2010年07月03日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その56

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (12)

   その4 母艦機の事故 (承前)

 以上が、第二次ソロモン海戦に於ける第二次攻撃隊の戦闘の経過である。

 この合戦の後、艦長を始め 「瑞鶴」 乗組員と搭乗員の絆は鉄鎖より強くなり、それが2か月後の南太平洋海戦に於ける日本軍の圧倒的勝利に発展したのであるが、それは暫く措いて、この経過を含めて、母艦と搭乗員の関係について考えてみよう。

 先ず第一に、私達は母艦だけが頼りである。 また一方、「瑞鶴」 は日本海軍の主力艦であり、虎の子であったから、なおのこと一心にその安泰を祈った。

 ところで、航空母艦の安泰ということを深く堀り下げていくと、搭乗員達にとっては一つの矛盾に到達する。 というのは、母艦が敵の爆撃と雷撃に対して安泰であるためには母艦を守る多くの直衛戦闘機が必要である。 それは、攻撃部隊の直衛戦闘機が少なくなることを意味する。

 この問題は攻撃部隊の編成の時、パイロット達がいつも矛盾を感じたわけで、母艦の健在を願えば自分達が危険に露され、攻撃力を十分発揮できないし、自分の安全を強調すれば母艦が危険になる。

 結局、母艦の乗組員の闘志と練度、母艦の防禦力、当面の戦況、敵機動部隊の技能と作戦の巧拙、味方攻撃部隊の用兵作戦の術力等を勘案して直衛戦闘機の機数が決められたのであったが、最終的には母艦の安全性が攻撃部隊の危険性という代償で確保される傾向があった。

 その極端な例が、この海戦での攻撃隊の編成であった。 一次二次ともに、45機の攻撃隊に対し、直衛戦闘機僅か9機 ( 「瑞鶴」 保有機24機) に守られて出発したことだ。

 これは、母艦の上空直衛ばかりでなく、ガダルの上陸船団の上空直衛に戦闘機を割いたからであったが、とは言え、日米の両海上機動航空部隊の会戦第一撃に、日本側が直衛戦闘機9機で戦ったのは非常識であった。

 果して、関少佐以下54機は、敵の母艦群の手前50浬に於て、向かい風10米の中で、敵戦闘機50数機と戦って全滅したのである。 この時の編成は、〇〇参謀の愚劣な総花式机上計画によるものであった。

 一次攻撃隊の 「瑞鶴」 艦爆隊の分隊長大塚礼次郎大尉 (66期) は、

 「隊長! 仇討ちをして下さいっ! 「瑞鶴」 の健闘を祈っています!」

 と言って出発したが、これは戦死を覚悟している言葉であった。 軍人の意地と戦場心理の機微により、この編成の変更を主張することもせず、黙って死を覚悟した哀れな決死行であったが、それでもなお、彼は自分の母艦 「瑞鶴」 の健在を祈りながら出撃したのであった。

 第二点は、母艦の作戦行動と搭乗員の士気の問題だ。

 敵の飛行機の攻撃に対して、極めて脆弱な航空母艦が自分の所在位置を敵に暴露することを承知の上で、味方航空機の収容のために積極敢闘するとパイロット達は奮い立つ。 そして、母艦とパイロットの心の絆はしっかりと結び付く。 二次攻撃隊の石丸大尉9機を救った野元 「瑞鶴」 艦長の例は、その代表的なものであった。

 しかし、中には、わが母艦は日本海軍の虎の子だからと言って慎重に構えている艦長もおられた。 こんな時、私達パイロットは、虎の子を運用する人は虎の親であることが望ましく、羊の親に虎の子を運用させることは愚劣なことだと言いあった。

 以上の二点は、戦場で母艦に対し、或いは、母艦を運用する人に対して持った感懐であった。
(続く)

2010年07月02日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その55

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (11)

   その4 母艦機の事故 (承前)

 以下述べることが、第二次大戦中の第2回目の片道攻撃である。

 第一回目が、ミッドウェイ作戦中に片翼の燃料タンクが敵弾によって破壊されているのを承知の上で、部下艦攻10機を率いて攻撃に向かい、雷撃後敵の母艦の舷側に体当りをした友永丈市大尉 (既出、59期) であり、第二回目が、この時の石丸大尉の率いる9機による攻撃である。 その経過は次のとおりだ。


 石丸中隊9機が私の反転帰投の命令を受けて変針を始めた時、彼は水平線上に何物かを認めた。 それは一瞬のうちに消えた。 雲か煙か艦影か、確認する余裕はなかったが、確かに何物かが網膜に写った。

 それは、長らく洋上を行動したことのあるパイロットだけが捉え得るものであって、特に、眼球を左右に動かした時や飛行機が変針する時などに鋭敏に感知する勘である。 それは凝視すると消えるが、決して幻影ではない。

 彼は、それを敵に間違いないと思った。 しかし、直ちに 「敵発見!」 と私に報告するわけにはいかなかった。 もし、敵発見と報告して全機が三度目の反転をして全力上昇に移ったら、十数分で全機母艦に帰る燃料が不足する。

 そこで、彼はもう少し近寄って確かめようと思った。 そして針路を南西にとって、10分ばかり飛んだ。 しかし、目標を確認することはできなかったので、止むなく帰投針路につこうとした。

 ところが、その時彼は再び何物かを見たのであった。 彼はもう迷わなかった。 しかし、指揮官以下45機は既に遠くに去っている。 彼は、自分達9機だけで攻撃しようと決心した。 そして、私に何も告げずに反転して、彼の信ずる敵艦に向かって進撃を開始した。

 一方私は、彼の中隊が見えないと偵察員から聞いた時、彼は前続機の着艦所要時間だけ索敵を続けるつもりだろうと思った。 それは20分間だ。 深入りしないようにと心配したのであった。

 さて、彼は南西に向かって飛んだ。 10分! 20分! しかし、先刻見た敵の艦影は再び網膜に写らなかった。 やがて、前面に幾条かの竜巻を見た。 竜巻の彼方はスコールであった。

 スコールの中に敵がいるような予感がしたので、それに向かって突進した。 30分が瞬く間に過ぎ、もはや帰る燃料がなくなったので、最後の望みを托してスコールの中に突入した。 しかし、そこにも敵はいなかった。

 スコールを出ると、そこには広漠たるソロモン海があるばかりであった。 彼は9機の列機を振り返った時、涙が溢れた。 敵はどこにもいない。 帰る所もない。 しかし、行くべき方向は母艦 「瑞鶴」 の方向しかなかった。 孤独と悔恨にさいなまれながら、燃料の続く限り飛ぼうと思った。

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( 原著より   この日追い求めて遂に会敵できなかった敵機動部隊    
我方の索敵機に発見され速度を上げて陣形変換中の当日の記録写真 )

 以後の彼の行動については、彼の奇跡的な生還後の報告と、艦長の言葉を紹介することにしよう。

 「隊長が帰投針路に反転された時、私は南西の一角に敵を見たのです。 それは決して幻影ではありません。 そればかりは信じて下さい。 ところが、それに向かって進撃しているうちに、その艦影は忽然として消えてしまいました。

 スコールに遮られたのだと思ったのでスコールの中を探しました。 しかし、そこにも敵はいませんでした。 万策尽きた時、部下の9機の搭乗員の生命だけは救おうと思いました。

 その時、野元艦長 (既出、為輝、44期) の顔が眼前に浮かびました。 私が今から帰投すると言えば、野元艦長は私達を迎えに来てくれると思ったのです。 迎えに来てくれなければどうなるか? その時はどうしようか? と考えるよりも、艦長を信じたのです。 隊長! 私を許して下さい ・・・・ 」

 彼の言葉は涙に途絶えた。 私は言うべき言葉がなかった。 その翌日、艦長は私達の前で、

 「石丸大尉は敵中深く突入した。 これを救わなければ艦長ではない。」

 ただこれだけ言われた。 野元艦長は豪直の人であった。 石丸大尉の帰投燃料1時間半という電報を受けた時、艦長は数隻の駆逐艦を連れて全速で敵に向かって進撃した。 それは、「瑞鶴」 の運命、ひいては日本の運命を傾けるような危険性を孕んでいたが、艦長は、身を挺して突撃している部下を救わずにはいられなかったのだ。

 この愛情と勇気が、石丸大尉以下9機の搭乗員の生命を救ったのである。 9機の内6機が着艦に成功し、3機が駆逐艦の傍に着水して拾われた。 戦果こそ無かったが、その心情に於て、友永大尉の片道攻撃と変わるところはなかったのである。
(続く)

2010年07月01日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その54

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (10)

   その4 母艦機の事故 (承前)

 敵の母艦群が視界に入るのを今か今かと待ちながら、30分が経過した。 行動燃料の余力は、艦攻、艦爆隊が1時間、艦戦隊が2時間であって、更に、30分間の南進が可能だ。

 敵の逃げ足は速く、艦影はなかなか見えない。

 14、5分経った頃私の脳裏に激しい不安が閃いた。 それは、もしかしたら先刻の台風の卵の西方に敵の母艦群がいたのではあるまいか? もしそうだとしたら、急いで西に変針しなければ私達の槍先が敵に届かなくなる。

 ここで、更に30分間南進を続けるか? 西に変針して1時間索敵をするか? (もし西に変針すれば私達は扇形行動になるから、1時間索敵ができる計算になる。) 二つに一つの選択に迫られた。

 今、敵の予定地点より10浬南進している。 視程40浬を加えると、予定地点より50浬南に敵はいない。 今直ちに西に曲がって敵を求める方が正しいではないか?

 それとも、敵の逃げる方向はニュージーランドの方向であろうし、敵の推定位置は私達が出発する時3時間の遅れがあったから、あと70浬南東にいる公算もある。 このまま南進すべきか? 迷っていたら間に合わない。

 「右245度に変針せよ。 隊形はそのままとする! 急げ。」

 と下令した。 5千米の正面巾の54機は、90度右に変針を始めた。 目的地は、30分前に航過した台風の卵の南西の海面である。

 15分ばかり経つと黒雲が右前方に見え始めた。 私は再び高度を上げながら15分、高度6千米、祈る思いで敵を求めた。 後30分!

 それも遂に空しく過ぎてしまった。 敵を求めて既に4時間近い。 私の判断のどこに錯誤があったのであろうか? (この前方90浬ガダルの方向に敵はいたのであった。)

 「反転帰投する。 爆弾、魚雷は特令するまでそのままとせよ。 基準針路340度。」

 無念であった。 全機は5千米の正面巾を縮め、長蛇の航行隊形へと転換しながら変針を完了した。

 これからが大変であった。 もし翔鶴の背中の損傷が復旧していなければ、全機54機が 「瑞鶴」 一艦に着艦しなければならない。

 一機20秒間隔で着艦しても約20分を要するが、燃料の余裕は15分しかない。 航法誤差が20浬出たら、更に10分間の燃料が不足する。 しかも、日没は7時45分、母艦艦上到着は8時半を過ぎるのだ。 どんなに幸運でも、約10機は駆逐艦の側に着水しなければならなくなるだろう。

 私は保針と一定気速の保持に専念した。 この頃、

 「隊長! 艦爆が9機おりません!」

 と偵察員が言う。

 「何っ! よく見ろっ!」

 「ハイッ! 先刻から何回も数えているのですが、うちの艦爆隊9機が見えません。」

 「石丸中隊だな?」

 「そうですっ!」

 「よしっ、心配しなくてもいい。」

 と私は言った。
(続く)

2010年06月30日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その53

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (9)

   その4 母艦機の事故 (承前)

 いよいよ旋風の東側が目前に迫って来た。 雲は南側にどの程度広がっているのか解らないが、その下に敵の母艦がいることはほぼ確実である。 猪突猛進だけが残されていた。

 その時であった。 後席の偵察員の国分飛曹長が、

 「隊長! 今うちの母艦が敵機の攻撃を受けています!」

 と言う。

 「結果はどうだっ!」

 「よく解りませんが、「翔鶴」 がやられたようです。」

 「何っ! 沈んだのかっ?」

 「いいえ、沈んだのではありません。 母艦上空の味方の飛行機に対して収容不能と言っています。」

 「無線封止を解いたのか?」

 「そうです。 それと、第三次攻撃の準備を指令しているようですが、よく聞き取れません。」

 「その他に何か情況は放送していないのか?」

 「ありません。 「瑞鶴」 は完全に沈黙を守っています。」

 私は前方の雲に注意力を集中しながら、この情報から更に戦況を考えた。 敵の攻撃隊が数分前に 「翔鶴」 に攻撃を加えた。 幸いに、被害は軽微のようだ。 1時間後には復旧し、私達の帰るべき背中は健在となろう。 それはいい。

 私の関心は、「翔鶴」 を攻撃した敵機がどの方向に帰ったかということが重大なのだ。 それを私は知りたい。

 もし、敵機が南西ガダルカナル島に向かって帰ったのであれば、敵空母群はわが第一次攻撃隊によって被害を受け、南東方向に遁走中だと判断する。 もし、敵機が南南東に帰ったのであれば敵母艦群は健在であり、われに決戦を挑もうとしていると判断する。 そのどちらであろうか? 味方司令部からは何の知らせもなかった。

 私は5分前に決心したとおり、約10度東へ変針して雲の側面を航過した。 右側の鶴翼の9機が薄い乱雲の中に見え隠れした。 いよいよ5分後には敵が現われるだろう。 全神経を右前方の雲下に集中しながら徐々に針路を南にとった。

 そして5分経った。 しかし、敵影は見えない。 念のため更に5分間敵の出現を待って南進したが敵輪型陣も見えず、敵機も現われない。 この時初めて、敵は確実に遁走中だと判断した。

 私達は、高高度に上昇するために時間を浪費し過ぎた。 燃料の続く限り急追しなければ逃げてしまう。 高度8千5百米から3千米に下げながら全速で南下を始めた。 今、敵空母は傷ついている。 絶好のチャンス到来だ。 戦々兢々の緊張は消えて意気天を衝く気概に変わり、54機全機に気魄が溢れてきた。

 「無線封止を解く、全軍突撃準備隊形のまま進撃、雷撃隊は高度2千米とせよ。」

 檮原大尉 (ゆずはら正幸、66期) は9機の 「瑞鶴」 雷撃隊を率いて左翼前面へ、「翔鶴」 雷撃隊清宮 (鋼、65期) 隊は右翼前面へ降下進出した。 艦爆隊27機は、中央に私の指揮中隊9機、左翼に石丸中隊9機、右翼に 「翔鶴」 の山田 (昌平、65期) 中隊9機、これら攻撃部隊全機の正面巾は約5千米、その上空3千米に零戦9機が蛇行しながら続いた。
(続く)

2010年06月29日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その52

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (8)

   その4 母艦機の事故 (承前)

 私が 「瑞鶴」 を発艦したのは、8月24日の午後3時15分 (1515) であった。 部下53機がこれに続いた。

 この時の私の心境は極めて複雑なものがあった。 それは、この作戦が成功すればミッドウェイの復讐ができて泉下の戦友達は喜ぶだろうし、現在死闘中のガダルカナルの日本軍将兵の生命を救うことになるのもよく解っていたが、この作戦には不安な要素があまりにも多すぎたのだ。

 第一は、敵情が私達攻撃部隊に知らされたのは敵発見後3時間の遅れがあったこと。
 第二は、攻撃部隊の編成が建制を破り、「瑞鶴」 と 「翔鶴」 の混成であったこと。
 第三は、戦闘機をガダルカナル上陸船団の直衛に割いて、私達の直衛戦闘機は僅か9機しかいなかったこと。
 第四は、日本の母艦群は敵の陸上航空基地エスピリットサンドに近く、その攻撃圏内を行動していること。
 第五は、日本の機動艦隊の部隊区分が、本隊、前衛、別動隊に分れ、私達は母艦発艦後、どこから敵の情報を入手できるのか (発艦後の飛行部隊は司令長官直率となる) 不安を感じていたこと。
 第六は、私達の2時間前に出撃した関衛少佐の率いる第一次攻撃隊の情報が全く不明であったことなどであった。

 発艦後1時間半、天気は快晴で一点の雲もなく、3千米附近の風は南東16節の向かい風で、私達にとって最悪の条件であった。 関少佐からの敵情は相変わらず入手できなかった。 ともあれ、私達54機は敵を求めて一路南下した。

 1645、母艦を飛び立ってから1時間45分、敵の予定位置から90浬の地点にさしかかった。 私は30分後、または1時間後に起こる戦闘の様相を分析していた。

 その第一は、第一次攻撃隊の雷爆撃によって敵の母艦が火災を起こし、気息奄々としながらも、全力を挙げて南東方に遁走中の場合だ。

 この場合は敵母艦の位置は予定地点より7、80浬逃げ延びているかも知れないが、そ奴を追いかければ、黒煙が見えて発見は易しい筈だし、上空に戦闘機は少なく、これを撃沈することは極めて易しい。

 その第二は、敵の母艦群は健在であり、敵の戦闘機群は第一次攻撃隊を撃滅して士気大いに揚がり、私達第二次攻撃隊の出現を手ぐすね引いて待っている場合だ。

 この場合、敵は今50浬圏内にあって、20分後には約50機の戦闘機が碧空をバックにしてゴマを撒いたように私達に向かって進撃して来るだろう。 その2、3分後には味方の零戦9機との空戦が始まり、同時に、私達艦爆隊の上空に弾丸のように突進して来る。 私達は全滅の危険性があるだろう。

 どちらの可能性が強いか解らないが、最悪の事態に備えて、艦爆隊と戦闘機隊の36機を高度8千5百米に上げて、鶴翼の陣形を取り、艦攻隊18機を高度3千米で一列横隊とし、突撃準備隊形を取ったのであった。

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( 原著より  突撃準備隊形 )

 前面30浬附近に台風に発達中の旋風と竜巻が見え、雲頂は1万2千米くらいで南側にスコールを伴っているようであった。

 一次攻撃隊の情報を聞きたかったが、司令部からは何の通知もない。 もはや最悪の事態が起こる公算が最も強く、前面の台風の卵を最善活用する以外に戦勝の道はないと思うのであった。

 言うまでもなく、台風の外周の東西両側面の風向は正反対である。 そして、南半球の台風はクロックワイズ (時計回り) に旋転する。

 この旋転する風の追い風に乗って敵に殺到することができれば、敵の戦闘機が50機以上いるとしても、敵の母艦上空に到達するまでに私達を追尾攻撃できる回数は各機3回以下となり、艦爆隊の被害は50パーセント以内、50パーセント以上が敵母艦上空に殺到することが可能である。

 また、わが雷撃隊も敵の母艦の正横3千米、高度零米に接近するまで、敵戦闘機の追跡時間が短く、被害は少ないであろう。

 この風を、天与の幸運として捕えることができるかどうかが戦勢の鍵だ。 私は、段々と近づいて来る旋風の東西両側の雲の乱れを見つめた。 そして、それまで敵機が現われないことを祈った。
(続く)

2010年06月28日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その51

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (7)

   その4 母艦機の事故

 昭和17年8月24日、第二次ソロモン海々戦の第二次攻撃隊の作戦行動中に、故海軍少佐石丸豊君 (66期) の勇敢な独断専行があった。 初めにお断わりしておくが、以下の内容は、公式の戦史に照合して修正してある。

 なお、故海軍少佐石丸豊君は、この戦闘の2か月後の10月26日、サンタクルーズ群島の東方洋上、南緯10度東経170度附近で日米の両機動部隊が衝突した時、敵の戦闘機と戦って重傷を負いながら、部下6機とともに敵の航空母艦 「ホーネット」 の上空に殺到し、これを撃破した。

 その後帰投針路について約3時間、味方の母艦の上空まで辿り着いたが、力尽きて着艦できず、駆逐艦の傍に着水した。 駆逐艦の乗組員達は彼を扱い上げて介抱したが、「俺は瑞鶴艦爆隊!」 の一言を残して不帰の客となった。


 昭和17年8月24日1300、ソロモン海で日米の海上機動航空部隊が衝突した。 この会戦を日本は 「第二次ソロモン海戦」 と呼び、アメリカは 「東部ソロモン海戦」 と呼んでいる。

 その当時の戦局一般について簡単に触れると、17年8月に入ってアメリカの反攻作戦が開始され、強力な上陸部隊が8月7日にガダルカナル島の一角を占領した。

 ガダルカナル島は、オーストラリヤの北東約千浬の洋上に点在するソロモン群島の中の一島であって、日本の南方作戦の最大の拠点ラバウルの南東560浬にあり、また、アメリカの反攻作戦基地エスピリットサンドの北西560浬にある。 両基地から等距離にあったので、両軍の作戦上の天王山となった。 この島の周辺と南西部をソロモン海と呼び、その南方を珊瑚海と言う。

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( 原著より )

 米軍の上陸によって開始された島内の戦闘は、日を追って激しくなり、その支援をめぐってこの島の周辺海城で日米両海軍の激闘が始まった。 それはソロモン海全域に拡大し、3週間後の8月下旬には、日米の全戦局を支配するような、退くに退かれぬ決戦の様相をおびるようになった。

 その勝敗の鍵は、言うまでもなくソロモン海の制空権の確保であって、ここに、日米の海上機動航空部隊がソロモン海と南太平洋上で雌雄を決することになったのである。

 その一連の会戦が、17年8月8日の第一次ソロモン海戦、8月24日の第二次ソロモン海戦、10月11日のサボ島沖海戦、10月26日の南太平洋海戦、12月13日の第三次ソロモン海戦の5つの会戦であり、その中で両軍の機動航空部隊の決戦が、第二次ソロモン海戦と南太平洋海戦であった。

 8月24日1300、第二次ソロモン海戦の幕が切って落とされた。 日本側は第一次攻撃隊として、「翔鶴」 艦爆18機、艦攻9機、艦戦9機、及び 「瑞鶴」 の艦爆9機、艦攻9機、合計54機が 「翔鶴」 艦爆隊長 関衛少佐 (58期) に率いられて発進した。 攻撃目標は航空母艦 「サラトガ」 と 「ホーネット」 であって、その予定位置は 「翔鶴」 の160度300浬の地点であった。

 続いて1500、第二次攻撃隊として 「瑞鶴」 の艦爆18機、艦攻9機、艦戦9機、「翔鶴」 の艦爆9機、艦攻9機、計54機が、「瑞鶴」 艦爆隊長 高橋定大尉 (私) に率いられて発進した。 目標は155度300浬附近の 「サラトガ」 と 「ホーネット」 であった。

 以下、私の率いる54機の作戦の経過について述べる。
(続く)

2010年06月26日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その50

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (6)

   その3 母艦のオペレーション

 母艦1万噸は、「陸上中型航空基地 (徳島基地程度)」 に相当する。 そして、着陸帯の狭さだけが陸上と比較にならない程狭かった。

 例えば、1万噸級母艦 「龍驤」 の背中に搭乗機36機を並べると、一番前の飛行機から艦首までは約60m弱しかなくなる。

 だから、全機連続発艦をしなければならない場合には、先頭の飛行機の発艦は60mしか滑走できないから、艦首を離れる時に気速が不足し、海面すれすれまで落ちる。 落ちる間にやっと気速を増して、フルパワーで海面から這い上がるということになるのであった。

 着艦の場合は、一機を着艦収容して次の一機を着艦収容するというゆっくりした着艦ならば、母艦の背中の長さは十分だ。 しかし、36機全機が急速着艦する場合は、一機が着艦するとその飛行機は艦の前部に地上滑走し、その飛行機の後にクラッシュバリケードを立てて、二機目が着艦するという方法を取るわけだから、クラッシュバリケードから前の背中は使用できない。

 また、海が荒れると、艦はローリング、ピッチング、ヨーイングの三次元に揺れ動き、艦尾はじゃじゃ馬のお尻のように上下左右に動くので、ダウンウォッシュが強くなる。 そんな時は、母艦の背中の後部20m (No.2制動索より後部) は着艦に使わせない。 つまり前にバリケード、後に危険帯を設定したわけで、背中は益々短くなったのであった。

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( 原著より )

 私は、母艦乗組は通算して3年、着艦回数は146回であった。 その内訳は、「龍驤」 77回、「瑞鶴」 52回、「翔鶴」 4回、「赤城」 「加賀」 3回、「蒼龍」 2回、「瑞鳳」 2回、「雲鷹」 3回と記録されている。 昭和38年の米海軍の空母 「キアサージ」 一回を加えると、147回になる。

 この内、暗夜の着艦27回、「龍驤」 「赤城」 「加賀」 の分は平時、「雲鷹」 は実験、その他は戦闘中のものである。 一般に、母艦乗組中の着艦回数は年間一人40回が普通であった。
(続く)

2010年06月24日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その49

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (5)

   その2 母艦の特性

(1) 母艦の背中は広くて薄く、敵の爆撃に対して極めて弱い。 ずう体が大きくて、水線下の防禦力が弱く雷撃に対しても弱い。 そして、仕末の悪いガソリンを大量に積んでいる。 このような脆弱性は、例えば19年6月19日のマリアナ沖航空戦で、爆弾の落ちない 「大鳳」 の飛行機一機が何回も着艦をやり直しているうちに、潜水艦の一発の魚雷を受けて大火災を起こし、約9時間後に沈没している。


(2) 母艦に積んでいる飛行機は、格納庫の中では爆発物に過ぎない。 敵の僅か一機の奇襲を受けても全滅の危険がある。 そのために、母艦には蜂の巣のような対空防禦兵装があり、女王蜂の命令一下、全蜂一丸となって飛び出すように、母艦の乗組員はきびしい警戒をしている。 ところが、警戒している割合に飛行機には当らないものだった。


 例えば、17年8月、私はソロモンの戦場から母艦上空に帰って来た時、味方識別がほんの10秒ばかり遅れ、味方の機銃に射たれたことがある。 着艦してから、砲術長に喰ってかかると、砲術長は、

 「貴様は、この艦の機銃は絶対に当らんと言って、いつも俺を侮辱していたが、当らん鉄砲が恐かったのか?」

 と言うから、大いに憤慨して、

 「当らん鉄砲でも数射ちゃ当ると言うじゃないかっ!」

 と大喧嘩になりそうになった。

 「4、5百発しか射たなかった!」

 「4、5百発? そんなに射ったのか? 下手くそでよかった!」

 「貴様だから当らなかったのだ。 敵が来た時はきっと射ち落とすから安心しろ! とにかく済まんかった。」

 「味方識別の遅れた俺の方が悪かったよ。」

 ということでケリがついたが鉄砲は当らんものだった。

(3) 魚雷というものは電波では見えないし、専門見張員の肉眼だけでは視野が狭い。 だから、全乗組員が見張員になるのであった。


 二次ソロモン戦 (17年8月) を終えて瑞鶴がトラック環礁の泊地に入港する直前に、小便中の若い機関兵が便所の窓から敵の潜望鏡を発見して、「潜望鏡!」 と怒鳴りながら艦橋まで駈け昇り、それを聞いた艦長が緊急転舵をして魚雷を回避し、その兵は殊勲甲を貰ったことがある。

 彼は、潜望鏡のような股間の一物を出したまま便所から艦橋まで走ったので、魚雷が外れたのはその故だなどと悪口を言う奴があったが、ボタンを掛ける暇がある筈はない。

 また、南太平洋海戦の前日頃、居住区で酒盛り中の乗組員が間違って火災警報のボタンを押して 「後部火災!」 の警報が鳴ると、搭乗員の一人が中甲板の後部にあった艦長室に駈け込み、ウイスキーの瓶だけを持ち出したので、副長が、

 「何故燃えるものを先に出さんかっ!」

 「ハイッ。 ウイスキーが一番よく燃えると思いましたっ!」

 その搭乗員は、副長からウイスキーを一本貰った。 見張りと火災に対する警戒は厳重なものであったのである。

(4) 搭乗員は、母艦に乗組中には性格が変わるように思った。


 17年8月下旬の夕刻頃であった。 ソロモンの索敵に出た一機が、飛行可能時間を超過しても帰って来ない。 艦長を始め乗組員は悲嘆に暮れて、水平線の彼方に目を凝らしていた。 ところが、同僚パイロット達は平気な顔をして、明日はわが身の運命となることを知ってか知らずか涙を見せようともしないのだ。

 そのくせして、母艦がトラック環礁に入港すると、パイロット達は母艦の背中を散歩しながら、北東の空に浮かぶ真赤な火星の光芝の中を日本列島に向かって飛ぶ渡り鳥を見て泣いている。 それは一見して異常な姿であるが、それには次のようなわけがあった。

 その一つ、母艦を出発して洋上遠く飛んでいる搭乗員にとっては、母艦は大海に浮かぶ 「けし粒」 のような 「点」 である。 この 「点」 は、出発する飛行機に対して自分の行動予定を知らせるが、それが変更になっても、飛行中の飛行機に対して自分の位置を知らせることができないことがある (作戦上の要求から無線封止で、ADF電波も勿論出さない)。

 だから、飛行機乗りにとって、夜間とか、天気の悪い時には、敵に落とされるより、母艦に帰り着けない心配の方が強い。 こんな飛行を年中やっていると、還らない同僚に対しても、「可哀そうに! でも仕方がない!」 という気持が強くなる。 簡単に割り切らなければ生きていけないのだ。 この気持が、友のために泣くことを忘れさせたと思う。

 その二つ、パイロット特有の性格の問題がある。 パイロットの性格の中には、諦めの速さ、自虐性の強さ、それを同僚パイロットにも求めようとする冷酷さなどの特性がある。

 この性格は、パイロットになったから身に付いたというよりも、こんな性格があったからパイロットになったと言う方が当っているかも知れない。 何れにしても、この性格が、友のために涙を見せないのではあるまいか?

 昭和10年、飛行学生を命ぜられた時、私は誰よりも優れた勘を持っていると思い、同僚からもそう思われることが人間として最高の誇りであるように思った。

 単なる人間の運動の勘を人間の最高の能力と思い込み、それを誇りに思ったのである。 このような狭量さは、人間としての成長を止め、エゴイスチックで自信過剰な人間を育てていく。

 その後、陸上の戦場を一年体験し、協和と友情の必要性や運命の不思議を知るようになり、少しは自信過剰が後退したように思うが、その後昭和14年9月、「龍驤」 で部下の着艦事故に遭遇した日、私は、

 『自分が、今日と同じ事故に遭遇しないという保証があるか? 私の死の確率も部下達と同じなのだ! 部下の死に涙を流すよりも、自分の運命に涙を流す準備をすべきではあるまいか?』

 と日記に書いてある。 事故に遭う毎に、操縦は単なる技術だけではないし、自信などは小手先の問題であることに理解を深めていったが、これがエゴイスチックな考え方を強く育てていったのだ。

 そして日米戦になって戦闘が激しくなると、或日の日記に、

 『自分も部下も、死については機会均等である。 お互いの献身犠牲や同情は全体のためであり、自分自身のためでもあるが、死の機会均等性を変更するものではない。 個々のパイロットはどこまでも個々のパイロットに過ぎない』

 と書いているように、益々極端なエゴイズムと孤独性が強くなっていったようだ。

 母艦乗組員のパイロットの心境は、このような状態なのだ。 これが友のために涙を見せない一つの因子となっていたのではあるまいか?
(続く)

2010年06月23日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その48

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (4)

   その1 航空母艦の建造と消耗 (承前)

 第二次世界大戦中の日米の機動航空部隊の洋上決戦は5回行なわれたが、1942年 (昭和17年) 10月26日の南太平洋海戦までの4回の決戦は、統合して互角の勝負であった。

 南太平洋海戦 (米はサンクリストバル島沖の海戦と言う) から1944年 (19年) 6月19日の第5回目のマリアナ沖航空戦までの1年8か月の間は洋上決戦が行なわれていない。

 それは、両軍ともに 「満を持して放たず」 ということのように見えるが、実は、この間に日本は戦略的後退を余儀なくされたのであった。 つまり、戦わずに逃げたのである。

 19年6月になって、敵がサイパン、テニアンに迫るに及んで、日本は窮鼠的決戦を挑み、日本海軍の栄光を賭けて戦い、「瑞鶴」 一隻を残して壊滅したのであった。 この経過を、日米の正規空母の隻数と比較しながら考えてみよう。

 南太平洋海戦までは、正規空母の数は互角だ。 ところが、マリアナ沖航空戦では日米は1対5の比率になっている。 何故こうなったか? 日米の空母の建艦と消耗の経過を見よう。

 (1) アメリカが大型正規空母を建造しようと決意したのは 「開戦10か月前」 であり、日本は 「開戦6か月後」 (ミッドウェイで正規空母4隻を失った後) であって、アメリカの方が1年4か月早い。


 (2) 正規空母の建造速度は、隻数については、アメリカが1941年 (昭和16年) 2月に正規空母建造を決意してから1年8か月目に2万7千噸の第一艦を完成し、以後毎月1隻、年間12隻を就役させているのに対し、日本は1942年7月に正規空母建造を決意してから1年9か月目に3万噸1隻、2年1か月目に2万1千噸3隻、2年3か月日に6万噸1隻を完成している。 つまり、アメリカの 「33か月間に13隻建造」 に対し、日本は 「27か月間に7隻」 であり、比率は約7対5になる。


 (3) 総トン数については、建艦を決意してから2年3か月後に、アメリカは21万4千噸、日本は15万1千噸進水させているから、同じく7対5である (商船改造空母を含まない)。


 (4) 消耗は、開戦後一年間に日本5、アメリカ3。 その後、19年6月までに日本2、アメリカ1である。 (日本の合計7は 「赤城」 「加賀」 「蒼龍」 「飛龍」 「翔鶴」 「大鳳」 「龍驤」 であって、商船改造空母は含まない)


 以上で解るように、建艦能力の差や消耗の多寡だけでは、マリアナ沖で5対1の差になる筈はない。 この大差は言うまでもなく、建艦を決意した時機の遅れにあったのだ。

 このような大差がつくと、用兵作戦の巧みさによって劣勢をカバーすることはできないもので、どんな作戦計画も成立たないのが兵の常道である。

 言うまでもなく、兵力量の差というものには限界があるのだ。 日本の戦略的後退とマリアナ沖航空戦の敗北の原因は、これであった。

 戦後の日本で、敗戦の原因は国力の差であったとか、建艦能力の差であったと言って情として恥じないかつての責任者もいるようであるが、建艦の決意の遅れという事実だけは直視しなければならないし、そうしなければ 「瑞鶴」 は浮かばれないと思う。 勿論、「瑞鶴」 につながる戦死者も同じだ。

 その人達に代って、繰り返して言う。 ミッドウェイで4隻を失うまで、正規空母の建造補充を怠った戦争指導者の不見識と怠慢が敗戦の直接原因の第一位である。 今になってその功罪を問うわけではなく、事実だけは素直に認めなければならないと思う。 「瑞鶴」 の告白もこれを言いたかったのだ。

 蛇足になるが、18年の暮頃、横須賀航空隊の隊長室で、私は次のような夢を見た。

 南太平洋海戦 (17年10月) 前に、「大鳳」 「天城」 「葛城」 「雲龍」 「信濃」 が進水し (開戦1年半前に建造を決意していれば可能だった)、私達はアメリカの正規空母を次々に沈め、アメリカの機動艦隊はガダルの東方洋上を逃げ回っていた。 アメリカは正規空母を一か月に一隻ずつ沈められるので、建艦能力が追いつかなくなり、国内の与論は戦争中止に傾きつつあった。

 これがただ一つの楽しい私の夢だった。
(続く)

2010年06月22日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その47

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (3)

   その1 航空母艦の建造と消耗 (承前)

 余談はともかくと致しまして、私は航空母艦の標準型だと言われたり、理想型だと言われながら、私と同型の妹は、その後の日本海軍にはなかなか生まれませんでした。

 例えば、私が生まれてから2年3か月間は、商船改造型の虚弱児だけが11人も生まれたのでございます。 「雲鷹」 「大鷹」 等、「鷹」 型がこれでございます。 これらの妹達がものの役に立たなかったとは申しませんが、彼女達を生むと同時に、私と同じ型の妹も生むべきではなかったでしょうか?

 このことはミッドウェイで (昭和17年6月) 姉の 「赤城」 「加賀」 「蒼龍」 「飛龍」 を失った時に既に現実の問題となって現われていたのでございます。

 私と 「翔鶴」 「祥鳳」 「瑞鳳」 「龍驤」 の5人だけで、これら11人の妹達の助けを受けないで、ソロモン海と南太平洋で戦わぬばならなくなったのがその例でございます。

 幸いにこの時、「レキシントン」 「ヨークタウン」 「ホーネット」 を沈めて日本とアメリカの力のバランスを保つことができましたので、その場は一応無事に済みました。 しかし、その後一年半も私と同型の娘が生まれませんので、私達はマーシャルとカロリンを去ってマリアナに後退しました。 そして、1944年 (昭和19年) 3月になって 「大鳳」 が生まれたのでございます。

 この妹は私と同型でしたが、厚い鉄板を飛行甲板に張り、私より3千頓も重く、頼もしい限りでございましたが、生まれた時期があまりにも遅かったのです。 この時は既に、日本の海上機動航空部隊はフィリピンの西方に退き、マリアナにあった日本の陸上機動航空部隊は敵の海上機動航空部隊の厚い包囲下にあって、累卵の危うきにあったのでございます。 私は日本の陸上機動航空部隊を救うために、最愛の妹 「大鳳」 を連れて、19年6月19日、マリアナ沖で戦うことになりました。

 この戦いを 「マリアナ沖航空戦」 と呼んでおります。 しかし、この時の 「大鳳」 はまだ生後3か月で、十分の訓練ができていませんでしたので、開戦直前に敵潜水艦の放った一本の魚雷が前部軽油庫附近に命中した時、応急措置が十分にできませんで、ガソリンが全身に廻り、それが誘爆を起こしてうら若い身をサイパン沖に沈めました。 悪運には悪運が重なるもので、この時、私の双生児の妹 「翔鶴」 も同じ運命を辿ったのでございます。

 この戦いで二人の妹を失って、私は一人ぼっちになりました。 また、サイパンの陸上機動航空部隊も、この日から42日目の7月31日に玉砕してしまいました。 私は戦う気力も生きる望みもなくなりました。 しかし、戦いはなお続いておりました。

 それから更に4か月経って、昭和19年10月、「雲龍」 「天城」 「葛城」 の3人の妹が生まれました。 この妹達は2万4百噸ではございましたが、73機の飛行機と十二・七糎の高角砲12門を持つレッキとした私と同母系の妹でございました。

 私はこの妹達を連れて、起死回生の最後の一戦をやろうと思いました。 ところが、残念なことに、この3人の妹に分かち与える飛行機も搭乗員も、燃料すらも日本国内にはありません。 もはやどうすることもできなくなっていたのでございます。

 止むを得ません。 彼女達を瀬戸内海に残して、19年10月20日、一人でフィリピン沖に向かって呉を出撃しました。 それは、日本の水上艦隊が、レイテ湾に集中した敵の艦隊に、決死の、殴り込みをかけると申しますので、その道連れとなって死のうと思ったからでございます。

 そして、どうせ死ぬなら、せめて敵の機動航空部隊の目を私に引き付けて、日本の水上部隊の最後の一戦を成功させてやろうと思いました。 もしそれが成功すれば、死んでも思い残すことはないと思ったのでございます。

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( 原著より  奮戦する 「瑞鶴」 )

 10月25日、敵はまんまと私の思う壷に入って来ました。 機動航空部隊の全機が、私一人に襲いかかって来たのです。 この時既に、私の飛行機はフィリピンと台湾に向かって飛び去っていて、私は飛行機を一機も持たない特攻航空母艦となっていたのでございます。

 この覚悟を知ってか知らずか、敵は私一人に猛襲をかけて来ました。 爆弾が雨霰のように肢体に降り注ぎ、魚雷はもつれた綾取りのように舷側に迫って来ました。 しかし、開戦以来鍛えに鍛えた日本海軍の、ただ一人の生き残り空母の私は、4、50発の弾丸や数本の魚雷に屈するようなか弱い身ではございません。

 全身爆煙と猛火に包まれながら、阿修羅のように戦いました。 襲い来る敵を一機でも多く道連れにして、地獄の底に沈んで行けばいいのです。 他に何も考えることはありません。

 そして、激闘9時間30分、7本目の魚雷が私の左舷に突き刺さり、79発目の至近弾が、僅かに残る機銃員を海中に吹き飛ばした時、最後の一瞬が目前に迫って来たことを知りました。

 海も空も寂莫として、宇宙の運行が止まったようでございました。 劫火も雄叫びも一瞬鳴りを潜め、マストの上に翻る軍艦旗の悲泣が腸に染み透るように流れる中を、私は左舷から静かに沈み始めました。

 波頭が艦橋を洗う頃、ふと、瀬戸内海に残してきた妹達のことを想いました。 何かの奇跡が起こって、彼女達が再び南太平洋で奮戦する時がありはしないかと思ったのです。

 それは、息絶えんとする私に神が与えた僅かの希望の光であったのでございます。 その光を見ながら、5千米の海底へと静かに沈んで行きました。 波乱万丈の人生は、このようにして終ったのでございます。

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( 原著より  「瑞鶴」 の最期 )

 昭和20年に入りますと、瀬戸内海の3人の妹達は、飛行機と搭乗員を与えられないままに、江田島、倉橋島、本土の岸辺などに隠れて、高角砲と機銃で最後の抵抗を致しました。 飛行機は無くとも、大和撫子の意気地が残っていたのでございます。

 しかし、8月15日、遂に敗戦の目を迎え、彼女達はバラバラに解体されてアメリカへ連れ去られました。 その後には、闘魂だけが、江田島に残ったのでございます。

 以上が、25人の私達姉妹の生涯でございます。 搭乗員の皆様! このような生涯を過ごした私を想い出して下さったことがおありでしょうか? また、私が皆様方に何を訴えようとしているか、お考え下さったことがおありでしょうか?

 私は悪戦苦闘して敗れました。 そして、子孫である皆様方に汚名を残しました。 お恥ずかしうございます。 しかし、せめて海上自衛隊の皆様方にだけは、私の苦闘の跡を知って頂きたかったのです。 長々とお喋りしたのもそのためでございます。 哀れと思召して、一掬の涙を注いで下されば、これに過ぎる喜びはございません。 皆様のご自愛とご健闘を遥かに祈っております。


 彼女の告白は以上であるが、元海軍少佐、「瑞鶴」 の第二代目艦爆隊長 高橋定は、彼女にもう少し喋ってもらいたいことがある。 それを彼女に代って告白しよう。
(続く)

2010年06月21日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その46

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (2)

   その1 航空母艦の建造と消耗 (承前)

 ところで、私には不肖の姉妹が25人おりました。 生年月日の順に名前を申しますと、姉は 「鳳翔」 「赤城」 「加賀」 「龍驤」 「蒼龍」 「飛龍」 「瑞鳳」 の7人です。

 妹は私と双生児の 「翔鶴」 を始めとして、「大鷹」 「祥鳳」 「雲鷹」 「隼鷹」 「飛鷹」 「沖鷹」 「龍鳳」 「千歳」 「千代田」 「海鷹」 「神鳳」 「大鳳」 「雲龍」 「天城」 「葛城」 「信濃」 の17人です。 これら25人の姉妹達の生い立ちを、簡単に申し上げておきましょう。

 世界で初めて航空母艦が生まれたのは、1917年 (大正6年)、第一次世界大戦中に、英国の巡洋艦 「フューリアス」 が、5百フィートの甲板を取り付けて陸上機を発艦させ、ドイツのツェッペリン格納庫を爆破して、飛行船を2機炎上させたのが始まりでございます。 この成功を見て、世界各国が巡洋艦を母艦に改造するようになりました。

 その当時、日本には母艦に改造する適当な巡洋艦がありませんでしたので、世界で初めて航空母艦を設計起工し、1922年 (大正11年) 12月27日に進水させました。 これが 「鳳翔」 7,500噸でございます。

 余談になりますが、この母艦の発艦実験は、英国海軍のパイロット 「ジョーダン」 大尉と日本海軍の亀井凱夫中尉が行ないました。 ところが、この艦は飛行甲板が158.2米しかなかったので、ジョーダン大尉は、発艦直後海面すれすれまで落ちて危うく事故を起こしそうになりました。

 これが研究会の席で問題になり、この艦の実用の適否にまで発展しましたが、亀井中尉がその時、「彼の実験はジョーダンだった」 と申しましたので、この発艦実験は合格になり、鳳翔は母艦として日の目を見ることになりました。

 この頃から、航空母艦の重要性が世界の海軍に高く評価され始め、日本海軍は、ワシントン軍縮条約 (1922年〜3年) の制限を受けて廃艦になる予定の戦艦を母艦に改造することになり、1927年から1928年にかけて、2万8千噸の 「赤城」 「加賀」 が母艦として誕生しました。

 1928年 (昭和3年) 以降になりますと、艦隊用空母は、兵力分散の必要があるという考え方と戦艦主力主義の思想によって、8千噸の小型空母 「龍驤」 が造られました。

 しかし、その後航空機が発達し、発着艦速力が高速化するにつれて、飛行甲板が狭すぎるようになり、また、艦隊と一緒に洋上を行動する機会が多くなると、トップヘビーの母艦の耐披性も問題になりまして、「龍驤」 型はその後の建造を止めました。 そして、1937年 (昭和12年) には 「龍驤」 より遥かに大型の1万9千噸の 「蒼龍」 「飛龍」 を造ったのでございます。

 しかし、この型も、攻撃力 (搭載機数53機) と防禦力 (主砲十二・七糎12門) が十分ではないということで、1941年9月に2万6千噸 (搭載機数68機、主砲16門)の私 「瑞鶴」 と双生児の妹 「翔鶴」 ( 「翔鶴」 は8月8日生まれで、「瑞鶴」 は9月25日生まれですが、双生児は先に生まれた方が妹です) が生まれたのでございます。 そして、私達双生児は航空母艦の理想的タイプと言われ、私達に優る艦は終戦まで世界中に一艦も生まれなかったのでございます。

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( 原著より  太平洋上を征く 「瑞鶴」 )

 序に、アメリカの事情を極く簡単に申し上げますと、偶然かどうかは存じませんが、日本とよく似た経過を辿っております。 戦艦、巡洋艦を改造したり、小型を造ったり、段々と大型化したり、その末に、私と同型の 「エセックス」 型2万7千噸級の26隻を理想的タイプとして造った (その内9隻は戦後就役) のも隻数を別にすると全く同じでございました。

 また余談を申し上げて恐縮ですが、私と1年2か月間同棲したことのある 「瑞鶴」 二代目の艦爆隊長高橋定は、戦後の昭和38年10月に、ハワイ方面でのアメリカ海軍の ASW PAC FORCE の演習に招待されて、「エセックス」 型空母 「ホーネットU世」 に一週間ばかり乗ったそうでございますが、「ホーネットU世」 があまりにも 「瑞鶴」 と似ていたので、彼は艦内を一人で歩き廻っても一度も迷子にならなかったと申しておりました。

 その時、彼は 「瑞鶴」 の兵器格納庫に当る場所に行ってみると、そこが 「ホーネット」 の秘密兵器格納庫になっていたので、あまりの符合にびっくりしたそうでございます。

 彼女の方も、突然見知らぬ人に恥部を見られて慌てふためいたそうでございますが、この時のことを彼は、「瑞鶴」 と 「ホーネットU世」 は恥部まで同じだから、アメリカ海軍はホーネットを生む時に 「瑞鶴」 の設計図面を盗んだのかも知れないなどと大変重大でエゲツない冗談を申しておりました。

 もしもそれが本当なら、アメリカは、私の設計図面を盗んで私と同じ型の艦を造り、その艦で私を沈めたことになりますから、盗人猛々しいとはこのことだと言えましょう。
(続く)

2010年06月20日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その45

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (1)

   その1 航空母艦の建造と消耗

 はじめに、日本の航空母艦はどういう歴史を辿って生まれ、どのように戦ったか? 航空母艦 「瑞鶴」 に尋ねてみようと思う。

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( 原著より )

 私は航空母艦 「瑞鶴」 です。 1941年 (昭和16年) 9月25日、川崎重工業神戸造船所で生まれ、1944年 (昭和19年) 10月25日、比島沖航空戦で敵の大型空母 「エセックス」 型12隻の集中攻撃を受け、79発の至近弾と7本の魚雷を脇腹に受けて戦死致しました。

 その位置は、北緯19度57分、東経126度34分、フィリピンのルソン島の東北端、ENGANO岬の東北東約240浬です。 そこは赤道から西流して来る黒潮が北に曲がる所ですが、私が今いる所は、その流れの直下5千米の海底ですから、万物一切が微動もしない暗黒の世界です。

 そうです、ここは、地球上の総ての塵芥が流れ着く墓場なのです。 その塵芥は、一年間に0.01粍ずつ積もり、一億年に一千米の厚さになって、地殻の陥没を誘発し造陸運動を起こすと地質学者は申しておりますが、私は今、その中に少しずつ埋もれて行っております。

 顧みますと、私の生涯は3年1か月でございました。 人間の生涯に誓えますと、花も羞じらう17、8才の娘時代から、お色気のこぼれる27、8の若奥様の頃までに当りましょう。

 この間に、女の幸せと苦しみを十分に体験致しました。 ですから、今は安らかな眠りに付くのがさだめというものでございますが、搭乗員の皆様方に、私のお喋りを聞いて頂くまでは安らかに眠れそうにありません。

 誠に因果な身の上だと思いますが、それには訳がございます。 お聞き苦しいとは存じますが、一通りお聞き下さいませ。


 私が沈んだのは、私自身が持っていた燃料や爆弾の誘爆によるものではございません。 ですから、海底に横たわる25,675噸の骨格や大砲、大砲と申しましても私は女性でございますから、細い十二・七糎の高角砲16門と二十五粍の機銃100門でございますが、それらは殆ど原形のままでございます。

 私の身長は242.2米、ヒップ (飛行甲板) は29米、バスト (舷側) は26米で、とてもスマートな姿体でございましたが、昭和17年の暮に、両舷中央部の水線下にバルジという魚雷防禦用の水タンクを付けて2万8千噸に肥りましたので、以前は34.2節で走れたのですが、32節くらいしか走れなくなりました。

 そのために、無風の時の飛行機の着艦収容にゆとりが無くなって、お口の悪いパイロットの皆様から、お前のお尻には脂肪が付き過ぎた、と言われました。

 しかし、私はそのために益益エネルギッシュになり、会戦の時は16万馬力のエンジンと4つの推進軸を力一杯に廻して敵の中に突入し、中、下甲板の格納庫に納めていた74機の戦闘機、急降下爆撃機、雷撃機及び飛行甲板に繋止していた12機の戦闘機と2機の偵察機を敵艦めがけて発艦させ、開戦から僅か10か月間に、印度洋と南太平洋で敵の大型空母 「ハーミス」 「レキシントン」 「ヨークタウン」 「ホーネット」 の4隻を撃沈して、嚇々たる武勲を樹てたのでございます。

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( 原著より  手前の9機は零戦、後方は九九艦爆 )

 一方、敵の飛行機が私に攻めかかって来た時には、目が廻るように逃げ廻って、敵の爆弾と魚雷を全部そらしました。 ですから、この墓場に沈む日まで殆ど無傷でございました。

 それというのも、私が生まれた時、「瑞雲 (運) の棚引く所に瑞鳥 (兆) 鶴が舞い降りる」 という幸運のシンボルにあやかるように、「瑞鶴」 という名前を頂いたからでございましょう。

 実を申しますと、フィリピン沖で非業の最後を遂げましたのも、止むに止まれぬ自殺であったのでございますが、そのことは後で詳しく申し上げましょう。
(続く)

2010年06月17日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その44

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (10)

   その4 機材改良の夢 (承前)

 付言するなら、敗戦後よく言われた言葉の中に、「日本の敗戦は精神主義と合理主義の優劣によるものであった」 というのがあったが、これについて簡単に述べておこう。

 先ず第一は、曲げられた日本の兵術思想と軍備のあり方だ。

 日本人は、長い歴史の中で、攻と防との相関性をどのように考え、どのように対処してきたか? 日本の3世紀から5世紀までの古墳から出土する武具の中で、攻撃用の武器の主体は、銅製、鉄製の刀、剣、槍、木製の弓矢、石の鉄であるが、これに対し、防禦用の武器は、鎧には中国式の鉄製の短甲、桂甲、冑には衝角付冑、眉庇付冑、すね当て、鉄製木製の盾などがある。 明らかに防禦用の武器が攻撃用の武器より進んでいた。

 白鳳時代、奈良時代も同じであった。 平安時代、源平時代になると、防禦用の武器だけが更に進歩し、鎖帷子 (一説には室町時代以降ともいう) を下に着て、物々しい大鎧冑を付け、冑には錣 (しころ)、吹き返しが付いたが、攻撃武器には石鏃が鉄鏃に変わっただけであった。

 紀元1274年と1281年に蒙古軍の襲来の時、攻撃武器として小数の鉄砲 (震天雷) と小型の爆薬利用の武器による攻撃を受けたが、これに対し、私達の祖先は盾を厚くして十分に防禦を整え、そして一方では、瀬戸内海の三島水軍がこれらの攻撃武器を研究して、火矢 (爆薬火矢であって、樹脂火矢ではない)、砲碌、火槍を造り、水夫達を鉄製の盾で包んだのであった。

 戦国時代に入って小銃が大量に出現すると、国境の第一線に竹矢来を組み、その後方で小銃の射程内に陣地を構築して対峙し、戦争になって陣地戦が始まると、馬に 「面当て」 をして、その馬の首に隠れて第一線陣地を突破するのが常道であった。

 以上のように、日本人はいつの時代にも、攻防両面に亘って十分敵に対峙し得る武器を考案装備して戦闘に臨んだのであった。

 これを古代の兵書に照らしてみると、孫子には 「正を以て合し奇を以て勝つ」 と言っているように、戦闘には謀計、詭道、虚実があり、兵勢に乗ることを戦勝の要諦とするが、その前提として 「正を以て対す」 ということが絶対条件であると説いている。

 「正を以て対す」 とは、兵数、配備、陣形、兵站等全般に亘って堂々相対することを言うのは勿論だが、これを戦術的に見ると小銃には鉄の盾を、騎馬には深くて広い塹壕をということであったようだ。

 この兵書の教えは、紀元752年、日本人の支那留学生吉備真備が彼の地で学んで日本に伝えた。 彼は、後年右大臣にまでなっているから、この時代にこの兵術思想が日本に定着し、以来1200年に亘って日本人に継承されたことは、後世の戦術思想からも明らかだ。

 つまり、日本人は千年以上に亘って、兵法の正道を踏んで、攻防の武器のバランスを保ちながら軍備をしてきたのである。

 にも拘らず、第二次大戦の対米軍備で、アメリカの搭乗員が七・七粍銃では貫徹できない防弾ガラスに守られているのに、日本海軍の攻撃力の主力であった艦爆隊は七・七粍の機銃で戦い、2年間も顧みられなかったのである。

 つまり、日本海軍は大艦巨砲の大艦隊を擁して、その維持に奔命しながら、日本海軍艦爆隊に対して十三粍機銃を造る資材と技術上の支援を与えようともしなかったのである。

 昭和17年10月に入って、次の会戦が予想された或る日、私は十三粍機銃の装備を急いでほしい旨の申し出を艦隊司令部にしたことがある。 その時、

 「機銃の生産が戦闘上の要求に量的に追い付かないのだ。 それは素材と技術者が不足しているからだ。」

 と言われたので、

 「日本海軍の砲煩の生産能力がアメリカに劣っているとは思わない。 四〇糎の巨砲を造る力が十三粍の機銃を造る力に転換できないのか?」

 これに対し返答はなかった。

 また、ゴムによるタンクの防弾、消火剤、防弾ガラスについても同じように、素材と技術者がないと言うから、大量の軍用トラックが生産され、その車両のタイヤはゴムではないか? また、薬剤日本に消火剤ができない筈はないと主張し、

 「海軍にゴムが無ければ陸軍から貰ったらどうか? 戦争に陸軍も海軍もない筈だ。」

 と言ったが、やはり返答は得られなかった。

 この時私は、戦略立案者の頑迷さと不見識が兵器生産の努力の方向を間違えているのか、或いは、日米の第一線の戦闘の実態を理解する力がないために第一線の要求を容れる努力をしないのか、よく解らなかった。

 また、ソビエトに対する日本の戦略態勢を変えるわけにいかないことや、陸海軍の戦略物資の配分に苦しい事情のあることを理解しながらも、一方では、第一線の、一見して些細に見える戦闘実施上の疵や、九牛の一毛に過ぎない少量の機銃用の素材が日本の国家戦略の成否を左右していることを理解せよと主張したのであった。

 しかし、理解されないままに戦い、私の仲間が悲憤の涙をしぼりながら死んだばかりでなく、些細に見えたこの一事が国家戦略を壊滅へ導く最短の道を開くことになったと思うのである。

 それでは、このように曲げられた兵術思想の背景は何か? その第一は、防禦に関連する形而上の問題であろう。

 日本の明治軍隊は、約700年末の 「もののふの道」 を整理して軍人勅諭として発布し、軍人の思想と行動を規制した。

 それは、戦闘に臨んでは勇武を強調し、平時にあっては礼節、信義、質素を要求し、それらを総括して忠誠を以て軍人の最高の美徳とした。 更に、これらの五項目を中核として、平戦時を通じて軍人の思想と行動を規制する法を敷衍制定し、それを軍紀と呼び、一分の隙もなく統制したのであった。

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( 原著より )

 このように完全に統制された軍隊の個々の軍人が必然的に陥りやすい点は、精神的観念論が合理性よりも優先する傾向を生むということであろう。

 例えば、戦闘と言えば、「攻撃あるのみ」 と言う。 或いは、軍人勅諭に 「軍人は戦い臨んで敵に当るの職なれば、武勇なくては叶うまじ」 とあるのを、「武勇とは死を恐れないこと」、「死を恐れなければ防禦を考える必要はない」 というように発展させるのだ。

 小学生のような考え方の展開であるが、問題は、このような考え方を否定できない力がどこかにあったということだ。 その力は勅諭の絶対性の陰に隠れて、クソとミソと一緒に食べさせようとする変質者達の頑迷な力であった。

 力とは頑迷なほど強いものだから、私達はそれに押されたのであった。 それは前にも述べたように、

 「ゴムがどうして海軍航空に無いと言うのか? トラックタイヤが毎日造られているじゃないか。」

 と言うと、

 「国家戦略に関することだ。 問答無用。 第一線将兵は死あるのみ!」

 と言われて、万事休したのが好例であった。

 これは、明らかに当時の軍隊が既に硬直化し、戦闘の融通無礙な実相に応ぜられなくなっていたということであり、もっと極端な言い方をすれば、日清、日露の戦勝の歴史的な栄誉だけを後生大事に抱え込んで、事大主義やセクショナリズムの弊を剥き出しにして精神至上主義に墜ち、合理主義を忘却させる原動力になったと言えると思う。

 私は一般論としての精神主義を否定はしないが、合理性を否定するような精神至上主義が敗戦の第一の原因であったことは事実だと思っている。
(第3話終わり)

2010年06月16日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その43

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (9)

   その4 機材改良の夢 (承前)

(2) この時から2年の歳月が流れ、九六式艦爆が第一線機の主力機となった。 燃料タンクは改修され、空戦とダイブの時にどのタンクを使っても支障がなくなった。

 ところが、この機種は巡航速力を20ノット遠くするために大馬力 (寿三型540馬力) (注) を装備し、そのためにエンジンのダイヤが過大となり、母艦に着艦する時、母艦のデッキがパイロットに見え難く、横滑りでファイナルパスを降下しなければならなかった。

(注) : 寿三型は九四式艦爆の量産後期型に使用され、九六式艦爆は光一型を装備のはずですが、原著記述のままとしております。


    そのために、暗夜の着艦は難しかったが、その対策は主翼の後縁にフラップを採用するしかなかった。 しかし、この機種が第一線機からリタイヤするまでフラップは付かなかった。 その理由は、操縦の難しさは訓練でカバーせよということであった。


(3) 更に3年の歳月が流れ、機種は九九式艦爆に変わった。 主翼後縁にフラップが採用され、着艦は易しくなり、パイロットの夜間着艦の不安は解消したが、昭和17年6月頃から、日米の洋上決戦が激しくなり、敵の戦闘機との空戦上の点からこの機材に対する多くの意見が提出された。


 これについては、日米のシーソーゲームだけでなく、戦況全般を理解するための参考になるから少し詳しく紹介しよう。

 17年11月の戦訓研究会の席上で、私は次のように述べた。

 「南太平洋での決戦 (17年10月26日) は、二次ソロモン戦 (8月25日) の時とは全く違っている。 今回艦爆隊に喰いついて来た敵の戦闘機は、パイロットの顔がはっきり見えるまで肉迫してきたので、そ奴に七・七粍の機銃弾を浴びせてやったが、蛙の面に小便をひっかけたようなもので彼らは逃げなかった。

 その時は隣の艦爆が横からその戦闘機に衝突するように接近してくれたので、そ奴はやっと逃げたけれども、これは敵戦闘機のパイロットの前面風防に防弾ガラスを使っている証拠だと思う。 また、敵の翼タンクにわが七・七粍が命中しても燃料は漏れないし火災にもならなかった。 敵の燃料タンクは防弾ゴムで守られている。 この敵機を追い払い、敵母艦を撃沈するためには、私達も十三粍旋回銃を持つ必要がある。」

 と。 しかし、この意見が実現したのは2年後であった。

 ちなみに、この時の会戦では、「瑞鶴」 「翔鶴」 の飛行機110機、「隼鷹」 の飛行機39機が参加し、75機が戦死し、一方、「ホーネット」 「エンタープライズ」 の飛行機は約100機が参加し、74機が戦死したのであった。

 世紀の激闘として戦史に残っているが、日本の装備の劣悪さを、パイロットの技能でカバーして互角に戦ったということだ。 それはつまり、日本は装備品のシーソーゲームでアメリカに負け、当時の日本のパイロットの技倆がアメリカより遥かに優っていながら、被害は同数であったということであった。

(4) それから更に一年余の歳月が流れ、昭和18年の暮、彗星艦爆が第一線に配備されたが、十三粍機銃は装備されていなかった。 しかし、この機材は九九式艦爆に比べて、プラス80ノット優速という驚異的記録を打ち立てたので、艦爆隊の士気は揚がった。 この機材の設計者、山名正夫博士が、日米戦に勝ったのである。 しかし、それは一時的であり部分的であった。


(5) 更に一年後の昭和19年10月になって、艦爆艦攻は機種が統一され、流星が登場し、二十粍旋回銃が装備された。 生き残っていた艦爆の搭乗員達は、これで戦って、南海の果てに消えても悔いはないと言って喜んだ。

 しかし、既に戦局は圧倒的に悪く日本の母艦はなくなっていた。 そして、再び南海で敵の機動部隊とまみえることはできなかったのである。 母艦建造のシーソーゲームに日本は負けたのであった。 機材で勝ってもどうにもならなかったのであった。


(6) 昭和20年に入ると、既に航空母艦はなく (昭和19年10月26日、比島沖で 「瑞鶴」 沈没が最後)、母国の上空で戦わねばならないことになった。

 横須賀航空隊の古い格納庫の片隅に九九式艦爆がひっそりと置かれていた。 若者達から、オンボロ飛行機と言われていたが、生き残りの古参パイロットには女房よりも可愛い飛行機であった。 この飛行機の機銃は、たとえ紙鉄砲と同じの七・七粍であっても、爆弾は250瓩を持てるし、8千米の高空に上がり、6時間も飛べる飛行機なのだ。

 私達はこの飛行機で、空中爆弾によって、敵機を高空で爆撃する戦法を考え、特殊な爆弾信管を作り、東京湾と相模湾上空で、空中急降下爆撃によってB29を迎え撃った。 驚いた敵は、圧倒的な戦闘機によって私達の前面を立ち塞いだ。 戦術のシーソーゲームも、機材の量の前に屈せざるを得なかったのであった。


(7) もはや、特攻によるゲリラ戦術しか残されていないことになった。 ところが、急降下による特攻攻撃は、形而上の要素を別にして、問題点が二つあった。

 その第一は、爆撃技術面の難しさであった。 それは、動く敵艦の煙突附近に撃角30度以上で機体もろともに撃突することは至難の業で、10年選手の急降下爆撃のベテランパイロットでも、その成功率は30パーセント以下であると思われた。 だからと言って、舷側にぶつかったのでは小火が起こるくらいのもので、戦果は殆ど期待できない。

 その第二は、特攻艦爆機には旋回銃を積んでいないものがあって (偵察員を乗せない場合)、裸のままで敵戦闘機群の真中を衝き破って敵艦に突き当らねばならなかった。

 特攻パイロットだから死を覚悟していたのは言うまでもないが、敵艦に撃突する前に100パーセント撃墜されることが解っていながら出発させることはできない。 その対策は反跳爆撃法とゲリラ的夜襲であったが、何れも若いパイロット達には技術的に難しく、不安の解消にはならなかった。


(8) 20年3月に入って硫黄島が玉砕すると、特攻部隊の中から、成功の算が全く無くても敢然として出撃しようとする者が多くなった。 それは、寄せて来る巨大な敵に対して、死を以て抵抗したという事実だけを、子孫のために残そうとする行為であった。

 その意義は、われわれの子孫が、将来再び国家再建の気力を奮起させるために役立つであろうという価値だけに満足して死のうとしたのであった。 それは沖縄の女子挺身隊の娘達が、竹槍一本を持って、火炎放射機に立ち向かって行ったのと同じであったと思う。


 これがパイロットの機材改修の夢の終着駅であった。
(続く)

2010年06月15日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その42

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (8)

   その4 機材改良の夢

 機材の欠陥の恐れを克服しようとした私達の願望は、それがいつか改良されるであろうという夢であり、いつかはよくなるであろうという期待でしかなかった。 しかし、このような夢や期待はいつまで経っても実現しなかった。

 それは、機材の改良が戦闘目的の 「より速く」、「より高く」、「より軽快で」 ということに集中され、「より安全に」 ということが忘れられ勝ちとなったからであった。

 この状態を別の方向から見ると、たとえ当時の海軍の航空技術によって機材の欠陥を解消することができても、軍事上の要求がその技術を追い越して更に次の無理を要求し、別の不安を生むというシーソーゲームとなったからだ。

 それに加えて、例えば私が乗った飛行機は、後年日本の最高の権威となった元東大教授山名正夫博士の設計された艦上急降下爆撃機であって、昭和9年完成の九四式艦爆、11年の九六式艦爆、14年の九九式艦爆、17年の彗星艦爆、18年の銀河、流星であったが、当時の軍事上の要求は、15年に仏印に現われたムーランソルニエ戦闘機、17年のグラマン、シコルスキー戦闘機に対して、これらの艦爆が十分戦えるだけの強靭性があるかということであったから、このシーソーゲームは国際的となり、益々複雑になったのであった。

 要するに、「軍事目的達成のために」 ということと 「安全な飛行行動ができるために」 という二つのテーマの追い駈けっこは戦前から終戦まで続いたわけで、その全容を紹介することはできないが、私が体験したものだけを拾って紹介し、それによって、私達の機材改良の夢がどんなものであったか、具体的に理解して頂くことにしよう。

(1) 九四式艦爆隊が、昭和12年9月中旬から12月にかけて、中支方面に展開していた頃のことである。 戦線に出発する度に、燃料タンクの使用法について次のような指示があった。


   「離陸の時は前部タンクを使うこと。 離陸後は後部タンクに切り換えてそれが完全に空になるまで使うこと。 以後は、左右の前部タンクが平均に滅量するように1時間毎に燃料コックを切り換えること。」


 この指示の意味は次のようであった。

  (a) 後部タンクはパイロットと偵察員の座席の中間直下にあるので、敵の高角砲の弾片によってこのタンクに穴が開くと、機内の空気通路の関係からガソリンのベーパーがパイロット席に流入し、そのために急降下ができなくなる。 その対策として、敵弾雨飛の中に飛び込む前に後部タンクの燃料を使ってしまえば安心である。

  (b) 後部タンクの構造は、内部に隔壁がなく、底面中央に吸口、偵察員席の左外側に積入口のある簡単なジュラルミン製の箱であったので、空戦、ヘルダイブ、悪気流などで機体にマイナスの荷重がかかると、タンクに50パーセントくらい燃料があっても燃料ポンプが空転することがあった。
 特に、強い追い風でヘルダイブに入って地上目標を追尾すると、タンクにマイナスの荷重が連続してかかり、燃料が途絶えてエンジンが空転し、気筒が過冷却するために、ダイブから引き起こした時エンジンがかからないことがあった。 だから、後部タンクは空戦やダイブをする前に使っておいた方が安心である。


 ということであった。 このようなタンクの使い方には、一方では次のような不安があった。

  (a') 燃料タンクは燃料が入っていれば、パイロットの防弾壁になるが、空になると高角砲の小破片でもタンクを貫通してパイロットの命を奪う恐れがある。 だから、後部タンクを空にするのは危険である。

  (b') 前部タンクは基準翼内にあって、水平投影面積が広いから敵の高角砲によって穴の開く公算が大である。だから、そこへだけ燃料を残しておくことは得策ではない。


 ということで、一方の不安を消せば一方の不安が生まれるという因果関係があるのであった。 私はこの指示を聞く度に、

  (a'') 後部タンクにも隔壁を作って、マイナス荷重に対して、安心できるように改造すればよい。

  (b'') 後部タンクに穴が開いても、ガソリンのベーパーが座席に流入しないように機内の空気の流れを変えればよい。


 という対策意見を上司に出したことがある。 しかし、九四式艦爆のタンクは、この機種が存続している限り改修されることはなかった。 それは、改装の要求が主として防禦にあったので、当時の軍事目的に添わないからであったと思う。
(続く)

2010年06月14日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その41

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (7)

   その3

 昭和14年10月末、連合艦隊は年度末の演習を終えて解散し、艦空母艦 「龍驤」 は母港の呉軍港に帰り、飛行部隊は作業地富高基地 (現在の日向市) を撤収することになった。

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( 原著より  富高基地と九六艦爆、後は細島 )

 そして、艦爆隊の飛行隊士佐藤中尉 (盛雄、62期) は私の分隊員4人を連れて、要務処理のため、艦隊の連絡機九〇式機上作業練習機 (機棟という) に乗って富高を発ち、呉に先行することになった。

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( 九〇式機上作業練習機 )

 この日は日向灘の天気は悪くなかったが、伊予灘から周防灘にかけて雲高百米くらいで、所々に驟雨があるという天気予報であった。

 0800頃、5人を乗せた九〇式機練は呉に向かって富高を出発した。 ところが、1100頃になっても呉陸上基地 (呉市南東の安芸灘の海岸にあった一本の着陸帯) (注) から到着の通知がないので、気にしていたところ、2100頃になって、突然愛媛県長浜市から、飛行機が山に衝突したので消防団と青年団が出動しているが、心当りはないかという通知があった。 大事故の通報である。 私は部下10人を連れて現場に急行した。

(注) : 恐らく広の呉航空基地のことと考えますが、もしこれ以外にあったとするならば、ご存じの方のご教示をお願いします。


 調査の結果を総合して、事故機の行動の概要を推定すると次のようであった。

 富高を発進した 「機練」 は豊後水道を雨の中を北上中、何らかの理由で雲上に出た。 愛媛県の西部上空にさしかかると、前方が密雲に閉ざされているので、雲下に降りるために反転してコースを南にとり太平洋上に出ようとした。 その頃、不運にもエンジンが停止した。

 パイロットは止むを得ず太平洋に出ることを諦め、伊予灘に向かって雲の中を降下した。 その時、僅か一分足らずの差で海上に出ることができず山の斜面に激突した。

 以上の推定の根拠は次のようであった。

  @ 事故現場から逆算して事故機のコースは、富高と呉を結ぶコースから大分東に寄って愛媛県の高い山岳地帯の上空を飛んでいたが、それは偏西風と、雲を避けて蛇行しているうちにコースから外れたと推定する以外に考えようがなかった。


  A 雲上でエンジンが停止したという推定は、事故現場附近の人々の証言として、ブルッ、ブルッという断続した爆音が雲の上から聞こえたということ。 この飛行機は伊予長浜市の南西3浬の地点、標高約5百米から3百米までの約20度の斜面の鬱蒼と茂った杉、檜の大木の梢を頂上から麓に向かって、プロペラで切り払いながら最後は松の大木の根本に激突していたのであったが、梢をプロペラの前縁で切った断面を調べてみると、強力で鋭利な刃物で切ったような切り口ではなく、明らかに遊転しているプロペラで切ったもの、最後はエンジンカウリングで押しっぶしたような痕跡があったこと、この二つによって、エンジンは遊転していたと判断した。


  B 反転して太平洋上に出ようとしたというのは、伊予長浜市の北方約30浬の伊予市の市民も爆音を聞いているし、その頃、事故機の他にこの附近を飛んでいた飛行機が無かったし、時間的にも合致するからであった。


  C 天候については常識的な判断であった。


 遭難機の機体は提灯を畳んだようになり、エンジンは土中に埋まり、殉職者7人の遺体はエンジンの上に重なっていた。 私達は山中で遺体を荼毘に付し、遺骨を抱いて呉に帰った。

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( 原著より  佐藤盛雄中尉 )

 この事故の根本的な原因は、当時の飛行機は、雨中飛行をすれば30分足らずでエンジンが不調になるような機材が多かったということだ。 それは、電纜の不良、気化器の構造上の欠陥、及び、アイシング等が直接の原因であった。

 この事故を通して脳裏に刻みついて離れないのは、雲の中で停まったエンジンに対する万斛 (ばんこく) の恨みであった。 それは現在でも晴れてはいないが、そんなエンジンでも、当時の整備員はそれを至上のものとして懸命に整備し、愛情を以て扱った。 にも拘らず、その報いはこのような悲惨なものであった。

 この事故の一週間後に私は南支方面の第一線に転勤したが、いつまでもこの時の悪魔のようなエンジンの残骸を夢に見た。 7人の命を奪った不良機材に対する怨みと恐れがそこにあった。

 夢から醒めると前面には敵がいた。 不良機材と敵、その中間に私達パイロットが立っているのであった。 しかし、どちらが恐いかと言うと、敵ではなくて不良機材であったことは偽らぬ実感であった。
(続く)

2010年06月13日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その40

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (6)

   その2 (承前)

 翌日、兵器員と整備員が現場に行き、陸軍の護衛下に作業を終え、この事件は一応片付いたのであったが、これでこの事件の総てが終ったのではなかった。 二人の無事は幸運の二重奏であって、百万分の一の偶然でしかない。 喜ぶのは早過ぎる。 忘れていいのは十分検討した後のことだ。

 その第一は、エンジン不調の原因に関することであった。 斉藤の報告によると、エンジンの不調の原因は、機材の構造上の問題のようであった。

 しかし、もともとこの事故機九九式艦爆は (九九とは皇紀2599年の意)、昭和14年末に日本海軍が九六式艦爆から機種を更新して大量生産に入ったばかりの機材であって、横須賀航空隊による一年間の実用実験が必要であった。

 それを短期間で中止して、戦闘用の迷彩塗装もしないままに急いで私達の部隊に運び、実用実験と整備員の教育訓練を続行しながら戦闘をやっているのであった。 だから、整備のベテランは僅か草野、竹中という二人の一等整備兵曹が横須賀から来ただけであって、この事故の原因が解る筈はなかった。

 それでは、実験をしながら戦闘をやるような無茶なことを何故私達前線部隊がやらねばならなかったかと言うと、支那事変も3年目を迎え、飛行機の急速な発展を推進しなければならない戦局であったからだ。

 従って、この事故の遠因は戦争そのものにあったわけで、戦う以上は、必然的に搭乗員の上に被さってきた危険の皺寄せであった。

 その第二は爆弾のことであるが、陸上戦闘に協力する作戦が、このように長期で広域に亘るようになるとは海軍では予想されていなかったのであろう。

 そのために、陸用爆弾の中には弾道の狂うもの、不発弾、懸吊フックの変形等が混入していたわけで、それを個々の搭乗員が気にすることは戦闘の実態としてできなかった。

 それは、指揮官たる私が気を配らねばならないことであったが、粗悪品と解っても兵器であるから捨てるわけにはいかず、不安を誘発する原因となっていた。

 その第三は、この事故によって私の部隊全般の戦闘に対するムードがどう変わるであろうか、ということであった。

 今回の事故で、パイロット斉藤は、生死の竿頭に立ったことなど気にも止めず、無事であったことを朗らかに笑っていた。 偵察員柴田は、危険の存在があったことなど何も知らずに、私達先輩が心配していることにただ恐縮しているばかりであった。

 二人は素朴で純情で、第一線で戦っていることに誇りを持ち、それに満足し、機材に対する不安など微塵も持っていなかったのである。

 問題は二人の異常な純粋さにある。 私の部隊の搭乗員の総てが二人と同じであるわけもなく、それを望むこともできないのは当然であって、この事故でクローズアップされた二人の言行は、他の搭乗員と異質のものであり、それがこの事故を契機に、一桶の水の中に二滴の油を落としたような混濁を招く恐れを生む。 一桶の水は、少し濁っていても等質である方が水としての価値がある。

 この点を恐れたので、私は事故の翌日二人を個室に呼んで尋ねてみた。

 「斉藤、お前は昨日棺桶に右足を突っ込んだ。 恐くはなかったか?」

 「いいえ、仕方がなかったと思っています。」

 「仕方がない?」

 「はい。」

 「戦争だからと言うのか?」

 「いいえ。」

 「じゃあ何故だ?」

 「みんなが一生懸命戦っているからです。」

 「一生懸命戦っていることは戦死することではないだろう? お前は戦死寸前だった。 それを仕方がないと言う。 飛行機の故障や爆弾の暴発で死ぬことは、仕方がないでは済まされないだろう? また、みんなが仕方がないと言うから、お前も仕方がないと思うのはいけないと思わないか?」

 「いいえ。 死ぬことは、事情がどうであれ同じだと思います。 だから、今回の事故で、もし私が死んでも仕方がないと思ったのです。」

 「柴田、君は今回の事故をどう思う?」

 「はあ? 私は偵察員ですから ・・・・ 私も仕方がなかったと思います。」

 「偵察員だから? だめだよ。 あの時君が斉藤に、『左前方に広場が見える』 と言ったとしたら、斉藤は恐らく左旋回しただろう。 そして、二人は死んでいただろう。 人間は死の危険に直面した時には、運命を共にする人間の忠告を最良のものだと信ずる傾向があるのだよ。 だから、仕方がないでは済まされんだろう? 偵察員は、生きるも死ぬもパイロット委せと思ってはいけないんだよ。」

 「はい。 解りましたっ。」

 二人と話しているうちに、二人が決して少年ではないことが解った。 斉藤が 「仕方がない。」 と言った言葉の中には、少年の幼稚さから既に抜け出た強さがあったし、柴田が 「解りましたっ。」 と言った言葉の中には、パイロット委せにしていた自分の運命を見直そうとしている意志が感ぜられた。

 このような成長が機材の不安を克服していく一つの前提であり、二人は部隊のムードに何の心配もなく融け込むであろう。 部隊も、この事故に影響されて行き過ぎた敢闘ムードや皮相の運命論に流される恐れはないだろう。 二滴の油だと思った二人は、美しく澄んだ水であった。

 隊員達は、この事故によっても変わることなく機材に対する不安をじっくりと受け止めて、それを克服していくための人間的な苦しみを素直に追求していくようになるだろう。

 私はやっと安心して、次の不安と戦おうと思うのであった。

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( 原著より  高橋艦爆隊の面々 )

(続く)

2010年06月12日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その39

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (5)

   その2 (承前)

 その頃、見張台の上から、

 「隊長! 斉藤と柴田が帰って来ますっ。」

 という報告だ。 みんなが北西の地平線に目を凝らすと、二人は大きい荷物を背負って、前かがみになって大地の上を歩いているのだ。 既に飛行場のエンドまで帰って来ているではないか。

 斉藤はトラックで迎えられて指揮所に着くと、次のように報告した。

 離陸直前にエンジンが息をついたが、やっと離陸することができた。 しかし、その後スロットルを一杯開いても馬力は出なかった。 高々度弁 (一杯開くとエンジンが急停止する) は閉まっていた。

 水平飛行がやっとできたので、飛行場に引き返して出直そうと思ったが、その時は黄土の上を20米くらいの高度で飛んでいて、旋回しようとすると更に高度が下がりそうになるので、水平直線飛行をするより他に方法がなかった。

 暫く直進すると、前面に大きい森が見えた。 そこには樅の木のような大木が聳えていたので、右に避けようとしてバンクをとった。 すると、ハンドルがガタガタと揺れた。 その後は何も覚えていないという。 そして最後に、

 「気がついたのは、操縦席の隅で眠っていた私を柴田が揺り起こしてくれたからです。」

 と言ってニッコリ笑った。 全く可愛い笑い方で、もっと眠っていたかったような表情であった。

 「そうか、眠っていたのか?」

 「はいっ!」

 「柴田! お前も眠っていたんだろう?」

 と言うと、彼は憤然として、

 「違いますっ! 私は接地した時、もう飛行場に帰ったのかと思いましたっ。」

 と答えた。 彼も墜落の衝撃で暫く失神していたのであろうが、自覚はしていないようであった。

 翌日の現地調査で解ったのであるが、要するに、斉藤は大木を避けようとして急激に右に旋回して失速し、高度約30米から墜落した。 その時、幸運にも小川の堤の柳の大木に左の翼端を引っかけて機体は左に回され、森の繁みの下に滑り込んだ。 機体はメチャメチャに毀れたが、それが緩衝作用となって、二人とも怪我はなく爆弾も暴発しなかった。

 二人はほんの簡単な脳震並を起こして数分間眠っていたらしい。 目を醒ました二人は、小高い丘に駈け登り、飛行場の見張台を目当てに、道のない黄土の上を真直ぐに歩いて帰って来たのであった。

 偵察機が二人の飛行機を発見できなかったのは、森の繁みの下に潜り込んでいたからであった。 二人の歩く姿を発見できなかったのは、飛行機を発見しようとして無中になっていたからであろう。

 「斉藤! 爆弾はどうなっていたか?」

 「一つは翼の下に、一つは川床に落ちていました。 信管を外そうと思いましたが、工具を持っていませんでしたので ・・・・」

 「馬鹿を言うなっ! 衝撃を受けた後の爆弾には兵器員でも触ってはいかんのだっ!」

 「はいっ!」

 「柴田! 機銃はどうだった?」

 「異状ありません。 弾倉は持って帰りました。 銃身は後で道具を持って行って取り外してきます。」

 「お前は行かんでも宜しい。 あの森の北方2粁のところには便衣隊 (ゲリラ) がいるから、陸軍に助けてもらわんと地上からは行けないのだ。」

 「はいっ。」

 「便衣隊に殺されなくてよかった。 偵察機がお前達の命を庇護してくれたのだ。」

 隊員達は二人の報告を聞き終えると、大喜びでパイナップルの缶を開いて祝福した。
(続く)

2010年06月11日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その38

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (4)

   その2

 昭和15年の晩春であったと思う。 南支広西省の省都南寧市の基地で、私の部隊に事故があった。

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( 原著より  南寧飛行場 )

 その日、朝霧のまだ消えやらぬ暁闇を衝いて、南寧市の北西約60浬の敵陣地の攻撃に向かった九九式急降下爆撃は2機であった。

 小隊長は森一等飛行兵曹という老練なパイロット、二番機のパイロットは甲種予科練出身の18歳の斉藤三等飛行兵曹、偵察員は志願兵出身の20歳の柴田一等飛行兵であった。

 この二人の少年の乗った二番機が離陸寸前に、エンジンが筒外爆発を起こして 「パンパン」 という大音を残しながら辛うじて離陸した。 指揮所で彼らの出発を見送っていた私達は、驚いて彼方を見送ったのであったが、この時、心臓が止まる程ヒャッとしたのは、この飛行機の両翼下に積んでいた60瓩の2発の爆弾のことであった。

 その爆弾は、艦艇爆撃用の通常爆弾に対して陸用爆弾と呼ばれていたもので、弾体の外板が薄く懸吊フックが弱く、飛行機が不時着すると、衝撃でフックが切断し、翼下を離れて飛び出して暴発することがあるという極めて危険なものであった。

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( 原著より  南寧飛行場の陸用爆弾 )

 二人の少年はその粗悪爆弾を持って、よたよたと一人歩きができ始めた赤ちゃんのように離陸したのだ。 もし不時着すれば、接地の衝撃でこの爆弾が暴発し、二人の少年を木端微塵にすることはほぼ確実であろう。

 こんな場合は、不時着する前に、必ず爆弾を棄てるように指示していたが、今この飛行機には、高度の余裕がなさそうであった。 しかも、二人の行く手には起状の激しい危険な黄土地帯が広がっていた。

 近くに南支最大の鬱江の流れがあるが、その川面に着水すれば安全であるという着想は二人には浮かびそうにない。 また、不時着する時思い切った横滑りで翼端から大地にぶつかることも、少年には技術的に無理であった。

 万事休した思いで、二人が一刻も早く高度をとるのを手に汗を握りながら待った。 ところが、その期待に反して、二人は約30米の高度で水平飛行を続けながら戦線に向かって直進し始めた。 その行く手には標高300米の山脈が広く深く重なっている。 二人はどうなるか、結果は明らかになった。

 私は急いで彼らを偵察するため、一機の出発を命じ、一人を見張台の12糎の大望遠鏡に配置した。 しかし、その時既に二人の飛行機は、望遠鏡の視界から消えていた。

 それから4、5分後に出発した偵察機は、約一時間に亘って捜索したが発見することができず、機長は怪訝な顔で、

 「二番機はどこにも見当りません。 不思議なことがあるもんです。」

 と報告した。 九天の上に隠れたか、大地に潜ったか? 二人は飛行場から僅か5、6浬の黄土地帯に消えてしまったのだ。 そして、火も煙も見えず、爆発音も聞こえず、広漠たる大地には何の変化もないのであった。

 いらいらしながら二番目の偵察機を出したが、結果は同じように、何物も発見することができなかった。

 私達は、二人がもしや前面の山脈の谷間を縫って森小隊長を追って戦線に行ったのかも知れないと一縷の望みを持ったが、2時間後に帰って来た森小隊長が開口一番、

 「隊長! 斉藤機はどうしたのですか?」

 と聴かれ、儚い望みも消えた。 もし三番目の偵察機を出して、それでも発見することができなかったら、地上から救援隊を出すことにして準備を始めた。
(続く)

2010年06月10日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その37

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 機材の故障による事故 (3)

   その1 (承前)

 ところで、このような二つのタイプが隊員達の関心を引いたことは、要するに、機材に対するパイロットの不安が源泉になっている。

 また、周防大尉の事件が、凡庸な人間にできる業ではないと隊員達から賞揚されたのも、その裏には機材の故障に対するパイロットの強い不安があったからに外ならない。

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( 原著より  地上整備 )

 それでは、その不安の源泉になった機材の故障とはどういうものであったかというと、代表的なものは次のようであった。

  @ 戦場の第一線陸上基地で、昼間の戦闘を終えて夜間整備を入念にやり、整備員がOKと言った飛行機を、その翌朝パイロットが試運転をやって点火スイッチの切換えをすると回転数が100以上落ちる機材が毎朝10パーセントを降らなかった。
その原因がプラグの不良によるものか、プラグの汚れる原因が発火系統の欠陥にあるのか、燃料混合比の不調による不完全燃焼によるものか、或いは、潤滑油の漏洩によるのか整備員にも解らなかった。


  A 地上試運転の時には安定している燃圧が空中に上がると、鶺鴒のしっぽのように振れることがよくあったが、その原因がベーパーロックか、ブースターポンプの不良によるのか、よく解らなかったし、調整できないことが多かった。


  B 回転するプロペラの間を縫って発射される固定機銃の七・七粍の弾が自分のプロペラの後縁を撃ち抜き、エンジンに振動を起こさせることが戦線上空でよくあったが、その原因が制時カムの調整不良によるのか、ガバナーの不良によってプロペラの回転数が瞬間的に制限外に出るためか、よく解らなかった。


  C 爆弾懸吊フックの変形と弾体繋止ボルトの締め加減によって、爆弾が落ちないことがあって、爆弾を持ったまま着陸をしなければならないことがあったが、着陸の衝撃で爆弾が機体を放れて50〜60米空中を飛び、爆発の恐れがあることがあった。


  D 航空母艦の下甲板格納庫で昼間整備をした飛行機を、夜間発艦の前に飛行甲板で試運転をする時、集合排気管から薄紫の柔らかく美しい焔が出るのが良態のエンジンであるとされていたが、その火焔が長過ぎたり短か過ぎたり分裂したり、或いは、乾いたような筒外爆発音を伴うことがあった。
その原因が扇車室 (混合気を加圧する室) とキャブレターの不調和による混合比の変動にあるのか、点火系統にあるのか解らなかった。


  E コンパスの狂いは母艦内では調整ができなかったし、陸上の第一線基地は狭く、戦闘に追われて修正する機会もなかった。 そのため母艦の長期の洋上行動が続くと、コンパスの狂いによって航法に誤差が生まれた。


 以上のようなことは、整備員や兵器員が懸命になって整備して、その飛行機が良態であることを確認してから僅か数時間後の戦闘の最中に起こったりしたのであるが、その原因は、整備員や兵器員の技倆と責任に属することよりも、機材と兵器の欠陥に帰すべきものが多く、それらは不可抗力の出来事としてパイロットの不安に皺寄せされたのであった。
(続く)