2009年02月27日

聖市夜話(第26話) 三亜の白砂(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 またこの頃の行動は余りにも激しいので、私はよく古瀬先任将校を捕まえて、

 「我々はモルモットのように実験されているようだね。 何日したら気が狂うか、何日したら体が参るか。 しかし人間の神経と体は、案外強いようだね。 ハハハ!」

 と言って笑い合ったものである。

 よその艦ではソロソロ艦長の不眠症が話題になったり、艦長の神経過敏が話題になったりしていたが、私は印度洋で既に不眠症を卒業していたので、これから後半年ぐらいはまだもてそうであり、艦橋の折り椅子に座って直ちに眠り込む芸当は得意中の得意となったが、これができなかったら、そのころは既に参っていたであろうし、また折り椅子の背があと45度ぐらい後方に傾いてくれたら、もっとよく熟睡できたことであろうとも思った。

 さて19年6月19日高雄についた「朝顔」は、珍しく2晩港内で安眠し、21日1500タマ21A船団2隻を「朝顔」1隻で護衛しマニラ向け出発したが、このときもバシー海峡西方は遠く西方に離して通過し、あたかも香港かサイゴンに行くように見せかけ、敵潜追従の中程以上のところで急にマニラ向け大変針をしたのであるが、途中無事25日1600マニラに入港した。

 私にとってマニラ湾は初めてであったが、名にしおう 「マニラ湾の夕日」 は目も覚めるように美しかった。

 同地には比島方面魚雷艇隊司令である級友巨勢泰正少佐がいたので、早速その司令部を訪問し、珍しい携帯糧食の御馳走になりつつ、暗き前途を互いに案じた。

(原注) この級友は戦後無実の罪で、危うくモンテンルパの露と消えるところ、絞首刑寸前で助かって生還した。


 翌26日2200、マタ24船団6隻を、海8、海2、「第3拓南丸」の3隻が護衛して北上するに際して、マニラ湾外に敵潜ありとの情報があったので、マニラ湾外護衛強化のため「朝顔」はかり出されて同行したところ、船団は15°−40’N、119°−40′Eにて敵潜と遭遇したので、船団はセンゲットに避泊し、「朝顔」は対潜掃討に当たったが敵情を得ず、29日1730単独マニラに帰投した。

(原注) このころマニラ沖には敵潜が2隻ぐらい集まっているような状況だったらしく、マニラ司令部でも敵潜海面を船団が突破するのに区間護衛強化のため、丁度バシー海峡のように、手持ちの護衛艦1隻を区間だけ増強したものである。


 「朝顔」の次の護衛の予定は7月3日海南島行き船団と聞いていたので、暫くマニラの陸上の空気でも吸って休養したいものと思っていた。 そして私は知人のマニラ新聞社出版部長石川欣一氏を訪ねた。

 候補生時代、東京の叔父宅の隣人であった同氏は、当時の随筆、スケッチ、英文訳者等としての優しい面影がスッカリ一変して、悟りを開いた古武士のようであったが、風雲急を告げる第一線における奇遇を心から喜んでくれ、

 「森君僕はねー、敵がマニラに来襲したら華々しく討死する覚悟だよ。 ときに一富君はどうしているかねー。」

 一富清太は候補生当時私とともに石川家でよくお世話になった私の特に親しい級友である。

 「彼は潜水艦長として太平洋に活躍中で、丁度私と反対の仕事をやっているんですよ。」

 と説明したら、石川先生はるか東京の昭和11年ころの良さ時代をしばし偲んでおられる様子であった。
(続く)

2009年02月28日

聖市夜話(第26話) 三亜の白砂(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は今や小なりといえども一国一城の主である。 今こそ単身第一線に来ている御不自由な先生を楽しませてあげよう、あるいはともにこれが最後かもしれない。

 先生の住まいは幸い海岸に近い所で近くに小桟橋があると聞いた。 では明日内火艇を仕立てて、先生に珍しい艦内酒保の酒、ビール、菓子、つまみ物を一揃い搭載し、先任将校、航海長、機関長、軍医長、主計長などを伴い、マニラ湾を見ながら大いに飲みましょうと提案した。

 海外の見開広く、特によくアメリカに通じ、アメリカの知人も沢山有する先生が、こともあろうに当のアメリカ軍相手に、華々しく最後を飾ろうとは!

 先生は広く海外と比較してものを考える国際人であった。 また個人の尊厳を尚ぶ自由人でもあったから、なお更にその覚悟の悲壮さに打たれた。 またこれこそ戦前の全日本人が 「一且緩急の際は身命を堵して国を守る」、という原点こ戻った勇壮な姿でもあった。

 先生はお酒も好きで東西の酒にも通じていたが、万事不自由な第一線だから海軍の酒保のお酒でも許していただけるであろう。 先生は私の計画にスッカリ喜ばれ、久し振りに若返って大いに飲み喰い騒ぎましょう、ということになった。

 乗員は半舷ずつ入湯上陸し、その多くは初めて見るこのスペイン後アメリカ風の美しい町の風景を馬車に乗りながら楽しんだのであったが、私も明日の石川先生邸における宴会の手配を終えて明日を楽しみながら艦内に泊まった。

 「朝顔」の古い乗員は、大西前艦長の時代の18年6月、丁度1年前のマニラを知っていたが、当時物価が安く品物豊富で治安も余り悪くなかったこの町も、今や敗色濃くゲリラは活動し、市内の品物は底をつき値段は高く、日本軍の活動を横に見る比島人の眼は冷たく、市内でも夜間は日本人に対するテロがあるというので、下士官兵の上陸員も安心して陸上に泊めるわけにはゆかなかった。

 29日夜、最後の上陸員も帰艦し終わった後であったと思うが、司令部より急報あり、

 「ヒ67船団12隻、護衛艦7隻、22日マニラ向け門司発、29日1515、17°−13’N、118°−22’Eにて貨物船2隻雷撃を受け小破、「朝顔」は明朝発、船団と洋上にて合同し護衛に当たれ。」

 ということになった。

 私はすぐ在艦員を調べた。 機関長、缶長不在。 「よし、心当たりを探せ」 と士官を派遣したが消息不明、「シマッタ! 私はもっと敵情を話しておくべきであった」 と思ったが後の祭り。

 命令によれば「明朝発」とある。 この意味は日出前でも出港可能になったらなるべく早く出発せよ、と解するのが常道であった。

 私は翌30日の日出頃から艦橋に上り、眼鏡で桟橋附近を探し求めた。 もちろん機関長、缶長現れ次第これを収容するための内火艇は既に桟橋に派遣されていた。

 大体戦時中の後発航期罪は敵前からの逃亡を防ぐ一法として特に厳格であるが、彼ら2人にはもちろんそんな気は微塵もない。 しかし動機はいかにあろうとも結果は同じである。 親愛なる機関長、缶長を罪人にしたくない。

 艦長に一任された出港時刻を私は0700ギリギりと見た。 錨鎖は0700を目標として遠慮なく縮めてゆかれた。 「万一間に合わぬ場合には2〜3日マニラに置いておく」 と私は決意したが、その辛さはほかの場合と違ってまた格別のものであった。

 0700が来た。 私は一応公式に地球から縁を切って、「朝顔0700出港」 を記録してしまった。

 この全く直後に2人は桟橋に着いた。 2人は無事「航海中」の「朝顔」に帰った。 私は2人の手を握りながら、日頃の勤務抜群なこの2人を罪人にしなくて済んだ幸運さをしみじみと味わったのであった。
(続く)

2009年03月01日

聖市夜話(第26話) 三亜の白砂(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 単独艦「朝顔」は2人を収容して今や気も軽々とマニラ湾を走り、コレヒドール島を横に見て外洋に出て、南下中のヒ67船団を求めて北上したが、海上平穏で間もなく船団に合同した後何事もなく、船団は7月1日0015マニラに着いた。

 翌2日は次の海南島行き船団会議で「朝顔」艦長指揮であったので、会議は熟練工の「朝顔」幹部の手によって順調に終わったが、機関長缶長の件で懲りた私は、石川先生邸における宴会を次の機会に譲ることとした。

 翌3日0700このマユ04船団は海南島南岸の楡林向けマニラ発、商船隻数は6隻で護衛艦は「朝顔」と「第2号海防艦」の2隻であったが、今まで手慣れた南シナ海も無事その9割を突破し、楡林入港当日の深夜0130、昆明から飛来したと思われる敵重爆によって、「ぱしふいっく丸」 が爆撃されたが幸いに被害なく、7日1000楡林に着いた。

 またも「朝顔船団被害なし」で済んだが、今や6月15日の黒星2隻のただし書きが付きまとっていた。

 早速馴染みの広東料理店に行って、服部シーさんに自宅より持参の佐賀名産深川製有田焼の徳利と杯を寄増し、支那酒の杯を傾けながら一別以来の体験を語り合ったが、服部先生は自分が戦をしているかのように興奮して「朝顔」の強さ武運を祝福してくれた。 こうなると彼もまた戦友の一人に入れないわけには行かない。 全く彼は憂国の士であった。

 楡林港内は内地行き鉄鉱石船団で一杯で、鉄鉱石を空船に積み込む作業は昼夜兼行で行われており、昆明よりの敵機も三亜空の零戦隊が怖いのか、従来楡林三亜一帯には接近しなかった。

 そしてこの鉄山が欲しいためか海南島は全島海軍が占領していて、海軍最高司令部である海南警備府は楡林港の西隣りの三亜海岸にあり、海軍の警備隊は三亜、楡林のほか島北岸の海口に配備され、軍需部、工作部、施設部などが楡林にあり、零戦約10数機を有する航空隊が警備府の西約4Kmにいて空を護っていた。

 7月7日楡林港内で一泊した「朝顔」は、次の船団で同行する予定の駆逐艦「呉竹」とともに翌8日三亜海岸の司令部前面に転錨した。 そしてマニラから同行した「海2」は、楡林港内にそのまま在泊していた。

 「呉竹」の艦長は私と同郷で一級上の吉田宗雄少佐(62期)で、3月から「呉竹」在職中であったが、生徒時代以来久し振りに戦場で再会し、私は兄貴に会ったようなうれしさ懐かしさで一杯になった。

 7月9日「呉竹」艦長とともに司令部に行き、長官に伺候し後、幕僚室で雑談中、真新しい目も覚めるような白の副官肩章を着けた岩松義明主計大尉が現れた。

 「「朝顔」艦長、お国はどこですか」 から始まって語るうち、これが東大経済を出て海軍予備学生で海軍に入ったという家内の親戚であることが分かった。

 分かる前からサービスは良かったが、「呉竹」艦長までが佐賀であるので、副官のサービスはますますよくなった。

 司令部の続きには来客用の寝室も用意されていて岩松副官に案内されたが、質素ながらナカナカ涼しそうで静かであり、中庭の椰子の葉が静かに揺らぐのを見て、私はカンカン照りで全身焼け付いている沖の「朝顔」と思い比べ、スッカリ司令部に泊まりたくなった。
(続く)

2009年03月02日

聖市夜話(第26話) 三亜の白砂(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 天気図を見せてもらったが別に低気圧の来襲もなさそうである。 幕僚たちと語るうち、少し椰子の葉の揺らぎが強くなってきた。

 「この風は大したことないでしょう。 今晩泊ってゆきましょうや。」

 という私に対して、吉田艦長は 「惜しいけれど、念のため帰って寝るか」 と言った。

 私は素直に兄貴分の言に従って司令部を出て、焼け付くような三亜海岸の真っ白い砂を踏みながら桟橋に出て、内火艇に乗って沖に「呉竹」と仲良く並んで錨泊している「朝顔」に帰ったが、案の定船体は焼け付いていて手も付けられないくらいで、またまた陸上の司令部の涼しさが思い出されたが、風さえ入れれば少しは凌げそうな風が吹いていたのは一抹の救いであった。

 夕刻に近づくに従い、風は少しずつ強くなり、波頭の白さが段々大きくなってきて暑い艦内の昼寝にも好都合になってきたが、私はどうもこの風が気懸かりでならなかった。

 日没前黒田吉兵衛機関長は、風ばかり見ている私に言った。

 「缶点火して主機械を用意しましょうか。」 私は

 「もうしばらく様子を見よう。 折角機関科員も休息しているからね。 こんな良い機会はメッタにないヨ。 また出港したらコキ使われるに決まっているからネー」

 と答えた。

 確かに6月9日舞鶴を出てから7月8日三亜に着くまでの1か月間に、ゆっくり停泊させてもらったのは、6月20日の高雄と7月2日のマニラだけであった。 私にとっては乗員、特に機関科員をゆっくり休息させるための1日が貴重であった。

 しかも、もう一つ悪いことには、私は72期の運用術教官として教科書の同じところを4回も講義し、ほとんど全文を暗記していたし、また連続の艦隊勤務で、「風速何mになったら錨鎖を伸ばす」 式のGFの一般要領も丸暗記していて、こと荒天措置については一通り分かっているという自信(高慢)があった。

 そして更におめでたいことには、舞鶴工廠長に一札書けと啖呵を切った錨鎖肉滅りの件も、僅か1か月ぐらいしかならないのにスッカリ忘れていた。

 風速は次に10mを突破し、気圧は急速に下がり出したので私は初めて 「缶至急点火、主機械用意」 を令した。

 次いで風速13mに達したので錨鎖を一杯(約10節と記憶)に伸ばした。 もうこうなると 「涼しくて休息に好適」 どころでなく、「この低圧部どこまで下がるか」 と、多少気味が悪くなってきた。

 全く午後司令部で椰子の葉が揺らぐのを見たのがうそのような思いであったし、また万一吉田先輩の言がなくてあの司令部の涼しい部屋にでも昼寝していたら、もはや内火艇で帰艦することも不可能で、天下に恥をさらす危い瀬戸際であった。

 気圧は止まったが、風速は衰えない。 「呉竹」の煙突からもほとんど「朝顔」と同時に煙が出て缶至急点火が行われたことが見られた。 低圧部中心が通過したのか、風向乱れ錨鎖の振れが強くなった。

 突如老朽し尽くしていた錨鎖は、私のそれまでの経験ではさ程強くもない風速なのに、アッ気なく切断し、「朝顔」の船体は 「アレヨ、アレヨ」 という間に砂浜に平行に乗し上げてしまった。
(続く)

2009年03月03日

聖市夜話(第26話) 三亜の白砂(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 艦底の龍骨が砂浜に乗って、右舷左舷に短い周期でガタガタと揺れる。 艦橋上の主砲射撃指揮所で強い風浪のしぶきを受けながら総指揮をしていた私は、このガブリごとに猛烈に吐いた。

 「人間命懸けになると決して吐かない」 と開いていたが、アレはうそであったか。

 否々この横着者奴の真剣さが足らないから吐くのだ。 悔悟の念は次々に去来し、自称最優秀艦「朝顔」艦長という高慢の鼻は一ペんにへシ折られ、悔し涙が猛烈に吹き上げるしぶきとともに頬を濡らした。

 しかしながら、敵に対して一騎当千の士と誇った乗員は、この瞬時の遭難に際してもさすがに極めて勇敢であった。

 内側短艇を卸して陸上と連絡しようとした特艇員は、艦と水際との間にできた急流に一瞬の内に流され、艦尾から約100mの風下側水際に打ち付けられ、私は特艇員の生死を憂慮し続けたが、1人のけが人もなく全員砂浜に上陸を成功していることが分かった。

 次いで「朝顔」が龍骨を支点として横倒しになることが憂慮された。 またあらゆる作業の手初めに1本のホーサーを右舷最寄(約30m)の陸上の救援隊に送り、ホーサー沿いに連絡を付けようとしたが、このロープ1条の陸送り作業も、荒れ狂う風浪のため不可能であった。

 三亜海岸の第16警備隊は、能美司令(実、大佐、43期)以下高張り提灯をかざして風浪狂う「朝顔」座礁海岸に多数応援にきてくれたが、風浪治まるまではいかんとも仕難く、陸の人はただ艦上の人を見守るばかりであって、両者の間を日頃想像もつかないような急流が風下側に流れる状況が、陰惨極まりない形相を呈していた。

 私は観念して、船体は天に任す。 しかし貴重な乗員だけは、無理な命令で殺すまい、けがさせまいと注意した。

 夜半になり風は少しずつ弱まり始めた。 そして翌10日の日出頃には荒れ狂った昨夜のこともケロリと忘れたかのように、スッカリ凪いでしまって、昨夜の急流は跡形もなく消え去り、「朝顔」の全周はきめ細かい美しい三亜の白砂でビッシリと埋められてしまった。

asagao_locked_s19.jpg
(三亜の海岸に座礁直後の「朝顔」)

(注) : 上の写真は本稿が掲載された当時のモノクロコピーから復元したものです。 今にして思えば、せめてもしグレーの写真コピーだったらと残念ですが、当時の複写機の性能上やむを得ないものとご了承下さい。


 私も全乗員も、一生一代の恐ろしい体験を終えて身心ともに疲れ果てたが、早速工作部から送られた丸太数拾本を舷側全周に支えて、まず転覆防止の策が取られた。

 上甲板中部からは道板が海岸に渡され、舷門は道板のところとなり、丘と直結した砲台のような、またムカデのように足の生えたホテルシップになってしまった。

 私は新事態に対して早速方針を立て、全乗員の士気を落とすまいと考え、総員を集めて次の要旨を訓示した。

 1.遭難の責は一つに艦長にある。
 2.乗員はよくやった。 この遭難は神が私たちに与えた休息のときである。
 3.戦局は逼迫している。 一日も早く離礁して再び船団護衛に従事する。
 4.離礁作業中存分に英気を養い、健康を回復し、次の行動に備えよ。

 私は座礁の間全身ビショぬれになって悔悟の血涙を流したが、これは部下に見せられぬ涙であったが、その次の段階では荒れ狂った風浪がケロりと凪いだと同様に、私はあたかもこの陸続きの境遇を喜ぶかのように元気を出し、再び沖合に浮かぶ日を1日も早く迎えることに全力を傾注しようと決意したが、この仕事たるや海上の船団護衛の危険性に比べれば楽すぎるような仕事であって、乗員に訓示したとおりそれは絶好な健康回復の機会でもあった。

 艦は動かず、敵は近寄らず、毎日艦内で安眠は続き、今までの寝不足で衰弱していた体力気力を回復するにはもってこいの期間であった。

 聞けば同夜「呉竹」は、主機械の準備完了を待たず沖合に向け捨錨出港し、推進器翼は海底の砂を強引に刻み、翼端に破損を生じながら沖合に出ることに成功したという。 私は吉田艦長にスッカリ教えられた。
(続く)

2009年03月04日

聖市夜話(第26話) 三亜の白砂(その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 次に楡林港内では、マニラより同航した「第2号海防艦」は艦尾を岩礁上に乗礁し舵推進器を損傷し、右へ25度傾斜し、また同湾内で鉄鉱石を満載していた陸軍貨物船「北辰九」は外港東海岸で座礁し海底に沈座したということであった。

 思えば司令部で私は安眠を考え、吉田艦長は艦の安全を考えていた。 そのスタートから気迫の違いがあった。 わずか1年上の先輩でありながら、沖合に向けることに全力をかけた先輩の気迫は、嵐に気を飲まれた私に比べて天地の開きがあった。

 戦後「朝顔」の行動調書を見ると次の記事がある。

 「746ミリの台風性低気圧三亜南東約30Kmに接近し、9日1800、739ミリとなり2200頃より風力漸増し平均22m突風32mに達せしところ、仮泊中の「朝顔」錨鎖切断し三亜海岸に、次いで楡林外港停泊中の「第2号海防艦」及A船「北辰丸」楡林外港東海岸に座礁せり、「朝顔」は水深約1mの砂浜に乗り上げ約1.5m埋没傾斜右へ約5度、付近一帯遠浅にして引き卸し困難、「第2号海防艦」は岩礁上に乗り上げ、右へ約25度傾斜せり、全力救難作業中。」

 上記の記事中に 「朝顔は引き卸し困難」 とあることに注目されたい。 これは埋没の状況からみて、入力機力により引き卸し困難と見た当時の判断は当然であって、この困難な状況がいかに経過していったかということは、余りに長くなるので次の回に譲ることとする。

 悔悟の念に明け暮れた私にとって、一縷の光明を与えてくれたのは、戦前の連合艦隊勤務中に水雷屋の先輩が教えてくれた次の言葉であった。

 「成績ばかりビクつく奴は本当の船乗りにゃなれんよ。 水雷屋は凶状持ちほど役に立つさ。 要するに腕を磨くことだ。」

 私は近く処罰されるであろう。 もはや完全に凶状持ちである。 もしも幸いに現職を継続させてくれるならば、獅子奮迅の働きをして、凶状持ちがいかに役立つかを天下に示してやろうと思った。

 「朝顔」の船体はドッシりと全周の砂浜に座り込んでしまっており、押せども引けども動きそうな可能性は全く見られなかった。

 今まで余りによく走り回ったので、既に御老体である名馬「朝顔」もついに座り込み、最愛の私がいかに手綱を強く引いても、首をたたいて泣き付いても、どうしても動いてくれそうな気配はなかった。

 そして「朝顔」を再び沖合に導き出すことの可能性について考えれば、敵潜を斃すこと、船団を護衛することに比べてみて、その何10倍かにも匹敵するように難しそうで、不可能に近いと思われた。

 三亜海岸の砂浜は、延々としてはるか西方に伸び、海岸の椰子の葉陰とともに連日の強い太陽光線を受けて真っ白に照り輝き、紺碧の空とともに座りこんだ「朝顔」の全周を平和の中に包んでくれているような光景であって、そこには戦争の片鱗すら思わせるものがなかった。

(原注) 戦後、古いアルバムで「朝顔」艦上のただ1枚の写真を調べてみたら、「19年7月8日海南島三亜にて林敬一郎軍医長撮影」 との説明があり、乗馬靴と体操帯を着けているところから見れば、私は座礁前日司令部に乗馬に行ったものと思われる。


author_s19.jpg

     同軍医長は同年4月28日佐世保にて乗艦し、12月20日高雄で退艦し、後「第61海防艦」に転勤し翌20年2月9日サンジャック沖にて触雷負傷したが、戦後サイゴン病院より帰還復員し、東京都中野区で開業して現在に至っていて(執筆当時)、昨年は夫人同伴はるばる来伯してくれ再会の喜びを私に与えた。


(第26話終)

2009年03月05日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 座礁時刻については当時の記録で19年7月9日2355というのがあるが、大体その辺であると思う。

 当時の概要を略図にしてみると次のとおり。

asagao_locked_02_s.jpg

asagao_locked_03_s.jpg


asagao_locked_sat_s.jpg

( 「朝顔」の座礁位置は、現在の三亜市の写真からではだいたい上に示したところ
 と考えられますが、正確な場所は判りません。  元写真 : Google Earth から )

 私達が遭難するや、三亜の海南警備府司令長官は、三亜の「朝顔」に対しては三亜の第16警備隊司令を救難指揮官に、楡林の第2号海防艦と「北辰丸」に対しては同じく楡林の海南工作部長を救難指揮官に任命し、その他海南施設部、軍需部なども総力を挙げて協力するように発令されたが、「朝顔」に対する転覆防止策は素早く、翌日第1図のように完成された。

 特に、近くに軍需部・工作部・施設部があって、更にまた目の前に警備隊があったことは不幸中の幸であった。

 ついでに言うと、「朝顔」の北西方には、北東方の16警よりもっと近い所に海南病院があって、私が江田島教官時代お世話になった優しい池田選一軍医中佐がおられ、私は早速お願いに行って、「朝顔」乗員の毎日の入浴の快諾をもらったが、さてどこにも故障がなく健康上同情すべき一点もないような「朝顔」乗員が、毎日汗と泥とで汚れきって入浴に押し掛けたことは、病院側に多大の迷惑をかけ、「ここは清潔な海軍病院であって、薄汚れた小艦乗りの銭湯ではないぞ」と、密かに嫌われているかのように感じられた。

 それから、第11特別工作部香港支部から、海軍嘱託のサルベージ技師である東米則氏が単身飛来し、私たち座礁艦船の救難の指導に当たった。

 楡林の2隻については、東技師の指示は割合に簡単だったようで、一番難物の「朝顔」に付き切りのようになってしまった。

 同技師は中肉中背ではあったが、体躯頑丈そのもので、表は優しく常に温かい眼差しをたたえていたが、うちに確固な自信と何物にも屈しない強いファイトを秘めているかのようで、私にとっては百万の味方であった。

 私はすぐ仲良しになっていただいた。 年齢も丁度私より10歳ぐらいは上のようであって、正に頼もしい兄貴であった。

 東技師は「朝顔」に来るや、まず百足のように舷側全周に支えられている丸太の支柱を1本ずつ効き具合を点検して、不足の部分には本数を増し、短過ぎるものは長さ十分のものと変え、全周の点検調整を終わった。

 そして艦内各部、艦底、外舷を隅なく点検して、浸水部の皆無であることを知り、また砂の上に少し頭を出している推進器翼端にも、舵にも異状のないことを認めた。 

 それほど三亜海岸の砂はきめ細かく、小石を混えておらず、付近に岩石もなかったことは珍しい幸運であって、あたかも柔らかい座布団にドッシリと座り込んだようであった。
(続く)

2009年03月06日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 次は沖出準備であって、船体より見て艦首は左45度方向約400mに約10トンの錨を4個、艦尾は左135度方向約200mに約5トンの錨1個が投入され、それぞれの10トン錨から前甲板に4本の太い鋼索か導かれ、また右後方の5トン錨からは後甲板に1本の太い鋼索が導かれ、これら前部の4本の鋼索の内端には3重滑車を2個ずつ1組としたテークルが付き、前部の合計4組のテークルの通索計4本は、陸上の小高い所に設置された4台のウインチにそれぞれ連結された。

 その概要は次図のとおり。

asagao_locked_04.jpg

 錨、錨索の大きさ、径、長さなど記憶によるもので、正確は期し難い。 また10トン錨の各内端に錨鎖が各1〜4節ずつ付いていたかも知れない。 また後部鋼索は控索の役目であった。

 座礁艦救難の原則を知っていた私も、この沖出し用設備の立派さに感心してしまった。 それはあたかも港務関係要具の倉庫の前のような海岸に座礁したからであった。 またこれら要具の取扱に熟練した港務部施設部工作部などの技術者が多数揃っていたからでもあった。

 山本五十六さんのような豪快な笑みを浮かべて東技師も私に言った。

 「座礁船は大抵人も行かないような海岸に乗し上げるので、この半分も設備することは大変な苦労ですよ。 その点「朝顔」は全く良い所に乗し上げたもんですねー」

 私も全く同感で、海南警備府各部が目新しい在庫品を惜しげもなく出してくれた協力に感激していた。 そして私の下手な運用術教務を熱心に聞いてくれた72期の後輩に、この立派な設備を見せてやりたいくらいに思った。

 このほか港務部は、楡林港で使っていた浚渫船2隻(「漠口号」ともう一隻)を「朝顔」沖に派遣し、「朝顔」が沖に出て行ゆきやすいように、沖合いから「朝顔」の前部に向かって海底を掘り始めてくれ、この作業も連日継続された。

 そして毎日朝乗艦する東技師は、各通索を足で踏んでみて、「マダ張れる」と思われる通索は、通索の破断カの限度の一歩手前ぐらいまで、遠慮会釈なくウインチで巻き通索を緊張した。 したがって「朝顔」の五体は沖にある4つの錨から強力な力で常に引き付けられているように、ビンビンとしていた。

 一方これと併行して、船体周囲の砂掘作業は毎日休みなく続いた。 その兵力は「朝顔」乗員のほか、施設部、工作部などの多数の人達であった。

 また艦内の重量物で下ろせるものは片っ端から陸上に揚げたが、東技師の計算ではこれによって軽減できる排水量は、あまり期待できる量ではなかった。

 もちろん、座礁後航海長は潮汐表を使って向こう6か月ぐらいの間の毎日の潮汐表をグラフに書いて、「ただ今の潮高いくら」 ということは即座に一目瞭然となっていた。

 重量物を陸揚げした残りの排水量が計算により幾らとなる。 この排水量を浮かばせるための喫水は、各艦が持っている造船の図表の曲線で分かる。

 しかるに艦周辺の喫水の実際は幾らか、後必要とする潮高は幾らか、そして実際の潮高の測定が毎日の仕事となった。 また実際の潮高は潮汐表で調べたグラフのようになっているか、ということにも注目しなければならなかった。

 砂掘作業に掛かっている乗員の体は、たちまち黒光りがしてきて、筋肉隆々となった。

 大体護衛艦の乗員は、上甲板以上の当直に立つ兵科の者を除いて、一般に色が白いものであって、兵科の者でも一枚服を脱げば中身は色白であったが、このときの「朝顔」の総員は揮以外真黒になってしまった。

 士気おう盛なこの土方部隊が、最も艦に近い海南病院から嫌われるに至ったのは無理からぬことであった。
(続く)

2009年03月07日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 さて潮汐表グラフによる月2回の大潮の時でさえも、必要とする潮高は得られなかった。

 何んとかして 「後少しの潮高」 が欲しい欲しいと考えているとき、同じイ36部隊の旧一等駆逐艦「春風」が入港した。 同艦長福山少佐(58期)は水雷艇「雁」の私の前の艇長であった。

 私は早速同鑑に行って福山艦長に、沖合を高速で走って波を高く上げてもらうように懇願した。 艦長が、乗員を休ませたいことも機関科の解放検査をしたいことも重々承知の上で私はスガリツクようにお願いしたところ、同艦長は 「武士は相見互い」 とばかりに気持よく2つ返事で引受けてくれた。

 翌日「春風」は予定どおり海岸に平行に、沖合い約1マイルぐらいを約28ノットぐらいで走ってくれ、「春風」の艦尾から斜後方に出る波は「朝顔」の舷側に打ち寄せてくれたが、その水位の上がり方は残念ながら目的を達するには程遠いものであった。

 何回か走ってもらった後、私は「春風」に信号して後を中止してもらった。 「高速航行による造波効果」 にも失敗した私は、次の大潮時の潮高と、それまでにできる砂掘効果に期待するよりほかに道はなかったが、大潮時の潮高も十分ではなく、また砂を幾ら掘っても次の満潮がすぐ埋めてしまうことが腹立たしい限りであった。

 8月9日に座礁して早や20日間が矢のように経過して行った。 座礁後私は

 「「朝顔」座礁を敵はすぐ知るであろう。 知れば必ず爆撃に来てとどめを刺すであろう。 座礁中こそ駆逐艦を斃す絶好のチャンスである。」

 といって、特に対空警戒を厳にさせていた。

 8月29日1630頃、艦橋上の主砲指揮所の大倍力眼鏡に付いていた服部一曹は 「敵大編隊らしい、左〇〇〇度、6万5,000」 と叫んだ。

 方位は大体「朝顔」の南である。 そこには島もなく水平線が見えるだけの大海原であって、強い太陽に白雲が美しく輝いていた。 爆音ももちろん聞こえず、機影も私たちには見えない。

 幾ら 「服部兵曹が当直に立つと敵が出る」 と言われていても今日は何かの見聞違いだろうと思って、私は目標を眼鏡中央に入れて眼鏡の旋回を固定して私に見せるように命じた。

 服部兵曹は旋回を固定して 「これです」 といって眼鏡の横に移った。 私はすぐ代わって眼鏡に目を当てた。 私も両眼視力2.0で兵学校卒業以来江田島教官以外全部海上勤務、目の良いことでは服部級名人を除いて人後に落ちないことを誇っていた。 が、しかし、私には見えない。

 「どこだ?」 と服部兵曹に聞く。 兵曹答えていう、「中央、千分の一単位で、1ミリの印のちょっと〇」 服部兵曹の説明に従って見た。 「あった!」 それはミリの印の横線の太さの1/5ぐらいの細さの、白色に近い水平の筋のような、長さ2ミリぐらいの目標であって、その細さをメートル尺で言うならば、1/20〜1/30ミリと思われるものであった。

 しかし私はまだ、これを大編隊と直感することはできなかった。 「どうして大編隊らしいか?」 と聞いた。 服部兵曹答えていわく、「さっきから、ズット東航しております」 なるほど動静による判断か、とようやく分かった。

 意識して見る場合1/10ミリという線の太さは相当に大きい。 服部兵曹の発見した白色に近いようなこの毛筋の太さは、1/10ミリの更に1/3か1/5かとさえも思われる太さであった。
(続く)

2009年03月08日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 その目標はようやく確認できた。 しかしまだ間もあることだし、私は自身でその動静も確認したいと思った。

 続いて服部兵曹は、「大編隊間違いなし」 と叫んだ。 同兵曹はこの横の毛筋の上と下で時々ピカリとする随伴機を発見したようであった。 「空中艦隊です」 とも説明した。

 私もようやく確認できた。 「いよいよ「朝顔」のとどめを刺しにきたな! 負けてたまるか!」 と私は身震いをした。

 早速砂掘作業を中止し総員を戦闘配置に就けた。 私はすぐ最寄りの第16警見張所に信号を発信した。 「敵大編隊、〇〇〇度、6万5,000」

 所在最高指揮官である海南警備府長官のところは、丁度16警の向こう側で見えない。 敵発見という緊急信号だから、当然引き続き長官の下に電話でも掛けているだろうと、護衛船団同様の常識で判断していた。

 この頃敵は発見時の位置よりそのまま東進し、「朝顔」からの方位180度線を突破し170度ぐらいになっていた。

 主砲射撃指揮官である先任将校は、3門一度に発砲したら船体が右舷にヒックリ返るのではないかと心配した。

 私は百足のように外舷全局を支えている丸太の支柱を見下ろして、「マサカ?」 とは思ったが、座礁艦射撃などは教わったこともないし、話を聞いたこともないので、先任将校と同様少し心配が残った。

 「マアマア最初一門で初弾を打ってみれば具合が分かるだろう」 と思った。

 艦橋の見張員は、16警を始め視界内の各部がサッパリ戦闘配置に就かないことを私に届けた。

 敵大編隊は、楡林港南方で針路を東から北に転じ、距離は65km付近より刻々縮まってきた。

 私は、もう大分前に発信した敵発見信号があるのに、どうして「朝顔」だけが独りでばか騒ぎをしなければならないのかと憤慨し、「信号ではダメだ、一発ブッ放して陸上のやつどもの眠りを覚してやろう」 と決意した。

 この味方に対するような一門の初弾は、果たせるかな陸上各部を驚かせ、ようやく戦闘配置に就けた。

 その時の敵編隊の方位距離は大約左135度30kmぐらいになっていたであろうか。 またこの初弾は、「朝顔」の船体がヒックリ返る心配の全然ないことも教えてくれた。

 敵大編隊はいよいよ楡林に向かって近づいてきた。 「どうも「朝顔」に止めを刺しにきたようでないなー」 と思った。 敵が接近してくるに従い、目標の射角はドンドン高くなった。
(続く)

2009年03月09日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「朝顔」の主砲は33度までしか効かない。 接近してくる敵大編隊を目の前にして主砲が敵の方に向かないとは、残念千万! 私はまたもや、最大仰角55度であった水雷艇「雁」を思い出した。

 「格式ばかり上がって、逆に性能落ち、どうやって敵をやっつけろと言うのか」 と軍備当局を恨んで歯ぎしりをした。

 見れば敵は、最先頭に銀色にピカピカ輝く格別にスマートなB29を1機、その後に3列(であったか)縦陣のB24が約20機、以上が主力の四発隊で水平爆撃隊。

 その下に縦横に単機で乱舞し手当たり次第に銃撃と小型爆弾を落とすB25の双発軽爆隊約10機。 また主力の上空には双胴戦闘機P38が約10機、これは敵主力の上空より三亜の零戦隊が攻撃するのを防ごうという配備と思われた。

 即ち合わせて戦爆連合約40機、しかも主力の四発隊は一糸乱れぬ見事な編隊で、上に戦闘機、下に軽爆を配備している堂々たる姿は、空中艦隊と呼ぶに全く相応しいものであった。

 距離約2万に入ってから「朝顔」の3門の主砲は射ち出したが、元々射撃装置は旧式でなきに等しく、水上射撃ならともかく、対空射撃では命中精度をうんぬんする柄でもなく、ただ敵さんが接近しないように打ち上げる花火のようなものであった。

 主砲の他は数門の25ミリ機銃であったが、これまた3,000m以内でなければ射つのが惜しいような代物であった。

 敵編隊が楡林港に接近するや、ようやく陸上砲台と停泊艦船とが射ち上げ出したことが見えたが、残念ながら有力な高角砲はあまりないようであった。

 敵主力は楡林上空で針路を西に変え、四発の主力全機は一斉に小型爆弾を連続して落とし始め、双発のB25は、その外側を縦横に乱舞して銃爆を繰り返し、「朝顔」の25ミリ機銃も近迫する敵双発を狙ったが、「朝顔」に直接攻撃してくるものはなかった。

 敵主力の落とす爆弾は、幅約2kmに、西に向かって海岸線に平行に、あたかも丸めていた「絨毯」を広げて行くかのように、また大きな鰐がしっぽを振り回しながら地響き立てて躍進して行くかのように、警備府司令部付近の木造家屋・立木・馬などを総なめに傷つけて、西の方は飛行場と航空隊にまで達したようであったが、この海岸に平行に繰り広げられた「絨毯」が、このころの自称「朝顔海岸砲台」の正横付近だけ海岸線から陸上の奥の方に離れたため、海南病院だけは幸いに全く被害なく患者を傷つけないですんだ。

 敵主力がなぜ「朝顔」と病院を避けたのかその理由は分からなかったが、あるいは病院の星根の上の赤十字が効いたのかも知れない。 しかし主力の下に乱舞していたB25(双発)隊までが近寄らなかったのは、やはり「朝顔砲台」の25ミリ機銃群を恐れたものかもしれなかった。

 対空戦闘終わって連日同様病院に風呂を貰いに行った「朝顔」乗員は、今までと打って変わったような病院側の恵比寿顔のサービス振りを受け、艦に帰ってから病院ではこう言っていますヨ、と報告した。

 「さすが「朝顔」様々です。 いつまでも座礁していて病院を守ってください。」

 私たちは 「冗談じゃないよ」 と言って声をあげて笑ったが、今まで何らなすところなく迷惑ばかり掛けてきた病院に喜んでもらったことは、敵戦爆連合の思いもよらぬ置き土産であって、以後病院側のサービスは格段によくなった。
(続く)

2009年03月10日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 空襲の翌日、警備府長官は各部隊指揮官・関係者を集めて、早速この対空戦闘の研究会が行われ、私も出席した。

 席上聞くところによれば、このような敵編隊の空襲は初めてであったとのこと。 道理でのんびりしているわいと私はむしろ感心してしまった。 そしてまず「初発見」が論じられ、服部兵曹の発見は長官以下満座の人を驚かせ、私は久し振りに鼻高々であった。

 次に初発見信号が16警信号所で立ち消えになったことが追及された。 「朝顔」では船団護衛中のいつもの調子で発信したのであったが、今まで敵空襲も体験していない16警信号員は、別に爆音も聞こえず、信号文の方向を見ても彼等には機影も見えないので、単独訓練中の「朝顔」の教練文が誤って舞い込んだぐらいに考えられたのかも知れなかった。

 すなわち「朝顔」としては、ハワイ空襲を受けた米国側が 「これは演習でない」 と叫んで放送をしたと同様に、「本信号緊急信、長官に中継せよ」 と冒頭につけ加えて発信すべきであったと反省された。 またそれほどに三亜海岸の風光はのどかであった。

 また「朝顔」の早めの警砲1発は極めて有効であったことも確認された。 ほとんどの各部隊は「朝顔」の初弾で初めて配置に就いたらしい。

 この場合は、初発見から警砲まで十分に長い時間があったので、私たち自身もゆっくりしていたが、信号が途中で立ち消えるくらいなら、むしろ初発見で直ちに警砲1発を射っておき、後ゆっくりと信号をした方が適切であったのではないかと思われた。

 次に最近装備された楡林港両側の岬の2台の電探は何をしていたかという点が槍玉に上げられたが、うち1台は部品故障で当直しておらず、残り1台は当直していたが捕捉できなかったことが判明した。

 私は敵編隊は電探を恐れて海面スレスレで近接してきたことを説明してやったが、長官は新着の2台がともに役に立たず、他の部隊である「朝顔」の見張力にマンマと初発見の功を奪われたことが残念そうであった。

 色々な研究終わって、最後に長官は講評の一項目として、

 「「朝顔」はボヤッとして三亜海岸に乗し上げたのは残念であったが、この当地初めての敵大空襲に際して大遠距離で発見し、陸上の全部隊を配置に就けさせたことは功績抜群であった。」

 といって「朝顔」を激賞した。
(続く)

2009年03月11日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は船団護衛中の苦労を思い、タッタこのくらいのことで褒められて全くクスグッタイ気持になったが、それと同時にこの研究会を「朝顔」全員に聞かせてやりたかったナーとも思った。

 しかし研究された細部をよく吟味してみると、「朝顔」の戦闘力は確かにこれら陸上部隊より格段に高いことが明らかであったが、これは開戦以来連続の行動に任ぜられた「朝顔」の宿命がそうさせたものとしか思えないものであった。

 私はこの研究会席場でスッカリ面目を全うして、三亜海岸から艦に掛けてある長い道板を渡って「海岸砲台朝顔」に帰ったが、幾ら長官から褒められたからと言って、次の大潮の水位が1cmも上がってくれるわけでもないことに気が付き、再び暗澹たる気持になった。

 そしてこの空襲は、「朝頼」に止めを刺す目的でなかったことは明らかになったが、「朝顔」が座礁していることを知った以上は、昆明の敵指揮官にもしその勇気があれば、次回こそ「朝顔」目標に空襲するであろう。 そして使用機はB25(双発軽爆)数機となるのではあるまいか。

 また昆明と連絡する敵潜1隻が満潮時を選んで沖合いから雷撃してくる公算も全くないとは考えられなかったので、「朝顔」の対空対潜見張はますます緊張して継続された。

 このころの私の夢には、ソロモン方面の島の水際で最後を遂げている味方駆逐艦の悲壮な姿ばかりが去来したが、ソロモンならともかく、このように敵の来襲緩散な三亜海岸で同じような運命に陥ることを予想することは、我が身の恥ずかしさで一杯で到底耐え得られるものでなかった。

 空襲があった前後のころ、私たちの親元であるイ36司令官中島中将が座礁中の「朝顔」・海2を見に飛来された。

 目から火花が出るような大目玉を頂戴するものと覚悟して迎えたところ、司令官は優しく護衛艦不足の窮状を説明し、早く護衛戦線に復帰してくるようにと言って高雄に去った。

 私は三亜の主のように真黒になって離礁作業に没頭していた世界からしばらく離れて、懐かしい高雄のイ36司令部、バシー海峡などに思いを移して、再び縦横無尽の活動をして司令官の期待に答えたいとは思ったが、さて離礁作業の現実となると、月の最大の大潮の時でさえも 「いまだに不足とする潮高差約20cm(数値は記憶による)」 の対策、全く見当たらず再び絶望の淵に突き落とされるのであった。

 成功の目算なき毎日は瞬く間に過ぎ行き、三亜一帯で人海戦術と評された「朝顔」の泥堀作業は堂々として毎日継続されて行った。

asagao_officers_s19_s.jpg
(19年7月「朝顔」艦上の幹部記念写真)

 7月9日座礁し、同月29日には敵戦爆40機を迎え討ち若干の溜飲を下げたものの、8月の大潮も9月の大潮も潮高いまだ不足を告げて経過中のところ、ついに運命の9月25日を迎えた。
(続く)

2009年03月17日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 9月25日は朝から時化模様であって、沖から来襲する風浪は、真っ黒な空から落ちてくる細雨とともに異様な殺気すら思わせるものがあった。

 東技師は例によって通索を足にて踏み付け、少しの緩みも見逃さず陸上のウインチを動かして「ピーン」と張り詰めた。

 沖からの風浪は「朝顔」の船体と、「朝顔」が座布団としてきた海岸の砂との間に割り込んできて、「朝顔」の船体を揺り動かし艦首を持ち上げんばかりの感じとなった。

 東技師はますますウインチを巻かせ、通索が切断するか、ウインチが壊れるか、物すごい緊張となった。

 沖の錨4つの集中力を受けている艦首は突如として少し沖に引き寄せられ、持ち上がるのではないかという身軽さを感じた。

 沖からの風と空からの雨はますます強く我々の顔に吹き付けてきた。 東技師の笛は連続鳴り響き、ウインチはここを先途に前部の通索4本を縮めた。

 東技師の右手がサット後部の鋼索を指し、「後部もやい索緩め」 という号令が風浪の中に強く響いた。

 前部を縮め後部を緩める東技師の妙技を目の当たりに見とれた私は、船乗りとしての喜びを感じ、また同技師に対する尊敬を一段と深めた。

 「朝顔」の前後部員は、吹き付ける風浪を忘れて、「朝顔」艦首の身振りの一動ごとを、我が身我が心に強く感じた。

 沖からの風浪はますます強く加わり、東技師の叱咤号令はますます激しさを加えたが、突如名馬「朝顔」はあたかも四脚をもって立ち上がったごとく、沖の4つの錨の方向に向かって吸い寄せられるように乗り出し、後部のもやい索の伸ばし方が間に合わないくらいであった。

 上甲板以上の者は、期せずして「万歳」を叫んだ。
(続く)

2009年03月18日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その9)

著 : 森 栄(海兵63期)

 前部も後部も両舷ヒタヒタと寄せてくる波に乗っているという艦らしい感じは、7月9日以来実に75日目のことであった。

 我らの尊敬する東技師は、苦心75日の末遂に「朝顔」の救難に見事成功したのであった。

 私もすぐ高雄のイ36中島司令官に、「荒天を利用し離礁」 の旨電報報告し、引き続き船体各部、特に艦底部浸水状況を確認し、次いで 「艦底部浸水なく護衛行動に支障なし」 の電報を打って75日間の溜飲を下げることができた。

 またここで、限りなき支援を惜しまなかった陸上各部隊員を便乗させ、1日洋上に出動し、魚雷戦以外の主砲・機銃・爆雷戦の実射を行い、戦闘力の確認を果たすと同時に、便乗者に対し謝意の一端を示したのであるが、これら陸上各部隊員は意外に駆逐艦に乗ったことも初めての人が多く、各種の実射を見て大満足してもらうことができたことは、艦側として望外の喜びであった。

 「朝顔の人海作戦」 という言葉もかくして三亜地帯の皆さんの脳裏から忘れ去られることであろう、と思われた。

 丁度この頃、同時に遭難した2号海防艦も損傷部(艦尾)の楡林における応急修理がほぼ終わり、仲よく内地向け船団を護衛することができるのではないかということになり、同艦長(原利久予備少佐)の旺盛なる責任感念が遂に結実し、マニラから同行した戦友同志が再び手を取り合って、護衛任務に参加できそうな状態に至ったことは、凶状持ち同志の密かな喜びでもあった。

 一方東技師は、別方面の救難作業でよほど忙しかったのであろう、「朝顔」が離礁するや早速次の任務のため三亜を出発して空路北上した。

 東技師にゆっくりお礼を申し述べる暇もなかったことを語り合っていた私たちは、相次いで接受した次の遭難電報を見て茫然自失、戦時中とは言え余りの儚さに慰め合う言葉もなかった。

 「東米則技師乗機台北着陸の際付近の山に不時着し殉職」

 幸いにもし読者の中で同技師の御遺族御存知の方あれば、その近況御一報を請う。
(第27話終)

2009年03月19日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 19年7月9日荒天によって座礁した「朝顔」は、9月25日再び荒天によって離礁して、10月1日から14日まで各部を整備し、座礁前とほとんど異状ないことが確認されたので、15日高雄行きユタ12船団4隻を護衛し、「朝顔」艦長指揮、護衛艦は「朝顔」と掃101の2隻で1630楡林を出港した。

 約3か月振りに護衛行動に復帰した「朝顔」は、艦長のみが当然のことながら凶状持ちになってしまったほか、その他の乗員は3箇月の三亜生活でそれまでの睡眠不足もスッカリ解消し、また75日間にわたる泥掘作業で水兵員も機関員も色黒々と、また筋骨隆々となり、この調子ならイ36の中で長高の気力体力を持っているのでないか、そして当分の間従来同様の護衛の激務に堪えられるであろうと思えた。

 これで座礁と同時に、災いを転じて福となさんとした私の企図は果たされたと、私は心秘かに欣んだのであって、乗員こそは戦闘力の根源であった。

 楡林の広東料理店主の服部シーさんは、座礁から離礁までの「朝顔」の活動の一部始終を温く見守ってくれ、事あるごとに慰めてくれた。

 私達の金がなくなるや、「それでは今夜は俺が持つ」 といって私達幹部を自費でご馳走し、「食って飲んで元気を出せ」 といって励した。 そして楡林船団出港のときは自らジャンクに乗って港口で船団を至近距離で見送ってくれた。

 戦局私に非なる今日、果たしていつの日にか再び相会することができるであろうかと、お互に食い入るように相手の顔をながめ込み最期の顔を心に深く刻み込んだのであった。
 

(原注) この後の再会は戦後になって、昭和35年頃原為一大佐(前出)とともに東京にて果たされた。


 また「朝顔」とともにマニラから楡林に来て、ともに7月9日の荒天で傷ついた原少佐の海2は、「朝顔」と同行動することこそできなかったけれども、「朝顔」とほぼ同時機に、10月3日まで楡林で応急修理し、香港に回航し11月1日から30日まで同地で、損傷部(艦尾)の応急修理工事をなしたのであった。

 今度のユタ12船団4隻のうち、最大の船は約6千トンの「日瑞丸」であったが、私達が去る3月パラオで体験したと同様に、海南島も来るべき敵の上陸に備えて子供老人をこの「日瑞丸」に乗せて早目に内地に疎開させようと計画されたものであった。

 出港当時三亜岬近くから出港した同船の出港風景は、私達護衛艦側にとっても強く印象に残った。

 予定に従って船団は南支沿岸に接近することなく、南支沖合約150ないし100マイル付近を高雄向け東航を続けた。

 楡林を出てから第2日目、第3日目は何事もなく過ぎ、第4日目の10月18日になり香港の南北線を通過することも間近となった。

 18日の星間は天気快晴海上平穏で、夜に入ってからは月はなく、満空の星がさながら宝石を散らしたように色とりどりに輝き、「日瑞丸」便乗者たちは暑い船内から涼しい露天甲板に出て、間もなく疎開できる故郷を偲んでいたが、満天の輝く星もまた彼等の前途を祝福するかのようで、機械室の天窓から響いてくるエンジンの毎秒1回転ぐらいの長閑かなリズムは子守歌のように静かな海に響き、「朝顔」の艦上からも聞えた。

 そして「日瑞丸」は1番船で、同船々長が船団長であり、4隻は2隻ずつ2列に並び、護衛配備は船団左前方「朝顔」、右後方掃101であった。

 私も空を見上げて宝石のように色とりどりに輝く星座をながめていたが、こんなに星がきれいに光り輝く空では星の光りに幻惑されて対空見張がほとんど困難に近いように思われた。

 船団の位置は、楡林出港以来基準針路から北へ北へと寄せたためか、香港沖約60マイルぐらいになっていた。
(続く)

2009年03月20日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 18日2200、突如「日瑞丸」の中部上甲板で低い爆発音が聞こえ、機械室天窓付近に低い発火が認められた。

 私は、直ちに「日瑞九」宛て、「如何がせしや、状況知らせ」 を発信した。 同時に、少しの爆音も聞かなかったので、私は総合的に 「相手は潜水艦!」 と判断し、船団全部に「対潜警戒」を令し、「朝顔」には「日瑞丸」前方の捜索探知と聴音を指示した。

 ところが「日瑞丸」は、どうしたことかサッパり敵状を応答してこず、行き脚は漸次止まってきて船首が少しずつ沈下し始めていることが認められた。 私は何回も「日瑞丸」船長に報告を求めた。

 被害後小1時間も経過したころであったか、ようやく敵状を知らせてきた。 「敵飛行機1機投弾、我浸水中」 という旨のことが簡単ながら判明した。

 私はここで初めて敵は潜水艦でなくて飛行機であったことを知り、船団全部に「対空警戒」を令し直したが、船団に被害を受けながら小1時間も敵の相手が不明であったことは、40数回の護衛行動中、後にも先きにも「日瑞丸」だけであった。

 「日瑞丸」は多数の引き揚げ者を便乗させていたので、被害直後の船内は相当に混乱したものと想像され、船長の報告も遅れ、かつその内容も要領を得ないものであった。

 また、当初の被害も軽微であり、船体の浸水も除々であるので、私は翌19日黎明まで保てるのではないかとさえ想像したが、被害状況についても、特に船体浸水状況についても余り詳しい報告は得られなかった。

 私は船団位置が香港の南約60マイルであった点も考え、「対空警戒」と同時に「対潜警戒」も重視し、暗夜「日瑞丸」に横付することを避けたが、後になって反省してみるとき、船団4隻のうちの最も小型な商船でも「日瑞丸」に横付させることができなかったか、と後から思うことであるが、当時 「打てども響かぬ」 「日瑞九」の幹部ともう1隻の商船が、果たして暗夜の横付をうまく実施できたであろうか、という疑問も同時に湧いてくるのであった。

 「日瑞丸」は被害後も数時間浮いていたようであったが、遂に19日の黎明前に沈没してしまった。

 私は残り3隻の商船を掃101に護衛させて香港に先行させ、19日黎明から「朝顔」単独で「日瑞丸」溺者を終日救助したが、被害後沈没までに時間の余祐があったためか、各溺者の乗っていた筏と、身辺の準備は比較的に整っていた。

 救助には「朝顔」直接操艦によるものと、短艇によるものとの記憶があるが、直接操艦によるものが1群終わって他群に移るまで丁度約30分を要したことを記憶している。

 当日の朝は前日の平穏さに比べて、少し風浪が起こっていたが、溺者は思い思いの筏に乗って波上に漂っていた。

 中には一人用の筏に支柱を立て、縦長の白布に「南無妙法蓮華経」と大書し、その横に端然として合掌正座している男子老人あり、また筏から離れたらしい15、6歳の男の子供が救命胴衣の浮力で顎を突き上げ上空の雲を凝視して単独で黙って漂っているのもあり、婦人はほとんど見受けなかったが、端座合掌している人の準備の良いのには驚かされた。

 私は艦橋で広く海面に散らばっている溺者を見ながら、「次はどの群にしようか」 と見張員たちに相談したが、ある元気の良い者が次のように答えた。

 「あの端座居士は今後働けるのは何年あるか分からない。 しかしこの子供は、これこそ私達の後を継ぐべき者である。 艦長この子供から先きに救助してください。」

 私はこの理論に賛成して子供から先きに救助して行ったが、視界内に浮いていた溺者は全部漏れなく収容することができた。
(続く)

2009年03月21日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 溺者収容が終わったのは午後で夕刻近かったと記憶しているが、終わって現場を離れ香港に急行する間に、収容者達から個々に聞いた昨夜の被害状況を総合してみると次のとおりであった。

 「船内が暑いので皆上甲板で涼んでいた。 突如上空の満天の星が一時見えなくなり、小型爆弾が少し落ちてきて、所々が燃え出したと思ったら次にゴオーという大音響が突如として起こって、後自然に弱くなって遂に消えた。」

 ということであった。

 思うに、当時の南シナ海哨戒中のB24の1機は、電探によって船団部隊を捕捉し、映像の中で一番大きな「日瑞丸」を爆撃の目標とし、哨戒兼爆撃という任務上携行している小型爆弾(約30トン程度)を使用する目的で、「日瑞丸」の針路上、斜後方上空より発動機を止め、約20度程度の緩降下で無音のうちに近迫し、「日瑞丸」上空約500m以下くらいの低空で投弾し、直に上舵を取り同時に発動機を発動して針路上の前方に去ったものと推定された。

 「日瑞丸」便乗者にとっては、晴天暗夜に突如頭上から覆いかぶせられた大風呂敷のように感じたことは無理からぬことであって、弾着と同時に戦死、負傷者も生じたであろうし、また船体機関の被害も生じたであろうし、これらの処置で船内大混乱を呈し、敵機投弾の推定もなかなか立たず、まして「朝顔」宛て報告も要領を得なかったものと想像された。

(原注) 敵機投弾によって船長が戦死したかどうか記憶に残っていない。

 これは正に電探爆撃と見張力の闘争であって、「朝顔」の当時装備していた逆探も対空電探(18年11月装備)も事前にこの敵機を捕捉できなかったわけである。

 このような敵機の戦法は、また南シナ海では初回のものであったように記憶している。 この敵は初めてやってみてこれだけ見事に成功したからには、敵機も昆明辺りで何回も訓練してきたものと推定されたが、当方としては見事に「お面1本」を取られてしまった。

 これまで、「朝顔」艦長が船団部隊指揮官として指揮しているときの被害は皆無であったが、これで遂に初の黒星を付けてしまった。

 三亜海岸75日間の座礁は、気力体力を回復させてくれたことは確かであったが、お馴染みの南シナ海のB24の新戦法を見破るだけの心眼には回復していなかった。

 部隊というものは、指揮官の心眼によっで性能以上の能力で敵の端緒を捉むことがあるものであり、私の心眼がもしこのような敵機の新戦法を予め警戒していたならば、たとい対空電探が性能悪く1機の敵機を捕捉していなかったにしろ、逆探又は電信室の受信機が何かしかの敵電波を事前に捕捉し得ていたのではないか、と反省せられ慚愧に堪えない。

 またかつて、生徒時代に運用術のみならず色々な科の教官から、「慣れた航路も初航路」 と耳にタコができるように教えられてはいたが、三亜を出て東航しつつあった私は、被爆当夜の満天の星があたかも「朝顔」の生還を歓迎しているかのように錯覚し、慣れた南シナ海を我が庭先と思って台湾入港を心に画いていた。 これは全く船団部隊指揮官の呑気さに起因する失敗であった。

 不敗の指揮官になるためには、一寸一秒の油断もできないことを敵の大風呂敷(B24)は数えてくれた。
(続く)

2009年03月22日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「朝顔」は漂流者全員を救助し終わり、掃101が護衛して香港向け先行中のユタ12船団(3隻)の後を追及し、「朝顔」にとっては珍しい香港に入港したのは10月19日2155であった。

 ユタ12船団の残り商船、護衛艦合計5隻は香港にて解散となり、門司行きホモ01船団4隻、指揮官第12班、運航指揮官篠田清彦大佐、護衛艦「朝顔」・掃101・駆28が新たに編成され、この船団は台湾に立ち寄る必要はなかった。

 (原注) 掃101は第101号掃海艇・駆28は第28号駆潜艇の略称。

 篠田大佐(第43期)は海兵第72期の篠田茂君 (海上自衛隊に在職した) の父君であったので、私は第72期指導官の一人であった経歴を通じて初めから特別の親しみを抱いていた。

 そして運航指揮官の乗船については、船団長のいる一番船に乗る場合と、護衛艦の中の最先任艦に乗る場合とがあり、その選定は運航指揮官自身が決めていたが、護衛隊が空母・軽巡などを含む場合には空母・軽巡の固有指揮官 (戦隊司令官など)  が船団部隊指揮官をしたのでそれは特別の例であるが、運航指揮官が配せられる船団の多くは、その護衛隊は大抵駆逐艦以下の小艦艇が多く、大抵の運航指揮官は一番船に乗ることが一般の傾向であって、この傾向に対し私は常々反対の意見を抱いていた。

 両者を比較してみると次の特色があったようである。

 1.商船に乗る場合
    (1)船団の結束をとりやすい。
    (2)特に眼高が高く船団部隊全部を視認でき掌握しやすい。
    (3)居住性が良い。

 2.護衛艦に乗る場合
    (1)出現する敵に対処しやすい。
    (2)特に通信連絡に便。
    (3)眼高は低く、居住性は悪い。

 即ち私の意見は、対敵措置を主とすることにして、旧式二等駆逐艦でもこれに乗艦された方が良いのでないか、という意見であった。

 私はこの意見を篠田大佐に率直に申上げたところ、同大佐は即座に私の意見を入れ早速「朝顔」に乗り込んでこられた。

 さてそうなってみると、それまで一国一城の主を決め込んでいた私は、艦橋後部左舷にある魚雷戦発令所という唯一の休息所を同大佐に提供しなければならなかった。

 この発令所は長さ約2m、幅約1m未満くらいのだ円形の室で、左舷の壁には発令用の発信器が多数あり、その手前が長さ短く幅の狭いソファーにしてあって、私が横になると両足が伸すことができず、いつも腰から下を折り曲げなければならなかったが、それでもこのソファーは私にとって行動中の唯一の御殿であった。

 別に同大佐から私にこのソファーの明け渡しの命令を受けたわけでもなかったから、私も知らぬ顔でこの休息所だけは譲らず、下の士官室隣りの艦長室を提供するだけでも良かったのかもしれないが、運航指揮官の御熱心さに打たれた私は、最高のサービスを自ら進んで提供したわけであった。

 したがって私は、この発令所の更に左舷の方の艦橋側幕の内側に仮製寝台を置き、周囲と天井を古帆布で包んだが、これこそ印度洋の「雁」で既に実験済の乞食小屋の一つであって、強い風雨の度に寝台を濡らしてしまうことが屡々あり、この小屋を陸軍の中隊長にでも見せたら、「海軍にならなくて良かった」 と肝を冷すような哀れさであった。
(続く)

2009年03月23日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 篠田大佐はまた私に言われた。 「僕が司令官で君が先任参謀だよ、ひとつよろしく頼む」 と。

 これで私は先任艦長と先任参謀の2つの役を仰せつかってしまった。 そう言えば同大佐には一人の少尉すら付いてなく、航海出身の下士官兵が数名付いていたに過ぎなかった。

 この篠田司令官の旗艦艦長になったような私は、ことごとにまず意見を申し上げて後、その命令を全軍に発令しなければならなかったので、従来のような 「朝顔先任艦長指揮」 というような軽快さはなかったが、この名指揮官篠田大佐は、私の今まで体験したところを気持よく聞いてくれ、私に存分の働きをさせて私が最も安全と思う船団誘導の意見を取り入れてくれた。

 すなわち、10月20日1000香港発、南シナ海の接岸を利用しつつ東航し、次いで中支沿岸を同じく接岸北上した。

 毎日毎日艦橋のコンパスを挟んで、篠田運航指揮官と私は護衛研究とばか話に明け暮れ、狭い艦橋に2人の指揮官を置くこの行動も、従来の一人天下の行動に比べ精神的に最も楽しい護衛行動の一つとなった。

 中支沿岸を接岸して北上を続け27日1200、揚子江入口の泗礁山に着いたが、その当日かあるいは前日に4隻のうちの1隻が浅瀬に船首を乗し上げた。

 既に凶状持ちの苦い経験を持っていた私は少しも慌てず、船団中の同じくらいの大型船に命じて機を逸せず引き下ろしを命じ、大事に至らず離礁させた記憶がある。 このような場合には、潮高の今後の傾向を調べ、機を逸せず措置することが大事と思われた。

 次いで泗礁山一泊の後、翌28日1500同地発門司に向かったが、この出港のときにも私は失敗を重ねている。

 私が目を覚ましたのは出港予定時刻1500頃であった。 私は目を覚ましてから各船が煙を出し、各艦の錨関係員も前甲板にあり、今や「朝顔」の出港命令(旗旒)だけを待っている状態を一見してビックリした。

 「シマッタ! 寝過して船団出港を遅らせた!」 とて青くなった。 早速運航指揮官に謝って次々に旗流信号を揚げて出港したが、やはり30分くらい予定より遅れてしまった。

 全くこんな失敗は、「雁」、「朝顔」を通じて初めてであった。 早速私を起こす役目の当番を呼びつけて、「なぜ30分前に起こさなかったか?」 と究明したところ、当番の返事がどうもいつもと違ってハッキリしない。 何か事情があったらしい。 篠田大佐はただニタニタしている。

 結局私が想像するに、同大佐が当番に命じて私に30分の睡眠を与えられたようであったが、私はついに同大佐に尋ねる機会を失し、同大佐は次の護衛行動で戦死されてしまい、この謎は終身私に付きまとうこととなった。

 ホモ01船団合計7隻は東シナ海も無事突破し、11月1日1300六連着。 かくして篠田大佐の護衛行動は損害なしの見事な記録を打立てたが、同大佐の温容を思い出しては懐旧の情こ堪えない。 実に仕えやすい立派な先輩であった。

 「朝顔」は船団を門司に入れこんだ後、六連沖に仮泊のまま1泊し、翌2日朝六連発、同日1130佐世保に着いているが、これは恐らく単独回航だったと思う。

 そして翌々日の4日0900佐世保を出て5日2200母港舞鶴に帰着している。 これは三亜に座礁したため、いつもより少し早目の5箇月振りの母港であった。

(原注) 上記中の佐世保回航の目的は何であったか記憶がない。 行動は戦時日誌より取った。


(続く)