2009年02月05日

『聖市夜話』(第22話) 海南島の鉄船団(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 これについて、私はそれまでに全く苦々しい思い出を持っていた。

 私の親友某少尉は、重要書類を提出しようとして、停泊中艦長室に入った。 折から毛筆で書信を書いていたこの艦の艦長某大佐は、カーテンを払った同少尉にとたんに怒鳴りつけた。

 「ソンナものは後だ!」

 丁度その日は、艦長がその書類を点検捺印すべき日であったが、「ソンナもの」 と侮られた同少尉は 「一寸の虫にも五分の魂」 特に彼は硬骨漢であった。 以後毎週引続いて彼は艦長に提出しなかった。 約1か月の後艦長ようやく気が付き同少尉に提出せよと命じ、「なぜ君は提出しなかったか」 と問われたので、彼は率直に艦長の怒鳴った言葉をくり返して返答し、とたんに再び同艦長の激怒を新たに食らったのであった。

 以後艦長は事々に同少尉を信頼せず、衆人の前で罵倒し続けた。 同少尉は間もなくこの艦より寂しく退艦し防備隊に勤務し、以後潜水艦畑に進み、大戦中潜水艦長として南海に散ったが、当時私はこの親友が海軍を辞めるのでないかと心配し、有為の材を失うことを海軍のために恐れた。

 この艦長は 「上に良く下に悪い」 型の人といわれていたが、温厚で全乗員の尊敬を一身に集めていた副長(中佐)に対しても、准士官以上の整列している面前で、同様に罵倒して言った。

 「駄目だね!君は。 小学校一年生以下だョ。」

 私達はこの暴言にはむしろ情なくなってしまった。 何がこの暴言を許したか、何がこの 「人を人とも思わぬ」 倣慢さを温存させたのであろうか。

 今も帝国海軍がもし健在であったならば、このような恥部を露出しないで済んだかも知れない。 長き伝統は恥部を覆い隠して反省の時を与えなかったかも知れない。 しかし「ハンモック・ナンバー(釣床番号)」過重視の害は、ここにその一端を示している。

 世に完壁に近いような評価を受けた帝国海軍にも、こんな例が稀にあった。 確かに少数の釣床番号病患者がいたが、自己の栄利のみに没頭する者にとっては、もう一つ上の次元である 「身命を賭す」 いうことは、到底達することができない。

 感激性に燃ゆる若き日に、海軍に対する失望の鉄槌を受けて遂に戦死してしまった親友の恨みを思い出し、新しい後継者が再びこのような誤りを繰り返してもらいたくないと切に望むのであるが、カーテンを払い終わった私の友に浴せられた艦長の暴言は、その後数年にして、若くして駆逐艦長となった私に対して、電報取り次ぎの応符に関し、奇しくも強烈な教訓を与える結果となったわけである。

(もうこれ以上先輩の悪口を披露したくない。 説明不足の点はお許しを請う。)

(第22話終)

2009年02月06日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「戦略と戦術の戦い」 をしながら南シナ海を突破してきたユタ04船団が、無事高雄に入港したのは19年4月15日、日没頃の1830であった。

 イ36司令部の命令によれば、「朝顔」は翌16日早朝高雄発、バシー海峡西方を通って高雄に着く船団の護衛に行く予定であったから、主計長としては、入港後なるべく早く生糧品を補給しなければならなかった。

 元来「朝顔」は貯糧品については全乗員約190名の1か月分を搭載できたが、生糧品については野菜は上甲板に露天積だったので約1週間分程度、肉魚については上甲板上に備え付けの氷冷蔵庫だけであって、その中の氷が南方行動ではせいぜい3〜4日しか持てなかったので、3〜4日分というところが限度であった。

 そして海南島南方海面の蓮子鯛は有名であったが、海南島を出て少し蓮子鯛が臭くなると、天ぷらになって食卓に姿を現し、これを見た私たちは、蓮子鯛の痛みかけたプーンとする臭さに 「ああ三亜を出てから3日目か」 とよく気が付いたものであった。 また同地は補給に苦しい所で、何かの蔓とか、芋と豚肉と蓮子鯛しかなくて、三亜から3日経ったら缶詰で後を補う状態であった。

 ところで、3月着任したばかりの新進気鋭の神林晶主計長 (海経33期、当時少尉、9月中尉) は、入港するや直ちに短艇を下ろし、部下を連れて夕闇迫る中を高雄軍需部岸壁に行き、生糧品の補給を請求したところ、係員は既に退庁後で、当直員では話にならず、それなら係員の自宅まで迎えに行ってくれと頼んだがこれも断られてしまった。

 日ごろ温厚な神林主計長も大いに怒り、短艇を漕いで「朝顔」に引き返し、今度は薪割(斧)を持って行って倉庫の錠前を壊して生糧品を補給しようと考え、まだ在艦中であった私に話した。

 私も事の次第を聞いて主計長と同様に憤慨してしまった。

 「最後の責任は俺がとる。 倉庫をブチ壊して生糧品を取ってこい。」

 と言って主計長を激励した。

 艦長の命を受けた主計長は、勇躍薪割片手に再び短艇を漕いで軍需部に行ったところ、主計長の強い気迫に恐れをなしたのか、今度は当直員も素直に倉庫を開けてくれた。

 この薪割事件以後、同軍需部は「朝顔」入港前に生糧品を岸壁に出しておいてくれ、入港直後に搭載できるように進歩したのであるが、若き主計長の顔とともに忘れることのできない、私たちの若気の至りの思い出である。 (同主計長は戦後海上自衛隊に在職している。)

 さてその翌日は、0930高雄発、洋上にてサタ17船団23隻(?)(13班、「初雁」、海8、駆潜41、「長寿山九」護衛) に17日合同し、バシー海峡西方の護衛を強化した後、洋上にて分離して、18日1900無事単独高雄に着いた。

(原注) 船団隻数の23隻は推定、あるいは13隻。

(続く)

2009年02月07日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 19日一日休ませてもらって、20日高雄から門司行きのタモ17船団24隻を運航指揮官6班、「蓮」、8号海防艦、「第3拓南丸」と共に護衛し、1100高雄を出発した。

 そして途中無事九州西岸に辿り着き、26日にはまたも「朝顔」の見張りの名人服部2曹は、福江島付近海面において船団前方に浮流機雷1個を発見し、これを「朝顔」は銃撃処分して船団の危険を未然に防ぐことができたが、翌27日0630「朝顔」は船団と佐世保沖にて分離し同日1530単独で佐世保に入港した。

 佐世保では4月30日から5月3日まで入渠しているが、この短期の入渠の目的が何だったか記憶がない。 恐らく水測兵器の追加工事であったものを、母港舞鶴まで帰らせると、船団発着地の門司との往復に時間を余計に費やすので、もっと近い佐世保にされたものかと回想される。 なおこの期間に上甲板上には25ミリ機銃連装3基と爆雷投射機2基とが増設された。

 この頃はそれ程によく護衛艦は使われたもので、母港舞鶴ではなくて佐世保工事となったことは乗員をちょっとガッカリさせたが、昨年12月下旬母港を出てきてから、まだわずかに4か月しか経ってないのに、余り大っぴらに不満を言える筋合でもなかった。

 事実第一線の局地で哨戒、掃討、護衛をやっている対潜艦艇は、例えば水雷艇「雁」のように開戦時進出したっきりで遂に終戦間際に南海に散り、遂に一度も母港の地を踏まなかったものも、少なくなかったのであった。

 それに比べれば、イ36の艦艇は、幾ら忙しく使われても時々内地に帰れることで十分の補いがついていた。

 ここで試みに、佐世保に着くまでの約1か月余りの行動をみると、3月22日から4月27日までの38日間で、停泊日数わずかに3日、航海日数35日であった。

 この停泊日数というのは、1日中全く動かない日数であるが、この停泊日数が少ないことが一番こたえたのは、恐らく艦長と機関科であったであろう。

 行動中常時艦橋にあることを帝国海軍の重要な伝統としていた艦長は、食事と便所に行く時以外は艦橋から下りることなく、明らかに敵が眼前にいる時には、食事も艦橋に持ってきて取ったもので、したがって便所に入っているときだけが、腰の脇差すら抜くこともできない一番哀れな時間であった。

 また機関科は、老朽艦になればなる程、寸暇をさいて早目に解放検査し応急措置をやる必要があったが、停泊日数が少ないということは、いかに有能な機関長でも解放して検査のできる時間を与えられないということに等しく、機関長以下がその使命を全うすることを極めて困難にしていた。

 私は当時年齢29歳4か月であって、それまでは若さのお陰で数日間の行動を終わって入港しても、翌日の出港前まで一晩グッスリ眠れれば大抵の疲労を回復することができたが、「朝顔」着任から半年目のこの頃、少しずつ体力の限界に近づいてゆくような感じがしてきた。

 したがって艦橋にあっても、なるべく窓際に立つ時間を少なくし、なるべく折椅子に腰掛け、大事な海面では神経を緊張し、平易な海面では神経を休ませ、できれば折椅子に腰掛けたままで上手に眠ることに努めた。

 この哀れな艦長の姿をそばにみる当直将校以下の当直員は、敵発見以外なるべく高い声を出さないように注意して艦長の休息を守ってくれたが、これら当直将校を初めとする当直員にしてみても、いつ雷撃してくるか分からぬ危険さの中の4時間勤務は、責任重く疲労激しく、また当直が終わって折角居住区で安眠していても、総員配置のブザーで夢を破られることが多く、しかも波浪による駆逐艦の動揺は何の遠慮もなく私たちの生活に来襲し続けたのであった。
(続く)

2009年02月09日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 中5日の佐世保整備期間中、4月28日林敬一郎軍医少尉が着任し、大友七三郎前軍医長と交代した。

 私は家族が佐賀市の実家に疎開していたので、予告なしに短時間帰って幽霊ではないかと家族を驚かせたが、海南島楡林の服部氏宛てのお土産に、自宅にあった有田焼の徳久利と盃を持って帰艦した。

 5月3日出渠し、そのまま同日佐世保を出港し、佐世保港沖通過の昭南行きヒ61船団11隻、指揮官16班、護衛艦8隻と合同し南下し、7日バシー海峡突破後洋上にて船団より分離し、高雄に向かった。

 この船団は、門司の船団会議にも列席することもなく、また目的地昭南まで同行するわけでもなく、約1,000マイルの東シナ海を同行護衛したという珍しい船団であったが、速力は早いし、船団11隻に対し護衛艦9隻というこれまた珍しい充実した船団部隊であって、各船団がこれくらい充実していたら敵潜も攻撃しにくいし、船団側もさぞかし力強いことだろうと思われるものであった。

 颯爽として任務を果たし終わった「朝顔」は、この護衛も成功という記録を打ち立てて、気は早や上陸の喜びでワクワクしなから、0945ころ湾口を通過した。

 ところが、湾口見張所より信号、「艦長来部するに及ばず、先任参謀艦に行く」 とあった。 「ハハア、スグ出港だな−」 と私は直感した。

 果たせるかな、いつもの岸壁には笊に入れた生糧品が「朝顔」を待っているのがまず眼鏡に入った。 スッカリ観念して1000岸壁着、私は5日振りに艦長室に降りて、歯を磨き顔を洗った。

 程なく魚住先任参謀が乗艦、「ミ03船団20隻、護衛艦8隻がバシー海峡を通るから「朝顔」は本日出港、9日夜まで護衛協力せよ」 ということになった。

 私は 「今度帰ったら、せめて一晩休ませてくださいヨ」 とお願いした。 先任参謀は 「よしよし分かった」 と返事して、忙しそうに司令部に帰って行った。

 このとき私は乗員の機敏で感の良いのには驚いた。 岩壁に横付け終わるや、岸壁上の清水吐水口の周りには、洗面器片手の入浴姿の下士官兵で賑わい、5日間の行動の垢は素早く洗い流され、下着などは手際よく洗濯され、岸壁上の洗身者は次々に交代していった。

 艦内の真水を一滴でも無駄にするまいとする健気さ、次の行動に臨機応変気持を変えてくれる乗員、これこそ護衛艦乗りの頼もしい心意気で、私はこの乗員なくしては到底この激しい任務を果たすことはできなかった。

 私は頭がボーッとしているので、5日振りに中甲板の艦長室寝台に潜り込んで出港までグッスリ短時間寝込んだ。

 当番の声に起こされ、「昨日入港したんだったかなー」 などと錯覚をした。 「朝顔」は既に燃料清水を満載し、機関長は次の行動準備が完成したことを報告し、主計長は生糧品何日分を搭載したことを報告し、軍医長は乗員の健康状態を報告し、先任将校は何時に出港しようかと相談に来る。

 1900再び岸壁を離し、やがて湾口通過、たちまち台湾海峡南部のうねりによって、「朝顔」の艦首は得意の上下振を始める。

 艦橋にいる私達はあたかも、10数秒ごとに上に下に垂直に動かされる鳥籠の中で、しっかりと止まり木をつかむ鳥に似た存在となった。

 私は先任将校に言った。

 「さっき先任参謀に約束しておいたから、この行動が終わったら最小限一晩は休めるヨ。」

 若い元気溢れる先任将校は、自分は何んでもないが、年取った特務士官、准士官、下士官までの分を代表して、嬉しそうにニッコリと笑って、「イ36、実によく使いますなー」 と言った。

 その夜洋上にてミ03船団20隻、指揮官第2班、護衛艦8隻と合同し、難なくバシー海峡を突破したあとしばらく同航、9日船団と洋上にて分離し、後単独で回航、10日0740高雄に着いた。
(続く)

2009年02月10日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 ところが、入港してみたらまた7日と同じ状況となった。 先任参謀は、「済まん、全く済まん」 を連発しながら、今度は高雄在泊中の他の護衛艦の状況まで追加説明して言った。

 「A艦は主機械の具合が悪いし、B艦は補助機械の分解修理中だし、C艦は艦長が○○だし、結局「朝顔」しかないんだヨ。 頼むからもう一走り行ってきてくれんか。 今度は必ず約束どおり一晩休ませてやる。 全く済まんが頼みます。」

 といって、C艦々長の件では内容を詳しく語らず、ただ右の人差指を頭に向けた。

 私たちもこの頃、護衛艦側で起こっている行動不平均だという不平不満の話を、どこからともなく耳にしていたし、また気が強くて先任参謀と同年輩ぐらいの艦長の中には、同参謀に逆に食い下がって、上手に乗員を休養させている名士もいるようであった。 そこに行くとイ36の生え抜きの旧一等、旧二等の艦長達、特に私のような駆け出しの若い艦長には、同参謀が一番頼みやすいことも良く分かっていた。

 10年も先輩で、しかも日頃尊敬するこの先任参謀に、このように頭を下げて口説かれたんでは、後輩たるもの誰がそれでも嫌だと言えよう。 私は次の約束は本当だろうと信じて、元気を取り戻して気持よく了解した。 乗員もまた、岸壁の給水管の所で機敏に洗身洗濯を済ませ、燃料清水を満載して1800出港した。

 湾口を後にして洋上に出てから、艦橋にやってきた先任将校に私は冗談を言って笑った。

 「艦長がお人好しだと乗員が苦労するねー、俺もいっちょうやるか!」

 先任将校は、若いのに似合わず思慮分別のありそうな顔をニッコリさせて、「そうですなー」 という長い返事をして笑った。 この先任将校は常に平然と落ち着いていて、どんなことがあっても悠然として動じないという頼もしさがあり、スグかっかとなる私にとって良いコンビであった。

 今度「朝顔」がバシー海峡の護衛強化をする船団は、テ05船団8隻、指揮官第9班、護衛艦5隻であったが、前と同様に「朝顔」は洋上にて合同し、バシー海峡を突破、後海峡の敵潜が追跡してこない所まで護衛協力し、洋上にて分離し13日1430単独で高雄に帰着した。

 今度は湾口の信号所からも信号もこないし、横付岸壁に生糧品の笊も見えなかった。 「今晩は休めるぞ!」 と艦長以下全乗員は喜んだ。 先任参謀1回は嘘をついたが、今度は約束を守ってくれた、と思った。

 私は岸壁に横付けし、佐世保出港以来10日間着のみ着のままの服で歯を磨き顔を洗って迎えの車で司令部に向かったが、いつものように背柱を立てて腰掛けていることすらできず、ソファーに肘をついて斜め横になった。 頭はガンガンして、車窓から懐かしい高雄の町を見る気力も体力もなかった。

 疲れ切った体で司令部に着いた私は、司令官に任務報告を終わって後、先任参謀の机の横の椅子にベッタリと座り、同参謀から 「御苦労さんだった」 と連発されたが、頭がガンガンしてこちらから物をいう元気すらなかった。
(続く)

2009年02月11日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この2回の「朝顔」協力の船団は、いずれも無傷でバシー海峡を突破したが、その成功を先任参謀は特別に喜んでいるようであった。

 どうもこのバシー海峡護衛強化作戦は同参謀の発案ではないかと思われたが、「朝顔」のこの2個船団に関しては、第1回目は個有の護衛艦8隻、第2回目は5隻にそれぞれ「朝顔」1隻が加入し、合計第1回9隻、第2回6隻という威容と全周にわたる配備が、従来の護衛兵力乏しい船団に比べ、敵潜に対して攻撃しにくい状況を与えたのではなかったかと思われた。

 これは決して「朝顔」が参加したから成功したわけではなかった。 何んとなれば両船団ともただ「朝顔」を護衛配備の中に入れるだけで、「朝顔」が従来最も厳禁している定位置同速同航方式をやらせるだけであって、そのほかに敵潜の出そうな方面をかく乱するような1、2隻の護衛艦も配備していないようであったからである。

 「朝顔」のやり方をやらせるためには、やはり船団会議でよく説明し研究して置かなければ実施不可能であって、お互いに顔も知らぬような区間の護衛強化では、そんな巧妙な護衛兵力の運用は期待できないとも思われたが、またこのくらい護衛兵力がそろえば、「朝顔」方式の敵潜攪乱方式は、その必要性も少しは薄らぐものかとも思われるのであった。

 先任参謀の口から出た「朝顔」の次の行動予定の話は、基隆から門司までタッタ一隻の「浅間丸」護衛であって、疲れ切った「朝顔」に新たな元気を持たせるに十分であった。

 私は元気を出して帰艦し、背広に着換えていつもの宿屋に行き、入浴して久し振りの栄養豊富な食事をして、安心してグッスリ死んだように眠った。

 翌14日1500、単独基隆向け高雄発、台湾海峡を北上し15日0830基隆着、港内には美しい大きな姿の「浅間丸」一隻が待っていた。

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(日本郵船 「浅間丸」  『世界の艦船』 より)

 私は先任将校に言った。

 「今度は「浅問丸」一隻だ。 いつも船団側を呼び付けてばかりいるが、それでは商船側の聞き手が少ない。 今度の船団会議は「浅間丸」でやろうじゃないか。」

 そして「朝顔」幹部は「浅間丸」に乗り込んだ。 そして私はまず次の方針を述べた。

1 速力は必要のとき以外指示しない。 「浅間丸」は門司まで続く最高の航海速力を出せ。

2 針路はその都度「朝顔」が指示する。

3 之字運動はなるべく行わない方針であるが、必要と考えたときのみ指示する。

4 「朝顔」は常に敵潜の出そうな方向を攪乱するので、「朝顔」の行動に余り気を使うな。

5 敵潜情報により思い切った大角度変針を命ずることがある。


 大体以上のことを指示し、そのあと「朝顔」航海長、通信長たちが次々に詳細にわたって指示説明を加えたが、皆海上経験浅いのにかかわらず、手慣れたもので、この調子なら20隻以上の船団でさえも指揮できそうだと頼もしく思った。

 また船団側も、さすがに「浅間丸」の幹部だけあって、田舎回りの船団には見られないような、頭の働きのスマートさ、物分かりの良さで、1隻対1隻の珍しい船団会議は、たちまちアッサリと終わってしまった。 このときの「浅間丸」一等航海士は溝口貞雄氏であった。

 船団会議終われば次は上陸、乗員は既に半分ずつの入湯上陸を開始している。 私達も町外れの船越別館に行く。 この前は3月2日と3日に休ませてもらったお馴染みさんである。 浴室係の上江州さんも、部屋の女中さんたちも親切で、家族同様のもてなし、「静かで、食事良く、風呂艮し」と、護衛艦乗員の3つの希望が全部かなえられていた。
(続く)

2009年02月12日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 翌16日1500基隆出港、船団長はタモ19A船団、船体の一部に被害を受けていたがそれでも「浅間丸」は実によく走り、波浪によっては「朝顔」が振り落とされんばかりで、「朝顔」も久し振りで駆逐艦らしくよく走ったが、もちろん水測関係は聴音だけで、探信儀は全く役に立たず、聴音機員はいつ起こるか分からぬ敵潜の魚雷発射音に対して全神経を傾けて当直した。

 17日泗礁山にて仮泊しちょっと打合わせ、一休みして翌18日泗礁山発、19日1600六連着、かくして豪華船「浅間丸」もアッという間に無事日本に送り込んでしまった。

( 注 : 泗礁山は、上海沖約50キロの舟山群島の中の一つ、泗礁島の泊地。 また六連は関門海峡西口の六連泊地のことです。)


asamamaru_S19_001_s.jpg    asamamaru_S19_002_s.jpg
   ( この2枚の写真は 『世界の艦船』 (昭和42年12月号) に掲載されたもので、
    提供者の田名部氏によると台湾の基隆で入渠中の昭和19年4月7日の撮影
    とされています。 したがって本第23話で「朝顔」が護衛したのは、まさにこの
    写真の直後の「浅間丸」ということになります。)


 「朝顔」は「浅問丸」を門司に入れ終わり、肩の荷も軽く単独19日六連発、翌20日1000懐しの母港舞鶴に着いた。 多くの乗員にとって昨年12月末以来5か月振りの家族との再会であった。

 この過去5か月間に、「天津風」の救難、敵潜撃沈、南シナ海の雷跡4本など、色々のことがあったが、実によく走り回ったものであった。 特に佐世保を出た5月3日から母港に着くまでの17日間は、停泊日数零というレコードであった。

 これだけ息をつく暇もなく行動できたのは、主として星野梅吉、のち黒田吉兵衛機関長以下機関科員の老齢艦「朝顔」に対する赤誠愛護の賜物であったが、一方艦橋の止まり木に一直配置で泊っているような艦長にとっては 「神よ我に一夜を与え給え」 と叫びたくなるような緊張と疲労の連続であった。

 そしてこの期間の中の5月1日には佐世保において、艦長、先任将校、服部2曹などの多数が、それぞれ一階級ずつ進級した。
(続く)

2009年02月13日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は年も若く、経験も浅く、到底かつて仕えた飛健さんのような名駆逐艦長に一足跳びになれそうな可能性はなかった。 それでも最小限、次のことだけは全うしたいと思った。

 その第一は、200名の乗員を殺してたまるか、敵に対しては常に先制を取り、絶対に隙を見せてはならぬ。 また、どんな困難な任務でも絶対に腰を折るまい。 神が「永眠」させてくれるまで最愛の部下と共に戦う。

 その第二は、200名の部下には色々な希望があるであろう。 ゆえに私は最も高い目標を持たねばならない。 どうせ神が私を見るならば80点でなくて30点であっても構わない。 しかし部下の誰よりも高い目標を目指して、至誠至純、より一歩でも神に近づくように心を持って行きたい。

 それは10メートル飛込みのとき、「直下の水面を見るな、遥かなる水平線を見よ」 と教えられたことも似通った心境であった。 直下の水面を見る部下も若干いるであろう。 50メートル100メートル先を見る部下もいるであろう。 しかし艦長たる者は、誰よりも遠い所を見つめなければならない。 それだと、直下を見る部下、100メートル先を見る部下も、皆ついてきてくれそうであった。

 また、神に近づく第一歩は、まず私利私欲を念頭から去ることに始まると思った。 そして生命が惜しいということは、私利私欲の最初に出てくる最も強い本能であったが、これは既に戦没した勇士たちを思い、また「後に続く者」たちに対する強い信頼によって、霊魂の不滅を確信し、「あの世でともに一杯やろう」 という心境であった。

 この心境が取れないと、短時間を利用して熟睡することもできないし、任務そのものが不平不満の種ばかりということになる。

 戦後、自分は基地又は後方にあり、最愛の部下を次々に死地に見送らねばならなかった幾多の提督たちの深い苦悩を本や映画で知ったが、その点小艦の艦長は常に部下全員と共にあったので、気は大いに楽であった。

 その第3は、部下の前で喜怒哀楽を示すまいと思ったことである。

 本当はプラス面である善と楽の面ぐらいは出しても良かったのであろうが、老練な名駆逐艦長のように、器用にプラス面だけを出すということは、未熟な私には到底不可能であって、喜と楽を出せばたちまち感情が高まり、すぐマイナス面の慾と哀が出てしまうので、結局私にとっては、なるべく感情を大きく動揺させないことに努力した。

 戦後14年たって、「朝顔」の旧乗員から戦時回想を集めたとき、某先任伍長の回想に「笑わなかった艦長」という印象が書かれていた。

 未熟なるがゆえに、マイナス面を出して士気を落とすことを恐れる余り、プラス面すらも出し得なかった当時の私の姿を見せ付けられたようで恥ずかしく思われたが、そう言えば戦後本籍地に帰村就農し、秋の名月を縁先に眺め、

 「国敗れて山河あり、今や私は艦長でない、家族5名の家長であるに過ぎない。 今や存分に泣いても良い、笑っても良い。」

 とは思ったものの、私のあごは久しく大きく開くことをしなかったため、人並に大口を開けて笑うこともできそうになかったという生々しい記憶がある。

 また、昭和12年駆逐艦「疾風」にては、艦長の飛健さんが毎朝謹んで士官室の黒板に、愛情あふるる達筆で明治大帝の御製を写していた。

 当時2年目少尉の若造の私は、艦長の字がきれいだなーと感心したぐらいであったが、それから数年たって自ら艦艇長となり、指揮官としての反省の一方法が、御製の謹写となり、一歩でも大御心に近づかんとする崇高な姿であったことに、ようやく気が付いたのであった。

 名鑑長は言わず語らず身をもって私達後進にその道を教えた。 「私利私欲の念を払って任務に忠実なること」 という目標は、帝国海軍の美しい伝統の一つであった。 戦後30年色々な仕事についたが、私の心が最も神に接近したときは、「雁」と「朝顔」の時代であったと断言することができる。

(原注) 私に反対した幹部1名がいたことは、他の各護衛艦と比べ、全く特異な現象であって、これが護衛艦の平均した状態であったとは思われないので、一言断っておく。


(第23話終)

2009年02月14日

聖市夜話(第24話) 船団轟沈・流れ弾警戒−1(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 19年5月20日、約半年振りに母港舞鶴に帰った「朝顔」は、24日から6月4日まで入渠して艦底外舷の牡蠣落としと総塗装を行った。 また25ミリ機銃3基と94式投射機2基が増備され、探信儀に整流覆が初めて着けられた。

 この頃は母港籍の艦も段々に南海に沈み、帰ってくる艦が少なくなっていたので、入港早々鎮守府の先任副官が手人れのよくできた長官艇で乗艦し、無事帰還を祝すという長官の祝辞を伝え、配給ではお目にも掛かれないような特級酒の一升瓶を 「長官からです」 と言って渡されたが、長官艇のピカピカ光る真鍮、美しいペンキと「朝顔」の赤錆だらけとの対象は、丁度お公卿さんと乞食のようなものであった。

 また艦長には警備戦隊司令官から、初任准士官講習員に第一線の話をしてくれという依頼がきて、私は一席弁じに行った。 どうも生きて帰ってくると、どこに行っても大いにもてるということが分かったが、各部に行ってアノ艦も沈没、コノ艦も沈没という話ばかり聞かされて堪らなかった。 こうして舞鶴の古い艦は「朝顔」も含めて、皆不帰の旅に出て行ってしまうのであろうか。

 新造艦の溶接は盛んに行われているが、私達のように戦さに慣れた者たちが戦死してしまったら、果たして新造艦を動かす者がいるであろうか。 上命のまま知らぬ間に船団護衛に慣れてしまった私達は、全く貴重品であるだろう。 新造艦たちは平時には考えることもできないような短期間に、次々と竣工しているというが、人間はそう簡単にゆかない。

 開戦以来艦と運命をともにした人達が今になって惜しい。 例えば私が候補生のときの軍艦(軽巡)「五十鈴」の艦長であった山口多聞中将も、どうして艦と運命をともにされたのであろうか。 全く痛惜にたえない。

 私は一艦の責任者である。 近い将来山口さんのように艦と運命を共にすべき時が来るかもしれない。 いや当然到来するであろう。 このような場合については佐賀の葉陰でも教えていた。

 「武士道とは死ぬことである。 死ぬべきか生きるべきかと迷う場合には、死ぬ方を選ぶべし。 人間という者はいざという場合には、必ず生きる方に理屈をつけたがるものである。 しかしそのために古来武士道を汚し生き恥をさらした者が少なくない。」

 しかし、この戦さば長期戦である。 日本海々戦のように2〜3日の戦闘では済まない。 南方からの物資輸送か途絶えたら戦争は継続できない。 そして新造艦は続々としてできているが、これを乗り回わす慣れた乗員は減る一方である。 人間は溶接ではできない。

 そこで私は艦と運命を共にしないことに腹を決めた。 またこれと同時に、部下にも犬死をさせまいと決心した。 そしてどこまでも悪運強く、艦を次々に乗り継いで、我が身が桜花と散る最後の瞬間まで、任務を果たさねばならぬ!! と決心し、この決意を幹部に話した。

 幹部に漏らしておけば、そのうち自然に全乗員に伝わるであろう。 総員を集めて下手な訓示でもしたならば、折角築き上げた旺盛なる士気に臆病風が舞い込んで、エライ結果となるかもしれない。

 しかし、准士官以上に対して、

 「船体の破損は溶接で直る。 しかし人間の体は溶接では治らない。 部下の指1本でもけがさせないように作業を監督せよ。」

 と厳に要求するぐらいのことは、臆病風を招く心配はなかろうと思った。

 また佐賀の葉陰の教えは、結局1個の武士を対象とするものに過ぎない。 武士らしく自分は華々しく最後を飾り得たとしても、後に残った祖国が敗れてしまってもよいであろうか。 否々私たち現代の侍は、自分一身の栄誉などは忘れてしまって、祖国の勝利をひたすらに追及しなければならぬものであろう。 昔の侍は一家一門の栄誉で行動したが、私達の行動は、祖国という単位に直結している。 万事祖国の都合で考え直さねばなるまい。
(続く)

2009年02月15日

聖市夜話(第24話) 船団轟沈・流れ弾警戒−1(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 山口多聞中将のお気特は痛いほどよく分かっているつもりであった。

 軍艦「五十鈴」は当時連合艦隊第一潜水戦隊旗艦であって、山口さんは米国の駐在武官から帰朝されたばかりであった。

 砲術長は海軍体操の家元の堀内豊秋少佐(戦時落下傘部隊長、戦後責任を一身に取られ刑場に散られた)(50期)、また航海長は実松譲少佐(後米内大臣副官)(51期)、砲術士は音羽正彦少尉(既出、朝香宮正彦王、62期)で、私達のクラス6名は遠航終わったばかりで、連合艦隊の初めての勤務であった。

 冬のある夜、巡検終わって私たちはガンルームの椅子で思い思いに酒と「お定」(フィンガー・ソーセージの別名)で、ガヤガヤと話をしていた。

 突然何の予告もなく、どてら姿の山口艦長がガンルームに現れ、私たちの間に腰を下ろした。 多聞さんは私達に盃を勧めながら、慈父のような優しい温かい声で、済南事件における現地指揮官の処置について語った。 そして最後に、

 「私達は武器を行使する国家的使命を担っている者である。 誰が何んと言ってきても、丸腰になって使命を汚すことがあってはいけない。」

 と結んだ。

 それまで艦長の優しさ、色の白さ、ふうわりとして一回り大きな堂々たる体格、男世帯の艦隊と艦長の大きな体には不似合いと思われるような細身の、美しいキレイな彩色のついたサスペンダーを、総員体操の時そっと拝見していた私たちは、一見女性的にすら見えるこのアメリカ帰りの艦長の、内に秘めた烈々たる気迫に深刻な感銘を受けたのであった。

 また別の夜のガンルームで、私は盃を傾けながら現代の日本の大学生を慨嘆していた。 突然実松航海長は、日頃の優しさからは想像もできないような厳然たる声で、私の頭上から怒鳴りつけた。

 「相手の実情もよく知らずして、軽々しく他を批判してはいけない。」

 私は酔いもすっかりさめて、この先輩の一言を今日まで心に刻み込んだ。 この航海長もまた艦長と共に、当時の想定敵国アメリカをよく認識していた先輩であった。 したがってこの教訓は以後長く、大学生という言葉をアメリカに置き換えて私の脳裏に深く刻み込んでいった。

 年々歳々このような立派な先輩たちに手を取り足を取り指導されながら、帝国海軍の伝統は身に付けられてゆくもので、駆け出し駆逐艦長の私自身ですら、満4年の兵学校生活を含み海軍生活12年になっていたし、また「雪風」のような一流駆逐艦長を作るには20年前後の長期間を要し、更に若い乗員にしてみてもいかなる荒天時でも役に立つ程度になるためには約3年を要した。

 この自分自身に対する価値・尊厳というものを、乗員の各自が常に持ち続けて我が身を大事にしてくれることは、一般の戦闘力の土台になる要素であって、そしてまたこの自覚を持たせる口火に点火することも艦長の役であった。
(続く)

2009年02月17日

聖市夜話(第24話) 船団轟沈・流れ弾警戒−1(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 さて、この母港整備のときか(またはその次)と記憶しているが、工廠側のサービスが格段に改善されていることに驚かされた。

 従来は艦が母港に帰投すると、工廠内の各科の検査官は、「朝顔」か予め提出してある修理請求書と図面を持って、思い思いのときに来鑑するので、艦側の各科長初め准士官以上、主な下士官は、これらの現場説明が終わらないと上陸もできず、休暇に出発することもできなかった。

 ところが今回は、艦隊勤務の経験ある中島宣一機関中佐が先頭に立って各検査官を連れて一度に来艦してくれ、艦側担当者も一度に士官室に集まり、中島中佐の名司会によって会議は迅速に進み、終わって一斉に各科ごとの現場説明に移り、それが終わるとまた士官室に集まり、中島中佐が工廠側全員を連れて退艦して行った。 そして工廠整備中は、何事によらず中島中佐に請求・依頼すると同官が工廠内部の連絡を一切やってくれた。

 すなわち、整備中の艦は他にもあったが、こと「朝顔」に関しては中島中佐が 「母親代わり」 であり、同官にお願いすれば何んでも処理してもらえる仕組みであった。 母港在泊中の私達にとっては、家庭に寛げる時間が特に貴重であったので、この工廠側のキビキビした新方式は、「朝顔」を激励するところ大であった。

 この時私は錨鎖全部の新換えを請求した。 当時「朝顔」の錨鎖は、建造以来一回も換えてもらわなかったのではないか? とさえ思われるほどに肉減りはひどく、中鐶は全部がガタガタしていて、その酷さときたら私も今まで見たこともない程度であって、検査官が検測したならば即座にOKとなることはもちろん、むしろアキれ果てるであろうと思われた。

 ところが工廠側は、

 「目下海防艦など同じ錨鎖を使う新造艦が次々に竣工するので、現在の在庫品は全部既に割当て済みであって、「朝顔」に割当てる余裕はない。」

 と回答した。 そこで私はこう言った。

 「分かりました。 それでは今後「朝顔」が停泊中、錯鎖切断して事故が発生したら、舞鶴工廠長がその責任をとる、という一札をいただきたい。」

 これに答えて工廠側は言った。

 「それはできない。今までそんな一札は出したこともない。 艦長が注意して事故を未然に防止してもらうよりほかに仕方がない。」

 私は工廠長相手に、故意に喧嘩を吹きかけたのではなく、このような請求をするのが艦長の責任で、工廠長には新品を在庫していて交換してくれる責任があるものと思った。 したがって責任を果たし得ない工廠長側が、いかに階級が上だからといって、「無いものは無い」 式の回答をすることは、筋が通りませぬぞと言いたかったからである。

 私はむしゃくしゃして、工廠内に伸ばしてある数条の新しい錨鎖を泥靴で踏みつけたが、これらは海防艦用らしく思われ、肉がフックラしていていかにも丈夫そうであり、老齢艦である我が身を顧み恨めしい限りであったが、こんな感情論などは何の解決にもならなかった。

 しかし、この後1か月後の海南島における座礁のことを思えば、私はもっともっと怒って「朝顔」の錨鎖の肉減りのことを、心にしっかりと刻みこんでおく必要があったが、そこは凡人の悲しさ、母港を出港するころは、ケロリと忘れてしまっていた。
(続く)

2009年02月18日

聖市夜話(第24話) 船団轟沈・流れ弾警戒−1(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 港内は昼夜兼行で新造艦工事にかかっており、夜間の溶接工事の火花は夜明けまで休むことなく続き、銃後の人たちの真剣さがひしひしと身に感じられた。

 私は人事部にも行って、人員の補充交代について部員松林元哉大佐(50期)と語った。 同部員は新造艦とか新編部隊のための新しい100%の配員に頭を悩ましていた。 それは高雄で船団部隊の運航に苦労している魚住中佐と同様であった。

 松林部員は「朝顔」から人員を取る側、私は取られる側、しかし私としては新しい艦と部隊の誕生を希望することにおいては決して人後に落ちるものではないけれども、さればとて余り取られては、次の行動が危いので、結局乗員の何%ぐらいまでに留めて下さいと頼んだ。 この妥協点を見い出すことがポイントであった。

 そして同部員にイ36の護衛艦の忙しい行動状況を話し、新造艦のような訓練のための日数が全くなく、新乗艦者は直ちに実戦に遭遇する状況をよく了解してもらった。

 実際にこの少し前、私は高雄にいる特攻隊の震洋艇基地を見学したことがあったが、彼等が特攻隊なるが故に受けているサービス、特に訓練のために十分な期間を持っていることを見せてもらい、一方対敵行動に忙しくて訓練、休養の暇も無いような護衛艦の立場とを比較してみて、靂洋隊をうらやましく感じたことさえあった。

 船体の赤錆もスッカリ手入れされ、艦底の牡蠣もなくなって船脚も軽くなり、面目を一新した「朝顔」は、6月9日舞鶴発、門司に向かったが、門司までの行動がいつも新乗艦者を迎えた後の割合に安心のできる唯一の訓練海面ではあったが、その日本海も既に手放しで安心できる海面ではなくなりつつあった。

 翌10日門司着、早速関門運航部の護衛担当部員の沢田徹三少佐(高商船卒)を訪門し、護衛の打合わせをしたが、沢田先任部員は高雄の魚住参謀と同様に、私達にとって門司で一番大事な人であって、また商船側、護衛艦側の苦情をいつも気持ちよく聞いてくれる人であった。

 特に高商船出身の各護衛艦長達とか各船長各船の士官達は、温厚な沢田部員からどれだけサービスを受けたか分からないであろう。

 やはり丸ツ作戦というものは、門司の沢田部員、高雄の魚住参謀のように、辛抱強く忠実公平に任務を全うする人が、基地の要となってもらわないと、全軍の行動がうまく行かないようであった。

 確かその日、ミ07船団の船団会議が沢田先任部員司会の下に行われたと記憶している。 船団隻数26隻という最大の船団であった。 船団部隊指揮官第8班、次席指揮官第4姓、護衛艦は「屋代」「朝風」「朝顔」「2号海防艦」「第3拓南丸」の5隻であった。

 「朝顔」は5隻の護衛艦の中の1隻だから、会議に列席していても気が楽である。 「朝顔」指揮の田舎回りの船団に比べ、何かやり方で学ぶべきアイディアでもないかと思いながら聞いている。
(続く)

2009年02月19日

聖市夜話(第24話) 船団轟沈・流れ弾警戒−1(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 確かこの会議の時と記憶しているが、海軍側の船団部隊指揮官が 「陸軍部隊は危険品の弾火薬類、油類を一船に集めることはできないか」 という提案をした。

 これは海軍としては既に常識になっている事項であったので、多数の陸軍部隊が各船ごとに人間と弾火薬、油類が一緒に搭載されていることは、被雷時のことを考え危くて見ておれないことであった。

 これに対し陸軍の代表は答えて言った、

 「私たちは各部隊ごとに責任をもっているので、そのようには到底できない。」

 私はそれまでに陸軍兵営生活における 「員数合わせ」 という語も聞いていたので、

「長年の習慣だから無理もあるまい。 海軍艦艇は各個艦で海上で戦うのだから各艦に弾火薬がいるが、海を渡り終わるまでは戦をしない陸軍さんたちが、わざわざ弾火薬を抱いて一緒に轟沈してしまう必要もあるまいになー。」

と思うことであった。

 また陸軍の参謀達は、高級指揮官ほど居住性の良い大きな船に乗せたがっているようであったが、私達から見ると、大きな船ほど敵潜敵機から狙われるので危険性のより強いものであった。

 したがってこの場合には、上級指揮官ほど居住性を念頭に入れず、安全性を第1に考えて、中型船以下ぐらいに乗せることが、戦の道であろうと思われた。

 温厚で恰幅くのよい上品な湯口俊太郎陸軍少将などは、会議の席上御丁寧にも各護衛艦長に、「護衛の御辛苦誠に感謝の至、厚く御礼申上候」 と書いた名刺を差し出されて、いとも物柔らかに挨拶して回られたが、私はこの少将閣下に、

 「もっと合理的にされないと危いですよ。 何んなら閣下だけでも「朝顔」に便乗されませんか。」

 と、もう少しで声に出しそうな気持であった。

 このように、戦いの道は万事合理的でないと危くて見ておれるものではない。 部隊の安全のためには何んでもやる。 万一被害の場合にはなるべく被害を局限する方法をとる、という風でないといけない。

 少将閣下の航海中の居住性の方をとるか、それとも目的地に生きて渡れる確実性の方をとるか、の問題である。

 また各船に弾火薬を抱いていて、雷撃を受けたら潔よく全員死んでも自分の弾火薬は自分の手で守りぬく必要があるのか。

 この辺り陸軍さんの物の考え方は中々固く、我々が幾ら説明しても早急に改められそうにはない頑固さがあった。
(第24話終)

2009年02月20日

聖市夜話(第25話)船団轟沈・流れ弾警戒−2(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 さてこの船団は、商船26隻に対し護衛艦5隻が配せられたが、5隻の護衛艦全部を船団全周に張りつけるだけで、「朝顔」式敵潜攪乱方式などの配慮は全く考えられていなかった。

 しかし私も平の護衛艦で別に参謀を命ぜられている訳でもないので、攪乱方式を提案することもしなかった。

 このころの10隻以上ぐらいの大型船団には、船団部隊指揮官として運航指揮官が就き、この運航指揮官は第何班と称していて、現役又は応召の大佐中佐級が充てられており、その下に老練な航海出身の下士官と若干の水兵が付いていたが、補佐官が少なく、運航指揮官の心労は激しく、この頃の状況では運航指揮官は適当な護衛艦に乗って指揮される方が良いのでないかと私は思っていたが、運航指揮官によっては船団中の一番大きな船に乗られる人が多く、このような一番大きな船は1番船として中央列の最先頭に占位することが多く、この1番船が最も敵潜の狙いやすい目標でもあった。

 そしてこのミ07船団には、珍しくも第8班と第4班という2人の運航指揮官が配せられていた。

 船団も26隻ともなると、通信連絡が容易でなく、行動機敏を欠き、被雷時に処置しにくくなるし、また敵潜側にとっては十分な魅力があり、上手に攻撃すれば第2回、第3回の攻撃にも成功して、船団の主要部を轟沈できる可能性もありそうであった。

 したがってこの船団が、2人の運航指揮官がおりながら、2つの船団に分けなかった理由は、恐らく護衛艦の隻数わずかに5隻という点にあったのではないか?と想像される。

 この頃も大船団が艮いか、小船団が艮いかという両方の意見があったが、この頃のように地形地物を利用することのできる船団側と、水中速力の低い敵潜側のことからみて、私は小船団に分ける方が良いという意見であった。

 小船団であると、ちょっと工夫すると、島と島の間を通過して前路に待機中の敵潜の裏をかくことも可能であるが、大船団となると小回りが利かないのでつい大海の中央部を走りがちで、これでは敵潜に行動を察知されやすく、前路に待機していると大抵船団が近くを通ってくれるということになりやすいからである。

 また小船団では船団の縦横の幅が狭いので、第1回被雷後最寄護衛艦が迅速に敵潜の攻撃にかかりやすいが、大船団になると下手をすると船団が混乱して護衛艦は船団の通過を待たないと攻撃運動にも入れない、という事情もあったからである。

 とはいいながら、商船26隻に対し護衛艦5隻というのは余りにも護衛艦数少なく、運航指揮官としては責任ばかり重大であって、その心労は護衛艦長よりはるかに深刻のように推察された。

 また、たった5隻の護衛艦を2分したところで、3隻と2隻にしかならず、たった2隻で半分の10ないし13隻の船団を護衛するということは、例え小船団主義者であっても、大いに考えるところである。

 もし私が仮に護衛艦2隻で商船10隻を護衛して門司至台湾を行けと言われたら、私は南西諸島寄りとか、東シナ海中央航路のような大海航路は避けて、南鮮狭水道、中支接岸航路、台湾海峡東航の航路を選んだであろうが、この航路も船団26隻ともなれば、行動性の点で大いに考えさせられることである。

 即ちこの例のように、大船団は勢い大海航路を選びやすくなり、地形地物の利用がやりにくくなるという原則は、陸戦における原則と同じであろう。
(続く)

2009年02月21日

聖市夜話(第25話)船団轟沈・流れ弾警戒−2(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 さてミ07船団26隻は6月11日堂々たる隊形で門司を出発した。

 敵潜情報によるものか、13日鹿児島に仮泊し、14日抜錨し南西諸島寄りの航路についた。

 指揮官としては恐らく右側に入れてある機雷堰を利用する計画であったものと思われる。 ただし私などは、従来からこの機雷堰には余り期待はかけていなかった。

 14日夜、「朝顔」は船団右中央に占位していたが、船団速力遅く、強い波浪があり、舵が効かず、片舷前進原(半)速、片舷停止ないし後進微速を繰り返し、船団からの定位置を保持するに苦労しながら続行していた。

 これより先約1か月ばかり前、やはり夜間の護衛行動中、私は艦橋で黒い海面を眺めながら、フト敵潜雷撃時の「流れ弾」のことを思い、早速艦橋命令簿に次の趣旨を記入し、この発令後各当(副)直将校について当直中によく説明し、一巡終わって 「これでよし」 と安心したことがあった。

 〔敵潜の流れ弾について〕−艦橋命令簿− 船団護衛中、船団部隊敵潜の雷撃を受けたる場合、敵の発射点咄嗟に不明の時は、その流れ弾を受けざるため、当直将校は艦長の命を待たず、直ちに船団外方に緊急転舵するものとす。

 そして今夜の荒れ狂う海上の波浪をみると、「流れ弾」どころか敵潜側の魚雷発射すら難しいのでないかと思われた。

 また敵潜が潜望鏡深度を保持することも難しく、大胆な敵さんなら浮上近接して、浮上のままで雷撃するかな!とも思われる海上の荒れかたで、大体随半している護衛艦が舵効き悪く、ちょっと油断していると船団に突っ込みそうになったり、反対に外側に向いてしまって進行方向に横倒しになったりするのでは、見張りも水中兵器も果たしてどのくらい役に立っているかもはなはだ疑問であった。

 大体海上が荒れて波浪が高くなり、かつ舵効きが悪くて片舷後進を混ぜて使うようになると、見張員の眼鏡の中の水平線は常に上下し、決められた哨区を見張りし続けると頭が痛くなり、胸がムカムカするものであり、また探信儀も聴音器も艦底部の動揺、海水中の気泡のため雑音多く、見張りも水中兵器も波静かなときの性能の半分以下と想像された。
(続く)

2009年02月22日

聖市夜話(第25話)船団轟沈・流れ弾警戒−2(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 突如、「ドカン!」

 私の心臓は止まったかのようで、ウム!ウム!ウム!と息が詰まって言葉が言えない、「配置に付け」 と言えるまで数秒掛かった(その数秒の長かったこと)。

 艦内に眠っていた乗員も、「朝顔」自身が雷撃されたような強い衝撃で夢を破られ、ブザーの鳴る前に即座に戦闘配置に駆け上がった。 当直将校は「流れ弾」に関する艦長命令により早速船団外側に緊急回頭を発令し、艦はその数秒後に徐々に右外方へ回り出した。

 見れば、船団中央列の2番目の2番船被雷である。 火炎は半径約100m天に沖し、船体はスーッ!と瞬時に海中に没し、没入した海の中から猛烈な勢いで火炎が吹き上げ、さながら海中火山の噴火口のようであった。 この吹き上げる炎がスーッとなくなり、後は静寂の暗黒の闇に復した。 これは典型的な「轟沈」であった。

 この被雷船と「朝顔」の距離約4キロであったが、全く自分の艦が被雷したような強い衝撃で、また船の長さ以上の直径の火炎がパッ!と広がってから海中に没するまでの早いこと。 恐らく天に広がった火炎は、私と当直員だけしか見なかったであろう。

 「アー、あれでは船首か船尾に当直していた人が2、3名海に吹き飛ばされているくらいで、100%に近い人が船と運命をともにしたであろう。」 と想像された。

 各船に弾火薬を抱いている危険性が現実のものとなった。 陸軍の乗船者約2千名は船の乗組員とともに瞬時に幽明境を異にしたのである。

 緊急回頭をとられた「朝顔」の艦首は、初め遅く、徐にその回頭速度を増し、外方約45度に達しつつあったとき、後部マスト付近から 「雷跡!雷跡!」 と必死になって艦橋に向かって連呼する菅原水雷長の声。

 私は艦橋左舷で雷跡を見たが、雷跡はマッ直ぐ私の方を向いている。 「もうこれはいかぬ」 と覚悟した。 「もう措置は終わった、天命を待つのみ」 いつドカンとくるかと待った、が何事もない。 雷跡は正しく艦橋下を通過した。 艦首はなおも回っている。 そこで初めて「助かった」と知った。

 敵の魚雷の調定深度が5m以上だったかな? あるいは魚雷の実体の方が船体より早く通過していたかな? これは私にとって「朝顔」における第3回目の命拾いであった。

 後の雷跡は見えなかった。 否あれだけの波浪であったら、自分に命中しそうな雷跡以外は、あっても見えないのが本当であろう。

 「朝顔」当直将校はこうして200名の乗員の命を救った後、流れ弾の雷跡通過後再び針路を元に戻しつつあった。

 再び船団中央部に、「ドカン!」、敵ながら全く見事な第2次攻撃。 今度は轟沈した2番船のすぐ後方の3番船である。

 そして轟沈ではなかった。 弾火薬を搭載していなかったのか、又は搭載していても魚雷の爆発が直ちに弾火薬に誘爆を起こさせなかったのであろう。 2番船の火炎に比べその直径も短く、その炎の色も薄く、また船体が水面上に厳然と浮かんでいてその船体が少しずつ沈下して行くのが見えた。

 船団左側の護衛艦のあるものは対潜攻撃を命ぜられ、あるものは被害船の乗員の救助を命ぜられたが、「朝顔」は船団を護衛しなから、この悪魔の住むような波浪荒れ狂う海面から一刻も早く立去ろうとして南東に進んだ。
(続く)

2009年02月23日

聖市夜話(第25話)船団轟沈・流れ弾警戒−2(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この被雷撃で残りの船団24隻はスッカリ混乱し、船団部隊指揮官より全船団奄美大島に避泊せよとの命令があり、全船は我れ先きに各船の最大速力をもって奄美大島に向かった。

 ところが「朝顔」と後1隻の護衛艦はその後の命により天明を待って被害現場に引き返し敵潜捜索中、「朝顔」は敵潜らしきものを探知し爆雷攻撃したところ、敵潜は多量の油を出したが、現場は水深深く(約400m以上と記憶)、爾後再探知不能で、油も一時的に大量に浮上したがあと浮上が認められない点よりみて、うまく逃げられたものと判断された。

 結局3番船の人員は若干が救助されたようであったが、轟沈した2番船は救助された者は皆無のようであった。

 船団はバラバラになって、15日1040前後に大島海狭着、護衛艦は船団の主力を護衛するもの、現場で被害船人員を救助するもの、「朝顔」及び他の1隻のように敵潜掃討を命ぜられるもの、という風に区分されてしまうと、全部でもわずか5隻しかないので、船団について行けるのは2隻にしかならない。

 ただしこの場合現場に残り敵潜掃討に、1隻でなく2隻をわずかな隻数の中から配せられたことは極めてありがたいことであって、指揮官の措置に敬服させられた。

 大体船団護衛中、電撃を受けた場合には、護衛艦の配備を次のように決めなければならない。

 第1 船団誘導
 第2 乗員救助 …… 一般に1隻
 第3 敵潜掃討

 そして第1項に沢山兵力を配分すれば、第3項が1隻となることが多かった。 しかしこの例のように、第3項に2隻を配すれば、敵潜は制圧されてしまって、船団を追及することもできず、したがって極端に言えば、別の敵潜さえなければ、第1項には少しの護衛艦で済むという結果になる。

 ただし理屈はこうであっても、現実に被害を受けると、船団部隊指揮官ですら勢い自身の周りの護衛艦を増しやすく、現場に1隻の護衛艦を残しやすいが、これは厳禁であってこのような派遣で逆に制された例は少なくない。

 先に 「恥ずかしき幸運」 で記述したように、「敵は待ち構えている」 という点を忘れてはならない。 この点第8班指揮官の兵力の区分は全く思いやりのある、兵理にかなったものであると思った。

 次に「朝顔」が翌日午前探知攻撃した敵潜は、油を大量に出し、それがパッ!と途絶えて、あと探知もできず油も出ないことから考え、敵潜は用意していた欺瞞用の重油を放出したのではないかと思われた。

 水深が幾ら深くても本当に出血させていたら、油が完全に途絶えることはないはずである。 この戦法は当時として敵ながら有力な工夫だと思った。

 私は「撃沈不確実」と報告したと記憶している。 そして、2月のときのような敵のポヤ助が少なくなり、このような強者が色々新しい戦法、兵器でくるのに、この旧二等が果たしてどこまで対抗してゆけるかと心細く感じた。

 敵の新戦法は、例えその実際の効果がまだ十分でなくとも、我が方の自信を強く脅迫する精神的な効果があった。

 したがって戦争期間が長引けば長引くほど、次々に新戦法、新兵器を繰り出して、敵を脅迫し続けることが大事であり、この場合慎重を期することなく、直ちに第一線にて試用してみるという拙速の方が貴ばれるように思われた。
(続く)

2009年02月24日

聖市夜話(第25話)船団轟沈・流れ弾警戒−2(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「朝顔」は現場を後にして大島海峡に向けた。 船団のほとんど全部は「朝顔」より前方を先行していた。

 酒井甲板士官が艦橋に上がってきて、低い声で私にコッソリ尋ねた。 「入港したら大島紬を買ってきます。 艦長は何本ですか?」

 私はこの転換の善さにビックリして、お相伴の意味で1本予約した。 これが終戦後食糧に困ったとき、本場の大島紬として良い値で売れたが、連続作戦行動を続ける護衛艦としては、敵潜を取り逃がしたとて長くクヨクヨすることなく、パッと気分を転換できる甲板士官のような性格が必要であった。 「鬼の甲板士官と大島紬」 を思い出すと今でも微笑を禁じ得ない。

 大島海峡では錨地がこの大船団を入れるには十分でなく、「朝顔」は後から入港して錨地を捜すのに苦労した。 入港して強い大腸に輝く陸上をながめると、そこには戦争の面影が全く認められず、バナナ、椰子が緑濃く繁り輝き平和境そのものであった。

 被害後統制が採れなくなったこの大船団も、大島海峡に集まって一息入れようやく人心地がついたようで、16日出発。

 この船団の中には基隆行きの「松浦丸」と「加茂丸」がいたので、途中「朝顔」は台湾北方で船団より分離しこの2隻を護衛し、17日には敵潜らしきものを探知攻撃したが効果不明、18日には浮流機雷1個を発見銃撃処分し、同日1647無事基隆に入港した。

 「朝顔」はこれで肩の荷を下ろしたので良いようなものの、残り船団22隻を残り護衛艦4隻で護衛して行かねばならないミ07船団の前途は、誠に危なっかしい思いであった。

 6月18日の夜は、翌朝の出港が早いので馴染みの船越別館に泊まらず、艦に帰って寝たようであったが、この台湾北端にある基隆港は、沖合海域で潮流がブツかり合って水蒸気を発するためか、いつ来ても曇天か細雨の日が多く、湿度も多くて何か陰惨な感じを与えた。

(原注) しかし、一歩汽車で台北に出ると、カラリと晴れた快晴であるという経験が支那事変中にあった。


 翌19日は0530基隆発、単独台湾海峡を南下し、次の船団の待つ高雄に2000入港した。

 次の予定は珍しく明後日出港である。 2晩続けて安眠できる有り難さに、艦長以下全乗員の心は嬉しさが次々に込み上げてどうしようもないくらいであった。

 これで「朝顔」の護衛する船団に被害なしという記録に終止符が打たれたが、あの荒浪狂う暗夜に、見事大型船2隻を仕止めた敵潜水艦長の腕にはホトホトに敬服した。 それと同時に敵潜の装備も着実に改善されつつあることが想像された。
(続く)

2009年02月25日

聖市夜話(第25話)船団轟沈・流れ弾警戒−2(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 もし私がこの26隻の船団部隊指揮官であったなら、いかなる方策が採れたであろうかと仮定するとき、護衛艦がわずか5隻という点がやはり最大の難点であるが、この難点のゆえに苦しまぎれに計画できそうな方策は次のとおりであろう。

1.門司より北上し、南鮮狭水道を通り、揚子江沖の花鳥山内部に1泊し、中国沿岸の島の内側を南下し、馬公南側を通って、ひとまず高雄に入れる。
2隻の基隆行きは、高雄沖で分離し台湾海峡を北上させ、護衛艦3隻(まま)を付ける。

2.狭水道通過に応ずるよう、26隻を2分し、第1、第2船団各13隻とし、護衛艦各2隻を前後に配し、船団中間に1隻を配する。

3.護衛艦不足の理由で、行動海面最寄りの航空基地に協力を依頼し、最小限水偵1機ずつの対潜哨戒でさえも頼む。


 というようなことになりそうである。

 上記中上海沖に一泊ということは大事な要素であって、各艦各船の注意力を最高に持続させるためには有効であると、私は思っている。

 この場合、各護衛艦の行動は、船団からの定位置同速の「張りつけ」方式ではなく、各海面の地形地物海象天象に応ずるような、敵の出そうなところに対する「攪乱」方式を私は要求する。 このためには、船団会議に先立って約3時間の護衛艦会議を持つことも、絶対に必要とする。

 船団隻数多く護衛艦少ない場合には、「張りつけ」方式は危険であって、現有1隻を2隻分にも3隻分にも動かすためには「攪乱」方式の道しか残されていない、と私は信じている。

 そしてこの19年6月15日の被害は、「朝顔」にとって開戦後の護衛開始以来の第76船団目に起こった初めての被害であって、私にとっても「朝顔」着任以来第26船団目に起こった初の黒星であった。

 幹部の中には、「うちに指揮させてくれたら、「朝顔」船団無被害の記録を続けられたであろうに」 と悔しがる向きもいたが、私は大勢の赴くところ、いつかはくるものと思っていたものが、ついにやってきた。 今後は毎船団ごとに被害を出すかもしれない、と暗い前途を案じたのであった。

(原注) 2番船轟沈の時私が受けたショックは、空間を伝わってきたものというよりも、海表面(水)を伝わってきたもののようであって、瞬時心臓が全周より強い力で圧迫され、これが徐々に解放され終わるまで、約5〜6秒はかかったような感じであった。
3番船のショックは、前者に比べ約1/3位で、大したこともなく、すぐ声も出た。


(第25話終)

2009年02月26日

聖市夜話(第26話) 三亜の白砂(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 前の行動(19年6月中旬)で、平素気の付いたことに対策を講じておくと早速実戦に役立つことを現実に教えられた私は、このころ流れ弾警戒のほかに、「順番号単縦陣厳禁」 という項目に注目していた。 そして何かほかに代わるべき良い隊形を案出したいと色々に考えを巡らしていた。

 従来海軍士官は、2隻以上の指揮官になると、自分の部下兵力を順番号単縦陣に並べては自ら得意になっていたので、この平時の癖は戦時になってもつい出やすく、隊形混乱の後などこの隊形をついとりやすいものであったが、この隊形は潜没中の敵潜に、「サアー撃の下に2〜3隻撃沈してください」 という、格好の隊形であり、およそ敵潜潜在海面では厳に憤しまねばならない隊形であった。

 もちろん、この隊形は狭視界内の混乱時などに、部下兵力をまとめるには最も容易かつ適切なものであるが、それは狭視界時に厳重に限定されなければならないものであって、安易に使用することは、隊全滅のもとであった。

 それで私がこれに代わる隊形を当時考えていた案は、艦の長さ約80mの4隻の場合として、

 第1隊形
  (1) 常距離 大約300〜400m
  (2) 2番艦は隊針路より左に約100m寄せる
  (3) 3番艦は右に約100m寄せる
  (4) 4番艦は隊針路上1番艦後方900mないし1200m
  (5) 2、3番艦も1番艦よりの距離を一定に守ってはいけない。 1番艦と4番艦の
     間に順序に占位していればよい。

 第2隊形
  第1隊形における2、3番艦を左右逆にしたもの

 というようなものであって、すなわち第1隊形は雷跡右即応、第2隊形は雷跡左即応という姿勢であった。

 また順番号単縦陣では、一番艦の方位距離を常に一定に守ることに努力したが、この案では一定に守ることはかえって禁じ、方位距離には一定の許容範囲を与え、方位距離に注意を集中する代わりに、敵の雷跡、発射音に全神経を集中させようとするものであった。

(原注) その後暫くして(多分19年7月頃)、マニラ沖で海防艦3〜4隻の一隊が、敵潜の第1撃で2隻斃され、ついで第2撃で残り1隻が斃されたことがあったように聞き、私は「朝顔」艦橋で先任将校に次のように語ったような記憶がある。

     「もはやイ36は、戦則でも作って全軍にこのことを徹底させなければならない。 近頃の敵潜は急速に功妙大胆になっているぞ。」


 この基準隊形案は船団部隊指揮官としての考えであったが、次に艦長としてこの頃特に気が付いたことは、「艦長の正眼の構え」 であった。

 艦長は艦橋で大体右舷か左舷に席が決められていた。 そうなると勢いその席の在り方で艦長自身の体の姿勢が右か左に片寄りやすいものであって、例えばいつも窓に左腕の肱を掛ける艦長は、心の姿勢も左に暗く右に明るくなりやすい。 この左肱のような習慣こそ恐ろしいものと発見したのである。

 以後私は、折り椅子の中で半ば仮眠するときにも、両脚両腕を左右平均に片寄らぬように注意し、暗夜艦橋見張員の誰が声を立てても、両側の耳が同じ感度で受け止め、私の心が左右いずれにも平均して働くよう注意することに努めた。 すなわちこれは剣道でいう 「正眼の構え」 であった。
(続く)