2009年01月09日

聖市夜話(第18話) 悲しき花びら−1(その4)

著:森 栄(海兵63期)

 何しろイ36部隊の艦艇は、こと護衛と対潜に関しては最も老練で兵器も一応揃っていたから、サイゴン司令部が暫くでもイ36の兵力を借りて、自分の哨区の敵潜を掃討したいことは山々であったが、一方船団運航の責任のある高雄のイ36としては、いくら敵潜が集っているからとて、これ以上船団をカムラン湾に止めておいて、大事な護衛艦2隻を掃討作戦の方に使われては船団運航計画が成り立たないとて、多分イ36がサイゴン司令部に申入れたのであろう、遂に船団は12日0800楡林向けカムラン発、「朝顔」と第21号駆潜艇が護衛し、接岸北上を続けた。

 私は、これだけサイゴン部隊が掃討に大騒ぎを演じているからには、この付近の海面には敵潜が約2隻はいるだろう。 最小限確実に1隻はいる。 そしてこの1隻は数日来の日本側の掃討でアキアキしているところに、小型ではあるが貨物船2隻という餌が北上するのを感知しているであろう。

 そうすれば本日日没後ぐらいに制圧中の哨戒艇をまいて浮上し、船団を追いかけてきて、船団の航路の前方に先き回りして、明日日出前ぐらいに船団を雷撃するであろうと私は予想した。 そして、船団後方こそ今夜の最も大事な正面であるとして、護衛配備を後方2,000メートル「朝顔」、前方2,000メートル駆潜艇とした。

 そして私は各直の当直員にこの艦長の予想を話し、「朝顔」後方並びに右外側の視界限度(注:晴天月夜で約1万メートル)付近に対して、特に警戒を厳にするよう指示した。

 また、乗員というものは本能的につい前方にばかり注意する傾向があるので、また船団速力が遅い(約6ノット)ので、これと同速として黙って静かに船団に続航していると咄嗟に緊急回頭しようとしても舵効きが悪いから、「朝顔」の速力を8〜9ノットとし、船団後方約2,000メートルを8の字運動をやらせながら続行させた。

 正子を過ぎ13日を迎えた。 私は敵潜の浮上速力約20ノットとみ、浮上時刻を昨日の日没後約1時間とみ、「来るならもうソロソロ来なければならんナー」 と思った。

 1時を過ぎ、2時を過ぎても敵情なし。 ただ見えるのは仏印海岸の岡々と、その合い間の白くボーッとする海岸線と、これらを左に見て黙々として北上する2番船、その先に小さく1番船、更にその前を行く小さな駆潜艇の黒影だけであって、天気快晴、海上微風、波浪なく、絶好の日和であった。

 3時を過ぎ、いまだ敵情なし。 私の予言(?)はついに杞憂に終わるかとも思われたが、0351、艦橋大偉力双眼望遠鏡に就いていた当直見張員の服部正義二曹(舞志水4948)は、「怪しき影、水平線!」 と報告、私はスカサズ艦首を静かに黒影に向け、艦首波を小さくするため速力を6ノットに落とした。

 怪しき黒影は船団よりの方位丁度約180度、「朝顔」よりの距離約9,000メートル。 私は振り返って「朝顔」の後方背後の仏印海岸を見た。 少し大型の細長い岡がある、「シメタ!、岡の影には「朝顔」がスッポリ入る」 と思った。

 前記の発見者服部兵曹は「朝顔」第一の見張りの名人であって、「服部兵曹が当直に立っと敵が出る」 とまで艦内で噂されていた。

 私は服部兵曹のついていた眼鏡について黒影をみた。 それは黒点というよりも水平線の横線が少し膨ら味があるという程度のものであった。 「これが果して大きくなってくるかなー?」 という実感であった。

 「総員配置につけるにはまだ早い、距離もある。もう少し保続しよう」 と思っているうちに服部兵曹は「敵潜らしい」と叫んだ。

 私はニタリとしてようやく「総員配置に付け」のブザーを鳴らした。 次いで「潜水艦間違いなし」、「高速で船団追及中」、「敵速18ないし20、方位角20度」 と言うふうに服部兵曹の報告は緊張する艦橋の中に鋭く響き渡った。

 私もそのころは首から下げた七倍の眼鏡で、この潜水艦の司令塔が最新鋭の米潜であることを確認し、艦首から司令塔付近まで続く白い艦首波の長さによって、服部兵曹と同じく敵速18ないし20ノットと判定した。

 居住区で熟睡していた非番直員も、恰も予想していたかのように素早く配置に付き、先任将校は落ち着いて私に「各部配置よし」を届けた。
(第18話終)

2009年01月10日

聖市夜話(第19話) 悲しき花びら−2(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は「朝顔」着任の初め、「雁」時代の戦訓により、対潜艦艇の重要なる一戦力として「総員配置に付け」の一秒でも早いことを要望し、昼となく夜となく、丁度兵学校における「総短艇訓練」のように秒時計を持って新しい全乗員を訓練し、その秒時は一応の練達の域に達していたが、今ここに実戦の間にその威力を示して、艦長を満足せしめてくれたのであったが、彼我の距離はいまだ十分なゆとりを残しており、約6,000メートルと目測された。

 敵は依然として針路、速力を変えない。 「この勝負は勝った!」 と私は思った。 そして「21号駆潜艇」宛て

 「敵潜船団追及中、我これを攻撃す。貴艦は船団をツーラン (Touran、現在のダナン Da Nang) に入れたる後、速かに我に合同せよ。」

 という電報を発した。

 余りにも敵潜が一気に前動を続行するので 「この敵潜はレーダー故障かなー」 と私は呟いた。 「否、レーダー当直員がポヤ助かな」 とも思った。 総員戦闘配置のブザーで、艦橋に上がってきた主計長(橋本主中尉)と軍医長(大友医少尉?)とを近くに呼んで私は言った。

 「いくら戦争中でもコンナのは滅多に見られんゾ。 よく見ておけ! 今から沈める。」

 二人は七倍の眼鏡を代わるがわる首からかけて、「オー良く見える!」 を連発したが、実はかく言う私自身でさえ、こんなポヤ助にお目にかかったのは初めてであったし、また最後であった。 ・・・・20年4月末の2隻も大分ノンビリはしていたが・・・・

 私は6ノットに落としていたまま、まだ速力を上げなかった。 というのは「朝顔」は横の姿は85メートルであったが、「正眼」に構えるならばその幅僅かに8メートル、もうこれ以上我が身を縮めることはできないという時に、少しでも艦首波を出しては、暗夜に大禁物であった。

 操舵員長は必死になって艦首を敵潜司令塔中央に向ける。 一寸でも細長い横っ腹を見せる訳にはいかない。

 この時既に私が着任後教えこんだ艦首零度射撃とキの字型爆雷戦の用意は完成していた。 「朝顔」は丁度肥えた鹿を前にして、将に飛びかからんとするライオンにも似ていたが、一方敵潜また船団という鹿の群目がけてまっしぐらに追及する、逆上したライオンにも似ていた。

 「朝顔」と敵潜の間隔は相対速力約25ノットで見る見る内に詰まってきた。 目測4,000。 満を持していた「朝顔」も、もう我健ができなくなって、私は第1戦速発令、「1番砲射ち方始め」を令して、ここに初めて仮面を脱いだ。 時に0358。

(原注) アト1,000メートル我慢ができなかったか、と戦後に回想。


 この時照射したかどうか覚えていないが、初弾から3発の弾着が司令塔の遠近によく見えたことは確かであった。 突如の砲撃に敵はビックリ、急速潜航を令したらしい、司令塔は見る見る内に潜り始めた。

 そして将に潜没せんとする時、艦首から艦尾までの全面にわたって、夜目にも鮮かな白い飛沫が一斉に上がり、司令塔が逆にムックリと浮上し出し、艦首がこちらに回頭し出したように見えた。 私は思わず「雷跡に注意せよ!」 と怒鳴った。

 しかし敵の反撃は認められず、司令塔の浮上は止まり、こんどはスーッと急速順調に潜没してしまった。 時に0402。

 この僅かの間の射撃弾数は、約3〜4発と私は記憶していたが、交戦記録では8発となっている。 3の誤りの8か本当に8発であったか、私には明らかでない。 命中弾はなかった。

 「朝顔」は既に探信儀の送波器を納め終わり、行脚も第1戦速に達しつつあった。 サア、今度はいよいよ本領の爆雷戦である。 これで逃したら目も当てられぬ。

 私は敵潜針路000度とみ、第1散布帯の進入をなるべく090度方向にしようとし、敵潜没海面を睨みながら操艦し、良しとみて「投射始め」を下令した。 時に0405。

 後はキの字型投射法の計画どおり、機械的に行動するばかりである。 発光器も計画どおりに投入され、第1と第2散布帯の間の横距もウマクとれたようであったし、第3散布帯もウマク行った。 不発爆雷も極めて少なかったようで、投射終わって投射爆雷数29発の報告を耳にしたと記憶している。 時に0430。

 これで後甲板にあった爆雷は全部落とし込んでしまったので、私は「次発装填」を令し、水雷科員は次の攻撃に備えて、全員大張切りで艦内深い爆雷庫から暗夜の後甲板に爆雷用デリックを使って残りの爆雷を上げにかかった。

 「朝顔」は速力を9ノットに落とし、探信儀の送波器を降ろし、チラリ、チラリと夜明け前の暗夜に点滅する6個の発光器を中心として、約2,000メートルの半径で全周を回りながら探知捜索したが、29発が爆発して作った海水中の気泡の群れはなかなかに消滅せず、気泡内の識別は困難を極め、気泡外にも敵情を得ず、敵潜はどこに隠れたか全く分からなかった。
(続く)

2009年01月12日

聖市夜話(第19話) 悲しき花びら−2(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は艦橋を降りて後甲板に行き、デリックの側から爆雷庫の中を覗きながら水雷科員を激励したが、彼等の士気正に天を突くという状況であった。

 その内薄明となり、やがて夜は自白と明けてきて発光器の明かりも段々弱く見えるようになった。 探信儀は必死になって捜すが依然敵情を得ず。

 日出直前になり、あたりは急に明かるくなり海の表面の色が分かり出した、「これなら油の浮上が見える」と思って、次の号令をかけた。

 「手空き総員露天甲板! なるべく高い所に登って油を探せ」

 非番直の全員は皆ニコニコして居住区から上がってきてマスト、艦橋上のトップ、中部機銃台、探照灯台などに登り、あたかも嵐に疲れた渡鳥の群れが一休みしているかのような壮観さであった。

 海面の色がよく分かり出してきた。 一面の乳白色の流れが無数の筋をなして潮下210度方向に流れている。 潮流の方向もこれで分かった。 しかし敵潜の油にしては余りにも広い面積で、しかし臭いも少し違う。 やがて漁村出身者がこれは魚の卵であると言い出した。 そう言えば臭いからいっても魚の卵に違いない。

 どこもここも乳の色ばかりで、その中に重油の薄ぼけたような色は全く発見されなかった。 私は皆がよく見張ってくれるようにと、速力を6ノットにして、投火器地点を背にして潮上030度方向に向けて静かに進んだ。

 高い所に止まっている手空き総員は、「発見者は特別上陸3回」 などと冗談を飛ばしながら戦争を忘れたかのように陽気になって、お互にしゃべりながら見張りを続けた。

 魚の卵を発見してから約5海里、あちらこちらで 「敵潜は逃げたらしいぞ」 とつぶやき出した。 古瀬先任将校も露天甲板の各部を回ってきたらしく、艦橋に上がってきて私に言った。

 「艦長、いないようですね。 船団を追及されてはいかがですか。」

 私はこの弟のような若き先任将校に答えて言った。

 「敵潜攻撃には辛抱が大事である。 もう少し捜索を続けてみる。」

 私にしてみても必ず発見できるという確信はなかった。 しかしグラフ用紙に計画計算して編み出したキの字型どおり、現に29発も放りこんだからには何がしかの怪我を与えているはずだという思いが強く、わずかに2〜3時間の捜索でアッサリと引き上げる気にはどうしてもなれなかった。 そしてブッキラ棒に全く教科書に書いてあるような返事をしたのであった。

 このころまでには日出直後に見つけた魚の卵の流れも段々に薄れてしまっていたが、この海面の潮流方向が210度と分かっていたので、なおそのまま潮上030度方向に進んだ。

 するとまた0940になって新しい乳白色の筋が見え出してきた。 「何んだ、また魚の卵か」 とガッカリしたが、見張員とよく見て研究してみると、どうも第1回目のものと少し違うようだ。 ともかくこの筋を辿ってみようとて、また約5海里進んだがそれまでほとんど変化のなかった乳白色が、5海里の最後になって急に色が濃くなった。

 私の心臓は早鐘連打となった。 進むにつれ乳白色はますます漉くなり、遂に1100岡田友作1曹(舞志水7583)は第2回目の、手負いの敵潜を発見した。

 それは、暗黒の底深い海中から無数の油の粒が浮いてきて、表面近くなるとあたかも「朝顔」の花のようになり、スーッ、スーッと音もなく表面にぶつかり、パッと開いて真新しい重油の波紋となり、流れて行く内に重油の色は薄くなり魚の卵かと見違うようになって流れて行く。 この悲しき花びらの湧き出ずる泉のような現場であった。

 全乗員の喜びは最高に達した。 やはりキの字型投射法は目的を達していた。 このように出血させている以上は後の退治は問題でない、急ぐべからず。 私は敵潜直上に「朝顔」を乗せ、油の進行と同航同速として、敵針030度(記憶)敵速3ノットと確認し艦内に号令した。

 「本朝の敵潜発見! ただ今本艦の真下にいる。 油を出しながら逃走中である。 当直以外総員上甲板艦橋左舷!」

 そして私は油の右側約5メートルに「朝顔」艦橋左舷舷側をおき、油と同航同速とした。 当直以外の総員はどやどやと艦橋左舷に集ってきた。 私はメガホンを持って、艦橋から上甲板を見下ろしながら叫んだ。

 「皆、左舷の油を見ながら煙草を飲め! この吹き上げながら進む油の下には今朝の敵潜がいる。 先制発見して先制猛攻すれば、このようになることを覚えておけ!」

 上甲板に集った乗員たちは煙草を吸いながら、眼前5メートルに油の湧き出るところを見て無数の花びらが上がってきて、パッと散って油の流れになって行く状況を深刻そうに眺めた。
(続く)

2009年01月13日

聖市夜話(第19話) 悲しき花びら−2(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は一服終わったのを見て叫んだ。

 「煙草やめ! ただ今より撃沈する! 総員配置につけ!」

 私は水雷長に特別の散布帯を指示し、クルリと大きく旋回し、油の潮下から接近し第1回の攻撃をした。 爆雷深度90メートル、投射数(記憶では)6発。 この6発の中、第2発目か第3発目の爆発後、早くも大量の油と空気が新たに湧き出た。

 こうして攻撃は1313までの間に合計10回も行われ、この間の投射爆雷数27発と交戦記録に書いてあるので、毎回の攻撃は2発が主で時に4発を使ったものと回想される。 そして第2回か第3回ごろで敵速は3ノットから1.5ノットにガタ落ちし、左右に60度ずつのジグザグ運動をするのが正確に測定された。

 フト、私は思った。

 「水校で学んだ時は88名と覚えているが、この敵潜乗員も約90名であろう。 家族もいる恋人もいるだろう。 このままでは可愛想だ、降服の意志を表示してくれないかなー」

 と、白塗浮標の浮上するのを盛んに注目したが、白塗浮標もその他の合図も全く認められなかった。

 降服の合図なき限り、私は攻撃の手を弛めるわけには行かない。 酷ではあるが昔東郷元帥が実戦において範を示されたように。

 海面にはますます油が増え、今や1.5ノットになって、ジグザグしながら必死になって逃走しようとする敵潜の姿を目の前にし、正に断末魔の苦闘を続ける水深130メートル下の艦内の状況を想い、敵の健気なさに私は心に泣いた。

 しかし、敵が僅かなりとも前進力を有する以上、私は心を鬼にして攻撃を繰り返さねばならなかった。

 ついに敵潜は停止してしまった。 私は停止した敵潜は海底に横たわっているものと判断し、測鉛線で深さを測らせ130メートルと知った。

 敵潜が逃げる間は海底の凸起部を警戒するため、海底より安全度をとって邁かに上方を航行するであろうから、日出後の第1回攻撃後の爆雷調定深度は90メートルでも良かった。 しかし停止した以上、調定深度は水深と同じとし最も敵潜に近いところで致命傷を与えねばならない。

 この時使用の「95式爆雷」は調定深度が30メートル、60メートル、90メートルの3段階あって、最大の90メートルを使ったら敵潜の頭上40メートルで爆破してしまって効果が薄い。 私は何んとかして15メートル〜20メートル以内で致命傷を与えたかった。

 それで私は水雷長と研究し、90メートル用の注水孔に細い針金を通し、停止している敵潜に投下した。 その要領は潮流の方向流速と爆雷の沈降速度と油の浮上速度と水深により、作図によって簡単に出せるものであって、結局油の出る点から何メートル潮上で落とせばよいという答が得られるものであった。

 敵潜停止後も何回か攻撃したようであったが、「朝顔」の爆雷はついになくなってしまった。 丁度この頃、船団をツーラン港に入れ込んだ後、反転して現場に急行してくれた「第21号駆潜艇」が近づいてきた。

 生死を共にする戦友はまたその功を分かち合わねばならない。 私は同艦宛て次のような信号を発信した。

 「今朝の敵潜は海底に停止し油の直下にあり。 貴艦は直ちにトドメを刺せ。」

 これでまた「第21号駆潜艇」の攻撃が加えられた。 時に1350。 その後で両艦は横付し「朝顔」は爆雷数個を貰った。

(原注) 当時の交戦記録によれば、当日の爆雷消耗数56発とあるが、30年後の今日我れながら良く使ったものと驚くとともに、定数少なきこの頃よく56発も欲張って積んでいたものと驚いている。 (爆雷定数については記憶不明、当初18発ぐらいで漸次増加され36発ぐらいになったのではないかと莫然と記憶している。)


 以後、敵潜の直上監視を駆潜艇に命じて、「朝顔」は念のため全周を探知捜索したが、沈没敵潜は探信儀には入らなかった。

 ここで初めて私はイ36・海護総・9特根など宛て、「撃沈確実、地点N14−06、E109−23、後3日監視の予定」という旨の電報を打ったが、その主語となる部に 「朝顔及び第21号駆潜艇は」 と僚艦の艦名をつけることを忘れなかった。

(原注) 戦後交戦記録を見たら、協力艦21chと明記されていた。


(続く)

2009年01月14日

聖市夜話(第19話) 悲しき花びら−2(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 戦いは終わった。 後は定石どおり3日間監視するだけである。

 私はこの際証拠品が欲しくなった。 この敵潜は当方の爆雷に致命の至近弾が1発もなかったためか、当時各戦線で見られたような艦内の備付品とか肉片とかの何物をも海上に浮き上がらしてくれなかった。

 私は「朝顔」備付の掃海用四爪錨に約10ミリの鋼索を付け艦尾から曳航し、敵潜位置を貫くよう縦横に数回走ってみたが、敵潜に引っかかるということもなく、敵のアンテナさえも手に入れることができなかった。

 日没にも近くなったので、「朝顔」備付の掃海浮標1個を敵潜位置に設置し、夜間これを中心として両艦の配備を定めたが、この浮標は高さも十分にあり、灯火もよく見え、堂々たるものであった。

 油はその後ますます面積を増してゆき、日没ごろには既に幅約5海里長さ約10海里の油の河になって潮下に流れているようであった。

 翌14日も1日監視し油の河に変化なし。

 次の15日になったが、こんな確実な撃沈に対して3昼夜も監視するのは馬鹿馬鹿しくなったので、監視時間を2昼夜に変更し、掃海浮標を揚収して現場を引揚げ、補給のためツーラン(Touran、現在のダナン Da Nang)より手前のキーノン(Qui Nhon City,Kin-hon )着。

 これよりさき「朝顔」は13日サイゴン司令部あて爆雷補給を要請していたが、同地軍需部は1台のトラックに爆雷を載せ、昼夜兼行でキーノンに着いていた。

 私は陸上に上がり、このトラックを訪ねて運転員を労ったところ、トラックの後部に大鹿と兎が横たわっていた。

 聞けば夜間森林内の一本道を走っていると、その辺の獣物が目が眩んで、自分の方からトラックにぶつかって来るそうで、この大鹿と兎もその戦果であったが、ある所で電柱のような丸太が道路の端から端に横倒しに置いてあるので、ピッタリして急停車しようとしたら、目前の丸太がするすると動いて森の中に消えてしまい、「スワ大蛇!」 と青くなって2度ビックリしたと、面白くおかしく話してくれた。

 私はこの大鹿の大きな股に食欲をそそられて、「今夜撃沈祝いをするんだヨ」 と言った。 運転員はいとも快く応じてくれ、「それなら沢山持って行け」 と言ってくれた。 私は遠慮して後股1本だけを頂だいして帰艦し、全乗員で分けてその夜の撃沈祝いをした。

 この時のサイゴン部隊の協力ぶりは、昨年眠っているようであった昭南部隊に比べ遙かに実戦的であった。 これでないと全軍の士気は挙がらない。

 この頃昭南の第1南達艦隊司令長官田結(穣、39期)中将から全軍あて電報あり、

 「東に「朝顔」西に「雁」それぞれ敵潜を撃沈したるは大いに可なり。」

 とあった。

 同長官は私が1年目少尉の頃艦長付をした時の戦艦「日向」の艦長(当時大佐)であったが、それよりも「印度洋で「雁」もやったか!」 と私は小柄りして電報取次にきた若い乗員をつかまえて、

 「オィ、この「雁」は俺が昨年艦長をしていた艦だよ。」

 と思わず説明を加えた。

 15日夜キーノンの鹿肉で撃沈祝いの後同地発、翌16日ツーラン沖で船団と合同し、「21号駆潜艇」と護衛し同地発、17日1000無事海南島の楡林着。

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(今回の話で「朝顔」が敵潜を撃沈したとされる地点は、
 キーノンの沖合、北東20マイル付近と考えられます。)

(後書1) 昭和47年2月号の東郷に、「快心の爆雷戦」 としてこの撃沈の荒筋を発表したが、当時はニテロイから当地向け引越準備の際中で、関係資料見つからぬまま記憶で書いた。 しかしこの夜話には関連資料で修正追加しているから、こちらの方がより正確である。(まだ不明の点も残されているが。)


(後書2) 戦後米海軍発表の喪失潜水艦の表を見ると、19年2月16日東支部海スコルピオン(Scorpion,SS-278)というのがあり、時機はピシャリであるが海面が違う。 もし私が撃沈したと思っているこの潜水艦が、後帰還に成功しているならば、その脱出の苦心談をぜひ聞かせてもらいたいものである。 そしてこんなことも起こって来るから、撃沈後の効果確認は、やはり定石どおり3昼夜やった方が良かったと思う。


(後書3) 読者は余りにも芝居がかっているように感じられたかも知れない。 しかしこれは実話である。 ノンフィクションである。 幸い当時の乗員はほとんど健在であるから、喜んで証人になってくれるであろう。


(第19話終)

2009年01月19日

『聖市夜話』(第20話) 恥ずかしき幸運(その1)

著:森 栄(海兵63期)

 サイゴンから楡林に19年2月17日着いたサタ02船団2隻は、同地で4隻が追加されて計6隻となり、翌18日高雄向け楡林を出発したが、護衛艦は前と同じく「朝顔」と「第21号駆潜艇」の2隻であった。

 ここで私の護衛配備のやり方を少し説明してみる。

 大体、船団6隻には護衛艦何隻というように、机上で計算した理想論はいくらでもあるであろうが、理想に近く船団に護衛艦を配することは並大抵のことではない。
 
 そのためにはまず国家の有する商船隊の隻数に応じて、莫大な数の護衛艦または有時召集できる潜在的な護衛艦(例えばキャッチャー・ボートなど)を揃えておかなければならない。

 また実際に配船してみれば、商船の方は積荷で運航されるに対し、護衛艦の方は敵潜出没の海域に重点を置かれるし、また護衛艦は商船と同時に船体機関の整備をさせてもらえるわけでもなく、商船とは別個に連続使われるものであるし、むしろ護衛艦側としては、教科書に書いてある理想論などは戦時中は期待しない方がよい。

 実際護衛艦1隻で10隻も20隻もの商船を護衛させられた開戦後の初期の実例、その苦心は私の前の大西艦長所見にも明らかなとおりであって、将来もし護衛艦側が教科書どおりの隻数が配せられないという理由で護衛の熱意を欠いたり、嫌がったりすることがあったならば、大きな心得違いとなってしまう。

 したがって、平時の訓練ではむしろ隻数不十分な護衛配備の方をより多く教育訓練しておく必要があり、教科書どおりの配備は理想の型として教えておいた方が無難であろう。

 さて、私が船団部隊指揮官として護衛配備をする場合の原則というものは、商船1隻と護衛艦1隻の組合せの場合には、幸い「朝顔」はどんな商船よりも優速であったから、商船が目的地まで続けうる最大の航海速力を発揮させ、之字運動はなるべくやらせない。

 その代わり1〜2時間ごとに変針させるとともに、その時の状況、即ち日出の前か後か、午前の前期か後期か、午後の前期か後期か、日没の前か後か、正午の前か後か、というような時刻に関する区分によったり、太陽・月の高さによったり、霧、風雨波浪によったり、また陸地の岬島、水深状況、浅瀬、河口の流れなどによったりして、敵潜1〜2隻が来襲の公算が最も強いと思われる方向に「朝顔」を配備すること。

 そして「朝顔」は船団から一定の方位距離を保つということは厳禁し、燃料の許す限り、探信儀性能発揮に許されるなるべく高い速力(その日その海域で違っていたが9〜12ノットぐらいであった)で、なるべく針路を変えながら船団に随伴する。

 ただし商船の速力が「朝顔」の探知速力より早い場合には、商船速力を生かすか、「朝顔」の探信儀性能を生かすか大事な問題であって、こんな時は全航程をどちらで行くと一律に決めることなく、通過する各海域の敵潜出現公算に応じて、いずれかの速力を選ぶことも一法であるが、その場合でも各海域で敵潜の追跡を予想してこれに応ずる計画が大事である。
(続く)

2009年01月20日

『聖市夜話』(第20話) 恥ずかしき幸運(その2)

著:森 栄(海兵63期)

 次に商船2隻以上と護衛艦2隻の組合せの場合には、大抵船団航海速力は護衛艦の探知速力より遅い場合が多かったが、もしも早い場合には1隻対1隻の場合に既述したものと同様な考慮を要するが、反対に遅い場合にはまず「朝顔」を敵潜出現公算の最も強い方向に不規の行動をさせ、その反対側に次席護衛艦を船団からの概略の定位置に付けるのであった。

 例えば、日没前後「朝顔」は船団後方2〜3キロで、左右5マイルずつを走り回っている時は、次席艦は船団前方に配し、「朝顔」のような左右5マイルにわたる行動は許さないが、さればとて1番船前方2キロを同針路同速力で行くことは禁物で、左右1〜2キロにわたり八字運動をやらせる。

 要するに「朝顔」は必要に応じ船団から5キロも側方後方などに離れることがあるから、次席艦は船団から離れるな、船団から信号でもあればすぐ応信しとけ、船団が雷撃されて「朝顔」が見えない場合、すぐ緊急斉動なり攻撃なりやっておけ、という趣旨であった。

 したがって先の例で、日没前後から正子にかけて、「朝顔」は右側方5キロから左側方5キロにかけて走り回り、敵潜の浮上追跡に対しある程度の阻止カを発揮でき、その間次席艦は船団前方を船団より2キロ以内にくっついて警戒することができる。

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 この例で、正子を過ぎて日出前後までにわたる間に配備を換える場合には、正子頃次席艦に船団後方を令して「朝顔」は前方に出て、風波方向、視界状況、月の状況などにより、船団左前方から攻撃してくる算大と判断されるならば、「朝顔」は船団の左20〜45度・距離5〜1マイル付近を走り回って敵の攻撃海面に脅威を与え、攻撃を妨害し、あわよくば見張りと探信儀で捕捉するということになる。

 次に護衛艦が3隻になれば、もし「朝顔」がその3〜6時間にわたって、特に右前方を警戒したいと思うならば、次席艦を船団後方に配し、三席艦を船団左側前部に補強することができる。

 4隻以上となれば、更に船団周辺の空いている側に補強できるわけであって、このように護衛艦が多く配備されたら、各艦探信儀の周波数・最大速力・砲力・爆雷兵装・艦の長さ・2キロ信号灯の有無、探知力棟度、艦長の技量などによって、船団全周の均衡をとる必要があることはもちろんである。

 上記要素のなかで、艦の長さは旧一等のように115メートルもあるのは対潜艦艇としてマイナスで、旧二等駆逐艦「朝顔」級の85メートルがギリギリで、駆潜艇の50メートルはプラスと私はみていた。

 例えば、格式だけ高くて少将の司令官が乗っている「香取」が護衛艦に加入したと仮定すると、この「香取」も私たち同様の探信儀しか持っていない、しかも艦の長さが130メートルもあるとすれば、こんな艦は自身の安全のためにも護衛艦が欲しくなるくらいで、護衛艦としてはかえってマイナスで、敵潜の攻撃目標となりやすく、危くて見られない存在であった。

 前にも言ったとおり、敵潜はこちらの格式に恐れをなして敬愛してくれるのではないからである。
(続く)

2009年01月22日

『聖市夜話』(第20話) 恥ずかしき幸運(その3)

著:森 栄(海兵63期)

 ついでに言えば、同じ93式探信儀を持っていても、各艦の技量には大きな差があったようで、艦艇長が少佐で探知距離1,500メートルの艦より、大尉で2,500メートルの艦の方が、船団部隊指揮官としては、はるかに頼りになる護衛艦であった。

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(九三式探信儀一型大要図  旧海軍史料から

 また要素中2キロ信号灯の有無というのがあるが、これは緊急時船団を運動させるためには大変確実な信号灯であった。

 もちろん教科書では敵に分からず味方だけに分かる通信連絡の方法をまず原則として教えるだろうが、緊急時混乱を避けるためには、敵は敵ですぐ後で処分するものであるから、敵に知られることよりも、味方全軍に誤りなく指揮官の意図を通達することの方が優先され、その場合2キロ信号灯は最も良い道具であった。 また咄嗟会敵(我もビックリ敵もビックリ)の場合には、敵を気持の上で叩くのにも使える道具であった。

 さて新しいサタ02船団(6隻)は、台湾高雄まで接岸でなく沖合航路で東航を続けた。

 多分この時と記憶しているが、香港南方の南シナ海のド真ん中で、船団前方「朝顔」、後方駆潜艇で進んでいた某日午後のことである。 船団後尾の商船から「敵潜望鏡!船団後方何キロ」 という信号があった。

 大抵の船団では、「駆潜艇ソレ行け」 と出して、その命令も 「船団後方の敵帯を制圧せよ」 とか 「攻撃せよ」 というのが一般のようであったが、私のやり方は違っていた。

 私は、「船団部隊指揮官がまず覗いて調べてみて、捕まえたら撃沈する」 という原則であった。 「船団は今まで餌としてよく行動してくれた。 次席艦は船団を連れて幕の中(敵潜視界外)に早く消えろ。 敵潜が尻尾を出したからには、後の仕事はこちらのものである」 という、良く言えば指揮官先頭、陣頭指揮、悪く言えば気負い、功名心、自信過剰があった。

 発見信号を受けた「朝顔」は直ちに船団前方からクルリと反転し、船団側方を反航し、「駆潜艇船団前方に占位せよ」 を発令し、探信儀の送波器を揚げ増速し (大抵18〜20ノット) 西の方向に急行した。 東に向かう船団は見る見るうちに遠くになった。

 こんな場合船団は早く見えなくなる方が良いが、商船より姿の小さい駆潜艇は船団の前方に出たのであろう、船団の影に隠れてしまって余りよく見えない。 一方西の方の眼前には牙をむいた猛獣がいる。 場所は大海原のド真ん中である。

 いつも強気一点張りで全乗員を引っ張ってきた私も、僚艦は東の方に見えなくなり、自分一人猛獣の待ち構えている死地に跳び込むのがちょっと怖くなってきた。

 私は頭の中で盛んに計算を繰り返した。 発見船と「朝顔」の距離はどのくらいだったか、発見船の目測誤差は果たしてどのくらいだろうか、「朝顔」が反転して増速してから今まで何メートルぐらいきているだろうか。

 もちろん航海長はこのとき海図上に行動を記入しつつあった。 しかし発見船の報告が万一実際より2キロ以上も遠く間違っていたら大変なことになるぞ。

 しかし、商船の距離目測能力というものは、老練な船長が直接発見した場合ならともかく、一般の当直員のものは、2〜3キロの誤差があるのはザラであった。 また商船では海軍のように、「船長常時船橋」ということも船によっては期待できなかった。
(続く)

2009年01月23日

『聖市夜話』(第20話) 恥ずかしき幸運(その4)

著:森 栄(海兵63期)

 私は用心して敵潜推定位置の約6キロぐらい前で早目に総員戦闘配置に付けた。 仏印沖で敵潜を撃沈したばかりの乗員は自信満々であった。 「こいつもやっつけてやろう」 と思っていたようだが、これとは逆に私は、最終的に発見船の目測誤差がよく分からず、心配はつのるばかりであった。

 万一、敵潜の3キロ前と思って探信儀も用意せず水中に対してメクラのまま敵潜の目の前を通ったならば、敵潜は「朝顔」に雷撃し、「朝顔」は轟沈。 船団は何も知らずに東進し、この潜水艦は以後船団を追及して明朝日出直前第1回攻撃、明後日日出直前第2回攻撃というように攻撃を繰り返し、台湾に着くまでに船団は全滅となるであろう。 不吉な予想が私の頭の中を駆け巡った。

 要するに不明なか所は発見船の目測誤差である。 用心に越したことはないと思って速力を12ノットに落とし、探信儀の「送波器降ろせ!」 を令した。 この時私の計算では、敵潜の手前約4キロぐらいと思っていた。

 ところが今まで私が着任して以来、1回も故障したことのない送波器の昇降筒がどうしても降りない。 私は探信儀室に通ずる伝声管に口を当てて急いで叫んだ。

 「敵を前にしてどうした! 早く降ろせ!」

 下からは日頃温厚な水測員長の山川正雄上曹が叫んだ。

 「どうしても降りません! 艦の行き脚で横圧を受けているようです。 速力を落としてください。」

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(九三式探信儀一型大要図昇降筒部分拡大  旧海軍史料から)

 私は思わず呟いた。 「何んということだ、敵潜を前にして!」 それではまず6ノットぐらいに落とそうかとも思ったが、また山川上曹から 「まだ降りません、もっと落としてください」 といって来るんじゃないかと思い、「エイ!面倒臭い、完全に速力零にしてやろう。 その代わり一刻も早く送波器を降ろしてやろう。」 と考え、思い切って 「両舷停止!」 をかけた。

 しかし、この両舷停止は何んと無謀のことであろうか。 そもそも艦の行き脚は舵効きの原動力である。 その原動力を零にしてしまったら、いかに舵を取っても艦の回頭は全く期待できないことである。 舵の効かない間に雷撃されたならば、全く 「処置なし」 である。 私は敵前にて大胆(?)な決断をしてみたが、「送波器が降りた」 という報告を待ちながら、足の裏がジリジリしてきた。

 突如、見張報告、「雷跡! 艦首!」 私の心臓は止まらんばかりに驚いた。

 見れば艦首方向に計4本、右から左に、等間隔、約50メートルごと、その一番近い雷跡は前甲板艦首の突端スレスレの見通し線より既にちょっと下に下がっている。

 どこから射ったかと右前方をみれば、右約45度方向らしく、距離約2,000ぐらいに推定されたが、もちろん発射点には何の徴侯も見えず、雷跡も艦首方向にわずか50メートルぐらいの長さしか見えない。 (これは横から見るからである)

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 私の心はスッカリ動転してしまった。 「送波器揚げ! 爆雷戦! 第一戦速!」 と矢継ぎ早やに下令し、右斜前方の発射点らしい所に突込んで爆雷約6発ばかりを放りこんで、「船団を追及してくるなヨ!」 と捨てぜりふを吐いて、東の方船団に艦首を向け、この最初から縁起の悪いいまいましい限りの現場を後にしてしまった。

 間もなく船団に追い付き、その日の日没直後に、私は大角度(約70度)の変針を命じ、その夜一晩中この敵潜の追及を警戒したが、遂に敵情を得ず、2月24日台湾の高雄に無事着いてしまった。
(続く)

2009年01月24日

『聖市夜話』(第20話) 恥ずかしき幸運(その5)

著:森 栄(海兵63期)

(後書1)この幸運について

 これは私たちが神より守られた幸運の記録の第1回目であると同時に、艦長たる私の大失敗の記録でもあった。 以下落ち着いて当時を反省してみよう。

 まず幸運について反省してみると、敵潜は「朝顔」が接近したころ恐らく潜望鏡を出していなかったと思う。 雷撃は聴音と探信でやったのではないかと考えられ、「朝顔」の速力を第1戦速とみて、貴重な4本をこの旧式小型の駆逐艦に使っている点からみて、ものすごく慎重な艦長と判断される。

 もし「朝顔」が両舷停止せず、6ノットぐらいで走っていたら、一番近い雷跡の魚雷が命中して行動不能になり、あと5〜10分たって第2回目の1本で轟沈するであろうことは想像に難くない。 

 また「朝顔」の送波器がいつものように順調に降りていて、敵潜を探知し損ねて、9〜12ノットで直進していたならば、恐らく魚雷2本を同時に受け、恐らく轟沈していたであろう。

 この場合、「朝顔」が傷ついても、救難にきてくれる僚艦はなく、また敵潜が第二撃だけであと「天津風」のように放置してくれる公算はまず考えられない。(「雁」の最後のように)

 結局、このような状況では、敵潜にとっても、「朝顔」にちょっとでも出血させることが完全戦勝の端緒となるものである。 送波器昇降筒の珍しい故障が、「朝顔」を救ってくれた偶然さは、神様が救ってくれたものとしかどうしても思われない。

(後書2)この失敗について

 まず私は、発見船の目測誤差ばかり考えていたが、敵潜は停止しているかのように錯覚していて、発見後敵潜が4〜6ノットで船団方向に接近する場合を全く考えてみなかった。 この項目も忘れてはならない1項目であった。

 次に結果からみると、私の計算には約3キロの誤差があったようで、目測誤差はもっと多目にみてなければならなかった。 この点護衛艦側の練度からみれば、商船側の船長以外の目測などは、想像もできないような、例えば50〜100パーセントに近い誤差もありうることに注意しなければならない。

 次に「朝顔」はこのとき既に聴音器を装備していたが、敵潜の発射音を掴まなかったのではないかと記憶している。 何しろ艦首方向をスーッと美しく通過した雷跡で、初めて敵潜の攻撃圏内にいることにビックリしたのであった。

 この「朝顔」のポヤ助に比べ、敵潜側は聴音・探信能力を全幅活用して発射したものと想像される。 もし敵潜が潜望鏡で至近距離の観測をしていたら、「朝顔」は既に総員戦闘配置に付いていたし、また見張りの練度は非常に高かったと自信をもっていたし、また当日の海上は静かであったから、大抵発見できたのではないかと思われる。 私はこの失敗後、聴音員に「発射音を聴くこと」を最高の目標として訓練した。

 最後に、通過し終わった雷跡を見て気が動転したことは私の未熱さを如実に示している。 この瞬間、自分は生きている、魚雷は外れたと感じたならば、既座に「ニタリ」として、「この勝負我のもの」と感知し反対に落ち着かなければならない。 またそれだけの普段からの胸算が立ってなければならない。

 大体当時の潜水艦というものは、その隠密性が破れた途端に、その脆弱性を暴露してくれるものであるから、護衛艦としては好機来るとしてその虚に乗じ直ちに攻勢をとって1本を取ることが戦の道と思われる。

 それなのに、予期しない昇降筒の故障ですっかり縁起が悪い感じになってしまい、次に4射線という敵の慎重さに圧倒させられてしまって戦意を失い、ついに戦勝の機を逸したことは返す返すも残念であった。

 もう一回やれと言われたら、まず静かに最寄りの雷跡に「朝象」を乗せ、舵効きのある6〜9ノットぐらいで発射点に向首し、探信儀を一刻も早く使えるようにして、ゆっくり探知して、落ち着いてキの字型投射法でもやることであろう。

(後書3)船団部隊指揮官として

 この「朝顔」の場合は、「朝顔」自身が指揮官であったが、もし「朝顔」の上に指揮官がいて、船団後方に見えた潜望鏡に対して「朝顔」を派遣したという場合には、派遣された艦はやはり同じような心理状態になるものであって、その特長は、

(1)多くの場合、敵潜位置が明確でない。

(2)敵潜は派遣された艦を斃すべく待ち構えている。

(3)派遣艦は大抵1隻で、船団から独り離れて心細い。被害を受けても、直ちに攻撃してくれる僚艦もなく、まして救助してくれるものもいない。

(4)これが午前ならまだ日没まで十分な時間があるからよいが、船団後方で悠々と潜望鏡を上げるのを発見するのは大抵午後、特に日没前が多い。 これは思うに、夜の幕が降りると俄然敵潜が護衛艦より有利となるからであって、日没近いということは派遣艦を一層いらだたせる。


 したがって船団部隊指揮官としては、「発見した、ソレ行け」 と簡単に派遣することは極めて危険であって、潜水艦狩りの上手な護衛艦ならばともかくとして、練度並の一般の護衛艦に対しては、敵潜の直上までは行かせず、船団と敵潜の略中間まで派遣し、もし餌(船団)に引かれて追及して来る敵潜がその隠密性を破ったならば、その破ったところをつかまえて斃すが、追及してこない敵潜には無理に手を出さない、というように、「敵潜撃沈か船団安全か」という選択において後者を選ばせた方が適切であると思われた。

 この点、「朝顔」指揮の船団では、常に「朝顔」自身が派遣艦となっていたので、この原則に基づいて適宜に行動することができたが、一般の船団部隊でならば、船団出港直前の会議で各護衛艦長に十分にこの原理を説明しておかなければ、単に洋上で合同したような護衛艦には到底期待できない行動である。

 「天津風」被雷の例では、まず敵潜発見の時刻が既に日没後であったこと、次に艦の長さが116メートルもあるという、2つの大きなマイナス面がまず注目される。

 当時の探信儀の性能が、もう少し良かったら上記の原理も変わってくるであろうけれども、当時の私は以上のように「船団安全」を主とする考えであった。

 そして掃討隊としてではなく、船団の護衛艦という立場で敵潜を斃すのは、餌に釣られて隠密性を暴露した敵潜を目標とすることを原則とし、船団後方の不明確な位置で待ち構えている敵潜に対しては、直上に接近せず、餌によって引っ張り出し、その隠密性を敵自らによって破らせ、そこを叩くという考えであった。
(第20話終)

2009年01月25日

「聖市夜話」の連載について

 森栄氏の「聖市夜話」も連載を始めて丁度3ヶ月、昨日第49回をUPし、全40話のうちの半分が終わりました。

 しかしながら、お読みいただいてお判りのように、最初の頃と比べて1話がかなり長くなってきております。

 これは次の表をご覧いただけば一目瞭然かと。

 頁数(B5)合計頁数
第1 〜10話2166
第11〜20話45
第21〜30話63127
第31〜40話64

 これからの後半はますます中身も面白くなってきますが、それだけに各話とも平均してこれまでの倍近い長さとなっております。 

 ブログに掲載する関係で、読みやすくするために適宜分割してお届けしておりますが、これから各話は更に分割回数が多くなります。

 どうかじっくりお読みいただき、この回想録の素晴らしさをご堪能下さるようお願いいたします。

『聖市夜話』(第21話) パラオ船団一週間の差(その1)

著:森 栄(海兵63期)

 19年2月24日サタ02船団を高雄に入れ込んだ「朝顔」は、一晩休んで翌朝出港、バシー海峡通過のヒ49船団(4隻)に合同し、同海峡に集まる敵潜に対し護衛を強化し、26日護衛強化任務を終え高雄帰着。

 このころ九州と昭南・比島方面との間を往来する船団は、大抵バシー海峡を通ったが、敵潜はこれに目を付けて常時1〜2隻を同海峡に配備し、同海峡は船団の難所の一つとなっていたが、各船団の護衛兵力は十分でなく、また同海峡は水深深く、かつ天候の悪いこと多く、むしろ敵潜の活動に有利であったので、高雄のイ36司令部では、たまたま一貫護衛を終わって同地に着き、次の一貫護衛の出発まで日数のある護衛艦をバシー海峡に派遣し、同方面の区間護衛をさせていたが、私達はこれを護衛強化とも言っていた。

 またヒ船団というのは高速船団のことで、大体12ノット以上ぐらいの速力であった。 これに対し、サイゴンから高雄に来るような田舎回りの船団は大抵低速船団で6〜8ノットぐらいが多く、ひどいのは海南島の鉄鉱石を高雄経由門司まで運ぶ鉄鉱石船司で、満載して向かい風でも受けると実速力3〜4ノットぐらいしか出ないものもあった。

 したがって田舎回りに使われた後の「朝顔」にとって、このような高速船団の護衛強化にたまに出されると、速力に比例して商船そのものもよくなり、乗組士官たちもキビキビし、信号、運動なども機敏で、アッと言う間にバシー海峡を突破してしまい胸りすくような思いがしたが、私達は船団会議に出席していないので船団部隊指揮官達の顔も知らず、ましてその護衛方針も知らず、洋上で走りながら合同してもきまり文句の挨拶ぐらいしか信号はこず、また走りながら分離するときも全くアッサリしたもので、これで被害なく済んでいるから良いようなもののもし被害が起こったらさてどうなるものかと危ぶまれた。

 そこに行くと一貫護衛艦と船団の関係は、出港前の船団会議でお互に顔を合わせ、船団側は大抵その苦衷を述べ、指揮官側は各海域における作戦の方針を述べ、真に血の通った間柄があった。

 27日一日休ませてもらい28日高雄発左営沖に仮泊し、29日タモ07船団23隻を、指揮官第2班、「春風」、18号掃海艇、74号駆潜艇とともに護衛し同地発、石垣島付近で船団と分離し単独で3月2日基隆着。

 基隆にて一日休ませてもらって、4日モタ05船団13隻を指揮官13班、「前島」とともに護衛し同地発、また台湾海峡を南下して5日高雄着。

 6日一日休ませてもらって、7日タパ04船団6隻(「鉄洋丸」、「呉山丸」、「大誠丸」、「白浜丸」、「竹川丸」、「熱田丸」)を「鷺」とともに護衛して高雄発、バシー海峡を通って初めて比島東方海上の広い海上に出て南下中、パラオ入港の前々日14日1753船団付近の海面に対し味方水偵が爆撃するのを認め、「朝顔」は船団より分離して現場の敵潜掃討中、翌15日0355雷跡一本を発見したがその他敵情を得ず、1625掃討を止め船団に追及し、翌16日無事パラオに着いたが、高雄からパラオまでの間、「浜波」の区間護衛を受けている。
 

(原注) 3月14日以後の記事は「朝顔」及び第一海上護衛隊の戦時日誌によるが、記憶が残っていないので戦時日誌そのままの記事とした。 敵潜1隻が待機していたことは確実のようである。


(続く)

2009年01月26日

『聖市夜話』(第21話) パラオ船団一週間の差(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 パラオ島はかつて、候補生と中尉の時いずれも練習艦隊「八雲」で訪れたことのある懐しの地であったが、湾口から中に入って行くと、初め島かと思っていたのが、軍艦「武蔵」であった。

 高雄からの足かけ10日間の護衛任務も無事果たし、やれやれと肩の荷を下ろした私は、この新式大戦艦の威容に接してスッカリ嬉しくなり、航路より外して「武蔵」に近づき、近い所からよく見てやろう、乗員にもこの際よく見せてやろうと思った。

 「武蔵」船体の鼠色はよく手入れが施されていて全艦つやつやと輝きわたっていかにも頼もしい。 それに引き代え、我が「朝顔」の外舷は赤銹だらけ、私は乗員とともに恥ずかしくなってしまって笑って言った。

 「何に、恥ずかしがることなどいらんよ。 古来英国海軍でも金モールの銹を誇りとしている。 ペンキの綺麗なのは戦さをやってない証拠だ。」

 更に近づいて驚いた。 「朝顔」の艦橋よりも、相手の中部上甲板の方がもっと高いではないか。 丁度その時「武蔵」の舷門当直員が上甲板を駆て繋船桁の根元に行き、パイプを吹いて短艇員に合図し、「内火艇舷門」 と叫んでいるのが見えた。 そしてその次は、「朝顔」左繋船桁!と言われそうな錯覚を受けた。

 まさにその巨大さは、旧二等駆逐艦を2〜3隻片舷の繋船桁に繋いでも、決しておかしくないような感じであった。 私はスッカリ恐れ入ってこの新戦艦の傍から離れて錨地に向かったが、先方の当直将校は 「あの小艦汚れたくって何しに近寄ってきたかいな」 とて、怪訝に思ったことであろう。

 錨地に着き上陸した。 湾内及び陸上一帯はにわかに増強された海軍及び陸軍部隊でごった返ししているようで、すさまじい活気があったが、一方我々護衛艦乗員達は疲れを回復してくれる場所、食べ物を探すことの方がより大事な関心事であった。

 私は静かな憩いの場所と想像して、まず水交社に行った。 錨地とか波止場付近に比べれば幾分静かであったが、玉突き台の付近にも何か緊張の気配がした。

 付近を歩いてみると、海岸はいつものように美しく、緑の椰子に強い太陽の光線が豊かに降り注いでいる。 生け垣の手の届きそうなところに極彩色の、一羽で数色もを欲ばって装っている小鳥がいる。 印度洋サバン島の小鳥もこんなだったなー、また 「戦争さえなければ」 とつくづくと思った。

 結局バタバタしている陸上では泊まるところなく、暑い艦に帰って寝たようであった。 そこに行くと高雄と基隆はサービスの良い静かな宿屋があって最高だなーと思い出す。

 16日一日休ませてもらって、17日発のパタ05船団4隻、護衛艦2隻の護衛強化に駆り出され、18日パラオ北方で洋上分離、即日パラオに帰着した。 パラオ北方も敵潜が見張っている一つの難所であった。

 また休養させてもらっているうちに、「浦上丸」がパラオ諸島のなかで暗礁に乗り上げるという事故が発生、22日「朝顔」に救難に行けと言われてパラオ出港し、その日のうちに現場着、確か曳船代わりに「朝顔」が曳き降ろし役をやらされたのではなかったか。

 「浦上丸」を暗礁から曳き降ろして、翌23日パラオに帰着したようにオポロゲに記憶している。 そしてこの「浦上丸」は日本からパラオ諸島内の防備兵器資材を搭載して行き、パラオ近くのものはパラオに降ろし、離島用は直接離島に荷揚げしようとして途中の暗礁に誤って乗り上げたものではないかと、これまたオボロゲな記憶がある。
(続く)

2009年01月27日

『聖市夜話』(第21話) パラオ船団一週間の差(その3)

著 : 森  栄(海兵63期)

 23日救難作業終わってパラオに帰着してみたら、既にパラオ発内地行きの船団が予定されていた。 大部分は積荷を降ろしてしまった空船であったが、記憶に残っているのは内地引き揚げのパラオ住民達であった。

 2月末パラオ東方約1,000マイル余のトラックは、敵艦載機の大空襲を受け陸上はもちろん在泊艦船並びに周辺行動中の艦船はほとんど全滅という手ひどい被害を受けていたので(私の級友「追風」駆逐艦長魚野大尉もこれで戦死した)、今度はもしかするとパラオに来襲するであろうと判断せられていたのであろう、各家庭の屈強なる男性はパラオに残り、軍民一致して敵に対するとして、戦闘の足手まといになる老人、婦人、子供は内地行き船団のある間になるべく多数内地に疎開しておこうという悲壮決死の措置であって、これが最後の引き揚げ船と聞いた。

 4隻編成のパタ06船団中の、一番大きな綺麗な船には、これら引き揚げ住民が出港前日から続々と乗船し、出港直前まで居残る決死の男性と引き揚げる家族との間の別離の情景が「朝顔」からもよく眺められた。

 人の情なき鉄鉱石、ボーキサイトなどの場合と違い、これら同胞多数を乗せていると思うと護衛の責任もひとしお重大に感ぜられるものであった。 全員無事で送り届けたいことは山々であったが、乏しい護衛兵力でどれだけの自信が抱けるであろうか、全く重い責任に油汗の出ることであった。

 3月24日「朝顔」及び「第5昭和丸」は、準備完成のパタ06船団4隻を護衛して、第1の目的地高雄むけパラオを出港したが、長年住み慣れた故郷パラオと、各家庭の中心となる男子を後に残して船出する乗船家族たちの胸中は、護衛艦々上からも十分察せられたところで、また港に見送る男性連中の姿も涙なくして見られるものではなかった。

 パラオからバシー海峡まで約1,100マイル、丁度パラオから東方トラックまでの距離と略似かよった航程である。 そしてバシー海峡から高雄までの距離を加えると総航程約1,250マイルとなる。

 この航程のなかの難所(敵潜の出そうなところ)は、パラオ北方とバシー海峡の2つで、この中間海域は出現公算は低いものと判断されたが、パラオ北方というのは、パラオ北口を監視している敵潜がその場で雷撃するのではなく、船団北上を見た目の日没後から追跡してきて、その翌日か翌々日かに攻撃してくるというものであって、しかもその時機は夜間から日出前までに至る間が公算大と判断されたので、私はパラオ北口からバシー海峡に真っ直ぐ進むわけにはゆかなかった。

 次にバシー海峡にいると思われる敵潜は、その場で攻撃してくるものであって、追跡してきても船団はやがて高雄に入ってしまうという性質のものであったから、敵潜の鼻面を通らぬことが大事であった。 また好都合なことには、バシー海峡は幅広く、小船団ならば片隅から片隅に横切ることのできる多くの方法が残されていた。
(続く)

2009年01月28日

『聖市夜話』(第21話) パラオ船団一週間の差(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 次に両難所の中間になる大海原は、船団の航路と敵潜の航路が偶然ぶつからない限り敵潜が待機している算は少いと判断された。

 敵潜は当時ハワイ又は豪州ブリスベーンから極東に来ていたので、比島東方でこれらの敵潜航路とぶつかりそうなのは、バシー海峡東方海面ぐらいであった。

 そしてこの総航程は「朝顔」の燃料搭載量からみてギリギリの余裕しかなかった。 「朝顔」が単独で行動するならば燃料の心配はなかったが、6〜7ノットという船団であるならばこの船団の速力で総航程を割らねばならない。

 したがって私は、最後の難所であるバシー海峡において敵の攻撃を受けても、何がしかの反撃ができるように燃料を残しておかなければならなかったので、バシー海峡までの中間海面では極力燃料を節約しなければならないものと判断した。

 そしてパラオ出港の翌日25日の0645に、果たせるかな敵潜望鏡らしいものを発見したので、「朝顔」は船団誘導を僚艦「第5昭和丸」に命じて船団から分離し、現場の対潜掃討を開始したが、更に敵情を得なかったので、燃料の心配もあり1000には掃討を止め船団を追及した。

(原注) 敵潜望鏡発見、掃討の記事も戦時日誌によるが、記憶は残っていない。

 こうして第1の難所であるパラオ北方海面は無事通過、船団は広い大海原を北へ北へと進んだ。

 私はそれまで東シナ海・南シナ海というような狭い箱庭ばかりを行動していたが、この高雄とパラオの間の行動は途中利用できる陸地もなく、初めての自由潤達な波静かな見渡す限りの大海原であった。

 狭い箱庭では地形・地物が利用できたが、この大海原では果たしてどうであろうか、色々考えた揚げ句次のような結論となった。

 地形・地物の利用は、地形地物に慣れない新米の敵潜にとっては、ここは日本側の縄張りの地形地物だと思ってある程度の脅威となるかもしれないが、何回も配備されで慣れてしまった敵潜にとっては、地形地物の存在そのものはむしろ彼らにとっても「利用すべき物」であって、我も敵も利用し得る点において差はない。

 しかし、我が縄張り海面の地形地物の要所要所に、我が方の適切な防備兵力、設備が配せられた場合にのみ、この地形地物は我が方の利用度を増し、敵側の利用度を封殺するものである。

 私達は、ともすれば地形地物が存在するというだけで、すぐ安心してしまう癖があったが、我が方の防備兵力の存在こそ大事である。 と同時に敵潜側では、どんな利用の仕方をするであろうかをよく研究しなければならない。

 こんなことを思いながら、地形地物のない比島東方海域をバシー海峡に向けて、長閑な航海を続けた。パラオを出港して丁度一週間目の31日、最後の難所であるバシー海峡に差し掛かった。

 私は繰り返し胸ポケットの計算尺を使って燃料の計算をして、わずかに残る余力を活用して、バシー海峡の敵潜の攻撃を事前に攪乱して、船団だけは最も安全と思われる海面をスポリと通してやろうと考えた。

 丁度その時、パラオ大空襲の電報に接した。 約1か月前トラック空襲に成功した敵機動部隊の艦載機群は、パラオを空襲し、在泊艦船を総なめにしつつあった。

 陸上もさぞ被害を被ったことであろう、彼女たちの夫も、戦死した者もいるだろうと思いながら、船団内の便乗船を眺めたが、まだパラオ大空襲を知らなさそうな便乗者達は、台湾南端鵞らん鼻岬の奇岩怪石をのんびりと眺めているようであった。 彼女たちも今日高雄に上陸して、パラオ大空襲を聞いたならば、さぞ驚いて心配するであろう。

 それから間もなく高雄に入港した。 一隻も沈めず、一人も衷わず行動を終わることは、それまで毎度のことではあったが、このときは特別に肩の荷が下りてホッとした。 パラオ一週間の差で助かる。 この第2回目の幸運も神が定めた宿命としか思えないものであった。
(第21話終)

2009年01月29日

『聖市夜話』(第22話) 海南島の鉄船団(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 パラオ任務を果たして高雄に帰った「朝顔」は、ここで珍しく中2日の休養をさせてもらった。

 イ36部隊の護衛艦にとって、行動の中心となる高雄は第一線にある母港のような存在であった。 狭い湾口を出るとすぐ外洋の強いうねりにぶっからねばならなかったが、一歩湾口から中に入れば波風もなく、安心して休めた。

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(高雄港及び市街  1945年の米軍地図から
 桟橋は左下、現在の台湾海軍の基地のある所)

 イ36司令部は市内の繁華街を通り終わって、静かな町外れのような所にあったが、司令部が陸上がりして、こんな遠い所にあることはちょっと不思議であった。 高い空中線のいる無線電信の都合でもあったか?

 こんな所にあったので、私たち艦長クラスでさえも、迎えの自動車でもないと簡単に行けなかったから・・・・。 まして艦長以外の士官たちは、「司令部には艦長が一人で行くもの」とぐらいに考えていたであろう。

 横付岸壁の近くには軍需部があって、これは近くて便利であったから艦長以外の士官、下士官たちはここで大いにサービスして貰っていた。 もしもイ36司令部が、この軍需部続きの地にでもあったら、司令部の幕僚たちはもっと生々しい乗員の心にも触れることができたかも知れないが、あるいは反対に 「もうこれ以上護衛艦の苦しさを聞かされてはたまらない」 という状況だったかも知れない。

 私は船団行動を終わって入港すると、すぐ迎えの自動車で町を通り抜けて司令部に行き、まず司令官中島寅彦中将に簡単な任務報告をやり、退室して幕僚室の先任参謀魚住中佐(52期)の机の横に座り、行動中の子細を語り終わって次の護衛任務の予定を聞き、司令部から車で艦に帰り、士官室で次の行動予定を語り準備を命じ終わると、初めて背広に着換えて宿屋に直行するという順序であって、主な士官たちも私の帰艦するまでは在艦していて、艦長から次の予定を聞いて初めて安心して上陸できる仕組みであった。

 司令部では司令官も優しかったが、先任参謀は特に護衛艦側の苦労をよくねぎらってくれた。 もしこの先任参謀の職にこのような立派な先輩を得られなかったならば、護衛艦の多くは恨みを残して死んで行ったであろうし、またアレダケの活動は期待できなかったであろう。

 先任参謀の頭の中はいつも次の船団部隊編成のこと、次々にバシー海峡を通過する船団の護衛強化のこと、各船各艦の故障、人員の事故、時々起こる被害船の処置、敵潜出現情報などでいつも一杯のように見え、他の参謀に比べ余りにも過重な労度を一人で受けているのではないかとさえ想像された。

 それにもかかわらず、忙しい中に私たちの愚痴に属するようなことまでよく聞いてくれたので、同参謀が思わず 「アア困ったなー、護衛艦が足らない」 と言えば、大抵の艦長は疲れを忘れてつい進んで協力してしまう、というような状況であって、同参謀の人徳がイ36の潤滑油となっていたことは確かであった。 私自身も戦後落ち着いてから真っ先に会いたい人は、この魚住参謀(中佐)であった。

 次に私がいつも泊まる宿屋は、町の中の裏通りにあって便利で静かであった。 艦から行くと、午前であろうと午後であろうと私の姿を見ただけで風呂を用意し寝具を敷いてくれ、私は入浴して後浴衣掛けて敷布団の上にアグラをかき、ビールを飲んで食事を食べ終わると、たちまち寝てしまうことが例となっていた。

 そして私の後で艦を出て上陸してきた先任将校、主計長あたりが私の所に立ち寄った時は、私は入浴を済ませて座敷中央の寝床の上でビール、食事の最中ということが多かった。

 時々彼等は言った、「艦長まだ早いです∃、映画見に行きませんか」 私は映画を楽しむだけの気力も体力もなく、万事はまず6〜7時間ぐっすり眠ってから後のことであった。

 「皆元気がよいなー、しかし俺は眠るよ。」 という返事が多く、一緒に映画に行った記憶はない。 この入港直後の6〜7時間の睡眠が、静かに快くできることが、次の船団護衛に最も必要な重要事項の一つであって、これを可能ならしめた高雄の宿屋は一番懐かしいし、またその故に高雄は良い母港でもあった。
(続く)

2009年01月31日

『聖市夜話』(第22話) 海南島の鉄船団(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 中2日の休養の後、19年4月3日1400、タサ16船団8隻を第41号駆潜艇と共に護衛して海南島の三亜向け高雄発。

 この船団は海南島の鉄鉱石を内地に運ぶための空船の貨物船であり、空船というと万一敵の魚雷を受けてもすぐブクブクと沈んでしまう上りの満載船と違い、護衛する側の気も楽であった。

 9日無事楡林着、護衛艦は西隣りの三亜に1130投錨し、翌日出発の「上り船団」までわずか一晩の休養を急いだ。

 楡林の町には三越進出(?)の広東料理店があった。 店主は日本人服部四郎氏であって、元三越社員とのこと。 また水雷屋の大先輩で有名な「原為」さんこと原為一大佐(49期、開戦時の「天津風」駆逐艦長、その後27駆逐隊司令)は義兄弟である由で、年のころ私より約10歳上。 憂国の士然とした風格の持主であったが、この部下の数名の年若き女性群は、同氏が直接乗り込んで両親直々の承認を受けてきたという、香港の良家のお嬢さんたちの由。 そういえば容姿端麗かつ立ち居振舞いがお上品で、服部先生ご自慢の種であった。

 服部先生は自ら立って私達「朝顔」幹部をサービスし、このお嬢さんたちに給仕を命じた。 某嬢は私たちのグラスに酒をつぐ時差し出した手の袖口を残る片手でそっと抑えた、その楚々とした物腰の優美さに私たちは殺伐な戦いを忘れた。 「どうも服部シーさんの話は本当らしいな」 ということになった。

 ここでは広東料理を鱈腹頂戴することができた。 この食べ物も次の行動のための大事な準備の一つである。 この頃以後 「入港したら、有銭はたいても旨い物を食え、栄養が不足したら戦さは続けられぬ。」 ということが、艦長の信条となった。

 翌10日1000、ユタ04船団6隻を第18号掃海艇とともに護衛して、高雄向け楡林発。

 次の配船準備がこのように余り手際よくできている基地に飛び込むことは、有り難くないことである。 「待ってました」 とばかりにこき使われ、最少限の一晩しか休ませてもらえない、というのは不届きなる冗談であったが、護衛艦側の偽りのない実感でもあった。

 今度の船団6隻は、正に典型的な海南島発の鉄鉱石船団であって、各船は約1万トンの鉄鉱石を深々と積み、乾舷は水の上にわずかに見え、大きな波浪でもあれば舷を飛び越して船倉内に海水が侵入しそうであるが、そうはさせまいとして船倉上の各ハッチは厚板を被せ、その上に厚いケンバスをかけ、厳重な防水措置が施されていた。

 当時の海南島は既に早くから日本の掌握下にあり、ここの産出する鉄鉱石は日本にとって、重要戦略物資の一つであった。 したがって海南島から日本に何回となく鉄鉱石を運ぶこれらの船団の乗組員たちには、1トンでも多く運んで日本の戦力発揮に役立っているという強い使命感があった。

 しかし一歩海上に出ればこれを狙う敵潜がいた。 予備浮力の少ない鉄鉱石船団には、敵としては一本の実用魚雷でも惜しいくらいに、たちまちブクブクと沈められる危険極まりない代物であって、船団乗組員にとっては命の綱は唯に護衛艦だけであった。 万一の場合に船体、積荷を助けることなどはとんでもない空想であって、乗員を迅速に救い上げることだけが護衛艦ができそうな精一杯のサービスであった。

 また海上には、中国西部奥地の昆明を基地として、広く南シナ海を哨戒している四発重爆のB24がいた。 大体低速な貨物船ばかりであった上に、船腹深くもうこれ以上積めないところまで重い鉄鉱石を満載しているのであるから、実速は遅く(4ノット前後)第1日目に発見し引続き第2日目にも楽に捜し出しやすいという代物で、速力の早い飛行機から見れば広い大海原の中で、あたかも停止しているかのような存在であった。

 このように、敵潜敵機に対してひ弱い船団であり、また少しでも行き脚をつけようとして缶を焚くせいか、煙突から出る煤煙も比較的に多い船団でもあったが、船の型が揃っているという特長のほか各船長以下乗員の真剣さと慣れによるものか、船団結束は良いという特長があった。

 これについては門司あたりの船団会議で、元気のよい船長が立ち上がってあたりを見回し、

 「本船のような高速船が、速力の遅い船団と一緒に同じ航海をさせられることは、全くもって迷惑千万である。 一隻ぐらいの敵潜は振り切って突破する自信があるから、単独にて行動させてはもらえないか。」

 と陳述するような、活気の良い、また若干不十分な護衛兵力など有名無実であるという底意を持ったような空気は、この鉄鉱石船団には全然認められず、各船長は真剣・真面目で、落伍船もなく、船団隊形もよく纏まっていた。
(続く)

2009年02月01日

『聖市夜話』(第22話) 海南島の鉄船団(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 さてユタ04船団6隻は、海南島を後に見て黙々として南シナ海を東航し続けた。

 大体香港の南方ぐらいに差し掛かったとき、昆明から発進の見張番B24に見付けられてしまった。 その高度は高く、その距離も遠く、到底2隻の護衛艦の対空砲火の手の届くところではない。 「せめて水雷艇「雁」のような12サンチ砲3門があればなー」 と思う。

 敵B24の搭乗員達は、さぞかしコーヒーでも飲みながら、蟻のごとくセッセと鉄鉱石を日本に運ぶこのお粗末な低速船団を見下ろしていることだろうと思われた。

 私は敵機が万一近づいて悪さをする場合を考えて、念のため総員戦闘配置には付けてあるが、敵機は視界内を悠々度と飛んでいて、近寄る気配さえない。

 私は悠々たる敵機を見上げながら笑って言った。

 「俺達もコーヒーが飲みたいネー」

 艦橋にいる戦闘員たちは一斉に笑った。 しかし艦長の冗談に対して、番茶を持ってきてくれる者もいなかった。 こんなことは我が方の戦闘作業には存在しない事であった。

 この時、通信長・電信員長は素早くB24の電波に受信機を割当てて、敵の船団発見電報を今や遅しと待ち受けていたのである。

 上空のB24は、「今日の仕事はこれで終わり」 と言わんばかりに、悠々として西の空に去った。 B24が視界外に出るや否や、私は直ちに船団に対し約60度の大角度変針を命じた。

 それは、発見された位置から高雄にまっすぐに引いた線から、なるべく横に船団を反らして、今の敵機の発見電報により、高雄までの間で船団を攻撃しようと集まってくる敵潜に対し、船団を見せないための措置であった。

 したがって敵機にゆっくりと見せておいた船団針路から、ウント変針しなければその効果が薄いわけで、特に船団速力が遅ければ遅いほど、この変針角度は大きくしなければ効果は期待できない。

 電信員長が階段を急ぎかけ上がってきて、「敵さん打ちましたよ」 と言って電報を見せた。 もちろん内容は英文であるが、それは隠語さえ混ってない、全く生の平文である。

 「日本船団、貨物船6隻、護衛艦2隻、針路〇〇度、速力○ノット、地点(緯度、経度)」

 「何んだ! これなら召集したての学生さんにでも打てるなー」 と思った。 これに対し我が方はどうであろうか。 発信文を艦長か通信長が作る。 これを暗号員が暗号化する。 これを電信員が打つ、という順序になり、そしてこの電報は敵さんにも分からないし、その暗号書を持ってなければ味方でさえも分からない。 全く戦術的には完壁である。

 私は海図の上に記入された大角度変針後の針路を見ながら、明日明後日の針路を考えたが、我が船団の進み方の余りにも少いことにガッカリしてしまった。

 「何んだ、ドッチに逃げたって大したことないなー。 B24が明日またきたら、スグ捕まってしまうな。」 と唸った。

 別に爆弾を落とすでもなく機銃を打ち込んでくるでもなく、発見すれば平文で全軍に知らせる敵。 これに対し速力の遅い船団を護衛し、視界内にいる敵大型機に手出しすらできないで、しかも完壁な暗号を使う味方。 このおかしな対照は、正に 「戦略と戦術の戦い」 かと思われた。
(続く)

2009年02月03日

『聖市夜話』(第22話) 海南島の鉄船団(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私達もコーヒーを飲みながら、余り小さい喧嘩はしないで、もっと大きな所で敵の首をギューッと絞めたい。

 幸いにして、B24の発見報告に呼応して船団前路に待機していた敵潜も我が船団の数回にわたる大角度変針で振り落とされたのか、あるいはそんな潜水艦が元々近所に配備されていなかったのか、どちらかも分からなかったが、このユタ04船団は15日無事高雄に着いた。 イ36司令部では、また「朝顔」船団被害無しというので、信頼を一段と高めたようであった。

 この頃の某日、イ36司令官に行動終了報告を終えて退室しようとした私は、堀江義一郎参謀長(大佐)(43期)に呼び止められた。 参謀長いわく、

 「恥ずかしいことだが、当司令部は船団護衛の専門であるのにかかわらず、船団護衛の経験ある参謀が一人もいない。 目下イ36部隊の戦策を立案中で、ここに第1案ができているが、君がこれを見て気の付いたことを加筆してくれないか。」

 と言う。 私は若輩の身で、身に余る光栄と感激したが、何分にもゆっくり机につく暇がない。 行動中艦橋で書くより他に暇はないので、その皆答えたところ、参謀長はそれで良いから頼むとのことであった。

 私は、敵潜1隻を更に撃沈するかのような気迫で、この特命作業に取り掛かった。

 見れば第一案は、既に立派に纏まっている。 従来の帝国海軍伝統の教範式の名文であった。 しかし、それは机の上で静かに書かれた名文であって、荒れ狂う風浪の音なく、何日も入浴しない乗員の汗臭さもなく、何日も安眠できない神経の疲れもなく、心臓も止まらんばかりの恐怖もなく、肉片乱れ散る血液の生臭さも見受けられなかった。

 「よおし!」とばかりに、借越にも私は冒頭から、ほとんど全文を書き直してしまった。 この艦橋における作業を終わって、次の高雄入港時参謀長に提出した。

 それから約2か月経って19年7月、イ36戦策が活字になって「朝顔」にも配布されたが、その内容はほとんど私に渡された第一案どおりのものであって、私の私案は全く採用されていなかった。

 推察するに、私の案は余りにも具体的で血生臭さ過ぎ、無事泰平な70年の帝国海軍の伝統のうちに育てられた司令部幹部の目には、余りにも独断的な表現、戦策らしからぬ表現、と映ったのではないかと思われる。

 が、私としては、それまでの約20回の護衛の体験のエキスを絞り出したものであって、「こういう状況では何に注意せよ」、「こう困ったらこんな手がある」、「こんな海面ではどんな所が臭い」、等々のことを細大漏らさず表現した積りであって、いずれも具体的で、この要領で更に20年5月まで20数回の護衛を続けてみても、大過のないものであった。

 しかし惜しいことに、私はこの私案の写しを取らなかった。 後年海上自衛隊に奉職した時、最も悔まれた事項の一つであったが、今もう一度書いて見よと言われても、到底書けるものではない。

 しかし私は、この経験からみて今後の海軍においては、「戦策は艦橋にて起案すべし」 ということをお勧めしたい。 具体性に溢れた戦勝の要訣こそ戦策であって、またそれは時代によって変わってゆくものである。

 何年経っても通用するような戦策は、余りにも漠然過ぎて新任艦長の明日の戦闘に役立つ生々しい指針たることはできない。 当時のイ36司令部は、すぐ下に各護衛艦を持っていたのであるから、このような司令部こそ最も具体性の強い戦策の必要があるものと思われた。
(続く)

2009年02月04日

『聖市夜話』(第22話) 海南島の鉄船団(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 またこの頃、私は連続する航海中に色々な部下乗員から密かに労わられていることを身近に感じた。 それは交替者のいない一直配置の艦長に対する労りであった。

 艦長を除き先任将校以下若い水兵に至るまでの全員は、当直は3直か4直であって、当直が終われば自分の寝台でグッスリ眠ることができたが、ただ一人艦長だけは航海中、下甲板の艦長室に帰ることも全くなく、吹き曝しの艦橋のコンパス横の折椅子で仮眠するか、よくても艦橋左舷の魚雷戦発令所内の幅狭く丈の短いソファで、両足を伸ばすこともできずに仮眠していることを乗員はよく知っていた。 そしてこんな作戦行動そのものが私達護衛艦乗りの生活そのものであった。

 この生活のなかで疲れている艦長によく休んでもらおうという優しい心使いの片鱗を、駆逐艦勤務に長い老練な特務士官、准士官からも受けたし、また乗艦早々の若い水兵からも受けたし、また中堅である古い兵曹からも受けた。

 そしてその時刻も正子前後であったり、日出前であったり、日中であったり、要するに行動は1日が24時間であって、内地陸上勤務の3倍であり、戦時第一線勤務の恩給加算が3倍であることに合致しているかのようであった。

 しかし、この艦長に対する労りのなかで、古い幹部が若い電報取り次ぎに対して、「艦長は疲れている、ツマラヌ電報など届けて艦長の休養を妨げてはならぬ。」 と達しているのではないか、という錯覚に襲われた。

 ツマラヌ電報か重要な電報かを判断するのは誰がやるだろうか? ツマラヌ電報と彼等が思って艦長に到達することが遅延することを私は恐れた。

 若い電報取り次ぎは私が眠そうな目を無理にあけて電報を読む姿を見て、何か悪いことをしたかのように恐縮したが、実際正子過ぎの深夜に1時間おきぐらいに電報を届けられるのでは、眠りから心を覚めさすことだけに関しても大きな努力が必要であった。

 ある時電報放り次ぎは、つい声をすべらして私に対して「済みません」 と付け加えた。 私は言った。

 「艦長という役目はね、電報がきたらすぐ見ておかねばならない役目なんだよ。 いくら私が眠くても、お前たちは遠慮なく持ってきて私に見せてくれることを艦長は心で希望しているのだ。」

 そして私はいくら眠くても、絶対に不愉快そうな顔をしてはいけないと自ら深く戒めたのであった。
(続く)