2014年01月26日

「水上射撃の射法」 完結

先程本家サイトの今週の更新をしまして、先週に引き続いて 「射法の理論」 中の 「水上射撃の射法」 の残りを公開しました。


この方面に関心のある方々には 「転舵修正」 や 「飛行機観測を利用する場合の距離修正」 などは興味をもっていただけるのではと思っています。

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これにて水上射撃における射法の解説を一応全て終わりました。 本当は各理論の発展経緯や理論式、根拠データなどもっと色々ありますが、あまり詳細すぎても取っ付きにくいでしょうし、一般の方々にはこのレベルでも十分なものと思います。 今回のはいわば “初級編” です。

もちろん将来的には本来の詳細な理論についてご紹介したいとは思います。 きちんと残しておかないとそのうち忘れ去られて、旧海軍の砲術の真実について誰も判らないことになってしまいますので。

posted by 桜と錨 at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2014年01月23日

『銃砲史研究』 第378号

「日本銃砲史学会」 の会誌 『銃砲史研究』 に前号第377号に続いて今回の第378号に私の記事を2つ掲載していただきました。

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1つ目が、

『 日本海軍の丁字戦法に関する一考察 』

です。 前号で黛治夫氏の論文の解題を書かせていただきましたが、その中で相対運動による敵前大回頭の解析をご紹介しました。 しかしながら元々が解題であったことから丁字戦法そのものについては詳しく述べることが出来ませんでした。

そこで、今回はその丁字戦法に関連して、日本海軍の創設期からの戦術の発達、丁字戦法の誕生と日本海海戦、そしてその後の丁字戦法について纏めたものです。

この丁字戦法についての論文は、これまでは防衛研究所図書館の調査員をされている北澤法隆氏のものが最も纏まったものあり、かつ最も当を得たものであったと言えますが、今回の私のものは更にそれを掘り下げ得たと自負しております。 特に相対運動による解析はいままで無かったものかと。

2つ目が、前号に続き日本銃砲史学会創立50周年としてかつての黛氏の論文を再録するにあたりその解題を書かせていただいたものです。

今回再録されたの黛氏の論文は次の2つです。

『 日本海軍艦砲射撃の命中率の変遷 (前) 』

『 日本海軍艦砲射撃の命中率の変遷 (後) 』

私の解題はその前編についてで、

『 艦砲射撃の命中率に関する黛論文について (前) 』

後編の分までは流石に私も時間が取れませんでしたし、これも含めますと本号中で私一人の記事が多すぎることになりますので、後編の解題は次号回しということに (^_^;

もし興味のある方がおられましたら、会誌の入手方法などについては 「日本銃砲史学会」 のサイトにてお尋ね下さい。

「日本銃砲史学会」 公式サイト :

なお、丁字戦法についての私の記事の中で、皆さんにも関心をもってもらえると思います敵前大回頭後の砲戦開始以降について、本ブログでもこのあと少し纏めましてから別記事としてお話ししたいと思います。

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関連前記事

「 『銃砲史研究』 第377号」 :

「敵前大回頭と丁字戦法」 :

「続 ・ 敵前大回頭と丁字戦法」 :


posted by 桜と錨 at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2014年01月19日

本家サイトの今週の更新

先程本家サイトの更新をしましたが、今週は久々にサイト本来のメインテーマである旧海軍の砲術についてのコンテンツ追加です。

『砲術講堂』 コーナー中の 『旧海軍の砲術』 で、『射法理論』 に水上射撃における 「全量射法」 と 「自変距射法」 の2つを解説しました。 とは言っても後者はたった数行で終わりなんですが (^_^;


全量射法という仰々しい名称ではありますが、早い話しが、近代射法が誕生するまでの射撃指揮官が弾道計算以外を全て頭の中でやる方法で一斉打方をやったならばこうなる、と思っていただければよろしいでしょう。

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なお旧海軍の水上射撃についての射法理論の解説は、残りの項目を纏めてあと1回で全て終わる予定にしています。

posted by 桜と錨 at 14:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2013年12月31日

「三笠」 の47粍保式軽速射砲 (続)

先の記事で明治38年2月14日に江田内で撮影された 「三笠」 の写真について、ブログ 「軍艦三笠 考証の記録」 の管理人であるHN 「八坂」 氏の発見についてご紹介したところです。


そしてこの47ミリ軽砲について、第三軍に貸し出していた2門については海軍に返却されて呉海軍工廠における2月10日までの 「三笠」 の修理において再搭載されていたことを根拠を示して申し上げました。

しかしながら、八坂氏の当該記事において、最近になって次の様な追記がされました。


引用ここから ↓
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2013年12月27日追記 :
今回取り上げた 『大和ミュージアム・資料データベース 【資料番号】 PG049770 』 の写真について、「写真解析の結果として左舷側の軽速射砲は取り外し中だと主張している人物がいる」 ということをある方からうかがいました。

結論から言いますと、その人物の主張は間違いだと思います。

大和ミュージアムの資料室で閲覧できる画像からは、「桜と錨」 様がブログで掲載してくださった画像よりも詳しい情報はほとんど得られません。 左舷の軽速射砲があると思われる位置の周辺にある影はぼんやりしたもので、人の姿かどうかさえ判別することはできません。 複写サービスで入手した写真 (最大のサイズのもの) を精細にスキャンして拡大してみても結果は同じでした。

その人物がでたらめを言っているのでなければ、証拠だてて具体的な解説をするはずですから、それを期待したいと思います。
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引用ここまで ↑

八坂氏の意見に全くの同感・同意です。 あまりにも唐突すぎて、例え大和ミュージアム所蔵の原画プリントをもってしても、当該写真でそのように見ることは、どのような手段・方法に依ろうとも不可能です。

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そしてそのようなことは、次のことによってもあり得ないと言えます。

1.2月14日の状況

当日は、有栖川宮来訪行事、兵学校全生徒の見学に加え、乗員は半舷上陸により兵学校の見学をしております。 したがって、「三笠」 としてはとてもではありませんが後部艦橋両舷の47ミリ軽砲の撤去作業を行うような状況にはありません。

それに、後部艦橋は連合艦隊司令部が日常的に使用していますので、仮に司令部要員が写っていたとしても何ら不思議ではありません。

もし本当に撤去が必要となる事情があるならば初めからここへ移設しなければよいことですし、また移設後の撤去作業そのものは佐世保回航以降で全く構わないことです。 この江田内でわざわざ急いで実施する必要は何もありません。

しかも、もし仮に同砲砲身を格納するにしても、運搬架台を艦橋ウィング上で使用することはあり得ませんし、格納に際して47ミリ軽砲の砲身を収納袋なるものに入れるようなこともありません。

mikasa_M380214_ss_mod.jpg

そして 120kg もあるような砲身を手摺に立てかけるようなこともあり得ないことで、少しでも船のことを知っている者なら常識の話しです。

ましてや砲の肩当てが砲鞍部についたままではこれが妨げとなって砲身は抜けませんし、駐退機と一体になっている山内式の砲鞍なら砲身のみを外す (抜く) 理由もありません。 外すなら保式退却砲架でも山内砲架でも砲鞍部と一体です。

(1月4日追記) : 某巨大掲示板で、本項での本人が47ミリ軽砲の公式図面を持っていないのに平面図では人が悪い、とのご意見がありましたので、保式退却砲架 (上) と山内砲架 (下) のものの側面図をご紹介します。

47mmL_side_02_s.jpg

47mmL_side_01_s.jpg

2.移設の状況など

ファイティング・トップ廃止に関連して47ミリ重砲の移設に伴い、「三笠」 艦長の上申により47ミリ軽砲は元の場所からこの前後艦橋それぞれの両脇に移設されました。 また、同時に12ポンド (3インチ) 砲以下の露天砲については、これも上申により砲の楯をわざわざ撤去しました。

これによっても、呉工廠での移設工事完了直後の2月14日に後部47ミリ軽砲2門を撤去しなければならないような理由も必要も全くありません。

艦橋ウィングの強度の問題ということも言われていますが、その様なことは移設に当たり工廠において十分検討された上でのことですので、それもあり得ません。

しかも、もし撤去するならば、少なくとも連合艦隊司令長官の正式な指示又は認可が必要ですが、そのような記録は全くありません。

3.射撃の実施

少なくとも記録に残る限りでは、4月10日に連合艦隊の命令による艦砲射撃訓練において、47ミリ重砲8門及び軽砲4門の計12門も規定に基づく各門10発の発射を行っています。

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( 「三笠戦時日誌」 4月10日の当該頁より )

つまり、後部47ミリ軽砲2門も正規通りに装備されていたということです。

もちろん、格納されていた同砲2門をこの時だけ持ち出してきて撃った、などということはあり得ません。 常日頃訓練をしていないのに射撃ができるわけがないからです。 その理由はこの後の鎮海湾における猛烈な訓練を見れば明らかかと。

4.合戦準備

合戦準備において47ミリ軽砲は格納したという意見もあるようですが、そのようなこともあり得ません。 合戦準備においては全ての戦闘用意を調え、そして戦闘に当たっては艦長はその全能発揮を図ることが責務であり、これには装備された全ての砲が該当するからです。

そして、三笠戦時日誌にある艦長訓示の内容を追っていただければ、同砲の格納に関することなど一言も出てこないことがおわかりいただけるでしょう。

5.日本海海戦における実績

日本海海戦において当該砲が1発も発射していないことを、同砲が定位置に装備されていなかったという根拠にしているむきもありますが、全く理由になりません。

砲戦の状況から、47ミリ軽砲の弾道性能と有効射程 (一般的に初速穿入力の50%程度の射距離) を考えるならば、撃っていなくて当たり前だからです。

47mmL_RT_01_s.jpg

6.汎用砲としての使用

47ミリ重砲、軽砲及び12ポンド (3インチ) 砲は、汎用砲として陸戦隊用及び短艇用として使用されます。

特に2〜5月の鎮海湾においては、ちょくちょく陸戦隊上陸操練及び短艇軍装の訓練を行っており、その都度47ミリ重砲及び軽砲が使用されたものと考えられます。 これらについては汎用砲として通常の運用であり、したがって必要の都度艦上砲架からの取り外し、復旧が行われます。

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( 「富士」 艦上での陸戦隊操練風景 )

しかしながら、2月14日前後においては47ミリ軽砲を外す必要のある訓練は無く、それどころか翌15日の江田島出港後には戦闘操練を行っておりますので、全砲完備していなければなりません。

また、5月27日鎮海湾出撃の際に、艦載水雷艇及び小蒸汽を 「台中丸」 に預けておりますが、この時には連絡・交通用としての使用のままであり、短艇軍装をしておりません。 したがって、47ミリ軽砲も全て固有砲架に完備の状態であったといえます。


これを要するに今に残る史料に基づけば、2月14日に後部艦橋両脇の47ミリ軽砲2門を撤去したなどは全く根拠のないことであり、また5月27日の日本海海戦においても常備状態であったと結論できます。

撤去・格納を主張される方には、不明瞭な写真をもって “そのように見える” と言うだけでなく、是非ともキチンとした根拠・証拠を明らかにしていただきたいもので、私も楽しみに待つことにします。

もし仮にそれが事実であるなら、それこそ今まで全く知られていなかった新発見になりますので。

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( 1月18日追記 ) :

暫く様子をみることにしていましたが ・・・・ 結局いまだに何一つ根拠・証拠を明らかにしないどころか、その様に写っているという写真そのものさえ示されないままのようですね。

「自分の持っている写真ではそのように写っている」 「自分の解析技量は確か」

という主張をただただ繰り返すだけで、それ以外は一切無し、とのこと。

これではそのように写っているという事実について誰も確認することも検証することもできませんので、その主張をご自身以外の何人たりとも納得させることは不可能なことでしょう。 しかも数々の史料の記述を無視してでは。

1.何故、解像度が高いという 「大和ミュージアム」 から入手したその写真を、同館の承諾を得て公開しないのでしょうか? 正当な学術的使用目的なら問題なく許可は得られるはずです。


2.何故、その写真に主張するようなことが写っているという、今まで他に誰もしたことのない初めてのことについて、第三者の追認をとらないのでしょうか? 当の 「大和ミュージアム」 に依頼して、専門家による解析と検証を得ることなどもできるはずです。


この簡単なたった2つのことをするだけでも、独自の手法による解析結果とする主張を万人が納得しえる形で証明することが可能です。

何故それをしないのでしょう? それとも何か都合の悪い事情でもあるのでしょうか?

今のままでは、 「自分にはその様に見える」 という、良く言ったとしても “単なる思いつき” を一方的に言い張っているだけに過ぎないとしか映りません。

そして、日本海海戦時に47ミリ軽速射砲が装備されていなかったという主張についても、当の 「三笠」 の戦闘詳報の記述を無視して、その根拠がいまだ単に 「それが写っている写真がない」 と言うのみでは ・・・・

もし仮にどの様な素晴らしい新発見であったとしても、このような方法で終始する限りは、それは決して歴史的事実の “考証” にならないことは皆さんご承知のとおりです。

posted by 桜と錨 at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2013年12月26日

46センチ3連装砲塔について

次の様なご質問をメールにていただきましたが、ご来訪の皆さんにも興味がある方がおられると思いますので、ご本人の了解を得てこちらで。

質問 : 旧海軍の戦艦大和の主砲について、艦長から発射禁止令が出ていた、という事実はあるでしょうか。

事情 : インターネット上の YOU TUBE にて、以下引用の書き込みを見つけました。

(以下引用)
大和の主砲がまともに撃てるようになったのは、何と沖縄自殺攻撃の直前だった。 主砲は故障が多く、また当時の原始的なレーダーの真空管が主砲発射時の爆風と振動で破裂する恐れがあったため、艦長命令で使用禁止だった。 この事実は、二人の旧大和クルーから、私が直接インタビューで伺った。 (略)
(引用此処まで)

戦闘詳報を参照したところサマール沖にて104発の消費が記録されており、戦艦大和の主砲が実際に発射されたことは確認できたのですが、主砲が故障がちであったという話は既刊の書物にもある様なので、レイテで力尽きることを覚悟し損壊承知で発射した可能性もあろうかと考えると、素人の私には、この話の真偽が判りません。

真面目な皆様の集まりに与太話を持ち込む結果となれば恐縮ですが、「二人の旧大和クルーから、私が直接インタビューで伺った」 とあり、嘘だとすれば先人の名誉を貶めるような行為と思います。「自殺攻撃」 なる発言とあわせ、見逃すわけにはいかない様に感じます。

逆に、本当だとすれば、今まで一般には広くは知られていなかった話ではなかろうか、とも思うのです。

要は故障が多発したということと、発砲の衝撃の影響が大きかったという2点ですが ・・・・ 結論から先に申し上げれば、それらを理由に射撃を禁止したなどは私は聞いたことがありませんし、常識的に考えてもあり得ないことと言えるでしょう。

その判断理由は次のとおりです。

1.故障の多発

故障がちであったという件は、どの様な個所がどの様に故障して、どの様に問題だったのでしょうか? 機器の故障というものは初期故障・不具合も含めて多かれ少なかれ発生しておかしくありませんし、ましてや46糎3連装砲塔ともなれば、細かなことまで含めて多種多彩のことがあったであろうことは想像に難くありません。

しかしながら、主砲が使用できないような重大なことについて、しかもそれが艦の運用・戦闘に影響するようなことが、かなりの頻度で発生していたとは聞いたことがありません。

したがって詳細を示すことなしに、単に 「故障が多かった」 というだけでは46センチ主砲に問題があったことには繋がりません。

2.発砲の衝撃

46センチ砲の発砲の衝撃については事前に計算されていることであり、これを踏まえて設計がなされたことは当然です。 もちろんその設計どおりに行かず、場所によっては振動が予想より大きかったことは考えられますが、「大和」「武蔵」の公試の記録にも記載はありませんし、就役後にその振動によって何か重大な影響が出るようであれば、記録され報告されて、対策が採られているはずです。

これに対して、電探に限らず、国産の真空管の性能が不良であったことは逆によく知られていることであり、これを理由として主砲を撃たないようにするなどはあり得ないことです。 それに21、22、31の3種の電探を装備しているのに、です。

3.発砲禁止命令?

「発砲禁止」 などという言い方、あるいは措置は旧海軍にはありません。 発砲はダメだけど動かすのは良いということでしょうか? 全く無意味なことですね。 またもしこれら2つの理由をもって主砲の射撃を禁止するであるならば、単に艦長だけの判断で処置できることではありません。 正規に上級司令部、軍令部、艦本に報告又は上申がなされ、その指示を得なければなりません。 そのような事実があるのでしょうか?

4.乗員の証言

二人の元乗組員の証言があるとのことですが、階級、特技、配置、乗艦日などはどうなんでしょう? またその聞き取りはいつなされたものでしょう? 仮にその二人の証言があったことが事実だとしても、嘘の証言をしたとは思いませんが、しかしながら当人達の聞き違いや思い違いなどは当然考えられることですので、他のキチンとした証拠の裏付けが無い限り、これだけをもってそうだったと判断できるものではありません。

5.射撃の実績

就役前の公試はもちろん、就役後の訓練での実弾射撃、特にレイテ沖海戦前のリンガ泊地などでの訓練でも不具合・不都合の記録・報告などはありませんし、ましてやレイテ沖海戦では水上・対空射撃を何の不具合・問題もなく行っております。

例えばこれを直接目にしていた宇垣纏の 「戦藻録」 でも、46センチ砲が故障多発や発砲の衝撃で使い物にならない、などとは一言もありませんし、砲術学校が纏めたレイテ沖海戦の戦訓史料でも一言もありません。

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したがって、天一号作戦直前になってやっと使い物になった、などと言うことは考えられません。


私は YOU TUBE にあるという当該記事を見たことはありませんが (というより YOU TUBE そのものをほとんど見ませんので)、これを要するに、他に確たる史料などの根拠が出てこない限り、元乗組員の証言というのも含めてこれだけでは事実としての根拠には全くなり得ないと言えますし、逆に史実はそうでなかったことを示していると言えるでしょう。

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2013年10月27日

『公算学、誤差学参考書』

本家サイトの今週の更新として、昭和5年に海軍砲術学校が高等科学生用として作成した 『公算学、誤差学参考書』 を公開しました。

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本史料に纏められた公算学・誤差学は、一般的に「公算射法」 と称せられる (旧海軍自身はそのように言ったことはありませんが) 諸外国海軍に例を見ない、旧海軍の独創的な砲術の基礎をなす理論です。

本家サイトの 『旧海軍の砲術』 コーナーにて順次お話ししている 『射法理論』 のページを読んでいただく時の参考となるものと考え今回公開します。

なお、今回公開するものは昭和5年の増補改訂版ですが、その初版は昭和2年に当時砲術学校教官だった猪口敏平海軍大尉が纏めたものです。

猪口敏平氏といえば、今では 「武蔵」 がレイテ沖海戦においてシブヤン海で沈んだ時の艦長として有名ですが、旧海軍における砲術の大家であり、鉄砲屋の重鎮として知られた人です。

したがってネット上、例えばウィキペディアなどでは “砲術理論の権威” とされていますが、これでは誤りです。

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2013年10月17日

続 ・ 敵前大回頭と丁字戦法

先の相対運動作図を再掲します。

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それでは、この相対運動から東郷ターンの実相を分析・評価するならば、どういうことが言えるのでしょうか?


1.回頭開始のタイミング

映画やドラマなどでよく出て来るシーンで印象付けられるような、回頭開始のタイミングは 「三笠」 と 「スワロフ」 との距離が8千メートルになったからではありません。

回頭が終わった時に丁字戦法の対勢となり、かつ命中率が期待できる砲の最大有効射程6千メートルとなる位置に持ち込むための回頭開始点が、あのタイミングだったのです。

しかも、反航態勢から敵の意表を突いて、あれよあれよという間に、極めて迅速に実施してしまいました。

しかしながら、この運動は今日海上自衛隊の操艦訓練・競技として実施している 「反転入列運動」 と言われるものに極めてよく似た高い操艦技量が要求されます。

今日の様にレーダーなどが使えるわけでも、また予め運動要領を作図したものを手にした若手幹部の補佐があるわけでもない状況において、東郷提督は自分の頭の中で判断し、実にドンピシャリの位置とタイミングでこれを行ったわけです。 私達船乗りからすると、見事としか言いようがありません。


2.被攻撃の危険性

これはもう先の相対運動図を見ていただければ一目瞭然でしょう。 回頭開始時の14時5分から1分間隔で → ・・・・ の順に示したものが、“「スワロフ」 から見た” 「三笠」 以下第一戦隊の戦艦4隻の動きです。

どこに単縦陣での回頭による “動かざる定点” があり、どこに “射撃訓練より容易い” 状況があるのでしょうか。

陸上砲台からの射撃ならともかく、「スワロフ」 自身も動いていることを忘れてはいけません。 そして、その 「スワロフ」 の動きに拘わらず、表示の中心 (座標原点) は常に 「スワロフ」 であることに注意してください。

艦砲射撃の基本中の基本は、「正確な距離」、「正確な見越し」、そして 「正確な照準」 です。

「スワロフ」 から 「三笠」 以下の各艦の動きを見れば、その回頭によって距離は急速に縮まり (変化し)、曲線運動により射撃のための未来位置の計出は不可能であり、かつ照準線に対する方位変化が激しいために正確な照準は困難です。

つまり、この東郷ターンの最中、急速に回頭する 「三笠」 以下の第一戦隊はもちろんのこと、反対にそれを見るバルチック艦隊側からしてもこの3要件の全てが満たされないのであって、したがって第一戦隊側だけではなく、バルチック艦隊の双方ともに有効な射撃の実施は不可能なのです。

したがって、敵前回頭による被攻撃の危険性は全くなかったと結論できます。


3.丁字戦法

上記の被攻撃の危険性と併せて論じられるのが、丁字戦法実現の有無についてです。

これについても、先の相対運動図をご覧いただけば、一目瞭然のことでしょう。

「三笠」 が回頭を終えて新針路に定針して以後、第一戦隊は ……→ で示す方向に単縦陣で進みます。 しかしながら、「スワロフ」 自身も図の上の方向 (実針路ではなく、相対作図のために常に艦首方向が上) に進んでいますので、相対運動の結果として「スワロフ」 からは第一戦隊は単縦陣のまま各艦が ----→ の方向へ横滑りで近づいて来るように “見える” のです。

つまり、第一戦隊は敵前大回頭によって 「スワロフ」 の左斜め前方の位置を占め、そしてその優速をもって 「スワロフ」 の頭を押さえる如く運動していることがお判りいただけるでしょう。

これを丁字戦法の実現と言わずして何と言うのでしょう?

これを要するに、敵前大回頭によって、迅速に有効砲戦距離まで距離を縮め、かつ丁字戦法を見事なまでに実現 しているのです。

この事実が、日本海海戦における連合艦隊の勝因の大きな一つの要因となったことは申し上げるまでもありません。

これを証明するのに、船乗りにとっては当たり前のことである “相対運動による作図” を用いて説明したものは、何故か不思議なことに私の知る限りでは今まで見たことがありません。 今回の会報誌 「銃砲史研究」 での私の記事、及びその補足たるこのブログ記事が初めてのことではないかと思われます。

この証明によって、日本海海戦において 「丁字戦法は実現せず、ダラダラとした並行戦であった」 とか、ましてや 「敵前大回頭は危険な賭けであった」 などと言う人が今後二度と出て来ないように願うところです。
(この項終わり)

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次 : 「続々 ・ 敵前大回頭と丁字戦法」

前 : 「敵前大回頭と丁字戦法」
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敵前大回頭と丁字戦法

先にご紹介しました 「日本銃砲史学会」 の会報誌 『銃砲史研究』 第377号の私の記事ですが、基本は黛氏の昭和44年の記事の再掲載に当たっての解題です。


この黛氏の記事で取り上げられている日本海海戦劈頭における東郷ターンについては、論ずべき点は2つです。 すなわち、一方的な被攻撃の危険性と、もう一つが “何故あのタイミングで” なのかです。

この両者については、今日的には黛氏の記事においても必ずしも十分とは言い難いところがあります。 ただしこれは、黛氏としても執筆当時の様々な制約・限界によって如何ともしがたいところであって、氏の知識・研究不足の故ではないことは申し上げるまでもありません。そのことは会報誌で述べたとおりです。

黛氏は氏の首尾一貫した主張として、日本海海戦劈頭の敵前大回頭、いわゆる東郷ターンについて、当該回頭中は連合艦隊側が射撃不可能であることはもちろん、バルチック艦隊側も有効な射撃は実施できないことを解いておられます。

ただ、被攻撃の危険性はその可能性がないということが、最近では一般の方々にも広く理解され始めているところですが、更なる理論的な具体的説明と、そしてもう一つの問題である “何故あのタイミングなのか” ということがキチンと書かれたものは、残念ながら黛氏の著作も含めて今日までありませんでした。

そこでこれらについて、もう少し判りやすくということと、併せて今日としてはどの様な説明が可能であるのか、ということが今回の私の記事で意図したところでもあります。

しかしながら、記事そのものは 「解題」 であるため、詳しく十分な説明は出来ませんでしたし、また命題である東郷ターン前後のことで、それ以降の経過と分析についても省略せざるを得ませんでした。

これについては、本格的に説明しようとするとかなりな紙幅になりますので、今後改めて纏めたものを書いて見たいと考えています。

で、取り敢えずは当該誌の私の記事の補足を少々。


東郷ターン実施時の状況及び経過について皆さんがよくご存じのものは、この第一会戦の航跡図でしょう。

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( 元図 : 『明治三十七八年海戦史』 より部分 )

これは公刊戦史にもあるもので、日露戦後に日本海軍によって日露双方の航跡を再構成 (リコンストラクション、通称 「リコン」 ) してプロットしたものです。

現在に至るまで多くの研究者、物書きさんなどによってその根拠とされ、これに基づいて様々なことが書かれてきました。

確かにこれだけによる限りでは、船に乗ったことのない人達には、東郷ターンによって反航対勢から同航対勢に変換し、後はダラダラとした並行戦となった、と見えるでしょう。  したがって丁字戦法も実現しなかった、と結論付けることに繋がります。

ところが、よく考えてみて下さい。 これは “地理的” に画かれたものです。 つまり、日露両艦隊がどのように動いたのかを、動かない地表を基準として座標上に後から書いたもの、ということです。 もちろん、これはこれで日本海海戦の全体像を概観する上で重要なものです。

では、当時、日露両艦隊の艦上にいた人々は、このような動きを互いに認識しながら戦っていたのでしょうか?

実は違います。 考えても見て下さい、広い洋上では街中を車で走るように(地理的に固定された)地形地物を背景にしながら船が航行するわけではありません。

対馬海峡と言えども、海戦時に見えるのは相互に動き回る相手の艦艇でしかなく、地理的にどこをどの様に動いているかは見えない (関係がない) のです。 したがって、互いに相手がどのように動いて“見える”か、なのです。

これが “相対運動” という考え方であり、物の見え方なのであって、船乗りにとっては日常的な常識のものです。

先程の航跡図のうち、赤丸で示した部分の東郷ターン前後のみを拡大したものが次の図です。 これも公刊戦史などで示されているものです。

BoSoJ_chart_02_mod_m.jpg
( 元図 : 『明治三十七八年海戦史』 より部分 )

そして、図上のグレー、薄いブルー及び薄い緑色で結んだ線は、それぞれ14時5分の 「三笠」 回頭開始時、同8分 「三笠」 が新しい針路に定針しロシア側が発砲を開始した時、そして同10分 「三笠」 の副砲による試射開始時における、「三笠」 と 「スワロフ」 の位置関係を示したものです。

この地理的に描かれた図の動きが、「スワロフ」 の艦上から “どのように見えていたのか” を、分単位にして作図し直すと次のようになります。  左下は日本側をもう少し大きく拡大したものです。

Mikasa_turn_C_s.jpg

( 図を簡潔にするために第一戦隊は戦艦4隻のみを示し、その後ろに続く 「春日」 と 「日進」 については省略しています。)

これが 「スワロフ」 を座標の基準とする “相対運動” です。

「運動盤」での作図ですから、海自の現役やOBの人達などが見れば、一目でお判りいただけるものでしょう。

これはつまり、「スワロフ」 艦上にいる人達、即ちロジェストウィンスキー提督や、艦長、砲術長、そして何よりも砲の照準を司る射手は、その時その時の 「スワロフ」 の実際の針路や速力がどうであっても、自艦の艦首尾線を基準として相手の艦がどの方向でどのように動いて “見えるか” ということなのです。

このことを抜きにしては、砲戦の実相は語れないと言っても過言ではありません。
(この項続く)

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次 : 「続 ・ 敵前大回頭と丁字戦法」

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2013年10月15日

『銃砲史研究』 第377号

「日本銃砲史学会」 の会誌 『銃砲史研究』 の最新刊である第377号に私の記事を掲載していただきました。

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同学会は今年で創立50周年だそうで、その記念企画の一つとして、同学会が出している会誌に以前掲載されたものの中から一定のものを選び、温故知新として再録されるものです。

その第1回目が昭和44年の第12号に掲載された、旧海軍砲術研究の第一人者である黛治夫氏の次の記事です。

『 日本海海戦における東郷艦隊の敵前大角度方向変換について 』

そしてこれに関連して、同会からこの黛氏の記事の解題を依頼されましたので、これについて纏めたものが私の記事です。 題して

『 (解題) 敵前大回頭に関する黛論文の評価と今日的実相 』

黛氏の研究成果の初期のもので一般に知られている有名なものは、かつて月刊誌 「世界の艦船」 に 『海軍砲術史話』 として連載され、そして後にこれを元に纏め直したものが原書房より出版された 『海軍砲戦史談』 であることはご存じのとおりです。

本会誌に掲載されたものはこれらより前のもので、黛氏の戦後における海軍砲術研究の成果発表の最初のものです。

そして、執筆当時までに世に出されていた回想録や伊藤正徳、水野広徳氏などの著書を引用したり、また対談形式での解説など、一般の人々に判りやすい内容を心掛けていることが特色です。

内容的には黛氏がその後に改めて出されたものから外れるところはありませんが、氏の研究の跡を辿る上では貴重なものと言えます。

もし興味のある方がおられましたら、会誌の入手方法などについては直接 「日本銃砲史学会」 にお尋ね下さい。

「日本銃砲史学会」 公式サイト :


なお、今回の私の記事の内容については、この後に項を改めてお話しすることとします。 ちょっと面白いことを書いてみましたので (^_^)

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2013年09月29日

「三笠」 の47粍保式軽速射砲

「三笠」 の考証では定評のあるHN 「八坂」 氏のブログ 『軍艦三笠 考証の記録』 で、今回は後部艦橋両脇に移設された47粍軽砲についての考察がUPされました。


その中で呉海軍工廠で修理を終えた 「三笠」 が佐世保への回航前に明治38年2月14日江田内に寄港した際の写真を解析し、これの存在を確認されています。

私の手持ちから当該写真をご紹介しますと、これ ↓ です。

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この写真の後部艦橋付近を拡大して、画質を少し調整してみますと、

mikasa_M380214_ss_mod.jpg

間違いなく、右舷の3番砲の砲身と肩当てが写っていることが判別できます。

左舷の4番砲は肩当てらしきものが写っていますが、残念ながら明瞭ではありません。

う〜ん、良く見つけましたねえ。 と言いますか、そもそもこのような写真を拡大してみるの、と驚かされます。 流石です。


折角ですから八坂氏の当該記事とコラボで、ちょっと補足を。

申し上げるまでもないと思いますが、旅順港に立て籠もるロシア太平洋艦隊を殲滅後、来るべきバルチック艦隊との決戦に備えて 「三笠」 は37年12月〜翌年2月に呉海軍工廠で修理を行いました。

この時に、それまでの戦訓により前後部マストにあった戦闘楼 (ファイティング・トップ) が廃止されましたが、ここにあった47粍重砲計8門の内の4門が左右ボートデッキの中央部に元々あった47粍軽砲各2門と換装され、そしてこの47粍軽砲が前後艦橋両脇にそれぞれ移設されたものです。

この47粍軽砲移設後の姿は、前部艦橋両脇のものは既に38年2月に佐世保で撮影されたもので確認されていましたが、後部艦橋両脇のものはこれまで写真での確認がとれていませんでした。

中には、37年9月に47粍軽砲2門を第三軍に貸し出したままで、移設後 (日本海海戦時) も後部艦橋両脇については欠のままではなかったのか、とまで言い出す人も現れる始末で ・・・・ (^_^;

( もっとも、日本海海戦時の47粍軽砲については、「三笠戦闘詳報」 で1、3、4番にそれぞれ損傷を受けたことが記載されていますので、元々言わずもがなですが )

この第三軍に貸し出したものは、旅順戦後に海軍に戻されており、呉海軍工廠において整備の後 「三笠」 に戻されております。

このことは 「極秘明治三十七、八年海戦史」 の中でキチンと記録されています。

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艦艇名   :  三笠
換装砲号 : 11765、11768
換装記事 : 38年1月20日呉海軍工廠より砲鞍と共に交付す。該砲は37年9月3日命に依り第三軍用として重砲隊に供給し同隊にて不用と為り後送の後再本艦に補充す

そして1月1日付けの 「軍艦三笠現状報告」 では、

Mikasa_Status_M3801_s.jpg

砲銃及其付属品 : 第三軍へ貸与したる軽47密砲2門を欠くの外現月内に完備の見込

とされていますが、2月1日付けの同報告では、

Mikasa_Status_M3802_s.jpg

砲銃及其付属品 : 第三軍へ貸与したる上陸砲架2台請求中に付之を除くの外2月10日迄に完成の予定

となっており、この事実が裏付けられています。

ただし、「三笠戦時日誌」 の1月20日の頁にはこのことについての記載はありません。 おそらく戻ってきた砲を単に移設した砲架の上に載せるだけですから、わざわざ記述するほどのことではないと考えられたのでしょう。

Mikasa_WD_M380120.jpg

なお、この野戦砲架も代用品を佐世保海軍工廠に請求し、3月中に受け取っています。

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( 図は正規の47粍砲用野戦砲架 )

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(注) : 写真及び図面を除き、本稿で使用した文書画像は全て防衛研究所図書館所蔵史料からのものです。 これらの史料はアジ歴でも公開されていますので、興味のある方は探してみて下さい。


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「三笠」 の47粍保式軽速射砲(続) :

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2013年06月26日

「丸」 8月号

潮書房の月刊誌 「丸」 の8月号が間もなく書店に並びます。

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今月号は戦艦 「扶桑」 型の特集ですが、私も一つ書かせていただきました。 題して 『 「扶桑」 型の砲戦能力と日本海軍の砲術』

スリガオ海峡夜戦の真実も含め、「扶桑」 「山城」 の砲戦能力について解説しております。 是非ご一読を。

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2013年06月14日

黒色火薬と無煙火薬 (補)

以前、黒色火薬と無煙火薬のお話しをしました。 何故無煙火薬が誕生したのか、ということで、その時は主として燃焼速度と成形の点からでした。

『黒色火薬と無煙火薬』 :

『黒色火薬と無煙火薬 (続) 』 :

そこで、両者のもう一つの大きな違いである燃焼時に発生する煙、即ち発砲煙について、その典型的な写真がありますので、ご紹介します。

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1890年代初頭の英国において6インチ速射砲を使っての試験のものです。 申し上げるまでもなく、上が黒色火薬、下が無煙火薬 (コルダイト) のものです。

速射砲における無煙火薬の必要性については、この写真が全てを物語っていると思います。


バタバタしておりまして手が空きませんので、簡単なもので (^_^;


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2013年05月05日

旧海軍の 「測距射法」 について

本家サイトの今週の更新として、『砲術講堂』 コーナーの 『射法理論』 に変距射法と並び旧海軍の二大射法の一つであった 「測距射法」 について追加公開しました。

測距射法は大変に優れたものですが、砲戦距離の増大に伴って距離測定のための肝心な測距儀の精度がそれに追いつかなくなったために、変距射法の後塵を拝することになってしまいました。

しかしながら、旧海軍でも今次大戦期後半には電探 (レーダー) が導入され、これを利用した 「電探射撃」 においてこの測距射法が再度復活しましたが、残念ながら十分な研究・活用期間がないうちに終戦を迎えてしまいました。

戦後の海上自衛隊では、当然ながらこのレーダー射撃の全盛期となり、射法も当初は旧海軍の流れを汲んだ測距射法を応用しましたが、射撃用レーダー及び射撃指揮装置の発達により、更に一歩進んだ 「連測射法」 へと進化しました。

今回はその旧海軍の 「測距射法」 の初歩について解説しましたが、本来はもっと複雑な話しであり、かつこれを実際の射撃において実践するのは大変に難しく熟練を要するものであることをご理解いただきたいと思います。

なお、「測距射法」 に関連して、複数の測距儀をどの様に同時に利用したのかの例として 「大和」 型に装備された 「九八式射撃盤改一」 の機構を一緒にご紹介しましたのでご覧いただきたいと存じます。

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2013年04月28日

今週の本家サイトの更新

本家サイトの今週の更新として、先程 『砲術講堂』 コーナーにおける旧海軍の 『射法理論』 について、変距射法における本射の要領のうち、残っておりました 「打消修正」 と 「本射要領のまとめ」 を追加公開しました。

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これにて変距射法についてはご説明を終わり、次回からは二大射法のもう一つ 「測距射法」 に移ります。

もちろん変距射法についても、もっと詳くご説明したいことは色々ありますが、そこまではとも思いますので、もし旧海軍の射法について興味をお持ちの方がおられましたら、今まで本家サイトでご説明してきたことを土台にして、専門史料に当たられることをお薦めします。


それにしても、

先日、某巨大掲示板においてこの旧海軍の射法についての議論が行われたようですね。

しかしながら、基本的なことさえ理解されないままで 「議論が噛み合わない」 とか 「推論して」 などという主張をされる方々がおられたようです。

また、常連さんと思われる方からでも、「目標の変針看破及び対処と公算射は別の技術です」 などという発言がありました。

う〜ん、ちょっと残念、と思いますが、逆に言えばそれくらい旧海軍の射法は奥が深いと言えますし、それだけに初心者の方々にとっては難しく、かつなかなか判りにくいものであるということですね。

私自身の経験としても、射撃指揮官として実際に自分で最初の射撃をしてみるまでは、頭の中で理屈を理解はしていても、感覚としては判らなかったというのが本音ですから (^_^;

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2013年01月26日

「扶桑」 の主砲射撃

HN 「北鎮海軍」 さんより、コメント欄にて 「扶桑」 の射撃についてお尋ねいただきましたので、こちらでその回答を兼ねてお話しすることとします。

ご質問の要旨は次のとおりです。

  いつも主砲身の左右仰角が違い、6砲塔ともきれいに同じ角度に撮影
  交互撃ち方専門戦艦? 左右一斉射撃ができない?


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( 「扶桑」 の主砲訓練風景 )

前にもどこかでお話ししたことがあり、また今回の雑誌 『丸』 2月号の拙稿の中でも触れさせていただきましたが、旧海軍においてはこの 「扶桑」 に限らず、全ての戦艦においては 「交互打方」 が基本でした。

これはひとえに砲塔動力の問題から来ており、全門一斉の斉射を行うとその駐退に水圧がとられてしまい、圧力回復に時間がかかることから、次弾の装填が極端に遅くなるからです。

旧海軍では大正期後半にこれについて実証試験を行い、その詳細な記録が今に残されています。

これによると、36糎砲搭載艦では、交互打方の場合の再装填秒時は平均で30秒弱といったところですが、斉射を行うと早い艦でも45秒を越えることになります。

このため、「扶桑」 のように6砲塔、全12門の場合、射撃指揮所において全砲塔 ・ 全砲の整備 (再装填を終わり、次発の発砲準備が完了) を確認して次の斉射を行うためには、斉射間隔は少なくとも約1分程度を要することになります。

したがって、必然的に用兵者としては 「交互打方」 をせざるを得ませんでした。

この問題は既に明治期から指摘されており、特に大正6年に射撃方位盤が装備され、これによる2万メートルを超える遠距離射撃が可能となると、用兵者から改善要望が強く出され続けました。

しかしながら、水圧問題がまがりなりにも何とか解決できたのは実に昭和12年のことで、これに伴って旧海軍ではそれまで実質的に交互打方だった 「一斉打方」 を本来の「交互打方」 に、そしてそれまでの「斉発打方」 を 「一斉打方」 という名称に変更し、砲術のバイブルである 『艦砲射撃教範』 の大改訂を行いました。

とは言っても、「長門」型に至って多少は改善されたものの、結局のところは装填機構そのものも含む技術的な問題もあって、用兵者が満足のいく 「一斉打方」 を実現することは遂にできず、基本的に 「交互打方」 が主用のままでした。

もう一つの問題が弾着観測です。

旧海軍では、長い間 の「交互打方」 によって作り上げられてきた射法によって、射撃指揮官が斉射弾着の1発1発を識別して、繊細な射弾指導を行う方法を採ってきました。

これが可能となるのは精々が6発程度、状況が余程良ければ8発程度、といったところです。 このため、特に 「扶桑」 型や 「伊勢」 型のように、全門12発の弾着を識別することなどはどんな熟練者でも不可能なことです。 (旧海軍の砲術の権威、猪口敏平氏でも6発までと言っています。)

この不確かな弾着観測による射弾指導では、それでなくとも遅い斉射間隔を以てしては早期に有効弾を得て、これを維持することなど不可能なことでした。 ここにも旧海軍において「交互打方」を主用とした理由 (特に平時の訓練射撃において) があります。

これを要するに、用兵者としては実戦に堪える射撃を行うためには 「交互打方」 とせざるを得なかったということで、決して 「扶桑」 型が機構的 ・ 構造的に斉発ができなかったということではありません。

したがって、今に残る戦艦の平時の訓練での射撃中 (単艦) の写真や動画はほぼ全て 「交互打方」 のもののみしかない、ということなります。

もちろん、初弾発砲前や外筒砲射撃のとき、あるいは単なる操砲・照準訓練のときは別であることは申し上げるまでもありませんし、また集中射撃では一斉打方を行うことがありますので、全門が同じ仰角の場合もあります。

Ymashiro_gunfire_drill_s05_01_s.jpg
( 「山城」 の外筒砲訓練風景 )

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2013年01月06日

本家サイトの更新

先程本家サイトで今年最初のコンテンツの更新を行い、『砲術講堂』 コーナーの 『旧海軍の砲術』 で、『射法理論』 の 『水上射撃の射法』 に変距射法での 『本射の要領』 を追加公開 しました。

honsha_02_14.jpg

今回はその内の 「試射から本射への移行要領」 と 「本射中の修正要領」 の2つですが、既に公開している 『試射の要領』 と併せ、旧海軍の代表的な射法の一つである 「変距射法」 (時計射撃) について、そのエッセンスをお届けします。

できるだけ判りやすくと思いましたが、これ以上簡単にすると反って本質が見えなくなってしまいますので、慣れない方にはちょっと難しいかもしれません。

ただ、『海軍砲術史』 や 『艦砲射撃の歴史』 などにも書かれていない内容ですので、旧海軍の砲術を伝えるためにはこの程度のことは残しておかなければなりませんし、旧海軍の砲術を語る上での最低限のものかと思いますので、是非頑張って読んでみて下さい。

どうしても手に負えない方は、この後の続きでご紹介する予定の変距射法のまとめをお待ちいただければよろしいかと (^_^;


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2012年12月07日

『日本陸軍の火砲』 シリーズ全7部完!

 既に2回、佐山二郎氏の手になる 『日本陸軍の火砲』 シリーズをご紹介してきましたが、この度その第7部が刊行されてシリーズが完結を迎えました。

 つきましては、第7部も含めて一つに纏め直し改めてご紹介したいと思います。

 『日本陸軍の火砲』 全7部は次のとおりです。

   『高射砲』 (光人社NF文庫 N660、ISBN 978-4-7698-2660-6)
   『迫撃砲 噴進砲 他』 (光人社NF文庫 N676、ISBN 978-4-7698-2676-7)
   『歩兵砲 対戦車砲 他』 (光人社NF文庫 N697、ISBN 978-4-7698-2697-2)
   『要塞砲』 (光人社NF文庫 N714、ISBN 978-4-7698-2714-6)
   『機関砲 要塞砲続』 (光人社NF文庫 N729、ISBN 978-4-7698-2729-0)
   『野砲 山砲』 (光人社NF文庫 N745、ISBN 978-4-7698-2745-0)
   『野戦重砲 騎砲 他』 (光人社NF文庫 N761、ISBN 978-4-7698-2761-0)


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 今までは旧陸軍の火砲について纏まったものと言えば 『日本の大砲』 (竹内昭/佐山二郎共著、出版共同社、昭和61年) ぐらいしかありませんでした。 しかも当該書は既に絶版となっており、古書では3〜4万円ぐらい (定価9千円) します。

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 ここに来て佐山氏の全7部が立て続けに出版され、しかも文庫本で手軽に手に入りますので、これは非常に喜ばしいところです。

 内容は全て旧陸軍の史料に基づいており、図面や写真も当時の貴重なものがふんだんに掲載されています。 旧陸軍の火砲についてはまさに空前絶後の素晴らしい大作と言えるでしょう。

 この方面に興味のある方でまだお持ちでない方は、是非揃えておかれることをお薦めします。

 佐山氏とはNHKの 「坂の上の雲」 でもご一緒しましたし、某会での飲み友達 (失礼) でもありますが、非常に真摯な人柄の人でもあり、その著作は信頼するに足るものと言えます。 こういう良書が出版されるのは嬉しいですね。

 なお、本ブログでは現在イラスト・シリーズの一つとして 「日本陸軍の砲弾」 を連載中ですが、前回のドイツ軍の砲弾と同じく、火砲そのものについての説明はいたしませんので、この7部作などをご参照下さい。

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2012年11月11日

28糎砲弾

 2週間のお出かけ中に Mixi の方でHN 「呉市民まりもん」 さんから、呉の吉浦八幡神社の境内に飾られている28糎砲弾についてご質問をいただいておりました。


 この砲弾がどの砲のものなのか、そしてその史料的な価値は、ということですが、Mixi のメッセージで回答するにはちょっと長くなりますし、皆さんへのご参考としてもこちらでご紹介します。

 同氏は Wikipedia で紹介されている旧陸軍の 「二十八糎榴弾砲」 の砲弾に良く似ているとのことでした。


 この砲弾、その最大の特徴と言いますか、識別点は弾底部の形状にあります。

 実は上の2つのサイトにある写真では、その両方ともこの部分に本来あるべき導環部がありません。

rotating_Band_02.jpg   rotating_Band_01.jpg
( 両写真とも上記サイト掲載写真より部分 )

 本来は下図のとおりの形状をしたものがついており、この形式を 「エルズウィック式導環」 (Elswick Ring) と言います。

11in_ML_Arms_AP_02.jpg

 この導環形状をご覧いただくとお判りのように、発射の際には施条との勘合部で剥離、断裂などが生じやすく、したがって発射により施条に食い込む方式の後装砲では、この形状が用いられることはありません。

 旧陸軍の 「二十八糎榴弾砲」 は後装砲であり、したがってこの導環形式の砲弾が用いられることはありませんし、そしてこの砲の砲弾形状は残された写真及び図面からもハッキリしています。

28cm_kentetu_01.jpg
( 佐山二郎著 「日本陸軍の火砲 機関砲・要塞砲続」 より )

28cm_kentetu_02.jpg
( 佐山二郎著 「日本陸軍の火砲 機関砲・要塞砲続」 より )

 したがって、Wikipedia の掲載写真は誤りで、少なくともこの二十八糎榴弾砲のものではありません。

 吉浦八幡神社のものは、HN 「呉市民まりもん」 さんからのメッセージに

 この弾のサビ落としたら、「威海衛砲艦」 とか銘が出てきたらしく、

 とありましたが、これで正解で、日清戦争の時に威海衛で捕獲された 「鎮東」 型砲艦6隻が搭載した 「三十五噸前装安砲」 (旧海軍編入後に 「十一尹前装安砲」 と名称変更) 用のものです。

Chintou_01_s.jpg
( 旧海軍編入後の 「鎮東」 )

Chintou_02_s.jpg
( 砲架・砲台の旋回はできないため、左右の照準は艦の向きを変えて行います。)

 旧海軍にはこの砲用の弾丸として 「堅鉄榴弾」 「通常榴弾」 「榴霰弾」 「霰弾」 の4種がありましたが、吉浦八幡神社のものは弾頭信管を使用するものであることから、これらの内の 「榴霰弾」 と判断されます。



11in_ML_Arms_AP_01.jpg
( 堅鉄榴弾 )

11in_ML_Arms_SH_01.jpg
( 榴霰弾 )

 ただし、この 「十一尹前装安砲」 及びその砲弾についてのスペック・データは不詳です。 アームストロング社製であることは知られていますが、その英国側の文献でも出てきません。 安式の11インチ前装25噸砲というのは英海軍にあるのですが ・・・・?

 では、この砲弾の史料的価値は、ということですが。

 「鎮東」 型砲艦そのものが日清戦争を含む実戦に於いて全く活躍したことがなく、かつ旧海軍に砲艦として編入後もほとんど利用価値がありませんで、同型艦6隻は明治36年に雑役船となり、同39年には除籍されています。

 したがって、日本史、あるいは日本海軍史における史料的な価値があるかというと、残念ながらそれ程のものではないと言わざるを得ません。

 ただし、砲熕武器発達史における旋条砲への過渡期である前装旋条砲の砲弾の一種ということでは珍しいものです。 奉納の経緯などは判りませんが折角のものですので、鉄砲屋としては末長く保存して貰いたいですね。

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2012年06月09日

陸軍の砲弾で悩む

 次のイラスト・シリーズは旧陸軍の砲弾を予定していることは既にお知らせしてあるとおりです。

 ここで今ちょっと悩んでおります。 それは口径何ミリのものから始めるか、ということです。

 ご存じのとおり、旧陸軍では 「砲」 とは20ミリ 以上のものでした。 (正しくは13ミリ以上が 「砲」 ですが、実質的に20ミリ未満のものが存在しませんでしたので。)

 一方、旧海軍では明確な定義はされていなかったものの、大正期以降の実際的な区分としては口径40ミリ以上のものを指していました。

( 明治期には最小11ミリまでの「機砲」というものがありましたが、大正期以降は40ミリまでが 「機銃」 として存在しました。)

 それでは、旧海軍に合わせて40ミリ以上にするか、というと問題が出てきます。 37ミリの戦車砲や対戦車砲、高射砲などがあるからです。 これらのものを外すわけにはいかないでしょう。

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( 左から一式 (対戦車砲)、九四式 (対戦車砲)、九四式 (戦車砲)、ラ式 (対戦車
  砲) 用の各37ミリ砲弾薬で、弾丸は全て九四式榴弾、各弾頭には仮栓を装着 )

 では37ミリまでを含めるか、というと今度はこの口径の機関砲が出てきます。

 機関砲を含めるとなると、20ミリ以上と言うことになりますが、やはり機関砲弾を一般的な意味での “砲弾” に含めるには私としてもちょっと抵抗があります。

 そして今後のこととして、旧海軍の砲弾シリーズの時に機銃弾である20ミリから始めるとすると、では7.7ミリや13ミリの機銃弾はどうするのか、ということになってしまいます。

 う〜ん、どうしましょうかねぇ ・・・・ ?  悩んでしまいます (^_^;

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2012年03月29日

黒色火薬と無煙火薬 (続)

 先に某巨大掲示板での黒色火薬と無煙火薬の違いについての質問をご紹介しました。


 結論から申し上げると、質問事項に対する答えは 「No」 です。 無煙火薬との違いは燃焼速度遅延のための大きな形状の薬粒にし易いかどうかではありません。 薬質本来の違いからくる燃焼の仕方そのものが異なるからなのです。

 黒色火薬も無煙火薬も、その製造過程においてまず 「餅塊 (mill cake)」 というものを作り、そこから所要の形状のものにします。

 黒色火薬で 「細粒」 「小粒」 「中粒」 「大粒」 (これは単に薬粒の大小を表すだけではなく、その制式名称でもあります) の場合は、餅塊から圧搾機によって薄板状のものを作り、その上でこれを細かく砕いて所要の大きさの粒 (球形又は立方形) のものにします。 「六稜火薬」 の場合は、餅塊をその型に圧入して作ります。

 したがって、黒色火薬でも無煙火薬と同様にもし必要があるなら任意の形状、サイズのものを (多少の程度の差はあれ) 容易に作ることができます。

 では、何故火砲の装薬として無煙火薬の様に大きなサイズの薬粒が用いられなかったのでしょうか? そして何故無煙火薬に取って代わられたのでしょう?

 その大きな理由の一つが、黒色火薬は薬粒のサイズを大型のものにすると燃焼速度を正確、精密に制御できなくなるからなのです。 ですから、燃焼遅延の目的としての薬粒サイズはせいぜいが六稜火薬程度のもので最大の限度だったのです。

rokuryou_02_s.jpgrokuryou_01_s.jpg

 皆さんご存じのように、薬粒の燃焼は表面から順次内部へと進みます。 このため薬粒のサイズを大きくすると、それだけ燃焼に要する時間がかかることになります。 つまり装薬全体の燃焼完了時間を遅くすることができます。

 したがって、無煙火薬においては、燃焼速度 = f (表面積、温度、圧力) の関数としてその燃焼速度を厳密に制御可能です。 つまり、温度と圧力を同一条件とした場合には、その燃焼速度は薬粒の形状とサイズによる表面積の大小によって管制することができます。

 これによって、大口径、長砲身の砲では単純に大型の薬粒を用いることが可能であり、薬室・薬莢内の装薬充填密度を高め (薬量を増やす)、かつ所要の正確な燃焼速度を得ることができることにもなります。

 これに対して黒色火薬の場合は、粉末 → 細粒 → 小粒 → 中粒 → 大粒と大きくなるにつれて、薬粒と薬粒の間に大きな空間が必要になります。 これは火焔を迅速に装薬全体に回すためです。

 特に六稜火薬の場合には、その形状から薬嚢あるいは薬莢の中の充填密度を高くして多くの薬量を詰めることができます。 したがって、その六角柱の形状の中心に比較的大きな孔 (黒色火薬の場合は1孔又は7孔、褐色火薬の場合は1孔) が絶対必要になります。

 つまり、この孔は無煙火薬の薬粒の様に燃焼表面積を大きくするためというより、火焔がこの中を通って装薬全体に早く伝わるようにするためなのです。

 ここで大きな問題があります。

 皆さんご存じのように、黒色火薬の粒状のものを通常の大気中に並べて点火しても、その点火点からシュルシュル ・・・ と燃えていくに過ぎません。

 また、板状あるいは棒状に圧縮成形したものに点火した場合は粒状の時より更に遅く、僅かに秒速数cm 〜 十数cmでしかありません。 これは混合火薬という性質上からくる 「逐次燃焼」 のためです。

 しなしながら、粒状薬を容器に入れて点火すると瞬時に燃えます。 熱と圧力の作用によるからです。

 また、板状あるいは棒状のものをその断面より僅かに大きな筒の中に入れて点火すると、更に早く瞬間的に燃焼します。 秒速300m 〜 400mの燃焼速度とされています。 これは火焔がその隙間に沿って一気に広がるからで、この現象を 「伝火」 と言います。

 板状あるいは棒状の黒色火薬を装薬として使用した場合、この伝火が適切に起きるか起きないか、そしてどの様に起きるのかは偏に状況・状態次第であり、燃焼速度が秒速数cm〜400mの間のどこになるのかこれを予め計算し、予測することは困難なのです。

 つまり、黒色火薬では形状やサイズを変えて大型の薬粒を作っても、それに比例するごとく燃焼速度を所要の値に正確、厳密に制御することが出来ないということなのです。

 したがって、黒色火薬においては、燃焼速度を遅くする為に薬粒のサイズを多少大きくするのは六稜火薬程度が限度であり、それ以上の緩燃性を追求するためには火薬としての成分そのものを変えるほか方法が無かったのです。

 この後者の方法として取られたのが黒色火薬におけるの熱及びガス発生の主要源である木炭の質を変えることです。

 つまりそれまでの完全な炭化のもの (それ故に黒色火薬と言われる) から、300度C以下の比較的低温で炭化したものを使う事により燃焼速度を遅くすることへと進みます。 その炭の色が褐色であったことから褐色火薬と呼ばれるものがこれで、その代表的なものが英国の 「SBC」 (Slow Burning Cocoa) 火薬です。

 しかしながら、褐色火薬と言えども本来の性質は三味混合という黒色火薬そのものですから、結局のところ燃焼速度が制御可能な薬粒としては六稜火薬程度が限度であることには変わりはなく、したがって黒色火薬よりは遅くできたものの、それ以上の緩燃火薬としては無煙火薬の誕生を待つしかなかったのです。

 簡単にご説明すると以上のとおりです。 繰り返しますが、これは単純に大型の薬粒が作り易いかどうかという問題ではないと言うことです。

 そして無煙火薬の誕生により装薬としての燃焼速度をさらに遅く、しかもそれを正確かつ厳格に制御できることになりました。

 これにより、鋼線砲の発明と併せ、大口径砲の軽量化かつ長砲身化、そしてそれによる砲口威力の増大が可能となり、艦載砲の発展を著しく推し進めることになったのです。

 その状況については、次の記事で概略をご説明しておりますので、そちらも参考にして下さい。


 もちろん黒色火薬と無煙火薬との利害得失はこの燃焼速度の問題だけではないことは申し上げるまでもありません。 含有水分、発生熱量及びガス量、残渣、取扱・保管、等々のことがあり、特に小 〜 中口径速射砲における砲煙のことは燃焼速度制御と並ぶ大きな問題点です。

 それにしても、今日では黒色火薬 (褐色火薬を含む) については産業用火薬として以外、特に艦載砲用の詳細について、これを解説した適当な一般刊行物などがないですよね 〜  『火器弾薬技術ハンドブック』 などでもほとんど書かれていないし ・・・・

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posted by 桜と錨 at 18:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 砲術の話し