2009年09月20日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その12

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (1)

             「艦爆隊の歌」

                一、 妖雲低く乱れ飛び
                      狂風飄々吹き荒ぶ
                   嵐の空に雄々しくも
                      降魔の翼羽搏ける
                   あゝ猛き哉艦爆隊


                二、 熱風氷雨の荒れ狂う
                      七つの海に敵を見ば
                   たぎる血潮は火と燃えて
                      今ぞ翳さん破邪の剣
                   あゝ聖き哉艦爆隊


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( 原著より   左から 坂元大尉、南郷大尉、
  田中大尉、江草大尉、小川中尉、高橋中尉 )

 昭和12年8月9日、上海陸戦隊所属の海軍中尉大山勇夫が、中国軍に殺害されたのを契機として、北支における日・中の紛争は上海に飛び火した。

 8月中旬、中国は上海附近に5万 (中央軍3万、地方軍2万) の大軍を集結し、上海駐在の日本海軍陸戦隊4千の部隊を包囲したが、陸戦隊は全滅を覚悟して、上海市閘北 (ざほく) の拠点を死守して退かなかった。

 8月15日未明、海軍航空隊 (中攻隊) は南昌を渡洋爆撃して、孤立した陸戦隊を支援した。 8月23日、陸軍2個師団 (三、十一師団) は、上海市北方10浬の黄浦江河口呉淞 (うーすん) 地区、及びその北西20浬に敵前上陸し、上海周辺の制圧に乗り出した。

 こうして、日中両軍は、上海市閘北を起点とする30浬の円孤状の塹壕戦線に対峠し、中支における本格的戦闘が開始されたのであった。

 これに応じて、私達第十二、第十三海軍航空隊は、急拠、上海方面に進出することとなった。

 私達が展開する特設航空基地の設営には、日本陸軍が、上海方面の占領地城を拡張しなければ、必要な土地面積が得られない。 9月初旬になって、日本陸軍が内陸に前進したので、日本海軍は、やっと上海に特設航空基地を設営することができた。

 そして、9月5日、第十二航空隊の艦爆18機 (常用12、補用6、以下同じ)、艦戦18機、艦攻18機が進出し、9月9日には、第十三航空隊の艦爆9機 (常用6、補用3)、艦戦18機、艦攻18機が、遼東半島周水子から済州島、大村を経由して進出して来た。

 続いて、9月11日、陸軍3個師団 (九、十三、百一師団) 及び台湾満州の重装備部隊1個旅団と独立3個大隊が、上海市北方に増派されて戦線に加わった。

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( 原著より  上海付近戦線図 )

 これに対し、中国は9月中旬、60万の陸軍を上海方面に動員し、空軍を南京方面に集結した。 そして蒋介石は、「中国全土のどこかに、自由のあるところが残されている限り、最後まで戦う」 と撤底抗戦を声明した。 こうして、戦争は大きくエスカレートして、「北支事変」 は 「日支事変」 へと発展して行ったのであった。
(続く)

2009年09月21日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その13

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (2)

 私達が進駐した飛行場は、上海市の北東区、日本、仏、英、米 (英米共同) の租界の北の外れの公大 (くんだ) 大学の校庭であった。 だから、公大飛行場と呼んだ。

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( 原著より  公大飛行場 )

 上海市は、黄浦江に臨む中国最大の商工業都市で、13世紀後半、支那 「宋」 の時代に開港した港である。

 日本との歴史的な縁故は、後述するとして、「蘇州夜曲」 に唄う 「君の御胸に抱かれて聞くは、夢の船歌恋の歌」 の描写は、上海の中央部を流れる蘇州河が、黄浦江に注ぐあたりで、戦前によく見かけた支那娘の情緒であった。

 その黄浦江は、地質時代の数百万年の間に、長江の河口一帯にできた大平原の中を、S字型に攣曲して流れる運河のような川である。 水源は、上海西方約60浬の太潮、及び上海南方百浬の淅(せき)江省の丘陵地帯に発している。

 川巾は上海附近で約9百米、水深は平均8、9米、流速は2、3ノット、常時殆ど満水状態で、潮汐作用があった。 堤防はなく、黄濁した水が、大平原の地平面より2、3米低く流れていた。

 川面はいつも波静かで、河岸に繋いだジャンクの帆柱の他は、視界を迷るものはなく、万古不易の悠然たる姿であった。 この河は、約10浬北流して長江に注いでいる。 公大飛行場は、この黄浦江の西岸に接していた。

 黄浦江の東岸、飛行場の川向う一帯を、浦東 (ぷーとん) 地区と言って、茫漠たる大平原が拡がり、耕作はあまり行なわれていなかった。 数浬おきに、4、5軒の農家があって、樟の大木が聳え、その周辺だけに畠があった。

 牛車が通った所が部落をつなぐ道路になるので、一雨毎に古い道路は消えて、別の新しい道路が、どこかにできるのであった。

 部落の近くには、縦横に、巾5米ばかりのクリーク (人工的支流) があって、両岸には柳の木が密生していた。 クリークは、所々で崩れた土手に堰き止められて、水は重く黒く淀んでいた。 この附近の大地は黒土であった。

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( 原著から  呉淞クリーク )

 飛行場と上海市とは、その名もゆかしい楊樹浦 (やんじっぽ) 通りで結ばれ、柳の並木が美しかった。 所々に、道路から奥深く、瀟洒な住宅があったが、私達の宿舎に当てられたのは、飛行場寄りで、黄浦江に近く、何の趣もない真四角な煉瓦造りの家であった。 公大大学の職員の公舎が利用されたのであった。

 この建物は、外見はヨーロッパ風で、壁と床は厚くガツチリしていたが、屋根は日本の昭和初期の様式で、赤い薄っぺらな日本瓦が葺かれていた。 各部屋には日本畳が敷かれ、安下宿の貸間のようであった。 地階に広い土間があって、その一隅に大きい竃があるのが、ただ一つの支那風であった。

 10坪ばかりの庭が玄関前にあって、コスモスがまだ沢山蕾をつけていたが、幹は倒れ葉先が枯れて、わびしそうであった。 隣に同じ家が2軒あって、そこにも幹部が分宿した。

 このほか、すぐ近くに20坪ばかりの支那家屋が十数軒、軒を連ね、そこに整備員達が分宿した。 支那家屋は、柱が太く短く、軒は低く、屋根は厚い板の上に、土室のように粘土をかぶせて、曲線の強い瓦を埋め込むように葺いてあった。 部屋は暗かったが、涼しく静かで、住み心地がよさそうであった。 これらの宿舎群から、狭い一車線道路が飛行場に通じていた。

 私と、同期生の小川正一中尉が3階の6畳に同居し、隣室に江草大尉が休んだ。 食事は、麦飯と卵、漬物、缶詰、味噌汁が定食で、時々牛乳の配給があった。

 老酒の大瓶と菊正宗の四斗樽が、土間の隅に積んであって、飲むことは自由であったが、晩酌は誰もやらず、雨が降ると皆で大酒盛りをやった。 私達は朝晩、この宿舎から飛行場に通った。

 飛行場着陸帯は、長さ6百米、巾約70米、両側が列線、その後方の、大学研究室、観測所等、煉瓦造りの建物を、警備員の宿舎と、整備員の待機所、兵器小出庫に使った。
(続く)

2009年09月22日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その14

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (3)

 9月10日、私達の作戦準備は完了した。 艦爆隊の任務は、戦闘機隊と協力し、南京を強襲して敵戦闘機を誘い出し、航空撃滅戦を展開することと、塹壕戦に協力することであった。

 艦爆隊の若い兵隊達は皆明るく朗らかで、功名手柄を競うこともなく、蒋介石の撤底抗戦の声明などは、白髪三千丈式の誇張に過ぎないものだと思って、気にも止めなかった。 そして、国のために第一線で懸命に働いているという満足感で、胸がふくらんでいた。

 ところで、この頃の私個人の気持を申し上げると、私も若い兵隊達と同じように、やる気十分ではあったが、心の隅に、何か釈然としないものがあって、一途に燃え上がれない状態であった。

 それは、攻撃すべき目前の敵に対し、まだ、心の底からの憎しみが湧いてこないということであった。 或いは、中国の何を憎むべきか、まだ十分納得できないものが残っていたと言う方が適切であったかも知れない。

 その故か、私は爆弾燃料搭載のために、急がしく飛行場を駈け廻りながら、いつか周水子の三人の子供達のことを思い出すのであった。

 あの子供達も、敵国人であることに変りはないが、周水子での最後の別れに、劉少年を抱き上げた時、泣きながら私の軍服の裾をしっかり握って放さなかった彼の柔らかい指と、オッパイ臭い膚の匂いが、わが子のように思い出されて仕方がなかった。

 このような思いは、日本と中国との歴史的繋りの一つの象徴であろうが、明日から大いに戦わなければならないという気持とは、全く裏腹のものであった。

 また私は、中国辛亥革命 (別表参照) 当時の孫文や蒋介石についても、いろいろと回想するのであった。

 大正4年、若かりし日の蒋介石が、孫文の側近幕僚の一人として、辛亥第三革命の動乱に乗じて、上海在泊中の清朝の砲艦に抜刀して突入し、続いて、上海市南市の警察を襲撃したことがあった。 その時、蒋介石と一緒に行動したのは、日本の頭山満 (とうやま みつる)、犬養毅らの輩下の若者達であった。

 更に時代を遡って明治44年、革命勃発の時には、頭山、犬養 (昭和6年総理大臣政友会総裁) は日本の同志を率いて上海に進出し、蒋介石とともに、清王朝の将軍、袁世凱と戦い、その同志達は上海附近に血を流したのであった。

 また、明治33年には、日本の志士山田良作らが、「青天白日章」 の中国国旗を日本で作り、(中華民国国旗の初制定) それを清朝打倒の旗印として、広東省恵州に掲げ、中国人の先頭に立って清軍に突撃したこともあった。 この時にも、日本の玄洋社の若い浪人達は、上海で血を流した。

 これ等の日本人の血と汗は、現在敵国の総帥たる蒋介石や中国国民党領袖達の、若かりし日の脂と汗と一緒になって、この上海の大地の中に滲み通り、今も脈搏っているように思えてならなかった。 それは僅か30年前に、アジアの黎明のために、日中ともに立ち上がった時のことなのだ。

 今、日本に対して撤底抗戦を叫ぶ蒋介石は、私達よりも、もっと切実にこれらのことを想い出しているに違いないと私は思うのであった。 そして、このような同志感や親近感も、戦わねばならない相手に対する感情としては、いらだたしいものだった。

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( 原著より  別表 「辛亥革命一般経過」 )

1840年アへン戦争、英国、中国に出兵
1842年南京条約 (香港の割譲)
1851年南京条約の結果、中国は銀の流出多く、増税を行なったため農民暴動太平天国の乱が起こった
1864年英国は清朝に協力、太平天国亡ぶ
太平天国の残党、滅満興漠の秘密結社を結成、辛亥革命の母体となる
1895年辛亥革命の総裁、孫文は、日清戦争に乗じ、清朝に反抗し挙兵、失敗して、日本を経由して英国に亡命
1898年孫文、日本に帰り、日本の同志、犬養、頭山、平岡浩太郎、宮崎滔天らが孫文を助けた
1900年
(明治33年)
山東省の義和団の蜂起に応じ、孫文の同志鄭弼臣は山田良作らとともに恵州に一万余名で挙兵したが袁世凱に討滅され、孫文日本を去る
1905年日露戦、孫文日本に帰る
1911年
(明治44年)
中国は鉄道国有外債問題で政治不安、武昌に軍隊の反乱起こる 全国の学生青年がこれに参加 (毛沢東らも) 革命軍勝つ
1912年孫文革命政府の臨時大総統に就任
中国国民党を結成、中華民国設立
孫文と袁世凱妥協 清朝皇帝を退位させることを条件に孫文に代って袁世凱大総統となる
1913年袁世凱は国民党を弾圧し、党員を追放、暗殺し、反革命成功す
第二革命勃発 孫文等は袁世凱に反抗して破れ、亡命して日本に来る
1915年袁世凱、皇帝に即位
第三革命勃発、各地で革命軍勝つ
1916年袁世凱急死 袁政府と革命軍和平 (大正五年) し、辛亥革命終る

(続く)

2009年09月23日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その15

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (4)

 このような感情の反面、海軍軍人の立場として、日本の国家目的たる 「暴戻 (ぼうれい) 中国庸懲 (ようちょう) 」 という政府声明は十分理解していたし、また、戦う軍人が、その相手を憎むことができないということが、軍人として最大の恥だということも、百も承知であった。

 と言って、歴史的事実が消え去るものでもなく、私は、思考が何回も同じ所を空転して、消化不良の糟が胃袋の底に貯っていくような気分になるのであった。 その結果として必然的に、闘争そのものの中に闘争目的を求めることによって、心のしこりを拭い去ろうと努力したのであった。

 しかし、若い私には、そこにも納得できる解答は得られなかった。

 われわれ軍人が、敵に向かう時に、何も考えないで猪突猛進して、目前の敵を倒すことは、剣の理の、狭義の勝敗の理に忠実であるということではあるが、それに徹して満足するということは、軍人の閉鎖的なエゴイズムではないか。

 それは自らの人生を狭めるばかりでなく、国家に忠誠を尽くすということとは、信念的には必ずしも繋がらない。 また、こういう在り方は、軍人としての意気地だけで戦うということになって、命令、服従は形式ばかりになる恐れもある、と思うのであった。

 そこで私は、「剣の理」 の 「活と殺」 と 「生と死」 の理念を、もっと深く追求理解しなければならないと考えるのであったが、そうすると、戦争全般を広く追求することに逆戻りすることになって、思考は出発点に戻ってしまうのであった。

 結局、いくら頭の中で追求してみても、結論を得ることができないのであった。 しかも敵は目前にあり、攻撃開始は明早朝に迫ってくるのであった。

 私の上官江草隆繁大尉は、思慮周密で私心なく、戦争を大局的に考え、部下の心理をよく読む人であった。 また、戦闘機隊にも、そういう人々がいた。

 そこで私は、よく解らん事は、やってみてその戦闘体験の中で、誠実に謙虚に、対中国感情を追求整理し、それでも解らない事があれば、これらの人々に聞けばよい、と思うのであった。

 こうして、日支間にわだかまる歴史的、総合的感情のしこりを清算することができないままに、先輩達とともに戦うことになったのであった。 そう決めると、少し楽な気持になって、宿舎で一杯飲んで明朝を待つのであった。

 ところが、明朝を待つまでもなく、その晩から戦闘が始まったのである。
(続く)

2009年09月24日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その16

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (5)

 その晩の夜中の1時頃、ヒュルヒュルッ、ヒュルヒュルッという弾道音が、余韻嫋々として私達の宿舎の屋上を越え、暫くすると、ターンという弾着音が聞こえてきた。 私が目を醒ました時には、江草大尉は既に起きて、窓から飛行場の方向を注意深く見ていた。 小口径の擲弾砲の攻撃のようであった。 弾着が飛行場の方向であったので、窓辺から飛行場を眺めた。

 問題は飛行場の火災であるが、それに対して、私達は今、何の処置もできない状況にあった。 飛行機も爆弾も飛行場一杯に分散してあって、その間隔は僅か20米くらいしかない。 しかも、それを分散しようにも場所がない。 飛行場が狭いのだ。

 どんな小さい弾でも、直撃すれば飛行機は毀れるし、燃える可能性もある。 爆弾が誘爆することもある。 燃料は満載しているし、爆弾は、信管は装着してないが、翼の直下に転がしてあるのだ。 私はいらいらしながら、

 「 整備員達の中から精兵を選び、飛行場警備隊舎に行って待機します。 消火器が、警備隊舎に十分にありますから、それで何とか初期防火だけでもやってみましょう。」

と言った。

 隊長は暫く黙っていた。 敵の砲撃は、3分間に1発くらいの割合で続いていた。 小川正一中尉も黙って剣帯を着けて準備を始めた。 隊長は、

 「 よし行け。 整備員は10名でよかろう。 但し、飛行機に火が付かない限り、建物の外に出ることは絶対に許さんぞ。 飛行機よりも部下達に気をつけろ。 今夜は高橋行けっ!」

 私は、宿舎の前のトラックに出発準備を命じ、身支度を整えた。 隊長は、司令に了解を求め、小川中尉は、整備員宿舎に走って出動命令を伝えた。

 整備員達は既に起きて、作業服に着替えていたらしく、小川中尉の命令で、瞬く間に約70人が私の宿舎の前に集合した。 鉄冑が9つしかなかったので9人を選び、飛行場に向かってトラックを飛ばした。

 飛行場は真暗い闇であった。 雨が降りそうで、嫌な生暖かい風が吹いていた。 注意深く、警備隊舎の裏にトラックを止めて、先ず列線を偵察した。 午前1時半であった。

 警備員は興奮して、今迄の弾着状況を私に説明した。 14、5発の弾着があったが、幸いに10発は黄浦江の水中に落下し、4、5発は大学の内庭と列線に落ちたという。 弾着と同時に、僅かに火焔が見えるということであった。

 私が到着してからも、3発の弾着があったが、幸いにそれは黄浦江河岸に落ちた。 弾着間隔は3分乃至5分で、30粍程度の榴散弾のようであった。

 私は弾着間隔を計り、次の弾着まで、3百を数える間は安全だから、その間に初期防火をするよう手筈を決めて待機した。

 次の弾着は兵器庫の傍の列線であった。 火は僅かしか見えなかったが、警備員が一人走り出た。 「待て」 と言ったが、次の瞬間、整備員も3名駈け出した。

 私は残り6人を連れて、3人の後を迫った。 そして走りながら、「3百数えたら兵器庫に入れっ」 と言って、懐中電灯に照し出された爆弾を飛び越え、全速でランウェイを横切った。 ローハードルの疾走であった。 50を数える程もかからなかった。

 弾着点は、艦爆の尾翼から2米ばかり離れていたが、地面に直径30糎ばかりの穴があいて、艦爆の昇降蛇、尾翼は、弾片のためささら (「竹」冠に「洗」の字) のように破れていた。 幸いに火災にはならなかったので、私達は兵器庫の中に隠れた。
(続く)

2009年09月26日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その17

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (6)

 次の弾は、艦攻の上翼に当り、破片が胴体に穴を開け、燃料が漏り始めた。 私達は兵器庫から飛び出し、必死になってタンクの破口にボロ布を詰めたが、燃料の漏洩は止まらなかった。 そこで、燃料のしたたり落ちる地面に、飛行機係止用の金杭で穴を堀り始めた。 もう3百を数える余裕はなかった。

 砲弾は同じ穴に落ちる公算は少ないから、漏れた燃料を拡散させないようにすればよいと判断し、穴を深く堀り続け、漏れるガソリンを地下深く渉み込ませ、消火液を一緒に流し込んだ。

 次の弾着は、2弾とも、70米ばかり離れた校庭に落ちた。 次の弾が私達の堀った穴に直撃しないようにと祈りながら、兵器庫の中で夜の明けるのを待った。

 午前4時、夜が白々と明ける頃、薄明の中に燃料ドラム缶が林立しているのが見えたので、改めてぞっとした。 砲撃は止んだ。 擲弾砲を、飛行場近くまで密かに運んだ敵に、激しい怒りを覚えるとともに、火災にならなかった幸運を神に感謝した。

 その朝7時頃、私は隊長に続いて呉淞の塹壕の偵察攻撃に出発した。 敵が見えたら、昨夜の報復に、爆弾と機銃を叩きつけてやろうと気負っていたが、塹壕というものは、荒野の中にみみずが這っているように見えるばかりで、敵も味方も見えない廃墟のようであった。

 仕方がないので、陸軍の要求する指示標のとおりに爆弾を落として帰った。 昨夜の仇討ちを果たせなかったのが無念であった。 (これが生まれて初めての爆撃であった。)

 翌日の夜中にも、榴弾の攻撃を受けたが、昼間に爆弾、燃料ドラム缶を倉庫に格納し、飛行機の燃料は落としていたので、眠ったまま夢の中で弾道音を聞いていた。

 しかし早朝、飛行場に行ってみると、艦爆2機が小破していたので大いに憤激して、急いで戦線に飛んで行って、100米以下に降りて塹壕をよく偵察し、何とかして仇討ちをしようと焦ったが、相変らず敵は一兵も見えなかった。

 4、5日間は、敵にやられっ放しで過ぎて、9月14日、陸軍3個師団が前線に増勢され、全戦線は活発となり、戦機は熟してきた。

 この機会に、是が非でも仇討ちをしようと焦慮するのであったが、敵は私達のいらだちを知ってか知らずか、15日夜半、砲撃目標を変更して私達の宿舎群を砲撃し始めた。

 その1弾は、私達の隣家の三階宿舎に命中し、屋根を砕き、押入れの上で止まった。 盲弾であった。 整備員のいる支那家屋にも2弾落ちたが、支那家屋の屋根は厚いので、被害は無かった。

 その翌晩も、宿舎群が砲撃された。 その時も、直接の被害はなかったが、私の階下に眠っていた戦闘機の〇〇大尉が、砲撃が始まると毛布をかぶって地階に逃げようとして、階段の途中で転んで足を捻挫した。 このため、〇〇大尉は、飛行機に乗れなくなった。
(続く)

2009年09月27日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その18

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (7)

 余談になるが、小川中尉と私が、〇〇大尉の捻挫の次第を聞いて大笑いをしたら、江草大尉に叱られた。

 「 平時には、教育訓練を積極的に効率よく実施できる人でも、敵弾が飛んでくると、何もできなくなるような人もあるのだ。 そういう人を過大に侮蔑してはいけない。」

と言われた。

 私はこの裏に、「勇気ということを過大に評価し過ぎると、暴虎馮河のように猪突猛進する者を甘やかすようになって、戦闘は収拾ができなくなる」 という意味があると感じたので、江草大尉に質問した。 すると、

 「 勇気は軍人の最高の徳目ではあるが、唯一の徳目ではない。 戦線は最前線ばかりではない。 弾の飛んでくる所では胴ぶるいがして、飛行機のハンドルが握れない人でも、戦場の後方に在って、計数に明るく、緻密で、要領よく事務を捌(さば)き組織の運営にそつがなく、他人を傷つけることが無ければ、そのような人も亦軍隊に必要なのだ。」

と、隊長は言った。

 「 何故、そういう人を戦場に配員するのですか。」

と、喰い下がったら、

 「 戦場に来てみなければ、人事局も、多分当人も解らなかったからだ。」

 「 隊長はそういう人を立派だと思いますか。」

と言ったら、笑って答えなかった。

 〇〇大尉の捻挫の故もあって、私達の憤激は益々つのった。 隊長も同じように、闘志がありありと動作に現われてきた。 私達は公大に最も近い戦線から、しらみつぶしに爆撃をやった。 敵がいてもいなくても。


 9月2X日であった。 また、最悪の事件が起こった。 戦闘機隊の〇下大尉が、上海市南方約五浬、松江附近で不時着し、機体が転覆して人事不省となり、捕虜になってしまったのだ。

 〇下大尉は、9月19日の南京強襲の時、九六戦12機で、P26、カーチスホーク20機と空戦を交え、15機を撃墜した (中国発表13機) 勇者であった。

 〇下大尉は重慶で自殺されたが、戦死の認定を受けるまでの夫人の苦労は、計り知れないものがあった。 命日は9月26日になっている。 気の毒な運命の人であった。

 こんなこともあって、戦闘は一進一退を続けながら、私達は闘志を燃やして、塹壕戦線に激闘を展開した。 次々に起こる戦闘の複雑な推移に驚き、怒り、悲しみながら、敵を求めて猪突猛進するのであった。

 そして9月下旬、私達は、中支方面軍最高司令官、陸軍大将松井石根閣下に呼び出され、感謝状を貰った。 私は、戦果が感謝状の文句のとおりとは思わなかったが、本当の功績があったとすれば、それは、ただ前面に敵がいて、そ奴が手強い奴であったから、猪突猛進した結果であろうと思った。
(続く)

2009年09月28日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その19

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (8)

 その頃、〇下大尉に代って、南郷茂章 (もちふみ) 大尉が着任した。

 南郷大尉は、一晩中大鼾をかくことが解ったので、着任後3日目に、私達の隣室に引越して来ることになった。 江草大尉は鼾をかかないので、二階に降りてもらった。 これで私達は安心して休めるのであった。

 話が横にそれるが、南郷大尉の引越しには嬉しいことがあった。 それは、彼が 「虎徹」 の名刀を持っていたことであった。

 この虎徹は、当時、日本の刀剣鑑定の権威者、京都の本阿弥に目効きをしてもらったもので、本阿弥のサインのある小さい和紙のかんじんよりが、鍔に付けてあった。 正真正銘の虎徹の名刀というわけだ。

 彼は、三階への引越しの挨拶代りに、その名刀を私達に見せてくれた。 私は鞘を払った瞬間に、何となく、近藤勇の持っていたものも、こんな名刀であろうと思った。

 「磨ぎ」 の跡はなく、地膚が暗紫色に深沈と澄み、肉厚の重みと 「反り」 も良く、切っ先は、名工の生命を宿して、鋭く冴えていた。 刃紋に馥郁 (ふくいく) たる匂いがあって、殺気を柔らかく包み、峰を見ると、三線が切っ先に集まるあたりに直線と曲線の融和があって、美の極限を示しているように思った。

 鍔は角鍔で、金象眼が施され、鞘は漆黒で、刀身をぴたりと収め、鯉口を切る時にも、徴かな音も立てず、無言の気合を発するのであった。 名刀の味とは、このようなものかと感じ入るのであった。

 南郷大尉は学習院の出身で、2年間英国駐在武官を勤めた人だから、謹厳な気難かしい英国型紳士だろうと警戒していたが、彼の紳士ぶりは、毎朝、ゾルゲンのかみそりで、濃い髭を丁寧に剃ることと、ちぢれ毛の頭髪に櫛を入れることだけであった。

 いつも背を丸めてガニマタで歩き、世辞にもスマートとは言えなかったが、人懐っこく、豪放で、頭が鋭く、名刀虎徹の味とそっくりの人柄であった。

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( 原著より  南郷大尉 )

 10月に入って、私達艦爆隊が、南京を強襲して敵戦闘機を誘い出し、南郷部隊がそれを撃滅する計画が樹てられた。
(続く)

2009年09月29日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その20

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (9)

 初旬であった。 私達艦爆隊が、南京の手前五十浬の揚州附近を通過する頃、私達の直上を飛んでいた南郷部隊は、敵に向かって進撃して行った。 私達が南京下関に突入する5、6分前に、南西方向から進撃して来た敵戦闘機と南郷部隊の空戦が始まった。 私は手に汗を握って、南郷部隊の武運を祈った。

 やがて、何組かの卍戟が始まり、宙返り二、三回で、追跡された飛行機が火を吹いて落ちて行くのが見えた。 それは、子供の画いた絵のようで、瞬く間の勝敗であった。

 攻撃を終えて公大に帰り、司令官に対する南郷大尉の報告を聞いていると、彼は、

 「 二小隊の〇〇中尉と〇〇兵曹が特に奮戦した。 撃墜は合計〇機くらいと思います。 終り!」

 と、それだけだった。

 彼の乗用機には、弾痕が十数発あって激戦の跡を止めていたが、その報告はせず、前かがみに、モッサリと歩み去って、早めに宿舎に帰って行った。

 就寝前、彼の部屋を訪れると、

 「 中国空事は、戦意が強すぎて、技量がそれに伴っていない。 最悪だと思う。 私が中国軍だったら、日本の戦闘機とは、今は戦わない。 それが兵法というものだ。 敵の中に一人だけ技量抜群の奴がいたので、そ奴を追っかけ廻したが、逃げられた。 そ奴は、もしかしたら、毛唐であったかも知れない。」

 と言った。

 闘志ばかりが先行して、技量が伴わなければ、消耗ばかりで戦果は挙がらない。 また、闘志と技量が伴っていても、敵を知らずに猪突猛進すれば、戦果は挙がらず、味方は徒労に終るばかりだ。

 敵を知り、己れを知って戦え、と彼は言っている。 兵法の初歩であるけれど、敵機の前では、それが解らないと彼は教えているのだ。

 また、敵の集団と戦う時は、中核を倒せば後は烏合の衆となるから、その中核をよく判別して、徹底して衝けと教えたのであった。



 11月5日、新しく陸軍3個師団 (六、十八、百十四師団) が、杭州湾金山衛に敵前上陸をすることになった。

 陸軍が金山衛を占領するためには、その城壁を爆破しなければならなかった。 私は、その城壁爆破の命令を受けた。

 11月3日、金山衛の事前偵察に行った。 そこは寧波 (にんほー) 港と天台山 (1138米) の中間であった。 天台山麓を降って杭州湾に出て、金山衛の城壁を見ると、巾約15米、高さ10米の土塁であった。

 この土塁に穴を開けるには、6機が必要であった。 私は公大に帰り、精兵6機を編成し、2日後の陸軍の上陸を、今や遅しと待った。

 私達艦爆隊は、今まで、陸戦協力というものに少なからず戸惑っていた。 というのは、塹壕戦は相手がよく見えず、爆撃しても戦果は全く解らないし、南京攻撃の場合でも同じで、爆煙天に押し、大戦果を挙げたと思っても、次の攻撃に行ってみると、広大な大地には何の変化も見えないのだ。 陸上攻撃というものは、大地に杭を打つようなもので、力は入るが戦果は全く解らない。

 ところが、この度の金山衛の城壁爆破は、同じ大地を攻撃するのではあっても、穴を開けたら、そこを私達の同胞が突入するのだ。 今までの陸戦協力とは違って、戦果の確認できる爆撃だ。
(続く)

2009年09月30日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その21

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (10)

 11月5日、陸軍の上陸は、未明に着岸し、黎明を期して城壁を突破する、ということになった。 私達6機は、午前3時、暗黒の公大飛行場を離陸した。

 小雨が降っていたので、各機は別々に杭州湾に出て、最も金山衛に近い輸送船上空に集合して、一小隊は南方から、二小隊は東方から進入する方法を取った。

 爆撃は成功し、城壁には巾約3米の破口が2か所にできた。 私は機上で喝采を叫んだ。 これで、味方陸軍の何百人かの生命を救うことができたと思った。

 ところが、2、3日後に解ったのであるが、陸軍が城内に突入した時、敵兵は既に一人もいなかったという。 また、猪突猛進の槍の穂先をかわされたのであった。

 そればかりではなく、公大に帰投する時、飛行場は濃霧に閉ざされ、二小隊3機は陸軍の呉淞飛行場に不時着し、私と3番機は、長江河口の崇明島に不時着して、対岸から小舟による襲撃を受け車輪がパンクし、二番機は浦東地区に墜落戦死したのである。 惨憺たる敗北であった。

 戦死者は、野田一飛曹と野亀二飛曹であった。 野田、野亀は頭文字の 「野」 が重なり、それを気にする者があったので、組合せを変えようと思っていた矢先の戦死であった。

 野田、野亀の遺体を浦東地区から収容した時、江草隊長は、遺骨の前で涙ながらに言った。

 「 二人は城壁を突破して、多くの同胞を放ったと思って、安心して眠ったと思う。 諸君も、それを称讃してやることが、二人を成仏させる道だと思え。」 と。

そして続いて、

 「 闘争のための闘争をしてはいけない。 線香花火のような猪突猛進は、静かに燃える炭火にはかなわぬものだ。 二人は炭火のように燃えた。 それも、栗や、くぬぎの堅炭のように、長く強く燃え尽くして、美しく、真白い灰になった。 二人に学ばねばならない。」 と。

 その意味は、

 「 闘争のための闘争からは戦闘の理念は生まれてこない。 戦う人間は、戦争の大局的展望に立って、闘志を燃やせ。 そして、信じるところに向かって猪突猛進しろ。」

 と言われるのであった。

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( 原著より  前列左 高橋中尉 (著者)、 右 江草大尉 )

 南郷大尉の先日の教えも同じであった。 私は2か月間の戦闘の後、初めて闘志が心の奥底から盛り上がってきたのであった。 それは、理論ではなく、実感であった。
(続く)

2009年10月01日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その22

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第2話 猪突猛進 (11)

 11月11日夜、敵60万の大軍は、上海周辺から総退却を開始した。 杭州湾の敵前上陸が転機となったようであった。 私は杭州方面の偵察に行った。

 日本陸軍は金山衛と杭州の間を南京へと、長蛇の列を作って進んでいた。 銃を天秤のように担ぎ、悠々たる進撃であった。 敵は一兵も見えなかった。 これで第一段の作戦は終ったと思った。

 第二段作戦に入って、南京も簡単に陥落するであろう。 そして、恐らく戦争は終るであろう。 2か月の戦闘で、日本陸軍の強さをつくづくと知った。

 また、中国陸軍の神出鬼没の駈引の妙も、よくこの目で見ることができた。 加えて、江草、南郷両大尉の教えを吸収することもできた。 僅か2か月であったが、永い永い戦闘のようであった。

 私の飛行機は杭州湾を横切り、やがて寧波港の上空にさしかかった。 そこには、日中両軍ともに一兵も見当らず、静かな美しい街が見えた。

 14世紀初頭から16世紀後半にかけて、約250年間、数十回に亘って中国を襲った日本の倭寇は、この寧波港を数回も占領した。

 また、1840年には、阿片戦争で英海軍に占領されたり、この都は数奇な運命を辿ったのであったが、眼下に見える袋のような湾と、三つの城壁に区切られた美しい市街は、何事もなかったように、秋の陽ざしにくっきりと浮かび上がっていた。

 この古都のすぐ南方に、天台山が見えた。 日本の平安文化の基礎を築いた、比叡山天台法華宗の元祖たる中国天台山の宗門は、深山幽谷の中に多くの古刹を抱いて静かに眠っていた。

 日本天台宗の開祖最澄が、9世紀初頭、寧波港から天台山に登った道が、山林の間に見え隠れしながら山頂に達していた。

 この道を、一歩一歩登った伝教大師最澄は、その当時、日本人の救済と、日本の繁栄のために、猪突猛進の気概を内に秘めて、この天台山を仰いだのではなかったか?

 いつか飛行機は、杭州湾上を上海に向かっていた。 金山衛の城壁が、間もなく左前方に見える筈であった。

(第2話終)

2009年10月02日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その23

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 闘  魂 (1)

 昭和十二年九月下旬、日本陸軍は、黄浦江が揚子江に合流する直ぐ近くに 「戍 (ぼ) 基地」 という飛行場を造り、陣地戦の支援のための重軽爆部隊を結集した。 私達海軍航空部隊の公大飛行場とは目と鼻の位置であった。

 陸軍からの強い要請で、海軍部隊も陸戦協力を始めることになり、陸軍と情報交換をするため私は戍基地に連絡に行って戦線を視察した。 陸軍の説明によると、塹壕戦線は敵味方が五十米以内に対時して戦うこともあるし、時には格闘戦もあるから、爆撃誤差を五十米以内に収めなければ味方を殺す恐れがあるということであった。

 当時命中精度世界一と言われた日本海軍急降下爆撃隊でも、投下高度六百米では誤差を五十米以内に収めることはできなかった。 止むを得ず投下高度を百米以下とし、爆弾信管を遅動0.五秒で実施することにした。 信管遅動をかけないと、自分の落とした弾で自分の飛行機を傷つけるからであった。

 九月二十九日、私達の陸戦協力が始まった。

 初めのうちは、塹壕戦がよく解らない。 日本兵と中国兵の区別もつかない。 ただ、白い布で方向距離を示された点に爆弾を落とすだけだった。 そのうちに塹壕戦に慣れてきて、地上の格闘戦がよく解るようになった。

 私達が爆弾を持って塹壕の上を飛んでいるうちは、日本陸軍が手榴弾を投げ、突撃して敵陣を占領する。 私達の爆撃が済むと敵は逆襲して来て格闘戦の後陣地を奪回する。 こんな繰り返しが続いているのであった。

 そのうち、日本の老兵が、中国の青年兵士に追われて逃げている姿が見えるようになった。 日本の老兵というのは、陸軍一〇一師団の予後備兵である。 私達の父や兄と同年の、日本に帰れば一家の家長達が戦っているのであった。

 一方、中国の塹壕兵達は益々増長してきた。 彼等は、私達が落とした爆弾の爆煙が消えやらぬうちに、塹壕から這い出して来て飛行機を狙撃するようになった。 私達は、七.七耗機銃を持っていたが、それは塹壕の中までは届かないことを彼等は知ったのだ。 塹壕には凹凸があるから、機銃なんか恐くないのであろう。

 日本軍の戦線に焦りが見え始めた。 私達も焦った。 年老いた父や兄が、若い中国兵に逆襲されて逃げるのを見るのはたまらない。 偵察員達は、後席に手榴弾を積んで行くことを提案した。 操縦員は、六十瓩爆弾を六発積めないかを検討した。

 しかし、簡単には許されなかったので、もっと銃撃を効果的にやろうということになり、敵の直上で垂直旋回をやって、旋回銃で集中銃撃をやる。 固定銃攻撃は、敵上空で失速反転をして深い角度で奇襲銃撃をする。 何れも、塹壕の中の凹凸と掩体を利用させない奇襲である。 この戦法は極めて効果的であったらしく、敵の反撃が少なくなった。
(続く)

2009年10月03日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その24

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 闘  魂 (2)

 しかし、三日目に事故が発生した。 私の三番機が固定銃銃撃後引き起こしの時、脚を塹壕の土手に激突し、両脚を吹き飛ばして敵味方の中間に胴体で滑り込んだ。 私は急いで附近敵陣地の制圧のために急角度の銃撃を繰り返したが、引き起こしが激しすぎて私も下翼下面の翼布が破れ、爆弾の破片で昇降舵を破損し、飛行困難となって戍基地に不時着した。 二機が同時に事故を起こしたのである。

 公大からは、隊長が全機を連れて急いで出撃し、戦線を制圧した。

 陣地不時着の搭乗員は、味方の老兵に助けられた。 両足を折り肋骨を砕き、顔面はガラスで頬を切り割き重傷であった。 私が戍基地で心配している時、老兵達に運ばれて戍基地の野戦病院に収容されたが、送って来た老兵達がベッドをのぞき込んで泣いた。

「 わしらの命の恩人がもし死んだらどうしよう。」 と言った。
「 わしは故郷で井戸堀りをしています。」 とも言った。

 老兵は私の父よりも年配に見えた。 素朴で正直で、誠実な老人達であった。 乗員を救出する時、敵から随分射たれたらしいが、「 中国兵の弾なんか当りませんです 」 とキッパリ言った。 この老兵が、中国の若者に逆襲されて銃剣の下に斃されてはならないと思った。

 続いて事故が起こった。 同期生疋田外茂中尉の陣地突入である。 原因は私達の場合と同じであった。 しかし、私達は攻撃を緩めようとは思わなかった。 脚タイヤで塑壕の土を削り、弾がなくなると機上から弾倉を投げて戦った。

 基地では、整備員が翼の下で握り飯を頬張りながら燃料を補給し、兵器員は爆弾、機銃の充填に真黒になった。 目は血走り、歯を喰いしぼっての奮闘であった。

 こんな戦闘が一週間ばかり続いた頃、中国兵の後退が始まった。 そして或る日、夜が明けたら敵の戦線は空っぽになっていた。

 翌日、疋田大尉の遺骨の収集に行った。 呉松クリークに沿って索したが、なかなか見つからない。 西方には懐かしい蘇州があるが、嫌な支那犬が遠吠えしている。

 支那犬には舌の真黒いのがいて、そ奴が狼のような眼光で背中の毛を逆立てて唸り、日本人に対する激しい敵愾心を見せる。 こ奴は戦友の死肉を喰う奴だ。 思わず拳銃に手をやると、一目散に逃げる。

 数軒の農家があった。 敗残兵がいるかも知れないと警戒していると、老女が現われた。 無表情な痩せた長身の女であった。 破れた綿服を纏い、髪を引きつめて藁で結んでいた。 油断していると、こんな老女が突然手榴弾を投げてくるという。

 昨日も、こんな老女に陸兵三人が殺されたということであった。 その時は、女をその場で射殺したそうだが、表情一つ変えなかったという。 そんな敵愾心がどこから生まれるのであろうか。 私はこの老女にもそれを感じた。
(続く)

2009年10月04日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その25

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第3話 闘  魂 (3)

 やがて、機体の燃え残りと土饅頭墓が見つかった。 墓の土は新しい。 掘り返すと、疋田と偵察員の遺体や飛行服が現われた。 私達は遺体を焼き、遺品を収集して基地に帰った。

 この土饅頭墓は、日本兵が作ってくれたのだろうと簡単に思って別に詮索もしなかったのであるが、これは中国兵が作ったものであった。 私はこのことを陸兵から聞いた時、井戸堀りの日本の老兵を想い出した。 中国兵の中にも、素朴で誠実な人がいて、黙々と鍬をふるってお墓を作ってくれたのだと思うと、今までの敵愾心のやり場に困るのであった。

 昨日まで、強敵な敵愾心をむき出しにして戦った中国兵、無表情ですばしっこい恐ろしい老女。 これらの人々と、日本兵の墓を作るために 「もっこ」 を担いだ中国兵とが、どうしても網膜の中で溶け合わなくて困った。

 静かに潜めた敵愾心はなかなか解らないものだが、素朴で優しい涙心も、一層理解し難いものだと思った。 支那との戦いには理解し難いことが多すぎた。

 激戦の一日を終えてベッドに横たわった時、過去に習ったことと今日一日のことを併せて考えて、自問自答してみるのであった。

問: 戦闘とは何か? 机上で学んだ指揮統率、命令服従、軍紀士気、倒れて後已む敢闘精神はどこから生まれるのか?

答: 飛行隊指揮所に整列して戦況を聞いた刹那から、私達を支配したのは動物本能の敵愾心である。 他のことは解らない。


問: 戦い疲れて眠る肉体を、明日の戦いに駆り立たせるものは何か?

答: 自分の部下を傷つけられた烈しい怒りであり、同胞の焦眉に迫る危急を救うことだけであって、指揮、命令以前の問題である。


問: 戦略的攻撃に生命を賭する闘魂はどこから生まれるか?

答: 指揮官の命令を受け、周密な実施計画と予想される戦果及び以後の作戦の展開予想を聞いて、私自身が自主的に納得した決心に基づく意欲である。


問: 戦争に対する本質的な心の傷みはどうか?

答: 戦争勃発時の、中国膺懲の使命論は単純に納得できなかったが、日中の歴史的必然的な戦争の不可避性は理解していたし、時代の風潮もあって良心的傷みは強くはなかった。 一次南京爆撃で一般市民に被害の及ぶことにも、僅かの同情心しか持つことができなかった。


 以上、どこかチグバグな気持はあったが、ムード的にそれを忘れてよく眠った。

 二つの国家、民族の、個々の構成員の国家観、戦争観、死生観が、国家戦略、軍事戦略を通して末端部隊の作戦実施にどのようにつながっていくか? それを考えるには私はまだ十分に成熟していなかった。

 また、国家観、戦争観はともかくとして、死生観と責任観と戦闘との関係を実戦の場でどうとらえたかについては、若さによる猪突猛進の中で感情的に生まれてきた闘魂であった。

 本来、戦争は両国の国家的若さと若さとの衝突であり、戦闘とは、個々人の若さと若さの激突であると言えるのではあるまいか?

 ともあれ、若さとは激しいものであったと思う。
(第3話終)

2009年10月05日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その26

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 死刑執行人(1)

 12年10月上海周辺の敵は羅店鎮 (ろうてんちん) (上海の西北30浬) 方面に後退した。 その羅店鎮も、或る夜、日本の斥候兵が間違って城内に入ったところ中国兵は一人もいないことが解ったので、その翌日占領された。 そして、私達海軍の陸戦協力は終り、南京攻撃が再開されることになった。

 ここで、10日前の南京攻撃を回想してみよう。

 この攻撃は日本海軍の艦上機による都市爆撃の第1回目であった。 編成は、第十二航空隊の主力部隊艦爆18機。 総指揮官兼第一中隊長は坂本大尉。 第二中隊長は江草大尉。 私は二中隊の三小隊長だった。 10月3日0800、上海公大を発進し揚子江に沿って西進した。

 その昔、西暦702年文武天皇の時、日本の遣唐使が屋久島を経由して支那海を横断し、揚子江を遡江して、大運河の起点揚州に入港したのが遣支南方航路の始まりであるが、その揚州を遥か北に見ながら、悠久五千年の文化を秘める揚子江上を西進したのであった。

 私は後尾小隊長であり航法の責任もなかったので、悠々として盤古の神を思い、蘇州の詩情を偲び、茫漠たる黄土大平原を俯瞰して愉快な気持であった。 いい気なものだったのだ。

 わが帝国陸軍が上海に上陸した今は、中国四百余州は秋風枯葉を巻くように席巻されるだろうという気持があったし、中国航空軍備などは私達の鎧袖一触で微塵に砕けるだろうという自負心があったから、鼻歌まじりの爆撃行であったのだ。

 攻撃法は、南京東方から南京市上空に進入し、市内を航過して南京市西方隅下関 (しゃーかん) の高角砲陣地を爆撃する計画であった。

 当時の私達の常識として、中国の高角砲の命中率は零に近いものだと思っていた。 それは、昭和11、2年頃の日本艦隊の高角砲が、最新式の射撃盤を使い練達の砲員が配置されていながら命中率は零に近い成績であったから、中国の高角砲もそのとおりだろうと思ったのだ。

 ところが、予想は全く違っていた。 この時の南京市の防空砲火の威力は、測的はドイツ式の測的方式であって、南京市の周辺3か所に測的所を設け、三角ベースを一元的に運用し、高角砲台は市内随所にあって、砲約100門射距離は高度5千米 (九四艦爆の実用上昇限度約4千米)、機銃は無数で自動追尾式であったという。 現代と比較しても電波利用を除けば大差はなく、当時の日本海軍の比ではなかったのである。

 こんな恐るべき敵が待っているとも知らず、末代の古都 「建業」 (南京) 上空に現われた私達こそ哀れというも愚かであった。 2千8百米で進入した私達に対し、敵高角砲の初弾幕は約3千米、射速は5秒間隔で、一幕約30発であった。 あっと驚いても既に遅く、全機死地に入ったのである。

 驚きは現実の被害となって現われた。 第4弾幕で指揮官機が直撃され、流星のように消えて行った。 坂本以文大尉の戦死である。 総指揮官を失っても、第一中隊はそのまま直進した。 後年、南昌飛行場に敵中着陸して、敵機に火を付けた小川正一中尉が一中隊の指揮をとり、計画どおり弾幕を縫って進撃した。
(続く)

2009年10月06日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その27

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 死刑執行人(2)

 当時、日本の急降下爆撃法は、全機が指揮官先頭に一列縦隊となって予定進入点に次々と占位して急降下に入る方法であった。

 18機が、空中の特定の一点から順次降下進入するわけである。 敵がもしこの特定点に弾幕を集中すれば、味方は敵弾に当るために進入するような結果になる。 (アメリカのヘルダイバーも緒戦時にはそうであった。)

 こんな爆撃法は演習訓練中のいわゆるお座敷水練と同じであって、敵弾雨飛の中の爆撃法とは遠く隔たるものであるが、私達は初陣であり、敵を軽視した騎兵であったからこれをやったのだ。

 敵の弾幕が進入点に集中され始めた。 その中に一中隊の各機が次々と進入して行く。 5機目が続く犠牲となって撃墜された。

 弾幕に隠れる前続機が私には気になった。 私の番が直ぐ来るのだ。 悪魔のように弾幕が近づく。 ままよ23歳の命、母の顔が脳裏をかすめた。

 後続機を見ると、泰然としてついて来る。 敵陣を見ると、バッハッと敵高角砲台の閃光が見える。 毒蛇の舌のようだ。

 第二中隊長は、俊敏な江草大尉であった。 指揮官坂本機から数えて十機目である。 彼は2番目の犠牲が出た直後、90度左に変針して弾幕を回避し、緩降下接敵を始めた。 一中隊の被害を見て、咄嗟に戦法を変更したのである。 私達は懸命に追尾した。 敵の弾幕は右前方に離れた。

 暫くすると、敵弾幕が私達を追尾し始めた。 江草機を狙った弾が、私の小隊の後方で炸裂する。 私は全速で江草機に近接する。 平時訓練の隊形にはこんな形はなかったが、そんなことは言っておられない。

 私は列機に 「もっと前に出ろ。 早く私と並べ」 と命ずるが、手先信号だからなかなか通じない。 列機の後方に弾幕が接近してくる。 列機は私の翼だけ見て編隊飛行をしているから弾幕を見ていないが、私は列機の後方の弾幕を見ながら飛んでいるのだ。

 「前に出ろ。 急げ」 と何回も信号するが、列機は相変らず悠々たるもの! 南京市上空を通過する五分間が何と長かったことか。 敵高角砲の情報を軽視し、敵を侮って死地に飛び込んだ愚かさ!

 歯を喰いしぼって死地から脱しようと焦った。 エンジンは極限の赤二十。 まだ帰り道を2百浬飛ばねばならなかったが、死地を脱し得ずに帰還はない。 限界までエンジンを酷使した。 地上の中国兵が見たら、悠々と首都上空を飛ぶ東夷の賊めと目に映じたであろうが、私達も必死であった。

 幸いに、弾幕は最後まで私達二中隊を狭叉しなかった。 やっと下関を60度の眼下に見て急降下に入った。 今度は物凄い十三粍機銃である。 4、5か所から射ってくる。 曳痕弾が赤色のアイスキャンディーの連鎖のように見えた。

 6百米で引き起こし揚子江上に逃れ、左旋回で集合すると私達の中隊は無事であった。 死地を脱したのだ。 江草大尉の臨機の戦法が効を奏したのである。

 しかし、着陸後調べたところ、全機に十数発の弾痕があり、江草機の操縦索は切断寸前であった。 私の飛行機は車輪タイヤを射ち抜かれ、着陸して減速した時、右に回され左翼を接地して機体を小破した。 これが第一回南京攻撃であった。 坂本大尉以下4名が戦死し、全機被弾したのであった。

 坂本大尉は大村基地を出発する前夜 (戦死される、3週間前になる)、長崎市に泊った。 日本に生まれて、初めて出征する前夜である。 彼は浪曲が大好きであったので、その晩長崎で心ゆくまで聞いた。 その時の浪花節語りは、日本一の名人で、天中軒雲月であったという。 彼女の曲が坂本大尉の送葬の符となったのであった。
(続く)

2009年10月07日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その28

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 死刑執行人(3)

 私達はこの爆撃行で、戦争の凄惨さを知り、強烈な衝撃を受けた。 眠れる大国として侮られた中国。 制空権もなく、専守防禦の戦闘であったが、闘志満々の恐るべき相手であったのである。

 私は日本人の一人として、日清日露戦の生存者達から、安易な日本の戦勝と手柄話を誇大に聞いて知らず識らずのうちに中国人を蔑視し、中国との戦争は演習の連続くらいにしか考えていなかった。

 それは、世界に冠たる日本艦隊と自負し、航空軍備の不備を神秘主義と事大主義で隠して、世界の現実を追求しなかった日本海軍の指導者の欠陥でもあった。

 そして、第二次南京攻撃を再開することになったのである。 10月10日、第二次攻撃は、戦訓を生かして江上から下関を斜単横陣で奇襲し南京市上空を超低空で航過した。 命中精度は少し落ちたが、被害は零であった。

 10月12日、第三次攻撃が行なわれた。 江上で単縦陣となり、斉動で南京市に突入した。 斉動点が中山陵の東方であった他は、二次と同じであった。



 この斉動直後のことである。 高角砲弾幕が右前方に見えていた。 一中隊の第二小隊三番機が、弾幕を回避して大きく北方に旋回し江上に去ったのである。

 私の前を去って行くその飛行機を見たが、間もなく見失った。 その機も私達を見失ったらしく、公大に着陸するまで編隊に加わらなかった。

 飛行場で江草指揮官は彼に注意した。 烈しい叱責ではなかったが、寸分の放恣を許さない鋭い注意であった。

 10月下旬、第四次攻撃で、彼はまた同じ回避をしたのである。 公大飛行場に帰って、司令官に戦闘報告をした後、江草大尉は彼の搭乗員徽章をその場で剥ぎ取った。 そして、一言も言わなかった。

 彼の徽章が剥がれ、ビリッと音がした時、私は私の徽章を剥ぎ取られたようにぎょっとした。

 私もあの弾幕は恐ろしい。 弾幕の爆風で飛行機がぐらっと揺れ、カッという金属音が耳を劈く時、私の胃袋はキュツと締まり、暫くして背中が冷たかった。 恐らく私の顔は蒼白となり、全身は震えていたであろう。

 回避しても間に合わないのは解っていても、どちらかにハンドルを押えた。 恐らく彼もそうしたのであろう。 ここまでは私と彼は違わない筈だ。

 忍耐力などの問題ではない。 教養知識、責任観、義務観、任務観もその瞬間には関係ない。 彼と私とはどこが違ったのであろうか。

 彼のあの時の操縦操作は、ハンドルを左に倒し続いて左の足を踏んだ。 私はハンドルを倒したが、左の足は踏まなかった。 左足を踏めば左に旋回し、左後方の、部下と顔が合う。 私にはそれができなくて足を踏まなかった。

 私の足は私の頭脳から 「足を動かすな」 と予め命令を受け、筋肉が動物的に動かないよう習慣づけられていた。 それは出発の前に、また出発の前夜、ベッドに横になっている時にも繰り返し私自身が言い聞かせていた。 それが彼と私の違いだった。

 彼はまだ18歳の少年であった。 末だ童顔の残る少年であったのだ。 心の準備なしに戦列に加わったのであった。

 日が投してから、私は飛行場の隅に彼を呼んだ。 彼は泣いていた。 自分の頭を自分で叩き、身も世もない泣きようであった。

 上海の街の煙突に、赤いランプが一つ瞬いていた。
(続く)

2009年10月11日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その29

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 死刑執行人(4)

 私は、彼に対する寛容な処置を願った。 しかし、分隊内には整備員も兵器員もいる。 所詮、私の願いは空しかった。 他人を罵って自分の非を糊塗する人間の多いことの汚ならしさを、この時ほど憎んだことはない。

 一週間ばかり経った日の夕方であった。 彼は、明日の攻撃に参加させてくれと言って来た。 一週間の苦悩は彼の童顔を消してはいたが、元気で顔色も良かった。 私は彼の目を見つめた。 静かに澄んだ眼には、何物をも恐れぬ強さがあったので、彼を江草大尉の所に連れて行った。

 江草大尉は長い間黙って彼を見つめていたが、その目に涙が光っていたので、許可を得たと判断して彼を次の攻撃に参加させることにした。

 彼は次の攻撃で、南京市の中央造兵廠内の高角砲台に撃突自爆したのである。


 彼の最後の急降下は見事ではなかった。 降角が途中で変った。 目をつぶって急降下したのかも知れない。 或いは、恨み多い高角砲台を物色したのかも知れない。 偵察員は欠員であった。 彼の同僚先輩が出発整列の時、何の屈託もなく彼に話しかけていたのが、私には何より嬉しい想い出となった。

 しかし、自分の頭を叩いて泣く彼を、卑怯者という名で葬り去らねばならない理由がどこにあったか。

 戦争そのものは冷厳である。 敵を前にして逃げることは、法に照らして言えば死罪であったことは事実である。 戦場で卑怯の名をかぶせられれば、生きていられないことも事実であった。 しかし、同じ隊員である同僚先輩までが、冷酷無惨に彼を見捨てるような態度はどうしたことであったのか。

 私も、彼が死を択んだことを肯定する。 哀れであっても、彼を救う方法は発見できなかった。

 江草大尉も、恐らくその方法がなかったからこそ終始言葉もなく、最後には泣いて彼の死を容認したのだと思う。 彼の涙も死の冷厳さの前に謙虚に自分の非力を思い、無常に泣いた涙ではなかったか。 それは、当時の日本の一般社会、或いは、日本人の常識であった。

 しかし、私はこの常識に対して反発を感ずるのであった。 いやしくも軍隊は死を見つめるところなのだ。 一般社会の常識で人の死を処理してはならないところなのだ。

 つまり、「一般社会すらそうではないか。 軍隊では絶対だ」 という考え方は、「軍隊は一般社会とは違うのだ」 と言いながら、「死については社会常識を利用しようとする」 ことであり、矛盾していると思うのであった。

 私は言いたい。 修練足らず、思慮も浅く、生来のんびりと暮らしてきた若者が、突然の恐怖によって反射的行動に出た時にどうするか? その者に使命観、責任観を説明するか。 人生観、国家観を説き聞かせるか。 倫理、宗教を説くか。

 こんなことは何れも「イエス」であり、同時に「ノー」でもある。 極論すると、そんな付焼刃はどうでもよいと思う。

 そんなことよりも、最も大切なことは人間的思いやりだと思う。 神のような無限の愛ではなくとも、素朴で誠意のある愛情こそ唯一の救いだと思う。 そして、彼の択ぶ自主的判断と行動を、彼の身になって労ってやることだ。

 この単純な愛情は、彼の属する部隊全般が平素から長い間に積み上げて置かねばならないことだ。 それがなかったから、彼を完全に見放したことになったのだ。

 彼は不幸にも戦友達の白眼視の中で死を択んだ。 江草大尉の涙も、恐らく彼の目には入らなかったのではあるまいか。 そして、私も冷酷な死刑執行人の立場となったのであった。 彼の死は、私には強い衝撃であった。



 彼の遺骸は、南京市無名戦死の墓に祭られた。 当時の日本の新聞は、彼の勇敢を伝え、彼の故郷にも立派な墓がある。

(第4話終)

2009年10月12日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その30

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第5話 南支仏印作戦異聞(1)

 昭和14年10月、私は航空母艦 「龍驤」 から第十四航空隊艦爆隊長に転任した。

 この部隊は、昭和15年一杯援蒋ルートの遮断と仏印進駐に協力することになり、広東、海南島、南寧、ハノイ、サイゴンに駐留したのであったが、作戦上のことはともかくとして、当時私達がこの地域の住民に対してどのような民族的意識で接したか? 隊員達の若いエネルギーと民族意識との関係はどうだったか? ということについて紹介しよう。

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( 原著より  南寧飛行場にて 後列中央が高橋大尉 (著者) )

 この地域には、漢民族、南寧蛮族、僮族、安南民族が住んでいる。 一方、この地域に駐留した私達日本人は、人種的には 「原日本人」 であるという考え方を持っている者が多かった。 但し、「原日本人」 というのは現代の人類学者が言うところの 「原日本人説」 ではない。

 戦前派の私達は、日本人は天孫降臨民族の子孫であると教えられただけで、日本民族が何時、どういうコースで、日本列島に渡来したか、大陸の民族的古里は何処なのか、蒙古、満洲、北方五胡、韓などの民族とどのように混血したか、等については勿論のこと、神話学、民族学、言語学などについても全く知らなかったので (専門学者の著作が市販されていなかったので)、中学校で教えられた程度の天孫降臨的原日本人説を信じていたわけだ。

 ところが、この地域に住んで、日本人そっくりの農夫やおはぐろをした婆さん (私の祖母はおはぐろという歯を黒く染める習俗を守っている人であった) 達に会うと、私達の天孫降臨民族などという幼い知識や純血意識などは跡形もなく消えて、それに代って、強い雑種意識が頭を擡げてくるのであった。

 特に若い兵隊達はあの娘は日本人によく似ているから、きっと倭寇の子孫だろうとか、山田長政の末裔であろうとか、中には、日本海軍は日露戦争以来よく南支仏印に行動したから、土民の中に自分達の異母兄妹がいても不思議ではないなど、他愛のないことを考えているようであった。



 ところで、数百人もの血の気の多い日本人が数か月間も一つの地域で異国人と接触すれば、いろんな事件が発生するのは当然である。

 昭和15年春、第十四航空隊の艦爆隊はい洲島 (前出)、南寧方面での作戦が一段落したので、約一か月海南島海口の基地に帰って来て休養した。

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( 原著より  海口飛行場の九六艦戦 )

 或る雨の日の午後、支那料理を食べようと思って、若い中少尉を5、6名連れて海口の町に外出した。

 海口は、人口2万余の地方都市である。 海南島の北岸にあって、約7浬の瓊州 (ちょんしゅう) 海峡を隔てて、雷州半島と対い合った商港だ。 その郊外にある私達の飛行場が標高約50米の台地上にあった関係で、海口市は、摺鉢の底の雑踏の市場という感じであった。

 港には、数百隻の 「ジャンク」 が舷を接してひしめいていた。 商店街には、支那織物、黒壇の家具、雑貨、食品等も豊富であった。 町の中央部に青物市場があって、「ニンニク」 の匂いが猛烈であった。 中国に暫くいると、ニンニクの匂いは人間の五感を柔らく包んでくれる。 特に、汗と油の匂いがニンニクに加わると空気に味が出るように感ぜられる。
(続く)

2009年10月13日

『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その31

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第5話 南支仏印作戦異聞(2)

 私達は当てもなく歩いた。 戦争も平和も我関せず焉と、今日を生き抜くことに懸命な行商人の雑踏が、頭のテッペンから飛び出してくるような素頓狂な甲高い掛声をかけながらニンニクの匂いを撒き散らす様は、強靭な生命力そのもので、戦争を嘲笑しているようであった。

 そんな中に天秤棒を担いで、反動を利用しながら軽快に大股に歩を運ぶ野菜売りの老人が故郷の村人と寸分違わないのを見て、思わず 「おじさん!」 と声をかけようとしてハッとするのであった。

 私と彼等は、頭型が違うとか、骨格も血液型も指紋も違っているし、言語も神話も民俗一般も異系列で、人種が違うのだとは思えず、祖先が同じだとの思いが自然に滲み出てきて、異国の戦場にいることを忘れ勝ちになるのであった。

 私達はとある街角の、通りを見降ろす汚い支那料理店の二階に上がった。 神戸にいたことがあるという店の主人が私達を日本語で歓待した。

 豚と鱶と家鴨とエビの料理で、飲み物は老酒であった。 広東菜は北京菜と違って日本人の舌に合う。 私達は満腹し蕩然と酔って、ワンポツ (人力車) に乗って隊門まで帰った。

 こんなことが4、5回続いた頃であったと思う。 私達が行くと、二人の娘がサービスに出るようになった。 この二人の娘は、丸顔の二重瞼で、クリクリ動く目の、美人ではないが日本人そっくりの16、7歳の娘であった。

 日本の飲み屋の女と違って、絶対に酌をしないし、料理の運びにも、彼女達の着物の裾が私達の軍服の端に触れることもないし、初対面の男性に対する中国人らしい儀礼をよく守っていたが、若い中尉達の熱い視線を受けて、ほのぼのとした微笑を返す様を見ていると、彼女達の血と私達の血とは、どこがどう違うのか解らなくなるのであった。

 私は考えた。 隊員達の旺盛な食欲はこれで十分満たされるだろう。 しかし、性慾の問題は解決されていない。 このような娘達に会うことは、果して適切であろうか? いい機会があったら、隊員達と話してみる必要がある。

 その日は天長節であったので、艦爆隊全員の祝宴をやった。 士官15名、下士官・兵約百名であった。 酒が廻ると、私が質問するまでもなく、外出中のエピソードが暴露されたり、いろんな恋愛の話が出始めた。

 恋人が高峰三枝子であったり、南寧の食堂の娘であったり、中には、自分が今までに日本で会った理想型の女性を、それが人妻であろうと、高嶺の花であろうとお構いなしに自分の恋人に仕立てている者もあった。 全く他愛のないようで、どこか迫りくる強さがあった。

 私は少なからず危険を感ずるのであったが、しかし、パン助宿 (日本人の戦場の公娼) に繁々と出入することを奨励するわけにもいかず、と言って、外出 (一週間に二日昼間のみ) を禁止したり、軍票 (占領地城に通用する紙幣) を制限しようとまでは決心がつかなかった。

 別の手段で、隊員に華やかで柔らかく繊細なものを与えてやらねばならないのだ。 褌一つで大汗かいて餅をついたり、野球をやったり、酒のガブ飲みをして体力を発散させるだけでは駄目なのだ。
(続く)