2010年08月23日

「飛翔雲」 の連載完結に当たって

 269回にわたって連載してきました高橋定氏の回想録 『飛翔雲』 が完結いたしました。

 この回想録は、連載の冒頭でも書きましたように、高橋定氏が海自の部内誌に連載されたものを、昭和53年に改めて全6章に編纂し直し、1冊のものとして部内配布したものです。

 このため、各章ごとの内容にややバラツキ、精粗などがあることはやむを得ないものと考えます。 また、編纂し直しに当たって割愛された記事もいくつかあります。

 例えば、私の好きな記事の一つに、当時のパイロットのトレードマークでもあった白い絹のマフラーにまつわる支那の少女との話しもあったのですが、削られてしまっております。

 この件については、その昔氏のお宅で飲んでいる時に 「あの話しがありませんが?」 と申し上げましたら、「いや〜、あれはちょっとねぇ」 と言ってはにかんでおられたのを覚えています。 いつまでも青年のような純朴さを持ったお人柄でした。

 この回想録は最初にお話ししたように、先の森栄氏の回想録 『聖市夜話』 とともに、私の現役中の貴重な教科書でした。 将校、指揮官としてのあるべき一つの道を示してくれたものと思っています。 そして一般の方々にとっても、単なる戦記物、当事者の回想録に止まらず、後世に残すべき非常に有益な内容を含んでいると思います。

 残念ながら海自の部内資料であるため、今まで一般の方々の目に触れることがありませんでしたが、既に両氏もお亡くなりになり、また当の海自においても今ではこれらの資料が残っているところはほとんどありません。

 したがいまして、この貴重な回想録がこのまま埋もれ、失われてしまうことを懸念し、退官を機会に私個人の責任においてネットで公開するものです。 大変に長いものですが、ご来訪いただく皆さんの一人でも多くの方にお読みいただければ幸いです。

 なお、ブログでの掲載に当たり、段落や連載回の区切りなどは私の方の都合で変えさせていただきました。 もしこれによって著者の元々の意図が正しく伝わらなくなったとしたら、これは私の責任であり、ご容赦いただきたいと存じます。

(「飛翔雲」 完)


(平成28年5月28日追記) :

著者の高橋定氏について、昨年逝去されたことが官報で告示されているとのお知らせをいただきました。 官報とのことですので間違いないと思いますが、事実とすれば大変なご長寿であったと思います。

そして、私が人伝にお亡くなりになられたと聞いた頃、知る人ぞ知るさる方のご葬儀にもお顔をお見せにならなかったことから納得しておりましたし、海自幹部学校を始め関係者は氏のその後の消息などは全く判りませんでしたので、一切の周りとの縁を切られて静かな余生を送られたものと推察いたします。

見事なといえば見事な身の処し方であり、また高橋氏らしいといえば全く氏らしい生き方であったと思います。

おそらく、なすべきことは全て成し遂げられた人生であり、何一つ思い残すことなく、本連載に出てくるような思い出の中に一人静かに浸っておられたのではと。

お知らせいただいた山ア氏にお礼申し上げます。

そして、改めて高橋氏のご冥福をお祈りいたします。


「飛翔雲」 あとがき

著 : 高橋 定 (海兵61期)

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( 著者のありし日の勇姿 )

 あ と が き

 この記録は8年半の戦時中の日記を基にして、当時を回想しながら書いたものであるが、戦場での日記は小型のノートに個人用の暗号や略符を使って、戦場生活の雑事を書いたものが主で、戦争観や軍備論については、断片的で、感傷的なものばかり、記録としての価値は低いと思われたので、公式戦史と照合しながら、補足して書いた。

 しかし、結果的には、粗雑で無責任な放言的内容となり、時には前後の脈絡もなく、当時の戦争指導者や軍備の計画推進者に対して一方的な批判を加えたり、悪口雑言を述べたりした。

 考えてみると、私も戦争指導者の末席にいたこともあったわけで、こんな批判は、豆を豆がらで煮るようなもので、「相しゃ何太急」 ( 「しゃ」 は 「者」 の下に 「火」 ) (相にくむこと何んぞ太だ急なる) の謗りを受けざるを得ない。 われながら笑止の沙汰で、恥ずかしいことであったと思う。

 ともあれ、戦争は凄惨極まりないものであった。 絶対にやってはならないし、仕掛けられないようにしなければならない。 そのためには日本は正義の主張を繰り返すことが第一であろう。

 形ばかりの巨大な軍備を備えて、その内容は硬直した老人のような体質を持ちながら、額面ばかりに捉われて自信過剰となり、相手の出方に乗せられることが最も恐ろしいと思う。

 この点が将来の軍備の核心であり、日本の安全保障を考える場合の注意すべきことではあるまいか?

 若い人達にこの点だけでも理解してもらえば、この記録の価値はあると思っている。


    昭和53年1月15目
                           高 橋  定

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 高橋 定 氏  経歴

    昭和 5年 4月   海軍兵学校入校 (第61期)
        8年11月   同 卒業
        9年 7月   巡洋艦 「加古」 乗組
           10月   術科講習水雷
           12月   同     通信
       10年 1月   同     航空
            3月   同     砲術
            4月   任海軍少尉、 巡洋艦 「多摩」 乗組
           11月   飛行学生
       11年12月   任海軍中尉、 大村航空隊
       12年 4月   佐伯航空隊
            7月   第十二航空隊
           12月   任海軍大尉、 霞浦航空隊教官 
       13年12月   空母 「龍驤」 分隊長
       14年11月   第十四航空隊分隊長
       15年12月   筑波航空隊分隊長
       17年 2月   第三十一航空隊飛行長
            6月   空母 「瑞鶴」 飛行隊長
       18年 8月   横須賀航空隊飛行隊長兼教官
           11月   任海軍少佐
       20年 7月   第三十二航空戦隊参謀

(注) : 著者の戦後の経歴については割愛させていただきます

2010年08月22日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その36

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その3 ザンボアンガ (6)

 市の中心部は、鉄筋コンクリートの3階の倉庫を改造した市庁と、同じく平屋の古びた暗い倉庫を改造した商店、事務所、住宅が櫛比していた。 大きい鉄骨の柱と高い塀に囲まれた庭から、ココ椰子が熟した実をつけて街路の上に垂れ、5米以上もあるバナナの巨大な葉も塀の外まで伸びて海風に揺れていた。 町の中央に広場があって、栴檀の木が亭々と聳えていたので、その木蔭で暫く休んだ。

 商店街に入ると、商品は中国産の綿製品と日本産の電気製品、装身具、化学繊維の衣類及び地元の民芸品が陳列され、民芸品売場に外人客が5、6人並んでいた。 映画館が2、3軒あって、この国のポルノ映画と日本の 「やくざもの」 がかかっていた。

 日没が近づいて来たので、タクシーを拾って、東の郊外にあるスペインの古城址に向かった。 町の中心を出外れて百米も往くと、道路は広い砂利道に変わる。

 城郭は長八角形で、高さが20米もある石積みの城壁に囲まれてセレベス海を睥睨 (へいげい) していたが、背後の広場は女学校になっていて、高校生らしい娘達が、ひだの多いロングスカートと純白のブラウスで家路を急いでいた。 昔の日本の高校生のセーラー服姿で、顔形も背丈も全く同じであった。

 暮れ行く四囲の眺めも日本の瀬戸内海沿岸の故山と同じだし、私は異国の果てにいることも戒厳令下の街にいることもすっかり忘れ、薄墨色に溶けていくバシラン島を眺めながら城壁の側に佇んでいた。


 やがて空港長達との会食の時間も近づいたので、再びタクシーに乗って町の西の郊外へ向かった。 東の果てから西の果てまで約5粁であった。

 会食の場所は、海岸埠頭の露天の一区画であった。 手を伸ばせば海水が掬 (すく) える所に簡単な椅子とテーブルが4セット置いてあって、灯りは 「百匁ローソク」 (重さ4百グラム、蝋の質は茶色、芯は植物の皮) が各テーブルに一本ずつ立てられていた。 星の光も明るかった。

 料理は金串に刺した豚と猪の肉を、椰子の木をちょうなで削った炭で焼いて塩味をつけた超弩級のやきとりと、潮風で冷したビールで、戦争中にこの地で食べた料理と全く同じであった。 時々高い波が埠頭のコンクリートに当り、しぶきがテーブルにかかってやきとりの塩加減を変えた。

 空港長は東京の華やかな文化生活の様子を聞きたがったが、私は、四国の古里の囲炉裏端で栗やトウモロコシを食べた時の話をした。 私に 「My Papa」 と言ったタイピストの話が出たので、

 「あんなに奇麗なお嬢さんが私の娘であったらどんなに嬉しいだろう。 残念ながら私の娘にしては若過ぎる。」

 と言うと、空港長が真面目な顔で、

 「あの娘は30才になっている。」

 と言ったので皆は笑ったが、本当にそうなら、余生をこの国で過ごしてもいいと真剣に考えた。

 8時頃会食を終え、私は皆を連れて空港の近くにあるダンスホールへ行った。 戒巌令下であったが、そこはこの国の青年達で一杯であった。 広いホールに、50組以上の若者が踊っていた。 10分も踊っていると、突然スピーカーが、

 「Japanese Navy の Admiral TAKAHASHI 一行が訪れているので閉店を11時にする。」

 と言う。 迷惑な歓迎ぶりであったが、この国の慣例もある。 マネージャーに、

 「彼は皆さんにビールを寄贈して先刻帰った。」

 と言わせて、100ペソ (約5千円、但しこの国の人々には、日本国内での6万くらいの価値感覚になる) を寄贈した。 そして、飲んで若い娘とワルツを踊った。

 酔いを発して彼女の爪先を何回も踏んだが、彼女は怒りもしないし、テーブルに帰ると懸命になって椰子の葉の扇で私に風を送り、蒸しタオルで汗を拭ってくれた。 田舎から出て来たばかりの娘らしく、戦前の日本の、虐げられた場末のダンサー達の中にもこんな女性がいたことが想い出されて哀れであった。

 10時になったので一人でホールを出た。 外は暗黒の世界であった。 タクシーに乗ると、豆ランプに赤布を被せて、ヘッドライトの代用だ。 それで悪路をフルスピードで町に向かって走った。 暗黒の中から銃弾が飛んでくるのを恐れるかのようにドライバーは緊張していた。 戒厳令下のこの国の人々は、斯うあるべきだと思った。

 南十字星がそろそろ見え始める頃、LANTAKA Hotel に帰り着いた。

 僅か一週間ほどの旅行であったが、戦争中の想い出の地は殆ど回わることができた。 この国で過ごした短い青春時代も、激しい時代の流れによって、遠い彼方に去ってしまった現実に、ホッとする想いと寂しさが交錯するのであった。
(第6章終わり)

2010年08月21日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その35

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その3 ザンボアンガ (5)

 後で MOLE から聞いたのであるが、MOSCARDON は MOLE が挙銃を貸そうと言っても受け取らなかったという。

 彼ら5人の若者は、その翌々日ミンダナオへ潜入した。 そして、約一週間経って惨憺たる姿で帰って来た。 MOSCARDON がこの潜行中にどんな行動をしたか詳しくは解らなかったが、帰って来てから4、5日して MOLE の家で会った時、一行の全身は刀傷、打撲傷、火傷で目も当てられなかった。

 それでも彼は、自分が素手であったことを後悔はしていなかった。 彼がその時私に言った断片的な言葉を繋いでみると、次のようであった。

 「フィリピンの繁栄のためには、フィリピン人は古い陋習 (ろうしゅう) を破って、総ての人が平等に働かねばならない。 土地は公平に分配すべきだ。 そのためには、先ず、身分家柄を無くして部族の族長や長老の家系の人達も働かねばならない。 これを実現しようとすれば部族内に争いが起こるし、それぞれの部族の受け入れようによっては部族対部族の対立闘争も当然起こるだろう。 そうなれば、最も悲惨な殺教が行なわれることを私はよく知っているが、それを恐れていては永遠に私達の部族は良くならない。 ひいてはフィリピンの繁栄もあり得ない。 私は、どんな反対があってもこの考え方で族長達を説伏する。 失敗して命を失うことがあっても後悔はしない。」

 と言うのであった。 私は、すさまじい彼の気魄に庄倒される思いであった。 また、彼は次のようにも言った。

 「私の一族は皆貧乏で、生活程度が極めて低かった。 幼い頃、私の姉は自分で魚を獲って私の飢えを救ってくれた。 また、部族全般の宗教儀礼のために、家族単位で猪や鶏や麻布を供出しなければならないことがあったが、貧乏な私達にはそれができないので、姉は私達弟妹を連れて労働力を提供した。 私は小さい妹と、部族の長老の土地の焼き畑に穴を堀って籾を蒔いた。 妹が焼け杭につまずいて怪我をして、よく泣いた。 私は妹が可哀そうでくやし涙が流れた。 こんな因習は、必ず打ち破ってみせる。 殺されてもかまわない!」

 彼の眠光は爛々と輝いていた。 暫くしてから、私は彼に尋ねた。

 「君の御両親は、その頃君をどのように労わってくれたのか?」

 と。 すると彼は、

 「父は妹が生まれた翌年に死んだ。 母は父に代って懸命に働き、疲れ果てて病身になった。 それでも私達が家に帰ると、母は私達の衣類の繕いを止めて雑炊を私と妹に与えてくれた。 母が何も食べていないのを私は知っていた。」

 と言って彼は俯いたのであった。 私も顔を上げることができなかった。


 私は今、殺された息子を想って空ろな目を暗い空間に投げているマダムを見て、MOSCARDON の母親のことを想い出すのであった。 今、ホロ島で殺された2百人の青年の母親は、このマダムのように放心しているだろう。 そして、暮夜ひそかに息子を想って慟哭するだろう。 死んだ息子はそれでいいのであろうか?

 飯店の中は蒸し暑かったが、私の背中からは冷たい汗が流れた。 ふと気がつくと、マダムは奥に去って部屋には私一人であった。 コカコーラが一本側に置いてあった。 私は店を出て、町の中心部に向かって走るように立去った。
(続く)

2010年08月20日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その34

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その3 ザンボアンガ (4)

 昭和17年5月下旬頃であった。 党員の一人に MOSCARDON という青年がいた。 彼は悲憤憤慨型の党員達の中にあって、いつも冷静であった。 年令は他の党員と同じく22、3才であったが、皆から信頼されていた。 出身地はミンダナオ島の北部であった。

 その頃、ミンダナオ島の北岸カガヤン附近で一部族と敗残ゲリラ兵との間に衝突事件が起こり、党員達のうち5人がカガヤンに潜入することになった。 その時、5人の人選と携行する武器について論争が起こった。 一人の党員が言った。

 「武器をどこから入手するか? 敗残兵は優秀な武器を特っている。」

 別の党員が答えた。

 「部落にある。」

 「部落の武器は古いし数も足りない。 あんな武器で敗残兵と戦って死ぬのは嫌だ。」

 この時、MOSCARDON は、

 「私は武器は要らないと思う。 相手は私達と同族だ。 話し合って解らない筈はない!」

 彼の断固たる言葉に、党員達は沈黙した。 彼は続けた。

 「私は素手でミンダナオへ行く。 敗残兵がどうしても私を殺すつもりなら死のう。 それでも私と一緒に行こうと思う者があったら一緒に行ってくれ。」

 青年達は誰も一緒に行こうとは言わなかった。 重苦しい空気が流れ始めた。 すると、女党員の MOLE が、

 「私が一緒に行ってはいけないかしら?」

 と言ったので、私は、

 「MOLE ! 黙りなさい。 MOSCARDON は今から小舟に乗って荒海を渡り、野に伏し泥水を飲み山を越えるのだ。 女のできることではない!」

 と叱ってから、次のように提案した。

 「MOSCARDON ! 俺は君達にアメリカ製の拳銃5丁と弾丸100発を貸そう。 しかし、君の言うとおり、それは君の同族の青年を撃ち殺すためのものではない。 野獣と戦うこともあるからだ。」

 と言った。 それは以前に、MOSCARDON に次のように言ったことがあるからであった。

 「生命は尊い。 相手の武器に一方的に狙われてばかりいては駄目だ。 時には互いに撃ち合って、弾丸の下で生命の尊さを理解することも必要だ。」

 と。 しかし、彼は私の意見に賛成しなかった。 だから、野獣と戦うために持てと言ったのであった。

 私が貸そうという武器は、米軍が逃げる時に、マニラのニコルスフィールドに置き忘れた12丁の拳銃と2百数十発の弾の内の5丁であった。 更に、12丁の他に婦人用のコルトの拳銃があったが、それは MOLE に与えていたからそれも使える筈であった。

 MOSCARDON は答えた。

 「ありがとう。 Mr. TAKAHASHI、お言葉のとおりにします。 挙銃4丁と弾丸を40発貸して下さい。 帰って来たら必ずお返しします。」

 「よし! 明朝までに MOLE の家へ届けておく。」
(続く)

2010年08月19日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その33

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その3 ザンボアンガ (3)

 ホテルの外は直ぐ海岸であるが、この町の海岸は約3粁に亘ってコンクリートの埠頭になっていて防波壁はついていない。 この埠頭に沿って歩くと、大型のカヌーが漕ぎ寄って来て民芸品を見せて買ってくれと言う。 立ち止まると、10才ばかりの子供が海底に潜ってあわびを採って見せる。

 これらの海上生活者達には、戒厳令は関係はなかった。 沖合を見ると、3千米くらいの所にソ連の測量船が錨泊し、その2、3千米東寄りにアメリカの商船らしい巨船が入港中であった。 今からこの両船は冷たい戦争を始めるのであろう。

 1粁ばかり埠頭に沿って歩くと、2百米平方もあるコンクリートの広場がった。 そこでは夕べの市場が立って、野菜、果物、肉、魚貝類が、露台や地面に山のように盛り上げられ物々交換が行なわれていた。

 大群集で足の踏み場もない程の雑踏であったが、どの顔にも戒厳令下の暗い影はなく、一人の警官も軍人も見当らなかった。 戦闘が続いても物々交換だから物価に関係なく、市場が興奮することもないからであろう。

 あまり暑いので、冷たいビールでも飲もうと思って市場の近くの汚ない飯店に入った。 すると、奥から50才前後のマダムが出て来て私を見て血相を変え、

 「今、ホロ島で2百人が空軍機の攻撃によって殺された。」

 と言って私を睨みつけた。 そして、

 「お前は支那人だろう?」

 と言う。

 「日本人だ。」

 と答えると、マダムは顔色を柔らげて (中国人は反乱軍に非協力的であるらしい)、

 「日本との戦争では、私達の仲間は5人死んだだけでした。」

 と言った。

 「あなたはホロ島の生まれですか?」

 と聞くと、

 「そうです。」

 「お気の毒に、奥さん。」

 と言うと、彼女は、

 「死んだ2百人の中には私の息子と甥がいるのです。 これからも、沢山の私の縁者が殺されるでしょう。」

 と言って、ポロポロ涙を流した。 私は大変な店へ飛び込んだのであった。

 奥行の深い店であったが、私の他には誰もいない。 やがて彼女は、崩れるように木の椅子に腰を落として放心したように私を見つめた。 それは息子を失った母親の顔であった。

 店の外では雑踏が渦を巻いていたが、店の中は海底のように薄暗く静かであった。 私は、このマダムは30年前の独立党の青年の女房であるかも知れないと思いながら、当時のことを回想するのであった。
(続く)

2010年08月18日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その32

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その3 ザンボアンガ (2)

 飛行機を降りると、空港長の SANTOS 氏と空港管理人が出迎えてくれたが、もう一人、戦争中日本軍に協力し、戦後暫くミンダナオの山中に逃げていたという老人が、空港ビルの陰でひっそりと迎えてくれた。

 この老人は私の経歴を調べたらしく、

 「Admiral TAKAHASHI、あなたは昔この飛行場に着陸したことがあるでしょう? あれから30年振りですよ。 ようこそお出で下さいました。」

 と言った。

 私達は二人に案内されて空港事務所に向かった。 北緯7度、気温は35度を越えている。 さすがに暑い。 ワイシャツの襟に汗がたまり、肌着が背中にべたついた。

 所長室の入口に着くと、黒いスーツを着たタイピストがいきなり椅子から立って、

 「Welcom ! My PAPA !」

 と言ったので、30年前のことが走馬燈のように頭の中をよぎった。

 「Good afternoon ! My granddaughter !」

 と答えて、つくづくと彼女を見ると、どこかで見たような顔であった。

 余談になるが、この娘達の祖先の一部族は、フィリピン群島から更に北上を続け、台湾に住みついて台湾蕃族の祖となった。 現在、その部族達の一部は中国人と雑居して、いわゆる熟蕃 (文化的に同化した蕃人という意) と言われながら西部に住み、一部は原始的な生活を続けながら東部の花蓮港の周辺部に住んで、生蕃と言われている。 日本が台湾を統治していた時代は、高砂族と呼んだ。

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( 原著より  昭和9年2月12日練習艦 「磐手」 後甲板にて )

 昭和9年、遠洋航海で台湾の基隆港に立ち寄った時、その生蕃の酋長が娘を連れて練習艦磐手に見えたことがある。 その時艦上で 「At home」 があって、酋長の娘が、

 「夕空晴れて秋風吹き、月影落ちて鈴虫鳴く。 想えば遠し故郷の空。 ああ、わが父母如何におわす。」

 と寂しそうに唄った。 私はその時、彼女の唄う故郷の空というのはボルネオの空であろうと思ったことを覚えているが、今私の目の前で 「My PAPA」 と言って笑っているお茶目なタイピスト嬢は、この時の酋長の娘とそっくりであった。

 余談はさて措いて、この飛行場は ZAMBOANGA 市の北西郊外にあって、隆起した古世代の珊瑚礁の岩盤の上にある。 ランウェイは東西に長さ2千米、巾30米、パーキングエイリヤは2百米、5百米の矩形で、空港ビルは建坪約千平方末の2階建であった。

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( 原著より  筆者再訪時の ZAMBOANGA 空港全景 )

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( Google Earth より )

 格納庫は5百平方末くらいの私有のものが4棟あって、セスナ、ボナンザ、バロン、マスキートーが2、3機ずつ格納されていた。 マニラ及びセブとの間に飛行便が一日3往復あって、BAC−111、DC−3、DC−8が就航していた。 フィリピン空軍のC−123、F−86、FOKKER が数機駐在していた。

 1630頃、空港の調査は済んだ。 私は空港の主要メンバーを夕食に招待し、Hotel (LANTAKA) へ送ってもらった。

 この Hotel は町の中央の海岸通りに画し、鉄筋六階の立派なホテルであった。 裏側は埠頭に接し、地階の窓から釣りができた。 窓を開けると浜風が部屋を吹き抜け、潮の香りが一杯になった。 南方約5浬にバシラン島が見え、港区は南東に開け、波静かで水はコバルト色に澄み、埠頭の近くで漁夫がカヌーで魚貝を採っていた。

 私の部屋は3階の海側であった。 ボーイに案内されて部屋に入ると、部屋の中は蒸し風呂のようで電燈もつかず水も出ない。 ボーイが気の毒そうに解り難い英語で説明を始めた。

 今、ホロ島でモロ族が反乱を起こし、政府軍が出動している。 モロ族の一部はホロ島から ZAMBOANGA 周辺部に潜入してゲリラ活動を始めた。 今までのところ、テロは起こっていないが、政府の厳しい命令で、電気と水道は午前零時から3時までしか使えない。 しかし、食堂はいつでも開いているし、冷たいビールをサービスすることもできる。 外出はこの町の人々は10時までであるが、外国人の貴方様に制限はない。 ただ、町は燈火管制で真暗だから、この国の女性を連れて10時以降街を歩かないようにしてくれ。

 ということであった。 戒厳令は厳しかったが、厳しければ厳しい程、その令下で生活している市民の様子を見る価値がある。 私は急いで街頭に飛び出して行った。
(続く)

2010年08月17日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その31

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その3 ザンボアンガ (1)

 翌2月22日1100、セブ市を発って ZAMBOANGA 市に向かった。 この町はミンダナオ島の西端にあって、マニラから南南西へ450浬、セブから南西へ250浬、スル海峡を挟んでインドネシャのボルネオ島の東北端と約2百浬離れて東西に向かい合っている。

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( 原著より )

 この町は、先史時代以来、マライポルネシャ語族がこの国へ移動して来た時の表玄関であったが、その当時から現代までの経過を回想してみよう。

 洪積世の時代には、この国の国土は大陸と接続していたので、アジア大陸から人類が動物を追ってこの国に移動して来た。

 洪積世末 (1万3千年前頃) になって、この国に地殻変動が起こり、大地の陥没、噴火、洪水が2、3千年間続いて現在の地勢に安定したが、この地殻変動によって大陸から移動していた人類がこの地に残留したか、大陸に帰ったか、日本列島の場合と同じようによく解っていない。

 大噴火によって天日暗く、草木と小動物が殆ど死滅した大地にも、僅かの人類が僅かの海の幸を採って生きていたと考えても間違いとは言えないからだ。

 沖積世 (1万年前より現代まで) に入ってからこの国には洪水が続いたが、この頃から人類が住むための好条件が段々と整ってきた。

 その頃、ボルネオ島とフィリピン群島との間に現在のスル海峡の ARCHIPERAGO ができて、ボルネオの東北端と ZAMBOANGA は、タウイタウイ島、ホロ島、バシラン島、約270の小島及び無数の無人岩礁で連なっていたが、これらの島々を飛び石にして、ジャバ、スマトラ、ボルネオ、マライ半島に本拠を持っていたマライポルネシャ語族が北上を始め、 ZAMBOANGA に辿り着き、ここを起点にしてフィリピンの11の主島と約3千の離島へ散って行った。

 これらの人々は、約8千年に亘ってこの群島の各地で部族小国家を造り、それぞれが独立して15世紀まで平和で原始的な生活を続けた。

 15世紀に入ると、回教文化を持った部族が同じ経路でこの国へ入って来て、ミンダナオ島の西部から更にネグロス島、パナイ島、ミンドロ島を飛び石にしてマニラ周辺部まで北上した。

 16世紀になると、スペイン人によるキリスト教文化が南太平洋を経由してセブ島に上陸し、続いてフィリピンの11の主島に侵入してこれらの小国家群を統合していった。

 1898年、アメリカがスペインに代り50年間同じ経過を辿った。

 1947年になって、この国の人々は初めて完全な統一国家を造り独立することができたのであった。 しかし、その統一はキリスト教文化を中核とした統一であった。

 現在、キリスト教徒約2千万、非キリスト教徒約2百万であるが、この2百万の非キリスト教徒の内約50万の回教徒が、ホロ島、タウイタウイ島、ミンダナオ島の辺地等に割拠して政府に反抗している。

 政府はこれに対し、47年9月から戒厳令を布いているが、49年にホロ島の部族は遂に武装蜂起し、49年2月21日、空軍が出動して本格的戦闘が始まった。 そのホロ島は、この町の南西約50浬、日本の淡路島より少し大きい島である。

 私達が ZAMBOANGA に着いたのは49年2月22日の1145であるから、動乱の12時間後であった。
(続く)

2010年08月16日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その30

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (15)

 11時半頃、空港事務所の入口で、空港長 Mr. ESPINA の秘書 Miss. CARMEN に迎えられ空港長室に入った。 早速、空港長の紹介で各部長に会った。

 正午、この国の航空局長 General SINGSON が見え、マクタン島の北東岸にあるこの島の別荘地に案内された。 この別荘地の開発者でセブ市の観光会社の社長が、私達と局長を始め部長クラスの局員を午餐会に招待してくれたわけだ。

 会場は、ココ椰子の林立する白砂の海岸であった。 椰子の幹を麻縄で結び、その上を 「ニッパ」 で葺いて日除けにして、砂地の上に長い食卓を置き、食卓の上にタロイモの葉を敷きつめて山海の幸が山のように盛り上げられ、ブーゲンビリヤやハイビスカスの花が活けてあった。

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( 原著より  マクタン島北東岸のパーティー会場近くの海岸  )

 直ぐ前は海で水は清く澄み、珊瑚礁の上を泳いでいる色とりどりの魚が手にとるように見えた。 空は碧く晴れて陽光は強かったがまぶしくはなく、海風が涼しく頬を撫でた。

 形式的な儀礼もスピーチも無く、航空局長の乾杯で宴が始まった。 御馳走の中の逸品は、海草に生みつけた白いキャビアのような魚の卵と、エビと蟹、サザエと牡蠣、赤いパパイヤとマンゴーであった。 椰子の木蔭で猪の串刺しを椰子炭で焼いていたが、これもなかなか乙な味であった。

 接待の女の子は、秘書の Miss. CARMEN と準ミスフィリピン達3人であった。 この3人はスペイン人との混血で、純白で豊艶な肉体にホットパンツとブラジャーという姿で、『巧笑倩兮、眉目ふん兮』 (こうしょうさいたり、びもくふんたり) ( 「ふん」 は 「目」 偏に 「分」 ) という風情であったが、脳が少し弱いらしく、盛り上がった胸や露出した大腿をしげしげと見つめても失礼にはならないような気安いお色気を発散していた。 会話は英語で、手振り足振りを加えてお互いの気持は十分に通じ合った。

 宴の途中で、遥しい裸体の青年が会場の浜辺にカヌーを漕ぎ寄せて、目の荒い打網を肩に掛け、1米もある鮫の子を披露し、その料理法を説明してくれた。 鮫皮のすぐ下の脂肪と筋肉の中間を刺し身のように切って、さっと熱湯を通して塩味で食べるのが一番うまいと言う。 娘達は説明は上の空で、青年の筋骨隆々たる胸と腕をまぶしそうに見ていた。

 このような楽しい会合を、この国の人々は千数百年間もこの場所でやってきたという。 この場所が部族間の論争や和解の場になったり、結婚や葬送の式場になったり、政策決定の場になったりしたというのだ。

 ここが日本の縄文弥生時代のストーンサークルや、大和の笠縫邑や出雲大社の神々の宿舎前の広場に匹敵するというわけだ。 大和時代のような社会が、この国では今も続いているのかと思うと楽しかった。

 午後3時頃、午餐会は終った。 準ミスフィリピン達3人の娘は、豚の運搬用のトラックに乗って、手を振り振り砂塵の彼方に去って行った。 砂塵の中に浮かんだ彼女達が、この宴の最高の見せ場であった。

 彼女達が椰子の葉のロングスカートをつけていたら (戦争中はそうだった)、この宴の幕切れは満点であったと思いながら、私達も彼女達を迫ってマゼランホテルに向かった。
(その2 終わり)

2010年08月15日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その29

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (14)

 翌2月21日午前、セブ空港長の案内で、セブ市の LAHUG 飛行場を見学した。 この飛行場は、フィリピンの民間パイロットの Basic Training Center になっている。

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( LAHUG 飛行場跡一帯は現在では IT PARK となって完全に再開発されており、当時を偲ばせるものは何も無いようです。 メインストリートが滑走路跡かとも思いますが、詳細は判りません。   Google Earth より )

 ここはセブ市の中心街から北へ約3粁の高台にある。 敷地の総面積は約20万坪、長さ千2百米、巾30米の簡易舗装のランウェイ、5百米、3百米の短形の芝生のパーキングエイリヤ、そこから北側の山手に向かってきつい勾配のある長さ5百米くらいの引込線、そのエンドに雨露を凌ぐだけの小さい格納庫が3棟、万力と板金台のある工作所が1棟、そしてセスナ、パイパー、チェロキー、エアロカマンダー等約20機が散在していた。 時には、YS11が格納されることもあるという。

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( 原著より  タワーから見た格納庫 )

 タワーは高さは約20米、60度くらいの急勾配の狭い雨曝しの階段の上に1坪ほどの小部屋があって、一組のVHFとマクタン国際空港と直通の有線電話が2台あった。 管制は 「マクタン国際」 が直接行なっていたが、VFRの Local Training だけはこのタワーで行なっていた。 訓練空域はセブ島北方海上50浬の半円形で、高度2千米以下となっていた。

 タワーに登って南東を見ると、昔、私達が離着陸に使っていた広い芝生地帯には雑草が生い茂り、雑草の中にランウェイが一本南北に走っていた。 ランウェイの彼方の低地には新しい十数軒の農家の屋根が見え、その昔豊かな枝を拡げて芝生に涼しい木影を落としていたマンゴーやココ椰子の木は切り倒され、一面のトウモロコシの畑になっていた。

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( 原著より  セブ LAHUG 飛行場 )

 タワーの直下附近にあったと記憶する特攻隊員の隊舎は跡型もなく取り払われて広場になり、丁度この時、操縦訓練生が日本のラジオ体操をやっていた。

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( 原著より  タワー下の訓練生達 )

 北方の山手側を見ると、標高約千米の山の中腹にあったセブ刑務所は無くなって、その跡に別荘風の赤煉瓦の建物が二、三軒建っていた。

 昭和17年4月下旬、スル海峡の哨戒に行ったパイロットが不時着水して、敗残ゲリラの捕虜となりその刑務所に収容されたので、私は陸戦隊を編成して正門近くまで攻め登り、そのパイロットを奪回したことがあったが (注)、刑務所の消滅とともにその事件が架空の夢のように思われるのであった。

(注) : 第3章 「世界戦争時代」 の第1話 「捕虜とその死」 で詳述されていますのでご参照ください。


 有為転変は世の常とは言え、あまりの変わりように呆れるばかり、思わず私は空港長を振り返って、

 「何もかも取りつぶしてしまっているっ! これでいいものかなあ!」

 と半ば独り言、半ば不平を言うと、彼は、

 「そうかなあ! 私には、変わらないものがそこら辺りに一杯あるので、もどかしく思っていたところだ。」

 と言った。 急速な変革は玉石を併せて棄ててしまうのではあるまいか。 私はこの国の歴史的遺産については深くを知らないが、この基地の周辺にも残すべきものがあったに違いない。 それを訴えたかったが、彼にとって、過去とは忌まわしい戦争の歴史だけかも知れないと思うと、それ以上質問する気になれなかった。

 タワーの上の気温は25、6度であったが、ランウェイには陽炎が燃えて炎熱の一日が始まろうとしていた。

 11時頃 LAHUG を発って、マクタン国際空港に向かった。
(続く)

2010年08月14日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その28

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (13)

 戦後、フィリピンは独立したが、それは独立党の青年達の力によるものではなく、敗残ゲリラの力によるものでもなかった。 他国から与えられた独立であった。 そして、独立党は今も引き続いて地下で活動しているのである。 その綱領は、相変らず部族集団の自治ということらしい。

 30数年前を回想しながら歩いているうちに、MOLE の丘が段々と近づいてきた。 私は彼女に会える一緒の望みがあると思いながら歩いた。

 それは、彼女は行動的ではあったが、一面には平凡で静かな生活が好きだった。 愛する人のためにはどんなことでもしたが、静かに愛されることをいつも待っていた。 だから、もしかしたら彼女はあの丘のパパイヤの叢林のほとりに住みついて、ひっそりと誰かの帰りを待っているかも知れないと思ったのだ。

 私は息をはずませて丘の麓を北側に回った。 しかし、そこには家も畑も庭もなく、ただ茫漠とした原野が裏山まで連なっているばかりであった。 私は小川の辺りに佇んで、サンパギータが咲いていた庭のあたりを眺めながら、彼女に話しかけた。

 「MOLE ! 私の作戦メモの欄外に、5月12日、Miss. MOLE と書いてある。 君はこの日の夕方、蘭の花が匂う庭の芝生で、二人で眺めた星空を覚えているだろう? ポインセチアの茂みの側に囲炉裏があって、蝋燭の火が揺れていた。 君は歌が上手だった。 淋しい声で南部の民謡を唄うと、私は故郷の山河や母の顔が浮かんできて涙が流れた。

 いつだったか、君が独りでいる時、突然訪れると小躍りして喜んだ。 私がマンゴーが食べたいと言うと、高い小枝に登って採ってくれた。 椅麗な脚とお尻が見えた。 楽しい青春だった。 30年後の今、これらのことがとても懐かしい。 しかし、君はここにもいなかった。 MOLE ! 長生きしてくれ! いつかは必ず君に会う!」

 灼熱の太陽がそろそろ輝き始めた。 早くホテルへ帰れと私に告げているようであった。 仕方なく私は MOLE の丘を去った。 ホテルへ帰り着いたのは9時に近かった。
(続く)

2010年08月13日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その27

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (12)

 それから一週間ばかり経った或る日、MOLE に案内されて、中国人街の飯店でミンダナオから帰ったばかりの5人の党員に会った。 私は質問される前に、独立運動について一方的に喋った。 MOLE が通訳した。 要約すると、

 「君らの独立運動を支持してくれるのは日本軍でもなければアメリカ軍でもない。 何故かと言えば、これらの軍隊は何れも君らの要求を素直に受け入れるとは思われないからだ。 ましてや、フィリピン軍の敗残ゲリラなどは思想も主義主張もなく、君らの切実な要求を理解するとは思えない。 このことは軍人である私にはよく解るのだ。」

 MOLE が懸命になって通訳すると、一人の青年が、

 「私達の国は父祖代々数百年に亘って、他国軍によって全土を支配されたことがありませんし、日本軍のことがよく解らないので迷っているのです。 今、日本軍は私達独立党のために力を貸してくれないとあなたが言われるのを聞いて、私達は残念に思います。」

 と言った。 私は、

 「気の毒に思う。 しかし、君らもよく考えてくれ。 日本軍は他国を全面的に占領した経験は今回の戦争が初めてだから、占領地城に対する軍政的手腕は私にも解らないのだ。 しかし、日本軍が今、君の国の内政上の難しい問題に手をつけたくないのは当然ではないか?」

 と答えた。 そして最後に、

 「せめて、日本軍の力を利用する方法を考えることが賢明だと思う。」

 と言った。

 「正直に教えて頂いてありがとうございます。」

 と彼らの一人が礼を言ったが、嬉しそうな表情ではなかった。

 「利用するってどうするの?」

 と MOLE が言ったが、相手にしないで、5人に中国料理と酒を御馳走して別れたのであった。

 それから二、三日後に彼女に会うと、

 「党員達はまた、ミンダナオとビサヤンへ散って行きました。」

 「MOLE ! 君は親しかった党員達にも注意しなさい。 もし党員達が敗残ゲリラと手を結んだら、君は危険にさらされるからだ。」

 と言って、コルトの拳銃を渡した。 拳銃を受け取る手が震えていた。

 それから約一週間後に私はフィリピンを去った。

 「MOLE ! 好きな人ができたら田舎の家に帰って、その人だけを待って暮らしなさい。」

 と言って MOLE と別れたのであった。

 それから2年半後の19年9月に彼女に会った時は、彼女は米軍のために日本軍の情報を集めているようであった。 しかし、日米の大勢はどうにもならなくなっていたので、私は知らん顔をしていた。 その半年後に日本軍はフィリピンから敗退したのであった。
(続く)

2010年08月12日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その26

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (11)

 昭和17年5月7日にコレヒドール要塞が陥落したので、私達第三十一航空隊は補給路の遮断作戦を止めて、南部フィリピンのゲリラ部隊の制圧作戦をすることになった。

 ところで、当時のフィリピンのゲリラには二つの系列があった。 一つは敗残兵ゲリラであり、もう一つは独立党であったのである。 もっとも、セブの独立党は日本軍の占領行政に協力的であったので、私達は敗残ゲリラの拠点の覆滅に力を入れたのであった。

 5月の中旬になって、独立党と敗残ゲリラがミンダナオで衝突したという情報があったので、確かめるためにバーに行くと、MOLE が待ち構えていたように、

 「SADAMU! アメリカ軍は皆帰ってしまったけど、また来るの?」

 といつもに似ず思い詰めた口調で質問した。 私は短刀直入に、

 「 I shall return というマッカーサーの言葉を信じていいかどうかということだろ?」

 「 ・・・・・・ 」

 MOLE は返事ができなかった。 私もそれについては言明したくなかったので、

 「MOLE! 答えなくてもよいのだよ。 君にとって大切なことは、君自身がどう思うかということだよ。」

 と言った。 すると MOLE は、

 「私には解らないの・・・・ 」

 と答えて、世にも寂しそうな顔をした。 それは、単にアメリカ軍と日本軍の強さを秤にかけてみて、解らなくて困惑している姿ではなかった。 巨大な力に振り回わされている人間の消え入るような弱い美しきであった。 何かに鎚りつきたいと願いながら、善良で気が弱く、何もできなくて恐れ戦いて (おののいて) いる孤独な人間の姿であった。 私は、しっかりと支えてやりたい衝動を感じたが、どうすることもできなかった。

 暫くしてから MOLE に言った。

 「君はまだ若すぎる。 マッカーサーの言葉を信じていいかどうかは私が説明しても解るまい。 ただ言えることは、2、3年のうちにアメリカ軍が帰って来るわけではないということだ。 MOLE! 2年後に考え始めても遅くはないのだよ。 その時は君は大人になっているからね。」

 と。 そして私は逃げるようにバーを飛び出した。
(続く)

2010年08月11日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その25

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (10)

 ところで、月日は少し遡るが、私達がセブ島に進出する前の3月下旬の或る夕べであった。 単調な哨戒作戦を終えてマニラ市の海岸通りのキャバレーへ飲みに行くと、MOLE という混血娘が私達のサービスに現われた。

 後で解ったが、彼女は開戦までマニラ市のストーンブリッジを北に渡った中華街の小さな料理店で働いていた娘で、17年1月2日、日本軍がマニラに入城すると、海岸通りのキャバレーで働くようになったのであった。

 ところが、4月17日に私達がセブ島に進出した直後の或る夕方、私はセブ市のバーで MOLE に会ったのである。

 その時の彼女の説明によると、4月初旬彼女はマニラ市から生まれ故郷のセブ市に帰り (マニラ、セブ間は直距離320浬、ルソン、サマール、レイテ、セブの島々経由で約4百浬)、運悪く4月10日の早朝、日本陸軍の上陸に遭って、着のみ着のままで裏山に逃げ、山の中腹にある刑務所に逃げ込んだ。 そこで彼女は独立党の青年達に遭い、彼らに口説かれて独立党員になったという。

 そして独立党の指令によって、日本海軍が設営したセブ市内のバーに勤めるようになり、私に再会したというのであった。 こんな話の真偽はともかくとして、私はこの時、彼女はスパイだろうと思ったが、敵国に駐留すれば、こんな女は沢山いると思って、気にもとめなかった。

 ところが、私達がセブ島で哨戒作戦を実施中のことだ。 或る夕べ、セブ市の中華街で夕食をしての帰り途、暗い街角で小走りに急いでいる MOLE に会った。

 そこは若い娘が一人歩きをする場所ではなかったので、私は彼女をバーまで連れて行こうとすると、彼女は先に立って私を案内し始めた。 そして、中華街の裏通りの暗い倉庫のような飯店に入った。 暫くすると一人の老人が現われ、彼女はその老人に代って私に次のように訴えたのであった。

 この老人の部落の人達は、自分達で作った農作物を日本陸軍に売って軍票を手に入れたが、陸軍からは買うものが何もない。 隣の部落に頼んでもその軍票では必要な物が買えない。 この老人の部落民は今困り果てている。 ついては海軍から薬品と衣類を買ってもらえないかと言うのだ。

 私は SANPEDRO の海軍補給所に連絡して、薬品と衣類を買ってやったが、その代償として、数日後にその部落の宗教行事に招待され御馳走になった。

 この時はそれだけであったが、その数日後の或る日、MOLE が南部のフィリピン料理を御馳走したいと言うのでセブ市の中国人街に行くと、そこで一人の青年に会った。 その青年は22、3の温和しそうなビサヤン人で、日本に5年ばかり住んでいた友人を知っていると言って、京都の話をしたりした。

 更に2、3日経ってから、MOLE の丘の家へ招待され、4、5人の青年に会った。 彼らはフィリピン南部の部落民に対する政府の苛斂誅求 (かれんちゅうきゅう) 振りと民衆の貧困を語り、何とかして独立したいと訴え、私に相談に乗ってくれと言うのであった。 そして、MOLE の勧めるウイスキーに酔って、彼らと友情を誓ったのであった。

 彼らがフィリピン独立党のセブ地区の青年幹部達であったのである。 MOLE もずっと以前から党員であったことは確実であった。
(続く)

2010年08月10日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その24

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (9)

 当時のフィリピン独立党について簡単に紹介しておこう。

 独立党の名は、彼らがよく Independence という言葉を使ったから私が仮に独立党と言うのであって、公式には Self Suporting Party と言った。 本部はミンダナオ島にあって、セブ島には数百人のシンパを持ち、7、8人の行動隊がいた。

 彼らの主張は純朴で、要するに父祖伝来の農地を開放されたくないということ、フィリピン人2千万人の経済的発展よりも南部の各部落民達がそれぞれの地域で完全な自治を許され、政府や軍隊の干渉を受けずに平凡に暮らしたいということであって、イデオロギーの問題や狂信的で超民族的な主張ではなかった。

 それは排他的で保守的で、理論より感情、法秩序よりも宗教習俗の方が優先していた。 また、為政者と軍隊に対する敵慢心は極めて一途であったが、武器を持って反抗するというところまでは発展していないようであった。

 もっとも、党員達の中には女性がいたし、青年達は薄いシャツ一枚とショートパンツでピストルもナイフも持っていなかったから私がそう思っただけで、裏ではテロをやっていたかも知れない。

 彼らは、主としてミンダナオ島とビサヤン諸島 (セブ、ネグロス、ボホール等の島々) で党勢の拡大に努力していたが、開戦直前にアメリカ軍に捕えられ、約20人がセブ刑務所に収容された。 そして、日本軍のフィリピン占領と同時に解放されたのであるが、解放後も7人がその刑務所を根城として活躍していた。

 私がこれらの独立党員達と交わるようになったのは、全くの偶然か、或いは計画された陰の力が動いていたのか、今もよく解らない。

 その経緯を説明すると、昭和17年2月、私はコレヒドール要塞攻撃の任務を与えられ、第三十一航空隊を九州佐伯で編成してマニラに進出した。 ところが、マニラ基地でこの作戦を始めてみると、コレヒドール要基はベトンで固められた堅牢無比の構造であって、私達の爆撃ではどうにもならなかった。

 そこで、3月になってから私達はコレヒドールの強襲作戦を止めて、糧食弾薬の補給路を速断する作戦に転換したのであった。 その計画は、三十一航空隊の一部をセブ島に進出させ、マニラとセブの両基地から、濠州とコレヒドールを結ぶ線上のスル海の哨戒をすることであった。

 ところが、17年3月にはまだ日本陸軍はセブ島を占領していなかったので、私達はセブに進出することができない。 そこで、4月10日の早朝、2万の日本陸軍がセブ島に上陸し全島を占領したのであった。 そして、私達三十一空の一部兵力は4月17日にセブ島に進出し、マニラとセブの両基地からコレヒドールの補給路速断作戦を開始したのであった。
(続く)

2010年08月09日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その23

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (8)

 スコールは約30分で終って、雨雲は西に去り爽やかな快晴になったので、朝の散歩をすることにして、午前6時頃ホテルを出た。

 玄関前のロータリーには大きいワシントン椰子が軒下まで葉を拡げ、ロータリーと街道の間にはハイビスカスとブーゲンビリヤの生垣があって、ココ椰子とタコの木がその上を覆っていた。 大気は緑色に染まり、しっとりと肌を包んだ。

 生垣のゲイトをくぐって街道に出ると、夾竹桃の並木が先刻のスコールに洗われて紫の葉が鮮かであった。 左に行けばダウンタウン、右に曲れば LAHUG の飛行場だ。 私は道を右に選んだ。

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(原著より)

 路面は石炭がらを固めて舗装してあるが、歩道は砂利道だ。 早朝の故か車は一台も見当らない。 歩道の奥深く中級住宅があって、その裏にゴルフ場が見えた。 ここらあたりは、30前年にはタロイモとトウモロコシの痩せた畑で、その真中を飛行場からセブ市のダウンタウンに通ずる狭い砂利道が走っていた。

 当時、私はその道を隊員達と一緒にトラックに乗ってダウンタウンへ飲みに行った。 また19年9月、零戦特攻部隊が埠頭近くの海面で反跳爆撃訓練をやった時には、私は SANPEDRO の城壁の上に坐って、各機の成績を記録したのであったが、飛行場の城壁との往復は39年型のナッシュのスポーツカーで、帰り途にはここらあたりのマンゴーの木蔭で記録を整理してから飛行場に帰るのが常であった。

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( 原著より   左 : SANPEDRO 砦  右 : 32年前に反跳爆撃
   訓練の成績を記録した場所 (左写真の白点線枠) に座る著者 )

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(原著より)

 そのマンゴーの木と砂利道は影も形もなくなって、新しい街道筋には想い出の糸を手繰るきっかけもなかったが、網膜に残っていた一つの記憶だけはどうにか探し当てることができた。 それは飛行場の南西端から、千米ばかり西方の、高さ30米くらいの丘であった。

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( 原著より  飛行場から見た MOLE の丘 )

 当時、その丘はタコの木や羊歯に覆われ、日本の農村の鎮守の森のようであったが、それが今もこんもりと盛り上がっているのであった。 その丘を、私達は 「MOLE の丘」 (注) と呼んでいた。 その丘の麓には竹と茅で葺いた20坪ばかりの平家があって、庭には一本のマンゴーの大木とバナナが群生していた。

(注) : 現在ではセブ市は開発が進んでしまっており、衛星写真などでも本項で出てくる丘は判らなくなってしまっています。


 私は街道を外れてその丘に向かって歩き始めた。 曲りくねった田圃道には雑草が生い繁っていたが、路傍の石にも僅かな想い出が残っており、歩いているうちに次々に記憶が蘇ってくるのであった。

 それは、昭和17年4月から終戦まで、フィリピン南部の社会革命を目ざして活躍した 「フィリピン独立党」 の青年党員達との交友の数々であるが、私は今30数年の歳月を忘れ、昔のままの青年達に遭うために MOLE の丘に向かって道を急いでいるような錯覚に陥るのであった。
(続く)

2010年08月08日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その22

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (7)

 2月20日、セブ市の山手にあるマゼランホテルに泊った。 南東に面した窓辺から、市内や対岸のマクタン島が一目で見える豪華な部屋であった。

 翌朝4時頃、テラスを叩く激しい雨の音に目を醒まされ、カーテンを開いてみると、物凄いスコールで、ホテルの庭のココ椰子とラワンの大木が水柱に包まれ、バナナや羊歯類は飛沫の中に沈み、芝生の上を川が流れていた。

 全市がサウナ風呂の中でシャワーを浴びているのだ。それは、天地の神々が朝の大掃除をしているようであった。

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( 1944年版の米軍地図より )

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( 上と同じ範囲の現在のセブ市  Google Earth より )

 セブ市は、マニラ市に次ぐフィリピン第二の都市で人口約60万、セブ島の略中央南東岸にある商港である。 港には、一万噸級の商船が繋留できる3つの埠頭がある。

 埠頭から南東を見ると、約5千米の所にマクタン島という洗濯板を浮かべたような島があって、島の岸辺にはココ椰子が行儀よく並んでいる。 東を見ると、この島とセブ島が約千米の水路を挟んで接近し、水路の上にはアーチ型の橋が架かり、下には渡し舟が走っていた。 南西だけが扇形に開いて、ボホール島が2、30浬の彼方に浮かんでいる。

 港域は3粁平方くらいで広くはない。 水深は15米乃至30米、底質は砂岩、ブイが7、8個入れてある (あまり使っていないという)。 南東の恒風に対してマクタン島が自然の防波堤になっているし、水深は錨泊に適当だから中級の良港と言えるだろう。

 この町はもともと16世紀の後半に建設された古い商港で、指導者はマゼランである。 当時の面影としては、埠頭を見降ろす所に古城 Fort. SANPEDRO がある。 現在はこの城址に接して、市庁、貿易商杜、銀行、倉庫、レストラン等がある。 丁度日本の城下町と同じで、この要塞を中心にこの町は4百年の歴史を展開してきた。

 この中心街の西側には漁港があって、小さい商家が櫛の歯のように並び、近くに魚河岸と市場がある。 華僑が多くて活気に溢れている。 北側の山の手寄りには、学校、スポーツ施設、公園、中級の住宅、ホテル、キャバレー等があるが、この区域は戦後に発展した所で、広くて到る所に空地があるし、木が多くて静かで明るい。

 この町の産業は、ビールと砂糖、煙草、麻、トウモロコシ等農産物の加工が主なもので、家内工業が多い。 市の経済を支えているのは、アメリカ、日本、香港、シンがポール、ボルネオ、ベトナムとの貿易であるが、最近は観光事業にも力を注ぎ、マクタン島に国際空港を開いて外人客の誘致に努めている。

 Hotel MAGELLAN もそのような客を迎えるために建てられたもので、フィリピン人はあまり利用していない。 このホテルは港から北へ約2粁離れた山手寄りにあるが、ここから更に東北へ約2粁の所に、CEBU LAHUG 飛行場がある。

 この飛行場は、昭和17年4月から20年3月までの3年間、日本海軍が利用した小型機の基地 (特攻機を含む) で、私は17年4月から3か月半、及び19年9月に約半月をここで過ごした。 もとはゴルフ場であって、私達がそこへ処女着陸したのであった。
(続く)

2010年08月07日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その21

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (6)

 10時になったので、私が10ペソずつを二人の娘に渡すと LIZA が、二人で10ペソ貰えば十分だと言って、10ペソを私に返して外で待っていてくれと言う。 加藤とき子とよく似た顔で、笑い声も笑い方も日本娘とそっくりであった。

 私は明朝の予定が忙しいと言って LIZA を断わり、青年と一緒にキャバレーを出て、歩きながら改めて彼に質問した。

 「Miss. LIZA は何故私に興味を持ったのか? 日本人とフィリピン人との混血者の評価は現在のフィリピンではどうなっているのか?」 と。

 言うまでもなく、西暦1632年に、徳川家光はフィリピンとの国交を断ち、秀吉が造ったマニラ市の日本人町が亡んだ。

 そのために、それ以降約3百年間、この国の娘達は国際結婚の希望相手として、スペイン人アメリカ人中国人日本人という優先序列をつけ、日本人を最下位に置いた。 この序列はこの国に住むこれら外国人の地位の順位でもあった。

 今 LIZA が私に興味を示したのは、この地位の順序を否定するものか? それは LIZA に限らず、フィリピンの現在娘の一般的な考え方だと思っていいか? その理由は何か? という質問をしたのであった。

 難しい質問のようであったが、ESPINA 青年は懸命になって考えながら答えてくれた。

 「私は昔のことは知りませんから、昔と比較することはできませんが、現在の気持を卒直に述べましょう。 また、若い娘達の考えていることはよく解りませんが、私には妹がいますから彼女の気持もお伝えしましょう。」

 と前置きして、ポツリポツリと話し始めた。 要約すると、

 「今のフィリピン人は日本人を尊敬している。 しかし、兄貴のように思って近づいていくと、日本人は逃げてしまう。 中国人は決して嘘は言わないし私達と気持よく付き合うが、誰にも心の底を見せない。 アメリカ人は威張っていて私達を馬鹿にするが、良い人がいないわけではない。 スペイン人はフィリピン人になり切っている。 これらを比較すると、親しみたい外国人は、現在日本人が第一だ。 私の国の娘達も、私と同じょうに考えている者が多い。 私の妹 (LIZA と同じ大学生) はその一人だ。」

 と言った。 そして最後に、

 「日本人はフィリピン人から兄貴として慕われても、フィリピン人を弟とは思わないような気がする。 それは、私達があまりにも貧しいからではあるまいか?」

 と寂しそうに、半ば呟くように言った。 皮肉を言っているようには思えなかった。

 私は ESPINA 青年と別れてホテルへの夜道を歩きながら考えた。 フィリピンの青年達は日本人を尊敬し仲良くしようとしている。 しかし、日本人は彼らを尊敬しょうとしない。 そして、アメリカ人やヨーロバ人ばかりを信用し尊敬しようとしている。

 それは、日本人がアメリカ人やヨーロッパ人に対する劣等感を裏返えしにして、フィリピン人に対して優越感を誇示している姿のように思われてならなかった。 ESPINA も、それに気がついているのではないかと思うと気が重くなるのであった。

 セブ市の夜の街は静かに更けて、南の海上には、マクタン島が白く浮いているように見えた。 南十字星は、午前2時に見え始める筈であった。
(続く)

2010年08月05日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その20

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (5)

 タワーの見学を終えて、私達は空港長の自動車でセブ市のマゼランホテル (注) へ送ってもらった。 シャワーで汗を流すのももどかしく、この国の観光大臣の秘書官の招待でセブ市の南西部にある中国飯店へ案内され、中華料理を御馳走になった。

(注) : 「マゼラン・ホテル」 というのは現在では無くなっているようで、またこの後で当時のセブ市の地図も出てきますが、当該位置に現在ではホテルらしいものは見あたりませんので、今となっては詳しいことは判りません。


 私の隣席には ESPINA という青年がいた。 彼は、この町の農業と水産業を営んでいる青年実業家であった。 日本の農村の青年と全く区別のつかないような素朴で無口な男であったが、この青年とゆっくり話したくなったので、夕食の後で彼を近くのキャバレーへ案内した。

 彼はキャバレーで飲んだ経験はないらしく (セブ市のキャバレーは東京と全く同じであったが、平均10ペソ、約500円のチップを置かねばならない。 フィリピン人の平均所得は日本人の百分の8だからフィリピン人には高すぎた)、落ち着かない様子であったが、私は彼に酒をすすめ、パートナーになる女性を選ばせた。 (女性は客の方から一方的に見える別室にたむろしていて、客から指名されるのを待っている。 日本の戦前の女郎屋と同じだった。)

 私のパートナーは LIZA RAMOS、彼のパートナーは GRACE ARCIAGA という娘で、二人はセブ大学のアルバイト学生であった。 喧ましいジャズがガンガン響く中で、薄暗いローソクに照らされながら4人はボックスで向かい合った。

 彼女達は初めのうちは遠慮していたが、よく飲みよく食べよく喋った。 英語がもどかしくなるとピサヤン語で喋るので、青年が私のために英語で通訳した。 LIZA は私に、

 「32才の日本人の収入は平均いくらか?」

 「日本人は厳密に一夫一婦主義か?」

 「国際結婚はどの程度あるのか?」

 というような質問をした。 私の方は、青年とここの二人の若い娘から対日本人観について聞くつもりであったが、喧騒なこの部屋ではとても駄目だと思っていると、たまたま次のようなトラブルが起こったので少しは理解することができた。 それは LIZA が会話の途中で、

 「私は朝御飯を作るのがとても上手よ。」

 と言って彼女の家の電話番号と場所を私に説明し始めたので、青年が真剣になって反対したらしい。 (ピサヤン語で論争を始め、それを通訳してくれないのでよく解らなかった。 キャバレーを出てから説明してくれた。) 青年は、

 「この人 (私のこと) は老人で日本海軍のアドミラルだから、お前なんかの家へは遊びに行かない。」

 と言うと、LIZA が怒り出して、

 「この人を遊びに誘ったのではない。 アメリカ人や中国人には聞きたいことは何もないが、日本人には聞きたいことが沢山あるから誘ったのよっ!」

 「そんなら、この人を君の部屋に泊める必要はないじゃないか。」

 「このキャバレーは10時で閉店だから時間が足りないから。」

 ということであったようだ。
(続く)

2010年08月04日

「飛翔雲」 第6章 戦場回想 −その19

著 : 高橋 定 (海兵61期)

 その2 セブ島 (4)

 1730、飛行機はセブ島上空にさしかかった。

 セブ島はフィリピン群島のほぼ中央、北緯10度、東経124度附近にあって、北東から南西に伸びた棒状の島である。 長さ約70浬、巾10浬、平野は猫の額程で台状の痩せた土地が多く、パイナップル、砂糖黍、タロイモが主要な産物であるが、所所に水田があって米作も僅かに行なわれていた。

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(原著より)

 この島の海岸線は古代の地層が隆起して形成されたもので、数千万年の長い期間を海底深くで過ごした珊瑚礁が地表に現われているわけだから、黒くて怪異な岩が到る所にある。 その岩を抱えて蛸の足のようなマングローブの根が海底まで伸び、真白い新生の珊瑚礁がそれらを取り巻いている。

 今、落日が迫り、それらを機上から見ると薄墨色にぼけているのが、白日のもとでは鬼気迫るような所もあるのだ。

 1745、飛行機はマクタン島のセブ国際空港に着陸した。

 マクタン島はセブ島の中央の南岸にあって、セブ市と約三千米の水路を挟んで向かい合った小さい平板のような島だ。

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( Google Earth より )

 この空港の滑走路は方位047度 (227度) 長さ3千米、巾40米、短辺の両側は海、長辺の両側を含めた着陸帯は約千米、エプロンは千5百米と百米の短形で、フィリピン空軍のC−131型機が15機並べられてあった。 エプロンの北隅に約千坪の格納庫が2棟あったが、正面のドアはなかった。

 保安管制施設と装備は、NDB、VOR、TACAN、ILS、VASIS、Approach Light、Maker 等があり、巨大なRAPCON用のASRが、イタリー人の技術者達の手で建設中であった。

 このマクタン空港の空港長はマニラからずっと私達と同行していたので、早速彼の紹介で空港の主要メンバーに会った。 時刻は既に午後6時を過ぎていたので、この日は24時間オペレーション中のタワーだけを見せてもらうことにして、20数米のタワーの階段を汗を流しながら昇った。

 気温は27度前後であった。 管制官は、アプローチ4名、飛行場2名でチームを組み、4チームが編成され、各チームは8時間当直で、一年中エンドレスに勤務しているということであった。

 意外に思ったのは、私達が会ったチームのボスは女性であった。 彼女は若くて頭の良さそうな人で、皮膚は灰色であったが、伊藤ゆかりを繊細にしたような美人であった。 彼女は、

 「遠い日本からお見えになったのに、見て頂くものが少なくて残念です。 今はオペレーション中ではありませんから、飛行場内のライトを点滅して歓迎に代えます。」

 と挨拶して、ランウェイとタクシーウェイのライトを点滅した。 嬉しい歓迎ぶりであった。 彼女の5人の部下もとても親切な青年達で、私が額に汗を流しているのを見て、ニッパの扇で風を送ってくれた。

 こんな歓迎を受けたから言うわけではないが、私はこの国の青年男女を見ると、訳もなく親しさを感ずる。 大げさに言うと、私の体内に眠っている血が騒ぐような気がしてならないのだ。

 例えば、マニラの街で多くのスペイン系やアリアン系の娘を見たが、美しいとは思っても女性としての魅力も親しみも感じなかった。 それに比べて、モロ族やピサヤン族の若い女性の華奢な骨格、扁平な胸、そして、肉の締まった細い腰の線が軽妙自在に動いているのを見ると、強い親しみを感じた。

 それは、30年前の青年時代にもそうであったし、今も変わっていない。 これは私ばかりではなく、日本人に共通の感情ではなかろうか?

 というのは、現に、私達は女性管制官から飛行場施設について説明を受けているが、私の若い同行者達は小さいテーブルの上に細かい図面を拡げ、薄暗いライトの下で彼女と一緒にそれを覗き込んでいる。

 彼らの肩と彼女の肩が触れ、図面の細かい数字を読む時には彼らの頬が彼女の煩に触れそうになっている。 しかし、お互いに気がつかずに説明と質問を続けているが、あまりに体がくっつき過ぎているのにふと気がついて、顔を見合わせて図面から身を引きお互いに笑っている。

 些細なことのようだが、このような場面は、お互いに血の繋がりのある者達でよく体験する素朴な愛情や寛容な親しさの現われなのだ。 子供が成長する過程で、6、7才の頃に、初めて会った従弟妹達の間で見せ合う血縁意識の中にもこのようなことがある。

 これは、人間の本能的な親しさ、血液の親しさと言えるものだと思う。 このような親しさを、私はこの国の人達に感ずるのだ。 私の同行者達もそれを今感じているように思うのであった。
(続く)