2009年11月03日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その52

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (2)

 昭和15年6月〇日、整備隊は緊迫した空気に包まれていた。

 「俺が整備した飛行機がエンジン不調ということはあり得ん。 何かの間違いだ!」

 「しかし、ただ今、隊長機から、貴陽上空でエンジン不調、帰投困難という電報が入ったのだ。 作戦室からの連絡だ。」

 「隊長 (私) は防空砲火に射たれたかも知れん。 俺の整備した飛行機のエンジンは、敵に射たれん限り、ストップすることは絶対にない。」

 隊長機の担当整備班長草野上整曹は、何と言われようと、自分の整備した飛行機が今、敵上空でエンジントラブルを起こしているとは信じなかった。

 彼は青白い顔を引きつらせて、指揮所の屋上見張台に駈け昇って、4時間前に攻撃隊が消えて行った貴陽市の方位330度の空を睨んで、双眼鏡を目から放さなかった。

 その頃、私は貴陽市上空にあって、悪戦苦闘の最中であったのである。

 貴陽市は、南寧市の北北西260浬、重慶の南180浬の地点にある。 当時、北部仏印から南西ビルマに亘る海岸に揚陸された物資が、貴陽市を経由して中国首都重慶に陸送されるので、これを封ずるために陸軍の南支作戦が開始された。

 この作戦に呼応して、昭和15年5月、私達第十四航空隊は、南寧市を基地として貴陽攻撃を開始したのであった。

 この日の作戦では、私は艦爆9機を率い、貴陽市北東郊外に集結したトラック群を奇襲した。

 トラック数十台は、私達の攻撃によって炎上し、貴陽市と重慶に通ずる道路を一時遮断することに成功した。 敵の防禦砲火は機銃数門に過ぎなかったので、私達に直接の被害はなかった。

 ところで、貴州省都貴陽市とは、

 「西洋の家に住み、日本の女性を妻に持ち、支那料理を食べ、死んだら貴陽の棺桶に眠る。」

 という諺からも察せられるとおり、深山幽谷に包まれた古都であって、黒檀製の棺桶の名産地であった。

 棺桶を爆撃するつもりはなかったが、巻き添えを喰って燃えた棺桶もあったかも知れない。 黒檀は燃えて黒煙を発し、怨霊が中空にさまよい、私の飛行機はその崇りを受けたのであろう。

 高度4千米から約65度の降角で急降下に入り、1千2百米で爆弾を投下し、引き起こして千米からエンジン全速で急上昇に移った時、燃圧が零となり、息をつき始めたのだ。

 貴陽市の標高は6百米、高度の余裕は4百米しかなかったので、急いで燃料タンクを右翼から胴体に切り換え、ハンドポンプを懸命に衝いた。 エンジンは小刻みに息をついた。 喘ぎながらやっと水平飛行が可能であった。

 全神経を爆音に集中し、注射ポンプの蓋が緩んではいないか、高度バルブが開き過ぎてはいないか、燃料コックは正しく開いているかを調べ、全動力計器に目を配った。

 ブースト (混合気の吸入圧で一気圧を零とし、プラス (原著では〇中に+の字) マイナス (〇中に−の字、以下同じ) で示す) はプラス50粍であったが、大きく揺れていた。 筒温、油温、排温は正常位を示していたが、燃圧が殆ど零になっていた。

 それから約30秒後、ブーストと回転は急落し、エンジンは空転を始めた。 その瞬間、胃袋は引きつり、全身が硬直した。

 私は燃料が切れたと判断し、必死でポンプを衝きながらスロットルを巡航状態まで絞り、機首を下げて滑空状態に入った。 貴陽市の街の屋根が大きく近づいてきた。 それは網膜を刳 (えぐ) るような印象であった。
(続く)

2009年11月04日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その53

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (3)

 高度の余裕が100米くらいになった時、エンジンが再び回転を始め、やっと水平飛行に移ることができたが、再びエンジンを全開にすることはできなかった。 もう一度息をつくかも知れないからだ。 そうなったら、今度は地面に激突する以外に高度の余裕がない。

 私は最低速で僅かに上昇できる程度にスロットルを開き、焦る心を押えて徐々に上昇を始めた。 僅かにフラップを降ろした。 爆音は安定してきたが、燃圧は相変らず零であった。 ハンドポンプだけで、やっと燃料の補給が続いているようであった。

 気息えんえんとして貴陽市の北方郊外から西方を迂回し、南方の山岳地帯に接近し、東方に針路を変える頃、高度は9百米を指していた。 約7分間で2百米の上昇であった。

 貴陽市の南方と西方には、2千5百米以上の大山塊が厚く行く手を阻んでいる。 東方には、どこかに2千米くらいの抜け路がある筈だったので、そこを求めて東方に飛んだが、見つけることはできなかった。 北方だけは千米以下に開いているが、そこは敵の首都重慶に通ずる路である。

 列機8機は、既に高度3千米をとり終えて、私が上昇して来るのを待っていた。 私は

 「一小隊長は各小隊を率いて帰投せよ。 われ東方を迂回して帰る。」
 
 列機に連絡した。 部下達を帰した後、時間をかけて貴陽盆地の周辺を回りながら上昇し、帰投針路の前面に塞がる2千5百米の山塊を越えるつもりであった。 ハンドポンプは一刻も休まなかった。 全身汗と脂でべとべとになった。

 私はこれからの飛行可能距離を、頭の中で計算した。 その計算諸元は、次のとおりであった。

1. 胴体タンクと左翼タンクには、ゲージで合計6百リットルの燃料を持っている。 右翼タンクは殆ど零であった。


2. 燃料消費量は、全速、ブースト・プラス50耗で300リットル。 巡航120節、ブースト・マイナス250粍で210リットル、90節水平飛行、ブースト・マイナス270粍で180リットルであった。


3. 風は迎え風で、平均約10節であった。


4. ゲージが零になっても、各タンクの底に、合計120リットルの燃料が残ることになっていて、この内、100リットルはほぼ確実に使うことができた。


   ( 九九式艦爆の燃料タンクは、内部が二重構造になっていて、吸口は約5リットル容積の四角形の隔壁の中にあった。 そこはタンクの底面よりも僅かに低く、機体が垂直になったり、負圧を受けたりしても空気を吸わない構造になっていた。 また、燃料ゲージ発信装置は、浮き子式の槓桿(こうかん)構造になっていたので、浮き子の厚さとタンクの底面積の相乗積の容量は、ゲージが零になってもタンクの底に残った。 これを合計すると、約120リットルであって、これは飛行姿勢と気流の状況によって使用可能量が変動するが、実験値は50乃至100リットルであった。)


5. 航法誤差30浬は不可避であった。


   これについては、何回か苦い経験があった。 地球の屋根、崑崙、ヒマラヤの周辺部には、強烈な磁気嵐があるらしく、どんなに精密な航法をやっても、300浬飛ぶと30浬乃至50浬の誤差がでた。 初めのうちは航空図の間違いだろうということで、貴陽市の図上の位置を30浬北に移してみたが解決しなかった。 結局、高高度を飛ぶしか逃れる方法はないという結論であったが、当時は高高度をとる余力がなかったので誤差は不可避であった。


6. 2千7百米からエンジン空転で滑空すると、約10浬飛行可能である。 これは、行動力に加算できるものであった。。


(続く)

2009年11月05日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その54

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (4)

 以上を総合すると、行動能力は次のように計算することができた。

1. 貴陽周辺で低馬力上昇を1時間行ない、高度2千7百米に上昇する。 そこでエンジンを巡航馬力まで上げることを試み、成功すれば、巡航120節、2時間、240浬。 タンク構造上の残燃料によってプラス25分、55浬。 高度2千7百米からの滑空距離によってプラス10浬。風向によるマイナス25浬。 航法誤差によるマイナス30浬。 合計250浬飛行可能である。


2. エンジンを巡航馬力まで上げることができない時は、そのままの低馬力で水平飛行に移り、90節、2時間20分、前項同様の計算を加えると、220浬飛行可能である。


3. 今直ちに全力上昇に成功すれば前項同様の計算で270浬飛行可能、失敗すれば、190浬飛行可能。


 行動能力は以上のようであった。 220浬は飛べる可能性が最も確実なところであった。 私は二人の生命を守り得る道はどこにあるのか? 頭の中で画いた。

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( 原著より )

1. 今の位置から南寧市までは260浬であるが、日本陸軍の戦線が貴陽市の方向に約50浬前進している。 陸軍の戦線に落下傘降下 (山岳部であるから、強いて着陸すれば搭乗員が人事不省、捕虜になる危険がある) するものと仮定すれば、210浬飛べばよい。


2. 今から柳州市に向かえば、210浬飛べばよい。 柳州市には日本陸軍の精鋭がいる。 但し、戦線は入り乱れて不明であり、飛行場は破壊されている。


3. 広州湾に注ぐ珠江の支流柳川に着水して、20節の激流を、敵中180浬泳ぎ降って柳州市に着くものとすれば、最も近い柳川の上流まで飛ぶとして、120浬飛べばよい。 但し、柳川の上流は、垂直の断崖5、6百米、激流巌を噛み、蚊竜の住みそうな深淵には大渦流がうず巻いている。 両岸に敵はいないが、二人が安全に柳州まで泳げる公算は50パーセント以下であろう。


4. 紅水に着水して陸軍の戦線まで流れ降るとすれば、僅か50浬飛べばよい。 だが生還の公算は10パーセント以下となるであろう。


 計算はすべて済んだ。 しかし、計算ばかりではどうにもならない。 飛行機の操縦とは、その都度その都度の最善の判断と処置の累積の流れなのだから、一つの計算に固執して目標を絞るくらいなら計算はしない方がよい。

 計算が済んだら、計算を忘れることだ。 そして、220浬飛べることだけは忘れないで、次のように決心した。

1. 引き続き盆地東方の2千米以下の高原帯を捜しながら上昇を続ける。 発見できればそこから南下する。 できなければ、北寄りのコースはとらないように注意し、山陰に隠れて約1時間、2千5百米の高度をとる。


2. 2千5百米になったら南方山岳地帯に入り、引き続き高度をとって、180度で30浬飛んで紅水上空で巡航に必要な第一回の出馬力を試みる。 成功すれば南寧戦線に直行、不成功なれば、低速水平飛行に移り柳州市に向かう。 最悪の場合は、紅水に着水する。


3. 柳州市に向かって40分飛んで柳川が見えたら、第二回目の馬力上昇を試みる。 成功すれば柳州市の西方戦線まで140浬飛び、戦線を確認しつつ南寧市に向かい、南寧戦線に不時着する。 不成功ならば、柳州戦線又は柳川に着水する。


 こう決めたけれども、海上に育った私は、紅水か柳川の水が見えるまでは不安であった。
(続く)

2009年11月07日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その55

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (5)

 爆撃終了後1時間5分、高度2千5百米をとることに成功し、180度に定針して上昇を続けながら、紅水の上流に向かった。

 眼下には、千古人跡未踏の大山塊があった。 自然林の鬱蒼たる樹海の中に巨木が倒れ、所々に飛瀑がかかり、羊腸の小径すら見えなかった。

 やっと2千7百米に上昇した頃、偵察員から報告があった。

 「隊長! 艦爆2機接近!」

 私は、敵戦闘機かも知れないと思ったので、

 「高度はっ!」

 「三千」

 「よく見ろ。 白いか灰色か?」

 九九艦爆は、まだ迷彩色をしていなかったので銀色に光り輝き、敵戦闘機は彩色して灰色である。

 「九九艦爆に間違いありません。 胴体が光り、翼下に抵抗板 (急降下用空気抵抗板) が見えます。」

 2機は接近して来た。 指揮小隊の二、三番機であった。 今まで1時間5分、列機は私を待っていた。 エンジン故障後、私は攻撃隊全機に対して、「一小隊長は各小隊を率いて直ちに帰投せよ」 と命じたので、私の列機は、指揮小隊だから、各小隊ではないと思って私を待っていたのであった。

 「全機を率いて帰投せよ」 と言えば簡単明快であったものを! また、2機が私の上空にいることを、私も偵察員も2時間にわたり発見できなかったことは大きいミスであった。

 大変なことになった。 私は2機に対して、

 「先に帰れ。 高度3千、120節、針路150度、高々度バルブを極限まで使え。 南寧北方50浬に、わが陸軍あり。」

 と打電した。 私は90節で飛んでいたので、2機は後方を蛇行しながら追尾していたのであったが、やがて高度をとって左前方に離れて行った。

 この二番機のパイロットは、中井三飛曹と言い、乙種予科練出身の21歳の若者であった。 凡帳面な男で、編隊は上手であったが、単機行動はまだ一度もさせたことはなかった。

 だから燃料を極限まで使ったり、最高効率の行動力を機上で計算して飛んだ経験はなく、言わば、強靭で、ふてぶてしく戦い抜く鍛練はまだできていない雛鳥であった。 この飛行機が大事故を起こそうとは、この時の私は考えなかったのである。
(続く)

2009年11月08日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その56

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (6)

 帰投針路についてから15分、紅水の水源の渓流を見た。 暗黒の大森林の中から一筋の生命線が迸 (ほとば) しるようであった。 それは私が還り得る唯一の道しるべのように見えた。

 一刻も早くエンジンの馬力を巡航状態まで上げて、燃費の節約を計らねばならないのは解っていたが、この道しるべが大河に変わる所まで行って最悪の場合そこに着水することを考えねばテストができないのだ。

 10分経った。 やがて、紅水は、二、三の渓流を集めて大河に変わった。 そこでスロットルを開き、ハンドポンプを衝いた。 しかし、マイナス240粍までブーストを上げるとエンジンが止まりそうになる。 一度止まると再びかかる保証がない。 仕方なくマイナス240粍110節にセットして、柳川上流に向かうことにした。

 間もなく紅水は後方に去った。 眼下の密林は、人間の住めそうな所ではない。
 
 柳川の手前30分でタンクを切り換えねばならない。 コックの故障がエンジン不調の原因であるかも知れないので、深い渓谷の上の、高度の余裕が少しでも多い場所を選んで、左翼タンクに切り換えた。

 この時、再び爆音が変わり、息をつきそうになったので、マイナス250粍まで絞った。 速力は105節に落ちた。 最悪の状況になったのである。

 燃料は後270リットルしかない。 ゲージ外燃料を加えても1時間45分、180浬しか飛べない。 まだ南寧まで210浬、柳州まで150浬である。 とにかく柳川までは辿り着ける。 全身冷たい汗であった。


 苦悩の30分が過ぎて、左前方に柳川が見え始めた。 黄濁した水であった。 九天の上に隠れ、大地に潜ぐることはできなくても、この濁流は身を隠すに足り、河岸にある青菜は飢を癒すに足り、渇を忘れしめるに足るように思えた。 流れる水は両民族の闘争から中立であり、私達を味方まで運んでくれる唯一のものに違いない。

 この時私は、先輩から聞いた応急策を想い出した。 それは、飛行機を極限まで軽くすることであった。 飛行機の搭載品の一切を捨てることだ。 何故早くそれに気がつかなかったのであろうか。

 躊躇は禁物、急いで、旋回銃と予備弾倉を捨てた。 約50瓩であった。 固定銃弾も一発も残さず捨てた。 柳川河面に波紋が見えた。 続いて信号銃、航法図板、計算板、偏流測定器、水平爆撃照準器。 そして、最後に飛行靴も捨てたので水虫の臭いが鼻をついた。

 残ったものは、拳銃と航空図であった。 さばさばしたが、敗惨兵のようで何となく癪にさわった。 しかし、速力は確かに4、5ノット速くなった。 ハンドポンプは一刻も休まず衝いた。 腕は棒のようになったが、死ぬまで続けてやろうと意地になった。
 15分経った。 柳川と別れて南寧、紅水に向かうか、柳川に沿って柳州戦線に向かうか、その分岐点の上空に来たのだ。

 燃料ゲージは、約70リットルであったが、ゲージ外燃料120リットルの使用の可能性を信じ、南寧戦線五とう嶺 (「とう」 は車編 に「唐」、以下同じ) に向かうことに決心した。

 帰るべき所は、どうしても部下達のいる方向であった。 計算はどうであれ、飛べる限りわが家に向かうのが現実の道であった。
(続く)

2009年11月09日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その57

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (7)

 爆撃終了してから2時間50分、紅水の本流が見え始めた。 あと100浬、燃料ゲージは50リットルを示していた。 悪運尽きるか、天われに味方するか、最後の竿頭 (かんとう) であった。

 紅水は字の如く、赤色の水が巾1500米くらい、満水して悠々と流れていた。 絶好の不時着場である。 暫くでも安堵感を味わい、やがて、紅水本流とも別れて15分、燃料は零を指した。 これで、3つのタンクは総て零となった。 ゲージ外燃科で、飛行場まで80浬、50分飛べるかどうか? 今までの決断の総決算の時が間もなく来る。

 10分経った。 爆音に変わりはなかった。 眼下には赤膚の2、3百米の山々が起伏していた。 どの方向が戦線か見当がつかない。

 2、3分経った。 爆音が枯れた。 右翼タンクに切り換えた。 やがて、右前方に陸軍の山砲の砲煙らしいものが見えた。 そこが五とうだと信じて、勇躍して機首をそこに向けた。 15浬くらい前方の丘であった。 不時着はできそうにないので偵察員に言った。

 「上田! いつでも飛び降りられるように準備しろ。 あと15浬で味方陸軍の戦線だっ!」

 「ハイッ! 隊長、落下傘は捨てました!」

 彼は落下傘も捨てたのだ。 私は偵察員に教えられ、今からでも遅くないと思って落下傘を捨てた。

 「よし! 不時着の時は、横伏せになって自分の座席に抱きつき、前のコンパスに足をかけるのだっ。」

 「ハイ! 解りました。」

 今から越えなければならない小丘が五とうから九とうまで五つあった。 少しでも広い平地があるようにと祈った。

 しかし、その時眼前に現われたものは、黒く磨き上げられた棺桶であった。 それは、黒檀製の大きい棺桶であった。

 南寧基地の私の私室は、中学校の教頭の部屋であって、その部屋のベッド、机、本棚、椅子は、すべて黒檀で作られたものであったが、どこにも棺桶は置いてなかった。 それだのに、どうして棺桶がはっきり形を整えて目前に浮かんだのであろうか?

 生命に対する強い恐怖が幻影となって現われたのか? エンジン故障以来3時間半の闘争の中では見なかったものを、味方前方10浬になって見たのは何故か? 私の脚は小刻みに震えていた。
(続く)

2009年11月10日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その58

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (8)

 やがて爆音が枯れてきた。 次のゲージ外燃料は左タンクであった。 少しでも平坦な場所はないかと捜しながらコックを切り換えた。

 前下方に八とう嶺が横たわり、その彼方に飛行場がかすかに見え始めた。 まだ左タンクは2、3分使えると思ったが、胴体タンクに切り換えた。 これで7分ばかり飛べば、滑空しても飛行場縁に滑り込むことができる。

 私は落下傘のない座席 (落下傘は操縦席のクッションを兼ねていた) に深く腰を落とし、赤膚の丘を眺めた。 老齢期にあるこの大地は、平板の上に無数の餅を並べたようであった。 何とその餅の多いことよ。 直径4、5百米の小丘の集合である。

 飛行場はこの餅のような丘の彼方にある。 7分という時間は長かったが、遂に丘を越えることができた。 3時間半衝き続けたハンドポンプを手放した時、湧き出るように汗が流れた。

 「上田! 帰ったぞっ! 間もなく着陸だ。」

 離陸してから6時間50分、私達は無事着陸した。 無事とはいえ、飛行機の座席には何もなかった。 捨て損ねた機銃弾が一発、空しく床の上に転がっていた。

 地上滑走中、エンジンが停止した。 最後まで頑張り続けたエンジンであった。 整備員が十数名、草野上整曹を先頭にして駈けて来た。

 私は機上から大声で怒鳴った。

 「二、三番機はどうしたっ!」

 「隊長! 二番機は八とうで落下傘降下をしました。 救援隊が十分ばかり前に出発しました。」

 やはりそうだったか。

 「その二人は無事かっ!」

 「ハイッ、三番機が確認しました。」

 「そうかっ! 三番機は?」

 「無事ですっ! トラックで八とうに救援に行きました。」

 「よしっ! 監視機は?」

 「2機出ています。 次直機も待機しています。」

 もともと、編隊の列機は、指揮官機より燃費が約5パーセント多くなるのが普通であった。 だから両機は私よりも約20分足が短い計算になる。

 特に、中井三飛曹は開距離編隊中でも細かく自分の位置を修正する癖があったから、或いは、10パーセントくらい燃費が多かったのかも知れない。

 よく帰ってくれた。 彼等がもし敵地に不時着戦死していたら、私は生涯苦しまねばならなかったと思う。

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( 原著より  当時の新聞の切り抜き )

 列線に還り着いて、草野上整曹にエンジンの事情を説明した。 彼は、口惜しそうに聞いていたが、聞き終えると、早速、事故原因の追求にとりかかるのであった。

 草野上整曹は、木更津の男であった。 九九式艦爆が生産されると同時に横須賀航空隊に配属になり、九九式艦爆が戦場に配備されると一緒に戦場にやって来た。 言わば、九九式艦爆とともに育ったような男であって、彼の腕は抜群であった。

 しかし、残念ながら体が弱く、この事故の2週間後にマラリヤをこじらせて黄疸になり、海口に後送された。 更に1か月後、内地に送還されたが、途中、台湾高雄で32年の若い人生を閉じた。

 或いは、この時の整備のために、高熱を冒し、夜を撤して作業したのが原因であったかも知れない。 青白い顔をして、額に汗を流しながらスパナーを握りしめていた姿が目に浮かぶ。 まさしく、彼は九九式艦爆とともに生き、九九式艦爆に殉じた男であった。
(続く)

2009年11月11日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その59

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (9)

 ところで、落下傘降下した中井、坪井の二人は、まだ八とう嶺の山中にあった。 日没まで4時間しかない。 陸軍戦線の後方とはいえ、完全な安全地帯ではない。 深夜ともなれば、二人は勿論、救援隊も危険である。

 私は南寧の陸軍部隊に連絡をとり、至急救援を依頼した。 陸軍の応答は全く明快果断で、絶対に保証すると確約してくれた。 頼もしい陸軍中尉であった。

 救難隊の尖兵部隊は、中井、坪井機の担当整備班長、竹中上整曹であった。 彼は六尺豊かな男で、肩巾が壁板のように広いので、「張飛」 と呼んでいた。

 彼は、中井が戦線に降下したと聞いた時、大急ぎで日本酒10本、航空糧食の大包み数箇、仁丹、キニーネ等を準備し、烹炊所にあった一斗入りの米櫃に残飯と梅干を詰め込み、空のドラム確に水を一杯入れて、トラックに積んだ。

 そして、彼の整備班総員を日本刀と拳銃で武装し、看護兵一名を加え、合計15人を率いて勇躍して戦線に向かって出発した。

 本隊の中村整曹長は、発煙筒、担架、医療品を積み、看護兵曹を従え、計10名で、約10分遅れて竹中隊に続いた。

 この中村整曹長は、南寧基地進出の時、海南島から中国本土の北海市に上陸し、欽州を経由して約100浬の陸路を、トラック3台を率いて敵便衣隊の中を突破し、1週間を要して、整備用の資材、工具、部品を南寧に運んだ勇者であった。

 話が横路にそれるが、彼は福島県の生まれで、エチオピアのアベベ選手とそっくりの哲学的な顔をした不言実行型の男であった。

 南寧進出の時、基地南方の大平原を進撃中、夕方になって高さ約2百米の鶏卵型の巨岩群の中に迷い込み、便衣隊に襲われたので、或る巨岩の麓の洞窟の中に2台のトラックと約50人の整備員を隠した。

 翌朝、洞窟の中から出撃して戦闘を始めようとしたら、敵は老人と女子供ばかりの乞食の大群であったので、戦闘を止めて食料を彼らに全部恵み与えた。

 そして乞食の大群から慈父のように感謝され、凱旋将軍のように洞窟を出たが、南寧基地に辿り着いた時は、腹を空かし疲れ果てて、彼らが乞食のようであった。

 私は彼らを迎えて、

 「乏しきを分つばかりか、身を捨てて仁を行なった。 いいことだ。 しかし、酒が無くなって困っただろう?」

 と言ったら、彼は真赤な顔をして、

 「いいえ、酒は、ドラム缶に一本ありましたので・・・・」 と恐縮していた。

 当時、エンジンに噴射するアルコールは、メチルアルコールではなく、エチルアルコールで飲用可能であったが、飲むことは絶対禁止であった。 彼は、それを飲んだ。

 「敵に囲まれた時は飲んでもかまわん。 諸葛孔明でも、雲南攻撃の時は敵に毒水を飲まされて苦しみ、携行の火炎放射用のアルコールを飲んだという。 敵前では、時には禁令を冒すことがあっても臨機応変のことだ。 気にするな。」

 と言ったら、彼は頭を掻きながら苦笑していた。
(続く)

2009年11月12日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その60

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (10)

 さて、急いで八とう嶺に向かった救難隊の中村整曹長と竹中上整曹は、帰隊後、私に次のように報告した。

 竹中隊のトラックは、南寧郊外を北に向かって12、3分走ると、突然道路が無くなって、行く手に広い黄土地帯が開けた。 しかし、小高い所は地面が堅く十分トラックが走れるので、監視中の飛行機の見える方向に直進することにした。

 ところが、約30分進んだ時、突然大地の底を流れる満々たる大河に突き当った。 西江の本流であった。

 この大河の左岸を上流に向かって走ること約20分、飛行機から段々と遠ざかるので、彼はトラックを止めて思案をしていると、本隊が追いついて来た。

 そこで、中村と竹中は相談した。 この大河を渡れば仏印に行ってしまうから、もう少し上流に行ってみようということになった。

 暫く行くと、湖のような游水路があった。 また、巾2千米、長さ数千米もある地割れの底に水が溜っている所もあった。

 そして困ったことに、游水路や地割れには人工の堤防がないので、どの方向に曲っているのか見通しがつかないし、大池に傾斜がないのでどちらに流れているのかも解らなかった。 監視機が飛んでいるのは見えても、その直下に行けないのである。

 二人は、思案に余って民家を捜そうと考えた。 中国の民家の周辺には大樹の森がある筈だ。 二人は2、30米くらい小高い台地を捜して、そこに登って四周を見回したところ、森が見つかったのでそこに向かった。

 約30分トラックを走らせて辿り着くと、そこには樟と竹林に囲まれ、桃園のある農家が7軒あり、老夫婦が住んでいた。

 竹中は、持参の仁丹とキニーネを一人の老人に進呈した。 すると室内に招ぜられたので、改めて、酒と航空糧食を台所に運ばせた。 そして、手振りと筆談で飛行機の飛んでいる方向に行きたいから、誰か道案内がほしいと頼んだ。

 進物の効力は覿面 (てきめん) であった。 やがて13、4歳の少年が現われ、案内してくれることになった。 竹中は屈強な者10人を選んで、少年の案内で現場に向かった。
(続く)

2009年11月13日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その61

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (11)

 竹中と少年は、大河に沿って10分ばかり、飛行機と逆方向に進むと、巾千米、深さ50米ばかりの地割れに突き当り、浅い水溜りを越えて対岸に出て暫く行くと、大河は大きく北西に曲り、八とうの方向には遮るものは何もなくなった。

 そこで、勇躍して八とうに向かって驀進し、山麓まで辿り着いた。 そこからはトラックが登れないので、山に向かって駈け登った。

 やがて、中井と坪井らしい二人を発見したが、7、8百米に近づいても、二人は坐ったまま弱々しく手を振るばかりで声を出さない。 急いで駈けつけたところ、二人は大怪我をしているらしく、顔面蒼白で口もきけなかった。

 竹中達は二人を背負ってトラックへ急いだ。 その途中で二人は失神した。 部落に辿り着いて調べたところ、中井は肩の骨と肋骨二本を折り、坪井は右足を折り足首に内出血して腫れ上がっていた。

 後で坪井の語ったところによると、1時間ばかり前に、陸軍の斥候二人が彼らを発見して救助に来たが、担架をとりに本隊に帰ったまま迎えに来ないので、すっかり心細くなっていたところを竹中達に救われたのであった。

 二人は応急手当を受けて昏々と眠ったので、一行は米櫃を開いて食事をとり、酒を酌み、老人夫婦にも献盃した。

 看護兵曹は、老人のふき出物の手当をしてやり、残りの酒5、6本と、キニーネ、仁丹を与え、少年に航空糧食のキャラメルを与えた。 老夫婦は深謝し、真黒い仔豚を2頭、返礼としてくれた。

 上空から偵察していた飛行機は、救難完了を見届けて民家上空を去った。 日没後1時間、救難隊は二人を抱いて、意気揚々と基地に帰還したのであった。

 その翌朝、私は竹中兵曹に、

 「ドラム缶一本の水はどうするつもりだったのか?」

 と聞いたら、

 「中国の井戸には毒が入っていることがあります。」

 と言って笑った。 私は一緒に笑うことができなかった。 張飛には私よりも深慮遠謀があったのであった。


 翌日から、整備隊は全機の燃料系統の総点検を開始した。 搭乗員は、中村整曹長と、草津、竹中、両整備班長の命ずるままに油にまみれ、作業に協力した。 タンクの積卸し作業は大変な仕事であったが、力仕事で済むことは何でも手伝った。

 その結果は、全機の燃料タンクとパイプの中から、大量の金屑を発見し、燃料コックの構造上の欠点も見つけたのであった。

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( 原著より )

 南中国の雨季は終りに近づき、私は全機を率いて、再び貴陽の攻撃を開始した。 紅水と柳川は、満々たる水を湛えて流れていた。 広漠たる黄土に、播種の時が訪れようとしているのであった。
(第8話終)

2009年11月14日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その62

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第9話 月月火水木金金 (1)

 昭和14年9月中旬、航空母艦 「龍驤」 で夜間着艦中、航空事故が起こった。

 艦隊訓練での事故は珍しいことではなく、毎月1、2件はあったし、この時の事故も死者はなく、重傷2人、軽傷3人、九七艦攻1機大破、クラッシュバリケード折損、甲板、エレベーター小破という内容であったが、特にこの事故を取り上げるのは、その事故原因が普通の場合と変わっていたことと、この事故の経過の一部始終を、私が第三者の立場で公正に見ていたからである。

 ところで、艦隊訓練中の事故は、「月月火水木金金」 と言われた艦隊訓練とは一体どんなものであったかということを知らないとよく解らない。 それを簡単に説明しておこう。

 昭和14年度の連合艦隊の第二航空戦隊の二番艦 「龍驤」 (注T図参照) とその急降下爆撃隊の訓練は、次のようであった。

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( 原著より )

 昭和13年12月、母艦乗組の一般乗員と、搭乗員、整備員の入れ替えがあって ( 補充交替 と呼んだ)、その構成は、次のようになった。

 一般乗員
   前年度来組中の者約1/3が転出し、若い未経験者がこれに代った。

 搭乗員 (操縦員27、偵察員27名)
   艦隊乗組経験3年以上、飛行時間2千時間以上   …………… 2/6
   同上2年以上、飛行時間千時間以上          …………… 3/6
   艦隊未経験者、飛行時間7百時間以上         …………… 1/6

 整備員
   7年以上の経験者                 …………………… 約1/2

 兵器員
   7年以上の経験者                 …………………… 約1/3

 12月下旬に補充交替を終え、正月7日、14年度の訓練に入った。 母艦は呉を母港とし、内海で単艦訓練 (一艦独自の基本訓練のこと)。 トンボ釣り の駆逐艦 (母艦の後方6百米に常に随行して飛行甲板からこぼれ落ちる飛行機を拾い上げることを主任務とする) も呉方面で同じ訓練。

 航空部隊は、宮崎県富高町 (現日向市) に基地を設定して着艦のための基礎訓練を始めた。

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( 富高航空基地の元所在地  元図 : Google Map より )

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( 終戦後の米軍航空写真より )

 余談になるが、母艦の飛行機が陸上の基地で訓練をやる場合、その基地を 作業地 と呼んだ。 作業地は艦内と同じ扱いで、外出は許されず、日曜、土曜はなかった。 だから 「月月火水木金金」 という言葉が生まれたのであった。

 作業地で最も困ったことは雨の日の生活であった。 雨が降って訓練ができないと、隊員達は栄養の多い料理を食べて、非人小屋のような隊合の中で、泥土と水溜りのできた飛行場を恨めしそうに見るばかり。 雨天体操場もない。

 酒好きの者は、隊合の一隅で酒盛りもできたが、酒嫌いは時間を持て余してゴロゴロ寝るばかりであった。 紅燈が隊合の窓越しに見えたが脂粉の香は禁断の木の実だし、バクチは禁止だし (マージャンは禁止であった)、碁、将棋とブリッジで賞品稼ぎするくらいが関の山で、暇があり過ぎると逆に読書もできないのであった。

 航空部隊は前半1か月半が定着 (幅20米、長さ100米の中に三点着陸)、推測航法 (昼間洋上3百浬単機)、小隊編隊、急降下爆撃、小隊吹流し射撃、空戦 (艦爆対艦爆)、計器飛行 (三角コース約1時間) で、後半1か月半は、降爆、定着、接艦、着艦で、これで平易な昼間着艦 (急速着艦 (注U) を除く) が可能となり、爆弾散布状況 (注V) は左右約60米、前後約100米に安定するのであった。

 そして3月下旬、航空部隊全機が母艦に収容され、初めて母艦乗員と搭乗員、整備員が、航空母艦龍嶺を共通のわが家として会同し、この年度を通じて運命を共にすることを、互いに確認するのであった。 これが 第一期訓練 であった。

(注U) 急速着艦収容要領

(1) 着艦機が横張り索に掛かって停止する。

(2) 偵察席で把柄を引くと着艦フックが外れ、飛行機は自由になる。 整備員がそれを操縦者に旗、又は電灯で知らせる。

(3) 操縦者は甲板を滑走し、倒されたクラッシュバリケードの上を滑走して前部エレベーターの上まで進み、そこでエンジンを停止して、乗員は飛行機から降りる。

(4) 飛行機が倒されたクラッシュバリケードを越えた瞬間に、クラッシュバリケードが立つ。

(5) 次の飛行機が着艦する。 バリケードを境にして後部で着艦、前部で格納収容が行なわれるわけだ。着艦間隔は三十秒乃至一分。

(6) エレベーターが下りきると、その天蓋は飛行甲板の一部になる。 横張索とバリケードは電機と油圧の連動式であって、倒立はボタンで行なわれ、費消時間は約一秒。


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( 原著より )

(注V) 急降下爆撃散布公算誤差 (公誤)

 平穏な気象条件の下で、最優秀乗員が、同じ爆撃法で、数百回降爆を行なって得た弾着散布状態を言う。 横須賀航空隊で行なうことになっていた。

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( 原著より )

(1) 全弾着数の兄が散布する面積を中心部にとる。(斜線の部分) 公誤は進入方向に対して前後 30米(計60米)、左右15米(計30米)となった。 (機種別に約10%の開きがあった)

(2) 平面図にすると斜線内に50パーセントが弾着したわけだ。 従ってこの公誤は、機種、弾種、照準器の種類爆撃法 (投下高度、降角等)、人間の能力限界等による不可避誤差を示す。


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( 原著より )

(続く)

2009年11月15日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その63

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第9話 月月火水木金金 (2)

 4月上旬、第二期訓練に入り、日向灘で全機を収容した 「龍驤」 は、細島湾に入港し、生鮮食料を満載して出港、北支中支沿岸に行動した。

 それは飛行機の発艦と着艦、飛行機と艦との通信連絡、艦の防火防水などの応急訓練が主で、副目的として若い搭乗員に戦場の空気を吸わせるということであった。

 第二期訓練は、4月初旬から7月中旬までである。 降爆、射撃、計器飛行、薄暮着艦が主なものであるがそれに、戦闘機と雷撃機との協同訓練が加わる。

 この訓練の目的は、ちょうど楽団が演奏する前に楽器を調整するようなもので、総てのパイロットの意志の疎通と、緊張と緩和のハーモニーをくずさないようにすることだ。 だから、この訓練を 摺り合わせ訓練 と呼ぶこともあった。

 7月下旬、母艦は全機を収容し、約2週間南洋方面に出動する。 出撃と同時に、対潜哨戒、対潜爆撃訓練を繰り返しながら、マリアナ、カロリン海域に進出し、水雷戦隊 (駆逐艦群) を相手に遭遇戦を行なう。

 将来の主戦場となる南海で、スコールに打たれ、酷暑に喘ぎながら、全機急速発艦して索敵攻撃、終って急速着艦というパターンが連日行なわれた。

 ロタ島の近くで小颱風に遭遇した時など、風速30米秒、母艦のローリングが左右15度の中で、全機無事着艦というようなこともあって、パイロット達は遠洋行動に自信を持つのであった。

 8月初旬、6か月半に亘る 「月月火水木金金」 の 「精進落し」 のため1週間の休暇を貰って、父母妻子のもとに帰り、身も心も清々しく 第三期訓練 に入る。

 この訓練では先ず 夜鷹部隊 という夜戦チームが編成される。 九七式艦攻4機、九六式艦爆6機であった。 搭乗員は機数どおりの組数で予備員はなく、整備員と兵器員は約50名が選ばれた。

 この部隊の日課は、午後10時訓練開始、午前1時終了、午前2時夜食、午前3時就寝、翌午後1時起床であった。

 訓練項目は、前半1か月が陸上目標に対する夜間照明と夜間急降下爆撃、後半1か月は、雷撃機と爆撃機の協同攻撃訓練で敵機動部隊に対する夜間の洋上攻撃であった。

 それは、人間のなし得る最善の協同動作と勘による極限の操縦技能の練磨ということでもあった。

 余談になるが、この訓練が始まると、富高基地では飛行場の芝生の上に椅子とカンテラ灯を一つ置いて、搭乗員が黙々と出番を待つ。 この地方の海岸には人家は殆ど見当らず、水際の松林が星空の下で黒々と横たわり水平線は見えない。

 私達はこの松林の一角に爆撃目標を置いて、10万燭光の照明弾を落として、照明弾に照らし出されたその目標に急降下爆撃で1瓩の黄燐弾を投下するのであったが、時々跳躍弾が青白い光を曳いて松林に飛び込み、小火災を起こすことがあった。

 兵器員と整備員が駈けつけて松の火を消しても、水をかけられた黄燐は青白く弱々しく燃え残って、風のある夜はゆらゆらと飛んだ。 それは雨の夜、墓場で燃える人魂の火と同じで、幽霊の出る前奏曲のヒユーツという音も聞こえるのであった。
(続く)

2009年11月16日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その64

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第9話 月月火水木金金 (3)

 さて年度末が近づき、夜鷹部隊の訓練は激しさを加えた。 事故が起こったのはこんな時期の9月末日頃であった。

 その日は天気が悪く、薄暮が早く訪れた。 私は早めに九七艦攻4機、九六艦爆6機を率いて富高を出発して母艦に収容された。 富高の東方約50浬の海上で、視界は悪く波は高かった。

 乗員は10時まで仮眠をとり、11時に搭乗員室に集合した。 私は攻撃法 (下図) を説明し、午前零時発進の予定を告げた。

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 2350、準備を整え、総員デッキに出て、星のない夜空を見つめて眼を慣らした後、飛行機の係止索に躓かないように、注意深くデッキを歩いて飛行機に乗った。

 いつもの整備員が、肩バンドを掛けてくれる。 その手は油と汗に汚れているが、誠意のこもった優しい手であった。 バンドが肩に喰い込むと、地上のことは総て忘れ、暗黒の彼方の目標と、予想される飛行のきびしきだけが脳裏に拡がって行った。

 全機が試運転を完了する頃、艦長は母艦を風に立て、第〇戦速、風速約15米とされ、母艦のスタビライザーが発動し、艦の動揺が止まる。

 艦首灯の下から吹き出る水蒸気が、白蛇のように艦首から首尾線灯の上を流れて、風の状態を示していた。 飛行甲板の両側のガマランプが柔らかくデッキを照らし、星一つ見えない。 水平線も定かではない。

 10機の排気管から青白色の焔が明滅する。 デッキには、整備員が各機に2名ずつ車輪止めを守って蹲まり、他の整備員は、飛行甲板両側の詰所で、自分達の受持機の発艦ぶりを息を殺して見つめていた。

 轟く試運転の爆音と、母艦の主機械のリズミカルな震動と、荒海を突破する波の衝撃がそこにあった。

 発艦指揮官の信号灯が明滅し、発艦が下令された。 発艦係が一番機の前に立って、赤白の懐中電灯を交叉して振る。 整備員がチョークを外して詰所へ逃げ込む。 発艦係の白灯が円を画く。 私はエンジンを全速にして白蛇の水蒸気を踏んで艦首を離れた。

 偵察員は直ちに二番機の誘導を始めた。 そして、二番機は三番機を、三番機は次の小隊の一番機をと、次々に誘導して、6機が弱い懐中電灯の光の紐で結ばれた一本のベルトとなって、暗黒の中に突入するのであった。

 艦爆6機が編隊を整える頃、艦攻4機の照明隊も整形して高度差プラス100米で続行して来た。 (当時の艦爆機には水平儀がなかったので操縦は旋回計の針と玉だけでやった。)

 やがて、触接中の水上機から、短波略語で敵の位置を報告してきた。 艦爆隊は一旋回し、照明隊が高度を上げながら前に出る。

 照明隊の偵察員の眼は、毎夜の訓練によって、猫の眼のようになっているので、水上機が報告してきた敵を暗黒の洋上に肉眼で発見して照明弾を落とす。 すると、10万燭光6弾に照らし出された日向灘の白灰色の波間に薄墨色の艦影 (元戦艦の標的艦 「摂津」 ) が浮かび上がる。

 照明弾の光芒が銀色のすだれのように見える。 私達6機は、この銀色のすだれが消えないうちに急降下爆撃をやらなければならないのだ。

 爆撃法は約60度の角度で、高度2千米から6百米まで下がって1瓩爆弾を投下する。 引き起こして照明弾の光芒を突き切ると、その瞬間に視力は全くなくなり、白く厚い壁紙で顔を覆われたようになる。

 2、3秒間は計器盤が見えない。 視力の回復するまで全神経はピンと張りつめ、操縦員は飛行姿勢を、偵察員は後続する列機を、一瞬でも早く確認しようと懸命になる。

 やがて水平飛行に移り、全機が再び編隊を組む頃、照明弾は海中に没し去り、総てが暗黒に還る。 そして私達は母艦に向かって帰るのであった。

 この訓練が私達の毎夜の日課であった。 これが艦隊の搭乗員達の神経をどのように磨り減らしたか、説明するのは難しい。

 結果的に言えたことは、2年間この訓練をすると搭乗員の体重が平均10瓩痩せたことで証明されると思うが、それはともかく、この過度の疲労が今から述べる事故の第一の原因となったと思う。
(続く)

2009年11月17日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その65

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第9話 月月火水木金金 (4)

 その日は、私達6機が夜間急降下爆撃を終えて、艦攻隊の先に母艦に収容された。 私は発着艦指揮所で、ボンヤリと暗黒の空を見ていた。 やがて、艦攻隊 (照明隊) が帰って来るであろう。 今日も無事で終るのかと、遠い旅路の中途に佇む思いだった。

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(原著より  九六式艦上爆撃機)

 20分許り経った頃、艦攻隊4機が母艦上空に帰って来た。 そして母艦の首尾線上を高度250米で航過し、艦首前方千米で解散し、急速着艦態勢に入った。

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( 原著より  九七式艦上攻撃機 )

 母艦は三戦速、合成風速15米とし、バリケードは倒され甲板はクリヤ、横張制動索7本が甲板の上にピンと張られた。 艦首灯、首尾線灯、ガマランプ、青赤誘導灯と後続するトンボ釣り駆逐艦の檣灯が暗黒の洋上に光っていた。

 発着艦関係員は配置に着き、着艦指揮官は後部指揮所の定位置に着いた。 波の音と艦の震動音が静寂を破るだけで、艦上に人声はなかった。

 一番機が着艦コースに入り、大鵬が大木に止まるように悠々と着艦した。 フックを外し翼端に整備員がぶら下がりながら、前部エレベーター上に誘導し、クラッシュバリケードが、シューッという余韻を残して立った。 前部リフトがベルを鳴らしながら上昇してきた。

 続いて、約30秒後に二番機着艦。 バリケードがバタンと大きい音を立てて倒れ、二番機も同じように前部へ。 バリケードが再び立った。 三番機が近づいて来た。

 その時であった。 四番機も首尾線と約30度の左舷後方から降下して来たのである。

 2機が同時に着艦しようとする。 私は四番機が緊急着艦を要求したなと思った。 だから、三番機は四番機を確認して直ぐ着艦コースから外れるだろうと気にも止めずに見ていたのだ。

 着艦指揮官も恐らくそう感じたのであろう、三番機に対するやり直し命令が1〜2秒遅れた。 そして、両機は約50米の高度差で、2、3百米に接近したのである。 もしも、両機に着艦やり直しを命じて同時に2機がエンジンを入れたら、確実に空中衝突する。

 私はその瞬間、四番機が錯覚を起こしているなと感じたので、デッキに飛び出し、「全艦照明!」 と艦橋に向かって怒鳴った。 着艦指揮官も懸命になって三番機にやり直しを命じていた。

 しかし、2機の大きい怪鳥は私達の心配を外に艦尾に近づいて来る。 いよいよ艦上からの指揮では間に合わない。 どちらかが先にエンジンを入れる僥倖を頼むしかなくなった。

 その時、まさに衝突の寸前で、三番機が気がついてエンジン全速、大きく右旋回、右翼端がデッキすれすれに母艦の右舷に逃れ、飛行甲板より低く下がって海中に突っ込むかと思われたが、やっと浮き上がって遠く暗闇の中に去った。

 しかし、四番機は最後まで異状な飛行を続けた。 艦の首尾線と約20度の角度で艦尾に近づいて来るのだ。 そして艦尾上空に達した時、左に急旋回して機軸を首尾線に合わそうとした。

 当然、高度が下がり、左車輪をデッキに激突して左脚を折り、ジャンプしてクラッシュバリケードに突き当り、ワイヤ4本を切断して、二番機を格納するために上昇の位置にあったエレベーターの天蓋上に落下し、勢い余って艦首灯の上を滑って前部錨甲板に鎮座した。

 僅か1分足らずの突発事故であった。
(続く)

2009年11月18日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その66

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第9話 月月火水木金金 (5)

 三番機を急いで収容した母艦は、全艦の照明をつけて、怪我人の捜索を始めた。 四番機がクラッシュバリケードを突き破った時、バリケードの前方で作業していた整備員2人が行方不明になったからだ。

 前甲板の方へは、艦攻の隊長 (西岡一夫大尉) が駈けつけた。 私は左舷下甲板へ走り降り、

 「何か落ちてはこなかったかっ!」

 機銃員が答えた。

 「今飛行甲板から、ソーフ (掃布) を投げつけられたような音がしました。」

 私はその時、強い血の匂いを唄いだ。 誰か死んだなと思いながら、急いで暗い舷側を、下甲板に駈け降りた。 すると張り出し金網 (飛行機の海中転落防止用) のスタンションの付け根に、ぐったりと倒れている整備員がいた。

 出血は、左大腿部と右肩であった。 ワイシャツを破り、大腿部を強く縛った。 右肩の傷口に布を当て、抱くようにして強く押えた。

 呼吸は微かだが、脈は強く打っていた。 頭部に傷はなかったが、私は肩から吹き出る血の温かみを手に受けて、この若い整備員が死ぬような気がした。

 名前も知らない少年兵であったが、この世に生まれて僅か20年足らずで、名前も知らない私に抱かれて死ぬのかと思うと哀れであった。

 急いで病室に運ばせてもう一人を捜したが見つからない。 それから10分許り経った時、トンボ釣り駆逐艦から、「一名救助」 の信号があった。 その男は吹き飛ばされて海中に転落したのであった。 暗夜の海上で20節の航海中に落ちた怪我人を、よく見つけてくれたものであった。

 事故の経過は以上のようであった。 病室に運ばせた整備員は、辛うじて生命は取り止めた。 操縦員は、手足肋骨を折り重傷、電信員、偵察員は肋骨を一本折っただけの軽傷であった。 トンボ釣りに拾われた整備員は、かすり傷であった。 不幸は最小限で済んだ。

 しかし、私は苦しかった。 この事故原因は恐らくパイロットの錯覚であろう。 私も何回か錯覚を起こしたことがある。 星の光を母艦の明りと間違えたり、照明弾が頭上に落ちてくるように感じたり、針一幅の旋回中に機体が90度傾いているように感じたりしたことがあったのだ。

 艦攻がバリケードを突き破って大きく浮き上がった時にも、私はその翼が怪物の蛾のように大きく見えた。 それも錯覚であろう。 その原因は明らかに、極端な疲労によるものだと思った。 日暮れてなお遠い旅路を歩いているような疲労を感ずるのであった。

 翌日、事故に関連して艦長の訓示があり、

 「命に別状なければ、事故は最善の体験である。」

 と最後に言われた。 名言であると思ったが、当面の原因たる私達乗員の疲れを癒してくれるまでには到らなかった。 そして、過労による事故を防ぐ方法はないのだと思い、次の事故が起こりそうな予感に悩まされてならなかった。

 以上が 「月月火水木金金」 という訓練をする者の宿命であった。
(第9話終)

2009年11月19日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その1

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (1)

 初めにお断りしておきたいことがある。 この事件の主人公の未亡人と子供は、現在、東京都周辺の某市で暮らしている。 今は文通も途絶えているが、人伝てに、楽しい家庭を築いているということであった。

 ところで、以下の記録は未亡人にとっては忘れ得ぬ亡夫の言行を述べることになるので、当然のことだが、未亡人がこれを読んだ場合、どういうことになるであろうかを考えて書かねばならない。

 その第一は、彼女は夫の戦死した経緯の真実を初めて知ることになり、その結果戦死当時の公報と余りにも違う内容に驚き、当局を恨み、改めて戦争の非情に泣くかも知れない。

 或いは、彼女が再婚もせずに一人の遺児を懸命に育てた若い日の長い苦闘と比べて、戦死した夫も、それに見合うだけの深い愛情を彼女に対して持っていたことを知って、これからの人生をより楽しく生きるようになるかも知れない。

 この二つの可能性は或いは五分と五分であるかも知れないが、私は後者を信じて書いている。

 その第二は、社会一般の常識として、戦争を忘却の彼方に押しやって、やっと平和に生きている彼女の心情に今更波乱を起こさせることは、内容の如何に拘わらず、彼女の不幸であるという考え方である。 これについては結論に達していない。

 その第三は、真実とはどういうことかの問題だ。 戦っている人間の心理は他人には解らない。 真実はこうだと言ってもそれは喋る人の主観であって、どこまで客観性があるかは私の判断では決められない。

 しかし一方では、心理面はともかくとして、外面に現われたものはそのままを真実として書き残さねばならないと思う。

 問題は外面に現われたものとその裏にみる心理との相違性である。 真実とはここに問題があるように思うので、私見を慎み、外に現われたものに力点を置いて書こうと思っている。 至らぬ点は御了承願いたい。


 先ず、この事件の起こった部隊の作戦行動について述べておこう。

 昭和17年1月、ハワイ攻撃に一月遅れて、コレヒドール要塞 (フィリピン、マニラ湾ロ) の撃破作戦のため特設航空隊が編成された。 マニラ所在の、第三南遣艦隊所属の第三十一航空隊である。

 私はその飛行隊長を命ぜられ、9機の艦爆を率いてマニラに進出することになった。

 部隊は佐伯で編成した。 出撃は1月下旬の予定で、コースは、佐伯、鹿屋、沖縄、台北、高雄、マニラ、ニコルスフィールドであった。

 ところが、この年の1月下旬は、沖縄、台湾方面に、2週間余も低気圧が停滞し、台湾直行が困難であったので、コースを上海経由に変更した。 4年余の体験で、上海、舟山列島 (中国沿岸)、台湾は箱庭のように知っていたので、躊躇することなくこのコースに変更したのだ。

 昭和17年2月16日、佐伯を出発した私達は、その日、上海郊外の基地に着いた。 この基地には、既にマカッサル (セレベス島) に進出する第三十五航空隊 (隊長国井紀夫大尉) も到着していたので、この部隊とフィリピンまで同行することにした。
(続く)

2009年11月21日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その2

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (2)

 2月中旬も相変らず台湾方面の気象は悪かったが、2月19日、無理を承知で国井部隊と一緒に上海を発った。

 舟山列島を右に見ながら、黄色に濁った支那海を高度百米で這って推測航法を続け、約2時間後、台湾西岸の珊瑚礁に白く砕ける波頭を発見し、それを視界に保ちながら南下して行った。

 コース前面には所々に強い雨があった。 「台湾坊主」 の卵である。 視界は千米以内であった。


 話が横道にそれて恐縮であるが、海軍航空発祥以来の悲惨な航空事故が起こったのはこの時であった。

 両部隊は新竹南西約20浬の三叉郡三叉庄にさしかかった。 私の部隊は海面を這っていた。 国井部隊は私とほぼ同高度で、私の左側陸上を飛んでいた。

 彼の最後尾小隊が、左60度2千米附近に見え隠れしていた。 その三番機が、突然地上高圧線に触れて火を発し、一筋の火となって墜落した。

 その数分後に、国井部隊の一、二小隊五機が、三叉庄の谷間の袋小路に迷い込んで山腹に衝突し、司令西岡中佐以下全員が死んだ。

 一方私の部隊は、高圧線に触れて墜落した飛行機を見た後、海面をキープしながら南下して高雄に着いた。 高雄は豪雨中であったが、直ちに救助活動が開始された。

 現場は凄惨の極みであった。 高雄航空隊の救援隊は、三叉庄の山中に坐り込み、雨に打たれながら天を仰いで慟哭した。

 截り立つ山腹の巨木の枝に、戦友の血漿が飛び散り、立ち煙る烟雨の中に精霊がさ迷っていた。 救援隊は冷たい雨の中に肩を寄せあい、戦友の冥福を祈ったのであった。


 事故の三日後、私達は暗然たる心を残して台湾を飛び立ち、バシー海峡を渡り、ルソン島の西岸に沿って南下し、サンフェルナンド、リンガエンを経由してマニラに着いた。

 南方近くに米海軍軍港キャビテが見えた。 米国が日露戦争直後にアジア経営のため、ハワイ基地の前進根拠地として設立した軍港である。 しかし、一次大戦後、マリアナ、マーシャル、カロリンが日本の統治下に置かれたため、ハワイとフィリピンが遮断され、この軍港には見るべき施設は建設されなかった。

 そして、それは今日本海軍によって占領されていた。 私達は全機無事にこの軍港の近くのニコルスフィールド基地 (注) に着陸した。

 2月下旬、私達のコレヒドール攻略作戦が開始された。 この作戦は、コレヒドール及びその対岸のバタアン半島のマリベレス基地を壊滅すること、そのためにコレヒドールと濠州との連絡を遮断することであった。

 先ず、マリベレスの爆撃から始めた。 この基地には八百米の飛行場があり、米軍は夜間だけ使用して、濠州方面と連絡している模様であった。

 格納庫や居住施設は、バタアンの山岳の底辺を掘り抜いた横穴の中にあったので、その横穴の入口を直撃しなければならなかった。 この穴の中には、マッカーサーも逃げ込んでいた。

(注) : 本話で出てくるフィリピンの航空基地については、本回想録最終章で 「戦場回想」 として出てきますので、ここでは補足説明などは省略します。


(続く)

2009年11月22日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その3

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (3)

 また、話が横道にそれて恐縮であるが、3月下旬、この攻撃中に事故があった。

 木塚 (忠治 67期) 中尉機が、防禦砲火のため操縦装置を撃たれ、マリベレス基地の東方約千米の海上に落下傘降下し、乗員二人がマニラ湾を漂流し始めたのだ。

 私達は全機出動して敵の機銃を制圧し、その制圧下に南遣艦隊司令部の九〇式大艇が着水して、3時間目に二人を放出した。 帰って来た二人は、僅か3時間の敵前漂流で頬と眼窩は落ち窪み、顔は真赤に焼けていた。

 木塚中尉の報告によると、彼は胃腸を悪くしていたため、その日の朝食はパパイヤを食べただけであったので、泳いでいるうちに腹が空いて苦しくなった。

 飛行服のポケットを捜すと、煙草チェリーが出てきた。 その馬糞紙 (藁を原料として作られた土色厚紙。 馬の糞は、私達の時代には田舎の路上で常時見かけたが、藁がそのまま出てきて、この紙とよく似ていたのでこの名が生まれた) の箱が、塩水にふやけて柔らかくなっていたのでそれを食べた。 とてもうまかったという。
 
 だが馬糞紙の塩漬けだけでは空腹が納まらないので、魚を獲ろうと考えた。 海面に手足を投げ出し、仰向けになって休んでいると、沢山の魚族が遊びに来て、薄いシャツの上から脇の下や足の裏を突っつくのでくすぐったい。 そっと魚に触ってみると、魚は逃げない。

 その中に30糎ばかりの真赤な奴がいたので、そ奴を食べようと思ってそっと掌の上に乗せて、肛門に指を挿し込んで料理をしようとすると、スルリと掌から逃げる。

 また別の魚を獲らえて、鰓 (えら) に指を入れようとすると、激しく怒って跳ね飛んで逃げる。 そっと両手で抱くようにしている時だけおとなしい。 人間の女性とよく似ていると言った。

 所詮、人間はナイフという道具を持っていない限り、水中で魚族と戦っては勝味はない。 人間とは道具を使う動物であるということを、肝に銘じて知りました。 と彼は報告した。 現在のパイロット達が、大きいサーバイバルナイフを持っているのは、こういう事故から生まれた教訓であろう。
(続く)

2009年11月23日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その4

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (4)

 この事故を契機として、作戦の重点が、コレヒドールの補給路の封鎖に変更された。

 濠州から、セレベス海、スル海を通り、マニラに入る途中のミンダナオ島西端とタウイタウイ島の間の海峡には、無数の小さい島峡がある。 敵はこの島影を利用するのだ。

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( 原著より )

 そのやり方は昼間この小島嶼群の海岸のジャングルの木蔭に潜み、日没とともに行動を起こしてスル海を渡るのだ。 コソドロの荷物運びのやり方と同じである。

 私達は、これ等の小島の海岸を虱つぶしに捜索する作戦を開始した。 これ等の島はマニラから約4百浬離れているので、セブ島に進出することになり、4月中旬、6機を率いてセブ島に進駐した。

 セブ島は、フィリピン群島のほぼ中央に在り、痩せた甘藷のような形をした細長い島である。 島内には、マンゴー、椰子、バナナが野生し、子供のこぶし程のナツメ、パパイヤも豊富であった。

 島のほぼ中央南岸に面して、セブ市がある。 中部フィリピンの中心商港都市で、戦前は人口3万以上であった。 港は懐の広い良港で、埠頭は長く水深は10米以上であった。

 私達が進駐した時には、日本軍の爆撃によって、5千噸級の貨物船が岸壁繋留のまま幽霊船のように赤い腹を露出し、港湾の機能は停止していたが、本来、フィリピン中部の最良の開港場であった。

 この港に接して、スペイン統治時代の苔むした古城址があり、巨大な城壁が南海威圧の名残りを留めていた。

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( 原著より  著者のスケッチ )

 セブ市から海岸に治って、自動車で20分ばかり南西方に走ると、タリサイという冷泉がある。 この冷泉は、日本では見かけない大きい規模のもので、直径3米くらいの水柱が十数本も噴出し、時々地上百数十米も吹き上げる間歇泉だ。 広く美しいプールがあった。

 このタリサイ冷泉の対岸に、マクタン島という島がある。 1512年、マゼラン海峡を発見したマゼランが、更に世界一周を目ざして西航し、ガム島を発見し、次いで3月6日、フィリピン列島の南端に辿り着き、北上してセブに入り現在の港湾都市を建設した。

 その後、宗教戦争が起こり、452年前マクタン島で土人の毒矢に当って死んだ。 そのマクタン島は、平坦な甘藷ばかりの汚ならしい島であった。 (現在はセブ国際空港と立派なホテルがある。)

 セブ市を中心に、このタリサイと反対側に、セブ飛行場がある。 この飛行場は、セブ島の脊梁山脈の中腹のゴルフ場を日本海軍が飛行場に即成したもので、ランウェイの長さ1200米、幅100米の芝生であった。 中央部が高く、両端に約3度の傾斜があり、着陸すると、丘を駈け上がるような感じであった。 パーキングエイリヤは、マンゴーの木蔭の美しい芝生の上であった。

 この飛行場に併行してセブ山脈が走り、山脈の四合目あたりに、重犯罪人収容のための刑務所があった。 戦争が始まると、ここは捕虜収容所になった。

 以下述べる記録はセブ島の基地で以上のような作戦中に墜落した搭乗員の捕虜、脱走、帰隊と、その後の戦闘と自殺に至る経過である。
(続く)

2009年11月24日

『飛翔雲』 第3章 世界戦争時代 −その5

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第1話 捕虜とその死 (5)

 私達は4月中旬、いよいよセブ島に於ける作戦を開始した。 哨区は、ザンボアンガとタウイタウイ島の間の海峡の哨戒であった。 スル海に砲艦が一隻遊弋して私達に協力した。

 私達はジャングルに覆われた小さい島々の海岸を百米以下に降りて、双眼鏡で隅々まで捜した。 これらの島々は、敵の陸軍逃亡部隊に占領され、日本の陸軍部隊はいなかった。 この作戦はのんびりしたものであった。

 時には、ジャングルに頭だけ隠して尻を隠さずにいる5百噸ばかりの商船を、威嚇射撃で捕えて砲艦に引き渡し、セブ港に連行して調べると、船倉にチョコレートが一杯積んであったので約1メートル立方のチョコレートを数個航空隊に運び、総員がマンゴーの木蔭で食べようとしたら、岩よりも堅く、嘗めてみるとにがいので、隊合に持ち帰り、五右衛門風呂で煮たてて、砂糖を5貫目も入れてココアを作って飲んだことがあった。 マンゴーやバナナを鹵獲することもあった。

 4月10日頃であった。 マッカーサーが近日中に濠州方面に逃亡するという情報があった。 彼は後年日本占領軍司令官になって、一部の日本人から神様の次に偉い人だと思われたらしいが、当時の私達には、敗軍の哀れな一部将であった。

 彼は再びフィリピンに来るであろうと約束してフィリピン人を感激させたが、戦場を往復するのは軍人として当然のことで、彼が逃げるからと言って、別に緊張することもなく、私達は淡々たる気持で地味な作戦を続行した。


 4月14日のことであった。 日没近い最終直の2機が任務を終えて、ザンボアンガの西方約10浬を高度約5百米で飛行中、一番機のエンジンが停止した。 操縦者はあらゆる処置を行なったが成功せず、ザンボアンガの距岸5浬の海中に墜落した。

 二番機の報告によると、高度30米くらいから約30度の角度で海面に突っ込んだ。 飛行機は直ぐ海面下に投し再び浮かばなかった。 搭乗員も浮遊物も殆ど見当らなかったという。

 私がこの報告を受けた時は日没後であったので、墜落機の捜索は明早朝から行なうこととし、急いで陸軍に救援を依頼した。 私には、搭乗員がそのまま沈んでしまうとは思えなかったのだ。

 翌日、暁闇の中を捜索機が出発した。 しかし、不時着地点には、人はもとより浮流物も見当らなかった。 その日は終日捜索したが、何の情況もつかむことができなかった。

 それから約一月後、陸軍から電話があって、不時着した搭乗員のうち、一人が捕虜となって前述のセブ刑務所に収容されているとの通知を受けたのである。

 以下の記事は、墜落機の偵察員二等飛行兵曹高畠二郎 (仮名) の告白と、彼の親友乙田一飛曹 (生存仮名) の説明を纏めたものである。
(続く)