突如「雁」の探信儀は怪しい反響音を得た。 私は当直将校から操艦を受取り、静かに艦首を反響音に向けた。 反響音は刻々と強くなった。 私は総員を戦闘配置に就けた。
反響音はますます強く固く歯切れのよいものとなった。 水測員長の報告は「潜水艦らしい」から「潜水艦間違いなし」に変り、これをくり返し呼び続けた。 私は敵の雷撃に注意していたが、敵潜は水深約60メートル余の海底に沈座したまま移動する気配も反撃してくる気配も見受けられなかった。
「爆雷戦」 下令! 調定深度60メートル、投射数6発。 第2発か第3発目かの爆発後、水面には径約50メートル、高さ約1メートルに大量の気泡に続いて、大量の重油が浮かんだ。
「萬歳! 敵潜撃沈!」
「雁」の全乗員は叫んだ。 しかし余りのアッケなさに私は「本当に敵潜だったのか?雷撃された沈船ではなかったか?」 と心の中に疑いを抱いた。 しかし、沈船位置とは大分離れていたし、また海表面に流れ出る重油は刻々幅、長さを増してゆき、またそれ以後、今までは入っていた敵潜移動の聴音情報は一切と絶えた。
念のため引続いて「止め」の2発。 油は益々増えるるばかりである。 水雷長が私に敵潜の全周を回ってくれというので、時間をかけて一回りしたところ、各方向から探信儀で測定した結果の敵潜沈座状況が図示された。
私はこの図をみて、「雁」の探信儀性能を初めて知ったようで、艇長として内心全く恥しい思いをした。 思えば私は着任以来、空からくる敵に対しての応待ばかりに心を占領されてしまって、自分の探信儀の性能確認に関する努力が足らなかったのであって、この教訓は以後「雁」を退艦するまで大いに活用され、「雁」の対潜力の強化にある程度の肉付けができたようであったが、さらに次の「朝顔」では着任第一歩から最も有効に活かされたのであった。 これに関連する背景としては、「雁」は単独行動が多かったのに比べ、「朝顔」は常にといってよいくらい、船団と同航であった点も大きな理由であろう。
撃沈後の監視中、浮上してくるものは、マラッカ海峡西口を東西に区切る大きな油の道だけであって、敵潜艦内の品物は残念ながら全く見受けられなかった。 現場の全艦艇ペナンに引揚げ、間もなく18年4月29日は天長の佳節、所在海軍部隊各級指揮官は旧英海軍クラブに参集し、9特根司令官の音頭によって聖寿の萬歳が行われたが、その直後私は壇上に立たされ、「雁」敵潜撃沈の披露が同司令官からなされ、第2回目の祝盃が行われた。 壇上の私は着任以来初めての喜びを味った。
「初鷹」副長税所大尉は親切にも撃沈艦「雁」の姿を「初鷹」艦上から撮って私に贈ってくれた。 この写真は今も唯一の記念となっているが、「18−4−25於パンダン島沖」との記入がある。
( 注 : この第12話には対潜戦についての基礎的な事項が盛りだくさんですが、これらについての考察や所見については、別項に譲ることにします。
ところで、この「雁」が撃沈したとする潜水艦は、実のところどうだったんでしょうか?
4月22日に「山里丸」を雷撃したのはオランダ海軍の潜水艦「O21」であることはほぼ確実なのですが、この「O21」は被探知されることも、攻撃を受けることもなく次の行動に移っています。 そして実際、第2次大戦終戦時にも生き残り、1957年に退役するまで現役として活躍しております。 このことは次のサイトなどでも詳述されているとおりです。 したがって、この「O21」ではありません。
同じ海域に米国又は英国の潜水艦がいた可能性は低いと考えられますし、日付及び海域に合致する喪失潜水艦も見あたりません。 さりとて聴音機と探信儀の両方で明瞭に捕捉しておりますので虚探知や沈船で片付けるにしては疑問も残ります。 この辺が対潜戦の難しさを如実に現している好例でもあります。 さて何だったのか・・・・?
もしご存じの方がおられましたらご教示をお願いいたします。)