2010年06月08日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その36

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (2)

   その1 (承前)

 昭和12年9月、上海戦線でのことだ。 陸軍の塹壕戦に協力中、一個小隊3機が出発命令を受けて、出発前の試運転を始めた。 私はそれを指揮所から見ていた。

 すると、その内の一機のエンジンがかからない。 そのパイロットは、飛行機を降りて隣の飛行機に乗り移った。 ところが、乗り移った飛行機は、数分前に戦線から帰って来たばかりの飛行機で爆弾が積んでない。 その飛行機をいきなり始動して、整備員が制止しようとする中を離陸してしまった。

 そして、当人は戦線に行って小隊長に従って悠々と急降下爆撃を3回やって帰って来て、分隊長に、

 「弾着が見えませんでした。」

 と報告した。 分隊長は、

 「また、あ奴は自分が乗る飛行機を調べもしないで! 高橋中尉! 何とかしてやってくれよ。」

 とあきれ果てた顔であった。 ところが、このパイロットは急降下爆撃も射撃も生まれつきの名手で、個人命中率80パーセント以上という珍しい男であったが、出発前の試運転は勿論のこと、敵の防禦砲火がどんなに激しかろうと全く無頓着で、敵の上空で何回でもやり直しをするのだ。

 しかも、彼の飛行機にはどういうわけか敵弾が当らない。 この男が、後年特攻攻撃で沖縄に突っ込んだ持田少尉の若い時の姿であった。

 これと対照的な例は、昭和14年、第十四航空隊に引宇根二等兵曹がいた。 彼は毎朝整備員や兵器員と一緒に、他の搭乗員よりも2時間も早く飛行場の列線に現われ、爆弾、機銃弾の搭載、エンジンの試運転、燃料潤滑油の搭載に立ち会い、自分の乗る飛行機は自分でチェックしなければ承知しない。

 或る日、南寧市の西北50浬附近の塹壕戦協力の時、飛行予定が変更になって、彼の乗る予定の飛行機に別の乗員が乗って出発し、その30分ばかり後で、続いて引宇根の属する小隊が出発することになり、彼は自分が試運転した飛行機に乗れなくなった。 こんな時の彼の出発前の試運転は、早くても20分以上かかることを承知の小隊長は、

 「引宇根! 出発準備が10分以上かかったら連れて行かんぞっ! いいなっ!」

 と念を押していたが、引宇根は20分経っても出発準備よしの報告をしない。 24、5分後に3機は仲よく出撃したが、攻撃から帰って来た時、小隊長からくどくどと叱られて彼は恐縮していた。

 しかし、この引宇根も極めて勇猛果敢な戦闘をする男で、彼式の計算式で燃料余裕が零分になるまで戦線上空でねばり抜く男であった。 引宇根もミッドウェイで戦死した。

 持田は隊員から愛された。 引宇根は敬遠された。

 二人は15年2月、一緒に十四空で私の部下となり (持田は二度目) 南寧基地で共に暮らしたが、引宇根は甘いキャラメルが好きで、持田は酒豪であった。 引宇根はいつもキチンと服装を整えていたが、持田はズボンがずれ落ちて臍が見えていることがよくあった。

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( 既出  下段右から2人目が引宇根2曹、上段右から5人目が持田一等兵
 白矢印で示すのが著者 )

 どちらがパイロットとして望ましい姿か、ということはともかくとして、この二人が戦場のパイロットの二つの代表的な姿であったとも言えよう。
(続く)

2010年06月07日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その35

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (1)

   その1

 時は昭和15年2月の中旬。 場所は北ベトナムに隣接する広西省の省都南寧市の西郊外の飛行場 (現在の広西僮族自治区)。

(注) : 南寧航空基地時代の話しについては、「第2章 日中戦争時代」 の「 第8話 南寧整備隊」 にもありますのでご参照下さい。 ただ、南寧基地は同話では南寧市の北東、本稿では西郊外とされているのですが ・・・・ ?


 作戦計画は、南支方面に展開中の第十四航空隊の九六式艦上戦闘機と九六式急降下爆撃機によって、陸軍の賓陽作戦に協力して、広西省桂林の飛行場を強襲し、敵戦闘機を撃滅して制空権を獲得しようというものであった 。

 戦闘機18機 (総指揮官小福田租大尉 (59期)、中隊長周防元成大尉 (62期) )、急降下爆撃機9機 (指揮官高橋定大尉) は、2月10日、海南島方面から南寧基地に集結し、夜を徹して出撃準備にかかり、翌未明、搭乗員による出発前の試運転を始めた。

 風は無く天気は快晴で、北方30浬附近の台状の連山、九とうの山々は朝霧に包まれて薄紫に霞み、まだ眠りから醒めていなかった。 轟々たる爆音と、27機の機尾から吹き上げる万丈の黄塵だけが悠久の大地を騒がせていた。

 やがて、艦爆隊は試運転を終了したので、私は桂林の敵飛行場の略図を見ながら総指揮官の出発下令を待っていた。

 その時だった。 戦闘機隊の中隊長周防大尉が小走りに私の方へやって来るのが見えた。 私に何か伝えることがあるのだろうと思ったのでエンジンを絞って待っていると、私の直ぐ隣の戦闘機に近づいて行って、

 「おーいっ! 降りろよ。 君は俺の飛行機に乗って行け。 君の飛行機には俺が乗って行く。」

 と言っているのであった。 その飛行機のパイロットは、懸命にエンジンのチェックをしている様子であったが調子が悪いらしく、周防大尉を見て 「ハイッ!」 と答えたものの、未練らしく動力計器の針を見つめている風であった。

 しかし、降りろと命じているのは直属上官である。 彼は残念そうに飛行機を降りて、周防大尉に敬礼して走り去った。

 周防大尉は急いでその飛行機に乗り、試運転もそこそこに試運転完了を整備員に告げていた。 そして、作戦部隊全機の出発準備が完了したので、指揮官小福田大尉は列線から離陸点に着き、27機がこれに続いた。

 それから約2時間後、目的地桂林市上空に現われた私達は、熾烈な防禦砲火の中を、艦爆隊9機が格納庫と燃料ドラム缶の集積場を爆撃して大火災を起こさせ、戦闘機隊は、飛行場の西方上空で敵機群と約5分間の空戦で数機を撃墜し、残りを中国奥地へ遁走せしめ、制空権を獲得したのであった。

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( 原著より  桂林爆撃 )

 ところで、周防大尉は桂林上空で空戦中にエンジンが息をつき苦戦に陥った。 部下達が彼を援護して敵を追い払ったが、帰途、南寧の近くまで辿り着いた時再びエンジンが停止して危うく不時着しそうになった。 この時は、僅かの僥倖によって基地に滑り込み、九死に一生を得たのであった。

 後日、この時の事情を聞くと、彼は、

 「指揮官は一番悪い飛行機に乗って戦えば、それでいいんですよ。」

 と答えた。 ごく当り前のように・・・・。

 しかし、これは当り前のことであろうか? 周防大尉が若い部下と飛行機を交換していなかったら、若い部下は桂林上空で恐らく戦死したであろう。
(続く)

2010年06月06日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その34

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (18)

   その3 海の恐怖 (承前)

 私達2機が母艦の同回コースを飛び始めると、母艦は徐々に風に正向し、スタビライザーを発動してローリングを止め、着艦せよの意志を表明した。

 風速は平均30米秒、突風36米秒、艦は操艦に必要な最低限度の速力12ノットで航行し始めた。 ピッチングは約25度で、その周期は約30秒であった。 私が先に着艦コースに乗った。

 グライディングスピードは67ノットが基準であるが、母艦の対気速力は72ノット乃至84ノットである。 母艦の方が速いのだ。

 私は120ノットに増達し、高度50米で艦尾に接近してから80ノットに減速し、母艦と編隊飛行をしながら、ピッチングの周期を計って着艦の機会を窺った。

 艦上では、部下整備員達が命綱を体に巻いて私達が着艦するのを待っている。 偵察員吉川克己上飛曹 (仙台市に在住) に、着艦したら急いでデッキに降りて、着艦制動索か飛行機繋止リングにつかまれと命じた。 寸秒の遅れがあれば、機体も人も艦外に吹き飛ばされて波に呑まれてしまうのだ。

 いよいよデッキの上空に進入し、艦のピッチングモーメントの中心部に当る場所に車輪をそっと卸した。 殆ど垂直に近い降下であった。 しかし、車輪はデッキに触れているが、まだ飛んでいるのであった。 エンジンを絞ると飛行機が後退するのだ。

 その時、整備員が3名デッキに飛び出して来て、這いながら飛行機に近づいて来た。 体につけた命綱がハタハタとデッキを叩いていた。 彼らが飛行機の脚にしがみつくことができるかどうか? それが着艦の成否につながるのだ。

 一方、私はエンジンを絞る最良の時を選ばねばならない。 その時機は、風が僅かでも息をつく時だ。 その瞬間にエンジンを急停止するのだ。

 その時が来た。 ピッチングで艦首を上げ、風が弱まった時だった。 私はエンジンを止めた。 飛行機が後退を始めると、整備員が脚にしがみつき車輪止めをかけた。

 私は飛行機の胴体に吸いつくようにしてデッキに降りた。 偵察員の吉川が私の上体に折り重なるように落ちて来た。 次の瞬間屈強な応急員が飛び出して来て、私達二人の体にロープを巻きつけた。

 次に、二番機を収容しなければならない。 しかし、私の飛行機を下甲板の格納庫に収めなければ、二番機が着艦ができないのだ。 直ぐ近くの前方のエレベーターを上下させると、強風と潮が格納庫の中に吹き込むし、後方のエレベーターは遠い。 ピッチングが激しくて移動が難しい。

 「艦長! 飛行機は艦外に落ちるかも解りません。」

 と艦橋に向かって怒鳴り、激しいピッチングの中を飛行機を少しずつ後部へ移動させ始めた。 できれば後部エレベーターまで移動させたいが、時間がかかる。 二番機の燃料は20分もあるまい。

 10分ばかり経過したが、飛行機は20米も動かない。 二番機の燃料が気にかかる。

 その時、二番機は運搬中の私達と飛行機を飛び越えて、私が着艦した場所と同じ所へ垂直に降りて来たのだ。

 「やったぞっ!」

 整備員が勇躍して二番機の脚にしがみついた。 こうして2機と私達4人の搭乗員は無事収容されたのであった。

 出発する時、鏡のように凪いでいた海が、一度怒れば2万噸の鉄の艦を木の葉のように弄ぶ。 飛行機や人間はまるで塵か芥のようだ。 寄せ来るうねりは泰山が鳴動しながら襲いかかって来る。 と言うより他に言葉を知らない。

 『智者は水を楽しむ』 と言うが、川の水はともかく、大海の水とは人智の及ぶところではなかった。 「逝くものは斯くの如し。 星夜をおかず。」 と孔子は哲学的所懐も述べているが、颱風下の大海を見たら何と言うだろうか?

 海は正に怪物であった。
(第2話終わり)

2010年06月05日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その33

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (17)

   その3 海の恐怖 (承前)

 昭和13年9月初旬、航空母艦 「龍驤」 は、テニアン、サイパン、ロタ (横須賀の南方約1300浬) 方面に行動した。 炎熱地帯での航空機の連続運用を演練することが主目的であった。

 7日の0700頃、ロタ島の南西約100浬附近で、私は列機を1機連れて、300浬の扇形捜索に出発した。 九六式艦爆で約6時間の行動である。 訓練の内容は単純な航法通信であった。

 内南洋の海は、黒潮の影響はなく淡いコバルト色にすき透り、空も深く澄み、颱風の襲来がなければ、曇ったり強い風が吹いたりすることもない。

 その日も、朝から快晴微風で近くに颱風の発生もないらしく、うねりもなく鏡のようであった。 捜索区域には仮想の敵がいるわけではないし、視界に入るものは鯨と海豚の大群くらいのもので、うつらうつらと、退屈な5時間半の飛行であった。

 ところが、母艦の予定位置の50浬手前まで帰って来た頃、針路前方を見ると豆颱風が猛烈な勢いで発達しているのであった。

 中心附近は黒雲の柱で、上空6、7千米には灰色の乱雲が八つ手の葉のように勝手気儘に乱れ飛び、周辺部には二つ三つの旋風が海水を吸い上げ、中天に向かって約千米の太い白線を画いていた。 小型の竜巻だ。

 豆颱風は今、これらを吸収しながら発達しつつあるのだ。 豪雨と突風の半径は10浬くらいになっているようであった。

 母艦の予定位置の30浬手前まで帰って来て、左右の水平線上を見回すと、母艦が見えない。 どうやら、豆颱風の中心部にいるようだ。 燃料は後1時間余りである。 幸いに部下は1機であるから、豪雨の中の編隊行動に不安はない。 颱風の中に突入して母艦を捜すことにして高度を100米に下げた。

 いよいよ颱風の中に入ると、先ず、車軸を流すような雨に見舞われ、前面の風防ガラスは水中に没したようになった。 気流は悪く、小さい落雷が始まり、翼の先端から小閃光が黒雲の中に消えていった。

 中心部に向かって3分ばかり飛ぶと、物凄い乱気流で、急降下爆撃機以外は空中分解を起こしそうな激しさであった。 (九六式艦爆は12Gに耐え得る機体構造であった。) 5分ばかり直進すると、黒雲の中に一際黒い母艦の影がかすかに見えた。

 ホットして近づいて行くと、そこには2万噸の 「龍驤」 が、まさに木の葉のように、うねりと波と風に翻弄されているのであった。 それはもはや、母なる船の堂々たる姿ではなかった。

 30度以上のローリングをしながら、艦首を波間に突っ込み、うねりの山を飛行甲板に掬い上げ、潮の奔流が甲板を洗い、風下側の舷側へ濛々たる白雲となって棚引き、豪雨と黒雲の中に消えていくのであった。

 海の猛威! 狂瀾怒濤とはこのことで、とても着艦ができる状態ではなかった。 しかし、飛行機の燃料は後1時間足らずしかない。 グァム島はアメリカの領土だし、その隣のロタ島までは約100浬の距離があるから、着艦するより他に帰る所はないのであった。

 後で解ったことだが、この2、30分前に、母艦の艦橋では、艦長上阪香苗大佐 (43期) と艦爆分隊長江草隆繁大尉 (前出) が激論を戦わせていた。

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( 原著より  上阪香苗大佐 (当時) )

 艦長は、着艦は無理だからロタ島に不時着させると言う。 江草大尉は、艦のスタビライザーが破損することを覚悟の上でローリングを止め、着艦させてくれと要求して譲らない。

 論争十数分、艦長は、着艦に成功する公算を50パーセントと判断して着艦収容を決心したのであった。
(続く)

2010年06月04日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その32

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (16)

   その3 海の恐怖 (承前)

 本当に万事休したかと思っている時、広島と尾道を結ぶ約7百噸の客船が通りかかり、私達に救助の手を差し延べてくれたのである。 まさに地獄へ仏の到来であった。

 その船は暗礁の直ぐ近くまで接近して来た。 そして、太いマニラロープを船尾から延ばして、それを船体に巻けと言う。 船を暗礁から曳き卸してやろうと言うのだ。

 急いでそのロープを船体に巻いた。 客船はそれを見て全力で曳いた。 しかし、直径3インチもあるマニラロープは、「ピーン!」 という悲鳴を残して切れてしまった。

 私達は急いで船首の倉庫から応急用の約7粍のワイヤロープを取り出して、それを船体に巻いてそのエンドを客船の船尾の繋柱に巻きつけ、もう一度やってくれと頼んだ。

 客船は快く引き受けて再び全力で曳いた。 私達も後進全速をかけ、爪竿で岩盤を押し、4人は船尾でトランポリンのジャンプをするようにして船体をゆきぶった。 客船はお尻を左右に振りながら全力で曳いた。

 すると、さしも頑強に岩盤に噛みついていた船首が、大木に切り込んだ鉈 (なた) をもぎ取るように、船体を痙攣させながら深海へ降りたのである。 客船から船員と乗客が万才を叫んだ。 漁師達も喚声を挙げた。 私達は両手を高く揚げ、心から感謝の意を表明した。 頬を流れる涙を拭おうともしなかった。


 以上が私達7人の冒険の経緯である。 離礁してから30分後に、兵学校から教官続木貞弐少佐 (46期) の迎えの水雷艇が来て船体を精しく調査した。 そして翌早朝、教官の船に続行して兵学校に帰った。

 早速教頭の前に出頭すると、教頭倉賀野明大佐 (33期) は、

 「事故に対して冷静沈着であった。」

 と称讃の言葉を述べ、続木少佐は、冷たい水中で錨を運んだことは勇敢で適切であったと褒めた。

 私はその時思った。 錨を運びながら、水中に横たわる巨大な岩盤の脅威に全身が戦慄していたのに、どうして勇敢と言えるであろうか? と。

 この時から四十五星霜が流れたが、この時以来、海底に潜む未知の世界に対する恐怖を拭い得ないでいる。 この事件の怨敵は相変らず海底で牙を磨いているのだ。 大崎上島の人達は、この怨敵たる岩盤を 「猫背の岩」 と呼び、この瀬戸を 「猫背の瀬戸」 と呼んでいる。

 海の恐ろしさ! それは、この呼び名のように怪猫の背骨と同じだ。 その背骨には、怨霊、妖怪変化が乗っている。 海は全く恐ろしい。
(続く)

2010年06月03日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その31

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (15)

   その3 海の恐怖 (承前)

 そのうちに潮が退いて、船の周囲に黒い岩盤が現われ始めた。 船首は岩を噛んだままで船尾だけが水に浸り、船体は仰角20度くらい上を向いた。

 2時間ばかり経つと、左舷にも岩盤が1米くらいの海面下に見え始め、船体が右に傾き始めたので予備の舵索を船体に巻き、巻いた余りを船首船尾の双繋柱に八字に縛り、更にその尖端に錨を結びつけ、左舷正横約50米の所にその錨を運んで沈め、船体がそれ以上右に傾かないようにすることにした。

 錨を50米運ぶのは私の仕事であった。 船首の倉庫から錨を取り出して、船体に巻いたワイヤの尖端に結び、水深1米ばかりの凹凸の多い岩盤の上を錨を抱えて歩き始めた。

 所々に深い所があって、肩まで凍りつくような海水に浸った。 岩盤の表面には海藻が生えていてよく滑るので、靴を脱ぎ足の裏に神経を集中しながら歩いた。 抱えた錨は水中だから50瓩ぐらいしかなかったが、2、3分も経つと腕と足に感覚が無くなり、錨を抱えているのが難しくなった。

 10分ばかり経つと呼吸が困難になった。 そして、その2、3分後に水中に倒れた。 福井と深井が周章てて救援に来た。 50米を運び終えた時、私は全身の知覚を失い、二人に担がれて船に帰った。

 これで応急処置は済んだ。 後は満潮を待つしかない。 午前10時半頃潮が最低となり、船体は完全に空中にあった。

 「船頭多くして船山に登る」

 という言葉があるが、まさにそのとおりになった。 それは珍妙な姿であった。 巨大な岩盤の頂上から約1米下の斜面に船首が頂上を向き、右に約30度傾いて細いワイヤでやっと横転を免がれながら、黄金に輝やく船が鎮座している。 難破船らしさはどこにもない。 彼女は、

 「山船頭さん! 私をどうしてくれるの?」

 と、嘲笑しているようであった。 しかし、私達はこの時既に座礁した時期は、この地の最満潮時ではなかったことを知っていた。 大崎上島の船頭が、

 「今潮が退き始めたばかりだ。」

 と言った 「いんま (今) 」 というのは中国四国の方言で、1、2時間前も 「いんま」 と言うのだ。 私達は潮を待った。 地球の自転、月の引力、宇宙の全ての天体の力のバランス、これらは神の意志として私達に潮の干満を与えている。 私達はその教え、その意志に従わねばならないのだ。

 午後3時頃になると、潮は再び船体を包み、座礁した時と殆ど同じ状態になったが、まだ満ちて来つつあった。 私達は自然離礁を神に願った。

 午後4時半、座礁してから10時間半、最満潮の時が来たので、エンジンを起動し、後進全速をかけ、爪竿で岩盤を押した。 しかし、船体は動かなかった。
(続く)

2010年06月02日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その30

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (14)

   その3 海の恐怖 (承前)

 0700、深井が舵輪を持ち、私は錨当番の配置に着いた。 缶室から、

 「蒸気は上がった。 出港用意よし。」

 「錨を上げっ!」 「前進原速!」

 大崎上島よ、さらば! 船は針路を南にとった。 すると、大崎上島の浜辺の漁師達が早朝の漁獲の水揚げ作業を止めて、手を振り大声を出して喚き始めた。

 別れの挨拶にしては大げさすぎると思ったが、私も手を振って別れの挨拶をしながら、航路前方を見ると、そこは海面の色が変わっている。 海底に何者かが潜んでいる。 私は、子供の時に読んだ絵本の地獄の底の釜を想い出して戦慄を覚えながら、

 「前方に鬼がいるっ! 面舵一杯っ!」

 と叫んだ。 深井は、

 「後進全速っ!」

 と叫び、舵輪を全力で右に回した。 船は回頭を始めた。 一秒! 二秒! 三秒!

 次の瞬間、船体は無気味な震動とともに奥歯で歯ぎしりをするような音を立てて急停止した。

 「後進全速! 急げっ!」

 機械は限界回転まで後進がかかった。 私達は船首に走り、全身の力を振り絞って爪竿で岩盤を押した。 しかし、船首は岩を噛み、キールは岩盤の上にあぐらをかいて船体は微動もしなかった。

 応急処置にかからねばならなかった。 先ず、船首船底を調べたが浸水はなかった。 エンジンが急停止したので蒸気圧がぐんぐん上昇し、安全弁から盛んに蒸気を吹き始めたので、機械を後進全速で回しながら火床を整理して火力を弱めた。

 続いて岩礁の形と潮の干満の実態を調べ、干潮時に船体が転覆するのを防がねばならないのであったが、それはゆっくり岩盤を調べてからやることにした。

 30分ばかり経つと蒸気圧が下がり、ヒステリー女の悲鳴のような安全弁の警報が止まったので、「埋火」 をして機械を止めた。 7人は誰もものを言わない。 地球の回転が止まったような静けさが襲ってきた。 私達は初めて顔を見合わせた。

 「次の満潮時を待とう。」

 と、北島がポッリと言った。 そして、

 「朝食だ。 腹一杯食べてから考えよう。」

 私達はケビンに集まり、黙々として飯を喰った。 やがて、大崎上島の漁師達が小舟に乗って集まって来たので、その一人に潮時を聞くと、

 「今退き始めたばかりだ。」

 と言う。 私達は満潮の時座礁したのであった。

 「万事休す」

 自然離礁は不可能のようであった。 北島は漁師の舟に乗って上陸し、電報で兵学校に急を知らせた。
(続く)

2010年05月12日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その29

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (13)

   その3 海の恐怖 (承前)

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( 原著より )

 1300、湾口を出て江田島をクロックワイズに回って南下し、1430頃、音戸の瀬戸の入口に着いた。 ここで小さいトラブルがあった。

 北島が、

 「追潮の最盛期だから30分間潮待ちをする。」

 と言う。 福井は、

 「今直ぐカウンターカレントに乗って瀬戸を突っ切ろう。」

 と主張する。

 「カウンターカレントは複雑でよく解らんから危険だ。」

 「解らんことはやってみなけりやいつまでも解らんっ!」

 「それはそうだが、今やるのは無茶だ。」

 「無茶ではない。 体験を積む絶好のチャンスだ。」

 「体験とは易しいことから一歩一歩積み上げていくべきものだ。」

 この論争は北島に理があったので、彼の提案に従うことで衆議決定。 福井はプンとふくれてケビンへ去ったが、直ぐに気嫌を直して皿に大福餅を盛ってデッキに上がって来た。

 北島が喜んで大福餅を頬張ると、餅のアンコが生の牛肉のミンチに入れ変えてあったので、怒って福井を追い回しているうちに潮時が来て出港し、音戸の瀬戸を抜け、安芸灘の広場に出た。 右舷西方に倉橋島が見えた。

 この島の南岸には、七世紀 (663年白村江の戦の頃) のドライドックの跡があるが、遺蹟調査は冒険航海と直接関係がないので予定に従って針路を東にとり、広島県の海岸の町、仁方、川尻の沖を通って第一の寄港地大崎上島に向かった。 空も海も鉛色で視界が悪く単調な航海であったが、私達だけの航海が無上に嬉しく楽しかった。

 1730 薄暮が迫る頃、船は大崎上島の北岸の半円状の入江に入って錨を入れた。 上陸は許されていなかったので、ケビンに集まってスキ焼きを食べ、汁粉を飲み、ハーモニカの伴奏で流行歌を唄った。

 8時頃雪になり、窓枠に当る風は柔らかく、舷側に砕ける波の音も子守歌のように優しかった。 一人ずつ順番で当直に立ち、6人が抱き合って眠った。

 翌28日は快晴無風で、大崎上島の山々が雪化粧をしていた。 海面は鏡のように凪ぎ、日の出前の水はダークブルーで重そうであった。 今日のコースは大崎上島から南下し、来島海峡を抜けて備後灘に出て東航し、因島を回って尾道港に入る予定であった。
(続く)

2010年05月11日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その28

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (12)

   その3 海の恐怖 (承前)

 昭和7年12月27日、海軍兵学校は2週間の正月休暇に入った。 私には、この休暇が兵学校時代の最後の正月休みであった。 この機会を逃したら、生涯、級友達と一緒に冒険をやってみる機会は来ないわけで、そこで思い立ったのが、同級生7名だけで冬の瀬戸内海の 「機動艇巡航」 をやることであった。

 「機動艇」 というのは、機械で動かす小艇という意味で、昭和12年頃まで戦艦クラスに搭載して交通艇として使われたり、各軍港や兵学校に雑船として配備され、訓練や雑用に使われていた。

 この船は上甲板に魚雷を二本抱いて敵艦に肉迫し、命中射三角の射点に占位して、人力で魚雷を海面に転がり落として雷撃をするという水雷艇が原型で、日清、日露戦争時代の日本海軍の栄光 「水雷艇の夜襲」 を後輩に伝えるために温存されていた船であった。

 兵学校にあったものは、総噸数約20噸、全長約15米、速力は全速で12ノット、石炭缶、蒸気ピストン、推進軸は一軸、定員は7人 (艇長 1、操舵員 1、缶員 1、機械員 1、甲板員 1、魚雷員 1) の木造船であった。

(注) : ご存じのとおり一言で 「艦載水雷艇」 と言いましても明治期から始まって各種のタイプが存在しました。 下図の上のものが 「56呎 (17米) 艦載水雷艇」 と言われる最も一般的なものの一つです。 本項で出てくる兵学校の 「機動艇」 がどのようなものであったのか詳細は不明ですが、この56呎のものよりは一回り大型であったと思われます。 「運用術教科書」 に下図の下のものが出てきますが、もしかするとこのタイプかとも思われます。


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( 両図とも 「海軍兵学校運用術教科書」 より )

 木造船とは言っても、甲板に敷きつめられた厚いチーク材は鋼板のように強く、ベンチュレーターやハンドレールは総て銅製で、船首船尾の両舷の鉄の双繋柱にも厚い銅板が巻いてあり、それらは磨き上げられて黄金色に輝き、清潔でスマートで頑丈であった。

 しかし、缶は五右衛門風呂式の丸い水タンクを石炭缶で熱するという原始的なもので、炭塊をスコップで火床に放り込んで、大きい火箸で掻き混ぜて燃やすわけだから、煙突から石炭の煙をモクモクと吐き、燃え滓がもぐらの糞のように貯って捨て場に困った。

 エンジンは二衝式のピストンであったので、ゴットンゴットンと大騒音を発するし、機械に後進をかけようとしてもクラッチが簡単に嵌合しないので、船首が桟橋や岩壁にぶつかってから後進がかかるという、いわゆる 「当りゴースタン」 になることがよくあった。

 吃水は約2米、二重船底で重心位置が低く、浮力中心が高く、耐波性、凌波性は極めて優秀で、横波で船体が90度以上傾いても復元力が強くて転覆することはなく、煙突から浸水しない限り沈没の危険はないと言われた。 また、キールの木材は太くて頑丈で、岩盤に船底を擦ったくらいでは船体に穴が開くことはなかった。

 こんな船だから、海図の読み方と海上衝突予防法を書物だけで学んだ私達7人の少年に、厳冬の瀬戸内海の処女航海をすることを許したのであろうが、日本海軍はいい船を後輩に残してくれたものだった。

 昭和7年12月27日1300、このような機動艇に乗って、海軍兵学校の表桟橋を出港して三日間の航海の途に上った。

 乗員は北島 (一良) (天理教教師、49年3月死亡)、福井 (睦雄、新姓和田) (イ号33潜水艦で19年戦死)、深井 (俊之助、62期で卒業) (高梁市花蓆製造会社社長)、楢村 (忠雄) (東京乾燥木材社長)、駒形 (進也) (名古屋、会社重役)、抜井 (金美、新姓坂本) (防衛庁戦史室教官) と私の7人であった。

 その日の江田内は、雨雲が垂れ込め古鷹颪が肌を刺し、冒険の鹿島発ちにふさわしい天候であった。
(続く)

2010年05月10日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その27

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (11)

   その3 海の恐怖 (承前)

 昭和15年4月の中旬頃であったと思う。 私は第十四航空隊の艦爆隊の飛行隊長として、南支方面に展開して陸軍の作戦に協力していたが、九六式艦爆と九九式艦爆の機種変更があったので、作戦を中断して、海南島の南岸三亜の飛行場で機種移行のための訓練を始めた。

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( 原著より )

(注) : 三亜の航空基地及び海岸については、先に連載しました森栄氏 (海兵63期) の回想録 『聖市夜話』 の第26話でも出てきますので、ご参照下さい。


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( 原著より )

 楊貴妃が不老長寿の果物を求めさせたという三亜地方は、気候が極めて悪い。 日中は40度に近い炎熱でスコールは少なく、湿度は高く、うだるような暑さだ。

 午前午後ぶっ通しで射撃、爆撃、空戦、航法、通信の訓練をやって、灼熱の太陽が西に沈む頃、全員が腹をペコペコにして近くの海岸の隊合に帰り、一椀の麦飯と鰹の缶詰と味噌汁と、厚さ五粍もある原地産の菜っ葉の煮つけという貧しい夕食をとって、藍くさい紫色の蚊帳の中で褌一つで眠るのが毎日の日課であったが、夕食に缶詰と味噌汁というのは全く味気ないもので、憤懣が体内に鬱積していくようであった。

 こんな日が一週間ばかり続いて、隊員達の顔に疲労の色がありありと見え始め、これ以上訓練を続けたら病人が出るか、航空事故を起こすだろうと思ったので、訓練を午前中で止めて、午後は全員が油の乗った魚を釣って体力の補充をすることにしたのであった。

 三亜飛行場の南東に接して三亜港がある。 三亜港の南方の海岸は、花崗岩の風化した紅白の砂が椰子の林をバックにして楕円形の弧を画いている。 もともと三亜港はカルデラ現象 (地殻の陥没) によってできた湾だから、水深は深く、海底は変化に富み、魚貝類の種類が極めて多い。

 波打ち際の紅白の砂の中には蛤の子 (殻の長径が2、3糎くらい) が砂の数と同じくらい混じっていて、両手で砂をすくうと一すくいで2、30個は獲れた。 これが釣の餌になる。 釣場は飛行場の東端から5、6百米三亜港寄りに、浜辺から沖合に突出した50米ばかりの防砂堤であった。

 私達は午前の訓練を終えると、急いで海岸に出て釣を始めた。 蛤の子を石で砕いてその内を針につけて糸を降ろすと、20糎ばかりのキスが次々にかかる。 餌をつける者、釣ったキスをはずす者、糸を垂れる者が一組になって、たちまちのうちに石油缶に数杯のキスが釣れた。

 釣の面白さはともかくとして、食料を得る方法としては大成功であった。 釣ったキスを浜辺で焼いて、椰子の葉影で酒盛りをして体力を回復したのであった。

 こんな日が一週間ばかり続いた頃、無気味な事件が起こった。

 焼いたキスを毎晩食べていると、うまくなくなってしまう。 誰が言い出したか、波打ち際に蛤の子がいるのだから沖の方には蛤の親がいる筈だ。 また、貝を好物とする蛸もいるに違いない。 それを獲ろうではないかということになった。

 早速、水泳と潜りに自信のある連中が2、30米沖に出て、大きい蛤と蛸を求めて活動を始めた。 しかし、蛤は大きいのが獲れたが蛸は獲れなかった。 隊員達は段々と遠く深い所へ進出するようになった。

 そして、二、三日経った或る日の夕暮れ時、銛を持って蛸を捜していた隊員が、水深4、5米の海底で牛のように大きい海亀と真正面に向かい合って、にらめっこ数秒の後、放々の態で逃げ帰った。

 それと殆ど同じ時刻に海面上では、2米以上もある海蛇が二、三匹、銀鱗を輝やかせながら釣り場を目がけて襲って来た。 私は防砂堤の先端に立ってそれを見たが、尻尾の後に、胴よりもっと長い夜光虫の燐光を光らせ流星のように物凄いスピードで走り回った。

 私は急いで全員に退避を命じたが、海に潜っている連中には通じない。 キス釣り連中は釣ったキスを防砂堤の回りにバラ撒いて海蛇に提供し、浜辺に逃げ帰って波打ち際を棒で叩いた。

 ところが、海蛇は増々興奮し、怒り狂い、超スピードで弧状の浜辺近くを駈け回った。 燐光を放って海面を飛ぶように走る姿はまさに壮観であったが、隊員が二、三人海蛇の下に潜っているのだ。

 私は軍医中尉に命じて、大至急血清を準備させて万一に備えた。 その血清は、数日前に飛行場の草刈りをしていたクーニャンが草と間違えて青蛇 (猛毒で百歩蛇の異名がある。 噛まれてから百歩歩く間に死ぬという意) を握って噛みつかれ、その血清でやっと命を取り止めた殊勲の血清であった。

 その他に、私はどうしたらいいのか解らなかった。 海亀に大きい目玉でぎょろりと睨まれると人間は縮み上がってしまうが、彼は襲いかかっては来ない。 海蛇は美しい銀鱗の曲線を見せながら、猛毒の牙で誰彼の別なく襲いかかって来る。 人間に対して恨みを持っているらしい。

 私達は潜っている者が水面に頭を出す毎に、声を合わせて、「帰れっ! 急げっ!」 と怒鳴った。 20分間は長かった。 やっと全員が海岸に帰って来た時、抱きかかえるようにして逃げた。 海蛇が陸上にまで追いかけて釆そうであった。

 南海の浜辺は、まるで天国のように、珊瑚礁に薄紫の透明な水が柔らかく清らかに打ち寄せてはいるが、地獄にしか住んでいない毒蛇がそこに住んでいることを忘れてはいけない所であった。
(続く)

2010年05月09日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その26

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (10)

   その3 海の恐怖 (承前)

 @ 常岡は、単にデモをしている鱶と、腹を空かして人間を襲撃するために偵察をしている鱶との区別ができなかったように思われる。 この区別ができるということは極めて大切であるが、その決め方は、鱶が泳いでいるスピード、回頭する角度、口を開閉したりするゼスチャー等によって感知する以外に具体的な方法はない。

 腕白小僧の時代に動物をいじめた経験があれば、怒っている動物とそうでない動物の区別はどことなく解るものだが、解らない人は、放し飼いの猛犬に石を投げてその犬の行動や表情を観察してみるのも一つの方法であろう。


 A 鱶は集団で襲って来るものではない。 一匹狼的であるが数頭が連続して襲って来るのは、人間が傷ついて血を流し、附近の別の鱶を呼ぶからだ。 だから、傷ついて出血したら、急いで止血してから、その場から百米程度移動すればよい。 僅かでも血を流しながら動いたら絶対に助かることはないであろう。 常岡は機体から放り出された時、負傷していたのかも知れない。


 B ナイフは絶対に必要である。 更に、金属性の長い棒状のものがあれば、それは最もいい武器となる。 その棒は必ず真中を持って敵を突くこと (棒術)。 端を持っては駄目である。


 C 鱶に限らず水中動物の視力は、人間が水に潜って飛行眼鏡をかけている状態の視力よりも劣っている。 また、飛行眼鏡 (水中眼鏡) をかけないで水中を凝視すれば、人間の眼は四、五分で見えなくなる。 水中眼鏡は絶対に必要である。


 D 常岡は右の靴もはいていなかったが、水中では靴を脱がないこと。 鱶が足のつもりで靴を喰えばまずいと思うであろうし、体温の保持にもなるからだ。 泳ぎの下手な人は脱ぎたがる。


 E 泳がないこと。 浮かんでいるだけで、できるだけ木切れのようにじっとしていること。 その理由は疲労防止と鱶に見つからないためだ。


 F 人間の足は、水中では膝から上を曲げる力と曲げた足を伸ばす時のくるぶしの打撃力が最高の攻撃力であって、小さい鱶の尾びれよりも強いから極力利用すること。 但し、この力で人間の腹を蹴ったら一撃で殺すかも知れないから、海水浴場などでは注意すること。


 G その他

  (a) 優しい魚が掌や脇の下に遊びに来ることがあるが、驚かないこと。


  (b) 排便をしたら、必ずその場から少なくとも百米くらい離れること。


  (c) 海面を叩くことは、極めて有効な恐怖を相手に与えることがあるが、敵を呼ぶこともある。


  (d) 赤、黄系統の鮮明な色は鱶に恐怖心を与えるから利用する価値があるが、悪質な染料で海水に溶けるものは使わないこと。


  (e) 浮き袋などで浮力の過大なものは肩や足が空中に出て、風に吹かれて体温を失う。 また、小波によって被服を透して海水が皮膚を洗うと早く体温を失い、水温の低いところでは数分で凍死するから、被服は重ね着をして頭だけを水面上に出して、そっとしていること。 頭には防水の帽子をかぶること。


  (f) 救命具の中に寝袋があれば最良であるが、寝袋には決して余分の空気を入れないこと。 間違って少量の水が入っても支障はない。


 以上であるが、これを要約すると、鱶との闘争では無暗に恐れることなく鱶に先んじてその様を発見し、正面切って対決する気力が大切であり、その場合ナイフと眼鏡は必携品である。 そして、鱶に恐怖心を与えるために徹底した攻撃をすることを忘れてはいけないと思う。

 海は空中や海上から見れば美しい。 しかし、春雨に煙るリヤス式海岸の奇巌怪石や、晴れ渡ったコバルトの空が映える清らかな水も、地獄の化物の化粧に過ぎないものであることを知って頂きたいと思う。
(続く)

2010年05月08日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その25

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (9)

   その3 海の恐怖 (承前)

 ところで、常岡大尉を襲った奴は鱶である。 水中動物の内で獰猛な奴の代表は鮫族であって、その中の大きい奴を鱶と言うが、人間を喰ったことのある鱶は、人体で一番うまい所は内臓であって足ではないことを知っている筈だ。

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( 原著より )

 にも拘らず、常岡大尉を襲った奴は、彼の足を喰い切ったが腹部には攻撃を加えていない。 更に、彼の肉体は10日間漂流しながら、腹部は最後まで喰い荒されていない。

 彼は何故足だけを喰い切られたのであろうか? 豊後水道の東寄りの海中で、彼と鱶との間にどんな闘争が行なわれたのか? それを調べる必要がある。

 先ず、彼を襲った鱶は腹を空かしていたか、いなかったか? そ奴は3米以上の大きい奴で、人間の体力ではどうにも抵抗できないような巨大な顎と牙を持っていたか、或いは、2米以内の奴で、短時間なれば互角の格闘のできる程度の奴であったか? 人間を食ったことのある奴であったか?

 一方、常岡は機械体操の名手であり、サッカーの選手で剣道の達人でもあった。 身長170糎、体重65瓩くらいの闘志満々の男であったが、水泳については海軍兵学校の遠泳の後で2日間入院したことがあるし、2時間余の水泳訓練の後で食慾不振を訴えるような男であって、生来の海水嫌いであった。

 豊後水道に落下傘降下して海上に浮かんだ時、彼はナイフを持っていなかった (落下傘の紐を歯で噛み切った痕跡があった)。 金属性の航法計算盤やデバイダーも持っていなかったらしい (航法訓練はまだ始めていない)。 飛行眼鏡と飛行靴を佩いていた (飛行学生以来の躾でもあった)。

 以上の各項の条件を組み合わせて、彼と鱶との闘争の経過をできるだけ具体的に割り出してみよう。

 その第一は、3米以上もある大きい鱶で、人間を喰ったことのない飢えた奴が常岡を襲い、彼の左足を喰い切って試食をした。 その結果、あまりうまくなかったので、彼の肉体をそれ以上喰べないで放り出した。 常岡は止血しようとして落下傘の紐で下半身を縛ったが、間もなく出血多量のため死亡して水中深く沈んだ。 そこは暗黒の世界であったので、漂流しながら魚に喰われることなく10日目に黒潮に乗って川之石に流れ着いた。

 その第二は、2米以内の小さい満腹の鱶が常岡にデモをしかけた。 デモのやり方は、人間の浮かんでいる海面を二、三度回遊して十分に偵察し、最後に人間の体に触れるように近づいてから悠々と泳ぎ去るのが普通であるが、その時どちらかがチョッカイを出して格闘になった。

 例えば、常岡が鱶のデモを攻撃と間違えて、鱶が彼の傍に寄って来た時、その胴に抱きついて眼球に噛みついたかも知れない。怒った鱶は、常岡を振り切って彼の足を噛み切った。

 第三は、鱶は本気ではなしに常岡の足をほんの少しかじってみた。 うまかったら後で食べようと思ってやったいたずらであったかも知れないが、それが本格的闘争のきっかけとなったのかも知れない。

 その第四は、2米以内の小さな飢えた鱶が獲物を求めて泳いでいた。 たまたま大きい落下傘と長い紐を発見して偵察してみると、落下傘の近くで常岡が浮身がうまくできないのでもがいていた。 その鱶は人間を見たことがなかったので、蛸に似ていると思ったかも知れない。 そして、よく動く足を先ず攻撃した。 そのやり方は、一旦深く潜り、戦闘機が宙返り反転で敵機の腹の下から攻撃するように、彼の足を狙って接近して来た。

 彼は、飛行眼鏡をかけて水中を見張っていたから鱶より水中視力がよくきいたので、手足を曲げ、全身を団子のようにして鱶の攻撃を迎え撃ち、左足で (彼はサッカーの Left Wing をやっていたから左ぎきであった) 鱶の顎を蹴った。 怒った鱶は繰り返して攻撃して来た。 そして、激闘数時間の末に常岡は出血のため疲労して足を喰い切られた。


 以上のような推定はフィクションではあるが、これが事実と相違しているとしても、このような闘争はあり得ることだから、これに対して一応整理して教訓を併記することにしよう。
(続く)

2010年05月07日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その24

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (8)

   その3 海の恐怖

 昭和14年3月中旬、四国の高知県と愛媛県の県境に近い宿毛市の南西約15浬附近の海上で航空事故があった。 事故を起こしたのは私の同期生の常岡清大尉である。 彼は、巡洋艦の艦載機 (九五式水上偵察機) の偵察員で、呉水上航空隊を基地として艦隊訓練中であった。

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( 原著より )

 その日は、前日に春一番が吹き荒れて、豊後水道の気象はまだ回復していなかったが、宿毛湾外の沖の島を起点にした50浬正三角形の推測航法を強行したのであった。

 0800、彼は呉を出発した。 豊後水道に入ると、雲高約3百米、視界約3千米であったが、気流が極めて悪く、特に八幡浜市の西方15浬附近では、航空機が盆踊りをやっているようで、パイロットは航空機の姿勢を保つのが精一杯で、後席の偵察員と交話をする余裕はなかった。

 宇和島沖を過ぎて宿毛湾外にさしかかると、やっと悪気流が収まったので、偵察席を振り返ってみると、偵察員常岡大尉が消えてしまって空席になっていたのである。

 パイロットは驚いて、最も気流の悪かった宇和島市の沖合まで引き返しながら、降下中の落下傘は見えないか、海面に異常はないかと懸命に捜したが、発見することができなかったので、急いで呉に帰り、上司に報告し、艦隊は直ちに空水協同で捜索を開始したが、その後一週間の努力も空しく、常岡大尉を発見することはできなかった。

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( 原著より )

 事故はただこれだけのことである。 そして、事故の原因は、常岡大尉の単純な不注意によるベルトの締め忘れであると結論され、総ては過去の彼方に忘れ去られた。

 私が今改めてこの事故を紹介するのは、事故そのものではなく以下述べる豊後水道という海の実態を知ってもらうためである。

 常岡大尉の捜索は一週間後に打ち切られたが、それから二、三日経って、事故の日から通算して10日目に、彼の遺体は佐田岬の付け根の南方5浬にある漁港、八幡浜湾の北岸、川之石村に打ち上げられた。

 その遺体には、左の大腿骨と腰骨との関節から下、つまり左足が付け根から無くなっていた。 そして、腰骨の一部に鱶の鋭利な歯の跡が歴然と残っていたこと、落下傘の紐が彼の腹部と右足に数十回も巻きついていたこと、その紐の尖端は歯で食い切ったようにバラバラになっていたことなどが確認されたのであった。

 私はその当時、航空母艦 「龍驤」 乗組中であったので、彼の葬儀に参列して以上のことを知った。 これについて、私の見解を述べてみよう。

 われわれ日本人は、永い歴史の中でいろんな海の恩恵を受けて生きてきた。 そのために、海は幸多い楽園だと考え過ぎるようになった。 ところが、幸が多いことと平和な楽園であるということは別問題であって、海には獰猛な動物もいれば弱くて優しい動物もいる。

 そして、優しい動物 (海豚・鯨など) のことはよく知られているが、獰猛な奴と生の人間との出合いについては記録がないのでよく知られていない。

 瀬戸内の島で、打ち寄せる怒濤と冷たい潮風に曝されて、ドルメンのような大石に挟まれて死んでいる流人の姿を歌った万葉の歌はあるが、流人の内の誰かが島を逃れようとして鱶に食われた記録はない。

 また、3千数百年前に、房総の漁夫が銛一本で鱶と戦った例はその出土品から明らかであるが、鱶に食われた記録は、出雲風土記のわに鮫 (鱶のこと) に裸にされた兎の説話くらいのものだ。

 余談になるが、現代はテレビの水中映面で、人間がアクアラングを付け、水中銃で武装して鱶に戯れる姿を見せるようになり、海は平和な楽園だという観念を助長している。

 それは、テレビで見る熊が可愛いからと言って、首輪を付けて立木に紐で結び付けられた熊に子供が近づいて一撃で殺された北海道の例を海中でも起こす可能性を生む。

 それはさて措いても、海は不時着する大型のジェット機にとって、陸上よりは爆発の危険性が少ないが、と言って、海も決して安全ではないことを知るべきだとだけ言っておこう。
(続く)

2010年05月06日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その23

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (7)

   その2 雨の恐怖 (承前)

 約30分経っても機影を発見できず、残る燃料が30分を切ったので、富高基地に向かった。 富高に着陸する時は、シャワーを流すような豪雨であった。 着陸して格納庫の前へ急ぎ飛行機を降りると、部下搭乗員が走り寄って来て、

 「無事でしたかっ?」

 と言う。

 「二番機はどうしたっ。」

 思わず怒鳴って周囲を見回すと、どしゃ降りの雨の中に9組の搭乗員の顔が揃っているではないか。 ホッとして伊東一飛曹と顔を見合わせていると、四番機の佐藤中尉が沈痛な顔で、

 「艦攻が1機海面に激突しました。 その他に、2機がまだ帰って来ません。」

 と言った。 その瞬間、私は唸りを生じて私と行き違った艦攻2機が目前に迫って来た。 伊東一飛曹の顔が真青になって、私を見つめているのがぼんやりと見えた。

 暫くしてわれに還り、急いで艦攻隊の指揮所へ走った。 すると、艦攻隊の西岡一夫大尉 (58期) が走り寄って来て、

 「高橋君、無事だったか、よかった。」

 と言う。

 「申し訳ありません。」

 と深々と頭を下げると、

 「いや、海面に足を取られたんだ。 搭乗員は生きているかも知れん。 今2機が捜索中だ。 間もなく帰って来るから状況が解るだろう。 あまり気にするな。」

 と言われた。 狐につままれたような気分であったが、せめて、私と交叉した2機が無事であったのは嬉しかった。

 天幕の指揮所内は篠つく雨風でしぶきが吹き込み、乗員達の目に憂いの色が深かった。 1機、乗員3名は遂に帰らなかった。

 後日事故調査が行なわれた時、西岡大尉は、劈頭に、事故機は技倆未熟により高度を下げ過ぎて海面に接触したものである、と宣言し、事故原因については一切追求させなかったが、改めて事故の経過を紹介し、事故の原因を考え、3人の殉職者にお詫びをしたいと思う。

 経過の概要は次のとおりだ。

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( 原著より   事故の状況解説図 )

 @ 事故機は艦攻の七番機であった。

 A 両編隊が向き合った時、艦攻隊は西岡大尉を右先頭にした9機の一直線の横隊であった。私の方は9機の単縦陣であったが、隅数番号機が左に奇数番号機が右に僅かに偏位していた。

 B 私は、艦攻が海面に激突したのを視認していない。従って、事故が発生したのは私が機体を引き起こして雲の中に入った後である。

 C 私の二番機の証言によると、二番機も私に続いて高度を上げ、艦攻の六番機の水平尾翼の裏面と1米以内に接近したが雲には入らなかった。 そして、雲に入った艦攻は、五、六番機2機であると言った。

 D 艦攻隊の八番機の証言では、五、六、七番機を同時に見失ったと言った。

 E 艦攻隊指揮官西岡大尉は、私が艦攻隊を発見した時とほぼ同じ頃艦爆隊を発見し、高度を30米から10米以下に下げると同時に90度右に変針した。

 F 艦爆隊の三番機以下の7機の内の何れかは、事故機がもし無事であったと仮定すれば、これと交角約45度で交叉した筈である。 にも拘らず、彼らは艦攻2機 (恐らく八、九番機) と交叉したことは認めたが艦攻3機 (七、八、九番機) と交叉したことは認めていない。


 要約すると、事故機七番機は、私と五、六番機が交叉した直後海面に激突したものと考えられる。 その直接原因は、私を避けようとして高度を下げたためという公算が最も強い。 間接原因は、両編隊の接近であり、これも私の油断による機影発見の遅れと、私が高度を下げた誤判断によるものである。

 更に誘因に遡ると、雨ごもり、酒ごもりをして一週間も飲み続け、心身ともに疲労し、機影の発見が遅れたことであった。 泉下の3人にお詫びして済むことではない。
(続く)

2010年05月05日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その22

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (6)

   その2 雨の恐怖 (承前)

 私達9機は、縦列に並んで富高基地の北々東30浬の海上まで帰り着いた。 飛行高度80米、雲高は百米、雨は降っているが視界は千米くらい。 間もなく富高の海岸に砕ける白い波頭と青い松の防潮林が見えるのだ。

 その時だ。 突然、前方7、8百米に、横陣に展開して雷撃運動をしている九七式艦攻9機が真正面に私達に向かって来るのに出会ったのだ。

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( 原著より )

 私は咄嗟に計算した。 右に急反転をしても、全機が反転を終えるまでには12、3秒かかる。 一万、両編隊が行き合うまでには8秒しかかからない。 急反転しても間に合わない。 上昇すれば全機雲の中で支離滅裂になる。 次の瞬間に高度を零米に下げ、そのまま直進した。 この判断と処置が誤りであった。

 艦攻隊は雷撃を本務としているから、海面上を零米で飛ぶ訓練を日常茶飯事のようにやっている。 彼らが私の編隊を発見すれば、次の瞬間に高度を零米に下げようとするのは理の当然だ。 だから、私は雲の下際まで僅か10米か20米でも高度を上げねばならなかったのだ。 それを読まないで、高度を零にしたのは大変なミスであった。

 また、パイロットは誰でも知っているように、高度があまり違わない二つの飛行機が真正面に向かい合うと、2、3百米に接近しても、どちらが高度が高いか低いかを判別することは殆ど不可能に近い。 これが私のミスに上乗りしたのである。

 艦攻隊を発見してから約5秒後に、両編隊は高度零米、距離約2百米で真正面に向かい合った。 次の瞬間、私は操縦桿を一杯引いた。 ところが、向かい合った艦攻2機も殆ど同時に操縦桿を引いたのだ。 私の操作が0.1秒ばかり早かったのであろう。 唸りを生じて私と艦攻2機が交叉し、雲の中に入ってしまった。

 雲の中で、私は二番機が空中衝突したに違いないと思った。 早くそれを確かめねばならないが、うっかり雲の下に出るわけにはいかない。 雲下では、両編隊が大混乱を起こしているに違いないからだ。 急いで北に変針し、約3分後に雲下に出た。

 ところが、そこには飛行機は一機も飛んでいないのだ。 3分前までこの附近にいた18機の艦攻と艦爆は、どこへ消えたのだろうか?

 私と2、3千米離れた狭い視界の中で、海面に拡がる油と浮遊物を捜しているのではあるまいか。 それは次の事故を起こす恐れがある。 私は雲の中で北に飛び過ぎたかも知れないと思ったので、南に反転して部下達を捜した。 しかし、視界は狭く杳として一機の機影も見えなかった。

 全身は震え、背中に冷たい汗が流れ、涙が頬を伝わった。 瀬戸内海の島島を苦心惨憺、命を賭けて突破しながら、今になって事故を起こして部下を失い、独り豊後水道を南に飛んでいる。 偵察員の伊東一飛曹に海面をしっかり見るように命ずると、彼の答えも涙につまって聞きとれなかった。

 この悲哀と悔恨をどこへ持っていけばいいのであろうか? 雨! 雲! 見えない水平線! これが敵なのだ。 今この敵に圧倒されて煮え湯を飲まされたのだ。
(続く)

2010年05月03日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その21

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (5)

   その2 雨の恐怖 (承前)

 隊形は、前続機の後流に入らないように僅かに梯形に変形した緊縮の単縦陣、巡航速度135ノット、基準飛行高度30米、指揮官に続行ということにした。 コース上の島の高さや形は、予め詳しく説明してあった。

 午前9時頃、雨脚が息をつく合間を縫って、北西に向かって伊丹飛行場を離陸した。 雲高は7、80米、視界は5百米くらいであった。 伊丹市上空を通過して、武庫川の土手の松並木を直下に見ながら大阪湾に出た。 先ずは一安心! 山尾家の老夫婦よ、ひさ子さんよ、さらば!

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( 原著より )

 9機の編隊は武庫川の川口を右折し、西宮、芦屋、灘の街の風呂屋の煙突を右に見ながら、和田岬に突っかけた。 続いて、舞子の浜まで海岸の老松を煙雨の中に見ながら明石海峡を抜け、そこから推測航法に移り小豆島の大角崎に向かった。 高度50米で海面が見えていた。 視界は約5百米であった。

 大角崎の先端の岩盤上の老松が、目前に見えるのを今か今かと待った。 鉛色の海、垂れ込めた薄墨色の雲の他は、この天地に何物も見えない。 5百米周辺の彼方は暗黒の世界だ。 その暗黒の中の、コース前面北寄りには寒霞渓のある817米の城山がある。 更に、城山と大角崎の中間には435米の墓石山がある。 大角崎の南端をピタリと見つけ損ねたらそれに衝突する。

 予定の時刻が来ても、大角崎の先端は見えそうにない。 不安が心臓を締めつけた。 それでも伊丹には帰りたくない。 不安と雑念が葛藤しながら、予定より2分遅れて岩盤上の松の大木を発見し、西に回り込んで白浜崎を経て備讃海峡に入り、四国香川県の三崎半島の尖端に向かった。

 このコース上には七つの小さい島がある。 これをアクロバットで避けて通らなければならないのだ。 255度に定針して雨の彼方に島が出現するのを待った。 島に行き当ったら、島の岸を垂直旋回で避けるだけでは推測航法が乱れてしまうから、避けた島を見捨てないで、その島の裏側に回り込んでから旧針路に戻らねばならない。

 また、島影が見えたら、思い切って極量の操舵をして島を避けるのだ。 後続機のためを思って中途半端な操舵をしたりすると、反って編隊全機が危険になる。 全力で垂直旋回をやっても後続機が私を見失う心配はない。 そのために、日頃から 「追従訓練」 をやっているのだ。 ここまで来れば、私が島に衝突すれば部下達も衝突するということ以外に心配はない。

 第一の島は男木島、次は直島、大槌島、与島、牛島、高見島、そして、栗島を越えて三崎半島を回り、燧灘に入ることができた。 燧灘に入れば、コース上には島はない。 約15分の直線コースを飛んで四国高縄半島の北岸に突き当り、北に回り込んで来島海峡を抜け、伊予灘に出た。 伊予灘にも危険な島はない。

 20分ばかりで佐田岬の先端に辿り着き、豊後水道の真申に吃立する水の子灯台に向かって飛んだ。 この灯台は、強い閃光が雲の下際を染めていたので簡単に発見することができた。 また、灯台のお化粧が白い塔に黒い鉢巻をしていたのも発見を易くしてくれた。

 私達9機の編隊は、こうして伊丹を出発してから3時間、島を回避するために要した時間が約45分、目的地富高への最終コースに入ったのであった。

 ここで高度を70米に上げることができた。 視界も千米くらいになった。 このコース上にも島はなく、富高の海岸は白砂青松の砂丘で、それが宮崎まで続いている。 もう危険はない。 苦闘3時間をよくぞ通り抜けたものであった。

 このホッとした安堵感が、僅か数分後に最悪の大事故に発展しようとは、神ならぬ身の知る由もないのであった。
(続く)

2010年05月02日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その20

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (4)

   その2 雨の恐怖 (承前)

 昭和14年10月、航空母艦 「龍驤」 の艦爆分隊長であった私は、年度末演習のため約一週間、九六式艦爆9機を率いて、大阪府伊丹飛行場に基地を設けた。

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( 1947年撮影の米軍写真より  左上部の旧滑走路跡一帯が昔の飛行場地区 )

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( 現在の伊丹空港、当時を偲ばせるものは全くありません   Google Earth より )

 当時の伊丹飛行場は、縦6百、横3百米の雑草地帯と小さい格納庫が一、二棟あるばかりであったので、搭乗員と整備員の大部分は、伊丹市に民宿した。 私は一人で伊丹市の造り酒屋の離れ座敷に寝泊りすることになった。

 その家は、山尾という灘の銘酒の醸造元で、家族は老夫婦と、私と同年の26歳の病身の娘 (ひさ子さんと言った) と女中3人、下男7、8人 (酒の仕込みの助手) の豪華な暮しであった。

 この老主人は話し好きの好々爺で、私がその日の演習を終えて帰って来ると、山海の珍味と樽酒を準備して歓待してくれた。 杉の香りの高い生酒を冷で飲みながら、北支、満州に於ける日本の将来の発展を語り、

      『僕も往くから君も往け
           狭い日本に住み飽いた
               支那には四億の民が待つ
                   ・・・・・・・・・・・』

 と唄ったり、老主人は三国志を語り、白楽天の詩を吟じ、病身の娘も、

      『私十六満州娘
           春よ三月雪どけに ・・・・』

 と唄ったりして、毎晩楽しい夕餉であった。 そして、一週間余の演習も終りに近づいた。 その頃、秋の長雨が西日本一帯に降り始めたのである。

 伊丹基地は雨に煙り、飛ぶこともスポーツをすることもできず、演習は終ったのであった。 演習が終れば、航空母艦 「龍驤」 は、2、3日内に宮崎県細島に入港し、私達は細島の近くの富高飛行場 (現日向市) に帰らねばならなかった。 しかしこの雨では帰れない。

 仕方なく、酒を買ってきて、格納庫の中に毛布を敷き、車座になって山賊の態で酒を飲んだ。 酔っ払った後は、民宿するもよし外泊するもよし、自由な 「雨ごもり」 をせざるを得なかった。

 2、3日経っても、雨は止みそうになく、山尾家の老夫婦と娘は、私を退屈させないように気を配ってくれた。 毎朝別れの挨拶をして山尾家の玄関を出て、夕方になると山尾家に帰り、毎晩御馳走になった。

 4、5日経つと、私は老夫婦の歓待が重荷になり始めた。 そして、6日目には山尾家に帰らずに、宝塚少女歌劇のすぐ近くの料亭に泊った。 小夜福子が人気の絶頂にある頃だったと思う。

 昼間からしたたかに酒を飲んで、雨に煙る宝塚の街を歩いた。 駅には、17、8歳の宝塚の生徒が、矢絣の着物に緑の袴を胸高に締めて蛇の目の傘をさして家路を急いでいた。 それは天女のように美しかったので、料亭に戻って、天女より美しい芸者を呼んでまた飲んだ。

 翌朝床の中で、今日は是が非でも伊丹を発って富高に帰ろうと思って飛行場へタクシーを飛ばした。 相変らず雨が蕭条と降って、飛行場は煙雨に閉ざされていたが、その雨の中を、女中に付き添われて山尾家の娘が見送りに来ていた。 彼女を見ると、是が非でも富高に帰らねばならないと思った。

 この時の私達搭乗員は、一年間の艦隊訓練 (月々火水木金々) で鍛えに鍛え、雲高が50米もあれば、富高までは言うに及ばず、海の上ならどこへでも編隊で飛んで行ける精兵なのだ。

 瀬戸内の気象は解らなかったが、天気図から判断して海面までべったりの雨ではあるまい。 彼らも帰りたがっている。 私は出発を下令したのであった。
(続く)

2010年05月01日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その19

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (3)

   その2 雨の恐怖

 雨に対する恐怖は、現代のパイロットには恐らく理解してもらえないと思う。 その理由は極めて簡単である。 私達の時代には、超短波による飛行援助がなく、機位の確認は地文と推測によるしかない。

 一方、気象は各地点で観測されてはいたが、それを飛行機に通報する手段が短波略語で連絡するしかなかったので、数分乃至数十分の遅れがあって刻々の実態が飛行機には解らない。

 だから、当時の飛行はつんぼで近視の人が全力疾走しているようなもので、雨を避けようとしても、間違って飛び込んだり、飛び込まざるを得なくなったりしたのであった。

 そして、そこに山があったら事故になるのであるが、山があるかないか、自分自身の位置が正確でないのだから解る筈がない。 だから、雨の中で遅疑逡巡したり、猪突猛進したりしたわけで、その間の決断、逃避ともに不安と恐怖が付き纏ったのである。

 これが当時の飛行と雨との関係であった。 パイロットにとって、これ程因縁の深かったものはこの世にはなかったというのが実感である。

 風流人は、春雨、五月雨、梅雨、長雨、時雨、などと季節の題材にするし、お百姓さんは旱天に慈雨などと言う。 万葉の歌にも (巻の四、大伴女郎 (おおとものいらつめ) )、

 『雨つつみ (雨障) 常する君は ひさかたの きのふの雨に 懲りにけるかも』
 (雨が降るとぬれるのをきらっていつも閉じこもっているあなたは、昨夜の雨でさぞかし懲りたことでしょうね)

 というのがあるが、歌のバックグラウンドがよく解らないけれども、万葉人が雨に降られて雨つつみ (雨忌み、雨ごもり) をしたことは事実のようだ。

 私達の時代のパイロットも、『雨は降るし、子供は寝たし、何かすることないかいな』 などという都々逸をよく唄ったり、徒然のままに待合の小部屋で芸者を呼んで酒を飲みながら雨ごもりをしたものだ。

 余談になるが、雨に降られて天地自然から隔離され、狭い隊内の個室 (当時は雨天体操場などなかったし、飛行機格納庫も不十分だった) に閉じ込められ、スポーツをする場所もなく、読書、音楽、トランプなどにも飽きて青空を待望している姿は、丁度 「待合」 という名の、社会から隔離された四帖半の小部屋で自由を待望している芸者の身の上とよく似ていたから、彼女達と一緒に雨ごもりをしたのであった。 そして、そこに酒があったから酒ごもりになったのであった。

 余談はともかくとして、雨は昔のパイロットにとって全く嫌なものであった。
(続く)

2010年04月25日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その18

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (2)

   その1 霧の恐怖 (承前)

 昭和12年11月5日、日本陸軍三個師団が杭州湾に敵前上陸をすることになり、私は6機を率いて、杭州市金山衛城の城壁の爆破に行った。

(注) : この金山衛爆撃については、第2章 「日中戦争時代」 の 第2話 「猪突猛進」 の中で出てきます。


 その日は、上海市を流れる黄浦江上に朝霧が深かった。 午前3時、公大飛行場を離陸すると、秋風嶺の霧の中で飛んだ時と同じように、オルジス信号灯で二番機を誘導して編隊を組み、薄い霧の中を二時間飛んで金山衛に着き、その城壁を爆破したのであった。 この時の二番機は、野田と野亀であった。

 帰路についた時、まだ霧は晴れなかったので、杭州市から北上して黄浦江の流れを発見しょうとしたが、杭州北方に山があって危険であったので超低空で上海に向かって飛んだ。 5機が単縦陣になって私を追尾して来たわけだ。

 この時、なかなか公大飛行場を発見することができず、2時間半かかって、やっと飛行場上空に辿り着いた。 燃料は数分を余すだけであった。 編隊を解いて場周路に入った時、私は再び飛行場を見失い、十数分後に揚子江上の洲に不時着した。

 二番機の野田・野亀は場周路を飛行中に燃料が尽きたらしく、飛行場から僅か3浬、黄浦江を挟んで対岸の浦東の敵陣地に突入して戦死した。

 私は、その翌日揚子江の洲から公大に帰り、彼らの遺体を収容するため浦東へ行ったが、二人は、地雷が無数に埋没してある原野の大きい柳の木の根本に墜落していた。

 この原因は、明らかに私の誘導のミスであった。 私がもう少し高く飛んでいたら・・・・ 黄浦江の水面を徹底して捜してその上空を飛んでいたら・・・・ 或いは、もっと早く揚子江の河岸に彼らを誘導していたら・・・・ 若い二人の生命を失うことはなかったであろう。

 秋風嶺で私を導いてくれた彼らの恩に報ずることができず、彼らは死んだのであった。 霧は恐ろしい。


 40年前 (著者執筆当時) のことであるが、今でも二人の夢を見る。 白壁のような霧をバックにして、野亀が懸命になって赤旗を振っている姿であったり、野田が眦を決して私の飛行機を追尾して来る姿だ。 二人が生きていればこの世は楽しかろうに・・・・。

 霧は恐ろしいものであった。
(続く)

2010年04月24日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その17

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 気象による事故 (1)

   その1 霧の恐怖

 昭和12年7月7日、支那事変が勃発し、7月11日、佐伯航空隊の航空兵力は、戦時編成に切り換えられ、戦闘機18機、爆撃機18機、攻撃機9機が十二航空隊、残りが留守部隊に編成された。

 十二航空隊は、7月21日午前8時、京城の錦浦飛行場経由で山東半島周水子に向かって佐伯を発った。 私はこの時、総飛行時数285時間の雛鳥パイロットであった。

 佐伯から京城へのコース上には、釜山、大邱を過ぎると、その北西に小白山脈が横たわり、これを越えると京城まで台地状の山塊がある。 小白山脈の西は黄海から太平洋、東は大白山脈だ。

 この地勢は、夏季の南東風が吹くと湿気を含んだ太平洋の海風が小白山脈に当って霧が発生し、更に、大白山脈に突き当って上昇して積乱雲を生み、それが小白山脈を上から覆う。 気流も悪い。

 私達海軍のパイロット達は、この山塊のことを 「越すに越されぬ秋風嶺」 と言って敬遠していたのであった。 そして、敬遠に価するような航空事故も度々あったのである。

 その一つに、昭和10年7月、和田中佐の率いる艦爆隊20数機が、或る晴れた朝この山塊の上空を南下中、一掃きの霧が前方に見えてから数分後に全機霧の中に閉じ込められて支離滅裂となり、対島、済州島、佐世保の海岸などにバラバラになって不時着したことがある。

 私達の指揮官の江草大尉は、出発の時この例を説明し、平時の訓練であればどこへ不時着しても止むを得んが、戦場に行く兵力が、天候によって戦場に到着できずに貴重な機材を消耗したら末代までの恥だから、無事に秋風嶺を突破しなければならないと訓示したのであった。

 佐伯を出発してから一時間ばかり飛んで、釜山港を右下に見た。 陸軍の輸送船らしい船団が港に溢れていた。 大邸を越える頃から高度1千7百米に上昇し、いよいよ秋風嶺にさしかかった。

 この山塊の中で一番高い山が台地の南隅にあって、加耶山という。 1430米である。 その北方に約1200米の台地が続いている。 樹木は全くなく、黄色の地肌が剥き出しになって、人家は一軒も見当らない。 自然のままのおおらかな大地だ。

 この日は気流は悪くはなかった。 快晴で、これが東洋一の空の難所であろうか? 幻想の峠アーリラン (成鏡道か?) だと言われたら納得できるが、と思いながら飛んでいた。

 しかし、油断は禁物、私は前方を飛んでいる飛行機を見つめ、あそこまで1分間は大丈夫、そして1分経つと、また1分間は大丈夫と、分を刻み安全を確認しながら飛んでいた。 そして、30分経っても何の変化も起こらないし、起こりそうにもなく、大白山脈の山頂に乱雲が僅かに見えていた。

 京城まで後30分、ホットした気持で、今まで飛んで来たコースを振り返ったのである。 この時の驚きは、40年後の今も忘れはしない。

 そこは数分前まで快晴であった。 そこを私達は飛んで来た。 そこがべっとりとした白い泥の海に変わり、その上面に真綿のち切れたような霧の脚が、風に棚引く柳の小枝のように揺れている。 こんなことがこの地球上にあるのであろうか?

 私は野犬に追われる腕白坊主のように、江草大尉の編隊に向かってエンジン全開で逃げて行った。 江草大尉は既に気づいていたらしく、私達を見届けると、今までの編隊を解いて斜単縦陣となり、左風上側に90度変針し、全速力で黄海に向かって緩降下を始めた。 江草大尉を右先頭にして、9機がそれぞれ右30度前方の飛行機を見失わないように迫って行くのだ。

 3分ばかり経つと、僅か15米にも満たない前続機との空間が、厚い白壁のようになって前の飛行機の翼が消えそうになった。 濃霧の中へ閉じ込められたのである。 もしも私が前続機を見失ったら、9機の編隊は二分され、私は後続機を率いて計器飛行に移らねばならない。

 私はまだ編隊のリーダーとしての計器飛行訓練はやったことがない (当時水平儀はなかった)。 旋回計による 「針、玉、気速」 という計器飛行のやり方は、単機で、飛行機を安定させることだけでも難しいのに、編隊で後続機を連れて飛ぶのは一年や二年でできる業ではない。

 しかも、それで黄海の海面上零米まで降下しなければ霧の外へは出られないかも知れないのだ。 そんな自信は全くない。 どんなことがあっても前続機の翼を見失ってはならないのだ。

 私は操縦席の風帽を開き、眦を決して、前後機の翼を睨んだ。 しかし、白衣を着た雪女郎のようにボーッとなってしまう。 追突しそうになるまで接近して、やっと翼の形を確認する。 霧の濃淡によってこれの繰り返しが続いた。 冷汗と油汗が流れて目に浸みた。

 こうして17、8分経った頃、突然前方が明るくなって、激しいスコールがすーっと去って行くように霧の外に出たのであった。 そこは海岸から約10浬の黄海の海面であった。 高度は約百米、黄色く濁って、平坦な大地という感じの海であった。

 それから30分後、錦江下流の錦浦飛行場に無事着陸したのであったが、飛行場に整列した時、江草大尉は、

 「よくついて来たな。 よかった。」

 と呟くように言った。

 事故にはならなかった。 無事に着いたから、これだけのことで済んだ。 しかし、詳しく検討すると、教訓は沢山あった。

 一つは編隊の形を変える時には、前続機が雛鳥で後続機がベテランになることもあるから、そんな時、ベテランが雛鳥の技倆に危惧を感じながら中途半端な気持でついて行くと、編隊がバラバラになって全機が霧の中を右往左往することになる。 恐らく、昭和10年の秋風嶺での編隊バラバラ事件の原因はこれであろう。

 もう一つの教えは、濃い霧を避けて、比較的薄い霧を求めて編隊を誘導するにはどうしたらいいかということだ。

 江草大尉の話によると、地形、風向、風力等から霧の発生の原因を理解し、眼前の霧の色、質、気温の変化、気流などから濃淡の分布を判断しなければならないという。 これはとても難しいし、一方、過度に霧の中で変針すると翼端接触の危険があるし、指揮官として最も難しいということだった。

 細かいことになるが、もう一つ、霧の中の編隊技術について、私はこの時七番機で、六番機の搭乗員は、野田三等飛行兵曹と野亀一等飛行兵であったが、二人はいち早く、飛行機の舷灯、編隊灯、機尾灯を点じ、野亀は右手にオルジス信号灯を持ち、左手に赤旗を持って懸命になって私を誘導したのであった。 この誘導がなかったら、六番機を見失っていたかも知れない。

 霧とは恐ろしいものであった。
(続く)