2009年06月28日

聖市夜話(第36話) 機雷の関門を突破(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 やがて最後の難所である部埼の真下に迫り、ここを右へ回ればまずは関門の虎口を脱し得ると思った瞬間、左斜前約50メートルで機雷1発爆発、次いで約1秒後左正横約300メートルに機雷爆発、更に約1秒後第3発目は左正横約1キロ以上の海面に高く水柱を上げ私たちの肝を冷させた。

 当時通狭する船は「朝顔」以外に見られなかったから、これら3発は最初の第1発が「朝顔」船体磁気によるもので、第2発は第1発爆発時の水圧か音響によるもので、第3発は距離差からみて第2発爆発時の音響(又は水圧)によるものと思われた。

 しかしこの第1発すらも「朝顔」には何らの被害も与えなかった。

 また従来の爆雷戦で受けていた海底60〜120メートルから持ち上げるように受ける衝撃に比べれば、海峡内の浅深度で爆発した第1発の爆発時の水圧は、垂直方向の上空に逃げてしまって、距離50メートル以上離れていると船体を下から持ち上げる効果も爆雷戦時に比べて弱いことを知った。

 これで遂に 「関門突破成功!」 と、私は喜びに堪えず部埼を見上げた。 部埼また「朝顔」の呉回航を祝福してくれているかのようであった。

 以後なるべく九州寄りに南下し姫島南方の水深の深い水道を、「最後の高速」 とばかりに約26ノットで走ったが、この速力も約10ノット前後の目標に調整してあると推定された敵機雷の性能に対し、その裏をかく計算から出たものであった。

 姫島南方を通過し、遥か北の方向に「満州丸」沈没位置を望み、同船の健気な最後の善戦を回想してその冥福を祈った。

 更に安下庄沖に差し掛かり、丁型駆逐艦の1隊が高速訓練中であるのを見たが、それは19戦隊だったかの記憶がある。 そして油のない現在いかなる特別の任務を有する部隊であろうかと思った。

 後広島湾に入り関門海峡のような敵機雷に対する危険を感ずることもなく、別に工夫することもなく、日没前に一気に呉に入港してしまった。

 これで関門も呉方面もともに航行禁止中に呉回航という私の念願は無事達成されたのであったが、この最後の冒険は敵の内海西部に対する機雷攻勢を如実に私たちに教え、後々まで強く印象に残った。

 翌5月21日には呉を出て沖に転錨しているが、これは敵機来襲に備えたものであろう。 そして翌22日には呉港内に入り31日まで港内にいた。 この間25日には軍隊区分で呉鎮部隊呉防備戦隊に編入されている。 また同日には敵機が呉工廠に投弾している。

 私は先任将校、甲板士官に命じて次のような内海西部の新任務に対する準備を進めた。

1.付近の島に防空監視所を建てるから、その建築用木材
2.上記付近に畑を耕作して野菜を自給するから、農具と種子
3.上記の島の海岸で漁労をするので、漁網その他の漁具

 私は新任務に就いたら、状況許す範囲でなるべく多数の乗員を輪番陸上に上げて、護衛中の疲労を一挙に回復させたいと思ったが、甲板士官は私の意をよく察して毎日軍需部と交渉し、私の予想以上の物資を続々と艦に搭載した。
(続く)

2009年06月27日

聖市夜話(第36話) 機雷の関門を突破(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は火中の栗を拾うようなこの冒険を開始するに当たって、まず敵情(関門海峡最狭部の現状)を確かめようと思い、5月16日から19日の間の某日先任将校、航海長などを同伴し、司令部の車を借りて門司埼から部埼までの水路を陸上より見下ろすために視察に出掛けた。

 そして南水道辺りで動くに動かれず錨泊している輸送艦などの一群をよく見ることができ、私が現場で感じたことは次の三つであった。

1. 最狭部で水深深く流速の強い所は大自然による掃海済みと見て良かろう。

2. 門司埼から部埼の間で錨泊艦船群の海面は、その錨鎖振れ回り圏内なら船体による掃海済みと見なして通過できよう。

3. 前項1と2以外の海面は波打ち際になるべく近い所が波打ち際の高波と干満の差による掃海済みと見なして通過できよう。


 この頃は、従来の敵潜出没海面の代わりに敵機雷敷設海面という海図ができていて、航海長が丹念に電報により記入していたが、周防灘の中央航路で姫島北方には「満州丸」の悲しい沈没位置が記入されていた。

 そして周防灘全般の敵敷設の傾向は中央航路以北の海面に密であり、以南は稀薄、かつ姫島南方は水深が深いので、私は部埼通過後は九州東岸寄りに通過し姫島南方を突破してやろうと考えた。

 いよいよ決行の5月20日朝、懐かしの門司を後にして出港したが、海峡を通る大型船は「朝顔」の他1隻とてなく、関門海峡は依然として航行禁止中であって、解除される見込みも立っていなかった。

 私は機関長に命じて運転に必要な最小限度の配員を機関部に配置し、その他の者はなるべく上甲板上に上げて触雷に備えた。

 門司港内より門司埼を通り、最狭最深部は案の定何事もなく突破、右に折れて南水道に入る。 私は最も近い錨泊中の輸送艦に向けた。

 相手の当直下士官は咄嗟に気を利かせて、「左舷横付け用意!」 を令して回るのが見えた。 私は艦橋から手を振って 「横付けはしない通過するだけだ」 と叫んだ。 両艦の舷側の距離約15メートル、上甲板以上に上がっていた「朝顔」乗員は、私の最後の離れ業を固唾を飲んで眺めた。

 次々に錨泊艦の舷側スレスレを通り、ついに錨泊艦がいなくなり、右側に打ち上げる水際と前方に最後の難所である部埼が高くに見えた。

 私は敢然として水際に向け、水際約30〜50メートルに突っ込み、波打ち際と平行に進んだが、この時は三亜海岸座礁の苦い体験が急に強い自信となって湧き出てきて、苦労はやはりいつの日にか役立つことを知った。

 そして水際の干満の差と逆巻く波こそ私の狙う天然の掃海であったから、私は水深の許す限り波打ち際の近くを通らねばならなかった。
(続く)

2009年06月26日

聖市夜話(第36話) 機雷の関門を突破(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 船団が門司に着いたその直後、我らの僚船「満州丸」は船体損傷と搭載物資のため余程先を急いだのであろう、瀬戸内海を単独東航中、姫島北方の中央航路上で触雷し遂に沈没したことを司令部で聞いた。

 「「満洲丸」だけは万難を排しても門司に入れたい」 と泗礁山泊地で決心した私を始め朝顔乗員は、泣くにも泣けない落胆に襲われ、我々の最後の必死の行動よりも、敵の功勢の方が遥かに先手をとっていることを如実に思い知らされた。

 当時の関門海峡は3〜4日に1回ぐらいの敵B29の機雷投下を受けていた。 そして掃海部隊が掃海し終わらぬうちに次の機雷投下が行われ、通航禁止が解除される頃にはまた敵機雷が投下されていたので、多数の艦船は動くに動かれず関門に釘付け状態であった。

 そして20年2月15日から連合艦隊第1駆逐隊という軍隊区分にあった「朝顔」は、5月8日海上護衛総司令部部隊に変更されたが、前の第1駆逐隊といっても別に隊を編成して走ったこともなく有名無実の軍隊区分のように感じられた。

 次いで12日いよいよ呉鎮護衛部隊が発令され、翌13日には呉防備戦隊が発令され、門司から呉に行かねばならぬことが現実に近くなった。

 この頃敵の夜間の機雷投下に加えて昼間の小型機の侵入もあり、10日12日13日には敵空襲の恐れによって港外(六連と記憶している)に避泊し即日帰投を繰り返し、14日には港外(六連)に1泊して翌日門司に帰投している。

 某日には門司岸壁横付けのまま敵機を迎え泊地援護のため煤煙幕を展張したこともあり、また夜間は大型機の投弾によって横付岸壁付近の民家に火災を生じ、近くの海軍宿舎に寝ていた乗員が駆け足で帰艦するということもあった。

 私は今後関門方面の通航許可の出る見込みは絶望的であると判断した。 そして呉鎮守府に電話してみたら、呉方面の通航も同じく絶望的であることを知った。

 局地指揮官の通航許可が出なければ私達在泊艦船は出港することができなかった。 しかも許可の出る見込みは絶望的であったから、関門を墓場と考えてじっと耐え忍び運命の神に身を委ねるのが当然であったかもしれない。

 しかし「朝顔」の張り詰めた士気は、「このままおめおめと爆撃目標になってたまるか」 という強い気迫と、「敵の攻撃には必ず盲点があるはず」 という百戦練磨の経験と、また呉防備戦隊編入という1段次元が高いと思われる命令があった。

 また私は「右にせんか左にせんか」 と迷うとき、積極的に打って出ることが武人の道であるという葉隠れの教訓にも似た信念を抱いていた。

 実際この場合私は通航禁止を理由として、たとい終戦まで門司に停泊を続けていたとしても、私は何ら責任を問われることはなかったであろう。
(続く)

2009年06月25日

聖市夜話(第36話) 機雷の関門を突破(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

  20年5月2日船団門司帰着の日、遂に「朝顔」の長い護衛任務はその終結を言い渡されるに至った。

 振り返ってみると、開戦時既に艦齢18年であった「朝顔」は、艦長杉原与四郎(57期)少佐指揮の下に16年12月6日南鮮の鎮海を出撃し、暫くは対潜対空哨戒に任じ、17年1月から4月下旬までの哨戒の間に時々合計4回の護衛に従事した。

 終わって艦長大西勇治(57期)少佐の時代となるや護衛行動は連続継続し合計50回の行動を果たしている。

 次いで18年10月下旬私の時代となってから合計44回の護衛を果たしたから、開戦以来の総護衛回数は98回に達していた。

 大正12年5月10日石川島造船所にて竣工し、当時36ノットの水雷戦隊の花形として活躍した「朝顔」も、艦齢既に今や23年であった。 よくぞ戦いたり。 よくぞ黙々として長き苦難に耐えたり。

 今や同型の僚艦は1隻もなく祖国の前途は終末に迫っていた。 私は「朝顔」を名馬「朝顔」と呼びたい。 私は「朝顔」の馬首をたたき涙のうちにその抜群の功績を賞し、強風怒涛の中の追敵萬里の苦労をねぎらうのであった。

 また 「我艦を守り、艦また我を守る」 ということは朝顔乗員の信念であったが、「朝顔」は遺憾なく我々のこの信念に応えてくれたのであった。 朝顔乗員は名馬「朝顔」を生命の恩人として感謝し、この心は乗員等しく生ある限り忘れることはできないであろう。

 私は戦時中、印度洋の水雷艇「雁」時代も、またこの「朝顔」時代も、入港して暇があればよく馬に乗った。 その鞍数の思い出は彼南、照南から始まって門司まで続いている。 そして人馬一体の境地は、対敵行動中の瞬時も油断のできない駆逐艦乗りの境地に極めて似ていることを知ったのであった。

 これから瀬戸内海に入る、ゆっくりなったら鞍を降ろして背中の汗をぬぐってやりたい。 また大好きな人参の新鮮なものを毎日食べさせてやりたい。

 私は横付岸壁から艦に入った。 案の定先任将校以下の乗員は次の任務いかんと私の帰艦を待ちわびていた。 私は総員集合を命じて「朝顔」の新しい任務と行動を話したが、総員の気持は 「よくぞ戦い尽くした」 という、各自が己自身に言い聞かせる大きな誇りで一杯であった。

 そして瀬戸内海は周囲が皆日本であって、水中には1隻の敵潜もなく、ただ空からくる敵機と、これが落とす機雷だけしかなかった。 これなら常時敵雷跡に神経をすり減らした今までに比べ全く極楽であった。 万一たとい爆弾命中しても、あるいは触雷しても、懐かしい瀬戸内の水は温く岸まで泳ぎ着くのに具合いが良さそうに思えた。

 この大きな心の寛ぎは、今までよく戦った乗員に対する一番大きな無形の御褒美のようであった。 長い間張り詰めた神経で肩の凝った重荷もなくなり、新しい呉鎮部隊の任務が楽しく想像されるのであったが、これはもちろん祖国の将来を心配する心とは表裏のものであった。
(続く)

2009年06月24日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その9)

著 : 森 栄(海兵63期)

 さてこの後、船団は5月1日油谷湾に仮泊し、翌5月2日同地発六達着、同地で船団部隊の編成を解き、「朝顔」などの護衛艦は門司に入港したが、案の定4番船は無事先に入港していた。

 私は直ちに上陸して岸壁にある第1海上護衛艦隊司令部に行き、長官K中将に 「シモ03船団護衛終了報告」 を行った。 その直後長官は私に言った。

 「僕は「朝顔」船団は全滅するかと思ったヨ」(よく全船帰ってきたネーという意味)

 私は心の中で

 「そんなに心配してくれるぐらいなら、まず「朝顔」船団に無傷の海防艦2隻ぐらいくれてもよかったろうに」

 と思いながら長官の顔を見上げた。

 私としては特に貴重物資搭載の半身不随の「満州丸」を門司に入れ終わったことを最も満足して、最も誇りとしていたのであったが、長官は「満州丸」については何ともいわなかった。

 幕僚室に戻ると長官の意を体した幕僚たちが私の周りに集まり、護衛成功を口々に祝ってくれた。 通信参謀らしい人が私に言った。

 「全軍に長官が電報される。 君が一番よく知っているだろうから、ひとつ電文を起案してみてくれ。」

 私は、第1回の対空戦闘から第2回目の浮上潜水艦までの時間を数えながら、「1昼夜に満たぬ間に敵機敵潜と交戦すること11回、よく全船を護衛したるは見事なり」 というような電文を起案したが、御臨終近い祖国にとって、この電報にいかなる価値があろうかと私の心は傷んだ。

 それから先任参謀らしい人が言った (実際私達は門司の司令部が新編されていても、長官以下参謀の顔もよく知らずに、ただ走り回るだけであった)、

 「日本の油はいよいよ残り少なくなった。 以後タービンの護衛艦は護衛に使わない方針となった。 「朝顔」は備讃の瀬戸に回航し、B29投下の機雷監視に当たれ。 近く呉鎮部隊に編入される予定である。」

 私は力なく承知し、心の中で 「護衛される船もなくなりましたねー」 と寂しく呟いた。

 いつもなら、任務報告の後次の護衛任務を与えられ、新しい責任に張り切って艦に帰るのが私の仕事であったが、私はこの先任参謀の話を聞き、護衛艦「朝顔」の御臨終が祖国の御臨終よりも早くやってきたことを知った。

 しかも「朝顔」の御臨終は敵潜の雷撃によるものでも敵機の爆弾によるものでもなく、「朝顔」を動かすための重油によるものであった。

 それまで長い間護衛行動中の私たちの艦橋における話題は、

     1.祖国の戦争放棄か
     2.「朝顔」の轟沈か撃沈か
     3.我が身の健康の破綻か

 のいずれが早く来るであろかに焦点があったが、油によって動けなくなることは遂にだれも予想していなかったのであった。

 私は司令部を出てトボトボと岸壁を歩いて帰り、「朝顔」の横付している岸壁の上に立ち止まり、「朝顔」の艦首から艦尾までを見渡し、赤銹の出掛かっている船体を見て、心中悔し涙を禁ずることができなかった。
(第35話終)

2009年06月13日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 かくして1昼夜にも満たぬ間に、合計11回の戦闘を成し遂げ、黄海南部を横断した我が船団は、大黒山群島より南鮮の多島海に入り、仮称「南鮮狭水道」を通って東進した。

 私はこのまま引き続き門司に入れ込むことも考えたが、各船の中には敵機の爆撃によって舵機を壊され応急操舵をしているもの、また船体の各部を壊され応急処置のものあり、「満州丸」のごときは最初から常時排水作業を続けていたし、これらの全艦船の戦死負傷者たちは恐らく十分な手当を受けていないだろうと思った。

 また久し振りの交戦11回で乗員の疲労も少なくなかったものと思われ、かつ最後に残る対馬海峡も、従来は我が縄張り内の海面で比較的に安心できる海面であったが、今や沖縄に迫り勝ちに乗じた敵軍が2〜3隻からなる1群の敵潜を配備しているかもしれないという公算も考えられた。

 以上の理由から今更1日を争うことを止め、最後の慎重を期し、ここで戦死・負傷者、船体の処置をなし、乗員の疲労を取り戻して対馬海峡突破の英気を養うため、4月29日巨済島泊地に仮泊を命じた。

 そして数少ない軍医長に命じて全艦船を巡回させ負傷者の処置を行わせた。 各艦船も損傷部を修理し船内を整理し、ここでは敵機も侵入してこなかったので一晩中ゆっくり安眠して療労を回復することができた。

 私もゆっくりなって11回の交戦経過を振り返ってみると、あの2隻の敵潜のうちの1隻が、もし電探によって我が船団の直前でなく、斜前方の好射点に占位することに成功し、電探による多数魚雷の公算射法を決行していたならば、極度に縦横距離を詰めて結束していた我が船団部隊は、一挙にその約半数を失ない、大混乱に陥っていたであろうと想像され、首筋に寒さを覚えた。

 また敵潜がこの挙に出なかったのは、2隻の敵潜の配備点が相互に近過ぎて、両艦ともに味方討ちを警戒した結果ではないか、とも思えた。

 ということならば、2隻の敵潜の虎口より我が船団を護ってくれた第1の神は、やはり黄海の濃霧、約500メートルにも達しなかった狭視界であったものと思えた。

 仮泊1夜の翌30日巨済島泊地発、最後の海面である対馬海峡に乗り出したところ、霧の黄海とは打って変わって強風の荒天であった。

 私は対馬海峡の中央部を通り過ぎ、「今度の護衛も全船を率いて大過なく終わるか」 という感激にふけりながら後方の船団を見た。 ところが1隻足りない。 一番小型で約900トンの4番船がいない。 私はビックリして当直員に探させたが、やはり行方不明である。 シマッタ! これでは「全船」にはならない。

 大体行動中には、信号員長とか見張員が時々隻数を数えて 「船団異常なし」 を届けるし、落伍するものあればすぐ届けるものであるから、急に姿を消すということはない。

 巨済島を出たときは確かに4隻いた。 さては仮泊地から釜山沖辺りまで東航するころ、この船長道慣れた対馬付近に来たので、島の影でも利用し無断列外に出て先行したのではあるまいか、と想像された。 また万一敵からやられているなら、何か爆発音が聞えたはずである。

 また総じて1,000トン以下ぐらいの船長の中にはこんな類の不埒な船長が時々いることも確かであったが、総合して当方側も緊張を欠いていることの証拠であると思われた。 私は当直員を戒めてから言った、「もう余り心配するな、大抵先回りして門司に入っているだろう。」
(続く)

2009年06月12日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 果然敵潜が出現した。 それは驚くべきことに浮上状態、「朝顔」の前方1キロ弱。 恐らく電探で我が船団を捕捉し前方針路上に待機し、船団が視界内に入るのを待っていたのであろう。 しかもこれを発見したのは「朝顔」の艦橋見張りであって、水測兵器でもなかった。

 私は後方船団に対し、2キロ信号燈を敵前であることを無視して派手に使い、左90度緊急斉動を令すると同時に、敵潜司令塔目掛けて緊急増速し、艦首衝撃で一挙に撃沈しようとした。

 このときの私の気持は、敵の機先を制し得た喜びで一杯であって、むしろ我が姿をより大きく派手に敵潜に見せ、その幻惑によって背後にある味方船団を隠し、敵潜の気力を水面下に圧入しようというものであって、剣道における大上段の構えであった。

 浮上して漂泊していた敵潜は、濃霧の中から魚雷のように自分に向かって、高速で直進してくる「朝顔」にびっくりしたらしい、急速潜航して危いところでようやく「朝顔」の艦首衝撃を避けたが、その直後「朝顔」の爆雷数発を至近距離に受け、到底船団攻撃の余裕などなかったものと想像された。

 私は戦後度々この敵潜が、どうして潜望鏡深度で待機していなかったのか、と不思議に思うのであったが、こんなことがあるから、戦闘の勝敗は理屈通りに行かないのであろう。 この敵潜の待機位置は正に船団針路上であったが、濃霧に依存し浮上していたことが致命的なミスであった。

 「朝顔」の後方にいた船団は、上手に緊急左90度斉動をやった。 「朝顔」は敵潜頭上に数発の爆雷を投下し終わり直ちに船団に接近し、しばらく北上の後また斉動をやって元の針路に向け、再び船団前方約1キロに占位した。

 そして約2時間も走ったであろうか、またもや「朝顔」の艦橋見張員は前方視界限度(1キロ弱)に浮上潜水艦を発見し、「朝顔」は約2時間前と同じことを繰り返し、猛牛のように敵潜に突入し、これも水中に圧入してしまった。

 この2時間ごとに現れた敵潜が、同一艦であったか、別々の艦であったかは敵に聞いてみないと分からないが、私は時間差からみて後者であると憩像している。

 しかも同じ隊に属する2艦が、我が船団を反復攻撃した敵機の連絡によって、南鮮の多島海面に入る船団の前路に計画的に南北に展開して待機していたものと思われるが、猛牛のような我が「朝顔」の出現に、これらの敵潜もさぞビックリしたことであろう。

 それにしても、極度の緊縮隊形から、2回も緊急大角度斉動をやってのけて、なおかつ衝突事故も起こさなかったことは、さすがに結束の最高の船団であった。
(続く)

2009年06月11日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は味方船団を一連の対空砲台とみて、なるべく砲台間隔を縮めて、我が砲台群の 「爆音を狙う射弾」 の命中公算を高めて、例え撃墜することができずとも、敵機を極度に身近に引き寄せて、多数の弾幕を浴びせて敵搭乗員の心胆を寒からしめてやろう、と企図した。

 敵機は電探限度以内に入ると、船団の実体を見たら爆撃しようと狙ったが、濃霧で船団の実体が見えない。 それより早く我が方には爆音が耳に入り、各艦船が一斉に爆音目掛けて射ち上げる。 敵機は一旦逃げてまた電探で捜して船団に接近してくると、また下から射ち上げる。 敵はまた爆撃の機会を失う。 これは世にも奇妙な戦闘となった。

 当時の視界は約250メートルないし300メートルであって、500メートルにも達しなかったことがこの奇妙な戦闘を産んだのであった。

 以上を数回繰り返すうち、敵機は交代時間の終わりになると、船団上空に来て、船団の実体を見ずして爆弾全部を落として沖縄の方向に去った。

 私は各艦船の被害状況を調べた。 また「朝顔」自身を船団に接近させて船団構距離が250ないし300メートルであることを確認し、各船長の真剣な結束振りに意を強くし、この戦闘を可能ならしめている各船長の努力に感謝したくなる思いにすらなった。

 実際このように舷々相摩するような、ちょっと操船を誤れば互いに触衝するような芸当をやってくれた船団は、この船団だけであった。

 1機が去るや暫く次の1機がやってきたが、どれもこれも同機種のようであって、また接近の方法、投弾の方法も略同様であって、敵機に大した能のないことが明らかになるや、我が方の士気はますます揚がり、結束はいよいよ上手になり、発砲の時機も功妙となったが、どんな下手な敵が落とした爆弾でも、必ず海面に落ちてくるという物理の原則からだけは免れることができなかった。

 敵機が当直交代の前に落とす爆弾で、各船に被害が散発し、負傷戦死者も出てきた。 舵機をやられ応急操舵に換えたという報告も来た。 私は敵投弾後の各船の報告に身を切られるような思いであった。

 私はこの無能な敵機の第1、第2機を迎えて考えた。

 「敵基地は近い。 それに敵艦隊は全兵力を沖縄に集中している。 故に飛行機効果なしと見たら必ずや潜水艦を派遣するであろう。」

 私は船団部隊に対潜警戒を厳にするように下命した。 大体対空関係はまず爆音を発しなから攻めてくるので応待しやすいものであったが、対潜関係は無警告のうちに突如として来るものであったから、とくに長時間にわたって対空戦闘を続けている者にとっては、この警告が必要であった。

 しかし、敵潜はなかなかに出現しなかった。 その間敵機は次々に交代しながら来襲し、ついに単機あて9回を数えこの間に我が方の戦死負傷は合計30名を数えるに至ったと記憶している。

 かくして対空戦闘を濃霧の中に繰り返し、後数時間で大黒山群島に達しようという地点に達した。 「朝顔」は敵潜との咄嗟会敵に備え、船団前方約1キロを走り、見張・探信・聴音の全神経を集中していた。
(続く)

2009年05月13日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 かくして「朝顔」としては約2週間の泗礁山警戒停泊を終え、4月26日「シモ03船団」を指揮して懐かしの泊地を出た。 泊地の中は文字通り空ッポになった。

 いよいよこれが最後の護衛になるような予感がした。 そして祖国の窮状に鑑み最少限度「満州丸」だけでも門司に安全に入れなければならない責任を感じ、泗礁山の黒々とした山頂を仰ぎ見ながら心の中に宣言した。

「在天の神々よ、御照覧あれ。 「朝顔」駆逐艦長海軍少佐森栄、ただ今より秘術を尽くしてシモ03船団を護衛せんとす。」

 出港後も102戦隊の兵力配分には依然として理解できない不満が残った。 これは公憤に属するものか、はたまた私怨に属するものか、私には分からなかったが、どちらにせよ船団部隊指揮官がこのような意識を抱いて新たに作戦行動を起こすことは明らかに不具合なことであった。

 私は忘れることに努めた。 そしてひたすら上海至門司間の最終船団の護衛の成功を誓った。 また同時にイ36部隊で長らく指導を受けたU中佐の目の前で、実地実物によりイ36生き残りの優秀艦の腕前をお目に掛けようと思った。

convoy_shimo03_s.jpg

 泊地より北上し、揚子江口の流れを横断したか、低速な船団は見る見る長江の泥水に押し流され、針路修正を35度ないし45度とらねばならなかった。

 この長江沖の横流れが終わった頃、春の東海独特の霧が徐々に発生してきた。 もちろん海面はベタ凪である。

 船団は更に北上を続け沖縄から1マイルでも離れることを計った。 泗礁山泊地が沖縄から約385マイルであったが、私は一刻も早くまず沖縄500マイル圏外に出て、その後で黄海南部を横断して南鮮の南西部に取っ付く計画であった。

 長江口の横断を終わって更に北上し、27日の夜に入ってから、小黒山鳥の同緯度辺りで針路を東に祈り、大黒山群島に向けたように記憶している。 この変針点が沖縄から約540マイルで、後沖縄520マイル圏スレスレぐらいで大黒山群島に至る航路であった。

 28日には霧がますます濃くなってきたので、私はこれこそ天の恵みとみて船団の縦横距離を航行に安全な範囲で一段と縮め、護衛艦と船団の距離も縮めた。 そして咄嗟会敵に備えて「朝顔」が先頭、この後に2列の船団が続き、「朝顔」以外の護衛艦は船団左右と後方に占任させた。

 東の針路に入ってから、果然沖縄からと思われる敵機1機が船団周辺及び直上に触接した。 その爆音と移動速度からみて双発飛行艇のPB2Yではないかと推定された。 この機は低速な日本船団の触接にも適当な機種であった。

 そして敵さんは毎晩の泗礁山泊地偵察の結果、26日以後泊地が空ッポになっているのを知り、「それ探し出せ」 とばかりに長江沖の濃霧中を電探で捜索し、ようやく我が直上に達したものと推定された。

 そして敵機の行動を爆音によって観察すると、船団からある距離までは電探が効いているが、余り船団に近くなると電探が効かないのでないか、と推定された。
(続く)

2009年05月12日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 102戦隊が「朝顔」船団とあらかじめよく作戦打合せをやり、まず「朝顔」船団を先に送り出し、「朝顔」船団の沖縄側に102戦隊が占位し、「朝顔」船団の間接護衛をなしつつ南鮮に移動するならまだ話は別であるが、102戦隊のやり方は上記の反対で全く他人のように冷いものであった。 即ち、

1. 小型で足の速い無傷な船だけ受持つ

2. 麾下個有兵力の艦でも、故障海防檻は「朝顔」船団にくれてやる

3. 間接的に「朝顔」船団を護衛してやる配慮全くなく、同じ方向に行動するのに何らの作戦打合せもない


 以上のような状況 −余りにも情けない102戦隊のやり方− からみて、私は102戦隊はあるいは何か別の任務を有するのではないかと想像してみたが、これに関しては何らの説明もなかった。

 さて、今度は「朝顔」船団の対策を私は考えなければならなかった。 泊地内の大兵力であった102戦隊が出た後、泊地内はすっかり物寂しくなった。 「捨て去られた」 という強い感じを「満州丸」以下各船が覚えたことと想像された。 特に南方から命からがら長途北上してきた3隻にとっては、いかなる感慨であったろうか。

 私はまず船団会議を「朝顔」士官室で開催した。 案の定、護衛部隊に対する各船の期待度は今までかつて見られなかったように強烈であった。 私は火に油を注ぐように各船長に話した。

1. 祖国は目の前にある、長駆敵の攻撃に耐えてきた各船も、後一息のがんばりで祖国に足を踏むことができる。

2. 「朝顔」以下の護衛部隊は、歴戦の強者揃いであり、102戦隊のように粒こそ揃ってはいないが各船の期待に十分答え得るものである。心配はいらない。

3. 敵艦隊は近々500マイルの沖縄周辺にあり、我が船団を全滅させようとして連続猛烈な攻撃を加えてくることが予想される。

4. 以上の状況において、前途の困難を突破する道は、一に船団部隊の「結束」である。


 私は列席している各艦及び各船の代表者たちの真剣な姿を見て、「これは行ける」 と感じた。 今まで時々みられたような 「頼りない」 ような者は一人もいないように思われた。

 出発の前日か当日であったか記憶が明らかでないが、印度洋の水雷艇「雁」でともに戦ってきた第81号海防鑑S艦長が私のところに飛び込んできた。 「内火艇(艇員2名)を出したところ、濃霧のため行方不明となった」 とのことであった。

 私は同艦長がかつて先任将校として、未熟の私を献身的に補佐してくれた恩義に報いることができるのはこの時であるとばかりに張り切って、全護衛艦に至急出港準備を令した。 ボヤボヤしていると島に漂着した艇員が、敵性住民に殺される恐れがあったからである。

 しかしやがて各鑑の 「出港準備よし」 の報告が「朝顔」に来だした頃、幸いにも霧が薄くなり内火艇は無事海防艦に帰着し、全艦の出動を見ずに終わった。

 同艦はこれより前、102戦隊の命で夜間泊地周辺哨戒中、敵機と交戦し操舵装置に爆弾を受け、鋭意艦内工作で修理中であったが、このため102戦隊より「朝顔」船団へ回されたのであったが、私は同鑑が今後の護衛中更に困難な状況に遭遇することを予想し、思い切って舟山島定海の工作所に回航修理を命じたと記憶している。 このとき護衛艦1隻を割愛することは大きな決心を要した印象がいまだに残っている。

 なお「朝顔」船団の護衛艦として加わった第20号駆潜艇は、4月18日香港発、24日泗礁山に着いたばかりであった。
(続く)

2009年05月11日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 次に護衛艦に関しては102戦隊側は「鹿島」のほか海防艦の中で被害のないものだけ約8隻ぐらいだったように記憶している。 そして102戦隊出港日の早朝哨戒任務中被爆した海防艦は「朝顔」船団に入れられたようであった。

 一方貨物船の主力を与えられた「朝顔」船団側の護衛艦は、佐世保から同行の「朝顔」、哨102のほか、海防艦1隻と第20号駆潜艇(艇長的場虎之助)の計4隻だったような記憶がある。

 102戦隊は中速の小型貨物船2隻を海防艦群の中に交えて、足取りも軽くいそいそとして「朝顔」船団より一足先に南鮮(巨文島)向け出港して行った。

 102戦隊の主任務が敵潜掃討にあることはよく承知していたが、いまや「満州丸」を含む「朝顔」船団しか行動しないような東シナ海において、「朝顔」船団を後に残してさっさと移動してしまうことは、兵力の善用とは思えなかった。 せめて「朝顔」船団を間接護衛するくらいの兵力の善用を考えてもらいたかった。

 102戦隊がその後無事日本に着いたかどうかは、30余年後の今日いまだに知らないが、粒の揃った約10羽の黒い水鳥が出てゆくような姿は私の心に強く残った。

 102戦隊の兵力配分が電報となって発令されて、初めて私は「朝顔」船団に対する任務の偏重を知ったのであるが、時は既に遅く、私は今更護衛兵力の追加を希望できる段階ではなかった。 私には文句を言って行く先がなかった。

 したがってこのような状況下において全面的に現場先任指揮官に兵力配分を一任した上級指揮官の作戦指導も、適当であったものとはいえないであろう。

 即ちこのような事態が起こらないように、K長官は必要最小限度の条件を付けて、後を現地H司令官に一任することこそ、私の望むところであった。

 かつてのイ36部隊の伝統的精神は、第1に祖国の必要とする緊急物資(積荷)であって、第2が船員並びに船舶であったから、このように上海至門司間航路がまさに終息の寸前にあるような状況においては、現場の最有力な指揮官が当然「満州丸」の護衛を担当すべきものと、私は考えたのであった。

 私は「満州丸」以下4隻を護衛することが重荷と感じられたのでは決してなかった。 それまでの経験では、この4隻の護衛などは隻数も少ないし、また敵に対する暴露海域も少ないし、目的地も近いし、さほどの困難性は感じなかったが、このK中将とH少将のやり取りがイ36の伝統に余りにも反していることに憤慨したのであった。
(続く)

2009年05月10日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 泗礁山泊地内のこれらの陣容を見ていると、久し振りの威容で「居る所には居るものだ」と頼もしくも思われたが、沖縄も取られた今日、この6隻を門司まで安全に入れ込むことの困難さを考えると、強い緊張を覚えた。

 またバシー海峡付近で南方物動輸送の大動脈が中断されている戦局を思うと、恐らくこれが護衛作戦の最後の御奉公かとも想像された。

 そしてこの6隻の中で、重要物資を積んでいる「満州丸」だけは是非とも安全に門司に入れたいという、イ36育ちの護衛艦の本能が湧き出てくるのであったが、しかもこの船が全船のうちで最も大型で敵潜敵機の第1目標となることは明らかであることも皮肉な点で、かつフレーム10数本が損傷して浸水中であることは致命的な弱味であった。

 泗礁山泊地の周辺は102戦隊の海防艦で輪番哨戒が行われていたが、敵大型哨戒機もまた我々の在泊を知って毎晩哨戒兼爆撃にやってきて、彼我の間に小戦闘が繰り返され、海防艦側に損害が発生していた。

 しかし「朝顔」の乗員はこの難局に入り込んでいることも全く意に介しないかのように、平常と何らの変化もなかった。

 また沖縄突入行動以来一緒である哨102も、「朝顔」同様士気旺盛と認められたことは、私に最高の自信を抱かせる基であった。 いかなる難局にあっても微動だにせず、黙々として「朝顔」についてきてくれる哨102の艇長以下全乗員の頼もしさは私の心に強い印象を残した。

 沖縄の戦局は毎日毎日敵の圧倒的物量によって押しまくられていたが、ここ泗礁山泊地は敵機の夜間哨戒以外大きな戦闘もなく、入泊して約10日は平静のうちに経過して行った某日、門司にある第1海上護衛艦隊K長官(まま)(岸 福治、中将、40期)から電報があり、

 「102戦隊司令官は泊地内の船団を2分し、102戦隊は船団を護衛しつつ南鮮(巨文鳥)に移動し、残り船団は「朝顔」艦長をして門司まで護衛せしめよ。」

 ということになった。

 私はH少将の兵力の配分に注目した。

 思うに重要船「満州丸」及び3,000トンと1,000トンの2隻は、必ずや同少将が護衛されるであろうと思った。

 片や少将片や少佐、私は連れて行った空船2隻と後残りの1,000トン級1隻でも護衛しますかいな、という気持ちであったが、やがて102戦隊の電報は発せられ、その結果は次の表のようになった。

N0.船 名総トン数(千トン)速力積 荷私の予想決 定
満州丸重要鉱石102戦隊朝 顔
 102戦隊朝 顔
(空 船)朝 顔朝 顔
 102戦隊102戦隊
(空 船)朝 顔102戦隊
0.8 朝 顔朝 顔

 (原注) : 空船とあるのが「朝顔」が連れて行った貨物船である。

 すなわち102戦隊側の選んだ貨物船は6隻のうちで最も優速(約10〜11ノット)の2隻であったこと、小型ばかりであったことが特色であった。
(続く)

2009年05月09日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 20年4月12日、哨102とともに空船2隻を連れて泗礁山泊地に着いた我々の眼前に展開された光景は、対潜掃討隊の任務続行中の第102戦隊の約10隻と、南方海域の各船団から命からがら生き残り長江沖まで辿り着いたという4隻の貨物船であった。

 対潜掃討隊というのは前々から考えられていたが、実現したのは20年1月で時既に遅く、私達が台湾から追っ払われて離脱北上のころであった。

 旗艦は練習艦の「鹿島」で私達から見ると、長い図体に合った水測兵器を持たず、むしろ逆に護衛艦の護衛を要するような存在であった。

 麾下兵力は全部海防艦で約10隻であって、各種海防艦で揃っていて頼もしくかつ美しいと眺めたが、護衛艦不足で悩んだ過去を振り返ってみると夢のようで、万事が手後れの感じであった。

 約1年前これだけの掃討隊が、バシー海峡の護衛強化をしてくれたなら、どれだけ被害を軽減してくれたであろうか、と思ったがそんなことは愚痴であって、昔を今に返すことはできなかった。

 またこの隊が駆逐艦を1隻も持たぬことも心配であった。 海防艦だけと知った敵潜は、かつて駆潜艇の低速をばかにして視界内に悠々う浮上し「ここまでおいで」と悠々と逃走したような類似な作戦をされるのでないか、とも案じられた。

 やはり海防艦群には駆逐艦または一字銘水雷艇の1隻をつけてこそ、「わさび」が効いてくると思われた。

 102戦隊司令官はH少将(まま)(浜田 浄、42期)であって、私が印度洋の「雁」水雷艇長であった時の第一南遺艦隊参謀長であった。 先任参謀は長く高雄の第1海上護衛隊の先任参謀であったU中佐(まま)(既出、魚住頼一、この時点では大佐、52期)であった。

 また麾下兵力中の81号海防艦長は私の上記「雁」時代のS先任将校(まま)(既出、坂元正信、予備大尉)であって、お互いに武運めでたく洋上第1線において約2年振りに懐かしの再見をして限りない懐かしさに互いの健闘を喜んだものの、そこには既に、昔のような祖国の栄光はなく、危篤の病人の周りに為す術も知らずに右往左往する親戚縁者の集まりのようなものであった。

 次に貨物船の中の最大のものは、約5,000トンの「満州丸」であって南方から搭載してきている非鉄金属(ボーキサイト,タングステンなど)のため、電報にも重要船という指定のある船であって、南方で被害を受け片舷側のフレーム10数本を損傷し、浸水のため停泊中でも常時必死の排水作業を継続中のものであった。

(注) : ここで出てくる「満州丸」は、大連汽船所属の貨物船で、総トン数5266トン、大正10年に横浜の内田造船で建造された方で、昭和19年にフィリピンで沈んだ日本海汽船の貨客船「満州丸」(総トン数3053トン)とは別の船です。


 後の3隻も同じく南方から幸運の北上を成し遂げてきた約3,000トン級1隻と約1,000トン級2隻であって、この2隻のうち大きい方だけが中速(約10ノット余り)であって、他の船は「満州丸」も含めて低速(約7〜8ノット)であった。

 これに対して私が連れて行った小型船(約1〜2,000トン)2隻が加わったので、貨物船は合計6隻となったが、私の連れていった2隻のうちの小さい方(約1,000トン)は中速(約10ノット)であった。
(続く)

2009年05月08日

聖市夜話(第34話) 沖縄突入中止・済州島配備(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 今度の船団名は、記録によるとサシ0船団であって、護衛兵力も前回と同じく「朝顔」と哨102の2隻。 4月6日佐世保発、同日五島列島の南端の福江着。

 何の目的で寄港したのか覚えていないが、陸上にて侍屋敷の間の道路の中央に水路が人工的に設けられていて、澄み切った美しい渓流がコンコンとして流れているのを見て、しばし戦いを忘れたことを記憶している。

 したがって寄港目的は一部の人員器材の、ついでの輸送だったかもしれない。 器材の揚陸に時間が掛かったからこそ、私はのこのこと侍屋敷まで見物に上陸ができたのであろう。 この目的終わって直ちに出港し、いよいよ済州島(東端)に針を向けた。

saishutou_01_s.jpg

 翌7日済川島東端城山浦着、震洋隊1隊を揚陸。 私も上陸して隊長を連れて警察に挨拶したが、ほとんど無防備だった同地は軍艦旗の進出に心強さを加えたようであったが、適当な泊地がない点が私には心配であった。

 翌8日城山浦発、北を回り済州沖を西航し、済州島北西隅にある飛揚島錨地に翌9日着。 ここで第2番目の震洋隊を揚陸し、同日同地発、同日のうちに済州島南西隅にある兄弟島錨地に着き、第3番目の震洋隊を翌10日揚陸して済州鳥配備を完了した。

 上記のうち飛揚島錨地では、沖合いの敵潜から湾内の停泊艦を雷撃できるような地形であったので、私は哨102の疲労については心を鬼にして同艦に湾口哨戒を命じ、貨物船と「朝顔」だけ湾内に投錨させた。 (もちろん「朝顔」の探信儀と聴音器は航海中と同様に当直を続けたのであるが) そしてこの次の機会には哨102を湾内に入れて休ませ「朝顔」に湾口哨戒を命じようと考えた。

 そして済州島配備が終わったら佐世保にまた帰るのかと思っていたら、兄弟島錨地にいる間に、「サシ0船団は泗礁山に回航して後令を待て」 という佐鎮電報に接した。

 普通の場合には、震洋隊の揚陸が終わったらまた出発点である佐世保に帰るのが原則であったが、この場合逆に佐世保からもっと遠くなる揚子江口に行けと命ぜられたのである。

 済州島は中央部が約2,000メートル弱の山頂で、漸次山の裾が海岸に下がり、丁度米国のキスチョコレートのような島であったが、島の詳細を見聞する暇はもちろん得られなかった。

 ただ、どこの錨地であったか覚えていないが、この行動中、「951空済州派遣隊蓑輪松五郎大尉」 に会っているところからみると、当時島の北岸中央部にある首都済州の近くに951空の一部が進出していて、対潜哨戒に当たっていたものと回想される。

 震洋隊済州島配備の任務を無事に終了した「朝顔」と哨102は空船2隻を護衛しつつ10日済州島(兄弟島錨地)を後にし、4月12日長江沖の泗礁山泊地に着いた。

 泗礁山に着いて2日目の14日に、海防艦「能美」と同31号とは、我々が僅か5日前に入泊したばかりの飛揚島錨地において、それぞれ0407と0409に沖合の敵潜より雷撃を受けて沈没したことを電報で知った。 詳しいことは知るよしもなかったが、これが護衛作戦の戦場の常であった。
(第34話終)

2009年05月07日

聖市夜話(第34話) 沖縄突入中止・済州島配備(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この沖縄行き船団計4隻が佐世保を出港したのは、3月25日であった。

 当時敵の動静についてどの程度分かっていたかについては余り記憶はないが、佐鎮司令部は沖縄作戦指導で忙殺されていたので、この「朝顔」船団にまで細かく世話する暇もなかったようで、現地の情報はほとんど傍受電報で見たように記憶している。

 戦後になって、この佐世保出港の日に既に敵戦艦群は陸上砲撃を開始していることを知ったが、当時の私達「朝顔」乗員は、目的地が沖縄だからとて別に恐怖心が出るわけでもなく、遺書を書くわけでもなく、いわゆる「車曳き」の本領として

 「水溜まりのあるところなら、命のまま、どこまででも元気良くすっ飛んで行きましょう。」

 という心意気であって、遺書なんどはいつの間にか書かないようになっていたし、かえって

 「今度の船団は可愛らしいね。 親船に沢山の子船が乗っているんだから、親がたとえ沈められても、子船の方はどんどん走り出すだろう。」

 ぐらいに呑気に考えたりしていた。

 佐世保から一路南下して、甑列島から沖縄に向けてしばらく走ったころであったか、「朝顔」船団より前に沖縄に向かった海防隊の護衛する船団が全滅したという電報が入り、その直後に、「朝顔船団作戦中止、佐世保に帰れ」 という命令があった。

 佐世保に帰着したのが何日であったか記録がないが、帰着後しばらく港内立神浮標に係留してゆっくりさせてもらううちに、今度は同兵力を済州島に配備せよということになった。

 そして佐鎮司令部は沖縄戦指導のため全員忙殺されていて、誰も同島に派遣できないから、「朝顔」艦長は震洋隊の親代わりとなって、三つの配備点の陸上に上がって、関係各部に挨拶して回ってくれ、という助川参謀の話があった。

 この震洋隊展開の背景には、敵は沖縄の次に済州島攻略を企図するかもしれぬという見通しがあったらしい。

 私も船団部隊指揮官の仕事のほかに、陸上挨拶という任務があることを初めて体験できそうになって、今度は陸に上がれて面白いぞと思った。
(続く)

2009年05月06日

聖市夜話(第34話) 沖縄突入中止・済州島配備(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 ある時この実習中、岸壁に取った舫索を一杯に伸ばしてしまい、「朝顔」の船体が強い流れに横倒しになってしまって、先生株の私が手を出さねばならぬこともあった。

 また酷かったのは浮標に取った舫索を伸ばすうち、「朝顔」の横腹に別の浮標が近づき、ついにこの浮標を支点として「朝顔」の船体が横圧を受け、しばらく強い流れと猛烈に戦ううちに浮標の浮力が負けてしまって、「朝顔」の機械室の下に潜り込み、ガラガラと船体を擦りながら反対舷にポッカリ猛烈な勢いで飛び上がってきた時は、さすがの私も 「また三亜の二の舞をやったか?」 と肝を冷し、艦内各部に 「浸水はないか?」 と繰り返して心配したのであった。

 こうして艦長戦死の想定による荒療治の訓練は、訓練場所が余りにも強流過ぎる門司であるという理由などもあって、以後は断念せざるを得なかったが、この間題は平時にもやはり解決しておくべきものと思われた。

 それには、状況平易な錨地で操艦教範の 「いろは」 から、艦長が手を取って教えてゆかねばならないと思う。 「想定艦長戦死」 のやり方のごときは応用訓練に属するもので、その前に平易な基礎訓練をみっしり積み上げておかないと、大事な艦を損傷する恐れがあることを知った。

 門司港岸壁の前で大きな軍艦浮標の上を乗り切ったときの驚きは、いまだに忘れることができない。 またあのような手荒なことを考えたのは、私も当時相当に殺気立っていたものと回想される。 関門海峡の強流などは敵とも思っていなかったようである。

 さて、話を本筋に戻そう、鉢小島に「第2高砂丸」を送り届けた「朝顔」は、「佐世保に回航して佐世保鎮守府司令長官の命により行動せよ」 ということになった。

 第1護衛艦隊から見ると佐鎮部隊は他の部隊であって、今まで何の馴染みもなかった。 私は入港して久し振りに美しい佐鎮構内の懐かしい風景に接した。

 幕僚室に入ったら担当参謀の助川弘道中佐(55期)が忙しそうに早口で説明した。

 「敵は沖縄を狙っているらしい。 君は哨102と貨物船2隻を指揮して沖縄に行き、貨物船に積んである震洋隊3隊を沖縄に揚陸してくれ。 君の船団の前方には今海防隊1隊が護衛する船団が沖縄に向かっている。」

 という要旨のことであった。

 そして他の幕僚は皆忙し気に盛んに電話をかけたり、机の上の起案作業に没頭していて、誰一人として平然としている者は見当たらなかった。 私はそこに 「緊迫した戦局」 を感じ取った。

 新たに「朝顔」と同行する第102号哨戒艇は、18年6月哨戒艇籍に入れられた旧米駆逐艦のスチュワート号であった。

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( 昭和20年3月当時の第102号哨戒艇  月刊誌『世界の艦船』より )

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( 終戦時の第102号哨戒艇 側面図  第2復員局史料(1947年)より )

 艦型が見慣れないものであったが、慣れてしまえば同じく艦尾に軍艦旗を翻しているし、艇長以下我々と少しも違わないれっきとした海軍軍人が乗組んでいるのであるから、やはり貴重な1隻の護衛兵力であるが、外から見えない艦内の構造、艤装、兵装などの違いは、さぞ乗員に人知れぬ苦労をなめさせていることだろうと想像された。

 また、貨物船は約1,000ないし2,000トンぐらいの小型船で、露天甲板にまで山のように震洋艇が搭載されていて、私達はこの可愛らしい自動車エンジンのボートを「丸四艇」と呼んでいた。

 各隊長は中尉だったようで短い海軍生活にもかかわらず、態度動作が立派で、私達は心から隊長達を頼もしく思い、彼等の揚陸後の活躍を祈らずにはおれなかった。
(続く)

2009年05月05日

聖市夜話(第34話) 沖縄突入中止・済州島配備(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 20年3月17日、門司においてヒ99船団の編成を解いた「朝顔」に、「待ってました」 とばかりに与えられた次の任務は、「朝顔」1隻で「第2高砂丸」を護衛し鉢小島行きの行動であって、17日その日に門司を出て、18日鉢小島に着いている。

 これは私の第41回目の護衛行動として戦時日誌に記録されているが、私の記憶には鉢小島がどこであったかも残っていない。

 あるいは佐世保港内だったかなーという薄い記憶もあるが、記憶に残ってもいないということは、当時全く機械的に行動した証拠で、この頃、この行動に限らず一般的にみて私は 「乾坤一擲の気概で戦に当たる陸軍さんに比べ、海軍は余りにも機械的、事務的に作戦を処理し過ぎるのではないか」 と反省していた。

 あるいは、海軍の中でも私のような車曳きクラスの艦長だけが、余りの忙しさに負けてついつい 「またか!」 とばかりに機械的、事務的に作戦行動を続けていたのかもしれなかった。

 またこの反省に対する反論として、

 「機動力少ない兵力は戦の回数も少なく、機動力強い兵力ほど戦の回数も多い。 したがって多く戦う兵力は多少機械的、事務的になってもやむを得ない。 一つ一つに余りに深刻に考えていたら、こちらが持たぬ。」

という説も出てくるのであったが、例え、いかに軽微な行動でも、およそそれが対敵行動に属するものであるならば、油断すればたちまち逆に食われる危険性を抱いているのであって、平易な護衛行動でさえも物見遊山の行動とは全く趣を異にしていた。

 したがってどんな行動に対してもよく事前に研究し、実施に当たっては細心の注意が必要であることは頭では分かっていたが、忙しいとついこれが実行できなかった。

 あるいは帝国海軍の伝統で、常時艦橋ということが指揮官を酷使し過ぎ、対敵行動に免疫性ができてしまって、つい機械的、事務的に行動してしまうのではなかろうか、などとも考えられるのであった。

 こんな自問自答を繰り返している某日、私は艦橋でハタと膝をたたいて、「なるほど、それで昔から耳にたこができるように、必勝の信念と言われたのかなー」 と悟りを開いたような気にもなってみた。

 が、しかし機械的、事務的になることの防止策としては、私のような凡人にとって 「必勝の信念」 というお題目だけでは、効能が余り長続きしないように思った。

 何かほかに名案はないか、対策はないか、例えば作戦行動の前には必ず作戦会議を行うこととし、席上指揮官の情勢判断と決心を述べることを義務付け、これに上級司令部の幕僚が必ず立会うことにするのも一法かなー、などと考えてもみた。

 またこの頃になって私は、私が戦死した後誰が出入港をしてくれるかという心配を問題にした。 そして狙いを付けたのが、昨年5月大尉になった先任将校と今年3月大尉になった航海長であった。

 私は門司出入港に当たって 「想定、艦長戦死、今日は先任将校やれ」 などといって、極力先任将校、航海長などに横付け、浮標繋留など実習してもらったが、この頃は、門司には余りよく出入するため慣れてしまってずうずうしくなり、潮流の最強時だけは潮待ちをして敬遠したが、流速中位以下のときには平気で出入を繰り返していた。
(続く)

2009年05月04日

聖市夜話(第33話) 昭南行ヒ99船団(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 やがて「第5山水丸」が内海から門司に入港してきた。 同船長は粒揃いの護衛部隊をみてますます祖国終末の大任を感じられたようであった。 またこの船長も5人の侍の中に加わっても、全く遜色のない強そうな侍であった。 艦長船長がこのようであったから各艦船の乗員たちも 「今度の船団はすごいゾ」 と士気は最高潮に達した。

 3月11日ヒ99船団は門司より出港して六連に移動し、翌12日朝六連を出撃し、前途約3,000海里の昭南行き行動を開始した。 第1の寄港予定は高雄であって、航海速力は「第5山水丸」の15ノットにしたがった。

 朝鮮海峡を横断して鎮海沖に達するまでの数時間は、本船団の基本の隊形とする輪形陣による回転整合と、視覚信号を全く使わない電話による各種陣形運動の良い訓練海面に利用され、本州側が見えなくなったと思ったらすぐ南鮮側が見え出し、瞬く間に南鮮の島の間に入り込んでしまった。

 私はこの船団部隊の機敏な運動を見て、これなら相当の無理が効くと喜んだ。 もちろん「朝顔」がそれまで護衛に参加した全船団部隊の中で最も立派な船団部隊であり、今後敵機動部隊の空母機の波状攻撃を受けても、そのうちの何回かまでは耐え抜くであろうと思われた。

 以後南鮮の狭水道を1本棒になって西航し、翌16日0100頃、南鮮を離れて外洋に出ようとする時、豪雨のため航行に不安を覚えたので、殿艦より逐次投錨して雨の晴れるのを待った。

 この時、第1護衛艦隊長官より 「ヒ99船団作戦取り止め、引き返せ」 の電報を接受した。

 今度こそは全艦船決死の覚悟で門司を出撃したのではあったが、作戦中止もこれも戦場の習わしとばかりに直ちに反転して、元来た道を戻り当日中に六連に着き、翌17日門司に入港し、ヒ99船団の編制を解いた。

 かくしてこの船団は、私にとってはわずか「2日の天下」ではあったが、最も豪華な護衛の思い出となって後々まで記憶に残った、と同時に九死の中の一つに数えなければならない「命拾い」の記録ともなったのである。

(原注) : 私はこの指揮官を命ぜられたとき、「これで立派な死所を得た」 という一種の安心と喜びを感じたが、よくよく考えてみれば、それがたとえ一家一門の光栄であったとしても、そのような考えはやはり私利私欲に属する個人の感情であって、国家の兵力というものは一個人の栄利のために使われることがあってはならない。 そして純粋に、慎重に、ただただ、国家のために善用されるべきである、という風に感じた。 そして日本古来の文化の中にも訂正して行かなければならないものがあるように思った。


(第33話終)

2009年05月03日

聖市夜話(第33話) 昭南行ヒ99船団(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この船団はまず、船団といってもタッタの1隻で、しかも航海速力15ノットで大きな航続力を持っていたことは、最も扱いやすい船団と言えた。

 次に丁型2隻は旧知の優秀な艦長のほかに、「朝顔」と違って12.7サンチ高角砲3門を持っていることが特に頼もしい限りで、次に「宇久」「新南」という海防檻は19ノット以上の速力が出せ、艦長は予備士官中の第一級の老練な人達であり、かつ12サンチ高角砲3門を持っており、既にこの2隻は護衛部隊(イ36)中の花形となっていた。

 私はヒ99船団の前途を妨害するものは、第1に敵空母機であり、第2に敵潜と見た。 第2に関しては、敵潜潜在海面の予測を綿密に行い、高速を活用して次々の敵潜を振り切って前進することに自信があったが、第1の空母機に対しては、大正時代の旧式な水平砲しか持たぬ「朝顔」が最も心配であった。 その点この対空砲を有する新造艦4隻を加えてもらったことは、誠に力強いことであった。

 この立派な部下たちは、老齢艦「朝顔」の性能からみれば正に過分のものであったかもしれないが、開戦以来の護衛のベテランとしての「朝顔」の輝かしい伝統にとっては、十分に相応しい陣容であった。

 行動予定内定直後の某日、私に連絡があり、東京の海上護衛総隊参謀からの直通電話に私は出た。

(原注) : 当時の作戦参謀大井篤中佐(51期)に戦後尋ねたら、「あれは僕だったヨ」 とのことであった。


 以上その対話の要旨を書いてみる。

参 : 今度の行動はナカナカ容易ならぬもので御苦労様。 しかし今の日本は1万トンの油でも非常に貴重だからしっかりやってもらいたい。 ときに今から余り大きな注文を出されても困るが、何か希望があったら極力やってやりたいが、いかが?

森 : そうですね、それでは「第5山水丸」に超短波電話機を積んで、連続通話可能のように、優秀な通話員4人以上を乗せてください。 それだけで結構です。

参 : それはお安い御用だ、「第5山水丸」は今広島で出撃準備中だから、早速手配して実現させよう。 ときにどのくらいの成算があるかね?

森 : 今までどの行動海面もよく慣れており、敵潜のやり口も大抵分かっていますから、秘術を尽くして敵の意表を突いてやってみますが、非常に困難な行動と思います。 マア馬公まで行けたら第1の成功、サイゴンまで行けたら第2の成功というところでしょうね。

参 : 本当にそうだろうね、まあしっかり願います。


 こんな電話が掛かってきたことは、私にとって従来にない異例のことであったし、また全艦船間の常時通話可能という日頃理想とする注文も快諾してもらったので、私は大いに感激して張り切った。

 そして門司の岸壁に横付中の護衛艦5隻では、作戦打合せ、通話訓練・放流信号訓練などが毎日忙しく実施された。

 64期の2人の艦長は、元々生徒時代から熟知の後輩であって、それこそ各人に船団の1個ずつぐらいを指揮させても良いような優秀な後輩揃いであるし、また両海防艦長に至ってはいずれも日本海運界の一流船長ばかりであって、私のごとき32歳そこそこの若造が指揮することさえおこがましい限りであったが、こんな立派な艦長揃いだったら、船団部隊指揮官が次々に戦死して行っても、最後の1艦までよく任務を果たしてゆけるものと確信できた。
(続く)

2009年05月02日

聖市夜話(第33話) 昭南行ヒ99船団(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 乗員達が休暇を終わって帰艦してくるにつれ、艦内はまた若々しい新しい元気で溢れてきた。

 やはり護衛艦にとっては、港々に十分な休養設備が欲しい。 それが在籍母港においてすら果たせなかったのは、護衛作戦準備に関する大きな手落ちであった。 舞鶴で上陸して部内で飲み食いするとき、一律に配給量だけであったことも寂しい話であって、せめて 「すぐ第1線に出撃する」 部隊員には何割増かの恩典が欲しいと思った。

 一番遅くまで掛かった1缶室内の修理も終わり、3月1日には港外試運転があり、翌2日門司向け母港発、いよいよこれが見納めと思って出撃したが、本当に見納めとなった。

 ますます危なくなった日本海を対潜警戒を厳にしつつ西航し3日六達着、ここで1泊して4日門司入港、門司の町もますます殺伐の気が増えてきたようであった。

 門司で「朝顔」を待っていた次の任務は、ヒ99船団の船団部隊指揮官であった。 燃料がいよいよ底をついてきた日本が、昭南(シンガポール)まで最後の1万トン高速タンカーを、ただの1隻出す、そしてこの護衛に旧2等の我が「朝顔」と、開戦後護衛用に建造された丁型駆遂艦の2隻と、海防艦中では第1級の「宇久」、「新南」の2隻をつけ、船団部隊指揮は先任艦長の「朝顔」艦長がやれ、ということになった。

 私はいまだかつてない粒揃いの護衛陣にすっかり嬉しくなって、たちまち新しい勇猛心がわき起こった。 私にとって余りにも立派な部隊であったばかりでなく、当時の船団部隊としても今までに珍しいような最も均整がとれて、小さいながら強そうでかつ機敏そうな船団部隊であったので、次にその編成を書いてみる。

ヒ  9 9  船  団
指揮官兵  力職 名階級氏  名期 別艦長任期




部隊朝 顔駆逐艦長少佐 森  栄63S18.10.20 〜
 同 余田四郎64S19.12.15 〜
 同 本多敏治64S19.11.26 〜
宇 久海防艦長 鈴木清四郎N85S19.12.30 〜
新 南 同 池田 郷N82S19.12.21 〜
船団第5
山水丸
船 長
(計) 1万トン高速タンカー x 1 隻、 護衛艦 d x 3、 cd x 2  計 5 隻

(続く)