著 : 森 栄(海兵63期)
またこの頃の行動は余りにも激しいので、私はよく古瀬先任将校を捕まえて、
「我々はモルモットのように実験されているようだね。 何日したら気が狂うか、何日したら体が参るか。 しかし人間の神経と体は、案外強いようだね。 ハハハ!」
と言って笑い合ったものである。
よその艦ではソロソロ艦長の不眠症が話題になったり、艦長の神経過敏が話題になったりしていたが、私は印度洋で既に不眠症を卒業していたので、これから後半年ぐらいはまだもてそうであり、艦橋の折り椅子に座って直ちに眠り込む芸当は得意中の得意となったが、これができなかったら、そのころは既に参っていたであろうし、また折り椅子の背があと45度ぐらい後方に傾いてくれたら、もっとよく熟睡できたことであろうとも思った。
さて19年6月19日高雄についた「朝顔」は、珍しく2晩港内で安眠し、21日1500タマ21A船団2隻を「朝顔」1隻で護衛しマニラ向け出発したが、このときもバシー海峡西方は遠く西方に離して通過し、あたかも香港かサイゴンに行くように見せかけ、敵潜追従の中程以上のところで急にマニラ向け大変針をしたのであるが、途中無事25日1600マニラに入港した。
私にとってマニラ湾は初めてであったが、名にしおう 「マニラ湾の夕日」 は目も覚めるように美しかった。
同地には比島方面魚雷艇隊司令である級友巨勢泰正少佐がいたので、早速その司令部を訪問し、珍しい携帯糧食の御馳走になりつつ、暗き前途を互いに案じた。
(原注) この級友は戦後無実の罪で、危うくモンテンルパの露と消えるところ、絞首刑寸前で助かって生還した。
翌26日2200、マタ24船団6隻を、海8、海2、「第3拓南丸」の3隻が護衛して北上するに際して、マニラ湾外に敵潜ありとの情報があったので、マニラ湾外護衛強化のため「朝顔」はかり出されて同行したところ、船団は15°−40’N、119°−40′Eにて敵潜と遭遇したので、船団はセンゲットに避泊し、「朝顔」は対潜掃討に当たったが敵情を得ず、29日1730単独マニラに帰投した。
(原注) このころマニラ沖には敵潜が2隻ぐらい集まっているような状況だったらしく、マニラ司令部でも敵潜海面を船団が突破するのに区間護衛強化のため、丁度バシー海峡のように、手持ちの護衛艦1隻を区間だけ増強したものである。
「朝顔」の次の護衛の予定は7月3日海南島行き船団と聞いていたので、暫くマニラの陸上の空気でも吸って休養したいものと思っていた。 そして私は知人のマニラ新聞社出版部長石川欣一氏を訪ねた。
候補生時代、東京の叔父宅の隣人であった同氏は、当時の随筆、スケッチ、英文訳者等としての優しい面影がスッカリ一変して、悟りを開いた古武士のようであったが、風雲急を告げる第一線における奇遇を心から喜んでくれ、
「森君僕はねー、敵がマニラに来襲したら華々しく討死する覚悟だよ。 ときに一富君はどうしているかねー。」
一富清太は候補生当時私とともに石川家でよくお世話になった私の特に親しい級友である。
「彼は潜水艦長として太平洋に活躍中で、丁度私と反対の仕事をやっているんですよ。」
と説明したら、石川先生はるか東京の昭和11年ころの良さ時代をしばし偲んでおられる様子であった。
(続く)