、或いは自分の両側機が狙われているかを判定しなければならない。

 自分が狙われていればエンジンを開き、自分の両側機が狙われていればエンジンを絞らねばならないのだ。 これは、P38の機軸を見て判別しなければならないが、若いパイロットには難しい。

 この時の艦爆36機の内、「瑞鶴」 隊18機はベテランぞろい、T部隊には若いパイロットが多かった。

 私の左正横約3百米、私から数えて18機目がT隊長であった。 最左翼の最も危険な位置だ。 そして、彼の列機は高度がまちまちであり、機首がピタリと合っていない。 P38はそれを見抜いたらしく、先ずT部隊の若い者に襲いかかった。

 その第一撃で、一機が水煙を揚げて墜落した。 直ぐ続いて一機が火を吹いた。 続いてT隊長に襲いかかった。 彼はさすがにベテランで、P38の射線を海面すれすれの横辷りで外して、見事に二撃三撃の襲撃に耐えていた。

 しかし、隣の列機が反撃しない。 私達は、全力を挙げて側面から射弾を浴びせたが届かない。 第4撃目に、T隊長は水煙高く海中に突入したのであった。 壮絶な最後であった。

 この空戦の結果、T部隊の若いパイロット3機と隊長機、4機8人が戦死した。 私の部隊の犠牲は零であった。 戦歴と訓練不足のT部隊の若いパイロット達では、とてもP38に太刀打ちはできなかったのである。

 それから約3分後にP38は去って行ったが、「瑞鶴」 零戦隊がこれを撃墜してT部隊の恨みを晴らしたのであった。

 以上がT隊長の最後であった。 そして、「イ号作戦」 の第一次攻撃が終わった。
(続く)

2009年12月28日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その36

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (5

   その1 生と死と (承前)

 ところで、ここに世にも不思議なことがある。

 T隊長の偵察員 (以後Aという) が、米潜水艦に救助されたというのだ。 Aが意識を回復したのは、米海軍の病院船の中であった。

 その時Aは、一人のパイロット (以後Bという) が、同じ病院船に収容されていたように思うと言うのである。

 Aに対しては戦死が否定された。 (捕虜になったから公表されなかった。) 問題は、Bについてである。 その概要は次のようだ。

 戦争が終り、Aは帰国した。 そして、28年末頃になって、Aは、Bが健在であるかも知れないと証言した。 ところが、Bには郷里に新婚の妻 (B’という) があった。 B’は、Bの戦死公報をこの戦闘の約6か月後に入手したのであった。

 Bの家庭にはいろいろと事情があって、B’は19年の末、Bの弟と結婚した。 結婚後8年経ってBの弟とB’は、Bが健在であるかも知れないというAの証言を人を介して聞き知った。

 そう聞いた以上、放っておくわけにはいかない。 二人はBの消息を確実に追求しなければならなかった。 そして、八方に手を尽くした末、回り回って私のところに証言を求めてきたのである。

 私は4機の墜落を見ている。 それらの内一機は火を吹いたが、残りの3機は火を吹かないで海面に突入した。

 火を吹かないで突入したことは、パイロットが機上戦死したか、操縦装置に致命傷を受けたかの何れかの場合であるが、しかし、それは転瞬の間の視認であるし、距離は3百米以上離れている。

 何れにしても、高速度海面激突であるから、生存のチャンスは殆ど零と言ってよい。 しかし、その内の一人の偵察員が生存しているという事実の前に、他の搭乗員が総て戦死したと証言することができなくなった。

 止むを得ず戦闘のありのままを詳細に説明した後、Bは百パーセント戦死していると思うと証言した。 それは物理的、現象的な死の確実性を証言したばかりでなく、Bは生死に拘わらず私のこの証言を喜んでくれると思ったからであった。

 何故かと言えば、Bという男は、

 「自分が生きて日本に還れば、自分の弟と、かつて自分の妻であった弟の妻が不幸になる。」

 と思ったら、無国籍者に甘んじて身を隠すであろうし、それを国家も容認するであろうと思ったからだ。

 また、Bがもし彼の弟とB’の前に現われることがあったら、その時には私がBと話しあってBとともに解決の道を発見することができると思ったからであった。

 念のため申し添えるなれば、あの時から15年の歳月が流れたが、BはB’の前に現われない。 BはT隊長であり、私はBがどこかで生きているかも知れないと思っている。


 「イ号作戦」 の二次の爆撃行が実施されることになった。 4月14日のニューギニアの北岸作戦である。

 T部隊は隊長を失った直後であったので、この作戦には参加しなかった。 「瑞鶴」 隊だけで 「ラエ」 の湾内に碇泊中の船団を攻撃し、2隻を撃沈した。 戦闘要領はツラギの時と同様であった。

 この時の作戦で、私の若い部下3機がP38に撃墜され、P38 2機を撃墜した。  そして4月15日、イ号作戦は終結した。

 生き残った私達は、椰子の木を切り倒して卒塔婆を作り、6人の名前を全員で一字画ずつ刻み、ラバウル火山の火口まで担ぎ上げ、稜線の砂中に深く理めた。

 「ラエ湾」 外に怨みを残して散った部下達にこの卒塔婆が見えるように・・・・。 それは今もなお、ニューギニアの北岸を望んで立ちつづけているであろう。

 4月18日、戦友を失った傷心を抱いて私達はトラック島に帰ることになった。
(続く)

2009年12月29日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その37

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (6)

   その1 生と死と (承前)

          さらばラバウルよまた来るまでは
          しばし別れの涙がにじむ
          恋しなつかしあの島見れば
          椰子の葉かけに十字星

                  波の飛沫で眠れぬ夜は
                  語り明かそよデッキの上で
                  星が瞬くあの空見れば
                  くわえ煙草が目にしみる

 4月18日0830、私達搭乗員は指揮所前に集合した。 相変らず灼熱の太陽は椰子の樹林に降りそそぎ、華麗な花が咲き乱れていたが、T隊長なき指揮所は寂しかった。 ラバウル火山の山上から吹きおろす風は、粛々として無常を訴えていた。

 0900、聯合艦隊司令長官山本五十六大将が指揮所に見えられ、私達に訓示があった。 そして、長官は戦線視察のために東方ソロモン群島ブイン基地へ、私達は捲土重来を期して北方トラック島に向かって出発した。

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(原著より  山本長官最後の訓示)

 それから2時間後に、長官はブイン上空で戦死された。 私達は飛行中に無線傍受してそれを知った。

 それから1時間後、トラック島の春島基地に着陸したが、搭乗員達は翼の下に坐ったまま、立ち上がらなかった。 整備員達も茫然と立ちつくしていた。

 日本海軍の最高指揮官であり、統率指導と士気の中核であった巨星が落ちたのである。

 トラック島の燦々と輝く太陽は暗く、熱砂から吹きつける風も膚寒く、潮騒の音も静かであった。 全員は涙にむせびながら南冥の空を見はるかして、長官のご冥福を祈るばかりであった。

 星落秋風! 鼓角静寂!

 来るべきものが来たのであった。 来るべき時が来たのであった。

 私は部下全員に休養を命じ、私室に帰ってベッドに横になった。 くたくたに疲れ果てた頭の中で、開戦以来一年半の戦いの跡が明滅するのであった。

 そして、長官がブインに行かれたのは、ソロモンの空で散華した多くの部下達の霊に最後の挨拶に行かれたのではなかろうか? もしかしたら、珊瑚海の彼方まで燃料の続く限り飛び続けたい気持でおられたのではなかろうかと思った。

 これは、日本の社稷 (しゃしょく) を担って、重大な責任を持っておられる長官に対する軽卒にして無礼な推察ではなく、また、死は易く生は難しいことをどれ程深くお考えになっておられたかを推察できない程愚かなことを言っているのでもない。

 長官が年来の部下を次々に失って苦しみにさいなまれておられた姿を見てきた一人として、私は 「長官! 早くごゆっくりお休み下さい。」 と申し上げたい思いだけなのだ。 しかし、亡くなられた今は、悔し涙ばかりが流れるのはどうしようもないのであった。

 私達古い搭乗員は、今回の作戦で約一割を失っただけで、また生き残った。 いつまで生き残るのであろうか?

 翌朝もトラック島の基地には灼熱の太陽が照り輝いていたが、空は薄暗く湿っているように見えた。 生き残った者が声もなく泣いているのであった。 溢れる涙が、生と死の境界線のように思えた。
(続く)

2009年12月30日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その38

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (7)

   その2 後継者の育成

 昭和18年6月頃であった。 トラック島春島基地で空戦訓練中、大石上飛曹 (佐賀県) と中井三飛曹が、トラック環礁内に墜落殉職 (戦死認定) した。

 その時、大石の同僚が次のような弔辞を述べた。

  「 とうとうお前も死んだ。 思えば生き残った俺達が今、暗黒の底で喘いでいるのも、お前が三途の川を渡って、極楽への一里塚を歩いているのも同じことだ。


   ただ、お前は寂しがり屋だったから、一人で三途の川を渡り切らないかも知れん。 俺達が逝くまで川辺で握り飯を喰べながら待っていてくれ。


   お前は射撃も爆撃も上手だったし、勇猛果敢であった。 先般のツラギ沖の海戦で、俺達の戦列にP38が追撃して来た時、お前はその敵と刺し違える覚悟で立ち向かって行った。


   そのため敵は驚いて射撃を止めて逃げて行ったが、その時の敵の十二・七粍機銃の火線線上にいた平原大尉は、それによって被弾をまぬがれた。 そんなお前がP38との想定訓練で死のうとは思いもよらぬことだ。


   俺達は、お前と一緒にソロモンの海でP38と戦って一歩も譲らなかった。 九九艦爆がP38を倒す唯一の手段は、お前がやったように、敵機と空中衝突をする覚悟で側面から敵の射撃の邪魔をして、敵が逃げる瞬間を射つことだ。


   この戦法は、70ノット乃至100ノットの速力差で急速に接近して来る敵に対し、海面すれすれで機体を滑らしながらエンジンを急速に絞って敵機との速力差を更に増大し、敵の意表を衝いて接近して行く戦法だから、寸秒でも早すぎると敵の射線の中に飛び込むことになるし、遅ければ狙われた飛行機が落とされるのだ。


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   だからそのタイミングは極めて難しく、歴戦の体験が最高の演練の場であるが、若い者に実戦場でそのコツを体得させようとすれば、被害があまりにも多い。 だから、どうしても実戦に準ずる訓練が必要だったんだ。


   その訓練中、お前は横滑りのまま海面に激突した。 残念だなどと通り一辺のことは言いたくない! 俺達は今、何と言っていいか、解らんのだ。


   明日からは、俺達がお前の代りをやるが、どんな猛訓練にも耐え抜いて、お前の意志を若者達に伝えてやる。 そして、若者達が十分に育ち上がった時は、俺もお前のところへ行くぞっ! 三途の川をお前と一緒に手を組んで渡るんだ。 それまで待ってくれ! 大石!」


 並みいる搭乗員達は皆泣いた。 中でも若い搭乗員達は、自分達に手本を示そうとした先輩の尊い犠牲に切歯扼腕しながら泣いていた。


 顧みると緒戦以来、一日の休養もとらずに一年半、連続して敵とまみえた古参搭乗員は、過去の栄光を守り抜こうと必死の努力を続けたが、緒戦以来の戦友の70パーセントを失い、ただ一つの頼みの綱は、銃後 (前線の対置語) の後継者の育成であった。

 ところが、その育成の速度は遥かに消耗に及ばず、私達は戦場で後継者の育成に当りながら戦わざるを得なくなった。 しかしそれは古参パイロットには肉体的に無理だった。 そして疲れ果てて古参パイロットの消耗を早めることになった。 その結果、若者の育成が遅れた。

 この悪循環によって総合的技能が急激に低下していったのである。

 大石上飛曹の死はその悪循環の起点であり、弔辞を読んだ古参パイロットは、その悪循環を絶叫して悔しがっている姿であり、泣き叫んだ若年パイロットは悪循環の結末を憂える姿であった。 親に死なれて路頭に迷う幼な子の姿のようであった。

 こうして後継者の育成は間に合わなかったのである。
(続く)

2009年12月31日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その39

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (8)

   その3 哀れな女

 この一文は戦場の余話ではない。 女性も戦っていたのである。 武器を持ってはいなかったが・・・・。 それは彼女達自身が生きるための戦いであったとも言えるだろう。

 時は昭和18年6月初旬、場所はトラック島の竹島であった。 訓練の骨休めに、「瑞鶴」 の艦載、艦爆、艦攻隊の幹部が、島の中央部低地にあった慰安所に飲みに行った。

 その建物は、田舎の山村の小学校の校舎のような切り妻、平屋建てのバラックであった。 私達は、50畳もあろうかと思われる大部屋に案内された。

 脚の高いお膳が並べられ、どこから材料を仕入れたのか解らなかったが、新鮮な肉、魚、卵、山菜、海産物などをあしらった7品ばかりの料理が出た。

 酒は熱帯地に運ぶために、防腐剤が過剰で少し苦みがあったが、母艦のように、波に揺られて味が変っているようなものではなかった。

 暫く飲んでいると、若い女性が十数人現われた。

 この女性達について簡単に説明しておこう。 私達は彼女達をパンパンと呼んでいた。 この呼び方は終戦直後のパン助を連想させるかも知れないが、それとは違う。 また、パンパンという言葉は、マライポルネシヤ語の職業売春婦の意味であるから、私達のパンパンという呼び方も間違っていた。

 また当時の軍当局も彼女達を 「軍属慰安婦」 と命名していたが、慰安婦と言えば、あまりにも彼女達の行為の一部を表現し過ぎる言葉で、これも過ちと言わねばなるまい。

 何故かと言えば、この婦人軍属を採用する時は、その任務と仕事は、慰安を提供するばかりではなく、戦傷者の看護も医務援助も含まれていたし、彼女達の中には、慰安婦のつもりではない者もあったからだ。

 彼女達の出身は千差万別で、中には当時日本内地にあった公娼、私娼で、その道の海千山千のベテランもいたし、喰いつめ女中もいたが (それらは主として陸軍戦線に派遣されたようで、海軍にはそのような女性は少なかった)、中には純真な大和なでしこもいた。

 彼女達は、日本の青年男子が生命を賭して戦っているのだから、日本の青年女子も、銃後で安穏に暮らすばかりでは能がないと考え、戦線に出て負傷者や病人の看護はもとより、どんなことでもしようと自ら志願して、女子挺身隊となって戦場に来た人達であった。

 この日の宴席に現われた女性達はその女子挺身隊として (そのつもりで) 軍属となった人達が多かった。

 私達の話題はさし迫った話もなく穏やかな雰囲気だったので彼女達にも、バナナ、パパイヤ、パイナップルや、とらやの羊糞を御馳走してやったり、ビールや酒も自由にふるまわせた。

 ところが、彼女達の中に二、三人どことなく深刻な悲しみに打ちひしがれ、ものも言わずに沈んでいる女性がいた。 宴会が途中で小部屋に移ったので私はその中の一人を呼んだ。 彼女は二十歳を出ていないようであった。

 話しかけてみると、言葉が半分くらいしか解らないし、所作がどことなく違うので直ぐ解ったが、彼女は朝鮮咸鏡道の生まれの、いわゆる韓国なでしこであった。

 純粋の韓民族ではなく、昔鮮満国境から北方黒龍江方面に住んでいた扶余 (ふよ) 族か靺鞨 (まつかつ) 族の血が混じっているように思われた。

 日本人とよく似ているというよりも、ロさえきかなければ日本人と区別はできなかった。 皮膚の色は黒い方であったが、唇が赤く小さく締まっていたのが印象的で、浴衣に博多の夏帯という姿であった。

 その部屋は六畳敷で、押入れと小さい飯台が一つあるだけであった。 押入れには、フトン二重ねの他に、柳行李と胡弓が置いてあった。 私が所望すると、彼女はその胡弓を取り出した。 いわゆる奚琴 (けいきん) である。

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( 原著より  奚琴 )

 しかし、胴に張られた蛇の皮が黄色く変色し、絹糸の弦はたるみ過ぎていたし、弓に張られた馬のシッポの毛も、木綿糸のようにふくらんで、長い間奏でたことがない証拠を見せていた。
(続く)

2010年01月01日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その40

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (9)

   その3 哀れな女 (承前)

 酔う程に、私の想いは朝鮮に飛んだ。 そして、白頭山の山麓近くに生まれたという彼女の今日までの生い立ちを想像した。

 紀元前一世紀 (BC37年)、現在の朝鮮北東部と満州南東部に亘る地域に建国した高勾麗は、四世紀以降強大となって、遼河右岸を国境として支那北魂と対峙し、半島南部にまで勢力を伸ばした。

 国土の略中心には白頭山があった。 人民は主に遊牧の民であった。

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( 原著より )

 紀元668年に、渤海湾、黄海を越えて機動した唐と、それに協力した新羅との連合軍に敗れ、建国以来705年で高勾麗は亡んだ。 そして、彼女の祖先達は黒竜江岸まで流浪の旅を続けた。

 当時、満州南東部には靺鞨族が勢力を伸ばし始めていたが、高勾麗が亡国してから約40年後に、旧高句麗領土に靺鞨族の国、渤海国が建国された。

 その時、彼女の祖先も、渤海国の隷民となって故郷に帰ることができたのである。 日本が奈良に遷都してから4年目、紀元714年であった。

 渤海国は歴史上最も日本と親交を結んだ国で、紀元926年に亡ぶまで僅か110年間に、30数回も日本に入朝している。

 渤海国民の中には、日本に憧れ、彼女の郷里の咸鏡 (清津 Chongjinの近く) から北西の季節風に乗って日本海を渡り、秋田から出雲の海岸に漂着したものもあった。 時には数百人に及ぶ集団が、数百隻の木の葉のような小舟に乗って渡海して来たと記録にある。

 当時の日本は、彼らを敦賀の松原館に入れて接待したが、彼女の祖先もその中にいたかも知れない。 彼女と私達の縁も、千数百年来の綾なす糸のようなものだ。

 話は飛ぶが、仙台市から石巻市に行く途中に多賀城市がある。 そこには蝦夷に備えた奈良時代の古い防塁趾があって、その碑に 「靺鞨まで三千里」 とある。
 
 奈良朝廷によって築城を命ぜられた靺鞨系帰化人達が、千二百年前に遥か北西三千里の彼方の白頭山麓に想いを馳せて、沈む夕日を眺めて泣いたという故事が偲ばれる。


 窓外は静かに暮れていった。 私は明日の訓練も戦争も忘れて杯を傾けた。 彼女はいつの間にか奚琴を調え、窓辺に立って奏で始めた。 曲名は知らなかったが、望郷の歌のようであった。 胡弓の音色が一層哀れをさそった。

 奏で終わると、彼女は飯台に寄って、ポツリポツリと日本語で喋り始めた。 それは、いつ戦争が終わるのかということであった。

 父母のことを聞くと口を閉じた。 混血は最低の隷民であった渤海国の古い習慣が、彼女の故郷に残っているのかも知れない。 悪いことを尋ねたと思った。

 暫くすると、彼女は少しビールを飲み、漬物で御飯を食べた。 魚と生ものは食べなかった。
(続く)

2010年01月02日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その41

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (10)

   その3 哀れな女 (承前)

 私は、彼女が少しずつ日本人の情を知ろうとしているのを感じた。 私も興の赴くままに、アーリランの歌を唄った。

        アーリラン、アーリラン、アーラーリーヨー
        アーリラン、コゲロ、ノーモガンダ
        ナールポリグ、カムニーモン
        シムニドモツカーソ−、パールポナンダ

        アーリラン、アーリラン、アーラーリーヨー
        アーリラン、コゲロ、ノーモガンダ
        チョムチョネカサネ、シストマンソー
        ヨーネカーサーネ、シストマンソー

 この歌は、彼女の故郷咸鏡道が始源であり、アーリラン峠は彼女達の幻想の峠であった。 彼女は胡弓を持ち直して飯台の前に立ち、奏でる構えを見せながら、不思議そうに私に尋ねた。

 「どうして私の国の歌を知っているのか? なぜ私の国の言葉を知っているのか?」

 「日本には君の国の人は沢山いる。 私の好きな人も沢山いる。」

 と答えると、「日本にいる私の国の人、嫌い!」 と言って、初めて烈しい怒りの色を見せ、胡弓を横に置いてしまった。

 「どうしてか?」

 と尋ねても、その後は暫く返事をしなかった。

 何か訳があると思ったので、私は一人で酒を汲みながら、アーリランの歌を続けて唄った。 即興の歌詞であったが、この歌はそれでよいものなのだ。

 暫くすると、彼女も私に合わせて唄い始めた。 歌詞は解らなかったが、恐らく、他民族の侵略を呪う力無き民族の歴史的哀愁が含まれているに違いないと思った。

 例えば、朝鮮北部に次のような歌詞がある。 意訳すると、

 「アーリラン、アーリラン、アーラーリーヨ、アーリランコーゲル、ノーモガンダ」 の前節があって、二節は、

 「東より来た侵略者達は  いつか東へ去る」
 「西から来た悪魔達は  やがては西に帰って行く」

 彼女が今どんな意味を唄っているのか解らなかったが、トラック島に流れて来ているのだから、甘く楽しい歌詞ではあるまいと思った。 或いは、生きるための苦しみと悲しみを唄っていたかも知れない。

 私は彼女の歌声を聞きながら、もっと理解できればともかく、これ以上彼女を見ているのに耐えられない思いがしたので、林立した酒壷を顧みて、楽しく唄って二時間を過ごしたことを感謝し、一週間後にまた来ると言って部屋を出た。 月が中天にかかっていた。

 桟橋に向かって歩きながら、私は去年の今頃の宴を想った。 幽冥境を異にして、今日の宴席に加わることができない友があまりにも多かった。

 去年は、死んだ戦友達も何の屈託もなく笑って騒いで、女性達からラバウルに連れて行ってくれと言われると、

 「女は乗せない艦爆機・・・・」

 と唄った。 その彼等とは遭うことができないのだ。 私も亦、来年はあの席に坐ることはないだろう。

 奚琴を奏でた彼女も、恐らく、生きて二度と故山を踏む機会はあるまい。

 来週また来て、彼女達にせめて慰めの言葉をかけてやりたいと思った。 それは、哀れな胡弓の音色による感傷のせいではなく、彼女が、私よりも遥かに哀れな運命の人間であるからであった。
(続く)

2010年01月03日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その42

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (11)

  その4 起死回生への努力

 昭和18年8月1日、私は横須賀海軍航空隊の艦爆隊長を命ぜられ、航空母艦 「瑞鶴」 を退艦することになった。 この時、「瑞鶴」 はカロリン群島の中心であるトラック島の環礁内に碇泊し、飛行部隊は環礁内の竹島基地で訓練中であった。

 8月5日、後任隊長の津田大尉に申し継ぎを終え、いよいよ基地を去ることになった。 私は1年3か月に亘る数次の戦闘で、疲れ果てていたが、後に残る部下の中には私よりももっと疲れた肉体を不屈の闘魂で包んで、死ぬまで戦い抜こうとしている者が7人もいた。

 彼らは去り行く私に言った。

  「 隊長が、私達を横須賀航空隊へ一緒に連れて帰ろうとされたことは承知しております。 しかし、古参の者が総て 「瑞鶴」 を去れば、新任の津田大尉や若い者達には、空戦の駈け引きが解らなくなります。 私達はここに残って、若い者達を教育します。


   お別れに当って隊長へのただ一つのお願いは、明日の戦闘のために、艦爆隊に13粍旋回銃を大至急送って頂きたいことです。 私達が、今日まで1年半、敵の戦闘機に悩まされたのは、わが7粍機銃には敵を撃墜する力がないからだということを、隊長はよくご存じです。 隊長! 次の決戦までに、13粍を私達に与えて下さい!」


 彼らの声には必死の願いが籠っていた。 このことについては、私も数回に亘って横須賀航空隊に要求し、その実現を待ち望んでいたのであったが、待てど暮らせど実現せぬままに、皮肉にも私はその要求先の隊長に転任することになったのであった。

 想えば私達は、南太平洋戦で、ソロモン戦で、フロリダ沖戦で、或いは、ニューギニアの北岸作戦で、敵戦闘機の13粍が、4門連射の物凄い射速で、急湍 (きゅうたん) のような轟音とともに私達艦爆隊を襲うのを体験した。 それに対して、わが艦爆の後席から射ち出す7粍は、細々と哀れなものであった。

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( 原著より  フロリダ沖航空戦を終えて  中央が筆者 )

 わが剣は敵より鈍く、わが槍は敵よりも短く、敵は脱兎のように速いのだ。 昨日まで共に戦ってきた部下が、今日はその敵刃の下に倒され、生き残った者が「くやしい!」と絶叫する声を、どう受けとめたらいいのか? 日本海軍の伝統に言う、

 「泣き事を言うな!」

 「与えられたもので戦って、倒れて後止むのだ。」

 ということはよく解って言たが、単純にこの伝統を肯定することはできなかった。 
 それは共に戦っている者を殺された時の怒りは、理由の如何を問わず、その敵に一矢を報いるまでは消えるものではないということであり、観念的な伝統では解決できないことだったからだ。

 今、竹島に残る部下達が、去り行く私を炯々 (けいけい) と見つめる眼光はそれを主張しているのであった。

 この主張が、直ちに日本海軍全般の起死回生の道であるというのではないが、横須賀航空隊に着任したら、是が非でも、この目に答えねばならないと思うのであった。

 私は九七大艇でトラック島を飛び立ち、一路横須賀に向かった。
(続く)

2010年01月04日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その43

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (12)

  その4 起死回生への努力 (承前)

 8月7日、横須賀に着任して、早速司令以下の幹部にソロモンの戦況を告げ、艦爆隊の空戦について詳しく説明し、13粍の必要性を力説した。

 当時、機銃は横須賀工廠で生産されていたが、設計研究はすべて空技廠兵器部で行なわれていたので、空技廠に行って同じように説明した。 しかし、返答は極めて簡単であった。

  「 九九艦爆の機体と銃座の強度は13粍機銃には不足であるから、これを改造補強しなければ13粍を装備することができない。 もし、今から九九艦爆を改造すると仮定すれば、どんなに急いでも改造開始までに6か月を要し、戦場への配分は更に半年を要する。 それよりも、次期の艦爆流星に13粍 (20粍) を装備した方が近道だ。 それは既に基礎実験も終わっている。」


 ということだった。

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( 十六試艦上攻撃機 「流星」 )

 一応筋の通った話であったので、返す言葉に窮したが、黙って引き下がるわけにはいかなかった。 もっと詳しく事情を知るために、担当の技術者から直接話を聞くことにした。 若い技術大尉は次のように答えた。

  「 日本海軍の機銃の研究開発は、20粍固定銃とその弾倉について長年の実験が行なわれ、加重中の弾丸の装填能力を解決して、昭和15年、零戦の装備に成功し、世界的脅威となった。


    しかし、13粍旋回銃については、動力銃架の研究が遅れ、更に、九九艦爆への装備については、この飛行機の急降下引き起こし時の加重に対する胴体構造上の強度から、13粍銃及び動力銃架の重さに耐えられない。


   また、13粍を積むためには後席を広くしなければならないが、それが胴体の強度が耐えられない原因に加わってくる。 それでもなお13粍を装備しようとすれば、機体の大改修となり、一年以内に完成できる見通しが立たない。」


 要約すると、自重2.6噸の九九艦爆には13粍装備は無理であり、3.7噸の流星艦爆にやっと装備可能であるということであった。

 技術大尉は、誠実な男であった。 懸命に説明した後、苦しそうに私を見つめ、そして悲しそうに沈黙した。 これ以上追求するわけにはいかないので、別の方法を捜さなければならなかった。
(続く)

2010年01月05日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その44

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (13)

  その4 起死回生への努力 (承前)

 さて、横須賀航空隊には、若い俊秀が集まっていた。 彼らは、前任の隊長の指示によって次のような研究開発を実施中であった。

 @ 戦訓に基づき、現用機材及び搭載兵器による新戦術の研究開発と、それに必要な機材等の改修。

 A 新採用の機材及び搭載兵器の実用実験と、新戦術の研究開発。
 B 新着想による新戦法、新機材、新兵器の研究開発。
 C その他、戦闘情報の収集と戦闘部隊に対する戦術支援。

 私は、これらの内容を資料に基づいて調査し、この中に前線の苦境を救う起死回生の妙薬はないかと捜した。

 第一は、新機材、装備について、海面上の水平全速力、運動性、機銃の口径、射通、携行弾数、防弾ガラス、防弾タンク等、敵戦闘機との空戦に関係のあるものに注意を集中した。 その中で、急降下爆撃機Y20銀河については、

 @ 海面水平全速260ノット。
 A 13粍固定銃2、同旋回銃1。
 B 実用実験を終り量産中。
 C 防弾タンク装備可能。
 D 九九艦爆パイロットからの機種転換容易。
 E 整備上の難点少し。

 ということが解った。

 第二は、過去一年間の戦訓に目を通した結果、昭和18年2月以降、ガダルカナルを起点として飛び石づたいに、ツラギ、レンドバ、バラレに進攻して来た敵機の主力はアメリカの陸上機であって、艦上機ではないことがはっきりした。 日本は、これらの陸上機を艦上機で迎え撃った。

 つまり、過去一年間の戦闘は、アメリカの陸上機と日本の艦上機との戦いであった。 艦上機には、着艦装備、狭い場所への格納、離着陸距離の制限等があるため、構造が複雑となり、製造工数が増加し、量産不適となる。 これらの不利を、日本は今まで全面的に受けてきた。

 しかし、もはや敵は飛び石作戦を終えて、母艦部隊をもって、中部太平洋を白昼堂々と日本国有の基地に侵攻して来始めた。 日米の戦術は、緒戦期と逆転したのだ。

 今後日本は、好んで航空母艦機で対抗する必要はない。 この時こそ、陸上機の生産に全力を注ぎ、テニアン、トラック等の 「不沈空母」 に陸上機を配し、アメリカ機動部隊の 「浮かぶ空母」 を撃沈すべき時だ。

 殷鑑 (いんかん) 遠からず、夏后 (かこ) の世は一年前にあった。 この点からも銀河は最適の機材であった。

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( 陸上爆撃機 「銀河」 一一型 )

 第三は、陸海軍に分れている航空要員、生産資材を統一すれば、人的資源に不足はなく、機材の生産にネックが少なくなるであろう。 銀河の採用と量産は、この観点からも適切であった。

 以上の三点から、銀河こそ 「瑞鶴」 艦爆隊が求めているものであると同時に、日本の次の戦略態勢回復のために必要不可欠のものだと思った。

 この機材をトラック島の部下達に与えたら、彼らは再び勇躍して、P38に立ち向かって行くに違いないし、日本の起死回生の妙薬になるかも知れないと思うのであった。

 しかし一方では、私の眼底にはトラック島にいる部下達の目が焼きついていた。 九九艦爆にも13粍機銃を与えてやりたいのだ。 それが日米の戦略態勢を転換する起死回生の妙薬にならなくても・・・・。

 せめて彼らに、明日の戦いを満足して戦わせてやりたいと思うのであった。 しかし、その望みは先刻述べた理由によって断たれたのであった。 寂しいことであった。
(続く)

2010年01月06日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その45

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 星落秋風 (14)

  その4 起死回生への努力 (承前)

 着任してから一月が過ぎた。 資料調査の手を広げ、銀河に限らず当面する焦眉の急を救う対策を求めた。 その結果を極めて簡単に述べると、次のとおりであった。

 @ 彗星一二型水冷式艦爆については、加速と減速の早いことと、海面全速の速いこと (海面290ノット、5千米313ノット) は、P38より速い。


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( 艦上爆撃機 「彗星」 一二型 ) 

 余談になるが、後年、千早猛彦大尉 (62期) が、彩雲偵察機に乗って外南洋を偵察中、敵戦闘機に遭遇した時、エンジン全速にしてこれを引き離し、悠々と敵の大部隊の上空に侵入して、「我に追いつく敵機なし」 の名文句を打電したことは、戦史に残る話であるが、彗星艦爆も特攻機として、敵の艦上戦闘機の追跡を振り切って突入している。 (設計者、山名正夫博士 当時海軍技術中佐)

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( 艦上偵察機 「彩雲」 一一型 ) 

 ところが、この彗星にも13粍旋回銃は積んでいない。 しかし、P38より優速だから不要と言えるだろう。 この飛行機をトラック島の部下達に与えてやったら、13粍を与えてやる以上に喜ぶかも知れないと思った。

 A 彗星三三型空冷式については (海面全速約206ノット、6千米304ノット)、13粍が必要であると思ったが、九九艦爆同様装備不可能であるので、更に検討の要があると思った。


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( 艦上爆撃機 「彗星」 三三型 ) 

 B 流星については、着任の時、直ぐにも完成するように言われたが、担当のテストパイロットに言わせると、翼根ストールがまだ十分解決しておらず、量産が遅れそうであった。

 C 零戦については、急降下爆撃機に改装することは可能であったが単座であるので、爆撃精度と行動力の低下があると思った。

 D 爆弾、魚雷、照準器、防弾ガラス、防弾ゴム等については、整備取り扱い上名人芸式技術を必要とするところが気になったが、実現しそうであった。


 以上を要約して、銀河一一型と彗星一二型の量産を併行して推進すれば部下達に満足してもらえるし、日本の起死回生の道につながるかも知れないと思うのであった。


 18年11月末、私の前任隊長江草少佐が、銀河部隊を編成し (於豊橋航空隊)、戦線進出の準備を始めた。 もし江草部隊がテニアンに配備になれば、私も続いて銀河隊を編成し、トラック島に進出して艦爆隊の旧部下を収容しようと思った。 それは、遠い未来のことではなさそうであった。

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( 原著より  江草隆繁少佐 )

 翌19年2月、江草銀河部隊がテニアンに進出した。 次は私の番であった。 しかし、銀河の生産は遅々として進まなかった。

 そして、この日本のノロノロテンポが、アメリカ機動部隊の進攻のスピードを刺激した。 敵は三つのグループに分れて、超スピードで侵攻を開始したのである。

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( 原著より )

 その第一は、ニューギニアの北岸寄りを西進し、18年11月1日、ラバウルに大空襲を仕掛け、続いて目と鼻の先のトロキナ岬に上陸し、ラバウルを無力化しようと計った。

 「瑞鶴」、「翔鶴」 の艦爆隊と戦闘機陳170機は、私達の時と同じようにラバウルに進出し、これを迎え撃った。 十一航空艦隊の中攻、戦闘機約200機も、全力を挙げて奮戦した。

 しかし、この作戦で約3分の1の機材人員を失い、十一月末、トロキナ基地は占領され、ブイン、ショートランドの機能は完全に停止した。

 その第二は、敵機動部隊が、18年11月下旬、ギルバート諸島のマキン、タラワを陥し入れ、更に南太平洋を北西に進み、12月初旬、マーシャル群島に現われた。

 これを海上に迎え撃った基地航空部隊第二十二航空戦隊の中攻隊と、艦戦隊約50機は全滅し、年明けて19年1月下旬、マーシャルが陥落した。

 マーシャル基地を失った日本の第一線は、トラック、テニアン、サイパンとなり、二十二航戦は、トラック島で再建を計り、ラバウルの二十六航戦の中攻、艦載もトラックに後退した。

 その第三は、マーシャルを陥し入れた敵機動部隊は、更に新鋭空母部隊を加え、2月17日、トラック島に来襲した。

 「瑞鶴」 艦爆隊を初め艦上機部隊と、再建中の二十二航戦の中攻、艦戦は全力を挙げて戦ったが、135機を失った。

 以上の作戦の結果、「瑞鶴」 艦爆隊は恨みを残してトラック島を去り、フィリピンで再建を計ることになった (六〇一航空隊)。 この戦いで、「瑞鶴」 艦爆隊は隊長が戦死し、最古参搭乗員7人は4人に減り、若い者の約2分の1が散華した。

 彼らはこの期間中も、7粍機銃で戦った。 あれ程渇望していた13粍機銃を与えることができず、敵の機動部隊の蹂躙のままに半数の戦死者を出して退却したのであった。

 口惜しかったであろう。 私を恨んだであろう。 私は彼らに会わす顔がなかった。
(続く)