2008年11月17日

『聖市夜話』(第12話) 神よ与え給え(その4)

著:森 栄(海兵63期)

 突如「雁」の探信儀は怪しい反響音を得た。 私は当直将校から操艦を受取り、静かに艦首を反響音に向けた。 反響音は刻々と強くなった。 私は総員を戦闘配置に就けた。

 反響音はますます強く固く歯切れのよいものとなった。 水測員長の報告は「潜水艦らしい」から「潜水艦間違いなし」に変り、これをくり返し呼び続けた。 私は敵の雷撃に注意していたが、敵潜は水深約60メートル余の海底に沈座したまま移動する気配も反撃してくる気配も見受けられなかった。

 「爆雷戦」 下令! 調定深度60メートル、投射数6発。 第2発か第3発目かの爆発後、水面には径約50メートル、高さ約1メートルに大量の気泡に続いて、大量の重油が浮かんだ。

 「萬歳! 敵潜撃沈!」

 「雁」の全乗員は叫んだ。 しかし余りのアッケなさに私は「本当に敵潜だったのか?雷撃された沈船ではなかったか?」 と心の中に疑いを抱いた。 しかし、沈船位置とは大分離れていたし、また海表面に流れ出る重油は刻々幅、長さを増してゆき、またそれ以後、今までは入っていた敵潜移動の聴音情報は一切と絶えた。

 念のため引続いて「止め」の2発。 油は益々増えるるばかりである。 水雷長が私に敵潜の全周を回ってくれというので、時間をかけて一回りしたところ、各方向から探信儀で測定した結果の敵潜沈座状況が図示された。

 私はこの図をみて、「雁」の探信儀性能を初めて知ったようで、艇長として内心全く恥しい思いをした。 思えば私は着任以来、空からくる敵に対しての応待ばかりに心を占領されてしまって、自分の探信儀の性能確認に関する努力が足らなかったのであって、この教訓は以後「雁」を退艦するまで大いに活用され、「雁」の対潜力の強化にある程度の肉付けができたようであったが、さらに次の「朝顔」では着任第一歩から最も有効に活かされたのであった。 これに関連する背景としては、「雁」は単独行動が多かったのに比べ、「朝顔」は常にといってよいくらい、船団と同航であった点も大きな理由であろう。

 撃沈後の監視中、浮上してくるものは、マラッカ海峡西口を東西に区切る大きな油の道だけであって、敵潜艦内の品物は残念ながら全く見受けられなかった。 現場の全艦艇ペナンに引揚げ、間もなく18年4月29日は天長の佳節、所在海軍部隊各級指揮官は旧英海軍クラブに参集し、9特根司令官の音頭によって聖寿の萬歳が行われたが、その直後私は壇上に立たされ、「雁」敵潜撃沈の披露が同司令官からなされ、第2回目の祝盃が行われた。 壇上の私は着任以来初めての喜びを味った。

 「初鷹」副長税所大尉は親切にも撃沈艦「雁」の姿を「初鷹」艦上から撮って私に贈ってくれた。 この写真は今も唯一の記念となっているが、「18−4−25於パンダン島沖」との記入がある。

( 注 : この第12話には対潜戦についての基礎的な事項が盛りだくさんですが、これらについての考察や所見については、別項に譲ることにします。

 ところで、この「雁」が撃沈したとする潜水艦は、実のところどうだったんでしょうか?

 4月22日に「山里丸」を雷撃したのはオランダ海軍の潜水艦「O21」であることはほぼ確実なのですが、この「O21」は被探知されることも、攻撃を受けることもなく次の行動に移っています。 そして実際、第2次大戦終戦時にも生き残り、1957年に退役するまで現役として活躍しております。 このことは次のサイトなどでも詳述されているとおりです。 したがって、この「O21」ではありません。


 同じ海域に米国又は英国の潜水艦がいた可能性は低いと考えられますし、日付及び海域に合致する喪失潜水艦も見あたりません。 さりとて聴音機と探信儀の両方で明瞭に捕捉しておりますので虚探知や沈船で片付けるにしては疑問も残ります。 この辺が対潜戦の難しさを如実に現している好例でもあります。 さて何だったのか・・・・?

 もしご存じの方がおられましたらご教示をお願いいたします。)

(第12話終)

2008年11月25日

『聖市夜話』(第13話) 横田新艇長に引継ぐ(その1)

著:森 栄(海兵63期)

 18年4月25日初めて敵潜を撃沈した「雁」の士気は、俄然最高に達した。 新米艇長の私が着任して以来7か月目であった。 それまでは空から爆撃されるばかりで、何ら士気を揚げることができなかった。 とにかく、戦場で敵艦を撃沈せるものは殊勲甲、最高の栄誉であることを乗員一同はよく知っていた。

 この栄誉、この自信の上にさらに磨きをかけることは、艇長として最も容易であった。 私は戦術面で従来軽視されがちであった対潜対策に関して矢継ぎ早やに色々な細目を決めて訓練を重ねて行ったが、残念ながら私が退艦するまでの約2ヵ月間には敵潜は再び「雁」の前に出現してくれなかった。 しかしこの最後の2か月間で私の脳裏に深く刻みこまれたことは、「一度敵潜撃沈の味を覚えた艦は強い」ということであった。

 私は着任以来、色々新しい方針を与え、実施要領を与え、訓練をしてきたようなことは、細かいことでも気軽に「艇長令達簿」に書き残されていて、これが年月日順序に綴られていることも、昔をふり返えり昔のことを訂正するにも便利であったし、いつでも次の艇長に引継ぎできる準備ともなっていた。

 この対潜要領の中の一つに、至近距離で艦首方向(左右30度以内)に発見した敵潜に対しては、向首増速衝撃で撃沈する。 この場合、前部艦底は浸水することを覚悟するので、防水措置に関しては平素より予備浮力を維持するように対策を怠らないこと、という件があり、当直将校にも機関科にも艦内一般にも徹底訓練していたが、次の横田艇長の時代の初め頃、この手で一隻現実に撃沈したということを風の便りで「朝顔」で聞き、我がことのように喜んだことがあった。

 この時「雁」は予想どおり艦首喫水を沈めて基地に帰投した由であるが、その基地が昭南だったか彼南だったかは聞き漏らしたが、記録により19年2月昭南ではないかと推定される。

 18年5月頃私に内報があり、横鎮付となり水雷学校高等科学生となり、近く再び海上第一線に出されるように想像されたが、昔の先輩のように英語、数学などを始め軍事学について試験されることもなく、このように無試験でお上の指名で念願の水校高学生に採用されることの光栄さに感激した。

 しかし、「雁」水雷艇長時代の新米艇長振りを自ら振り返ってみると、命懸けで苦労したこと、勉強したこと、真剣に考えたこと、部下を引っ張ってきたこと等に関して貴重な体験が少くないことを思い、これなら無試験の価値もありそうにも思えるのであった。 そして、この土台の上に更にに水校で勉強できたら駆逐艦長としての第一歩を上手に踏み出せるだろうという自信も湧いてきた。

 後任の艇長は、高等商船学校出身の予備少佐の横田志茂喜氏であることが分った。 私より約10歳は年上のようである。 予備士官たちの噂では勇壮な人であるとのこと。 それならば私がお預りしてきた可愛いい「雁」をお渡ししても安心して日本に帰れるとも思い、また私の時代よりもっと多くの戦果を挙げられるであろうとも思われた。

 噂の後任艇長は彼南に着き待機するうち、「雁」は18年6月10日(記憶)に入港し、早速艇長交代し、この全身に溌剌たる英気の溢れる横田少佐の時代はここに始まったのである。

 私は「雁」を退艦しマレー半島を汽車で昭南に達し、昭南でラングーン対空戦闘時の入院患者を見舞い、昭南から空路福岡に着き、あと陸路横須賀に達したが、他の学生は全部揃って、入校式も既に終っていた。
(続く)

2008年11月30日

『聖市夜話』(第13話) 横田新艇長に引継ぐ(その2)

著:森 栄(海兵63期)

(付)その後の「雁」

 「雁」の数少い戦闘記録によれば、19年2月に、立て続けに敵潜2隻を撃沈し、7月になってさらに1隻を撃沈している。

 作戦行動も印度洋の対潜掃討と船団護衛が19年6月頃まで続き、あとは印度洋からスラバヤ方面に渉ることもあり、19年8月以降は不明であるが、昭南以東にもよく行動しているらしい。

 そして終戦の丁度1ヵ月前に、スラバヤからアンボンに向かう途中、敵潜の雷撃を受け、横田艇長以下147名は「雁」と運命を共にし、山田隆義少尉以下39名が生存し、苦心の上、友軍基地に辿り着いている。

 その最後の状況は次のとおりである。

 7月15日1200スラバヤ発、単独アンボンに向かう途中16日0310頃敵潜の雷撃を受け、第3、4兵員室浸水、搭載中のアマニ油、爆雷、機銃弾に引火、推進器軸破損のため航行不能、発電機室浸水のため電報発進不能。

 ( 注 : 「雁」を撃沈したのは米潜水艦「Baya」(SS 318)です。)

 0320頃第2回目の雷撃、船体中央部缶室に命中、中央より船体2つに折れ、しばらく艦首を持上げたまま轟沈す。

 当日風速約7メートル、南西の風、曇、うねり大、同航路航行艦船なし。 生存者は短艇にて遭難後5日目マサレンボブッサル島に上陸す。

 以上は生存者山田少尉の報告によるものであるが、対潜艦艇の壮烈な典型的な最後の一例であって、対潜作戦に従事した私達小艦艇乗員は常にこのような「逆に刺される」ことを警戒しながら、敵潜を追い回したものである。

 それにつけても、記録に残されている山田少尉電報は余りにも簡潔であって、特に海上遭難5日間の苦闘の記録は、我が愛する「雁」のために生存者39名中の有志者が、後世のために纏めて頂きたいものである。

 戦死者、生存者の員数も何かの参考として次に付記する。

区 分准士官以上下士官
戦死者137955147
生存者 21720 39
合 計159675186

 敵潜を追う者が常に忘れてはいけない事は、「敵潜また我を斃すことのできる十分な能力を有する」 ということである。 さればこそ船団護衛、対潜掃討作戦というものは、寸時も油断のできない神経の疲れる仕事であるという特徴を知らねばならないし、また艦艇長たるものは、いかにしてこの緊張を持続させるかという大問題に当面していることを知らねばならない。

 最後に25ヵ月の長きにわたって善戦された横田艇長(私は次の「朝顔」が20ヵ月であった。)及び同艇長と苦難を共にし、ついに「雁」と共に南海に散った戦死者の冥福を祈るものである。
(第13話終)

『聖市夜話』(第14話) 戦時下の水雷学校学生(その1)

著:森 栄(海兵63期)

 学生教程は既に始まっていたが、私が一番遠い印度洋から最後に馳せ参じて、これで学生長大西快治大尉(61期)から私のクラス63期までの計11人の大尉が勢揃いした。 期間は18年6月から10月までの僅か4か月、平時は約1年だったらしいが、その1/3の戦時速成である。

 大体平時は水雷学校高等科学生を出てから俗にいう「水雷マーク」がついて、駆逐艦または巡洋艦の水雷長、駆逐艦長(これも小型から大型へ)、駆逐隊司令などと、順に上がって行くのであったが、我々の学生は学生になる前に、これも戦時の人事で既に駆逐艦、巡洋艦の水雷長、水雷艇長などを体験していた。

 私が昭和13年末中尉で水雷艇「鵠」の航海長兼水雷長であった時は、私の上に大尉(61期)の砲術長がおり、その上に少佐になる五分前の55期の艇長(大尉)がおり、かつ私の次には少尉で65期の通信士がいるという充実ぶりであったが、それから4年後の水雷艇「雁」では、兵学校出は艇長(私)1人で、しかも55期+3(年)=58期よりさらに5期も若い63期(私)となっていたのであるから、一般的にいって戦時には4、5年若くなることは珍しくない訳であった。

 しかも私の例では、駆逐艦の水雷長として九三魚雷をブッ放した経験もなく、裏舞台(印度洋)の水雷艇長をやらされ、これで水雷学校の門をくぐることはいささかお粗末で恥ずかしい思いであった。

 この点、級友石塚(栄)(後の海上自衛隊幹部学校長)は駆逐艦水雷長としてソロモンで敵艦に九三を命中させてきた勇士であった。 「その時はどうだったか?」 と聞くと、「右も左も暗夜に敵味方が入り乱れ、九三の威力は絶対である」 という豪快極まりない話し。 石塚こそ水雷屋の貴重な後継者と思われた。

 この石塚からは、私の家族が九州から横浜に引っ越して来るについても、万事不自由であった戦時中に、親族をあげての大サービスをしてくれ 「海軍のクラスメートは兄弟以上の間柄である」 という文字通りのありがたさを味った。

 大体63期には入校前既に名をなした逸材が数名いたが、彼は俳句の先生であって、彼が海兵に合格するや、同人誌に大きく一頁を割いて 「石塚十寒先生海兵ご入校」 と出たそうであるから、既に一家をなしていた侍であり、また彼は生枠の浜っ子でもあった。
(続く)

2008年12月02日

『聖市夜話』(第14話) 戦時下の水雷学校学生(その2)

著:森 栄(海兵63期)

 ところが、63期のもう1人の名物男が学生にいた。 それは約1年前私が江田島から印度洋に出る時の内報を、我がことのように喜んで伝えてくれた魚野(泰弘)であって、彼は甲子園に「鳥取一中のピッチャー(?)」として出た由で、当時それ程の野球選手は練習に忙しく、兵学校はとても難しいといわれていた世間の常識を破った男であった。

 それ程彼は智力、体力にも余力があったらしく、遂に卒業時にはクラスヘッドになっていた。 しかも彼は天性スケールが大きく、情味に厚く、我がクラスで彼の温かい友情を受けた者は少なくなかったが、細事にとらわれない天性のためか、多士済々の中で一番ボウヨウと見えていて、兵学校の酒保にいた娘さんの名前をもらってか(?)クラス内では「花子さん」という愛称で通っていた。

 この花子さんは、私が遅れて入校してくるや、私を捕まえて印度洋における私の苦い経験を根掘り葉掘り聞くのであった。

 「森! 近くに爆弾が落ちたらドンナ気がするか? 俺は駆逐艦長として果して立派に振舞えるかどうか一番心配なんだ。 詳しく説明してくれ。」

 私は彼の天衣無縫、赤裸々な真剣な求道心には全く恐れ入ったが、私がニヤニヤして 「貴様のような奴は、ソンナ心配はいらんよ」 と答えると、魚野はこの簡単な答に満足せず、被爆瞬時の統率者としての心理について、アレコレとさらに詳しく究明するのであった。

 私は生徒時代魚野と同じ部で机を並べたことがなかったが、今度は計11名の同じ講堂で、居眠りあとのノートを埋めるため、度々魚野のノートを借りてみて驚嘆した。 私たち凡人が1頁を費すところを彼は3〜4行しか書いていない。 そしてその簡潔な文章に要点が全部表現されていた。

 思うに彼は教官の話を全部聞き終ると、これを頭の中で整理して、数行にて表現するという神業を既に生徒時代から修練し終っていたもののようであった。 しかもその文字たるや優美にして悠々たる風格のあること。 「我がクラスは全く良きクラス・ヘッドを持ったものだ」 とつくづく感じ入るのであった。

 上記のほか私の級友が3名、すぐ上のいわゆる光栄の殿下クラスの62期が3名(橋口(百治)、堀之内(芳郎)、川畑(誠)各大尉)、その上に変り種子の角野鉄男大尉、その上が大西快治学生長であったが、角野大尉は高等商船卒後昭和11年現役編入という数少い貴重な存在の一人であって、私達は常に「角野鉄ツァン」と呼んで敬愛していた。

 彼は17年7月から学生に来るまで、「鴇」水雷艇長として活躍し、自ら「鴇一家」の親分と称して、危険多き南洋の諸任務を善く果し終って学生に来た人であって、個人的にも胆力据わり喧嘩上手で腕力も衆に優れていた。

 月曜日の朝学生が集ると、鉄ツァンの前日(日曜日)の武勇談が一座を賑わした。 「昨夜は浜に行ってネー、チンピラ数名を叩きのめしてきた。その詳報はかくかく」 という調子で、彼は浜のやくざ相手の喧嘩でも「鴇」艇長の時と同様連戦連勝のようであって、喧嘩においても先制の重要さを海軍戦術流に解説して、私たちに面白い喧嘩の戦訓を披露してくれた。

 この11名の侍の中で、一字銘の水雷艇長から来た人は学生長、角野、橋口、川畑、森の各大尉で、巡洋艦水雷長から来た人は魚野、浅野(市郎)、石塚、萩原(学)、酒井(信一)の各大尉で、堀之内大尉は香港特根からであったが、開戦以来の華々しい表舞台の経験者多く、私のように陸上で開戦を迎え、その後で一掃作戦終了後の印度洋という裏舞台しか見てこなかった者にとっては、肩身の狭いことであった。
(続く)

2008年12月04日

『聖市夜話』(第14話) 戦時下の水雷学校学生(その3)

著:森 栄(海兵63期)

 私たち11名が水雷学校に集ったと同様に、砲術学校、航海学校、通信学校などの各術科学校にも同時機同期間それぞれの高等科学生が各戦線から集められ教育されていたが、時々これら各校の学生が今日は砲術学校、明日は水雷学校というふうに一校に集められて合同教育を受けることもあった。

 砲術学校の学生も水雷学校と略同数の学生のようであったが、この中に62期の音羽(正彦、朝香宮正彦王)大尉、63期の内田(一臣)(後の海幕長)、川崎(勝己)大尉などあり、合同教育の時一緒になって開戦以来の過去を語り、今後の憂うべき戦局の前途をいかに拓くべきかを共に語り合ったが、我々若年の者としては、最も重大な戦線に進出して敵を斃して戦勝の緒を作る以外に画期的な名案とてはないようであった。

 後で振り返って面白いことは、この時の砲術学校講義でなおかつ、大艦巨砲による敵主力の撃滅が堂々と講義されていたことである。

 砲術学校の学生は流石に大人しく聴いていたが、私たち水雷学校の学生は 「今時何の大艦巨砲か、教官よ、第一線の現状は航空優勢でありますぞ」 と言って、床を靴で打鳴らして教官に詰め寄ったが、この砲術学校教官はいとも厳そかに次のように訓した。

 「第一線の現状はよく承知している。 しかし若い諸君は、まずこの土台から理解しておかなければならない。」

 私はよく当たらない大砲で、敵大型機を撃ち払うこともできなかったアンダマンおよびラングーンの口惜しさを思い起こしながら、この教官の頭の固さを国家のため悲しく思った。 また砲術学校学生談によれば、毎晩夜遅く大抵12時過ぎまで課題に追われて大変だという。 これでは平時と同じではないかと思った。

 これに比べ私たちの水雷学校では、入校時の校長の方針で

 「この学生たちは第一線で苦労して帰ってきて、短期間の後には再び第一線に出る者であるから、この学生期間になるべく体力を回復し英気を養えるように。 平時のように毎晩自宅で時間のかかるような課題は出すな。」

ということが教官たちに達せられていたと聞いた。

 この血も涙もある水雷学校長の温情によって、この学生期間の家庭生活が最後となった者に、酒井、魚野、角野の各大尉がおり、私は遺族に代って当時の水雷学校に深く感謝したい。

 酒井大尉は学生卒業(10月20日)後1か月も経たぬ11月18日敵潜と交戦して「早苗」駆逐艦長としてセレべス海に散り、その3か月後の19年2月18日には魚野大尉も敵機動部隊トラック空襲の際「追風」駆逐艦長として散り、更に4か月後の6月9日には角野大尉も「松風」駆逐艦長として父島北東にて敵潜と交戦して散った。

 かくいう私も、「雁」と「朝顔」との間の貴重な4か月で体力を十分に回復できたからこそ、「朝顔」20か月の船団護衛を果し得たのであって、水雷学校長以下教官の頭の柔軟さに救われたのであった。
(続く)

2008年12月07日

『聖市夜話』(第14話) 戦時下の水雷学校学生(その4)

著:森 栄(海兵63期)

 ことのついでに私が水雷を志望した動機を振り返ってみよう。

 これより先き昭和14年12月から翌年10月まで、私は聯合艦隊第1戦隊の戦艦〇〇の高角砲指揮官(兼分隊長)を命ぜられた。 主力部隊の4隻のなかの1隻であり、これは砲術の道からみても光栄の配置であった。

 艦隊戦技研究会の前夜、時の副砲長〇〇少佐(もちろん既に砲術屋のバリバリになっていた人である)は、私達若き「ノーマーク」(まだ専門の道が決まっていない者)に対して、誠にご親切にも次のように話してくれたのである。

 「砲術学校教官の神様達に睨まれたら最後、鉄砲屋にはしてもらえないから、説明する時にはよく注意しなければいかんぞ。」

 ところが私は、翌日の戦技研究会で私の順番が回ってきて、先ず経過概要に始まり、次に所見の項になって、「私の任務からみて、今のような装備では敵の艦載機群が多数方向から来襲する場合には、到底これらを撃攘することはできないと思うので、少なくとも今の2倍以上の装備を望むものである」 と結んだ。

 これに対し、早速「神様」のお告げが私の頭上に下った。 「君はまず高め下げの訓練に熟達する必要がある。」 射撃指揮も碌に出来ないで生意気なことをぬかすな、と言わんばかりのご教示であった。 これが昭和15年のことである。

 「神様」達がもし私の所見を真剣に考えてくれていたならば、開戦に十分間に合ったであろうが、戦艦の対空装備が急増されたのは開戦後大分経ってからのようであった。

 私は砲術学校の神様たちの態度に失望するところもあって、また早くお山の大将になれ、しかも頭がもっと柔軟で包容力のありそうな水雷屋を志すに至ったのは、この後であった。

 砲術学校学生の音羽大尉は、62期の2人の殿下の1人であって、生徒時代私たちは朝香宮正彦王殿下と呼んだが、卒業後伏見宮博英王殿下と共に臣下に降られた方であり、私の僅か約10に数えられる海軍生活の配置の中で、2か所で同じ艦の生活を共にするという光栄に浴した思い出多き1つ上の兄貴分であり、この最後の学生時代にも、私の自宅のあった磯子海岸で獲れる車海老を是非試食して頂こうと思いながら、ついに双方共忙しくて差上げる機会を逸したことは、未だに返す返すも残念である。

 同大尉(のち少佐)は学生後太平洋第一線クエゼリン環礁の陸戦参謀に出られて玉砕され、貴き身をもって我々に範を示された。

 次の砲術学校学生川崎大尉は、私と同期同郷同中学の友で、彼は表舞台で活躍中3度の戦闘に負傷し、その都度不死身を謳われ、また帰郷の多忙時を割いては、当時印度洋にいた私の留守宅を見舞ってくれた、強くて優しい男であったが、20年4月の「大和」特攻時同艦高射長として遂に散った。

 戦後記録によれば彼は共に泳いでいた一群の生存者の方に、救助の駆逐艦を誘導するために群から離れ単身抜手を切って駆逐艦の針路の前方に行ったが、すでに大腿部に出血していた。 駆逐艦はその後変針し、群の方を収容したが、その時高射長の姿は遂に見られなかったという。 最後まで部下を救おうとして我が身を捧げた崇高な精神に、私は涙をおさえて頭を垂れるばかりである。
(第14話終)

2008年12月08日

『聖市夜話』(第15話) 水雷学校より「朝顔」へ(その1)

著:森 栄(海兵63期)

 僅か4か月間ではあったが、水校の講義は特に次の点を知る上で有効であった。

   1 戦局全般の経過、戦訓
   2 敵の戦法
   3 敵潜、敵機の性能

 特に対潜艦艇の長としては、敵潜の性能の最新の数値を知ることは、対潜制圧、攻撃、効果確認などに不可欠のものであった。

 これと同時に、開戦後1年半目の頃に、戦線を離れて毎晩自宅で家族と共に安眠できる機会を与えられたことも全く幸福であって、戦線にある他の級友に対して悪いような気さえした。 しかし彼等も次々に呼び返されて私たち同様英気を養うことができるであろう。

 卒業直前に次の新配置が知らされた、7名が駆逐艦長(旧一等および旧二等)で、巡洋艦水雷長が3名、そして果せるかな級友石塚は水雷学校付として残ることになった。 彼は魚雷艇隊かあるいは他の水雷関係の新戦法を担当するものと想像された。

 7名の学生が配せられた旧一等(「朝凪」型)あるいは旧二等(「芙蓉」型)駆逐艦というのは、主として船団護衛または対潜掃討に従事していて、その魚雷は九三式(酸素)でなく、空気魚雷の最後から2代前の六年式を搭載していたが、これに比べて3名の学生が配せられた巡洋艦は、いずれも新鋭艦で九三魚雷を備えていたので、旧式駆逐艦でお山の大将になるのが良いか、新鋭巡洋艦で九三魚雷をブッ放せる方がよいかは、よく判らなかった。

 しかし、私に回ってきた配置は、旧二等の「朝顔」駆逐艦長であった。 たとえ旧二等であろうとも、水雷屋としてのスタートから駆逐艦長ということは無上の光栄であった。

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(数少ない「朝顔」の艦影 「世界の艦船」から)

 勇気凛々、英気に溢れ、家族と再び水盃を交して赴任先サイゴン向け空路南下し、サイゴン河に横付した「朝顔」に着任して、前艦長大西勇次少佐(57期)から引継ぎを受けたのは、18年10月19日頃であった。

 全乗員を前にして着任挨拶に壇上に立った私は、僅か1年前に「雁」に着任した時の私とは、別人のように自信に満ち、悠々として落着いていた。 また大西前艦長も「若くなったね−」とは一言も言わなかった。

 前艦長は17年4月から在職し、北は鎮海から始まり南はシンガポール・マニラまでに至る船団護衛に従事すること約50回、その間18年9月18日には馬公南方で敵潜を爆雷攻撃して撃沈(略確実)の功績を挙げていた。 その間に注意すべきことは、17年12月10日に32駆逐隊が解隊して以後単独艦となったことと、18年3月26日に佐世保で探信儀を初めて装備していることである。

 32駆逐隊(「朝顔」、「芙蓉」、「刈萱」)は、開戦前の16年11月20日から鎮海警備府部隊であったが、翌年4月12日から南西方面艦隊の第1海上護衛隊に入り、専ら護衛に従事していたが、3隻1隊で司令の指揮の下に行動することは漸次なくなってゆき、単艦で各方面に使われること多く、隊司令の存在が反ってマイナスになったので、実情に応じて解隊されるに至ったそうであるが、解隊以前の不具合さを大西前艦長は艦長引継ぎの際詳しく私に語った。

 (原注) このほか大西艦長所見については、戦史室47年3月発行の海面防備史料別冊第2(前出)参照のこと。

(続く)

2008年12月14日

『聖市夜話』(第15話) 水雷学校より「朝顔」へ(その2)

著:森 栄(海兵63期)

 また探信儀装備(18年3月)以前は、メクラで護衛していたことを示しているが、更に聴音器を装備したのは、私の代になった18年12月のことであるから、以後ようやくツンボを脱し、対潜艦艇として一人前になった訳であった。

 そして大西艦長のさらに前の艦長は、大西艦長と同期の杉原与四郎少佐(57期)で、この先輩は私が昭和12年12月から翌年8月まで駆逐艦「疾風」の航海士兼通信士であった時の先任将校兼水雷長であって、初めて駆逐艦に乗った私に対して、イロハから優しく指導してくれた先輩であった。

 またその時、私の同期の親友一冨(清太)少尉は「朝顔」航海長であって、南支の萬山群島で両艦は近い距離で行き違ったが、一冨は私あて×コヨコシ×で信号をよこし、お互いの健康を祝った。 この時私は喜びの余りこの受信用紙を将来に保存した。 この略語は航海長より航海士へという意味であるが、その裏には、「俺(一冨)の所は旧二等で俺が航海長だが、貴様(森)の所は旧一等だから航海士でさぞ大変だろうネー」という労わりの友情も含まれていたのであるが、私の上司であった航海長山川良彦大尉(58期)は、クラス内でも飛び切り優しい人であって、私にとっては姉のようであった。 私は航海長が退艦時残して行かれた古ぼけた木の印鑑を記念として終戦後まで長く保存していた。

 このように、6年前一冨、1年前杉原少佐が勤務された「朝顔」に、今や艦長として着任したことは、大きな喜びかつ光栄であった。 そして杉原少佐および一冨の顔から連想されるのは、当時の「疾風」駆逐艦長飛田健二郎少佐(50期)から受けた数々の教えであった。

 同艦長はかつては私たちの生徒時代の水雷の教官でありかつ期の指導官でもあったが、当時「疾風」が台湾を基地に中支、南支沿岸の中国海上封鎖、廈門攻略戦などに行動する間、実地実物について教えられた点は数知れず。

 また私が恐る恐るただ一人で夜間の艦橋当直をしていると、暗闇で後から私の肩をソットたたき、「オィ!通信!おしるこを食ってこいヨ」 と合図された艦長の優しい声は忘れることができなかった。 艦長は辛党であった。 私が「ではお願いします」 といって士官室に下りて行き、艦長の分まで2人前のしるこを平げて艦橋に帰るまで、艦長は大きな体で私の代りに当直をしてくれるのが毎回のことであった。

 今や私は艦長である、飛鍵さんのような大きな愛情をもって果して全乗員を包むことができるであろうか?

(原注) 飛田大佐は開戦時「雪風」駆逐艦長であったが、また愛称「飛健」で有名な水雷屋であった。


 着任早々の私は、艦長の方針として次の標語を全乗員に示した。

    1 先制発見、先制猛攻
    2 赤誠愛護、追敵萬里

 そして標語1は兵科当直員が航海中整列する艦橋横の隔壁にペンキで書き、標語2は額に書いて機関科指揮所正面に掲げた。

 標語1は、こと敵潜に関しては何んでも敵の先を制する、発見も攻撃もすべて先手をとらなければならない、これがまた任務を果し、かつ「食うか食われるか」 の戦場で最後まで生き残る方法でもあった。 標語2は、愛情を以て我が艦を労るならば、我が艦もまた我らを守り貫いてくれるという信念に発するものであった。 そしてこれらの実例は、次々に私たちの目に耳に現われてきた。

 また「雁」において体験したように、「一度敵を廃した艦は強い」 ということを、なるべく早い時機に「朝顔」全乗員に味わせるために、爆雷戦要領を私の流儀で定め、これを「朝顔」式多数一斉爆雷戦と命名して、夜間要領も定めた。

 この要領は、要するに当時定説になっていた散布帯では加害公算が少ないから、後甲板に仮設の爆雷投下台を追加して、なるべく多数(約30個)の爆雷を一挙に投射(下)して、撃沈に至らずとも最低限出血せしめると共に、投射運動としても単艦で随時随所に実施容易なるように散布帯を連合させるというものであって、この連合は結局キの字型となった。

(原注) 当時は護衛艦の隻数も少なく、かつ2隻以上が連合訓練する暇すら与えられなかったので、2隻または3隻で連合攻撃する計画は考えるに至らなかった。


(続く)

2008年12月16日

『聖市夜話』(第15話) 水雷学校より「朝顔」へ(その3)

著:森 栄(海兵63期)

 また乗員、特に兵科准士官以上には、従来のわが聯合艦隊の定説に思考が固定しないように指導し、

 「敵は日本海軍の操式教範で攻めてくるのではないぞ、操式教範はもちろん研究の土台であるが、その土台の上に我に活用できるものは新羅万象悉くこれを我に利用して敵を能すのが戦場である。」

ということを説いた。

 そして、船団通過海面で俗にいう 「敵潜の出そうな難所」 については、まず海図上にて敵潜の待機しやすい海面と船団攻撃要領を想定し、これに当日の風向風速、波浪状況、太陽、月の高度その他の海象による修正を加えることを、「敵潜々在海面の予察」 と仮称し、各現場について当(副)直将校の予察能力を向上させることに努めた。

 そして、「朝顔」が船団護衛部隊の全部を指揮する場合には、次席護衛艦以下を定位置につけ、「朝顔」は船団周辺に不規の運動をすることを原則として、その場その場で敵潜の近接しそうな方向に「朝顔」を先き回りさせて、見張りと探知の捜索をすることとした。

 この要領は、護衛兵力が「朝顔」を含めてわずか2隻の場合でも、極力この原則に従ったが、このため「朝顔」は他の護衛艦に比べて高速を使うこと多く、私はつねに胸のポケットから長さ10センチの計算尺を出して、燃料消費を計算し目的地まで燃料が続くかどうかを心配した。

(原注) 当時の敵潜に聞いてみないと分らないことであるが、「朝顔」指揮の船団に比較的被害が少なかったのは、この要領が有効だったのではないかと戦後に回想されるところである。


 したがって私が死ぬ時は、常に首からブラ下げている七倍の双眼望遠鏡と、南海の強い反射光線を和らげるためのサングラスと、この可愛らしい計算尺が私にお供をするだろうとよく艦橋で笑ったものであった。

 また、「雁」において試験した露天甲板上の側幕(敵潜方位角判定を困難にさせるための)の仮設と、船体の迷彩は「朝顔」にても早速行われた。 乗員は 「今度の艦長は変んなことばかりオッ始めるなー」 と思ったかも知れないが、私は側幕と迷彩については既に玄人であったのである。

 この迷彩のため、船団側乗員は「虎船朝顔」と称し、「虎船が参加すると縁起がよい」 と言われたそうである。

(原注) 大西前艦長時代も、商船側の番付では常にトップであった。


 さて私が新たに指揮をとった「朝顔」は、10月22日サイゴン(Sai Gon、現在のホーチミン Ho Chi Minh City)発、23日沖合通過の331船団(13隻)に洋上にて合同し、25日まで護衛し、25日には520船団(8隻)と洋上合同し、これを27日サンジャック(San Jacku 又は Saint Jaques、現在のブンタウ Vung Tau)に入れ、翌日同地発、河を上ってサイゴン着、ここで暫く休養ができた。 サンジャックというのは、メコン河の河口であって、サイゴンまで河を遡航すること約40海里ぐらいであった。

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(サイゴンとサンジャックの位置関係)

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(現在のブンタウ  Google Earth から)

 次いで11月3日サイゴン発、同日サンジャック着、翌日439船団(8隻)を護衛し11日高雄(台湾)着。 ここで暫く休養するうち、15日付で南西方面艦隊から海上護衛総司令部の第一海上護衛隊に編入された。 次いで20日220船団(7隻)を護衛し高雄発、洋上分離21日高雄着、同日別船団追及を命ぜられ高雄発、22日追及中止北上23日基降着、「鴨緑丸」1隻を「朝顔」1隻にて護衛し翌日基隆発27日門司着、翌日発29日舞鶴着。

 私以外の乗員にしてみれば、17年10月以来13か月振りの母港であった。 翌日から12月18日まで入渠して水中聴音機と対空電探を装備した。 私は舞鶴工廠内の潜水艦部を連日訪問し、敵潜の代りに日本の潜水艦図面を借りて、その船体構造、諸性能を調査し、爆雷戦のグラフ用紙に彼我の運動を記入し、爆雷散布帯の有効性を検討したが、この研究は以後の貴重な参考となった。

(原注1) 大西勇次前艦長は戦後病没されたが、その前私は同氏の「朝顔」回想を頂きながらすぐ公表することができず、渡伯前ようやく戦史室の史料に載せることができたが、時既に同氏は亡くなっておられ、誠に申訳ないこととなった。 そしてご遺族を捜したがそれも不明であったので、もし読者のなかでその消息を知る方あればご一報賜わりたい。 同氏の元の住所は兵庫県揖保郡新宮町段の上であった。


(原注2) 杉原与四郎前々艦長の略歴は、16年4月10日「朝顔」、10月15日少佐、17年4月25日退艦、6月上旬「皐月」、18年5月下旬「初雪」、7月17日ショートランドにて退艦8月上旬「五月雨」、19年1月下旬退艦3月始「朝霜」、11月1日中佐、12月27日サンホセにて退艦、(このあと不明)20年4月4日戦死、というふうに、戦時中実に5つの駆逐艦長を歴任した貴重な存在であって、私達のような若い「駆け出し」にとってはまことに驚異的な大活躍であった。


(第15話終)

2008年12月22日

『聖市夜話』(第16話)  格式と性能(その1)

著:森 栄(海兵63期)

 母港舞鶴での整備は私にとって初めてであった。

 単独駆逐艦の艦長として、鎮守府司令長官以下の関係各部に、入港早々挨拶回りに行くことも初めての貴い体験であって、母港の各部がいかに第一線部隊に期待しているかがよく窺われるのであった。

 召集前飯野海運に在籍していた橋本主計長は、乗員の休養について海軍側で及ばないところは飯野海運の応援をうけて、細かい点まで親切に機敏に手配してくれて乗員感謝の的となった。

 また私達の生徒時代の初の主任指導官であった平井(泰次)大佐(43期)は港務部長として在職中であったが、港務部長官舎の半分の部屋に私の家族を同居させて頂いたので、私は佐賀から家族を回航させることができた。

 聞けば私の同期の久津輪(久雄)も私の前にお世話になったそうであり、約10年振りの戦時下に恩師の慈愛溢れる温容に日夜再び浴し得たことは感激であったが、この恩師もその後パラオに進出し敵艦載機群と交戦し華々しく戦死された。

 また鎮守府副官には級友斉藤利夫がおり、機関学校教官には級友篠田一郎、鶴辰美、佐々木滋、東海千尋などがいて、いろいろな面で支援してくれ力強いことであった。

 「雁」で折尺を持って研究した私は、「朝顔」着任後同様の調査を終え、爆雷搭載量を増すためには、代替として前部発射管を撤去してもらう以外に方法が残されていないという結論に達していた。

 工廠側に要望したところ、理由はよく分るが発射管撤去となると事は重大であるから、中央の艦政本部の許可がないと工廠の一存で行うことはできない、急ぐなら艦長自身、艦本に行って交渉したら良かろうと教えてくれた。

 私は早速張り切って単身汽車で上京し、艦本の担当官に会ってイ36護衛艦の実情を話した。 担当官はニッコリ笑って、

 「艦長よく分った、すぐ舞鶴工廠に手配する。 早く帰らんと君が帰艦した頃は撤去が終っているかも分らんよ。 第一線勤務どうもご苦労さん、シッカリやってくれ給え。」

 と、あたかも「待っていました」と言わんばかりの快諾で、しかも労らいの言葉まで頂いた。 世の中こうもスマートに仕事が捗ると張り切らざるをえない。

(原注) 私はこの大事な担当官の名前を失念しその厚意に申訳ないが、余りにも迅速な許可をもらったので、あるいは舞鶴工廠が私が東京に着くまでの間に予め電話で良く打合わせしておいてくれたのではないか、と後で想像した。


 また当時私の義兄(家内の長姉の婿)は、同じく南方の物資輸送の貨物船(NYK)の機関長として活躍中であって、私が「雁」水雷艇長の時は、昭南港外の機雷堰の外側で共に反航対勢でその乗船「武豊丸」と約500メートルで行き合い、お互いに武運長久を信号し合ったのであるが、次は「朝顔」にて高雄入港の際、義兄の船が在泊していることを知り私は早速内火艇で訪問した。

 義兄は丁度入浴を終ったばかりで、健康状況も良く士気益々旺盛であったが、その時の話で、

 「今までは別に気にもならなかったが、こうも戦局が緊迫してくるとやはり万一の場合を考え、腰の日本刀が欲しくなるね。 ひとつ海軍で手に入るようだったら、新新刀でも良いから買ってくれんかね。」

 と頼まれていた。

 そこで私は艦本のあと、すぐ東京水交社に立ちより義兄の日本刀を求め、東京から神戸の義兄自宅の義姉あて電報を打って、京都駅頭の会合を期待した。

 義兄はどうせ行動中であろうと想像していたのであったが、予想に反して京都駅頭には義兄夫婦の姿があり、私は義兄の手に直接海軍刀を渡すことができた。

 計らずも共に祖国の「ここなら大丈夫」という陸上で会合し、再び始まろうとする洋上行動を語り合って感無量であったが、この直後義兄は船と共に護国の華と散り、この時の義姉と仲睦じい姿が最後のものとなった。

( 注 : 昭和19年8月21日ミリからマニラ向けの「ミ12」船団は米潜水艦5隻の待ち伏せ攻撃を受け、 「武豊丸」(日本郵船、7,028トン)は、「Ray」(SS-271)の発射した4本の魚雷の内1本が命中、撃沈されたとされています。)


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(「武豊丸」 「世界の艦船」別冊より) 
 
 この義姉は戦後苦労して3人の子供を立派に育て上げたが、苦労の果年若くして癌になり夫のあとを追ったが、この姉の苦労を見るたびに私は南方輸送船団の活躍を思うことであった。
(続く)

2008年12月23日

『聖市夜話』(第16話) 格式と性能(その2)

著:森 栄(海兵63期)

 私が舞鶴に着いて直後、前部発射管がクレーンで撤去され、私は艦本と工廠側の真剣さに打たれた。

 舞鶴の整備は私にとり初めてのものであったが、入渠は18年11月30日から12月18日まで行われ、初めて自分の艦の艦底部をつぶさに見ることができ、23日には港外で自差修正、24日に公試を終り、旧二等駆逐艦の諸性能も一通り分ってきた。

 ここで当然私の頭はこの「朝顔」と、前の水雷艇「雁」とを比較するに至ったが、その大要は付表のとおりであった。

付表 : 旧2等駆逐艦「朝顔」 対 一字銘水雷艇「雁」の比較

比 較 点朝  顔
 建造年 大正12 (1923) 昭和12 (1937)
 建造所 石川島 三菱 (横浜)
 基準排量(トン) 820 840
 第一線排水量(トン) 約 1,540 (記憶) 同 左  (記憶)
 最大速力(ノット) 約 30.5 (制限にて) 約 30.5 (公表 28)
 長 さ(米) 85.34 85.00
 幅(米) 8.08 8.18
 平均吃水(米) 2.51 2.76
 第一線喫水(米) 約 3.0 〜 3.3 (記憶) 略同左
 魚雷制式 53サンチ六年式
 (空気使用)
 53サンチ八九式
 (空気使用)
 魚雷発射管 二連 2基 三連 1基
 主 砲 12サンチ 3門 12サンチ 3門
 主砲最大仰角 約 33度 約 55度
 主砲制式 水上砲 水上・対空兼用
 対空弾の備付 なし (記憶) あり
 主機械馬力 新造時 21,500 19,000
 主機械制式 タービン (艦本式) タービン
 (オール・ギアード)
 蒸気温度圧力 普 通 高温高圧
 補助機械 主としてレシプロ 主として旋転式
 缶数 3 (重油専焼) 2 (重油専焼)
 24ノットに要する
 缶数
 2 1
 乗員数 約 140 〜 170 約 185
 昭和19年初頃の
 艦艇長
 兵学校出身 高等商船出身者
 同上階級 大尉 予備少佐
 他の兵学校出身者 1 (又は 2) 専修科出身特務少尉 1
 同上配置 先任将校 (と通信士) 通信士

( 注 : 本付表については、「朝顔」と「雁」との比較もさりながら、本家HPの「史料展示室」で公開中の旧海軍史料「一般計画要領書」のデータとも併せてご覧になることをお薦めします。 何故なら、“造船屋”さん達からするデータと実際の運用上での違いを、その一例としてお判りいただけるからです。)


 何分にも両艦の建造年は14年も開いているので、小艦艇の寿命が15年ないし20年と見られていることから見ても、艦内のあらゆる機械類が一時代の開きがあることは当然であった。

 特に一字銘水雷艇は国際会議の制約によって二等駆逐艦としたいところを、補助艦艇内の水雷艇という命名をされたものであったから、一時代前の旧二等に比べて、発射管の数で1本少ないという点こそあれ、その他あらゆる点で近代的で優秀であったことは当然とする訳であった。

 しかし、敵と闘う我々としては、現実に性能そのもので闘うのであって、日本海軍の格式の如きは単に日本海軍内で通用するものであるに過ぎなかった。
 
 私は「朝顔」に乗ったことで、初めて旧二等とはいいながら駆逐艦長という光栄の座につき、大尉のち少佐として勤務した訳であったが、その乗馬については前配置のそれよりも一段と性能の劣るものに格下げになった訳であった。

 この理由で、私は海軍省の軍備担当者が開戦前後において、なぜこの格式と性能実力を合わせることができなかったかということについて、疑問を抱き続け今日に至っている。 早く言えば私は格式だけ上がって、戦闘力は落ちる配置に就けられたのであった。

 しかし発令されてしまった以上とやかく文句を言っても始まらなかった。 否、それよりも昭和19年において「朝顔」の艦齢すでに21年という老齢さについて、心からの深い同情と労りの念を感じた。

 駆逐艦として20年を経過したものは、大体において予備艦で廃艦となる寸前であろう。 これを人に例えるならば、50ないし60歳の現役年齢を終えて隠居の生活に入る境遇であろう。

 現に「朝顔」型32駆逐隊の竣工直後は、時の聯合艦隊水雷戦隊の最新鋭艦として、最高35.5ノットで華ばなしく活躍した水戦の花形であったことを聞いた。 それが再び召集を受け第一線に新進気鋭の現役艦と伍して闘うという健気さには、涙を誘うものこそあった。

 したがって私は、兵科の標語においては、米国の新造潜水艦 − これはおそらく優秀なる対水上電探を装備しているであろう − に対しても、徹頭徹尾あくまで「先制」一本槍を要求したが、機関科の標語においては『赤誠をつくして老齢「朝顔」を心から愛護し労ってもらいたい』という艦長の悲願が含まれていた。

 実際私は機関長の案内によって機関室に入り、老朽した蒸気管が漏洩するのを行動中に見せられ、果してこれで最後まで行動することが可能であろうかと、深く心配したこともあった。
(続く)

2008年12月24日

『聖市夜話』(第16話) 格式と性能(その3)

著:森 栄(海兵63期)

 この「朝顔」の幹部の配員については、まず先任将校古瀬太郎中尉(70期)が、7月18日以来乗艦していた。

 70期といえば私が15年11月兵学校教官に着任した時の可愛らしい2号生徒であって、土台私の「疾風」時代の先任将校のような艦長補佐を期待することは到底出来ないとはよく解っていたが、「雁」時代に比べ後輩が先任将校として配員されていることだけでもありがたい点であった。

 しかしこの先任将校は若さに似合わず老成の風格あり、自分より年上の予備士官、特務士官、准士官の多数の幹部をよく纏め、私をして後顧の憂いをなさしめず、おかげで私は縦横に次から次へと自分のアイデァを示して全乗員を引っぱって行くことができた。

 次に機関長は特務中尉であったが、永年海軍にて鍛え上げた技術、経験によって、赤誠愛護して追敵万里することに関し、些かの心配をも私に与えることがなかった。

 航海長は高等商船出身の予備中尉であったが、不思議にも私と同年であって、前艦長時代よく艦長を補佐して、その呼吸がピッタリしていたと話してくれた。

 水雷長は特務少尉で、開戦以来の打ち続く行動の連続で、健康状態に疲れを生じていたようであったが、第一線勤務の光栄ある配置を死ぬまで続けようという闘志に支えられているようであった。

 母港整備を終って12月27日舞鶴発、翌日門司着。

 この時かと記憶しているが、第一海上護衛隊各艦に配乗予定の第72期の少尉候補生の数名が、司令部のある高雄まで便乗するため、ドヤドヤと「朝顔」に乗ってきた。

 この72期は私にとってはもっとも緑の濃い後輩であった。 15年12月の彼らの入校を迎えてから17年9月印度洋の「雁」に私が赴任するまで、私は72期の教官兼指導官の一人として毎日彼等と共にあったのであるが、別れて以来わずかに1年4か月の間に、見違えるばかりに達しく頼母しくなったこれらの弟分を迎えて、貴重な門司〜高雄間の便乗期間をどのように活用しようかと考えた。

 私は士官室横にある艦長室を候補生室に提供し全員が入れるように寝台を仮設し、私は艦橋の後部にある魚雷戦発令所のソファーに寝た。

 そして各艇に配乗後直に艦橋勤務に立つべき彼等にとって、二度と再び体験できないであろうと思われる機関科当直勤務を便乗中連続実習させることにした。 それ程艦橋当直に立つ兵科の当(副)直将校にとっては、機械室缶室の動きを頭に入れておく必要があると考えられたからであった。

 候補生便乗後、「朝顔」は12月29日125船団(7隻)を護衛し門司発。 途中候補生を呼び集めて説明するような事故もおこらず、19年1月4日高雄着。 候補生たちは退艦して陸上の高雄市内にある第一海上護衛隊司令部(通称イ36司令部)に行った。

 中1日高雄で休養して6日、351船団(5隻)を護衛し高雄発、11日サンヂャック着、船団と分離し翌日メコン河を単独遡航しサイゴン着。

 サイゴンも2回目の訪問であったが、やはりこの時であったかと記憶しているが、「朝顔」の名物男「豪傑甲板士官」こと酒井九一郎兵曹長が、某夜こともあろうに全身血みどろになってワイシャツも破れて上陸から帰ってきた。

 聞けば陸上散歩も終り安商人の人力車に乗って帰艦の途中、車夫が計画的に別の暗い道路に入れ、多数の仲間で取り囲み、唯一人の甲板士官をとり押え、暴力によって財布、時計を奪ったということである。

 私は直ちに在艦の士官に各自軍刀を携行させ、艦を出発し仇を討つべく人力車を連ねて現場に急行したが、雲助どもは逸早く退散していて一人すら捕えることはできなかった。
(第16話終)

2008年12月25日

『聖市夜話』(第17話) 「天津風」の救難(その1)

著:森 栄(海兵63期)

 16日夜サイゴン(11特根)司令部より連絡あり、南下船団護衛中の「天津風」、本日敵潜の雷撃を受け大破漂流中、「朝顔」は直ちに救難に行けということになった。

 直ちに艦内各部(とくに機関科)の解放手入中のところを全部復旧し、またサイゴン(11特根)司令部の持っている八インチ(記憶)の真新しいホーサー4房を曳索として搭載するなどして、翌17日単独サイゴン発「天津風」遭難現場に急行した。

( 注 : 「ホーサー」というのは麻索のことですが、ここでいう「8インチ」というのは周囲長のことで、直径65ミリのもののことです。 8センチ(誤植の場合)径のものも旧海軍の規格品としてはありますが、曳航用には太すぎます。 なお、65ミリ径の場合、1房の長さは207メートルです。)


(原注) 以下「天津風」側の状況は、主として当時同艦爆雷砲台下士官であった森脇通氏の戦後回想(34年)によるものである。 同氏は海自隊に在職し34年1尉であって、私の要請によって特に詳細なご連絡を頂きながら、私の方が渡伯前後に忙殺され、今ここに15年振りに活字になる次第で大変遅れながらこの誌上をかりて同氏のご協力に厚く御礼申上げる。
  なお内容は本誌に関連深いものと思われるので、なるべく詳しく記述する。


 これより先き「天津風」は1月3日呉発、門司にて船団部隊編成、「瑞鳳」、「雪風」と共にヒ16船団(4隻)を護衛し昭南向け11日門司発一路南下。

(原注) 森脇回想では「千歳」、ヒ31船団とあるが、二復功績便覧では、3F10 Sの一艦として「瑞鳳」、ヒ16船団護衛(雪風)とあるので、功績便覧に依った。 “ヒ”とは高速船団のこと。


 16日南支那海のド真申(香港の南、マニラの西)を西航中、日没後「夜戦に備え」の号令で昼戦配備から夜戦配備へ転換中、最後尾(4番船)から「右30度水平線に潜水艦らしきもの発見」との報告があった。 当時の隊形は、商船4隻単縦陣の前方に「瑞鳳」、右方に「天津風」、左方に「雪風」であった。

 「瑞鳳」(森注 : 10戦隊司令官か)指揮官から「天津風」はこの敵潜を追跡制圧するように命を受け、船団右側より直ちに増速(多分2戦速)して右30度方向に急行すること約2時間 (森注 : もう少し短い時間ではないか)、突如左より雷跡1本を至近距離に見張発見、直ちに転舵回避に努めたが、一番連管直下に命中、魚雷爆発音と共に付近が一時に明るくなるような光を発し、船体に相当なショックを感じた。 時に1955頃であった。

(原注) 海上護衛総隊戦時日誌によれば、「天津風」190116−1955、北緯14度40分、東経113度50分にて敵潜の雷撃をうけ航行不能となる。


( 注 : 「190116−1955」 とは、昭和19年1月16日19時55分のこと。)


 当時森脇氏は爆雷砲台下士官として、後甲板の爆雷装填台の付近で配置に就いていたが、被雷時の激動で膝をつき、足元の吐水口で向脛をわずかに打った。

 被雷撃と同時に浸水は甚だしく、間もなく艦首を左に振りながら前部から漸次海中に没し始めた。 時既に夜になっていたのと、照明が全くないため艦橋も見えなくなり、被雷後約10分経過ごろ、2番連管付近の上甲板でも膝まで海面が来ていたようであった。

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(略図) 当時の状況 (森脇スケッチ)

 被害箇所から前の方の船体は水中に没しているため、切断しているか、繋がっているか、よく分からなかったが、その後の状況では切断しているものと判断された。 乗員は誰も、もはや望みはないものと思っていたが、後部船体はもうそれ以上沈まなくなった。

 被害箇所は第2缶室であったが、その後の第3缶室にも既に浸水していて、その後の広い区画である機械室との間になる機械室前面隔壁が唯一の防水壁となっていたので、機関科士官指揮、掌機長現場指揮の下に被雷後直ちに円材などで防水壁の補強を施し、この隔壁が命の索として、機関員は当直を決め全力を挙げてこの警戒に当たった。

 また別に水雷長(松元大尉のち、海自隊在職)指揮の下に上甲板にある応急材料で筏を組み、付近海面に投げ出されている乗員を救うため筏を海中に投げ込んだ。

 また一方人員を調査し、当直割を定め見張りを厳にし、生存した砲員は3番砲に配員して敵の第2撃に対して警戒したが、敵潜は「天津風」沈没と誤認したものか全然寄り付かなかった。 生存者は全乗員250名のうち、艦長以下約90名と森脇氏は記憶している。

(森注) 二復功績便覧には、戦死司令以下80名とある。


(森脇注) 被害時の衝撃で両舷にあった短艇索が切れ、短艇が海上に漂流していたので、前部の人達はこれに乗り、17日0100頃後部に合同して収容されているが、これによって約30〜40名が救われている。


(続く)

2008年12月26日

『聖市夜話』(第17話) 「天津風」の救難(その2)

著:森 栄(海兵63期)

 短艇は残っていなかったし、海図も1枚もなく、被害地点も判然とせず、ただ幸いに残った後部電信室によって遭難電報が発せられ、翌17日には「朝顔」が救難にくるということが噂された。

(原注) 当時サイゴンにいた森(著者)は、16日の夜2200頃9特根司令部から「天津風」被雷を聞いたように記憶しているが、後部電信室の残ったことは、同艦を救った第一の功労者であった。


 一挙に多数の戦友を失った生存者達は、夜間に加えるに大なる波浪のため救助が極めて困難であったことについて断腸の思いであった。

 艦内には米とて一粒もなく、残された後部倉庫に、母港呉に帰投後返納予定になっていた腐敗しかけた麦が若干と、蕗の缶詰と醤油がわずかに発見されたので、17日からは上甲板に爆雷防弾板を利用して竃を作り、釜の代りに洗濯桶を利用し、燃料としては残っている各自の手箱、腰掛などを壊して使い、麦ばかりの中にわずかの缶詰の蕗を入れ、お粥のようなものが出来たが、先がいつまで続くか分らないので、各自の割当量は湯呑に1杯ずつと決められたが、始めの1・2回はなかなか食べられるものではなかった。

(原注) 腐敗しかかっていた麦も、同艦救難の第二の功労者であった。


 しかし腹が空いてくるに従い、何んとか食べられるようになった。 幸い真水は若干あり、節約すれば相当長続きしそうであった。

 漂流2日目ぐらいに、砲台甲板で見張りに立っていた森脇兵曹は、海面近くに長さ1メートルぐらいの鰭が悠々として泳ぐのを見た。 またもっと深いところにはもっと大きいのがいそうであったが、自分達も何れはこれ等の餌になるのではないかと話し合い、全く悲壮な覚悟であった。

 一方「朝顔」は現場に急行しつつあったが、仏印沿岸から離れるにしたがい、南支那海には珍しい荒天で波浪高く、得意の高速も発揮できなかった。

 18日夜頃現場に着き、風向風速、海流などを考えて付近一帯を捜し回ったが、折からの視界不良も加わり、また満載量の少ない燃料も心細くなったので、20日夜命により一旦現場を離れ、21日1800カムラン湾着、燃料を補給して次の命を待った。

 この時同地の隊長をやっていた級友下田(隆夫)大尉と久し振りに会ったが、彼は私が水雷艇「雁」の終り頃、アンダマン群島ポートブレヤの防空中隊長として着任し、共に西第一線の健闘を祝して一杯やった仲間であって、堂々として勇ましい彼と、第一線で2回も会えるということは全く珍しいことであって、また会っただけで私を激励し力付けてくれる偉大な力を彼は持っていた。

 「朝顔」が発見できなかったので、サイゴン司令部は中攻による捜索を始め、23日遂に空から発見することに成功した。 「天津風」乗員は味方中攻1機が23日1515頃上空に飛来するのを見て、誰しも喜びの余り着ていた防暑服の上衣をとり、ち切れんばかりに振りつづけた。

 同機は「天津風」をひと回りした後、同艦目がけて通信筒2個を投下したが、艦上にうまく落ちず、近い1個が艦尾右方約20メートルに落ちた。 これを拾わんものと下士官2名が飛び込んだが、荒波のため行動自由ならず、この状況をみた水雷長松元大尉(海自隊在職、警備艦々長)は直ちに飛び込んで通信筒を拾い上げたが、一同水雷長の大胆さに舌を巻いて賞讃した。

 この通信筒の中には発見された時の艦位が書かれていたが、森脇兵曹は北緯14度40分、東経113度50分であったように記憶している。

(原注) 海上護衛総隊の戦時日誌の地点と同じである。


 搭乗員は通信筒を落とした後、2、3回旋回しながらハンカチを振り精一杯の激励をして西の空に飛び去った。

 この中攻発見の報により「朝顔」は23日2000カムラン発.。 海上は大分静まっていたので高速を出すことができ、早くも翌24日正午頃現場付近に達し、1330頃サイゴンから飛来中の中攻、水偵各1機の誘導を受け1400頃「天津風」に合同した。

 続いて別に派遣された第19号駆逐艇(艇長鈴木清予備少佐)が1430「天津風」に合同、両艦は「天津風」の近くに漂泊し、両艦長は米の握り飯、固パン、酒保物品などを短艇に積んで「天津風」を訪問し、同艦々長田中正雄大佐(50期)と曳航・護衛を打ち合わせたが、「天津風」乗員は8日振りに米粒を口にすることができた。
(続く)

2008年12月28日

『聖市夜話』(第17話) 「天津風」の救難(その3)

著:森 栄(海兵63期)

 しかし「天津風」のような甲型一等駆逐艦の偉容を見慣れていた同艦乗員にとっては、薄汚れて自分の艦の半分ぐらいしかない「朝顔」と、更に「朝顔」の半分ぐらいの駆潜艇を見て、果してこの2艦が港まで無事曳航してくれるであろうかと若干不安になったのではないかと私は想像した。

 それ程に「天津風」は立派な駆逐艦であった。 「陽炎」型18隻の一艦で基準排水量2,000トン、全長116メートル、52,000馬力、12.7サンチ砲6門、61サンチ(九三)魚雷8門。

 私は曳航計算をするに当たって先ず残存船体の排水量を計算したが、前部がなくなっていても、なおかつ「朝顔」より大きいことに驚いた。

 次に接断部の外鋲のマクレが全部浸水部に垂れ下がっているので、これは健全な「天津風」を曳く以上の抵抗であろうと見た。

 また機械室前面隔壁にこれ以上の水圧を与えては危いとみた。 万一この隔壁を壊したならば、後部船体を沈めてしまうかも知れない。

 この抵抗と浮力の問題のため、艦尾から逆曳きにして曳航速力はなるべく弱めねばならないと思ったが、一方対潜関係では曳航速力をなるべく強くして一日も早くこの危険な外洋を突破したい。

 また曳航中対敵の場合、曳艦被曳艦を一挙一撃で轟沈させられることは最も深刻重大であるので、このためには曳索を持てるだけ、4房全部を伸ばしせめて両艦の距離をできるだけ離したいと考えた。

 そして護衛兵力として駆潜艇1隻を派遣してくれたことは感謝すべきことではあったが、欲をいえばあと1隻の対潜艦艇を配してくれるならば左右側に各1隻配備できるのにな〜と考えた。

 しかし、現実に護衛兵力が1隻なら、「朝顔」は曳艦兼護衛艦として不足の護衛兵力1隻分を埋めねばならない。 そして曳艦を即座に護衛艦に転換する方法は、即座に曳索を切断することにあるという結論に達した。

 そしてこの曳索切断という作業を私は実際に試してみて、この作業に関連して起こってくる色々な状況を実際に見て確めておかなければ、あと約500マイルという長い道中を到底確信を持って行けないように感じた。

 曳索は最初搭載してきた「朝顔」から「天津風」に伸ばされて行った。 ところがホーサー(麻索)というものは、水に浮ぶという長所が却って欠点になり、弛んだ所が波に叩かれて、「朝顔」の艦尾の下に入り込んでしまった。

 私は推進器に巻いてしまったのではないかと思って青くなった。 しかし、竹竿などを使って漸く外すことができて全く「ホット」した。 おそらく推進器の一枚の翼に引っ掛かったのであろう。

 曳索を伸ばすにつれ、徐々に曳艦を前進させて行くは、風浪のある場合なかなか簡単ではなかった。

 曳索を伸ばし終って曳航状態に入ってから、私は敵潜もいないのに2回ばかり艦橋のベルを鳴らして、艦尾で曳索を斧で切らせた。

 その都度「天津風」ではこの大きな8インチ麻索約800メートルを一旦上甲板上に人力で、しかも8日間のお粥腹で、また傾斜した甲板上の足場は悪く、揚収に困難を極めた。 しかし私は2回の訓練でようやく確信が持てた。
(続く)

2008年12月29日

『聖市夜話』(第17話) 「天津風」の救難(その4)

著:森 栄(海兵63期)

 曳航速力は約4ノット余り出たようであった。

 19号駆潜艇には適宜前方両側を巡回しながら警戒してもらったが、敵潜発見の場合曳索を切断すると同時に、咄嗟に「朝顔」の採るべき回頭側に関しては、

   (1) 雷跡を見る場合には雷跡を回避するように回頭し、
   (2) 雷跡のない場合には駆潜艇の占位しない側に回頭する

ということも考えられた。

 曳航して行く内、25日1530頃「朝顔」は怪しい反響音をつかみ、曳索を切断したが、虚探知であることが分かり再び曳索を取って曳航中、再度2330頃怪しい反響で「朝顔」曳索を切断したが、この時は「天津風」乗員も度々の曳索揚収作業で極度に疲労し、その場収は翌26日の0200までかかった。

 このように曳艦も対潜顧慮のため必死であったが、被曳艦も曳索揚収に必死であった。

 26日0200曳索を揚収し終ったが、「天津風」側の疲労も烈しく、夜間でもあったので曳索を取らず、「天津風」は漂泊し、両艦は付近を警戒し日出を待ち、0730から今度は「天津風」の鋼索を繰り出し曳索として曳航を開始した。

 遭難当時から荒れていた海上も漸く静まりかえってき、「天津風」乗員も二度と8インチ麻索を揚収しないですむようになった。

 1500頃「天津風」艦上では肉眼で仏印の陸地が見え出し、「助かったゾ」という歓喜が艦内に溢れたが、一方この付近の海面に慣れている「朝顔」と19号駆潜艇では、いよいよ「船団の墓場」に来たとて最後の警戒を強化したのであった。

 仏印の沿岸を右に見ながら西航すること足かけ3日にして、29日1530頃フランスの大型曳船1隻が波をけたてて迎えにきてくれ、曳索を渡した。 次いで1830頃同型の曳船が「天津風」に合同し2隻で曳航し、2200頃サンジャック着、「天津風」乗員は13日振りの安眠をなした。

 以上で曳航の総航程約490海里、「朝顔」は翌30日1200サンジャック発メコン河を上って1630サイゴンに着いたが、一方3隻のえい船(1隻縦、2隻横曳き)に曳かれた「天津風」は1500出発2200サイゴンに着いている。

 サイゴンでは11特根司令官より救難成功を祝して、司令部秘蔵の既にその頃残り少なくなっていた仏国産三ツ星印のコニャック一箱を「朝顔」に頂いたが、「朝顔」ではこれを少量ずつ全乗員に分けて祝盃を挙げた。

 そのほか、貴重な中6日間の休養までさせてもらったので、若さに溢れる「朝顔」の全乗員は早速疲労を回復してまた元気になった。

(原注1) 「天津風」を雷撃した敵潜はなぜ第二撃を加えなかったか。 雷跡1本ということから魚雷を既に打ち尽くしていたのではないかとも想像されるが、それならそれで、潜望鏡を上げてよく見て、後部砲の死角より接近して砲撃する手段も残されていたのではなかろうか。
  また魚雷が残っていたならば、曳航艦「朝顔」が来着し曳航開始するのを待って、一挙に2隻を魚雷で轟沈させることもできたであろう。
  この点、水雷艇「雁」を斃した敵潜は「より強敵であった」と思われる。 苟もしくも戦闘に臨んだならば、攻撃に徹底する必要がある。 小成に安じて第一撃だけで早々にして引き揚げてしまってはいけない。


(原注2) 第二復員局の功績便覧によれば、サイゴンにて応急修理の後、19年11月8日「永福丸」に曳航されてサイゴン発、15日昭南着、同地にて修理し艦首を着け、20年3月9日ヒ88T船団の護衛艦の1隻として内地に向け昭南を出発したが、4月6日廈門沖で敵機32機と交戦して被害を受け、廈門湾内に擱座した。
  上記の間、20年2月上旬から4月上旬までの最後の艦長は森田友華氏(68期,海自在隊、49.10.1退職)であったが、昭南から内地向け困難な長い道中を克服しつつ北上に成功しながら、アト一息というところで擱座に至り、森田艦長以下の無念さについては同情に堪えない。
  同艦擱座の頃私は同じ「朝顔」で沖縄行きが作戦中止となり、「震洋隊」済州島配備行動に転換中であったが、「天津風」の救難からそれまでの期間は3〜4年経っているように感じられたものである。


(原注3 ) 船団部隊指揮について
  この「天津風」の例のように、遠距離に、とくに日没頃敵潜を見て、「ソレ行け」と護衛艦1隻を急行させることについては、その後も同じような場面に度々遭遇したが、これらの体験を通じての所見では、このような発令は算盤に合わない結果となることが多い。 以後実例について機を見てご参考に供するつもりであるので一言触れておく。


(第17話終)

2009年01月04日

聖市夜話(第18話) 悲しき花びら−1(その1)

著:森 栄(海兵63期)

 私が「朝顔」に着任して私流儀の爆雷戦投射要領を示したのは、「朝顔式多数一挙爆雷戦」と命名したように記憶しているが、その夜戦時の要領を概略説明してみると次の略図のとおりである。

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 第1散布帯を敵潜の推定航路上の所定距離に、しかも正横に横切るように進入することはまず艦長の操艦、目測の腕にかかる最も重要な第1の要点であって、第1散布帯の第1弾投下時機をうまく選んで散布帯が敵潜の針路の両側に半々ずつ構成するように「投射始め」を令することが、艦長の第2の要点であった。

 爆雷砲台では第1弾投下と同時に同所に発光器を落とし、第1散布帯の端末にも発光器を落とす。 艦長は第1散布帯のあと約500メートル(?)直進して固定舵角(記憶不明であるが、速力によって決めてあり約5〜7度位であった)で回頭して、コンパスと第1散布帯の両端を見ながら第2散布帯に進入し、第1散布帯の終末発光器を正横に見て第2散布帯を構成し、前と同様に始点終点に発光器を投下。 終わったらすぐ固定舵角約3度ぐらい(記憶)で少し大き目に回頭しながら、投下済みの発光器4個を見ながら針路、速力の修正を加えつつ正しく敵潜航路上に敵潜と反航で進入して、第3散布帯を構成する。

 各散布帯内の爆雷の構成は同じであって、何発だったか記憶不明であるが、2月13日実施の際合計29発と記憶しているので、各散布帯は10発ずつだったと思う。 従来の一般のやり方はこの1個の散布帯に相当するもの一つであったから、私のやり方は従来の3倍の爆雷を一挙に消耗してしまう方法であって、当時の爆雷定数(約36個?程度)からみると無暴のことであった。

 しかし、定数どおりではとても足らないことは軍需部でも良く了解していたが、何発余計に積んで良いかとは誰しも判断できず、また当時の常識ではそれ以上積んではいかぬというのが定数であったから、定数外何発という数は行動海面の動揺などで全く艦長が決め、これによって水雷長が軍需部係官にうまく交渉して定数外を貰っていたが、「朝顔」の水雷長は毎回この交渉に成功していて私に心配をかけたことは1回もなかった。

 しかし私としては荒天になる度に、定数外爆雷の重みと艦の復原性を心配しなければならなかった。 そして当時「朝顔」は波静かな南方の海上では精一杯の無理をして40〜50発を積んでいたように記憶している。

 したがってこの私の流儀で30発も第一撃で消耗したら、残りは僅かになってしまうから心細いという意見もあったが、この意見に対する私の返事はいつも決まって次のとおりであった。

1.今のようなノロノロして落ちて行くような沈降速度のおそい爆雷では、10発ぐらいの散布帯1個で敵潜を捕捉できる公算は極めて少ない。 夜間は特にしかり。


2.後甲板には無理すれば約30発が置ける、これを一挙に全部落とせば捕捉公算が格段に良くなる。 この道しかない。 そしてこの場合撃沈はできなくても出血させればよい。(出血を目標とする)


3.出血させることにさえ成功すれば、あとは昼間を選んで直上より1発ずつ計4回も投下すれば、最後の止めまで刺すことができる。


4.例えその敵潜撃沈後、残り2〜3発になっても、同一船団護衛中第二の敵潜に対しては残り2〜3発でも敵の船団攻撃を封じ込む手段は捜せばある。 第2の敵潜は撃沈しなくてもよい。


 1船団につき敵潜1隻を確実に撃沈できるならば今の状況では上々のものであろう。 次の港ではまた満載できるから、要するに次の港までである。

 そして後甲板には木製の爆雷台と枠を特設して追加し、投射機にはなるべく早く次発装填できるようにし、投下するためには止め木を外して足で蹴ればゴロゴロ転んで行って艦尾から落ちるようにした。

 この爆雷戦要領は結局片仮名のキの字型になるので、「キの字型戦法」とも略称した。 そして昼夜間各1〜2回訓練したようであったが、艦長の漸新なアイディアが面白かったのか、また水雷長の指導が良かったのかで、水雷科員はすぐのみ込んでしまったのには、私の方が驚かされた。
(続く)

2009年01月05日

聖市夜話(第18話) 悲しき花びら−1(その2)

著:森 栄(海兵63期)

 この爆雷戦要領と同時に私が発案して訓練したのは、1番砲艦首零度夜間射撃であって、これは単に「零度射撃」と略称した。

 大正12年生まれの「朝顔」の主砲については、艦橋上に主砲指揮所があったが、「天津風」のような方位盤があるわけではなく、各砲側宛ての通信器と砲術長用の双眼望遠鏡と、砲術長が大声でどなりながら敵の方向を示す長い木の棒ぐらいが大事な兵装(?)であって、3門の12サンチ単装砲は仰角33度以上は上に向かない完全な水上砲で、また砲側照準であった。

 そして私は数々の体験で、夜間発砲すると砲側では砲口から出る火炎のため、パット明るくなって射手旋回手の照準は一時機中断することをよく知っていた。 この眩惑作用を何か少しでも取り除く方法はないかとて考えついたのが、この零度射撃であった。

 夜間敵潜に近迫する時はなるべく早く直上に迫って爆雷を落とし込みたいためと、また敵潜が反撃用の雷撃をしかけてくるのをいつでもかわせるように、敵潜を艦首零度において突込むことが多く、剣道でいう「正眼の構え」であったが、この時は艦橋両舷にある艦内最高性能の大倍力双眼望遠鏡にこれまた艦内で一番見張りの上手な見張員がついている。

 私はこの見張員の横に別に1名を配員し目盛係とし、見張員は眼鏡から目を離さず常に眼鏡の十字線に敵潜中央を置く。 側にいる目盛係は操舵員に刻々「右1度半」とか「左右〇度」という風に叫ぶ。

 操舵員はこの連絡によって刻々修正して常に敵潜を艦首零度に置く。 1番砲旋回手は初弾発砲後目が眩んで目標が見えない間は例なくして旋回零度に保つが、目標が見え出したらまた目標を照準して次の発砲に備える。 以後これをくり返すという要領である。

 即ちこれは、拳銃の名人が直接照準せず自分の姿勢を土台として発砲するのに似ている。 この訓練も砲員及び艦橋員はすぐ飲み込んでしまった。

 当時の乗員の覚え方が爆雷戦についても砲戦についても早かったことは、思うに「朝顔」が連続船団護衛ばかりやって、このころから敵潜の活動もだんだん活発化しようという状況において、何んとかして敵潜を撃沈したいという乗員の真剣さの現れではないかとも思われた。 私は 「これで良し、あとは敵さんに出てきてもらうばかりだ」 と心中秘かに思った。

 高雄のイ36司令部から次の護衛割当の電報がきて、19年2月5日サイゴン発、河を下って同日中にサンジャック着、6日1000サタ02船団(小型約2千トン級2隻)を、第21号駆潜艇と共に護衛し、海南島の楡林経由台湾の高雄向けサンジャックを出発した。

 私が船団部隊指揮官であったので、私は楡林まで仏印(今のベトナム)沿岸は接岸とし、楡林から高雄までは沖合を行動することに予定した。

 この仏印接岸というのは、距岸約500メートルないし1キロメートルを極度に接岸して、左側半面の護衛を節約できるばかりでなく、万一雷撃をうけても沈没までに時間の余裕があればすぐ最寄の海岸に乗し上げて、船体乗員積荷を救いやすいという根本的な利点を持っているほか、当時仏印は既に日本軍の掌握下にあったので、仏印海岸中最も敵潜の多い2つの岬(カムラン湾の北のバラレ岬とカムラン湾の南のパダラン岬)付近には、サイゴンの哨戒艇、水偵が哨戒してくれていて、この傘の中を通って、いわゆる間接護衛をして貰えるという第2の利点もあった。

 また仏印沿岸が大きく東方に張り出しているので、接岸が楡林までの最短距離であるという第3の利点もあり、船団速力が約6ノットという低速の場合は特に有り難い点でもあった。
(続く)

2009年01月07日

聖市夜話(第18話) 悲しき花びら−1(その3)

著:森 栄(海兵63期)

 これらの利点と反対に、注意を要する不利な点は、船団行動が固定されているのでひと目でも、ひと耳でも船団の通過を察知されると、あと敵潜にう迂回先行されて、繰り返し攻撃を受ける算があることが第1の不利点。

 第2には陸上のスパイに行動がツツ抜けとなり敵潜に知らされること。

 第3に各船が操船に注意しないと海図に記載もれの浅瀬などにのし上げてしまうこと。

 第4としては大胆な敵潜になると、海岸側の島影などを利用して船団側の見張り、探信儀の識別を困難にして内側から至近距離で絶対確実な雷撃をして、船団の混乱に乗じて沖合の方に逃げるということも考えられた。

 しかし、このような敵潜は初めから逃げ場の少ない死地に自ら潜入しているわけであるので、船団側でよく注意していて先制発見しさえすれば確実に撃沈できる敵潜であるとも言える相手であった。

 次に強いて言えば第5の不利点として、陸地が近くて甲板上から全く手にとるように陸上が見えると、乗員たちは戦を忘れてしまって、敵潜望鏡の見張りよりも陸上の美しい家や花や山や河の方を見とれてしまい、日本に残している家族や故郷を思い出すという精神的な不利も生じやすいことであったが、これは精神面の指導で克服できる点でもあり、特に艦長自身が言動に注意すべき点でもあった。

 そしてサンジャックから楡林までを接岸に決定した理由は、最短距離を通って、かつサイゴン部隊の制圧の傘を通って間接護衛を受け、かつ万一雷撃されても海岸にのし上げられるというところにあったが、結果的に見れば自ら死地に投入したわけであって、今の私ならサンジャックから南方に下がり、仏印沿岸を約100ないし200海里離して、特に2つの岬の沖合を東に大迂回して楡林に向かうであろう。

 当時「朝顔」のようなイ36部隊麾下の生えぬきの護衛艦達は(自ら「丸ツ部隊」とか「丸ツ作戦」と言っていたが)、艦橋に「敵潜出現海図」を備えていて、毎日イ36とか各海域担当の司令部とか、中央から来る敵潜情報電報によって敵潜位置と出現日時を克明に記入していた。

 この海図をみると敵潜の狙っている海面、その動き、果ては今全部で約何隻が第一線で配備についているということなども大体想像できたが、これによってもカムラン付近の岬2つ(北はバラレ、南はパラダン)は大関横綱級であった。

 私はこの危険度の強い2つの岬を通過するに当たって、着任後の新しい準備が艦内に整っていることに自信を抱いていた。

 一方この海域担当のサイゴン(11特根)司令部もこれらの岬付近に、乏しい兵力のなかから特設哨戒艇の3〜4隻を出して対潜哨戒に当たらせるとともに、上空には水偵を出して精一杯に哨戒させていたが、注意して観察してみればこれらの水偵は昼間の見張りだけであって、別に磁気探知器を持っているわけでもなし、また昼夜を通じて張り切っている哨戒艇にしろ、別に探信儀を持っているわけでなし、「雁」時代マラッカ海峡で知った吊下式聴音器の類であって、来襲する最新鋭の米潜に対して堂々と対抗できる代物ではなかった。

 果たせるかな6日サンジャックを発して接岸北上中の我が船団に対し、「敵潜が集っているから船団をカムラン湾に入れ、「朝顔」と21号駆潜艇は岬付近の対潜掃討に加入せよ」 という命令がきたので、船団2隻を7日カムラン湾に入れ、我々2隻は沖合の対潜掃討に加入したが、燃料を消費したので8日カムラン湾に入り補給、9日再びパダラン沖の掃討に出かけて、11日0730再びカムラン湾に帰った。
(続く)