2009年07月21日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 忙しい武装解除 (中国側の接収) も終わり、昭和20年10月8日には総連と上連は最後の指揮所であった水交社を中国側に明け渡して江湾路にある旧六三園に監禁され、中国海軍1個小隊の銃剣下に監視される身となったが、同隊長J大尉は汪清衛時代の和平海軍の軍官学校出身者で、当時同校々長をやっていた森司令官の教え子の1人であった。

 J大尉の森司令官その他に対する惰宜は終戦後といえども変わりがなく、かつ同大尉も他の軍宮学校出身者と同じく日本語で日本の海軍兵学校式に教育されていたので、日本語もよく通じ日本海軍の習慣にも通じていて、同じ捕われの身であっても六三園内の総連、上連司令部員はどれだけ助かったか分からなかった。

 すなわち園外から見れば私たちは監禁されていたが、園内からみれば私達にはJ大尉の指揮する1個小隊という保護者を持っていたのであって、J大尉はこの任務を上手に使い分けてくれた。

 例えば、私達は度々園外に連絡に行くことがあった。 かつて当直将校に連絡するような気軽さでJ大尉に言うと、すぐに車と衛兵を2〜3名実弾つきで付けてくれる。

 物情騒然とした上海市内では、中国陸軍部隊の縄張りが沢山あり、各地区で尋問され、1枚の許可書が共通して有効であることは望めなかった。 こんな時も同乗の中国衛兵は私たちに親切な通訳であり保護者であった。

 町の民衆は私達がどこかに連行されている途中と眺めたことであろうが、一方私達は中国衛兵がついているので暴民の危害を心配する必要もなかった。

 そして六三園内は畳敷きの和室であって、総連、上連、すなわち支那方面艦隊と上海根拠地隊の両司令部員が一緒になり、私達上根幕僚も福田長官を取り囲んで艦隊幕僚達と一緒に居留民から差し入れられた 「寿司」 などの御馳走にあずかる機会もでてきた。

 長官は神経痛がひどいらしくいつも部厚い衣服を着ておられたが、某日私の掌をとりながら言った。

 「君の人相骨相はマアマア合格だが、掌が冷たいことは良くない。 掌が温かくなるように修養し給え。 僕はこの道30年、僕の人相見はでたらめではないよ。 アッハハ。」

 私はへェーと吃驚して、海軍にもこんな大先輩がいるのかと面白く思ったが、以後長官の温かいフンワリとした掌が忘れられなくなった。
(続く)

2009年07月20日

聖市夜話(第38話) 戦い終わりて(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 次に私が愛刀と今生の別れをしたのもこの頃だったように記憶している。 忙しい毎日が続く某日、甲板士官か誰かが軍刀を集めに回ってきた。 それはいとも事務的であって、中国側立会いのもとに引渡すようなものでもなかった。

 私は行広を抜き払って打ち粉を打ち、古い油を拭い取り、冴え渡る刀身に見入りながら過ぐる数年にわたり各種の戦場で私を励まし守り続けてくれたその功績を賞し、そして今後私の身代わりとして敵陣に使いし、誰とも分からぬ外国人の手に渡ることを思いその永遠の健在を祈った。

 思えば私が兵学校教官時代に、最上級生徒の卒業前には剣道道場で真剣による試し切りが行われたが、径約2センチの青竹を中心とする径約18センチの巻き藁2本ないし2.5本を切るのが一般の切れ味であったところ、私の行広は3本を切ってなお下の木製の台に達することが多く、私は行広の切れ味をひそかに誇った。

 しかし行広を見るのもこれが今生の別れである。 私は何かこの愛児の形見が欲しいと思った。 36本矢の鍔を外そうか、はたまた銀のはばき(「金」偏に「祖」の旧字を書きます)にしようかと心は迷いに迷った。 しかしいずれ1個でも取り外した行広の姿は想像するだけでもバランスの欠けた痛ましいものであった。

 私は愛児のこれからの長い旅路を見送るに当たり、そのようなむごいことは倒底できなかった。 そして行広に謝りながら長年連れそってきた古い木綿の下げ緒だけを引き抜き私のそばのわずかな形見とした。

 当時の情勢からみて、私の行広は中国湯恩伯部隊、又は米第9艦隊の高級将校の手に渡ったのではないかと想像されるが、その後大事にされているならそれでよい。

 しかし万一不遇な扱いをされているようならば、所持者はなるべく早く私に戻した方が身のためである。 当時の私はやむなく命令で手離したのであるが、今こそ喜んで愛児を迎え入れるであろう。

 行広が毎晩夜泣きしているのでないかと思うと私は身を切られるような気がする。 行広に関する限り私の戦争はまだ終わっていない。 いつになったら終わることであろうか。
(第38話終)

2009年07月19日

聖市夜話(第38話) 戦い終わりて(その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 そしてこの情勢に対処して、蒋総統の中国正規軍 (重慶軍) からは、進駐早々私たちに 「求人募集」 がやってきた。 初めは有志だけのことかぐらいに思っていたが、段々先方の熱意の強さが分かり、各部隊は全員の履歴書をそろえて提出し、これが司令部の机の上に山と積まれた。

 先方の条件は現階級を2段進級させてやるということで、私達は小学校からの学歴職歴を詳しく書いて、志望するか否かの望否を明記したのであった。 そして先方の勧誘文の趣旨は

 「長い戦争御苦労様でしたが、貴方は今から故郷に帰っても、祖国は焼け野ケ原になっていて当分職場もないことでしょう。 それよりも貴方の技術と経験を活かして新中国の建設に協力してみませんか。」

 というものであって、私たちの技術経験というのは海軍のそれであって、また当初の仕事は後から進撃してくる共産軍及び雑軍を阻止することにあることは皆よく判断していたので、望否に望と書いた人はほとんどなかったように記憶しているが、全員が強制的に9月16日から10月7日までの頃に提出させられたと記憶している。

 また 「終戦」 と聞いて、気の早いごく一部の者 (派遣隊など) は皆と相談し、兵器、弾薬を身に着けてさっさと中国軍に転職(?)したらしい分隊もあって、その事実が明らかな者は逃亡者名簿に、単なる脱艦者は行方不明者名簿に記録されたが、世の中には手回しが良すぎて軽卒に決断する者も少しはいることを知った。

 これらの転職(?)組は、いったん中国軍の中に入ってしまうと、顔が同じなので見付け出すことも困難であることも転職を心やすく決意させた一理由かと思われるが、戦後の今日になって彼らが今どこにいるかと思うと、当時のことが懐かしくおかしく思いだされる。

 ついでに中国共産軍 (毛沢東軍) からの勧誘も御紹介しておこう。 重慶軍第一の精鋭と言われた湯恩伯部隊が上海に進駐してきた直後、ある日大型砲艇の艇長原田経秋(?)特務中尉が私の所にきて、

 「町で共産軍某大佐 (平服姿) と知り合いになって以来、同大佐は再三私を訪ねてきて、共産軍に志望する人を世話してくれとひそかに熱望されているが、いつも先方からお土産ばかりもらっていて少し具合が悪いので、今度はこちらから牛肉の5斥でもぶら下げて行って、共産軍の様子でも聞いてこようかと思っている。 その牛肉を買いたいので機密費を出してくれないか。」

 との申出があった。 私は重慶軍が進駐してきたばかりなのに、幾ら平服姿とはいえ同じ市内に共産軍大佐が早くも潜入して我が方に重慶軍と先を争って勧誘し来ったことの、その大胆さと熟心さに屹驚したが、またこれは面白いと思った。

 というのは原田中尉は現役をやめてから土建会社の社長をやっているとき召集を受け、最後の御奉公とばかりに勇躍従軍中の50過ぎの親分であって、度胸といい貫禄といい気略といい、十分に共産軍大佐と対抗できそうな人物であったからである。

 早速先任参謀から機密費を出してもらって同中尉に牛肉代を渡したことは記憶しているが、この後の共産軍情報についてはどんな土産話があったかは覚えていない。

 原田親分が牛肉をブラブラ下げて訪問する光景は想像するだけでも愉快であった。 そして日本人も北軍と南軍とに分かれて戦うならば、同一民族同士だから共産軍大佐のような大胆なこともできるかもしれないと思うことであった。
(続く)

2009年07月18日

聖市夜話(第38話) 戦い終わりて(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 上海方面の海軍部隊の武装解除、すなわち接収は9月13日に始まり、次々に各部隊を一通り済まして25日には終わり、後はじっくりと莫大な数量、種類の武器、弾薬、物資にわたって点数を点検しながら接収が行われ、これを 「点収」 と称したが、さすが文字の国中国は面白い表現をするものと思った。 そしてこの点収が終わったのは翌年の2月8日であった。

 上海より上流の南京海軍部隊も10月5日に、更に上流の漢口海軍部隊も10月上旬に、また南京と漠ロの間にある九江海軍部隊も中旬に接収が完了して行った。

 ここで順序として忘れることのできないことは、中国 (重慶軍) 蒋介石総統の終戦に際しての訓示であった。 すなわち、

 「日本人に対し復仇の念をもって遇することなかれ、中日両民族が復仇の念を忘れなかったならば、両民族は仇をもって仇を返すことを繰り返すに終わり、永久に友達とはなれない。 戦は終わった。 今こそ中国人は復仇の念を去り、日本人に手を差出して友達とならなければならない。」

 という趣旨であった。 そしてこれを私が知ったのは、あるいは文書で見たかもしれないがそれは記憶には残っておらず、専ら次から次へと進駐してきた部隊の特に末端の兵士からであって、どの兵士にもこの蒋総統の訓示が徹底していることに驚き入ったのであるが、この訓示の趣旨は私たち敗者側に強い深い感銘を与えた。

 数多き連合軍側の将軍提督たちの中でも、このように立派な人生の哲理を説いた戦勝者側は一人もなかった。

 戦時中某国議会では 「猿のような日本人はこの地球上から抹殺されるべきである」 と提唱され、また日本でも 「鬼畜米英を倒せ」 と絶叫されたのであるが、万一こんな精神状態そのままで中国軍が上海、南京、九江、漢口の地に進駐していたならば、各地で再び戦火は発生し、あるいは中国を大混乱に陥れたかも分からない、という点から見れば蒋総統の訓示はまた政治的、軍事的にみても真に有効なものであった。

 しかも私として密かに最も嬉しかったことは、蒋総統訓示の前に森司令官の 「東洋平和の担い手は今後中国海軍である」 という方針が打ち出されていた点であって、森司令官方針と蒋総統訓示とは、計らずも東洋人同志の打てば響くような応酬に似た形となったことである。

 また中国重慶軍が進駐してきて、町の角々に番兵が立ち出した頃、この背後に中国共産軍が追撃してきているという情報が流れてきたが、これに対しても森司令官の砲艦急速整備の先手が効いていて、終戦翌日の発令によって整備された5隻の砲艦 ( 「鳥羽」、「多多良」、「勢多」、「二見」、「熱海」 ) は整備を完了し、9月5日には上海を出港し長江上のそれぞれの配備点に向かって遡航していたのであった。

 私は森司令官の手回しの良いことに驚いたが、こんな遠謀は南西航路の護衛ばかりやっていた私にとっては思いもつかぬ中支情勢であった。
(続く)

2009年07月17日

聖市夜話(第38話) 戦い終わりて(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 上海港はたちまち米国の近代艦艇によって賑やかになったと思ったら、港内岸壁にある旧支那方面艦隊司令部に米陸軍碇泊場司令部が乗り込んできて、その一室が上連部連絡室に当てられ、扉に連絡参謀森少佐の名前が貼られ、この部屋に常勤者としてかって米国プリンストン(?)大学に留学した山本素明海軍中尉とハワイ(?)出身2世で上海の日本海軍に従軍中の中広兵曹が選ばれ、私は毎日1回この連絡室に顔を出し後は電話によって連絡を取った。

 私は扉の中央の自分の名札を見る度に光栄に思ったが、戦事中英語に遠ざかっていたことを悔やんだ。 しかしすぐ間に合うものでもなく、正確なことは万事練達の2人に期待した。

 このときの強い印象は恐縮ながら 「日米食事比べ」 であった。

 私が同室を訪れるのは大抵昼食前となり、この室で米軍給与の昼食をとりながら詳細な話を聞いた。 この庁舎の給仕たちは中国人であったが、山本中尉たちは他の室の戦勝軍達と同様に威勢良く私の食事用意を給仕に命じていた。

 出てくるものは肉類、豆類の缶詰と目玉焼ぐらいで、米軍食は一般に強い甘口と感じたが、この食事を腹八分に食べて上連司令部に帰って我らの夕食をとると、大抵茶碗2〜3杯で間に合うのが常であったが、何かの都合で米軍食を食べなかった日の夕食は、5杯以上食べてもなおかつ就寝時空腹を感じ、私はこの米軍食の威力に驚き、「敗れるに至ったことも当然か」 とつくづくと感じたのである。

 ちなみに当時の我が司令部の糧食は米は十分に豊富であったが副食がなく、葛の蔓とか葉がわずかに味噌汁に入れてあるだけであったから、ことさらに比較差を強く感じたらしい。 この魅力があったのでこの連絡室は私にとってガソリンポストであった。

 またこの庁舎の岸壁の前面は米艦隊の泊地であったので、「米海軍艦艇の当直員が、当直中の服務が極めて厳正である」 というようなことも話題となり、遅まきながら、なるほど米海軍は好敵手であったと思った。

 次いで目の回るような9月も終わろうとする30日夜、在泊米艦々上で映画が行われている最中、どこからともなく小銃流弾が飛んできて乗員1名が甲板上で負傷した。 米艦隊は 「上陸」 を主とする浦東日本海軍集中営から飛んできたとして厳重な調査を命じてきたが、もちろん軍紀厳正なる我が方に発射の事実はなかったが、米艦隊は犯人が出せないなら責任者を出せということで、ついに10月4日浦東統制官であった上海陸戦隊司令官勝野少将 (実、40期) は中国陸軍に拘禁されるに至った。

 私達はこの物的証拠もない一方的な措置に憤慨したが、今や丸腰の身にとってはなす術もなく、またもや敗戦の現実に直面した。 しかし幸いに勝野少将は2箇月後の12月2日に釈放されたが、この間私たちが勝野少将の安否を気遣う心配は深刻なものであった。
(続く)

2009年07月16日

聖市夜話(第38話) 戦い終わりて(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 一方、部隊側としては上海陸戦隊を主体とする約4,500名が長い伝統に輝くそれぞれの建物を後にして浦東地区に集結したが、この地区は中国軍側の呼称では浦東集中営という名前となった。

 私は17年10月から印度洋で散々叩かれ、次に南西太平洋で九州と南方との間にピストン運動を繰り返すうち、ピストンの行程が段々短くなってついに門司からも出られなくなり、瀬戸内海に閉じ込められてしまってから上海戦線に赴任した者であったから左程の感傷はなかったが、ここ上海においては、貴い幾多英霊の犠牲のもとに護り抜かれた各部隊の建物、大きく言えば上海方面日本国収益を、一戦も交えずしてただ一つの命令によって明け渡すことに関しては、上海方面の日本軍と居留民はその大部が上海に長い生活を続けていた人達にとって、営々として豊かな物資を備蓄し終わって、敵米軍来りなば約4年間は抗戦して祖国の戦勝に寄与しようと奮い立っていたのであるから、住みなれた隊舎、武器弾薬と別れ、丸腰で集中営に移ったときの無念さは私の想像を越えるものがあったであろう。

 私は既に敗戦に近い戦場を幾度か体験してきたが、彼らはこのとき初めて、しかも平和裏に人為的に敗戦の現実を如実に体験したのであった。

 赤道直下の昭南 (シンガポール) も占領後は平和境をしばらく続けたのであったが、ここ上海は昭南と違い長い歴史と貴い人血によって守り抜かれた中国における我が国権益の拠点であった。

 私の級友2人も1年目少尉のとき艦隊陸戦隊として揚陸し壮烈な戦死を遂げて期会々報の劈頭に記録され、以来中国にある我が国の権益を守るために倒れた私の級友だけでも幾人を数えたであろうか。 そして支那事変はますます泥濘に踏み込み、月々火水木金々の猛訓練は続き、戦死者殉職者は相次ぎ、私は 「こんなに消耗を続けていていったん有事の際果たして大丈夫であろうか」 と、開戦のはるか前に憂慮したのであった。

 しかしついに長い戦は終わった。 私達の上根司令部はめまぐるしい次々の作業を迅速に進めるため、一つ一つについてゆっくり感傷にふける暇もなかった。

 長い間日本祖界の生命の親として活躍した上海陸戦隊が、居留民の生命財産の保護をかつての敵軍に託して集中営に移った当日、総連部長 (支那方面艦隊長官) は湯上将と初会見し、上連部長 (森司令官) は米海軍ミールス司令官に初会見した。

 次いで、20日には米艦艇約20隻が初めて大量に上海港に続々と入港してきた。 これこそ我らの真の相手であった。 私たちの目は一斉に米艦隊の威容に注がれた。

 「ようやく乗り込んできたなー。 さては9月始から実施中の掃海が一部通れるようになったなー。」

 と私は思った。
(続く)

2009年07月15日

聖市夜話(第38話) 戦い終わりて(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この頃と記憶するが、私は中国語のできる某中尉を連れて南京に使いに出された。 軍帽は目立つのでかぶらず、軍服も目立つので上から雨着を着て隠し、中国民衆で混雑している鉄道で往復したのであるが、私にとっては初めて見る中国の駅であり中国の汽車であり、万一民衆の1人が激昂して 「この日本人を殺せ!」 とでも呼ぶならば、私たちは無防備で彼らの思いのままとなるべき決死行であった。

 しかし幸いにも同席の中国人は車のすみに少さくなっている私たちをジロリジロリとは眺めていたが、何らの害を与えなかった。 この時の心細さは私に敗戦の実感を強く与えた。

 緊張の数刻の後、南京海軍武官に温かく迎えられてご馳走になり、ようやく人心地がついたことを鮮やかに記憶している。

 この時の同席の中国民衆は実に冷静であった。 あるいは長年の外国の侵略から一陽来復新生中国の発足を待つ欣喜で一杯で、日本の敗戦軍人の姿など意に介しなかったのかもしれない。

 9月に入って3日には、森司令官の呼称が終戦処理統制官から終戦処理指揮官と改められ、我が方としては準備整い、戦勝国軍の代表の到着を待つうち、7日になって中国陸軍湯恩伯部隊が進駐を開始し、市内の角々には同部隊の番兵の姿が賑やかになり出した。

 また一方米艦隊は揚子江口を掃海中であることが8日泗礁山から初めて発見されるに至った。

 次いで9日には南京調印が行われ、10日には揚子江口に日本海軍が敷設していた機雷に対する掃海に関して、米海軍は下流から日本海軍は上流から行うことに打合せ決定を見た。

 この敷設数は3箇所に分かれていて、機雷計66個、妨掃具計173個というものであり、我が方では上記打合せの前日9日から既に掃海を開始していたのであった。

 湯恩伯部隊は13日から上海方面日本軍の武装解除を始めたが、中国側はこれを 「接収」 と呼んだ。

 同日海軍側は海軍側同志ということで、森司令官は江南に停泊中の中国砲艦上にて中国海軍総司令の陳紹寛上将と初会見して、今後の接収の基本方針を打合せた。

 私は司令官に随行して一部始終を親しく見聞する光栄に浴したが、その光景は全く私の予想に反して世にも珍しくユーモラスで、さすがの森司令官も吃驚して初の会見を終わったようであった。

 翌14日森司令官の呼称がまた変わって上海方面日本海軍連絡部長ということになった。 中々よく変わったものであるが、この呼称が最後となり内地復員まで続いた。

 16日になって、支那方面艦隊司令部である総連も、上根司令部である上連もそれぞれ住み慣れた建物を明け渡して、一緒に司令部を水交社別館に移した。
(続く)

2009年07月12日

聖市夜話(第38話) 戦い終わりて(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 さて終戦が確実になってみても、だれも敗戦の経験がないからどうやったら良いか分からない。 もちろん帝国海軍にも敗戦要領を教える資料は何もなかった。 しかし司令官は中支部隊指揮官として、将来の大局を見て次のような方針を示した。

  1. 日本海軍解散後、東洋の平和を守るものは今後中国海軍である。

  2. 当部隊は現有している艦艇兵器弾薬類をこの際最良の状態に整備して、後継者中国海軍に引継ぐ。

  3. 中国海軍に引継ぐまでは、特に長江水路を確保して共産軍などの南下及び渡河を阻止する。


 以上は私の記憶による要旨であるが、この大方針によって早速翌16日には、復興島 (旧名昭和島) クリーク内に20年5月から係止されていた砲艦7隻の急速整備充員が発令された。

 これら砲艦は長江上の作戦を得意とするものであって、喫水が浅くて居住性が良く、長江水路を確保するためには不可欠のものであったが、大東亜戦争(対米作戦)の最終態勢としてクリーク内に係止し、その乗員整備兵器を陸上に転用していたものである。

 すなわち対米戦のためには不用となっていたが、今度は中国 (重慶) 軍の背後に迫る共産軍に対しては不可欠のものと一転したのである。

 なおこの7隻のうちには旧米国砲艦 「ウェーク」(日本名 「多多良」) と旧伊国砲艦 「カルロット」(日本名 「鳴海」) も含まれていたが、「鳴海」 と 「隅田」 は急速整備の見込みがなく江南に係留のままとなった。

 次いで17日には、麾下離島部隊の舟山島及び泗礁山部隊が、それぞれの周辺要地に出している見張所とか派遣隊を、それぞれの本隊に復帰させるように発令された。

 次いで20日には、シナ方面艦隊の命令で南京警備隊が森司令官の中支部隊に加えられた。 これは対米戦なら上海の次ぎが南京であるが、対中国共産軍作戦となれば南京は上海から見て第一線となるからの布石であろうと私は思った。

 大体上海方面は、終戦時まだ向こう4箇年戦争を継続できる物資を既にそろえ終わっていると聞いていた。 そして終戦になった。 そして私たちが後継者として期待しようとした重慶軍の後には、全土にわたって共産軍が追及しつつあったのである。

 すなわち、終戦と聞いて翌日には砲艦の急速整備を発令し、5日目には南警を中支部隊に編入されたことは、対米作戦から対共産軍作戦への電光石火の作戦転換の早業であったと思われた。

 そして29日には、森司令官が上海所在の海軍各庁を終戦処理に関して統一指揮することになったので、私たち幕僚室の連絡先は一挙に数倍に膨れ上がった。
(続く)

2009年07月11日

聖市夜話(第38話) 戦い終わりて(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 新米参謀上根に着任し約50日は瞬く間に経過して行き、祖国の運命は遂に終結に達した。

 8月15日重大放送があるから、全員武装して中庭に集合を命ぜられた。 陛下のお言葉であることは分かったが、電波の雑音で御趣旨がよく分からない。 御放送が終わるやいなや司令官は隣の私に尋ねた。

 (司) オイ、森参謀分かったか?

 (私) よく分かりませんでしたね。 これでやめるとも言われたようですし、ますますしっかり戦えとも言われたようですし。

 (司) 俺にもそう聞こえた。

と司令官はいつものいたずらっぽい笑顔を見せた。

 その後電報で終戦の詳細が刻々判明してきた。 司令官と先任参謀は日本からの電報に基づいて、今後の基本方針を立てるのに忙しそうであった。

 同夜巡検後寝に就いて明日の運命をあれこれと思い巡らしていた私の耳に、どこからともなく 「ヤーコラコラ」 というかすかな音が入ってきた。

 私は司令部下士官兵の終戦祝いと判断し、寝衣に行広の大刀を提げて声の部屋を探し求めた。

 案の定司令部の顔知りばかりが数名、車座になって祝宴を始めたばかりであった。 私は大刀片手に大声で叱った。

 「戦い終わったことはお互にホッとするところだが、祖国が負けたのであるぞ。 今後どうすれば良いかと皆が悲嘆にくれているとき、司令部員が真っ先に祝いをやるとは不謹慎である。 すぐ片付けろ。 グズグズしているとブッタ切るぞ!」

 皆もやはり心の中でちょっと早過ぎるのでないかと思っていたらしく、すぐ素直に私の言に従ってくれ事なきを得た。

 私は表面嚇しを効かしていたが、内心は海軍の下士官兵の気分転換の良いことはプラスの一面と駆逐艦長時代からかねて思っていたので、何もこんなに大声でしからんでも艮かったのでないかと、寝衣に大刀の我が姿が恥ずかしくなってコソコソと寝室に戻った。
(続く)

2009年07月10日

聖市夜話(第37話) 再び東海の嵐をついて(その9)

著 : 森 栄(海兵63期)

 これのついでに開戦前の北部仏印平和進駐時の思い出を御紹介しておこう。

 当時私は兵学校教官 (大尉) であった。 ある夜、教官以上は行幸紀念館に集まれという連絡があり、約100名の参集者を前にして、教頭兼監事長寺岡謹平当時少将 (40期) は沈痛冷静のうちに、北部仏印の前線における海陸両軍の進駐経過を語った。

 即ち中央における両軍協定に基づいて発せられた両軍それぞれの命令は、海軍側は最前線の掃海艇にまで漏れなく徹底していたにかかわらず、陸軍側では南支駐留軍において大きな変更があり、したがって最前線における両軍の足並は揃わず、遂に海陸連合の行動は破綻を来したということであって、今後連合作戦に従事する諸官は、陸軍にこういう面があることを知っておいてもらいたい、と教頭は結んだ。

 この話は約1時間以上にわたったと記憶しているが、席上寂として声なく、教頭が言わんとして言うことのできない苦悩を察して、特に若い私たちには初めて耳にした一大警鐘であった。 またこの教頭訓話は私の海軍在職中最も有効貴重な訓話であったという点でも特筆に値しよう。

 それまでの私の中、少尉時代には、血気盛んな私達が一言陸軍を非難すると、

 「そんなことは軽々に言ってはいかん。 国家内には海陸離間を策動する者あり、これらに乗せられるから陸軍を非難するなかれ。」

 と戒められるのが常であった。

 しかし今になって教頭訓話のような国家的不統一な現状に立ち至ってしまったことは、誰の責任であるかと私は内心憤慨を禁じ得なかった。

 また戦後になって考えてみても、少なくともこの時点において、第2次大戦に突入するような計画は大きな目で考え直されるべきではなかったかと思う。

 一般には同じく結果論ではあるが、ノモンハン事件の時点で考えられるべきであったと評する人も多いが、当時は同事件の結果は全く極秘とされ、私達にも真相は分からなかった。

 今後は防衛機構も違い、また統幕もあることだし、こんな馬鹿げたことは起こらないかもしれないが、この辺の指導の責任はやはり高級幹部にあると思われるのである。
(第37話終)

2009年07月09日

聖市夜話(第37話) 再び東海の嵐をついて(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 次にC参謀は司令部内日常業務を紹介しながら語った。

 「軍司令官はもう大分ボケておられるから、大事な書類は下らん書類の間間に入れておけばすぐ通過してしまうんだ。」

 とその手際艮さを誇った。 それまで笑いながら聞くだけであった私も、ここに至っては一矢報いざるべからず、と目を覚まして発言した。

 「ほほう、海軍とは大分違いますなー。 私たちの司令部では毎日の書類を大体次の3種類に分け、

 第1 是非すぐ見ていただかねばならぬもの (例えば高さ約2センチ)
 第2 状況許せば見ていただきたいもの (例えば高さ約10センチ)
 第3 次席者ぐらいに代行させてもよいもの (例えば高さ約30センチ)

 そして司令官の真ん前に第1の書類を置き、後重要度に従って並べるのが参謀の役目ですヨ。」

 C参謀は海軍参謀の余りにも気の利かない杓子定規を笑うような顔をした。

 以上の談話はいずれも会議上の席ではなく、会議の余暇における同年配同士3〜4名の間の談話であって、またこの中で共通して感じられたことは 「彼は豪傑」 という表現の多いことであった。 私は以上を聞いて

 「この部隊は豪傑志望者の多い部隊のようだなー。 軍司令官を誤魔化すようなものは国軍といえるであろうか。」

 と思った。

 しかし会議の席上における発言は海軍のものに比べて極めて活発で、弁舌爽やかで、文学的、政治的かつ感激的で、発言者が今すぐ軍司令官に代わっても良いような頼母しさすら感ずるものであった。

 これに比べれば海軍のは性能に関する数字計算が多く、また基礎となる命令の文章の法律的解釈が多く、あくまで事務的であり、また豪傑はおらず、最高指揮官とその部下の各級指揮官が光っていて参謀はやはり番頭さんであった。

 この両者の違いの明らかな理由の一つに、

 「第一線に出た陸軍参謀は、指揮官の命を仰ぐ手段のないときは、指揮官に代わって麾下部隊を指揮できる権限がある。」

 ように聞いた。

 即ち少佐の参謀が中佐・大佐の部隊長でも指揮する場合がある、ということであって、海軍では中佐の参謀といえども大尉の指揮官を動かすことは御法度であり、参謀はあくまで補佐官で、部隊を指揮する者は各級指揮官として尊厳をもって遇せられたのであった。
(続く)

2009年07月08日

聖市夜話(第37話) 再び東海の嵐をついて(その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 その後の某日、私は麾下離島部隊の最も大きな舟山島警備隊(司令藤野清秀大佐(機31期)以下約2,600)に連絡のため派遣され、生徒時代から数えて約9年振りに下駄履きの水上偵察機に乗って、江南ドック付近から離水し南西約80マイルの舟山島定海に向かった。

teikai_map_01_s.jpg
( 元画像 : Google Map より )

teikai_01_s.jpg
( 旧海軍史料による定海付近配備図 )

teikai_sat_01_s.jpg
( 現在の舟山市定海、当時とは全く変わってしまっています  Google Earth より )

 この時敵機群が沖縄より上海に来襲し、途中で危うく鉢合わせになりそうになり、操縦員は同機の優れた旋回性能を活用して直下の島に急降下しながら、島の回りをグルグル旋回して敵機をやり過ごしたことがあった。 これも私の命拾いの一つになった。

 藤野司令は当時の帝国海軍では珍しい機関科出身の警備隊司令で、大きな舟山島全島の王様として善政を敷いていた。 また御自慢の隠し芸は料理であって、腕前は奥さんより上だそうであり、私たち客人は遍く司令のご馳走に与ったのであった。

 歓迎晩餐の後の定海の月は澄み切っていて、またも 「戦争さえなければナー」 と思うことであったが、この部隊の位置は沖縄の敵が中支に来攻する場合にはその南東最前線であった。

 また某日私は司令官より命ぜられて、舟山島警備隊副長の吉田謙吾中佐(58期)とともに、陸軍某部隊の作戦研究会に海軍側連絡参謀として行った。

 この陸軍司令部には数名の参謀がいて、特に私と同年配の少佐参謀たちは珍客来るとばかりに会議の間 (約2泊3日) 大いに歓待してくれたが、私は残念ながら上海出発前からの下痢が止まらず、豪華な中華料理を目の前にして処理に困った。

 この時と記憶しているが、段々打ち解けてきてA参謀は自己紹介の際私に誇らしげに語った、

 「私は陸大を出てからはとんど東京を離れませんでした。」

 ほほう、これは大分海軍と違うなー、私達は最も優秀な者が第一線に出る習慣であったから、第一線を知らず東京を離れなかったということは、海軍では決して自慢にはならず、むしろビスの1・2本が抜けている片輪者である意味となったのである。

 次にB参謀は部隊展開状況の説明のついでに語った。

 「この部隊長E大佐は慎重居士で余り役に立たぬ。 この部隊長F中佐は猪突盲進型で大いに指導監督を要する。」

 私はこの少佐参謀が軍司令官の中将閣下に早変わりしているのではないかと我が目と耳を疑った。 海軍では部外者に対しては各級指揮官ですら、部下をこのように語る者はなかったし、まして少佐の参謀が自分より上級者の指揮官をかくも酷評することは絶体になかったし、また一般の空気は各級指揮官の発言こそ活発であったが、番頭役の参謀の発言はいつも慎重で物の両面を備えた発言をすることが常道とされていた。
(続く)

2009年07月07日

聖市夜話(第37話) 再び東海の嵐をついて(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 次に「蓮」と「栗」の2隻の駆遂艦長は中村苫夫少佐(60期)と高根嘉根次少佐(予備)で、年配も私に近い先輩でしかも「朝顔」と同じ2等駆逐艦であったので、これらの艦を訪問することは一番楽しく心やすいものであった。

 2隻とも終戦まで大活躍をして、侮って接近する敵飛行艇を手許に引き寄せ各艦各1機を撃墜し、中の1艦は中佐以下約十数名の乗員を収容して司令部に引渡した。

 この捕虜を取調べろということで、支那方面艦隊から赤木(敏郎)参謀(58期)、上根から私が立会った。 彼らは一人ずつ調査室に連行され私達の前に座らせられた。 赤木参謀は命じて温かい紅茶を一人ずつに供した。 手錠で両手首を結ばれながら両手で茶わんを持って美味そうに味う姿は哀れであったが、適確な返事が得られない。 私は軍刀で少し脅して見ましょうかと赤木参謀に呟いたとき、同参謀は私に言った、

 「森君、それには及ばんヨ。 僕たちの任務はこの捕虜の中で東京に送る価値のある者を選べばよいのだ。 正確な調査は東京でやるさ。 手荒なことをするとウルサイからね。」

 私は軍力を引っ込め、調査は終わり。 結局4名東京送り、残り13名は上海憲兵隊に引渡した。 ところが終戦後この残り13名の処分について上海憲兵隊は隊長以下約3,000、逆に連合軍の取調べを受け多くの戦犯犠牲者を出したと聞いた。 私は自分の首筋をさすりながら赤木参謀の一言に感謝したのであった。

 某日森司令官に随行して麾下部隊の中支航空隊 (司令梅崎大佐(卯之助、40期)以下約3,000) に巡視(?)に行った。 同司令は応召であったが司令官と同期で心やすい間柄であった。

 飛行場に接近する直前、「敵航空部隊中支空に向かう」 という情報に接した。 司令官は 「そのまま行け」 と命じた。 飛行場に着いた途端敵影の先頭は既に視界内に達し高角砲台は戦闘を開始し、司令官一行は最寄りの防空壕に入り、飛行場に対する投弾は地響きを上げ、防空壕は多数の至近弾で包囲され、壕体は激しく揺れ天井から泥が落下して全身泥だらけとなった。

 敵機退散後、泥だらけの司令官とともに防空壕から出た私は、「今日も命拾いしたナー」 と天を仰いだが、司令官は顔の泥をふきながらいつものいたずらっぽい笑顔で 「今日は危ういところだったネー」 と大笑いした。
(続く)

2009年07月06日

聖市夜話(第37話) 再び東海の嵐をついて(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は今までは洋上の艦艇指揮官でいわゆる各級指揮官の一人であったが、今度は参謀、いわゆる番頭であり、受持ち事項について我を没して献身的に司令官を補佐することが役目であった。

 指揮官は全般を見て、多くの計画の中からただ一つの実行案を決定しこれを実行することが役目であったが、参謀は考えられるべき多くの計画を立てて指揮官の決定のために提供することが役目であった。

 したがって、参謀を体験した後指揮官をやることと、指揮官を体験した後参謀をやることはそれぞれの特徴があり、いずれも海上武人の人格完成上重要な修練過程であると思われ、別に参謀の後が指揮官と限定すべきものでもないと思われた。 また参謀と指揮官以外の一般職との間の違いは余り大差がないような感じがした。

 即ち、私は今までは水雷艇「雁」と駆逐艦「朝顔」の指揮官として思い出を綴ってきたが、これから以後は、上根全般についてではなく単なる一幕僚として勤務中に体験した参考事項を、気楽な気持ちで御紹介して皆さんに提供しようとする次第である。

 私は上根参謀受令のとき、水上部隊で苦労した者として麾下艦艇が入港する時は必ず入港岸壁に出向いて、艦艇長の苦労を労い戦訓を聞いてやろうと思ったが、次席参謀の担当事項は水上部隊だけでなくその他多種多様の項目があって、初志どおりの十分なサービスをすることはできなかった。

 「安宅」、「宇治」、「興津」という3隻の各砲艦長は、いずれも大先輩の寺西大佐(竹千代、46期)、古谷野大佐(均、49期)、肱岡(虎次郎)少佐という人達であって、この中で肱岡少佐(海兵45期)だけは第一海上護衛隊(高雄)時代からの旧知であった。

 同艦長は奇行の士で早く現役を去り、郷里の女学校の先生をしていたところ召集を受け、高雄の頃は海防艦長であったが、

 「敵が出現すると、わしが泡食って鹿児島弁で号令を掛けるので、兵隊は艦長の怒鳴ることが分からん。 やはりわしの艦には鹿児島の兵隊を乗せてもらわにゃいかん。 アッハッハッ。」

 と大声で笑っていた。 現役を首になった時の経緯も正に天下の傑作で、海軍大尉と人力車夫の中身を代え、肱岡先輩が梶棒をとって町内をスタコラ走ったそうであって、艦長室のソファーで私にさも懐かしそうに往時を語ってくれた。
(続く)

2009年07月05日

聖市夜話(第37話) 再び東海の嵐をついて(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 さて私が着任した上海方面根拠地隊は支那方面艦隊の下で、中支担当海域の防衛に当たっていて、その司令部は上海陸戦隊本部の3階 (注1) にあった。

 通称 「上根(シャンコン)」 と言い、その麾下には私の着任当時は艦船部隊として砲艦3、駆逐艦2、警備部隊2 (舟山島・南京)、上海港務部 (砲艇など多数を有する) などがあった。

 上海根拠地隊司令官は森徳治少将(40期)で先任参謀は池田貞枝大佐(51期)、そして私を待っていた次席参謀は富川恵三中佐(55期)であったから、私は一挙に8期上の先輩から引き継ぎを受けることになった。

 司令官と先任参謀は8期も若くなり、かつ新米参謀の私に手を取り足を取るように親切に指導されたので、いつも針金を抜いた軍帽を愛用したような私の折目も付き出し、また印度洋と太平洋でスッカリ殺伐となっていた私の気分も段々に和らいで行った。

 司令官は機略縦横、当為即妙、万事ユーモラスのうちに仕事を片付けてしまうような人であったが、着任早々の頃、整然と並んだ食卓で左横の私に、

 「オイ森参謀、この鰻は港務部長今村大佐(幸彦、42期)から送ってきた揚子江の鰻だ、美味いぞ。」

 と言われた。

 私は揚子江の鰻と聞いただけで胸が詰まってしまった。 それは昔ある戦場に多数の土左衛門を見、その頭蓋骨の上に止まって鋭い嘴で脳味噌を突つく烏か、遺体の周りにグルリグルリとまつわりついている鰻を見ていたからであった。

 「はい」 とだけ返事して、鰻の蒲焼きに一向に箸をつけない私を見て、司令官はまた悪戯っぽい顔をして私に言った。

 「何故食わんのか、貴様が食わんのなら俺が食ってやる。」

 私は助かって、皿を司令官に回した。 私はその理由をついに最後まで明かさなかった。 楽しい食卓で皆さんの食欲を一挙に落とすような思い出話は到底できるものではなかった。 しかしこの揚子江の鰻の一件で、新任の私は司令官を身近に感じたのであった。

 先任参謀は前「大和」の航海長 (注2) だったと聞いた。 典型的な航海屋さんで謹厳、緻密、周到、諸法令に明るく、それまで第1線の単独艦艇長2つをやって若くても所轄長でござると自惚れて半ばボケ掛かっていた私に、懇切に幕僚勤務のいろはを教えていただき、お陰で私はどれだけボロを出さずに済んだか分からないほどであった。

 軍医長は勝山晋大佐。 以上が私にとっては大先輩で、私に身近な年配としては参謀兼副官として機関参謀小宮山勇少佐(海機46)、主計長塩満国雄大尉(海経28)、司令部附として香月秀雄軍医少佐がいたが、若手のこれらは私の良いばか話の相手でもあった。

 その他各参謀には学生出身の中、少尉約2〜3名が幕僚附として熱心、活発に補佐してくれ、この制度は戦時中だけの特異なものと思われたが、司令部事務上極めて有効であったばかりでなく、また学生出身の中・少尉にとっても海軍という社会を知るために興味深いものがあり、彼らにとって適当な配置の一つであるように思われた。

(注1) : 上海市虹口の魯迅公園近くにあった上海特別陸戦隊 (通称 「上陸 (シャンリク) 」 ) の本部庁舎は、戦前から写真や絵葉書などでもよく知られているところですが、この建物はそのまま残っているようで、現在では 「交通銀行」 の看板が掲げられています。 現在の様子については、一例として次のURLに大きな写真が掲載されていますのでご参照下さい。



shanriku_map_1935_s.jpg
( 元画像 : 1935年版の米軍地図より )

shanriku_map_google_s.jpg
( 元画像 : Google Map より )

shanriku_sat_2009_s.jpg
( Google Earth より )

shanriku_bld_postcard_s.jpg
( 戦前の絵葉書より )

(続く)

(注2) : 池田貞枝氏は、本稿原文では 「大和」 の航海長となっていますのでそのまま掲載いたしましたが、正しくは 「武蔵」 航海長でした。 ご本人の著書 『太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑』 でも確認できました。 ご指摘をいただいたHN 「ごんた」 さんにお礼申し上げます。 (H20.6.4 追記)

2009年07月04日

聖市夜話(第37話) 再び東海の嵐をついて(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この福岡の大空襲は6月19日ではなかったかとの薄い記憶があるが明らかでない。 2階家から出た私は雁の巣に行く大道路を歩くうち、後ろから来たトラックに頼み快諾を得て運転台の片隅に便乗させてもらった。

(注) : 昭和20年6月19日の福岡大空襲については、西日本新聞社の当該記事(下記URL)などをご参照下さい。


 旧知となっていた機長以下は甲斐甲斐しく出発準備を進め、機長は私の持参した脇差鍔を喜んでくれた。 機内には25ミリ機銃信管の箱が縦長に限度一杯に積込まれていた。 武装は?と聞いたら、機銃拳銃の一丁もないとの返事。 それなら敵戦闘機がきたら?と聞くと、海面スレスレで飛ぶ、少々の機銃を持っていても同じことだと説明してくれた。 私は彼らの決死の覚悟には強く打たれたが、旋回機銃の1〜2丁は最小限欲しいと思った。

 そしてこの搭載品は、敵戦闘機の1弾でも命中すれば全品が瞬時に爆発する最も起爆力の強い信管であるから、せめて周囲を防弾板で包んでいたらと感じたが、その重量が惜しいのか全く無防備の裸の木箱そのものであった。

 これでは、この信管機に便乗する私の運命も100%に近い危険性があることが分かった。 しかし私にとって護衛で苦労した懐かしい東支那海で 「水く屍」 となることは、海上武人の本懐であろうという慰めもあったが、一方には搭乗員にコンナ苦労をさせるようでは祖国の将来もモハヤ先が見えている、とも思った。

 雁の巣出発。 私は見張には自信がある、とて信管の箱の上に乗って天窓から上空全局の見張りを担当した。 雁の巣付近は雲はあったが好天であった。 それが間もなく漸次天候悪化し、五島列島の南北線を通過するころには完全な荒天となった。 私は 「シメタ」 と思った。 いくら士気旺盛な米戦闘機でもこんな荒天の中まで捜索にくるものはいないであろう。

 荒天はますます酷くなった。 雲高は低く視界は暗く、機周辺の大小の雷光は光り輝き、その炸れつ裂音は凄まじく、豪雨は機の両翼を叩き機体は上下に昇降を繰り返し、足下約50メートルの海面は陰惨な色を呈していた。 初め 「シメタ」 と思った私も、見張の仕事がお預けになってしまったので、今度は両翼が肩のところから折れるのでないかと心配を繰り返したが、機長以下は一言の大声を発することもなく黙々として平然としてこの荒天と闘い続けた。

 この荒天は東海横断の我が輸送機を沖縄米空軍の攻撃から完全に保護してくれ、荒天を突破した頃は既に中国沿岸に近い所に達していて、曇天の上海基地に無事着陸した。 機は燃料補給後、更に台湾まで信管輸送の重要任務が残されていたので、私一人が搭乗員の皆に別れを告げて上海に降り立ったのであった。

 私は4月末東海の霧によって最後の船団を助けてもらったばかりであったが、今度は東海の荒天によって乗機を守ってもらったわけであって、平時の安全航海にいつも嫌われる霧も荒天も、戦時にあっては生命の恩人になることを知った。 そしてここにも戦術の一方法が見いだされるのであった。

 私が便乗させてもらった輸送機は無事台湾に着いて機銃信管輸送の大任を果たした。 それから数日後、幕僚室でその日の電報に目を通していた私は、この輸送機が台湾を発して上海に向かう途中遂に敵機に撃墜され全員戦死したことを知った。

 私は胸が詰まり涙を止めるのに苦しんだ。 そして脇差の鍔を贈った機長があの脇差を担って山本長官のように無念万朶の桜と散った光景を想像した。 皆立派な若桜であった。 東海の空の私の恩人は遂に私より先に散ってしまった。
(続く)

2009年07月03日

聖市夜話(第37話) 再び東海の嵐をついて(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 宿舎の2階に大きな蚊張を釣り、同宿者とともに中に入って一睡したと思ううち、有名な福岡市に対するB29の大空襲が始まった。

 予報もあっていたので枕元には準備も完成していた。 赴任姿の上に私はカッパ式の雨着を着ていた。 行広を長剣同様に提げると走しることができないので、日本刀式に腰の剣帯にブチ込んで、宿舎横の長さ約50メートルの木製橋を一散に走って対岸に達したかと思うと、頭上に 「サーッ」 という焼夷弾の落下音、私は電車道路傍の低地に伏せマントで身を覆った。

 焼夷弾が付近一帯の地面に突き刺さるように落ち、私に一番近いのは10メートルぐらい、「国定忠次助かった」 と私はニタリとした。 橋の向こうのつい今まで寝ていた海軍宿舎の2階の蚊張を見たら、映画のように一瞬のうちに燃え上がり、その燃焼速度の早いのに驚いた。 そして宿舎が前払いをさせていた用意の良さを成る程と感心した。

 周辺の市内は紅連の炎が連なり全く戦場そのものであって、炎の列が市の中心部を右回りに大きく包囲して、炎に取り囲まれた内部の市民は逃げ場がないような敵の計画と見受けられた。 昔から都市攻撃の際は非戦闘員を殺傷せずと教えられていた私は 「世も末だ」 と強い義憤と敵愾心に燃えた。

 私の姿は全く旅に出る国定忠次の姿同様であった。 ただ腰の刀が少し長かったようだった。 活路を開かねばならない。 私は空を仰ぎながら敵の爆撃方向を見抜こうと努力し、しばらくして 「針路東」 と判定し、落下する爆弾を右へ左へ避けながら東へ東へと歩いた。

 敵の空襲も終わり、燃え続ける福岡市を西に見ながら歩くうち箱崎辺りに達し、少し疲労を感じ、日出前に屋根の下で少し休みたいと思ったので、道路側の洋風2階建の歯医者さんのような家の玄関の扉をたたき、「昨夜福岡市内で焼き出された者ですが、今日は雁の巣から上海に行く予定です、玄関の片隅でも結構ですから日出まで一睡させていただけませんでしょうか」 と頼んだ。

 このとき家の主人の顔は暗くてよく見えなかったが、非常に遠慮深く私の希望を聞き入れてくれ、玄関の次の部屋の長いソファーに招いてくれ、私はマントに身を包んで前後不覚になって約2時間熟睡した。

 外が薄明るくなって私は目を覚ました。 家の主人とその妹さんかと思われる中年の婦人がきて、「よく眠れましたか?」 と尋ねた。 私はその二人の顔を見てゾーッと身震いして、簡単にお礼を申し上げて早々としてこの怪物屋敷のような奇怪な2階家を後にした。

 私は熟睡させてもらったことを感謝しなければならない者であったが、このお二人の顔は余りにも変わっていて、平素も周辺と交わり少なくヒッソリと生活しておられたのでないかと想像された。 そういえばこの家には賑やかな幼児の声も全くなかった。 そしてもし将来、生あれば再びこの2階家を訪ねてお礼申し上げなければと思いつつ、遂に思いを達することができなかった。 あるいはお二人の顔は錯乱していた私の見違いであったかもしれない。 またそのように祈るものである。
(続く)

2009年07月02日

聖市夜話(第37話) 再び東海の嵐をついて(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 昭和20年6月10日頃呉において、生死をともにした名馬「朝顔」と200の乗員に別れを告げた私は、一人寂しく上海向け赴任の途についた。 「朝顔」も乗員も、また祖国も、近き将来どのようになるか明日の予想もつかなかった。

 私はまず福岡の雁の巣航空基地 (注1) に行き、上海行き航空便を尋ねたところ、敵沖縄上陸により定期便は中止されており、僅かに時々北(大連、青島)回りが出ているが、これも次がいつになるかも分からない、ただ数日後に台湾行き25ミリ機銃信管 (注2) 満載の輸送機が上海経由出る予定と聞いた。

 説明によると、台湾では25ミリ機銃弾の信管以外の部分は続々生産されているが、信管だけは内地から送っているとのことであった。

 極めて危険性の強い起爆薬という輸送品であったが、他に便がないとあればこれに予約せざるを得なかった。 そして中尉の機長は 「1人ぐらいは便乗できますよ」 と快諾してくれた。

 この背の低い小柄な機長も、他の3名の少尉たちも何れも学生出身のパイロットであったが、その立派な態度とキビキビした節度ある動作に打たれた私は、即座に 「この連中となら死んでもよい」 と思った。

 寛いで雑談していると、機長は自宅から秘蔵の脇差を持ってきていたが、丁度合う鍔がないという。 私は次の出発まで故郷の佐賀に帰宅できるので捜してきてやろうと約した。

 その後私は家族のいる佐賀に帰って、幸運にも静養の数日を過ごすことができた。 今や私には駆逐艦1隻の責任もなく、戸外に嵐が来ても艦の安否を心配する必要もなかった。 陸上に静養していても神経の休まることのなかった艦艇長の重責30箇月の昔と思い比べ、「上海に着いたら、今度は少し楽ができそうだなあ」 と想像した。

 私の自宅には刀の好きな亡父が買い集めた20数振りの日本刀があり、私はシナ事変中から次々に刀を替えて第一線に携行していたので、この習慣によって次の上海勤務に随行の刀を選ぶ段となって私は思った。

 「戦争は最終段階に達した、私の武人としての人生も同じく終結となるであろう。 ではこの中の最高品が随行するのが当然であろう。」

 とて、肥前国出羽守行広(2尺3寸5分)を決めたが、これは第2次大戦における初陣の印度洋に随行したものと同一品であって、生前の父が自慢していた36枚の矢を浮き彫りにしていた豪快優美な鉄鍔と、私が結婚時叔父から贈られた銀の煙草入れをつぶして作った純銀の金祖(はばき)がついており、鞘の外装と刃先の 「ねた刃」 は呉の刀匠平賀護国氏によるものであった。

 「ねた刃を起こす」 というのは、刃に鑢をかけ 「やすり刃」 として切れ味を最高にすることで、戦闘即応の状態であって、私は行広のねた刃に見入りながら、近く起こるであろう上海における自分自身の斬り死にの光景を予想し行広の切れ味を期待した。

 刀剣全部の手入れを終わり、機長と約束の脇差鍔を持ち、再び家族と水杯を交わして佐賀から福岡に出て、川べりの海軍宿舎に泊まった。

(注1) : 通称 「雁の巣航空基地」 は、正式名称 「福岡第一飛行場」 で、昭和11年に開設され終戦まで大陸方面への空の玄関として活用されました。 ここには昭和15年に練習航空隊である 「博多海軍航空隊」 が置かれ、海軍としての基地名称は 「博多航空基地」 です。 現在跡地は福岡市の 「雁の巣レクリエーションセンター公園」 となっており、今ではかつての飛行場を思わせるものは何も残されていません。


gannosu_af_map_s.jpg
( 元画像 : Google Map より )

gannosu_af_1948_s.jpg
( 終戦直後の米軍写真より )

gannosu_af_2009_s.jpg
( 現在の「雁の巣レクリエーションセンター公園」  Google Earth より )

(注2) : 25ミリ機銃の信管については、本家HP 「海軍砲術学校」 の 「砲術講堂」 より入って、「旧海軍の信管・火管一覧」 中にその詳細を解説しておりますのでご参照下さい。


(続く)

2009年07月01日

聖市夜話(第36話) 機雷の関門を突破(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 6月10日であったかよく記憶がないが、後任艦長石榑信敏大尉(68期)が突如として着任してきた。 私はどんな心境にあったのかよく覚えていないが次のように石榑大尉に第1声を浴せた。

(森) : 「先任の交代か?」
(石) : 「いや、艦長の交代であります」
(森) : 「よし、そうか、分かった」

 いやはや、これは何んという暴言であろうか、何んという傲慢さであろうか。

 私はラングーンでも前任者からこんな挨拶を受けなかったし、またサイゴンでもこんな号令のような挨拶を受けたことはなかった。 私より5年も若い同大尉は、血相を変え殺気立っているような私より遥かに落着いていて人柄が練れていた。 この暴言はその後長く私に恥ずかしい思いを味あわせ続けたのである。

 当時私は片腕と信頼していた古瀬先任将校の後任者が、もう着任するころでないかと期待していたことは確かであった。 また同先任将校はどんな危機に遭っても常に落ち着き払っていたので、私は彼を年齢以上に古く考え違えていて、戦後数年たってから 「彼は69期だったかナー」 と言って、同じ年ごろの兵学校出身者から教えられたほどであった。 しかしだからといってこのような暴言は許されるものではない。

 大体その発言というものは、その瞬間における心の姿勢を示すものとして重要であった。 そして 「ローマは1日にして成らず」 のとおり、平素修養の総合結果が発言として表れるものであるから、ここに各級指揮官の自省自戒の目標があった。 長い対敵行動の終末における私の末熱さを他山の石として参考とされたい。

 私の暴言をにこやかな微笑とともに許してくれた温厚なる紳士の石榑新艦長と引き継ぎを終え、胸に貫録十分(?)なる縄切れをつけ、腰に日本刀を下げ、参謀経験10年近くの先輩のような顔をして惜別の情に堪えない200の乗員の見送りを受け、ついに戦い通した名馬「朝顔」に今生の別れを告げたのは6月10日かその直後だったように記憶している。

 そして再び嵐に向かう私にとっては、最愛の乗員が台湾海峡の2人の英霊の他は全員打ち揃って祖国の内庭に、名馬「朝顔」とともに安全に生き残っていることが最高の安心であり最大の喜びであったが、私自身の将来がどうなるかということについては皆目私にも分からなかった。

(注) : 石榑信敏氏は戦後は海上自衛隊に入隊され、舞鶴地方総監・海将を最後に退官されました。 私が江田島の幹部候補学校の候補生の時の学校長で、“温厚なる紳士”という形容はまさにそのままでした。


(第63話終)

2009年06月29日

聖市夜話(第36話) 機雷の関門を突破(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 6月1日には第4ポンツーンに横付けしており、これが次の呉出港の6月14日まで続いているが、同6月1日付古瀬先任将校に海軍兵学校教官兼監事の発令があった。

 彼は18年7月18日以来実に23箇月の長きにわたって戦い続けた歴戦者であって、私は彼の新しい任地が彼の輝かしい功績に対して全く相応しいものであることを心から喜んだ。 また彼は同期(海兵70期)級友の中でも、彼ほど長く護衛作戦に従事した者は珍しく、これを貫徹した彼の精神は必ずや立派な後進生徒を教育することであろうと思った。 しかも新任地が目の前の江田島であり、赴任が安全であることも私には安心ができた。

 同先任将校は6月9日退艦し江田島に赴任したが、遂に後任者は発令にならなかったようであった。

 そして相次いで翌10日付で私に上海根拠地隊参謀の発令があった。

 私は苦労をともにして戦い尽くした全乗員とともに間もなく備護の瀬戸に行けることを楽しんでいた矢先であったので、私だけが乗員から引き裂かれて、ついこの前、決死の護衛をして横断してきた東海、黄海を再び渡って海の彼方の上海に行かされることは、祖国の命が旦夕に迫っていることと共に嬉しいことではなかった。

 また私の運命は「朝顔」を離れたら長続きはしないような予感さえしたが、それでも私は出発しなければならなかった。

 また私の発令は数日前に電報されたようで、当時兵学校教官だった級友赤井は 「御栄転を祝す」 として彼が使った古い参謀肩章を私に送ってくれ、私はその友情に感激した。 すっかり黒ずんだ相当な骨董品であったが、本物の金モールの正肩緒であったので私はすっかり惚れ込んで、新米にとっては恥ずかしいような真新しい品を新調することもやめた。

 ろくに風呂にも入らず、顔も洗わず歯も磨かず、ただ敵潜に神経を集中する乞食商売を続けてきた私にとって、我が胸に参謀肩章を下げることを思うと少し恥ずかしい思いも湧き出るのであったが、「祖国は一体あと何日もてるのだろうか」 と思うと参謀肩章どころの話ではなかった。 そしてこんな気持の私にとっては、この友が贈ってくれた黒ずんだ古ぼけた縄切れが丁度最適であった。
(続く)