これから連載を始めます 『飛翔雲』 は、海軍兵学校第61期 (昭和8年11月18日卒業) の高橋定氏の回想録です。
この回想録は、かつて私が防大学生〜初任幹部の時代に海上自衛隊の部内誌に連載されたもので、その後改めて1冊に纏めて印刷・製本の上、部内誌別冊として限定配布されました。
タイトルは部内誌連載当時は 『航空事故漫談』 『続航空事故漫談』 でしたが、一冊に纏められたのを機会に 『飛翔雲』 と改められたものです。
著者の高橋定氏は、私のブログにお見えになる方々ならその名をご存じない方はおられないと思います。 艦爆乗りで、特に 「瑞鶴」 艦爆隊長としての勇猛果敢な活躍振りなどは余りにも有名な話しですから。
戦後は海上自衛隊に入られ、航空畑の要職を歴任された後、幹部学校長・海将で定年退官されました。
私事になりますが、私が防大受験の時に、偶々ご縁があって進学相談で氏にお目にかかったのが最初でした。
この時は市ヶ谷 (当時) の幹部学校長室でお会いしたのですが、南太平洋海戦時の戦傷で顔面に大きな火傷の痕が残っておられましたが、むしろその事を誇りとするかの如く、堂々として話しをされたのが強い印象として残りました。
また、氏から 「私が身元引受人になるので、心配することなく、是非防大・海自の道に進みなさい」 と言っていただき、大変嬉しく、また心強く感じた次第です。
これが氏とのお付き合いの始まりで、その後は度々川崎のご自宅にお邪魔したりして色々なお話やアドバイスをしていただきました。 ある時などは、「もう退官したから君にあげるわ」 と言って、海将の階級章の着いた制服を一着いただいたこともありました。
一人息子さんは別の道を歩まれましたので、もし氏に海軍の可愛い後輩・後継ぎの一人と思っていただけていたとするら、こんな幸せなことはありません。
ある意味、今日の私があるのも氏のお陰と言っても過言ではないと思っています。
残念ながら先年お亡くなりになりましたが、氏が武人として、艦爆乗りとして極めて優れた方であったことはもちろんですが、真面目で誠実な人柄、歴史・漢詩を始めとする溢れる教養は、心から尊敬し信頼するに足る人でした。
このことは、これからの連載をお読みいただければ、皆さんにも十二分に感じ取っていただけるものと思っています。
この回想録は、私にとっても先の 『聖市夜話』 と同じく、幹部海上自衛官としての勤務上の “教科書” の一つでもありました。
しかし残念ながら、今ではかつて連載された部内誌はもちろん、後に1冊となって配布されたものも海自部内にはもうほとんど残っていないと思います。 だからこそそれが時々古書店に並ぶわけで。
私も定年退官した今、この素晴らしい回想録が現役の若い海上自衛官のみならず、ましてや一般の方々の目に触れず、このまま消え去ってしまうのは如何にも惜しい、勿体ない、そう思わずにはいられません。
また、氏に可愛がっていただいた者であるからこそ、これを後世に伝える責任があると思っています。
ご遺族のその後の詳しいことは判りませんので、私のこのブログでの掲載に当たり著作権についての許諾は得ておりません。 また海自の発行元にも版権や編纂権上の承諾も得ておりません。
したがって、正式にはそれらのことを無視したものであることを承知の上で掲載いたします。 それは上に記したとおりの意志からです。 この貴重な回想録は、日本人としての宝だと思うからです。
このブログにご来訪の皆様も、是非じっくりお読みになり、この回想録の素晴らしさを味わって下さい。
ただし、正当な権利を有する方からの要求があった場合には直ちに削除することは言うまでもありません。 これが前提での掲載であることを予めお断りしておきます。
2009年08月24日
『飛翔雲』 第1章 揺籃時代 −その1
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1章 揺藍時代
はじめに
海軍航空の初飛行は、大正元年11月2日の観艦式参加のための試飛行である。 それから約20年間、昭和5〜6年頃までを海軍航空の揺藍時代と言っていいのではあるまいか。
昭和12〜3年頃には、この時代の猛者達がまだ生き残っていた。 私はその頃海軍中尉で、大村、佐伯、霞浦等を歴任し、これらの人々に会ったが、彼らは火傷や切傷は勿論のこと、何かの逸話を持つ頑固者達ばかりで、いつも昂然と胸を張って私達の飛行訓練を見ていた。
夕食後など士官室でこれらの人々と一緒に寛ぐと、トランプの相手をやらされて、ミスプレイをやると頭を殴られたり、罰金をとりあげられたり、時には酒の相手を命ぜられて深夜までつきあいをさせられ、不思議な物語を聞かされた。
これらの人々は一般に自分自身の体験談はあまり話さなかった。 自慢話になるからだ。 しかし他人のことは、それが上官同僚であろうと下級者であろうと、はっきりと褒めたり貶したり是非善悪を歯にもの着せず論断した。 それは呵責なく激しいもので、中国の昔話にあるが、舌鋒鋭く相手を悶死させるようなものもあった。
時々事件が起こった。 例えば、誰彼の区別なく悪口を叩いていたら、その相手当人が士官室の一隅に居合わせていたため大論争となり、翌朝の飛行作業開始まで徹夜をしてもけりがつかなかったり、あまりに誉められるので薄気味が悪くなって、誉めている当人を 「お世辞を言うな」 と言ってぶん殴ったりすることがよくあった。
こんな時には、私は座を外さず一部始終を聞き漏きなかった。 「高橋中尉! 貴様は自分の部屋に還っておれっ」 と言われても去らなかったので、そのために何回か殴られたこともあった。
このようにして得た見聞を紹介して、揺藍時代の一端の理解の足しにして頂こうと思う。
2009年08月25日
『飛翔雲』 第1章 揺藍時代 −その2
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 スピン事件
「死ぬだろうなあ!」
「死ぬ筈はないじゃないか! 32節(ノット)だよ。」
「死ぬに決まっている!」
「死ぬ筈はないっ!」
時は昭和3年10月、場所は土浦市南方の阿見原、二人の操縦教官、岡村中尉と楠本中尉が喧嘩を始めた。
阿見原というのは、その当時の 「飛行節」 という歌に、
「 今日ベルリンの郊外で
ミュンヘンビールに酔い伏すも
一度ハンドル手に持たば
夕べにゃ既に阿見が原 」
とよく唄われた阿見原である。
大正8年日本海軍が買収し、同10年練習航空隊として開設した日本海軍練習航空隊発祥の地である。 舗装滑走路はない。 格納庫の前で飛行機を洗うためにそこが泥んこになるのでそこだけが舗装され、その他は簡単に鎮圧された広漠たる草原であった。 この草原の周辺は松と栗の灌木林になっていて兎や狐が多く、時々格納庫に遊びに来ることがあった。
二人の中尉の喧嘩の種は、一三式初歩陸上練習機でこの灌木林の中にスピンで墜落したら、搭乗員は死ぬか死なぬかという論争であった。
詳しく言えば、一三式初練の失速は32節であるから、16米/秒で地面灌木林に激突する。 火が出る。 搭乗員が急いで脱出する。 ガソリンが爆発する。 搭乗員はその被害圏外に逃げ得るか?
搭乗員が学生の場合は脱出が下手だし、機体の毀れ方もひどく、脱出が難しくなることもあるだろう。 学生の生命は果して保証できるかどうかという論争であった。
この二人の論争の結論は、その日の午後に出された。 岡村中尉が初練試飛行中に灌木林中にスピンで墜落してみせたのである。 彼は操縦席から這い出し、独りで飛行場まで帰って来て、
「俺は死ななかった。 怪我もしていないぞ。」
と怒鳴った。
その日の夕方、土浦市桜川の堤防下にある小料亭 「梅ヶ家」 で、隊長と二人の中尉がS (注 : 海軍の隠語で 「芸者」 のこと) に囲まれて飲んでいた。
「 クンルン アルタイ 下駄に履き
北シベリアを過ぎ行けば・・・・ 」
と蛮声を上げてご機嫌であった。
昭和12年、私は岡村基春中尉 (この時中佐になっていた) に仕えたので質問した。
「そんな実験を隊長が許してくれたのですか。 教官が教官なら隊長も隊長だっ!」
答が跳ね返ってきた。
「馬鹿者っ! 実験じゃないっ。 航空事故だっ!」
これがスピン事件の顛末である。 教官が懲罰になったか表彰されたか聞くのを忘れたのは残念だった。
もし仮に、この実験で岡村教官が殉職していたら、岡村中尉の操縦ミスによるスピン墜落事故の記録だけが残され、飛行学生の単独許可の時機は決まらなかったであろう。
成功したから、学生の単独許可は9時間を標準とされたのであった。 そして、この事件の8年後の昭和11年、私達の単独許可も9時間が標準であった。
(第1話 終)
2009年08月26日
『飛翔雲』 第1章 揺藍時代 −その3
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第2話 男の意気地
昭和18年、横須賀航空隊に白面長身の巨漢で温容人を包む美丈夫がいた。 その名を宗雪進之助という。 当時大佐の中でも古い方であった。 私はこの人から数回碁を教わった。
碁が始まると、多くの観戦者が集まって来て無責任な助言が出る。 しかし、この大佐は五段で、海軍一番と言われた人だから、私の応援団がどう騒ごうと泰然自若としていた。 私は数回負かされた後、こんなことを言われた。
「 君は碁を打っている時、どんな雑音が入っても、それに助けを求めようという気持を持たないのが非常によい。」
誉められたのか、慰められたのか解らないような気持だったが、後日大佐の同期生から次のような大佐若かりし日の航空事故を聞くに及んで、なる程と納得するものがあった。
( 一四式水上偵察機 )
大正末年の或る日、宗雪中尉は水上機で訓練中エンジンが停止し、房州沖を漂流し始めた。 本隊からの救助隊は来ない。
無線など未だ無い時代、距岸30浬の海上で黒潮の流れも早い。 夕暮になって漁船が漂流機に近接して来た。 漁民が飛行機の中を見て海軍中尉を見つけ、「どうしなすったか。助けてあげましょう」 と言った。
すると、宗雪中尉は大声で怒鳴った。 「助けてくれとは言わん。助け船をよこせっ」 と。 漁民はびっくりして逃げ帰り、すぐ警察に届けた。
翌朝から捜索が行なわれた。 不時着機は昨夜の風波により転覆沈没し、搭乗員3人はブイにつかまって漂流していた。 捜索は困難を極め、3人の搭乗員は疲労のため死の寸前に漁船に拾われたが、その時にも宗雪中尉は 「助け船をよこせ」 と言って漁民を苦笑させた。
後日談になるが、宗雪中尉はその時の漁民全員を銚子町の料亭に招待し、大いに飲んで仲良くなり、その後も交際が続いているということであった。
時代感覚が現代とは全く違っているので、今の若い人達には理解してもらえないかも知れないが、問題は宗雪中尉の安全上の処置の是非善悪についてではない。
「 下士官偵察員は漁船で送り帰すべきだ。 報告のためにもそうすべきだ。」
「 頑固な意地っ張りも程々にすべきだ。」
「 搭乗員が飛行機を去れば飛行機は転覆するが、搭乗員が乗っていれば転覆しないという保証はない。 転覆しなければ水上機は何日間も浮かんでいるし、そのうちに拾いに行けばよいのだから乗員は漁船で帰るべきだった。」
いろんな議論があったという。 しかし結論は、
「 若い中尉のやったことだ。 いろんな処置も考えられるがそれは問題にしない。 彼の武人としての意気地は称讃に価する。」
ということで、彼は表彰された。
( 九〇式戦闘練習機 )
昭和7年6月。 石川少尉学生が霞浦航空隊で九〇式戦闘練習機で単独離着陸訓練中、着陸に失敗して転覆し、脚を空中にして座席から出られなくなった。 教官、整備員が急いで駈けつけ、翼を持ち揚げて石川少尉を座席から引きずり出した。 その時、石川学生は開口一番、
「 教官! 私は学生罷免ですかっ?」
烈迫の気合であったという。 それに押された教官達は、「まあまあ」 と彼をいたわりながら指揮所に連れて来た。
彼はいろんなことを尋ねられても言葉少なく答えながら、学生を罷免すると言われたら自決し兼ねない顔色であった。 教官達は彼を罷免しなかった。 無事卒業することができたのである。
後年私が飛行学生の教官の時、当時の教官であった隊長が学生に訓話をされ、この時の話を引用して
「 石川少尉学生の全身からは焔が立ち昇っていた。」
と言われた。
(第2話 終)
2009年08月27日
『飛翔雲』 第1章 揺藍時代 −その4
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第3話 計器飛行の発明
昭和初年、横須賀航空隊の偵察教官に岡村徳長大尉がいた。 この人が日本海軍航空の計器飛行の草分けとなった人である。
( 注 : 皆さんご存じとは思いますが、本話の主人公 岡村徳長氏は第1話で出てきた岡村基春氏の実兄であり、また末妹 清子氏の夫が、後でこの回想録でも出てきます艦爆の神様 江草隆繁氏という関係にあります。)
岡村徳長という人は日本海軍の代表的奇人といわれたが、この人の伝記を書くわけではないから詳細は略するが、例えば、横須賀線逗子駅に乗降される貴賓の中で逗子駅長の出迎えと見送りを受ける人は、天皇陛下と岡村徳長だけだと言われた程の人であった。
彼は、大正末年の秋、迫浜から九州宮崎へ水上機で移動訓練をした。 無事宮崎海岸に着いて、飛行機を海岸に係留して全員料理屋に行って飲んだ。
夜中に風浪が烈しくなり飛行機は流された。 翌朝、海岸に行ってみると飛行機がいない。 彼は懲罰一週間になった。
しかし、一日謹慎しただけで海軍省人事局に出頭して、懲罰一週間を二日間に負けてくれと申し入れた。 彼の主張するところは、
「 自分は間違っていた。 一日謹慎してみてよく解った。 今後反省する。 しかし、忙しい毎日の訓練を一週間休むわけにはいかん。 明日から訓練をしたいから懲罰は今日までで負けてくれ。」
というのである。
海軍省はビックリした。 20万海軍だから奇人もいたろう。 しかし、懲罰を負けてくれという男は彼が初めてであった。 ビックリした海軍省も、彼の主張するところには一理があると考えた。 そして、彼の熱意に動かされて懲罰を三日に負けてやった。 三日だ二日だと押し問答があった末に海軍省は、
「 君は本日は謹慎していないではないか。」
というわけで、実質二日、形式三日ということで話がついた。
この岡村教官が、雨霧の中でも暗夜でも安全に飛ぶ方法はないものかと考えた。
その時の機材は一三式艦上攻撃機であった。 計器は、気速計、回転計、高度計、旋回計があったが、高度計目盛は100m単位であり、旋回計はまだジャイロが機上に装備されていない時代であるから針のない旋回計である。 現在の旋回計の鉄球の代りに気泡が入っていて、ガラス管の円弧の長さが30センチくらいある大工道具の水準器を曲げたようなものであった。 飛行機の性能は全速105節、巡航80節で、舵の効きはよく安定した飛行機であった。
( 一三式艦上攻撃機 )
余談になるが、昭和11年、私はこの実用練習機で編隊訓練中、(二番機操縦) 一番機に近接して行って一番機の上翼の先端を私の下翼の尖端で叩いてみようと試みたことがある。
一番機が恐がって逃げるのでどうしても果たさなかった。 その時の一番機のパイロットは、東京高等商船出身の岡純少尉であった。 以後、岡少尉は私のような向こう見ずの男とは編隊訓練はやらないと言って敬遠されたが、おかげで私も彼も命拾いをしたのかも知れない。 知らないからあんな乱暴をしたのであるが、編隊飛行は簡単なようで危険なものだ。 注意を要する。
(第3話 続く)
2009年08月28日
『飛翔雲』 第1章 揺藍時代 −その5
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第3話 計器飛行の発明 (承前)
さて、本論に戻ろう。
針のない旋回計だから、バブルが真中にあってコンパスが回っていなければ飛行機は安定した直線飛行中であり、回っていれば安定して旋回しているわけだ。 問題はバブルが中心にない時、手と足のどちらが狂っているのかの判定である。 水平儀はないから傾斜は解らない。
一三艦攻には風防はなく、操偵ともに頭上は青天井である。 操縦者は幌を被って雲の中と同じにし、偵察員は座席に立ち上がって顔に風を受けながら飛ぶと、頬に当る風の具合で飛行機の滑りが判る。 そこで偵察員が 「右っ。左っ」 と頬に当る風の方向を言うと、操縦者はそのとおり足を踏む。 そしてコンパスが回り始めれば、手足のバランスをとってその旋回を止めれば安定した直線飛行になる。
これで理論的には計器飛行はできる筈である。 操縦者として嫌だったのは、偵察員が右っ左っというとおりに足を踏むことになると、馭者に命じられている馬車馬のようで感じが良くないということであった。
実験が開始された。 優秀な老練パイロットが次々と交替で乗った。 偵察員は岡村大尉一人である。 彼は飯も食わずに頑張った。 迫浜飛行場を飛び発ち、高度500mで操縦者は幌を被り、真鶴往復約60浬のコースを飛んだ。 理論は解るが実際の操縦は難しかった。 バブルは決して素直に真中に坐っていない。 十数名の名パイロット達は、やればやる程自信を失っていった。
一か月経った。
パイロット達は段々と実験を敬遠した。 そして、最後にただ一人弱音を吐かぬパイロットが残った。 それは入佐俊家中尉であった。
入佐中尉は、後年神様と言われて若い者から慕われた人である。 神様と言われても一般普通の人格者というのではない。 酒も煙草も女郎買いもやる。 英戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈した隊長であるが、難しい戦闘場面で彼が指揮官として先頭に立ち、ハンドルを持ってピタリと定針すると砲弾雨飛の中を微動もしない人で、しかも戦機を掴むに俊敏で、攻撃は直線的で果敢であるため味方の被害が極めて少なく、その結果士気は大いに揚がったという。
岡村大尉と入佐中尉の一騎打ち勝負となった計器飛行訓練は、いつ果てるとも知れなかった。 両氏とも強情我慢で、苦しいことで参ったとは言わない男だ。
夏の宵であった。 小田原の町の灯が美しく見えていた。 高度は500m、入佐中尉は幌を被った。 バブルは中心にある。 気速もよし。 エンジンも調子よし。
岡村大尉は後席から右とも左とも言わない。 総てが調子よしと思って高度計を見ると200mになっていた。 エンジンを入れても高度が益々下がる。 終に高度計がマイナスになった。 入佐中尉は幌を払いのけた。 その瞬間、翼端が海面に接触した。 飛行機は約60度傾いていたという。
後年、入佐中佐は、錯覚は恐ろしいものだと言っておられた。 幸いにも二人とも怪我はなかった。
小田原の料亭で向かい合った二人は、何も言わずに長い実験の第一次終了を感じた。 さすがの岡村教官も、全パイロットが難しいという実験は続けるわけにはいかなかった。 残念であるが基礎から考え直すことにした。
彼はその後計器の発明に努力した。 操縦教官達も機会をとらえて、岡村式計器飛行訓練を行ないながら新方式の発見に協力した。 現在の針、玉、気速、という計器飛行の操縦原則が行なわれる前の日本海軍の涙ぐましい努力であった。
実験は失敗に終ったが、理論の究明と新計器の発明の努力がそのまま後輩に受け継がれたのである。
奇人岡村徳長氏は土佐の人で、戦後天皇陛下が土佐に行幸された時、赤旗を振り振り陛下を心からお迎えし て 「天皇陛下万才」 を三唱し、彼に続く共産党員も陛下のご健康を祝福したという。 いつまでも天皇陛下とご縁のある奇人であった。 日本海軍航空のために偉大なる足跡を残した哲人であった。 今も元気で土佐共産党を激励しておられるであろう。
( 注 : 岡村徳長氏は昭和47年75歳で物故されました。)
(第3話 終)
2009年08月29日
『飛翔雲』 第1章 揺藍時代 −その6
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第4話 禁 酒 令
昭和初年秋11月某日。
館山航空隊の艦上攻撃隊全機が、大村航空隊へ、移動訓練を行なった。 往航は無事であった。 搭乗員は楽しく長崎佐世保方面に外出した。
さて問題は翌朝である。
0830 大村発帰投の予定であったので、0800 搭乗員全員が指揮所前に整列したが一人足りない。 隊長が帰って来られないのである。 そこで、先任分隊長が宣言した。
「 出発時刻は一分といえども遅らせない。 それは本移動訓練に当っての隊長の厳命であるからだ。」
0820、全機18機は次々と列線を離れ離陸線についた。 0825、隊長がようやく帰って来られた。 泥酔状態である。 隊長は飛行服を持ったまま飛行機に飛び乗った。
整備員がアレヨアレヨと言う間に試運転もしないで発進。 0830に離陸し、列機がこれに続いた。 2個中隊。 各中隊それぞれ3個小隊の18機編成である。
0900 頃高度2千米、天気は晴朗である。 隊長は操縦席で大いびきで眠ってしまった。
一大事と思った偵察員は、座席の下にもぐり込んで操縦席に移動した。 しかし、突いても叩いても隊長は眼を醒まさない。
生まれた時から操縦は一度も習ったことがないし、理論は座学で少しは習っているが主として構造に関することであるし、偵察員は困った。
しかし、酒の席などで操縦者と操縦の話をしたことがあるし、また、操縦者同士が話しているのを聞いたこともある。 ままよ、ハンドルを持ってみようと決心した。
そして、彼は2時間余操縦したのである。 保針も大きく間違えなかった。 門前の小僧の最優等生であったわけだ。
( 原著掲載の写真から )
更にもう一つ感心させられたことがある。 それは、この時の飛行機は八九式艦攻であって燃料タンクの切換えが極めて複雑になっている。
燃料は一度上部翼の小タンクにポンプで移され、そこから中央支柱に沿ってキャブレターに入る。 中央支柱の側面を燃料が流れる時パイプの一部がガラスになっていて、燃料が流れている時は黒く、燃料が流れていない時は白くなるようになっていた。
操縦者は白い眼、黒い眼と言って、白い眼になると、死人の眼と言った。 4〜5分後にエンジンが止まるからだ。 その上、この飛行機の燃料タンクは小さいものが4つあってその切換えは総て手動である。 この切換えを、この偵察員が正確にやったのである。 驚くべき有能の男であった。
2時間後、隊長は眼を醒ました。 ところが、この飛行機は操縦席から偵察席に移るのは非常に難しくなっている。 操縦席に移る時は必死の思いでもあったし、今は安心したせいもあって偵察席に還れない。 仕方なく偵察員は 「失礼」 とばかり隊長の肩車に乗って着陸した。
( 八九式艦上攻撃機 )
隊長は戦後、大学教授になった。 数学に関しては天才であった。 酒を飲んで訳が解らなくなるのも天才であった。 新婚夫婦の部下の家に招待されて日本語でH談をやられるので部下から敬遠されたが、中には女房教育に非常に宣しいと言う者もあった。
偵察員を肩車に乗せたまま隊長は着陸したが、黙っていればそのままで済んだものを、地上整備員が面白がって話し合った。 隊長は懲罰3日になり、偵察員は司令から表彰された。
隊長はこの偵察員を特別表彰し、自分に対して禁酒令を出した。 操縦する12時間前以降は絶対禁酒ということであった。 但し、期間は何日間か何年間か解らなかった。
その後私は隊長と数回飲んだが、いつも禁酒令は明日から実行することになっていると言っていた。
(第4話 終)
2009年08月30日
『飛翔雲』 第1章 揺藍時代 −その7
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第5話 キッスマーク
昭和初年。 留学中の日本海軍飛行将校が、ロンドン市上空で空戦訓練中に空中火災を起こし、燃える飛行機をロンドン市郊外まで操縦した後落下傘降下し、パイロットは火傷したが市民を災害から放った事件がある。
英国女性から大もてにもてた加藤大佐(当時大尉)の事件であるが、昔の人は自分の事故は一切話さない癖があるので、私は加藤大佐に1年余も横須賀航空隊で仕えながら、詳しい話を承ったのはいよいよ大佐が横空を転勤される数日前であった。
加藤大尉は昭和5年春、ロンドン市上空で英国人教官と空戦訓練中にエンジン過熱のため空中火災を起こした。 直ぐ飛び降りれば無傷で安全であるが、燃える飛行機がロンドン市内に落ちて市内に火災が起こり、相当の死傷者が出る恐れがある。 彼は全身に火傷を負いながら、落下傘降下に必要な最低高度約300米まで飛行を続けてから落下傘降下し、飛行機は海上に墜落、彼は郊外陸上に着地した。
翌日、ロンドンの新聞ラジオは「沈着にして勇敢、ロンドン市民を愛する日本海軍士官」の見出しで、加藤大尉を絶讃した。 当時、若くて長身白晰の彼の病床は、英国女子学生達の献花の香で満ちたのであった。
彼の悪友の話によると、彼は顔面全部を繃帯で包んで、僅か額だけを出してベッドに横たわっていた。 英国女子学生達は、東郷元帥に次いで偉大なる日本海軍士官と接吻する栄誉を得ようとして病床を見舞ったが、繃帯で額しか出ていないので額に接吻した。 数か月の後に彼の火傷は跡を残さず全治したが、額のキッスマークは直らなくて今でも跡があるからよく見てみろとのことであった。
ある日、私は加藤大佐に、
「大佐の手の傷跡は英国での空中火災の傷ですか。」
と尋ねた。
「そうだよ。 体には気をつけるようにな。」
と静かに言われた。 私は大佐の額を仰いだが、その視線を受けても大佐には何の反応もなかったから、額の傷はキッスマークではないと思った。
それはさておいて、この事件があって日英の外交は親密の度を増し日本の国益に貢献するところ大であったという。 加藤大佐は、身を棄てて仁をなすの東洋美徳を実行で示されたのであるが、年が経つといろんな枝葉がついて語り伝えられるから注意をしなければならないと思う。
これとよく似た例は、私の3年先輩に西岡大佐がいる。 彼は、飲酒酩酊して二階から落ち脚を折った。 不幸にも手術に失敗してビッコになったが、それを恥じて決して人に語らなかった。 しかし、彼は人間味豊かな人であったので、部下達は彼の足は戦傷によるものであろうと勝手に決めた。 彼はそれを否定して止むを得ず事実を話して聞かせたが、部下達は信じなかった。
彼は、私にこんなことを言った。
「 人の噂というものはどんなに展開するか解らんものだ。 当人が否定しても信じないし、肯定すると否定する奴がいる。 悪意はないにしても、人間関係を毀すことがあるから注意した方がいい。」
彼が、後年ホーネットに体当りをしてこれを雷撃沈した西岡一夫大佐その人である。
(第5話 終)
2009年08月31日
『飛翔雲』 第1章 揺藍時代 −その8
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第6話 フラットスピン事件
九〇式戦闘機の飛行審査中のことだから、昭和4年頃の事件だと思う。
九〇式戦闘機は、スピンを長くやっていると機首を上げてフラットスピンに入る癖があった。 フラットスピンに入ると回復は不可能である。 そこで、新しい機種の性能審査をやる担当者は、その機材がスピンに入って何回転すれば機首を上げ始めるか試験をやっておくことが安全上欠かせないことになった。
(九〇式艦上戦闘機)
この実験を担当したのが、岡村基春大尉 (当時) であった。 彼は高度4千米でスピンに入った。 機首を上げそうな傾向がないので悠々とスピンを続けていると、突然機首を上げてしまった。 回復操作が間に合わなかったのである。 今からエンジンを全速に吹かすと、飛行機は空中分解する。 止むを得ずエンジンを絞りスイッチオフして落下傘降下した。
ところが、フラットスピン中の機体の降下率と落下傘で降下中の彼の降下率が等しいので、機体と彼は並んで降下することになった。 こうなると降下するパイロットにとって一緒に降下する飛行機は極めて危険なものだ。 機体が回頭して遊転するプロペラが落下傘の紐を切断するか、岡村大尉の胴体を輪切りにするか、何れかになるからだ。
数秒後にその危険が迫ってきた。 彼の体にペラが近づきそうになったのだ。 彼は近づいてくる翼の前縁を力一杯に蹴った。 それが悪い結果となった。 彼の肉体は傘を中心にして時計の振子のように振れ始め、落下方向を変えることができなくなった。
この振子の周期と、フラットスピンの回頭の周期が会致した瞬間に彼の死がやってくる。 遊転するペラはカミソリ刃のように鋭利なのだ。 最悪の事態がその数秒後にやってきた。 ペラが彼の体に近づいてくる。 彼は思わず左の手でペラを押した。 彼の指は鋭いペラに切られて飛び散った。
第2回目の危険が間もなくやってくる。 彼はどうして逃れようかと焦った。 幸いにも、2回目の危険が訪れる寸前に機体と人体とが同時に接地したのであった。 彼は3本の指をなくした。
この実験の成果は十分であった。 彼は勇敢で貴重な実験を敢行したことと、公務の負傷に対して賞状と金6百円を賜わった。
傷が全治した日、彼はこの実験の関係者を横須賀の料亭に招待した。 そして、連日飲んで、6百円支払っても2百円借金が残った。
私は、昭和12年佐伯の料亭で岡村中佐 (その時は中佐になっておられた) とよく飲んだが、その時、
「 この指一本が2百円か。 もう一本切れていたら借金せずに済んだのになあ、高橋君。」
と言って笑っていた。 それは中佐の偽悪的な軽口ではなく、
「 金なんか頂きたくない。 航空のために俺は生きているんだ。」
と叫ばれたように思った。 戴いた金を即日皆とともに飲んでしまったのもその意気地であったのであろう。 当時の6百円は今の2百万円くらいになるが、豪腹を岡村中佐が皆に示した心意気として少な過ぎた額であった。
( 原著より )
岡村中佐はトランプと相撲が好きで、酒は飲めないが酒席が好きで、曲ったことが大嫌いで、部下思いで、気が強そうで弱い人で、照れ屋さんであった。 苦しいこと難しいことを率先して引き受けて、他人に功を譲って黙っていた。 こんな心豊かな善人に仕えたことを私は生涯の幸福だったと思っている。
こんな立派な方であったが、報われること少なく、特に、戦争中の部下の犯罪を一身に引き受けて敵に裁かれる不名誉を拒否して自決された。 彼の肉体は戦争の嵐の中に消えたが、嚇々たる事績は永久に消えることはない。
(第1章 終)
2009年09月01日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その1
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第2章 日中戦争時代
( 原著より )
はじめに
昭和10年2月初旬、生まれて初めて三式初歩練習機に乗った。 僅か1週間の適性検査と体験飛行であったが、霞浦飛行場を飛び立ち、西に富士山、東に筑波山を眺め、青く澄んだ大空を仰ぎ清らかを空気を胸一杯に吸って、21歳の青春の多感に酔った。
当時の日記には、無限の可能性を大空に見つめたとか、広大無辺の天地に溶け込む喜びを感じたと書き綴っている。 行く雲や筑波颪(おろし)に棚引く灌木の梢、広漠たる草原を見て涙を流す青少年の感傷であった。
( 三式陸上初歩練習機 )
今64歳の老人になって、この航空へのスタートの日の感傷を想うと、初恋の想い出よりも、もっと甘く酸っぱく懐かしい。 以来11年間、海軍のパイロットとして生き続けたが、戦前のことはただ楽しかったということに尽きる。
昭和12年7月、戦争が勃発すると、青年の感傷は跡形もなく消え、日本の国家目的に従って勇躍して戦場に行った。 12年7月遼東半島旅順周水子、同年9月中支・上海南京方面、14年航空母艦 「龍驤」 で中南支沿岸、15年南支仏印方面に行動した。
戦争は8年1か月続いたが、前半の四年余は中国一国が相手だった。 しかし、国家戦略的には、この時既に連合国側も殆ど敵国であって、米英は後方補給と自国兵器の実験及び情報の提供収集を行なっていた。 ドイツも中国に兵器を売る敵性国であった。
私らはこれ等の諸外国のことは考えず、ただ一途に中国本土を席巻して一日も早く城下の誓いをなさしめ、平和が再び回復されることだけを願って戦った。
ここで特に申し述べておきたいことがある。 それは、中国との戦争は対米英戦争とは本質的な相違があったということだ。
同文同色の漢民族や、同種同色の満州民族、南寧蛮族、安南民族等との戦いは、異色異種異文化のアングロサクソン民族との戦いとは形而上で大きな差があった。 詳しくは後述するが、一例を挙げておこう。
ボルネオのバンジェルマシンに零戦部隊が進出してB24を撃墜し、搭乗員を捕虜にして士官室に連れて来させたことがあった。
捕虜の一人が屈託のない明るい顔で手を差し出して、「ハロー」 と言った時、側の椅子に腰掛けていた零戦パイロットはいきなり立ち上がって、その毛唐の手を払いのけ彼の横っ面を思いきりブン殴った。 捕虜達は青くなって体を固くした。
零戦パイロットにとっては、捕虜になって元気で生きている毛唐が癪にさわったのである。 先刻まで憎み合って死闘した相手だからだ。 勝敗は時の運だから、後は仲良くしようというスポーツなんかとは同日の論ではない。 心の底から彼らを憎む理由があって、乾坤一擲の戦いを始めたのだ。 簡単に恨みが消えるものではなかったのである。
( 続く )
2009年09月02日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その2
著 : 高橋 定 (海兵61期)
はじめに (承前)
昭和15年、南支の柳州攻略作戦の始まる直前、海南島の北西約五十浬のい洲島 (「い」の字は「さんずい」に「圍」) という小さい島にいた時のことだ。
(元図 : Google Map より )
私は、中国人散髪屋の助手に劇薬を盛られて殺されそうになったことがある。 怒った私の部下達は島の部落に乗り込んで、部落民を女子供にいたるまで調査した。
( 原著より )
一人の老婆とその息子が怪しいことが解ったが、その婆さんは歯に 「おはぐろ」 をした上品で小柄の人だった。 息子は目の綺麗な日本人とそっくりの若者だった。 日本の着物を着せたら、誰も日本人と思うような老母と息子である。
尋問しているうちに、私達の激しい怒りは段々に冷めてしまった。 私は相手を放免して部下を連れて引き揚げた。 部下の中には、帰る時に航空食のキャラメルを与える者もあった。 その少年が弟のように思えたのであろう。
この二つの事件を対比してもらいたい。
両国民が武器を持って接触する第一線でも、四六時中弾を射ち合っているのではなく、憂いを含んだ中国娘の視線や、つぶらな瞳で私達を見つめる弁髪の童子にも会うのである。 そんな時、中国娘や童子の親達には暴力はふるえなかった。
一方、金髪娘や髭婆婆(ひげばばあ)の偉張った面を見ると、初めっから向っ腹が立った。 不合理ではあるが横面の一つもブン殴りたくなったものだ。
私はこのことを言っておきたいのである。
言うまでもなく、私らは日清戦争以来の日中の裏面史を知っていたから、日本が軍国主義一点張りの国家だなどとは考えなかったし、中国が被侵略国だとは断定していなかった。
むしろ、中国に対しては日本を呑み込む大蛇のような恐れを持っていたので、中国と戦うことに雑念はなかったが、隣の小母さんのような中国人に面と向かうと、どうにも憎めないのであった。
このことは、中国は心底から憎み得ない要素を潜在させながら戦った相手国であったということである。 悲しい宿命の戦いであったと思う。
( 原著より 若かりし日の著者 )
以下の拙文の中には、そんな感傷が出てくると思うが、若い時のことだから割り引きしてお読み頂きたい。
2009年09月03日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その3
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (1)
ここは遼東半島の南西端にある周水子飛行場の裏門である。 周水子という小部落は旅順要港と大連港との中間にあって、二つの巨大な港湾都市と軍港に挟まれた小さな労働者の町という感じであった。
( 1956年版の米軍地図から )
この飛行場は満州の空の玄関であったが、当時は、半島の尖端部の巾約4百米、長さ約8百米の矩形の平坦な黄土地帯を飛行場と呼んだだけのもので、利用度は低く、滑走路があるわけではなく、芝生も張ってなかった。
( 現在の大連周水子国際空港 ただしこの場所が本稿の周水子
飛行場跡かどうかはわかりません 元図 : Google Earth より )
満州航空全社の定期便が一日に2、3便就航していたが、昭和12年7月の開戦と同時に軍用機が進出して来たので、軍用臨時便が主となり、その間隙を縫ってDC3が細々と運航されているという状態であった。
飛行場周辺には柵があるわけではなく、裏門と言っても門の代りに可搬式の番兵塔が置いてあって、一人の水兵が銃剣を持って立っているだけであった。
裏門から周水子の部落に四間道路が通じていた。 高さ5、6米の楊柳の街路樹が僅かに緑を添えていたが、その外には周囲に樹木はなく、舗装されていない砂利道を走るトラックの砂塵が緑を消してしまっていた。
番兵塔の前の、道路を挟んで反対側に、三人の子供がしゃがみ込んで路面に書いた線図の上に小石を並べ、それを順番に動かして、相手の石を取ったり取られたりしている。 どんなゲームをしているのかよく解らないが、とても真剣な様子である。 綺麗に剃った三人の頭がくっつきそうだ。
真夏というのに、三人とも長袖で、裾も長い厚地の綿服を着て、おまけに長いズボンを穿いている。 兄貴のお譲りを着ているのであろう、上着もズボンもダブダブだが、風通しはよさそうではない。 服地の色は仕立てた時は藍色であったらしいが、手垢で黒く汚れている。 所々に大きく修理した黒っぽい布が当ててある。 三人とも綿布薄皮底の靴を穿いている。
三人の内の一人は5歳くらい、辮髪が長く肩に垂れている。 一重瞼の切れ長の大きい目、目尻が少し上がり気味だ。 長く美しい八の字眉毛の端がピンと跳ね上がって、きかん気を示している。 漢人のようだ。
あとの二人は7、8歳、真直ぐに立った額と頭頂部を広く剃り上げているが、額の感じが韓国人のようだ。 手足がすくすくとどこまでも伸びそうに見える。
後頭部に円形に残した髪を短くじゃん切りにしている。 略式の辮髪というものであろう。 この髪型は、元来古代アジア北方民族の習俗であった。 清王朝が漢民族に強制したものであるが、1911年に解除になった筈だのに、まだその風俗を残しているようだ。
顔色は、三人とも日本人より黄色が強く、皮膚に艶がないが、口もとから頬にかけてのあどけなさは日本の子供と変わらない。
三人は番兵を気にしている様子はない。 番兵も子供の頭越しに小石の動かし方を見ている。
( 続く )
2009年09月04日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その4
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (2)
番兵塔から部落寄りに3百米ばかり行った右手道路添いに、20米ばかりの小高い丘があって、その上にフランス風の赤い煉瓦造りの三階建ての瀟酒な別荘がある。 建坪120、30はあろうか。 飛行隊指揮所から自動車で3分の距離にあり、私達の宿舎に当てられ、私達はここから朝晩、飛行場に通う。
この宿舎から南西方の飛行場を見ると、南縁部に九四式艦爆18機が、着陸帯に向かって並び、その延長線上に九六式艦戦18機が翼を接して一直線に続いている。 艦爆列線の直ぐ後方に、250瓩 (キロ)、60瓩、30瓩の爆弾が数百個雑然と転がしてある。
列線の中央部の20米ばかり後方に、天幕が5張り並び、中央が士官室になっている。 暑いので側幕は巻き上げられ、内部はまる見えだ。 ケンバスの折椅子が5、6脚、他に食卓と小さい黒板が置いてある。
両側の下士官の天幕には、木製の長い腰掛けと仮製ベッドが2、3台置かれ、藍色の蚊帳が吊ってある。 昨夜の当直員が仮眠しているのであろう。
ランウェイは飛行機の車輪で踏み固められ、所々に株の大きい雑草がある。
飛行場の遥か彼方を眺めると、南北両側は黄褐色に濁った海。 空はどんよりと鉛色に曇り、水平線は子供が描いた絵のように、黒く太い一線で区切られている。
北東方向は市街地になっていて、灰色の低い民家の彼方に、遠く遼東の山塊が、ゆるやかな稜線を見せている。 これも灰色一色である。
西方は旅順港周辺の丘陵地帯で、ここにも樹木はあまり見当らない。 夏雲が南東風に乗って、遼東の山塊の上に乱れているばかり、総てが単一色の、不変悠久の姿で、日本的風情はない。
私たちがこの宿舎に寝泊りするようになったのは、昭和12年7月12日からであった。 そして、三人の子供達に会ったのは、それから10日ばかり後のことだった。
昭和12年7月7日、満州蘆溝橋で日中両軍が衝突してから4日目に、第十二航空隊が佐伯で編成され、飛行隊は翌12日、佐伯を出発し、京城錦浦飛行場を経由して即日周水子に到着した。
整備員達は、ダグラスに乗って飛行隊に続いた。 当時は、大連、旅順は日本内地と同様であったので、急速移動は簡単であったが、やはり、疾風迅雷の出撃と言ってよいであろう。 食料、燃料、弾薬の着岸補給は、佐世保鎮守府が手配したと思う。 万事が円滑に運ばれた。
私達は、着陸と同時に基地設営に取りかかった。 燃料ドラム缶置場は、排水に注意して側溝を掘り、列線との間に土塁を築いた。 搭乗員、整備員等の待機所、指揮所は、小高い場所を選んで天幕を張った。 火工品置場だけは、土塁で囲んだ。
隊員宿舎は全員飛行場の周辺部の民家を使用し、電燈は使わず、燈火管制を厳重に行ない、照明は総てローソクにしたので、宿舎の設営は、毛布と蚊帳とローソクを運搬することで済んだ。 烹炊は既に準備されていた。 陸軍式の野戦用の竃が十数個宿舎の裏側に並び、2、3の民家が食糧倉庫になった。 庭には石炭の小山ができた。
( 続く )
2009年09月05日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その5
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (3)
中国は水が不便だと聞いていたが、この附近は綺麗な湧水があり、水道もあったので、井戸掘り作業は行なわれなかった。 大連の良港が近かったので、長期の食料、燃弾の貯蔵を考える必要が無く、基地設営は極めて簡単で、僅か2日で済んだ。
設営を終えて日が暮れて、宿舎に帰ってローソクの明りの中で、灘の生一本で祝盃を挙げ、汚れた藍臭い蚊帳の中で、初陣の夢を結んだ。
3日目から、私達はあらゆる事件に備えて即時待機に入り、北京、天津、保定の周辺飛行場の列線に並んだ敵機を急降下爆撃する計画を練った。 しかし、敵状は全く不明であった。
翌日も敵情は無かった。 北京周辺の敵機は、遠く奥地に去り、敵の飛行場は空であるということであった。 山東半島、青島附近にも敵の蠢動はない模様であった。
5日目も、敵情は無かった。 しかし、奥地に隠れた敵は、いつ北京方面に急速移動して来て、周水子を奇襲して来るかも知れない。 私達は緊張をゆるめず、大作戦を夢に見ながら、狭い待機室を動かなかった。
午後、碁、将棋、トランプ、野球道具、バレーボールセット、等が届いた。 内地からの補給船が大連に入港したのであろう。 早速バレーコートを作った。 夜、ビールが配給になったので爛のついたようなビールを飲んだ。
翌日も待機だけで日が暮れ、夜はローソクで、また燗のついたビールを飲んだ。
翌7日目、0900、「全機30瓩爆弾搭載、信管は瞬発」 と下命された。 隊員達は緊張し、「瞬発信管だから、飛行場の攻撃だな、どこだろう」 と目を輝かした。 しかし、私は敵の便衣隊 (ゲリラ) が遼河上流に機雷十数個を放流し、それが渤海湾を漂流中という情報があったことを知っていた。 更に、その他の敵情は何も無いことも知っていた。
渤海湾は九州の2倍の面積がある。 そして、この海は黄土を溶かして黄色いのだ。 その海面下2、3米を黄色の機雷が流れている。 これを人間の肉眼で見つけるのは、浜の真砂の中から、万年前に散った砂金を捜すよりも難しいだろう。 私は張り切った気持の処理に戸惑い、隊員達にどのように作戦命令を説明していいか解らなかった。
( 続く )
2009年09月06日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その6
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (4)
午後、隊長が、3機を率いて哨戒されることになった。 搭乗員、整備員全員が指揮所に集まって、作戦計画を聞いた時、全員の顔に明らかな失望の色があった。
「 機雷は銃撃しても爆発しない。 爆撃照準器では見えない。 攻撃のしょうがない。 駆逐艦にやってもらうことはできないのか?」
「 俺たちは急降下部隊の搭乗員だ。 浮遊機雷攻撃は荷が軽すぎる。 相手にとって不足のない奴はいないのか。」
隊員達の目は、このように語っていた。 私もそう思った。
隊長は、艦爆隊の育ての親、江草隆繁大尉であったが、出発直前に、改めて総員集合を命じ訓示された。
「 この作戦は、地味だけれども極めて大切な仕事だと思う。 俺はこの作戦をいつまででも続けるつもりだ。 今日は手始めだから俺が行く。 残った者は、バレーボールの試合をやって遊んでおれ。」
昨夜も爛のついたようなビールを飲んで、苦くてまずくて、不輸快な気分であったが、この作戦は燗ビールよりもまずそうであった。
この日の作戦は、3機の哨戒だけで終った。 その晩、隊長は次のような話をした。
「 戦争になったら、金鵄勲章を貰わなければ軍人ではないと思っている人がいる。 何を措いても早く戦場に出て、功名を稼ごうという似非軍人だ。 俺達は手柄を樹てるのが目的でここに来たのじゃない。」
「 周水子に急速展開した理由は、第一に、北京山東の敵航空部隊の蠢動を押えることだ。 これはいい。」
「 第二は、言いたくないが、陸軍と海軍の先陣争いだ。 先陣争いと言えば聞こえはいいが、陸海軍の功績の分配を適切に行なおうとする配慮なんだ。 これは嫌だ。 そんな配慮はしてもらいたくない。 支那との戦いはよく解らんが、とにかく、落ち着いてよく考えて戦いたい。」
と。
私は隊長の意見に全く賛成であったが、戦争とはそんなものかとがっかりする思いだった。
翌日も哨戒だけであった。 私は3機を連れて黄色い海の上を飛んだ。 北京、天津、保定の飛行場攻撃のことは念頭から薄らいでいった。
そして、9世紀初頭、弘法大師空海が、支那留学中に訪問した保定はどんな所であろうか。 唐代の密教、日本の真言密教の元祖は、どんな教えだろうかなどと考える時が多くなった。 隊員達にも、そんな話をした。
( 続く )
2009年09月07日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その7
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (5)
7月24日、遼河の河口を哨戒した。 この遼河は、歴史的に見て、漢民族、北方民族、朝鮮民族等の実質的国境であった。
漢王朝は、紀元前3世紀の初頭以来、遼河を越えて朝鮮を支配したが、漠が衰えた時、北方鮮卑が逆に遼河を西に越えて中国に侵入し、その機会に朝鮮民族は独立し、日本は半島に進出した。 紀元313年頃であった。
日本はその時、弁韓の地に拠って、現在の南鮮の約5分の2を領有して任那国を立てた。 応神・仁徳朝の頃である。
7世紀後半になって、強力になった唐は、遼河を東に越えて日本を半島から追い落とし、朝鮮を支配した。 その後、宗、元、明、清、朝鮮、日本は闘争を繰り返し、遼河を、或いは西に、或いは東に越えた。
それは悠々2300年間に、十数往復 (付表参照) に及ぶ支配の転換であった。 今、私達日韓両民族は、昭和7年以降、大陸侵攻作戦を行なって遼河を西に越えている。
( 原著より 遼東支配の変遷 )
( 原注1 : 日支事変は18回目の民族の抗争と考える。)
( 原注2 : 「……→」は支配者の支配権が自然消滅的な場合を示す。)
私は、ずいぶん遠い昔からの繰り返しだ、と思いながら、海か河か解らない黄灰色の河口に目を凝らした。 機雷は見つからなかった。 しかし、それはどうでもよかった。 日本の飛行機が悠々と渤海湾の上空を飛ぶことに意味があると思った。
3日経てば、機雷は太平洋の彼方に流れるのだ。 見えないものは見つからない。 こんな日の陰気な朝、三人の子供達を飛行場の裏門で見たのであった。
彼らは孤児であった。 事変が起こると同時に、日本人に雇傭されていた中国人労働者のボス達は、漠肝と呼ばれ、国家に仇をする非国民ときめつけられ、テロに襲われた。 三人の子供の親達は、そのため、七月初旬、どこかへ連行された。
残された三人は、両親達が勤めていた飛行場に来て親を捜した。 しかし、そこには日本人ばかりで両親はいなかった。 三人の子供は途方に暮れたが、彼らは強靭な生活の知恵を身につけていた。
子供達は隣人にも知らせない食物の隠し場所が、自分の家の床下か土壁の中に塗り込めてあることを知っていた。 彼らはそこから、米の粉、麦の粉を取り出し、それを練って油でいためて食べた。
余ったものを十日もかかって乾燥し、着物の前身頃の縁を折って作ったポケット (和服の身上げ) に入れて隠し、いつも持ち歩いた。 家から離れる時は、それを食べて最低限の生命をつないだ。
それによって飛行場を毎日隈なく捜し、両親を求め歩くことができた。 三人は兄弟ではなかった。 以上が、隣家に住んでいた老婆から聞き得た三人の子供の身の上であった。
私達の作戦は、相変らず機雷哨戒を続けていた。 しかし、機雷は、多分この子供達の両親と同じように、黄海の波間に漂い流れているのであろう。 私達の目には入らなかった。 戦果はなく、功績は零であったが、一人として不平を言う者もなく、朗らかに、バレーや野球をやり、賞品の酒を分ち合って飲んだ。
その後、夕刻にも裏門で子供達を見かけるようになった。 彼らのやっているゲームには、携行糧食が賭けられるようになった。 一勝負毎にドンベーのような乾麺をやりとりしているようであった。
彼らの食料のストックが少なくなったので、三人の間に争奪戦が行なわれるようになったのではなかろうか、と心配になった。 しかし、それは彼らの判断で、最も合理的な食料の再配分の方法であったのかも知れない。
( 続く )
2009年09月08日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その8
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (6)
それから二、三日経った夕方、三人が、とぼとぼと指揮所の裏を歩いているのを見た。 私は、彼らを哀れだとは思うまい、助けてやろうとも思うまいと心に決めて、ただ無心になって彼らに近づいて行った。 そして、飛行場を眺めながら、暫く彼らと一緒に歩いた。
彼らは私を恐がりはしなかった。 私はキャラメルを出して、その一つを食べ、黙って彼らの前に差し出した。 彼らの目を見ないで、無理に受け取らせようとも思わないで・・・・。
すると、一番幼いきかん坊が、キャラメルを一つ口に入れて、急いで食べてから立ち止まり、私を見上げて 「先先 (シイサン)、謝謝 (シャシャ)」 とはっきり言った。 よほど腹が空いていたのであろう。 私は三人に一箱ずつやった。 暫く一緒に歩いてから、黙って別れた。
翌日から、彼らはよく指揮所に来るようになった。 しかし、直ぐ立ち去った。 まだ親を捜している様子であった。
翌日、彼等が指揮所に来た時、彼等に、ここで働くように言った。 なかなか理解しなかったが、彼らに木箱と食器を与え、雑巾を出して机を拭くことを要求すると、やっと納得したようであった。
昼食の時、彼らの食器にも配食し、新しい箸を与え、小さい木箱の上に一つずつ夏みかんを置いてやり、従兵の机の傍で食事をするよう教えた。 私達は彼らに、太郎、次郎、三郎の名前を付けて従兵の助手にした。
太郎は指揮所の掃除当番にした。 次郎は下士官兵搭乗員室の雑用夫にした。 三郎は士官室の従兵付きにした。 三人は日本語をよく覚えた。 三郎は、私達にお茶を運び、灰皿を替え、食器を並べたり、従兵に教わったとおり、凡帳面によく働いた。
三人は、理由なく食物を与えられることを嫌った。 夜は家に帰ったが、帰りの道筋は人に知られないように注意していた。 どんなに苦しくても涙を見せず、泣き叫ぶこともなかった。
立ったまま物を食べず、所持品は人に見せなかった。 立ち小便をせず、チンチンを絶対に人に見せず、大便をしても手を洗わず、生水は飲まなかった。 野球、庭球のゴムボールをとても上手に扱い、余暇には、それで無心に遊んだ。
私達は三人を、午後2時から5時まで自由にしてやった。 時計を見せて、短針の回転を教えても分らなかったが、5時頃になると、どこからか戻って来るようになった。 部落へ親を捜しに出かけるらしかった。
帰りに2食分の乾パンをやった。 お茶の葉をやると、三郎は特に喜んだ。 乾パンを受け取ると、三人は私達がどんなに注意をしていても、いつの間にか消えるようにいなくなった。 そして翌朝、裏門でゲームをしている姿があった。
私達の車を見るとゲームを止めて、「もうそんな時間か」 というような顔をして自動車を追って駈け出し、5、6分経って士官室に現われた。
これが三人の童子の日課になった。 苦難の中に育った子供は賢明であった。 今日のあることを予見して、子供を躾けた親達は、もっと賢明であると思った。
艦爆隊員は、誰もが彼らを可愛がるようになった。 それは、決して小犬を可愛がるような単純な愛ではなかった。 人間として心から尊敬し、愛したのであった。
( 続く )
2009年09月09日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その9
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (7)
8月15日頃であった。 隣の戦闘機隊で試運転中、バックファイヤーが列線の手洗い用のガソリンに燃え移り、それが燃料搭載中の2本のドラム缶に燃え移った。
戦闘機隊は即刻全機着陸帯の反対側に地上滑走で逃れた。 艦爆隊は全員で飛行機を押して火から離し、エンジンを始動して飛行場のエンドに逃した。
30瓩、60瓩の爆弾は、元気な若者達が背負って走った。 250瓩弾は簡単に運べないので、側溝の中に転がして土をかぶせた。
天幕を倒して、列線のガソリンの滲み込んだ地面に広げ、放水車で水を撒いた。 今までの列線は泥のぬかるみになった。
初期防火用の炭酸ガス放射器全部を、燃料ドラム躍置場の周辺に待機させて延焼に備え、他の者は爆弾から遠ざけ、民家の裏側に退避させた。 火災は類焼しなかったが、黒煙が天に沖し、大火災のように見えた。
延焼の恐れが全く無くなった時、三人の子供を捜させた。 三人は民家の土塀の陰に隠れていたが、自分に貰った木箱と食器と雑巾を大切に守っていた。
従兵の語ったところによると、火災が起きて、天幕が倒され、撒水でそこが泥海になると、5歳の三郎が6歳7歳の太郎と次郎を指揮して、野球庭球のボール、空気入れ、碁石、靴等の小物を懸命になって民家の土壁の陰に運んだ。 延焼の恐れがなくなっても、それを続けた。 運動靴が左右揃わないので、泥の中を捜した。
常日頃、三郎は隊員達の靴には絶対に手を触れず、飛行靴の手入れは断固として拒否するので、仕方なしに太郎と次郎にやらせたのであったが、この時の三郎は、汚れた靴を拾い、便所の塵紙までも運んだ。 彼はその作業中に、隊員と衝突して泥の中に転び頭に怪我をしたが、泣かずに頑張ったという。
私は、この三郎という5歳の童子を、恐ろしい子供だと思った。 常日頃彼は、
「 戦争は仕方がない。 日本人と支那人が、この戦争で幾万人死のうと、それは支那四億の民には関係ない。 どちらが勝っても敗けてもかまわない。 私は生きるために懸命になっている。 ただそれだけだ。」
と私に語りかけているように思えて仕方がなかったが、火災に当っては更に恐ろしい力を見せたのであった。
三郎は、取り払われた天幕の下に、人間の生活のために価値のある雑多な品々が、泥にまみれ、人に踏まれ、無惨に失われていく姿を見た。 そして一方では、強い体力と敏捷な行動を必要とする火災現場の姿を見て、幼いながらも小物を運ぶのが分相応の仕事だと考え、敢然として行動した。
そこには、功名心も、見得も、衒(てら)いもなく、支那人が永い歴史の中で体得した本能的知恵が燦然と輝いているのであった。
このような大きい知恵は、なかなか身に付かないものだ。 つまり、急速に流れる時間的要素の中で、今何をなすべきかを、判断し、行動し、成果を見て次の行動に移り、再び、判断、行動を繰り返す。 過ぎた時間は返らない。 後の判断に価値はない。 航空安全の核心とも言うべき知恵と通ずるものであるが、火災に臨んで、三郎はそれを私達に示したのであった。
火災は消えた。 飛行機は無事であった。 天幕は汚れただけだった。 運動用具、手回り品等は、三人のおかげで無事であった。
( 続く )
2009年09月10日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その10
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (8)
8月下旬、私達は、遼東半島と山東半島の最も狭い場所を哨戒することになった。 この渤海湾口は、旅順と山東半島北岸の登州を結ぶ線上の旅順寄りに点々と浅瀬がある。
7世紀(607年)以前の日本の遣支使節団は、天候不良の時、或いは風待ちをする時に、この浅瀬に石製の錨を入れて天候の回復を待った。 時には夜間、この浅瀬に沿って測深しながら航海を続けることもあった。 日本最古の外交航路である。
聖徳太子が、「日本の大王は、天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」 と言って、「天の子」 を呼称する支那の皇帝に、堂々の外交を展開した時の使者、小野妹子 (支那での呼名蘇因高) が、生命を賭けて隋の国情の偵察に赴いたのは、今飛んでいる湾口哨戒線の直下であり、1337年前の夏のことだった。 私は、小野妹子はこの時どんな思いであったかと考えながら飛んだ。
海は濁り、見渡す限り、海上は極めて殺風景であった。 機雷は相変らず発見できなかった。 戦果は無く功績は零であったが、私の今の心境は悠々と作戦を達観視する境地を悟るために、支那人をよく観察することが最も大切なことだと思っていた。
日本の隣に、支那という国があり、漢民族が住んでいる限り、日本人にはそれが必要なことだと思ったのだ。
例えば、三郎は、椅子、食卓をよく拭く習慣があった。 しかし、彼の家では、乾いた絹布で家具を磨くが、濡れた雑巾で拭くことはしなかったらしく、雑巾を綺麗にすすぐことを知らない。 彼が机を拭くと机が汚れた。
そんな時に、太郎次郎も呼んで、三人一緒にしてそれを教えようとすると、三郎はソッポを向いて一切耳をかさない。
それは、面子を重んずる習性でもあろうが、それよりも、人それぞれの仕事を、自分の直接の上司 (従兵) 以外のどんな人にも批判させず、人に犯されず、自分の仕事は上司と自分の関係だけでやりたい、と主張している姿のようであった。
或る雨の日、私は三郎の家を訪問した。 以前に三人の子供の身の上を教えてくれた老婆に、米麦を三升与えて、教えしぶるのを説き伏せ、無理に彼の家の門前まで案内させたのであった。
三郎の家は、千坪以上もある堂々たる屋敷であった。 2米以上の高い土塀を廻らし、寺院の山門のような、巾二間の門があった。
( 原著より )
しかし、扉は破壊され、母屋まで見透しになっていた。 門瓦は殆ど剥がれ、玄関、居間、奥間、客間、厨房等の内部は完全に毀され、家具の破片が散乱し、玄関前の椿に似た老木だけが、主人なき廃屋を見守っていた。
( 続く )
2009年09月19日
『飛翔雲』 第2章 日中戦争時代 −その11
著 : 高橋 定 (海兵61期)
第1話 三人の童子 (9)
私は、そんな家でも、支那の訪問の礼式に従い門内には一歩も這入らず、手を打って来訪を告げた。 10分も待ったであろうか、突然、三郎が土塀の陰から現われた。 さっぱりした薄いパオを着ていた。
私が、お土産として、缶詰、砂糖、塩等を渡そうとすると、私を門内に入れ、毀れた母屋の裏側の納屋の前まで案内した。 そして、重い扉を引き開けて土間に入り、初めて私の進物を受け取り、手を組んで深く敬礼した。
納屋の構造は平屋で、日本の農家の土蔵を低くしたものを想像すればぴったりである。 土間は低く暗く広い。 一隅に3坪ばかりの高い床があって、板の間に藁の敷物が敷かれ、土格子の窓下に、小さい一枚板の机があるばかり、塵一つ落ちていないが、一個の家具もない。 水甕も竈も、炊事道具もない。
私は三郎がどうして生活しているのか知りたかったが、三郎はそれを尋ねさせないだけの儀礼を行なっているので、質問するのを止めた。 しかし、別室があるようにも見えなかったので、心配でもあった。
綺麗に掃除ができているとほめると、彼も何か挨拶した。 私が支那の古来の礼式どおりの作法を行ない、また、いかめしい剣帯をして長剣を持っていたので、彼は多分、父から教えられたとおりの作法を神妙に真似ているのだと思うと、一層いじらしかった。
私は夕食を御馳走するから、太郎と次郎を連れて来るように言って、早々に引き揚げることにした。 納屋を出て、小雨の空を見上げると、母屋の屋根の、破壊からまぬがれた厚くて重々しい屋根土の中に、深く埋め込まれた濃緑色の瓦が、煙る雨にむせんでいた。
三郎が私を迎えた態度は、落ち着いて悪びれず立派であったが、私が門を出ようとする時、小雨の中を雨具も着けず小走りに迫って来て、私が立ち止まると、私の軍服の上衣の裾を懸命に握った所作は、やはり幼く可愛い童子であった。 三郎の姓は、「劉氏」 であった。
三人は立派な子供達であった。 親から教えられ、支那の社会から伝えられたことを、ただひたすらに正しいと信じ、堂々とそれを主張し、人を恐れなかった。 真実の勇気を、生まれながら身に付けた子供であった。
平常時には、気品高く、誇りをもって友人、上司に接し、礼儀正しく、節度があった。 しかし、いざ火災の時は、全てをかなぐり捨てて仕事に全力を尽した。 犠牲と献身奉仕の深い本質を、生まれながらに知っている子供であった。 人の情をするどく感じ、恩を知り、人を慕い、人から愛される可愛い童子であった。
艦爆隊員が、三人を尊敬し愛したことは、この上もない嬉しいことだと私は思った。 それは、艦爆隊員もこの子供達と同じように、立派な少年時代を過ごしたことを証明するものだからだ。
私達は渤海湾口の哨戒作戦を最後に、上海方面に転進するため、九州大村に帰投することになり、8月31日、基地撤収準備を始めた。
三人の童子は、淋しそうであった。 殊に、今まで一番しっかり者であった三郎の落胆の様子は、見るも哀れであった。
出発の前日、三人に御馳走をしてやったが、彼等は喜ばなかった。 私は彼等三人に、それぞれ一年分に余る乾パンを謝礼として与えた。 湿気のない所に保存するよう、繰り返し繰り返し教えた。 一か月半の、侘びしい縁 (えにし) の最後であった。
9月5日、出発の朝、私は三郎をしっかり抱き上げて、永遠の別れを告げた。 そして、三郎に 「早く大きくなれ」 と言った。 三人は泣いた。 それは、一か月半の間に一度も見せたことのない涙であった。
(第1話 終)