2009年09月05日

艦砲射撃の基礎 − 「苗頭」 について (続)

 さて、その 「苗頭」 ですが、『別宮暖朗本』 では次のように説明されています。

 長距離射撃をやるためには、旋回手や俯仰手のカンや暗算に頼ることはできなくなり、どこかで距離や苗頭を計算する必要が出てきた。 (p64)

 長距離射撃で命中させるには、まず苗頭を正確に把握する必要がある。 苗頭とは次ページの図における 「β マイナス α」 である。 (p64)

 自艦は C の位置で黒艦を射撃したいとする。 C にいるときには黒は A の位置に見えるのだが、実際には(A)灰色艦にあるものとして射撃せねばならない。 (p64)

 これはクレー射撃をやるとき、マトの飛んで行く少し先を狙わないと命中しないのと同じ理屈である。 (p64−65)

 (A) にいた灰色艦に命中したとする。すると次の射撃のとき (12インチ主砲であれば2分後)、旋回手は今の砲位置からどの程度変更せねばならないだろうか? (p65)

betsumiya_drift_p65_s.jpg
( 苗頭 (びようとう) ←ママ ) (p65)

 「苗頭」 の定義は既にご説明したところですが、皆さんは 『別宮暖朗本』 のこの図と記述で 「苗頭」 が何であるのか理解できますか?

 できるわけはありませんよねぇ。 デタラメなんですから (^_^;

 既に皆さんは理解されたように、早い話 「苗頭」 というのは照準線に対して筒軸線を左右にどれだけずらすかということですから、これでは全くトンチンカンな話しになります。

( 「筒」 は例によって替え字です。)

 そもそも角度 「α」 や 「β」、そして 「α−β」 なるものが何なのか? 全く意味不明です。

 皆さんももうお気づきと思いますが、どうも著者はこれをもって 「見越」 の話しをしているらしい、と推測されます。 が、それにしてもこれではその 「見越」 の説明にもなっていません。

 要するに、何度も書いてきました 「照準」 「測的」 ということを全く理解していないから、こんなデタラメな文章や図しか書けないのです。

 長距離射撃となれば、これでは間に合わず、砲術将校が計算せねばならなくなった。はじめは幾何学や三角関数の教育を受けた砲術長をトップとした砲術将校が、航路指示器を使って、苗頭を算出した。航路指示器は発明者の名前をとりバッテンバーグ・インジケーターと呼ばれ、イギリス海軍には1890年ごろ導入された。 (p65)

betsumiya_battenberg_p66_s.jpg
(バッテンバーグ・インジケーター) (p65)

 だから1904〜05年の日露戦争で日本海軍もこれを使って “苗頭計算” をやったとでも言いたいのでしょうか?

 この航跡指示器なるもの、正式名称は “Battenberg Course Indicator” といいます。 次のURLなどでも詳細に紹介されていますのでご参照下さい。

( しかも、『別宮暖朗本』 にある図そのものズバリが掲載されていますので。 )


 この著者はこの史料を見ていながら、これの使い方さえ読んでいないのでしょうか? この 「航跡指示器」 などを使って、いったいどうやったら 「苗頭」 が計算できるのか? そんなことができるなら是非ご教示願いたいものです。

 そもそも 「苗頭」 というのは “弾道” に関するものですから、それには 「射表」 がなければ算出できません。 各砲種に対応した 「射表」 がこの “Battenberg Course Indicator” のどこに設定されているというのでしょうか? 最低限、「自艦運動」 「的運動」 「風」 「定偏」 の4つの射表値が必要なんですが?

 この “Battenberg Course Indicator” というものは、艦がある運動をするためには針路や速力をいくらにすればよいか、とか、相対風を何度に受けるためには艦の針路・速力をどうすればよいか、などといったことを簡単に算出するための器具です。

 しかもこれが無くても、これで出来ることは “全て” 「運動盤」 (Maneuvaring Board) と呼ばれる “たった一枚の紙” の上で、三角定規とコンパス、デバイダー、それに鉛筆があれば簡単に作図することができます。 そういう機能のものなのです。

manu_board_01_s.jpg
( 運動盤の用紙例 )

( 余談ですが、この運動盤、今でも占位運動訓練などで頻繁に使いますので、海自の初級幹部にとってはこれの使い方 (作図の仕方、= 「運動盤解法」 と言います) は必修のものです。)

 それに、苗頭の計算というものは、こんな器具を使わなくても、測的や風の測定などがキチンとできてさえいれば、「射表」 を使って簡単に出すことができます。 射撃指揮装置など無かった当時、艦砲射撃そのものがそれで十分間に合うレベルだったのです。

 これも何度も書いてきました 「測的」 「見越」というもの、そして 「苗頭」 というものが何等理解できていない故の “妄想” の産物なんでしょうね。

 なお、「射表」 を使ってどうやって 「苗頭」 を出すのかをまだご存じない方は、本家HPでご説明しておりますのでそちらをご覧下さい。 ( 『砲術講堂』 → 『射撃理論解説初級編』 → 『弾道修正』 → 『射表の使い方』 )

 砲手の仕事は弾丸の装填だけになった。 おそらく第二次大戦に従軍した水兵で苗頭という言葉を知っているのは、駆逐艦乗りだけだろう。 (p73)

 今日においてさえ、海自の射撃関係員なら誰でもよく知っているどころか、日常的に使っている用語を、ですか? (^_^;

 もうここまでくると、ロクに調べもせずにモノを書くという、驚くべき “無知” と “怠慢” の産物と言わざるを得ません。

( 最後の引用文はまた後でも出てきます。  “たったこの一文だけで” 既にご説明してきた 「照準」 「苗頭」 「測的」 「見越」 「射撃計算」 などについてこの著者が全く判っていないだけでなく、艦砲の 「操作」 や 「管制」 についても全く知らないことを暴露しているからです。)
(この項終わり)

posted by 桜と錨 at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2009年09月20日

艦砲射撃の基礎 − 「測的」 について

 今回は 「測的」 についてお話ししますが、この 「測的」 についての一般的な理論については、既に本家HPでご説明しておりますのでそちらをご覧下さい。

( 『砲術講堂』 → 『射撃理論概説 初級編』 → 『未来位置の決定』 です。)

 したがって、ここでは日露戦争当時における水上射撃を念頭に、もう少し的を絞ってお話ししたいと思います。

 念のために再度確認しますが、本家HPにもありますように、

 「測的」 とは、「照準」 と 「測距」 とにより得られる測定諸元を組み合わせることによって達成されるものです。

 この点は絶対に忘れないで下さい。 これが判らないと 『別宮暖朗本』 のような無茶苦茶なものになってしまいます。

 それでは、その 「照準」 と 「測距」 によってどういうデータが得られるか、ということになります。 これは日露戦争当時でも現在の優れた射撃指揮装置でも、基本は同じです。

 つまり、ある一定時間をおいた(最低限)2回の 「照準」 と 「測距」 によって、次のデータが得られることになります。

relative_02_s.jpg

( 極く短時間に回数を多くして連続した計測をすれば、それらを平均することによって精度の高いものになることは言うまでもありません。)

 即ち、1回目の計測が R と Br、2回目が R1 と Br1 で、これによって自艦から見る的艦の方位と距離の差が判ります。

( ここではご説明を簡単にするために、「照準」 データと 「測距」 データは同じ時刻に同時に得られるものとします。 また自艦も的艦もそれぞれ一定の針路・速力で直進しているものとします。)

 これは本家HPの座標系のところでご説明してありますように、自艦に座標の基準点をおいたもので、自艦の運動と的の運動との合計ベクトルが、的艦の “見かけの運動” として示されるものです。 このことを、的艦の 「相対運動」 と言います。

 つまり陸上の道路を、カーナビや地図を見ながら車を運転するのと異なり、広い、周りに自他の船以外何も無い海の上では、艦長や砲術長や射手は、自分の艦の上から相手がどう動いて “見えるか” と言うことです。

 即ち、照準を行う射手には、ただ自艦に対して相手がどう動いて “見えるか” だけしか判らないし、その照準そのものの実施には、自艦がどの方向に何ノットの速力で動いているかということは関係が無いのです。

 この2回の測的データの差によって得られた相対的な的艦の運動量 (Relative Target Movement) を、照準線方向とそれに直角な方向とに分ければ、それがその計測時間内における距離差 (ΔR) と照準方位の変化 (ΔBr) になります。

 そして更に、この距離差 (ΔR) と照準方位の変化 (ΔBr) を計測間隔の秒時で割れば、必要な単位時間 (1分とか1秒とか )当たりの距離変化率と方位変化率が得られます。

 一方で、この得られた計測データを基に、自艦の針路と速力のデータ、そして照準と測距の計測時間 (間隔) を組み合わせることにより、次のような図を画くことができます。

relative_01_s.jpg

 自艦を基準点とする座標系での 「相対運動」 から、地理上の一点を基準点とする座標系での (自艦と) 的艦の 「絶対運動」 への座標変換ができます。 即ち、的艦の 「針路」 「速力」 が得られることになります。

(続く)

posted by 桜と錨 at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2009年09月26日

艦砲射撃の基礎 − 「測的」 について (続)

ここで賢明な皆さんは思われることでしょう。

「 それなら、射撃のためにわざわざ相対運動から絶対運動を求めなくとも、最初の相対運動で得られた “単位時間当たりの距離変化率と方位変化率” で射撃計算はできるのでは?」 と。

 実は、そうなのです。

( この相対運動の測的による “単位時間当たりの距離変化率と方位変化率” を使った射撃計算の方法については、また後でご説明します。)

 しかしまたその一方で、そうでもないとも言えますし、それではダメということにもなります。

 なぜそうなるかと言いますと、もう一度絶対運動の作図を見て下さい。

relative_01_s.jpg

 お判りいただけるように、測的で前提としたお互いの艦が “一定の針路速力で直進する” としても、時間の経過と共に、照準線に対する距離の変化率 (=変距率) (Yo+Yt 対 Yo1+Yt1) 及び照準方位の変化率 (=変角率) (Xo+Xt 対 Xo1+Xt1) が変わってくるからです。

 これは自艦と的艦との対勢により、そして射距離が長くなり、また自他の速力が早くなればなるほど、これら時々刻々と変化するそれらの値を使わなければ (使えなければ)、正確な射撃計算はできないということになります。

( 即ち、必然的に、日本海海戦初頭のいわゆる “東郷ターン” の場面では、日本側の回頭中は “日・露双方にとって” この 「相対運動」 の連続した大きな動きとなり、変距率や変角率が一定値として求められずに時々刻々変化しますので、この間 “正確な射撃計算は不可能” であるということは、簡単にお判りいただけると思います。 加えて、先にお話しした射撃に必須の 「照準」 そのものが非常に難しいと言うことも。)

 ここに、“連続した計測” と、“絶対運動を求める” という正確な 「測的」 の必要性が生じてきます。

 そして、当然のことながら、自艦も的艦も一定の針路、速力のままで海戦を行うわけはありませんで、変針、変速をします。 そのため、新たな変距率や変角率の迅速な算出が必要になります。

 実は、日露戦争直後までは、ここでいう意味の 「測的」 は行われていませんでした。 というより測距儀による測距しか実施していなかったのです。

( では当時、この測的に続く 「見越」 はどうやっていたのかは、また項を改めてご説明します。)

 だからこそ、日露戦争後になっての 「変距率盤」 「距離時計」 や 「測的盤」 の導入、そして 「方位盤」 「射撃盤」 の採用、そしてこれらを統合・総合する 「射撃指揮装置」 への発展があります。

 これを理解できていない者が艦砲射撃を論ずると、 『別宮暖朗本』 のような、「照準」 というものを全く無視したものになったり、あるいは

 距離の確認は、まず測距儀でおこなう。 ・・・・(中略)・・・・ それに基づいて試射をおこなうが、それ以降、測距儀は不要となる。 (p69)

 次に測距儀 (Rangefinder) であるが、これもそれほど重要ではない。 なぜならば斉射法の基本は弾着パターンの分析で距離を確認することであり、使うのは試射のときだけである。 (p75)

 ロシア海軍のように一弾試射により距離を確認する場合、第二斉射で弾着があっても、弾着パターンを分析することをしないから、計算上の距離と測定上の距離を精査する必要があり、測距はより必要である。 (p75)

 というような、寝ぼけた話しになったりするのです。

ついでに言えば、

日露両軍ともバーアンドシュトラウト社の1・5メートル測距儀を装備していた。 ただし、ロシア艦隊は一船あたり二台程度と少なかったようだ。 (p75)

 って、日本海軍では各艦一体何台が装備されたと思っているのでしょうねぇ、この著者は。

 しかも 「一船」 って (^_^;

(この項終わり)

posted by 桜と錨 at 19:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2009年10月03日

高仰角射撃では砲弾は尻から落ちる?

 本家HP 『談話室』 の方で、HN 「くろねこ」 さんから次のご質問がありましたが、内容的に 「艦砲射撃の基礎」 としても良い機会でもありますので、こちらでお答えさせていただきます。

 ライフリングされた砲身から射出される砲弾は回転してジャイロ効果により砲弾の姿勢は安定して飛びます。 直接照準の場合は問題ないとして、遠距離に照準を合わせた場合には砲身を最大45度上を向けることになります。

  この場合、その砲弾は45度上を向いて回転しながら飛翔することになり、目標に着弾するとき、この砲弾は尾部から着弾することになると思うのですが・・・先端から着弾するために何か工夫がしてあるのでしょうか?

 実は、別に特別の工夫があるわけでも何でもありません。

( 砲弾の空中における姿勢、つまり弾軸の運動は大変複雑なことですから、ここでは話しを簡単にするために、章動 (Nutation) などのことは除外することにします。)

 仰るとおり、砲の旋条によって高回転の旋転を与えられた弾は、弾軸 (=旋転軸) に対してその姿勢を保持しようとするジャイロ効果が働きます。 これを 「ジャイロスコピック安定」 (Gyroscopic Stability) と言います。

 そして、弾道は重力のために放物線を画きますので、砲口を出た後の弾はこのジャイロスコピック安定によって、弾道、正確にはその時点での弾道切線 (接線) に対して、上向きの角度を持つことになります。 この弾道切線と弾軸とのズレを 「離軸角」 と言います。

 ご質問は、この離軸角が時間の経過と共に大きくなって、最終的に海面などへの弾着時には砲弾は水平面に対して横向きに、あるいは極端な話しが弾尾部からになるのでは? ということですね。

 ところが、同時にこのジャイロスコピック安定によって 「定偏」 (陸上砲の射撃理論的に言うと 「偏流」 ) が生じることはご承知のとおりです。

( この 「定偏」 については本家HPの 『射撃理論解説 初級編』 でご説明しておりますので、詳細はそちらをご覧下さい。)

 下図のように、通常の旋条砲の砲弾では空気抵抗の中心 (=抗心) は重心より前にあります。 このため、空気抵抗は弾軸を上向きに押し上げる、即ち離軸角を大きくする方向に働きます。 

precession_s.jpg

 しかしながら、この力は、「定偏」 が生じる3つの効果の内最も大きく作用する 「プレセッション効果」 によって、旋転方向に対して90度ずれた向きに作用します。 これが定偏の原因となるとともに、これによって右旋転の場合は “軸が右に倒れる” 作用としても働くことになります。

 即ち、弾軸が右に倒れるということは、横から見ますと弾軸が弾道切線と同じになる、上下方向の離軸角が小さくなるように動く、ということを意味します。 ( 同時に、上から見ると弾軸は右に倒れて、射面 (射線) に対して右に向くこととなり、定偏による弾道の方向とほぼ一致することになります。)

 弾道の曲率 (曲がり) というのは非常に緩やかですから、このプレセッション効果も非常に穏やかに作用します。 このため、横から見ますと、弾軸は弾道切線に対して常にほぼ一致した形を保持する (ように見える) ことになります。

 もちろん、もし抗心が重心より後ろにある場合には、空気抵抗そのものが離軸角を減少させる方向に働きますので、このプレセッション効果と併せ、更に弾軸を弾道切線に一致させるべく作用します。

 ただし、旋条砲 (銃も含めて) の弾ではそのような形状のものは一般的にまずありませんので、“風見鶏” の様にはなりようがありません。

( では抗心と重心とが一致したら弾の姿勢はそのままか? と言うことになります。 そのとおりです。 しかし、弾が滑腔砲 時代と同じ “球形” でも無い限り、極く特別な向き以外の全ての姿勢 (方向) でその様なことは起こり得ませんので、ご心配無用です。)

 したがって結論としては、疑問を持たれたようには絶対になりませんで、ちゃんと弾頭から弾着することになります。

 ただし、一般的には仰角約70度以上になりますと、今度はプレセッション効果などの作用の仕方が異なってきます。

 このため、約80度を越える射撃の場合には、弾は弾底から落ちてくることになりますし、また、約70〜80度の間は、砲種、弾形、風などによってプレセッション効果などの影響が複雑な形で現れる、非常に不安定な領域となります。
posted by 桜と錨 at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2009年10月05日

高仰角射撃では砲弾は尻から落ちる?(補足)

 少し補足させていただきます。

1.刊行物について

 この旋転する砲弾の空中姿勢の問題については、実は簡潔明瞭、かつ判りやすくその全容が説明されたものは、私は今日まで見たことがありません。

 もちろん、私が現役時代に習ってきた弾道学に関するテキスト類にもキチンと書かれているものはありませんでした。

 有名な古典的名著であるシュゴー(M.G.Sugot)の 『理論砲外弾道学』 にしても、弾軸の運動については弾道解析に関連して詳しいですが、この姿勢の問題は明確ではありません。

 また、日本語で比較的簡単に手に入るものとしての 『火器弾薬技術ハンドブック 改訂版』 (弾道学研究会編 防衛技術協会刊 平成15年) にしても、それ以前の平成8年初版に比べるとこの関係の解説が大幅に増えたと言っても、それでもまだこの問題を適確・適切に説明しきれているとはとても言えません。

 このハンドブック改訂版では、砲弾の姿勢の問題について 「追従性」 (Tractability, Trailing) なる用語をもってして、次のように説明しています。

  追従性の発生メカニズムは本章6.1.2項で説明したジャイロ効果であり、その内容 も偏流の発生メカニズムと類似している。 ここでは旋動安定弾について説明する。

 (1) 偏流と同じ理由で静止ヨーが発生する。

 (2) 静止ヨーによる転倒モーメントが下向きに働くため、再びジャイロ効果によって飛翔姿勢は下を向く。


 この解説以下の数式による記述や、関連する静止ヨーの記述を併せて読んだとしても、恐らくすんなりと “なるほど〜” と思う人はまずいないのではないでしょうか。 先に私が書いたものと同じことを言っているとは思うのですが?

 もっとも、この 「追従性」 という用語でこの問題を説明したものは、私は他には知りません。 ( もちろん専門の論文などならあるのかもしれませんが、たったこれだけのことを理解するのにそんなものまで読む必要があるのか? と言うのが正直なところですので。)


2.すりこぎ運動との関連について

 先の説明では問題を簡単にするためにわざと省略しました、弾道の章動 (Nutation) と才差 (Precession) を原因とする弾道軸の複円運動 (Epicycle Motion)、所謂 「すりこぎ運動」 と関連し、

“弾道線に沿ってぐるぐる首を振りながら飛んでいく”

 という解釈の仕方がでてきました。 しかしながら、この “弾道線に沿って” という表現は微妙なところです。

 つまり、これが “弾道切線の周りを” となると明らかに違うのですが、“弾道切線の近くを” の意味ですと、実際の弾軸の複雑な運動としては正しいかと考えます。

 実際の右旋転弾の一例として、弾軸は下図のように運動するとされています。 (もちろん、これはあくまでも一つの例に過ぎず、典型的かつ一般的とは言えないないことには要注意ですが。)

mov_axis_blt_01_s.jpg
( 前掲ハンドブック改訂版より )

 この図の座標の中心は、移動 (飛翔する) する弾の重心点を意味しているのではなく、単にこの図の作図上の出発点です。

 そして全体として、この弾軸運動の中心が図の 「β」 で示されるように、右にずれるのはお判りいただけるかと。

 では、弾道切線に対して弾軸は実際にどのように動くのか? ハッキリ申し上げて判りません。 どこにもキチンとしたものが呈示されていませんので。

 即ちこれは、砲口を弾が離れる時点で既にその複雑な運動が始まっておりますので、それを単純に示すことは不可能に近いことだから、と言えるでしょう。

 だからこそ、その複雑さを排除して、最も明確な点、即ち 「なぜそうなるか?」 だけを採り上げれば先のようになり、これで充分説明がつくと考えております。

 それにあまりに特種なケースを想定してあの場合、この場合と言っても、本題からするとあまり意味はないかと思っています。


3.重心と抵心の位置について

 先に、通常の旋転砲弾では重心は空気抵抗の抵心より前には無い、即ち本問題において “風見鶏” のようには決してならないとご説明しました。

 ご参考までに、旧海軍の砲弾から実際のデータを幾つか拾ってご紹介します。

弾     種全   長弾底よりの
重心位置
弾底よりの
形心位置
 40糎    五号徹甲弾146.25糎57.2糎61.5糎
 U号20糎 九一式徹甲弾 90.62糎34.2糎37.2糎
 15糎    四号通常弾 57.17糎20.7糎23.7糎
 12糎    二号通常弾 42.08糎15.9糎18.1糎
 8糎     三号通常弾 26.48糎10.4糎 11.5糎

 「形心」 とは 「形状中心」 のことです。 本項において問題とする、砲弾の斜め前からする空気抵抗の抵心が、この形心とほぼ同位置になることは明らかでしょう。

 旋条砲の砲弾が、空気抵抗を小さくするための尖頭長軸弾であり、したがってこれによる弾軸転倒を防止するための旋条であることを考えるならば、当然の帰結ではありますが。
posted by 桜と錨 at 12:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2009年10月30日

艦砲射撃の基礎 − 「見越」 について

 前回の 「測的」 についてのお話しからちょっと間があいてしまいました、それはそこ 「気ままなブログ」 ということで (^_^;

 今回は前回の 「測的」 の結果に基づく 「見越」 のお話しです。

 艦砲射撃では洋上で互いに動きながらになりますので、弾着は砲の発砲時の目標艦の位置 (これを射撃用語で 「現在位置」 と言います) ではなく、弾の飛行秒時後の目標の未来位置であることは申し上げるまでもありません。

 この現在位置に対する未来位置までの差を 「見越」 と言います。 例の 「別宮暖朗本」 において、著者が前出のあのトンチンカンな図でもって言わんとして果たせなかったのがこの 「見越」 のことです。 (善意に解釈すれば、多分)

 この 「見越」、即ち言い換えれば目標未来位置の決定の理論的なことについては、本家HPの 「砲術講堂」 → 「射撃理論解説 初級編」 の中の 「目標未来位置」 でご説明しておりますので、そちらをご参照下さい。

 さて、ここではもっと簡単にお話することにします。 前回の 「測的」 の項を思い出してみて下さい。

 「測的」 においては、自艦を (座標) 中心とする 「相対運動」 で示す方法と、地理的な座標を用いた 「絶対運動」 で示す方法の2つがあることをご説明しました。

 その何れで解析するにしても、最終的な砲の射撃諸元として計算するには自艦、即ち砲そのものを中心 (原点) としなければならないことはお判りいただけるとおもいます。

 これを図示すると、例えば次の図のようになります。

relative_03_s.jpg
( この図では下が自艦、上が的艦であることにご注意を )

 既に何度もご説明しましたが、結局のところ砲 (即ちその照準器) に調定するのは照尺距離 (=照準線に対する砲の上下角) と苗頭 (=照準線に対する左右角) ですから、「見越」 もこの2つに分けて算出されることになります。

 即ち、図のc.とb.です。

 そしてこの図の自艦の運動分 (Yo、Xo) と的艦の運動分 (Yf、Xf) も現在距離 R に対する弾の飛行秒時分であることは申し上げるまでもありません。

 とすると、ここで 「測的」 結果に基づいて “誰かが何かの方法で” 現在距離に対する弾の飛行秒時に基づいて計算をする必要があります。 そしてそれには 「射表」 がなければなりません。

 射表を使っての具体的な手計算の方法については、これも本家HPの 「砲術講堂 」→ 「射撃理論解説 初級編」 → 「弾道修正」 の中の 「射表の使用法」 でご説明しておりますので、そちらをご参照ください。

 この計算機能は、後に射撃指揮装置の射撃盤の中に風に対する修正などと一緒に組み込まれることになります。

 では、方位盤も射撃盤もなかった日露戦争当時はどうしていたのでしょうか?

 日本海軍では、実はこれをどのように照尺距離や苗頭に反映させるかは各砲台の 「砲台長」 が決定していました。 もちろん砲台長自ら全部一人でやっている余裕はありませんので、「砲台付」 という若手将校や下士官の補佐を得てです。

 もっとも、一々本物の射表を引いていたのでは面倒ですので、この射表に基づく簡易な表などを各砲台で自作するのが普通です。

 この簡易計算表 (盤) は射撃指揮装置が発達した現在でも、射撃時の再チェック用に今でも各艦で作っています。 (のはずです。少なくとも私達はやっていましたから。)

 そして当時の砲台操法では、砲台長によって指示された照尺距離と苗頭を 「射手」 が照準器に調定することになっていましたが、黄海海戦での教訓や例の鎮海湾での猛訓練の成果として、射手が照準発射に専念することができるように、この照準器を操作する専用の配員が必要であることが痛感され、補助砲員や非戦闘側の砲員の中からこれの要員が選定されて、訓練した上で配置されました。

 これは、日露戦争後の艦砲操法改定の時に 「掌尺手」 として正式に実現し、各砲の砲員の一人として増員されることになります。

 次回は、では日露戦争当時の砲台 (砲塔) ではどのように発砲していたかのお話しに移ります。

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それはともかくとして、

 苗頭とは目盛りの数で指示された。右三つ、または左四つだけである。これは、目盛りを右へ三つ、または左へ四つ移動させろという意味でわかりやすい。 (p66)

 苗頭を計算したのち距離を調整する。 日露戦争当時は、カンで (接近か離反は間違えてはならないが) 「目盛り一つ高め」 とか 「低め」 と分隊長に要求することも多かった。 (p70)

 なんですかこれは、一体何時の時代の何処の海軍の話をしているんでしょう。 笑えますね。 

 苗頭計算の後に距離を調整? カンで? 目盛一つ高め? 右三つ? 分隊長に要求?

 たったこれくらいのこと、もう少しキチンと(真面目に)調べて書いたらどうですかねぇ。
posted by 桜と錨 at 19:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2009年11月22日

艦砲射撃の基礎 − 連装砲の発射法 (1)

 日露戦争時代の連装砲 (連装砲塔砲) の打ち方、つまり発射の仕方についてです。

 昭和期になってからの「一斉打方」、いわゆる「斉射」というものを行うためには、それぞれの連装砲塔で「斉発」、即ち “左右砲を同時に一人の射手で” 発砲することが大前提になります。

 これが日露戦争当時は実施できたのでしょうか? というお話しです。

 その前に、砲塔内にはどれだけの人員がどの様に配置されるのか、からご説明を始めたいと思います。

 「三笠」 の主砲である 「四十口径安式十二吋砲」 を例にとりますが、「富士」 やその他の戦艦でもその機構上の違いによって多少は異なるものの、基本は同じです。

 この12インチ砲塔砲について、その操法が規定されたのは、明治36年に全面改定された 『海軍艦砲操式』 が最初です。

manu_cover_m36_s.jpg

 この砲は、実際の砲の操作に必要な人員は、、砲塔長、砲塔次長、そして左右砲のそれぞれに1番〜6番砲手の、全部で14名です。

( 砲塔下部の揚弾薬装置や弾火薬庫への配員等は、説明の都合上取り敢えず省略します。)

 次の図はその中にあるもので、ちょっと元々の印刷が悪くて非常に見難いですが、右側が最初に 「集まれ」 の号令によって砲塔内に砲員が集まる時、そして右側が 「就け」 の号令によってそれぞれの配置に付いた状態です。

 後者では 「砲塔長」 及び 「砲塔次長」 が画かれておりませんが、左図と同じ左右砲の射手席です。

12inch_pos_s.jpg

 それぞれの砲員の主たる役割を簡単にご説明しますと、

砲塔長 : 砲塔の操作に関する長で、准士官又は下士官の先任者 (通常は上等兵曹) がなり、砲塔内の右砲射手席に位置します。 砲塔長は、砲塔全体の操作に責任を有すると同時に、自ら砲塔の旋回と砲の俯仰の操作を行って照準発射 (引き金) を担当します。 即ち 「射手」 でもあります。

砲塔次長 : 砲塔の操作に関し砲塔長を補佐する役目で、次席の砲員がなり、左砲射手席に位置します。 そして、左砲の照準と発射について一部を担当します。 これについては詳しくは後の発射法のところで。

一番砲手 : 装填機を担当し、揚弾・装填についての責任者
二番砲手 : 主として尾栓の開閉、発砲電路の開閉
三番砲手 : 揚弾・揚薬
四番砲手 : 砲の装填位置 (仰角4度半) の設定・固定
五番砲手 : 筒中の洗浄
六番砲手 : 三番の補助

(注) :「筒」 は例によって 「月」 偏に 「唐」 の字ですが、常用フォントにありませんので代用しています。


 これでお判りのように、砲塔長は砲員の指揮・監督は勿論のこと、自らも照準発射を行わなければならず、これには当然照準器の照尺・苗頭の調定も含まれます。 大変に忙しい配置です。

 そこで、前回の 「艦砲射撃の基礎 − 「見越」 について」 でもお話ししましたように、黄海海戦での戦訓と鎮海湾での猛訓練の成果によって、砲塔砲においては次の2点の要改善点が出てきます。

(1) 砲塔の旋回操作と左右照準を砲塔長の役目からはずし、俯仰操作とそれによる上下照準のみに専念させる。 このため旋回操作と左右照準についてはそれ専門の 「旋回手」 を新設する。

(2) 砲塔長及び砲塔次長が自ら実施する照準器の調定は、このための専従員として 「掌尺手」 を新設する。


 (1) は砲塔の改修・改造を要しますので、そう簡単にはいきませんから、実現するのは日露戦争後になります。

 (2) については日本海海戦までに各艦毎で戦闘時の補助員 (12ポンド砲などの補助砲や対舷砲の砲員など) から選抜し訓練して配置することで対処しています。

 そして、戦後になって、上記の事も含めた日露戦争における教訓などに基づいて 『海軍艦砲操式』 の改定が行われます。

 この改定は、明治41年に 『海軍艦砲操式草案』 として試行された後に、改めて大正元年版 『海軍艦砲操式』 として制定されます。

 改定が草案から正式に制定されるまで5年を要したのは、言わずもがな同じく日露戦争の戦訓得て明治40年に 『艦砲射撃教範草案』 を作成したものの、その直後から近代射法の大発展が始まり同草案が全面再作成の必要がでてきたからで、これとの整合を図るために時間を要しました。

 因みに、ご存じのとおり昭和期へと続く旧海軍近代射法の誕生を反映した、それまでのものとは全く異なる新しい 『艦砲射撃教範』 が大正2年に制定されました。

 この辺の射法誕生の流れなどについては、本家HPの 「砲術講堂」 → 「旧海軍の砲術」 の中で 「射法沿革概説」 及び 「教範・規則類沿革一覧」 としてご説明しておりますので、そちらをご参照下さい。
(この項続く)

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 で、余談ですが、

 『別宮暖朗本』 によりますと

 速射性とは大砲を1分間に何発うてるかということだ。 そして一般的には、砲塔にある大口径砲は、機械目盛り・ランマー・揚弾機・砲身命数・筒発によって支配されており、砲手の訓練によって発射速度があがるものではない。(p71)

 ところが、アリヨールの乗組員プリボイは次のように書いている (プリボイ 『バルチック艦隊の殲滅』 ) 「重々しい尾栓が、がちゃんと開かれたり、閉めたりする。2分おきに真赤な炎がパッと閃くと同時の轟然たる斉射の音響が空気を裂く」 このようにロシアの12インチ主砲の発射速度は2分に1発なのである。(p72)

 イギリス海軍の戦艦フォーミダブルのマニュアルでも2分に1発とされており、これ自体は当時の世界標準である。 つまり、主砲について日露とも差がない。 司馬遼太郎はおそらく黛治夫の示唆をうけたとおもわれる。 太平洋戦争期でも、この発射速度の上昇はあまりみられず、1分をやや下回る程度で、黛は日露のような古い話であれば4分の1程度とあたりをつけたにすぎない。(p72)

 だそうです。

 弾火薬庫から続く、砲員の連繋・協同作業や一連の装置の操作手順への習熟、重量物・重機械を扱うに際しての危険防止・安全措置、戦闘中の様々な状況への細かな対応、等々

 そして、射撃時の照準や射撃指揮、等々

 人と機械が関わるものがどのようなものなのか。 実際の艦砲射撃がどのようにしたらできるのか。 これらを考えただけで、本当にカタログスペックにある単なる機械の作動時間で艦砲射撃が実施され、また実施できるものなのかどうか、普通なら簡単に判りそうなものですが・・・・

 まさか当時の砲がスイッチを一つポンと押せば弾火薬庫から全自動で装填されて、引き金を引いていれば次々と発砲されると思っているのではないでしょうねぇ。

 “砲の操作は目盛に合わせるだけ” “あとはブザーに合わせて引き金を引くだけ” などと寝ぼけたことを書くだけのことはあって、これらのことは何一つ知らない、判らない、なんでしょうね、この著者は。 ましてや論述の根拠が “小説” の引用ですか (^_^)

 この著者の言う訳の判らない 「斉射法」 などという “大嘘” も、これから順次このブログでご説明していきますので、お楽しみに。
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2009年11月23日

艦砲射撃の基礎 − 連装砲の発射法 (2)

 前回お話ししましたように、日露戦争における戦訓を反映した艦砲の操法は、明治41年の 『海軍艦砲操式草案』 で試行したあと、近代射法の誕生に整合をとる形で大正元年版 『海軍艦砲操式』 として制定されました。

 この大正元年版では 「三笠」 の爆沈の件があってか、記述からその12インチ砲については外されていますので、「朝日」 の例です。

 四十口径安式十二吋砲の砲員の新しい配置は下図のとおりで、砲塔長以下15名 (他に砲塔下部に更に3名) です。 36年版の時が 「朝日」 の型式では10名 (他に砲塔下部に5名) でしたから、砲塔内は5名も増えてしまいました。

asahi_12inch_pos_01_s.jpg

 砲塔内の各砲員の主たる役割は次のとおりです。

砲塔長 : 名前は同じですが、自ら砲の操作をすることはなくなり、砲員・砲台の監督に専従することとなりました。

右 (左) 射手 : 各砲の射手です。 この二人のうち、右射手が主たる射手になります。 詳細はあとで。

旋回手 : 以前は砲塔長が自ら行っていた旋回操作を担当し、左右方向の照準を行います。

右 (左) 掌尺手 : 正規に新設された配置で、右 (左) 射手が使用する照準器への照尺距離・苗頭の調定を担当します。

中掌尺手 : 旋回手の照準器に照尺距離・苗頭を調定するのが担当で、これも新規に配員されました。

右 (左) 一番〜四番砲手 : 36年版と同じです。

 因みに 「三笠」 の場合は、砲手が一番〜五番となり、36年版での揚弾・装填補佐担当の六番が無くなりました。 (というより、もうこれ以上砲塔内に人が入る余地がない (^_^; )


 それでは砲塔の中にいるのはこれら砲員だけか? と言うとそうではありません。

 これまでお話ししてきたのは “砲台 (砲) を操作する者” で、砲塔内にはこれに “砲台を指揮する者” がいます。

 つまり、砲塔長以下の砲員が操作する砲をどの様に使うのか、どの様に発砲していくのかを決めるのが責務で、これが 「砲台長」 です。

 砲台長は、通常大尉が配置されます。 そしてこの砲台長は、内務的には砲台の砲員をもって編成する分隊の 「分隊長」 を兼ねるのが普通です。

( ただし、海軍における人事上の発令は逆で、「分隊長」として乗艦を命ぜられた者の中から、艦長によって各砲台長に指定されます。)

 そしてその 「砲台長」 を補佐する役割として、「砲台付」 がいます。 砲台付には、通常若手の中・少尉たる 「砲台付将校」 や少尉候補生、それに准士官や兵曹が配員されます。 更にはこの砲台付以外に、必要に応じて 「伝令」 などが付きます。

 この砲台長と砲術長との関係については、この後の 「射撃指揮」 の項として別に詳しくお話しいたしますので、ここでは省略しますが、まずは明治36年版 『海軍艦砲操式』 で、砲台長について、次の様に規定されていることを覚えておいて下さい。

  「 第494 砲台長は艦長の方針に依り指示されたる目標に対し 適切なる射法を採り射撃速度及用うべき弾種を定め射撃諸元を号令して 砲台を指揮し砲台付以下を監督し常に射撃の効果に注意し射撃中必要なる修正を為し絶えず射撃を有効に実施するの責に任ず 」


  「 第495 砲台長は可成部下各砲を監視し射撃の効果を観測し兼て艦長砲術長との連絡を保持し得る如き位置にあるを要す若各砲の監視と射弾の観測とを併せ行う能わざるときは砲台付をして専ら各砲の監視に任せしめ砲台長は射撃の指揮及び修正に重きを置くを要す 」


  「 第496 艦の構造砲台の状況に依り射撃の指揮は艦長若は砲術長の号令に依て完全に行わるる如き場合に在りては砲台長は主として砲台各部を監督し其の実行に重きを置くを可とす 」


 それでは次回は、この連装砲塔砲の左右2門の砲でどの様に発砲して行くのか、その発射法についてご説明します。
(この項続く)

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 そこで 『別宮暖朗本』 ですが、

 中央管制は斉射法と表裏をなすものである。 つまり砲術将校(=分隊長)を砲ごとにおくのは現実的ではない。 (p66)

 だそうです。

 「中央管制」 だの 「斉射法」 だの訳のわからない言葉や、「分隊長」 などのことはさておいて、

 ふ〜ん、射撃指揮装置が整備されてきた大正後半期以降昭和期には砲台長、砲台付は必要なかったんですね? 配員されなくなったんでしょうか?

 そんなことは、上記の砲台長の職責や、昭和期の戦艦などで砲をどのような配員で運用していたかを一度でもチャント確認すれば、こんな文章は書けないはずです。

 第一、戦闘中に艦橋との連絡が取れなくなった場合 (戦闘被害、故障、騒音、等々) などは、それが例え一時的にせよ、各砲台の (途切れることのない、継続した) 射撃指揮は一体誰がどのようにやるんでしょう? そして、砲塔内だけでも十数名いる砲員の指揮は?

 砲塔・砲台というものを、射撃指揮においてどのように運用していくものなのか、つまり 「艦砲射撃」 というものがどのように行われるものなのかを、全く判っていないからですね。
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2009年11月24日

艦砲射撃の基礎 − 連装砲の発射法 (3)

 本項では連装砲塔砲の打ち方、発射の仕方についてお話しするのですが、「打方」 と言いますと射法でのことと誤解を生ずるおそれがありますので、タイトルは敢えて 「発射法」 としています。

 つまり、連装砲において左右2門の砲は、片方ずつ撃つのか、それとも両砲同時 (一斉) に撃つのか、ということです。

( 当然ながら日露戦争当時のことが中心ですので、話しの都合上、3連装については省略します。)

 それでは、旧海軍においてはこの2つの発射法をどのように使い分けていたのでしょうか? これについて、その変遷についてそれぞれの呼び名と共にご説明していきたいと思います。

 既にお話ししましたように、戦艦に搭載する12インチ連装砲塔や装甲巡洋艦の8インチ連装砲塔の操作法について規定されたのは、明治36年に全面改定された 『海軍艦砲操式』 からです。

 その明治36年版では、連装砲塔の発射法は 「一斉打方」 「単発打方」 「独立打方」 の3種類が規定されています。

 「一斉打方」 は両砲一斉に、「単発打方」 は左右砲交互に、何れも 「砲塔長」 が照準し引金を引くことにより発砲するものです。

 また 「独立打方」 は、「砲塔長」 及び 「砲塔次長」 がそれぞれ右砲及び左砲をそれぞれ砲の準備と照準が出来次第、他砲に構うことなく独立して発射していくものです。

 状況によっては、この 「独立打方」 の機器設定を使い、「砲台長」 の号令によって左右砲を 「砲塔長」 「砲塔次長」 がそれぞれ照準して引金を引き “ほぼ同時に” 発砲する応用的な方法もありました。


 そして 「砲台長」 は、艦長 (砲術長) から命ぜられる 「緩射」 「並射 (常射) 」 「急射」 の 「打方」 に応じて、上記の3つの発射法から適宜選択し、砲手に令して砲を撃たせることになります。

 大体皆さんご想像が付くとおもいますが、通常ですと次のとおりです。

    「緩射」       : 「単発打方」 又は 「一斉打方」
    「並射 (常射) 」 : 「単発打方」
    「急射」       : 「独立打方」 又は 「単発打方」

 因みに号令は、それぞれ 「徐 (しずか) に打て」 「並に打て」 「急ぎ打て」 です。

 そしてこれに加えて砲台長が下令する発射法の号令は 「一斉打方」 「単発打方、右(左)から始め」 「独立打方」 となります。

 例えば、「並に打て、単発打方、右から始め」 などのようにです。

 それでは、通常の砲戦時に使用する 「並射」 の時に何故 「一斉打方」 を使わないか?

 実はこれは当時の砲塔砲の “動力の問題” なんです。 旧海軍では昭和初期まで続くこの問題のことを、意外と知らない人が多いですね。

 当時の砲塔砲の構造を考えていただければお判りのように、砲の旋回・俯仰、揚弾・装填及び発砲時の駐退復座には総て水圧が用いられています。

 この水圧機の能力の問題で、2門同時に発砲するとその駐退・復座のために水圧が落ちてしまい、これが回復するのに時間がかかるため、旋回・俯仰や揚弾・装填がスムースに出来なく遅くなり、このため 発射速度が極端に遅くなって しまうのです。

 したがって、2門同時の斉射の利点は理解していたものの、この発砲速度の問題から、「一斉打方」 は余程の容易な射撃目標 (例えば、近距離で停止しており、かつ相手からの反撃がほとんど無い、等々) に対して充分な照準が実施できる場合のみに限定されていました。

 例えば、明治35年版の海軍兵学校の 『砲術教科書』 では次のように記述されています。

  「 砲塔砲は砲火の主力にして且つ装填に時間を要すること大なるが故に軽して之を発射することなく一斉射撃の如きは命中確実なる場合に非ざれば 決して之を行うべからず

   (注) : 太字 は管理人による

 なお、ここでいう 「一斉射撃」 とは先の明治36年版 『海軍艦砲操式』 でいう 「一斉打方」 のことです。 そして、“命中確実なる” というものがどういう場合なのかは、お判りかと。

 日露戦争中、旧海軍はこの明治36年版 『海軍艦砲操式』 の規定に従って艦砲の操作を行ったのです。 当然、訓練でも実戦でも。 もちろん、黄海海戦でも日本海海戦でも。
(この項続く)

posted by 桜と錨 at 13:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2009年11月25日

艦砲射撃の基礎 − 連装砲の発射法 (4)

 日露戦争後、種々の戦訓に基づきこの艦砲操式もそれを採り入れたものに改訂することとなり、まず明治41年に 『海軍艦砲操式草案』 が作成されて試行されました。 そして試行結果に基づいて所要の修正がされて大正元年に制定、続いて36糎砲などの新しい砲を採り入れての改定が大正8年になされます。

 この明治41年版の草案では、先の連装砲塔の3種類の発射法の内の 「一斉打方」 が無くなりました。 要するに動力の問題で実用に適さないからです。

 そして、その後45口径の12インチ砲、そして45口径の14インチ砲が導入され、またその動力の一部に電動が用いられるようになっても、この問題は基本的には解決されませんでした。

 それ以上に、主砲装備門数が増えたことにより、弾着観測可能な1斉射弾数 (4〜6発を最適とする) の問題と斉射間隔短縮の利点から 「交互打方」 が良しとされたことも見逃せません。

 実際、大正8年に改定された 『海軍艦砲操式』 の 「第1章 砲塔砲操法通則」 では、次のように規定されています。

  「 第52 連装砲に在りては (右射) (左射) は交互に発射し 而して其の開始は右砲よりするを例とし砲塔長は毎回其の用意を令す 若一砲に事故あるときは続けて他の一砲を発射するものとす 又 状況により左右砲の斉発を行うことを得

   (注) : 太字 は管理人による

 したがって、大正2年に制定された 『艦砲射撃教範』 で規定された 「打方」 の一つとして 「一斉打方」 が出てきますが、実はこの 「一斉打方」 は後にいう 「交互打方」 のことなのです。

( この時に射撃教範で規定された “個艦としての” (各砲塔ごとの発射法ではなく) 打ち方は、「一斉打方」 「斉発打方」 「独立打方」 「指名打方」 の4つです。)

 つまり、旧海軍では、大正初期の近代射法誕生時に、この連装砲塔砲の動力の問題と射法上の問題の両面から、左右砲交互に打って斉射を行うこの “常用の” 方法を 「一斉打方」 と呼ぶことにしたんです。

 このような実態を判っていないと、『別宮暖朗本』 の著者のような

 主砲4門を同時に発射して、夾叉(ストラドル)を与えたものであり(70ページ参照)、完全斉射法でなければ、このようなことはなしえない。 (p207)

などと トンチンカン を言い出すことになります。

 砲塔砲の斉発を前提とした一斉打方、即ち今日で言う本来の意味での 「一斉打方」 が実用となり、かつ採用されたのは実に 昭和12年の 『艦砲射撃教範』 の全面改定から であり、更に、戦艦において実際にこの全砲塔砲斉発による 「一斉打方」 が行われるようになったのは 昭和13年から のことです。

 この時に、従来の 「斉発打方」 を 「一斉打方」 と言うことに替わり、そしてそれまでの 「一斉打方」 が本来の意味である 「交互打方」 に戻ったのです。

 つまり、
       昭和12年まで     12年以降
        「斉発打方」  →  「一斉打方」
        「一斉打方」  →  「交互打方」
 です。

 もちろん、それまでは必要に応じて左右砲を同時に発射する 「斉発打方」 も用いられましたが、これは研究射撃など ごく特別な場合に限られていた ことは言うまでもありません。



 ではこれらのそれぞれの発射法において、各射手 (砲塔長、砲塔次長) が引き金を引くのは、どの様なタイミングなのでしょうか?

 『別宮暖朗本』 に言うように、

 射撃のタイミングについていえば、帝国海軍の艦艇には砲手のそばにブザーがあり、2回ブッブーとなると「準備」、ブーと鳴ると「撃てー」を意味した。そして旋回手や俯仰手は、「準備」の前に砲弾を装填した砲身を苗頭の指示をうけ、修正しなければならない。引き金を引く砲手は、単にブザーに合わせるだけだ。そして「撃てー」の合図で、どちらかの舷側の6インチ砲は一斉に射撃した。 (p66)

 なのでしょうか?

( この文章が全くのデタラメであることは、既に先の 「照準」 などの項でご説明したとおりですが )

 全く違います。 各射手において 「照準」 が最も良いと判断した瞬間に引き金を引くのです。

 明治36年版の 『海軍艦砲操式』 でも、日露戦争後の大正元年版でも、次のように規定されています。

m36_p246_s.jpg
( 明治36年版より )

t01_p76_s.jpg  t01_p17_s.jpg
( 大正元年版より )

 どこに (発砲管制の) “ブザーに合わせて” などとされているのでしょうか?

( って、そのブザーは一体誰が何処で押す (管制する) のか? ということなのですが・・・・ そのような重要なことは、もちろん “例によって” この 『別宮暖朗本』 では全く説明されていません。  もっともそれよりも、そもそも当時はそのような 発砲管制用の 「ブザー」 はありません (^_^; )

 もちろん、試射において前部砲塔のみを使用する場合とか、砲戦後半になって近距離で敵を袋だたきにするような場合には、「緩射」 によって “砲塔毎” の斉射を行ったことはありますが、それは砲戦を通してのそういう特殊な状況になった時に限られます。

 ましてや、前後砲塔合わせての斉発など、この動力の問題だけをとっても不可能なことです。

 当時は (と言うより昭和10年代に入るまで) 各砲塔の 「斉発」 での射撃さえ行われてこなかったのに、一体どうやったらこの著者の言う 「斉射法」 などが出来るのでしょうか?

 ということで、以上ご説明してきましたことから、例の 『別宮暖朗本』 にいう、日本海海戦において 「斉射法」 なる “著者の造語” による射法が行われた、などは “真っ赤な大ウソ” であることがお判りいただけるでしょう。

 たったこの砲塔砲の発射法一つをもってしても、この 『別宮暖朗本』 における著者のトンデモ主張の骨格をなす 「優れた砲術ソフトによって」 などというものの “大前提” が成り立っていない のです。 

 この “大嘘” (デタラメといっても良いでしょう) については、ご説明した砲台操法上だけでなく、射法上からしても明らかなのですが、それについては 「射撃指揮」 に関するところで、射撃指揮要具・兵器などとともに、ご説明します。

 知らない、判らない者が知ったか振りをして書く “空想” “妄想” というのは、実に恐ろしいでね。 その笑える妄想は、次にご紹介します。
(この項続く)

posted by 桜と錨 at 15:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2009年11月26日

艦砲射撃の基礎 − 連装砲の発射法 (5)

 さて皆さんお待ちかね、この項の最後として、笑える 『別宮暖朗本』 です。

 旅順艦隊旗艦ツェザレウィッチは独領膠州湾で抑留された結果、その被害を全世界にさらすことになった。 調査によると、12インチ砲弾は15発命中している。 ところが、このうちの 3発は1回の斉射 で与えたものである。 すなわち露天艦橋に命中してウィトゲフトを戦死させた1弾、後部艦橋を破壊した1弾、喫水線に命中し溶接部分をずらしこみ多少の浸水をもたらした1弾は、同一斉射の3弾 なのである。  主砲4門を同時に発射 して、夾叉(ストラドル)を与えたものであり(170ページ参照)、完全斉射法でなければ、このようなことはなしえない。 (p206−207) (p212−214) 
 (注) : 太字 は管理人による

 訳の判らない 「完全斉射法」 などというこの著者の “造語” や、「溶接部分」 などというふざけた記述はさておいて、

( 当時は未だ軍艦建造において溶接などなかったことは、皆さんよくご承知のとおりです (^_^) )

 たったこれだけのことで、どうして この3ヶ所に命中した12インチ砲弾が 「同一斉射」 のものであると “断言” できるのでしょう?

 ロシア側の記録に同一艦からの斉射で全く同時に命中したとの “確たる” 記録があるのでしょうか?

 ロシア側公刊の 『露日海戦史』 を始めとして、私の知る限りではそのようなものはありませんが。 もし本当にそのようなもがあるとするならば、それを提示して証明するのが先でしょう。

 ましてや、膠州湾での調査でも、それが “同時に” 弾着したものかどうかなど、“事後” に第三者では判るはずがありません。

 それ以前のこととして、既に4回に分けてご説明してきましたたように、大口径砲ではその動力の問題が主となって、各砲塔砲ごとにおいてさえ 「斉発」 は通常用いられてこなかったのですから、前後砲塔合わせての 「斉射」 など実施していないのに、です。

 何度もいいますが、この様な従来知られてきた事実に反するような内容を “誇らしげに” 蕩々と語るものの、なんらその確たる根拠を示していない のが、この 『別宮暖朗本』 での “常” です。

 この著者が自己のトンデモ主張を通すための、全くの史料的裏付けのない “妄想” としか言いようがありません。

 そもそも、この著者は別の箇所で、

 通常、弾着位置は左右に梯団状の2つのグループに落ちる ようにあらかじめ調整してある。 グループ間の距離は150メートル前後である。 これは戦艦や巡洋艦の長さが150メートル前後のためだ。 (p70) (p73−74) 
(注) : 太字 は管理人による

 帝国海軍より英海軍のグループ間距離は長く、250メートル程度だった。 これは装薬の品質管理や砲の設置整度が日本の方が上回り、狭くしても弾着位置の錯綜が少なかったためだ。 (p70) (p74) 

 と “堂々” と書いているんですが?

 もし仮にそうだったとするなら、弾着は上記の記述のように4発の 「同一斉射」 で左右が “1ヶ所” に集まるはずはありません。 この著者によれば2発ずつ左右に150メートルも離れているそうですから (^_^;

 その時その時の自分の “妄想” に自分で酔って、書いたことの矛盾に気が付かないんでしょうね。

 もちろん、この 「左右の梯団状」 などという “トンデモ話し” も、あり得るはずもない “素人さんの真っ赤な大ウソ話し” ですが (^_^;

 そんなことができるほど艦砲射撃の射弾精度が良いものだとするなら、旧海軍どころか、世界中の近代海軍が苦労などしません。

★  ★  ★  ★  ★

 更に、こうなるともう笑えるというより、開いた口が塞がらないとしか言いようがありません。 これも 『別宮暖朗本』 “トンデモ振り” の最高傑作 の一つです。

betsumiya_p206_s.jpg
( 『別宮暖朗本』 p206 (p213) より )

 絵葉書か何かの、訳の判らない不鮮明な写真を持ち出して、そのキャプションが

 黄海海戦における戦艦敷島の斉射。 手前の爆煙が後部主砲、少し開けて奥が前部主砲によるもの。 4門の主砲が同時に射撃 したことがわかる。 (p206) (p213) 
 (注) : 太字 は管理人による

 だそうです。

 こんな不鮮明なものでどうして “素人さん” に判断できるのか? それでなくても、発砲の微妙なタイミングというものは、1枚の静止画像からでは大変に判別がつきにくいものです。 特に大口径になればなるほど。

 そこで、です。 次の2つを比較してみて下さい。 右は 『別宮暖朗本』 のこの写真を左右反転したものです。

ashino_02_s.jpg   betsumiya_p206_mod_s.jpg

 同じものですね (^_^)

 この写真は、芦野敬三郎海軍教授撮影とされる黄海海戦における “超” 有名なものの一部分です。 元々のサイズのものはこれ ↓ です。

ashino_01_s.jpg
( 『日露戦役海軍写真帖』 より )

 そして、この元写真から更に当該部分を拡大したものを。

ashino_03_s.jpg

 後部砲塔は左右砲の仰角が揃っていないのがお判りでしょうか? 右砲が発砲位置、左砲が待止位置です。

 そう、本項で既に4回にわたり 証明してきた とおり、「斉発」では撃っていない のです。

 そして砲煙の濃淡具合が 『別宮暖朗本』 のものよりもっとハッキリしていますので、前後砲塔の発砲時機のズレによる、砲煙の形状の違いが明瞭にお判りになるかと。

 たったこんな写真一枚についてさえ、知らない、判らない、まともに調べていない。 その上で訳の判らない 「完全斉射法」 を実施した?  お粗末の一言。

 そしてダメ押し。 『別宮暖朗本』 で先の写真の 前頁 (文庫本では同一ページに) に掲載しているのがこの写真です。

betsumiya_p205_s.jpg
( 『別宮暖朗本』 p205 (p213) より )

 これも元々は芦野海軍教授の撮影になる、先の写真と同じ黄海海戦時の超有名な一枚ですが、これはどのように言い訳するんでしょう?

 前後砲塔の発砲のタイミングが 全く 違う、即ち斉射は行っていないことは、どんな素人さんの目にも明らかなんですが・・・・

 たった1頁前 (文庫本では同一ページ) のことでも、自分に都合の悪いことには “ほっかぶり” なんでしょうか? この著者は (^_^;

( 折角ですから、これも本来の写真を。 これ ↓ です。)

ashino_04_s.jpg
( 『日露戦役海軍写真帖』 より )

( 更にダメ押しついでに、これも拡大写真をお見せします。 ここでも後部砲塔の左右砲の仰角が異なることは明らかですね。 即ち 「斉射」 は実施していません。)

ashino_05_s.jpg

(この項続く)

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2009年12月07日

「命中率」 のこと

 某巨大掲示板において、次のような質問がありました。

 (Q) : 高角砲において門数あたりの射撃指揮装置の数がふえると命中率はあがるのでしょうか?

 これに対して、さる方から付いたレスは、次のようなものでした。 (長いので、ここで必要な部分のみ)

 (A) : 射撃指揮装置1基と、それによって管制される高角砲数門が1セットになって、1組の対空砲システムに成ります。

 1基の射撃指揮装置が管制する高角砲の門数を増やした方が、射撃指揮装置1基当たりの命中率が上がる理屈です。

 射撃指揮装置1基が砲6門を管制する形が最も効率的 (今でいう費用対効果に優れるということ) とされ、(中略) 高射装置1基が砲8門を集中管制する形になったため、高射装置1基当たりの命中率は上がる訳ですね。

 さて、皆さんならどの様に回答されますか?

 実はこの回答、「命中率」 という言葉 (用語) の使い方を間違えています。

 射撃用語上は 「命中率」 とは、あくまでも発射弾数に対する命中弾数の割合 (比率) のことです。

 もしこの回答者が、“目標に一発でも命中する確率” という意味、などとして言っているとすれば、それは 「命中率」 とは言いません。

 既に決まっている言葉の定義を勝手に変えて話そうとするならば、それにはその自分の定義を先に断ってから始めなければ、話しが通じません。

 そして、本来の 「命中率」 の定義に従うならば、

 砲と射撃指揮装置のそれぞれの種類 (型式) が変わらなければ、その数の組み合わせをどの様に変えようとも、まさにこの回答者の言う 「システム」 としての命中率は変わりようがありません。

 つまり、10門の砲を1基の射撃指揮装置で管制しようと、1門ずつ10基の射撃指揮装置で管制しようとも、砲1門当たりの性能、即ち 「命中率」 自体は変わりませんから、結局、どちらの組み合わせでも、発射弾数に対する命中弾数、つまりシステムとしての 「命中率」 は同じです。

 もちろん、他のどんな組合せでも同じです。 「命中率」 は変わりません。

 その砲と射撃指揮装置による 「システム」 としての性能が変わらないからです。

 元々の質問に対する回答は、「命中率」 という用語に関する限りはこれでOKだったのです。


 では、砲と射撃指揮装置の数の組み合わせを変えると何が変わってくるのでしょう? そう、同時対処 (射撃) 目標数は変わりますね。 それから?

 当然ながら、射撃指揮装置1基当たりの砲数が変わると、その指揮装置当たりの発射弾数が変わり、“「システム」 として決まっている命中率” による命中弾数が変わります。

 命中弾数が変わると言うことは、それによって目標を撃墜 (撃破) する確率、即ち 「撃墜 (撃破) 率」 が変わってきます。 当然、命中弾数が多いほど、即ち発射弾数が多く、砲数が多いほど、高くなります。

 また、旧海軍及び海上自衛隊でいう 「時間効力」 又は 「命中速度」 が変わってきます。

 この時間効力/命中速度といいますのは、単位時間当たりの命中弾数のことですから、システムの性能たる 「命中率」 が変わらなくとも、砲数、即ち単位時間当たりの発射弾数が増えれば増えるほど高くなるのは当然のことです。

 つまりこれを要するに、上記の回答者が言う “高射装置1基当たりの命中率” とは、本来この 「撃墜 (撃破) 率」、あるいは 「命中速度」 について、正しく説明しなければならなかったのです。

 えっ? 射撃指揮装置1基で多数の砲を管制して多数の発射弾数を発射した方が、やはり少ない砲数の場合より、目標に当たるかどうかの 「命中率」 は高くなるのではないのか、ですか?

 そう思われる方は、高角砲ではなくて、発射速度が高い機銃の場合で考えてみてください。 これの方が判りやすいと思います。

 そうです。 射撃指揮装置1基でどれだけ沢山の門数を管制し、どれだけ沢山の弾を発射しようとも、システムの性能が変わらない限り、その全発射弾数に対する全命中弾数の比率、つまり 「命中率」 は変わらないのです。

 もう一つの考え方として、確かに先の “目標に対して1発でも命中する確率” というものも、あることはあります。 これは当然ながら、同じ命中率ならば沢山撃った方、即ち門数が多い方が高くなります。

 しかし、これを 「命中率」 とは決して言わないことは前述のとおりです。

 それに、“目標に1発でも当たるか当たらないか” などということを問題にしても、射撃においては何の意味もありません。

 当たって目標を撃墜 (撃破) できるかどうか、あるいは単位時間にどれだけ多数の命中弾が得られるか、が問題であり、重要なのです。

 少なくとも基本的、基礎的な用語は正しく使いましょう。 でないと、書く方と受け取る側によって差違が生じ、混乱しますし、なによりも間違った解釈に繋がります。

 もっとも、この質問者の方も回答者と同じ意味で 「命中率」 と言ったのかもしれませんが・・・・

----------------------------------------------------------

 では、話しを一歩進めて、

 ある一定数の高角砲について、何基の射撃指揮装置を組み合わせれば、最大の撃墜 (撃破) 率が得られるのでしょう?

 考慮要素はお判りですね。 命中率、同時対処 (射撃) 目標数、命中速度 (時間効力)、そしてもう一つ、1目標の撃墜 (撃破) に要する命中弾数、です。

 皆さんご自身で考えてみてください。

(注) : 以上のことはあくまでもここでのお話しのために、極めて単純化したものです。 実際には、複数門を管制するための射撃計算上の問題や、多数砲を管制することにより撃墜率が高くなった場合の、他目標への目標移管の問題、等々、ややこしいことが沢山ありますが、すべて省略しています。


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2010年02月10日

艦砲射撃の基礎 − 連装砲の発射法 (補)

 砲術のお話しは、砲塔砲の発射法のところまで終わり、次の段階の準備を始めておりますが、その前にちょっと補足として。

 といいますのも、本項でご説明したことの証拠として前回の (5) において 『別宮暖朗本』 の掲載写真にて当時は “斉射” をしていない事実を証明しました。

 しかし中には、あれは 「敷島」 であって 「三笠」 は加藤砲術長指揮の下に斉射をやっていたのではないか? と思われる方もあるかもしれません。

 ということで、連装砲の発射砲に関連してもう1つご紹介します。

 次のもの ↓ は 「三笠」の黄海海戦の戦闘詳報である 『三十七年八月十日日露艦隊海戦第三回詳報』 の中に記されているものです。

mikasa_gunfiring_01_s.jpg

 これは、戦闘詳報の後半の戦闘被害に関する部分で、黄海海戦において砲戦の第2期が午後5時38分に開始された直後、午後5時56分の後部砲塔の筒発 (実際には当時は敵弾の命中と認識されていましたが) について、その発生時の 「砲身切断当時の目撃者の談」 として記されているものです。

 もちろんこの内容は、『極秘明治三十七八年海戦史』 でもそのまま収録されています。

 ここに出てくる 「砲台長」、「砲塔長」、「砲塔次長」 については既に (1) で当時の 『海軍艦砲操式』 を引用してご説明したところですので、お判りいただけていると思います。

 そこで赤線で記したところに注意してください。 「独立打方」 を行っていたと書かれています。 しかも砲台長の命により、です。

 この 「独立打方」 がどの様なものかも、既に (3) でご説明したところです。

 さて、これのどこがこの著者の言うわけの判らない 「斉射法」 なのでしょうか?

 したがって、この1件でも

 5000メートルを超える中長距離砲戦では、斉射法は必須である。 ところが、現在に至るも誰が斉射法を発見したのかははっきりしない。 ・・・(中略)・・・ ただ、どの艦隊が実戦で初めて実行したのかははっきりしている。 すなわち日露戦争の黄海海戦の連合艦隊である。 (p67) (p71) 

 すると 「斉射法を初めて実戦でやり、勝利した男」 の栄冠は戦艦三笠砲術長加藤寛治に与えられるべきだろう。 (p68) (p72) 

 と滔々と語るものが “大嘘” であることが明らかかと。

 とすると、6回に分けてご説明してきました本項だけでも、この 『別宮暖朗本』 におけるこの著者の主張の屋台骨として、当該本の背表紙などに “謳い文句” として堂々と印刷されている

 近代砲術の基礎となる 「斉射法」 を世界に先駆けて実戦で使用し、独自の砲術計算を編み出した連合艦隊の実像 (表紙カバー裏)

 日本は近代砲術の基礎となる 「斉射法」 を世界に先駆けて用いただけでなく、独自の砲術計算によって精度を高めていったのである。  (文庫版カバー)

 が、もう既に全く成り立たっていないことになります。

 もちろん、本件はこの後にご説明する予定の射法や射撃指揮法のところでも、更に多くの史料でもって詳しくご説明します。 加藤寛治自らが文書をもって “やっていない” と言っていることも含めて。

 また、本項で出てくる 「筒発」 についても、項を改めてご説明いたします。

(注) : 「筒発」 の 「筒」 は 「月」 偏に 「唐」 と書くのが正しい字ですが、常用フォントにありませんので代用しています。


(この項終わり)

posted by 桜と錨 at 13:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年02月14日

「筒発」 について (1)

 先の 「艦砲射撃の基礎 − 連装砲の発射法 (補)」 で 「筒発」 のことが出ましたので、ここでこれについて少しご説明してみたいと思います。

(注) : 「筒発」 「筒中」 の 「筒」 は 「月」 偏に 「唐」 と書くのが正しい字ですが、常用フォントにありませんので、本項においては総て 「筒」 で代用しています。


 皆さんご存じのとおり 「筒発」 といいますのは、砲弾を砲に装填した時から発砲して砲口を辞する迄の間で、即ち筒中において破裂する現象のことです。

 筒発は、「早発」 「腔発」 とも言う場合もありますが、後者は少なくとも旧海軍・海自では使いません。

 因みに、正確に言いますと 「早発 = 筒発」 ではありません。 筒発は筒中のみでの現象で、早発は筒外も含むからです。 そして、早発は特に信管の誤作動を示す場合が多いです。

 「筒発」 の原因には色々ありますが、大きく分けると次の4つになります。

     (1) 砲弾の不良
     (2) 信管の不良・誤作動
     (3) 高温砲
     (4) 操作ミスなどの人的要因

 それぞれについて簡単にご説明します。


(1) 砲弾の不良

 弾体の材質や製造法に問題があり、例えばクラックなどがある場合に、発射時にそこから裂ける、あるいはそこから侵入した高温高圧の燃焼ガスにより炸薬に火が付く、などが起こりえます。

 また、弾底の底螺の製造不良や設計不良がありますと、弾体との隙間から燃焼ガスが侵入することも考えられます。

 これについては、黄海海戦において12吋砲の筒発と疑われる事象発生時には総て 「徹甲榴弾」 を使用していたことから、この弾種の不良が疑われました。

 このことから、海軍大臣の訓令をもって12吋砲及び8吋砲について、明治37年8月23日には 「1号徹甲榴弾」、そして更に8月30日には 「2号徹甲榴弾」 についても “やむを得ざる時にのみ” に限られ、専ら 「鍛鋼榴弾」 を使用することとされました。

aphc_no1_01.jpg

 当初、艦政本部ではこの徹甲榴弾の弾体の材質であるクローム鋼の特性から、この後でご説明する 「高温砲」 との関係を次のように疑いました。

aphc_no1_02_s.jpg

 が、その後の試験の結果クローム鋼自体には問題がないとされ、製造不良以外の残された問題である弾底の構造そのものの安全対策を施すこととします。

 そして、翌38年1月以降、弾底を 「複底螺」 式に改造したものが供給され、これに限り使用することとなりました。

fukuteira_2_s.jpg

 下の左図が従来のもので、底螺に信管をねじ込む方式です。 そして右図が改良された複底螺方式で、信管を先端に取り付けた内側の底螺を外側の底螺にねじ込む方法となりました。


fukuteira_s.jpg

 もちろん12吋砲及び8吋砲のみならず、日露戦争期間中に発生したその他の砲種での筒発 (その疑いも含む) に関する報告によると、「徹甲榴弾」 を使用した場合の例が多く見られますし、また陸上弾庫などでの検査の際にこれの不良弾が見つかった例も報告されています。

 しかしながら、筒発と考えられる事象の中には 「鍛鋼榴弾」 の例もありますので、砲弾の不良という要因はこの徹甲榴弾に限ったことではありません。

 砲弾の不良という問題は、総ての砲種、総ての弾種についてこの可能性が潜在することになるわけで、当然ながら現在の砲熕武器においてもこの筒発の危険性が完全に “0” になったわけではありません。


(2) 信管の不良・誤作動

 信管の材質や製造法に問題がある、あるいは設計そのもの、特に安全機構が不十分な場合には、誤作動を起こす可能性があります。

 特に、砲身内に敵弾の断片や前弾の導環片などが存在するとそれを咬んだ砲弾が急減速を起こした場合や、外的な大衝撃(例えば敵弾の命中などによる)によって、信管が誤作動することが考えられます。

 あるいは、砲の総発射弾数が多くなり砲身の旋条 (ライフル)、特にその起端部が摩耗してきますと、発射時に砲弾の導環が旋条に完全に食い込むまでに距離が生じてこの時に砲弾に衝撃を与えるようになることから、これが信管誤作動の原因になると考えられました。

 日露戦争時は当時の旧海軍の主力信管であった 「伊集院信管」 について、これの誤作動が疑われたました。  一つには、この信管は開戦前から製造不良のものがかなりあることが言われており、明治37年1月には聯隊機密をもって各艦において不良が疑われる場合には直ちに返納・交換することが指示されています。

ijuin_fuze_02_s.jpg

 そしてこの不良のことは中央でも認識しており、日露開戦に備えて取り敢えずの改善を呉海軍工廠で施し、37年2月以降逐次艦隊に供給しました。

ijuin_fuze_no1_S.jpg

 それでも結局は、この信管は元々の設計そのものが早発防止のための安全機構が不十分であったことから、日露戦争直後の明治39年6月にはこれが改良された 「新式伊集院信管第一号」 が採用となり、製造され次第それまでのものと逐次交換されました。

 これらのこともあって、昭和初期の旧海軍では日露戦争時の筒発の多くはこの伊集院信管によるものと考えられていたのです。

(注) : 本項で引用した各史料は、弾底構造図以外は総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。


(この項続く)
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2010年02月15日

「筒発」 について (2)

(3) 高温砲

 砲を連続して発射すると、当然のことながら砲身が高温となります。 そしてこの高温によって砲弾や装薬中の火薬類の自然が生じる可能性が出てきます。 この状態を 「高温砲」 といいます。

 この場合、普通は先に装薬が発火して砲弾は発射されてしまいますが、状況によっては砲弾内の炸薬、あるいは信管などが起爆してしまう可能性が全く無いとは言い切れないものがあります。

 砲に余り詳しくない方々には、この高温砲が原因で砲弾が破裂して筒発となる、というと最も判りやすい様で、結構これを挙げている記事が見られます。

 『別宮暖朗本』 の著者流に言うと、「奇怪な論説であって、砲術を知らない人間の頭に入りやすいが (p295) (p306) 」、あるいは 「俗耳に入りやすい (p79) (p83) 」 ということになります。

 しかしながら、実際に日露戦争当時でも、筒発 (と疑われるものも含む) の状況を詳細に観てみれば、この高温砲が原因として考えられるものはまずありません。

 また、太平洋戦争におけるスラバヤ沖海戦やアッツ沖海戦での長時間の砲戦を考えていただいても、この高温砲による筒発というのが、それ程簡単に生起するものではないことがお判りいただけるでしょう。

 もちろん、日露戦争当時においては、この高温砲と筒発の関係、あるいは高温砲によって引き起こされるその他の筒発原因との関係はよく判っていませんでした。

 したがって、この高温砲も筒発発生の一原因と考えられていましたので、特に黄海海戦での教訓から、日本海海戦までに各艦ごとこの砲身冷却については様々な工夫・努力がなされました。

 例えば、「三笠」 では下図のように主砲用のキャンバス製の特製冷却装置を考案し、射撃中はその中を海水を通すことによって砲身温度を下げるようにしています。 丁度、現在のオットーメララの76ミリ砲の様な具合にです。

mikasa_gun_cooling.jpg

 更にこれに加えて、1〜2弾発射する毎に砲尾から砲身内に真水を注入して冷却措置を講じていました。 これらによって、「三笠」の戦闘詳報では主砲は海戦中ほとんど素手で触れる程度の温度であったとされています。

 しかし、それでも 「三笠」 の前部右砲は筒発を起こしたのです。 したがって、この時の筒発及びそれと疑われるものが、この 「高温砲」 によるものでないことは明らかでしょう。


(4) 操作ミスなどの人的要因

 例えば、日露戦争の頃の弾底信管式の砲弾の場合、弾庫に格納中は 「換栓」 という仮の栓が付けられており、戦闘前にこれを外して信管に換えることになっています。

 ところがこれを入れ替えずにこの 「換栓」 のまま発射した例が実際にあります。 しかも、開戦直前の訓練時と、黄海海戦及び蔚山沖海戦の実戦時に。 簡易な仮栓ですからその結果がどうなったかは言わずもがなでしょう。

kaesen_01.jpg

 また、その他に、底螺のねじ込みが不十分で、ガタがあったと考えられる例もありました。


 以上が筒発の原因についてのご説明ですが、筒発が起きた場合、多くは砲身の切断、亀裂などに繋がります。 しかし、砲弾の炸薬が 「不完爆」 であった場合には、砲身切断までには至らず、砲弾の破片が砲口から放出されるだけの様な場合も多くあります。 砲身毀損の状態は、それこそ多種多様です。

 そしてほとんどの場合、個々の筒発の原因は不明、あるいは解明不能であることです。 つまり同じ状況を再現できませんので、検証することが不可能であり、状況から “推定” するしかありません。

 したがってその対策は、結局は疑われる原因を一つ一つ潰していくしかないわけです。 これも筒発に関する重要な点になります。

 更に注意していただきたいのは、砲身毀損の総てが 「筒発」 が原因であるわけではない、ということです。

 即ち、砲身自体の材質・製造不良、命数超過、あるいは設計ミスなどにより、砲身が装薬によるガス圧に耐えられなかった場合や、あるいは外的要因、例えば敵弾の命中などによる場合も、砲身の毀損を生じることになります。

 そして砲身毀損の外見も筒発の場合と非常に良く似ている例が多く、その為もあってこの現象も一般的には 「筒発」 として言い含められていることもありますが、正しくはこれは 「筒発」 ではありません。 あくまでも砲弾が筒中で自爆した場合をいいます。

 そしてまたこれが筒発の問題を複雑にしている一因にもなります。

 例えば日本海海戦時の 「日進」 の主砲の毀損事故です。 この写真での砲身の折損状況は 「筒発」 によるものであると考えられています。

nisshin_gun_01_s.jpg

nisshin_gun_02_s.jpg

 しかし考えてみて下さい。 前部砲塔の左右両砲の全く同じ位置で切断していますし、しかも、後部砲塔左砲も残された内筒の切断位置からするとこれもほぼ全く同じ位置です。

 上でご説明した筒発の原因からすると、4門中3門についてこのようなことが起こる可能性は限りなく “0” に近いことがお判りいただけると思います。

 この 「日進」 の場合は、あるいは筒発があったのかも知れませんが、この砲身折損は明らかにそれだけが原因では無いことを示しています。

 しかも、「日進」 の戦闘詳報にも書かれているとおり、前部右砲は午後2時40分、後部左砲は午後5時20分、そして前部左砲は午後7時00分の事です。

 前部左右砲同時でも、ましてや3門同時に発生したのでもありませんし、また乗員はそれぞれの時に何れも砲に敵弾の命中があったと認識しています。

 したがって、単に砲身毀損の写真をみて、単純に 「筒発」 (だけ) によるものと言うことは出来ないということです。

(注) : 本項で引用した各史料は、写真以外は総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。


(この項続く)

posted by 桜と錨 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年02月16日

「筒発」 について (3)

 さて、これまでご説明してきたことに基づき、例によって 『別宮暖朗本』 の記述を検証してみることにしましょう。

 弾丸が砲身の中で爆発する現象。 第1次大戦直前に信管誤作動防止装置が発明されるまで、連続発射を行うと必ず発生した。 原因は複数あるが、多いケースは砲身が灼熱し、弾丸がそこを通過するとき信管が作動するものだ。 (p115) (p376) 

 (黄海海戦第2期の) 砲戦は東郷が同航戦からT字をきりおわり、やり過ごすまで1時間20分以上つづいた。 このような長期戦になると、12インチ砲は筒発を起こす。
 (p201) (p209) 
 (注) : 青地 ( ) 内は管理人が追加

 弾丸がそこを通過するとき信管が作動してしまうのだ。 だが、第1次大戦の直前に信管誤作動防止装置が発明されるまで、砲身灼熱による筒発を防ぐ手段はなかった。
 (p307−308) (p319) 

 “必ず発生” するわけがなく、発生しない砲の方が多いことはご説明するまでもないでしょう。 実際、黄海海戦でも日本海海戦でも筒発を起こさなかった砲の方が遥かに多いわけですから。

 しかも、もし高温砲が原因で筒発が “必ず発生” すると言うならば、筒発を起こさなかった大多数の砲のことは、どのようにこの著者は説明するのでしょうか?

 まあここは “発生する率が高くなる” という意味なんだと、善意に解釈することにしましょう。

 しかし、それはいいとしても、「信管誤作動防止装置」 なるものがどういものか全く説明されておらず意味不明ですし、それと “砲身の灼熱” と “信管の作動” とがどういう関係にあるのか全く説明されていません。

 そして、信管の一般的構造の概略をご存じの方はお判りのように、信管の早発防止という安全機構は、この著者の言う “砲身の灼熱” によるものとは全く関係がありません。 こんなことは常識の話しです。

 例えば、本家HPの 『砲術講堂』 の中で旧海軍の典型的な着発信管である 「一三式信管」 を解説しています。


 これをご覧いただけば、一目瞭然かと。

 信管の基本的なことについてさえ、知らない、判らない、調べていない、で書いていることが明らかでしょう。

 そもそも 「弾丸がそこを通過するとき」 の “そこ” とはどこのことを言っているのでしょうか?

 砲身で最も熱くなるのは、薬室とそれに続く弾室ですから、もしここのことを指すならば、筒発は尾栓が閉まる前の装填時に発生することになりますが?

 しかも 「高温砲」 が筒発の原因となる可能性は極めて低いことはご説明したとおりですから、この著者の言うことは全くの誤りです。


 普通、筒発は1門で起きる。 例外は、日本海海戦の初日午後5時過ぎ、日進の前部砲塔で起きた両門斉射時の同一タイミングでの筒発である。
 (p308) (p319−320) 

 この 「日進」 の例については、既にご説明したとおりです。

 普通の (これも変な言い方ですが) 筒発の原因だけでは考えられず、砲身不良も含めて複数の要因を考える必要がある、極めて特殊なケースと言えます。

 少なくともこの著者の言う “砲身の灼熱” ではあり得ないことは、もうお判りいただけるでしょう。

 そして 「両門斉射」 の 「同一タイミング」 など、一体どこに記録があるのでしょうか? 旧海軍はそんなことは一言も言っていません。 早い話が、「日進」 の戦闘詳報の確認 “すら” しないで空想・妄想を書いている、ということです。

 もっともこの著者なら、旧海軍は筒発のことを秘密にしていたので 「日進」 の戦闘詳報に事実のゴマカシがある、と言い出しかねません。 実際に他の箇所ではそう言うことを平気で主張していますので・・・・ ( 「203地点ニ敵ノ第二艦隊見ユ」 (後編) を参照して下さい。)
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 13:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年02月17日

「筒発」 について (4)

 『別宮暖朗本』 の検証を続けます。

 日露戦争で海軍首脳を一番悩ませたものは筒発だった。 黄海海戦でこれが多発した。(201ページ参照) (p305) (p317) 

 実は、司馬遼太郎が書く、海戦における日本側がうけた残虐な場面の描写の大半は、筒発事故である。
 「 後部の主砲である12インチ砲に砲弾が命中し、1門を破損した。 (後略) 」 ( 『坂の上の雲 (四) 』 55ページ )
 これは黄海海戦における三笠の筒発事故であり、第2回戦で起きた。
 (p306) (p317−318) 

 「残虐な場面の描写の大半は、筒発事故である」 などと言っていますが、さて 『坂の上の雲』 において、一体どこにそれが描写されているのでしょうか?

 繰り返しますが、この著者が理解し得ている筒発とは “砲身の灼熱” であり、この後で出てくる “魔の28発目” のことであって、「そうなんだ」 と断定して書いているもののことです。 この著者は筒発のそれ以外の原因については、説明どころか触れてもいないのですから。

 もし皆さんで当該文庫本の (四) 巻や (八) 巻が手元にある方は、ペラペラとで結構ですから確認してみて下さい。

 この 「三笠」 の後部砲塔の例も、「敷島」 や 「日進」 の例も違います。 つまり “1つも” ないことがお判りいただけるでしょう。


 折角ですから、黄海海戦における 「三笠」 後部砲塔の状況について、少し詳しくご説明しておきましょう。

 戦闘詳報にもあるとおり、明治37年8月10日の黄海海戦において、「三笠」 は旅順艦隊に対して午後1時15分に距離1万mで前部主砲をもって試射を行い砲戦を開始します。

 午後1時46分、距離8千で6吋副砲も射撃開始。 続く1時47分には距離7千mとなりそれまでの緩射撃から並射撃に移行します。

 そして、射撃開始からは鍛鋼榴弾を使用していましたが、2時45分以降は鍛鋼榴弾と徹甲榴弾を交互に打つこととしました。 (この徹甲榴弾は、先にご説明したとおり複底螺式に改良される以前の古い型式のものです。)

  午後3時21分、敵艦隊との距離が開いたため射撃を中止します。 ここまでを射撃の第1期としており、1万〜7千mの遠距離砲戦です。

 そして約2時間後の午後5時38分、距離7千3百mをもって再び射撃を開始し、午後6時34分には12听砲も射撃に加わります。 射距離はだんだん短くなり、午後6時45分には6千4百m、同57分には3千7百mとなり、午後7時頃からは敵艦隊を包囲した形での砲戦となります。

 その後は再び距離が開き始め、午後8時2分、日没をもって射撃終了となります。 ここまでが第2期の射撃です。 射距離7千3百〜3千2百m (この海戦における 「三笠」 の最少射距離) で、この第2期はほぼ日露開戦前に旧海軍が予期した砲戦距離であったと言えます。

 この砲戦の間、「三笠」 は旅順艦隊の5番艦を除く1〜6番艦に対して、適宜目標変換を行いながら射撃を継続しました。

 そこで後部主砲塔ですが、第2期の射撃が開始された直後の午後5時56分、敵弾が砲塔前部に命中したことに起因して、右砲折損 (筒発を伴う)、左砲故障、砲塔の旋回・揚弾不能の被害を受けます。

( 因みに、この時に後部主砲塔砲台長として指揮していた伏見宮殿下が負傷されたことは有名な話しです。)

 ところが、その後部右砲は午後2時30分頃から午後4時15分までの間、発火装置が故障してその修理のために射撃不能であったことから、発砲はしていません。

 つまり、午後2時30分頃から第2期の砲戦が開始される午後5時38分まで、約3時間、後部右砲は撃っていない のです。

 したがって、筒中の冷却措置の実施も併せて、第2期砲戦開始までには砲身は充分冷めていましたので、午後5時56分の砲塔事故の原因がこの著者の言う “砲身の灼熱” によるものでないことは明らかです。

 加えて、射撃時間がより長く、より多数の砲弾を撃った後部左砲や前部左右砲は筒発を起こしていません。

 また、後部右砲は発火装置故障があったため、この第2期の砲戦開始から始めて徹甲榴弾を使い始めたことにも注意してください。

 こんなことは 「三笠」 の戦闘詳報を確認すればキチンと書かれていることです。 この著者はこのことを一体どの様に説明するつもりなのでしょうか?

 しかも、もし右砲が筒発 “だけ” によるものとすると、砲身切断によって厚い砲塔前盾の装甲が破壊することはあり得ません。 また、砲身切断位置からして左砲砲尾の故障に至ることも考えられません。

 加えて、敵弾の命中 “も”、当の砲塔員の証言などとも併せると実際にあったことと考えられます。

 したがって、この後部右砲の事故は、1つあるいは (多分) 複数の この著者が断定する “砲身の灼熱” 以外の原因 によるものと言えます。

 以上のことから、司馬氏が 『坂の上の雲』 で描く艦上の戦闘シーンは、司馬氏が執筆時点で参考とすることができた当時の史料の状況を考えれば、決しておかしくはありません。 むしろ 小説 としては、正しく、リアルに描かれてると言えるでしょう。

 それに対して、豊富な一次史料が使える時代になっいるにも関わらず、それを知らず、使わず、理解せず、にウソや誤りを書き連ねるこの著者など、その足下にも及びません。

 司馬遼太郎氏を貶め、それによって自己の見識の高さ (と自分では思っている) をアピールしようとするためならここまで言うのかと、この著者は。
(この項続く)

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2010年02月18日

「筒発」 について (5)

 更に 『別宮暖朗本』 の検証を続けます。

 現場では 「魔の28発目」 とささやかれていた。 すなわち筒発は試射第1発目から28発目に起きることが多かった。 (p307) (p319) 

 筒発を知るどこの海軍当局も極秘にした。 この事実を知らないと 「魔の28発目」 で砲塔一つの戦力が失われるわけだから、知った方は秘密にしないはずがない。
 (p308) (p320) 

  “ささやかれていた” ということは、まずその 「魔の28発目」 の筒発事故が多発した、という史実がなければなりません。

 まるでさも日露開戦前からそのことが判明していたようなことを言っていますが、そもそも開戦前の平時の訓練でそんな連続射撃をしていたのかどうか、調べたのでしょうか?

 とすると、黄海海戦も含めて、日本海海戦以前で28発目に筒発を起こした例が一体幾つあったのでしょうか? それは一体どの様な史料に基づくのでしょうか?

 しかも “現場ではささやかれていた” などと 「歴史の評論」 として極めて不適切な表現を使っていますが、この著者は一体何を根拠に “ささやかれていた” と言っているのでしょう? どこにそんなことが書かれた史料があるのでしょうか?

 既にご説明した筒発の原因を考えていただければお判りのように “28発目” などという定量的なものに繋がる要素は全くありません。

 確かに20発以内の場合にはほとんど筒発の事例はありません。 しかし、それは、例えば鍛鋼榴弾のみの射撃から徹甲榴弾併用へと移行した時期であるとか、あるいは戦闘前の時間のある間に充分な準備を行った砲弾を撃ち尽くした後であるとか、敵弾の命中などの外的要因は、等々色々なことが関係したとも考えなければなりません。

 また、黄海海戦でも日本海海戦でも、射撃開始からずっと同じペースで打ち続けていたわけではありませんし、しかも当然ながら各艦毎でも射撃の仕方は異なっています。

 したがって、“砲身の灼熱” による一律の 「魔の28発目」 など何の根拠もないことですし、意味もありません。

 これは先にご説明した黄海海戦における 「三笠」 後部左砲の筒発の例でも明らかでしょう。

 また、例えば、日本海海戦時の 「敷島」 前部右砲毀損は、当時の発射弾数11発目 (当該砲身の累計で98発目) に過ぎませんし、また筒中にはほとんど異常はなく、毀損の状況から筒発とは考えられていません。

 あるいは日本海海戦時の 「富士」 後部右砲毀損は、敵弾によるものであることが明らかにされております。

 これらは総て各艦の戦闘詳報などを読めば直ぐに明らかになることです。

 もしこの著者が本当にこのようなことを考えているなら、その根拠をキチンと明示するべきでしょう。 知らない、判らない、調べていない、うえでの短絡的、感覚的な “思いつき” を書き並べたに過ぎず、あまりもいい加減です。


 東郷司令部は、この原因についてさまざまな仮説をおいたと思われるが、有力なものとして残ったのが 「砲身灼熱説」 だった。 つまり、大口径砲ほど装薬の量が多くなるが、その熱エネルギーを吸収すべき砲腔面積は比例して広いわけではない。 このため12インチ砲では、20発前後から砲身の付け根が灼熱してしまう。 (p307) (p319) 

 東郷は、25発で主砲射撃をやめ、ホースで海水をかけ砲身冷却をはかることにした。 このための時間稼ぎで、ロシア艦隊主力をやりすごしたのだ。 また、筒発の少ない12ポンド砲を活用することにした。 (p309) (p320) 

 この結果、2時11分の12インチ砲試射開始から、25発前後うった2時57分に 「打方やめ」 の命令が出され、乙字戦法も実行にうつされなかった。 (p309) (p320) 

 日本海海戦において 「三笠」 は12インチ砲では試射をしていない、というツッコミはさておき、

 午後2時11分に射撃を開始して2時57分までの46分間で25発前後撃った、とこの著者は言っていますが、とすると、最初の試射の間も含めて平均1.9分/発の発射速度になります。

 この著者が “これが艦砲射撃だ” という、砲手はただ機械目盛に併せるだけの操作であとは発射のベルに合わせて引き金を引くだけ、などと戯言をいっている、単純なカタログスペックによる最大連続発射でもそのようなことはあり得ませんが・・・・ もうこれだけでも “大うそ” が明らかかと。

 しかも、「三笠」 は日本海海戦で主砲は全部で124発、単純な計算で1門平均31発しか撃っていないのに、最初のたった46分間で各門既に25発? 午後7時10分の射撃中止まで、あと4時間強も砲戦が続いたのに?

 それに、「三笠」 の戦闘記録、戦闘詳報にはチャンと 「緩射撃」 「並射撃」 「急射撃」 と区別して書かれています。 この著者、「三笠」 の戦闘詳報さえ読んだことがないのか、あるいは読んでもこれの意味が判らないのかのどちらかです。

 ましてや、砲戦の最中に砲身冷却をするために時間稼ぎをした、などあまりにもバカバカしくてコメントする気にもなりませんが・・・・

 そもそも、東郷がそのために 「打方止め」 の命令を出したなど、一体どこにその記録があるのでしょうか?

 生きるか死ぬか、そして国運がかかっている海戦の最中に、筒発が怖くて司令長官が射撃中止を命ずる? エアコンの効いた部屋の机に座って、紙の上でしか物事を知らない者の戯言ですね。

 しかも、砲身冷却のための時間稼ぎで射撃を止めたと言っていますが、一体何分止めたのか?

 この時に 「三笠」 が射撃を一時中止したのは、午後2時53分からの左8点変針を2回行った後、午後3時11分に左舷射撃を開始するまでのたった18分間です。

 この著者の言う “砲身の灼熱” を冷却するのための時間がたったの18分? そのために司令長官がわざわざ時間稼ぎで射撃中止を号令した?

 艦の回頭によって目標照準が出来なくなったために、当然のことことして砲戦指揮官たる艦長の措置として射撃を一時中止し、そして反航となって反対舷での対勢が定まった時に艦長の当然の措置として射撃を再開したまでです。

 加えて、「筒発の少ない12ポンド砲を活用することにした」 など、一体何を寝ぼけたことを言っているのでしょうか、この著者は?

 近距離になれば12斤砲も有効射程に入りますので、これを使用することは当たり前のこと。 そんなことはキチンと戦闘詳報にも書かれています。

 「三笠」 の12斤砲は、距離が4600mに近づいた午後2時22分から射撃を開始しており、2時53分の回頭開始より遥かに前です。

 しかも、この回頭時間中に射撃を一時中止したのは主砲・副砲だけではなく、この12斤砲も含めた総てです。 射撃舷が替わるのですから当たり前のことです。

 戦闘が開始された後の砲戦において、どの砲・砲種でどのように射撃するかはひとえに個艦の艦長の問題・職責であって、艦隊の司令長官ではありません。

 司令長官がそのようなことを直接に指示・命令するのは、余程の事情・理由があった場合に限られます。 この時のような、単なる戦術・砲戦運動に伴うものなど、全くその範疇ではありません。

 こんな初歩的な常識さえも、知らない、判らない、調べていない、なのでしょうか。 全くもってお粗末。
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 21:12| Comment(7) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年02月21日

「筒発」 について (6)

 筒発に関する 『別宮暖朗本』 のウソ、誤りはまだまだあります。 そして、ここまで来ると、全く何をか況やです。

 主砲は連装砲塔に装備されており、1門の砲身が飛び散ると、他の1門に当たり、砲身を曲げてしまうことから、2門とも使用不能になる。 (黄海海戦で) 日本の戦艦4隻のうち3隻で筒発が起き、6門が使用不能となった。 (p202) (p209) 
 (注) : 青字 ( ) 内は管理人が追加

 連装砲塔だと1門が破壊されると、切断された砲身が別の1門にもあたり、砲身を曲げてしまい、使い物にならなくさせる。 それが連装砲塔の欠陥である。 ところが三連装にすれば、もっと打撃は大きくなる。 第1次対戦終了まで、日・英・独は弩級戦艦に三連装砲塔を搭載することをあくまで拒絶した。 (p308) (p320) 

 ドイツがどのように筒発の秘密を知ったかは不明である。 ただ友邦オーストリア=ハンガリーが三連装砲塔を計画したとき 「理由はいえないが、やめた方がよい」 と説得につとめた、と言われる。 (p308−309) (p320) 

 筒発を含む砲身毀損というものは、砲熕武器を扱う軍ならどこの国であろうと直面する問題ですから、ドイツ云々などは実にいい加減ですが (しかも 「と言われる」 などの無責任な文言で)、はさておき、

 「別の1門にもあたり、砲身を曲げてしまい、使い物にならなくさせる」 という実例がどこにあるのでしょうか? 一つもありませんが。

 例えば、「三笠」 では、黄海海戦時の後部右砲毀損時も、左砲砲尾部に損傷を受け、また砲塔旋回不能となったたものの、乗員修理により翌日には復旧し左砲射撃は可能となっております。 しかも、その左砲の損傷は右砲の破片によるものではありませんし、ましてや “砲身が曲がった” わけでもありません。

 したがって、黄海海戦では戦艦4隻中のうち、「三笠」 が一時的に後部両砲が射撃不能となったのを除くと、実質的に左右両砲が使用不能となったものは 「朝日」 の後部砲塔のみです。

 しかも、この 「朝日」 にしても、この著者が言うように片方の筒発によって左右両砲が使用不能になったのではなく、後部左砲は20発目、右砲は26発目で、それぞれ別個に筒発を起こしたものです。

 また、日本海海戦時の 「三笠」 の前部右砲筒発時は、左砲及び砲塔旋回装置に被害はなく、右砲筒発発生から (砲塔天蓋の復旧作業をして) 36分後には左砲による射撃を再開しています。

 これを要するに、この著者が言う筒発による 「それが連装砲塔の欠陥である」 などは、全くありません。 こんなことは一度でもキチンと確認さえすればすぐ判ることです。

 しかも、三連装を採用しない理由が筒発? この著者、本気でそんなことを思っているのでしょうか?

 連装と三連装の問題は、砲塔・装填機構の設計、弾薬庫を含むスペースと重量の問題、船体防禦との関係、戦闘被害時の問題、そして既にご説明した砲塔動力による斉発の問題、更に砲術思想など、各国海軍それぞれの事情に応じて総合判断したことであることは、皆さんよくご存じのとおりです。

 筒発など何の関係もないことは申し上げるまでもありません。 お粗末に過ぎます。

 すべての原因が究明されたわけではなく、現在の戦車砲などは、筒発を避けるため、滑腔砲 (かっこうほう) といわれるライフルを切らないタイプが主流となっている。
 (p115−116) (p376) 

 筒発の原因が 「すべて究明されたわけではない」 どころではなくて、個々の事象の原因はほとんどの場合究明しえない、ものであったことは既にご説明してきたところです。

 しかもこの著者はその原因については “砲身の灼熱” 以外は全く触れていないにも関わらず、です。

 その上で、戦車砲のスムース・ボアが筒発防止のため? 旋条と筒発との因果関係を一言も説明することなく、なぜその防止がスムース・ボアに繋がるのか?

 しかも、APFSDS弾などはそのために開発されたとでもいうのでしょうか?

 もうここまでくると開いた口が塞がりません。 “知らない、判らない、調べていない” を棚に上げて、好き勝手な空想・妄想を書きつづるにも程があるかと。


 以上6回に分けてご説明してきましたが、この筒発関係だけで 『別宮暖朗本』 は一体何ページをウソと誤りで埋め尽くしていることか。
(この項終わり)

posted by 桜と錨 at 12:50| Comment(6) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2010年03月21日

「距離通報器」 について (1)

 日露戦争当時の射撃指揮や射法といったことに入る前に、当時の射撃指揮要具がどのようなものであったかについてご説明しておきましょう。

 これによって、今日のような射撃指揮装置などがまだ存在しなかった時代において、どの様な射撃指揮や射法が可能であったかが判るからです。

 最初は 「距離通報器」 について。

 例によってまず 『別宮暖朗本』 の記述から引用します。

 日露戦争のころ、砲術における三種の神器とされたのは、照準望遠鏡、測距儀、トランスミッターの三つで、このうち照準望遠鏡はあまり重要ではない。 (p74) (p77) 

 照準望遠鏡 (照準器) と測距儀の重要性については既にご説明してきたところですので、これに関連する同書の記述は総て全くの誤りであることはご理解いただいていると思います。

 それでは、残る 「トランスミッター」 とは何なんでしょう?

 英語の transmitter のこととすると、それならば日本語にすると「伝達装置」という意味も無いわけではありませんが、一般的には 「発信器」 又は 「送信機」 と訳されます。 では 「受信器」 は無いのか、というツッコミはともかくとして、これでは何のことか全く不明です。

 この著者の言うトランスミッターなるものについては、旧海軍には 「通報器」 と言うちゃんとした用語が日露戦争当時から存在します。 わざわざトランスミッターなどと書かなくても、例えばこの著者が主要参考文献の一つとしてあげている 「三笠」 の戦時日誌を纏めた 『戦艦三笠すべての動き』 (エムティ出版、平成7年) の中でも度々出てきます。

( 『別宮暖朗本』 を読むと、もしかするとこの著者の言うトランスミッターと旧海軍の言う通報器とが同じものであると言うことがこの著者には判っていないのでは? とも思わされます。)

 当時この通報器には 「距離通報器」 と 「号令通報器」 の2つがありました。 またこの両者を合わせて 「距離号令通報器」 と呼ぶ場合もあります。

 それではこれはどの様なものなのでしょうか。 これについては、『別宮暖朗本』 ではプリボイの著書を引用して次の様に書かれています。

 戦艦アリヨールの乗組員プリボイが、この機械 (文字盤)、バーアンドシュトラウト社のトランスミッターについて語っている。
 「われわれの軍艦では、砲術長が砲火指揮所から文字盤によって砲手を指揮するよう訓練していた。 こういう文字盤は、各砲塔、砲台、砲甲板の遮蔽砲 (ケースメートに格納された砲のことか) にも備え付けてあった。 その文字盤の各指針は、電流の力によって働き、打ち方始め、打ち方止め、目標割当、照尺距離 (苗頭と照尺のことか)、装填すべき砲弾の種類、などがこの文字盤の指針によって示されるのだ。」 (中略) (プリボイ 『バルチック艦隊の潰滅』 ) ( )内は付記。
 やり方自体は連合艦隊も変わらなかったものと推定される。 (p76) (p79) 

 「( ) 内は付記」 というその内容はともかく、

 「通報器」 というものについての、このプリボイの小説の記述は合っています。 即ち、発信側の文字盤上の指針の動き・位置と同一のものが受信器側に表示されるものです。 それだけのもの、と言ってしまえば確かにそれだけのものです。

 残念ながらこの当時の旧海軍の通報器の写真や図面がありませんので、どの様な形状のものであったかは不明ですが、下に示す昭和10年当時の通報器とイメージ的には同じ様なものです。

Range_transmitter_02.jpg
( 海軍兵学校 「砲術教科書」 より )

 また、当時各艦に装備した通報器は、英国よりの輸入品、呉工廠にて作製したもの、そして工作艦 「関東丸」 が現地工作したものが混ざっており、これらのものは形状も含めて同一かどうか不明です。

 そして旧海軍の装備した距離通報器は、当初のものは距離の目盛が100m単位で5000mまでしかありませんでした。 そこで 「三笠」 では独自に (恐らく 「関東丸」 の協力を得て) この目盛板を改造し100m単位で9000mまでにした上で、明治37年9月に黄海海戦の戦訓としてこれを正式採用するよう意見書を出しました。

 また、同じく号令通報器についても、独自に改造の上、正式に号令数を増やすように所見を出しました。

Range
( 当初装備時の発信器盤面 )

Range
( 「三笠」 改造の発信器盤面 )

 ところが、当時の発信器側は距離発信器と号令発信器とが一つのものとなっているため、文字の表示数 (目盛の数) を増やすことによって、当然のことながら表示の一つ一つの幅と大きさが小さくなってしまい不便なものとなりましたので、同時に発信器側も受信器と同じように距離発信器と号令発信器を別々のものとするように意見を出しています。

Range_reciever_02_s.jpg   Order_reciever_02_s.jpg
( 左 : 「三笠」 改造距離通報器受信器盤面  右 : 同号令通報器受信器盤面 )

 また、併せて 「苗頭通報器」 も次のようなものの装備が必要であるとしています。 しかし、「三笠」において日本海海戦までにこの苗頭通報器を装備したのか、装備したとするとどのようなものであったのか、は不明です。

Def_transmitter_01_s.jpg
( 「三笠」提案の苗頭通報器盤面 )

 加えて、ここで示される数値は後の時代のような角度表示ではなくて、ノット (速度) 表示であることに注意が必要です。 ( この苗頭の表し方については射撃指揮に関することになりますので、また後で項を改めてご説明する予定です。)

 問題なのは、 『別宮暖朗本』 の著者が折角プリボイの著述を引用しているにも関わらず、この通報器がどの様に使われるものなのか、どの様にしか使えないものなのか、を全く知らない、理解していないことです。
(この項続く)

(注) : 本項で引用した各史料は、特記するもの以外は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。

posted by 桜と錨 at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し