2009年11月25日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その6

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (6)

 着水の瞬間に、偵察員高畠二飛曹は座席のバンドを締めていなかったので、放り出されて失神した。 気がついた時は、海面に仰向けに浮かんでいた。 夜であった。 操縦員の消息は解らなかったが、割れるように痛む頭の中で、不時着水した記憶が少しよみがえった。

 ザンボアンガの海岸が星明りでよく見え、海岸に迫る山々が怪物のように横たわっていた。 彼は海岸に向かって泳ぎ始めた。

 海岸に着いたら、命の限りセブ島の見えるところまで歩こう。 その間に味方の飛行機が見つけてくれるであろう。 そして、飛行艇が救助に来てくれるに違いない。彼はそう信じた。

 やがて、夜が白々と明け始めた。 海岸から約千米の所まで近づいていた。 海岸は椰子の密林で、林間に小さい小屋が二、三軒見えたが、人影は全く見えなかった。 彼は海岸に向かって泳ぎ続けた。

 4、5百米に接岸した頃であった。 突然、椰子林の中から十数人の屈強な土人が現われ、カヌーが3隻、林間から波打際に運ばれるのが見えた。 やがて一隻に5、6人が乗って、手に手に長い竿を持ち、真直ぐに近づいて来るのであった。

 それを見て彼は死のうと思った。 そして舌を噛んでみたが、噛み切れなかった。 海底に沈もうと思って、予科練時代に教わったとおり、肺が空っぽになるまで息を吐いてみたが沈まなかった。

 土人達は2、3米の所まで近づき、40才くらいの温和しそうな男が爪竿を差し出した。 敵意はなさそうであったので、彼は土人達のなすがままに、舟に揚がった。 全身の力が抜けて、まだ波間に漂っているように上体が前後に揺れた。

 海岸に着いた時、フィリピンの巡査が一人いて、土人達は高畠をその男に引き渡した。 巡査は腰に大きい拳銃のケースをぶら下げ、キルク帽子をかぶって威張っていたが、裸足で、痩せた足が折れそうであった。 30才くらいの色の黒い男であった。 害意は示さなかったが、親切でもなかった。

 高畠は疲れ果てて、前にのめりながら、真白い珊瑚砂の海岸を、その巡査に案内されるままにぼんやりと歩いて小屋の中に入った。 バナナと木綿のパンツが与えられたので、彼は着換えてバナナを食べ水を腹一杯飲んだ。 濡れた衣類は返してくれなかった。

 やがて、巡査を先頭に小屋を出て林間の小径を歩かされた。 土人3人が、何かポソポソと話しながらついて来た。 高畠は今まで思考力を失っていたが、先刻食べた三本のバナナと水のお陰で、少しずつ判断力を回復した。 そして考えた。

 「 自分は今からフィリピン軍の敗残部隊の屯所に連行されるのではなかろうか? 隊長が、ミンダナオ島はまだ敵地だと言ったような気がする。 敵の部隊に連行されて・・・・ 」

 ここまで考えて、彼の疲れた頭脳に 「捕虜になるかも知れない」 という恐れがひらめいた。 瞬間、彼は立ちすくんだ。 次の瞬間、彼は前を歩く巡査に跳びかかった。 巡査の拳銃を奪おうとしたのだ。

 激しい格闘になった。 彼は警官をねじ倒し、拳銃のケースを握って放さなかった。 土人3人が彼の後頭部を殴り蹴ったが、屈せずに闘った。 彼は頑丈な体をしていたが、昨夜来の漂流の疲れと、四人を相手の格闘では勝味はなく、力尽きて失神した。
(続く)

2009年11月26日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その7

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (7)

 気がついた時、両手を麻縄で後手に縛られていた。 小さい小屋の中で、番兵が二人いた。 そこはジャングルの中の、敗残兵の詰所のようであった。 ここで一週間を過ごしたが、逃亡の隙は見つからなかった。

 一週間後、手足を厳重に縛られ、目隠しをされ、自転車の荷台に乗せられて運ばれた。 夜になってからカヌーに乗せられ、ネグロス島 (と思う) に渡り、続いてセブ島の北岸に揚がった。 そこで目隠しを取られ、峻険な山道を登らされ、二日かかって収容所 (先刻説明のセブ山脈中腹の刑務所) に容れられた。

 一方私の方は、事故があってから約1か月目に、高畠がセブの捕虜収容所に容れられているという情報を陸軍から入手したので、取り敢えずマニラ市の憲兵隊を訪れた。

 その時、憲兵隊の隣にあった米豪軍の捕虜達の様子を見ているうちに、どうにかして、この捕虜と高畠とを交換することはできないかと考えた。

 捕虜の中に、濠州陸軍の Capt. King という男がいた。 彼をセブ収容所に送る代りに高畠を私の所に返して貰おうと考えたのだ。 憲兵に頼んでみたが、憲兵は全く受け付けなかった。

 一週間後に、酒と煙草を持ってまた頼み込んだ。 そして、3度目に憲兵を訪れると、憲兵はあきれたように私を見ながら、

 「 捕虜交換はできませんが、高畠を釈放すればいいんでしょう?」

 と言う。 私は喜んでセブに帰り、セブの憲兵分遣隊を訪れると、

 「 昨日、マニラから連絡がありました。 しかし、セブの捕虜収容所は峻険な山の中にあって、釈放されても高畠が帰って来るかどうか解らないでしょう。 それよりも、貴官が収容所の近くで、陸戦訓練をおやりになって彼を奪回しては如何ですか? 裏工作はしておきます。」

 と教えてくれた。

 私は早速、部下搭乗員整備員で陸戦隊を編成し、飛行機の後席から卸した旋回機銃6丁と拳銃と日本刀で武装して、翌朝勇躍して収容所に向かって山を登った。

 この陸戦隊は火力は強いし、敵は収容所の番人くらいのものだし、士気旺盛だが山登りが下手くそで、行軍に時間がかかり、収容所に辿り着かないうちに、日没が近づいてしまった。

 止むを得ず進撃を中止し、景気直しに機銃6門の試射をやって、明日の早朝からやり直そうということで引き揚げた。 戦果はバナナと山桃だけだった。 私達は早く寝んだ。

 ところが、真夜中の1時頃、部隊が急に騒がしくなったので不審に思っていると、高畠が同年兵に付き添われて私の部屋に現われたのである。 彼は、私達の機銃試射の音を聞いて収容所を脱出し、道なき夜の山を降りて帰り着いたのであった。 不時着してから40日目であった。

 私は彼の全身の傷痕を見た。 火傷、切りきず、打ち身で目も当てられなかった。 彼は、暫くは泣くばかりであったが、興奮が収まると、経過の概要を断続的に語った。 以上述べた内容がそれである。

 私は彼に安静休養を命じ、同僚達とはできるだけ話し合わないように注意した。  これで、この事故が終ったのではなく、問題は、今後にある。 支那事変中の体験から私はそう思ったが、果して問題が起きたのであった。
(続く)

2009年11月27日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その8

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (8)

 高畠が帰隊してから一週間が経った。 彼の傷痕は薄れたが、顔色は冴えないばかりか、段々と痩せてきて、ものも言わなくなった。

 恐らく、高畠を捕虜と罵り、卑怯未練な男と辱しめる者が現われたのであろう。 私は、支那戦線でそれを見てきた。 こんな時の処置は急がねばならない。

 私は高畠を連れてマニラに飛び、総てを司令に報告した。 そして、暫くマニラに滞在して情況を見ていた。

 5月下旬頃、高畠は完全に食を断ち、疲弊のため課業整列の時卒倒した。 それから4、5日後の或る夜、友人の刀を無断借用して割腹した。 幸いに発見が早く、助けることができたが、既に身の回りを整理し、家族に当てた遺書があった。

 私は最後の手段を取った。 それはマニラ港の第三埠頭を上がった所に、石造四階の三井銀行があるが、このビルの三階に頑丈な金庫室があったので、彼をこの部屋に軟禁して監視をつけ、本を与え、それを読んで所見を提出することを命じ、一方では、彼を転勤させることを計画したのである。

 2週間経った。 その頃、日米の戦争は中盤戦に入り、6月初旬に日本はミッドウェイに大敗し、多くの搭乗員を失った。 その再建のために、私は航空母艦 「瑞鶴」 の飛行隊長を命ぜられ、フィリピンを去ることになった。

 去る前に、高畠に会って、

 「必ずお前を 「瑞鶴」 に引き取る。 それまで体力を養い、その日を待て。」

 と言って彼を納得させた。 6月15日、私はマニラを去り 「瑞鶴」 に着任した。

 高畠が、私を迫って瑞鶴艦爆隊に転入して来たのは、7月初旬であった。 彼は隊長室に私を訪れ、半年ぶりに明るい笑顔を見せて晴々と挨拶した。 そこには幾月かの苦難を越えてきた逞しさがあった。

 私は思った。 戦争とは、一個の生命とその名誉に関係なく、激しく流れる巨大な歯車であることを、「瑞鶴」 の乗組員が彼に教えるであろう。

 たとえ彼が捕虜を体験したことが知れ渡っても、そんなことに深い関心を示すことなく、高畠自身が自主的に判断した死生観に基づいて戦い抜くことを高畠に求めるだろう。 そして彼も、他人から侵されることなく自分を見つめていくだろうと。
(続く)

2009年11月28日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その9

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (9)

 8月下旬に、第二次ソロモン戦があった。 私は攻撃隊指揮官として、「瑞鶴」 艦爆隊全機を率いて出動した。 高畠は指揮小隊三番機に乗せた。

 この時の戦闘は、敵味方の位置誤差があって、相互に攻撃が不成功に終り、飛行部隊は夕闇迫る頃、燃料を使い果たして、やっと母艦上空に辿り着いたのであったが、着艦のための周回路を飛行中に、駆逐艦の傍に不時着水したものが3機あった。

 高畠機は、その中の一機であった。 駆逐艦が、洋上に浮かぶ彼を救助しようとしてブイを投げ与え、ボートから爪竿を差しのべた時、彼は救助されることを拒否して次のように叫んだのである。

 「 わしは今死ぬんだっ! わしは国のために戦ったっ! 卑怯者ではないぞ。 隊長と一緒に戦死するのだ。 戦死だぞっ!」 と。

 そして、差し出す爪竿を頑として払いのけ、暮れ行く波間に沈んで行った。 この時の彼の操縦員乙田一飛菅は、涙ながらにボートの上から彼を見送った。

 この報告を乙田から聞いて、私は乙田を怒鳴りつけた。

 「 飛び込んで教えなかったのかっ!」

 乙田は答えた。

 「 いいえ、隊長! 私は高畠の苦しみを全部知っていました。 彼が私に話してくれたのです。 彼は私に、決して生きて 「瑞鶴」 から去ることはない、生きて郷里には帰れない、と言っていました。 私が何と言おうと、こればかりは聞き入れませんでした。

 彼が今日まで苦しみの中を生き抜いてきたのは、若い妻の行く末を案じて耐え抜いていたのでした。 彼の家庭には複雑な事情があったのですが、それが、やっと見通しがついたのです。 彼は、隊長にはそこまでは話していないと申しておりました。 隊長、彼を死なせたことは悪かったでしょうか?」

 乙田は続けた。

 「 高畠は、今度の攻撃に参加できたことを、とても感謝していました。 彼は私に、自爆したいが、それではお前を途連れにすることになるから駄目だ、とも言っていました。 彼は自分の意志で、満足して死ぬことができるのは、今が唯一のチャンスだと泳ぎながら考えたのではないでしょうか。 偵察員である彼が、死の自主的選択ができたのはあの時しかなかったのです。」

 「 隊長と一緒に戦死するのだと高畠が最後に言ったのはどういうことだ?」

 「 それは、私が隊長にお伺いしたかったことです。 隊長は着艦に失敗し、艦外にこぼれ落ちたのではなかったのですか? 私は着艦コース中に燃料が切れたので、トンボツリの近くに着水しましたが、私は隊長機が母艦の艦尾から落ちるのを見ました。 隊長は死んだと思いました。 高畠もそう思ったのでしょう。」

 私は驚いて叫んだ。

 「 こぼれ落ちたのは二番機だ。 二番機が燃料不足で緊急着艦を要求し、私の前に着艦したのが見えなかったのか? あわて者奴!」

 乙田が苦しそうに何か言おうとしたので、私は 「今から、高畠の荷物を調べるから立ち会ってくれ」 と言って、早速高畠の荷物を調べた。
(続く)

2009年11月29日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その10

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (10)

 妻と私に宛てた遺書があった。 また、遺書ではないが、厚い大学ノートに、彼の感想や歌が書かれていた。その一部を発表させてもらう。

 短歌三つ。

     運命(さだめ)なれ、運命なれやと、思う身に、
         幼き〇〇の、まなざし悲し  (原註:〇〇は妻の名)

     国のため、死に行く身こそ、幸なれや、
         野辺にさすらう、妻こそあはれ。

     泣く妻の、手のあかぎれに、血の吹きて、
         つづれる袖の、痩せたその手に。

 ノートのどの頁にも、妻の名前が書かれてあった。 彼は、若い (幼い) 16才の妻と、お腹の中の子供を残して死ぬことに、もだえ苦しみ狂わんばかりであった。 頑固な病身の父の命令で結婚した彼であったが、ただ一途に妻を愛し、結婚を悔いた文字などは一字もなかった。

( 以下は私 (著者) の私見 )

 しかし、妻を保護し、その生涯の生活を保証してやる手段に窮したので、せめてもの願いとして、捕虜の妻という名前を妻に与えることだけは防ぎたかった。 最後に 「戦死だぞ」 と叫んだのはそれだったのだ。

 ひたすらに、妻の生涯の幸福を祈って死んだ彼であった。 ノートの一字一字は、その苦しみと祈りの血涙の跡であった。 私はノートを密封して、奥さん宛に上書きを書いた。

 高畠が私と一緒に死のうと思ったことも解るような気がする。 彼が切腹した後、軟禁したマニラの石室で、私は彼にこう言った。

 「 自分が愛する人間が、この世に一人でもいれば、それだけを考えてみろ。 その人に何も与えることができないと思うことは、間違いだ。 その人のために祈ることが、まだ残されているではないか。」 と。

 また、彼が 「瑞鶴」 に来た時、

 「ここは、陸上部隊のような生ぬるい部隊ではない。 死んだつもりで生きてみろ。 話しあえる友人が必ずいる筈だ。 二三人の友人を選べ。 多くを望むな。」  と。

 彼は乙田の他に、二、三の友人ができたようだった。 その友人とは、捕虜の不名誉とか、卑怯とかを含めて、人間的悩みを理解しあえる相手だ。 高畠は、そんな友人を瑞鶴で得ることができた。 乙田も、私もその中の一人であったと思う。 だから、私が死んだと思った彼は、三途の川を一緒に渡る相手ができて喜んだのであろう。

 あの日から30数年の歳月が流れた。 当時を思い、私はもう一つ所感を述べさせてもらいたい。

 それは、 戦場で死ぬ時は、愛する者に、無辺の祈りを献げつつ死ぬものだ。 信ずる友に対しては、感謝の気持と一緒に、お前も早く来てほしいという、ちょっぴり身勝手な気持になるものだ。 それが戦う人間の常道だと思う。

 蛇足を加えるなら、人間が耄碌して死ぬ時は、何を考えながら死ぬのか私にはまだ解らなくて、畳の上では死にたくないなどと身勝手なことを言っているが、戦死とは、その決心と行動としては一番易しい死に方だと思う。 高畠の死もその枠外ではなかったと考えている。
(第1話終)

2009年11月30日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その11

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (1)

   その1 トラック島の基地

 小学校5年生の頃 (大正13年) の国定教科書 「読み方」 に 「トラック島便り」 という一節があった。 挿し絵に、椰子の林と、明るい珊瑚島が画かれていた。

 少年の心は2千浬南に飛んで、真白い珊瑚礁の海岸でカヌーを漕ぎ、熱帯魚を追い、椰子の実やバナナを食べ、焚火を囲んで歌を唄った。 楽しい夢であった。 

 それから20年後、航空母艦 「瑞鶴」 の飛行隊長となって、約1年2か月にわたり、会戦の間合をこの島で過ごすことになろうとは夢想もできないことであった。

 トラック島は、第一次世界大戦後、ドイツから受け継いで日本の委任統治領となった 「マリアナ、カロリン、マーシャル」 群島の中心にある。 珊瑚礁に固まれた小群島で、北緯7度、東経150度に位し、ガム島から南東へ千粁、東京から南へ3千3百粁離れている。

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( 昭和13年海軍水路部発行の海図より )

 この島をとり巻く環礁は周囲約百浬で、東、西に二つの入口がある。 環礁の内部には、大小70の玄武岩質の台状火山島があり、その中の大きい島々に、春夏秋冬、松竹梅、七曜日、の名前が付けられていた。

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( Google Map より )

 環内の水深は70米から15米、錨泊するのに都合よく、連合艦隊の全艦が入泊することができた。 竹島、夏島には飛行場が造られ、艦隊の飛行機は母艦から飛び発って、この基地に移って訓練をした。

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( トラック環礁内の主要部 )

 原住民はミクロネシヤ系のカロリン族1万5千人が住んでいた。 彼等は戦争中、小笠原列島の島民のように、内地や朝鮮に疎開させられることもなく、日本人と別け隔てなく生活していた。 勤勉で人なつっこい人種であった。

 島の気温は、平均26、7度で四季はなく、7、8月は日本の真夏と同じであったが、一日に一度は必ず豪快なスコールが訪れて、人々と草木に蘇生の思いをさせた。

 7、8月以外は空気は乾燥し、北東の貿易風が椰子の木蔭にそよいで、日本の初秋を想わせた。 直ぐ近くで颱風の卵が発生し、それが豆颱風に発達して突然襲ってくることがあった。

 海岸には椰子林が密生し、山にはバナナ、羊歯類が繁り、内地から移植した椿や黄楊(つげ)が趣を添えていた。

 大気は藍青に深く澄み渡り、空を見つめてもまぶしくはなく、スコールが過ぎた後には真昼に星を見ることができた。 海水は薄紫に透明で、数十米の底に遊弋する熱帯魚が、赤、青、黄の鮮明な姿で綾なすように往き交っていた。

 環礁の内海はうねりもなく鏡のようであったが、外海は赤道直下のどこかで発生する颱風の余波で、ゆるやかな大きいうねりが、はっきりと円形に見える水平線の彼方から押し寄せていた。 それは、永遠の過去から無限の未来へ続く、音の無い流動の姿であった。

 ひとたびうねりが環礁に当ると、珊瑚礁の白砂よりももっと白く砕け、リズミカルな潮騒を奏でた。 それもまた、夜も昼も休むことなく、無限に続く単調な奏楽であった。

 私達機動部隊は、一会戦ごとにこの島から出撃し、戦い終ってこの島に帰った。

 闘いに明け暮れて、疲労困憊の果てにこの環礁に帰り着き、夕暮れ時に母艦の甲板から南溟の彼方を眺めていると、数日前の激闘も夢の中の出来事のようにぼやけていった。

 そして、その時ばかりは戦争を忘れ、家族も友人も、隊長であることも忘れ、人間に生まれてきて本当によかったと思うのであった。

 私達が戦う場所は、このトラック島から更に南東へ3千粁、南緯12、3度、東経175度附近で、つまり、濠州、ニューギニアの遥か東方洋上であった。 赤道を越えて、遠い遠い旅をして戦ったのである。

 南十字星は、いつも私達の頭上にあった。

 太平洋は、30数億年前のままの美しい姿で私達を迎えてくれたが、それらは、私達の戦っている姿を、冷やかにきびしく見つめているのであった。

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( 原著より  トラック基地の 「瑞鶴」 艦爆隊  前から2列目中央が著者 )

(続く)

2009年12月01日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その12

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (2)

   その2 この頃の戦略情勢

 この手記は、昭和17年10月26日南太平洋海戦において、敵戦闘機の攻撃により空中火災を起こして洋上に撃墜され、戦死と認定され、11日間行方不明になった時の記録であるが、先ず、その頃の日米の戦略情勢について概説しておこう。

 昭和16年12月8日、日本が米英等を相手として戦争状態に入ってから、フィリピン、マレー半島を初め、現在のインドネシアの3千の島々の要点に上陸し、これらを占領したのは僅か3か月間の作戦であった。

 17年1月2日にはマニラが落ち、2月15日にはシンガポールを落とし、3月8日にはバタビヤ、スラバヤ、ラングーンも陥落した。

 海上作戦の方は、12月10日、英極東艦隊の主力 「プリンス・オブ・ウェールス」、「レパルス」 をマレー沖で撃沈し、17年2月までに、米英蘭の連合軍をジャワ海域で撃滅してギルバート群島を占領し、南西太平洋の制海権と制空権を完全に掌握した。 これが日本の第一段作戦であった。

 日本は続いて第二段作戦に入ったのであるが、二段作戦の日本の腹案は、次の様であった。

 その第一は、速やかに一段作戦で占領した地域を戡定し、軍政を滲透してその地域を安定させ、それを日本の戦力に組入れて、守備態勢を整える。

 その第二は、これらの占領地城を守るために、占領地域の外廓要点に基地を設定し、敵の反攻を封じ、長期不敗の戦略態勢を整えて、戦争終結の機会を捕えるということだった。

 これを解り易く説明すると (図面参照)、日本が一段作戦で占領した地域で理想的な軍政を敷き、民生を安定し生産を向上させれば、日本は自給自足ができるようになって、戦力も徐々に向上するようになるだろう。

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( 原著より )

 更に、この地域を長く守り通せば、日本は大東亜共栄圏に定着し、戦略的に不敗となり、戦争の終結について米英と話しあえる条件が生まれるであろうというのである。

 これは非常に甘い考え方で、実現は極めて困難なことであったかも知れない。 しかし、日本が生きる道は、これを実現するより他に方法は無かったのだ。

 山本長官が開戦に当って 「初めのうちは大いに暴れてみせるが、その後は難しくなる」 と言われたのもこのことであって、どんなに難しくても、これをやり遂げねばならないのであった。
(続く)

2009年12月02日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その13

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (3)

   その2 この頃の戦略情勢 (承前)

 さて、これを実現するためには、第一段作戦で占領した地域の外廓にある戦略要点を、純軍事的に占領して要塞化することが必要であった。

 その外廓の戦略要点というのは、西はインドネシアから印度に至る間の島々、すなわち、アンダマン、ニコバル諸島等であり、北はアッツ、キスカ、ミッドウェイであり、南東はニューギニア東部、ソロモン群島及びアメリカ本土から濠州に至る間に介在するサモア、フィージー、ニューカレドニア等の島嶼群である。

 この広い地域の中の戦略要点を、米英に先んじて軍事的に占領して強力な基地を作ろうというのだ。 そして、その基地の勢力範囲に日本の機動艦隊を行動させて、制海権制空権を確保し、敵を寄せつけないようにしようというわけであった。

 相手に先んじてこれ等の戦略要点に基地を造ってしまえば、これを敵が攻略することは容易なことではない。

 例えば、敵の機動艦隊がこれらの基地を攻略しようとすると、陸上基地は撃沈できないから、陸兵で占領しなければならない。

 そのためには、輸送船団で陸兵を遠い所から運ばねばならないが、船団は洋上では機動艦隊の足手まといになるし、日本の機動艦隊の好餌になるし、基地航空部隊からも攻撃目標になる。

 また敵機動艦隊に対しても、足の長い基地航空部隊が先んじて発見攻撃できるし、それに日本の機動艦隊が協力すれば、両々相俟って非常に強い防衛力となる。

 だから、戦略要点に強力な基地を造り、その傘下に味方機動艦隊が行動すれば、殆ど不敗の態勢と言えるのである。

 以上のような戦略により、日本は一段作戦が終った後、急いでその外廓要点に基地を造ろうとしたのであり、アメリカは逆に基地を造られては大変だから、急いで反攻に出て来たのである。

 日本の 「外廓基地獲得」 の作戦は、17年3月から展開された。 これが第二段作戦であった。

 西方は陸軍のビルマ作戦と併行して印度洋に進出し、英空母 「ハーミス」 と重巡2隻を撃沈し、陸軍の基地占領を支援した。 北方では、アッツ、キスカに基地を造り、ミッドウェイの基地を占領しようとした。 南東方面では、ソロモン群島のガダルカナル、フロリダ、ニューギニアのラエ、サラモアに基地を造り、ポートモレスビーの基地を占領し、続いて米濠間のサモア、フィージー、ニューカルドニアに進出する計画であった。

 この作戦が順調に進展しておれば、日本は不敗の態勢となったであろう。 ところが、この壮大な作戦の中途で、日本にとって思いがけない致命的大失敗が起こった。

 それは、17年6月5日のミッドウェイ海戦で大敗し、航空母艦の主力4隻と、虎の子搭乗員を失ったことである。 この日本の失敗を、アメリカが見逃がす筈はなかった。

 アメリカは8月7日、勝に乗じてガダルカナルを強襲して来たのである。 日本の基地哨戒偵察機の油断もあって、敵は奇襲に成功した。 これが日本の第二の致命的失敗であった。

 ガダルは、日本の第二段作戦の中で最も重大な戦略要点であった。 それは、ガダルが濠州からフィリピンに至るまで、点々と連なる飛び石の島島の中間にあるからである。

 日本がこの島から後退すれば、敵は飛び石づたいに日本の占領地城を突き破って来ることは明らかであり、そうなれば、日本の自給自足の態勢は崩れ去ってしまう。

 また、ガダルを失えば、そこから南東に延びる米濠間の島々に対する日本の作戦も不可能になり、一方、米は濠州との協同連絡を完全に行なえるようになって、米の反攻作戦は軌道に乗ってしまう。

 どうしても、日本はガダルを奪い返さねばならないのであった。 ここに、ガダルをめぐる日米の死闘が展開されたのであった。

 以上が、17年8月初旬の日米の戦略情勢であった。
(続く)

2009年12月03日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その14

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (4)

   その3 日米の機動艦隊

 この頃の日米両海軍の機動艦隊の内容は、次の様であった。

 日本側は、過ぐる6月5日のミッドウェイ海戦で四隻の母艦と搭乗員を失い、またその前の5月8日の珊瑚海海戦でも搭乗員を多く消耗し、その結果、空母は 「翔鶴」、「瑞鶴」、「瑞鳳」、「龍驤」、「鳳翔」、「春日丸」 (「大鷹」 と改名) の6隻となった。

 この内の「龍驤」、「瑞鳳」、「鳳翔」は1万噸内外の小型であり、大きい進攻作戦には無理であって、母艦の数には入らないと言ってもいい。

 搭乗員は開戦時、母艦搭載機の約2倍のベテランが世界一を誇っていたが、その約5分の3を失い、母艦常用機の一倍定員の80パーセントしかいなくなった。

 それでも、陸上部隊から根こそぎ集めてくれば、まだ世界最強の搭乗員チームを組むことができたけれども、この時の艦隊には、約50パーセントが集められていた。

 一方アメリカ側は、珊瑚海海戦で主力空母 「レキシントン」 を失い、その他の6隻の主力空母も大破中破したが、修理が極めて速く、この頃には6隻が完全稼動の状態にあった。

 搭乗員は日本以上の消耗があったが、本国には日本の約10倍の要員を持ち、技量も徐々に向上しつつあった。 しかし雷爆撃の命中率はまだ日本の2分の1以下で、空戦技能も1対1では問題にならなかった。

 ただ、士気については、彼らは一会戦で飛行隊の消耗が多く出ると (約3分の1以上)、飛行隊全員を交替させる方式であり、日本のように伍間増加方式ではないために、新進気鋭で疲労のない闘志満々の者が常に第一戦にいた。

 このような情況下で日米の両機動艦隊が、ソロモン海に激突したのであった。
(続く)

2009年12月04日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その15

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (5)

   その4 小会戦

 17年8月8日、第一次の会戦は水上艦艇によって火蓋が切られた。 三川中将によって率いられた日本艦隊の重巡5隻、軽巡2隻、駆逐艦1隻が、ガダルの泊地を夜間強襲し、敵重巡4隻を撃沈、重巡駆逐艦等3隻を中・小破、味方に大した被害もなく、一方的に完勝した。

 しかし、ガダルの敵航空兵力は益々増強され、ニューギニア東岸にも基地を造り、サンタクルーズのB17は機数を増した。 一方、日本はラバウル基地だけで、増勢の余力はなく、作戦は日を迫って苦しくなりつつあった。

 8月24日、25日、第二次ソロモン海戦が行なわれた。 日米両機動艦隊の衝突である。 日本側は、「翔鶴」、「瑞鶴」、「龍驤」、「千歳」 と、ラバウルの第二十五航空戦隊の中攻隊であった。 米側は、「サラトガ」、「ワスプ」、「エンタープライズ」 と、エスピリットサンドのB17であった。

 24日午後1時、両艦隊は約250浬に接近し、互いに攻撃隊を発進させた。 日本側の第一次攻撃隊の主力は 「翔鶴」 艦爆21機で、それに、「瑞鶴」 艦爆9機、艦攻12機が加わった。 直衛戦闘機は僅か10機であった。 攻撃部隊合計52機、総指揮官は 「翔鶴」 艦爆隊長関少佐、攻撃目標は空母「エンタープライズ」で、1300発進した。

 第二次攻撃隊の主力は 「瑞鶴」 艦爆隊18機と艦攻隊12機で、それに、「翔鶴」 艦爆9機が加わった。 直衛戦聞機は僅か9機であった。 攻撃部隊合計48機、総指揮官は 「瑞鶴」 艦爆隊長高橋大尉(私)、攻撃目標は空母 「サラトガ」 で、1400発進した。

 両攻撃部隊ともに、直衛戦闘機が少なかった。 それは、ガダル基地上陸部隊の直衛に、半分の勢力を割いたからであった。

 この会戦は、互いに敵母艦の位置に誤差が多く、「翔鶴」、「瑞鶴」 は敵の攻撃を受けず無傷だったが、「龍驤」 はエスピリットサンド基地のB17の攻撃を受けて沈没した。 (原文のまま)

(注) : 「龍驤」 を撃沈したのは、今では米側の記録により 「サラトガ」 の攻撃隊38機 (爆x30、雷x8) であることが明らかになっています。


 私は第二次攻撃隊を率いて250浬進出し敵 「サラトガ」 の予定地点に到達したが、敵を見ず、無線封止のため敵位置の問い合わせをしても情報が入らず、敵が南方に逃走したものと判断して約一時間南方を捜索し予備燃料を使い果たしたが、発見できずに引き返した。 そのため、着艦の時燃料不足となり、3機が不時着水し、内2人が戦死した。

 着艦後、第一次攻撃隊の艦爆隊30数機の戦闘経過について、雷撃隊の隊長檮原大尉から聞いたのであったが、それによると、艦爆30数機は、鶴翼の陣型で高度8千米、水平距離30浬から突撃に転じ、「エンタープライズ」 に襲いかかった。

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( 原著より )

 敵母艦の20浬に接近した頃、敵戦闘機約40機が二手に分れ反撃して来た。 味方の戦闘機は10機しかいない。 優秀な零戦ではあったが多勢に無勢、自らを守るのに手一杯で、30数機の艦爆隊は孤立し、次々と火を吹き、最後に母艦上空に到達して急降下に入ったのは、僅か2機であった。 その2機も還らず、遂に全滅したのであった。

 檮原大尉は、「艦爆隊の犠牲によって、私の雷撃隊は敵戦闘機の攻撃を受けませんでした。 そのため悠々と雷撃ができましたが、申し訳ありません。」 と言った。

 この会戦で、味方は90機を失い、「龍驤」 は沈没した。 敵は20機を失い、「エンタープライズ」 は檮原隊の雷撃により大破したが、沈没しなかった。 10対2の日本の敗戦であった。

 「翔鶴」、「瑞鶴」 は、戦場を後にしてトラック島に帰った。 そして、捲土重来を計るために、急いで内地に向かったのであった。
(続く)

2009年12月05日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その16

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (6)

   その5 部隊の再建

 9月初旬、内地に帰った私達は、鹿屋に基地を設定して、機材人員の補充と訓練を急がねばならなかった。 しかし、その前に大切なことがあった。 それは、敗戦の体験から立ち直ることであった。

 何故負けたか? 敵空母を攻撃する前に、艦爆隊は何故全滅したか? その原因を追求し、はっきりした対策を明示することが、人員補充と訓練に先立ってやらねばならないことだった。

 その原因の第一は、日本の艦爆には敵戦闘機に反撃する装備がないことであった。 艦爆は7粍の旋回機銃を持っていたが、これでは敵戦闘機ワイルドキャットの防弾ガラスを貫撒できないし、また、敵の燃料タンクは防弾ゴムで守られていたので、火災を起こさせる力がないのであった。

 だから、味方の戦闘機に守ってもらうしかなかったが、この時の会戦では、零戦はワイルドキャットの5分の1しかいなかった。

 戦闘機というものは、相手の戦闘機と戦うだけの任務であれば5対1でも十分に戦えるし、この時の零戦は5倍の敵を蹴散らすくらいの力を持っていた。 しかし、無力に等しい艦爆隊の護衛をする任務が与えられると、機数が少ないということが絶対的な力の不足になる。 これは理の当然であった。

 この実態について私は部下全員に話した。 そして、艦隊司令部に出頭して、航空戦闘で、総花式に護衛戦闘機を分散することは愚策だと直言し、「瑞鶴」 の戦闘機隊は全力をあげて 「瑞鶴」 の艦爆と艦攻を守るよう要求した。

 第二は、一艦の艦爆隊、艦攻隊をこまざれのように分割して、私の部下の大塚大尉の10機を 「翔鶴」 部隊に組み入れ、「翔鶴」 の山田大尉の10機を私の指揮下に入れるような変則的な編成 (部隊区分) を何故やるのか?

 戦闘は、部下と上官の血の連結によって戦うものだ。 それを無視するような編成は計画者の浅知恵であって、今後行なわないように要求した。

 この二つは了承された。

 次に、7粍機銃に代る13粍機銃を要求することであったが、これは非常に難しい問題があった。 これについては、直接横須賀航空隊の江草艦爆隊長に訴えるしかなかった。 横須賀では既に昼夜兼行で努力中であるということであったので私は了承した。

 敗北の原因と対策は以上であった。 このことを敗残の部下達に話したのである。

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( 原著より  「瑞鶴」 艦上の艦爆隊員  最前列中央が著者 )

 9月中旬、新進気鋭の若い搭乗員達が続々と鹿屋に集まり、「瑞鶴」 艦爆隊は再び笑いをとり戻し、激しい訓練に入っていった。 そして、闘魂鬱勃として再び南海の空に向かって出発した。 トラック島に着いたのは、10月上旬であった。

 私達が内地に還っている間に艦艇部隊によるガダルカナル飛行場奪回の総攻撃が行なわれたが、二度とも不成功に終っていた。

 かくて、戦局はもはや日米の両機動艦隊が一撃必殺の刃を交す以外に右顧左弁すべきではなく、それによってのみガダルの運命も決するし、ひいては日本の運命も決するような状況であった。
(続く)

2009年12月06日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その17

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (7)

   その6 南太平洋海戦

 17年10月21日、機動艦隊は敵を索めてトラック島を出撃し、一路南下した。 敵機動艦隊も、フィージー方面から北上して来た。

 10月24日夕刻、飛行艇が、敵機動艦隊を南緯10度、東経175度附近で発見した。 24日夜半、艦隊は全速力で南下して敵に接近し、好機を捕えて全機出動し、一挙に雌雄を決することになった。

 会敵は26日の早朝になるであろうとの予測であった。 今度の会戦こそは、二次ソロモン戦の復讐戦でもあり、是が非でも勝たねばならない決戦であった。

 25日午後、艦爆隊全員を搭乗員室に集め、攻撃法を説明した。 私は直截簡明な戦法をとるつもりであった。

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( 原著より )

 それは、艦爆全機を敵輪型陣の手前20浬乃至15浬に、高度8千米で単横陣に並ばせる方法である。

 そして、その隊形で急速に接敵し、敵前10浬から全機同時に敵母艦上空に殺到して急降下に入るのだ。 急降下の順序は問わない。 進入方向も降下角度も投下高度も自由選択、味方同士の空中衝突の危険は止むを得ない。

 途中で各機がバラバラになっても、何れは敵母艦上空に集まるから問題はない。 敵戦闘機との空戦要領は、絶対に昇降舵を使わず、大角度の横滑りをすることだけにし、偵察席の旋回銃は、曳腹弾を多く使って敵を威嚇することに主眼を置いた。

 攻撃部隊の編成は、一次攻撃隊、「瑞鶴」 艦爆21機、「瑞鶴」 戦闘機18機、「翔鶴」 艦攻20機、「翔鶴」 戦闘機4機、合計63機であった。 艦爆隊指揮官は私、総指揮官は 「翔鶴」 艦攻隊長村田少佐 (重治、58期) であった。

 念のために申し添えると、指揮官先頭という言葉があるが、これは戦術運動としては複雑な意味がある。 単純に指揮官が先頭をきって敵陣に飛び込むことではない。

 特に航空部隊の決戦では、最も恐るべき敵は、後方から追尾して来る 「ダニ」 のような戦闘機だから、指揮官が先頭に立って敵艦に突進し列機がそれに続けば、撃墜されるのは列機ばかりだ。 それは、指揮官が先頭に立って逃げていることと同じなのだ。

 だから、指揮官先頭ということは、平時より隊員の戦術思想を統一し、出撃に際しては全機を巧妙に戦場に誘導して戦術的好点に占位させ、各機の攻撃力を均等に発揮させ、戦果を最大限に挙げて味方の被害を少なくし、全機を収集して安全確実に母艦に帰投し、再攻撃を計るという総合的戦闘目的を完遂するために責任感と闘志の強さで、指揮官が先頭にあるべきだということが指揮官先頭の意味である。
(続く)

2009年12月07日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その18

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (8)

   その6 南太平洋海戦 (承前)

 さて、攻撃法の説明が終ると、全員は搭乗員室で車座になって、思い思いに雑談が始まった。 トランプを始める者もいた。 私は彼等の話を聞くともなく聞き、その一人一人にまつわる想い出に耽った。

 恐らく、この隊員達の2分の1は戦死するであろう。 支那事変以来、苦楽を共にしてきた連中が半数を占め、新しい若者が伍間に加わっているが、恐らく若者の多くを失うことになるだろう。

 昭和12年以来、5年間一緒に戦ってきた畠山上飛曹が、水色の透きとおるような二重瞼を見開いて、偵察員と空戦要領を打ち合わせていた。 優しい柔らかい人柄で、新婚であった。 鹿屋で、子供のような奥さんを連れて挨拶に来た。

 その側に、最年少の左田弘一三飛曹が坐っていた。 この青年は金沢市の出身で、郷里に老いた母と妹を残していた。 その母が 「弘一を宜しくお願いします」 と私にすがりつくように頼んだのは、鹿屋の士官室の一隅だった。

 左田弘一は、金沢の旧家の生まれであった。 4才の時父に死に別れ、母と妹と女中の女ばかりの世帯で育った。 彼の家は古い屋敷町にあったが、隣近所の子供達は女の子が多かった。 その故か、小学校に通うようになっても、女の子とばかり遊んだ。

 中学に進んで、初めて男の子ばかりの社会で生活するようになった。 昭和13年、南京陥落直後の頃で、世間は 「いざ征け」 と湧き揚がっている時であった。 その頃の或る日、宿題を忘れて先生に叱られた時、

 「アラ! 忘れていましたわ。」

 と、つい女の子の言葉をつかった。 この時から彼の受難時代が始まった。

 中学生の低学年の社会は残酷である。 相手の瑕を容赦なく咎め、優勝劣敗は猛獣類の社会よりも激しい。 彼は同級生から 「オイコラ、女学生」 と言われ、名前は呼ばれなくなったし、上級生からもいじめられた。

 或る日、校舎の廊下で2、3人の上級生につかまって、「お前はチ〇ポがないのだろう。 ズボンを脱げ」 と言われ、下半身を裸にされたことがあった。 その時彼は決心した。

 「クラスの誰よりも早く国のために戦死して、誰よりも男らしい所を見せてやる。」 と。

(注) : 一字だけ伏せ字にしました。 現在では原文のままではUPできませんので。

 そして、中学二年の時、母親に反抗して飛行予科練習生となった。 それから2年後、操縦員となり、1年の陸上勤務を経て 「瑞鶴」 に来たのであった。

 彼は、理由なく母に反抗し、妹に冷たく、女中には口もきかなかった。 女性の親切を、仇敵のように嫌うようになったのである。

 母親が鹿屋に来た時も、烈しい口調で 「母さん早く帰れ」 と叫んで、母の顔を見ようともしなかった。 妹もただオロオロして兄に見送りの言葉も言えなかった。

 私は 「弘一君はまだ子供です。 立派に成人したら、合戦に連れて行きます。」 と言った。

 その約束どおり、二次ソロモン戦には参加させなかったが、この度の決戦に初めて彼を連れて行くことにしたのであった。 彼の意気は天を衝くばかりであった。 そんな彼を昨日全搭乗員の前で厳しく叱りつけて、

 「喜ぶのは末だ早い。 二次攻撃、三次攻撃と何回でもねばらねばならんのだ。 冷静沈着が最高の勇気だということが解らんか。 死に急ぐ奴は許さんぞ。」

 と、全員にも宣言したのであった。 彼は今、私の視線を受けて、昂然と見返していた。

 美男子の灰田勝彦の弟は、褌のように長いマフラーを巻いて、相変らずむっつりと黙って坐っていた。 わが道を行くという面魂である。 かつての基地訓練中のスマートでおしゃれで繊細な姿は、どこにも見出せなかった。

 私の直ぐ傍に、平原大尉が坐っていた。 この前の合戦のブリーフィングの時は、平原大尉の坐っている椅子に、大塚礼二郎大尉が坐っていた。 彼はその時、濃い髭をなでながら、

 「敵戦闘機の防弾ガラスを、7粍弾で貫徹できないもんでしょうかねえ。 残念ですねえ、隊長!」

 と、沈んだ声で言った。 この言葉の裏には、「敵の戦闘機に喰いつかれたら、笑って死ねということでしょうか」 という意味が隠されていた。

 そしてそのとおりになって二次ソロモン戦で彼は死んだ。 その代りに平原大尉が坐っているのであった。

 あの日から2か月経っていたが、機銃改装は間に合わなかった。 しかし、平原大尉も一言の不平も言わずに出撃しようとしているのであった。
(続く)

2009年12月09日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その19

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (9)

   その6 南太平洋海戦 (承前)

1700頃、突然、戦闘機3機用意の号令があった。 私は追想から目覚めて、急いで艦橋に走った。 30浬ばかり南方のスコールの陰に、敵の飛行艇が見えた。 零戦3機が急速発進してこれを追った。 いよいよ敵もわが機動艦隊を発見したのだ。 明早朝の決戦は確実となった。

1900、「瑞鶴」 は不意に敵機の爆撃を受けた。 先刻の敵飛行艇が、勇敢にも単機で攻撃して来たのである。 虎の尻尾を踏みつけて帰ろうという奴だ。 敵ながらあっぱれな奴であった。

 明くれば26日午前4時、「瑞鶴」 艦爆隊、戦闘機隊が、搭乗員室に集合した。

 0512、「敵機動艦隊見ゆ。 「エンタープライズ」 型2隻・・・・ 0300」 という電報が示された。 2時間以上も受信が遅れている。 距離は300浬余であるが、既に200浬以内に近接しているかも知れない。 急がねば、ミッドウェイの二の舞を踏む。

 0520、攻撃部隊全員艦橋前に整列。 艦長の攻撃命令を受け機上の人となった。 いざ征かんかな!

 0525、戦闘機の一番機が発艦し、18機がこれに続いた。 私は、0527発艦、部下艦爆20機が私に続いた。 針路130度、仇敵 「エンタープライズ」 を求めて直進するのだ。

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( 原著より  「瑞鶴」 より出撃する九九艦爆 )

 0535、翔鶴雷撃隊と合同し、雷爆連合63機の大編隊となった。 針路前面には雲も無く、風は北東3米、徐々に高度を上げて行った。

 この戦いはどうしても勝たねばならないと、心の底から執念に燃えた。 目前に敵を控えた時は勝敗を離れ、無我の境地に入らなければならないことは、幾度も教えられてきたし、支那事変以来4年間の戦闘の経験からも解っていた。

 しかし、高邁な戦理や悟道の境地はどこかに置き忘れて、わが艦爆隊と敵艦とがどんな対勢で相まみえるかに思いを馳せて、迷いに迷った。

 その第一は、敵前40浬乃至20浬で、両軍の戦闘機同士の空戦が始まるであろう。 その空戦の勝敗の帰趨によって、敵戦闘機が艦爆に襲いかかる場所が決まる。 それは、敵前何浬附近と予想すべきか。

 第二は、戦場の風向風力はどうであろうか。 5米の迎え風であれば、敵戦闘機との空戦時間が約30秒長くなる。 10米以上の迎え風となれば、風下側からの攻撃は、成功の算は殆ど零となるだろう。

 第三は、敵針敵速であるが、もし敵艦がわが攻撃隊に立ち向かって来て反航戦となれば、短時間決戦となり、敵戦闘機との空戦時間は約2分短縮され、われに有益であることは考えるまでもない。 しかし、これは特別の僥倖というべきであって、予期することはできない。

 以上の三点の組み合わせと、その可能性に思いをめぐらした。 どんな場合にも、最良の占位運動をして最有効の接敵をしなければ、勝利の機会はないのだ。

 私は迷いを一つずつ整理していった。

 先ず第一に風向風力については、もし風向不明で風力20米以上の局地的小髄風の中の決戦となれば、臨機応変、その時は絶対に負けることはない。 だから最悪の場合を迎え風7米と予定した。

 第二は、敵戦闘機20機と、3分間戦って敵艦上に到達できればわれの勝利確実であり、5分間戦わねばならない時は、われの負けであろう。

 距離に換算して、敵前10浬に接近するまで敵戦闘機の襲撃がなければわれの勝であり、「エンタープライズ」 は沈むであろう。 敵前15浬以上の距離から敵戦闘機の攻撃を受ければわれの敗北であり、わが艦爆は8割を失い、「エンタープライズ」 は沈まないであろう。

 第三の敵針については、反航戦にならないであろう。 敵も凡将ではないからだ。

 あれこれと思いめぐらすうちに、発艦後1時間半が経ったので、徐々に高度を上げた。 前方に入道雲が見え初めた。 その頂上は約8千米であった。

 雷雲を背にすれば、真白い食塩の上のゴマのように、機影を敵戦闘機に目視されるし、局部的に強い迎え風を受けることがある。 うまく利用すれば、空戦を回避できて奇襲に成功するチャンスをつかむこともできる。 しかし、末だ予測はできなかった。
(続く)

2009年12月10日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その20

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (10)

   その6 南太平洋海戦 (承前)

 2時間経ったので艦爆隊は空戦隊形をとった。 敵の予定地点の40浬手前である。 雷雲は案外に大きく、複雑に変形して南方に拡がっていた。

 7時40分、攻撃隊発進後2時間13分。

 私は見た!

 ホーネットを中心にした輪形陣の敵機動艦隊が、白涛を曳いて全速力で南方に遁逃している姿を!

 距離約40浬、針路180度、速力34節、風向風力北東約3米であった。 雷雲はわれに味方した。 敵戦闘機はわれわれを目視発見することが雑しいほど雲が多かったのだ。 (敵はレーダーによって、130浬手前でわれわれを発見したであろう。)

 私は空戦隊形で、雷雲の間を縫って敵に近づいて行った。 不倶戴天の仇敵を撃沈できるかどうか、後10分間の運命であった。

 敵の西方5千米、高度5千米に急速に進出し、そこで斉動して全機突撃すれば、艦爆隊全機の理想型の急降下爆撃が成功するのだ。

 5分経過した。 敵戦闘機はまだ現われない。

 「突撃準備隊形作れ」 と下命。 無線封止を解き、短波で日本機動艦隊の全艦に放送した。

 その時初めて、敵戦闘機が後方上空から味方戦闘機に襲いかかって来た。 約40機のワイルドキャットである。 緊張した偵察員が、大声で 「味方戦闘機隊と空戦開始」 と叫んだ。

 零戦隊よ、2分間頑張ってくれ! その後の3分間は艦爆隊の自力で敵戦闘機と戦いながら敵艦上空に殺到する!

 「空戦が激しくなっています。 混戦です。」

 と偵察員が報告した。 突撃開始まで後1分だ。

 艦爆隊21機は、私を最右翼にして一列横隊に並んだ。 突撃開始まで1分弱。

 「敵戦闘機3機接近します。」 と偵察員の緊張した声があった。

 いよいよ敵の戦闘機がやって来た。 私は 「艦爆隊突撃せよ」 を下令し、全艦隊に放送した。 時に7時46分であった。 エンジン全速! 21機の艦爆は同高度で敵に画して横一列に並んだ。

 何れが敵戦闘機に喰われるか、神のみぞ知る!

 約10秒後に、三番機に対して敵戦闘機1機の第一波の攻撃があった。 三番機は急傾斜で左に滑って逃げた。 必然的に高度が下がった。 高度が下がるのは危険は少ないが、後方に遅れたら、孤立して戦闘機に喰われる。

 三番機は遅れないようにしながら少しずつ高度を上げようとしている。 ここが最も難しい操作なのだ。 私達が僅かにエンジンを絞って彼を待ってやらねばならないのだ。

 第二波は、6機が襲撃して来た。 その中の一機が、私に向かってやって来た。 偵察員国分飛曹長が敵戦闘機の機軸を確かめる。 胴体側面を見せないで接近して来る敵機は、最も恐ろしい奴だ。

 国分が 「右ッ」 と言う。 「シュッ、シュッ」 という敵弾音と同時に、右に機体を滑らせると、間髪を入れず 「ダダダ……ッ」 という近距離で発射する射撃音と、「タンタン」 という命中音を左翼端に感じた。 射撃の上手な奴ではないが、気味が悪い。
(続く)

2009年12月11日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その21

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (11)

   その6 南太平洋海戦 (承前)

 第三波がやって来た。 今度は機体を左に滑らせた。 深い角度の射撃であった。 一弾が私の右肩をかすめ、コックピット中央のコンパスを撃ち砕き、破片が左足の膝頭を貫通した。

 続いて第四波の攻撃があった。 再び機体を左に滑らせた。 しかし、13粍の一弾が右翼の付け根の外販を柘榴 (ざくろ) の実のように破り、ガソリンが白色の飛沫となって尾を曳いた。

 そして、その2、3秒後にそのガソリンに火がつき、火焔と黒煙が胴体の右側面を流れ始めた。 破口の右外側にはガソリンタンクがある。 これに類焼すれば機体は爆発する。 私はあわてて機体を右に45度傾けて滑らせた。

 すると、急激な横滑りのために、機軸を水平に折り曲げるような震動が起こり、機首を上げ、火焔と黒煙が座席に侵入してきた。 左のラダーを踏む力が弱いのだ。

 私はしびれた左足に右足を重ね、力の限り踏ん張った。 そして右腕を操縦桿に巻いて胸に抱き、上半身の力で右前に倒した。 バンドが肩に深く喰い込んだ。

 やがて火焔と黒煙は座席の下をくぐって左翼下に流れるようになった。 このままの姿勢で火災が消えるのを待たねばならない。 もしも、海面に激突するまで火が消えなければ総てが終るのだ。

 一方私の全身は、僅か2、3秒の火焔の侵入により、顔はカッカとほてり、鼻ロは塞がり、喉がゼイゼイと鳴った。 左の膝頭から流れ出る血は股間を浸し、右肩から吹き出る血は胸部に溢れた。

 僅かに残った自由な左手で破れた飛行服を引きちぎり、左の膝頭を押えたり、右肩にマフラーを詰め込んだりしながら落ちて行った。

 次第にかすみゆく頭脳とともに、動物本能の、生命に対する強い執着も段々と弱まって行った。 そして「いよいよ死ぬ時が来たのだ」と、緊迫感の中に悲しい諦めが覆いかぶきってきた。

 高度千米くらいまで落ちた頃、身につけた一切のものを投げ棄てて、座席の上に立ち上がり、大声をあげて咆哮したい衝動に襲われた。 それは、怒りと悲しみを天に向かって訴えたい衝動であった。 人間の命の、将に絶えようとする瞬間の発作であった。

 それから十秒くらい経ったであろうか、右翼端下方に、青い海原が近づいてきた。 火焔と海面に対する恐怖が交錯する中で、横滑りを止める決断に迫られたのだ。

 偵察員も私と同じような思いであったのであろう。 後席で何か音がしたように思って一瞬振り返ると、国分飛曹長は座席の右側に押しつけられながら、操偵両席の中間の外鈑を懸命に叩いて、大声で何かわめいていた。 必死になって私に何かを知らせようとしているのだ。

 私が振り向いたのを見て、右翼を指さした。 私は今まで左後方の黒煙ばかりを見ていたが、彼の指す右翼を見ると、翼根のすぐ外側の燃料タンクの上部は既に焼痕となって、翼の小骨が飴のように曲っているではないか!

 右タンクの火災は消えたのだ。 しかし、まだ白煙は座席に入り、黒煙は左翼下に棚引いている。

 横滑りを止めることは危険であったが、海面が百米以下に近づいてくる。 背に腹は変えられない。 操縦桿とフットバーを中正に戻すと、機体は大きく左に方向を変えて横滑りが止まった。 そして、火焔は座席に侵入してこなかったのである。 白煙だけが僅かに計器盤の下から流れてきた。

 火災は消えた! そう思った瞬間、全身は激しく震え、血は逆流し、霞む頭脳に閃光が迷った。 そして、

 「俺はまだ飛べるんだっ!」 と、本能が絶叫した。
(続く)

2009年12月12日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その22

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (12)

   その6 南太平洋海戦 (承前)

 この時の位置は、敵輪形陣の後尾の駆逐艦の外側であった。 「ホーネット」 が、約5千米前方で火災を起こしていた。 部下達の攻撃はまだ続き、高角砲と機銃の弾幕が空を黒く覆い、機影がそれを縫って進撃していた。

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( 原著より )

 左前方の巡洋艦が、後甲板を水面下に沈め、黒煙に包まれながら断末魔の姿を見せていた。 午前7時50分頃であったと思う。

 私はエンジンを徐々に絞り、巡航状態に調整し、高度約百米のまま輪形陣から離れた。 白煙は少しずつ薄くなっていった。

 昇降舵は全く効かなかったが、方向舵とエルロンがどうにか作動したので、時間をかけて任意の方向に機首を向けることはできた。

 しかし、コンパス、速力計、高度計、燃庄計、油圧計は、弾片で破壊され、回転計だけが正常であった。 燃料タンクは右と胴体は空で、左翼タンクに2分の1ばかり残っていたので1時間は飛行可能であった。

 当面する生命の危険は去ったが帰る燃料はなかった。 近くに無人島もない。 飛行機はいつバラバラに分解するか解らない。

 私には、操縦桿が前後にブラブラするということが今迄の人生で、最も不快なことのように思えた。 機首の上下はプロフィックスで調整をするしかなかった。

 今からどうすべきか?

 そーっと水平に飛ぶことはできるのだから、とにかく、飛べるだけ飛ぼうと思った。
 しかし一方では、「やるべきことをやって、刀折れ矢弾は尽きたのだ。 一刻も早く死を選べ」 と何者かが叫んでいるように思えた。

 この言葉は軍人の常識であった。 しかし私はこの言葉に対し本質的に抵抗を感ずるものを、支那事変以来持っていたのである。

 それは、この言葉には死を単なる綺麗ごととして納得させようとする皮相の諦観理念や、神秘主義的な精神要素が多すぎて、人間追求の深さが足りないと思っていた。

 更に極言するなら、この言葉は、私達軍人の一部の神秘主義者が主唱していた 「生命」 と 「勇気」 ということについての、問答無用的遁辞であって、それはむしろ、神秘主義者自身が、死に対する不安から逃れるために主張した怠惰な御都合主義の諦観であると感じていたのだ。

 この考え方によったかどうかはともかくとして、私は 「一刻も早く死を選ぶ」 ことなく、南太平洋上を彷徨うことになったのである。

 さて、今から第一にやらねばならないことは、「ゼーゼー」 と鳴る喉を直して、空気を腹一杯吸うことであった。 しかし、両肩を反らせて息を吸おうとすると、ドロンとしたねばっこいものが喉を塞ぎそうになった。

 せめて一杯の水が欲しかったが、それもなく、唾でも飲み込もうとすると、喉の両側の唾腺が引きつって痛かった。

 顔は引きつり、唇はふくれ上がっていた。 肩と膝の出血は止まったが、左足は棒のようで、心臓の鼓動とともにズキンズキンと痛んだ。

 しかし、こんなことの総てよりも、今からどちらを向いて飛ぶべきか? それが重大な事であった。

 コンパスは毀れていたが母艦の方向は太陽でわかる。 しかし母艦までの燃料は3分の1もない。 近くに無人島もない。 行く当てはどこにもない。 いらいらと去就に迷うばかりであった。 そして暫くして、ふと気づくと機首が母艦の方向を向いているのであった。

 この時始めて私はこれでいいのだと思った。 帰り着けなくても、帰る方向があれば、何もないよりましだと思ったのだ。 他のことは何も考えなかった。

 数分前の激闘についても、「戦果はどうだったろうか。 火災中の 「ホーネット」 は沈んだであろうか?」 と一瞬思ったが、それも、遠い昔の出来事のようにかすんでいった。

 そして、「さようなら、津田大尉、石丸、平原大尉! 左田、畠山、安藤君よ、さようなら・・・・」 と呼んだ時、初めて激しい寂しさと悲しさが迫ってきて、冷たい涙が頬を流れた。
(続く)

2009年12月13日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その23

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (13)

   その6 南太平洋海戦 (承前)

 暫くして、涙が乾いた時

 「何をっ。 俺はまだ飛ぶんだ。 まだエンジンは回っている。 一時間は飛べるのだ。 どこかで、何かが私を待っている。」

 と全身で反撥し始めた。

 偵察員が何か叫んでいた。 伝声管が焼けつぶれ、よく聞こえないので偵察席を振り返ったが、何を言っているのか聞きとれないので、ただ領いてみせた。

 偵察員国分飛曹長の顔は真黒で、目ばかりがキラキラと光っていた。 彼も煙と火をかぶり、怪我をしているのであろう。 私の領くのを見て、白い歯で 「にっ」 と笑った。 笑い返してやらねばならなかったが、私は笑えなかった。

 戦場を離れてから30分くらい経った頃、私は戦場に引き返そうと考えた。 その理由は古来決戦場の周辺には、必ず勝った方の兵力が残るものだからだ。

 織田信長の姉川の戦いでも、関が原の決戦でも、勝った側の 「残敵掃討」 と、味方生残者の収容が行なわれた。

 今回の戦闘では日本が勝った筈だから、日本の潜水艦がそれをやるだろうと判断したのであった。 私は自由にならない操縦装置を懸命に操って、太陽を右前に見るように反転し、再び戦場に向かった。

 小さいスコールが、左右に二つ見えていた。 視界の片隅に、煙が見えたように感じて、その方向を凝視することが幾度かあった。

 人間の網膜の視神経は、単調な水平線や海面を見る場合は、眼球を小刻みに軽く移動させ、眼球を止める瞬間に、最も鋭敏に映像を捕えるようであった。

 また、遠距離の物体を永く見ていると、時々見えなくなることがある。 これを盲点というのであろうが、この盲点をなくするためにも眼球を小刻みに動かす訓練をしたのであったが、今、生死の竿頭に立って、このような過去の訓練を無意識のうちに活用して、水平線上の何物かを発見しようと懸命になっていた。

 この頃になって、エンジンの右後方から入っていた白煙が、全く消えているのに気がついた。

 8時20分頃であった。 水平線ばかりを見ていた私は気がつかなかったが、艦爆一機が左後方から飛来した。

 私の飛行機の垂直尾翼には、白くて太い指揮官マークが描かれていたので、それを見て近づいて来たのであろう。 私もその飛行機の乗員の顔を確かめると偵察員勝見一飛曹と操縦員平田二飛曹であった。

 私は、母艦に帰ろうとしているのではないことを彼等に知らせねばならなかったので、燃えた飛行機の右翼を指し示し、指先信号で 「ワレネンリョウアト30プン、サキニユケ」 と言った。

 二人は相談している様子であったが、2、3分経って 「ワレモネンリョウナシ、カエレヌ」 と返信があった。 驚いて、同じ運命に置かれた部下を凝視すると、勝見と平田の態度には、変わったところは少しも見られなかった。

 二人は、突撃の時最左翼にいたから、最右翼にいた私と同じように、敵戦闘機の奇襲攻撃を受けたのであろう。 突撃隊形の両端は、どうしても敵の奇襲を受け易いのだ。

 若い二人は、今度の戦いが初陣であった。 凄惨な戦闘場裏を全く予想せずに攻撃部隊に参加し、傷ついて、私と同じ運命に置かれているのであった。

 彼等の機影が涙にかすんだ。 この涙は、勝見と平田に対する愛惜の涙ばかりではなく、「勝見! 平田! 私と一緒に死のう」 という、冥土への旅の途連れができて、何となくホッとする浅ましいエゴイズムが含まれていたように思う。

 「アトネンリョウナンプンカ」 と信号すると 「アト30プン」 と勝見が答えた。 私は二番機から目を放し、再び水平線上を凝視した。 私もあと30分だ。 二番機は私との距離を開き、私の左後上方を飛びながらついて来た。

 9時15分になった。 燃料はあと数分であった。

 遂に、水平線上に何物をも発見することができなかった。 エンジンは間もなく止まるであろう。 その時が来たらその時のことだと思いながら、秒針の刻むように、エンジンストップが、今か今かと思って全身に悪感が走った。 いつの間にか、しっかりと拳銃を握っていた。
(続く)

2009年12月14日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その24

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (14)

   その6 南太平洋海戦 (承前)

 9時20分頃であった。 左後方に、二番機を感じたので振り返った。 二番機が、左右にバンクを振りながら接近して来た。 プロペラが遊転している。 勝見は手を振り、平田はハンドルを握り、顔を右に向けたまま二度三度領くようにして、私に接近して並行になり、やがて高度が下がり、ダイブに入って行った。

 彼等が私と平行に並んだ時、私は着水せよ、と手先信号をしたが、彼等に通じたかどうか解らない。 或いは、最後の別れの挨拶と受けとったかも知れない。 私は機体を左に傾けて二番機を視野に迫った。

 それから7、8秒後、薄紫色の水柱が高く上がり、やがてそれは真白い円形の波紋に変っていった。 それが、二人の最後であった。

 恐らく、二人は燃料が切れてスーツとエンジンの推力が消え、プロペラが、自分を見棄てるように空転を始めた瞬間、パイロットの平田が 「自分の身辺に味方はいない。 死のう。」 と即決し、偵察員の勝見も黙ってそれに従ったのであろう。 この決断は正しいと言わねばならない。 二人は21歳と23歳であった。

 やがて、私も 「瞬間的決断」 をしなければならない時が、刻々と迫って来ることを全身で感じた。

 私は再び水平線上を睨んでいた。 円形の水平線上には、凹凸一つなく雲一つ見えなかった。 背中に冷たい汗が流れた。

 9時24、5分頃、突然エンジンが音もなく止まり、上体が前にのめった。 全身が硬直し、無意識にハンドルを前に押した。 しかし、昇降舵は効かない。 気速は急激に減り機首が下がった。

 この時私は初めて、はっきりと決断がひらめいた。 このまま海面に激突するならそれもよし。 死なずに着水して海面に浮かぶもよし、ジタバタするな、と。

 機体は機首を上げたり、下げたり、周期的な運動を繰り返しながら海面に近づいて行った。 機首を下げた時は、本能的に手足が動き、全身が固くなり息が止まった。

 水面が広く見え始めた時、両足をフットバーから放し、計器盤の上線を踏んだ。 バンドを確認し、左手に拳銃を持ち、ひじを直角に曲げて額を守り、右手で操縦桿を鷲づかみにし、両肩に力を入れて首筋を胴の中にめり込むように縮め、落下着水の衝撃を待った。

 高度20米くらいになった時、機首を上げそうになったので、思い切ってハンドルを左に倒した。 飛行機は左に傾いてストールした。 2秒、3秒・・・・ 激しい水音とともに、機体は真白い水の塊りの中に突入した。

 左の肩に激痛が走り、後頭部がスーツと軽く冷たくなった。 「死ぬんだな」 と思った。 機体は水中に深く潜り、青黒い海水が座席に奔流してきて周囲が薄暗くなった。 グッと息を止めバンドを外した時、「生きているな」 と思った。

 拳銃をポケットにねじ込み、右手で座席の外縁を引き、左手で風防を抱えるようにして体を浮かせ座席を蹴って脱出した。 座席の外に出ると、どちらが水面か解らない。 機体は静止しているようであった。

 呼吸が苦しくなり後頭部とのど仏の奥が痛くなった。 左の方向が明るかったので、そちらに向かって手足を足掻いた。 海面に浮かんだ時、偵察員も5米ばかり離れた所に浮いていた。

 飛行機は私より少し遅れて浮上したが、一分も経たないうちに再び沈んで行った。 海面に、大きい魚が跳ねたような 「バサッ」 という音を残し、小さい渦流が起こり、その後に三角波が立った。

 一滴の油も浮かばなかった。 翼に大穴のあいた飛行機は、金槌のように早く沈むものだった。

 この飛行機は、第一次ソロモン戦の時にも、死線を越えて、洋上遥かに私を運んでくれた。 言わば、私の肉体の一部であり、整備員達が、丹精こめて整備したスマートで強勒な機体と、振動の少ない信頼性のあるエンジンであった。

 今回の決戦でも、敵弾によって満身創痍となりながら、空戦に耐え抜き、空中分解からまぬがれた。 私にはこの上ない愛しい飛行機であった。 今、彼女は私達を残して、短い生命を、南太平洋の波間に沈めて行った。

 彼女が波間に没する最後の瞬間には、尾翼に書かれた隊長マークの三重の白線が、海面に突き刺さるようであった。
(続く)

2009年12月15日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その25

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 南海の決戦 (15)

   その7 漂 流

 私達二人は、こうして飛行機と別れ南太平洋上に浮かんだ。

 そこには、単調で巨大な波涛の山が無限に連なっていた。 その山が大蛇の胴体のように鳴動しながら迫って来て二人を弄んだ。

 私の五体はおののき、肌に鳥膚が立ち、歯はカチカチと書を立て、手足は硬直した。 暫くの間、仰向けになって、目を閉じ身を縮めていた。

 それは、恐怖という言葉で表現できるような状態ではなかった。 ただ、本能と、凡ゆる知恵が、生命の存続の可能性についてだけ知ろうとしているのであった。

 私の肉体を包んでいる救命袗の浮力は24時間後には零になる。 食料は何も持っていない。 人間の社会とは無限の空間で隔絶されている。 負傷による出血は再び始まっている。 死の不可避性を否定するものは何もないと私の知恵が本能に言い聞かせていた。

 死が確実であるのに何が恐いのであろうか? 何故、体を縮め、目を閉じ、震えているのだ!

 私は、海軍兵学校の時、12米の飛び込み台から飛び込んだことがある。 両腕に、うんと力を入れていても、水圧で腕を後に曲げられ、肩の関節と背骨が折れるように痛かったので、腕を曲げられないように工夫をして、何回か試みた。

 或る時、垂直よりも深い角度で海面に突っ込んで水中深くもぐり、最後に体が逆宙返りをして、海面がどちらか解らなくなった。 水中は真暗で水温がぐんと冷たく、海底に伸びた藻が足に触った。 その瞬間、激しい戦慄を感じた。

 それは生命の危険に対する恐怖ではなく、未知のもの、巨大なものに対する絶対的な 「生命のすくみ」 であった。 今の私の状態はこれと同じではなかったか!

 ここは、南太平洋上のどの位置であろうか。

 私は戦場を離脱してから北西方向に80浬ばかり飛んで、約70浬引き返したつもりであった。 コンパスと速力計が前後席とも破壊されていたので、正確なところは解らなかったが、太陽の方位角を意識していたから、方向誤差は10度以内であろう。 速力はほぼ感覚で間違いはない。

 戦場は南緯9度、東経167度附近であったから、私の位置もこれとほぼ同じであろう。 母艦機の洋上航法は、白図の上に、地点略語を書き入れたものを使っていたので、サンタクルーズ島とソロモン群島が、戦場と何浬離れているのか、私の感覚には乗ってこなかったが、多分、ギルバート群島とソロモン群島の中間であろうと思った。

 しかし、負傷のために、浮かんでいることが精一杯で、一浬も泳げそうにないし、海流は濠州を向いているし、自分の位置がどこであろうと、これからの私には関係ないと思ったので、それ以上考えることを止めた。 そしてやっと目を開いた。

 負傷の痛みの中で、着水してから解った傷であるが、右脇腹下の巾約3糎、長さ5糎、深さ2糎ばかりの肉を切り取られた所が最も痛かった。 腰の近くは痛くないものだと聞いていたが、事実はその逆で、左膝の、皿の裏側を小豆大の破片が貫通した傷は少しも痛いとは感じなかった。

 これらの負傷は、痛みよりも出血が重大だと思ったので、マフラーを縦に割いて紐を作って左大腿部を縛り、肩の傷は脇の下から肩骨の上に縛った。

 出血の故かどうかは解らなかったが、ひどく渇きを覚えた。 最も苦しかったのは、喉の火傷であった。

 僅か2秒足らず、鼻口で焔を吸い、反射的にむせて、口から火と煙を吸ったのであったが、口の中は燃えるように熱く、鼻口と喉は粘膜がただれ、それが喉の奥にドロンとした柔らかい膜の塊になって、深い呼吸をすると気道を塞ぎそうであった。

 目は、飛行眼鏡をかけていたので大丈夫であったが、顔面はピリピリと針で突き刺すように痛んだ。 声は、出そうと試してもみなかったが、恐らく出なかったであろう。
(続く)