2010年04月23日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その16

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (16)

   その6 (承前)

 ここで事故の原因等について纏めてみよう。

 当時の記録は今はどこにもない。 総て私の個人的な推論に過ぎないものと御承知願いたい。

 @ K中尉のオートバイと飛行機が衝突した時、オートバイの速度は約15m秒 (30節) であった。 飛行機の気速は65ノットで迎え風約2米であったから、対地速度は30米秒であった。 これを作図すると、直角三角形の直角を含む二辺が一対二で、その交点が衝突点になる。 オートバイからの飛行機の方位を求めると左60度、仰角約5度で一定である。 (衝突2秒前にはオートバイと飛行機の距離は約100mになる)

 A K中尉が疾走していた道路は舗装されていなかったので凹凸があった。 この路面を15m秒で走るためには、彼は顔を真直ぐ前に向け、2、30m先の路面に最大の注意を向けていなければならない筈であった。 一方、彼はヘルメットも軍帽も被らず、眼鏡もかけていなかったし、道路の左側は甘藷畠であったから、Nの飛行機とKの目を遮るものは何もなかった。 彼の視覚に飛行機が入る時機は、医学的には飛行機との直距離約100m以上であるという。

 B 事故現場から逆算すると、Kが飛行機を発見した時機は、衝突前0.4秒 (Kが飛行機を意識して、首を振ることを運動神経に伝達した所要時間0.2秒と、首を90度振った所要時間0.2秒を足した時間) で飛行機との距離は15mである。

 C K中尉はどうして15mまで飛行機が見えなかったか? それについては、次のような意見があった。
 (a) 凹凸に気を取られて、無我無中であったのであろう。
 (b) 何かを考え、気も心もそぞろに上の空であったのであろう。
 (c) 非常に疲れて注意力が衰え、外界のもの総てがよく見えなかったのであろう。

 D これに対する反論は次のようであった。
  この道路の凹凸は、深さ30cm、直経2mに及ぶものが約10m間隔で、3m幅の道路一杯にジグザグに連なっている。 15m秒の疾走中に無意識に避けられるようなものではない。 凹凸に気を取られるのは当然だが、そうなると医学的に彼の大脳には、路面前方ばかりでなく左右、上下に気を配る働きが生まれる筈で、無我無中になっていたとは言えない。 特に、Kはパイロットであるから、路面の凹凸だけに気を取られて、他に注意が向かないような人間ではないと。


 かくて、本事故の核心は、推理の城を越えて想像の城に人らざるを得ないのである。 私はその一つとして次のように考える。

 初めにお断わりするが、私はK中尉と深い交際はなかった。 にも拘らず、彼の一身上のことについて想像を還しくすることは、彼とター坊 (ター坊は実名で、私の先輩にも後輩にも彼女を知っている人が多い) に対して失礼である。 荒唐無稽の物語を書くわけではなく、一つのケースとして十分あり得ることを書くつもりである。

 Kはその日の早朝、ター坊を振り切って車上の人となり、大村街道を航空隊に向かった。 早朝の街道には行き交う車も人もなかったので、思い切りアクセルを踏んだ。 砂利が前後左右に跳ね、大きな音を立てて松並木に当った。 驀進するオートバイの轟音と、手足に応える激しい振動が心地よかった。

 やがて竹松村に入ったが航空隊はまだ遠い。 路面は益々悪くなり、時々前輪が大きい穴の縁に当って跳ね上がり、思わず前屈みになってハンドルにしがみついた。 その瞬間、ハンドルに残るター坊の手の温みを感じ、網膜に彼女の顔が大写しになった。

 前輪のフェンダーに抱きついた彼女の腕も、突き飛ばしても直ぐ立ち上がってむしゃぶりついてきた彼女の胸も肩も腰も泣き叫んだ声も、総てが耳の底と眼底に蘇ってきた。 そして、彼女の悲泣の裏にあった愛情を汲み取るのであった。

 やがて、飛行場の芝生が目の前に開けたので無意識に街道を直角に曲って隊門に向かった。 彼は考え続けた・・・・昨夜来の彼女の言葉や行動の中には不審なことが多かったが、何を言おうとしていたのであろうか?

 パイロットたる俺が、飛ぶために飛行場に急ぐのを何故止めたのであろうか? 意味もなく感情を激発するようなヒステリー女とは思えないのに・・・・。 飛ぶことを生命とする人間に対して飛ぶことを恐がることは、その人を侮辱することになるということくらい解らないのであろうか? 女には所詮男の心は解らないのか・・・・。

 少し彼女が癪にさわってきたので、馬鹿な奴だと罵ってみた。 しかし、彼女の泣き声を消すことはできなかった。 彼はそんな自分に怒りを覚え、アクセルを乱暴に踏んだ。 路面の凹凸も解らず、オートバイがジャンプしても気づかず、前面の車輪幅の一直線の道しか見えなくなった。 そして、獅子奮迅の勢いで飛行機に激突した。 最後に顔をそむけたのはただ本能であった。

 私はこの事故の後、いつ頃からかは詳らかでないが、以上のように想像し、それが頑固に私の頭にこびりついて離れなくなった。 そして、それがこの事故の真因であるような錯覚を覚えるのであった。 しかし、これは、あくまで私の想像である。 かくて、この事故の原因は分らないままに今日に及んでいる。


 後 記

 この事故の後ター坊は益々無口になり、酒席に出ても笑うこともなく、鋭く妖しい眼光を見せることもなくなった。

 昭和12年9月、私は北支の戦線から大村に帰り、再び上海戦線に転戦するまでの一週間を、K中尉が下宿していた乾物屋の離れに泊った。 ター坊は、浸み透るような寂しさと空しさの中で、ひっそりと生きていた。 K中尉の遺影の前にコスモスが一輪活けてあった。

 昭和15年秋、彼女は乾物屋を去り、経ケ岳山麓の彼女の自家に帰った。 嫁がずに暮らしているという。

(第1話終わり)

2010年04月22日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その15

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (15)

   その6 (承前)

 一方、私の2年先輩にKという中尉がいた。 彼は艦上攻撃機のパイロットで大村航空隊に勤めていた。 チョンガーの気儘さで乾物屋の離れに寝泊りしてター坊の世話になりながら、オートバイで航空隊に通っていた。

 或る春の朝であった。 朝寝坊をしたので、朝食も採らずに例の老松の並木道をオートバイで航空隊へ急いだ。 竹松村に入って飛行場の南東のエンドを海岸に向かって左に曲り、更に隊門に向かって一直線の道をフルスピードで飛ばした。 左は甘藷畠、右は広漠たる飛行場である。

 その時、航空隊では、九〇式戦闘機の試飛行が行なわれていた。 そのパイロットはK中尉の一年後輩のN中尉であった。

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( 九〇式艦上戦闘機 )

 Nは空中テストを終えて着陸コースに入り、飛行場の手前のエンドを見ると、オートバイがエンドに沿った道を砂塵を巻き上げながら隊門に向かって疾走している。 そのオートバイの方位角は右約20度で少しも変わらない。

 Nは危険を感じたのでやり直そうかと思ったが、多分オートバイは飛行機に気づいて間もなく停止するだろうと判断して、そのままグライドを続けた。 ところが、オートバイはグライドしてくる戦闘機に全く気づかない。

 それから数秒後、オートバイが突然Nの視界から消えた。 それは、Nが機首を上げたのでオートバイが右下翼の陰に隠れたからであった。 Nはハッとして操縦席から身を乗り出すようにして下を見た。

 次の瞬間に最悪の事故が起こったのである。 かみそりの刃のような九〇式戦闘機のプロペラが、K中尉の頭蓋骨を真二つに切断したのだ。

 K中尉は、頭蓋骨を切断される瞬前に、自分に覆いかぶきってきた飛行機を体に感じたらしく、本能的に顔を右によけた。 その顔を後からプロペラが迫った。

 プロペラは二枚で、進行方向に対してクロックワイズに1分間に6百回転で回りながら65ノットで飛んでいた。 そのプロペラの最尖端から約20パーセントのところが、K中尉の右の耳の2、3糎後方から左のこめかみまで切り取ったのである。

 彼の肉体は、目、鼻、口、額、頬にかすり傷一つない完全な Deathmask と、目茶目茶に毀された四肢となって飛行場エンドにばら撒かれた。 一瞬の惨事であった。

 N中尉の驚きと悲しみは激しかった。 彼は後年中国戦線で戦死したが、死ぬまで酒も煙草も止め大声で笑うこともなかったという。

 それはさて措いて、K中尉の死の前夜のことについて触れておこう。

 乾物屋の女将とター坊の証言によると、彼はあまり飲まない男であったが、その晩は珍しく酒を過ごしてター坊と夜遅くまで話した。 その時彼女はK中尉の身の上に何となく不安を感じたので、一週間ばかり休暇をとるように勧めた。

 翌朝、K中尉が朝寝坊をして飯も食わずに急いでオートバイを引き出そうとした時、彼女の目にはK中尉の背中に暗い影がはっきりと見えた。 そこで彼女は、K中尉に再び休暇をとるように強く訴え、今直ぐ航空隊に電話をして許可を受けるようにと言い張った。

 K中尉が笑って相手にしないと、彼女はオートバイのハンドルにしがみついて頑強に抵抗した。 Kは止むを得ず彼女を突き飛ばして、その隙にオートバイに乗り、逃げるようにして航空隊に向かった。 彼女は泣きながら彼の後姿を見送ったのであった。

 その日の夕刻、K中尉の血痕のついたオートバイのハンドルを握って、彼女はさめざめと泣いた。 それは、どんなに叱られても、殴られても、このハンドルを放すのではなかったという悔恨の涙であった。

 ター坊の証言を続けよう。 彼女が見たという暗い影は果して死の影であったのか? それとも、いつまでも愛されることを願う女怪特有のエゴイスチックな不安の影に過ぎないものであったのか?

 一般に、当人が死んだ後で、「そう言われて見ると」 と前置きをして、「あの人の背中には暗い影が見えた」 というような符節的な証言には参考価値はないが、彼女の証言はそういうものではなかった。

 彼女は一年も前からK中尉を愛していた。 いつかKも彼女を愛するようになり、二人は昨夜初めて結ばれた。 その時彼女は、Kの心の底も肉体も透き通るように見えるようになり、彼の肉体に纏わる暗い影を見たのであった。

 この証言を聞いた時、私は背中に冷汗が流れた。 ひたむきな愛によって、彼の死の裏で生きていかねばならない宿命を彼女は予感したのであろう。 それには疑うことのできない迫真性があった。
(続く)

2010年04月21日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その14

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (14)

   その6 (承前)

 昭和11年12月、私は大村の屋敷町に下宿して航空隊の専用バスに乗って通勤した。 航空隊に向かって町を北に出外れると僅か1粁も行かないうちに、街道はバスがやっと行き交うことができる程の砂利道に変わる。

 道の両側には、亭々たる老松が聾え (参勤交代道路のシンボル)、曲りくねった根が道路を狭くするように盛り上がっていたり、丈余の萱が生い繁り、枯れたすすきの穂が道路に垂れ下がっている所もあった。

 町家は殆ど見当らない。 街道の右側には2、3百米離れて、原始のままの竹薮が見受けられた (竹松村の名がここから生まれたという)。 左側は台状の甘藷畠で、海岸まで約2粁の間を遮るものは数軒の農家しかない。

 20分ばかり走ると、左手に広い芝生地帯が展開する。 それが飛行場で、海岸寄りに格納庫が5、6棟見えた。 バスは芝生地帯に沿って左に曲り、隊門に向かって1500米の道を直進し、航空隊の表玄関に着く。 これが航空隊と大村町をつなぐ唯一の道路で、この他には農道しかなかった。

 町のほぼ中央、街道に沿って山の手側に 「乾物屋」 という変わった名の料亭旅館があった。 武家の女房であったという婆さんと女中3人で経営していたが、大村航空隊が開設されて以来、航空隊の幹部とその家族達は専らこの料亭旅館を利用した。 また、東京方面から出張して来る海軍の高官達もここに泊った。

 間口は5、6間、奥行が50間以上もあるだだっ広い造りで、長い廊下には朽ちて穴の開いている所があったし、風呂は五衛門風呂が一つしかなかった。 12、3の大小の部屋の畳は黄色く襖も煤けていたが、玄関の連子窓と格子戸だけはよく磨かれて黒光りがしていた。

 珍妙であったのは、玄関の正面左側に、乾物屋の看板と並べて、「財部彪海軍大将御宿泊」 という看板が、昭和5年のロンドン軍縮条約以来7年間も掛け忘れたままになっていた。 この家の建築も武家造りで、働かずに生きていくことを誇りとした大村藩の家人の名残りの家であった。

 この料亭に、ター坊という住み込み女中がいた。 彼女はこの料亭の主人の縁籍の娘であったが、全く不思議な女であった。 馬鹿なのか利口なのか解らない無口な女で、年の頃は18、9のあどけなさを見せることもあるし、時には30歳を越えているような仕草をすることもあってよく解らなかったが、22、3だという噂であった。

 10歳頃まで男の子として育てられ、服装には無頓着で、時にはズボンを穿いていることもあった。 色は浅黒く、鼻筋が通って受け口の円い唇で美人の部類であったが、私達が飲みながらあまり上品でない話をしていると、彼女の目が妖しい光を放つことがあって、思わず話を中断することがあった。

 そんな時にも、知ってか知らずか前屈みに銚子を持って、やや落ち窪んだ大きい目を上目使いにして、下三白眼の一隅から鋭い光を放つのであった。 それは色っぽいなどと言えるものではなく、背筋が寒くなるような凄みがあった。

 彼女にはもう一つの特長があった。 それは、真夏には氷のように冷たく、真冬には燃えるような温かい餅膚に、いつも油汗をかいて、たまたま彼女の手首に触れたりすると絆創膏に触ったようであった。

 もしかしたら彼女は、所謂 Sharman (巫女) と言われる人間の部類に属し、百万人に一人くらいの割合でこの世に生まれてくる女であるかも知れない。 中国の正史 「魏志東夷伝」 の倭人の項に、邪馬台国女王卑弥呼のことを 「鬼道に事え能く衆を惑わす」 と書いているが、大村地方が邪馬台国で、彼女が Sharman 卑弥呼の末裔であろうと考えても符節が合う。

 このような女は、いつ精神転換をして神がかりの状態となり、あらぬことを口走り、薄気味悪い予言者になったり、千里の彼方から死霊を呼んだりする女に急変するかも解らないのだ。
(続く)

2010年04月20日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その13

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (13)

   その6

 長崎県大村は、古里の山河のように懐かしい。 それは、昭和12年春この地で延長教育を受け、初めて急降下爆撃機に乗ったからという理由によるのではない。 或いは、この町に好きな人がいるからとか、この町の酒の肴がうまかったからということでもない。 昭和12年の晩春、この基地で突発した航空事故とそれにつながる哀れな恋の物語の故なのだ。

 私は、大村の海岸を散歩するのが好きだった。 町の南西、大村湾が大きく東に曲って入江を作る所に大村城址がある。 この城址の北隅にある土塁の上から眺める四囲の景観は素晴らしいもので、北東の空を仰ぐと経ケ岳と多良岳がどっしりと下界を見下ろし、裾野は天衣のように柔らかく大村の町を抱きかかえている。

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( 原著より   大村城趾 )

 西方には彼杵 (そのぎ) 半島の連山が、南方には長崎の山々が大村湾の彼方に浮かび、四季とりどりに、或いは、朝夕、晴曇によって、緑、濃紺、黄、紫と装いを変えていく。 雨に煙った時は、山も海も淡いブルーに溶けてしまう。

 北方は針尾島が水平線の彼方に浮かんでいるように見えるが、それは、大村から針尾にかけて、湾の幅が狭まっていく度合と、湾の両岸の山々の標高が低くなっていく度合とが同じで、針尾島が無限の彼方の頂点にあるような錯覚を感ずるからだ。 幻燈をのぞくような眩惑である。 天地創造の偶然の美しきがそこにあるのだ。

 この地方の気候は温和で晴天が多く、岸辺の梅は正月には花を開き、3月初旬には土塁の上に桜が咲いた。 農土は豊壌とは言えないので、「耕して天に至る」 という情景は少なかったが、経ケ岳の三合目くらいまで蜜柑の段々畑があった。

 湾内の海は変化に富み、北西の風が吹き続けると、玄海灘と同じように怒涛が岸辺の黒い熔岩粒の上に砕け、南東の風が吹くと鏡のように静かになった。 この海は魚貝類が豊かであったので、漁師達はあまりがめつく働かなかった。 小舟に乗って岸辺の近くで糸を垂れ、悠然と釣を楽しんでいる態で、絵にしたいような風情があった。

 余談になるが、或る日、こんな漁師の一人と岸辺で話し込んでいるうちに、話の経緯からその漁師に可愛いポインターの小犬を貰ったことがある。

 その犬を可愛がって3か月ばかり育てたが、転勤の時、請われて駅前の碁会所の主人にやった。 それから3年後に、大村に行ってその碁会所に立ち寄ったところ、見違えるように逞しく育ったその犬が私に飛びついて懐かしがった。 とても情に厚い犬であったが、この町の女性も、それにも増して情が厚くて優しい人が多かった。

 この町の政治的経済的な変化発展の歴史を調べてみると、徳川時代、明治大正時代を通じて、他の地方とは大分違った経過を辿っている。

 この町は、小さいながらも城下町である。 古城址もある。 私の時代には山の手寄りに武家屋敷もあって、崩れかかった土塀に徳川時代の名残りを見せていた。 海岸寄りは下町に当り、半農半漁の古びた家や雑貨屋などが軒をつらねて、徳川時代の庶民の匂いを残していたが、このような城下町ができたのは、更に遡って室町時代である。

 もともとこの地は大村家の拠点であり、室町末期の1571年に長崎を開港して、長崎、諌早、大村、彼杵、鹿島、佐賀、久留米、小倉に通ずる街道ができ、徳川時代に大村忠純公がこの道を増幅整備し、大村をこの街道添いの交通の要衝として整備した時に始まっている。

 時代が降って長崎を窓口とする日本の貿易が膨張するにつれて、この街道沿いには宿屋が建ち、飯盛り女が客を呼ぶようになった。 城下町が宿場町へと変わり始めたのである。 それは時代の流れであった。

 しかし、2万7970石の肥前大村の殿様とともに長年に亘って生きてきたこの町の人々はそれに抵抗した。 街道筋だけは仕方がないとしても、せめて町内の他の区域には飯盛り女の累を及ぼさないように努めたのである。 その努力は私達の時代まで続いていた。

 昭和12年頃には、この街道の裏筋にもまだ徳川時代のしもたや風の家や大きい門構えと白壁の土蔵のある武家屋敷が数軒あったが、それを尻目に、食堂、カフェー等が進出してきて、しもた屋は宿屋や商店に改造され、武家屋敷は止むなく一軒一軒と後退してその後地が袋小路になりつつあった。 それは、嫌々ながら引退する頑固親父に似ていた。

 昭和16年頃になると、その袋小路に、すし屋、おでん屋、一杯飲み屋などが夜を稼ぐようになった。 そして、この街道筋だけは完全な宿場町に変わってしまったのである。 随分歳月がかかったものだと思う。

 失礼な話になるが、大村の町をふんどし町と呼ぶ他国者がいたが、それはこの一筋の街道以外には町らしい街がないという意味か、或いは、宿場町へ変わったことを、武士が褌を外したようだと諷刺したのか私には解らなかったが、何れにせよ、この町の人々はこの街道筋を利用はしても繁華には馴染まず、城下町としての慎ましやかな静けさを維持していた。

 大正11年12月1日、このような歴史の町大村の北西約5粁、この街道に沿う海岸寄り一帯の地域 (竹松村) に大村航空隊が建設された。 私がここに着任したのは、その建設後14年目であった。

 当時のこの地方の古老の言によると、その14年間に、兵隊さん専用の4、5軒の飲み屋と旅館が増え、学校が立派になっただけで、その他は殆ど変わらなかったという。 当時の地方都市の保守的な意気地が感ぜられて面白い。
(続く)

2010年04月19日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その12

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (12)

   その5 (承前)

 ところで、安藤一曹の事故の説明はなかなか禁酒論に入らないので、私は彼に質問した。

 「安藤一曹! 話の腰を折るようで申し訳ないが、この事故と先刻君が言った酒を飲んではいけないということとどう繋がるのか教えてくれ。」

 安藤一曹は続けた。

 「酒を飲めば水平線が傾いて見えたり、傾いた地平線が水平に見えることがあるでしょう? 最も恐ろしいのは人間の錯覚です。 人間は雲の中に入ると、水平感の錯覚を起こすことは日常茶飯事のようになります。 水平儀は水平を示しているのに、30度以上も傾いているように感じて、どちらが正しいのか迷うというようなことがよくあるのです。 暗夜に突然漁火を見て星と間違える例は、海軍のパイロットなら誰もが経験することです。

 このような場合、洋上で高い高度を飛んでいる時は、ただ一途に計器を信じて勘の方を押えることです。 錯覚であったことが直ぐはっきりします。 しかし、雲高百米以下で陸上を飛んでいる時のようなきわどい飛行中に錯覚を起こしそうになったら、最も注意しなければなりません。 そんな時は、計器と外象を鋭く対比させることです。 それも、瞬間的に注意の指向を転換させることです。 一つのことに拘ってはいけませんよ。

 ところで、この事故の時、私は一番早く現場に駈けつけたのですが、飛行機は左に約60度傾いて、山の斜面の低い側に左の翼端が先に接地していました。 この時の大地は、飛行機の進行方向に対して約10度左に傾いていたのですが、それより45度ばかり深く傾いて横滑りで接地していたのです。

 その原因は、単純な操縦のミスとはどうしても思えなかった。 私は錯覚と判断しました。 しかし、だからと言って私は、この事故の前日に南野中尉が酒を飲んで二日酔であったために錯覚を起こしたと言うのではありません。 要は、この事故の原因から考えて、人間が錯覚を起こすような原因は平素から一切慎しまねばならないということが言いたいのです。

 皆さんは自分の天性の中に潜在している自分の錯覚の可能性についてはまだ体験していません。 まだ何一つ知らないのです。 だからこそ、錯覚を起こさないための万人共通の守則を厳守するより他に方法がないと言えるのです。 皆さんが今後永い体験を積んで、自分自身の錯覚の傾向を知るまでは是非そう考えて下さい。 そして先ず、どんな時にも泥酔する程飲んではいけないこと、これを守ることが最も卑近で重要なことだと考えて下さい。 解って頂けますか?」

 この教えは、人間の錯覚に対してパイロットたる者の誰もが守らねばならない守則であった。 単なる飲酒の注意ではなかったのである。 私は安藤一曹に深く感謝した。 私達の延長教育は、このような温かい教官達に見守られて順調に進んだ。


 この座談会から三週間日頃であった。 私達の隣の部隊 (隊長高橋嚇一大尉、17年6月珊瑚海海戦で戦死) で錯覚による大事故が発生したのであるが、私は安藤一曹の語った教訓が改めて肝に刻み込まれる思いであった。

 その日は、乞食が洗濯をすると言われるような温かい無風の晴天であった。 大陸の高気圧が移動してきて西日本を覆ったのである。 経ケ岳は薄い靄の中に眠ったように静まり、大村湾は鏡のように漣一つなかった。 その日の訓練項目は、海曹パイロットの急降下爆撃であった。

 1000頃、3機編隊で出発した海曹訓練生達は、大村湾上に設置された爆撃目標 (10米四角の白色の帆布製の浮舟) に対して降爆訓練を開始した。 高度2千米、3機が単縦陣となって進入点に向かって進み、先ず一番機が進入点から約60度の急降下に入った。

 高度6百米で引き起こし、4百米で水平飛行に移った。 基本の降爆法である。 遠雷のような急降下引き起こし時の唸りが湾内に轟き渡った。

 続いて、二番機が急降下に入った。 この飛行機は進入操作にやや思い違いがあったらしく、降下角度が70度くらいになった。 地上からこれを20糎の望遠鏡で見ていた教官がはらはらしているうちに、全く引き起こし操作をすることなく一直線で海面に激突したのである。 望遠鏡を覗き込んでいた海曹教官が絶叫した。

 「起こせっ! 起こせー! 駄目だっ! 分隊長っ!」

 分隊長は指揮所から飛び出して来て、直ちに、「航空救難っ!」 を下令し、自ら望遠鏡にかじりついた。 しかし、その時は既に2機が僚機を捜し求めて大村湾上を低く飛んでいるばかりであった。

 総ての訓練は中止され、救難艇が現場に向かった。 現場には数センチに切断された肉片と翼の破片が鏡のような海面に漂い、赤い血潮が僅かに碧水を染めているだけであった。 若い二人の肉体は一瞬にして機体とともに飛散し、痕跡すらも留めなかったのである。

 その魂魄は、同期の海曹パイロット達を始め、志を同じうする私達パイロット全員の心の底に悲しみのしこりとして留まり、40年後の今も消えていないが、最も哀れを残したのは、桐の小箱に収められた一片の肉魂を渡された老いた母であった。

 この事故原因は、深い悲しみの中でひそやかに結論が出された。 それは、鏡のような海面と霜の立ち込める空間が一体となって、パイロットの高度の感覚を奪い、偵察員の高度の呼称をうつつに聞いていたためではあるまいか。 所詮、推察の城を出ないけれども、この事故原因は、パイロットの錯覚と考えるべきであろうということであった。

 物的なものが一切無に帰したので、以下の推論は私の空想の域を出ないが、この錯覚を起こさせた原因の中には、殉職パイロットの日常生活の中に過度の精神的緊張と肉体的疲労があったのではあるまいか? また、安藤一曹のような厳しくかつ親切な指導が欠けていたのではあるまいか?

 以上、錯覚に起因する二つの事故例を挙げたが、お断わりしておきたいことは、錯覚とは、本来当人がそれを語らない限り、あくまで第三者には解らないものである。

 だから、この二つの事故の原因についても、或いは、殉職者に対して失礼な推論やお門違いの主観的見解が含まれているかも知れない。 もしそうだとすれば、慎しんで地下の霊にお許しを乞わねばならないと思う。

 最後に、安藤五郎教官は、昭和17年10月26日、私の後続小隊長として南太平洋海戦の敵空母 「ホーネット」 攻撃の際、私と同じように空中火災を起こしたが、飛翔を続けて 「ホーネット」 艦上に自爆した。

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( 原著より  安藤五郎教官夫妻 )

(続く)

2010年04月18日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その11

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (11)

   その5 (承前)

 昭和11年の春先であった。 西高東低の気圧配置が緩んで支那大陸の高気圧が移動を始め、一方、上海、台湾附近に低気圧が発生し、その影響で大村地方の天候は不順であった。

 晴れているかと思うと突然満天雲に覆われて経ケ岳が見えなくなり、雲仙岳と経ケ岳の中間の諌早の低地だけが明るく開けて地平線らしいものが見えているという状況であった。

 この日の訓練は航法で、学生は私達の一年先輩の南野中尉 (注) であった。

(注) : 「南野中尉」は60期の南野安次氏のことではなく、同じく60期の野海文雄氏のことと思われます。 恐らく執筆時に仮名として使われたものと考えますが真偽は不明です。 参考サイト : HP 「海軍兵学校」 中の 「海軍兵学校出身者名簿」



1000、南野文夫中尉 (まま、以後同じ) が、地文航法と推測航法訓練に出発した。 大村航空隊の指揮所を起点として地文航法で諌早の低地を抜け、橘湾に出て長崎市の南西野母崎灯台に到着した。 続いて、野母崎を起点として50浬の正三角形の洋上推測航法に移った。

 第1コースは270度、コース上の天候は雲高約2百米で、所々に靡雨性の雨雲が海面まで垂れ下がり、海は鉛のように暗く、12、3米の北西風が波頭を白く砕いていた。 やがて五島列島を右に見て140度に変針、第2コースに入って50浬南下し、続いて第3コースに乗って野母崎に向かった。

 この頃になって天候が悪化し、海面まで雲が垂れ視界は1粁以内になった。 そこで彼は推測航法を止めて、海面上約10米を這って野母崎を求めて飛んだが、予定地点に来ても野母崎灯台が見えない。

 止むを得ず、地文航法に移り、蛇行しながら橘湾の西岸を捜した。 約10分後、雨雲を透して白く砕ける海岸波涛を約5百米に発見して危うく北東に変針し、海岸をキープしながら諌早の南方の低地海岸を捜した。

 諌早市を中心にした低地は、肥前の国の唯一の中生代地層が表面層となっている区域であって、雲仙岳と経ケ岳の噴出岩地層に挟まれ、橘湾、有明海、大村湾の海面と標高50米以下で通じている。

 つまり、この低地は海面の延長と考えてもよい場所であるが、地形が卍字形になっているので、天気のよい時に十分研究しておかなければ雲高50米となった時の通過は極めて難しかった。

 さて、この低地峡を橘湾から北西に越えれば大村湾、北東に越えれば有明湾だ。 彼は、橘湾から諌早上空に入り、農家の屋根とすれすれに北西に向かって飛びながら全神経を集中して経ケ岳の西の稜線を発見しようと焦った。 そして、やっと雲の切れ目にそれらしいものを発見した。

 ところが、その稜線は右に傾いていた。 経ケ岳の南東の稜線が見えたわけだ。 どこでどう間違えたか解らなかったか、約10浬東に流され(A)地点の農家を諌早と間違えたのだ。

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( 原著より )

 このまま飛べば経ケ岳の南麓に衝突する。 彼は急いで左に変針し、(A)点上空に帰り、改めて左に傾いた経ケ岳の裾野を捜すか、一度有明湾に出てから再度諌早市上空に進入するか、何れかを選ばなければならなくなった。

 燃料は後一時間しかない。 彼は焦った。 しかし、遂に左に傾いた経ケ岳の稜線を発見することができなかった。 大村基地を出発してから4時間半経過しても帰らなかったのである。

 航空隊では救難活動が開始され、隊員を始め、諌早、大村、竹松の警察、青年団、農民が出動して経ケ岳の山麓を捜索した。 そして日没迫る頃、経ケ岳の南麓の、標高約100米の甘藷畠に激突して殉職している南野中尉と若い偵察員を発見したのであった。

 断わっておくが、この事故経過には殉職した南野中尉自身の告白のような内容があるのにお気づきと思う。 それは、海曹教官と私達との座談会のあった日の約3か月後、私は南野中尉と同じコースで航法訓練を行ない、彼と同じような天候に遭った。

 その時、私は(A)点に流されていると判断して有明湾に出てから諌早市上空に辿り着き、市内を流れる川の橋の袂の料亭らしい大きい建物が目についたので、それをキープして5、6回も諌早上空を旋回しながら経ケ岳の西の斜面が見えるまで雲の切れ目を根気よく捜したのであった。 そして、約30分後にそれを発見し、航空隊に帰り着いた。

 この時の私自身の体験と、諌早市上空に到達するまでの南野中尉の体験とは同じであろうと推定して、私の体験を南野中尉の事故経過のように書いたのである。 死者の告白ではない。

 この事故は今から37年前 (執筆同時から) の事であるが、この時代には、陸上を飛行中に、附近の山よりも低い高度で間違って雲の中に入った時は、その山を避けながら計器飛行でより高く高度をとり、洋上に出て、海面まで降下し、陸岸に辿り着いて地文航法で目的地を捜すという経過を辿らなければならなかった。

 もし、それに必要な燃料がない時は、止むを得ず90パーセント山と激突することを覚悟して雲から出なければならなかった。 雲は、当時の飛行機乗りにとって恐ろしい存在であったのである。 特に、周辺の地形の複雑な佐伯、大村航空隊は鬼門と言われる程嫌な基地であった。
(続く)

2010年04月17日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その10

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (10)

   その5

 昭和11年12月中旬、私は飛行学生を卒業し、続いて延長教育に入ることになった。 延長教育というのは、練習機を終えた若鳥達を第一線の実用機 (作戦機) に乗せるための教育である。

 実用機には操縦装置が一つしかないから、練習機のようにダブルの操縦装置で手を取り足を取って教えるという具合にはいかない。 隔壁を隔てた偵察席から伝声管一本で教えるということになる。 だから、難しいと言えば難しい。 危険だと言えば、これ程危険なものはない。

 しかし、教えられる学生は、危険を感ずるどころか、新婚旅行に出るような気持で実用機というじゃじゃ馬娘に乗っていい気分になるのであった。

 年の瀬も迫る頃、戦、爆、攻、二座水偵、三座水偵の5機種に分れた私達は、霞浦航空隊を門出して、戦闘機班は佐伯航空隊へ、艦攻班は館山航空隊へ、艦爆班は大村航空隊へ、水上機班は呉と佐世保へ分散赴任した。 私は艦爆班4名の内の一人だったので、勇躍して九州男児の国肥前大村に着任した。

 当時の大村航空隊は、現在の海上自衛隊大村基地、陸上自衛隊竹松駐屯地及び竹松町 (当時は竹松村) の農地1200米、1500米の矩形の地域であった。

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( 原著より  戦前の大村航空基地全景 )

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( 昭和22年版の米軍地図より )

 当時の施設がそのままの姿で現在も使用されているのは、海上自衛隊の飛行艇格納庫とスリップ、陸上自衛隊の庁舎及び隊合の一部 (当時のBOQ) だけである。

 陸上飛行場は農地に還元されて殆どその面影を留めていないが、沢山の掩体壕 (原注参照) が昭和19年に飛行場の外周に治って造られ、それが今もそのまま放置されているので当時の飛行場の輪郭だけはよく解る。

(原注) : 掩体壕というのは機体を一機ずつ納めたコンクリートの傘のことで、傘の上を草木でカモフラージュした。 壕の中で試運転が可能であり、敵襲に対しては壕の中からエンジン全速で飛び出すことができた。 各壕に収めた飛行機は、総て飛行場の中心部に向かって離陸できるように配列されてあった。


 私が着任した時は、勿論これらの掩体壕はなく、飛行場の外周部は刈り込まれた雑草地帯であった。 春が来ると、そこにはつくしが雑草を覆う程生えて、村の娘達が日曜日毎につくし狩りに来たものだ。

 本来、この飛行場が造られた大地は、今から百万年前以降の日本列島の地殻変動の時代に、大噴火をした経ケ岳 (1076米) 多良岳等の四山の熔岩流が西に流れて大村湾に注ぎ、 その熔岩流の上に沖積世層が積って現在の美しい裾野の原形を形成し、縄文時代を経て今から約2千年前に、現在の大村公園の南東隅に古墳群を持つ豪族達が農地を開墾した。

 そして今から80年前 (執筆当時の) に、その農地の上に日本海軍が飛行場を造ったのである。 しかし、当時の日本は土木工事の機械力が微力であったので、大地を水平に整地することができず、この飛行場は東から西へ約2、3度の下降傾斜がそのまま残された。

 また、飛行場から南東、諌早市の方向を遠望すると、経ケ岳の裾野が地平線のように見えたが、それは水平ではなく、2、3度南西に傾いていた。 当時の私は、機上からこの地平線を見る毎に、自分の神経が右に傾いているような錯覚に陥ることがあった。 当時の大村基地とはこのような飛行場であった。


 年改まって昭和12年1月4日、私達の延長教育のスケジュールが発表された。 機種は九四式艦上爆撃機、訓練項目は離着陸、編隊、スタント (垂直旋回、ストール、宙返り、失速反転、スローロール、インメルマンターン)、空戦、吹き流し射撃、航法、通信、計器飛行、緩降下爆撃、急降下爆撃、薄暮飛行、夜間飛行の順で、期間は5か月であった。

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( 九四式艦上爆撃機 )

 1月7日、いよいよ訓練が始まった。 教官は士官パイロット及び古参の海曹パイロット達であったが、実質的な教育は概ね古参の海曹達が当った。 これらの海曹達は、後年、私の部下として大東亜戦に活躍する安藤、丸山、森、田中、古田らであるが、古参と言っても当時はまだ二十歳代の青年であった。

 訓練開始に当って、これらの海曹教官達が私達を囲んで座談会を開いた。 その時安藤一曹が言った。

 「高橋中尉、昨夜は酒は飲まなかったでしょうね?」

 「うん、飲まなかったよ。 延長教育中は、飲む時は必ず君らと一緒に飲むよ。」

 「・・・・・・?」

 「変な顔するなよ。 本当に一人では飲まんよ。」

 「いいえ、私の申し上げたいのは、誰と一緒に飲んでも、一人で飲んでも構いませんが、泥酔してはいけないという意味ですよ。」

 「解ったよ。 きっと守るよ。 その外何でも言ってくれ。」

 「今日の離着陸で大体解りました。 諸官達は慎重で誠に結構です。 ただ、繰り返して申しますが、明日雨が降ることが確実であっても、また、土曜日の晩でも飲み過ぎてはいけませんよ。 こんなにくどく酒のことを申し上げるのは、貴官の一年先輩に次のような事故があったからです。」

 安藤五郎一曹は、真剣な面差で事故談を始めた。 その概要は次のようであった。
(続く)

2010年04月11日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その9

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (9)

   その4 (承前)

 池田は自分の言ってることに興奮していた。

 「牧原! 支那の二千年来の科挙制度を思ったことがあるか? テキストブックを覚えることを得意とする者が、秀才と言われて官吏に採用された。 そのテキストブックとは、古典の画一的註釈書に過ぎないものだった。 そして、その結果は中国の文化を衰退せしめる因子となり、ひいては中国の各時代に革命的復古運動を起こさせることになった。

 今の日本の国家制度の中で、秀才、凡才の判別が適正に行なわれていないのは、丁度この古代中国の歴史と同じだ。 それは大きい間違いであって、日本の国家的損失だ。」

 池田は、再び阿野の方を向いた。

 「阿野! 貴様の頭脳は、貴様が講堂や自習室の机の前に坐った時に、教官の言葉や教科書の文字から離れて、空想の世界に飛び込み、自由に考え、不羈奔放に駈けめぐるような構造なんだっ。 だから、教官の目には貴様は秀才と映らなかった。 しかし、それだからと言って貴様が秀才ではないという証拠にはならん。 また、偵察に適していないということにもならん。

 先程貴様が言ったことは根本的に間違っているっ! 牧原が恩賜の短剣を貰ったから秀才だとか、偵察に適しているとかいうことにはならん。 偵察に適しているかどうかはそれぞれが考えるべきことであって、教官にも解らんのだ。」

 池田の言うことは、一つの見識であった。 客観性があるかどうかは別にして、阿野にとってはいい教えであり、牧原にとっては頂門の一針となるものであった。

 彼の言葉を聞いているうちに、二人は冷静になっていった。 そして、阿野は苦笑し、牧原はむっつりと黙ってしまった。 池田は頃合をみて阿野に言った。

 「阿野! 貴様は偵察員になれ。 今更じたばたするなっ。 俺は心の底からそれを貴様に勧めるよ。 操、偵どちらにしても俺達は同じ航空に生きるのだから、それでいいじゃないか。 なあ阿野! 偵察員になれよ。」

 二人の喧嘩は、この池田の弁説で結着がついた。 この後、私達は酒盃を持ったが、苦い酒であった。 阿野は特に寂しそうであった。


 さて、阿野が偵察員になることをこれ程までに嫌がった理由は何であったか?
  
 私達の時代の偵察員というのは、一般任務として、敵情偵察、弾着観測、航法 (推測、天文、地文)、通信、水平爆撃、雷撃、急降下爆撃の照準点の計算、空戦 (旋回銃による)、写真撮影、着艦支援 (フックの操作) という仕事が専門技術として課せられ、士官偵察員にはこれに加えて、戦術判断をして機上で部隊の作戦指導をするという仕事が与えられていた。

 これらの仕事は、操、偵の協同に依らなければできないことではあるが、作戦指導だけについて言えば、それには細かい作図が必要であって、偵察員でなければ物理的にできなかったのである。

 だから、これだけから言えば、操縦員は馬車馬の馬に相当し、偵察員はその御者であったわけで、嫌がる理由はどこにもないのであった。

 ところで、私達の更に10年乃至15年前の海軍航空創草時代にはどうであったかというと、航法は地文航法だけだったし、通信は極めて幼稚で、手旗信号、発光信号、通信筒の投下くらいのものだったので、偵察員は雑務と操縦員の守役が仕事の総てであった。

 本来、偵察という名前も、これを決定づけたのは、第一次世界大戦 (大正4〜7年) の膠州湾内の敵情偵察であるが、この場合も、偵察機が佐世保から推測航法で山東半島に辿り着いて偵察したのではなく、水上機母艦から目の前の湾に向かって発進した偵察機が敵情を肉眼で見て来たのであって、飛行機による偵察の重要性は認識されたが、偵察員の重要性が認識されたわけではなかった。

 要するに、操縦員でも偵察ができた時代であったので、戦術的にも偵察員の影が薄かったのである。 そして、私達の時代になって初めて飛行機の性能と装備が急激を発展を遂げ、偵察員の重要性が認識されたが、しかし、人間の考え方や航空という特定社会の雰囲気は簡単に変わるものではなく、創草時代の感覚がそのまま尾を曳いてパイロット優先の考え方が圧倒的であったのである。

 阿野が偵察員を嫌がったのは、以上の理由であった。 私も、飛行学生卒業の時には偵察員に指名されたくなかった。 しかしながら、偵察業務を一年もやれば、その面白さに魅せられて喧嘩したことなど忘れたと思う。

 最後に付け加えておきたいことは、このような喧嘩は貴重な航空事件と言えると思う。 それは、パイロットとしての誇りを維持し航空安全を推進する原動力が、このような操、偵の喧嘩の中からも生まれたからだ。
(続く)

2010年04月10日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その8

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (8)

   その4 (承前)

 ところで、偵察員の指名は操縦適性には関係なく、日本海軍の将来展望から適切な人材を選んだのであった。 希望があればそれを優先させたことは言うまでもないが、希望者は誰もいないのが通例であった。

 阿野の偵察適性について言うと、彼はモールス電鍵を叩く技術は学生中で一番であって、専門の電信員よりも速く、1分間に120字のローマ字を打ち、打った符号は正確で歯切れがよかった。

 そのため、日頃から貴様は偵察員最適だとからかわれ、そのつど嫌な顔をしていた。 操縦技術も優秀であった。

 一方、牧原の方はいつも単独になるのが遅れるので、貴様は操縦不適、偵察最適だと私達にからかわれ、そのつど人間的誇りを傷つけられたように悔しそうにしていた。

 その結果は、操縦の上手な阿野が偵察に、下手な牧原が操縦に決められたのであった。 そしてそれが根となって、二人の激突となったのである。

 この喧嘩は、卒業の二、三日前に、土浦市の料亭の一室で第二回目の延長戦が行なわれた。 立会いは池田と私の他7、8名であった。 阿野が言った。

 「牧原! 貴様は俺より頭がいい。 飛行要務をやるのに最適だ。 偵察に回ってくれ。」

 「そんなことは俺の知ったことじゃない。」

 「偵察員は緻密な仕事をせねばならん。 戦術判断や作戦行動には優れた頭脳が必要なんだ。 貴様はそれに適している。 少なくとも俺より適している。 偵察に回ってくれ。」

 「馬鹿なことを言うなっ。 操、偵に分けるのは頭脳の問題ではない。 適性の問題でもない。」

 「何をっ! 下手に出ればつけ上がってっ。 表へ出ろっ!」

 「よしっ! 来いっ!」

 その時、池田魁が強い調子で遮った。

 「待てっ! 頭がいいから偵察に適しているとかどうとか、今論争するのは当を得ていないように思うが、貴様達が言うなら俺にも考えがある。 阿野! 貴様は海軍兵学校の時、教官や助手の講義を馬鹿真面目に聞いていたか? 大砲の腰鞍座の力学を覚える気になったか? 俺はそんな気にはなれなかった。

 しかし、秀才と言われたい奴は、そのような細かい砲塔のメカニズムを懸命になって覚えたのだ。 英語、数学などにも似たりよったりのものがあった。 そんなくだらん努力をした奴が秀才というものだったのだ。

 それは、教えられる内容がどんなものであれ、それを覚えることに本能的に精神を集中することができる頭脳の持主であったからでもあろう。 まさに秀才の頭脳とはそういうもので、精神の自由は片鱗もない奴もいるんだ。 そんな頭脳がどうして偵察に適すると言えるかっ!」
(続く)

2010年04月09日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その7

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (7)

   その4

 その昔、搭乗員は、パイロット、ナビゲーター、フライトエンジニアによって構成されていたが、搭乗員の卵達はパイロットになりたがり、ナビゲーターにはなりたがらなかった。 何故であろうか? 人間は生まれながらハンドルを持ちたがる動物であろうか?


 昭和11年11月下旬のことだ。 私達飛行学生19名は卒業を間近に控え、その中から3名のナビゲーター (偵察員) が選ばれることになり、その氏名が内定した。

 その前の晩、霞浦航空隊阿見原飛行場に早々に雪が降った。 この年は、二・二六事件の前日の2月25日にも大雪が降ったし、卒業を前にして、また雪が降ったわけだ。 行儀の悪かった私達を、新雪で払い清めてやろうという神の意志であったのかも知れない。

 私は午前8時、新雪を踏んで阿見原の中央、第三飛行隊まで歩いて行った。 空は青く晴れ上がって、筑波山の中腹の密林がいぶし銀のように柔らかく盛り上がり、山頂だけが旭光を受けてコロナのように輝いていた。

 この日、私は当直学生であったので、整列時刻の5分前に学生の員数を調べると、二人足りない。 理由もなく飛行始めの整列時間に遅れたら、卒業の前日であろうと学生罷免である。 いらいらしながら員数をもう一度当ってみると、やはり二人足りない。

 「牧原と阿野が見えないようだな。」

(注) : 「牧原」 「阿野」 という姓の人物は海兵61期にはおりませんが、本項の内容からして仮名と考えられます。


 「おかしいなあ。 牧原は俺と一緒に朝食を食べたよ。」

 と誰かが言う。 皆が心配して四囲を見回していると、

 「あっ、いたっ! あそこだっ。」

 指揮所から百米ばかり離れた雪原の中に二人はいた。 それは、一見、犬がじゃれあっているように見えたが、ただ事ではなさそうであった。

 「魁! 行こう!」

 私は池田魁 (前出) に協力を求めて、二人の所に向かって走った。 二人は飛行服を脱ぎ雪上で組んずほぐれつの格闘中であった。

 全身雪だるまになり、吐く息は白く、両肩から湯気が上がっている。 殺されても参ったとは言いそうにない形相である。 理由が解らないので躊躇もあったが、私は中に割って入った。

 「どうしたんだ?」

 二人は肩で息をしながら黙っている。

 「訳を言えっ。」

 すると、

 「後で話すっ! ・・・・ 整列の時間だな。 遅れて済まんかった。」

 4人は指揮所に向かって走った。 整列時間を2、3分過ぎていたが、教官は何も言わなかった。


 その日の夕刻、牧原の個室で二人の喧嘩が再開された。 私は4、5人の同僚と一緒にそれに立ち会った。 先ず、阿野が口火を切った。

 「貴様は偵察員に指名されても仕方がないと言って、以前から諦めていたではないかっ。」

 牧原が言下に反論した。

 「操、偵を決めたのは教官だっ。 俺が決めたのじゃないっ。」

 「貴様が教官に申し込んで、偵察員にするなら学生を罷免にしてくれと言ったから、その代りに俺が偵察員に回されたんだ。 裏に回って教官に頼むなんて男のすることじゃないっ!」

 「俺は、俺の代りに貴様を偵察員にしてくれと教官に頼んだのではないっ。 俺達19名の中から選ばれる偵察員を一人減らしても、日本海軍には支障はないじゃないかと教官に談判をして、それから俺を操縦員にしてくれと頼んだのだっ。」

 「それがずるいやり方だっ。 俺達の中から3人が偵察員に回されることは初めから決まっていたのだ。 それを貴様は知っていながら・・・・」

 阿野は、無念やる方ないという表情をした。
(続く)

2010年04月08日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その6

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (6)

   その3

 時期はいつ頃であったか覚えていない。 機種も一三式初練であったか、九一式中練であったか詳らかでないが教官同乗のスタント中に、あわや墜落という事件に遭ったことがある。

 そのテストは、飛行機を空中で完全に静止させるという試みであった。 そのやり方は、操縦教科書の木葉落しというスタントの一場面であるが、念のため、「木葉落し」 についてその概要を紹介しておこう。

 @ エンジン全速で気速を十分につけてから垂直上昇をする。

 A 飛行機が完全な垂直上昇姿勢になった時にエンジンを全閉し、そのままの姿勢で気速が零になるのを待つ。

 B 気速が零になってテイルスリップするか、或いは、零になる前に機首を下げてスピンになるか、垂直上昇姿勢が完全に鉛直であって機体が滑っていなければ飛行機は後進をする筈だが、機体の製作誤差等によって必ずしも後進するとは限らない。

 C テイルスリップを始めたら、パイロットは方向舵、昇降舵、エルロンを中正にして動かないようにし、やがて機首が下がってデイブに入るのを待つ。

 D ダイブに入って気速がつけば、再び垂直上昇して前項の操縦を繰り返す。 この時エンジンは使わない。


 これが、木葉落しというスタントであると教科書に説明があって、それに添えて初歩練習機のポンチ絵が描かれていたと思う。

 さて、この実験が、高度約2千米で始まった。 教官が数回垂直上昇を試みた後、やっと気速計の指度が零になったのを私は確認した。

 その時、私はスチックとフットバーにそっと手足を添えていたが、突然、紺碧の空が視界から消えて緑の大地が回転しながら視界に入り、私の体は座席の外に放り出されそうになり、スチックとフットバーが極限まで何回も動いたのを覚えている。

 後刻、その教官から開いたところによると、テイルスリップした後飛行機は背面スピンに入ったので、スチックを一杯引き反対側の足を踏んで正常スピンに戻し、それからスチックを一杯突っ込んで正常スピンを回復したということであった。

 この時のスピンの回転数は十数回に及び、飛行機が水平に戻った時は高度100米以下であった。 この時の教官は次のように言った。

 「予想していた以上に難しいスピンになってもう駄目だと思った。」

 玩具のような練習機で、しかも毎日乗って十分慣れている筈の飛行機でも、油断すると大事故を起こすことがある。
(続く)

2010年04月07日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その5

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (5)

   その2 (承前)

 その概要は次のようであった。

 私は強くスチックを引き、右のフットバーを一杯踏んだ。 飛行機は唸りを生じて右に横転した。 270度横転した時、スチックを前に出して回復操作をしようとした。 ところが、スチックが動かない。

 教官が後席でスチックを押えておられるのだろうと思って一瞬力を抜いた。 すると、飛行機は機首を下げて横転を続けた。 錐揉みに入って墜落状態になったのである。

 「スチックが動きませんっ!」

 「放せっ!」

 教官の凛とした声が響いた。 私は手足を放した。 教官は、エンジンを絞り左足を一杯踏んで、スチックを全力を挙げて前方に押しているようであった。

 「高橋! 貴様もスチックを前に押せっ!」

 私は渾身の力でスチックを前に押した。 すると、スチックから掌と腕に細かく鋭い震動が伝わってきた。 その震動にかまわずスチックを左右に揺さぶりながら押した。 必死の力であった。

 しかし、スチックは僅か7、8糎動いただけであった。 とは言え、動くことは動いたのだ。 続いて、スチックに足を掛け全身の力でスチックを前に押したが、その後は頑として動かなかった。

 私は、小学校三年生の時、石垣の穴に逃げ込んだ大きい青大将の尻尾を握って引っ張ったことがある。 なかなか出て来ないので足を石垣に掛けて全力で引っ張った。

 その時、蛇の胴体の中を縦に走る筋肉のうねりが掌に伝わってきた。 それは、冷たい鱗の下の蛇体の必死の戦慄であった。 スチックを通して私の手に伝わってきた震動は、その時の蛇体の戦慄と同じであった。

 その後、飛行機の姿勢は45度くらい機首を下げ、左に滑りながら右に横転し続けて落ちて行った。 14、5回回転した頃やっと横転が止まった。 と同時に、教官はスロットルを全開したので飛行機は急上昇を始めた。 その時の高度は100米を切り、小貝川の堤の桜が大写しに見えた。

 その後の教官の操縦ぶりは、垂直旋回と失速反転を繰り返しながら、常陸平原の上を約30分かかって飛行場に近づいて行った。 飛行場エンドに到着した時、急角度の横滑りで降下して無事着陸したのであった。

 着陸後、直ちに操縦装置の点検が行なわれた。 原因は、昇降舵索が最後尾のリールから外れてリールと軸との間に喰い込み、昇降舵索が動かなくなったのであった。 この状況が判明した後、西原教官は私に言った。

 「貴様の強い腕力のお陰で俺は命拾いをした。」

 私の腕力で7、8糎スチックを前に戻すことができたので、飛行姿勢を回復することができたという意味だ。 しかし、私の馬鹿力でスチックを引っ張ったから、操縦索をリールの外に喰い込ませたのだ。 或いは、出発前に地上で練習した時既にリールを半ば毀していたのかも知れないと思った。

 この事件の教訓の第一は、操縦に必要なパイロットの体力についてであるが、せっかちな性格の上に鍛練が足りない時の体力は粗暴に振舞われるものだ。

 こんな腕力を馬鹿力と呼んでいるが、操縦には馬鹿力は危険なものだ。 しかしながら、一方では操縦には強い腕力を必要とすることもある。

 例えば、20年ばかり前のことだが、八戸のP2Vのバリカムシステムが空中で故障した時、二人のパイロットは、体力を振り絞って昇降舵を操作し、やっと難を逃れた例がある。

 また、私は戦場で、一秒も休むことなくハンドポンプを3時間半衝き続けながら操縦した体験がある。 これらのことは、腕力は必要だということを示している。

 要は、この二つの腕力の相違を知ることが大切なのだ。 今回の事件では、たまたま馬鹿力でも間に合ったが、もし私の腕力がこの時十分に鍛練された腕力であったら、舵索をリールから外す程強く引くことはなかったであろう。

 その第二は、昇降舵索がリールを外れた時のスチックの位置について考えてみよう。

 この事件では、スチックを手前に引いた位置で操縦舵索がリールから外れてスチックが動かなくなったが、今仮にスチックを突っ込んだ位置で操縦舵索がリールから外れたとすると、恐らく、飛行機はダイブに入ったまま時間的に回復処置が間に合わなかったであろう。

 また、あの時スチックを押して7、8糎回復したが、もし力余って30糎回復して、その位置でスチックが動かなくなったとしたら、同じようにダイブに入ったまま処置がなかったであろう。

 何れの場合も、教官と私は地面に激突即死したであろう。 すると、舵索がリールから外れた時のスチックの位置に関する限り、極めて幸運であったという外はない。

 幸運、不運は人間の努力ではどうにもならないものだが、パイロットはこのような事件を体験することによって、運というものを切実に知ることができるものだ。

 「運」 とは何かを知るということが、パイロットにとってどれほど貴重なことか! この事件はその意味で貴重なものであった。

 その第三は、パイロット教官の在りようについてだ。

 その昔、私を教えてくれた教官には、二つのタイプがあったように思う。 その一つは、学生の極めて軽微な瑕瑾に対しても仮借なく叱り、峻巌にそれを追求して学生を縮み上がらせ、緊張させて教えるタイプの教官と、もう一つは、春風駘蕩として、時間をかけて、学生の自主的努力によって理解させようとするタイプの教官である。

 この二つのタイプの内、前者の場合は、教官の人間的イメージが強烈な印象として生涯学生の記憶に残るものだが、教えられた内容については、比較的空疎な場合が多いようだ。

 後者の場合は、教えられた内容も教官の人間的イメージも、記憶としてはあまり強烈ではないが、教育の効果は密である。 両者の優劣が、何れにあるかは単純には断じ難いと思うが、教官配置に着く人は自省してみる必要があると思う。
(続く)

2010年04月06日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その4

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (4)

   その2 (承前)

 私は、地上で勉強したとおりの操縦をやってみようと思った。 言うまでもなく、クイックロールは飛行機の進行方向を軸にして360度翼を横転させるわけだから、左右何れかの翼を最高揚力にし、反対の翼を失速させなければならない。 そのためには、

 @ 急激に上昇舵をとって、先ず、両翼に当る空気の流入角を最高の揚力系数を得るようにする。

 A 次に、何れか一方の翼だけの空気流入角を更に増大させて失速させねばならない。 そのため

  (a) @ に続いて方向舵を急激に一杯踏んで、両翼に瞬間的に速力差を与える。

  (b) その速力差によって両翼に揚力差が生ずる。

  (c) その揚力差によって踏んだ方向舵の側に機体が急激に傾き、その瞬間に傾く側の翼の空気流入角は @ より更に増大し、反対側の翼の空気流入角は減少する。 従って、方向舵を踏んだ側の翼が失速し、その反対側の翼は失速しない。

 B ここで左右両翼に大きい揚力差が生まれ、飛行機は胴体を軸にして踏んだ足の側に横転する。

 C 回復する操作は、スチックを前方に一杯押し、回転方向の反対側のフットバーを一杯踏む。 すると、両翼の空気流入角が減少して回転側の翼は失速を回復し、横転が止まる。


 という理論であった。 この理論は、昭和の初期、海軍中佐佐田直大と海軍少佐内田錠五郎が研究編集した 「操縦理論」 という教科書に書かれたものである。

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( 原著より )

 この他、ジャイロの原理により上昇舵をとれば機首を右に振ることになるので、右のクイックロールは左より入り易いという解説も載っていた。

 以上の理論を机上で勉強していたので、私はこの理論のとおり 『スチックを急激に引いて、間髪を入れず、横転しようと思う方向のフットバーを踏む』 つもりであった。

 「教官! やってみます。」

 「思い切ってやってみろ。」

 「はいっ!」

 「クイックロール右っ!」

 私はスチックの頭が臍にくっつく程急激に引き、続いて右のフットバーを一杯踏んだ。 飛行機は右に横転した。 しかし、スチックを前に突込み左足を踏んで横転を止めた時は、飛行機は450度回転して90度右に傾き機首が下がった。 教官は、次のように言われた。

 「今の操縦は回復操作が不十分だ。 それは君の体が加重に慣れていないために、回復操作を一杯操舵したつもりでも実際は半分くらいしか舵が動いていないからだ。 俺がもう一回やってみせるから、君は柔道で背負い投げを喰って君の体が弧を描いて相手の頭上を越えた時を想い出せ。 投げられながら手足を動かした時のことを想い出すのだ。 そして、回復操作をやってみろ。」

 教官の言われたように体が操縦席の左に押しつけられても、体の不安定に気をとられることをくそのままの姿勢で手足を動かしてみた。 すると、案外に自由に動くことが解った。

 操舵には勘どころがあるものであった。 この要領で数回練習して、私は段々と上手にできるようになった。

 ところが、第4回目の操舵をした時、恐ろしい事件が起こったのである。 (但し、緊急着陸後教官の説明を聞くまでは、私は少しも恐ろしいとは思わなかった。)
(続く)

2010年04月05日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その3

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (3)

   その2 (承前)

 西原教官は、私が海軍兵学校に入校した時の最上級生であった。 彼は内務担当として、酒保養浩館係をしていた。

 この係は読んで字の如く、酒を飲み大いに浩然の気を養うという意味が含まれているが、兵学校では生徒に酒を飲ませなかったので、酒の代りに大福餅を腹一杯食べて、自習中に居眠りをして浩然の気を養うように私達を指導した。

 彼は興奮して下級生を叱ったりすることは一度もなく、いつも悠然として人生を達観しているような風格があった。 あれから5年経っていたが、相変らず悠々として駄じゃれを言いながら教えているのであった。

 後席から再び指示があった。

 「操縦! 旋回右、筑波山宜そろー (操縦せよ、右旋回で機首を筑波山に向けよ) 」

 私は再びスチックを握り操縦を始めた。 教官は後席で楽しそうに詠っていた。

      筑波山麓楓林 (ふうりん) 深きところ     (筑波山麓楓林深)
      霖雨蕭条 (りんうしょうじょう) として楼台咽び     (霖雨蕭条楼台咽)
      窈窕 (ようちょう) たる淑女は瑟 (しつ) を弾じて唄う   (窈窕淑女弾瑟唄)
      窓外遥かに望む阿見原      (窓外遥望阿見原)

 筑波山麓に 「筑波楼」 という料亭があった。 教官は今、五月雨薫るこの山楼で美妓と差し向かいで盃を交わした時を想っているのだ。 私は四六のがまを想い出して、できるだけゆっくりと機首を筑波山頂雄獄に向けた。

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( 原著より  飛行学生当時の著者高橋少尉 昭和11年の紀元節を霞浦にて )

 「宜そろー」

 「放せ−、それでは始めるぞ。 手足を軽く添えていろよ。」

 いよいよクイックロールが始まるのだ。

 「クイックロール右っ!」

 私は、教官の操作するスチックとフットバーの動きと同時に飛行機の姿勢がどう変化するか、しっかり確かめようと思って全神経を機体と水平線に集中した。

 その瞬間、鉛直方向のプラス加重が上半身にかかって、頭がガクンと下がり、機首が20度ばかり上がった。 続いて上体が座席の左側に押しっけられると同時に、唸りを生じて飛行機は胴体を軸にして錐のように右に横転した。 所要秒時約1秒。

 私には操舵と飛行姿勢の関係がさっぱり解らないし、加重によって手足が自由にならない。

 「教官! もう一度!」

 「よろしい。 クイックロール右っ!」

 今度はスチックが魔物のように動くのを手先に感じながら、視野の片隅に翼と水平線との動きを意識することができた。 しかし、回復操作をやった時機がよく解らない。

 「高橋少尉、どうだ?」

 「よく解りません。」

 「できてもできなくとも一回やってみろよ。」

 「はいっ!」
(続く)

2010年04月04日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その2

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (2)

   その2

 昭和11年5月上旬のことだ。 筑波山麓を南に流れる桜川と利根川の支流小貝川に挟まれた常陸平原の上空で、九三式中間練習機のスタント訓練が始まろうとしていた。 教官は西原晃中尉 (58期)、学生は海軍少尉の私であった。

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( 九三式陸上中間練習機 )

 この時の私の総飛行時数は約100時間で、その内訳は、初歩練習機が約50時間、中間練習機の離着陸が約30時間、スタント同乗 (垂直旋回、失速反転宙返り、スピン) が約20時間であった。

 この日は天気晴朗で、霞浦の遥か彼方に太平洋の水平線がくっきりと藍色の一線を画していた。

 高度2千米に達した時、後席の教官から指示があった。

 「放なーせー」

 操縦桿 (スチック)、方向舵 (フットバー)、スロットルレバーから手足を放せという意味だ。 飛行場を離陸してから今まで私が操縦してきたのであったが、この指示によって操縦装置から手足を放した。

 「放しましたっ。」

 「今からクイックロールをやってみせる。 クイックロールというのは、飛行機の姿勢の急激な変化と、その時にパイロットの肉体にかかる加重の方向と強さを体で覚えることが第一だ。 第二は、その加重下にある肉体を自由に動かして操舵を確実にやれるように体を慣らすことだ。」

 「はいっ!」

 「操舵のやり方は地上で繰り返し練習をしたな?」

 「はい、20回くらいやりました。」

 「空中では舵の重さが地上と違うから、これも体で覚えることだ。 飛行機の姿勢の変化については、君が納得できるまで何回でもやってみせるから、今から30分間遠慮なく俺に注文しろ。」

 「はいっ!」

 「堅くなってはいかんよ。 ゆったりと構えるんだ。」

 「はいっ!」

 「下界は目下精気溌剌という季節だなあ!」

 「はあ?」

 「常陸の国の山や河、野や丘が溢れる生命をここまで吹き上げているようだ! 君はそうは思わんか?」

 「はあー」

 私はチラッと下界を見た。 教官の言われるように、下界の常陸平原は蓮華の紫が絨毯を敷きつめたようだし、所々の灌木林の小丘には菜の花が満開で、草餅のように柔らかく盛り上がっている。 筑波山の新緑も目が醒めるように初々しい。

 しかし、それをゆっくり観賞するような心境にはなれない。 今からクイックロールをしっかり覚えねばならないのだ。

 「教官! 前席準備よろしいっ!」

 「慌てるな、ゆっくりやってもクイックロールだ。」

 「・・・・・・」

 「駄じゃれを言ってるんじゃない。 貴様は昔からせっかちで攻撃精神旺盛だったが、操縦は、サッカーや柔道のように旺盛な攻撃精神だけでは駄目なんだ。 また、せっかちに回数を重ねたら上手になれるというものでもないんだよ。 悠々と落ち着いて、しかも勘どころをピシッと逃さないように会得するのが大切なんだ。 解るかな。」

 「はい、解ります。」
(続く)

2010年04月03日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その1

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 基本的事故 (1)

   その1

 初歩練習機 (三式陸上練習機、130馬力、全備重量865瓩、全速85ノット、巡航45ノット、失速28ノット、座席 tandem 2席)の単独を許可されてから2、3週間目の頃であったから、昭和11年3月上旬頃だ。

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( 三式陸上初歩練習機 )

 その日、霞浦航空隊阿見原は雲もなく、西の地平線上には白雪の富士山が見え、北方には紫紺の古木に覆われた筑波山が稜線を見せていた。 春とは言え、空っ風はまだ冷たかったが、単独飛行の嬉しさで身も心も燃えるように暖かであった。

 午前8時、5回の離着陸を命ぜられて列線を出発し、南西に向かって離陸すると、巨大な格納庫が直ぐ右に聳えている。 この格納庫は、第一次世界大戦の戦利品としてドイツから押収したもので、大正11年(1922年)9月、ドイツのユーデンドルフからの移設に着工し、翌年4月に完成した飛行船格納庫である。

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( 原著より  ツェッペリン格納庫 )

 建坪4756坪、縦132間、巾36間、高さ21間、入口の2枚の扉の面積は一枚300坪で30馬力のモーターで開閉、建物の総重量は鉄材だけで3万噸、東京駅が二つ入ってまだ余裕があると言われたしろものであった。

 昭和初期、世界一周中のドイツの巨大な飛行船ツェッペリン伯号が日本を訪れた時これを収容したので、ツェッペリン格納庫と呼んでいた。 この巨大な格納庫が飛行場の南東隅に鎮座していたので、南東の風が吹く時は阿見原の気流が乱れた。
 この日も気流が悪かった。 2回の離着陸が順調に済んで、3回目のグライドパスに入った時だ、飛行機が大きく横に流されるので、危険を感じて go around、場周を回って第3コース (Down wind leg のこと) に入ってから地上指揮所を見ると 「全機至急着陸せよ」 という信号 (三角形のファン) が吹き流しの下に出されていた。

 風が南東に回ったからのようであった。 前後を見ると私以外に飛んでいる飛行機はいない。 どうやら、私だけが悠々と飛んでいるらしい。

 4回目のグライドパスに入った時、横風は益々強く飛行機は蟹の横這いのようになったので、止むを得ず飛行機を風に正向させると、大格納庫が目前に見えたのでまたやり直した。

 その時ふと、館山で颱風の余波を正横に受けて飛行機を30度以上滑らせながら着陸した教官の話を想い出した。 私はその技術を身に付けているわけではなかったが、それを真似てみようと思った。

 そして、飛行場のエンドの一点が真直ぐに私に向かってくるように飛行機を右に傾けると機首を右に振りそうになったので、左足を踏んだ。 結果的に横滑りのグライドになったわけで、随分危なっかしい格好であったと思うが、とにかくそれで無事着陸した。

 地上指揮官に報告すると、見張不良と言われ、大変叱られ、罰金50銭 (当時浅草で、鮪の上寿司が50銭) を徴収された。

 この事件 (?) について考えてみよう。

 この練習機の着陸速力は30ノットであるから、10米の向かい風では接地時の対地速力は10ノットであって、人間の走る速さより遅い。

 だから大格納庫に激突しても怪我をすることはない。 思い切って大格納庫に向かってグライドしても支障はなかった。 しかしこれに衝突することはあまりにも珍妙である。

 また、所定の着陸位置たる吹き流しの正横、格納庫の南100米附近に着陸するのでなければ、風に正向して着陸できる場所は阿見原の内のどこにでもあった。

 ところが、飛行場の片隅にそっと安全に降りることなど、パイロットとして恥ずかしいと思った。 だから、3回もやり直して未経験の着陸法をやったのであった。

 これは、危険であっても命ぜられた位置に着陸することが、パイロットの誇りであると考えていたということと、地上の信号を意識しなかったことについては、見張なんか誰にでもできることであってパイロットの本質とは関係はないと思っていたということだ。

 つまり、パイロットの意地と見栄が安全性を無視していたということと、見張能力というものが人間の本質の中のどういう要素と結びつくものかということに考えが及んでいなかったということであり、二つとも重大なことでありながら、それに気がつかなかったから罰金を取られたのであった。

 しかし私は、何故叱られて罰金受取られたのかこの時は解らなかったし、恥とも思わなかった。 今の若者もそういう傾向があるのではなかろうか?
(続く)

(注) : 原著では本章の冒頭に航空事故に関連した内容のものが含まれています。 これはこれで貴重なものですが、一般の方向けではありませんし、著者の大戦中の回想録そのものとしては直接関係しませんので、本ブログでは省略させていただきます。

2010年04月02日

「飛翔雲」 第4章 パイロットへの道 −その43

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 搭乗員と酒と女と (14)

   その7 訓練と酒 (承前)

 それから一週間ばかり経って、隊長は突然、艦爆分隊士全員に料亭集合を下令した。 料亭の名は忘れたが、国木田独歩が、「忘れ得ぬ人々」 の中で佐伯の海岸のことを書いているが、その海岸や大入島が見える古い料亭であった。

 私は初めのうちは神妙に飲んでいたが、酔うにつれてまた、慇懃無礼な質問をした。 すると隊長は何の屈託もなく次のような話をした。

 「高橋君。 君は一生懸命訓練をして、無理に暇を作って叱られるのを覚悟で料亭に来て酒を飲んでいる。 多分酒は苦いし、楽しくない筈だが、どうかな?」

 私が、そんなことはないと不平顔をしてふくれていると、

 「君は暇を作るために努力したのじゃないだろう? 酒を飲むために暇を作ったのでもないだろう? 猛訓練の報酬に芸者のサービスを望んだわけでもあるまい。 ものは考えようだ!

 訓練が急がしくて苦しくて疲れ果てて、その後でホッとするひと時に酒盃を手にしてみろ。 酒というものはうまいものだ。 おまけに、訓練について新しい着想が浮かぶこともあるし、疲れも吹き飛んでしまう。 そういう時は芸者も綺麗に見えるし、サービスも良いように思えるのだ。

 こういう飲み方は、君の今日までの飲み方と根本的に違っているだろう? それが解らんかなあ!」

 「・・・・・・」

 隊長は、杯を乾してから続けた。

 「俺は、閑居とか余裕とか暇とかについて考えてみた。 人間は暇があると悪いことをするから、暇を与えるななどというのを聞くことがあるが、これは訓育上の一つの便法であって、口に出して言うべきことではない。 部下に対する侮辱だからだ。

 一方、暇を与えてゆっくり考えさせようということもよく言われるが、これも暇ということについて時間的要素に執着し過ぎている。 これにも賛成しない。 暇というものは意識の問題だから、有るようで無く、無いようで有るものだ。

 急がしくて、てんてこ舞していても、事が起これば即応できるというようになるのは、この点をよく認識しているからだ。 このような心の持ちようを、余裕があると人は言うのだ。

 要するに、酒を時間的な意識の外に置いて飲むことができるようになったら、いくら飲んでもよいということだ。 俺の言うことが解るかな。」

 「少しは解るような気がします。 しかし末だ十分には解りません。」

 「そうかも知れん。 だから貴様達の酒は、まだ閑居して不善をなす酒であって、俺から叱られても当り前ということになるのだ。 まあまあ叱られても深く気にすることはないが、野放しに飲んではいけないよ。」

 私は飲みながら、禅問答のように、暇と忙中の閑、暇と余裕について考えるのであったが、理論としては解っても、実際問題として区別がつかないままに酔払ってしまった。

 余談になるが、歌手の淡谷のり子女史は私と同年で、40年前に佐伯航空隊を訪問してくれたことがある。 その時は、〇〇中尉が彼女のお供をして、佐世保から鹿児島を回り、汽車の旅で泊りを重ねて佐伯に着いたのであった。

 彼女は若手歌手として人気が上昇中であったが、海軍士官と恋をするだけの余裕があったのだ。 この余裕は、彼女の血の出るような激しい訓練の賜物であった。

 それは、私達素人の想像以上のもので、彼女の言を借りれば、ロープで体を逆さに吊して歌ったり、喉をつぶす程歌いまくったり、体操選手のような猛烈な肉体訓練もやった。

 それはオペラ歌手以上のものであって、現代の女流歌手のように、発声法の基礎をいいかげんにして、腰を振る練習の方が優先するようなものとは比較にならなかったという。

 彼女はこのような猛訓練によって、心の余裕を体得したのであった。 それが、今日の淡谷のり子女史の 「余裕を持って」 の一言に含まれている。

 話が横路にそれて恐縮であったが、田中隊長の言われることも猛烈な訓練によってのみ余裕が身につくものであり、余裕がしっかり身についた時、初めて欲するままに酒を飲んでもよいということであった。

 しかし、よく解らなかったらしく、この日の日記には次のように書いてある。

 @ 激しい訓練と勉学の後で楽しく飲むこと。
 A 晩酌のような惰性的飲み方をしないこと。
 B 度を過ごした時は巌しく反省すること。 反省することを予定して度を過ごさぬこと。

 この日から40年の歳月が流れた。 友人に誘われて、時には度を過ごして健康を害す。 これが余裕のある飲み方というものではないことは、申し上げるまでもない。
(第4章終わり)

2010年04月01日

「飛翔雲」 第4章 パイロットへの道 −その42

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 搭乗員と酒と女と (13)

   その7 訓練と酒

 私は海軍中尉で、佐伯航空隊の艦爆隊の飛行隊士であった。 隊長は、5年先輩の田中一大尉という急降下爆撃のベテランであった。 この隊長からよく叱られた思い出がある。

 「料亭へ行って酒を飲む暇があるなら、それよりも先ず本を読め!」

 料亭に行くのは、酒を飲むことよりも友人と話をするのが目的であったし、本を読むより友人と話し合う方が実りが多いこともあると思ったので、相変らず口実を設けて料亭に行った。

 すると、「小人閑居して不善をなす」 と言って叱られた。 そこで、誰にも負けないように訓練に精を出し、飛行隊の管理業務に手落ちのないよう気を配り、夜遅くまで本を読んで閑居しないよう注意した。 しかし、料亭に行くことも止めなかったので、相変らずよく叱られた。

 例えば、隊員の訓練指導を積極的にやっていると独善的だと言われ、慎重にやっていると遅疑速巡してはいけないと注意され、おとなしくしていると消極的だと言われ、挙句の果てに、酒ばかり飲んでいるからそういうことになるのだと叱られた。

 酒を飲まん人は、訓練には不熱心でも、「忙中閑あり」 「余裕がある」 などと讃められるのに、私ばかりはどうしてこうも叱られるのか納得ができなかった。

 同僚を羨んだり自己弁護しようなどとケチな考えは少しもなかったが、叱られる本質的原因が聞きたかったので、覚悟を決めて隊長に質問した。 すると、

 「貴様達若い者の欠点や思い違いを指摘して、それを修正してやるのは隊長として部下教育上当然のことだ。 同時に欠点を見ないようにし、良い所ばかりを見てやるように心掛けることも教育の心掛けとして大切だ。 相手によって褒めることあり貶すことがあっても、目的は同じだということが解らないのか?」

 「いいえ、それは解っております」

 「そんなら何が解らんと言うのか? 貴様達はまだまだ野放しに酒を飲んでよい年頃ではないということが解らんのだろう?」

 「・・・・」

 「そうか。 それは貴様自身が、酒の中から発見しなければならんことだ。 貴様は毎日のように料亭に行って飲んでいるのにまだ解らんのか? まだ飲み足りんと言うのか?」

 返事をすれば自己弁護になりそうだったので黙っていた。 隊長は暫く私を睨みつけていたが、

 「宣しい。 もっと飲んでみろ。 但し、飲みようによっては艦爆隊全員に禁酒令を出すぞ。」

 と宣告された。 私の質問の焦点は、「閑居」 ということと 「余裕がある」 ということの相違点を説明して頂くつもりであったのに、相手は古狸だから簡単に乗ってこなかったのだ。

 残念ながら質問の結果が裏目に出たので、禁酒令を出すことだけは許して頂いて、早々に隊長室を退散し、暫く料亭に行くのを慎しんだ。
(続く)

2010年03月31日

「飛翔雲」 第4章 パイロットへの道 −その41

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 搭乗員と酒と女と (12)

   その6 戦場の酒 (承前)

 それから2年経った。 いつかモールのことは忘れていた。 私は横須賀航空隊の隊長となって、反跳爆撃の戦法を完成し、それをセブ基地にいる零戦部隊に教えるためにダグラス機を操縦して鹿屋を発ち、台北、マニラを経由してセブに出張した。 私のセブ滞在は、19年の8月下旬の約2週間であった。

 戦闘機隊員に座学をした後、港の近くのスペイン古城址の城壁の上に坐って、隊員達が港内の海面に反跳爆撃運動をするのを採点した。 港の彼方には、マゼランが憤死したマクタン島が見えていた。

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( 原著より  著者のスケッチ 宿舎よりマクタン島を望む )

 この訓練は偶然にも、この日から2か月後に始まった特攻の事前訓練となったが、有為転変の350年の歳月を刻んだ古城址の上にあぐらをかいて苦戦に喘ぐ日本の運命を挽回しようと努力する若者達の汗と油を目の前に見た時、これらの若者らを死なせないためには、この反跳爆撃法を上達させてやらねばならないと思った。

 隊員達は、指宿大尉、三木、岩下、塚本大尉を始めとし、最後の栄光を留めんとする日本海軍零戦パイロット達であった。

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( 原著より  零戦の名パイロット3人 中央が指宿大尉 )

 夜遅く零戦パイロット達と、2年前にモールがいたバーに行った。 指宿大尉の招待で私の歓迎の宴であった。 バーは2年前と少しも変わっていなかった。 そこで再び私はモールに会ったのである。

 2年の歳月は、彼女をこぼれるような魅力をたたえた女に育てていた。 指宿大尉は、彼女を私に結介したので私が彼女の手をしっかりと握ると、彼女は2年前と同じように、左の手を下から添えるようにして、寂しそうに笑った。 心なしか涙が光っているようであった。

 一時間ばかり飲んで、私が One Moment of Paradise を日本語で教えようかと言ったら、Yes I know ! と答えてまた寂しそうに笑った。

 翌日、2週間に亘る講習を終えて、私はセブを去ってマニラに飛んだ。 その翌日である。 セブ基地はアメリカの大空襲を受けて、反跳爆撃儀装を完了した機材の大半を焼失した。

 私は3日間マニラに滞在し、セブと同じように座学を行ない、高雄を経由して台北に飛んだ。 その翌日、マニラは空襲を受け、その結果はセブと同じであった。

 私はこの二大空襲を知らないままに横須賀航空隊に帰り、着陸後電報でこれを知り、悲憤の涙を飲んだ。 (指揮系統外には被害は知らせなかった。)

 以上が経過の概要であるが、この中で私には苦しい発見がある。 その第一は、

 @ モールは、マニラからセブに簡単に素早く移ったが、戦場で、被占領国の若い女性がこのような行動は絶対にできることではなかった筈である。

 A 彼女の生活には、隠された金が流れていた。 例えば、当時、私が彼女の所で食べた支那料理、スペイン料理、北欧料理、酒などは高級なもので、一般には入手できないものであったが、彼女はそれを安く提供した。 この裏には、彼女の手を通して相当の金が飯店に支払われたと思われる。

 B 彼女の服装は質素に見え、占領下の女性一般と同じようであったが、下着はいつも新しいものであった。

 C キャバレーの雑役婦が突如としてホステスに変わり、中華料理店主を自由に動かしたと思われることがあった。

 D セブ市の住宅やハウスキーパーは、娘一人で維持できるものではなかったと思う。


 その第二点は、作戦上のことである。

 @ コレヒドールの一次、二次の降伏 (日本が米軍の降伏の条件を受け付けなかったとも言われているが) については、情報がコレヒドールに流れていたことは確かであった。

 A ネグロス、レイテ島の戡定作戦で全く敗残兵を見なかったことも、私達の飛行機の発進が事前に知らされていたと思われる。

 B 米軍のセブ、マニラの二大空襲の時期は、零戦の艤装変更完了直後に行なわれたが、これは偶然ではないと思う。


 以上の作戦の前後には、ミス・モールが必ず顔を出していた。 彼女は、飛行隊長のいる所にピタりと身を寄せていたのである。 初めには私を、後年には指宿大尉を目標にしていたと考えると符節が合う。

 これらのことから、彼女はスパイであったと断言して間違いないと思う。 当時、私は気づいてはいたが、17、8の小娘に何ができるか、やれるものならやってみろと考えていたのだ。

 機密を漏洩したとは思っていないが、私の日々の所在を彼女に発見されることが、第一の機密漏洩になっていたのであった。 私は、自らその罪の中に積極的に飛び込んだ結果になっている。 その誘因は酒を飲んだことにあった。

 本来、酒は死物である。 罪を犯すのはその人にあることは言われなくても解っている。 神ならぬ人間は、解っていてなお罪を犯すものだ。

 だから先ず、罪の誘因となるものを遠ざけねばならないのは当然であった。 戦場とは、もっともっときびしい所であった。 戦場の酒は、平時の酒のつもりで律すべきものではなかったのだ。

 付言すると、私はミス・モールを恨んではいない。 彼女もまた祖国のために、命を賭けて戦ったのだ。

 今でも私のまぶたに浮かぶ姿は、スマートで清らかな生娘である。 この幻影をいつまでも崩したくない。 恨んでいるのは酒ばかりである。
(続く)

2010年03月30日

「飛翔雲」 第4章 パイロットへの道 −その40

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 搭乗員と酒と女と (11)

   その6 戦場の酒 (承前)

 5月10日頃、次の作戦のため、私達はマニラ市からセブ市に進出した。 セブ市は、マニラから320浬南方のセブ島の中心地である。 作戦は、ネグロス島サマル島レイテ島の戡定作戦であった。

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( 原著より  ゼブ基地の士官宿舎 )

 10日ばかりの作戦の後、2、3人の部下を連れてセブの町へ飲みに出た。 私達は一か月ばかり前にこの基地に進出していたことがあったので、その頃によく行ったバーであった。

 このバーで、ミス・モールに迎えられたのである。 私は驚くよりも慄然となった。
 
 日本の海軍士官が、この島内で飲みに行くバーはここしかないのだから、モールが私に会おうと思えば、ここで待っていればよいことは解る。

 しかし、マニラからここまで来るには、サマル、レイテの二つの島を飛び石にして来なければならない。 それには、2週間以上かかる筈である。 何故そんな困難と危険を冒して、追って来たのであろうか。

 私達は彼女を愛したが、恋をしたのではない。 彼女もまた、300浬の路を追って来るような恋をする年頃ではない。 この時、初めて疑惑がひらめいた。

 「モールは誰かに操られている」 と。

 私は中国仏印でもこのような例を経験した。 中国の女性は悧巧だし、永い忍従の歴史の中に生きてきたから、どんなことがあっても顔や口には表わさない。

 操られていることを知っても、その裏面を知ろうとはしない。 失敗して殺されることがはっきりしても表情を変えないし、声を出して泣くこともなく、黙って乱暴され、殺されるのを待っている。

 しかし、モールは中国人ではなくフィリピン人であり、スペイン人の血を持っている。 果たして中国娘のように人から操られ、最悪の場合は殺されることを承知で私達の前に現われるであろうか。 私には解らない。 けれど、疑わしいことは確かである。

 私は全身で彼女を見つめていた。 一分の隙も見逃すまいと注意を集中していたが、彼女はマニラにいた時と少しも変っていなかった。 お化粧もせず、質素で清潔な服装も同じだし、時々寂しそうな目をするのも同じだった。

 私は考えた。 彼女を遠ざけるか、或いは、彼女の傍に寄りつかないようにするべきか。 しかし、そうすればまた別の人間が現われるであろう。 そして、その者は、モールよりも一層鋭い人間であるかも知れない。 それは、この国に進駐している限り、避けられない私の運命なのだ。

 モールが誰かに命ぜられるままに私達から何かを捜し求めるならば、私らが漏らさなければそれでよいのだ。 それしかないのだ。 私はそう決めた。

 「モール、お酒を飲むか?」

 この時、モールは初めて日本語を喋った。

 「お酒好きよ。 沢山飲むこと嫌い。 日本の言葉沢山勉強しました。 One Moment of Paradise は、日本語で何と言いますか?」

 突然、逆襲してきた。

 「モールが大人になったら解る。」

 私がウィスキーに水を割ってやると、おいしそうに飲んで、

 「あなた解らないの?」

 「いや、モールが解らないのだ。 ・・・・ モールは沢山お金あるか?」

 彼女は再び英語で喋り始めた。 金は沢山あるが使えないこと。 父はセブに住む貿易商人でスペイン人であること。 今は遠いところへ行っていること。 母はマニラに住んで中国人を愛するようになったこと。

 自分は独りポッチになったが、家がセブにあって、その家には彼女が生まれる前からハウスキーパーの老婆がいること。 家の庭には果物が実り、鶏が沢山飼ってあること・・・・ などであった。 そして、最後に家に遊びに来てくれと言った。 再会を約して別れた。

 戡定作戦と哨戒作戦は引き続き行なわれたが、地上にも海上にも大きい獲物はなかった。 コレヒドールが落ちたから、補給の必要もなくなった故だろうと簡単に考えた。

 5月下旬、若い中尉を2人連れて、モールの家へ遊びに行った。 街から山手寄りに500米ばかり離れた小さい丘の陰に、彼女の家があった。 小さい家であったが庭は二千坪以上もあり、境界線がはっきりしていなかった。

 ハウスキーパーらしい人は見当らなかったが、庭も家の中も締麗に掃除が行き届いていた。 マンゴ、バナナ、パパイヤ、ナツメが庭一杯に植えられ、鶏が沢山放し飼いにしてあった。 プレゼントに肉の缶詰を出し、モールは鶏のチーズ焼を御馳走してくれた。

 6月中旬、ミッドウェイの敗戦補充のため、私は 「瑞鶴」 艦爆隊長を命ぜられ、セブを去ることになった。 彼女は、

 「何故日本に帰るのか。 私を日本に連れて行ってくれ。」

 と言って泣いた。 最後の送別会の晩、モールのバーに行った時、誰から教えられたのか、

 「瑞鶴に乗ってまたセブに来るか。」

 と、くどく聞いた。
(続く)