2009年10月14日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その32

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第5話 南支仏印作戦異聞(3)

 丁度その頃、内地から芸能慰問団が来ることになっていた。 私はその慰問団を大歓迎して、間を持たせようと思うのであった。

 その頃、隊員の支那娘強姦事件が起こったのであった。 相手は航空隊に出入りしていた残飯屋の娘であった。 彼女の両親は素朴な老夫婦であったが、事件の翌日娘を連れてどこかへ立ち去り、再び基地に現われることはなかった。 恐らく、海南島の山深い僻村に隠れて生涯を送るのであろうと私は思った。

 その2、3日後に内地から芸能慰問団が見えた。

 その中に、15、6歳の可愛いい娘がいた。 彼女は緑色の袴をはいて、矢絣の着物の袖をかえして踊り、かつ唄った。 美しい瞳は、海南島の山々を夢のように見つめていた。

 小柄ではあるが八頭身に引き締まった肉体は弾力があって、ロングスカートの裾の翻る 「チラリズム」 は若い隊員を魅了した。 彼女が、森光子女史の若かりし日の姿であった。 彼女に、私の部下の滝仲中尉が恋愛した。

 滝仲中尉は後年、江兆銘の専属パイロットとなり、江兆銘が南京政府の主班として日本と中国を往復する度に彼女に会っていたが、森光子女史にとっては滝仲孟が初恋の人になったようであり、滝仲中尉にとっては命を賭けての恋となったのである。 (この恋は滝仲中尉が戦後絞首刑になるまで続いたらしい。)

 それはさておき、隊員達は美しい日本の娘を間近に見て満足したようであり、また、高嶺の花のように思っていた娘を、自分の同僚たる滝仲中尉が射とめたことを心から祝福し、自分もまた、同様の可能性を信じて、和やかになった。

 戦場心理の展開で、暴戻(ぼうれい)に走るか、或いは、良識のある行動の枠内に止まるかの紙一重の状態で、一人の若くて美しい同胞娘森光子女史が隊員達をいい方向に導いてくれたのであった。

 翌日、私達は海口を飛び立って南寧の戦線に復帰した。 中国娘の強姦事件は遠い過去のことのように忘れ去っていた。



 以上は一事件の経緯であるが、事件はともかくとして、一つだけ問題を提起しておきたいと思う。

 もし私達が人類学等について造詣が深かったら、南支行動中、このような人事上の事故は防ぎ得たであろうか?

 私の考えではこの種の教養は、隊員の団結、闘志等のためにプラスになる点もあるが、人間的楽しさや空想が、中途半端な知識によって破壊されて、殺伐さはむしろ激しくなるかも知れないと思う。

 序でに言うなら、同胞娘の美しさというものは、戦っている青年達にとって、すべての面で良薬となるものであった。
(第5話終)

2009年10月15日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その33

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第6話 復 讐 (1)

 支那事変を通じて、敵の便衣隊 (ゲリラ部隊) が、支那駐留の日本海軍特設航空基地を計画的に攻撃し、機材、人員に損害を与えた例は、極めて稀である。

 それは、当時の日本海軍航空部隊の自隊警備能力が十分であったからというのではなく、日本陸軍部隊の占領地城に対する警備作戦が、極めて緻密適切であったことによる。

 占領地城に限らず、その背後の敵の情勢をいつも細かく把握して、先手先手を打って敵のゲリラ活動を封じ込めていたためであったと思う。 ( 米軍のベトナム、ラオス作戦は如何? 米国陸軍に質問してみたい。)

 例えば、私達海軍航空部隊の近くに、日本陸軍部隊がいる時は、そこが、支那大陸のどんな僻遠の地域であろうと安心して航空作戦に専念することができた。

 だが、偶々私達が陸軍の目の届かない大陸沿岸の離島に基地を設けたり、或いは、陸軍の撤退作戦の後尾に残留したりするような時には、基地周辺にはどことなく不隠の気が漂った。

 早速にも便衣隊が出没しはじめ、いつ寝首をかかれるか解らない不安に駆られ、航空作戦に身が入らなくなる。 とにかく陸軍の活躍は極めて木目の細かい頼もしい作戦で、海軍航空部隊にはありがたいものであった。

 さて、当時の私達海軍航空部隊の基地員、整備員達の陸上戦闘 (白兵戦と言った方がよいかも知れない) の術力、装備、士気はどうであったかと言うと、先ず、小火器の取り扱い能力は極めて低かった。

 大部分の者が、小銃拳銃の射ち方はどうにか知っていたが、銃剣による格闘戦は訓練されておらず、機銃射撃の経験は皆無と言ってよかった。 保有する小銃拳銃数は、整備員達の定員数の十分の一にも満たなかったし、機銃は、飛行機装備の旋回銃しか持っていなかった。 そして、ほんの少数の警衛隊が小火器の取り扱いに習熟し、彼等だけで広大な基地を守っていたのであった。

 このような事情の下で、僅かに心丈夫であったことは、整備員達の士気が極めて旺盛で、自分の基地は自分で守ろうという闘志だけは満々たるものがあったということと、彼等は小学校時代から、柔剣道、相撲のような格闘競技で体を鍛えていたので、白兵戦には自信があるということであった。

 更にもう一つは、整備員達の中の血の気の多い連中は、搭乗員から戦闘の状況を聞く度に、「俺達だって、敵に会えたら、搭乗員よりも勇敢に戦えるんだ」 という激しい競争心を潜在させていたことだ。

 言い換えれば、地上員は、戦争をしていないような疎外感と劣等感に反撥を覚え、闘魂の吐け口を求めて、いらいらしながら敵に会う機会を待っていたということであった。

 このような事情であったので、私が南支の一孤島に、飛行隊長として勤務中、偶々、敵の便衣隊が基地周辺に出没するようになった時の整備員達の闘志は極めて激しいものがあった。

 もともと、戦闘は、相手を殲さなければ自分が殺されるのだから、必然的に激しい死闘が展開されるのは当然で、改めて言うまでもないが、前述のような事情が加わって、一般的な戦闘観念を越えた残虐性が、むき出しになって激突したのであった。

 それは規模は大きいものではなかったが、凄絶そのものであった。
(続く)

2009年10月16日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その34

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第6話 復 讐 (2)

 初めに断っておきたいことは、この記録は、私としては想い出すのも嫌なことで、総て忘れてしまいたいことなのだ。 しかし、書く以上は、事実をありのままに書くが、読んで済んだら忘れて頂きたいということ。

 もう一つは、人間はどんな残虐行為をしても、どこかに、人間としての救いを残すもので、事件に直接関係した者は、「戦争だから仕方がなかった」 などという安易な言い訳に逃れることなく、激しい自責の念に駆られて自殺しようとした者もあったし、間接に関係した者も、「どうしてあんなことになったのか? 黙って見ていた自分も同罪かも知れない」 と、自分の怠慢を悔んだ者が多かったことだ。


 昭和14年10月20日付、私が第十四航空隊に転任したことは前に話した。

 ところで、第十四航空隊という特設航空部隊が、広東 (現在の広州市) 及び海南島方面に行動している部隊であることは解っていたが、司令部がどこにあるのかはっきり解らなかったので、電報で問い合わせたところ、三そう島 (「そう」は「火」偏に「土」) (注) という島にあるらしいということであった。

 三そう島という島は、当時、海軍部内に刊行された地図には見当らず、広東市の近くにある島ということが解っているばかりであった。 仕方がないので、私は広東市の西方十五浬の三水飛行場まで急いで赴任することにしたのであった。

 10月24日、私はトランク一つと、備前長船の古刀一振りに身を託して、1500浬南方に赴任するために、飄然として母艦を去った。 そして、その日のうちに吉浦駅を発ち、福岡雁の巣に向かった。

 翌10月25日の早朝、民間機ダグラス三型に乗って雁の巣を発ち、沖縄、台北を経て高雄に一泊、翌日午後3時、広東市西方の三水飛行場に着陸した。

 飛行場には数年来の部下が二人、九四式艦爆で迎えに来ていた。 私は、2年振りに会う部下の痩せ衰えた姿を見た時、不吉な予感が背筋を走った。

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( 九四式艦上爆撃機 )

 三そう島は、広東南方80浬にあった。 香港、マカオを監視するには絶好の位置であった。 三そう島に着陸すると、急いで艦爆隊長〇見〇大尉に会って彼の申し継ぎを聞いた。

 彼はいつも、日本海軍の青年将校の代表のように気取って、スマートさを売り物にしている男で、言うことも総て綺麗づくめ、結構づくめであった。

 ここは戦場だから、悪いこともざっくばらんに言ってもらいたいものだ。 現に私を迎えてくれた二人の搭乗員のように、半病人のような者がいるのは何故か。 その片鱗でも知りたかった。

 しかし、それは空しい望みであった。 私は、自分で調べるより他に方法はないと思って尋ねることを断念し、ともかく申し継ぎを終えた。

(注) : 三そう島は現在では大規模な埋め立てによって本土との陸続きになっており、また島そのものも開発によって全く当時の面影を留めておりません。

 特設航空基地及び第十四航空隊司令部が、残念ながらどこにあったのか不明ですが、航空基地については本項に出てくる情景から現在の「三そう空港」の当たりと考えます。


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( 元図 : Google Map より )

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( 三そう島  1954年の米軍地図より )

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( 現在の三そう島  Google Earth より )

(続く)

2009年10月17日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その35

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第6話 復 讐 (3)

 翌日から隊内を隈なく巡視することにした。 先導は、二人の兵曹長と年老いた整備の海曹であった。 時間をかけて隅々まで見て、不審な点は徹底して追求した。 その結果は次のようであった。

(一) 飛行部隊の作戦は広東の西方と、海南島の山岳部に対する戡定作戦 (武力で敵を平定すること) であった。 飛行回数、飛行時間は多く、月間一人平均100時間を越えていた。 しかし、作戦目的は、乗員にはよく解っていなかった。 攻撃隊が発進した後、隊長は宿舎に帰り、若い中尉が指揮をしていた。 搭乗員は疲れて顔色が悪く、目に力がなかった。

(二) 機材はよく整備され、可動率は90パーセントを越えていた。 整備隊は、健康で士気旺盛であった。 隊長は有松暫(すすむ)大尉であった。

(三) 食事は、麦飯と木材のような魚の煮付けと漬物が定食であった。

(四) 飛行隊の居住区は汚く、靴は泥にまみれ、便所に落書きがあり、毛布とシーツが湿っていた。 整備隊の居住区はその逆であった。

(五) 午後、バレーボールをやっているのを見たが、幹部は一人もいなかった。 運動用具は沢山あったが、手入れはよくなかった。

(六) 治療室は一杯で、元気そうな男がベッドを占領していた。

(七) 酒保の売り上げは、若い兵隊に酒が多く、借金をしている者があった。 (三等兵の月給で毎日一升飲んでも余る程の月給を貰っていたのに。)

(八) 隊内郵便局の内地への送金を調べると、飛行隊は少なく、基地隊の方が多かった。 内地からの手紙は少なかった。

(九) 食堂の書庫には、文学書、技術書は一冊もなく、古雑誌が5、60冊、流行歌のレコードが30枚ばかりあった。 隊合に蓄音器が一台ずつあった。 これが娯楽道具の総てであった。

(十) 隊員達は一般に朗らかではあるが、よく喧嘩をするということであった。 島内には、日本の女性は一人もいなかった。


 一週間に亘る隊内巡視を終えて、最後に指揮所の屋上の三階見張台に昇った。 ここから眺める三そう島は美しい島であった。 支那には珍しく、全島緑に覆われ、海岸は白砂で、水は清らかに澄んでいた。

 隊合は急造のバラックで、長さ約50米、巾10米の平家建で、板壁には大きいガラス窓がはめられ、外見は清潔でスマートであったが、内部は、天井板はなく、合掌造りの桁と、薄い屋根板がむき出しで、瓦のすき間から青天井が見えていた。

 屋内通路は土間で、建物の中央を縦貫し、土間の両側が高さ1米ばかりの細長い床になって、間仕切りは一つもなく、茣蓙が敷きつめられ、隊員達の寝室、休憩所兼講堂になり、夜食の食堂にもなった。

 このような隊舎五棟が、ランウェイと平行に二列に並び、中央の一棟が幹部隊舎であった。ランウェイと隊合の間に指揮所があって、両側に格納庫が二棟あった。

 戦闘機隊はその時、三水に転戦中で、三そう島には艦爆隊しかいなかったので、格納庫はゆったりと使われていた。 ランウェイは海岸に近く、南北に長さ約6百米で、延長工事中であった。

 工事現場の直ぐ近くの仮設の建物には、施設隊の特別労働者 (服役中の囚人で、重犯が赤服、軽犯が青服を着ていた。 最終の刑期をこの島で服役中であった) が宿泊していた。

 これ等の隊舎の、ランウェイと反対側山手寄りに、付属施設として、病室、治療室、烹炊所、酒保、食品倉庫、風呂場、散髪所、便所、石炭置場が整然と配置されていた。

 これらの全施設の周囲に、有刺鉄条網を回らし、裏門を設け、二人の歩哨が立ち、5米ばかりの道路が、裏門を通って約5百米西方の、三そう島の唯一の部落、20数軒の農家に通じていた。

 この部落を通り越して1粁ばかり行くと、小さい入江に出ることができた。 この入江は5浬ばかりの海峡を挟んで大陸に北面していた。

 この島内には、日本陸軍は一名もいなかった。 対面する大陸側は、珠江三角洲の南端で、そこにも日本陸軍部隊の配備は手薄であった。
(続く)

2009年10月18日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その36

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第6話 復 讐 (4)

 着任して7日目の夕食後、私は私室で 「Gone with the Wind」 を辞書と首っ引きで読んでいると、施設隊の技師長が挨拶を兼ねて遊びに見えた。

 技師長は、私より10歳ばかり年長で、上品で物柔らかな人柄であった。 吉野の人であったが、故郷の歴史や家族のことなどを話し、碁を囲んでいるうちに、十年の知己のように親しくなった。

 この親しさが、彼の心の奥深く秘めていた事件の全貌を私に打ち明けさせることになったのである。

 二度目に私の部屋を訪れた技師長は、蒼白な顔に決意を見せて語り始めた。 彼の言葉は幾度か絶句したが、要約すると次のようであった。


 今から2か月ばかり前、施設隊の赤服の二人が、柵を乗り越えて脱隊し、支那部落の一民家に押し入り、その家の主婦を犯し、主人を傷つけた。

 それから4、5日経って、同じく施設隊の赤服3人が、同じ目的をもって、再び支那民家に押し入った時、謀られて、支那の屈強な若者5人に捕えられ、先日、主婦を犯した一人の赤服は両脚を膝から切断され、〇〇を切られ (支那の刑罰でひん刑 ( 「ひん」 は 「月」 偏に 「賓」 ) またはげつ刑 ( 「げつ」 は 「月」 偏に 「利」 の旁) )、残る二人は、鼻の先端を縦に切り割かれ、耳の葉を三分の一ばかり切り落とされ、〇〇に入墨された。

 ひん刑を受けた赤服は、工事場近くの倉庫で、三日後死亡したが、残りの二人の赤服は隠れて治療をして、一月ばかりでほぼ癒ったので、耳と鼻に大きい絆創膏をつけたまま、労務に服していた。

 それから14、5日経った夜、ひん刑を受けて死んだ男の弟分の赤服3人が、再び支那民家に押しかけ、別の老人を捕えて殺害し、その頭蓋骨を鋸で切って居住区に持ち帰り、それで大きい杯を作り、3人はそれに酒をついで順番に乾杯し、終ってその杯を殺された兄貴分の墓前に供えた。

 墓は施設隊の工事場から50米ばかり離れた海岸寄りにあったが、その杯は、その夜のうちに何者かに奪われた。 その後、毎夜裏山に人の気配がするようになった。


 私は、冷静に彼の話を聞きながら、大きい疑問を感じた。 ひん刑を受けた男の仇討ちに行ったのは、3人の赤服だけではあるまい。 恐らく30人以上であろう。

 しかし、私は黙っていた。 技師長は、語り終って肩で息をつき、青い顔で私を凝視していたが、頭を深く垂れて私に言った。

 「私の不徳の致すところで、何と申してお詫びしてよいか解りません。 部隊の兵隊さん達も、薄々事件を知っていると思います。 このまま収まるものでしょうか。 それとも、次の事件が起こることは必然だとお考えでしょうか? 隊長! 御援助をお願いできましょうか?」
(続く)

2009年10月19日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その37

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第6話 復 讐 (5)

 私は考えた。 施設隊約100人は、軍属であって軍人ではなく、武器を持たせて自己防衛をやらせるわけにはいかない。 彼等は、日本で破廉恥罪を犯して懲役に服している囚人ではあるが、日本人である以上、支那人の攻撃からは守ってやらねばならない。

 問題は、囚人の3人が、仲間を語らって仇討ちに行った時の日本側の人数と内容を調べる必要がある。 その時一人の老人を惨殺しただけだとも思えない。 技師長は、隊員が参加したとは言っていないが、言外にその匂いがする。 彼は、私に対して迷惑を掛けまいと配慮をしているのであろう。

 私は、私の部下も、基地員の一部も、惨劇に参加したものと前提して考えることにした。 とにかく、早急に部落を偵察しなければならない。 また、上司に至急報告しなければならないと思ったが、私の独断でやれる原則的な対策として次のことだけを答えた。

 「最善を尽くしましょう。 ついては貴殿に、明朝から早速やって頂きたいことは、今後当分、施設隊員を絶対に柵外に出さないことです。 施設隊の宿舎を含めて、基地内の警戒は、私の方で責任を持ってやります。

  貴殿に安心して頂くために申し上げますが、緊急対策として、有刺鉄線を10倍にしたり、警衛当直を3倍にしても、この広大な基地施設を守れるものではありません。

  最も大切なことは、もし敵の便衣隊の侵入があった時は、即刻徹底的に応戦することです。 そのためには、隊員も、貴殿のところの囚人労働者も、私と一緒になって、三そう島全土の草の根を分けても侵入者を追跡して捕えるという覚悟を持たねばなりません。

  その覚悟を持てば、敵は決して安易に侵入をしかけて来ないものです。 技師長! 明朝からその覚悟で頑張りましょう。

  貴殿は、今私が申したことを、明早朝、囚人労働者に、徹底して話しておいて下さい。 機会を見て、私も直接囚人達に話しましょう。

  このことは、一部始終を上司に報告しますが、貴殿には一切御迷惑はかけないことを約束します。」

 技師長は、深々と頭を下げて帰って行った。

 私は訓練を急がねばならなかった。 申し継ぎの時、このことを言ってくれればよいものを、一週間を無為に過ごしている。 翌朝、私は上司に総てを説明し、戡定作戦任務を一時中止して、隊員の訓育と体育に専念することを許してもらった。

 訓育は、闘争の原則論に絞り、体育は、野球、バレー、銃剣術、相撲、駈足が主で、幹部と三等兵の区別なく徹底的にやった。 時には、拳銃と木銃を持たせて、全員で隊伍を組んで、部落の中を駈足させることもあった。
(続く)

2009年10月20日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その38

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第6話 復 讐 (6)

 そして2、3日経った。 まだ訓練は十分ではなかったが、その頃の夜中の11時過ぎ、小さい事件が起こった。

 施設隊の3人の技士が私の部屋に飛び込んで来て、「隊長さま、便衣隊です。 私にピストルを貸して下さい。 お願いです。」 と言う。 真剣な顔色である。

 私が急いで軍装を着け終える頃、搭乗員の秋山中尉と中村飛曹長が、二人の下士官を連れて私の部屋にやって来た。

 秋山中尉は、技士に言った。 「銃声がしないじゃないか。」

 「いいえ、竹槍でやられたのです。 便所の中です。 青服の若い男が殺されました。 青服が騒ぎ始めています。」

 「何故ピストルが要るのか、慌てるな!」

 私は、「心配するな。 俺達が引き受けた。 技師長に言え! 隊長が後を引き受けたとな。」 と言って、緊急手配にかかった。

 「整備隊に、列線と格納庫を守れと伝えろ! 中村兵曹長は搭乗員と整備員20人を連れて施設隊舎に行って窓際に並べ! 施設隊員達には絶対に声を出させるな! 20名の兵隊で、便衣隊の行動を耳を澄まして聞き分けるのだ。 兵器は小銃10丁、その他は木銃でよい。 部屋の電燈は、できるだけ明るくせよ。

  秋山中尉は次直警衛5人と、整備員5人、計10人をトラックに乗せて、裏門警衛所に横付けにして待っておれ! 後で行動を命ずる。 この10人は小銃の他に拳銃も持て。 電灯は全部点けて、門扉を一杯開け。

  秋山中尉は命令するまで隊員を起こさないよう注意しておれ。 もしも、起きて騒ぐ者があれば、厳重に処罰すると伝えよ。

  俺は当直室にいる。 当直室に5台の自転車と、気のきいた兵を5人出せ!」

 私は措置を令した後は、施設隊囚人達の動きに注意を向けていた。 囚人達が騒ぎ出したら可哀そうだが一部を射殺するつもりであった。 そして、「これは訓練だと司令に届けてくれ」 と、当直将校に連絡した。

 我々が騒いだら便衣隊が喜ぶ。 最も危険な虚を与えるからだ。 冷静、静粛が一番大切なことは言うまでもない。 敵の竹槍一本で騒ぐことはない。

 私は、便衣隊が見つかるとは思っていなかった。 恐らく、便衣隊の指導者は山の中から部隊の動静を見ているに違いない。 警戒すべき相手は、山の中にいる。 彼等に、私達隊員が整斉と緊急配備に着く状況を、十分に見せてやらねばならない。

 今夜はそれ以上の行動を起こすまいと決めていたのだ。 囚人達は騒がなかった。 彼等も、闘争の勘所は心得ていた。

 2時間ばかりで配備を復旧した。 侵入した便衣隊は見つからなかったが、それ以上事件は拡大しなかった。 結局、便所の下窓から、一人の青服が竹槍で腹を突き刺され、重傷を負っただけで済んだ。

 このことがあって、施設隊は自力で竹槍を作って警戒を始めた。 飛行隊と整備隊は、警戒配備要領がよく解ったようだし、血の気の余った若者は、余剰精力の捨て所ができて明朗になったようであった。

 一人の負傷者には済まんが、一石三鳥の効果があった。 恐らく便衣隊も、一人の青服を傷つけたので、復讐ができたと思って、村人に対して面子が立ったであろう。

 私は、今夜の事件はこれでよいと思った。 少し気になるのは、青服達が、復讐できないことに恨みを抱いて、勝手な行動を起こしはしないかということであった。
(続く)

2009年10月21日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その39

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第6話 復 讐 (7)

 11月7、8日頃の午後であった。 指揮所見張台から、千米ばかり彼方の小高い丘の上に、便衣隊が蠢動しているという報告があった。

 2、3日前から、また、便衣隊が動いている様子であったが、それは午前中の動きであった。 今日は夕食前の、人間の緊張が最も緩む時間である。 私は、今夜何かあるな、という直感がした。

 日没までに2時間しかなかったので急いで上司の了解を得て、極秘裡に準備を始めた。 日没直前に、先制攻撃をする決心をしたのであった。

 攻撃隊は、搭乗員、整備員150人で3個小隊を編成し、警衛員、整備員50人で指揮小隊を編成して、格納庫内に待機させた。 全力編成である。

 3個小隊の各小隊には、旋回機銃2、小銃5、拳銃5、その他日本刀と手榴弾を装備した。 指揮小隊は、小銃で完全武装した。 機動行動のため、大型トラック2、オートバイ2、自転車5を準備した。

 作戦要領は、一小隊は、部落の彼方の海岸線に直進し小舟を捜索し、約1時間それを拘束する。 二小隊は、丘の飛行場側の斜面を掃射する。 三小隊は、予備隊となり、民家を威圧する。 指揮小隊は、民家の各戸を捜査する。 基地内の警備は、整備分隊が当たる。

 作戦時間は、日没前30分より日没後30分までとする。 疾風迅雷の行動に重点を置き、どんなことがあっても、日没後30分には総員帰隊する。

 この作戦の目的は、再び動き始めた敵便衣隊に対し、絶対的な威力を見せることにあった。 先般は、竹槍攻撃をした敵を許したが、二度と許さない決意を見せねばならなかった。 そして、施設隊の囚人、青服達に対する責任も果さねばならなかった。

 本来、三そう島ゲリラは、施設隊に対する復讐的意図が主であって、飛行機、人員、施設に対する攻撃意図は少ないのだ。 彼等を殺すよりも、その活動意図を封ずることが主目的であった。

 日没30分前、裏門の門扉を開くと同時に、予定に従って全兵力が突進した。 この作戦の圧巻は、一時間前に便衣隊が蠢動した丘の斜面に対する機銃掃射と、手榴弾攻撃であった。

 敵がいようがいまいが、手榴弾を投げ、機銃弾を千発射つのだから、凄い連射で、音ばかりは景気がよかった。 具体的な戦果は予期していなかったのだ。

 ところが、約10分後、思わぬ戦果があった。 それは、指揮小隊が、民家に潜んでいた3人の便衣隊を逮捕したのである。

 作戦計画どおり日没後30分、全員無事帰隊、作戦は終了した。 僅か一時間足らずの疾風迅雷の行動であった。

 便衣隊3人は、平凡な青年であった。 裏門の警衛控室に入れて監禁し、筆談で尋問させた。 便衣隊の規模はどの程度か、どこから派遣されたかが尋問の要点であったが、彼らは一切喋らなかった。

 食事を与えたが食べず、水を与えても飲まず、静かに死を覚悟している様子であった。 施設隊の青服が、そっと彼らを見に来たが、一掬の同情を示しているようであった。 青服も、過去2か月の抗争を反省しているようであった。

 翌日午後、3人を釈放した。 彼らは、初めのうちはけげんな顔をして、許されたことを信じなかったが、やがて静かに部落の方へ立ち去った。 一度も振り返らなかった。 私と彼らの間には、別に恩讐はなかった。

 11月11日、私は部下隊員総員を率いて、三そう島から海南島海口に進出した。 新しく南支作戦が下命されたからであった。 三そう島には、戦闘機隊一個分隊が新しく進駐した。 それから約3か月後、施設隊が海南島に移るまで、三そう島に事件は一度も起こらなかった。
(続く)

2009年10月22日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その40

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第6話 復 讐 (8)

 さて、私は海口に進出した後、これらの三そう島施設隊事件を調べ直したところ、次のようなことが追加判明した。

 ひん刑を受けて死んだ赤服は、施設隊の大ボスであった。 その弟分がボスのために復讐戦をやるのは、彼らの仲間の、絶対的な掟であった。 しかも彼らは、残虐なことをやるのが復讐戦というものであると信じていた。

 ボスの弟分の赤服3人は、青服(服役優等の囚人)〇〇人、基地員〇人、整備員〇人の応援を得て、脱隊して部落を襲い、一尺八寸の脇差で、彼らの掟のとおり、部落民を拷問にかけた。

 部落民は拷問に屈せず一言も喋らなかったので、怒った弟分達は部落の村主を犠牲として、前述のようにその遺体の一部を酒宴の杯に使ったのであった。 杯の底には脳漿が付着していた。 三人の赤服の他はその杯では飲まなかった。

 その後、施設隊に悪疫が流行して、赤服の二人が死んだ。 その時、葬儀に参加した者が、二人の死因は病気ではなく、水死であると言った。 鬼畜のような男にも、一片の良心が残っていたのであろうと、参列者達は二人を哀れんだ。

 この一部始終を語ったのは、老いた整備員と基地員であった。 その時、この二人の老兵の後に、〇〇人ばかりの若い者も、頭を垂れて聞いていた。 老いた整備兵曹は、最後に言った。

 「隊長、私は甲板海曹として、基地員の服務を監督する責任者でした。 私にも責任があります。 私はどうすべきでしょうか?」

 また、老基地員の方は、

 「私は、先任衛兵伍長として隊内を巡視警戒中に、囚人達の酒盛りを見たのです。 私はどうしたらよいのでしょうか?」

 と言って、三そう島の方を向いて手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えた。 私は二人に言った。

 「お前達二人だけの罪ではない。 これは、人間総てが持つ業というものだ。 お前達が心から悪かったと思う以外に贖罪の方法はない。 艦爆隊全員は、明朝、三そう島に向かって、犠牲者の冥福を祈って神の許しを受けよう。

  私もお詫びのしるしに、今月一杯酒を絶とうと思う。 お前達も、自分の一番好きなものを今月一杯絶って、お詫びするのだ。 それで三そう島のことは一切忘れよう。 それで帳消しだ。 以後一切口外するな。」 と。

 私にはこれ以上説得する方法を知らなかった。 この時ほど、仏の教えを勉強していないことを悔んだことはなかった。
(続く)

2009年10月23日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その41

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第6話 復 讐 (9)

 その後、数か月経って、技師長が海口の私の部屋に見えたことがあった。 私達は、久しぶりに語りあい、酒を汲み交わし、碁を囲み、時間の経つのを忘れた。

 技師長は、私の隣室に3日泊ったが、復讐ということについて語りあった。 私は次のようなことを言ったのを覚えている。

 日本人が、古来思想的に肯定してきた復讐の根拠は、次のようだ。


 中国古典、礼記檀弓に、「父母の讐は倶に天を戴かず」、「兄弟の讐は兵を反さず」、「交友の讐は国を同じうせず」 とある。

 また、春秋公羊伝には 「君、臣に載せられて、賊を討たざるは臣に非ざるなり。子、復讐せざるは子に非ざるなり」 と。

 この他三項、士道として、復讐を肯定的に鼓舞激励している。 三世紀晋代、王安石以降、多くの学者が、国家間の復讐について、激しく、肯定的に論じている。  (略)

 周礼地官調人に、「凡そ人を殺して義なるものは、讐とする勿れ。之を讐とすれば死す」 という項がある。


 さて、やくざ者の仁義は、「人を殺して義なるもの」 の 「義」 が間違っている。 論理も倫理も無く、あるのは、強い者が正しいということである。 だから、復讐は無限に続くことになる。

 正義のために人を殺した個人、または権力に対しては、復讐するということは許されない。 強いて、その人に対して復讐すれば、復讐した人も殺されるという規定である。

 このように、人間が人間を殺してもよい場合の古代の国民倫理は、正義という概念に根拠を置き、それを前提として、正しくない復讐をした者は、国の権力によって殺されるということになっている。

 殿中で、刃傷事件を起こした愚かな主人のために復讐が成立するとすれば、仇敵は徳川幕府であった筈。 吉良上野介を討ったのを復讐と言ったのは、江戸庶民の仁義であり、それによって徳川幕府と間接に事を構えようとしたのは、大石の横車的仁義であって、何れも筋の通ることではない。 籠城決戦が正当な復讐である。

 ところで、今回の施設隊の行なった復讐も、「人を殺して義なるもの」 に対する逆恨みであって、復讐ではなかった。 日本人の倫理に反する残虐行為であって、日本人の一人として許すことはできないと思った。

 しかしながら、以上のことは、中国と日本との、それぞれの国民が、それぞれ独自に考えるべき国民倫理上の問題であって、両国民が、偶々、同じ倫理内容を持っているからと言って、それぞれの国民が、他国民に対して守らねばならないかどうかは別問題だ。

 民族と民族との戦争には、それぞれの国民倫理を超えたものがあるからだ。 だから私は、施設隊の赤青服の行動を、支那に対して、全面的に謝るべきだとは思わなかった。

 ただ、お互いに、日本人として肯定することはできないというだけなのだ。 彼らが私の部下であったら、私は軍律に照らして彼らを即日厳重に処罰したであろうが、それは国民倫理に照らして処罰するのではなく、戦闘の律に照らして処置するのだ。

 しかし、彼等は既に死んで、総てが過去の歴史の中に沈んで行った今は総てが済んだ。 彼等の冥福を祈ってやるばかりだ、と私は言ったのであった。


 技師長は、若い私の言うことを、静かに聴いてくれた。 それから数日後、彼は長文の手紙をくれたが、それには、私の意見に対する同意と、彼が施設隊員を教育できなかったことを諄々と詫びていた。

 そして最後に、今は無事三亜飛行場の建設を終り、囚人達も減刑されて、青天白日の人生が始まろうとしていると結んであった。

 行間に、いまわしい彼らの過去は忘れましょう、忘れて下さいと技師長は言っているのであった。 私も総てを忘れようと思った。
(第6話終)

2009年10月24日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その42

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第7話 青島夜曲 (1)

 昭和14年3月中旬、航空母艦 「龍驤」 を旗艦とする日本海軍機動部隊は、佐世保を出港してから2週間に亘る黄海海域の行動を終えて、艦爆18機、艦戦9機、艦攻9機を収容し、山東半島南岸の青島港に入港した。

 当時の中国での戦局は、日本陸軍の進攻作戦が、開戦以来1年8か月を経過し、中支の戦略要点の占領を概ね完了していた。 が一方、中国側の反攻作戦も徐々に本格化して、中支の都市周辺部の戦況は、漸く泥沼の中の格闘戦のような有様を示し始めていた。

 このような時に、私達機動部隊は、約2週間、黄海、東支那海を行動したのであった。 この機動部隊が、黄海行動中に敵を攻撃できる範囲は、概ね、済南、徐州、准陰の三市を結ぶ三角地帯であった。

 この三角地帯は、ゲリラ戦が行なわれている地域の中でも、最も複雑な区域であった。 私達は、連雲港 (山東半島のつけ根) の近くまで進出し、偵察機を飛ばして、この区域の都市周辺を隈なく偵察したが戦況は全く不明であって、攻撃部隊を出発させるに足る目標を発見することはできなかった。

 日本陸軍の作戦に協力しようと思って、出港前には大いに張り切っていたのであったが、それは無為に終って、月月火水木金金式の独自の艦隊訓練に終始することになるのであった。

 だから、青島入港は、戦闘に対する慰労としての入港ではなく、水と生鮮食料の補給と乗組員達の心機一転を計るという目的に過ぎないものであった。 毎日ゲリラ戦の応戦に苦しんでいる陸軍部隊には申し訳ない次第であったが、私達母艦部隊にとっては、止むを得ないことであった。

 さて、青島及び膠州湾は、明治31年、ドイツに租借されて以来、約16年間、ドイツの東洋艦隊の根拠地であった。 そのため、第一次世界大戦の緒戦期に、日本海軍の攻撃を受け、大正3年11月18日、日本軍に降伏した。

 そして、大正5年、日華条約締結の結果、ドイツの権益を受け継いだ日本によって、引き続き支配されることになった。 この日本の支配は、大正10年、ワシントン条約の結果として中国に還付されるまで続いたのであるが、その後僅か15年経って、北支事変が勃発するとともに、再び日本海軍によって支配されることになった。

 このように、青島と膠州湾は変転極まりない運命に流されながら、力強く繁栄した中支の要衝であった。

 青島市は、膠州湾を扼する小半島上に在る。 青島とは、本来半島に付属する小さい島の意である。 港は大港と小港に分れていた。

 「龍驤」がそのどちらに錨泊したか正確には覚えていないし、「龍驤」 の艦上から眺めた青島港の景観も、残念ながら記憶にないが、入港した日の夕暮れ時、街の灯りがともる頃になると、恋人が陸上で待っているような楽しい気持になって、艦爆隊員達と一緒に小港桟橋に上陸したことは覚えている。

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( 現在の青島市  Google Earth より )

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( 1954年版の米軍地図より )

(続く)

2009年10月25日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その43

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第7話 青島夜曲 (2)

 小港桟橋は、中国人のジャンクで一杯であった。 支那人街が岸壁近くまで迫り、赤い灯、青い灯が、桟橋の水辺に映え、行き交うサンパン (支那的小舟) の櫓櫂に砕ける波頭が七色にきらめいていた。

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( 原著より )

(注) : 原著にある本写真及び次の「青島市街」とされるものに写っている長い桟橋は現在も青島市南側の青島湾に残るものと同じものと思われます。 したがってこの青島湾を「小港」とすると、本文記事の内容とは一致しないことになりますが、残念ながら今となっては確かめるすべがありません。)


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( 元画像 : Google Earth より )

 桟橋に続く街の通りは、戦争などどこ吹く風かと言わんばかりに、溢れるほどの支那人と日本人で賑わっていた。 桟橋正面左方 (東北部) には、ごたごたした支那人街があって、右方の半島部が中心繁華街になっていた。

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( 原著より  青島市街 )

 私は、支那人街を突き抜け、そこで隊員達と別れて、中心街に向かって一人で歩いて行った。 この晩の私の行動予定は、隊員達と一緒に宴会をやるのが第一の目的であったが、その前に、青島市の横浜正金銀行支店に勤務している従兄を、久しぶりに訪問するつもりであった。

 予め手紙で連絡する暇もなかったし、従兄の社宅の所番地も調べていなかったが、昭和8年、少尉候補生の時にこの地に上陸したことがあるので、市街の様子はおぼろげながら知っていた。

 私は一人で中心街を歩きながら、或いは、タクシーの運転手が、銀行社宅を知っているかも知れないと思ったので、街角でタクシーを拾った。 タクシーの運転手は中国人であったが、日本語をよく知っていた。

 私は座席に坐ってから、「横浜正金銀行員、吉元一別の家に行けるか。」 と尋ねた。 運転手は、「大人 (タージン) は、今日、青島、来たか」 と質問して、バック・ミラーに映る私を偵察している様子であった。

 私はその時、背広を着ていたが、立派な服装とは言えなかった。 靴はよく磨いてあったが、疲れたドイツ・ボックスの踵が大分すり減っていたし、背広は、服地は良かったが、着慣れないので、スマートな着こなしではなかった。

 ワイシャツは新しかったが、カラーが高く飛び出して (当時ワイシャツとカラーは別仕立が正式であった。) ネクタイは、背広の柄に合っていなかった。 頭髪は長くオールバックにしていた。 筋骨は隆々として、顔は日に焼けて真黒だし、パイロットだから眼相は悪い。

 運転手は、私を何者と判断したか知らないが、私はポケットに200円 (現在の約30万円) 以上の金を持っていたので、どこに放り出されても、一夜の宿に困ることはないから、悠然と構えて運転手に質問した。

 「行けるのか。 行けないのか?」

 「大人は私の車に乗ったお客さんだよ。 行くよ。」

 「場所を知らなくても行くか?」

 「行くよ。」

 泰然たるものである。 全く愛嬌のない奴だが、何となく面白そうな若者であった。

 「それなら行ってくれ。」

 タクシーは、行方定めぬままに走り出した。 そして、先ず支那人街に入った。 やがて、ワンポツの溜りの中で止まり、運転手は車を降りて、彼らから道順を聞いている様子であった。
(続く)

2009年10月26日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その44

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第7話 青島夜曲 (3)

 5、6分経ってから、運転手は無表情のまま再びスタートした。 自信ありげな行動であった。 迷路のような支那人街を通り抜けて、二十分ばかり住宅街を走り、やがて、銀行社宅群らしい淋しい街角に車は止まった。 街灯はなく暗かった。

 「ここから先、私の車、入れない。 歩いて行く、宜しい。」

 そして、すぐ近くの家を指して、「この家から五軒目、吉元さんの家。」

 私は運転手の言うことを信じた。

 「いくらか。」

 と聞くと、彼は、伝票とちびくれた鉛筆を出して、「ここ、サインする宜しい。」

 「いや、俺は正金銀行員ではないから、金を払う。 俺は、今青島に来たばかりだよ。」

 「ここ、署名する宜しい。 大人の名前書く宜しい。」

 「俺は、吉元一別の友人だけれど、特別親しくはない。 私が金を払うんだ。」

 「私、月末、吉元さんの家に伝票持って行く。 金を貰う。 大人は金払わない、宜しい。」

 彼は断固として退かない。 私は、彼の目を暫く見つめた。 微動もしない目玉であった。 私はとうとう敗けてサインした。

 彼は丁寧に頭を下げて帰ろうとする。 彼は単なる街の流しタクシーの運転手なのだ。 サインだけ貰って帰るというのはどういうことになっているのか、私にはよく解らない。

 私は、もっと彼と話がしたくなったので、

 「8時半、私、ここから、胡月飯店 (青島一番の高級料亭) に行く。 お前、迎えに来るか。」

 彼の日本語調と同じ調子で話しかけてみた。

 「大人、8時半、ここで私の車に乗る、宜しい。」

 8時半までに、2時間以上ある。 その間に、彼は一稼ぎしてくるだろう。 私は振り返りもせず、従兄の家へ歩いて行った。
(続く)

2009年10月27日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その45

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第7話 青島夜曲 (4)

 運転手の言う位置に、従兄の家があった。 私は従兄と一杯傾けながら、この運転手のチケットの話をした。 従兄は、それについて、次のように説明した。

 「流しタクシーに限っていない。 街のどこに駐車している人力車でも、大きい店舗を張っていない三文商店 (行商は別) の掛け売りについても同じことが言えるのだ。

 私の家では、過去二年間、伝票に間違いがあった例はない。 それは、彼らが相手をよく観察して最終的には彼らの利益になると計算をして、売り掛け伝票を切っているからだ。

 今夜の流しタクシーの運転手は、吉元一別という正金銀行員の過去2年間の実績と、君を日本海軍の将校だと見抜いたからやったことであろう。

 私は私の面子のために、月末にその運転手に金を払うが、君に理解してもらいたいことは、このような習慣が青島市にできたのは、初めから、日支両市民がお互いに相手の人格を信頼しあって生まれた習慣ではないということだ。 そんな甘っちょろいものではないのだよ。」

 「俺は、それをもっと聞きたいな。」

 「支那人は、同業者相互は、極めて激しい競争をするが、しかし同時に、同業者が強く団結して、相互の生活を守ろうとする意識は、更に激しく強いものだ。

 例えば、私が今月末に、伝票を持って請求に来るその運転手に君が乗ったタクシー代を、何らかの理由を付けて払わないと仮定する。 そうすると、来月になって、もし私が街でタクシーを拾おうとしても、どのタクシーも私の乗車を丁重に拒否することはほぼ確実だ。

 タクシーだけではない。 人力車にも態よく拒否されることになると思う。 但し、現金でうんと高い料金を払えば、乗れることは乗れる。

 更に数か月後には、商店が私の家に掛け売りをしなくなるだろう。 そして、万事現金決済で、しかも高値を我慢しなければならない。 私の面子はつぶれ、この街には極めて住み難くなるのだ。

 このことは、この街に流れて来るやくざ者には、日本人であれ、支那人であれ適用されない。

 どうだ定君、解るだろう? 人間的信頼よりも、職業人の生き抜くための知恵が裏面にあるということが解るだろう?」
(続く)

2009年10月28日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その46

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第7話 青島夜曲 (5)

 私はこの話を聞いて、青島の市民生活の、節度のある一面と、強靭な商魂を同時に知った。 しかし、面子ということについては、まだ十分には解らなかった。

 面子ということには、内面的な倫理の支えがあるのか無いのか、それが必要なのか不要なのか、対社会的責任の内容はどのようにとるのか。 私はそれも知りたかった。

 「君の話によれば、あの運転手は、君の面子を利用した賢い男ということだけになる。 あの運転手にも、青島市民の一人としての面子があるだろう? それはどうなんだ?」

 「勿論、相手の面子を利用した彼らの商魂はたくましいし賢明だ。 また、彼ら自身にも面子はある。 説明が難しいが一面だけを言うと、彼らの面子は、私達が彼らの商魂や職業そのものを尊敬し、信じあい、相互の生活秩序を守りあった歴史の中から生まれたとだけ言っておこう。」

 「そうか。 解るような気がする。 俺は、相手の面子を商売に利用した支那人の生き方よりも、今君が言ったように、日支両市民に相手を信じあう人間性が育ってくれたことに興味を感ずるよ。 彼らの金儲けの手段が、多くの市民の道徳教育になったとは、やはり孔子様の生まれた国だな。 そう言えば、孔子の誕生地が近いなあ。」

 「感心し過ぎるのは困るじゃないか。 君は彼らと戦争しているんだろう?」

 「感心は感心。 戦争は戦争だ。」

 「そういうものかなあ。 それから、もう一つ言っておきたい。 君は金持だが、彼らは明日の生活にこと欠くほど貧乏なのだ。 彼らが本当に食えなくなると、私達日本人の考えている単純な信頼とか、信義とか、面子というものとは大分違ったものを見せることがある。

 それは、支那人と一緒に住んでみなければ解らないもので、簡単に説明のしようがない。 君はこれから永く支那に住む機会があるから、私が今説明できなくても、いつか解る時があるだろう。」

 私は8時半が近づいたので再会を約し、例のタクシーが迎えに来るから帰ると言うと、従兄は、

 「そうか。 そうだったのか。 君は、そのタクシーが、君が降りた後2時間働いて、8時半になったら、さっき君が降りた場所に来て、君を待っていると思っているのか?」

 「そうだ。」

 「そんなことはないと断言してもよい。 そのタクシーは、2時間、君の降りた場所を一尺も動かず待っていただろう。 恐らく、真夜中まで待ってくれと言えば、待ってくれたであろう。 それは、君に対する個人的な感情も動いていると思うけれど、本当は、日本人には解り難い。

 強いて説明すれば、2時間働くために中心街に帰れば、8時半にこちらに来られない条件が生まれるかも知れないことを、運転手は恐れるのだ。 それは、運転手の面子にかかわるからだと思ってやってほしい。」

 「ありがとう。 良いことを教わった。 本当にありがとう。 運転手に、別に金を渡してやるのか?」

 「君にはその必要はない。 金を渡しても運転手は喜ばないのが普通だ。 不思議そうな顔をするかも知れないな。 私が月末に措置するから委しておけよ。」

 「うん。 ありがとう。」
(続く)

2009年10月29日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その47

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第7話 青島夜曲 (6)

 私は従兄の家を辞して、タクシーとの約束の場所に行った。 従兄の言うとおり、タクシーは待っていた。 運転手は座席に坐ったまま、じっと待っていたのだ。 2時間、空間の一点を凝視したまま、目玉も動かさなかったのではないかと思われるような姿勢であった。

 私は時計を見て、一分一秒も間違えないようにタクシーに乗った。 私は、運転手に一言もねぎらいの言葉をかけなかった。 彼も亦、一言も言わなかった。 そして車は、20分後に胡月飯店に着いた。

 私は、この運転手が好きになった。 従兄が先刻、「日本人は直ぐ相手を好きになるが、また、直ぐに相手を忘れてしまう」 と言ったのを想い出して、後めたい気になったが、このまま別れるのが惜しい気がした。

 春の宵ではあるし、窈窕 (ようちょう) たる支那娘 (くーにゃん) が沢山その辺を歩いている。 十分後には、私達の酒宴も始まるのだ。 街はざわめき、赤いランタンが仄かに揺れている。 楽しい時には、誰にでも親切にしたくなるものだし、人が恋しくなるものだ。 それは悪いことではない。 私は彼に頼んでみた。

 「俺は中国人の作った靴を買いたい。 靴屋に連れて行ってくれるか。」

 「車は行けない。 歩いて行く。」

 彼は車から降りて来た。 彼の顔をよく見ると、未だ21、2歳の青年だ。 眼光鋭く、挺でも動かぬ面魂を見せている。 私は彼の案内するままに路地に入った。

 間口の狭い奥行の深い一軒の靴屋に入ると、彼は主人と暫く話していたが、やがて主人は、奥から素晴らしい靴を十数足運んで来た。 私は足に合わせて二足買った。 14円であった。 (戦後2、3年まで私の最良の靴となった。)

 私は気に入った靴が買えたので、運転手に 「ありがとう」 と大きい声で丁寧に礼を言って頭を下げた。 彼は得意満面で、今まで無表情だったのが、嬉しそうに笑った。

 これが、彼の面子であったのだ。 もしこの時、私が彼に、お礼として金を渡そうとしたら、恐らく彼は、生涯私を恨むであろうし、日本人を侮辱するようになったであろう。 このようなことも、当時の中国人が身に付けていた意気地であり、誠意であり、彼流儀の信義であったのだ。

 私は靴屋を出て歩きながら、改めて彼に尋ねた。

 「今夜12時、サンパンで、一番大きい沖の艦まで送ってくれる船頭を知らないか?」

 「沢山、沢山いるよ。」

 「それはお前の友達か?」

 「私の弟、舟で荷物を運ぶ仕事をしているよ。」

 「弟は年はいくつか?」

 「15だよ。」

 「そうか。 12時に、桟橋の灯りの直ぐ下で待っているように、約束できるか?」

 彼は少し考えていたが、「私の弟、大人の顔知らない。 困るよ。」

 「それでは、この靴の包みを渡すから、これを持っている者が君の弟だ。 俺の名前は 「定」 というから、弟に俺の名前を呼ばせてくれ。 お前が弟に教えればよい。」

 「解った、大人、12時に待っている。 約束するよ。」

 彼は、私の靴の包みを抱くようにして、自動車に乗って走り去った。
(続く)

2009年10月30日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その48

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第7話 青島夜曲 (7)

 私は、この中国青年との出合いを心から嬉しく思った。 胡月で飲んだ酒は、そのため一層楽しいものになった。

 青島芸者は美人が多かったし、老酒も支那酒も支那料理も甘かった。 隊員達も相変らず無遠慮で面白い奴等ばかりだし、夜の更けるのを忘れて飲んだ。 そして、皆飯店に泊った。

 私は翌日が当直日であったので、どうしても帰艦しなければならなかった。 12時30分前、飯店を出て桟橋に向かってぶらぶらと歩いた。 大分酔っていた。

 暫く行くと、いつの間に側に来たのか解らなかったが、清楚で若く美しい支那娘が、少し遅れ気味に並んで歩いていた。 私が立ち止まると彼女も立ち止まった。 そして 「先生、艦に帰りますか」 と言った。 私は、うなずいたものの、ますます酔を発する思いだった。

 彼女はどこまでも従いて来る。 何故か解らない。 私は、この娘に解るとは思わなかったが、彼女に因んで、中国の古代民謡を唄った。

     桃 (とう) の夭々 (ようよう) たる
           灼々 (しゃくしゃく) たるかな、その華 (はな)
     この娘 (こ)、千 (ゆ) きて帰 (とつ)がば、
           その室家 (しつか) に宜 (よろ) しからん
     桃の夭々たる、
           げに、其実 (そのみ) はふんたり (「ふん」は草冠に「墳」の旁)
     この娘、千きて帰がば、
           その家室 (かしつ) に宜しからん
     桃の夭々たる、
           その葉は秦々 (しんしん) たり
     この娘、千きて帰がば、
           その家人に宜しからん
                           (詩 経)

 「詩経」 の国風の一節であった。 この詩を唄っていると、どこの娘も、優しく懐かしく思えたが、この娘を特に可愛いいと思った。 歌詞のとおり、誰からも喜ばれ、祝福されてお嫁に行って幸福になればいいと思った。

 娘は、小港の突堤まで従いて来た。 桟橋に出ようとした時、彼女は突然、支那語で早口に喋り始めた。 しかし、私にはよく解らない。 彼女の名前が永方であることと、私が今から小舟で帰るのかということを、繰り返し尋ねていることだけは解った。

 私がうんうんと頷いても、彼女は心配そうな顔をしているので、12時になったら小舟に乗ると言って、彼女に時計を見せて説明した。 彼女は、なぜか大急ぎで歩み去った。

 約束した桟橋の舷灯の下に、小舟が一隻、繋いであったが、船頭は見えなかった。 桟橋のとっつきで、一人の老人が 「テイシー、テイシー」 と呼んでいるのは見えたが、その男は老人だし、靴の包みは持っていないし、約束の船頭とは思えなかった。

 私は12時になったので、小舟に乗って待っていた。 「龍驤」 機関長〇〇少佐の乗った小舟が、真暗い沖に向かって漕ぎ去るのが見えた。 私は、船頭のことは忘れて、支那人街の赤い灯を眺めていた。

 12時を過ぎたのに、飲み歩く人の姿は多かった。 恐らく、世界各国のスパイ、戦争商人、日本から流れて来た食いつめ浪人、青島市のその日暮らしの労働者が、豺狼のように獲物を求めている姿であろう。 この姿は、古代からこの港の一つの風物ではなかったか?

 この港は、七世紀の初頭以来、日本の遣支使節が寄港することもあった。 当時、那の津(博多、那珂川河口)を出港し、対馬を経て、朝鮮半島を北上し、江華湾から南西に大きく針路を変え、山東半島の東端に辿り着き、青島、連雲港を経て、海州から大運河を通って北航し、黄河に入り、遡航して洛陽に着く。

 老人向きの舟航専用便であったが、青島は、この航程の中間に当る港であった。 その頃にも、この小港に、多くの日本人が寄航して酒を飲み、支那娘と仲よく進んだに違いない。

 私は、さき程の永方という娘のことを想いながら、いつの間にか眠ってしまった。
(続く)

2009年10月31日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その49

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第7話 青島夜曲 (8)

 突然、「大人!定大人(テイタージン)」 と言う声に夢を破られた。

 運転手がやって来たのである。 老いた船頭を従え、その船頭が靴の包みを持っていた。

 「大人。 私の弟小さい。 弟力無い。 この人舟漕ぐこと上手、弟と代った。 大人、この人と行くか。」

 その船頭を見ると、先刻から 「テイシー、テイシー」 と呼んでいた老人であった。

 「よし。 この老人の舟で帰る。」

 彼はほっとした表情で、靴の包みを私に渡した。 その時、ふと30米ばかり彼方の突堤上の電柱の陰に、永方が心配顔でこちらを見ていたので、私は思わず、「永方!」 と呼んだ。 永方は、私の方を向いて丁寧に頭を下げた。

 運転手が、「定大人、永方は私の妹。」

 私は驚かされた。 少しも似ていない。 私は先刻、永方を連れて飯店に行き、酒を飲もうかな、と思った不純さを恥かしく思った。 歩きながら、永方の手を握ったわけでもないし、肩に手を掛けた覚えもないが、心ではそれを望んでいた。

 それを実行に移さなかったことにホッとしながら、今までの6時間の経過を考えた。 それは恐らく次のようであろうと思った。

 私が胡月で飲んでいる間に、運転手は、弟に私を艦に運ぶように要求した。 弟は、私を遠い沖合の母艦まで運ぶ自信が無かったので拒絶した。 運転手は別の老練な船頭を雇い、妹の永方にそのことを言い含めて、私に伝えさせようとしたが、永方は日本語が下手で、それを私に伝えることができなかった。

 一方、雇われた老船頭は、波止場で 「定」 と呼ぶのは失礼になると思って 「定先生 (テイシー) 」 と呼んだので、聞き慣れない私は気がつかなかった。 永方も老船頭に気がつかなかったのであろう。

 そこで永方は、12時に私が一人で小舟に乗るというのを確かめて、急いで街に行って、運転手たる兄を捜してそれを告げた。 兄は急いで妹を連れて桟橋までやって来た、という順序であろう。

 私は、彼等の応接を心から嬉しく思った。 身分は、一介の、その日暮らしの労働者でも、人間としての面子を貫こうとしている。 それは、彼の今夜の行動の中にはっきり見えた。 もし仮に、彼に社会的の地位、能力、身分が有ったとしても、今夜以上の面子を貫くことはできなかったであろう。

 愛すべき青年兄弟であった。 中国の学者、文人は、一般に、これを面子とは言わないが、しかし私は、これを人間的面子と考えたかった。

 魯迅は、社会が、一個人の能力受地位を認めることを、その個人が社会に対して自覚するところにだけ面子が存在すると言っているが、私は、対社会的には関係なく、個人対個人の間で感ずる意気地、信義、誠実、善意等を綜合して、これを面子と呼んでもよいと思った。 
(続く)

2009年11月01日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その50

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第7話 青島夜曲 (9)

 くどいようだが、私が運転手と会ったのは、僅か6時間前である。 それからの彼は、私のために3時間働いた。 彼の妹は、兄から頼まれて、2時間ばかり、私を捜したり、待ったり、見張ったりして、その末に、私の下手な歌を聞き酒くさい息を吹きかけられながら20分間一緒に歩いた。 そして彼等は、2円足らずのタクシーのチケットに私のサインを貰ったのが、その報酬の総てであった。

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( 原著より )

 私はこの時26歳、彼は21、2歳、妹は18歳くらいであった。 私達は若かったから、戦争を越えて夢を持ち、僅かの機会にも善意を示し、誠実に意気地を貫いたのだ。 そこには、貧富の差も、権力も、商売気もなかった。

 ただ共通に存在したものは、若さと、将来に対する可能性だけであった。 日本人流の解釈かも知れないが、私は、これが二人の間の面子だと考えてもよいと思ったのだ。

 改めて、この運転手をつくづくと見ると、まだ春は浅く、夜は寒いのに、支那ズボンに、メリヤスのシャツ一枚である。 髪は日本の兄んちゃん刈りにしている。 貧しい服装ではあるが、清潔で、若さが溢れていた。

 私は、彼らに対して、私の身分相応の返礼とともに、人間的面子を示さねばならない順番だと思ったので、一度小舟を降りて、彼に、明後日午後5時、運転手としての仕事を休んで、ここに待つように言った。 永方も一緒に連れて来いと言った。

 なかなか理解しなかったが、5分ばかり説明すると、私の意思が通じたらしく朗らかに笑って快諾し、永方にも手を上げて合図をした。 明後日は、彼らを飯店に招待するつもりであったが、会食の場所と贈り物については、帰艦してから考えようと思った。

 やがて、小舟は桟橋を離れた。 午前1時半であった。 私は、二人の影が突堤の灯りの中に溶け込んでしまうまで立っていた。 彼らも、いつまでも立ち尽くしていた。

 港の灯が、だんだんと靄に霞み、背後の山が、黒々と街の灯を包み込んだ。 舟底に横になって、ギイーッ、ギイーッと鳴る櫓のリズムに揺られ、いつか深い眠りに落ちて行った。 夢に永方が現われなかったのが残念であった。

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( 原著より )

 それから4日後、「龍驤」 は青島を出発した。 そして黄海から東支那海へと南下して行った。 訓練の余暇に、艦爆隊総員をフライト・デッキに坐らせて、青島市での私の体験を細かく話した。

 その時、運転手永隆と、その妹永方を、中国飯店に招待したこと、その時二人は見事な服装をして来たこと、翌朝、永方から美しい金糸銀糸の刺繍を貰ったことなど、総て披露した。

 話の主旨は、艦爆隊が最も強調していた誠実と信義ということについてであったが、隊員達は、二人の青年兄妹が誠実で謙虚に生きている人間であることが、よく解ったようであった。

 永方は、青島市郊外の、日本人経営のメリヤス工場の織り姫であった。 (その工場は、文化革命の後、大工場に発展しているという。)

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( 原著より  青島沖に停泊する 「龍驤」 )

 機動部隊は、やがて、上海沖から針路を東にとり、九州細島に向かって、ホームスピードで走り続けた。
(第7話終)

2009年11月02日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その51

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第8話 南寧整備隊 (1)

 南寧の基地は、中国南部広西省 (僮族自治区) の省都南寧市の北東郊外、珠江の支流西江 (鬱江) のほとりの広漠たる黄土の台地上にあった。 市の中心部から自動車で30分の距離である。

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( 原著より )

(注) : 本項で出てくる 「南寧航空基地」 の具体的な場所については判りません。 手持ちの戦後地図や現在の Google Earth などを捜してもそれらしい地点は見つかりません。 南寧市の南西に現在は 「南寧国際空港」 というのがありますが、もしここだとすると記述の内容とは合いませんし、後掲写真のような川岸風景とも違います。 もしご存じの方がおられましたら是非ご教示をお願いします。


 昭和15年3月、賓陽作戦の時に日本陸軍が急造したもので、格納庫や整備施設は何もなく、隊員の宿舎も市内の中学校を利用したくらいで、いわゆる野戦基地であった。

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( 原著より  白矢印で示すのが著者 )

 もともと南寧附近の農地は、毎年六月頃西江の氾濫によって冠水し、広漠たる黄土が沃野に変る。 この時、農民は低地に籾を蒔いて、それが実るまで放置する。

 つまり、農地といっても畔があるわけではなく、農道もない。 稲が実る時は雑草も繁るので、収穫は雑草の間から稲の穂先を切り集めるばかり。 乾季が来れば、その稲も雑草も枯れて、農地はもとの広漠たる黄土に還るのだ。

 農地の所有権は、2、3米の小高い所から周囲を見回して、人間が立っているか坐っているか見分けられる範囲が〇〇家所有の農地という決め方であって、物的境界線があるわけではない。 太古のままの大地である。

 このような農地の高めのところを4、50糎削ってその土で低地を埋めて、2、3噸の手押しローラをかけると、そこが着陸帯になったわけだ。 南寧飛行場とは、このような飛行場であった。

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( 原著より )

 だから、大型天幕を三つ四つ張って中に丸太棒でシャースを組んで、整備格納庫を急造し整備用の工具類を搬入したのであった。

 その器具工具類は、クレイトン付トラック 1、2台、可搬式エンジンベッド 2、3台、爆弾運搬車 5、6台、木製の階段式整備台、キャタツ、小型発電機、空気ポンプ、プラグ研磨機、ガス熔接器、トーチランプ、万力、金工台、機銃手入台、大型箱入整備用セット及び整備員の作業服の腰に挿したドライバー、スパナー、プライヤー、組レンチくらいであった。

 この他には、器具、工具らしいものはなく、濾過器や脚オレオ等のパッキング整備には、整備員の指の爪が最良の工具となった。 こんな状態だから、夜間整備はできないし、雨が降ったら、休業になったし、整備技術も山勘でやるしか腕の振るいようもなかった。

 しかし搭乗員は整備員の腕を信じて、安心して彼等の整備した飛行機に乗って出撃したのであった。 そして、攻撃から帰ると機材の状況を詳しく彼らに報告し、彼等はそれを受けて懸命になって整備するというコンビネーションが生まれたのであった。
(続く)