2009年04月09日

聖市夜話(第30話) 西ルソンにて反転す(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は新しく着任していた水測士伊藤利之少尉を艦橋に呼んで、工藤航海長が入れた海図上の錨鎖の位置を示した。

 柔道の有段者を思わせるような堂々とした長身な体格の水測士は、その童顔にニッコリ笑みをたたえながら、「では掃海を始めます」 といって平然として下りて行って短艇に乗り2隻を指揮しながら4つ目錨による掃海を始めた。

 このとき突如として敵の泊地爆撃部隊が侵入し、在泊の護衛艦は一斉に射ち上げ出した。 私はまだ学生臭の抜けないような水測士が初陣であることに気が付き、7倍眼鏡で水測士の指揮する2隻の短艇を見守り、敵の投弾が短艇に落ちるのでないかとハラハラしたが、短艇内の水測士の豪胆さにはこちらが驚いてしまった。

 彼は 「これで念願の実戦が眺められる」 と言はんばかりの喜び方で、敵機の投弾・機銃掃射などは全く意に介せず、彼我の射ち合いをいたずらっぼく面白がって見上げていた。

 敵機が去った後間もなく、この豪胆な水測士は見事に錨鎖を発見してくれ気が気でない私達の期待に応えた。

 一秒も惜しい「朝顔」は直ちに錨を揚収して泊地を飛び出し北上し、間もなく視界内の船団に追及し、左横の定位置についてホット一息ついた。

 それにしても、昨夜までの毎晩の敵機の泊地偵察兼爆撃が、本日の数機による昼間泊地強襲に変わったことは、敵航空部隊の比島戦線の急速な進展を物語っていた。 本日ここを脱出した我々は良いとしても、湾内に残っている他の船団部隊の明日の運命が危ぶまれた。

 またこの日であったと記憶するが、「「呉竹」バシー海峡にて敵潜の雷撃を受け行動不能、艦長戦死」 のイ36電報を受けた。

(注) : 「呉竹」は昭和19年12月30日に米潜 「Razorback」(SS394) によって撃沈されたとされています。


 「呉竹」だけは確実に内地に生還するであらうと思って帽子を振ったばかりなのに、また特に別れの信号をくれたばかりなのに、また更に三亜の荒天では無言の教訓を私に与えたあの百戦不敗の吉田艦長が逆に刺されて戦死するとは、・・・・しばし呆然として物が言えなかった。

 これで遂に、イ36の生え抜きの駆逐艦は「朝顔」わずか1隻になってしまったようで、次はいよいよ我が「朝顔」かという予感が切実になってきた。

 タマ38船団は、陸軍2万比島揚陸という任務を全うして空船の船脚も軽く、ルソン島に接岸し一路北上し帰途を急ぎ、その日の夕刻頃には北西沖合に針路を変えてルソン海岸から遠ざかる予定であった。

 船団の右側(東側)にはわずかな幅の海岸地帯のすぐ奥に海岸と平行に並んだ山脈の列が、奥の方に幾重に並んで熱帯の強い太陽を受けており、「朝顔」は船団左側(西側)に占位していた。
(続く)

2009年04月08日

聖市夜話(第30話) 西ルソンにて反転す(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 やがて深夜に近くなり、果たせるかな! 敵重爆の日課手入れがやって来た。 湾内錨地周辺を回り出し、近づくと味方護衛艦が射ち上げた。

 そのうち敵機は件の湾口哨戒艦を見付けたらしく、同艦の上空に接近したかと思った直後、同艦の艦橋付近に弱い火災が私の7倍眼鏡でも認められたが、12サンチ眼鏡で見させたら艦首が少し沈下しているようにも感じられた。

 そして同艦から早速緊急の報告があったらしい、湾内の僚艦2隻ばかりが、至急出港して湾口哨戒艦救助に急行した。

 「それ見ろ!」 と私は心に怒鳴ったが、これは無理な話で、私はついに進言を断念していた後の祭りであった。 私がもし断念せずして、僭越を顧みずに直言していたならば、被害はもっと少なくて済んだ結果となっていたであろうと、戦後になってすらも繰り返して反省されることである。

 私は信号員に命じて湾口哨戒艦の艦名を尋ねさせ、驚いたことにはそれが級友桑原円少佐の第20号海防艦であることを知った。 私は重ねて被害状況を尋ねさせたところ、ああ、万事休す! 「艦長戦死」 という回答を得た。

 そう言えば、虫の知らせか、私は最初からこの哨戒艦の安否ばかりが気に掛かっていた。 進言すれば間に合っていたであろうか、と思うと心の悔やみは深刻であった。 級友桑原にあの世に行ってから何んと詫びたら良いであろうか。

 昔を振り返ってみれば、私は昭和15年半ば、連合艦隊別府入港の際初めて新婚の家内を別府に回航して、3日ばかりの温泉生活を楽んだことがあったが、彼もまた丁度回航中で2組の新婚夫婦は偶然合同して寛いで語り合った。

 この時彼は家に包貞(かねさだ)の大刀を持っていると語った。 私は当時同銘の短刀を持っていたので、「この次は俺に是非拝ませてくれ」 といって別れたことを記憶している。

 それから4年の間は、ともに忙しくて別府のように再び打ち寛いで話す機会とてもなかった。 そして彼は無言のうちに私の眼前10Kmの暗夜の海上に現れ、私の目の前で壮烈な戦死を遂げた。 海上武人の一生はかくのごときものかと歎息させられたのであった。

 その後数日して私は同艦の先任将校に会って親しく艦長戦死の模様を聴いたが、小型爆弾1個が艦長室を直撃し、艦長の五体は萬朶の桜と散ったそうで、私は同先任将校に艦長夫人によく伝えてもらいたいと懇ろに頼んだ。

 さてタマ38船団が輸送した2万の陸軍部隊は、入港するや否や昼夜兼行で武器弾薬類を陸揚げし、それが水際から椰子林までの間にうず高く積まれていた。

 桑原艦長戦死の翌日(推定30日)、タマ38船団の中型空船4隻は、往路と同じ駆潜隊4隻と「朝顔」がこれを護衛して高雄に帰ることとなった。 乗員一同いよいよ「朝顔」にも順番が回ってきて再び高雄に帰れることを喜んだ。

(注) : 第20号海防艦の沈没は12月29日とするものと30日とするものの2つがありますが、どちらが正しいのかは不明です。 本記事によるとすると、29日艦長戦死時の空襲では沈没しなかったようにもとれますが・・・・?


 予定出発時刻(0800頃であったか?)を前にして錨鎖を詰め出したところ、錨鎖が第4節(?)目かでスッポリ切れていることが分かったが、さていつの間に切れていたかも全く心当たりがなかった。

 船団出港時刻は刻々と迫りつつあったので、私は一応錨を捨てて船団とともに出撃することも考えてみたが、この戦局緊迫下において果たしていつの日にか再びこの地にくることがあらうかという疑問の念が強かったので、船団部隊指揮官に乞うて、短艇による錨鎖掃海の強行を決意したのであった。

 そしてそれは迅速に目的を達しなければならなかった。 万一錨の捜索に半日も1日も掛かってしまって、「朝顔」の船団追及が遅れたならば、その間船団には高速艦が付いていないので、敵潜は浮上してゆうゆうと船団を追及し思いのままに船団を攻撃することができるであろう。
(続く)

2009年04月07日

聖市夜話(第30話) 西ルソンにて反転す(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 サンフェルナンドは「朝顔」にとって初めての入港であった。 タマ38船団より前に既に1〜2の船団が在拍しているようでに賑わっていた。

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( 元画像 : google map より )

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( 現在のサンフェルナンド湾付近。 この左下奥が有名な
  リンガエン湾になります。 元画像 : google earth より )

 陸軍の精鋭2万は、1兵も傷つくことなく到着し、レイテでもなくマニラでもなく、ここに揚陸することに新しく命令が下っていた。

 私たち「朝顔」と「呉竹」はいつレイテに進出するのか、いつ中継地のマニラまで行くのか、どうもこれから先の行動予定が怪しくなってきた。

 26日の夜も深まってから、敵4発単機が偵察兼爆撃に来襲し、湾内で遠慮勝ちに点燈して荷役作業を急いでいる貨物船を爆撃に接近してくると、無燈火で停泊している護衛艦が一斉に射ち上げるので、敵機は我が船団部隊の錨泊位置の周辺をグルグル回って、申し訳的に投弾して帰る状況であったが、あれだけゆっくり回っているならば、第1の任務である湾内の偵察は十分に果たしているものと思われた。

 翌27日であったか、「呉竹」、「朝顔」のレイテ突入見合わせ、同じ船団を護衛し高雄に帰れという電報に接した。

 私は露天甲板に繰り広げていた総員陸戦隊部署の準備物件の撤去を命じた。 そして夢に見た陸戦隊稼業もついに私たちの夢から消え去り、再び波枕を友として戦い続けねばならないこととなった。

 同日午後であったか、タマ38船団より前に入泊していた船団部隊が抜錨して北上した。 これと同時に「呉竹」も抜錨し、同艦長から私あて次の信号があった。

 「我お先に失礼す、再会を期し、貴艦の武運長久を祈る」

 「朝顔」乗員は総員帽子を振って僚艦の出発を見送った。

 私は吉田艦長の希望が遂に叶えられたことを知り、「呉竹」のために心から喜んだが、一方我が身のことを振り返れば明日の運命も分からず、

 「まあいいや、「呉竹」だけは無事危地を脱して祖国に我々のことを伝えれてくれるであろう。」

 と思った。

 その翌日の日没頃、タマ38船団の次の船団が入港してきて、この護衛艦は海防艦数隻であったが、この中の1隻は入港せずそのまま沖合約10kmに残り、湾口哨戒を命ぜられたようであった。

 私は湾内の「朝顔」艦橋から見て、「これは危い!」と直感した。 派遣艦が2隻以上ならともかく、たった1隻なら暗夜敵潜から逆に刺される恐れがある。 また昨夜来襲した敵重爆の投弾を受ける恐れがある。

 日本軍のやり方は敵の中心を狙った、これに反し米軍の戦法は敵の一番弱いところから攻めるのが常套手段であった。

 私は、別に頼まれもしないのに、「朝顔」の当直見張貝に命じて、湾口哨戒中の海防艦の安否を、明朝日出まで厳重に見張るように命じた。

 そして私はこの船団部隊指揮官に対し、「更に1〜2隻増派されてはいかが」 と進言したい強い衝動にかられたが、他隊の、しかも平の護衛艦々長として余りにも出過ぎたことと思われたので思いとどめた。

 しかし湾口哨戒艦が心配で心配でたまらず、「朝顔」の近くの湾内に投錨して恐らくグッスリ熟睡しているであらう僚艦数隻の姿が、恨めしい限りであった。
(続く)

2009年04月06日

聖市夜話(第30話) 西ルソンにて反転す(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 やがて26日の午後も過ぎ日没近くになり、サンフェルナンド入港は日没直後になる計算であって、駆潜隊司令も一刻を争って入港を早めて、この大任を成功裏に終わらせたいと念願しておられるものと想像された。

 突如艦橋右前12サンチ大型眼鏡に当直中の見張りの名人服部一曹は、西方約1万mに浮上潜水艦1隻を発見した。

 「朝顔」は直にこれに向首増速し、総員を戦闘配置に就けた。 艦尾を振り返って船団部隊を見れば、隊伍斉々目の前のサンフェルナンド湾口目掛けて先を急いでいる。

 私の敵潜発見報告に対し、司令は何の指令(兵力配備)も与えなかった。 要するに「朝顔」1艦で適宜やれという意味と解釈せられた。 日没は刻々迫っていた。

 敵潜は「朝顔」の急迫をみて定石どおり潜航してしまった。 私は船団部隊指揮官(駆潜隊司令)の意図が、この敵潜の撃滅に余り重きをおいてないことを知った。

 もし撃滅しようという意図があるならば、まず「呉竹」、一段格を落としても駆潜艇一隻ぐらいを増派して「朝顔」に協力させるであろう。

 というのは、日没を境として潜水艦対駆逐艦の一騎打ちは形勢逆転し、潜没潜水艦側に格段に有利となるからであり、単独の駆逐艦などはむしろ危険に近いという形勢に陥るからである。

 距離は刻々近くなった。 正に一騎打ちである。 幸いに「朝顔」の探信儀は敵潜を捕えて確実に保線し続けた。 また聴音器も好調であった。

 次いで 「爆雷戦!」 下命。

 探信儀の距離は刻々と近くなり、敵潜の方位は艦首零度方向のまま、敵は正眼に構えている。 良い度胸である。

 我が第1弾投下。 それまで音なしの構えであった敵は、急増速のうえ面舵に大転舵しつつあることが、聴音器に入る強い音によってあたかも目に見えるように聞えた。

 と同時に、私の心の中には、敵潜の艦長の顔が剣道における鍔ぜり合いで面鉄の奥に見えるように、鷲鼻の両側にケイケイたる眼光輝き、頭髪は毛一本もないような禿頭に見えた。

 「この敵は戦さに慣れているぞ」 という第1の直感が私の脳裏を駆け巡った。

 案の定、約6発の爆雷爆発後、1発の命中弾さえも発見できなかった。 敵は見事に我が第1撃をかわした。 日没時刻は既に経過しており、また南海の夜の幕は急速に下りてくる特徴があった。

 水深も海上模様もともに我に有利ではあったが、私には「朝顔」一隻で、この勇敢な敵潜を暗夜に仕留める自信は湧いてこなかった。  「攻撃を中止し船団に合同する」 と私は決意した。

 これが初陣であった新しい工藤航海長は攻撃続行を強く進言した。 先任将校も主砲指揮所から下りてきて、この敵をむざむざ手放すのは惜しいと同じように進言したが、私は詳しく説明せず現場を離れて針路を湾口に向けた。

 これら幹部は、今日の艦長は日頃の高言にも似合わずえらく臆病だなーと思ったことであろう。
(続く)

2009年04月05日

聖市夜話(第30話) 西ルソンにて反転す(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この宴会の翌々日の12月24日にタマ38船団はマニラ向け高雄を出た。

 真っ直ぐバシー海峡を南下せず、サイゴンに向かうような南西の針路を取り、バシー海峡が終わった頃、急速に南東に折って北部ルソン島に突っ込み、後、接岸して南下した。

 この途中で行先をマニラからサンフェルナンドに変更の電報が来たようであった。 私たちが想像していたより、戦局の方が早い速度で急迫していることが分かった。

 最初我々はまずマニラまで行って、それからマニラ司令部の命を受けてレイテに突入の予定であったが、今やマニラに入ることすら危険となっているのであった。

 この険悪な戦局にもかかわらず、ルソン島西岸はいつものように披静かで、紺碧の空は澄みきり、強い太陽と海岸の白浜と緑濃き椰子林はギラギラと輝き渡っていて、この平和な大自然に関係なく、人間どもだけが死闘を繰り返しているかのようであった。

 さすがに陸軍取って置きのこの6,000トン級貨物船はよく走り、前方並びにその左右に占位する駆潜艇も司令直率の下、隊伍斉々と行動し、その後方左右に占位する右の「朝顔」左の「呉竹」艦上から見ると、前方のこれら小型の駆潜隊の行動は実に健気に見えた。

 そもそも駆潜艇というものは、元来内戦部隊の艦艇であったが、第一線の我々駆逐艦、海防艦の消耗を補うため、このように遠路はるばる日本より南下して来て、駆逐艦に伍して日米激突の現場に投入されるということは、その性能からみてあらゆる面に無理があり、それが全部乗員の気力体力に掛かってくるのであるから、乗員の心身の疲労は激しく、彼等は限度一杯で行動を続けているようなもので、「朝顔」の広い艦上で彼等の苦労を想像することは到底できない程度のものであった。

 しかし油を流したような西ルソンの海面は、冬の東シナ海を突破してきたこれら駆潜隊をねぎらうに十分であろうと想像された。

 ルソン島西岸も事なく過ぎ、第一の目的地サンフェルナンドも間近となってきた。

 私は駆逐艦稼業をやめて陸戦隊稼業に商売替えする近い将来のことに色々と思いを巡らせ、むしろこれを楽しみたいと思っていた。

 そして第1にやりたいことは、ゆっくり熟睡したいことであった。 陸上の大地は不沈艦で、厚さ約10ミリの鉄板の1枚下は地獄という船乗りにとっては無限の魅力であった。 そして第2にやりたいことは、緑の野菜、果物を存分に食いたいということであった。

 ゆっくり眠れて緑の野菜が食えること、ただこれだけでも陸戦隊になることの魅力は十分にありそうに思えた。

 既に艦内には総員陸戦隊部署の準備が完成し、号令一下数分のうちに商売替えする用意は完備していた。 また海岸の平和そうな緑の山野はこの可能性を十分に証明しているかのように見えた。
(続く)

2009年04月03日

聖市夜話(第30話) 西ルソンにて反転す(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 19年12月21日高雄に帰投した「朝顔」は、内示のとおりレイテ第10次輸送部隊として「呉竹」と共に、まず高雄からマニラまでタマ38船団 (注1) を護衛して南下することとなり、これと同時に12月25日付今まで所属していた第1海上護衛隊から去って南西方面部隊の第31戦隊に編入される予定 (注2) となった。

(注1) : 本第30話で出てくる船団についての記述は、原文そのままとしており、コメントなども敢えてつけませんことをご了承下さい。


(注2) : 実際には編入ではなく、12月26日付けで第31戦隊の作戦指揮下に置かれました。


 そして神林主計長と林軍医長は既に12月20日1海護麾下の海防艦61号に転出していたから、この2人だけは生き残り、私達は南下してレイテに散るという予想であった。

 そして南下のついでに護衛して行く貨物船4隻は陸軍取って置きの高速中型船(約6,000トン)で、これに搭載してきている陸軍部隊2万も同様に陸軍取って置きの最後の比島増援部隊で、満州(?)からの派遣であるように聞いた。

 そして船団部隊指揮官は駆潜隊司令の現役中佐で、護衛艦は同中佐の指揮する駆潜艇4隻と「呉竹」、「朝顔」の2艦であった。

 (原注) : この駆潜隊の番号、司令の名前は残念ながら記憶していない。

 従来私たちは単独駆潜艇をよく指揮してきたものであったが、今度は揃った新しい駆潜隊が内地から現れ出てきて、その司令から指揮される逆の立場となったので、いよいよこの戦も末近くなってきたという感じを受けた。

 また1海護司令部では、開戦以来護衛に連続奮闘し、同隊最後の2隻の駆逐艦として残った「呉竹」、「朝顔」が、遂に比島部隊に転出し近くレイテに突入するに際し、珍しくも壮行会を催し両艦の主要な幹部を招接してくれたが、これも私達にとっては初めての1海護の宴会であった。 それは12月22日か23日の夜であったと推定される。

 また私達が従来イ36と俗称していた第1海上護衛隊も、12月10日から第1護衛艦隊と改名せられ、今までの中島司令官も11月4日交代し、岸長官 (福治、中将、40期) に変わってしまっていた。

 何もかも変わってしまって、生き残りの「呉竹」、「朝顔」は今度はレイテに売られて行くわいな、というような寂しさもあった。

 特に「呉竹」はマニラ湾から帰還したばかりで、吉田艦長談によるとマニラ湾内対空戦闘で艦内電路に被弾し応急修理のままであり、かつ浅いところを駆けずり回ったので、推進器翼端も屈曲していて原速航行中でも異音を発するので、同艦長は高雄帰着後司令部に対し母港整備を再三強く要望したのであったが、司令部の返事は「レイテの状況既にこれを許さず」というにあって、同艦長も宴会のときは既にあきらめていた。

 しかしその苦衷は強く私の心を打った。 特に母港整備から出てきたばかりの「朝顔」にとっては、慰める言葉も見いだせなかった。 こんな場合、老齢艦となればなるほど、母港整備の必要が強かったわけである。

 イ36初めての宴会の珍味も、吉田艦長の無念さを慰めてはくれなかった。 同艦長は私に最後に言った。

 「それでも、もう良い。 君と一緒に突っ込むならどこにでも喜んで行こう。 僕が早かったら僕の骨を君が拾ってくれ。 どうかよろしく願います。」

 そして両眼に涙を湛えて私に握手した。 私も吉田先輩の信頼に答えて、力強く握手して返した。
(続く)

2009年04月02日

聖市夜話(第29話) レイテ突入迫る(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「シマッタ!」 と思って速力を除々に下げ、見張員に溺者を見失わないように厳重に命じたが、一波ごとに溺者は波の底に見えなくなって遠ざかって行った。

 私はこの台湾海峡では、二年目少尉のとき、もっと強い荒天に遭い、危く転覆寸前の駆逐艦の状態を体験していたので、速力を落としながらも急に大転舵をすることは避け、行き脚の落ちるのを確認しながら、徐々に回頭を始め、ようやく溺者のいる風上に向けることができたが、今度は舵が効く代わりに、真向かいから襲ってくる波浪のため艦の縦動揺は強く、船体は一波ごとにきしみ、速力を上げることができない。

 ようやくにして約30分掛かって樽の横に着くことができたが、2人の姿は既に樽の横にも付近一帯にも発見することはできなかった。

 この2人は主計科烹炊員の岩崎、山貝2等主計兵(階級?)であったが、目撃者談を総合すると、食事準備のために中部右舷にある冷蔵庫から物を取り出さんとするとき、たまたま艦の動揺で冷蔵庫の上甲板取付部の一部が壊れて、冷蔵庫が動き出したので、若い元気な2人はこれを海に落とすまいとして抑さえた瞬間、次に来た艦の横動揺でハズミを食らって舷外に放り出されたことが推定された。

 私はすぐ高雄の第1海上護衛隊に電報して水偵の捜索を依頼したが、すぐ上空にやってきて怒涛の中を「朝顔」とともに捜索してくれたが、遂に発見することができなかった。 私は遂に最愛の部下を2名も台湾海峡の狂瀾怒涛の中に取られてしまった。

 彼らは舞鶴で新しく乗艦したばかりではなかったか。 何故彼等に荒天航海中の注意を与えなかったのか。 冷蔵庫なんかどうなっても良いと何故教えておかなかったか。 追い風、追い波の危険さを何故教えなかったのか。

 と次々の悔悟の念にかられながらこの大きなうねりを見上げると、白い波頭が逆巻きながら南に進むこの大波では、私達のように海に慣れた者でも1時間以上は保てそうにも思われなかった。 空は雲量10で荒天の海上を反映してか、これまた褐色のような感じに見えた。

 私は戦後この2人の海に落ちたときの夢を何回となく見た。 そして今ではあたかも私自身が冷蔵庫を抑え、次の瞬間海に放り込まれたかのように、その体験談を語れるようになった。

 私達は動揺激しい駆逐艦で、片舷から反対舷に長い机の上にあるコップなどが、横動揺によって順々に机の上をゴロゴロと回転してゆくものかと思ったら、そんな生易しいことではなく、片舷にいる野球の投手が、反対舷に向かって強いスピードで投げつけられたかのように空中を飛んで行って四散することを知ったが、私の大事なこの2人を外舷に放り出した原動力は正にこの小艦の横動揺の 「ハズミ」 であった。

 古い乗員は既にこれを避けるすべを自然のうちに身に付けていた。 このハズミに対しては順応することだけが逃げ道であって、絶対に逆うことのできない自然の強い力であった。

 しかし母港舞鶴の海兵団で習って、初めてこの台湾海峡の荒天に遭ったばかりで、どうしてこの知恵が身に付くであろうか。 彼等の心にはこの古い冷蔵庫があたかも恩賜の小銃のように大事であったに違いない。

 ああ何たることぞ、台湾海峡を、冬の東シナ海を縦横に踏破してきた我々がついているのに! 私は申し訳ない、陛下の赤子を波にのまれて何の艦長ぞ! また遺族に何の顔容あって相まみえることができよう。

 レイテ突入部隊の勢ぞろいの時間は刻々に迫りつつあった。 私は決然捜索を打ち切るむね電報を打って、全乗員とともに今や姿なき2人の霊永久に安かれと祈りつつ、涙をのんで現場を後にし一路高雄に向けた。

 私はそれまでは幸いにして18年10月着任以来、一人の乗員も失っていなかった。 一人の怪我人も出していなかった。 これは私の誇り得る自信ともなっていた。

 水雷艇「雁」ではラングーン港内対空戦闘で一撃の下に約30名を死傷させてしまったが、「朝顔」では今度はやられぬぞという強い意気込みがあったが、今やこの輝かしいレコードは一挙にして崩れ去った。

 しかも敵との交戦によるものにあらず、それは追い風、追い波の怒涛に呑まれたものであった。 今からレイテに突っ込むというのに、今後の近き将来において果たして幾人を更に失うことであろうか。

 高雄港が近くになったが、暗澹たる私の心を慰めてくれるものは何もなかった。
(第29話終)

2009年03月30日

聖市夜話(第29話) レイテ突入迫る(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 丁度この頃、オルモック湾における駆逐艦「竹」(艦長宇部木勤少佐、64期)及び「桑」が、敵大型駆逐艦3隻と交戦し、「竹」の発射した93魚雷で敵の1隻をスッ飛ばし、その追跡からうまく離脱できたという情報が入った。

(原注) : この交戦は12月3日で、第7次と第8次の間になる。 「桑」は「竹」の魚雷戦の前に砲戦で沈没し始めている。


 台湾竹の装備に熱中していた私は、早速「朝顔」にも魚雷が欲しくなった。 連続護衛ばかりやっていた「朝顔」は、誘爆防止と重量軽減のため魚雷を卸していたのであった。

 早速高雄、馬公を捜してもらったら、艦首をやられて馬公で修理中である「朝風」(旧一等)が分けてくれるということが分かった。 「朝風」と言えば三亜海岸を走って潮高を上げてくれた福山強少佐の艦である。

 「朝顔」は早速12月19日(記憶)高雄を出て強い北方季節風を受けながらその日の夜馬公に投錨したが、陸上が低い馬公は風を遮ってくれる何物もなく、船体は強い風圧をモロに受け、かつ底質は岩盤で錨かき悪く、何回投錨しても猛烈な風で見る見るうちに風下に流し落とされ、危く港の南端にある沈船に押し付けられそうになったこともあったが、この悪戦苦闘を4−5回繰り返すうちにようやく岸壁に紡索を取ることができた。

 この苦闘の間、私の周辺にいる幹部は、操艦に関して艦長以上の年期を入れている者はもちろん一人もなく、私一人で強い北風と戦って、排水量1、500トンを狭い港内で取扱うことは、非常な苦労であって、我が身の未熱さをつくづくと思い知らされた。

 翌日、「朝風」乗員が調整して大事に秘蔵していた6年式魚雷2本を、そのままソックリ頂戴して調整し発射管に装填し終わり、更にその翌日高雄に向け馬公を出港した。

 台湾海峡は依然として北の季節風が強く、風速約20mが連吹し、連日の風でうねりも大きく波長100mぐらいであって、長さ85mの「朝顔」は1つの波にスッポリ入るくらいであったが、舞鶴での新乗艦者以外の旧乗員たちにとっては、冬の東シナ海は慣れた庭先であり、また心は近く突入予定のレイテのことで一杯であった。

 高雄に向けると丁度追い風、追い波であったが、私の心は一刻も早く高雄に帰って、レイテ第10次輸送部隊としての勢ぞろいに間に合わせたいと思って、速力を約24ノットとし、針路にも工夫を加えず追い風追い波に身をゆだね、むしろ艦速が少しでも多く出ることを期待した。

 艦首は右に左に各約15度ずつぐらい振れ、操舵長は抵舵(あてかじ)で艦首の振れを止めるのに忙しかったが、丁度波乗りに成功し続けているような全乗員は、これで魚雷もいつでも撃てる、後はレイテに突っ込むばかりであるという旺盛な意気込みであったが、私も 「 「朝顔」の向かうところ敵なし」 と胸を張り、観音開きの帆船を操縦しているかのような得意の絶頂にあった。

 突如右舷後方の大型望遠鏡についていた見張員が叫んだ。

 「人が落ちた、2人、右舷中部!」

 私は瞬間頭から冷水をかぶせられたように驚き、艦橋右舷後部に走り寄って海面を見た。 冷蔵庫の上にあった醤油樽1個とともに2人の頭が見えた。
(続く)

2009年03月29日

聖市夜話(第29話) レイテ突入迫る(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 12月14日頃(推定)以後、私は高雄のイ36司令部から今度はレイテ突入第10次輸送部隊という内示を受け、その準備をするように命ぜられた。

 話によれば第1次から第4次ぐらいまで、ことごとく全滅との由。 そしてこの各回次の海軍輸送指揮官達が空路高雄経由内地に引き揚げつつあった。 私はこれら経験者に会って一言でも良いからその戦訓所見を聞き、その後で計画を立てようと思った。

 その1人は沢村成二大佐(49期)であった。 この先輩は私達が生徒の時、水雷科の教官であって、宮島の夏季幕営のある日、満州の江上艦隊の話を全生徒に話されたとき、「及川道子のような美人が出てきてねー」 と説明し、謹厳な松下校長を笑わせ、私達全生徒の拍手喝采を受けたことがあったので、沢村教官と言えば及川道子を思い出すようなユーモラス極まる教官であった。

 私が「第10次で突入の予定です」 というと、教官は情けない声でいった。

 「もうだめだよ、途中までしか行けないよ。 艦がやられたらバラバラになったらいかん、ゲリラに食われる。 よく固まることだね。」

 と教えてくれた。
 
 次も同様今村了之介大佐(49期)に会った。 この先輩も私達が生徒のとき航海科の教官であった。 前日の日曜日大いに聞し召されたと見え、月曜日午前の最初の航海術の時間を開始する時、教官は鞭を横にして首の後部を叩きながら私達の席の間を回りつつ、

 「お前たちも卒業してから余り飲むんぢゃないぞ! 余り飲むと翌日がつらいぞ! よく覚えとけ! 分かったか!」

 と、一回りしてから航海術の講義が始まるという、温情溢れる教官であったが、私がレイテに行く予定ですと切り出すと、「本当に今から行くのか、かわいそうにねー」 と言って昔の生徒の顔をマジマジと見詰めて、沢村教官と同じような注意をしてくれたが、「かわいそうにねー」、の一言には、私の方がビックリしてしまって吹き出してしまった。

 教官の前に出るといつまでも私たちは生徒であるらしい。 私は 「教官! 私も大分戦きに慣れましたヨ」 と言いたいところであったが、教官は 「この男も近く戦死してしまうのか」、というようなまなざしで私をジーツと眺めた。

 この2人の教官の一言で私の戦術方針は決まった。 私は帰艦して砲術長(先任将校)に命じて 「総員陸戦隊部署」 をまず立案させた。

 大体私たちの艦が持っていた 「陸戦隊揚陸部署」 というのは、全乗員の約3割の陸戦隊を揚陸させ、残り乗員でも一応の艦の行動ができるというものであったが、今度は総員が艦を退去して陸に上がって陸戦隊に早変わりするという部署であった。

 そして高雄軍需部から多量の台湾竹の支給を受け、陸上に携行する重量物は台湾竹の筏に乗せ、小銃、軍刀のような軽量品にはその一つ一つに1本ずつの竹を抱かせて水中に沈まないようにしたが、この竹は直径が約12cmぐらいあって極めて有効な浮力体であった。

 そして揚陸品の大きい品は機関室天窓の周辺に置き、軽量の物は各自の戦闘配置の近くの側壁にそれぞれスパニアン (注) で縛り付け、また乗員全員に小刀を常時携行させ、艦が沈むときはスパニアンを切ればすぐ水に浮かぶように手配した。

(注) : 撚り小索のことで、艦でのこの様な用途には麻索を解(ほぐ)したものを使うことが多いです。 通称「雑索」ともいいます。


 そして小銃銃口にはグリスを詰め、銃剣、軍刀にもグリスを厚目に塗らせた。 私自身埋忠明寿の短刀に紐を付け、紐を袈裟掛けに肩から下げ、この刃渡り8寸ぐらいの短刀を脇下にブラ下げながらコンパスを狙った。

 この短刀は水中格闘の場合、相手の心臓に達し得る長さが必要であったが、拳銃は錆付くと役に立たないけれど、その点短刀はいつでも使えるという信頼性があった。

 そして準備完成してから、「総員退去、総員陸戦隊編成」 という、従来の海軍では初めての部署訓練が行われた。 乗員達は紐で腰に着けた肥後守を引き出して、素早く露天甲板を走り回ってスパニアンを切って回る練習をした。
(続く)

2009年03月27日

聖市夜話(第29話) レイテ突入迫る(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 戦時日誌は12月1日から19日まで空白となっているが、私の推定では12月3日頃ミ29船団と洋上にて分離して4日頃高雄着、5日頃から9日頃までバシー海峡護衛強化1回、10日頃高雄発、11日基隆着、12日同発、洋上にて南下船団と合同南下、14日頃高雄着ぐらいではないかと思われる。

 というのは、私達は実際に11日基隆の船越旅館の別館の玄関に立っていたのである。

 お馴染みのお給仕さんたちは、私達が「朝顔」の士官であると分かると、瞬間 「キャー!」 と一斉に奇声を掲げ、その後で私達に恐る恐る近づき、「あなた方、足はあるの? まさか幽霊じゃないでしょうね?」 と尋ねた。 私達(数名)はこの間アッ気にとられて、彼女達のやることを傍観していたが、これでようやく分かった。

 聞けば、「「朝顔」ついに轟沈、全員戦死」 の噂が入っていたそうであった。 誤報で良かった!良かった!サァー一杯やろうと上がり込み、「朝顔」の強き悪運を祝って乾杯の後、私は早速風呂に入った。

 いつもの上江州さんが私の背中を流しつつ語った。

 「敵は遂にレイテに揚がってきましたね。 次は台湾でしょうかね。 私は若い頃刃物道楽で今でも当時集めた逸品のかみそりを10本ばかり持っていますが、艦長さんに1本記念に進呈いたしましょう。」

 私は有り難く寄贈を受け、その厚意に報いるため、何か買ってくださいと金20円を包んだが、さすがにこの切味は素晴らしいものであった。

 私は上江州氏の温さ気持を忘れないため、その柄に 「19年12月11日台湾基隆船越別館上江州氏より受く」 と銘を入れた。 これはPAIDAという剃刀であって、当時の上江州氏は約50歳ぐらいのようであった。

 そしてこの柄に刻みこんだ日付が、戦時日誌の空自の期間における唯一の証拠品となって、以上のような私の推定となったものである。

 当時私たちは、行動に関する日誌は手帳につけてはならないと教えられていた。そしてまさか帝国海軍が破産消滅するとは夢にも考えていなかったので、公式に私達が苦心して書いて提出した戦時日誌、戦闘詳報を再び見さえすれば、それによって何でも分かると安心していた。

 しかし米軍側では第一線に斃れている日本軍将兵の日記帳を専門に調査する情報員さえ持っていた点から考えると、行動を書くなという防諜上の当時の指導は適切であったものと思われるが、これを良いことにして何も書き残さなかったことは、いかに私が不精者とは言え、我が人生に対する大きな悔を後に残した。

 僅か3年にも達しない私の第一線勤務は、その後の10倍以上の私の人生よりも尊く、かつその10倍以上の人生を支配してしまった。

 したがって私が将来もし第一線に再び出るようなことがあったならば、私自身の暗号によってでもその行動を記録したいと思っている。 この所見も私達の多くの者の共通したものであろう。
(続く)

2009年03月26日

聖市夜話(第29話) レイテ突入迫る(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 関門運航部は早速「朝顔」を次の運航計画に組み入れた。 ミ29船団、商船15隻、運航指揮官第15班、橘正雄大佐、護衛艦は「朝顔」・「宇久」・「新南」・海41・海66・「千珠」・「生名」・駆28・特駆223の合計9隻であった。

 この中の「宇久」・「新南」・「千珠」・「生名」は番号型海防艦より一段と優秀な海防艦であって、この竣工当初は艦首に御紋章輝く軍艦に属し、艦長は大(中)佐であったが、いつ頃からか軍艦より格下がりしていて、艦長は最も古参の予備少佐、又は予備大尉が配せられていた。

 また運航指揮官の橘大佐(45期)も、激戦の続いた表舞台で活躍してきた元の駆逐隊司令であると聞いた。

 現役バリバリの運航指揮官と、4隻の優秀な海防艦を含む9隻という護衛艦の充実振りによって、船団部隊の士気は挙がったように見えたものの、護衛の長い経過を見てきた私にとっては 「時既に遅し」 という感じであって、この充実振りがせめて1年早かったらなーと思うことであった。

 この船団は11月30日0900ミリー向け門司を出港した。 私の腹具合は既に20日以上になるのにまだ治らず、私は艦橋で尻の下に防水紙を敷いていて、眼玉だけが生きている感じであった。

 玄界灘、壱岐水道を通って、九州西岸と五島列島の間を南下し始め、平戸島と宇久島の間にかかった時、「朝顔」は怪しい反響音を捕らえた。

 船団に遅れて「朝顔」は反響音の全周を回って調べたところ、これは北方に平らな面を向けている大岩であって、南方から探知しても全く反響音を出すような面を持っていないことが判明したので、爆雷攻撃をする要なしとも思ったが、門司出港以来のこの船団の行動を見ていると、指揮官の命令に対して結束が十分でなく、ミリーまでの長い前途に対して不安が感じられたので、私はこの大岩の調査の最後に断固として1発の爆雷攻撃を「念のため」に実施した。

 当時船団は「朝顔」より先行して大分南に離れていたが、爆雷の爆発音は全船よく味わったはずであった。

 私はそれまで、船団部隊指揮官をしているとき、船団が結束が悪いとき、打てば響くような応答をしないときなどには、よく大砲、爆雷の警報を発したもので、これは百の説法よりズット有効であった。

 「煙を出すな」 「距離を伸ばすな」 と信号ばかり出すことは、この信号を乱発している間に旗艦の警戒力を著しく低下し、しかも余り効果がないけれども、1発の警報は面白いぐらいに後、有効であった。

 もちろん平時における弾薬の消耗の項目にはこのような 「味方に対するもの」 は存在していないが、戦時になったら大いに活用して見られると、その有効性に気が付かれるであろう。 これも大部隊統率の一方法である。 三亜、楡林の陸上部隊全員を戦闘配置に就けたのも「朝顔」1番砲の警報1発であった。

 ところが驚くべし、この爆雷戦1発の後、私の20日にわたる下痢までがピタリと止まってしまった。 「私はやはり、爆雷戦をやるためにこの世の中に生れてきたのではないか」 とさえ思われた。

 その後この船団は順調に行動し、12月4日頃台湾横を通過したように記憶するが、12月分の戦時日誌が抜けているので、明確な行動は書けない。

 ただオボロ気な記憶では、12月3日頃この船団のうち高雄行き商船約4隻を、「朝顔」(指揮)と他の1隻ぐらいの護衞艦で護衛し、台湾北端を回って台湾海峡を通り高雄に入れる際、南西諸島より西航し、基隆北方を通り、台湾海峡向け南航に折る地点で、海上荒天、視界狭少、艦位不明確で、非常に苦心した強い印象が残っている。

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 このときは万一船団部隊の変針を誤ると膨湖島北方の浅瀬に全船団を乗し上げる算も大きく、心を痛めたのであるが、こんな場合にはむしろ南西諸島を離れてからまず船団部隊を台湾北部にブツけて、艦位を確認した後、台湾海峡に入るべきであったと反省された。
(続く)

2009年03月25日

聖市夜話(第29話) レイテ突入迫る(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 19年11月5日母港舞鶴に帰投し、こちらは内心、この決戦下に不覚の座礁という申し訳なさで一杯であったが、部内でさえも冷たい空気はみじんもなく、「よく帰ってきた」 と温く迎えてくれた。

 この時であったが、鎮守府司令長官から艦長以下幹部の食事の招待があり、こんなことは初めてのことであり、また最後となったが、私たちは久しく忘れていた最も綺麗な冬の軍服を引っ張り出して、艦長、先任将校、機関長、軍医長、主計長の計5名(記憶)で参上したが、長官以下は第一線のことを色々尋ねて我々の苦労を労らった。

 母港の11月は天候既に寒冷で、かつ物資は格段に少なくなり底をつく寸前のような感じで、海軍宿舎の夜も布団、木炭などの割当て少なく、寒さのため夜の熟睡すら困難であって、母港に家族のいない者にとっては、母港すらも良い休養地ではなく、1日でも数時間でも良いから家族のいるところに休暇をもらって帰ることが最も大事であった。

 また私たちに接する一般の国民も、戦局が急速に傾いている大勢を心配して、「日本はどうなるか?」 ということに真剣な質問が集中されていた。

 舞鶴籍の艦船もいよいよ残り少なくなり、艦を失った乗員たちは新造の海防艦、駆潜艇などに配乗されて行き、今までのようにニューギニアとか南洋群島とかの遠くに進出する新編部隊の勇壮な門出の話も聞かれなくなってしまった。

 私も11月上旬末、休暇を取り佐賀の自宅で3昼夜を過ごしたが、このとき防空壕ができていないことを見て、なるべく早く造るように勧めた。

 この休暇の前、舞鶴で腹をこわした私は、休暇終わって帰艦してからも、なかなかに治らず、水交社に1晩泊まってみたが、暖房のない余りにも冷え切っている部屋では私の腹具合はますます悪くなりそうであったので、翌日から市中の海軍宿舎「白糸」に泊まった。

(注): この「白糸」というのは現在でも舞鶴の老舗旅館として続いています。 勿論内装などは当時とは大きく変わっているようですが。 http://www.shiraito.jp/shoukai/index.html


 某夜、艦から「白糸」に着いた私は、仲居さんから奥に第6艦隊長官小松輝久中将が泊まっておられることを聞いた。 私は今度こそ最後と覚悟していたので、小松中将の部屋に伺って、今生の思い出に一筆書いていただきたいとお願いした。 長官は丁度同年配の知人と杯を酌み交わしておられたが、早速私の願を聞き入れていただき、私に1枚の色紙を下さった。

 私はこの色紙を持って決死の覚悟のできた200名の乗員と共に、船体機関を整備し船脚も軽くなった「朝顔」を指揮して、11月24日門司に向け単独舞鶴を後にした。

 舞鶴を出航して第一線に向かうことは、これが第3回目ではあったが、これが見納めかと思うと、舞鶴で受けた数々の温かき人の心で胸が一杯で、別離の情に堪えられなかった。

 日本海の海上は既に寒く、私の腹具合は依然として治らず、門司までの訓練中、号令を掛ける度に、私の艦尾からは同時に下痢を漏らすのであった。 話に聞くニューギニア方面のような栄養失調が、ついに我が身にもやってきた感じであった。

 翌25日1115門司着。 私の舞鶴から佐賀宛ての電報により、私の母が小松中将の色紙を受け取りにきてくれていた。 私は母の手に渡し終わり、これで安心して死ねると思った。

 母が1泊して帰った後、私は市内の薬局を回り、ようやく一軒で残りものの防水紙を買った。 これを尻の下に敷いて頑張る。

 新米の米潜などこちらの眼さえ生きておれば負けるものか! という気であったが、前回に比べ門司の町は人心殺伐となり、人通りの少ない桟橋付近などは時々追い剥ぎ、強盗も出るとの噂で、私も某夜現に約20m前に3人の人影を見、直に反転して難を免れたことがあった。

 連合艦隊果たして最後の勝利を得ることができるか? 否それまでに「朝顔」が健在たり得るであろうか? 否それまでに我が身が保てるであろうか? という自問自答は、ただに私のみでなく当時の乗員全部の共通事項であったものと思う。
(続く)

2009年03月24日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 座礁による損傷の調査は全般にわたって行われたが、特に重要な損傷は認められなかった。 また毎回の例のように乗員の補充交代が行われた。

 敵は既に懐しのパラオに9月15日上陸し来り、10月17日にはレイテに上陸しており、これがいよいよ「朝顔」の最後の母港在泊ではないかと思われたので、私は各分隊長を集めて次のように指示した。

 「戦局はいよいよ我に非で、今度、母港を出たら最後の御奉公となるかもしれない。 私は第一線に出るのがいやな乗員は連れて行く必要がない。 また他の事情で行けない者も連れて行こうとは思わないから、退艦希望者は本当に遠慮なく申し出るように。」

 ところが、心配されたその結果は予想より少なくて、希望者のほとんど全員を退艦させることができた。 私はこれで一段の自信が付き、最後に残った最愛の部下とともに、最後まで闘うことを心に誓った。

 乗員の中のある者達は私と偶然に顔を会わせた機会に私に言った。

 「こうなったら、どこにいても同じです。 艦長の下で最後まで愉快に戦います。 よその部隊には行きたくありません。」

 要するに残ってくれる者こそ、私に対する最も有り難い激励であり、また力の泉であった。

 そして士官室の方では長く在職していた山本孝久航海長が退艦し、若さに溢れる工藤宙成航海長が着任した。

 工藤中尉は神戸商船時代ラグビーの選手として勇名を轟かせた侍だそうで、これからどこに走って行くか分からぬ「朝顔」にとって、また退艦希望者既に皆無という士気最高の「朝顔」にとって恰好の配員であった。

 しかし山本前航海長のように母港に元気な体で帰って交代できる人は幸福であったが、前々水雷長の藤田義男特務中尉のごときは、18年5月(マニラ)より「朝顔」に勤務するうち胸部を患い、ついに艦橋当直中喀血昏倒するに至り、19年1月仏印(今のベトナム)カムラン湾にて退艦するときは、病状既に重く一刻も早く陸上に上がって静養の必要があり、しかも「朝顔」は次の行動のため水雷長の陸上第一夜を世話する暇もなく出港しなければならなかった。

 両脇を若い水雷科員に支えられてやせ細って退艦してゆく水雷長の健康回復を祈りつつ見送った私達は、直ぐ錨を揚げて荒天の外洋に立ち向かわねばならなかったが、一方第一線で自分の乗艦から放り出された水雷長にとっては、病気のこともさることながら、たった一人で舞鶴までの数千マイルの戦場を越えて如何にして無事に祖国に辿り着くかという大きな危険も残されていたのである。

 この水雷長退艦後、次の菅原銀作特務中尉が着任するまでの約40日の間に、「朝顔」は水雷長欠員のまま敵潜を撃沈しなければならなかったが、次の菅原水雷長もまた同じように胸部を患い、20年になって(私の記憶)また両脇を水雷科員に支えられながら母港でない某地(佐世保?)で退艦して行った姿を、当時の乗員は総員印象強く記憶しているが、私は艦長として水雷長の交代の前その私宅の消毒を当時強く指示したかどうかについて記憶がなく、この点につきまことに申し訳がなない。

(原注) 両水雷長ともに戦後長く療養しなければならなかったが、藤田氏はいまだに入院中で、しかも手続が遅れたという理由だけで戦傷病の査定がおりなかった。 私は敗戦後の祖国の冷たさに失望している。 次の菅原水雷長も戦後長い療養のため働くことができなかったが、最近消息不明でありひたすらにその健在を祈っている。


(第28話終)

2009年03月23日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 篠田大佐はまた私に言われた。 「僕が司令官で君が先任参謀だよ、ひとつよろしく頼む」 と。

 これで私は先任艦長と先任参謀の2つの役を仰せつかってしまった。 そう言えば同大佐には一人の少尉すら付いてなく、航海出身の下士官兵が数名付いていたに過ぎなかった。

 この篠田司令官の旗艦艦長になったような私は、ことごとにまず意見を申し上げて後、その命令を全軍に発令しなければならなかったので、従来のような 「朝顔先任艦長指揮」 というような軽快さはなかったが、この名指揮官篠田大佐は、私の今まで体験したところを気持よく聞いてくれ、私に存分の働きをさせて私が最も安全と思う船団誘導の意見を取り入れてくれた。

 すなわち、10月20日1000香港発、南シナ海の接岸を利用しつつ東航し、次いで中支沿岸を同じく接岸北上した。

 毎日毎日艦橋のコンパスを挟んで、篠田運航指揮官と私は護衛研究とばか話に明け暮れ、狭い艦橋に2人の指揮官を置くこの行動も、従来の一人天下の行動に比べ精神的に最も楽しい護衛行動の一つとなった。

 中支沿岸を接岸して北上を続け27日1200、揚子江入口の泗礁山に着いたが、その当日かあるいは前日に4隻のうちの1隻が浅瀬に船首を乗し上げた。

 既に凶状持ちの苦い経験を持っていた私は少しも慌てず、船団中の同じくらいの大型船に命じて機を逸せず引き下ろしを命じ、大事に至らず離礁させた記憶がある。 このような場合には、潮高の今後の傾向を調べ、機を逸せず措置することが大事と思われた。

 次いで泗礁山一泊の後、翌28日1500同地発門司に向かったが、この出港のときにも私は失敗を重ねている。

 私が目を覚ましたのは出港予定時刻1500頃であった。 私は目を覚ましてから各船が煙を出し、各艦の錨関係員も前甲板にあり、今や「朝顔」の出港命令(旗旒)だけを待っている状態を一見してビックリした。

 「シマッタ! 寝過して船団出港を遅らせた!」 とて青くなった。 早速運航指揮官に謝って次々に旗流信号を揚げて出港したが、やはり30分くらい予定より遅れてしまった。

 全くこんな失敗は、「雁」、「朝顔」を通じて初めてであった。 早速私を起こす役目の当番を呼びつけて、「なぜ30分前に起こさなかったか?」 と究明したところ、当番の返事がどうもいつもと違ってハッキリしない。 何か事情があったらしい。 篠田大佐はただニタニタしている。

 結局私が想像するに、同大佐が当番に命じて私に30分の睡眠を与えられたようであったが、私はついに同大佐に尋ねる機会を失し、同大佐は次の護衛行動で戦死されてしまい、この謎は終身私に付きまとうこととなった。

 ホモ01船団合計7隻は東シナ海も無事突破し、11月1日1300六連着。 かくして篠田大佐の護衛行動は損害なしの見事な記録を打立てたが、同大佐の温容を思い出しては懐旧の情こ堪えない。 実に仕えやすい立派な先輩であった。

 「朝顔」は船団を門司に入れこんだ後、六連沖に仮泊のまま1泊し、翌2日朝六連発、同日1130佐世保に着いているが、これは恐らく単独回航だったと思う。

 そして翌々日の4日0900佐世保を出て5日2200母港舞鶴に帰着している。 これは三亜に座礁したため、いつもより少し早目の5箇月振りの母港であった。

(原注) 上記中の佐世保回航の目的は何であったか記憶がない。 行動は戦時日誌より取った。


(続く)

2009年03月22日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「朝顔」は漂流者全員を救助し終わり、掃101が護衛して香港向け先行中のユタ12船団(3隻)の後を追及し、「朝顔」にとっては珍しい香港に入港したのは10月19日2155であった。

 ユタ12船団の残り商船、護衛艦合計5隻は香港にて解散となり、門司行きホモ01船団4隻、指揮官第12班、運航指揮官篠田清彦大佐、護衛艦「朝顔」・掃101・駆28が新たに編成され、この船団は台湾に立ち寄る必要はなかった。

 (原注) 掃101は第101号掃海艇・駆28は第28号駆潜艇の略称。

 篠田大佐(第43期)は海兵第72期の篠田茂君 (海上自衛隊に在職した) の父君であったので、私は第72期指導官の一人であった経歴を通じて初めから特別の親しみを抱いていた。

 そして運航指揮官の乗船については、船団長のいる一番船に乗る場合と、護衛艦の中の最先任艦に乗る場合とがあり、その選定は運航指揮官自身が決めていたが、護衛隊が空母・軽巡などを含む場合には空母・軽巡の固有指揮官 (戦隊司令官など)  が船団部隊指揮官をしたのでそれは特別の例であるが、運航指揮官が配せられる船団の多くは、その護衛隊は大抵駆逐艦以下の小艦艇が多く、大抵の運航指揮官は一番船に乗ることが一般の傾向であって、この傾向に対し私は常々反対の意見を抱いていた。

 両者を比較してみると次の特色があったようである。

 1.商船に乗る場合
    (1)船団の結束をとりやすい。
    (2)特に眼高が高く船団部隊全部を視認でき掌握しやすい。
    (3)居住性が良い。

 2.護衛艦に乗る場合
    (1)出現する敵に対処しやすい。
    (2)特に通信連絡に便。
    (3)眼高は低く、居住性は悪い。

 即ち私の意見は、対敵措置を主とすることにして、旧式二等駆逐艦でもこれに乗艦された方が良いのでないか、という意見であった。

 私はこの意見を篠田大佐に率直に申上げたところ、同大佐は即座に私の意見を入れ早速「朝顔」に乗り込んでこられた。

 さてそうなってみると、それまで一国一城の主を決め込んでいた私は、艦橋後部左舷にある魚雷戦発令所という唯一の休息所を同大佐に提供しなければならなかった。

 この発令所は長さ約2m、幅約1m未満くらいのだ円形の室で、左舷の壁には発令用の発信器が多数あり、その手前が長さ短く幅の狭いソファーにしてあって、私が横になると両足が伸すことができず、いつも腰から下を折り曲げなければならなかったが、それでもこのソファーは私にとって行動中の唯一の御殿であった。

 別に同大佐から私にこのソファーの明け渡しの命令を受けたわけでもなかったから、私も知らぬ顔でこの休息所だけは譲らず、下の士官室隣りの艦長室を提供するだけでも良かったのかもしれないが、運航指揮官の御熱心さに打たれた私は、最高のサービスを自ら進んで提供したわけであった。

 したがって私は、この発令所の更に左舷の方の艦橋側幕の内側に仮製寝台を置き、周囲と天井を古帆布で包んだが、これこそ印度洋の「雁」で既に実験済の乞食小屋の一つであって、強い風雨の度に寝台を濡らしてしまうことが屡々あり、この小屋を陸軍の中隊長にでも見せたら、「海軍にならなくて良かった」 と肝を冷すような哀れさであった。
(続く)

2009年03月21日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 溺者収容が終わったのは午後で夕刻近かったと記憶しているが、終わって現場を離れ香港に急行する間に、収容者達から個々に聞いた昨夜の被害状況を総合してみると次のとおりであった。

 「船内が暑いので皆上甲板で涼んでいた。 突如上空の満天の星が一時見えなくなり、小型爆弾が少し落ちてきて、所々が燃え出したと思ったら次にゴオーという大音響が突如として起こって、後自然に弱くなって遂に消えた。」

 ということであった。

 思うに、当時の南シナ海哨戒中のB24の1機は、電探によって船団部隊を捕捉し、映像の中で一番大きな「日瑞丸」を爆撃の目標とし、哨戒兼爆撃という任務上携行している小型爆弾(約30トン程度)を使用する目的で、「日瑞丸」の針路上、斜後方上空より発動機を止め、約20度程度の緩降下で無音のうちに近迫し、「日瑞丸」上空約500m以下くらいの低空で投弾し、直に上舵を取り同時に発動機を発動して針路上の前方に去ったものと推定された。

 「日瑞丸」便乗者にとっては、晴天暗夜に突如頭上から覆いかぶせられた大風呂敷のように感じたことは無理からぬことであって、弾着と同時に戦死、負傷者も生じたであろうし、また船体機関の被害も生じたであろうし、これらの処置で船内大混乱を呈し、敵機投弾の推定もなかなか立たず、まして「朝顔」宛て報告も要領を得なかったものと想像された。

(原注) 敵機投弾によって船長が戦死したかどうか記憶に残っていない。

 これは正に電探爆撃と見張力の闘争であって、「朝顔」の当時装備していた逆探も対空電探(18年11月装備)も事前にこの敵機を捕捉できなかったわけである。

 このような敵機の戦法は、また南シナ海では初回のものであったように記憶している。 この敵は初めてやってみてこれだけ見事に成功したからには、敵機も昆明辺りで何回も訓練してきたものと推定されたが、当方としては見事に「お面1本」を取られてしまった。

 これまで、「朝顔」艦長が船団部隊指揮官として指揮しているときの被害は皆無であったが、これで遂に初の黒星を付けてしまった。

 三亜海岸75日間の座礁は、気力体力を回復させてくれたことは確かであったが、お馴染みの南シナ海のB24の新戦法を見破るだけの心眼には回復していなかった。

 部隊というものは、指揮官の心眼によっで性能以上の能力で敵の端緒を捉むことがあるものであり、私の心眼がもしこのような敵機の新戦法を予め警戒していたならば、たとい対空電探が性能悪く1機の敵機を捕捉していなかったにしろ、逆探又は電信室の受信機が何かしかの敵電波を事前に捕捉し得ていたのではないか、と反省せられ慚愧に堪えない。

 またかつて、生徒時代に運用術のみならず色々な科の教官から、「慣れた航路も初航路」 と耳にタコができるように教えられてはいたが、三亜を出て東航しつつあった私は、被爆当夜の満天の星があたかも「朝顔」の生還を歓迎しているかのように錯覚し、慣れた南シナ海を我が庭先と思って台湾入港を心に画いていた。 これは全く船団部隊指揮官の呑気さに起因する失敗であった。

 不敗の指揮官になるためには、一寸一秒の油断もできないことを敵の大風呂敷(B24)は数えてくれた。
(続く)

2009年03月20日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 18日2200、突如「日瑞丸」の中部上甲板で低い爆発音が聞こえ、機械室天窓付近に低い発火が認められた。

 私は、直ちに「日瑞九」宛て、「如何がせしや、状況知らせ」 を発信した。 同時に、少しの爆音も聞かなかったので、私は総合的に 「相手は潜水艦!」 と判断し、船団全部に「対潜警戒」を令し、「朝顔」には「日瑞丸」前方の捜索探知と聴音を指示した。

 ところが「日瑞丸」は、どうしたことかサッパり敵状を応答してこず、行き脚は漸次止まってきて船首が少しずつ沈下し始めていることが認められた。 私は何回も「日瑞丸」船長に報告を求めた。

 被害後小1時間も経過したころであったか、ようやく敵状を知らせてきた。 「敵飛行機1機投弾、我浸水中」 という旨のことが簡単ながら判明した。

 私はここで初めて敵は潜水艦でなくて飛行機であったことを知り、船団全部に「対空警戒」を令し直したが、船団に被害を受けながら小1時間も敵の相手が不明であったことは、40数回の護衛行動中、後にも先きにも「日瑞丸」だけであった。

 「日瑞丸」は多数の引き揚げ者を便乗させていたので、被害直後の船内は相当に混乱したものと想像され、船長の報告も遅れ、かつその内容も要領を得ないものであった。

 また、当初の被害も軽微であり、船体の浸水も除々であるので、私は翌19日黎明まで保てるのではないかとさえ想像したが、被害状況についても、特に船体浸水状況についても余り詳しい報告は得られなかった。

 私は船団位置が香港の南約60マイルであった点も考え、「対空警戒」と同時に「対潜警戒」も重視し、暗夜「日瑞丸」に横付することを避けたが、後になって反省してみるとき、船団4隻のうちの最も小型な商船でも「日瑞丸」に横付させることができなかったか、と後から思うことであるが、当時 「打てども響かぬ」 「日瑞九」の幹部ともう1隻の商船が、果たして暗夜の横付をうまく実施できたであろうか、という疑問も同時に湧いてくるのであった。

 「日瑞丸」は被害後も数時間浮いていたようであったが、遂に19日の黎明前に沈没してしまった。

 私は残り3隻の商船を掃101に護衛させて香港に先行させ、19日黎明から「朝顔」単独で「日瑞丸」溺者を終日救助したが、被害後沈没までに時間の余祐があったためか、各溺者の乗っていた筏と、身辺の準備は比較的に整っていた。

 救助には「朝顔」直接操艦によるものと、短艇によるものとの記憶があるが、直接操艦によるものが1群終わって他群に移るまで丁度約30分を要したことを記憶している。

 当日の朝は前日の平穏さに比べて、少し風浪が起こっていたが、溺者は思い思いの筏に乗って波上に漂っていた。

 中には一人用の筏に支柱を立て、縦長の白布に「南無妙法蓮華経」と大書し、その横に端然として合掌正座している男子老人あり、また筏から離れたらしい15、6歳の男の子供が救命胴衣の浮力で顎を突き上げ上空の雲を凝視して単独で黙って漂っているのもあり、婦人はほとんど見受けなかったが、端座合掌している人の準備の良いのには驚かされた。

 私は艦橋で広く海面に散らばっている溺者を見ながら、「次はどの群にしようか」 と見張員たちに相談したが、ある元気の良い者が次のように答えた。

 「あの端座居士は今後働けるのは何年あるか分からない。 しかしこの子供は、これこそ私達の後を継ぐべき者である。 艦長この子供から先きに救助してください。」

 私はこの理論に賛成して子供から先きに救助して行ったが、視界内に浮いていた溺者は全部漏れなく収容することができた。
(続く)

2009年03月19日

聖市夜話(第28話) 晴天暗夜の大風呂敷(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 19年7月9日荒天によって座礁した「朝顔」は、9月25日再び荒天によって離礁して、10月1日から14日まで各部を整備し、座礁前とほとんど異状ないことが確認されたので、15日高雄行きユタ12船団4隻を護衛し、「朝顔」艦長指揮、護衛艦は「朝顔」と掃101の2隻で1630楡林を出港した。

 約3か月振りに護衛行動に復帰した「朝顔」は、艦長のみが当然のことながら凶状持ちになってしまったほか、その他の乗員は3箇月の三亜生活でそれまでの睡眠不足もスッカリ解消し、また75日間にわたる泥掘作業で水兵員も機関員も色黒々と、また筋骨隆々となり、この調子ならイ36の中で長高の気力体力を持っているのでないか、そして当分の間従来同様の護衛の激務に堪えられるであろうと思えた。

 これで座礁と同時に、災いを転じて福となさんとした私の企図は果たされたと、私は心秘かに欣んだのであって、乗員こそは戦闘力の根源であった。

 楡林の広東料理店主の服部シーさんは、座礁から離礁までの「朝顔」の活動の一部始終を温く見守ってくれ、事あるごとに慰めてくれた。

 私達の金がなくなるや、「それでは今夜は俺が持つ」 といって私達幹部を自費でご馳走し、「食って飲んで元気を出せ」 といって励した。 そして楡林船団出港のときは自らジャンクに乗って港口で船団を至近距離で見送ってくれた。

 戦局私に非なる今日、果たしていつの日にか再び相会することができるであろうかと、お互に食い入るように相手の顔をながめ込み最期の顔を心に深く刻み込んだのであった。
 

(原注) この後の再会は戦後になって、昭和35年頃原為一大佐(前出)とともに東京にて果たされた。


 また「朝顔」とともにマニラから楡林に来て、ともに7月9日の荒天で傷ついた原少佐の海2は、「朝顔」と同行動することこそできなかったけれども、「朝顔」とほぼ同時機に、10月3日まで楡林で応急修理し、香港に回航し11月1日から30日まで同地で、損傷部(艦尾)の応急修理工事をなしたのであった。

 今度のユタ12船団4隻のうち、最大の船は約6千トンの「日瑞丸」であったが、私達が去る3月パラオで体験したと同様に、海南島も来るべき敵の上陸に備えて子供老人をこの「日瑞丸」に乗せて早目に内地に疎開させようと計画されたものであった。

 出港当時三亜岬近くから出港した同船の出港風景は、私達護衛艦側にとっても強く印象に残った。

 予定に従って船団は南支沿岸に接近することなく、南支沖合約150ないし100マイル付近を高雄向け東航を続けた。

 楡林を出てから第2日目、第3日目は何事もなく過ぎ、第4日目の10月18日になり香港の南北線を通過することも間近となった。

 18日の星間は天気快晴海上平穏で、夜に入ってからは月はなく、満空の星がさながら宝石を散らしたように色とりどりに輝き、「日瑞丸」便乗者たちは暑い船内から涼しい露天甲板に出て、間もなく疎開できる故郷を偲んでいたが、満天の輝く星もまた彼等の前途を祝福するかのようで、機械室の天窓から響いてくるエンジンの毎秒1回転ぐらいの長閑かなリズムは子守歌のように静かな海に響き、「朝顔」の艦上からも聞えた。

 そして「日瑞丸」は1番船で、同船々長が船団長であり、4隻は2隻ずつ2列に並び、護衛配備は船団左前方「朝顔」、右後方掃101であった。

 私も空を見上げて宝石のように色とりどりに輝く星座をながめていたが、こんなに星がきれいに光り輝く空では星の光りに幻惑されて対空見張がほとんど困難に近いように思われた。

 船団の位置は、楡林出港以来基準針路から北へ北へと寄せたためか、香港沖約60マイルぐらいになっていた。
(続く)

2009年03月18日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その9)

著 : 森 栄(海兵63期)

 前部も後部も両舷ヒタヒタと寄せてくる波に乗っているという艦らしい感じは、7月9日以来実に75日目のことであった。

 我らの尊敬する東技師は、苦心75日の末遂に「朝顔」の救難に見事成功したのであった。

 私もすぐ高雄のイ36中島司令官に、「荒天を利用し離礁」 の旨電報報告し、引き続き船体各部、特に艦底部浸水状況を確認し、次いで 「艦底部浸水なく護衛行動に支障なし」 の電報を打って75日間の溜飲を下げることができた。

 またここで、限りなき支援を惜しまなかった陸上各部隊員を便乗させ、1日洋上に出動し、魚雷戦以外の主砲・機銃・爆雷戦の実射を行い、戦闘力の確認を果たすと同時に、便乗者に対し謝意の一端を示したのであるが、これら陸上各部隊員は意外に駆逐艦に乗ったことも初めての人が多く、各種の実射を見て大満足してもらうことができたことは、艦側として望外の喜びであった。

 「朝顔の人海作戦」 という言葉もかくして三亜地帯の皆さんの脳裏から忘れ去られることであろう、と思われた。

 丁度この頃、同時に遭難した2号海防艦も損傷部(艦尾)の楡林における応急修理がほぼ終わり、仲よく内地向け船団を護衛することができるのではないかということになり、同艦長(原利久予備少佐)の旺盛なる責任感念が遂に結実し、マニラから同行した戦友同志が再び手を取り合って、護衛任務に参加できそうな状態に至ったことは、凶状持ち同志の密かな喜びでもあった。

 一方東技師は、別方面の救難作業でよほど忙しかったのであろう、「朝顔」が離礁するや早速次の任務のため三亜を出発して空路北上した。

 東技師にゆっくりお礼を申し述べる暇もなかったことを語り合っていた私たちは、相次いで接受した次の遭難電報を見て茫然自失、戦時中とは言え余りの儚さに慰め合う言葉もなかった。

 「東米則技師乗機台北着陸の際付近の山に不時着し殉職」

 幸いにもし読者の中で同技師の御遺族御存知の方あれば、その近況御一報を請う。
(第27話終)

2009年03月17日

聖市夜話(第27話) 恩人、東米則技師(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 9月25日は朝から時化模様であって、沖から来襲する風浪は、真っ黒な空から落ちてくる細雨とともに異様な殺気すら思わせるものがあった。

 東技師は例によって通索を足にて踏み付け、少しの緩みも見逃さず陸上のウインチを動かして「ピーン」と張り詰めた。

 沖からの風浪は「朝顔」の船体と、「朝顔」が座布団としてきた海岸の砂との間に割り込んできて、「朝顔」の船体を揺り動かし艦首を持ち上げんばかりの感じとなった。

 東技師はますますウインチを巻かせ、通索が切断するか、ウインチが壊れるか、物すごい緊張となった。

 沖の錨4つの集中力を受けている艦首は突如として少し沖に引き寄せられ、持ち上がるのではないかという身軽さを感じた。

 沖からの風と空からの雨はますます強く我々の顔に吹き付けてきた。 東技師の笛は連続鳴り響き、ウインチはここを先途に前部の通索4本を縮めた。

 東技師の右手がサット後部の鋼索を指し、「後部もやい索緩め」 という号令が風浪の中に強く響いた。

 前部を縮め後部を緩める東技師の妙技を目の当たりに見とれた私は、船乗りとしての喜びを感じ、また同技師に対する尊敬を一段と深めた。

 「朝顔」の前後部員は、吹き付ける風浪を忘れて、「朝顔」艦首の身振りの一動ごとを、我が身我が心に強く感じた。

 沖からの風浪はますます強く加わり、東技師の叱咤号令はますます激しさを加えたが、突如名馬「朝顔」はあたかも四脚をもって立ち上がったごとく、沖の4つの錨の方向に向かって吸い寄せられるように乗り出し、後部のもやい索の伸ばし方が間に合わないくらいであった。

 上甲板以上の者は、期せずして「万歳」を叫んだ。
(続く)