2009年05月01日

聖市夜話(第33話) 昭南行ヒ99船団(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は帰宅してから、80歳になってなおも健康で隣組長などしていた祖父に請うて、その愛蔵する肥前刀の中から、藤原忠広在名の脇差し一振りを分けてもらった。

 自宅帰省から舞鶴の「朝顔」に帰艦した私は、2月11日の紀元節に、総員を集めて佳節を祝った後、かねてより功績抜群であった「見張りの名人」こと、服部一曹の善行表彰を行い、この所轄長表彰に副賞として藤原忠広の脇差を添えた。 表彰全文は次のとおりである。

                 善 行 表 彰

        新潟県東頚城郡牧村大字小川3172番地2

           駆逐艦朝顔 舞志水第4948号
           海軍一等兵曹 服 部 正 義
 

      右の者、昭和19年12月26日2052本艦タマ38船団を護衛ルソン島西方接岸南下中、1番12サンチ双眼望遠鏡見張員として哨戒勤務の際、船団西方約1万mを浮上追跡中の敵潜水艦を先制発見、適切なる目測距離ならびに動静報告により先制猛攻の端緒を開き、まさに船団襲撃に移らんとする敵潜水艦の企図を封殺し、敵潜をして遂に潜没避退のやむなきに至らしめ、克く護衛任務完遂の素地を確立せり。
 右は昭和19年2月13日本艦仏印接岸北上中、浮上追跡の敵潜を本人の発見により遂に之を撃沈するに至らしめたる事実、及び同年4月26日福江島付近海面に於て船団前方の浮流機雷を発見し船団の危険を救いたる事実とともに、本人が平素連綿不断錬磨せる見張技量と旺盛なる責任観念の発露にして、哨戒見張員の模範とするに足る。
 よってここにその善行を表彰す。

    昭和20年2月11日
       朝顔駆逐艦長 海軍少佐  森   栄


 上記中に三亜における敵航空艦隊の発見も大きな功績として言及すべきであったかもしれないが、当時はそれによって招来した結果が、本来任務の船団護衛の範囲から離れていたから、この時は見合わせたものと思われる。 三亜の功績はむしろ海南警備府長官からいただくよう、私が取次ぐべきであったかもしれない。

(原注) : 戦後祖父遺愛の肥前刀数振りは進駐軍又は日本警察によって一振り残らず没収され、この忠広だけが服部家に残っている。


(注) : 上記の褒賞全文が著者の記憶によるものだけとは考えられませんから、表彰状又はその原稿などに基づいて書かれたとみるべきです。 とすると、第30話で護衛したとされる船団は、少なくとも当時の「朝顔」では実際に「タマ38船団」であると認識していたことは間違いないでしょう。


(続く)

2009年04月30日

聖市夜話(第33話) 昭南行ヒ99船団(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 防水席で下っ腹を押さえながら母港に着いたのは20年1月の下旬であった。 「朝顔」がまた帰ってきたとて部内の各部はその不死身を称えたが、「実は「屋代」にブツけられたんですよ」 とも言えず、また船体の赤錆がいつものように酷くないこともいささか気の引けることであった。

 そして案の定、1缶の耐火煉瓦は総替えをしなければならず、約一箇月一杯はかかることになった。 いつもの母港整備では耐火煉瓦の一部不良品を補修するだけで済んだが、総替えとなると大変であった。 しかしこれで乗員一同安心してゆっくり休暇に帰る予定も組めるのであった。

 台湾砂糖のお土産はまず部内関係各部を喜ばせ、次に乗員の各家庭、下宿などを喜ばせ、その威力は絶大であった。 乗員の注意によって砂糖を積んだことによる戦闘力の低下も私の杷憂に終わった。 小さい布の袋とか新しい靴下に入れられた砂糖が畳の上で巻き起こす歓喜の様子を想像するだけでも楽しいことであった。

 しかし市内の物資はいよいよ底を突き、自宅に帰れぬ者が上陸して冬の一夜を暖かく休養できる場所は少なくなった。

 私も水交社に行ってみたが、火事で一部燃えた由でその復旧もままならず、全体が殺伐としていた。 食べ物も配給だけで自分だけ腹一杯になるまで存分に食べることはできなかった。 泊まる予約をして自分の部屋に入ってみれば、冷い夜具が一式はあったが、寒くて寒くて私は一晩中安眠することができなかった。

 私のように舞鶴に自宅のない者は、1日でも1時間でも長く休暇に帰さねばならないと私は考えざるを得なかった。

 陸上に失望して艦に泊まってみても、缶を炊いていない艦、休暇と上陸でいよいよ人気のない艦の中は、陸上より更に冷たく暗澹たる気に滅入っていくばかりであった。

 「ああ、戦っても戦っても日本は遂に最後かなー」 と悔し涙が頬を流れた。 錨鎖を新しく替えてくれといって工廠側に啖呵を切ったような昔の元気はもう出てきそうもなかった。

 この前19年11月に帰った時は、まだ先が明るい感じも残されているように見受けられたが、今度は先が暗い感じが濃厚であった。 起死回生の名案を誰もが考えておりながら、誰にも名案は見出せなかった。

 私は修理予定が決まったので真っ先に休暇を取って自宅のある佐賀に帰省した。 なるべく早く温かい自宅で休養してきて、まず自分自身が元気になって帰艦し、最後の士気を上げなければならないと思った。

 この時の私の休暇の取り方は、昔から海軍で言われていた諺(?)のように、正に 「整列は後列、休暇は前期」 であった。 また母港在泊の終わりになるほど艦長の用事は忙しくなることが常でもあった。

(注) : 私達が若い頃にいわゆる “要領の良いヤツ” といわれる事柄として次のように言われてきました。
     「休暇は前期、整列は後列、ホーサはエンド」
即ち、重大事が起きるなど後からでは休暇が許可されなくなる場合もあるので、真っ先に取るのがよい。 服装点検などの整列の時は前列は目立つので、後ろに隠れるのがよい。 皆で一斉に重量物を引く時は、一番後ろの索端だと力を入れなくとも、振りだけして声を出しておけばよい。 という意味です。
もちろんこれらは青年士官にあるまじき行為としての戒めでもありますが。


(続く)

2009年04月29日

聖市夜話(第32話) 試練の東海・吹雪の舞鶴(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 門司を出てから夜の艦橋の寒さは刻々に加わり、台湾帰りの私達は防寒外套を出して着用した。 艦橋には何の暖房設置も無かった。

 正子頃になり余りの寒さに耐えかねて私は下の艦長室からトリス印ウイスキー1本を魚雷戦発令所(艦長休憩室)のソファーの隅の内側に斜に立てた。

 艦が約20度ぐらい傾斜しても倒れない角度である。 そして目を塞いでいても、ソファーの割目に添って手を水平に移せば容易にトリスの4合瓶が手に掴めた。

 私はこの衝生酒が身体を暖めてくれる効果を調べるため、0000時からキッチリ毎1時間毎に喇叭飲み1口を試してみたが、1口では平均約45分しかもたず、後の約15分は身体が寒さでガタガタし、特に日出前の約1時間は温度が更に低下することも感じられた。

 私は艦橋の窓ガラスを少し開き、両手を外套の中に突っ込み前面海上を見張っていたが、当直員が交代し喜々として各自の暖かい居住区に帰って行くのを羨ましく眺めた。

 日出頃の裏日本は既に吹雪であった。 私の防寒外套の腕の上に積もる粉雪は約5分ごとに振り落とさなければならなかった。

 日出になって温度は急に暖くなってきたが、私は下の方にある艦長室に降りて洗面をする時間が惜しかった。

 右舷側の海岸一帯は猛烈な吹雪で艦位は長時間入っていなかった。 電探も役に立ってなかった。

 私は再びトリスを1ロ飲んで、口の中でうがいをして洗面の代わりとし、小艦の艦長にとってウイスキーが朝のうがいに最適であることを知った。

 やがて「朝顔」の推測位置は経ヶ岬付近に達したが、海岸方向の吹雪はますます猛烈で艦位は依然として入らない。

 ここで私は特務艦「関東」の遭難を思い起こした。 「朝顔」がこのまま東進するならば、正に関東の二の舞である。

 私は思い切って一旦左90度方向の沖合に北進し、反転して南進し海岸に向け徐航し見張りを厳にした。 そして海図上の海岸に近くなって危険を感ずるとまた反転して沖合いに離れた。

 この運動を何回やったか覚えていないが、突如として連山の一角に強風が当たり、それが経ヶ岬と確認されたが、その時間は僅かに約5秒間で経ヶ岬は再び吹雪の中に姿を没した。 そこでようやく確信をもって舞鶴向け南に針路を折ることができた。

 やがて博突岬を横に見て進むうち、母港舞鶴の生暖かい空気が「朝顔」の全身を包んだ。 そこには沖の吹雪もなく懐かしい島々、岬が姿もはっきりと絵のように両舷に勢ぞろいして出迎えてくれているかのようであった。

 ようやく我に帰って見れば、防水蓆もよく冬の東海、玄海灘、日本海を突破して耐えてくれた。 敵潜と闘う前に闘わねばならない冬の荒天も、遙か後方のものとなった。 そしてもう台湾砂糖のお土産を思い出しても良いし、また荷造を始めても良いことになった。

(原注) : これが最後の母港となったのである。
(第32話終)

2009年04月28日

聖市夜話(第32話) 試練の東海・吹雪の舞鶴(その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 話は船団に戻り、このタモ37船団は1月14日高雄を出て23日門司に着いていて、タモ(高雄一門司)船団としては異例に長い日数を要している。

 私はその行動について強い印象を残していないが、その長日数の事実からみて、中支沿岸を接岸北上の上、揚子江沖をそのまま接岸北上し、山東半島近くに達した後東進し、黄海の中央を突破し朝鮮半島群山沖辺りに達し、以後接岸南進し大黒山群島辺りから東進し、南鮮の島の間を通るか、又は当時私たちが俗称していた「南鮮狭水道」を通り、釜山沖より六連に達したものではないかと推定される。

 これはいわゆる「黄海迂回航路」であって、レイテ作戦以前の頃は黄海を迂回してまで傾重を期する船団は少なく、揚子江沖の花鳥山辺りから南鮮西端に真っ直ぐに向ける船団が多く、少し憤重なものは南鮮と等緯度付近の江蘇省沿岸まで北上してから東進して南鮮に達するという具合であった。

 また護衛の初期の頃は、イ36司令部も船団運航日数の短縮ということも1項目として重視していたが、この頃では日数は掛かっても船団の安全ということが最も大事な項目となっていた。

 なお上記中の俗称 「南鮮狭水道」 というのは、正式には 「長直路水道」 といったものであったかどうかも確実でなく、またどこからどこを通ったかも今適当な海図が手元になくて明示できないが、西から東へ大体のところを辿って見ると、大黒山島付近〜牛耳島北〜珍島北及東〜白日港南〜焼島西及北〜長直路南〜居金島北〜示山島北東〜外羅老島北西〜金鰲島北〜突山島東〜南海島南〜蛇梁島北〜巨済島南という航路ぐいらいではなかったか。

 ただしこの途中で突山島及び南海島はその内側を通ったのでないか。 また巨済島も内側が通れたのでないかという疑問も残るが、要するに操船に注意するならば1万トン級貨物船までにとっては敵潜の心配のない安全水路であった。 そして将来とも重要な国防上の水路となるものと思えるものであった。

 タモ37船団は1月23日夕刻無事六連に着いたが、六連に入る直前1550、海防艦第130号は下関の北西約50マイルで敵潜撃沈という記録が残っている。

 以下戦時日誌が空白となっているので日付は私の推定であるが、「朝顔」は六連から門司まで入港し、燃料補給し24日か25日頃門司発、単独で日本海を通り26日頃母港舞鶴に着いている。

 この門司至舞鶴の間も、今や既に厳重な対潜警戒を要する海面と化していて、舞鶴入口の博突(ばくち)岬を通過するまでは台湾砂糖のお土産を思い浮かべるわけにもいかなかった。
(続く)

2009年04月27日

聖市夜話(第32話) 試練の東海・吹雪の舞鶴(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 以上の私のヘルニアは個人の秘話であるが、対潜艦艇乗員として共通して忘れることのできないのは水中爆症であった。

 例えば、ある船団の中の1隻が突如として雷撃を受け、その生存者が海上に漂流する。 敵潜はこの漂流者の近くに潜没している。 護衛艦はこの敵潜を捕捉して爆雷攻撃を行うという場合に、攻撃艦長としては 「味方漂流者を殺すのでないか」 ということに最も心配する。

 もし漂流者の直下で爆雷を爆発させたならば、漂流者を殺すかあるいは重症の水中爆症を与えるであろう。 しかし漂流者との間に一定の距離を取れば、水中爆症を与えずに済むわけであって、敵潜を攻撃する艦長はこの距離を知っていなければならない。

 また漂流者になった人は、どのような姿勢、どのようないかだの使い方が水中爆症の被害を最も局限できるかを知っていなければならない。

 姿勢は水面に対して斜が良いとされていた。 また筏か板は腹部及び肛門の下側に置くことが良いとされていた。

 そして漂流者が爆雷爆発によって受ける主な被害は、第1は腹部表面から受ける瞬間的な強い水圧、端的に形容するならばそれは太い丸太で腹を叩かれることを想像すればよいであろう。

 第2は見逃しやすい点であるが、肛門から腹内に入る強い水圧である。 これは端的に言えば多数の針で腹の中の腸その他の内臓を刺されることを想像すれば良いであろう。

 したがって筏も板も持っていない漂流者は、味方爆雷爆発の方向に背を向けて、肛門もなるべく遠い方向に向けて背泳ぎするのが良いのでないか、と当時想像された。

 また衣服、特に腹部と腰部は水圧の衝撃波を少しでも吸収してくれるガサガサした部厚いものが良さそうで、救命しんも水中爆症対策を考えて一部改良されるべきであると考えられた。 今日の海は暖かいからとて腹部の衣服を捨てることなどは危険であった。

 最後に漂流者を救助収容する救助艦側の軍医長並びに水兵員として注意すべきことは、収容時に外傷なく一見元気そうに見えてもこれに一般作業をさせてはならない。

 また食欲が旺盛であっても最初から固形物を与えてはいけない。 当時の調査によれば収容時何の異状もなかった者が、3日後とか1、2、3週間後になって病状急変し死亡している。 これらは主として腹部内の腸などの細かい損傷によるものであった。

 特に若い者は、自分の腸内の細かい損傷などには気も付かず、自ら進んで古参者の看護に飛び回り、数日後当人の病状急変し看護していた古参者よりもっと重症となって死亡するということにもなり兼ねない。

 要するに水中爆症患者はいかに外見上異状なくても、腹部内の精密検査が終わるまでは、即ち救助艦上で輸送中は「重湯、お粥」で大事をとり、作業を避て静養させておかねばならない。

 以上私の記憶に誤りがあるかもしれないが、当時は佐世保海軍病院が水中爆症患者を沢山収容していて、調査の担当も同院であって、同院発行の 「水中爆症について」 というパンフレットはイ36各護衛艦に配布されたと記憶している。

 なおこの患者は、死亡を免がれても全治するまでに長くかかったとの記憶がある。

 我々は敵潜を攻撃するという、景気の良いことばかりを考えてはおれなかった。 救助する身、救助される身、水中爆症を受ける身となることも、明日は我が身と考えて対策を怠らないことが大事であった。
(続く)

2009年04月26日

聖市夜話(第32話) 試練の東海・吹雪の舞鶴(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 その後私は一万トン巡洋艦の中下甲板士官を勤務したときも、大声を出す都度脱腸を押えるのに苦労し、また江田島における2年間の教官時代にも人知れず苦労を続けた。 そして腸を押し出す腹圧の強さを改めて知った。

 脱腸帯を防水蓆に例えるならば、脱腸帯には上張索がなく、左右の横張索と下張索の3本だけの緊張によって、腹の中心に向かう力のベクトルを作ることは至難のことであって、常時丸ふたで破ロを押さえていても、大声と咳の出る度に腸は破ロより何回となく顔を出した。

 そしてその時の具合によっては丸蓋と破口周辺との間に顔を出した腸が挟まってその痛さで息が止まりそうで目を白黒させることもあり、私はズボンの右ポケットに手を入れて、このいたずら坊主の顔をなでて、狭い破ロからおとなしく元の巣に戻ってもらはなければ、次の行動をとる準備もできなかった。

 また特に横張索の緊張はゴムを膚に食い込ませ、いっそのことバンド全部を放り出して自由の体になりたいと思うこともしばしばであったが、ほかのスプリング入りのバンドに比べれば、やはり小柳式のゴムバンドは当たりが平均していて最良であって、膚に食い込む痛さぐらいは我慢しなければならなかった。

 更に下張索は、入浴不自由な第1線において清潔を保つのに秘かに工夫を要した。 したがって私にとっては、印度洋に出る初陣のときもまたその後「朝顔」に出るときも、腰の軍刀以上に常用補用各1組のバンドを携行することが不可欠であった。

 再発時のT軍医長も、もう忘れてしまっているのではないか、と思うほどあれから年数が経ってしまったが、こうも連続出たり入ったりしていたならば、破口付近の腸管の材質が傷んできて、そのうち突如として重大な腸の亀裂の病気になるのではないか、と恐ろしくなって、「腸よ破れるな! 腸よがんばれ!」 と我が身を励ましながら第1線勤務を続けてきたのであった。

 そして、こんな苦労を続けている私の艦の右舷に、こともあろうに「屋代」が艦首をぶつけて破口を作った。

 「朝顔」の破ロの位置は丁度私のヘルニアの位置にそっくりであった。 「艦長破ロを有すれば、その艦またこれに倣う」 と私は密かに可笑しくなったが、19年末頃からの体力の衰弱こよって、私の破ロは括約力を失い破口は段々大きくなり、いたずら坊主の頭はますます自由にゴムの丸蓋を押し上げて出入するようになり、横張索と下張索を更に強く緊張しても丸蓋がヘルニアを押える力を格段に強めることは困難のようであった。

(原注) : 私が最も恐れていたヘルニア部の腸管の材質は遂に終戦後まで保てた。 そして終戦後暫くしてからこの脱腸を手術したが、約1時間余かかり余り簡単ではなかった。 手術後医師は私に語った。 「腸に大部癒着部がありました。 将来癌の基となるといけませんから、癒着部は全部取って置きましたよ。」 したがって私の腸は大部短くなっているはずである。


(続く)

2009年04月24日

聖市夜話(第32話) 試練の東海・吹雪の舞鶴(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 やがて2年目少尉となり初めて駆逐艦乗組の通信士となったが、艦内で最も若い士官は軍歌の指導官も命ぜられていた。

 艦は援蒋物資が海上から中国内に運ばれることを防ぐため中国の海上封鎖従事中で、広東沖の万山群島付近に錯泊していた某日曜日の夕刻、「総員軍歌用意、中甲板!」 の号令によって、私は壇上に立って軍歌の音頭をとり始めた。

 まず私が音吐朗朗(?)と1節を歌ってから総員が歌い出すのがいつもの習わしであったが、2、3曲目の模範を示すとき、突如下腹部に激痛が起こり私は壇の付近の上甲板上にうずくまってしまった。

 私の横にいたT艦長は叫んだ。 「おい通信! どうした?」

 私は顔面蒼白となり、下腹部に力が入らず、艦長に声を出して返事することもできなかった。 そして激痛の瞬間には下腹部がパリッ!と音を立てて裂けたような感じで、破口に出た腸を撫でながらだましだまし中に入れるのに時間がかかった。

 艦長の横にいたT隊軍医長が後で私に語った。

 「通信! 心配するな。 これは財布の綻びみたいなもんじゃ。 暇になったら俺が修繕してやる。 俺はなー、盲腸を2000ばかり手術したことがある。 ヘルニアなんかわけはない。 俺に任しとけ。」

 私はこの期に及んでなぜ再発したかを考えたが、その第一は艦内の猛烈な焼けつくような連日の暑さであった。

 毎夜巡検後露天甲板で涼を取り、寝室内の暑さが少しでも下がるのを待つのに大抵翌日の0200過ぎまでかかった。 それでも室内温度は大して下がってはいなかったが、余り待っていると翌日の日出になってしまうのであった。

 その第2は、艦橋下の右舷にあった士官便所の位置が悪かった。 朝から夕刻までカンカンに焼け付いていて、便所に入って1、2秒もすると全身流れるような汗で、出るべきものは出ず、防暑服は汗でピッショリとなった。

 その第3は食物であった。 基地高雄を出て2、3日間は生野菜もあったが、後の約3週間は貯糧品、缶詰類だけが続いた。

 以上の3項目で、私達のような元気最も旺盛で健康な者であっても、便通のあるのは3、4日に1回ぐらいであった。 どうもこの便秘と連日の暑さが最大の原因と思われた。

 この後、高雄に入港して小柳式脱腸帯を求めて以来、この防水蓆みたいな総ゴムのバンドは再び私の身体の一部品となった。

 そして隊軍医長のいうように、財布の綻びを簡単に縫いつけてもらおうとその機会を待ったが、当時のシナ事変はますます泥沼に足を入れ、準戦時状態の度はますます濃くなり、戦死者殉職者の数はますます増え、生命に別条なき脱腸などで休暇をもらうような時局は遂に来なかったのである。
(続く)

2009年04月23日

聖市夜話(第32話) 試練の東海・吹雪の舞鶴(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 乗員の先頭に立って、強気の権化みたいに振る舞っていた私にも一つの弱点があった。

 それは数年前のシナ事変中に再発したヘルニア(脱腸)であって、その位置は丁度私の腹の第1缶室右舷に相当していて、私が大きい声を出したり咳をすると、その都度脱腸帯の丸蓋を押し上げて外舷の破ロより腸が舷外に顔を出し、それが余り大きく出ると、これを撫でながら中に入れ込むのに苦労しなければならなかった。

 私はこのヘルニアについては家族以外だれにも話さなかったが、戦争中の苦労の一つとして忘れることができないことであるし、またヘルニアのないはずの海軍では珍しい例であるので、以下御参考に書き残して置こう。

 母の話によると、歩き始めのころ両親に両手を取られて、ある日実によく歩いた。 その夜発熟してヘルニアが始まって以来、呉の正法寺脱腸帯が私の体の1部品となったが、学齢前の頃には横張索が膚に食い込む痛さに堪えかねて、母の厳命にもかかわらず、時々こっそりこの部品を外して、付近の遊びに飛び出していた。

 太陽も西の空に傾き餓鬼同志の別れ際になると、互にありとあらゆる覚えたての罵詈雑言を大声で呼び合うのが習慣であったが、私は1声2声叫ぶうち、もうこれ以上続けることができず、下腹部を手で押えてうずくまって戦闘中止となることが毎回であった。

 当時は手術も大変であったのであろう、また医師はバンドを常用していればそのうちに治ると母に教えたのであろう、母はバンドを外してはいけないと私に命じた。

 お陰で小学校に入って以後いつの間にか破ロが塞がったらしく、中学の頃はバンドを使った記憶はない。

 やがて兵学校の身体検査を迎えたとき、ヘルニアの者は採用しないという大きな項目をみて、幼少時の喧嘩を思い起こすくらいで、軍医官の前で腹を大きく膨らませても、昔の小僧は全く顔を出さなかった。

 それから江田島の満4年の規則正しい生活は、ますます破ロを丈夫にしてくれたらしく、ヘルニアのことはスッカリ忘れてしまっていた。
(続く)

2009年04月22日

聖市夜話(第32話) 試練の東海・吹雪の舞鶴(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 ところが悲しいことに、この内庭の木戸が敵艦載機の蹂躙を許す戦局にすらなってしまって、我々は中支沿岸の島影を利用して逃げ帰るような破目になってしまった。

 気宇広大を誇った時代は既に終わった。 いつの日か再びシンガポール、ラングーンに進撃できる機会があろうか。

 敵空母は勝ちに乗じて近くこの日本の内庭にも侵入してくるであろう。 そうなれば昔 「長崎県上海」 といわれた長崎の一衣帯水の上海沖ですら、危なくて近寄れない海となるかもしれない。

 不吉な予想は次々に去来した。 弱気になってはいけないと厳に自ら戒めてはいたが、現実と希望とはますます懸け離れて行った。

 しかし戦闘はあくまで現実を直視することから始まるものであって、自分の好まないことには目を閉じ耳をふさぐ者はたちまち敵に食われてしまうのであった。

 現実を子細に直視し、敵に1分の透きでもあれば我が全力をこれに集中して次々にその場その場の戦闘をこなして行かなければならなかった。

 そして敵を子細に見るためには冷静ということが不可欠であったが、幸いに我が「朝顔」は幾多の苦難を体験するうちに、およそ護衛作戦中に発生するような事態に対しては驚かないだけの度胸が自然のうちに身についていた。

 なかでも古瀬先任将校(70期)のごときは、私より前に着任していて既に1年半近くに迫ろうとしていたが、彼は私に対して一言も転出の希望を申し出ることもなかった。

 また人事局としても、最小限私とこの先任将校の2人を動かさないことが、「朝顔」の個艦戦闘力を最大に発揮できると判断しているかのように推察されたが、あるいは今度舞鶴に着いてから先任将校を他に取られるのではないかとも危ぶまれた。

 またこの前(19年11月)舞鶴で着任してきた工藤航海長は、丁度魚が水を得たように一艦の若さの源泉となって、早くも敵機との戦闘にも慣れ、対潜戦闘についても私の流儀を飲み込んでしまったように見えた。

 彼が着任して間もなく私は当直中の彼に、昔海軍の某先輩が 「総員死方用意」 という面白い号令を掛けた話をしたことがあった。 それから暫くして、いつの戦闘であったか、頭上に多数の敵機群を見た瞬間、彼は突如として横にいた私に承認を求めた。

 「艦長! 総員死方用意を掛けます。」

 私は死ぬのにはまだちょっと早いかなーとも思ったが、彼の引き締まった凛々しい横顔と決然たる若武者振りに惚れ込んだ私は、直ちに 「よし!」 と応じた。

 彼は元気の良いさびのきいた声で「朝顔」艦上初めての 「総員死方用意!」 を下令したのであったが、この戦闘でも乗員は指1本負傷する者もなく終わった。
(続く)

2009年04月20日

聖市夜話(第32話) 試練の東海・吹雪の舞鶴(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 昭和20年1月14日門司向け高雄を出港したタモ37船団は、馬公南方海面で低い雲のため敵艦載機群の虎口を脱し、中支沿岸に取っ付き、接岸航路によって北上の一路を急いだ。

 冬の東シナ海は10日間のうち8日か9日は北東の季節風が連吹し、強い風が続くため波浪は高く、小艦艇の縦横の動揺は連続して、敵潜と戦う前に荒天と戦わねばならないという護衛行動海面中の最高の難所であって、「朝顔」乗員の多くは既に慣れ切ってはいたが、それでもいつきても試練の海であった。

 しかしこのタモ37船団のように、東シナ海のド真ん中を通らずに中国沿岸の接岸を選んでもらったことは、波浪による苦労を軽減させてくれ、特に負傷艦であった「朝顔」にとって大助かりであったし、また応急操舵中であった「屋代」にとっても、島の間を通るという操艦上の苦労は増えたかもしれないが、動揺と風浪による操舵装置の破損を軽減してくれたのではないかと想像された。

 私にとって責任の軽いこの行動で、私は昔の郷里の先輩の言葉を思い起こした。

 私が海軍兵学校生徒採用予定の電報 (これは私の人生で最高の感激ものであったが) を受取ったとき、郷土の海軍T先輩 (山本五十六さんと同じ海兵32期) は一夕私と私の父を佐賀市内の有名な鋤焼店に招待して、同店御自慢の金の鍋で鋤焼をご馳走して前途を祝福してくれたが、その席で先輩は私に語った。

 「君はそのうちに世界の海を走り回るようになるであろう。 東シナ海などは日本の庭先で、庭下駄をつっかけて木戸を開けに行くようなもんだ。 今後はますます気宇を広大に持ってゆき給え。」

 これ以来というものは、私はこの 「庭下駄をつっかけて」 という名言がすっかり気に入ってしまって、T先輩の遺志を継がんという旺盛な気迫に激励され続けたが、候補生少尉のころはまず船酔いの連続と勤務に慣れることで追い回されて、気宇広大どころの話ではなかった。

 しかし今や私はT先輩の名言にいささか答えるうる自信を抱くに至っていた。

 私の父は海軍に入り、第一次大戦時青島攻略戦に参加したが、佐世保から青島までもわずかに700マイルであった。

 この後父の弟はシンガポールに雄飛し、ゴム林経営の緒につかんとするとき、胸を患って雄途むなしく、北ボルネオで24歳の若さで客死したが、このシンガポールも佐賀から約3,000マイルであった。

 そして私の代になって、私の初陣はラングーンであったが、佐賀からの距離は約5,000マイルとなった。

 こんなスケールで考れば、T先輩の予言は正に的中していた。 そして東シナ海という内庭の木戸のあるところは、さしずめ要港部のある馬公ではなかろうか、などと思われた。
(続く)

2009年04月19日

聖市夜話(第31話) 台湾より離脱北上す(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 かくして1月14日タモ37船団6隻は、運航指揮官第2班、護衛艦は海1・海36・海130・海134・掃21に「朝顔」と「屋代」という負傷艦を加えて計7隻で、門司向け高雄を出港し、まず台湾海峡を西航して中支沿岸にたどり着くために、膨湖列島南方に向かった。

 このうちの護衛艦2隻は健全な護衛艦ではなかったにしろ、商船6隻に対し商船隻数より多い7隻の護衛艦がついたことは、私にとって初めての出来事であって、司令部としては、かくなる以上はなるべく早く、1隻でも多く敵空母の攻撃圏外に脱出させようと配慮しているものと思われた。

 すなわち、私たちは数日前高雄航空隊の味方機が、敵空母機の来襲直前に続々と疎開して行ったのと同じような、脱出組の身分になっていると感じた。

 高雄西方洋上は満天の雲に覆われ、雲高は非常に低く500m前後かと思われた。 タモ37船団計13隻は膨湖島の南方に差し掛かった。

 折柄またもや敵艦載機の大群が続々と南より北上し、船団上空の雲の上を通り過ぎ、その爆音が手に取るように聞えたが、敵機は足の下の私たち船団には全く気が付いていなかった。

 やがて味方の電報によって、馬公在泊艦船が総なめにされていることが刻々に分かった。

 また攻撃終わったらしい敵機群は、再び私たち船団の頭上を乗り越えて南方に帰投して行く爆音が雲の上に聞えた。 船団は黙々として西航を急いだがこのときばかりは潜水艦になりたいような気持であった。

 遂に敵艦載機の爆音から逃れ、澎湖島から離れて中支沿岸に辿り着き、接岸北上してホット一息ついた。

 本日のこの奇跡も全く紙一重であった。 もしも雲高がもっと高かったら、敵機群はまず船団に集中してこれを全滅させ、その次に馬公を攻撃していたであろう。  また付近に島が点在していたことも幸いしたものと思われたが、タモ37船団は実に幸運な船団であった。

 「朝顔」の防水蓆はしっかりと破口部を覆っており、第2缶室前面隔壁の補強にもゆるぎなく、これなら舞鶴まで保てそうだと思った。

(注) : この1月15日の馬公空襲については、「アジア歴史資料センター」 の 『馬公特別根拠地隊 戦闘詳報第3号 対空戦闘』 ( レファレンスコード: C08030281000 ) が参考になります。


(第31話終)

2009年04月18日

聖市夜話(第31話) 台湾より離脱北上す(その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 先任参謀は更に尋ねた、「たとえ故障のない鑑であっても、またこの老練な森艦長であっても、あのような真っ暗な深夜に、狭い左営軍港を夜間出港することは到底考えられないことなのだが、どうしてそんな冒険を考えたのかね?」

 私は先任参謀から「老練な」といわれて吹き出してしまった。 イ36では悪運強くいつまでも生き残っていたから、あるいはある意味で「老練」であったかもしれないが、およそ駆逐艦長というもの全体からみれば、私などは3等艦長にしか属しないことをよく自認していた。 私の見るところでは、私たちより約10年上が1等艦長で、約5年上が2等艦長という見当であった。

 これに対して砲術長が何と返答したかは覚えていないが、艦長たち戦死後の艦内の空気から察すると、「明朝日出後には再び敵艦載機が来襲するであろうから、一刻も早く夜間脱出して日出までには高雄からなるべく遠ざかる必要がある」 と判断されたのでないか、と想像された。

 当時の古い護衛艦は大抵単独艦であって上に隊司令がいなかったので、「屋代」の生存幹部が色々思い巡らしたことはよく想像できたが、このように単独艦多数を有する司令部の在り方としては、平素からもう少し司令部と護衛艦との間の繋がりを強めておく必要があったのではないかとも思われた。

 事故の調査が終わってから、「屋代」、「朝顔」ともに14日高雄発の北上船団に加入して日本に帰り修理するように指示された。

 「朝顔」としては防水処置を既に完成していたから、後は出港するばかりであったが、「屋代」では日本までの船団行動に同行できるように、応急操舵装置を整備し、同部署を定めて訓練し、しかも出入港を上手に操鑑してもらわねばならないという、新しい責任が生じていたので、同艦の幹部、特に砲術長の苦心はさぞ大きいものと想像された。

 この事故の後、北上船団の各護衛艦には、高雄軍需部から 「砂糖を内地に積んで行ってくれないか、状況許すなら何俵でも出す」 と言ってきた。

 私はかねてから、内地あての最高のお土産品である砂糖を積むことは、哨戒当直員、特に見張員の心を浮き立たせる虞ありとして、これを許可しない方針であったが、このときばかりは、あるいはこれが最終便となるかもしれないと予想されたので、しばらく考えた上で、次のように交換条件を出した。

 「皆が当直中、砂糖を下げて家族に会うことを考えるようなら、艦長は1kgの砂糖も積みたくない。 皆が当直中は一切砂糖のことを忘れると誓ってくれるなら、積んで行こう。」

 その結果、皆艦長の心を汲んで当直中は一切砂糖のことを忘れるという約束のもとで、確か約5袋の砂糖が水練下に積み込まれたと記憶している。
(続く)

2009年04月17日

聖市夜話(第31話) 台湾より離脱北上す(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 防水作業は休みなく続けられた。 自分たちの神聖なる戦場と考えている第1缶室の缶部員にとっては、太平洋の海水が自由に出入し大洪水にしてしまった無残な1缶室の水浸しの姿を、さぞ無量の感で眺めたことであろう。

 喫水線以下が満水してしまった第1缶室の前後の防水隔壁には、厚板と丸太で厳重な補強が材料を惜まず2童3重に施され、外舷破口の表面には防水蓆が展張され、念のためその外側には麻索で幾重にも船体ごと縛り上げ、破ロの内側にも布類、板材、丸太でできるだけの遮防が施されたが、この破口内側だけは破口の寸法が余りにも大きすぎるので、限りある小艦の艦内工作の力では、冬季東シナ海、台湾海峡の荒波に対して、果たしてどの程度耐え得るか一抹の不安が残った。

(注) : 防水蓆といいますのは、帆布を四角く2重又は3重に重ねてその中に麻屑を詰め、それに下図のような太い麻索の四辺及び十字の枠に縛り付けたもので、これに展張・固定用の索を取り付けます。
これを破口に外側から当てることにより、水圧によってその破口に密着させることで浸水を防ぐことができます。
旧海軍の駆逐艦では2.4m四方のもの1〜2個が常に準備されていました。


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 1月10日の朝はいつの間に明けたか、防水作業の忙しさで分からなかった。 幸い「朝顔」は缶室が縦に三つ並んでいて、その第1缶をやられたのであるから、第1缶室と第2缶室の間の隔壁さえ保ててくれれば、舞鶴まで帰ることは不可能ではないと思われた。

 そして缶1缶の馬力で優に20ノット以上の速力が出たから、2、3号缶のうちの1缶さえ使えれば、蒸気発生力の点では何も心配がなかった。 しかし外舷破口に当てた防水蓆は、微速(6ノット)なら保てそうに見えたが、原速(12ノット)では壊れそうで、半速(9ノット)ですらも怪しく思われた。

 防水処置を終わった乗員は、早くもこの先のことを予想し、これが最後とばかり思って出てきた母港舞鶴に、まだ2箇月にもならないのにまた帰れそうだというので、顔には喜色が溢れ、話題は急に舞鶴のことばかりになってしまった。

 私は不利な戦局を思い、「屋代」を始め多くの戦死者を考え、母港に帰る嬉しさを大声で語る者を叱った。 「余り嬉しそうな顔をするな!」

 とは言いながら、「朝顔」がこのまま作戦行動を続けることのできないことは確実であるし、また修理の場所としても母港に帰ることが最も適当そうであったし、したがって家族に再会できる公算も強いとすれば、顔には出せなくとも誰れしも心は舞鶴に走りやすいことは当然であった。

 しかし神は、このような特典をただで「朝顔」乗員にだけ与えるはずはなかった。  また「朝顔」はこの事故の前、三亜座礁によって既に他の艦に比べ特別の恩典を神より与えられていたから、我々「朝顔」乗員は神の与えたこれらの恩典に対して今後十分な活躍をもって報いなければならないであろう、と私は思った。

 事故の日も暮れ夜となってから、案の定第1護衛艦隊司令部から関係者の呼出しが来た。 加害者側は「屋代」艦長職務執行者である砲術長(特務中尉)と主計長など、被害者側として私が出席し、魚住先任参謀司会で調査が始まった。

(原注) : 主計長が出席していたことは、昨年(本稿執筆当時)同氏自身が当地に来てお互に30年振りの奇遇に驚き、同氏から聞いた。


 先任参謀はいつものように、護衛艦側に深い思いやりを込めて、ことの経過を「屋代」側に優しく尋ねた。

 砲術長は説明した。 艦長始め艦橋にいた主要幹部を一挙に失った艦内は、極度の恐怖に陥ってしまった。 そして敵空母が至近に迫っているこの高雄から、一刻も早く脱出して母港に帰り、修理して再び第一線に出ることが最善の策であると、判断されるに至った。

 私はこの砲術長の話を聞いているうちに、小艦艇の幹部の存在がいかに重要なものであるかを知った。 そして我が身である「朝顔」の状況を振り返ってみると、あたかも母港舞鶴の港内にいるときと全く同様に、全乗員が安心し切って落ちついて行動している幸福さをしみじみと感じた。
(続く)

2009年04月16日

聖市夜話(第31話) 台湾より離脱北上す(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 また陸軍の御用船に乗っていて沈められたと思われる陸軍さんや船員が、朝から「朝顔」の舷側近くを北から南へ流れて行った。

 私たちは対空戦闘をしながら、これらの漂流者たちに大声で激励し続けた。  「暫く頑張れ! 後から救助に行くぞ!」 漂流して行く者も手を上げて応答したが、0800頃から1500頃までは、盆踊りから離れて救助にいくことは危険であった。

 敵機群が去ってから直ちに漂流者救助に掛かった。 救助された人達は次々に舷門から上がってきた。 舷門の酒井甲板士官が大声で艦橋の私に怒鳴った。

 「艦長! 漂流者は上甲板に上がった途端に、安心して参りそうです。 ちょっと可哀想ですが一発喝を入れます(入れてよろしきや?の意味)」

 私も艦橋の窓から怒鳴って許可を与えた。 甲板士官とその助手は、上がってくる一人一人を両側に支え、「元気を出せ、気を緩めるな、両足に力を入れろ」 と号令を掛けながら喝を入れていたが、長い人は約8時間漂流していたので、上甲板上にシャンと立てる人はほとんど見受けられなかった。

 私は艦橋の窓から逐一この光景を見て、東洋的な豪傑である甲板士官が思い付いたこの東洋的な親切さが心に残った。

 かくして戦闘後の救助作業も終わり、盆踊りの全艦船は港内に戻った。

 ここで敵は昼間の空母機の不徹底な艦船攻撃を補うため、今夜辺り陸上機をもって港内に対し水平爆撃を行うのではないかと、私は予想し、艦内に令達し、敵の夜間爆撃に対する厳重な警戒を命じ、私自身も艦橋横にある魚雷戦発令所のソファーに、戦闘服装のまま愛用の7倍眼鏡を首に下げて身を横にして仮眠した。

 それから約2、3時間も経ったであろうか、突如 「ドスン!」 という近い大きな昔に夢を破られて私は飛び起きた。

 「スワ、予想どおり敵の大型爆弾か」 と思って艦橋から周辺を見たが、どうも様子が違う。 その直後当直見張員が私に次のように報告した。

 「どこかの艦首が右舷第1缶室横にブツケ、その艦はスグ後進をかけて見えなくなりました。」

 私はビックリして艦橋を駆け下り、上甲板から身を乗り出して1缶室右舷の舷側を見たところ、無残! 直径約2mの大孔がポッカリと開いて太平洋の海水が缶室に自由に出入しているではないか。

 私は直ちに総員を防水部署に就けるとともに、「その艦はどの方向からきたか?、早く相手の艦名を聞け!」 と信号員に命じた。

 このとき、血生臭い一陣の微風が暗夜の中の右後方の風上から柔らかに私の顔に漂ってきた。 私は即座に呟いた。 「あるいは午後被爆した「屋代」ではあるまいか?」

 やがて発光信号をたたいていた信号員は、相手の艦名が海防艦「屋代」であることを私に告げた。 私の予感は正に適中していた。 この瞬間、深夜の上甲板で私の全身は氷で包まれたようにゾーツ!とした。

 そして昨日の対空戦闘で戦死した「屋代」艦橋員の亡霊が、艦長を先頭にして縦1列となって、私に挨拶に来てくれたのではないか? と直感した。

 私は右舷斜後方に頭を下げ、目に見えぬ暗夜の彼方の、今しかた血生臭い微風が漂い流れてきた風上側の「屋代」に向かって、「申し訳ありません、お許しください、さぞ御無念のことでしたでしょう」 といって謝り続けた。

 あるいは私は、何も「屋代」に謝らねばならぬ筋合はなかったかもしれないが、昨日の戦場で目の前で、しかも「朝顔」の身代わりになってくれたことで、戦友を殺し私達だけが生き残ったという事実だけで、大きな罪を感じ、ただただ頭を下げて謝るより他に適切な挨拶を見い出す心のゆとりはなかった。

(注) : この「朝顔」と「屋代」の衝突については、「アジア歴史資料センター」 の 『第31戦隊戦時日誌(1)』 ( レファレンスコード: C08030074800 ) の中に「朝顔」の1月10日 0115発信電が記載されています。


(続く)

2009年04月15日

聖市夜話(第31話) 台湾より離脱北上す(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は敵機を見なからまず舵効きをよくするために増速した。 そして全砲銃の射撃目標をこの1機に下命した。

 この敵機と「朝顔」との距離は刻々と迫った。 距離2,500、私はまだ射撃開始を令しなかった。 25ミリ機銃なら十分に届きかつ有効弾を期待できる距離であったが。

 次いで距離2,000、それでも私はまだ射撃開始を令しなかった。 そして敵さんが「朝顔」の対空砲火を最も怖くなる距離は、1,000mから500mの間かなと想像した。 それならちょっと余裕をみて1,500mから射ち出してやろう、そうすれば各機銃の射手の呼吸も一気に500mまで続きそうに思えた。

 次いで距離1,5007m、私は初めて「射ち方始じめ!」を下合した。 万を峙していた「朝顔」の全機銃は一斉に火を吐き、曳跟弾の火はこのたった1機にあたかも吸いこまれていくように集中した。

 これから数秒、距離約1,000mぐらいであったか、敵の機影の横一文字が雨戸板を引っ繰り速すようにヒラリとその裏を見せた。 瞬間私は 「命中、撃墜か」 と息を飲んだ。

 ひらりと身をかわした敵は「朝顔」に横腹全部を見せながら約70度の角度で海面に突入して激突するかに見えた。 しかし、嗚呼! 敵機の突入する真下には「朝顔」の前続艦であった海防艦「屋代」がいた。

 敵機は巧妙にも途中で目標を転換したのであった。 瞬間私はこのパイロットは30歳近くかなと思った。 とにかく老練と直感した。

 「「屋代」危うい!」 と思って私は7倍眼鏡で「屋代」艦橋の窓ガラスを見た。 次の瞬間敵は遂に投弾し、海面スレスレで逃げた。 その瞬間「屋代」艦橋窓ガラスは透き通しになって、前方の空間が真っ白く見え、私は思わず 「「屋代」の艦橋全滅!」 と叫んだ。

 私は信号で「屋代」の被害を問い合わせたら、「敵爆弾艦橋に命中、艦長航海長を始め艦橋にいた信号員、見張員などほとんど全員戦死」 の回答を受けた。

 思えばあの爆弾は当然私たちが受けるべきものであったが、「朝顔」の猛烈な反撃が遂に敵をして目標を「屋代」に代えさせたものであった。

 盆踊りの前続鑑「屋代」は「朝顔」に代わって敵の投弾を受けた。 私達は頭を垂れて「屋代」艦長以下の戦死者の冥福を祈らずにはおれなかった。

 この1月9日の寿山沖の対空戦闘では、盆踊りの中心の錯泊部隊に軍艦「神威」がいた。 そして敵機の多くは勇敢にも「神威」を狙い、遂に午後には後部重油タンクに被弾してもうもうと黒煙を上げたが、「神威」乗員の機敏な活動は「朝顔」艦上からも手に取るように見え、ついに応急作業成功し「神威」の危機を救った。

 またこの日の朝、ある海防艦 (9号かと記憶) は盆踊りからちょっと外側に離れたと思ったら、早速敵機が同艦に集中し、遂に後部に小型爆弾1発を受け、爆雷の1個は約30mぐらいまっすぐに天に飛び上がるのを見た。

 私は後部の爆雷全部が誘爆して、後部船体に重大な損傷を発生するのでないかと予想し、ハラハラして見守ったが、次々に起こる爆雷の誘爆は皆上甲板以上に発散し、艦尾の喫水に異状がないのを見てホット安心し、船体が上甲板上の爆雷の誘爆に対して案外に強いことを知った。

(注) : この1月9日の米TF38による台湾空襲に関しても、先にご紹介した、「アジア歴史資料センター」 の 『高雄海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(6)』 ( レファレンスコード: C08030488900 ) の後半にその戦闘詳報が掲載されています。


(続く)

2009年04月14日

聖市夜話(第31話) 台湾より離脱北上す(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この2日間の敵機の来襲状況を見ると、判で押したような事務的な繰り返しが見えた。 彼等は既に勝敗の決は決まったという戦略的な判断の上でこの高雄方面艦船攻撃をしているのでないか、とも想像された。

 そしてこのように同じことを繰り返す事務的な敵に対してさえ一歩も一手も対抗策の出せそうにない戦局の前途は、いよいよ戦争の末期を思わせるものであった。

 1月6日と7日の毎夕刻には、私は上陸して高雄警備隊に行き家内の親類である副長原口昇中佐(51期)を訪問し、同隊の広々した浴槽に案内され、副長とともに背中を流しながらこの戦争の最後までの奮闘を語り合ったが、同副長はいつものように明るく愉快なことばかり話してくれ、ややもすれば悲観的になりそうな私を温かく親切に激励してくれた。

 狭い「朝顔」からみれば当時天国の温泉のように見えた同隊の広々とした浴室の光景とともに、同中佐の温かい激励はいまだに忘れることができない。

 また高雄警備府の砲術参謀牟田(静雄)少佐(62期)は、中学時の同級生でもあったが、この空襲の合間のある夜に左営にある立派な日本建築の官舎を見せてくれた。

 この新しい官舎も同少佐の家族が来ていないので空家同然でガランとしており、2人は新しい畳の上に座って戦局の前途を案じたが、今や名案も新機軸もなかった。 そして同少佐の温かい友情だけはいまだに忘れることができない。

 またこの頃であったか、級友の内田(一臣)少佐(後の海幕長)と安田(清)少佐が、それぞれ砲校と通校の電探現地視察に揃って高雄に来ているのに会った。 しかし戦局はクラス会を開くどころの余裕はなかった。

 そして私は彼等が毎日不沈の大地の上で安眠できることをちょっとばかり羨み、また私は近く海上で散っても彼等が私のことを他の級友に伝えてくれるであろうと思った。

 そして1月9日を迎えた。 またまた敵艦載機が来るらしいとて寿山沖の盆踊りが始まった。 敵空母を撃滅しない限りこのウルサイ蝿たちは毎日私達に付きまとい、私達の生命を狙うことであろう。

 午前の第1波も第2波もようやく撃退し、昼食後の第3波のときではなかったかと記憶しているが、3方向から同時一斉に急降下してくる中の1機が、ピタリと「朝顔」に照準し、その機影は横一文字の中央の上に丸い団子1個を付けたように見えた。

 幸い別の敵機で「朝顔」を狙っているものは見当たらない。 いくら視界内に100機ぐらいの敵がいようとも、この瞬間の 「我が敵」 はこの1機だけであった。 また幸いなことには、「朝顔」の全砲火は一息入れて次の敵を待っている時機でもあった。

 私はこの一途に突っ込んでくる、恐らく二十歳ちょっと出たくらいの青年パイロットであろうが、その真面目さ、真剣さには感心したが (他の機の多くは適当な高さで適当に落として帰るものが少なくなかったので)、可哀想だがこやつを血祭りにあげてやろう、「飛んで火に入る夏の虫」 にしてやろうと決意した。

 そもそも水上艦と敵潜との戦では、敵潜が隠密裡に我に姿を見せずして雷撃してくることが多かったので話は別であったが、洋上にいる水上艦と敵機1機との戦は、特に白昼における敵急降下爆撃機は、その突入方向を我にピタリとつけなければその爆弾が当たらないという、いわば決死の宿命があった。

 しかも敵機の搭乗員はせいぜい1人か2人で、我方は約200、また敵は25ミリ機銃一発によってでも撃墜されるような少ない安全性しか持っていないのに反し、我が方は30kgの小型爆弾などは当たりどころによっては致命傷にならないという大きな安全性を持っていた。
(続く)

2009年04月13日

聖市夜話(第31話) 台湾より離脱北上す(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 敵艦載機は予想どおり、0800過ぎからその先頭が視界内に入ってきた。 そして私達の盆締りの周辺で私達の銃火の届かぬところで後続機の来着を待った。 私達は用意万端整って彼等の急降下に入るのを待った。 それは正に剣道の試合における初動直前の数分に似ていた。

 このとき高雄上空から西方に避退中の最後の輸送機が私たちの視界内にあった。 その次の瞬間恐らく敵は第1次攻撃隊指揮官の号令が掛かったのであろう、全周を約120度ずつに3つに割った3つの方向から、サーッと一斉に同時に落下し突入してきた。

 満を持していた味方艦艇は、一斉に射ち上げた。 敵機は各機30kgぐらいの小型爆弾1個を持ち、逐次急降下で投弾し、後機銃を射ちながら次々に退去して行ったが、そのうちの勇敢な敵機は「朝顔」の艦橋横まで突っ込んできて、キョロキョロするその飛行帽の中まで見えた。

 敵は1機も落ちなかったようであったが、味方中心の錨泊艦では上甲板上に小火災が発生し、防火隊員の活躍振りがさながら映画を見るようによく見えた。

 これで第1波が終わった。 味方にも重大な被害艦は出てないようであって、最近日本から出てきた新造艦のあるものは、これが初陣であったかもしれなかったが、さすがによく戦った。

 「朝顔」の乗員にしてみれば、これは慣れたことで、水平爆撃隊の同時攻撃がなくて、やたらに数の多い小粒の蝿ばかりの来襲のようで気が楽であった。

 「敵空母が近いからまた来るぞ」 といって艦内は次の戦闘に備えた。 「本日の昼飯は戦闘配食」 という号令も艦内に響き渡った。 私たちは戦闘配置に就いたまま、艦は盆蹄りを続けたまま、敵の次の来襲を待った。

 第1波が0830頃からで、次の第2波が1100頃で、第2波の後各自の戦闘配置に戦闘配食が配られ、私達は上空を見上げながら握り飯をほおばり、この昼食の頃は敵さんも同じように昼食かと思わせるように来襲がなく、その後で1400頃から第3波がやってきて、1500頃には 「本日の攻撃はこれで終わり」 といわんばかりに、上空の敵機は全部姿を消して行った。

 それから私達は初めて我に返って、周辺の海上に漂流していた艦船乗員とか飛行機搭乗員を捜索救助して回って多くの人を収容した。

 これらの中で、朝から漂流していた負傷者のある人は、小さい交通船を朝の第1波で沈められ夕刻まで漂流中、足首を蟹に食われてしまったといって中心に骨だけが露わに残っているのを見せられ、戦ったのは盆踊り部隊だけでなかったことを知った。

 沖合周辺の海面の救助が終わって1630頃となってから、寿山沖合の艦船は続々と入港し軍港商港に戻り、夜は港内で横付け又は錯泊して敵潜から雷撃される心配なく明朝まで安眠することができた。

 1月3日の後、すぐ翌日の4日の日もこのような寿山沖対空戦闘が繰り返されたように記憶があるが、ある日私は斜上空の敵機群が攻撃直前に余りにもよく勢ぞろいしたので、信号員にその概数を数えさせたら、「ただ今93機」 という報告があったことを記憶している。

(注) : この1月3日〜4日にかけての米機動部隊TF38による台湾空襲に関しては、「アジア歴史資料センター」 の 『高雄海軍警備隊戦時日誌戦闘詳報(6)』 ( レファレンスコード: C08030488900 ) が参考になるでしょう。


(続く)


2009年04月12日

聖市夜話(第31話) 台湾より離脱北上す(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 ルソン島から高雄に着いたのは20年1月2日であったが、一晩港内で安眠したと思ったら、翌日の3日0700ごろから敵空母の艦載機群か台湾及び馬公方面に来襲の算大なりという情報が入ったので、商港高雄とその北隣りの軍港左営にいる艦船は、朝、港外に出て寿山西方の海面に集まり、特務艦、商船のような大型艦船は中心部に錨泊し、我々のような駆逐艦、海防艦などの護衛艦は、大型艦船の錨地を中心として円陣を作って微速あるいは半速ぐらいの速力で一定方向にブルグル回って、敵の艦載機群が来たらこの対空戦闘配備による全銃砲火の結集によって対抗しようということになった。

 このやり方は狭い港内に戦闘後沈船を出す心配もなく、また敵機の来襲時に狙われる円陣内の小艦艇にとっても、ある程度舵と速力によって回避運動もできるし、また円陣内の小艦艇が中心部の大型艦船を護ることもできるし、総合的にみて適切な対策であったが、私たちはこれを 「盆踊り」 と俗称した。

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 この頃のように戦局我に非になってくると、万一狭い港内で多数の艦船を沈められてしまうと、この港は港としての機能を大きく失ってしまって、戦略的に大きなマイナスとなるものであった。 したがって、一度艦載機群が来るようになれば、例え沈んでも後、迷惑の掛からぬ場所で対空戦闘をしなければならないという悲しい運命であった。

 ルソンから前日、日本領土である高雄に生還し、ヤーレヤレと一晩グッスリ安眠させてもらった我々を、なおも執拗に高雄まで追い掛けてきたこのウルサイ夏の蝿みたいな艦載機も、その数が増えしかも上手に同時攻撃してくると、余り油断のできぬ相手であった。

 従来の護衛中我々が相手にした敵機は、4発重爆か双発の軽爆で機数も少なく、また敵潜の魚雷のような致命傷を加えてくることも少ないし、また飛行機は必ず攻撃前に姿を全部見せてからやって来るので、我々は敵潜を第1に警戒し、敵機の方は軽く第2に考えてきた。

 しかしこのように、かつての護衛行動の要であった高雄にまで艦載機が来襲して来るようになってしまっては、今後の南方物動輸送路は一刀両断にされてしまった感じとなった。

 私はまたまた「朝顔」の主砲が仰角30度以上に向かないことを残念に思った。 25ミリ機銃だけでは精々2,000mまでぐらいの有効弾しか期待できなかった。

 そこに行くと、この頃続々と新造されて私たちの仲間に入ってくる丁型駆逐艦や海防艦は、上を射てる主砲を付けているので頼もしかった。 私は盆踊りの列に入って「朝顔」の前と後にこれらの新造艦をおいて、これらの主砲で助けてもらえることを感謝しなければならない弱味も持っていた。

 性能の古い老齢艦は早く沈んでしまって、性能の良い新造艦と交代してしまう方が艮いとでもいうのかともいささか弱気になりそうな気も起こってきたが、そこは「朝顔」の伝統と百戦錬磨の200の部下が許さなかった。 また私の心の中で 「天は自ら助ける者を助ける」 という天の声が強く私を励ました。

 艦長の私が弱気を出していて、誰がこの「朝顔」を護るであろうか、「自ら我れを侮り、人また我れを侮る」 という神の声も強く私の心を突いた。

 性能に欠陥あればあるほど、私はもっともっと強気で押してゆかねばならない。 また戦局がこのように不利になればなるほど、ますます艦長は心を強くしなければならなかった。
(続く)

2009年04月11日

聖市夜話(第30話) 西ルソンにて反転す(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 本日の敵編隊を山脈の割れ目に発見した瞬間、「シマッタ! 間合いが近過ぎた!」 と私は後悔した。 そして私は作戦行動が連続してくると、ついついこれを事務的に処理しやすくなる習性をこれではいかぬと反省した。

 行動はいずれも敵に対するもので、必死に研究してから行動を開始しなければならないものであったが、次々に行動が続くと前の疲労も回復し終わらぬうちに次の行動を起こきねばならず、「もうどうにでもなれ」 という捨てばちの気も少しは起こるし、また自分が船団部隊指揮官でなくて平の護衛艦長であると、ただに先輩に盲従してしまって万事 「命のままに」 となりやすく、折角幾多の護衛行動で心眼を鋭く磨き澄ましておりながらこの心眼をあたら眠らせてしまうことが少なくなかった。

 本日の出港時刻にしろ、接岸北上にしろ、反省してみれば工夫の余地は十分にあるものと思われた。 また湾内における敵機来襲の頻度が急速に増えた事実に対しても、少なくとも出港時刻と北上時の針路の2点は当然厳に警戒工夫されるべきものであった。

 そしてルソン島西海岸の接岸航路は、敵が比島に上陸してくるまでの長い間には、所在の敵潜を好餌(船団)に寄せ付けておいて、浅い水深下で確実に仕留めることができるという利点を持っていたが、今や敵機は基地を比島内に進め、諜報員と緊密に連絡しつつあったので、海岸沿いの山脈は逆に敵機の奇襲を成功させる良い屏風となっていた。

 また出港時刻にしても、日中なるべく早く出ることは敵潜に対して有利であると同時に、敵機に対しては最も不利であって、急速に優勢になりつつあった敵機を敵潜よりも強く警戒するならば、むしろ半日ぐらいは湾内で時間を費やし、日没前後に湾を出るということも考えられてよさそうであった。

 そして行動開始前の作戦打合せにしても、やる意志さえあるならばその時間を生み出すことが全然不可能というものではなかった。

 さてルソン島から離れた我が船団は、往路と同様にバシー海峡を遠く西方に大迂回しながら、僚艦「呉竹」の冥福を祈った。

 そして高雄に着いたのは20年1月2日であった。 前日の元旦はバシー海峡西方洋上であったが、「朝顔」船上では対空対潜警戒を一層厳にしたほか、何らのお正月行事も行わなかった。

 高雄にてその後、敵艦隊がサンフェルナンド湾沖に来襲し、在泊艦船を全部沈め、我がタマ38船団が揚陸した水際の陸軍弾薬も灰燼に帰したことを聞き、「ルソンも1週間の差で助かった」 という記憶があるが、上記の弾薬は、爾後の山下兵団の北ルソン島作戦を不利ならしめた一因となった由で、何故あの時すぐ椰子林の奥の適地に運んでおかなかったかと悔まれたのであった。

(原注) : 私は昭和27年5月、航洋曳船「アーゴノート号」船長として7年振りにサンフェルナンド湾を奇しくも訪問した。
  行きはスビック湾の2万トンドック用扉船を長崎三菱から曳航し、帰りは「襟裳」型海軍特務艦(1万3千トン)を長崎まで曳航したが、当時艦砲射撃で丸坊主になったと言われた椰子林はスッカリ元通りの「緑濃き椰子桜」に回復していたが、湾内にはそのまま大小の沈船多く、マストが数本立ったままであり、同湾脱出の時を回想し感無量であった。
  またこの特務艦は20年春マニラ湾内にて敵機の空襲を受けて沈没し、戦後比島の会社によって引き揚げられ、この曳航中も間断なく排水作業(毎日約500トン)を継続しつつ懐かしの祖国に辿り着いたものであって、長崎では「帰国第1号の旧日本艦艇」として港の話題となった。


(注) : この特務艦は昭和19年11月の空襲で沈没した 「隠戸」 と判断されます。 正式には「隠戸」型に類別されますが、機関関係が異なる以外は基本要目は「襟裳」型と同じです。


(第30話終)

2009年04月10日

聖市夜話(第30話) 西ルソンにて反転す(その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 丁度正午頃であった。 私は下から運ばれてきた昼食の握り飯とたくあんを膝に乗せて、箸を取った。

 この瞬間敵編隊約50機が、船団東方の第1と第2の山脈の間を北上同航し第1山脈の切れ目から船団目掛けて左に変針して、逆落としに低空で船団中心に襲いかかってきた。

 私は直ちに船首を取舵に回わし、全砲火が船団前方中央上空に指向できるようにした。

 見張員は敵機発見を声高く報告し、当直将校は船内ブザーを押して総員を戦闘配置に就けたが、僅かに間に合ったのは哨戒直員による25ミリ機銃だけのようであった。

 敵は双発軽爆のB25約50機、船団の右前方から約50mの低空で船団中央に襲いかかり、アットいう間に貨物船2隻と駆潜艇2隻を血祭りにし、敵の一部は「朝顔」の艦橋横を航過し、相手パイロットの顔が見えるぐらいで、このように急迫高速航過されると、単装の25ミリ機銃ですら旋回が間に合わないくらいで、こんな時には軽快な飛行機用13ミリ機銃か、手持ちの猟銃が欲しくなるくらいであった。

 敵機は各機ごとに投弾し、後機銃掃射しながら一斉に南に去った。 敵ながら余りに見事な奇襲であったので、交戦時間を信号員に尋ねたら 「13秒」 という答が即座に跳ね返ってきた。

 この信号員の名前は残念ながら忘れてしまったが、彼は敵編隊の第1弾投下時にあたかも演習の時のように秒時計を押していたらしく、その沈着さに私は敬服し、幾多のこのような百戦錬磨の良い部下を持っていることを感謝した。

 「飛行機は、落とし終われば人畜無害!」 という言葉は、私がよく使っていた常用語で、敵機との対空戦闘直後なるべく早く乗員の心を平静に戻すためのものであったが、このときも正に人畜無害で、敵編隊の姿を南に見ながら昼飯の残りを続けた。

 被害を受けた貨物船と駆潜艇の各1隻はそのまま海中に没し、別の各1隻は海岸に乗し上げて沈没を免れ、これらの救難には駆潜隊司令艇と後1隻の駆潜艇が迅速機敏に被害船艇に横付けして救難し、「朝顔」は専ら沖合からくる対潜警戒と、敵機の第2披攻撃に対して対空警戒に当たった。

 救難終わって残り寂しくなった中型貨物船2隻を駆潜艇2隻と「朝顔」で護衛し、ルソン島接岸をやめて北西に離れ高雄向け帰途を急いだ。

(注) : この時に被害を受けた駆潜艇及び貨物船については現在のところは判りません。 沈没した駆潜艇は「18号」か・・・・?


(続く)