2008年10月24日
『聖市夜話』 の掲載を始めるに当たって
この回想録はかつて私が初任幹部時代に海上自衛隊の部内誌に連載されたものです。
著者の森栄氏は、回想録の中でも書かれていますが、終戦後に諸般の事情もあってブラジルのサンパウロ市(聖市)にご家族揃って移住されました。 そしてそのサンパウロからの投稿であった訳です。
海上自衛隊の部内誌に掲載された旧海軍出身者の記事は、はっきり言って若い幹部にとって面白いものはあまりありませんでした。 特に戦後海自に入って将官で退官された方々のものは、大部分が自慢話ばかりのようなもので・・・・
その中にあって、私が毎号を楽しみにして読んだものの一つがこの 『聖市余話』 です。
読んで大変面白く、“これぞ船乗り” を感じさせてくれるものであり、太平洋戦争における船団護衛、対潜戦の実相・実態をまざまざと示してくれるものでした。
しかしながら、私が海自に在職中もこの折角の回想録も当時一度連載されただけであり、その掲載された時のバックナンバーも部内誌という性格上配布された部隊で保存されることもなく、私が知る限りでは現在では僅かに2個所に残されているに過ぎません。 したがって、この様な貴重な回想録があることさえ今の海上自衛官で知る人はおりません。
私も定年退官した今、この素晴らしい回想録が現役の若い海上自衛官のみならず、ましてや一般の方々の目に触れず、このまま消え去ってしまうのは如何にも惜しい、勿体ない、そう思わずにはいられません。
森栄氏は少し前にお亡くなりになったとお聞きしております。 が、サンパウロ在住のご遺族のことは判りませんので、私のこのブログでの掲載に当たり著作権についての許諾は得ておりません。 また海自の発行元にも版権や編纂権上の承諾を得ておりません。
したがって、正式にはそれらのことを無視したものであることを承知の上で掲載いたします。 それは上に記したとおりの意志からです。 この貴重な回想録は、日本人としての宝だと思うからです。
このブログにご来訪の皆様も、是非じっくりお読みになり、この回想録の素晴らしさを味わって下さい。
ただし、正当な権利を有する方からの要求があった場合には直ちに削除することは言うまでもありません。 これが前提での掲載であることを予めお断りしておきます。
『聖市余話』(第1話) インド洋への赴任
親愛なる西山編集室長のご要望に応じ、南半球ブラジル国サンパウロ市から、昔の思い出を綴り、後進のご参考に供します。
私の戦時経歴は、開戦時兵学校教官、17年9月印度洋西第一線の「雁」水雷艇長、18年6月横須賀の水雷学校高等科学生、同10月南西太平洋で船団護衛専門の「朝顔」駆逐艦長、19年5月少佐、20年6月上海根拠地隊参謀、翌年4月博多に上陸、復員であります。
この間印度洋は新米艇長試練の巻で、この試練と水校学習のお陰で、「朝顔」20ヵ月の間は名馬「朝顔」の巻で、合計44回の船団護衛に参加し、その内18回は船団部隊指揮の体験をいたし、名馬「朝顔」は実によく走り私ども乗員を守り抜いてくれ、終戦時の数少い健在艦の一隻として残りました。
「朝顔」は私の前の大西勇治艦長時代に、合計50回の船団護衛に従事しておりますので、開戦から終戦まで総計94回の護衛を果したことになり、20年5月2日最後の船団を門司に入れ終った時、同地の第1海上護衛艦隊参謀から、「日本の重油は少なくなった。以後タービン艦は使わない。「朝顔」は瀬戸内海でB29投下の機雷監視に当れ。」 と言われた時の、“戦い尽した” という感激の思い出は、28年後の今日、身は異邦に在っても今なお新鮮なものがあります。
ただ今、伯国東京銀行に勤務中ですので、帰宅後、るるとして順を追って当時の思いでを綴って行くつもりですが、何かのご参考になれば幸であります。
なお日本出発時、急ぎ書き残した「海上護衛戦の所見」 は、戦史室47年3月 「海面防備史料別冊第2」 に掲載の栄に浴しましたので、必要の方は併せてご覧下さい。 また、戦史叢書の海上護衛戦の607頁にも一部が載っております。
16年12月開戦以後、私達若い教官は 「先生をするために海軍に入ったのでない。お礼奉公はこのくらいにして、1日も早く晴れの第1線に出して下さい。」 と毎日毎日お願いを繰返した。 生徒隊監事松原大佐は笑いながら言われた。 「気特はよくわかるが、この戦は長くかかりそうだ、あまり狽てるな。」 しかし、私たちは戦争がこのまますんなりと終ってしまったら、松原大佐をいくら怨んでも、一生の不作を取戻すことはできないと思った。
ミッドウェイ海戦も終り、17年8月51日、第72期生徒の運用術教務を終って教官室に帰った私に、生徒隊付監事であった級友魚野大尉は告げた。 「貴様良かったな。9月10日付「雁」水雷艇長の内報だよ。貴様が一番早かったな。」と言って彼は我がことのように喜んでくれた。
しかし、人事局からの内報には次のオマケが付いていた・・・・「君のクラスにはちょっと早いようだが、君が失敗したら君のクラスは当分艦艇長に出さない。そのつもりでしっかりやりたまえ。」
これも魚野から聞いた。 えらいことになった。 クラスの重責を負っているのか、と体中が緊張した。 私は11年3月卒業後、「八雲」「五十鈴」「日向」「疾風」「熊野」「鵡」「八雲」「山城」というふうに、水上艦艇の勤務を休みなく続けていたし、特に同型の水雷艇「鵠」も体験していたので、年は若いがやって見せるぞという自信はあった。
そのうち、赴任先はラングーン(現在のヤンゴン)と分った。 えらい遠い所だなと思って、運用科、航海科の先輩教官達に聞いて回ったが、誰も知っている人はいなかった。 ある教官が参考として話してくれた。 「あの河は河幅が狭くて流速が強いから、噂によれば艦首を岸に当て、機械を使って強引に艦尾を河上に向け、後進で艦首を抜いてから出港せにゃいかんらしいぞ。」と言う。 私は「鵠」でもこんな芸当はやった経験がなかったので、この話は10月5日の艇長交代の時まで頭にこびりついていて、赴任途中の機上でもラングーン出港要領についてあれこれと心配を続けた。
発令は9月10日だったが9月7日出発は許された。 私は真先に、しかも西方遠か印度洋の第一線に、更にクラス第1号の初の艦艇長としてこれ以上の武人の本懐はないと、“寝刃” を起した2尺3寸5分の愛刀、“肥前国一文字出羽守行廣” を手にして、2年間お礼奉公をした懐しの江田島を後に赴任の長途についた。
( 『海戦』 斉藤忠著、海洋文化社刊、昭和17年7月初版 )
博多、上海、台北、海口、三亜を飛び石沿いに南下、サイゴン着。天候の回復を待つこと2週間、この間同市内で 斉藤忠著 「海戦」 を買う。 同書は以後私の戦場における良き教官となったが、遂に18年2月ラングーン対空戦闘にて、血染めの海戦記となり、「雁」時代の最も貴重な遺品として、今ブラジルの地に同行している。 10月1日天候回復、サイゴン発、バンコック経由、同日ラングーン着。 川縁のガランとした水交杜にて電波世界に飛ぶ短波ラジオを聴きながら待つうち、4日「雁」入港、5日着任、5つ年上の福山強前艇長から引継ぎを受けた。
『聖市夜話』(第2話) 初の出港
17年10月5日、内報を受けて以来いろいろと心に画いた水雷艇「雁」に着任。 ジュネーブ条約、ロンドン条約による軍縮会議によって、駆逐艦の範囲に入れられず、制限外艦艇として誕生したこの水雷艇には、「千鳥型」4隻と「鴻型」8隻があり、私は刀剣用語によって、前者を二字銘水雷艇、後者を一字銘水雷艇と区別した。 二字銘が先に建造され、9年「友鶴」荒天中の訓練にて転覆し、この教訓を加え11年末から一字銘が出現した。 そして私は、13年12月から翌年5月まで、南京陥落の直後の揚子江において、一字銘の「鵠」航海長兼水雷長(中尉)として勤務の経験があったので、「雁」は2度目の同型艦であった。
(「雁」と同型の「鴻」)
一字銘は二字銘より船体は一回り大きく、全長83メートル19,000馬力、最大速力30ノット半、単装12糎3門は仰角55度まで利き、53糎3連装発射管1基を持ち、印度洋における排水量は1,530トン前後であって、どうみても大正中期の2等駆逐艦と同寸法ながら、行動力、砲戦力、魚雷航海通信など、あらゆる点において優越していた。 特に2等駆逐艦に比べ、高温高圧の蒸気を使い、前者は缶4缶のところ缶2缶であり、旋転式補機を採用しており、缶1缶で優に24ノットを出せたことは、主砲仰角55度とともに対空・対潜哨戒艦として極めて使い易い艦であった。
( 注 : 排水量の1530トンは余りにも過大であり、艦型の要目からして1050〜1150トンの範囲内と思われ、誤植・校正ミスかとも考えられますが、今となっては確認のしようがありません。)
前艇長福山強少佐(海兵58期)は、若過ぎて危っかしいような新艇長(海兵63期)に対して、懇切な引継ぎを終えてから、あとで次のように付け加えた。 「後任艇長の電報が入ったので、現役士官名簿を調べたが君の名前は見つからない。予備士官かと思って調べたが予備士官名簿でも分らない。あとで砲術長がぶ厚い名簿のつづり目の近くから、ようやく捜してくれたよ。〜全く若返ってきたもんだね〜」と、さも感歎したふうであったが、私自身ももちろん全く同感で恐縮していたのである。 しかし、かつて1次大戦の話をきいた時に、戦時となれば艦は一挙に増えるが人間は間に合わぬので、特に年期を要する配置ほど若くなるぞ、と言われていたから5年若くなるぐらいは当然であろう、とも心中思ってはいた。
そして、士官室にて貫禄十分な前艇長を囲む侍ども、先任将校、主計長、軍医長が皆私より年上であるのには驚いた。 なかでも元気の良さそうな山田萬次郎軍医長(軍医大尉)は、さっそく私に第一声を浴せかけてきた。 「それでは僕が佐高生の時に、森艇長は佐中生だったんですね〜」、と愉快そうに笑った。 これだけで十分である。 年齢の上下には全く頭が上がらない。 こんな時は同県人というものはかえって具合が悪い。 「艇長が若いのはよいが、若過ぎると艦が危い」という不安は、私の着任後、ただちに全艦に拡がったようであった。
しかし、この主計長(主大尉)と軍医長(医大尉)は、第11水雷隊々付であったものが、隊の解隊によってその乗艦に天下りしたものであったので、間もなく若い美少年たち、大木幹雄主計中尉と中沢覚軍医中尉と交代し、いそいそとして日本に帰って行ったが、坂元正信先任将校(予備大尉)だけはその後長く翌18年4月まで在艦し、新米艇長の私の最も大事な女房役(副長役)となってくれた。
すなわち「雁」は単独水雷艇であった。 直属上級指揮官は、アンダマン群島第1線に所在する第12特根の石川司令官であって、中間に隊司令は存在せず、私は所轄長でもあった。 時に私の年齢は、27才10か月。 引継ぎのあと、私は江田島からの問題であった「ラングーン出港要領」を尋ねたが、予想に反して河幅はもう少し余裕もあり、艦首を岸に当てるほどの必要はなく、まず上流に走り、河下に十分な距離を作ってから、機械舵を強引に使って、ドンドン流されながら回頭するということがわかり、そのくらいならできそうだと安心した。
福山少佐はいそいそとして、日本向け赴任の途についた。 同氏は16年10月より「雁」艇長として、上海、香港、昭南と次々に進撃し、昭南の陸軍部隊のビルマ洋上進出を支援したのであって、その1年間の足跡は二次大戦の西方への拡大を、そのまま物語っているものであった。
「出港用意!」
教わったばかりの出港要領、この辺でよしと思って回頭にかかる。 艦首の回りは遅々として進まぬが、その間艦の流されること早く、足の裏がゾクゾクする。 ようやく下流に向きホットする。 これで第1回目の出港は成功。 イラワジ河を下ること70マイル、しかし揚子江「鵠」で鍛えた腕なら初めての河でも水深と流れの状況は大体わかる。 河口に出て印度洋上針路南西、一路アンダマン群島に向かう。
2008年10月25日
『聖市夜話』(第3話) 幽霊の足摺り
イラワジ河口から南西に走ること約300マイル、翌10月6日印度洋上に浮かぶ監獄島、アンダマン群島の首都ポートブレヤ着。 陸上の景色はグンと変って、熱帯の島、強い太陽に強い緑の椰子が映える。 町の中心が町で最も立派な大きな監獄で、英国はこの孤島に植民地印度の政治犯と凶悪犯を収容していた。 日本軍は同島を3月25日占領して、英国の有難い置土産を貰ったものであった。 監獄外の町の住民は、殺人前科何犯というスゴイ連中の子孫だそうで、前科3犯ぐらいではまだ格式が低い。
(1976年発行の地図から)
(2008年現在のポートブレア : Google Earth から)
早速上陸して、初めて石川司令官に伺候。 司令官は孫のような若い艇長に、紙上に出入港要領を書いて、まず運用術の教育が始められた。 私はそれまで2年間、72期の生徒に運用術教科書を、週4回同じことをしゃべり続けてきていたのであった。 ふと見ると、酋長のような司令官の頭上の天井に、薄よごれた……毛布が、ヒラリヒラリと動いている。 扇風機の代用らしい。 退室して隣室を覗くと、件の毛布の原動力は使用の印度人であった。 ムッソリニーをやさしくしたような堂々たる司令官が、また堂々たる南海の酋長のように見受けられた。
当分周辺海域の洋上哨戒を命ぜられたが、12特根の担当は、北はラングーンから、南はスマトラ島西端サバン島まで、南北約800マイル、12ノットで走っても約5日弱かかる広さであった。
あれを思いこれを思う時、新米艇長どうしても毎晩よく眠れない。 夢幻のなか、次々に懸案事項が出てくる。 片っ端から艇長室の枕の上にあるリノリウム製の小黒板に書きとめ、翌日の総員起しを待って、この対策を研究し実施を下令するという毎日が続いた。 後から考えれば、この頃は中甲板の艇長室で眠れたのであるから正に良き時代であったわけである。
行動を終って再びポートブレヤに帰った某夜、この夢幻のなかに重く低い「ヅーッ」という音、また数秒おいて「ヅーッ」という幽霊の足摺りのような奇怪な音を聞いた。 私は耳を疑い、ガバッと夜具を払って上半身を起した。 深夜の艇内はシーンと寝静まり、咳一つ聞えない。 皆遠く離れた故郷の夢でも見ているのであろう。 「夢であったか!」と思い返していると、また、「ヅーッ」ときた。
「走錨だ!」とようやくわかった。 この港内は、底質岩盤のところが多く、港内の流れもあり、錨掻きが悪いのであろう。 このままにしていたら皆寝静まっているうちに艦は浅瀬に座礁してしまう。 私は寝衣の上に雨衣をかけ、急ぎ階段を上がって深夜の錨甲板に出た。 港内の夜風は日中より少し冷えていて快く、監獄島の陸上の灯火は平和の眠りについている。 履いているスリッパで前甲板上の錨鎖を踏む。 (医師の聴診器と同理である。) 確に錨は滑っている。 私は横にきている当直員を走らせ、寝ている先任将校を呼んだ。 先任将校は若い艇長の鋭い神経に驚いたようであった。 応急的に錨鎖2節を伸ばし、走錨の停ったことを確認の上寝につき、翌日総員起し後転錨した。 これが私の「怪我の功名」となった。 “幽霊の足摺り”以後、若過ぎる艇長に対する全乗員約200名の不安は幾分少くなったかも知れなかったが、私の毎夜毎夜の不眠症は、全乗員の心配には関係なく約1か月の間タップリと続いた。
2008年10月27日
『聖市夜話』(第4話) 監獄島の据え斬り
17年の4月、日本艦隊が印度洋を一掃して、所在の英空母「ハーミス」以下全艦船を総なめにしてからあと、連合軍はカルカッタにB24重爆隊を配備して、日本艦隊の次の出現に脅え洋上哨戒を厳にしていたが、その哨戒区域と私の艦の哨戒区域とは重り合っていた。 したがって、そのド真中にある基地ポートブレヤは、敵がいつ来襲するかわからない、危険極りない基地でもあった。 艦長申継になかったところから見れば、私が着任したあとで戦局がそうなったものかもしれない。 特にこの監獄島には、スパイがいることも我に不利であった。
そして敵にしてみれば、日本海軍の西第一線をウロチョロする唯一の高速艦がさぞ生意気に見えたであろう。 空から見れば、高速艦であることは直ぐわかるし、12糎主砲3門、魚雷発射管1基も目障りである。 また好個の爆撃目標でもあった。
着任後の不眠症も消え、約1か月経った17年11月、私はポートブレヤに帰ってきた。 そして今日、敵がもしこの基地を爆撃するならば、先ず第1に司令部、その次が在泊艦船であろうと真剣に考えた。 入港して大きな軍艦ブイに艦首をとり、ご丁寧にも艦尾に振止錨を入れ、潮の具合に関係なく、常に全砲火が司令部上空を射てるようにした。
(昭和17年頃のポートブレア)
ちょうどこの時、新機関長が遠路はるばる日本から着任したので、私は行動報告に司令部に行く序に、新機関長を紹介しておこうと考え、2人は上陸し、照りつくような太陽と椰子の木茂る海岸ぞいの道を、迎えの自動車で司令部に向かった。
司令部までは約4キロあったか、司令部の近くまで達した時、突如として空襲警報、轟々たる爆音、打ち上げる高角砲の音を耳にした。 車を道路際に止めて上空を見たが、私の予想はスッカリ裏切られ、司令部は安泰、敵B24重爆6機はこともあろうに、私の艦の上空を旋回しながら次々に投弾し始めているのではないか。 私はびっくり仰天、車を反転し今来たばかりの道を急がせた。
桟橋近くになると、マッチ工場から逃げ出してくる印度人の群衆が、皆空を見上げながら私の車にぶつかってくる。 こちらも負けずに警笛を鳴らす、爆音、爆弾炸裂音、発砲音でかき消されて、印度人は次々にぶつかってくる。
艇長不在中万一沈没でもされては申しわけがない。 それに艦は艦首と艦尾を地球に縛られている。 我が子が手枷足枷のまま、数名の敵に据え斬りされているようで、痛ましさに堪えない。 まともに直視できたものでない。
「頑張れ“雁”!」を心に連呼しながら椰子の葉陰を覗く。 「アッ! 沈没か、大破か、沈没か」と思うこと数度、弾着は全部300メートル以内の至近弾、弾着ごとに日本海々戦の図に見るような大きな水柱で囲まれ、船体はもとより艦橋煙突マストの見えなくなることもしばしばあった。
後方を見上げながら車にぶつかってくる路上の群衆。 これを必死になってかき分けて進む運転員。 道路上にさし込む強烈な陽光。 ようやく車は桟橋についた。
艇長迎の内火艇は、爆弾の弾着ごとに狭い海面に起こす波で、桟橋の横でグラグラ揺れている。 私と機関長は飛び乗り桟橋から放す。 残敵はまだ上空にある。 私は覆いケンバスから上半身を出し、内火艇の艇長に避弾の針路を叫ぶ。 しかし、これが最後の投弾であった。
舷梯を駆け上がってみれば、上甲板も上部構造物も露天甲板の戦闘員も全身海水でズブ濡れで、あたかも今海中から潜り出たような有様。 皆出てきてニコニコしながら、全然濡れていない艇長を迎えた。
海底から打上げられた岩石で、前甲板に直径約10センチの凹所1か所、それに中部機銃員石飛一水軽傷(海底から打上げられた岩石により眉間に軽傷出血1か所)、これが直ぐ判明した被害であった。 石飛君は幸運児としてみんなから祝福された。
敵の爆撃高度約8,000メートル、約250キロ爆弾約24発と推定され、これが全部至近弾に終った。 遅動着発信管であったので、水深約20メートルの岩質の海底にて爆発し、大きな水柱をあげたものと推定されたが、これが1発でも命中していたならば、確実に行動不能に陥ったであろう。
しかし船体が下から持上げられたため、全重油庫は艦内に漏れ、主砲、機銃、大型双眼鏡等の旋回軸に故障が生じ、修理のため後方約1,000海里のシンガポールに行くこととなった。 昔、造船術で教わったが、重油庫などのような艦内の区画は、外鋲より内鋲を弱くしてあり、重油庫の油が例え艦内に漏れることがあっても、艦外には漏れにくくしてあることが如実に教えられた。
これが私の、誠に恥しい初陣となってしまったが、私のほかにもう1人、しかも私よりあとで、同じく総員監視の中を、恥しそうに帰艦した士官があった。 釣り好きの彼(掌水雷長堀田特務少尉)は大物を釣り上げて、その日の夕食を賑わそうと考え、隣りの軍艦ブイの上に座り込んだ直後、大物は空から落ちてきて、振り落とされないようにブイにシガミつくのに精一杯で、これまた全身ズブ漏れで帰艦したが、その恐怖を語って皆から大いに冷かされていた。 ブイの上では名誉の戦死もできない、恐らく私以上に怖かったことであろう。
「雁」の主砲は最大仰角55度で、対空弾も搭載していたが、この日のように直上に旋回されてしまうと、真上が射てなくて困ったものであったが、これは狭い港内のことであって、視界の広い洋上においてはなかなかに頼母しいものであった。
結局、敵の拙劣な爆撃精度が私の艦を救ってくれたようであったが、その後のニューデリーの日本語放送は、「本日ポートブレヤで駆逐艦「雁」を撃沈しました」と放送した。 「雁」では駆逐艦に進級したとて、進級祝をしようかといって笑った。
この日、「雁」入港をカルカッタに知らせた陸上スパイたちは、「雁」が修理のためシンガポール向け出港した後、衛兵副司令の機敏な行動によって一網打尽に逮捕されたが、これがまた終戦後の悲壮極まりない戦犯問題の発端となったのである。
2008年10月28日
『聖市夜話』(第5話) 「雁」の侍たちと縄張り海面
1.「雁」の侍たち
当時の水雷艇、駆逐艦には副長という配置は無く、“先任将校”が次席指揮官であったが、「雁」の先仕将校は私より約3つ年上で、東京高等商船卒、日本郵船(NYK)在籍の坂元正信予備中尉(のち大尉)であった。 海軍流にいえば、私の1号か2号をコレスポンドとする先輩である。 こんな先輩を自分の女房役とすることは、如何に海軍省人事局の命令とはいえ、若僧の私には少なからぬ重荷を与え続けたが、彼の軍紀厳正なる人柄と周到な勤務振りは、遂に艇長は艇長として私をその職に在らしめ、私の思慮判断を全幅発揮せしめたのであって、私の初陣、「雁」においてこのような立派な先任将校を得たることは、私にとって最も感謝すべきことの第一であった。
当時NYKは日本の商船界の基準となる会社であって、日本商船隊のお手本となる最高の軍紀風規を持っていたことは、私も十分認識して尊敬していたが、「雁」艦橋の海図台の上で、彼が私に説明する際、ディバイダーを逆にして地点を指示する躾のあることに気がついた。 これはよくあることであるが、説明者のディバイダーと上司の指先が同時に同所を指して、上司の指を傷けることのないようにとの、NYKの良い躾のようであった。
また日常勤務において、彼が私に対談する時、また士官を集めて説明する時、部下に示達する時、彼の手には必ずメモ用紙が見られ、一言一句を忽せにしない緻密周到さが見受けられた。 メモ用紙を善用することは、事は簡単であるが、これをシッカリと身につけた海軍士官は、坂元大尉をおいて他にそう沢山見られるものではなかった。
そして疑問の点は先ず諸例則、内令提要、操式、教範から研究せられていたので、私は常に彼の補佐に信頼し、更にその上の次元のことを思い巡らすことができた。
私はどちらかといえば厳格な方であったが、彼は士官室の“和気”の中心として、予備士官、特務士官、准士官たちの心温かい母親役を果してくれ、全乗員の敬愛を集めたのであった。
先任将校の次に、砲術長尾崎予備少尉と、機関長付大久保予備少尉という若い予備士宮があり、尾崎砲術長は大阪商船(OSK)在籍であったが、OSKの出身と思うせいか、厳正なNYKの気風と対象的に、まことに自由明朗闊達で、体に溢れる若々しさを持っていて、若い乗員たちの士気の根源であった。
この竹を割ったような土佐出身の尾崎砲術長も、日の浅い海軍教育を終えてすぐさま西第一線の重要配置に就けられたので、着任当初は砲術長の職を重荷としたが、私はそれが本人の罪でなく、海軍の罪であることを良く知っていたので次のように激励した。
「君が砲術長をやらずして誰がやるか。わからぬところは先任将校に聞け。そしてわかっただけでよいから元気よく指揮をとれ。」
これで砲術長は以後弱音を吐かなくなったどころか、強い印度洋の強烈な太陽輝く砲戦指揮所では、大声で指揮棒を振う元気な彼の姿が毎日「雁」の士気を振い起こした。
大久保機関長付も機関科員の士気の根源であった。 砲術という商船こない配置に就けられた砲術長に比べれば、機関科の方は若い予備上官にとって、こなし易い点はあったであろうけれども、機関長付の明敏な頭と真面目な勤務は衆望を集めた。
機関長は老練な特務士官であったが、航海士には江田島兵学校選修科学生出身の堀場特務少尉がおり、私以外で江田島の飯を食ったことのある唯一の存在であった。 さすがに幅の広い考え方をもっていた。 乗馬が好きで乗馬服・靴をこしらえて昭南、彼南(ペナン)と行く先ごとに私の乗馬指導官をやってくれ、今でも2人で乗り回した当時の写真が沢山残っている。
この航海士は、仁王様のような立派な顎髭を生していて、運動神経に優れ、陸の上のことなら何んでも来いという人であったが、特務士官には珍しく艦に弱く、水雷屋を志す者としてこれまた珍しい同病の私と、お互に慰め合って船酔いを我慢し続けたが、のち希望どおり内地陸上航空隊に喜んで転出して行った。
別の特務少尉に堀田掌水雷長がいた。 常にユーモラスな彼は、ポートブレヤ港内で軍艦ブイの上に座って敵の洗礼を受けたが、釣指導官でもあった彼がいれば、こと水雷科に関しては何んでも来いであって、釣りということも彼の見解では水雷科に属するもののようであった。
そのほか若干の特務少尉、兵曹長がおり、別に単独水雷艇として大学出身の主計中尉と、軍医中尉が配せられ、准士官以上合計約15名であったが、古い1曹が兵曹長に進級し、内地の准士官講習に赴任する便が少い時などは、准士官以上が20名余に達することもあった。 これら准士官以上が毎食時士官室に集って賑やかに食事をしたが、この一堂に会するということは、行動機敏を要求せられる小艦艇の統率の面において、見逃すことのできない貴重な船体構造の特徴であった。
( 注 : 「鴻」型の内令定員表では、士官x6、特務士官x2、准士官x2の10名であり、これに単独艇としての増加2名を加えて計12名ですので、現実としてはかなり多い数であったことになります。 これは乗員数でも同じで、規定上と実配員とは異なるということの一つの例でしょう。)
2.「雁」の縄張り海面
さて「雁」の縄張りは、北はビルマのラングーンから南に下がって、司令部のいるアンダマン群島、その南のニコバル群島、さらに下がってスマトラ最北端のサバン島に至る線であって、印度半島の連合軍に対峙し、その飛行機、潜水艦、水上部隊の侵入を監視していたのであるが、敵もまた北はカルカッタ、南はセイロン島にB24重爆隊を置いて、日本艦隊の来襲を監視していたのであった。
この我が第一線の後方、すなわち東方であるマレー半島には良い基地が少なく、ずっと下がってサバン島の東方ぐらいにペナンがあった。 ここは隣りの区域である九特根の司令部があると同時に、印度洋方面に作戦する潜水艦の基地であり、また遠くドイツに派遣される潜水艦の最終の港でもあった。
そして敵B24の攻撃範囲は、カルカッタとセイロンとの2つの基地によって、我が12特根の全担当海域を覆っていたので、この担当海域内で「雁」の安眠できる港は皆無であった。 17年11月末ポートブレヤにおいて被爆した「雁」は、昭南にて修理ののち再びポートブレヤに帰ってきたが、この頃の司令部は、この隊内で最も戦闘力の強い高速艦をどこに置くかで苦労したようで、結局は、担当海域を哨戒せよ、呼んだら直ぐ帰ってこい、敵の爆撃目標となるな、というところであったらしい。
カルカッタ爆撃隊は11月爆撃で味をしめ、「雁」の捜索はその後執拗となってきた。 こちらもこれに応じて敵機の目を騙しながら哨区に健在し続けて、敵の潜水艦、水上部隊が侵入してきたならば、いつでもこれを撃破することができるように、得意の脚を使って縦横に走り回って哨区内に神出鬼没の行動を続けた。
特に据え斬りに遭った教訓は生々しかった。 名もない入江に投錨し、海岸に作業隊をくり出し、船体全部に椰子の葉を被せ、私は内火艇に乗って約2キロの沖合から点検したが、化け方も回を重ねるごとに上手になった。 上甲板通路では全乗員の愛猿「吉兵衛」が、椰子の葉と皆の肩の上を嬉々として跳び回った。 この椰子は対空・対潜のためのものであった。
一方、行動中の対潜のためには、敵潜は速力と方位角によって雷撃してくるので、この2要素を騙す必要があったが、速力はなかなか騙せないので、方位角を見誤らせることに努力を集中した。
その1は、船体に大胆な迷彩(カモフラージ)を施した。
その2は、露天甲板構造物で、左右90度の面を表わす構造の前後に、先ず鋼索を張り、これに帆布を下げ鼠色に塗り、潜望鏡から見ると90度の面がわからないようにした。
その3は、単独行動であっても、同じ針路速力を長時間続けないことであった。
2008年10月30日
『聖市夜話』(第6話) 艇長“鳩の巣”
約190名(注)の部下の心もようやくわかってきた。 私は暇あれば折尺をもって露天甲板を歩き回り、偽装側幕の新設を指示するほか、爆雷砲台、主砲機銃周辺の余積を捜し尽した。
( 注 : 「鴻」型の内令定員表では、艇長以下128名ですので、単独艇増員を考慮しても相当に多い数です。 これが機銃などの増設分なのか、外地派遣艇としての必要性からなのかは分かりませんが、ともかく第5話でも書きましたように、規定上と実態とにはかなりの差があるものあるという例です。)
これは帝国海軍の零戦乗りたちが技術者たちと一緒になって、世界に類の無い名戦闘機を作り上げたと同様に、我々水雷屋も造船屋と一緒になって、最も使い易い水雷艇を作らねばならぬという強い考えに出発したものであった。 また一字銘水雷艇は、寸法、馬力からみて、この考えの基準とするのに丁度良い大きさと思われた。
その所見は次のような点であった。
1.主砲仰角55度は90度近くまでしたい。
2.機銃は水鉄砲の水のように故障なく連続弾幕の張れること。数ももっと欲しい。
3.爆雷定数は3、4倍にしたい。
4.敵潜の雷撃を回避する性能としては、舵効きをもっと良くし、艦橋のボタンを押せば、非回頭側の外舷正横に側板が突出すること。
5.同じ目的のため、保針性能をたとえ犠牲にしても回頭性能を良くするため、前後部を高く中部を低くした竜骨とすること。
6.居住区の構造は、ブザーから戦闘配置につくまでの秒時を短縮することを第一義として設計すること。この種艦艇では、平時勤務、外交儀礼などの便は軽視する。例え乞食小屋風になっても構わない。
(注) 哨戒行動中、砲員を砲側に寝かせて実験したところ、スコールで砲員を濡らして、やはり仮設では永続性のないことがわかった。
7.同じ理由で、中甲板の艇長室は不要、艦橋に1つあればよい。また居住区階段も、もっと傾斜緩やかに幅広く方向を考え、配置につく秒時を短縮すること。
8.俗に “鳩の巣” と呼んだ檣楼は、艇長自身が雷跡見張りと措置をするのにも最良の位置であること。
(注) 私は “鳩の巣” を愛用した。 当直将校の申継は簡単に「艇長鳩の巣」で済んだ。
(前檣見張所、“鳩ノ巣” 「軍艦メカ 日本の駆逐艦」より)
9.敵潜側の測的を困難とさせるため、専門家による迷彩を施すほか、上部構造物に正横面を作らないように設計すること。
10.回頭性能を上げるため、多少速力を犠牲としても、中部船幅を大きくしても差し支えない。
11.「缶2缶、1缶全力24ノット」という性能はきわめて便利。
12.全長約80メートルはこの辺が限度。
大体以上のような所見であったが、戦後、「はるかぜ」艦長となって、2枚舵が採用されていることに喜んだのである。
私は “鳩の巣” に上り、斉藤著「海戦」を読み耽った。 明快にして簡潔な名文は、直ちに私に教えるものばかりであった。 紺碧の空、緑濃き椰子の島々、油を流したような海面に時々線を引く飛魚、「人間共はなぜ戦争をするのであろうか」 と、平和な大自然が呟いているようであった。
また思う、このままでは敵に主動権を握られているのではないか? 「雁」を使って印度半島東海岸に殴り込みをかけ、B24の勢力を船団護衛に分散させてはどうか。 私は第一次大戦ドイツの「エムデン」艦長になったように、この作戦を海図上に展開した。
ポートブレヤ西方沖を日没前に出発、夜半英国船団航路に達し、約2時間暴れて帰途につき、翌朝日出後帰投という計画は、速力燃料からみて可能ではあったが、敵船団位置不明では、折角の行動が獲物無しとなる。
せめて、敵がビルマ、ポートブレヤにスパイを置いているように、わが方もセイロンとカルカッタにスパイを置き、両港の北上南下船団の出発が判明するならば、と思うことであった。 ポートブレヤに入港した時この計画を提案したが、先任参謀は同意しなかった。
当時敵のセイロン隊は余り出現してこなかったので、わが哨区南端のサバン島は敵の攻撃圏内であるとは言え、私たちの一番嬉しい憩いの港であった。
(2008年現在のサバン島 Google Earth より)
サバン島は可愛いい島。 中央部が湾になっていて、湾口狭く、港としては良かった。 港湾防備はまだ進出しておらず、いつ湾口から雷撃されるかわからぬ危険性もあったが、陸上には我が海軍航空隊が少し進出していて、西方印度洋の哨戒に当っていた。
(2008年現在のサバン島主要部、上が市街地 Google Earth より)
上陸して一本の町筋に店屋が並ぶ。 「雁」の入港する度にブドウ酒の在庫が目に見えて無くなって行った。 町の奥にある中華料理店「日本食堂」の焼飯は、常に「雁」乗員を集めた。 坂を上がって士官宿舎に向かう。 道側の立木に栗鼠(リス)が遊んでいる。 また「戦争さえなければ」 と思う。 垣根に色とりどりの小鳥が囀る。
沖縄出身の士官宿舎のオバさんは言う。
「私の娘だけは、清く育てて結婚させたい。」
私はオバさんの前半生を聴くのに約1時間を要した。 ご主人は独逸人で、前の大戦で青島で捕虜となり、四国に一時収容されたが、日本人の温情深い取扱いに今でも感謝している。 遂に祖国独逸には帰らず、この地に留まったという。 しかし私はこのご主人にも、教養深いというその娘さんにも、遂に会う機会はなかった。
また、サバン島の東方マレイ半島のペナン基地にも入った。 ここはマラッカ海峡西口を守る要衝でもある。 艦橋の膝の上に斉藤著「海戦」を開きながら、入港準備作業の傍ら、周辺の防備を見る。 過ぐる第一次大戦の独巡洋艦「エムデン」艦長フォン・ミューラー中佐のペナン湾奇襲の項を読む。 兵器は進歩しても、これを運用する人間に、果してどれだけの進歩ありや?
上陸して英国人の造ったこの美しい避暑地に遊ぶ。 例によって髭の航海士と共に某陸軍大佐に願い出て、英国が残して行った競馬用の駿馬を借りた。 航海士のは体格の良いスマートな馬であったが、私のは少し小型で片目であった。 2頭とも広々とした無人の競馬場を風のように走った。 馬たちは全身汗となるまで存分に走ったが、私たちは軽く汗をかいた。 「我々もどうやら一人前だね。」 と言って笑ったが、戦を忘れるにはもってこいのスポーツであった。
町には、すでに元気のよい日本人たちが沢山進出していて、日本人会の活動も始っていた。 かつて訪れた北米カリフォルニア州の県人会を想い、またハワイの知人を想う。 敵国にある懐しき皆様方よ、今いかが、切にご無事を祈る。
2008年10月31日
『聖市夜話』(第7話) 車引きの友
この帝国海軍西方第一線の同じ12特根麾下に特設砲艦「江祥丸」がいて、同艦と「雁」は常に司令部に呼ばれて、次々の作戦行動を命ぜられては、お客を乗せた人力車が梶棒をとり上げて健脚に物言わせて走り回るように、同じ車引き稼業の兄弟分であった。
( 注 : この「江祥丸」については、排水量1,365トン、元々は名村汽船所属で、昭和19年5月22日にペナン沖にて雷撃により喪失したこと以外はよく判りません。 もし要目、船型ご存じの方、写真等をお持ちの方がおられればご教示をお願いします。)
( 注2 : ↑でお願いしましたところ、早速HN戸田S.源五郎さんから氏のHP「大日本帝国海軍特設艦船」に写真と戦歴が掲載されている旨ご連絡をいただきました。また、同HPのリンクにあるサイト「戦没船データベース」では同船のより大きな写真が見られます。ご教示ありがとうございました。)
同艦は貨物船に砲装したものであったので、速力遅く、大砲機銃以外持っているのは爆雷ぐらいであったが、生れながらのズバ抜けた大きな輸送力をもっていたので、各離島に陣地を拡充しつつあった12特根としては、「雁」と共に最も有用な海上兵力であった。
「雁」が喧嘩担当とすれば、「江祥丸」は運び担当であって、この2隻を組にして使えばお互いの性能を安全確実に発揮できそうであったが、隻数唯の1隻ともなると、いきおい各個別々に単独行動させられっ放しで、時々親爺の膝下で顔を合わせては、夫々の苦楽を慰め合いお互いの武運長を労り合っていた。
同艦々長小田寿夫大尉は、「雁」の先任将校、砲術長、機関長付と同じく高等商船学校の出身でそれらの先輩であったが、一見豪快明朗でありながら、内に永年の海上経験で鍛えられた緻密な計算と周密な備えがあり、部下を労われ艦内には常に明朗でいかなる困難に立ち向かってもビクともしない豪気さが漲っている。
高速新鋭で七つ道具を揃えた「雁」からみれば、砲装以外裸同様の「江祥丸」が、いっやられるか、いつやられるかと心配に堪えなかったが、「雁」はヒドイ被害を受けて昭南に行くのに比べ、「江祥丸」は武運強く次々の作戦行動を大胆にこなして司令部の命令に克く応えたのであった。
危険な任務を終って帰投した小田艦長の明るい楽しげな土産話を聴くたび、私たちは艦長の逞しさを教えられ、未知の海域の珍しい話に興味を湧かせ、次には2隻で仲良く行動したいものと希望しながら、ついに敵情はこれを許さなかった。
小田艦長の話を聴いていると、小艦艇の指揮官にとっては面倒臭い戦務などよりも、彼我の情況に臨機応変の何物にも捉われない工夫、些細な徴候も見逃さない戦機の看破、大敵なりとも恐れない勇猛心などの項目の方が、さらに優先して要求されるものではなからうかと思われることであった。
この小田艦長のみならず、私はその他の第一線の特設掃海艇長、特設駆潜艇長など(これらは全部商船出身士官であったが) に会って情報を交換する時、上記の項目に照し合わせて各個の指揮官の特性を感知したが、
1.尽忠奉公の念は等しく旺盛で、光栄ある軍職を汚すまいとする一念は、現役士官に決して劣るものではなかった。
2.商船出身士官は、概して同配置の現役士官より約5年ないし10年の年上であったので、海上経歴長く、海と船の性質を知り抜いてこれらを利用することにかけては 一日の長があるように思われた。
3.しかし一方海軍々歴浅きため、彼我兵器の性能を知ること、自分の装備兵力を活用すること、戦務を適正に処理すること等については研究の余地も見受けられ、そしてこれは当然のことであったが、反面却って海軍が長年培ってきた軍隊組織、軍規風紀、階級制度、一般の習慣などの形に捉われない自由な発想、別個の一種の霊感を持っているようであった。
4.また商船界における幹部士官としての経験は、部下の統率面でもよく発揮され、これに当時世界第一級と評せられた特務士官、准士官、下士官兵がよく組合わされていて、 困難な任務によく耐えていた。
5.特に戦務に関しては、海軍の緻密さが長年にわたって物事を区分、細分してきたので、商船出身士官にとっては等しく苦手だったようであった。これでは折角の発想を文書、電報上に表現することを億劫にさせる結果を招き本末転倒となる。戦務の形ももちろん大事ではあるが、それにも増して特に第一線の各艦艇長たちの状況判断は司令部のより欲しい要素であろうと思われた。
したがって戦務の形を決める場合には、常に戦時召集員の存在を念頭において計画されることが必要であると感じた。
17年12月上旬、私たちが敬愛した小田艦長は退艦し、二瓶甲少佐が「江祥丸」砲艦長に着任されたが、同少佐は小田艦長より更に先輩の高等商船学校出身のようであった。 「雁」艇長が若くなって行くのに対して、「江祥丸」艦長が反対に古くなってゆくことは更に困難な戦局の前途を思わせるものがあったが、その後はこの僚艦と共に巡り会って馬鹿話に花を咲かせる機会も無くなって行った。
2008年11月01日
『聖市夜話』の連載について
この連載、元々の掲載誌はB5サイズで、今のところ各回1〜2頁程度の分量なんですが、これからはだんだん4頁前後に、そして後半には8頁前後が続くことになります。
で、そうなるとブログの1回分としてはとても長くなりますので、分割掲載の必要が出てきます。 したがって、全40話を40回では終わらないことに。
それと、元々の掲載誌での編纂段階における校正ミスや、現在からすると少し編纂スタイルが古いところが多々あります。
これらについては、当初は“(原文ママ)(注)”などとしていましたが、簡単で明らかなものは一々お断りせずに私の方で修正して掲載することにします。
ただし、特に補足説明などを要する点については青色で注を入れていきます。
また、元の掲載誌では編集部で入れた簡単なイラストや人物写真などが挿入されていますが、これらはこちらでは掲載できませんので省略しますので、その替わり私の方で適宜他の参考写真・図などを追加していきます。
当初は単に文章のみの掲載の予定でしたが、行く行くは私のHPの方に何等かの形で残したいこと、そして読んでいただける方に何かご参考となるようなものがあった方が良いだろうと思いますので、順次挿入していきます。
このため本連載では、全くの原文・原スタイルのままではないことをお断りいたします。
・・・・と言うわけで、既にUPしている第1話からの分も、少しずつ手直ししている個所がありますので、今後とも時々は前の方に戻って見ていただけると嬉しいです。
2008年11月02日
『聖市夜話』(第8話) 大晦日の酔い(その1)
大晦日の酔い
東奔西走、またスマトラ北端の可愛いいサバン島に入港した。 今日は17年の大晦日。 港内の木造岩壁に横付して交互に入湯上陸、陸上でも艦内でも酒宴が始まる。 天気快晴。
私も幹部を連れて丘の中腹の例の士官宿舎に行く。 沿道の住宅地帯はいつ見ても美しい。 極彩色の沢山の色を1人で身に着けている小鳥、これこそ「神の造り給う」衣裳かと思う。 先ずは風呂に入って行動の垢を落す。 身心爽快になってソファーに座り、新鮮な山海の珍味に舌鼓を打つ。 食う程に飲む程に満腹満足し、夜と共に酔も回ってきた。
夜半になり突如艦から連絡到着。 電文に曰く 「セイロン敵重爆隊、元旦を期しサバン方面攻撃の算あり」 と。 酔いも醒め、私の脳裏には11月の被爆の苦い思出が去来する。 再び同じ目に遭って堪るか!
しかし一同のこの酔いで果して夜間出港が可能であろうか。 私達は直ちに帰艦し、総員について酔払い状況を調査し、約半数は元気と知って 「よし、出港可能」 と判断した。
なにしろ昼間出港ですらまだ年期が入っていない、しかも夜間である。 かつ約半分の乗員は酔っている。 しかし、元旦の日の出頃出港したのでは高速を使って港から離したにしろ、視界の大きい重爆隊にたやすく発見されてしまう。
私は 「強行出港!」 と決断した。 またこれも好い訓練になる。 「雁」の困難な将来を考えるとき、随時随所に夜間出港ができないようでは覚束ない。
艦橋に上り月夜の港内をみる。 旗甲板で掌水雷長に会う。 釣りも好き、酒も好きな彼も今夜だけは腰が立たない。 外舷から落ちられては堪らない。 「安心してここで休んでおれよ」 と私は彼に言った。
機械、舵の準備完了。 舫索を逐次外していって後進出港。 「雁」はうまく狭い湾口からスッポリと洋上に出てくれた。 洋上にさえ出ればこちらのもの。 セイロン島とサバン島とを通ずる線に対して直角の方向に高速で走った。
翌日の18年元旦、予想された重爆隊は遂に来襲しなかったが、取止めの理由が敵さんの都合であったか、また情報の誤りであったのか遂にわからなかった。 哨区内でカルカッタから一番遠く、唯一の安心できる休養地だった可愛いいサバン島もどうやら怪しくなってきた。
2008年11月03日
『聖市夜話』(第8話) 大晦日の酔い(その2)
血染の海戦記
18年1月末ポートブレヤ基地に帰投。 12特根のK首席参謀と後任のT参謀、交代のため申継ぎ中と聞く。 K参謀曰く 「ラングーン方面引継ぎのため、1泊2日の予定で同地に行ってくれんか」 と。 私は、全般海域の戦局の緊迫化に鑑み、同地には早朝入港し引継ぎを一刻も早く終了して、その日の内に一刻も早く同地を離れられるよう希望を申入れたところ、K参謀は言下に次のように答えた。
「艇長!そんな神経質に考えなくても大丈夫だよ。」
この言葉は今だに心に残る。 ここで私は司令官にまで強く申し入れるべきであった。 しかし若い新米艇長にはそれ以上一歩踏み込む気迫がなかった。 日頃尊敬する首席参謀のこと故、敵状に関しては私以上に知るであろうと思った。
「雁」はこの新旧首席参謀の2人を乗せて北に走り、2月1日朝ラングーン港に投錨し、この両参謀は陸上に上がった。 恐らく所在の陸軍指揮官への挨拶から始ったのであろう。 (あとで推定するに、この頃同方面にいるスパイたちは、「雁」の入港をカルカッタに電報している。)
(昭和17年頃のラングーン(現在のヤンゴン)港)
私は2か月前のポートブレヤ、およびその後の敵機来襲状況に鑑み、昼間は敵機来襲の算大なりとし、乗員の上陸を見合わせ厳重な対空警戒を命じた。 私自身旗甲板に丸テーブルを出し、対空警戒を兼ね斉藤忠著「海戦」を読む。 日中は無事過ぎた。
艇長従兵、中池末次郎水長が上がってきて、士官室の 「食事用意宜しい」 を告げた。 私は階段を下りて士官室の食卓についた。 早目の夕食である。 当直員は対空哨戒の部署についている。 当直以外の士官が士官室で食事を始めた。
箸を運ぶこと数分、突如 「空襲警報」 のブザーが艦内に鳴り響く。 中池水長は私に軽く一礼し、お盆を卓上に残し颯爽として後甲板に走った。 彼は3番砲々員であった。 これが、私が彼を見た最後の瞬間となった。
私も階段を駆け上がり、七倍双眼鏡を首に掛け、艦橋屋根上の信号台に腰掛けた。 敵爆撃隊はすでに市東部に侵入、一直線に「雁」上空に向いつつある。 お馴染のB24重爆7機である。
「対空戦闘」 下令。 敵の高度は今度も用心深く、約8ないし9千メートルと見た。 しかし、今度は水平直線飛行中の爆撃である、相当の精度を出すであろう。 「雁」の主砲3門は轟然と火を吐き続けた。 わが主砲弾着、よい所に炸裂、敵機は編隊を崩さず一路進入。 眼鏡で見ていると砂のような小型爆弾を次々にポロポロと投下し始めた。
小型爆弾の弾幕は前後左右に「雁」を包んだ。 弾着の瞬間私の足下約8メートルで、1番砲々員長山本隆二上曹が上甲板上に大の字に斃れた。 次に3番砲の発砲が止まった。 投弾全部終るまで正に数秒の時間である。 時に1609。 私は信号台から滑り降り、艦橋の階段を駆け下り後甲板に走った。
中部甲板の2番砲、後部甲板の3番砲の付近は一面血の海。 砲員は砲側を囲むように倒れ、肉片飛び散り、誰の腕か、誰の足か、阿修羅の惨状。 折からラングーン港内の鴎、何千となく「雁」の上空に群り、上甲板から流れる肉片を先を争って啄む。
軍医長、看護員、元気な者は機敏に走り回って救急処置に総力をあげる。 私は付近を通る陸軍の大発を呼んだが、上空ばかり見て横付けしてくれない。 「雁」上空を通過した敵編隊は、「雁」に投下し損った残り爆弾を、上流約10キロにいた商船に落すのが見えた。 ようやく1隻の大発が横付けして、戦死者、重軽傷者計26名を乗せ陸軍病院に運んでくれた。
K、T両参謀が真っ青な顔で帰ってきて、低い声で言った。 「私達は飛行機で帰るから、「雁」は直ぐ出港してシンガポールに修理に向ったらよいだろう。」 私は戦死者負傷者に代って、K参謀を鋭く見つめた。 しかし、恨みは参謀を説得できなかった私の気力の弱さにあった。 部下を持つ艇長は味方に対しても強くなければならない。
重傷者よ!死ぬなかれ、軽傷者よ!早く治って帰って来い、と心に叫びながら抜錨、日没までに行けるところまで河を下らねばならない。 河の中の夜航海は不可能であった。 日没後下れるまで下って、ようやくイラワジ河河口に達し投錨。 水線付近の約90の木栓を打ち直し、シンガポールまでの外洋の行動に堪えるように備えた。
2008年11月05日
『聖市夜話』(第8話) 大晦日の酔い(その3)
血染の海戦記(続き)
被爆直後、破口が余りにも多いのでペンキで印を付けながら破口の数を調べさせたところ、水線付近85、水線以外約200、合計285であった。
敵は今度は瞬発性着発信管付の約30キロ爆弾約200を投下したものと推定されたが、今度も命中弾なく、至近弾は弾着3群に分かれ艦首100メートル、艦尾50メートルと200メートル付近と記憶しているが、これらが全部海表面で炸裂したため、露天甲板の多数の人員を殺傷し、私の腰掛けていた信号台のパイプを曲げ、また私の下約2メートルにあった艦橋の大型望遠鏡の対物鏡も粉々に砕いていることがわかった。
木栓を打ち直している間、私は居住区を順々に回った。 今まで新着任者の寝る所がないとて私を悩まし続けていた艦内が、一挙に広々となり、各居住区には早くも祭壇が飾られ、木の香も新しい位牌に線香の煙が漂う。
「許せ! 若き艇長を許せ!」
私は心に泣きながら寂しい全居住区を回り、涙を押さえながら上甲板に出、折椅子に座った。 低い雲は異様にイラワジの月は恨めしそうに輝いていた。 長かった今日一日を振り返り、大きい深呼吸をする。 これが生きている証拠か。 中池水長の霊よ、今何処。
新しい従兵が旗甲板の丸テーブルの上に忘れていた「海戦」を持ってきてくれた。 その274頁「神や守る」の頁は、鮮血をもって染められた。 この血は1番砲員長山本隆二上曹のものか。
「神よ守れ、わが「雁」を護り給え。」
注1 : その夜のニューデリー放送は再び言った。 「巡洋艦「雁」は本日ラングーンで大破しました。」 今度は巡洋艦に進級していたが、誰も涙を押さえることで一杯で、一盃やろうと冗談を言い出す者さえなかった。
注2 : 「雁」は終戦直前南海に散った。 この血染めの海戦記は、「雁」が私に残してくれた唯一の遺品となり、今私と共にブラジルに来ている。
注3 : 当時私が家族に送った古い手紙の中に次のような記録が出てきた。
『 昭和18年2月16日付 長男忠重(当時3歳)宛て発信「雁」艇長従兵、水兵長中池末次郎が、昭和18年1月31日航海中艦橋前にて
刈りくれたる頭髪なり。 中池水兵長は翌2月1日対空戦闘にて重傷を蒙り、
遂に戦傷死す。
雁水雷艇長 森 栄
中池水兵長本籍地
大阪府堺市金岡村大字長曽根627
同 兵籍番号 呉徴水39739 』
注4 : 同じ状況でもう1回やれと言われたら、私は入港後日没まで、投錨することなく河の中を何回も上下して時を費すであろう。容易ではないことであるが。
2008年11月06日
『聖市夜話』(第9話) 平和郷「昭南」(その1)
18年2月1日ラングーンで被爆した「雁」は、2か月前と同様再び昭南(シンガポール)に走り修理に従事した。 自分の縄張りの中に修理場所を持たぬ悲哀さも感じたが、また一面ここまで来れば生命だけは保証されるので、修理様々といった嬉しい安堵の一念もあった。
主計長は早速水交社の中に「雁」の単独家屋を借りてくれた。 この水交社は昔ドイツ人経営の 「グッド・ウッド・パーク・ホテル」 であった由で、敷地大約10町歩もあったか、こんもりとした森林の中央に最も大きな広い本館があり、本館内に受付・食堂もあり、大サロンにはピアノも備付けられ、時々若い士官がピアノを弾いていて久し振りに家庭に帰ったような安らぎを覚え、遙か故国の家族達を思い出し、思わずホロリと感傷的にさせるものがあった。 ピアノの音色また罪深いものがある。
(現在の“Goodwood Park Hotel” 当時の趣が今尚残されているようですが、
周囲は市街地になってしまっています。 同ホテルHPから)
また、この水交社には、海軍省嘱託とか軍令部嘱託とかの肩書を持っている報導班員・経済調査員など、軍人以外の色々な専門家が来泊してきて賑わっており、戦(いくさ)専門の私達の方がむしろ少ないぐらいであった。
彼らは私達が敵と交戦して第一線から帰ってきたと知ると、ご馳走を差上げたいとて招待してくれ、第一線の生々しい体験談を熱心に尋ねた。 そして彼らからは、「陸軍に行った友人は冷遇されているのに、私は海軍に呼ばれて感謝している。」 とて、その比較を聞かされることが1人2人ならずしばしばであったのには驚かされた。
彼らの陸軍に行った友人には、下士官待遇の実例が多かったが、これを語る人たちは尉官待遇の人が多いようであった。 陸海軍の中央部は、もう少しうまい具合に打合わせてやれんものかと思うことであった。
さて、この本館の周辺の森、庭の中に所々に独立した2階屋があって、「雁」は12月の時に味をしめて、再び元と同じようなこの離屋を数日借りることに成功したのであって、この成功は毎回主計長の手柄であった。
いつも3、4人で連れ立って行ったが、この自称「雁の家」に着くと、まず浴槽に湯をなみなみと入れて汚れを落し、洗濯物は庭の芝生の物干場の釣金にかけ、ベランダに寝椅子を出して雲一つない濃紺の空を見ていると、ウトウトとして夢路に入り戦を忘れた。 庭の洗濯物は1時間足らずでよく乾いたが、毎日午後3時過ぎにくる猛烈なスコールで夢を破られることもしばしばであった。
夕闇迫れば勇気凛々、半袖半ズボンに身を固め思い思いに町に出かけ、ある者は映画に、ある者はレストランにビフテキを食いに出かけ、ビールで良い気持ちになり、バンドの演奏付で居合わせた陸軍さんと共に、「遺骨を抱いて」 を歌って涙を流した。 特に昭南の夜風の爽快さは印度人のワイシャツの裾のヒラヒラしていたことと共に懐しく想い出される。
日頃薄汚い我れ等小艦乗り達が、急に金持ちになったように、日本で味わいえないような休養の一時をこの赤道直下に過していたのであるが、それ程左様に昭南の陸上には英国人の残して行った美しい邸宅が沢山あった。
海軍諸部隊の幹部も、思いもよらぬ美しい邸宅に入り女中下男をおき、送り迎えの車もまた上等の外車であった。 入港早々の我々が、狭い艦内で洗ったヨレヨレの薄汚い防暑服で司令部に行くと、相手の司令部員はあたかも人種でも違ったかのように、垢抜けのしたピンと糊付けされた服で現われ、遙かに離れた第一線のことよりも、その日その日の陸上の行事に多くの関心を抱いているようであって、常に第一線を最優先とした帝国海軍の伝統からみて何かそぐわぬ気風のあることを感じた。
入港直後燃料請求に行った「雁」の使いが、記入用紙が違うとて軍需部係官に突き返され、トボトボと再び「雁」まで帰ってきた。
また軍港から商港に通う海軍バスの中では、陸上部隊の顔のきく古い下士官が豪然として最良の席に頑張り、薄汚れて入港してきた掃海隊、駆潜隊あたりの士官達が昭南とはこんな所かと遠慮して小さくなって座っていた。
血気にはやる私は、「帝国海軍の伝統今やいずこ?」 と憤慨し、ゴルフの棒の頭を切り落した杖で、見つけ次第態度横柄なる者を殴りつけ、最後に必ずつけ加えた。
「帰ったら副長に言え、バス内の行儀不良で「雁」の艇長から殴られましたと。」
私はこれで眠れる陸上部隊に喧嘩を売りつけ、指揮官同志で事態を解決しようと考えたのであったが、抗議を申し出てきた所は一つもなかった。
また軍港近くには士官用宴会場があり、毎晩繁盛していたが、ここも顔の売れた地元の士官で荒されていて、たまに来る薄汚れた小艦乗りに対するサービスは冷たかった。
「第一線部隊優先」 を忘れたような陸上の海軍諸機関の傾向について私は所轄長会議で発言し、「このような傾向が改善されないならば、私は右砲戦を左砲戦にしますぞ。」 といって厳重に抗議した。 少将・大佐を主とする所轄長たちは、生意気な若造奴とて私を見たようであったが、一南遣長官は温顔の裡に私の意見を障ることなく最後まで良く聞いてくれた。
2008年11月07日
『聖市夜話』(第9話) 平和郷「昭南」(その2)
当時の海軍公報には、某士官がスラバヤで商品を沢山買って処罰されたというような記事が少なからず見受けられた。 物資のない内地の家族に、相応の品を送ることは認められていたが、処罰された連中の買った物はいずれも予想をこえる量にのぼるものであった。
私が「左砲戦にするぞ」と啖呵を切ってから2、3か月経った頃であったか、陸上機関の中心となる部隊の某高官に東京転勤の電報が来た。
日頃経歴ご自慢の同氏は、飛行場に集った多数の見送者に対し、次の栄転先をあれこれと楽しそうに予想したそうであるが、同氏が機上の人となり、東京に着かないうちに「予備役編入、即日召集〇〇〇指揮官」の追打ちの電報が発せられた。
この峻厳な措置は、眠れる昭南に警醒を与えたようであった。 私たちは「帝国海軍未だ健在なり」 とて士気を維持したが、全軍の見せしめとなった当人の不名誉については、まことに同情に堪えなかった。 また全軍の軍紀風規の責任者は、涙を揮って馬謖を斬る決断も必要であることを教えられた。
18年4月1日塩沢(幸一)大将来昭に際し、一南遺大川内(伝七)長官官邸において、所轄長を主とする歓迎会食が行われ、私も末席の栄に浴した。 この時の出席者は、大将、中将各1、少将6、勅任技師1、大佐15、中佐2、少佐3、大尉2、計31名であって、私のほかの大尉は塩沢大将の有本(正)副官(64期)であったから、私は文字どおり所轄長の末席であった。 また少佐3は副官2と機関参謀1であった。
夏軍装略綬で2000開宴というので、私は末席の身に恐縮して約30分前早目に官邸に着いた。 見れば、昭南10根の副官土屋少佐(鉄彦、58期)が忙しそうに会場準備中である。 いくら副官のお仕事とはいえ私より約五つ上の先輩である。 私は言った。
「今夜のご招待光栄に存じます。何かお手伝いいたしましょうか。」
土屋先輩は驚いたような目をして笑いながら答えた。
「いやいや、君は今夜の大事なお客さんだ、ソファーにでもゆっくり座って待っていて下さい。」
私はこの身近かな場に、帝国海軍の美しい伝統が残っていることを喜び、もし将来私が参謀、副官になることがあったら土屋先輩の例に習おうと思った。
( 注 : 旧海軍からの伝統の一つに、「指揮官」というものを重んじることがあります。 即ち、公的な場では、指揮官でない者は例え階級がどんなに上であろうと、指揮官たる者の立場を立てるということで、上記のようなことはその一つの例で、儀式で整列するような場合は、指揮官は最前列又は最上位の席に、その他はその後列又は下位の席、と言った具合です。 このことは副官と指揮官の間ばかりでなく、参謀と指揮官の間を始めその他の関係でも同じです。)
商港にある工作部の船渠に入渠するとき、船渠直前の強い流れの中で片方に沈船あり、約90度以上の急回頭の必要があり、新米艇長の私に果してウマクやれるかどうか大きな疑問であったが、ほとんど船首を沈船に載せて、後部指揮官の悲鳴にも近いような刻々の報告を聞きながら、強引に機械、舵を使って辛うじて入渠に成功した。
運用術教官として何も知らぬ生徒を前に、同じことを4回ずつくり返して2年間を過した私であったが、操艦はやはり金玉を上下して冷汗をかかないことには腕を磨けないことを知った。
また入渠中水泳指導官の計画によって、商港地帯にあるクラブのプールに半舷ずつ泳ぎに行った。 プールにはドイツ特設砲艦の青い日の乗員も嬉々として泳いでいた。 彼等は「雁」の乗員に比べ水泳術の方は得意でないようであったが、その顔色が健康で若々しさに満ち、前途に明るい将来を確信しているように見受けられ、これなら英米の厳重な封鎖線を突破して行けそうだと感じた。
またプール往復で岸壁のドイツ特設砲艦を横から見る、日本で積んだかと思われる長柄の甲板刷毛、ゴム長靴の多数あり、友盟ドイツも日本以上に物資欠乏らしい。 しかし特別の装備もなさそうなこの小艦が遠く印度洋、アフリカ南方、大西洋を踏破して祖国ドイツに帰る今後の苦難を思い、彼等のドイツ魂に深き敬意を払う。 そして第一次大戦に示されたドイツ海軍の先輩勇士達のように、最後まで立派に善戦してもらいたいものと切に祈った。
2008年11月08日
『聖市夜話』(第10話) 宝の船
ラングーン被害の修理は、平和に眠る昭南(シンガポール)で着々と行われた。 285個の破口の修理は簡単であったが、3番砲は内筒に損傷あり、射つととう発の虞ありと診断され、日本から砲身を取寄せることとなった。 2番砲は外筒に傷を受けていたが、これは使ってよろしい。
26名の乗員の補充と3番砲々身は、なかなか着きそうにもなかった。 遊んでいる間に、ちょっとボルネオまで一走りして来い、ということになった。 同島北岸ミリー港前面機雷敷設の協力である。
久し振りに見る本式の機雷敷設艦が、極めて迅速にアッという間に敷設してしまった。 「雁」は牧場の犬のように敷設海面の外側で警戒し、無事任務を終って昭南に帰った。 こんな任務なら何回やってもよろしい。
次いで命あり、
「水雷艇「鷺」重要物件を搭載しサイゴンから昭南まで運ぶから、「雁」は昭南で「鷺」に横付して受取り、ペナンまで運べ。なお荷物の内容は艇長限り、その受渡書類に署名せよ。」
ということになった。
18年4月始め、昭南軍港で「鷺」と「雁」は仲よく舷側を合わせて横付し、荷品を落されては困るので舫索を特によく取る。
「鷺」艇長は私より一級上の吉井俊雄大尉で、生徒時代にも同分隊で兄のように私達を労ってくれた先輩である。 私は殺伐たる戦場の後方の地で、この兄のような吉井艇長の艦と横付できたことは、心も和ぎ、語り明かしたい事ばかりであったが、作業はそれを許さなかった。
吉井艇長は、大型の受渡書類を私に渡した。 内容は日本国大蔵大臣から、独国大蔵大臣あての99.9某パーセントの純金2トンであって、この内容は艇長限りと指示されていたので、私は先任将校にすら漏らす訳にはゆかなかった。
荷物は約50キロずつの計40個に分れ、部厚い板材で作られた木箱に納められ、封蝋が施されていた。 私はただ笑って移動作業を眺めていたが、勘の良い古い下士官たちは、若い兵たちに、「一生に二度と足下にできぬ貴重品であるぞ。よく踏んでおけ。」 と言って、自ら範を示した。 真新しい木箱の上面も、「雁」の悪戯坊主たちに踏まれて見るみる内に靴の跡で薄汚れていった。 移し終るや直ちに横付を離し、吉井艇長に帽子を振りながら、彼南(ペナン)向け昭南出港。
途中の行動は単独である。 万一敵潜のため「雁」が突如雷撃を受けて、電報打つ暇もなく轟沈するならば、この沈船は宝を抱いて海底に眠る “宝船” として話の種となるであろう。
私は「鷺」と横付する前から約3組の位置浮標を用意させ、それぞれの投入係りを定めたが、幸いにして途中平安に走り続けこの用意は無用に終った。
マラッカ海峡を一路酉航し、ペナン沖に待機するであろうと思われる敵潜に対して厳重な警戒をしながら何事もなくペナンに入港した。 ペナンでは潜水艦基地隊桟橋に横付。
この宝物はあとで遣独潜水艦に積まれたはずである。 あの2トンが果して無事ドイツに着いたかどうか私は未だに知らないが、吉井先輩の顔と共にこの緊張の行動は忘れることができない。
(注 : この「雁」がペナンに運んだ金塊2トンは、同地で「伊29潜」(艦長:伊豆壽市中佐、51期)に搭載され4月5日出港、4月28日マダガスカル東方海面にて独逸からチャンドラ・ボースを運んできた「Uー180」と会合し、同氏や技術供与物品等と交代に江見哲四郎中佐(50期)及び友永英夫技術少佐と共に同艦に移載、そして「U−180」は7月3日無事にボルドーに到着しています。 その後のこの金塊の行方は・・・・? )
2008年11月09日
『聖市夜話』(第11話) ニコバル群島(その1)
第12特別根拠地隊司令部の所在地であったポートブレヤのあるアンダマン群島と、ズッと下がって南のスマトラ島北端のサバン島との丁度真ん中ぐらいにニコバル群島がある。
北方のアンダマン群島には、小高い山もあるしまた大樹の森林もあり、時々入港してご馳走になった司令部の風呂場は、中の角風呂も敷板も回りの小屋も全部チーク材であったばかりでなく、燃やす焚物までがチーク材であって、窓の外に枝からブラ下がっている大きなマンゴの実を眺めながら、遙かに離れた日本でチーク材の貴重なことを思い浮べるのであった。
(昭和17年頃のポートブレア)
司令部で私に一番身近い人は1年上の真下弁蔵機関参謀であって、「風呂が丁度沸いているから入って行けよ。」 とか、入浴を済まして幕僚室に帰ってくると冷蔵庫で冷してあるマンゴなどをご馳走してくれた。 このやさしい心使いは、新米のために緊張の連続であった私にとって大きな安らぎと喜びであった。
ところが南方のニコバル群島は、山らしいものも全くなく、一面平坦で所々にある雑木林のほかは全面が草で覆われた低地であった。
(ニコバル群島 1976版の地図から、ただしこの記事に出てくる場所は
北の Car Nicobar 島なのか南の Great Nicobar 島の方なのかは不明)
司令部には英国人が逃げる時残して行った猟銃と散弾があった。 私はその保管係である甲板士官に借用書を入れて銃と弾を借り、ニコバル島に入港した時雑木林のなかに潜り込み、高さ約20メートルの大樹の頂上にいる約20羽の山鳩に発砲した。
この群れは生れて初めて撃たれたらしく、ドスンという音を立てて2羽が落ちた時一斉に空中に飛び上がりヒラヒラ付近を舞っていたが、また同じ木に舞い下りた。 これには私の方があきれ返ったが再び第二弾発砲、中央の1羽がドスンと落ちたが、今度は日本の烏のようにどこにか飛び去ってしまった。
落ちた山鳩は日本の山鳩より一回り大きく、海を少し離れたアンダマン群島の山鳩が日本のより一回り小さいのに比べて不思議な気がした。
雑木林の中を歩くとき眼前2メートルぐらいの梟からジット睨みつけられたり、また猪のような野豚が跳び出すという一幕もあった。
私とは別に、軍医長は看護兵をつれて原住民の宣撫工作として部落に診療に出掛け、皆から大いに感謝されお礼としてもらった生きた小豚の首に縄を付けて帰艦してきたが、慢性マラリヤが多く肝臓が堅くなっている者が多く、これが死病となって長寿を全うできないであろうという話であった。
その日の夕食には艇長の落とした山鳩の肉が少しずつ配給されたが、軍医長の連れてきた子豚は暫くの間後甲板で皆から可愛がられながら育てられた。
私が「雁」に着任した頃は、我が12特根もビルマの首都ラングーンから進出してきたばかりで お膝元のアンダマン群島の防備だけで手一杯のようであったが、18年になってからはニコバル群島の配備も採り上げられ、12特根だけでなく昭南の陸軍部隊も配備されるような気配となった。
某日、昭南からアンダマンに帰ろうとする「雁」に、陸軍工兵連隊長の中佐殿が便乗してきてニコバル方面を視察される予定であった。 私は同官便乗中は中甲板の艇長室を全部提供し、水雷艇長として差上げることのできる最高のサービスをした。
この陸軍中佐殿は、私たちと共に親しく水雷艇「雁」の生活を数日過したのち退艦するに当たって私に語った。
「私は生れて初めて海軍の生活を身近に体験させてもらったが、陸軍生活に比べて思いもよらないような幾多の教訓を学ぶことができた。今度帰隊したら早速私の部隊にこの教訓を応用してみたいと楽しみにしている。」
私自身中学時代の陸軍式軍事教練の徹底した指導を受けていて、兵学校に入学した時その陸戦指導の徹底さがだいぶ低いような感じすら抱いていたし、また中学時引率されて行って地元の営内生活も体験していたし、陸軍大演習に中学を代表して参加したこともあったので、この中佐殿は言葉巧みにこの艦の艦内生活に同じ軍隊としてのダラシナサをそれとなく冷やかしているのではないかと疑ってみた。
しかし、語るうち私の疑問は全く反対であることが判った。 中佐殿が感心した点は、要するに家族的な和やかさの中に要所要所が確実、迅速に処理されていて、その処理の度合いもその目的に応じて適切に (海軍でいわゆる “スマート” に) 行われている点にあるようであった。
例えば、私が艦橋の前にある前部厠に入った後姿を艦橋からみた通信士が、
「艇長! 出港15分前になりました!」
と大声で報告する。 これに対し私が厠の中から
「艇長了解!」
と大声で応答する。 この光景などは、軍紀厳正を誇るわが帝国陸軍においてはおよそ見当たらない型の崩れた厳正ならざる光景であったらしい。
また、当直将校の発する号令で、各居住区から我れ先にゾロゾロ人が出てきて思い思いの動作を不揃いに始めたかと思うと、これが有機的に自然のうちに組織としての行動を完成してゆく。 これに類するような各種の艦内生活が中佐殿には珍しく心に映じたようであった。
開戦後、以前にも増して国防の両輪である陸海軍が仲良くやれということは機会あるごとに強調されていたが、この中佐殿のように中佐になるまで海軍生活を全然知らなかったということも上層部の考慮が欠けている一端かとも思われたが、このように第一線において海軍の姿をまず知ってもらったことはせめてものプラスになったと思った。 仲良くするためにはまず知ることから始められなければならないはずである。
2008年11月10日
『聖市夜話』(第11話) ニコバル群島(その2)
さて、これとは別の機会に、昭南からスマトラ島のメダン港まで陸軍下士官以下数名を便乗させたことがあった。 「雁」自身は別にメダンには用事はなかったが、どうせメダン沖を通って西行するのであるから行きがけの駄賃にちょっと港内に立寄って、投錨することなく漂泊して「雁」の内火艇で便乗者を近くの桟橋に送るつもりであった。
メダン港というのは川の口であって上流から海に注ぐ流れと、海の潮流とがブツカって不規則な流れを呈している。 港内に入る前から私は当直将校から操艦を受取って色々な陸標を狙いながら舵と機械を使い、港内の一点に漂泊し、かつ出港方向に回頭しながら便乗者揚陸次第迅速に出港する予定でいたが、港内の風と流れは「雁」を思いもよらぬ方向に押しつけて寸秒も安閑としておれなかった。
(注 : 本項では「メダン港」となっていますが、メダンは内陸都市で、その外港が現在のベラワン(Belawan)です。 当時このベラワンのことをメダン港と呼んでいたのかどうかはわかりません。)
(ベラワン付近 1954年版の米軍地図から)
こうなると一艦の長も一個の大型トレーラーの運転手と同様であって、陸軍便乗者たちの上司である貫録堂々たる陸軍大尉殿とは本質的にその仕事の内容が違うものであった。
この時、伍長か軍曹であった先任者を先頭として陸軍便乗者全員が狭い艦橋に次々に上がってきてしまった。 その先任者は、羅針儀の方位杆と陸標を狙っている私の近くまで進んできて陸軍式の大声を張り上げ出した。
「艇長殿! 申告をいたします!」
私はこのとき申告というものを予期していなかった。 もし予期していたらメダン入港約1時間前ごろに艦橋に申告に来るようあらかじめ指示していたであろう。 艇長である私にしてしかり、まして艦橋にいた若い信号員、見張員たちは何が始まるかとて好奇心で目は輝きニコニコし始めた。
私は気が急いで、「早くやれ」と機械的に命じた。 先任者は、頭のなかで起案してきたらしい次のような長い文章を艦橋一杯に鳴り響くような大声で堂々と申告し始めた。
「陸軍軍曹〇〇〇〇以下○名、〇月〇日昭南において乗艦し、〇月〇日メダンにおいて退艦するまで〇日間便乗させて頂きありがとうございました。申告終り。」
申告の終るのを待ち構えて私は急いで言った。 「書類は貰ったか? それなら早く内火艇に乗れ。」
内火艇は舷側に横付されお客さんを待っていた。 内火艇の準備は便乗者が艦橋に上がってくる頃すでに完了していたが、何日聞かの艦内生活でお互に仲良しになっていた間柄では、いつもの海軍式に 「急げ!駈け足!」 と怒鳴りつける人もなく、新任地に出発する陸軍さんの武運を祈って総員帽子を振って見送るのであった。
無事陸軍さんを陸上に送り届けて帰艦した内火艇を収容し、一路ニコバル群島の方に艦首を向けてから私は艦橋当直員の若い乗員たちに話した。
「皆いまの陸軍の申告というものを知ったと思うが、海軍の習慣と違うからといって笑ってはいけない。 そもそも陸軍は海軍と違って沢山の隊員を広い陸上に平面的に並べることから始まるのであるから、何事も声大きく、態度厳正に、堂々と行うように躾られて行く。 これに反して海軍は狭い艦内の機械の間に立体的に配置されているから、何事もその時と場所に応じて必要にして十分で適当な声を使わねばならない。 また申告をする時機と場所も適切に選ばねばならない。 この適時適切に行われて過度にならないことを “スマート” と言うのである。」
私はこの頃から、「礼儀を正しくする」 ことをむやみに強調することには考慮を要すると思った。 軍人にとって礼儀正しいことはもちろん大事ではあるが、むやみやたらに強調すれば形に流れやすくなる。 それよりもよく説明を加えて精神面を主とし、形を副とする程度で良かろうと考えた。 要するに軍人は戦に勝つことの方が最高の使命のように思えた。
ニコバル群島方面の海上と天候は平穏そのもので、高速艦「雁」は気持良く走り続けた。
2008年11月11日
『聖市夜話』(第12話) 神よ与え給え(その1)
戦争を知らぬような平和郷昭南。 英国が築いた赤道直下の涼しい美しい町。 2月に受けた被爆後の一通りの修理も終り、あとは26名の人員補充と砲身1本の内地からの来着を待つばかりとなった。
例によって夜幹部数名と共にジョホールの海軍宿舎に行き浩然の気を養う。 宴たけなわとなった頃私に電話あり、地元の昭南10特根参謀の声である。
「マラッカ海峡西口で、昭南からスマトラ島メダンに進出の陸軍部隊を搭載の貨物船、敵潜の雷撃を受け沈没。 取り敢えず9特根ペナンの特設駆潜隊および敷設艦「初鷹」が現場に急行しているが兵力十分でない。 君のところは乗員も減っているし、大砲も一部使えないことは承知しているが、艇長どうするかね?」
という問合わせであった。
私は着任以来丁度2ヵ月毎に爆撃を受けるばかりで、何等の戦果なく、このままでは一艦の士気は低下するばかりであることを憂いていた矢先であったので、良き敵ござれと小躍りして答えた。
「是非行かせて下さい。 敵潜の1、2隻ぐらい今のままで十分です。」
即座に明日日出後出港と決定した。 これは昭南港口に我が方の機雷堰あり、夜間の出入港は禁じられていたからである。 伴に飲んでいた幹部と勇躍して急ぎ帰艦し、行動準備は深夜まで続けられた。
翌早朝、日出を待たずして昭南軍港出港、油を流したようなマラッカ海峡を24ノットで走る。 流石に高速艦、早くも海峡西口通過。 現場も近くなり、浮流物の中に溺死した陸軍軍馬を見る。 髭の航海士と共に、乗馬訓練に借用していた斎藤弥平太中将の部下である軍馬と思うと、心は痛みこのまま通過するに忍びない。 また大きな体がなおさらに痛ましい。
次いで陸軍兵士の遺体が流れてくる。 馬を収容する暇はないが、人間様は放っておく訳にはいかない。 中部上甲板に収容する。 2日ばかり経っているので腐臭がひどく、こちらの頭が鋭く痛む。 計3体、軍装のままである。 上陸地メダンを目の前にしてさぞかし無念のことであったろう。
聞くところによれば、マラッカ海峡西口からメダンまでは割に近距離であり、最近敵潜の情報もなく、かつ昭南に護衛兵力乏しきため、この貨物船2隻のスマトラ進出には護衛艦が付けられなかったようであって、久し振りに出てきた英国またはオランダの敵潜は、この虚に乗じて、日本輸送船1隻撃沈に成功したもののようであった。
「陸軍さんは一度陸に上がったら存分のご奉公ができるが、海を渡っている間が一番怖い。」 とよく聞いている。 収容した遺体はいずれも無念の形相が一杯である。 軍医長と看護員は落ちる汗を拭う暇もなく、遺体の全身に大幅包帯を巻き、名札は切り取って報告用に残す。 私は傍で戦死したこれら戦友の無念さを想い、にっくき敵潜只ではおかぬぞ、神よ!この敵潜を我に与え給え!と心の中に絶叫し続けた。
ところがこの艇長の心も知らず、戦死者処置の上甲板を取巻く私の部下の中に、鼻を摘んで「臭い臭い」とふざけ顔で叫んだ者があった。 私は涙をおさえて大喝して怒鳴りつけた。
「戦死した戦友を、臭いとは何事か! そんなことでは敵潜は貰らえんぞ!」
日頃滅多に大声を出して怒ったことのない艇長が、形相凄じく突如として若い兵隊に直接怒鳴りつけたので、現場に居合わせた古い兵曹達は若き艇長の胸中を知ったようであった。
工作科員がす早く造った棺の四方に、径約4センチの孔が多数開けられ、「雁」の主砲12サンチ砲弾1発ずつを抱かせ、ラッパ隊と弔銃隊によって夕陽西の水平線に傾かんとするマラッカ海峡の上に、厳かな海軍礼式は行われ、各棺は次々に艦尾の後波の内に呑まれていった。
「陸さんの霊安かれと、一尋礁」
「神よ願わくば我に敵潜を与え給え」
と心に祈りながら、さらに遭難現場に針路を向けた。
(注 : 当該貨物船は日付及び海域から、昭和18年4月22日に被雷、沈没した山下汽船(扶桑海運)所属の「山里丸」(6,625総トン)であり、雷撃したのはオランダ海軍の潜水艦「O21」と判断します。 ただし、他の記事などを見ると同船の目的地は“メダン Medan”ではなくて、スマトラ島西岸の“パダン Padang”となっているものもあります。)
( 「山里丸」 「世界の艦船」平成16年1月号より )
2008年11月13日
『聖市夜話』(第12話) 神よ与え給え(その2)
敵潜出現の現場では貨物船被雷撃の報により、現場最寄りの彼南(ペナン)から敷設艦「初鷹」と特設駆潜隊1隊(私の記憶では3隻か)が現場に急行し最新の敵潜の位置を中心として既に四つ固めに抑え込んでいた。
( 注 : この特設駆潜隊は、第9特別根拠地隊所属の第91駆潜隊で、この時は特設捕獲網艇「長江丸」、特設駆潜艇「第7昭南丸」「第12昭南丸」の3隻で参加しています。 なお、これらの特設艦船については、相互リンクをいただいているNH戸田S.源五郎さんの素晴らしいサイト「大日本海軍特設艦船」の当該ページをご覧下さい。)
「雁」が到着したので「初鷹」艦上で指揮官会議が行われ、私は初めて「初鷹」艦長(中佐)(吉川唯喜 46期) と特設駆潜隊司令(応召中佐)(名を伏す 36期)とに挨拶を交したが、前者は私より10数年上の兵学校先輩で、後者は20数年上の同じく先輩で、前後者の間に約10年近くの差がありそうであった。
この3人の中の大先輩である老司令は、子供に近いような「初鷹」艦長から、軍令承行令の定めるところにより、作戦指導されることが愉快でないらしく、また性格的にも万事大人しそうな「初鷹」艦長に対して積極的な性格であるという点も加わって、事毎に作戦指導に強い意志を表明していたらしかった。
そこに私(大尉)のような若造が加入してきたので、老司令は私を味方に引き入れて、2対1で「初鷹」艦長に対抗しようとするのではないかと私をして疑わせるような感情が読みとれた。
私は一方にはこの老司令が祖国を遙かに離れた西海の第一線において、若い者に範を示されるそのご元気振りには敬意を払いながらも、一旦軍令承行令によって定められたことに対しては、やはり我々の共同の先輩として、いかに年若い後輩であろうとも、「立てるべきは立てる」 という帝国海軍の美風を守ってもらいたいものと思った。
しかし他の面において、応召の大先輩を配員するには、このような場面が起こらぬよう、もう少し考慮の余地が残されているのでないかとも思われた。 老司令は20歳ぐらい若返って、隻数を一番沢山持っているのは我輩であるといわんばかりのお元気さを発揮されたが、その部下である特設駆潜艇は速力も遅く、また対潜捜索兵器としては前時代的な吊下式聴音器という代物しか持っていなかった。
これは四つ手網の骨組のようなものの同一水平面上に炭素板(?)による聴音箱を6個取付けていて、艦を停止して海中に吊下して聴音するものであるが、走りながら聴音することのできない根本的な弱点を持っていた。
一方「初鷹」は確かご紋章をもつ軍艦に属しており、1隻で所轄をなしており、副長には私も旧知の私より1級若い税所基大尉がおり、対潜兵器については最高ではあったが、最高速力20ノットで「雁」の30ノットには遠く及ばず、また砲力においても「雁」より微力(主砲40ミリ)であった。 したがって、こと対潜作戦に関しては総合的にみて「雁」、「初鷹」、駆潜隊の順序に強力であったが、格式からみると「初鷹」、駆潜隊、「雁」の順序であった。
私がもし当時少佐にでもなっていたら、もう少しは均衡がとれたかも知れないが、一番強力な「雁」の艇長が大尉であったことは、何かそぐわない感じであった。 この間題は次の駆逐艦「朝顔」に着任した時にも尾を引いて感じられたことである。
( 注1 : 特設駆潜艇が装備していたとされる「吊下式聴音機」については、その詳細は判りません。 『海軍水雷史』(編集会編 昭和54年 非売品)でも、「水中測的兵器」の章で、
「特設駆潜艇、特設掃海艇等の応急用として吊下式水中聴音機(炭素型捕音器6個を1m円配列とし舷側より吊下するもの」
とだけあるのみで、旧海軍史料である『対潜兵器要覧』(横須賀海軍工廠)にも記載はありません。 もしご存じの方がおられましたらご教示下さい。)
( 注2 : 「初鷹」と「雁」の対潜兵装については、HP「海軍砲術学校」の「史料展示室」で公開中の旧海軍史料「一般計画要領書」の当該項をご参照下さい。)
2008年11月15日
『聖市夜話』(第12話) 神よ与え給え(その3)
「雁」が加わったので、今まで心配されていた問題である「敵潜浮上脱走時の追撃艦」が直ちに「雁」に指定され、これは私のみならず200名の「雁」全乗員の士気を上げた。
「雁」は19,000馬力の主機械を持ちながら、私が着任してからというものは停泊中空の上から爆撃されるだけで、およそ敵に対してはこの馬力を使う機会に恵まれず、ただ修理のため昭南に急行する時にだけ有効に使ったようなものであったからである。
作戦打合わせ終って「雁」も直ちに制圧海面に参加し、90度幅の一つの象限を担当した。 航海長と水雷長が海図上に詳細な探知計画を記入し、この計画針路を次々に進んで、探信儀で発信音を数秒毎に「カーン」と発し、敵潜船体の反響音の「カーン」という音を探し出すのであって、「草の根を分けても」という形容がピッタリしていた。
制圧海面の中心点は、最新の敵潜位置に採られ、以後の敵潜聴音探知情報が入るごとに新しい地点に移されて行ったが、天気平穏でうねりなく波も弱い海面での吊下式聴音機は、取扱員の適切な運用によって予想外の成績を発揮したようで、数時間ごとに敵潜の移動が他の哨区から報ぜられた。
この時私は吊下式の長所は海中深く吊下することのできる点で、「雁」などが前部の船体舷側に、「八つ目鰻」の目のように固定している受音器に比べ、本質的に優れているのではないかと思うのであった。 古い兵器もその着想が違う場合には、世間体には古くともその一部の長所を保続して研究開発して行くと、良い兵器が新しく産まれてくるような気がする。
吊下式の弱点は波のようであった、波による振動、振動による雑音さえなければ相当によく聴えるということを開いた。 私は今でもこの海中に吊下できるという点に興味を抱いている。 「雁」が現場に加入してからこの四方固めの制圧は頼母しさを加えた。 もうこうなればあとは時間の問題である。
「雁」の探信儀の性能も連続試してみて好調であった。 私は性能に最も影響する要素として、艦速を9ノットぐらいに落したように記憶している。 特設駆潜艇のように停止して探信すれば最高の性能が発揮できそうであったが、これでは広い担当海面がいつ終るかも知れないし、また「雁」の全長は余りにも長く、皮を切らしてかつ斃されてしまうに決まっている。
もし私が敵潜艦長であったならば、日没後の薄暮を利用し潜望鏡を上げ、頭上の艦の中で最も高速らしい「雁」を選び出し、まず「雁」を雷撃して斃し、その混乱に乗じ特駆潜担当海面の方向に浮上し、砲戦を交えながら西方の印度洋への逃走を強行するであろう。
・・・・ということは逆に「雁」の立場からいえば「雁」は探知捜索中も敵潜から逆に刺されることを、敵潜艦内酸素が終りに近づくにつれ、ますます警戒しなければならないということであって、探知速力9ノットならマアマア舵の効きも良さそうに思えた。
この場合の艦速の決定は探信儀の性能発揮と、被雷撃時の緊急回避時の舵効きとの兼ね合いであるが、前者については固定的なものがあるが、後者については艦橋の操艦によって非回頭側の主機械の急増速とか、回頭側の主機械の逆転とかの方法で補足のできる点がある。 この点からいっても、操艦者の雷跡見張、聴音機による魚雷音を素早く知ることは不可欠の条件であった。
「雁」が「カーン」と探信儀を打ち鳴らしながら哨区を歩き、草の根、岩の影でも分けて捜し出そうとしている時、他哨区では敵潜聴音の情報が3回ばかり報ぜられ、中心点はその都度変更されたが、敵潜行動はいよいよ終末に近づきつつあるように思われ、一般性能からみて艦内酸素も終りに近づいているように計算された。 こうなると潜水艦というものはまことに辛いものである。 私は敵潜艦内を想像し顔全体に油汗をかき、肩で心細く呼吸をするような思いであった。