2010年03月22日

「距離通報器」 について (2)

 さてこの 「距離号令通報器」 ですが、「三笠」 ではその戦時日誌などを見る限りにおいては日本海海戦までには少なくとも主砲、6吋砲及び12听砲に砲台単位で装備されたと考えられます。

 つまり、この 「砲台」 とは各砲のことではないこと、そして通報器は砲術長から砲台長への伝達手段であるに過ぎないことに注意して下さい。

 しかも、装備位置はそれぞれの砲台長の目の前ではありませんし、また砲台長はそれを見ることにだけ専念できるわけでないことは当然です。 したがって、この通報器の指針が変わる度に専従の伝令員がそれを砲台長に伝えることになります。

 そして、通報器によって指示された距離及び号令に基づいて、砲台長が自己の所掌する各砲に対する指示・命令を出すために、砲台長 → 各砲間に別の通報器が装備されていたわけではありません。

 ですから、「三笠戦時日誌」 に艦長訓示として度々でてくるこの通報器を使用した通信訓練とは、砲術長 → 砲台長間の発信器側、受信器側の伝令員の読み取り・伝達訓練であったわけです。 つまり、戦闘時の喧騒、砲煙、被弾などの中でどれだけこの通報器を使って正確に伝達ができるか、です。

 当然ながら、通信の確達性を確保するために、この通報器のみならず、伝声管、高声電話、黒板、示数盤などが併用されました。 そしてこれらの総てを同時に使用した訓練がなされていたのです。 伝声管などの使用は砲台長 − 各砲間でも同じです。

 皆さんは 「え〜っ、黒板?」 などと思われるかも知れませんが、戦闘の最中にこの手持ち黒板が通信手段として極めて有効であることは、黄海海戦や日本海海戦での戦訓として知られています。

 通報器以外の通信系統については、例えば 「三笠」 では開戦前に次のとおり増設・改装されています。 特に 「交換室」 と呼ばれる、通信中継所を艦内の防禦区画内の前後2か所に新設して、各部との通信連絡を確実に行えるようにしています。

mikasa_commline_01_s.jpg
( 明治36年7月の訓令による 「三笠」 砲戦関係通信装置系統 司令塔〜各砲台間 )

 したがって、

 ただ、実際の砲戦中は、砲の轟音で伝声管からの連絡は不可能である。 このため、バーランドシュトラウト社のトランスミッターが必須であり、日露戦争の日本の主力艦にはすべて装備されていた。 (p67) (p71) 

 最も重要なのは、トランスミッター (Transmitter) である。 すなわち砲術長は目標・苗頭・距離を各砲台に連絡する手段が必要である。 これを伝声管でやることは不可能で、電気的に数字を示す機械が必要だった。 当時これができるメーカーはバーアンドシュトラウト社だけだった。 (p75) (p78) 

 は誤りです。

 「三笠」 の戦闘詳報にあるように、通報器が有効なものであったことは確かですが、その一方では砲戦に限っただけでも砲術長−各砲台長間の指揮・命令・報告には 「通報器」 のみではとても足りるものではありません。 それは前回ご紹介したこの「通報器」の種類とその盤面をご覧いただければ明らかでしょう。

 しかも、戦闘時喧騒、騒音、砲煙などや戦闘被害等の場合を考慮すると、これだけに頼ることは不可能であり、必ず他の手段との併用によらなけければなりません。

 そもそもこの 「通報器」 は一方的に指示命令を流すだけで、受信側がそれを了解したかどうかの応答を発信器側に返す機能がありません。 それをこの著者はどうやったと言うのでしょう?

 したがって、この著者の言う 「伝声管からの連絡は 不可能 」 でもなく、「トランスミッターが 必須 」 だったわけでもありません。

 「伝声管からの連絡は不可能」 ならば、なぜ砲戦系統に伝声管が装備されているのでしょうか?

 もし 「不可能」 ならば、戦闘・砲戦訓練はこの伝声管なしで行われていなければならないはずです。 一体どうやったら通報器だけでその様なことが可能にあるのでしょうか? その様なことになっていたと、例えば 「三笠戦時日誌」 に一行でも書かれているのでしょうか?

 そして、先にも書きましたように、当時この通報器は呉工廠のみならず、工作艦 「関東丸」 でも現地工作で製造しており、「当時これができるメーカーはバーアンドシュトラウト社だけだった」 も誤りです。
(この項続く)

(注) : 本項で引用した史料は、防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。

posted by 桜と錨 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年03月24日

「距離通報器」 について (3)

 そして肝心な問題です。 「号令通報器」 はともかくとして、この 「距離通報器」 によって砲術長から各砲台長へ伝達される 「距離」 とは一体何を意味するのでしょうか?

 つまり、測距儀の測定結果による 「測距離」 なのか、測的の結果によるある時間後の 「未来距離」 なのか、はたまた射撃計算後の 「照尺距離」 なのか、ということです。

 これを言い換えるならば、測的やそれによる未来位置の算出、そしてそれに基づく射撃計算はどこで誰がやるのか? ということになります。

 この問題の詳細については、この後に予定している射撃指揮のところでお話しする予定ですが、結論から言うと、「照尺距離」 で無いことは皆さんにもすぐお判りいただけるでしょう。

 なぜなら、前部司令塔内に装備された距離通報器の発信器は1台です。 もし照尺距離を送るのだとすると、射撃計算結果は砲種によって異なってきますから、「三笠」 の場合ですと最低限、主砲、副砲及び12听砲用の3台の発信器が必要になってきます。

 そして、「照尺距離」 であるとすると当然ながら距離通報器だけでなく、同時に苗頭通報器も3台必要ですが、少なくとも黄海海戦以前には 「三笠」 でさえ1台も装備されていません。

 それはそうでしょう。 砲術長が一人で測的計算も、そしてこの3種の砲の射撃計算をすることは不可能ですし、それを補佐する要員・組織は、当時は砲術長の横にも、司令塔内にも存在しませんでした。 発砲諸元(調定苗頭照尺)の決定責任は、既に 「連装砲の発射砲」 でもご説明したとおり、明治36年改訂の 「海軍艦砲操式」 の規定によって砲台長 (及びその補佐) にあるからです。

 つまり、測距儀による測距離そのままか、あるいは測的結果と伝達に要する費消時間等を加味した未来距離かのどちらかでしかあり得ません。

 これを露天艦橋から伝声管で前部司令塔へ伝え、その上で前部司令塔から各砲台へ伝達し、表示するのが 「距離通報器」 なのです。 ですから、それだけのものと言えばそれだけのもの、なのです。

 したがって、『別宮暖朗本』 の著者が言う

 艦砲で敵艦に狙いをつけるというのは、旋回手 (Trainer) と俯仰手 (Layman) の機械操作でしかなく、いずれもポイントを目盛りのどこにあてるかだけが課題である。
(p63) (p67) 

 だが大口径主砲の砲手は、目盛り操作と弾丸装填のみに集中しており、敵艦をみるチャンスはない。 (p270) (p279) 

 などということには絶対なり得ません。 なり得るわけが無いのです。 その機械操作に必要なデータを送ってくる装置そのものが無いのですから。


 ついでにご説明すると、旧海軍で今日に伝わる近代射法が誕生したのは、「変距率盤」 と 「距離時計」 が採用された明治41年以降のことで、この射法が全海軍に 『艦砲射撃教範』 の規定として正式に示されたのは大正2年のことです。

( これについては、本家HPの 「砲術講堂」 内の 「射法沿革概説」 ↓ でご説明しておりますので、これをご参照ください。)


 これに併せて、その近代射法実施のために必要な通信装置を主とする指揮要具の標準が決まりました。 明治45年に始めて制定された 「戦艦及一等巡洋艦砲火指揮通信装置制式」 がこれです。

 ここで定められた通信器は次のものです。

FireConEquip_01.jpg

 これらの通信器が射撃指揮所 〜 下部発令所間と下部発令所 〜 各砲側間に様々な方法で装備されます。

FireConEquip_03.jpg  FireConEquip_02.jpg

 射撃指揮所も下部発令所も、日露戦争時代にはまだ無かったことに注意して下さい。 そして、各種通信器が下部発令所と各砲台間ではなくて、“各砲側” と結ばれるようになっています。

 これをご覧いただければ、この著者が 「完全な斉射法」 などと訳の判らない言葉で言うところの 「一斉打方」 (後の 「交互打方」 のこと) や 「斉発打方」 (後の 「一斉打方」 のこと) と言ったものが、通信装置一つとってもそう簡単に実現できるものではなく、況や日露戦争当時の装備状況では不可能だったことが明らかでしょう。

 これを要するに、この通信装置の点からしても、黄海海戦や日本海海戦時には旧海軍は射法としての斉射は “やっていない” というより “出来なかった” のです。

 したがって、この通報器のこと一つをとっても、この 『別宮暖朗本』 の著者が得意げに語る、

 砲手を訓練すれば事故を防ぐことはできるが、命中率をあげることはできない。 6インチ砲や主砲を命中させることができるのは砲術長、すなわち安保清種なのである。 安保は部下の砲手を機械の一部として活躍させたことについて、公言することを潔しとしなかった。 (p269) (p279) 

 一方、三笠の12インチ主砲は、2時15分の第3斉射で夾叉 (ストラドル) を与えたものと推定される。
(中略)
  『三笠戦闘詳報』 によると、それ (27日午後2時16分) 以降、12インチ砲および6インチ砲毎発は、ほとんど空弾なく命中したという。 これが斉射法の威力であるが、 (後略)  (p300) (p312) 
 (注) : 青色 ( ) は管理人によるもの

 などの総てが、全くのデタラメであることがお判りいただけたと思います。
(この項終わり)
posted by 桜と錨 at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年04月11日

本家HP 「射撃理論初級編」 完結

 先程本家HPを更新しまして、「射撃理論初級編」 の最後の項目をUPしました。 これにて初級編は一応の完結となりす。

 実際にはまだ砲外弾道の項で一部残っているのですが、数式がやたらと出てきますので、取り敢えずこれは将来公開する予定の上級編との兼ね合いで考えることにします。

 本家HPの 「砲術講堂」 は一つの区切りがつきましたので、次の新しいコンテンツに入りたいと考えています。

 が、何から手を付けたらよいのか。 射撃指揮・射法の話しか、艦砲射撃教範の解説か、砲戦術史か・・・・?
posted by 桜と錨 at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年05月02日

海自苦心の足跡第1巻 『射撃』

 旧海軍及び海自のOBが主体となる (べきはずの) 財団法人 「水交会」 から海上自衛隊の発足当時からの各術科 (専門分野) 別の回想録である 『海上自衛隊苦心の足跡』 の第1巻 『射撃』 が刊行されました。

 私も早速入手しましたので、皆さんにご紹介したいと思います。

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 海上自衛隊も創設以来既に50余年を過ぎ、その創設期からの初期のことを知る人も段々と鬼籍に入られる時期になりました。 このため、射撃や航海、船務などの術科別に当事者達の生の声を今の内に残さなければ、ということから本シリーズの編纂と刊行が立ち上がりました。

 その第1巻がこの 『射撃』 で、創設期から海自における全ての術科をリードしてきたのが射撃術科であることを考えれば、当然の成り行きと言えます。

 本回想録は全600頁で、次の8部と付録で構成されています。 ( ) 内は収録記事数

   第1部 創設期 (伝承) (5)
   第2部 砲及び射撃指揮装置の変遷と苦心 (48)
   第3部 ミサイルの登場と 「あまつかぜ」 (11)
   第4部 「たちかぜ」 を始めとするデジタルシステムへの躍進 (25)
   第5部 弾薬の開発・戦力化の苦心 (6)
   第6部 教育への情熱 (教育機関) (17)
   第7部 訓練支援等の苦心 (3)
   第8部 射撃分野が関係した行動、事案等 (8)
   付録 海上自衛隊射撃関連年表

 8部で合計123編、項目間では著者の重複もありますが、これは仕方のないことでしょう。 内容は創設期から昭和60年頃までが主体で、一部には平成のものも含まれています。

 評価ですが、現在までにこれに類するもの、そして海自の射撃に関するもので刊行されたものは他にありませんので、この方面に興味のある方は入手されて決して損のないものです。

 特に、創設期から昭和40年代までは、海自部内でも名の知れたそうそうたるメンバーが執筆陣に名を連ねており、特に私が師と仰ぐ方々のものは大変貴重なものがあります。 また、その他の執筆者のものでも、これまで一般には公表されたことのない内容・記事が多く含まれています。

 この様なものの編纂・刊行は、お役所たる海上自衛隊そのものに期待することは不可能でもあり、まさに本来あるべき水交会の姿としての面目躍如たるところと言えます。

 さて、ここからが “桜と錨の気ままなブログ” らしい少々辛口な批評です。

 この回想録は大変に素晴らしく、また唯一無二のものであることから、その価値については高く評価することができます。 これは事実です。

 しかしながら、それを踏まえてあえて申し上げると、残念ながら本書もこの種の回想録にありがちな共通する欠点を持っていることもまた事実です。

 第1は、全600頁とは言いながら、盛り込むべき期間と項目も多いことから、執筆者がかなり多数となり、結果として総花的にならざるを得なくなったことと、そのために折角執筆された各原稿も全体のバランスなどからかなり短縮されたものがあると言うことです。

 個人的にはあまり総花的にならずに、もう少し射撃術科の歴史として残すべき重点と執筆者の絞り込みをしても良かったのではないかと思います。

 第2は、これも致し方ないことではありますが、個人の記憶と感覚による部分がかなりあり、また秘密事項に触れそうな所、そして海自・個人にとって都合の悪いことは書かれていないということです。 執筆者各自が苦労をしたことは確かでしょうが、それだけではなかったでしょう、もっと言いたいこと書き残したいことがあるでしょう、と。

 それに、執筆者自身が既に関係資料を処分してしまっていたり、元々から残していなかったりするケースもあり、本回想録を何かの根拠とする場合には、事実関係の再確認が必要となる場合があります。 要するにそれぞれの項目について、この回想録に記載されていることが事実の全てではない、ということです。

 そしてこれに関連して、巻末にある年表はあまりにもラフ過ぎて、あまり参考にはなりません。 折角のものですから、色々な事情があるにせよ、なぜもう少し作り込んだものにならなかったのかと。

 第3は、第2に関連しますが、今日に至っても未だに秘密 (と海自や水交会が考えている) に関する事項・内容が抜けています。 特に創設期〜昭和30年代のことなどは、一般的な感覚からすれば軍事的にはとうの昔に秘密でもなんでもないことがほとんどであるにも関わらず、です。

 第4は、射撃術科とはいいながら、これが関係する海上自衛隊の作戦や兵力整備・運用などについては全くと言っていいほどありませんで、狭い範囲に限定しています。 今のところ海自の、特に水上部隊の、用兵や兵力整備に関する巻が予定されているとは聞いていませんので、こういう重要な事項に関連する部分をどう後世に残すのか、が気になるところです。

 例えば、毎年実施されてきた海上自衛隊演習など、海自がどの様な作戦・戦術様相を考えてきたのか、特に射撃術科については対水上戦や対空戦等についてです。 したがって、射撃やその訓練のやり方などの変遷については、肝心なことはほとんどありません。 各項目の回想を繋ぎ合わせていくと、判る人には少しは判る程度です。

 第5は、今でなければと言いながら、創設期から昭和30年代のことについては決定的に少ないです。 PFや 「あさひ」 「はつひ」、「ありあけ」 「ゆうぐれ」 など今残さなければ永久に判らなくなるものが多数あるはずです。 その意味では、本回想録は遅きに失したのかも知れません。

 第6は、当然のことながら海自全体の射撃術科の流れが判らないため、各回想を読んでも当時のことを知らない人にとっては理解しにくいところが多いということです。 個人の回想は元々全体から見れば断片的ですから、個人の苦労はともかくとして、海自全体としての 「苦労の軌跡」 が見えてきません。 このことが、次の最大の問題点に繋がります。

 さて、その最大の問題点です。 それは、本回想録の “本紙” とも言うべき 「射撃術科史」 はどうなるのか? ということです。

 本来ならこれがなければ海自射撃術科の歴史も何もあったものではありません。 この 「術科史」 と 「回想録」 の2つが揃って始めて後世に伝えるべき海自の射撃についての記録になります。

 本回想録の観点で言うならば、この本紙たる 「術科史」 が無いために折角の個々の回想が理解しがたく、その為に貴重な内容が活かされない、ということです。 これは一般の人はもちろん、現在及び将来の海自隊員にとっても言えることです。

 その肝心な 「射撃術科史」 が何故作られないのか?

 今の防衛省・海上自衛隊を考えるなら、「術科史」 を海自自身で編纂することは不可能なことでしょう。 その余裕も能力もありませんし、何しろ、自分の足跡を自分で消しながら進む、とまでいわれるお役所の一つなのですから。

 それであるならば、当然のこととしてこの 「射撃術科史」 を編纂する責任はそれに携わってきたOB達の組織である (べきはずの) 水交会にあるはずです。

 しかしながら、水交会は現在のところこの回想録シリーズで手が一杯で、当面その予定は無いと聞いています。 では、一体誰が他にやれるのか?

 現実にこの水交会を動かしているのは、かつて金ベタを付けて肩で風を切っていた人達が主流のはずです。 彼らが動かずに誰が動くのか? 誰が後世に伝えるのか?

 組織の歴史を何らかのキチンとした形で残すのは、その組織とそれに携わってきた人の責任であると考えます。 ましてや、国民の税金で成り立ってきた組織が、その組織についての歴史を国民に明らかにしない、残さない、などは許されるものではない、と私なら思うのですが・・・・

 例えば、回想録の形式では出てこない、砲戦教範や艦砲射撃教範などの教範類、射撃に関する組織としての正規の研究組織である 「第1術科研究会」 (通称 「1術研」 )、毎年1年をかけて専門の研究を行う幹部専攻科学生の研究、海自演習を始めとする各種戦や訓練射撃、等々、これらの概要・変遷・経緯などは、一体誰が何時どの様な形で国民に説明し、後世に残すのか?

 旧海軍でさえ後世に伝えるために、秘密文書ではありますが作成してきたのに、です。

 これらの極々大凡のことは、昭和31年度を初版として以後毎年編纂されている 『射撃術科年報』 を纏めることだけでもほぼ可能なはずです。 既に廃止となった古い教範類や研究資料なども保存されているはずです。 海自演習はもちろん、派米訓練やリムパックなどの報告書も残されているはずです。 やる気にさえなれば、かなりのことが出来ると考えるのですが・・・・

 既に軍事的には陳腐化した何十年も前の事について、今更 「秘密事項」 だから、というのは “やりたくない” という言い訳の隠れ蓑にはならないと考えますね。

★   ★   ★   ★   ★   ★   ★

 なお、本回想録を希望される方がおられましたら、水交会に連絡を入れてみてください。 定価2625円(税込)です。 まだ刊行されたばかりですから、十分に入手可能なはずです。

    連作先 : 東京都渋谷区神宮前1−5−3
            財団法人 水交会
            電話 03−3403−1491 (代)
            HP http://suikoukai-jp.com/
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2010年10月08日

砲熕武器の公試について

 コメント欄でHN 「GAIYA」 さんからご質問がありました、旧海軍における徳山沖での砲熕公試の件ですが、間違いなく 「大和」 の46糎砲もここで実施しております。

 これにつきまして、折角の機会ですから少し補足しておきたいと思います。

 艦船建造においては必ず 「公試」 というのを行って、設計どおりに建造されて所要の性能を発揮できるのかを確認をします。 その公試の中で砲熕武器については 「砲熕公試」 という実際に射撃を行う試験を行いますが、当時は 「装備発射 」 と 「方位盤発射」 の2種類は必ず行っています。

 装備発射は、砲が艦艇に正しく装備されかつ正しく発射できるかどうかという砲 (砲台) そのものの試験を行うもので、方位盤発射は射撃指揮装置と砲と組合せによるシステムとして正しく装備され機能するかどうかを試験するものです。

 両方とも砲の作動全てについてチェックしますが、特に発射した弾が狙った位置に正確に落ちるかどうかもキチンと計測しなければなりません。

 このため旧海軍が設定した試験海面の一つが徳山沖です。 下図のように、野島、大津島、大島、笠戸島の4つで囲まれる海面の中に弾着点を設け、この弾着点に対して南南東の方向から射撃して、それを4島に設けられた観測所から計測するわけです。

shajo_tokuyama_s.jpg
( 元画像 : Google Map より )

 「大和」 型の場合この弾着点に対して、主砲は3万メートル、副砲1万8千メートル、高角砲8千メートルを基準として実施するように計画されていました。

 キチンと調べる余裕がありませんので今すぐ出てくるデータで申し上げますと、「大和」 の主砲は昭和16年12月7日に (多分これは方位盤発射)、「武蔵」 の主砲は昭和17年7月26日に装備発射、7月29日に方位盤発射を、それぞれここで実施しています。

 この徳山沖の試験海面は、艦艇が就役した後の射撃訓練で使うことは基本的にはありませんが、射撃精度の確認や射撃に関する研究などを行う場合には使うこともありました。

 なお、亀ヶ首など旧海軍の砲熕武器の開発や試験を行う 「射場」 の話しについては、機会があればまた別にお話しすることにします。
posted by 桜と錨 at 15:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年10月27日

「変距率盤」 と 「距離時計」

 久しぶりに砲術の話しを少し。

 これまで明治期を中心とした日本海軍の艦砲射撃については、主として “砲” とそれに関連するハードウェアについてご説明してきました。

 そしてこれまで、日本海海戦を含め日露戦争期にはまだ旧海軍は 「一斉打方」 を “実施していない (できなかった)” ということもご説明しました。 これについては既に十分ご理解いただけたと思いいます。

 今回は 「変距率盤」 と 「距離時計」 についてです。

range_rate_01_s.jpg   range_clock_01_s.jpg
( 明治41年当時の変距率盤 (左) と距離時計 (右) )

 が、これらの個々のもののお話しについては既に本家の方に纏めてありますので、そちら ↓ をご覧いただくとして、ここでのご説明は省略させていただきます。


 強調したいのは、これらが旧海軍に導入されたのは “日露戦争後” であるということです。 つまり英国から旧海軍にもたらされたのは 「距離時計」 が明治40年、「変距率盤」 が明治41年です。 この事実は旧海軍自身が複数の文書をもって記していますので、間違いの無いところです。

 その一例を示すと次の ↓ とおりです。 これは大正8年に海軍砲術学校が作成したものからです。

range_clock_02_s.jpg

 そして、両者は明治41年の内令第20号をもって兵器に制式採用されています。

 既に述べましたように 「測距儀」 とこの 「変距率盤」 「距離時計」 の3つをもって “近代射法誕生の3種の神器” とします。

 実のところ、「変距率盤」 にしても 「距離時計」 にしても、これらの機能そのものは別に大したものではありません。 しかしながら、これらが射撃指揮の現場にあるかないかによって、極めて大きな違いが生じたことを考えてみてください。

 実際、これらが導入された直後にこれらを使うことによって近代射法の基本中の基本である時計射撃の原型が発明され、これによって明治43年の射法教範の起案 (書き直しを重ねて大正2年に 『艦砲射撃教範』 として制定) をみています。 つまり、射撃指揮法上はこれらの存在によって始めて近代射法の考案・実施が可能になったと言えるのです。

 再度申し上げますが、これは日露戦争中ではありません、日露戦争後のことです。
 
 そして、これらがなければ射法としての 「一斉打方」 など実施出来ません。 何故出来ないかについては、この後ご説明していく 「射法」 や 「射撃指揮法」 のところで詳しくお話しします。

 そこで、例によって 『別宮暖朗本』 について見てみましょう。

 (前略) これらの要素のうち重大なものは、変距率 (彼我の距離の時間による変動割合で、時速・ノットで表示される) で、距離時計 (Range Clock) が必要になる。
 (p72) (p75)

 変距率自体は距離時計 (日露戦争中、愛知時計が国産化した) で求められるが、それをインプットし、予定時間後の苗頭と距離を予想せねばならない。 (p73) (p75) 

 要するに、この著者は 「距離時計」 が如何なるものかさえも、知らない、判らない、調べていない、ことが明らかでしょう。 それを棚に上げた上で 「砲術計算というソフトが死命を制する (p72) (p75) 」 云々、などと判ったようなことを書いている。 要するに根拠もなにも全く基づいていないと言うことが、これ一つをとってもお判りいただけるかと。

 なお付け加えるなら、『海軍砲術史』 (同編纂会編) によれば、距離時計を愛知時計電機株式会社で製造を始めたのは大正4年とされています。 それはそうでしょう、まだ日本に導入されてもいない日露戦争中に作れるわけがありませんから。
(この項終わり)
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2010年11月07日

「内筒砲射撃」 について (前)

 内筒砲射撃については、日本海海戦前の鎮海湾における猛訓練で有名ですので、皆さんよくご存じと思います。

 ところが中にはとんでもない大ウソを書いて堂々と出版している素人さんまでいますので、ここで少しキチンと纏めておきたいと思います。

(注) : 内筒砲の 「筒」 の字は、正式には 「月」 偏に 「唐」 と書きますが、例によって通常のフォントにはありませんので全てこれで代用しています。


 ところで、先に 「照準」 ということを4回にわたってお話ししました。 「艦砲射撃の基本中の基本 − 照準について (1) 〜 (4)」 です。 まだご覧いただいていない方がおられましたら、まず先にこちらをお読みさい。


 要するに、艦砲射撃にとっては如何にこの照準ということが重要であり、これが正しく出来ていなければ如何に射撃計算が正確であっても命中弾は得られないということです。 そしてその照準は 「射手」 によってなされるということです。

 つまり、“ 教育・訓練と経験による熟達であり、 射手個人の才能・技能であり、 精神力の賜 ” であるのが 「照準」 であると申し上げました。

 その照準の第1歩としての極く基礎的なやり方については 「照準発射訓練」 と称する方法により、弾を撃たなくても教えることはできます。

 が、照準を担当するのは砲の引金を引く 「射手」 ですから、やはり実際に弾を撃って照準の善し悪しを訓練していくことが最良であることには変わりはありません。

 しかしながら、艦の日々の業務・訓練において、次の点からも実弾射撃をそう頻繁に実施するわけにはいきません。

  (1) 砲身命数の問題と実弾消費 (特に中大口径砲)
  (2) 実弾射撃のためには射撃海面まで出港する必要がある

 そこで、実弾を撃たずに射手を始めとする射撃関係員を訓練する簡便な方法の一つとして採用されたのがこの内筒砲射撃です。

 下図の例ように、小銃口径の内筒砲 (始めは小銃の銃身を改造して作られたものでした) を砲の中に入れ、砲と内筒砲の砲軸が正しく一致するように据え付けます。

aiming_tube_01_s.jpg

 そして、通常の射撃と同じように砲を操作し、標的を照準して内筒砲を発射することになります。

 そこで疑問に思われる方もおられるかもしれません。 小銃口径の様な射距離の短いものを使っているのに、どうして砲の通常の照準で当てることができるのか? つまり何故その砲の射手の訓練になるのか、普通に小銃を撃って訓練するのとどこが違うのか、と。

 実は話しは簡単なんです。 換算表を作っておけばよいのです。

 例えば、400m先の標的を狙うとするなら、この時の内筒砲に必要な仰角はその射表から求められます。 次ぎに本来の砲の射表からその仰角に応じた射距離を求めれば、それが照準器の縦尺 (距離尺) に調定すべき値になります。

 そしてその値を照準器に調定して通常の砲の操作で400m先の標的を狙えば、内筒砲の小銃口径弾でピッタリと当てることができるわけです。

( 当然ながら、射距離に応じた苗頭の換算表が必要なことは申し上げるまでもありません。 特に移動標的を使う場合などは。)

 したがって、これによって射手は自分の砲を使って、その砲で通常の射撃をするのと同じように訓練が出来ます。

 そして更に、射手の操砲・照準訓練だけではなく、測距、その伝達、(換算)、照準器の調定、照準、発射、というチームとしての一連の訓練も実施できます。

 この内筒砲射撃は、当然ながら簡単なものから実戦に即したものまで順次段階を追って訓練していきます。 これについては次回で。
(続く)
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2010年11月11日

「内筒砲射撃」 について (中)

 内筒砲射撃の訓練方法については、先にご紹介した明治37年12月制定の 『連合艦隊艦砲射撃教範』 で詳細に規定されています。

GF_manual-over_s.jpg

 即ち、次の3段階からなります。

   (1) 各個射撃 : 1標的に各回1門で射撃しその都度採点
   (2) 砲台射撃 : 1標的を砲台毎の数門で同時に射撃し砲台成績として採点
   (3) 戦闘射撃 : 可能な限り実戦に近い形で、一回に艦全体で射撃し採点

 即ち、始めは 「各個射撃」 として文字通り各砲1門毎の訓練を行います。 これはまず最初に根拠地などでの停泊中での 「近距離射撃」 (標準は100m) で、停止した標的に対して静的射撃を行い、正確・確実な照準発射の基本を訓練します。 これは6インチ砲なら約800mの射距離に相当するものです。

target_01_s.jpg
( 『連合艦隊艦砲射撃教範』 で例示された各個射撃用の自作標的 )

 次いで距離を遠くした 「遠距離射撃」 (標準は400m) に移り、まず停止した静的射撃を実施した後、汽艇などによって標的を曳航しての動的射撃を訓練します。 これは6インチ砲で約3400mに相当します。

 この遠距離射撃になりますと、採点は標的に描かれたマークへの命中点によって何点ということではなく、発射弾数に対する標的への命中弾数となります。

 この各個射撃を済ませると次は 「砲台射撃」 です。 つまり1つの標的に対して砲台毎の同砲種数門で一度に射撃を行います。 各個射撃の遠距離射撃と同じ要領で、静的射撃、次いで動的射撃を行います。

 この砲台射撃になると、砲台長の射撃指揮を始め、砲台総員によるチームとしての訓練が実施できます。 また、成績は砲台での全発射弾数に対する全命中弾数として採点されます。

 そして最後が 「戦闘射撃」 で、関係員を戦闘配置に就かせた上で、出来るだけ実戦に近い形で実施し、1標的に対して艦全体で射撃し、全ての砲種を合わせた1艦の総発射弾数に対する総命中弾数で採点します。

 この内筒砲射撃の仕上げは、2隻でそれぞれ標的を曳航しながら、互いに相手の曳く標的を狙って同航射撃や反航射撃を行う対抗射撃訓練です。 標準の射距離は600〜800mです。 6インチ砲で約5000〜7000mの射撃に相当します。

 この対抗射撃訓練の実施要領については、例えば明治37年の9月の 『内筒砲対抗射撃規則』 (聯隊法令第75号) で詳細に規定されています。

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( 元画像 : 防衛研究所図書館史料室の保有保管史料より )

 標的の形状・サイズやそれぞれの射撃訓練での実施要領や採点法などについて、もし興味がある方がおられましたらこれをご覧下さい。

 これらの訓練が一通り終わった後に、実弾射撃訓練を行って艦隊でその成果を競うことになります。 そしてこれ以降は上記の3段階を適宜組合せながら、練度の維持・向上に努めます。

 この内筒砲訓練の実施については、例えば 『三笠戦時日誌』 の明治38年2月以降をご覧いただけばお判りいただけると思いますが、ほとんど毎日、他の予定がなければ午前と午後にわたって実施しております。

naitouhou_3802.jpg   naitouhou_3803.jpg

naitouhou_3804.jpg   naitouhou_3805.jpg
( 元画像 : 防衛研究所図書館史料室の保有保管史料より )

 日本海海戦でバルチック艦隊を迎え撃つまでの間、連合艦隊が如何に猛烈な砲術訓練を実施したのか。 そしてその基本・基礎として如何に内筒砲射撃というものを重視したかをご理解いただけたでしょうか?

 そして、日本海海戦での砲戦における最大の勝因の一つがこの内筒砲射撃による 「照準発射」 の成果であることを。
(続く)
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2010年11月12日

「内筒砲射撃」 について (後)

 さてそれではこの項の最後として、例によって 『別宮暖朗本』 のウソと誤りをみてみましょう。

 前述 (63ページ) のように、近代砲術の世界では大中口径砲手の腕や目や神経は、命中率と関係がない。 いくら砲手を訓練したところで事故を防ぐことはできるが、命中率をあげることはできない。 6インチ砲や主砲を命中させることができるのは、砲術長、すなわち安保清種なのである。 (p269) (p278)

 これが全くの大ウソであることは既に 「照準」 のところで根拠を示してお話ししました。 少しでも砲熕武器や砲術について知っているならば、何を馬鹿なことを、ということですが ・・・・

 12インチ砲であろうと6インチ砲であろうと射手が 「照準」 を行うことに変わりはありません。 したがって、これらの砲でも内筒砲射撃による訓練は必須でした。

 というより、小中口径砲より砲身命数が少ない12インチ砲などは、実弾射撃訓練の機会が少なく、かつ砲の操作が難しいだけに、内筒砲射撃による訓練がより重要になることはお判りいただけるでしょう。

 (前略) これの例外は小口径砲であって、主として水雷艇対策である。 鎮海湾で実弾訓練が行われたのは 「内筒砲」 訓練と呼ばれるもので、小口径砲に小銃をくくりつけ、洋上を走行するマトを狙ってうつものである。 小銃の実効射程距離は500メートル以下にすぎないが、小口径砲の弾道に似ているといえば似ている。 (p269) (p279)

 “水雷艇対策” って一体何時の時代の話しなのか、というツッコミはさておき (要するにそんなことさえこの著者は知らないで書いているのか、ということなんですが ・・・・ )

 しかも 「小口径砲に小銃をくくりつけ」 って、内筒砲は砲内に挿入するものですから “くくりつけ” などと言う表現には絶対になりません。 この著者、もしかしたら内筒砲とは何かを知らずに、これ ↓ のことと勘違いして言っているのでしょうか? 

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( 57ミリ砲砲鞍上部に装着された小銃口径外筒砲 )

 更に 「小口径砲の弾道に似ているといえば似ている」 って、一体何を言いたいのか? 弾道学の基礎ぐらい勉強してからにして欲しいですね。

 それでも砲と小銃の弾道は同一でなく、気休めに近いものだっただろう。 ただ日本の小口径砲はすべて照準望遠鏡が設置されており、使い勝手を知ることはできた。 そして6インチ砲の訓練の中心は弾丸装填の模擬訓練であり、これは一日一回、必ずやり、かつ鎮海湾には、乗員と同数の予備兵も待機しており、その訓練も交代で行われた。 (p269) (p279)

 これを要するに、この著者は内筒砲射撃について全く、知らない、判らない、調べていない、ことが明らかです。 「照準」 ということが全く判っていないので、当然と言えば当然なのですが。

 そして 「日本の小口径砲はすべて照準望遠鏡が設置されており」 って、この著者は照準望遠鏡が装備されている砲種さえ知らない。

 それにしても、「気休めに近いものだったろう」 など、砲術については全くの素人であることを自ら暴露しているに過ぎません。 それでよくもこんな本が出版できるものと。 お恥ずかしい限り、の一言。

 しかも 「乗員と同数の予備兵も待機しており、その訓練も交代で行われた」 など一体何を根拠にしているのやら。 これが大ウソであることは、例えば 『三笠戦時日誌』 を読めば明らかでしょう。

 一体どこにそんな数の兵員が “待機” しており、各艦に乗ってきて交代で訓練したなどと書かれているのでしょうか?

 そもそも、そんな余分な兵員がいるなら、何故各艦から旅順攻略の陸戦重砲隊に兵員を派遣しなければならないのでしょうか? あまりにもいい加減で、話しにもなりません。

 これを要するに、この内筒砲射撃も含めた砲術の訓練についても 『別宮暖朗本』 はウソと誤りしか書かれていない、ということです。
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年11月13日

「内筒砲射撃」 について (補)

 日露戦争期の内筒砲射撃について3回に分けてお話ししましたが、それではその内筒砲射撃はいつ始まって、日露戦争後はどうなったか、について補足しておきたいと思います。

 しかし、実はこれがよく判りません。

 旧海軍において内筒砲射撃というものが何時から始まったかと、旧海軍の文書で出てくるのは、今日残されている限りでは、明治19年に始めて艦砲射撃訓練に関する規則として制定された 『常備艦隊艦砲射撃概則』 が最初のものと考えられます。

 その概則で、次のように記されています。

  「 第21条 教練射撃は1ヶ年に1回其の艦の便宜に従ひて之を施行す 而して内筒 (チュブを言う) の装置あるときは其の射撃をも施行すべし ・・・・ (後略) 」


 これを見る限りでは、明治19年以前の早い時期から内筒砲が採用されていたものと推察されますが、当時は実際に現場でどの程度活用されたのかまでは判りません。

 そしてその後この内筒砲の価値が認識され、少なくとも、日露戦争においては、これを使っての猛訓練が行われたことは先にお話ししたとおりで、ハッキリしています。

 それでは日露戦争後はどうなったのか?

 日露戦争後においても、射手の 「照準訓練」 というものが重視されたことは変わりがありませんが、内筒砲に替わる新たな方策が求められたことも事実です。

 1つに戦艦の主砲のような大口径砲においても、小銃口径の内筒砲を使うのはやはり実戦的ではないということです。 第1次大戦の戦訓として射程距離が伸びてからは特にです。

 2つ目は、艦隊根拠地ならともかく、鎮守府等所在港湾で停泊中に訓練をするにも、狭い湾内で一々標的を海に浮かべ、かつ小銃口径とは言いながら実際に多数の弾を艦外に向かって撃つという不便さがあります。

 その結果として、大口径砲においては外洋で使う 「外筒砲」 に替わり、また停泊中は照準訓練を各砲塔毎に単独で実施できるように 「照準演習機」 が採用されました。

gaitouhou_03_s.jpg    gaitouhou_02_s.jpg
( 36糎砲に装備された短八糎外筒砲とその射撃の様子 )

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( 大口径砲塔への照準演習機装備図 )

dotter_03_s.jpg   dotter_04_s.jpg
( 36糎砲塔への照準演習器の装備状況 )

 これらのものは太平洋戦争まで継続して装備され、使用されましたので、これらの写真などは皆さんよくご覧になられると思います。

 しかしながら、外筒砲や照準演習機がいつから導入されたのかはハッキリとしません。

 照準演習機については、日露戦争前の明治34年には既に下の写真のような 「スコット式照準稽古機」 として知られているものがあります。

dotter_05_s.jpg
( Percy Scott 著 『 Fifty Years in the Royal Navy 』 より )

 しかしがら、大口径砲用もこれと原理的には同じですが、何時から砲塔に直接装備するものが導入されたのかは判りません。

 また、外筒砲については明治40年の 『艦砲射撃規則』 の改訂で

 「 「内筒砲」 とあるを 「内筒砲外筒砲」 に 」

 改めることとされていますので、この時点までには艦隊に導入されたものと考えられます。

( なお、小銃口径内筒砲が入らない小口径砲用に廣木海軍技師考案の 「小銃口径外筒砲」 (前回の写真のもの) が採用されたのは明治39年の内令309号をもって、また昭和期まで大口径砲用として使われることになる 「短三吋外筒砲」 (後に 「短八糎外筒砲」 と改称) の採用は大正5年の内令兵2号です。)

 また、小中口径砲では縮射弾を使用した 「縮射弾射撃」 という訓練方式も採用になりました。 この縮射弾の初期のものには下図のようなものがありますが、大正期以降に使われた各種砲用のものの詳細はよく判りません。

shukushakudan_01_s.jpg

 そこで、では内筒砲はいつ頃まで行われたのか、と言うことですが、これも実態はよく判りません。 上記にご紹介したものが導入されるにつれて順次この内筒砲射撃と交代していったと考えられますが、少なくとも文書上では大正2年改訂の 『艦砲射撃規則』 からはこれについての記載がありません。

 したがって、大体この時期に表向きは取り止められたものと考えられますが、内筒砲そのものを破棄したわけではないようですので、小中口径砲では艦によってはその後も訓練に活用されたのかもしれません。

 大正5年から方位盤射撃装置が逐次各艦に装備され始め、これによって照準は基本的に方位盤照準が主体となりました。 また第1次大戦の戦訓を受けて砲戦距離が一挙に延伸されたことにより低位置の砲塔・砲廓は不利となったため、砲側照準は必然的に副次的・予備的なものとなりました。

 このため、平時の訓練においても、砲側照準の機会も次第に少なくなり、かつ基礎的なものは照準演習機や縮射弾射撃で、そして外洋では実弾射撃の前段階としての外筒砲射撃を活用によって、次第に内筒砲射撃の出番は薄れていきました。

 これも一つの時代の流れですね。
(この項終わり)
posted by 桜と錨 at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年12月01日

「打方」 について (1)

 日露戦争期の砲術について、これまでで外堀 (ハードウェアのお話し) はほぼ埋め尽くしました (^_^)

(砲熕武器と艦艇の発達史については、また別にお話しすることにします。)

 ご来訪の皆さんには、もうこの外堀を埋めた段階で既に 『別宮暖朗本』 が実に如何にいい加減なウソと誤りだらけであるかはご理解いただけたと思います。

 さていよいよこれから少しずつ肝心な本丸攻め (射撃指揮) のお話しに入っていきたいと思います。

 まず最初は 「打方」 についてです。

 ここで言います 「打方」 とは、先に 「連装砲の発射法 (1) 〜 (補)」 でお話ししました各砲塔砲や各砲廓砲などにおけるそれぞれでの発射の仕方、極く簡単に言えば “各砲における引金の引き方” の事ではなく、射撃指揮として個艦の主砲全体、あるいは副砲全体などにおけるものです。

 つまり、 「打方」 とは “発射する砲の管制の仕方” を表す専門用語 です。 (一般的に言うところの 「打ち方」 という言葉ではないことにご注意ください。)

 この 「打方」 には色々な方法、名称のものがありますが、旧海軍において用いられ今日においても通じる基本的なものには、次のものがあります。

       一斉打方
       交互打方
       指名打方
       独立打方
  
 この4種類については、ご説明の必要の無いほど皆さんもよく耳にされていることと思います。

 しかしご注意いただきたいのは、この4種類については 昭和12年の 『艦砲射撃教範』 の全面改訂時に併せて始めて正式に定義 され、それが太平洋戦争まで続き、更には戦後の海上自衛隊にも継承されたもの、と言うことです。

 旧海軍におけるこれらの正式な定義については、本家サイトの 『艦砲射撃用語集』 (↓) 中 の 『射撃指揮』 の欄で呈示しております。


 改めてこの旧海軍の定義と、そして海上自衛隊における定義とをご紹介しますと、次のとおりです。

  「一斉打方」
    (海軍) : 一指揮系統に属する砲 (連装砲) を一斉に発射せしむること
    (海自) : 全砲を一斉に発射すること

  「交互打方」
    (海軍) : 一指揮系統に属する連装砲を、二連装砲に在りては左右交互に、三連
          装砲に在りては右中左交互に又は左右砲中砲を交互に発射せしむるこ
          と
    (海自) : 全砲を二分して各群ごとに交互に発射すること

  「指命打方」
    (海軍) : 一門又は数門の砲 (砲塔) を指定し、毎回若干門宛発射発令時に発射
          せしむること
    (海自) : 特定の砲をその都度指命して発射すること

  「独立打方」
    (海軍) : 一指揮系統に属する砲 (砲塔) を各砲単独に発射せしむること
    (海自) : 各砲独立して発射時期を選定発射すること

 海自の定義はここに抜萃したものが 「全砲」 「各砲」 となっていますが、勿論これが 「一指揮系統に属する」 であることは言わずもがなです。

 重ねて申し上げておきますが、現在に通じるこの4種類の打方が旧海軍において正式に定義されたのは “昭和12年” のことであることを忘れないでください。

 このことを忘れて、明治期の射撃について述べる時に気軽に昭和12年以降の定義でもって 「一斉打方」 などと言ってしまうとおかしな事になります。

 まずこの4種類の基本の打方を頭に置いていただいてから、明治期のお話しに入ることにします。
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 15:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年12月12日

四十五口径四一式三十六糎砲

 本家サイトの今週の更新として、『砲術講堂』 中の 『砲熕武器要目諸元』 にて 「四十五口径四一式三十六糎砲」 及び 「同砲用装薬」 の詳細データを公開しました。

http://navgunschl.sakura.ne.jp/koudou/ijn/buki/gun/gun_data/36cm_45cal.html
http://navgunschl.sakura.ne.jp/koudou/ijn/buki/ammo/powder/36cm_45cal_powder.html

 これは既に公開している 「四十五口径三年式四十糎砲」 及び同砲用装薬に続く第2弾です。

 これらは、今に残れる旧海軍史料に基づく公式データで、恐らく本邦初公開と自負しております。

 もちろん、ここまで詳細なものを必要とする方は少ないとは思いますが、その反面、今これを公開して残しておかないと永久に失われるかも知れないとの考えからです。

 公表したデータについては、その数値の意味などは全部お判りにならなくても、ざっと眺めていくだけで、色々面白いことに気付かれるでしょう。

 例えば、三十六糎砲用装薬で 「常装」 「弱装」 「減装」 の3種類について、薬嚢数はそれぞれ 「4」 「3」 「2」 ですが、これらは単純に同じ薬嚢の数の差ではなく、3種類用の別々の薬嚢である、ということです。

 また、砲身型別、弾種、火薬種が異なると薬量が全て異なります。 つまり砲身型別と弾種に応じて様々な装薬が存在しますので、各艦においては、訓練であろうと実戦であろうと、各火薬庫においてこれらの厳格な管理と適切な使用が求められることになります。

 即ち1回の射撃の間、全斉射の全砲において同じ装薬で、かつ同じロットである必要があります。 「扶桑」や「伊勢」の常装射撃なら、6砲塔x2門x4x発射回数の装薬が全て同じ装薬種で同じロットでなければならず、他の装薬との混用はできません。

 そうでないと、折角いくら厳密な射撃計算をしようと、正しい射撃指揮を実施しようと、全く当たらないことになります。

 ただ単に砲弾と装薬を搭載さえすれば、という様な単純な話しではないと言うことをご理解いただければ、それだけでも本データを公開した意味があります。

 なお、今後とも機会をみて弾丸及び他の砲種の詳細データについても、順次公開していきたいと思っています。

 ただ、なにしろ細かい数値の羅列なものですから、一つ作るだけでも目が疲れてしまいますので ・・・・ (^_^;
posted by 桜と錨 at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年12月13日

「打方」 について (2)

明治期の射撃指揮のことに入りますが、まず最初に肝心な用語の話しを一つしておかなければなりません。

 それは他でもありません 斉射 (Salvo) という言葉です。 実は旧海軍においては、この 「斉射」 と言う言葉は、特定の 「打方」 として定義されたものでもなければ、具体的な砲塔・砲の 「発射」 の方法を意味するものでもありません。 つまり専門用語ではなくて 一般用語 に過ぎないのです。

 例えば、英語の辞書を引くなり、ネットで検索するなりしてみてください。 大体次のような解説が出てくるでしょう。

 “A salvo is the simultaneous discharge of artillery or firearms including the firing of guns either to hit a target or to perform a salute.”

 “The term is commonly used to describe the firing of broadsides by warships, especially battleships.”

 そう、これが 「斉射」 (Salvo) の意味です。 専門用語でもなければ、特定の 「打方」 を示したものでも、何でもありません。

 つまり、前回お話しした 「一斉打方」 であろうと 「交互打方」 であろうと、あるいは 「指命打方」 であろうと、発砲の管制の仕方はともかく “2門以上の複数砲を同時又はほとんど同時に発射” するならば 、その各回の発射のことを 「斉射」 と言います。

 したがって旧海軍においては、この用語についての正式な定義はありません。 別に定義しなくても、普通に上記の意味で使いますので、分かり切ったことだからです。 それにその「斉射」という言葉だけでは “どの砲を、何時、どの様に” 発射するのかの具体的な中身は何も無いからです。

 当然のことながら、『別宮暖朗本』 の著者が得意気に言う 斉射法完全な斉射法 等という言葉などありません。 この著者の全くの造語 です。 それも意味不明な。

 あるいは、かつて月刊誌 『軍事研究』 上で、かの遠藤昭氏が皆さんよくご存じプロの技術者である多田智彦氏に向かっての、

 雑と読んでみると 「一斉撃ち方」 を示す専門用語の 「SALVO」 が一度も出てこないし、その上、著者 (多田氏のこと) は 「一斉撃ち方」 と 「一舷撃ち方」 の区別も理解していないようなのでこのような素人さんの書いたものに反論しても大人気ないと考えた。
( 『軍事研究』 2006年1月号190頁 より引用 )

 などは全くの笑止以外の何ものでもありません。

 もちろん、旧海軍は 一斉打方 (昭和12年以前は 「斉発打方」 ) という用語に英語で 「Salvo」 という単語を当てはめたことは全くありません。 旧海軍は英海軍に習って Simultaneous Firing です。

 「斉射」 (Salvo) が何かの特定な打ち方を意味する “専門用語” であるとするならば、それがどの様な打ち方なのかをそれぞれの海軍で具体的にキチンと定義していなければなりません。

 明治の日露戦争期に、どこの海軍の何という文書でそれが定義してあるのでしょうか? 『別宮暖朗本』 の著者がそれを専門用語だと言うならば、その根拠を明示する必要があります。


 ところで、海上自衛隊では昭和33年に始めて 『艦砲射撃教範』 を定めた時に、この 「斉射」 という用語を次のように定義しました。

 同一目標に対して同一砲種によって同時に (またはほとんど同時に) 発射することを言う。     

 何故、海上自衛隊が旧海軍でも定義していなかった 「斉射」 という用語を戦後になって改めて定義したのでしょうか?

 理由は簡単です。 その範とした米海軍が 「Salvo」 という言葉を “専門用語として定義” していたからです。

 即ち、米海軍では現代でもその公式用語集において次のように定義しています。

salvo_usn_s.jpg

 ただし、米海軍がこの 「Salvo」 という用語を定義したのは、それ程古い話ではありません。 おそらく1930年代、古くても1920年代末頃からと考えられます。

 “考えられます” というのは、それより古い時代の米海軍の文書には出てこないからです。 少なくとも1927年の訓練マニュアルでは、上記の一般的な意味での 「Salvo」 として出てくる以外には、キチンとした定義はありません。

 念のために再度申し上げますが、これは米海軍と、それに倣った戦後の海自がそれぞれで “その様に公式に定義した” ということです。

 『別宮暖朗本』 の著者は、おそらく最近になって一般に出回っているこの戦後の米海軍図書にあった記述をどこかで見て、古今東西の海軍の専門用語として存在したと “勝手に想像” したのではと思いますが ・・・・ ?
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 14:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年12月15日

「打方」 について (3)

 旧海軍において 「打方」 というものがキチンと整理されたのは明治30年代に入ってからのことです。

 明治35年における 「打方」 には、次の4種類が定義されていました。

      逐次射撃 (Fire in Succession)
      独立射撃 (Fire at Will, or Independent Firing)
      一斉射撃 (Simultaneous Firing)
      一舷射撃 (Broadside Firing)

 この時期にはまだ 「〇〇打方」 と 「〇〇射撃」 という両方の言い方が使われています。 例えば明治32年の砲術教科書では 「〇〇打方」 です。 これは後の時代のように 「射法」 というものが確立していなかったことによります。

 「逐次射撃」 とは、指示された砲、例えば一舷の砲全部が指示された目標に対して逐次順番に発射していく方法です。 通常は先に撃つ砲の砲煙が邪魔にならないように風下のものから発射します。

 この逐次射撃では、順次発砲していく間隔は 「並射撃」 においては約10秒、「急射撃」 においては約5秒が標準とされていました。

 「独立射撃」 とは、その名のとおり各砲が他の砲の発射を考慮することなく、その砲の射手が各自の最も良いと判断する瞬間、間隔で発砲する方法です。

 この独立射撃では、「並射撃」 が令されている時は射手が疲労を感じない程度で努めて射撃を継続できる発射間隔で、また 「急射撃」 の時は “命中を害しない程度において極度に発射を連続して行う” ものとされていました。

 「一斉射撃」 とは、当時は砲塔砲にのみ用いられるもので、連装砲にあっては左右砲同時に発射する方法です。 これはこの後になって 「斉発」 という用語が使われることになったことは先にお話ししたとおりです。

 そして、この一斉射撃は、 「連装砲塔の発射法」 でお話ししましたように、特別のことが無い限り安易に行う方法では無いことが規定されていました。 その理由として、特に砲塔動力としての水圧の問題で、これを行うと極端に装填・発射間隔が遅くなることが指摘されています。 それでなくても、12インチ砲塔の装填秒時が最少でも2分と言われていた時代ですから。

 「一舷射撃」 とは、旧海軍の定義では次のとおりとされています。

 基砲を選定し之に準じて一舷の各砲に所要の射距離と旋回度を付与し之を同時に発射して敵艦に集弾するの方法にして、即ち 一舷側各砲の一斉射撃なりとす

 例えば、次のようにします。

broadside_01_s.jpg   broadside_02_s.jpg

 そしてこの明治35年の段階では、この 「一舷射撃」 については次のように記されています。

 此射法は艦速砲火の威力共に大ならざる十数年以前に行われしも方今之を行うことなし

 日清戦争における黄海海戦の戦訓を待つまでもなく、各砲の射手による砲側照準の時代ですから、速射砲の長所を活かし短時間に最大の命中弾を得るためには、独立打方にならざるを得なかったことは当然の成り行きでしょう。

 では、以上の4種類の 「打方」 が旧海軍独自のものであったのか、というとそうではありません。 1880年 (明治13年) に英海軍が出した砲術書 『Manual of Gunnery for Her Majesty's Fleet』 においても、これらについて詳述されています。

RN_gunnery_1880_01_s.jpg

 つまりこの時代、旧海軍は造船・造砲などの技術だけではなく、砲術についても英国に範をとり、それに倣っていたことが判ります。
(この項続く)
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2010年12月16日

「打方」 について (4)

 それでは、例によって 『別宮暖朗本』 の記述を見てみましょう。

 斉射 (Salvo Firing) は、複数の砲台・砲塔が同一目標に向けて、同じタイミングで射撃することである。 詳細は後述するが、船体動揺 (ローリング、ピッチング) の影響を受けないように、直立のタイミングを教えるだけ (目標を指定しない) の舷側射撃 (Broadside Firing) とは異なる。 司馬遼太郎は両者を混同している。
(p29) (p370) 

 斉射 (Salvo Firing) と舷側射撃 (Broadside Firing) は異なる。 舷側射撃とは船体動揺を計算に入れたうえ、片舷側の砲を一斉に発射する方法で、18世紀からあった。 (p62) (p66) 

  「一舷射撃」 という用語さえ知らないのか、という突っ込みはともかく ・・・・ 前回お話ししましたように、「一舷射撃」 (Broadside Firing) はこの著者が言うものとは全く違うことはお判りでしょう。

 一舷射撃という 「打方」 も、発砲の “状態” においては 「斉射」 であることさえこの著者には理解できていないわけで。

 ましてや 「目標を指定しない」 など、何を寝ぼけたことを、です。 海戦において “目標を照準しない” 「打方」 など、あるわけがありません。 敵艦に礼砲でも撃つつもりなのでしょうか、この著者は?

 司馬遼太郎氏が混同しているのではなく、この著者が “知らない” “判らない” “調べていない” だけのことです。 全く以てお粗末の一言。

( 皆さんご存じのとおり、司馬遼太郎氏は 「坂の上の雲」 の執筆にあたり、自ら当時の可能な限りの史料・資料に当たるとともに、元海軍大佐の正木生虎氏 (海兵51期) などに教えを請い、海軍というものの実際を細部まで理解する努力をキチンとしています。 それが学術書ではなく、歴史小説であっても、です。

 それに引き替え、この 『別宮暖朗本』 の著者は、元々が艦砲射撃どころか、海軍や艦艇について何等の素養も無いことに加えて、司馬氏が利用することのできなかった豊富な旧海軍の原典史料さえオープンになっている現状にも関わらず、まともに調べる努力もせずに、既に本ブログで明らかにしてきたような机上の空想と妄想を “これが史実だ、真実だ” と得意気になって滔々と述べた上で、司馬氏や旧海軍軍人達に対して全く根拠の無い暴言を吐いています。 それも “出版物” という活字にして。)


  しかも、「直立のタイミングを教えるだけ」 って、如何にこの著者が艦砲射撃どころか “船” というものさえ全く知らないことがこの一言で明らかです。

 小学生でも判ることですが、横動揺 (ローリング) によってこの著者のいう直立、即ち艦が水平になる瞬間というのは、船体の動きが最も激しい時、つまり角速度が最大の時です。 (もちろん、動揺というのは常にサイン・カーブを描くような単純・一律のものでないことは言うまでもありませんが。)

 その様な時に満足な照準発射が出来るわけがありません。 それが出来るのは船体の動きが止まる瞬間であって、つまり動揺周期の両端、即ち甲板の傾きが上がりきった時、またはその反対の下がりきった時です。

 だからこそ、明治37年12月の 『連合艦隊艦砲射撃教範』 においても、

 目標其移動の終点に近づき移動速度の著しく減じたる時期に発射する如く照準するを要す 通例目標上動して其極度に達し将に下向せんとする時を最も好時期とす

 としているのは、当たり前のことなのです。

 しかも、自分に知識があることを示したいのか、改訂版でわざわざ文章に手を入れて書き直し、

 船体動揺 (横揺れ (ローリング) と縦揺れ (ピッチング) の二通りがある) を計算に入れた上で (p66)   
太字 表示は管理人による)

 としていますが、ローリングとピッチングの揺れ方の違いを理解していないことも自ら暴露しています。 この著者、客船であれフェリーであれ、船にまともに乗ったことさえ無いことは明らかです。 まさに 蛇足 という言葉のこれ程典型的な例はないでしょう。

 通常、戦艦などの巨艦のローリング周期は16秒前後であり、船体が海面に直立するチャンスは8秒に1回生じるわけである。 戦艦に電気機器が導入されていなかった頃は、砲術長がドラをたたいて、引金を引く砲手に発射タイミングを教えた。
(p62) (p67) 

 動揺周期の話しはさておくとして ・・・・ 「ドラをたたいて」 って、一体何時の時代のどこの海軍のことを言っているのでしょう? 帆船時代であっても 「ドラ」 などで発砲管制をした海軍はありません。

 楽器の中に音程差をつけたドラ (銅鑼) がありますが、これの名称を 「Gong」 といいます。 まさかこの著者、これで 「電鈴」 (ゴング) のことと 「銅鑼」 (ドラ) のことを勘違いしているのではないでしょうね。 いや、この著者のことですから案外そうかも知れません。

(電鈴の 「鈴」 は、正しくは 「金」 偏に 「侖」 の字ですが、常用フォントにありませんので代用しています。)

 皆さんは 「ブザー (buzzer)」 と 「ゴング (gong)」 の違いはお判りになりますよね? 日清戦争当時も、そして日露戦争期もまだブザーではなくゴングしかありませんでした。

fire_gong_01_s.jpg
( ヴィッカース社による 「筑波」 の射撃指揮要具の仕様書から )

 ですから、この著者が言う

 発射のタイミングについていえば、帝国海軍の艦艇には砲手のそばにはブザーがあり、二回ブッブーと鳴ると「準備」、ブーと鳴ると「撃て!」を意味した。 (p66) (p70) 

 は近代射法が確立した大正期以降の話しです。 しかも、そのブザーの信号法は、

buzzer_signal_01_s.jpg

 です。 たったこんな事さえ調べていないのかと。

 「打方」 についての 『別宮暖朗本』 のウソと誤りは、とても1回では終わりません。 続きます。
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 13:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年12月18日

「打方」 について (5)

 『別宮暖朗本』 のウソと誤りの続きです。

 舷側射撃も近距離となれば、照準にあったところで発射すればよいのだから、19世紀後半になると、むしろ古くさい方法とされた。 (p62) (p67) 

 「照準にあったところで」 と言っていますが、では “誰が” “何処で” “どの様” に照準するのでしょうか? 先に引用したとおり、自分で 「直立のタイミングを教えるだけ (目標を指定しない)」 (p29) (p370) と言っているのに、です。

 何ら正しい根拠に基づかずにその時その時で好き勝手に書いているので、自己の矛盾に何も気付いていないことがよく判ります。

 しかも、「一舷打方」 が用いられなくなったのは、前回もお話ししましたように 「速射砲」 の導入によって、その発射速度発揮のために 「独立打方」 が主用されるようになったからです。 近距離云々、など何の関係ありません。

 まさかこの著者、19世紀前半以前は遠距離射撃であった、などというのではないでしょうね・・・・? “とされた” などと言い切っているにも関わらず、何を言いたいのか全く判らない文章です。

 斉射とはグループ (左舷6インチ、12インチ主砲などに区分して) ごとの全砲門を、同一のタイミングで、同一の目標に対し、射撃することである。 (p62) (p67) 

 斉射法の特徴とは、サルボ (4門以上の砲を同一タイミングで同一目標に射撃すること) を試射から実行し、距離測定や敵艦速度・方向測定を、その弾着観測とともに、より正確にしていくところにある。 (p69) (p73) 

 「斉射」 が “グループごとの全砲門” でもなく、“4門以上の砲” でもないことは既にお話ししたとおりです。

 そしてこの著者には 「斉射」 という言葉と、「打方」 や 「射法」 という用語との違いが全く判っていないことも明らかです。

 「斉射」 とは単に砲の発射の “状態” のことを言うのであって、発射の管制の仕方を定義した 「打方」 でもなければ、射弾修正の方法などの 「射法」 のことでもありません。

 もちろん 「斉射法」 などという用語もなければ、その様な射法もありません。

 日清戦争のときの射撃法は 「独立打ち方」 (Independent Firing) と呼ばれた。 旋回手や俯仰手が指定された目標に対し、自分の砲弾が命中した、またははずしたのかを確かめ、次弾の狙いをつけた。 距離が3000メートル以内のため、砲手は自分の発射した弾丸を自分の目で追うことができた。 (p64) (p68) 

 先にお話ししたとおり、日清戦争当時には 「独立打方」 しかなかったわけではありませんし、また 「独立打方」 が日清戦争当時でしか用いられなかったわけではありません。

 当たり前のことですが、「独立打方」 を 「Independent Firing」 と呼んだかどうかはともかくとして、そのやり方は大砲が帆船に装備された時代からあり、日露戦争期にも、第2次大戦期にもあり、そしてもちろん現在でもあります。

 発射した弾が見えるのか見えないのか、ですが、少なくとも5インチ砲以上なら、条件が良ければ後方から “瞬間的に” 見えるチャンスはあります。 特に真後ろ付近から双眼鏡で見ていれば。 これは私自身が自分の目で確認していますので、間違いありません。

 ただし、この明治期において、まだ黒色火薬が主流だった日清戦争当時、自砲発砲の砲煙と衝撃とで、射距離3000以内、即ち飛行秒時6〜7秒以内では、射手 が飛行中の自砲の弾を “目で追う” ことなど絶対にできません。

 しかも、照準を続けている 射手の目の焦点は、そこにはありません。 それに発射した弾の弾道は照準線上にはありません。 そんなことは初歩の初歩です。 まさに 「講釈師、見てきたような ・・・・」 ですね。

 まだ大物が残っています (^_^;
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年12月19日

「打方」 について (6)

 『別宮暖朗本』 のウソと誤りの更に続きです。

 次の記述は日清戦争についてのところでこの著者が引用しているもので、黄海海戦時に観戦武官として清国海軍の 「鎮遠」 に乗艦していた米海軍少佐マクギフィン (実際はどうもお傭い艦長だったようで、艦長楊用林に代わり同艦を指揮していたと自分で言っています) が雑誌 『Century』 に投稿した記事からの抜萃です。

 日本のある艦は、統一指揮による舷側射撃 (Broadside Firing by Director) を実行した。 これは、舷側の全門を同一の目標に対し、一つのキーを押すことにより同時に発射することである。 (p53) (p54) 

 この 『別宮暖朗本』 の著者は、原文の 「Broadside Firing by Director」 を 「統一指揮による舷側射撃」 と訳していますが、これってどういう意味でしょう?

 自分で 「砲術長がドラをたたいて、引金を引く砲手に発射タイミングを教えた。」 (p62) (p67) 、そして 「直立のタイミングを教えるだけ (目標を指定しない) 」 (p29) (p370) であるのが 「舷側射撃」 だと言っているのに?

 そしてこの 「一つのキー」 とは何のことでしょう?

 こういう他の記述と矛盾すること、自分には理解も説明もできないこと、などは全て華麗にスルーで、さも判っているかのように滔々と書いていますね。

 当該マクギフィンの記事はチャンと旧海軍自身が翻訳して公刊戦史である 『二十七八年海戦史』 に収録されています。 この著者はこんな基本的な史料さえ確認もしていなければ、読んでもいないのでしょうか?

 当該事項については旧海軍にとって自分自身のことですから、当然ながら正しい用語でキチンと訳しています。 次のとおりです。

 又敵の一艦は一時 「方位盤一舷打方」 を行えり。  是れ目的物に向かって一舷側の全砲を照準し、一条の電路をして各砲台を連絡し、咄嗟電鈴 (正しくは 「金」 偏に 「侖」 の字) を押して幾多の砲弾を一斉に放つの法なり。
 (海軍軍令部編 『二十七八年海戦史』 別巻 p580−581)

 そうです、「Broadside Firing by Director 」 というのは 「方位盤 一舷打方」 と言います。

 皆さんはこの 「方位盤一舷打方」 というのはお判りになるでしょうか?

 「一舷打方」 には 「基準砲一舷打方」 と 「方位盤一舷打方」 の2種類があります。 正しくは、後者は前者の変形 (改良) 方式と言った方が良いかもしれません。

 前者は先に定義したいわゆる 「一舷打方」 のことで、基準砲 (基砲) で目標を照準するのに対して、後者は “当時の” 方位盤 (Director) を使い、これで照準を行うものですが、どちらにしても基本的な射撃のやり方は同じです。

 一舷打方に方位盤を使用することは、明治19年に旧海軍が艦砲射撃訓練について定めた最初のものである 『常備艦隊艦砲射撃概則』 中の 「戦闘射撃」 の項でも、次のように規定されています。

第16条 発射法は一般に独立打方を行うべし 但し一舷打方を行う艦に在りては各舷より一回該打方を行うべし 而して 方位盤 及び電気発砲機 (電鈴のこと) を備えたる艦に於いては必ずこれを用うべし

 では、この当時の方位盤とはどの様なものだったのでしょうか。 残念ながら、その外観を示す図や写真などはありません。 しかし、これについては明治23年の砲術教科書の中で

 方位盤は全体金属を以て造り其の重なる部を弧盤、望遠鏡及び其の台とす 弧盤は三脚を有する半円形の框盤 (フレーム) にして ・・・・ (後略)

 としてその構造と操作法、これを用いた射撃法について詳細に記しています。 この方位盤については、先にご紹介した1880年の英海軍砲術書 『Manual of Gunnery for Her Majesty's Fleet』 の中でも説明されています。 (というより、どうも明治23年の砲術教科書のこの部分はこの英海軍のものをネタ本にしているようです。)

broadside_die_01_s.jpg

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 これらによってどのようなものであるのかは充分想像はつきますし、当時の砲術を知るにはこれで充分です。 ただし、これを使用した射撃の方法などは長くなりますので、機会があればまた別にお話しすることにします。


 それにしても、このマクギフィンの投稿記事は、彼自身がその冒頭で、

 日清両艦隊の戦闘始末を叙せんとするに臨み、敢えて兵家専門的の著述を期せず。 ・・・・(中略)・・・・ 事情右の如くなりしかば、予は本編を艸するに間々伝聞に由らざるを得ず。
 (海軍軍令部編 『二十七八年海戦史』 別巻 p561−562)

 と書いているにも関わらず、この 『別宮暖朗本』 の著者は (この冒頭を無視して) まるでこれが黄海海戦の全貌であり真実かのように取り扱っています。 4頁にもわたって、この雑誌投稿記事の抜萃訳 (全訳ではありません一部のみです) を延々と。 しかも、その内容に対する何等の検証・分析評価もなく。

 日清戦争における旧海軍の原典史料がふんだんに公開され利用できる状況にあるにも関わらず、です。

 例えば、そのマクギフィンが言う

 日本側の公表には偽りがある、 日本人は損害を隠すために、船体には鉄板を張り、上部にはキャンパス布を張り、その上にペンキを塗った。 そして賢くも外人の目から損害を隠したのだ。 (p55) (p57) 

 このような文をそのまま引用して、だからどうだと言いたいのでしょう。 旧海軍艦艇の被害などは現在では公開されている史料に基づけばいくらでも検証できるにも関わらず、それをせずに。

 『別宮暖朗本』 の著者が引用を明らかにしているのはこの様な記事や小説ばかりで、その他には根拠とするに足る史料名などは全く出てきません。 その上で、滔々とこれが史実だ、事実だと主張する。

 お粗末と言えば、余りにもお粗末。 これでどこが 『坂の上の雲では分からない 云々』 というのかと。

 なお、『二十七八年海戦史 別巻』 をお持ちでない方は、 「近代ディジタル・ライブラリー」 の次のURLで公開されていますのでご覧ください。 マクギフィンの投稿記事の邦訳文はこれの一番最後に掲載されています。 この 『別宮暖朗本』 では省略されてしまっていることも含めて。



 以上6回に分けてお話ししてきましたが、これを要するに、艦砲の 「打方」 と言うたった一つのことについてでさえ、これまた 『別宮暖朗本』 の著者が全く “知らない” “判らない” “調べていない” を棚に上げての、ウソと誤りだらけを滔々と述べていることが明らかでしょう。
(この項終わり)
posted by 桜と錨 at 13:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2011年01月07日

旧海軍艦艇の弾火薬庫事故

 今年初の史料紹介は、旧海軍艦艇における弾火薬庫事故についての 『旧海軍艦艇における弾薬爆発 (発火) 事故調査資料』 です。

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 これは昭和42年に海上幕僚監部技術部が日本兵器工業会に依頼し、旧海軍の関係者が取り纏めたもので、「取扱注意」 の部内参考資料として印刷され限定配布されたものです。

 明治38年9月の佐世保における 「三笠」 爆沈を始め8件の弾火薬事故について記述され、加えてこれに関連した事項が補足されています。

 この史料を見る限りで感ずることは、旧海軍では艦艇の弾火薬庫事故が多かったにも関わらず、その原因調査が徹底されず曖昧なままとなったこと、そして未遂事件も含め人為的と考えられるものがかなりあることです。

 国家・国民を守る軍を預かった者として、人命はもちろん軍艦を事故で亡失した以上、原因を徹底的に調査し、適切な対策・措置を施すことはもちろん、キチンとした資料を残すこともその責任であったはずです。

 にも関わらずそれを行って来なかった。 今となっては、事故原因も含めたそれらの真相は究明のしようもありませんが ・・・・

 しかも、終戦により旧海軍は解体・消滅し、新たな海上自衛隊が創設されたにも関わらず、このような旧海軍の事柄を何故今さら “内容的に部外に公表することは好ましくない” (前書きより) とするのか? 本史料を読んだ当時から疑問に感じています。

 そして、この史料も今では当の海上自衛隊に残っているのかどうか ・・・・ ?
posted by 桜と錨 at 12:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2011年01月14日

斉射のやり方 (1)

1.射撃の手順

 前回 「打方」 という用語についてお話ししましたので、それでは 「一斉打方」 や 「交互打方」 においてどの様にしたら 「斉射」 が実施できるのか? ということに入りたいと思います。

( なお、本項で使用する 「一斉打方」 「交互打方」 という用語は昭和12年以降の定義によります。 それ以前は既にご説明しましたようにそれぞれ 「斉発打方」 「一斉打方」 です。 念のため。)

 まず最初は、射撃の手順についてです。 つまり、射撃 (砲火) 指揮官 (通常は砲術長は主砲の指揮官で、副砲及び分火は別) の指揮の下に、どの様な手順によって射撃がなされるのか、と言うことです。

 ごく簡単に項目を列挙しますと、次のようになります。

      (1) 測距と測的
      (2) 射撃計算
      (3) 各砲台へ発砲諸元の伝達
      (4) 砲台における調定と照準
      (5) 発砲
      (6) 弾着観測
      (7) 射弾修正
      (8) 以後 (3) からの繰り返し、ただし (1) 〜 (4) はその間も連続して実施

 各項目の内容については、ご来訪の皆さんには一々ご説明するまでも無いと思いますが、少し補足をしておきます。


(1) 測距と測的

 基本的には、測距儀による測距と、方位盤による照準線をもって測的を行うことは既に 『艦砲射撃の基礎 −測的について』 及び 『同 補』 でお話ししたとおりですので、まだお読みになっていない方はまず先にそちら ↓ をどうぞ。


 旧海軍では、この上記の方法に併せて、目視によって目標 (敵艦) の対勢、即ち照準線に対する向きと速力、を判定しました。 大正期以降は 「測的盤」 というものを使いましたが、方位盤やこの測的盤が無かった日露戦争期は、艦長や砲術長の “頭の中” で判定します。 (既にお話ししましたように、まだ 「変距率盤」 さえありませんでしたから。)

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(  一三式測的盤  )

 これに加えて射撃計算に必要なデータは、自艦の速力、風向風速、温度・湿度・気圧などです。 日露戦争期は、最期の3つはともかくとして、自速や風のデータは今日のような満足な計測機器がありませんのでしたので、最終的には艦長や砲術長が射撃計算に使用する値を自分で決定しなければなりませんでした。


(2)射撃計算

 射撃計算の理論と方法については、本家サイトの 『射撃理論概説 入門編』 でご説明しておりますので、そちらをご参照ください。


 測的の結果に基づいて射撃計算、即ち発砲諸元の算出を行いますが、ここで注意していただきたいのは、この射撃計算に使用する目標の現在位置データは手順 (5) の発砲時の値でなければならないということです。

 つまり、(1) の測距儀で計ったその時の値ではなく、その後の (5) までの時間経過後に予測される目標位置でなければなりません。

 ですから、この (1) から (5) までの時間 (費消時) を、その艦のそれぞれの砲種についてどの様に見込むかも艦砲射撃における大きな要素の一つであると言えます。

 そしてまたこれは、その艦の通信機器・設備や乗員の練度などによって大きく左右されます。

 この測距時から、計算・伝達・照準器への調定が完了し引金を引くまでの費消時が正しく設定できるかどうかは、射撃の成果に直接関わってきます。

 そして、もう一つ注意していただきたいのは、(1) 項の測距と測的は1箇所で実施したものが共通して射撃に使えますが、(2) 項以降は全て “各砲種ごと” に異なる (別である) ことです。

 これはそれぞれ弾道が異なりますので当然のことです。 当然のことですから、射撃指揮において、この (2) 〜 (3) だけをとってみても、砲術長が一人で主砲も副砲も、そして補助砲もその全てを指揮・監督することは不可能なことがお判りいただけるでしょう。
(この項続く)

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 ここで余談ですが、話しのついでに。

 射撃指揮装置・要具が発達していなかった日露戦争期では、手計算をし、距離通報器を使用する以外ではそれを伝声管、メガホン、示数盤、黒板などで各砲台へ伝達し、各砲の砲側照準器に手動で調定しなければなりませんでした。

 東郷長官が、「射距離ハ艦橋ヨリ号令シ砲台ニテ毛頭之ヲ修正セザルヲ可トス」と訓示してみたところで、その射距離の伝達一つをとってみても、この費消時の見越が重要問題として存在することが明らかでしょう。

 したがって、自艦又は目標 (敵艦) が変針・変速中の場合、例えば日本海海戦の初頭における連合艦隊の敵前大回頭、即ち 「東郷ターン」 の最中には、照準 (操作) と射撃計算における見越の問題の他に、この所要費消時の点からも日露双方がまともな射撃が出来ない、ということはお判りいただけると思います。

 つまり、発砲から弾着までの射撃計算における弾丸飛行秒時分の見越だけでなく、この発砲までの費消時分の見越においても、自艦及び目標の両方が “針路・速力を変えずに” 直進していることが大前提だからです。

 回頭中は射撃計算 (というより、発砲瞬時の 「目標現在位置」 と 「目標未来位置」 の算定) ができません。 これは敵味方相互に同じことが言えます。

 ですからこれを要するに、敵前大回頭においては、東郷長官が危険を冒したわけでも、賭をしたわけでない、ということです。

 こんな事は今まで誰も言ったことがありませんが、砲術の観点からすれば当たり前のこと、です。

 したがって、『別宮暖朗本』 の著者が言う

 司馬 = 黛の 「東郷のえらさは大冒険をやったことではなく、それを知りきって 『不安なく回頭を命じた大英断』 にある」 (『坂の上の雲 (八)』 157ページ) といった表現が適当とは思えない。
 敵前回頭は、司馬 = 黛の言うように 「弾が当たらないこと」 を、英知をもって計算して実行したものではない。 東郷司令部は、これが丁字の理想であり、「弾が当たること」 を、覚悟して実行した。 (p298) (p309)

 は、何らの確たる知識・根拠にも基づかない素人さんの “空想” “妄想” の作文にすぎない、と断言できます。

posted by 桜と錨 at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2011年01月16日

斉射のやり方 (2)

1.射撃の手順 (承前)

(3) 各砲台へ発砲諸元の伝達
(4) 砲台における調定と照準


 これらについては射撃指揮というよりは、主として艦の砲戦関係機器・設備に関係してきますが、既に 『連装砲の発射法』、『距離通報器について』、『艦砲射撃の基本中の基本 − 照準について』 などでご説明しておりますので詳しくはそちらをご覧ください。


 ここで再度強調しておかなければならないことは、日露戦争期においては、艦橋から各砲台への距離号令通報器でさえ主砲、副砲、補助砲併せて1艦で1系統しかなく、後は伝声管、電話、メガホン、伝令、示数盤、黒板などによって伝達していた状況であったということです。

 したがって、『別宮暖朗本』 の著者が言う

 砲術長は、主砲、左右舷側の6インチ砲といった4つ程度のグループに分け、計算結果を連絡し、それをうけたグループは全砲門をそれに従わせ、斉射をおこなった。 これが中央管制(Central Fire Control)といわれるものである。 ・・・・ (中略) ・・・・ 中央管制は斉射法と表裏をなすものである。 つまり砲術将校 (=分隊長) を砲ごとにおくのは現実的ではない。 (p66) (p70)

 射撃のタイミングについていえば、帝国海軍の艦艇には砲手のそばにブザーがあり、2回ブッブーとなると 「準備」、ブーと鳴ると 「撃てー」 を意味した。 そして旋回手や俯仰手は、「準備」 の前に砲弾を装填した砲身を苗頭の指示をうけ、修正しなければならない。 引き金を引く砲手は、単にブザーに合わせるだけだ。 そして 「撃てー」 の合図で、どちらかの舷側の6インチ砲は一斉に射撃した。 (p66) (p70〜71)

 近代砲術の世界では大中口径砲手の腕や目や神経は、命中率とは関係がない。 いくら砲手を訓練したところで事故を防ぐことはできるが、命中率をあげることはできない。 6インチ砲や主砲を命中させることができるのは、砲術長、すなわち安保清種なのである。 (p269) (p278)

 大口径主砲の砲手は、目盛り操作と弾丸装填のみに集中しており、敵艦をみるチャンスはない。 またみえたとしても目標は砲術長が決定するのが原則である。
(p270) (p279)

 など絶対になるわけがない 、全くのウソと誤りだと言うことです。

 仮に 「一斉打方」 や 「交互打方」 をやりたかったとしても、当時は物理的 “にも” 出来なかったのですから。
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 16:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し