2010年08月01日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その18

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (3)

 私達は、早速セブ島までの燃料を野積のドラム缶から手押しポンプで積み、ゴルフ場の芝生の上で MAYON を眺めながら弁当を食べた。 歩兵伍長が飛行機を警備してくれるというので、みんなでレガスピーを見下ろす丘に登り、サンパギータの花を摘んだり青いマンゴーを採ったりして一時間ばかり休んだ。

 その間に、私は離陸をどうしようかと考え続けていた。 もし地雷が爆発したら、私達は地上と空中に分断される。 その時は、飛行場の修理に時間がかかるから一部の者は二、三日ここに滞在しなければならなくなる。 また、戦死者や怪我人が出るかも知れない。

 今から陸軍に頼んで、ランウェイの精密調査をしてもらうまで離陸を見合わそうか、或いは離陸を強行しようか、私は迷っていたのだ。

 やがて私達は飛行場に帰り、列線に集合した。 その時、爆弾を棄てて着陸させた若いパイロットが思いつめた顔で、

 「隊長! 私がランウェイを隈なく滑走して地雷が爆発するかどうか調べてきましょうか?」

 と言う。 彼は地雷源の水先案内をしたいといっているのだ。 私は、

 「管制地雷だから、どこかでゲリラがキーを押さない限り地雷は爆発しないんだよ。 滑走してみただけでは地雷の位置は解らんのだ。」

 と答えたが、この若い部下に教えられた思いで決心した。 そして、

 「爆弾は卸さない。 追い風でもかまうことなく、現在パークしている各機をそれぞれの近い方のランウェイエンドから離陸しろ。 離陸順序は小隊番号順の機番号順。 地雷が爆発したら、残された者は陸軍に頼んでできるだけ早くセブに進出して来い。 飛行機が燃え出したら急いで逃げろ。 怪我人が出たらゴルフ場の陸軍部隊に連れて行け。 離陸間隔はできるだけ不規則になるようにして私に続け。」

 と命じ、更に、歩兵伍長に、

 「伍長! 地雷が爆発した時は宣しく頼むぞ。」

 「ハイッ! 出発するのでありますか? 隊長殿!」

 「そうだ。 戦闘だからなっ。」

 「ハイッ!」

 伍長は子供のような可愛い顔を引き締めて心配そうであったが、若い木塚中尉 (忠治、67期) が、

 「大丈夫だよ伍長! 心配するなよ。」

 と言うと、ホッとして真白い歯を見せた。 彼は今、日本のどこかで、いい親父さんになっているだろう。

 さて、私達は出発を始めた。 先ず、私の小隊3機が不規則な間隔で離陸した。 お尻がむず痒いような気持であった。 場周コースから後続機如何にと見守っていると、二小隊が離陸を始めた。

 一番機が無事離陸。 続いて二番機が地面を切ろうとしている時であった。 ランウェイエンドに近いショウルダーと、ランウェイの接点附近で爆発が起こったのである。 その位置は、離陸機の左後方約10米の地点であった。

 爆煙と焔は僅かであったが、泥が朝顔型に飛び散るのが見えた。 私は手に汗を握って結果を見つめていると、その飛行機は上昇を続けて一番機を追っている。

 残る4機も、地雷の爆発なんかどこ吹く風かと言わんばかりに次々と離陸して来る。 薄氷を踏む思いであったが9機目が離陸した時、初めて全身に汗が流れた。 人間は激しく緊張すると、汗も出ないらしい。 そして、私達はレガスピーとメイヨン山を後にした。

 セブに着陸後機体を調べたが、全く無傷であった。 この時の二小隊二番機のパイロットは、後年ソロモンで戦死した太田上飛曹であるが、彼は、あんな地雷は囲炉裏の中で栗がはねるのと同じだと言って涼しい顔をしていたが、飛行機の直下で爆発すると、どんな小さい地雷の場合でも燃料に火が付くから、決して油断をしてはいけないのだ。

 戦場の基地移動は難しい。 「そこに飛行場があるから降りてみよう」 というのは、猪突猛進的冒険であった。 事前調査は、どこまでも慎重精密にやらねばならない。

 ついでに言っておくと、管制地雷で飛行機を仕止めることは、飛んでいる鳥を一発で撃ち落とすようなもので非常に難しい。 離着陸する飛行機にとって最も恐ろしいものは、圧力と震動によって瞬発する大型の地雷である。

 また、滑走路面に埋めた地雷は簡単に発見できるが、ショウルダーの芝生の下に埋めたものは発見が難しいからよく注意しなければならない。 この時爆発した地雷は、ゴルフ場側のショウルダーに埋めてあったものであった。 私達は幸運にも、Mt. MAYON 側のショウルダーにパークしていたのであった。

 あれから32年経っていたが、私はあの時離陸機を見つめていたように、手に汗を握って乱雲の切れ目に目を凝らしていた。 しかし、Mt. MAYON もランウェイも見えないままに飛行機はセブ島に向かって飛び続けた。

 いつの日か MAYON 嬢に会い、ランウェイサイドの地雷爆発地点に立ってみようと思いながら、窓辺から目を外らした。
(続く)

2010年07月31日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その17

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (2)

 さて、Mt. MAYON 嬢は一瞥した時には美しいとは思ったが、その他特に魅力的ではなかったので、せめて山に対する挨拶だけはしておこうと思って、9機の飛行機を単縦陣にして山頂に近づいて行った。

 ところが、山頂に近づくにつれて、先ず山膚の異状な華麗さに驚かされた。 頂上は灰色の絨毯のような火山灰が敷きつめられ、頂上から八合目までは緑の雑草地帯、六合目までは藍色の潅木地帯、四合目までは赤黄白青の原色鮮かな花畑地帯、二合目以下の広い裾野は椰子の森林地帯になっていた。

 火口の縁は芥子の花弁のように華奢で、火口の直径は百米にも満たない真円であった。 その火口の下に、合別にベルト状の園が画然と区別されているのだ。 しかも、そこには人工は一切加えられていない。 自然の摂理による繊細な造化がコバルトブルーの空をバックにして鮮かに浮かんでいるのであった。

 私はこの山を見直したい気拝になったので、段段と高度を下げて裾野の上まで降りた。 その時だ。 椰子の大樹海に呑み込まれそうな恐怖に襲われたのであった。

 飛行機の直下には、傘を拡げたような椰子の葉がびっしりと大地を覆い、水平線の彼方から暗緑色の波涛が打ち寄せて来るようだ。 一筋の渓流も見えず、小径もなく、幹も見えない。

 それは、植物が地球の表面を覆い尽くそうとする意志と力を誇示している姿であった。 単調で、強靭で、貧慾で、万物一切を呑み込んで、まだ飽き足らなくて毒蛇のような目で私達を狙っているように思った。

 私は身震いをしながら、樹海から逃れようとして急いで高度をとると、MAYON 嬢が目の前に泰然として坐っていた。

 彼女の胸の隆起の尖端の、小娘の乳豆のような山頂が、ツンと澄まして魔の樹海を平然と見降ろしているのであった。 そのポーズは高慢な箱入り娘のようで、不思議な気品があった。 ほのかな色気もあった。 私はこの山が好きになった。

 そして、二か月間フィリピンに滞在中、マニラ、セブ間を往復する毎にこの山を雲間に垣間見したり、時には、噴火口に近づいて彼女の襟もとを覗いてみることもあった。 MAYON 嬢と私との関係はこういうことであった。

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( 原著より  メーヨン山とレガスピー市)

 この山の南麓の樹海が尽きる所に、一本の滑走路があった。 この滑走路から更に南方がゴルフ場、続いてレガスピーの街があった。 この滑走路は、恐らくゴルフ客を乗せた軽飛行機が発着したのであろう。 レガスピーの街は椰子と白砂の孤状の湾に臨んだ静かな漁港であった。

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( 現在のレガスピー空港が本稿で出てくる滑走路の跡かどうかは不明です
Google Earth より )

 私達は Mt. MAYON に挨拶を終えたので、いよいよ着陸を始めることになった。 先ず、9機を単縦陣に開いて、若いパイロットに着陸帯を十分に偵察させた。 ランウェイは長さ5百米、巾20米で、航空母艦の背中のようだ。 ランウェイショウルダーは左右の約30米の芝生地帯であったが、堅いか柔らかいかよく解らない。 風は無風であった。

 ところで、戦場での飛行機の基地移動には、進出後の作戦即応のために各機に爆弾を積んで行くのが常識である。 私達も、この時60瓩2発を翼下に持っていた。

 勿論、信管はつけていないから不良着陸をしても爆発の危険はないが、機体が重くなるから滑走距離が長くなる。 だから、若い3人のパイロットには、着陸が難しいと思ったら爆弾を捨ててから着陸してもかまわないと予め指示していた。

 私は先に着陸し、タッチダウンポイントに立って着陸管制を始めた。 ベテラン達が次々に着陸した。 しかし、若い3人のグライドパスは不安定で、何回やり直しても着陸ができそうにない。

 私は3人に、「爆弾を海に捨てて来い」 と命じたが、爆弾を捨てることは武士が刀を質に入れるのと同じだと思い込んでいる若者達だから、なかなか承知しない。 そのうちに二人がやっと着陸に成功し、残るのは一機となった。

 その時であった。 ランウェイエンドからボロボロのトラックが飛び込んで来て、陸軍の歩兵伍長が慌てて私の前に立ち、このランウェイには遠隔管制の地雷が沢山埋めてあって、そ奴はまだ完全には処理していないと言う。

 言われてみると、ランウェイ上に点々と地雷が爆発したらしい穴があって、それを土で簡単に修理した跡がある。 それを聞き知った以上、残る一機に爆弾を抱えたまま着陸させるわけにはいかない。 爆弾投棄を厳命してから無事着陸させた。 ここまでは無事であった。
(続く)

2010年07月28日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その16

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (1)

 翌2月19日午後4時50分、マニラ市を発ってセブ島に向かった。 フィリピン航空会社のDC−8機で、コースは145度 (W−6)、所要時間は55分の予定であった。

 このコースの東方約30浬に、ルソン島南端のメーヨン山がある。 この山には想い出の数々があった。

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( 原著より  メーヨン山と田植え )

 昭和17年4月中旬頃のことだ。 南遣艦隊所属の第三十一航空隊の九九式艦上爆撃機9機が、フィリピンとボルネオとの間の SURU Archipelago (群島のある海) を哨戒するために、マニラからセブ島に進出することになった。

 マニラからセブまでの直距離は320浬だから航続力に不安はなく、進出の途中でメーヨン山麓のレガスピー飛行場に立ち寄る必要はなかったが、「そこに飛行場があるから降りてみたい」 と思うのは搭乗員の心情だし、また、パイロット達の中には予科練出身の20才前後の雛鳥が3人いたので、彼らに生地着陸の体験を積ませてやりたいと思い、この飛行場に立ち寄ることにしたのであった。

 出発してから約一時間、前方に美しい山が見え始めた。 標高8千77呎の 「メーヨン山」 である。 この山は富士山の雛型のような山で、「王冠佳盃東海天」 と歌われた富士山を白磁の 「ぐいのみ」 に誓えると、この山は九谷焼の小盃のようであった。

 活火山であるが、噴煙というより一筋の柔らかい湯の煙が山頂に棚引いていた。 「佳人含笑佇呂園」 とでも言おうか、可愛い娘が振り袖を着て名園に佇み、ちょっと気取ったポーズをしている姿を連想すればぴったりするような山容である。

 その名の 「MAYON」 とは、春の花 「さんざし」 のことで、イギリスの女性の代表名の一つになっている。

 この山は頂上まで登れない。 何故かと言うと、今から約1万5千年の昔、この国の火山活動が烈しかった時代に、この山だけは溶岩が静かに流れ出て素直に成長し、段々と高く峻険になり、その上を柔らかい火山灰が覆った。

 その間にカルデラ現象 (地下の岩兼の対流により山頂の直下に洞ができて、山頂が陥没する現象等を言う。 例えば、阿蘇山や箱根のように第一次噴火の山頂は、カルデラ現象によって地下に陥没してしまった) もなく、二次的な山腹からの噴火もなかったので、完全な円鐘状のままで頂上附近は約70度の急傾斜になった。

 だから人間が登れない。 飛行機でなければ山頂を見ることはできなくなったわけだ。 しかし、飛行機から見る山の魅力は、その山の頂上すれすれに何回も飛んで見なければ解らないものだ。

 昔、私は冬の満月の夜、北アルプス連山の山頂近くを、岐阜から長野に向かって何回も飛んだことがある。 その時には、御岳、乗鞍、穂高、槍の嶺々が青い月光に映えて浮かび上がり、白皚々の氷壁が巨大な硬玉を回転させるように七色に光っていた。 そこには千尋の岩場を見上げるようなボリューム感はなかったが、名曲を聞いたり、名画を見ている時のような心の疼きを覚えさせるものがあった。
(続く)

2010年07月26日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その15

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (11)

 次に、二次世界戦全般について言及すると、この戦争は、アジアを開放し、アジアの黎明を呼び、その結果アジアの各民族が独立した。 フィリピン独立の実体も、その一環から外れてはいない。

 このことは、開戦の時、日本が必ずしもアジアの各民族の独立を戦争の第一目的として戦闘に突入したのではなかったが、結果として動かし得ない現実となったのである。

 そして、現在フィリピンの人々が独立を心から喜んでいるという現実と、この国の過去四百年間の植民地時代とを比較すると、この戦争がフィリピンに対して、歴史上最高の寄与をしたということが客観的に言えるということだ。

 このことは、日本が二次大戦に於てフィリピンを攻略し、フィリピン人の生命財産を奪い、その国土を荒廃させたことを正当化しようとして言っているのではなく、歴史的事実として申し上げておくわけだ。

 さて、以上の二つを前提として賠償金問題について考えてみよう。

 もともと戦争賠償金は、被害を受けた国民の精神的な苦しみに対して贖罪し、その国の戦死者の祭祀と遺族の生活のための経費を補惜し、国土財産の荒廃損失を復旧するために使われることが原則であって、どんなことに使われても、払った国の国民は一切文句を言えないというものではないと思う。

 戦争裁判の場では、敗戦国たる日本はこれらのことを主張できなかったが、戦後の国際外交の場で、正義の立場に立ってそれを堂々と述べることを遠慮しなければならない理由はない。

 この理論に従えば、戦争のために死亡したフィリピン人の遺族の生活を補償し、荒廃したフィリピンの道路、港湾、鉄道、橋梁、河川、住宅等の復旧建設に日本が払った賠償金が使われるのは当然であるが、このATCCの装備のように、戦後30数年の時点で、現代の最尖端をいくような電子機器の設置に賠償金が使われるというのは納得ができなかったのだ。

 殊に、この地に眠っている日本人の戦死者のことを思って黙って見過ごすわけにいかなかったのは、彼らの遺骨は、今も、或いは永久に、ジャングルの奥深く眠り続けるであろうし、そして、それらの戦死者に口をきかせたら次のように言うに決まっていると思ったからだ。

 「俺達の遺骨をジャングルの中に放置しておいて、一方では近代的なATCCの建物を、俺達を殺した相手のために、俺達の目の前に建てるというのはあまりにも心無い仕方ではないか? 戦争に対する国家的犯罪はともかくとして、俺達は戦犯者ではない!」

 と。 私もそう思ったので、ATCCの見学を終えた後、市内のレストランにフィリピンの要人の一人を誘ってそれについて質してみた。 すると、彼は次のように答えたのであった。

 賠償金を基金として計画した総合的国土復興計画は数年前に終った。 ATCCは賠償金で造られたものではなく、その後の技術経済援助によって造られたものだと。 私はこれを聞いてホッと胸を撫でおろしたのであったが、話し始めた時は、

 「何故ATCCの建造に賠償金を使ったのか。」

 「賠償金ではない。 経済援助だ!」

 という押問答から始まったのであった。

 こうして私は、この地で戦死された方々に対して、恥ずかしい思いをせずに冥福を祈ることができたのであった。
(その1 終わり)

2010年07月25日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その14

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (10)

 ところで、見学を終えて1600頃、このATCCの玄関の応接室でコーヒーを飲みながら雑談をしている時であった。 この施設の設計に当った技師の一人が、このATCCの電子装備は総て日本の戦争賠償金で造ったものだと言ったのである。

 この一言は、私には大きなショックであった。 もしこれが事実だとすれば、黙って聞き流しておくわけにはいかないのだ。

 二次大戦に於けるフィリピン作戦とはどんな戦闘だったのか? 戦争裁判とは何であったのか? 50万の戦死者の血涙の代償はどうなったのか? ということを再検討しなければならないと思うのであった。

 先ず、50万人の戦死者を出したフィリピンでの戦闘の概要を極めて簡単に紹介すると、昭和16年12月22日、本間雅晴陸軍中将の率いる第十四軍がルソン島中部西岸のリンガエン湾に上陸して、フィリピン攻略の作戦が開始された。

 これを迎え撃ったのは、マッカーサー大将の率いる米比連合の比島防衛軍であった。 防衛軍は12月27日マニラを撤退して(1月2日、日本軍マニラ入城)、バタアン半島とコレヒドールの要塞に籠り頑強に抵抗した。 そして、約百日間の激戦の末、17年4月11日バタアンが、5月7日コレヒドールが陥落した。

 その後のフィリピン全島の戡定(武力で敵を平定すること)は、日本陸軍の鎧袖一触で早急に終り、フィリピン大部隊のゲリラ作戦も息をひそめて、フィリピン全島は日本軍の統制下に入った。

 それから二年半経って昭和19年末、米軍は比島反攻作戦を始め、10月20日レイテ湾に上陸、翌年1月中旬、マニラ湾の南方ミンドロ島を経由してリンガエン湾、スビック湾に上陸、マニラ市南方約30浬に落下傘部隊を降下し、緒戦の時と逆の攻防戦が始まった。

 両軍は水際作戦から奥地の陣地戦に移ったが、激戦約50日、米軍の重戦車と火焔放射器の前にルソン島の日本軍は壊滅し、フィリピン全土の日本軍は支離滅裂となり、三月五日戦闘は終焉した。

 この戦闘中の日本軍の戦死者は50万人であったが、この50万人について戦史に記録されたものに加え、私が今回のフィリピン歴訪中に見開したことを簡単に申し上げると、言うまでもなく、50万人の大部分は、レイテ湾とルソン島中部での攻防戦の玉砕部隊の戦死者であるが、その他に次のような人達が含まれている。

 それは、20年2月中旬、マニラ周辺部の戦闘が激烈を極めていた頃から、3月初旬までのことだ。

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( 原著より  日本軍の撤退経路 )

 ルソン島西部防衛軍の敗残の将兵は、ルソン島西部とバタアンの山岳地帯からクラークを経て PAMPANGA 川を東に渡り東北の山岳部に向かって逃げ、一部の部隊はマニラに向かった。

 マニラ市南部の将兵は、Taal-Lake Luguna de Bay の西から PASIG 川とその支流の MARIKINA 川に治ってマニラ市を経て東北の山岳部に向かって逃げ、一部の者は Luguna de Bay の北岸から南東の山岳に拠って孤立して全員行方不明になった。

 クラーク方面からマニラ方面に撤退した部隊は、マニラ市に入る前にスビック湾に上陸した米軍に追われ、MARIKINA川に沿って北東の山岳地帯へ走った。 東部部隊は、これらの敗残兵を収容しながら北方に撤退を始めた。

 かくて、フィリピンの全日本軍は、ルソン島の東部山岳地帯寄りに北へ北へと潰走したのであった。 その数は十数万を越えていたであろう。 これをフィリピンゲリラ部隊が追い、或いは待ち伏せて襲撃し、米航空部隊が猛爆を加えたのである。

 これらの敗残の将兵の中には老兵がいた。 負傷者も病身の人もあった。 銃を持たずに、日本刀一本の海軍の航空兵もいた。 彼らは、3百粁の彼方の日本軍の基地ツゲガラオ、アパリ海軍基地に向かって、道なき山野を体力の続く限り歩かねばならなかった。

 しかし、道はあまりにも遠く、携行糧食はなくなり、火を使うとゲリラに襲撃され、或いは爆撃されるので、草の根や木の皮を噛り、トカゲや蛇を生のままで食べた。

 そのために体力の弱い者は下痢を起こし、極度に肉体を消耗してマラリヤ、デング熱にかかり、看護する者もなく取り残された。 そして、ジャングルの中をさ迷った果てに死んだ。

 彼らは目前の敵と戦って死んだのではない。 武器を捨て、抵抗を止めてジャングルの中をさ迷い、熱病に浮かされて妻子の名前を呼びながら、ただ北へ北へと歩いていたのだ。 その兵士達が襲撃され、ゲリラに狙われ、空腹と熱病で死んだのだ。

 それは、バタアンの死の行進 (原注) よりももっとひどい死の行進であった。 それがマッカーサー大将の計画した作戦であったのである。 その数は10万を越えていると思う。

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(原注) : 『バタアンの死の行進』

 昭和17年4月9日から27日の期間に、バタアン作戦の捕虜をバタアンの戦線から後方サンフェルナンドへ、約60粁の道を約5日間徒歩で行軍をさせたことを言う (1日僅か12粁)。

 捕虜の数は米軍将兵1万500人、フィリピン軍人約5万、一般市民約2万5千人であった。 これらの人達の中には、マラリヤ、デング熱にかかっていた人が多かったので、約1200人の米人と約1万6千人のフィリピン人が死んだ。

 本間中将はその責任を負わされ銃殺された。 毎年4月9日 Remember Bataan が行なわれている。
(続く)

2010年07月24日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その13

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (9)

 そのうちにスコールが小止みになったので、舟の上から天空に向かって小銃を3発発射して、選手達に舟の困りに集まれと怒鳴った。 5分、10分と時間の経つのが恐かった。

 やがて、一人また二人と帰って来始めたが、彼らはバナナを大切に抱えているので遠くは泳げない。 一時間もかかってやっと全員が一団となって逃げて帰った。

 岸辺で選手の員数を再確認し、警備隊が約2百発の弾丸を大蛇のいた孤島に撃ち込んでこの競技は終ったのであった。

 この日から一週間ばかり経った或る日、烹炊員が糧食運搬用の滑車のフックを豚肉で包んで罠を作り、前夜のうちに沼の岸辺に仕掛けておいたところ、大トカゲがかかった。

 胴の回りが1米もあって、頭と胴の長さが約1.5米、尾は細かったが2米もある凄い奴であった。 二本の椰子の木に横木を渡して、罠に使った滑車で吊してあったが、鱗がキラキラして綺麗であった。 烹炊員が、

 「副長! こ奴は夜になると、烹炊所へドロボーに来るのです。 仇を討ちました! こ奴を奥さんのハンドバックにしたらいかがでしょう?」

 と言う。 私は、

 「大蛇が獲れたら俺にくれ。 そ奴は君達が記念に持って帰れ。」

 と言った。 翌朝のトカゲの味噌汁はとてもうまかった。 鶏と河豚の中間の味であったように覚えている。

 4月中旬になって私達はセブ島に進出したのであったが、その日まで大蛇は二度と私達の前に現われることなく、罠にもかからなかった。 また、スコールの雨量が平常に戻り、沼はもとのバナナのジャングルに還ったが、熟したバナナは二度と見ることはできなかった。 隊員達は何事もなかったようにコレヒドールの要塞の攻撃に精を出した。

 以上のような事件の想い出の上に、このATCCの建物が建っていたのである。 この敷地は、あの時のバナナの孤島であった。 ここには二度とバナナのジャングルは生まれない。 また、あの当時のような凄いスコールが来ても、大蛇や大トカゲは二度とここへ遊びに来ることはないであろう。

 見学は終った。 ATCCの装備は、要するに極めて立派なものであった。 しかし、私にとっては、わが家を土足で荒されたような不快感が残るのはどうしようもなかった。

 文化とはこういうものであろうか?

 万能のコンピューターができて人間の手が要らなくなっても、一本のバナナを作ることすらできないし、ましてや大蛇を呼ぶ力が生まれるわけではない。 ただ、正確に飛行機をセパレイトする力しかないのだ。 ただそれだけのものなのだ!

 それは、科学の進歩ということであって、文化というものではないと思った。
(続く)

2010年07月23日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その12

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (8)

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( 原著より  31空、隊門前にて )

 昭和17年3月下旬頃のことであった。 その頃から湿李に入ったここニコルスフィールドの基地は、一日に5回以上のスコールがあってフライトも野外整備もままならず、私達は隊舎で暇を持て余して困っていた。

 殊に、4、5日前からは雨量が一時間に百粍を越えるような凄い奴が続いて、兵舎の裏のバナナのジャングルに水が流れ込み、そこに長径4、5百米の楕円形の沼ができた。

 そのため、大部分のバナナは水の底に沈み、4、5か所の高台だけがバナナの森の孤島になった。 水の底に沈んだバナナは勿論、孤島のものも隊員達の手が属かなくなって今にも腐りそうであった。 食欲旺盛な隊員達は、こんなことになるなら、青いうちに採っておけばよかったと悔むのであった。

 こんな日の昼下がり、この孤島のバナナ採り競技をやらせようと思い立った。 航空隊の編成による飛行科、整備科、補給科を始め、通信、気象、経理、医務、車輌、施設、警衛の各科各分隊から、水泳に自信のある者を選び、各選手は一時間以内にバナナを採れるだけ採って自分の分隊に提供するという趣向であった。

 天気は相変わらず乱雲が四方にあって今にもスコールが来そうであったが、隊員達は久しぶりに張り切って沼の岸辺に集まった。

 選手達は、腰に支那米袋 (米を運搬するのに使った木綿の赤茶けた二斗入りの袋で、海軍の米は印度支那産のものが多かったので支那米袋と言った) を褌の左右に結びつけていた。

 進軍ラッパの号令とともに、彼らは沼の中に飛び込んで思い思いにバナナの孤島に向かって泳いで行った。岸辺の隊員達は喊声を挙げて応援した。

 ところが、10分も経たないうちに選手の一人が真青な顔で逃げ帰り、近くのバナナの孤島を指して、

 「副長! あそこに大蛇がいますっ! 人間の胴より大きい奴ですっ!」

 と叫んだのだ。 岸辺は大騒ぎになった。 兵舎から日本刀や棍棒を持って来る者、トーチランプに火を付けて持って来る者、煙草盆に煙草の吸いがらを一杯入れて持って来る者もあった (蛇にはニコチンが猛毒であるという?)。

 警衛隊を岸辺に整列させ、選手達に引き揚げを命じたが、彼らは2、3百米も離れた沼の真中でバナナ探りに夢中になっている。 いくら怒鳴っても聞こえる筈はない。 そのうちに運悪く凄いスコールが襲って来て、沼の面はしぶきで10米先も見えなくなった。

 その大蛇は人間の胴体程もあるというから、選手達の2、3人を呑み込むのは簡単であろう。 急いで救援に行かねばならないが舟がない。

 応急策として兵舎の木戸を外して、それで舟を造った。 この応急舟には一人しか乗れそうにないので、私は拳銃と三八式小銃を持って舟の上にあぐらをかき、搭乗員達6人に、バタ足で舟を沼の真中まで押し出せと命じた。 岸辺の隊員達は抜刀し、警衛隊は四方に散って援護射撃の態勢をとった。

 舟は岸を離れたが思うように進まない。 篠つく雨に煙る水面に、バナナの葉が揺れている。 沼の水が所々黒ずんで大蛇の背中のように見える。 そ奴が今にもニョッキリと首をもたげて襲いかかって来そうで、背中に冷汗が流れた。

 やっと沼の中央に来たので、私は、

 「総員この舟の困りに集まれ!」

 と怒鳴ったが、誰も集まって来そうにない。 激しい雨脚は衰えそうにもない。 私は 「鼠年」 の生まれだから、大蛇には私の体が誰よりもうまそうに見えるかも知れない。 搭乗員達も、今にも自分の足をパクリとやられはしないかとひやひやしている様子で、青い顔に目玉がきらきら光っていた。

 私は昭和15年4月、中国海南島の南岸三亜の飛行場の近くで大蛇を見たことがある。 小猿の大群がギャーギャー騒ぐ中をジャングルの小枝を折り、シューシューという毒気を吐きながら樹海の中へ消えて行った。 恐らく、子猿を呑み込んだのであろう。

 蛇は人間を恐がるし、積極的に人間集団を襲うことはないが、腹が空いたら何をするか解らないのだ。 私は、大蛇が腹を空かしていないようにと祈った。
(続く)

2010年07月22日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その11

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (7)

 二日目の2月18日の午後、フィリピンのATCC (Air Traffic Control Center) を見学訪問した。 そこは、マニラ国際空港ニコルスフィールドの北側約2粁の所にあった。

 その施設は、約2万平方米の砂地の上に建坪1万平方米くらいの4階建ての白いビルと、約50米の灰色の鉄塔の上にパラボラアンテナがあるばかりであったが、中味は一日に2千のフライトプランを受理し、マニラ FIR (Flight Information Region) のトラフィックサービスをコンピューターで処理できるというものであった。

 20ばかりの各部屋には電子機器がぎっしりと詰まり、日本の若い技術者が最後の調整をやっていた。 総ての装備は、日本の企業が請け負って造り上げたものであった。

 ところで、このATCCのある敷地は、昭和17年2月頃には第三十一航空隊の兵舎の北側からマニラ市の南郊外にかけて拡がる低湿地帯の一部であった。 そこには数千本のバナナが密生していたので、私達は、ここをバナナのジャングルと呼んでいた。

 今そのジャングルが白亜のビルに変わり、コンピューターが無人のキーを叩いているのだ。

 戸惑いを覚えながら、幾度もビルの窓からバナナの森を捜したが、目に入ったものは、炎天下に喘ぐ車の列と安普請の商店街のケバケバしい横文字の看板と、その裏にドブの溜ったクリークがあって、毀れかかったニッパハウスの窓枠にボロ布のような女の子の下着が乾してあるだけであった。

 その当時は殆ど見かけなかった KARAMANSHI (日本ではスダチと言い、徳島にしか育たない) とポインセチアが、クリークの土手に咲いていた。

 32年の歳月の歩みは、「滄海変じて桑田となる」 という言葉のとおりで、ただ無常という外はなかった。

 あの頃は、薄緑の柔らかいバナナの葉が爽やかにマニラ湾の海風に揺れていたのに! 赤ちゃんの手のようなバナナの実が灼熱の大地に潤いを添えていたのに! それはどこに消えてしまったのであろうか?

 見学なんか上の空で、32年前の昔のことが想い出されてならなかった。
(続く)

2010年07月21日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その10

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (6)

 昭和17年4月の或る夕べのことだ。 MOLE のいたキャバレーで、酔払った陸軍の下士官がフィリピン女性を日本刀で袈裟がけに斬った。

 その時フィリピンの女達は悲鳴を上げながら、異国人である日本人の側から少しでも遠くへ逃がれようとし、争って暗がりやテーブルの下に隠れた。 私と MOLE は斬られた女性の位置から五米も離れていなかったが、彼女だけは逃げなかった。

 私は軍刀を引きつけて立ち上がり、彼女を庇う形になった。 彼女は逃げようと思えばその時逃げられた筈だ。 しかし、彼女は私の背中でじっと耐えていた。

 同僚の下士官が乱暴者の日本刀を奪い、憲兵が彼を連行して行ったので、私が椅子に坐ると彼女も崩れるように坐った。 そして、涙を湛えた目でじっと私を見つめた。 彼女の目には絶望の悲しみがあったが、日本人に対する怒りと非難の色は少しもなかった。

 暫くすると、彼女は私達の近くまで飛び散った血潮を自分のハンカチで静かに拭い始めた。 私はそれを止めて、急いで彼女をこの浜辺に連れ出して砂の上に腰を下ろさせ、一時間ばかりバタアン半島の山々を眺めながら彼女が冷静に還るのを待った。

 彼女の頬にはいつまでも涙が流れていたが、敵国人たる私に対する嫌悪の言葉も、同じ民族の女性が殺されたことの怒りの言葉も彼女の口からは出なかった。 そして、済まなさそうに中国人街まで送ってくれとだけ言った。

 中国人街には彼女の家があった。 この時もし私が送り届けることを断わったら、恐らく彼女は、一粁もある暗い夜道を並木や電柱の陰に隠れながら、ましらのように逃げ走ったであろう。 それでもなお、私を恨むことはなかったであろう。

 この時は中国人街の入口まで彼女を送ってやったが、別れ際に燃えるような目でありがとうと言って走り去った。

 こんなこともあった。 四月末のある夕べ、マニラ市の中国人街の中華料理店で、5、6人の部下達と夕食のテーブルを囲んだ。 酒はカナダのウイスキー、ドウソンであった。 MOLE が傍にいた。

 小鶏の揚げたのが (鼠か蛙の足を揚げたものであったかも知れない) うまかったので、私は MOLE にもすすめて食べさせた。 一時間ばかり飲んだり食べたりして帰ろうとする頃、彼女は腹痛を起こしたらしく額に油汗をかいて苦しみ出した。

 軍医中尉がメンバーの中にいたので診察をして、その飯店の主人に、彼女に下剤を飲ませてすぐ休ませるように言った。 すると、彼女は苦しそうに、

 「料理が悪かったのではないの。 鶏のフライを食べるといつもお腹が痛くなるの!」

 と言って泣いた。 私は、

 「それを知っていて何故食べたのか?」

 と叱ると、彼女は、

 「貴方様が食べなさいと言ったから・・・・・・」

 と答えた。 この時私は、彼女は知能が少し薄いのではあるまいかと疑ったが、一方では、彼女は英語とタガログ語とピサヤン語を自由に喋り、服装は質素な綿服で清潔だし、身のこなしはスマートで凡帳面で、決して知能の足りない女とは思えないのであった。

 また彼女は、口もとに少女の名残りを残してはいたが、ヒップとバストは大人であったし、未成熟故の不用意とも思われなかった。

 もともと彼女は、マニラ市のストンブリッジの北のいわゆる市井の陋屋に住み、教養は低く、貧しくて家庭環境が悪かった。 だから、ずるくて嘘をつき、不潔で貧欲であっても不思議ではなかったのだ。

 ところが、総てがその逆で、彼女は怒りや悪意を知らず、虐げられれば恨まずに身を退き、愛されればその人のために献身し、でしゃばらずに分を守り、素朴で嘘を言わず、衒い (てらい) もなかった。 発想は常に美しく、自然の美と人間をうまく結びつけた。

 私は彼女と会っている時だけは心和やかに、その日の戦いを忘れてしまったが、それはこのような彼女の心の美しさに惹かれたからであった。 そして、それがお互いの心の触れ合いにまで発展したのも、彼女の素直で献身的な性格によるものであった。 それはスパイとか敵国人ということとは別問題であった。

 私は一目でもいいから彼女に会って、ありがとうと言いたい思いが再びつのるのであったが、その当てもなく夜は更けていった。 マニラ湾の提灯行列の灯はますます冴えわたり、小波に映えて千千に砕けた。

 MOLE に会えなくても明日はまた想い出の地が待っている。 私は砂浜から立ち上がり、深夜の街を MABUHAY ホテルに向かって歩いた。 靴音がビルの壁から跳ね返ってきた。
(続く)

2010年07月20日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その9

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (5)

 私は今、30年前の敵国女性の家の前に立っている。

 彼女はスパイで日本軍に不利な情報を集めてそれを敵に通報している疑いがあった。 その敵性行為については、私は一切を忘れている。 しかし、彼女との人間的な触れ合いについては忘れることができないでいる。 軍人であった私は、これをどう考えたらいいのであろうか?

 私の時代の世界の国々は、戦争に勝てば、その国は牽強付会の理論を振り回して国家目的を無理にでも達成し、敗れた国は、別の手段を考えてその目的を達成しようと計った。

 だから、利害の衝突はいつまでも尽きることがなく、国土の荒廃、財産の損害、国民の生命の喪失が悲惨極まりないものであることが解っていながら、戦争は続いて起こった。 そして、日本は百年の間に、中国、ロシヤ、ドイツ、米英仏蘭と5回戦った。

 私の人生の前半は、そのような時代であり、私は10年に亘って戦ったのであった。 その間に私は多くの敵国人と会ったが、それらの人々を通して知ったことの一つは、人間がこの世に生きる意義や価値の内、人間相互の心の触れ合いだけは、敵味方に関係はなく、戦争とは次元の違うものだということであった。

 特に、巻き添えを食って戦っているこの国の女性達に会って、彼女達が衣食住を奪われてさすらっている中で見せた心の美しさが、どれ程衝撃的なものであったか。 それは敵でもなく味方でもなく、戦争の中から生まれたものでもなかった。

 Miss. MOLE との縁はそういうものであったが、これが正しかったかどうかは私には解らない。 しかし、悔いはなく、懐かしさだけが残っている。

 私は MOLE に会いたい思いが激しく燃えた。 しかし、30年の歳月はあまりにも長く、異国の事情はあまりにも疎遠であった。 私はブーゲンビリヤの一枝を手折って垣根から立ち去るしかなかった。

 午後11時頃、再びマニラ湾の浜辺を歩いた。 車も人影も全くなかった。 空は澄み渡り、オリオン座が美しかった。 南方には旧軍港キャビテ湾 (現在は漁港) の突堤に灯が点り、北方の岸辺や埠頭にも等間隔に照明灯がついて、マニラ湾の東岸は壮大な提灯行列が流れているようであった。

 私は砂浜に降りて、寝そべってそれを見ながら、再び MOLE を想った。 人間の寿命は短い。 50年の星霜は瞬く間に過ぎていく。 しかし、その短い時間内でも、人間的生命は無限に広がり深まっていく。

 優れた宗教家や哲学者は、過去の人類の歴史的遺産を受け継いで高い思惟の世界に生き、凡人である私達の人間的生命を少しでも深めてやろうと努力しているが、凡人である私自身は、昔からこのような優れた人達の著作を読んだり直接教えを受けたりしてその恩恵に縋ろうとは思わなかった。

 それよりも、私と同じような凡人達の生き方の中から、人間的生命の美しさや善良さを学び取ろうと思いながら生きていた。
(続く)

2010年07月19日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その8

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (4)

 15時45分、飛行機はマニラ市の南郊外のニコルスフィールド国際空港 (注) に着陸した。 飛行機を降りると、30数度の炎熱であった。 サンパギータ (フィリピンの国花) のレイを持って、上院議員のアクイリ氏が出迎えてくれた。

(注) : ニコルスフィールド (Nichols Field) 基地は、戦後フィリピンの独立と共に空軍の Villamor Air Base となり、現在でも通称 Nichols Field と呼ばれています。 この地にフィリピンの国際空港が移されて、官民両用の 「マニラ国際空港」 となりましたが、1983年には現在の 「ニノイ・アキノ国際空港」 (Ninoy Aquino International Airport) と改称されています。


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( Google Earth より )

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( 原著より )

 このニコルスフィールドの飛行場は、昭和17年2月23日、私が第三十一航空隊の九九式艦上爆撃機9機を率いて進出した場所である。 その当時、ここは飛行場ではなく9ホールのゴルフ場であったが、同年3月、日本海軍はこのゴルフ場のロングコースと直角に長さ6百米巾30米の滑走路と格納庫を造った。

 その滑走路は、今はフィリピン空軍によって増幅され、パーキングエイリヤとなり、F−86FとC−131が数十機駐機し、近くの格納庫は外形だけはそのままの姿であった。

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( 原著より  ニコルスフィールドに立つ著者 )

 また、私達が庁舎として使用していたゴルフ場付属の建物は空軍の隊舎となり、庁舎前にあった防空壕は30年の風雨によって入口が崩れ、名もない花が乱れ咲いていたが、灰色のコンクリートの壁はそのままであった。

 主は変わっても姿は変わってはいないのであったが、豪華な国際空港が直ぐ南方に接して造られたので、これらの古い施設は30年の歳月以上にわびしくうらぶれ果てて見えるのであった。

 その中でただ一つだけ美しく達しく育っていたのは、隊門の側にあったマンゴーの大樹であった。 昔、この飛行場を造っていた時、私は二人のドロボーを捕えてこのマンゴーの大樹の根本に縛りつけたことがあったが、一回り大きくなったマンゴーの幹は、そんな人間の争いごとなど、そよと吹く風ほどにも感じていないようであった。

 タクシーに乗って空港を出た。車はマニラ湾岸の道路を走り、マニラの中心街にある MABUHAY (ようこその意) ホテルに着いた。

 荷物をホテルのボーイに預けて、直ぐ海岸通りへ散歩に出た。この国の時間差は日本と比べてマイナス1時間なので、まだ午後4時であった。 日射は強烈だし、椰子の並木は歩道に影を落とさないし、忽ち下着まで汗にぬれたが、空気が乾燥しているので不快感はあまりなかった。

 この海岸の大通りは浜辺側が遊歩場になっていて、そこは雑草が芝生のように刈り込まれ椰子の木が不揃いに植えてあった。 日曜日だったので、所々に若者が午睡をしていた。

 この海岸から対岸のバタアン半島の彼方に沈む夕陽を見るのが、昔から 「マニラの夕べ」 と言われたもので、高々と替える椰子の大樹が、紺碧から赤と暗紫色に変っていく空と海をバックにして浮かぶ景観を言ったのであろう。

 30年前はこの浜辺にはマングローブが密生していたが、今はその面影はなく、砂浜との境界線は子供でも跨げるコンクリート塀になっていた。

 浜辺と反対側の歩道を南の方に一粁も歩くと、椰子の並木に混じってバナバツリーの並木が椿のような濃紺の厚い葉と灰色の小さい実をつけ、住宅との境界線の生垣には、ハイビスカスやブーゲンビリヤが赤や白の花を付けて昔の面影をそのまま留めていた。

 私は30年前の想い出を嗅ぎ分けるように、南に向かってどこまでも歩いた。 そして、マンゴーの大樹とパパイヤとパンの木のある清酒な家を捜した。

 その家は、当時キャバレーに使われ、Miss. MOLE というスペイン人とフィリピン人とのミステーサーが住んでいた。 私は一日の戦闘を終えると、このキャバレーで MOLE と一緒によく飲んだ。 時には、海岸を二人で散歩しながら人生を語った。

 しかし、そこには当時の家の影も形もなく、白くて固い六階建の貸ビルが建ち、枝を払われたマンゴーの木とブーゲンビリヤの生垣だけがわびしく昔の姿を留めていた。

 MOLE がどこへ去ったか知る当てもなく、垣根に腰を下ろして往時を偲んだ。 午後5時の太陽はまだ強かったが、幸いにそこはバナバツリーの木蔭になっていたし、マニラ湾から吹いて来る微風が心地よかった。
(続く)

2010年07月18日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その7

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (3)

 私は別にブランディを命じ、話題を変えてマニラへのコースについて尋ねた。 彼は早速航空図を取り出して、羽田とマニラを結ぶA−90というコースを教えてくれた。

 私は今回の旅行のために、二次大戦中の戦跡を記入した一般地図を持っていたので、それと彼の示したコースとを照合してみた。 すると、このA−90というコースは、航空母艦 「瑞鶴」 の沈没地点のぴったり上空を通るのであった。

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(原著より  「瑞鶴」 沈没地点 )

 この発見は全くの偶然であって、私には大変な驚きであった。 その地点は、北緯19度57分、東経126度34分であるが、私は早速二次大戦中の事情をコパイロットに説明し、「瑞鶴」 の直上を通る時刻を教えてくれと申し入れた。

 この偶然の発見は嬉しかった。 そして、今回の旅の総てが遠い昔の戦争の想い出と具体的に繋がっていくような予感で胸が一杯になった。

 私は仕事に支障のない限り、寸暇も無駄にすることなく戦時中の想い出の地を回り、想い出の人を捜し、それを通して新しい友人との触れ合いを求めて歩いてみようと思うのであった。

 私達の食事は終った。 スチュワーデスがいつの間に知ったか、

 「Admiral TAKAHASHI ! おいしかったでしょ。」

 と日本語で言って笑った。 鼻葉につけた猫眼石が美しく光っていた。

 さて、航空母艦 「瑞鶴」 が沈没したのは、昭和19年10月25日だから、今年はその31回忌である。 私は心をこめて 「瑞鶴」 乗員達のために祈ろうと思った。

 午後2時30分、「瑞鶴」 の上空にさしかかった。 高度2万9千呎、海面は無風で紺碧の海は鏡のようであった。 先刻のコパイロットがやって来て、時計を見ながら、「Admiral ! 今だ!」 と私に告げた。 私はひたすらに 「瑞鶴」 乗員の冥福を祈った。 午後2時32分であった。

 「瑞鶴」 の沈没地点の水深は約5千米の深海であった。 そこは暗黒の世界であり、潮流もなく微生物の他は魚貝類も生息せず、地殻変動の他は微動もしない静寂の世界である。 勿論、人類の近づける所ではない。

 もし、乗員達の遺骨が再び地球の表面に浮かび上がって来る時があるとすれば、それは地球の成長の輪廻に従って今から数千万年後か、或いは、数億年後の造陸運動の時だ。 その時には、人類が地球上に生きているかどうか解らない。

 私は、「瑞鶴」の直上に来た時それを思った。 生きている私と海底に眠る彼らを隔てているものは、数千米の海と空ではなく、数億年の歳月なのだ。 生と死、会うと別れるということはこういうことなのだ。 だからこそ、人間の生命や相互の触れ合いは尊いと思った。
(続く)

2010年07月11日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その6

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (2)

 コパイロットに言われるまでもなく、キャプテンが先刻聖地に向かって脆坐して礼拝するのを見た瞬間に、私は直感的ではあるが、理解できたように思ったのだ。 それは次のようだ。

 正午に、キャプテンは礼拝の 「行」 を行なった。 彼は50才を越えた老パイロットであったが、コックピットと一等席との中間にある乗員休憩所の絨毯の上に脆坐して祈り、立ち上がって祈り、十数分間も繰り返していた。

 それは厳粛ではあったが、その動作は既に彼の日常生活に密着し、特に修練の行をしているようには見えなかった。

 例えば、私達仏教習俗者が死者を見た時に思わず合掌するのと同じように、戒律を守るというより、その人のために祈り、己れのために祈り、雑念を去って至純至高の愛の境地に入っているように見えたのであった。

 それは、彼の祈った場が飛行機の中であり、制服を着て勤務中であるということが、一層私にそう思わせたのかも知れないが、彼の思想も宗教も総てが操縦の中に融け込んでいるように思われたのだ。

 つまり、回教が習俗化して彼の操縦と密着し、それによって彼のパイロットとしての人格体が益々高められているように見受けられたのだ。

 これは、単に彼個人の修練によって得た知恵や能力によったものではなく、彼の生まれた国の1300年に亘る回教の歴史 (632年マホメット没) 的文化が、彼の属する民族、或いは国民の総てに、血液的に伝承されているからだと思うのであった。

 ところで、日本人パイロットはどうかと考えてみると、私達もまた、1400年来の仏教から得た歴史的遺産を身に付けている。 そしてそれが、多くの日本人パイロット達を、このキャプテンと同じように名人パイロットの域に育てる手助けとなっている。

 にも拘わらず、私達日本人がお互いにそれを認識しないで、回教徒たるキャプテンを見た時だけそれを強く認識するのは、空気中に住んでいる人間が空気の価値を正確に認識しないのと同じことであった。

 私は先刻それに気がついた。 そして、回教習俗が航空安全に支障がありはしないかなどと考えることは、極めて小乗的発想であって、仏教徒パイロットも回教徒パイロットも総て同じように、それぞれの国の宗教や宗教習俗によって、形而上の操縦技能も高められていることに間違いはないと思うのであった。 単なる回教の 「行」 の外形などは問題の外であった。

 食事もそろそろ終りに近づいたと思っていると、コパイロットがスチュワーデスに食事のお代りを命じた。 それは、飽食すべからずの戒律を破るものだが、彼が安全な操縦をするために戒律以上に十分な栄養の補充をしているのであろうと思って、この青年に益々好感を持った。
(続く)

2010年07月10日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その5

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その1 ルソン島 (1)

 昭和49年2月17日私はパキスタン航空会社のマニラ直行便に乗って羽田空港を飛び発った。 機種はB−707。 この飛行機の一等席は12席であったが、客は私を含めて僅か4名であった。

 離陸すると間もなく昼食の時間になり、スチュワーデスが私の席に来て、パイロットが貴方様と一緒に食事をしたいと言っているが宜しいかと言う。

 席は空いているし、私は喜んで承知すると、早速若いコパイロットがやって来て、にこやかな挨拶をして私の隣席に坐った。 30才前後の白皙 (はくせき) 長身のギリシャ系の美青年であった。

 やがて、スチュワーデスが酒とお国料理を運んで来た。 彼女はアリアン人らしい浅黒い皮膚の端麗な顔立ちで、22、3才、回教国の習俗に従って黒い長袖のブラウスと、踝まで包んだステテコのようなズボンを穿いていた。

 食事が始まると、回教のこと、日本とパキスタンの風俗習慣等について話しあった。 スチュワーデスも日本語が解るので会話に加わった。 彼女は時々東京に泊るらしく、その時はミニスカートを穿いて外出できるから日本が好きだと言って、ステテコの膝のあたりをつまんで肩をすぼめて見せたりした。 お茶目な女性であった。
 一方、コパイロットは凡帳面な生粋の回教徒のようであった。 回教徒は 「五柱」 という5つの基本的な戒律を守らねばならない。 それは、アッラーの他に神はない、ムハメットは神の使徒であると念じてひたすらにアッラーを信じ (念信)、一日に5回聖地を礼拝し (礼拝)、回教暦の9月には斎戒沐浴して昼間は断食し (斎戒)、一年に一回聖地を訪れて神事に加わり (朝勤)、私財を神に献じ、或いは、不幸な人達に恵まねばならない (損課) という5項目である。 これを守って信と行が一致するとムスリムと呼ばれ、総てのムスリムは、アッラーのもとで一切が平等になるという考え方である。

 ところで、このコパイロットは 「行」 をするような風格があり、私は何となくムスリムのような気がしたので、いきなり 「君はムスリムか」 と聞いてみた。 すると彼は、

 「そうだが ・・・・・・ どうしてだ?」

 と驚いて問い返してきた。 私はコーランを読んだことはあるが、聖地を礼拝したりアッラーの神に祈りを捧げたりしたことはないし、回教徒の友人もいないから回教のことはよく知らないが、君の挙措動作が厳正だからムスリムだろうと思ったのだと答えた。 すると彼は、

 「この飛行機のキャプテンはグレイトムスリム (ディーンと言って、ムスリムの一段上位にあって無我の愛を悟り行なっている人の意) である。 彼は正午に聖地を礼拝して念信を唱えたが、君はそれを見たであろう。 後刻彼を呼ぶから彼と話してみてはどうか?」

 と言う。 私はその必要はないと思ったので断わった。 というのは、私が知りたかったのは、パイロットたる回教徒が、五柱を 「行ずる」 ことによってパイロットとしての服務上、或いは、航空安全上支障がありはしないかという極めて俗っぽい現実問題であったが、それについては先刻、私は結論を出していたのである。
(続く)

2010年07月09日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その4

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 前 お き (承前)

 ところが、この空港のタワーに勤務していた管制官の長はピサヤン系の純血女性であったが、彼女は心から私達を歓迎してくれたけれども、それを言葉やジェスチャーでは示さない。 誠実で精一杯の努力をしているだけであった。

 このことは、原フィリピン人は日本人と同じように、人見知りをしたり、自分の善意を言葉で表現するのを遠慮したり、社交性は得意ではないようであった。 それは個人的な性格差を超えて、民族的特性のように思えるのであった。

 この国の少数民族にモロ族がいる。 2月21日、Philippine Air Line のBAC−111型機で、セブ市から一時間でザンボアンガ市を訪れた時のことだ。 空港長の Mr. SANTOS が私達を空港近くの「BAMBOO の家」という飯店に案内してくれた。

 その家は、モウソウ竹を美事に編んだ美しい壁、天井、廊下のある本格的な木造建築で、料理は、蟹、車えび、豚、鶏、魚の酢のもの等、フィリピン料理が山のように盛られ、飲みものは、日本のビールより少し柔らかいフィリピン製のビールがよく冷えていた。

 家も料理も、温厚誠実な空港長の歓待ぶりも誠に楽しいものであったが、それにも増して楽しかったのはこのバンプーの家の家族がモロ族であったということだ。 モロ族は日本人とよく似ている。 というより、日本人とそっくりだ。 目が大きく白目が美しい。 身長は日本人より低い。

 私は食事の前に、庭先の梔子の六弁の大輪の花を見ていた。 その木蔭に、この家の10才ばかりの童児が縄投げのような遊びをしていたので、その児に、花が美しいと言った。

 すると、その児は嬉しそうにうなずいて、彼の手の届く限りの花の小枝を折り取って両手一杯に抱えて私の所に持って来た。 日本語で 「ありがとう」 と言って、その児の目を見つめると、美しく澄んだ瞳で私の目をじっと見返した。 それは、息子が父を、弟が兄を見つめるような目であった。

 同じ人種にだけ理解しあえる眼光である。 私は、抱きしめてやりたくなったので両手を彼の肩に置くと、その子も私のズボンのベルトをしっかりと握った。 名は PATOS と言った。 彼には、民族の歴史も血液も解るまい。 しかし、本能的に私に善意を見せた。

 想えば、16世紀の前半に、インドネシヤを経由した回教文化がボルネオ北岸からこの国の西海岸を南から北へ流れて行った。 しかし、それが定着しない16世紀後半にスペインのキリスト教文化が侵入して来て、モロ族の回教文化をスル海の孤島やザンボアンガの山岳地帯に追放した。

 そこで彼らは、種族的、宗教的に結束してこれに対抗した。 それが約50万のモロ族の小国家と言われるものであった。

 その後の歴史的経過を簡単に回顧すると、1848年にスペインのフィリピン支配は終ったが、モロ族にとってそれは問題ではなく、自分達を圧迫する力が交替したということであった。

 1862年にリザールの独立運動があり、米西戦争があり、1898年に米領となり、二次世界大戦の結果、1946年にフィリピンは独立したが、これらも総てモロ族の主張や願望とは関係がなかった。 そして、現在までスペインの統治が始まった時と同じように抵抗を続けているのである。

 私はモロ族の一少年を前にして、これらのことを回想してから、改めて日本人とモロ族との血の交流についてだけ考えてみた。

 今から一万年前から16世紀頃までの間にインドネシヤを出発したモロ族達は、セレベス海、スル海を経てフィリピンの西洋へ、もう一つのコースは、セレベス海から太平洋に出て黒潮に乗って日本列島へ、何れを選ぶかは神に委せて彼らは故国を捨てた。

 黒潮に乗った組の、この子と同族の祖先達と日本人の祖先達は合流した。 そこは、黒潮が岸辺を洗う九州四国伊豆南房総の南岸であった。 これらの地域は、ザンボアンガから2千浬から2千5百浬の距離である。 随分と遠い。 黒潮に乗って30日以上の漂流を続けねばならなかった。

 私はそれを想いながら、

 「一万年かかって坊やの所へ帰って来たよ。 私が坊やの遠い遠い祖先のお祖父ちゃんだよ。」

 と言いたかった。 その思いが通じたのか、その児もはずむような笑顔を見せて庭先へ去って行った。 庭の彼方には、椰子の密林とバナナのジャングルが見えていた。

 この子達の血が、将来日本人の血と再び交わるかどうか、それは、数千年後の未来史であろうと思うのであった。
(前おき終わり)

2010年07月08日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その3

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 前 お き (承前)

 この国の言語と民族のことに触れておこう。

 30数年前は、この国の言葉は、米語、スペイン語、タガログ語、ビサヤン語及び50数種の方言があると言われていた。

 現在は、米語は都市部で生活用語として適用し、農村では部族語、中小企業の商事関係者間では中国語、文化人の間では英語とスペイン語が通用するという。 
 次の世代の青年層は中学2年を卒業すると英語が話せるが、義務教育は7年制の小学校だけで中学校卒業者はまだ半数以下だという。

 50数種の方言というのは、この国は16世紀後半まで50数個の小部族国家の分立があったから、その名残りが現存しているわけだ。

 この国の国民は、人種としてはマライポルネシア語族のインドネシア語族に属している。 西はマダガスカルから、東はアメリカ大陸の西岸の島々に分布する約3億の人種の一分派である。

 フィリピン人は異人種との混血が多いと言われるが、それは、日本の場合のように少数異人種の血を長年の間に完全に原日本人の血に吸収融合させてしまったのとは違って、この国の混血の歴史が浅いので、混血した原人種の類別がはっきりしているということだ。

 例えば、混血族の中には、スペイン系との混血、アメリカ系との混血、中国系との混血ということが一見して直ぐ解るが、それはもう一つの中間がまだ生まれていないから、混血であることが歴然と解るということであり、そのために混血族が非常に多いように感ぜられるのであろう。

 ところで、混血族と原種族、混血族相互間の社会的地位などについて観察すると、男性の間には差別はないようだが、女性にとってはそうはいかないようだ。 彼女達は、白人との混血を誇りに思っている。

 その証拠に、それを直ぐ口に出す。 それは美醜や色に出るからであろう。 Miss. MOLE は父がスペイン人だと言っていたが、今度会ったマクタン空港長の秘書の Miss. CARMEN も、祖父がスペイン人だと言っていた。

 ついでに、この国の人々の人種的社交性について感じたままを紹介すると、2月19日に、私達がセブ市のマクタン空港を訪れた時であった。

 空港長室で長く話し込んでいると、秘書の CARMEN が何回もコーヒーを運んで来たが、私達がマゼラン記念碑 (1521年4月27日 CEBU 市とマクタン島の LAPULAPU 市が宗教戦争をやった時、マゼランは LAPULAPU の海岸で戦死した) を見に行こうということになると、彼女は、空港のバスを自分で運転して20粁の道を案内してくれた。

 空港長から特に命ぜられた様子はなく、自分で買って出た好意であった。 帰途、彼女と並んで座席に坐ったので、私が遠い30年前の昔語りをすると、

 「Admiral は今でも MOLE を愛しているのか?」

 と言うので、私がそうだと答えると、

 「日本の男性はそんなに誠実なのか? 私も日本人と仲よくしたい。」

 と言う。

 「日本に遊びに来ないか?」

 「行きたい。 とても行きたい。」

 「CARMEN を東京で迎える日を待っている。」

 と言うと、

 「私達フィリピン人は、公用以外ではこの国の外へ出られない。 しかし、いつか東京で Admiral に会いたい。 Remember me please !」

 と答えて、住所を書いて私に渡すのであった。 素直で朗らかで社交的であった。
(続く)

2010年07月07日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その2

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 前 お き (承前)

 昭和17年4月中旬、私は九九式艦上爆撃機6機を率いて、マニラからセブ飛行場 (現在の LAHUG 飛行場) (注) に進出したことがある。

(注) : セブ飛行場についてはこの後詳しく出てきますので、ここでは省きます。

 4月下旬の或る夕べ、ザンボアンガとスル海峡の哨戒飛行を終え、2、3人の部下と一緒にセブ市のダウンタウンのバーに行った。 そこは日本海軍が経営させている飲み屋で、日本の若い女性もいたが、現地人の若くて美しい女性も4、5人雇われて雑役に働いていた。

 狭くて暗い地下の小部屋で私達は飲んでいたが、あまり暑いので現地人の娘達を連れ出して (日本の女性は外出禁止であった) 海岸を散歩した。 私のパートナーは Miss. MOLE というスペイン系の16、7才の美しい女性であったが、海岸のワシントン椰子の間を歩きながら質問してみた。

 「Miss. MOLE! 春が来るということを知っている?」

 「学校で習いました。 しかし、フィリピンの春は違います。」

 「どう違うの?」

 「フィリピンでは、4月になって雨が降ると沢山の花が咲きます。 WATERPLANT がぐんぐん伸びます。 だから春です。 私の学校で習ったアメリカやスペインの春とは違います。 日本の春はフィリピンと同じですか? Mr. TAKAHASHI?」

 「日本の春はアメリカやスペインと同じだよ。 寒い冬から段々と暖かくなって可愛い花が咲くのだ。」

 「可愛い花が咲く時が春なの? 可愛い花と綺麗な花とは違うの?」

 「うん?」

 「どう違うの? SADAMU !」

 会話が脱線し始めたので、

「MOLE は秋を知っている? 日本の秋は沢山の果物が実るのだよ。」

 と言うと、彼女は目を輝やかせて、

 「マンゴーもパパイヤも柿もバナナも5月になったら食べるわ! 日本も5月が秋なの?」

 フィリピンには年中果物があるように思っていたので、

 「日本では9月になると果物が沢山実って秋だけれど、MOLE は5月にならないと果物を食べないの?」

 「いいえ、食べるわよ。」

 と言って、果物の味や採り方などを話し始めた。

 彼女は5月になったら食べると言ったり、いつでも食べるようなことを言ったり、どういうことかよく解らないままに、街角の食堂で夕食と果物を御馳走して別れたが、この時のマンゴーやパパイヤの舌触りは彼女の唇のように柔らかで、人糞臭い芳香が強烈に鼻を突いた。

 ところが、今回の訪問で食べた果物の味は全く違うものであった。 今度の訪問の3日目に MACTAN 空港を訪れた時、丁度来合わせたフィリピンの元の空軍長官 Geleral SINGSON の招待で MACTAN 島の東海岸に行って山海の珍味を御馳走になったが、そこには黄色いバナナと黄緑色のマンゴーとパパイヤがテーブルの上に山のように置かれていた。

 それらを食べてみると、少し渋味があって口の中で溶けるような感触はなく香りも全くなかった。 日本で食べるのと少しも変わらないのだ。

 このことは、5月以降の果実が果物であり、4月以前の果実は、果物ではなく野菜の仲間に入るようであった。 30年前、MOLE は、この二つを分けて、5月以後の果物を秋に結びつけようとしたのであった。

 このような果物を通しての四季感は、この国に住む中国人には十分理解されているようであった。

 マニラ埠頭を上がって海岸のリザール公園を右に見て高層ビルの立ち並ぶ中心街に入る街角に、中国人経営の果物店があるが、その店頭には 「春夏・秋」 という看板がかかっていて、丁寧にも、春夏と秋との間に点 (・) が打ってある。

 文字の国に生まれ、豊かな季節の果物の中で育った彼等は、この国に住んでも新鮮な果物を春という文字で表現し、熟した果物の甘さと芳香の中に故国の秋を懐かしんで秋と付けたのであろう。

 私は、中国人のこの国での季節感を確認する思いで店頭に並べられた果物を見た。 パイナップルもザボンもマンゴーもまだ酸っぱそうで、店頭はまさに春であった。 やがて湿李が来れば、この店頭には夏と秋が来るのであろう。

 また、気温についても簡単に常夏の国だとは言えないことがある。 というのは、3月に入って、太陽が北回掃線に向かってこの国の国土上空を北上するようになると、灼熱の太陽が照りつけ、人々は40度に近い炎天下に喘ぐ。

 しかし、4月になって湿李が来ると、洋上で急上昇して冷却した雲が南東の季節風に乗って灼熱の太陽を遮断して冷雨を降らす。 それは日本の春雨と同じで、15度前後に下がることがある。

 また5月に入ると、一日に2、3回のスコールの来襲があるが、満天雲もなく晴れて暑さに喘いでいる時、突然涼しい風が吹いて来て、数十分後に雨雲が現われ、やがて沌然と豪雨が降る。

 こんな時には、その昔、石鹸とタオルを持って、飛行場の芝生の上で体を洗ったものだが、4、5分も経つと寒くなって木蔭に逃げ込み、日本の秋雨を想うのであった。

 そして、スコールが上がると気温は数分のうちに30度を越える。 つまり、スコールが来ると秋になり、スコールが過ぎると夏になる。 一日のうちに、秋と夏が同居しているのであった。
(続く)

2010年07月06日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その1

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 前 お き

 昭和49年2月17日から24日まで、30年振りにフィリピンを訪問し、マニラに4泊、セブに2泊、サンボアンガに2泊し、古戦場を見て回った。

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( 原著より )

 フィリピンの国土は、泥沼に埋まった巨大な怪獣が半分姿を現わしたような格好をしている。 7083の大小の島から成り、名前が付いているものが2773島ある。 その中で主な島は、ルソン、ミンダナオ、サマール、レイテ、セブ、ネグロス、パナイ、マスバテ、ボホール、ミンドロ、パラワンの11島である。 ルソン島の太平洋岸近くに、地球上で3番目に深い海溝 (10540m) がある。 総面積は29万9千平方粁で日本の国土から北海道を除いた面積と同じだ。

 これらの島々は、北緯5度から20度の間にあるから熱帯地方に属し、12月から3月までの乾季と、それ以外の湿李とに分けられる。 一年の平均気温は26、7度で、月別の平均気温差は5度前後しかない。

 颱風は、太平洋の中心部の北緯5度〜15度で発生して西北西に進み、10度〜22度で発達して北進し、15度〜28度で最盛期に達し、30度附近で東北に変針して日本にやって来るのが平均のパターンだが、フィリピンの経度は東経120度〜125度で、太平洋の中心部から大分西に偏しているので国土の大部分は颱風圏に入らない。

 ルソン島の北部だけが、9月から12月にかけて発達中の颱風が東から西へ通過することがある。 この颱風は、30m/秒を越える暴風を伴うことは少ないけれども、豪雨を持って来て国土を荒廃させることがある。

 明治44年 (1911年)、ルソン島中央部のバギオ測候所で記録した1日1168mmの世界記録は、66年後 (執筆当時) の現在でもまだ更新されていない。 また、1937年には、サマール、レイテ島の農産物の80%を壊滅させている。

 自然科学者は、フィリピンには四季はないと言う。 確かに、いつ訪れても同じように暑いし、同じ花が咲いているように思う。 また、中南部のササール、レイテ、セブ島等を訪れると、椰子の実、マンゴー、パパイヤ、ザボン、バナナ、ナツメ等がいつでも食べられるし、季節の果物という感覚からも四季がないように思う。

 しかし、よく観察するとそうでもない。 同じ花でも、時期によって色も香りも全く違う。 乾季の花は冬枯れたようにわびしく、蝶や蜂を誘う魅力はない。 それに比べて、3月末から4月に入って南の方から湿李が来ると、ブーゲンビリヤやサンパギータ (フィリピンの国花) の花が、赤、黄、紫、白と鮮明な色を誇り、ジャスミンの香りが野に満ちて岸辺に繋いだ船の中にまで匂ってくる。

 DONA AURA が梔子 (くちなし) の大輪のよううな花 (花弁の周辺の葉も純白なので大輪の花のように見える) を付け、PALM TREE も真赤ないちごの大群のような花を葉影にちらつかせる。 すると、乾季を過ごして来たこの国の人達は、春が来たなと思う。

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( 原著より  著者作成の DONA AURA の押花 )

(続く)

2010年07月05日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その58

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (14)

   その4 母艦機の事故 (承前)

 第一機目が着艦グライドパスに入った。 艦尾後方6百米に随行中の駆逐艦の上空150米から約5度の降下パスに乗って母艦に近づいて来る。

 母艦の左舷後尾には青赤灯の誘導ランプがあるから、自分の姿を赤と見て、赤が青の上に見えたらエンジンを絞り、下に見えたらエンジンを入れ、艦尾を過ぎたらエンジンを絞りデッキの上でストールする。 そこで、飛行機の尾輪後部に垂れた着艦フックが制動索に引っかかり、着艦ということになるのだ。

 三機目が少し低めに近づいて来た。 艦はゆっくりとピッチングをしていた。 その周期と飛行機が艦尾を過ぎる時期がうまく合えばよい。

 ところが、その飛行機が艦尾に近づいた時機体が急に沈み、主脚がデッキの陰に隠れたのである。 私はやり直しを命ずる余裕がなかった。 その飛行機は危険を感じ、エンジンを全速にして左舷に逃げようとした。

 次の瞬間、左脚が母艦の背中の最後尾斜面に激突し、機首を右に振って右脚を折り、続いてプロペラが背中を叩いてエンジンが停止し、飛行機と搭乗員が艦の最後尾の斜面にやもりのようにへばり付いた。 一瞬の事故であった。

 応急員が命綱を付けて飛び出し、飛行機の座席に昇ろうとするが、15米の風の中で、10度の斜面上の行動は敏捷にいかない。 1、2分経ったが二人の搭乗員は顔を見せない。

 そのうちに母艦が減速し風速が衰えてきたので、やっと応急員が飛行機の座席にしがみついた。 そして、パイロットに命綱を握らせようと思って操縦席を見ると、パイロットは座席にうつ伏せになったままだ。 偵察員も見えない。 二人は失神しているのであった。

 飛行機を斜面から引き揚げなければ、座席から二人を降ろすことができないことになった。 飛行機はいつ艦尾から海面に滑り落ちるか解らない。

 私達は慌てて制動索をプロペラに巻き付け、脚に綱を付けて飛行機が海中に滑り落ちないようにしてから引き揚げにかかった。 傍に軍医とタンカが待機していた。

 その時である。 偵察員の渡辺三曹が失神から回復したらしく、偵察席に立ち上がるのが見えた。

 「ああよかったっ!」

 と皆が彼を見ている前で、彼は偵察バッグを片手に、悠々と飛行機から降りようとし始めた。 整備員が、

 「危ないっ! 座席に坐ってっ!」

 と叫んだ。 しかし、彼は座席の外にフラフラッと出たのである。

 「渡辺! 座席につかまれっ!」

 と皆が叫んだ時、彼の体は逆巻く艦尾の後流の中に落ちて行った。 艦尾からブイが投げられ、後続する駆逐艦がブイを頼りに渡辺を捜したが、無情の風が海面に白い波頭を立て、救命ブイが波間に漂っているばかりであった。

 渡辺は失神から回復した時、飛行機は富高の基地に着陸して列線に帰ったと思ったのであろう。 運動神経だけが回復して、感覚神経が回復していなかったのだ。 そして、幾度も繰り返した訓練中の習慣のとおり座席を降りたのだ。 下を見ないで! 哀れ、23才の若さを日向灘の海中深く没し去ったのであった。

 ダウンウォッシュは恐ろしいものであった。 その中を横滑りをしながらグライドすることは嫌なことだ。 しかし、そうするしか着艦する方法はなかった。 航空母艦パイロットに課せられた運命とは言え、小さい母艦の背中は厳しいものであった。
(第5章終わり)

2010年07月04日

「飛翔雲」 第5章 航空事故 −その57

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 第4話 航空母艦と航空事故 (13)

   その4 母艦機の事故 (承前)

 昭和13年10月末、「龍驤」 艦爆隊 (2個分隊24組) は九州日向市の富高基地で定着訓練を始めた。

 定着訓練というのは、飛行場内の芝生の上に白布で囲んだ20米、60米の着陸帯を作り、その中に三点姿勢で着陸する訓練であって、着艦の準備訓練の一つである。

 この訓練を一か月間みっちりやって、11月25日午後1時頃、接艦2回、着艦3回をやる予定で、第一陣6機を連れて、私は日向市の外港細島の南東50浬を航行中の 「龍驤」 に向かって基地を飛び立った。

 「龍驤」 の背中は狭いけれど、艦橋も煙突も背中の下にある。 信号マストも右舷に水平に倒され Wave off の邪魔になるものは何一つない。

 準備訓練の時と同じように、機首角度と気速を一定にして、機軸を艦の首尾線に合わせ、青赤の誘導ランプに凡帳面に乗り、艦尾を過ぎたらエンジンを絞ればいいのだ。 グライドパスが不安定になれば何回でもやり直せばいい。

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( 原著より )

 1時半頃、私達6機は母艦上空に到着した。 艦長高坂香苗大佐は、艦を強速16節にし、スタビライザーを発動して艦のローリングを止め、風に立った。 生の風は秒速7米、合成で15米、うねりはなく、快晴であるが少し気流が悪かった。

 私は6機を残して着艦回路に入り、ファイナルパスに乗った。 機首を上げ気速を整え、青赤のランプを見ようとすると、ランプがエンジンカウリングの陰に隠れて見えない。 機首を右に振り、機体を左に傾け、横滑りをしながら艦尾に近づき、艦尾を過ぎる瞬前に横滑りを戻し、首尾線と機軸を合わせてエンジンを絞った。 そのタイミングが僅かに早く、落下着艦になった。

 私の着艦位置は、第一制動索であった。 第三制動索に着くのが最良であって、誘導ランプの機構はそのように調整されていたが、ダウンウォッシュによりショートになったのであった。

 もしもこの時、私がこのことに強く気づいていたら、この30分後に起こった大事故は未然に防げたであろう。

 ダウンウォッシュについて簡単に説明すると、平坦な海面を図体の大きい母艦が高速で走ると、艦首で上昇気流、艦尾で下降気流が発生するのは当然である。

 このUP、DOWNの気流の発生状況は、生の風が強くて母艦が低速で走る場合と、生の風が弱く母艦が高速で走る場合とでは大きく違う。

 生の風が強い時は、その風自体が既にサインカーブを画きながら吹いているのが普通であるから、このサインカーブが、船体による個有のダウンウォッシュに重なって強いものになることがある。

 それに加えて、生の風が強い時は、当然波も高く、艦はピッチングを起こす。 これがダウンウォッシュを更に強くする。 つまり、三つの要素が揃ってサインカーブの振幅を拡大するように組み合わされた時、このダウンウォッシュは、飛行機を艦尾に吸い込んでしまう程強くなることがあるのだ。

 そんな危険が待っているとは予想もせず、私は着艦指揮官の位置についた。 6機がそれぞれ3回着艦する予定であった。
(続く)