2009年08月11日

回想録 『聖市夜話』 の連載完結に当たって

 40話にわたって皆さんにご紹介してきました森栄氏の回想録 『聖市夜話』 の連載が完結いたしました。

 もし最後までお読みいただいた方がおられましたならば、厚くお礼申し上げます。

 連載の冒頭にも書きましたように、本回想録は昭和50年前後に海上自衛隊の部内誌に掲載されたものです。 したがって、その対象読者は海上自衛官、特に幹部ですので、その意味では一般の方々には少し判りにくいところがあったかもしれません。

 しかしながら、本回想録は現在では海上自衛隊部内ではその存在さえ知られておらず、これが掲載された部内誌さえ私の知る限り海上自衛隊には僅か2ヶ所にしか残されていません。 ましてや一般の方々に公開されたことはありません。

 このような貴重なものがこのまま埋もれてしまうことを危惧し、また残念に思う気持ちから、この私のブログで皆さんにご紹介いたしました。

 皆さんにとっては、これも世に沢山ある回想録の中の “一つ” であったかもしれません。 それはそれで良いと思います。

 しかし、本回想録は私にとっては幹部海上自衛官としての大変貴重な “教科書” でした。

 防衛大学校・幹部候補生学校を卒業して幹部海上自衛官になって以来、当然のことながら、船乗りとして、軍人(自衛官)として、また部隊指揮官としてのあり方については、多くのことを諸先輩から教えられ、色々な書き物を読んできました。

 しかしながら、結局のところ私にとっては勤務上の参考となるようなものはごく僅かであり、特に “功なり名を遂げた人達” のものには共感できるようなものはほとんどありませんでした。

 そういう中で、この森栄氏の回想録は心から 「うん、そうだ!」 と思える数少ないものの一つです。

 一例を挙げるならば、森氏も書いておられますが、私の初任幹部時代の艦艇部隊では明けても暮れても “AP、AP、AP・・・・” でした。 AP、又はATPというのは 「Allied (Tactical) Publication」 の略で、本来は連合国海軍の戦術書のことですが、米海軍から海上自衛隊にリリースされた教範類など全てを包括した意味でも使われていました。

 APが金科玉条のごとく取り扱われ、それに書かれていることを一言一句違わずに忠実に実施できることが訓練の目標のような状況でした。 悪い言い方をするなら “バカの一つ覚え” のようにも見えるほどに。

 若気の至りと言えばそれまでですが、当時から常々 「それだけでいいの?」 「戦術というのはその時その時の状況によってどんどん変わってもいいのじゃないの?」 「APというのは一つの “指針” に過ぎないでしょ?」 と感じていたわけです。

 そして、私の初任幹部時代からだんだん年をとってくるにつれて、それと並行するように防衛庁・海上自衛隊という組織も、本来の “海軍” という姿から次第に “お役所” へと変化し、艦艇勤務においても “男のロマン” などはほとんど消え去って行きました。

 これで本当に良いのか? 私がこの森栄氏の回想録に共感を覚えるところはこの点にあります。

 海上自衛隊は “制服を着た官僚を作るお役所” ではなく、真に役に立つ “海軍軍人” “船乗り” を作るところのはずです。

 今でも、本回想録は江田島の幹部候補生学校や第1術科学校幹部中級課程、そして目黒の幹部学校指揮幕僚課程のテキストにしても良いほど、現役の海上自衛官達に真剣に読んで貰いたいものの一つと思っています。

 そういう気持ちで本ブログの管理人が皆さんにご紹介してきたものだ、ということを少しでもご理解いただき、お読みいただけるならば幸いです。

2009年08月10日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その10)(完)

著 : 森 栄(海兵63期)

 こんな状況下で、4年ごとに来てくれる練習艦隊の訪問は、単に両国間の親善に寄与するばかりでなく、異国にあって奮闘する同胞に対する国家民族的な激励となっている。

 またそれは同胞側も乗員側もともに得るところ大きく、その利益たるや一方交通ではない。 それはあたかも、日伯両国の国情が特性対照的で完補関係にあるといわれているのにも似ている。

 片道の航程1万2,000マイルという道中は少し遠いかもしれないが、日本の今後益々国際化せざるを得ない宿命を考えれば、地球上における自国の対蹠点を見てくるという 「対蹠点巡航」 は、正錨の夢に耽る船乗りにとって相応の訓練海域とも思われるのである。

 なお現在、共産主義を合法化している日本と非合法化している伯国とは、この点でも対照的であって、血圧の高い私などはむしろ伯図の方がはるかに安眠できる社会である。

 私が着伯する前年の軍事革命は今なお続いていて、伯国政府はその成果を検討中であるというが、私にとってみれば国家が秩序を立ててくれるならば、税金も喜んで払えるという心境であり、伯国旗の標語のとおり 「秩序と進歩」 が今後とも着実に成功されてゆくことを祈りつつ、私は今後も安眠を続けて行けるであろう。

 また私は思う。 ここ伯国では昔から日本人は農業の神様といわれている。 私も世界の食糧危機を救う者の一群は、在伯日系農業者であると思う。 しかしその人数はまだ十分でない。 そして畑は限りなく残されており、また伯国の現在の食膳は豊かではあるが、世界食糧の増産が叫ばれているならば、ファイト満々、強靭なる日本農業者が一人でも多く、この聖戦に加入のため来伯せられんことを望んでやまない。

 伯国礼賛をやり出すと、広大なる伯国と同様に私にもまた広大なる紙面を要するようであるが、述上のとおり私はその適任ではない。 ただ私の人生行路の一部として伯国航路の一端を御紹介するに留める。

 既往を振り返ってみて、人間の耐用年数は、はかないもののようでもあり、また長いようでもあることを痛感している。

 長い間このつたない昔話を御愛読いただいた諸君が、ますます安全整備に留意され、その耐用年数を極度に伸ばされんことを切に祈り上げ、聖市夜話の一応の完結といたしたい。

(「聖市夜話」 完)

2009年08月09日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その9)

著 : 森 栄(海兵63期)

 停年退職の日も間近と迫ってきたが、海外移住者としての限度は、どうみても50歳1佐ぐらいであった。 また親しい友人は、政情不安とインフレとの理由で移住を見合わせてはと忠告してくれる者もいたが、私の部隊は既に長男の出発によってBR作戦を発動していたのであった。

 39年12月停年退職し、神田の村田簿記昼間3箇月速成科を終え、約100個の荷物を造りつつある時、第2次先発隊の次男が5月出発。

 残りは母・家内・娘3人の女性群5名を私が連れてゆく最終の段階になり、40年6月2日海上自衛隊、海軍などの知人多数の見送りを受け、海幹校職員より頂いた小型軍艦旗を振りながら 「さくら丸」 によって横浜を出帆した。

 翌日早速船内会議で、約300名の世話人会長に選挙され、家内と楽しみにしていた結婚25周年記念旅行の計画は一挙に吹き飛んでしまったが、大学生を中心とする約30名の青年隊の協力は頼もしいものであった。

 ハワイ北方洋上よりハワイ知人数名に電報を打ったが、その電報料の高いことに驚く。 次いで2回目のロスを見て、3回目のパナマを通り、7月7日リオにて退船。 ここに久しく夢にみたブラジル大陸に第一歩を印し、私は戦後最高の喜びを感じた。

 爾来12年、近眼鏡で見れば少しは辛く、やるせないこともあったが、遠眼鏡で見るならば、全てが家庭、我が民族の永遠性に繋がるものであり、また広大な新天地と豊かな資源に繋がるもの、ひいては日伯親善の架け橋に繋がるものばかりであって、私はこの現在の幸福さを諸君にお伝えする術を知らない。

 しかし私が着伯後歩いてきた道は全て都会地の事務屋の月給取りで、これは第1線移住者の実態からはるかに遠くかけ離れている。 在伯4、50年という人はもちろん、戦後移住の在伯20年という人の苦心談を聞いてみても、当時はそんな職業はなかったという。

 私などはいわば最も弱々しき移住者として生存していることを知るのであって、私のような者が今日ブラジルで生活できているということは、取りもなおさず、70年の歴史のうちに、70万と称せられるまでに発展している在伯日系同胞の、血と汗と涙によって築きあげられた社会基盤の上に立っているからであり、最近ここ数年の間に急速な進出を成し遂げた多くの企業も、また同様の恩恵を受けているようである。
(続く)

2009年08月08日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「もみ」艦長1年の後、国産第2号艦「はるかぜ」艦長を命ぜられたが、これを1年やった頃戦後初の遠洋航海がハワイまで行われることになった。

 私は同地は既に2回も行っていたので、有為の後進に譲るつもりであったが、都合により遠航終了まで旗艦々長を勤めることになった。

 国産艦「はるかぜ」は私が第3代目(?)艦長であったから、その擦り合わせ運転も一通り終わっていて、他のPF3隻とともに総航程8,000マイルの旅にも不安はなかった。

 そしてまた戦争中の夢が醒めていない私にとって、「この行動には敵がいない」 ということが、何よりも気楽であった。

 ハワイでは知人と再会し、私の海外移住計画も打診して見たところ、

 「自分達も同感だ。 ハワイの子供達も皆アメリカ本国に行ってしまって、ハワイには老夫婦しか残っていない。 やはり若い者には広大な天地がいる。」

 という。 アメリカ青年にして尚かつしかり、まして日本青年においておや、と思った。

 そして最高に嬉しかったことは、海上自衛隊が一旦外国に出ると 「日本海軍」 として遇せられることであった。 祖国では辱められ、外国では礼遇せられるということは、祖国の為政者の怠慢でなくて何であろうか、とも思った。

 大任を果たして帰国し、任務報告の関連所見の一項として提出されたものが、練習艦建造に関する初の所見でもあった。

 終わって呉の第2警戒隊司令となり、LS艇4隻をつれて毎週のように内海を行動しているうち、「高血圧症につき海上勤務不適」 の烙印をおされ、戦史室の編纂官に任ぜられた。

 戦史室では、自分の従軍した時と海域に関する戦史でも書くのかと思ったら、全く関係もない時と海域の編纂を命ぜられ、護衛作戦については参考人兼証人であったが、数少ない編纂官で厖大な量の戦史を編纂するためには、真に止むを得なかった配員であったろう。

 この頃海外移住はいよいよ本格化してきて、広報も盛んになり、私達の移住先をアルゼンチンからブラジルに変更し、最初の葡語事典を求めたのが34年12月であった。

 戦史室の3年4箇月終わって幹部学校の研究部員 (NCS (注) 担当) を命ぜられたが、これは護衛との関連もあり興味深い問題であった。

(注) : NCSは 「Naval Control of Shipping」 の略で、通常 「船舶運航軍事統制」 と訳しています。 内容については別の機会に。


 この頃長男が大学 (工業化学) を出て、第1次先発隊として祖国を出発した。 そして長男からくる肉親の文通は、最も信頼度の高い情報源となった。
(続く)

2009年08月07日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私が陸に上がって機雷を造るようになってから、私は製造会社側の水雷技師として海上自衛隊の横須賀とか東京を訪問することが多くなった。

 そして遂に訓練用機雷納品の後、私自身も入隊することになったのが30年7月で、以後在隊中の略歴は次のとおりである。

      30年 7月 入隊、3佐
           9月 横監総務課長
      31年 8月 2佐
           9月 「もみ」 (佐世保) 艦長
      32年 1月 「はるかぜ」 (佐世保) 艦長
      33年 4月 第2警戒隊 (呉) 司令
           12月 戦史編纂官
      37年 3月 海幹校研究部員
      39年12月 停年退職、1佐

 元来私は学問が苦手のほか、戦時中の疲労によるものか、本態性高血圧症に罹っていて、血圧の高いことを終戦後初めて知ったのは33年半ばの2警司令の時であった。

 一方には海外移住という計画もあり、海上自衛隊において存分の御奉公を果たし得なかったことは残念であった。

 しかし、在隊中の思い出も併せて簡単に記述して御参考に供しよう。

 入隊した途端に、電気会社時代の給料の7割以下に落ちたことは家計を驚かしたが、旧海軍に近い楽しい雰囲気に10年振りで復活できた私にとっては、日々是好日であった。

 3佐横監総務課長時代の演習に際し、臨時第10警戒隊司令を命ぜられ、LS艇6隻を相模灘に指揮し、LSが余りにも少さくかつ普通の船体でないので失望したが、この配置が1佐のものだと聞き、更に驚いたのであった。

 この頃私は国内移住の第3回目として、茅ヶ崎の家邸を売って藤沢に更地を求め、母のためには純日本式の別棟を建て、母屋はすべて板張りにベッド式とし、移住先に順応しやすい新生活とした。

 そしてこの家は移住しないでそのまま一生使ってもよいように私は思ったが、子供たちは 「下宿屋のようだ」 と言って笑った。

 そして新築なって引っ越の時に総務課員が休日に多数加勢に来てくれたことは、隊員同志の温さが身にしみて、いまだに嬉しい感謝の思い出となって残った。

 2佐になって佐世保のPF「もみ」艦長になったが、この型よりはるかに高性能な一字銘水雷艇長を拝命した昔から数えて14年目であって、ここでようやく護衛を論ずる立場に仲間入りさせてもらったのである。

 教科書は大体よくできているとは思ったが、それはあくまで金持ちの教科書であって、貧乏人の教科書としては時代に合わないように感じた。

 しかし隊内の皆さんは向学心強く、この教科書だけを金科玉条としてよく勉強していて、今更15年前の戦訓、老兵の昔話などには余り関心はないかのようであって、「護衛戦に関する引継ぎ」 を移住前にしておこうと考えていた私をして失望させた。

 この頃戦後再開の南米移住が始まり、現地情報も入手できるようになり出した。

 「再び砲とらずして大和民族の困難な前途を拓くために、海外雄飛こそはその重要国策の一つである。」

 という念を一層かき立てた。
(続く)

2009年08月06日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 佐賀までの第1回移住を終わり、引き続き佐賀の家を処分し茅ヶ崎までの第2回の移住を果たし、早速横須賀米海軍基地労務者として勤め、そこではかつてのキスカ島指揮官秋山大佐 (注) などとPF艦の当番に立った。

(注) : 秋山勝三氏は、キスカ撤退作戦時の第51根拠地隊司令官、終戦時は横須賀鎮守府人事部長・海軍少将、海兵40期


 冬の夜ズタ袋を縫いながら廃材をストーブに燃やし戦時中の思い出を語り合うことは愉快であったが、米海軍水兵の指揮を受け、深夜糧食泥棒の片棒も担がねばならず、屈辱的な日々が約1年続いた。

 ある日横須賀線のデッキで、印度洋水雷艇「雁」時代の大久保機関長附と8年振りに奇遇再会し、同氏のお世話で同氏乗組中の航洋曳船兼救難船々長に就任した。

 この船は旧米海軍ATR−12号であって、戦時中米海軍が被害空母などの曳航救難のため急造した木造船であったが、同種の船としては当時日本で最高性能を有していた。

 そして産まれは米国、船籍はパナマ、船主はフィリピンのマニラにある会社、傭船者が東京の丸の内にある日本の会社という複雑な船であったが、乗組員は全部日本人で士官の大部は海軍の残党であって、船尾にパナマ国旗を翻して大阪などに入港するや、税関吏は私たちを日本人と見ず、パナマ人又は比島人と間違う始末であった。

 この船で長崎三菱造船所建造の2万トン乾船渠用扉船を比島サンフェルナンドに曳航し、帰途旧海軍特務艦 「襟裳型」 (15,000トン) を長崎まで曳航し、サンフェルナンド湾を約8年振りに訪問し、湾内に戦時中の沈船のマストがまだ残っているのを感慨深く眺めた。

 その他近海の救難曳航などをやるうち、日本の会社が自前の同型船を新しく買ったのでこれに移ったが、のち家族の病気によって足を洗い、陸に上がって海上自衛隊に納入する訓練用磁気機雷の製造に従事した。

 この頃私は、造船所で見るような線表を家族各個人について作成し、子供達の移住準備が進むのを楽んだが、どんな子供でも1年たつと年齢が必ず一つ増えること、すなわち同速であることが便利であることを悟った。

 そして何も知らない無邪気な子供達5人のこれからの長い人生の針路を、私達夫婦の、否主として私の方針で遠く異国に移住して行くことの功罪を検討し、繰り返し繰り返し思いをめぐらし、眠れない夜もあった。

 そして私が航洋曳船々長として海上を走り回っている頃、海上自衛隊が出来たようであって、既に入隊した級友の噂も耳にするようになった。
(続く)

2009年08月05日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 帰村してみると、「森は召集を受けた」 という噂が村中に流れていた。 私はこれを転機としブラジル移住に先立って、その第1回準備訓練として多久から佐賀までの移住を決行した。

 村内外の親戚友人は親切に協力してくれ、約10代約200余年間にわたって使用された旧家も処分し、7個の長持も荷物箱の材料へと活用され、会食用の古い多数の瀬戸物類も近隣の人たちに買ってもらったが、買ってもらえない最後の物としてリンゴ箱2個にも余る先祖代々の位牌が残った。

 私は中庭に拡げて謹んで焼却し終わったが、その煙はあたかもミッドウェイ海戦における我が空母群の最後の煙のように感じられた。

 「国を出なければ人口過剰の大和民族の将来は拓かれない。 しかし地球上は既に諸外国の縄張りで空いている所はない。 関東軍が空いていると見た満州国でさえ他国の領土であった。 今後の大和民族は最敬礼をして他国の領土内に入れてもらわねばならない。 これが悲しき我が民族の宿命である。 この現実を直視すること、この最敬礼こそが今後の出発点であろう。」

 ということが故郷を出る当時の実感であった。

 かつて祖父の時代に事あるたびに使用された会席膳も実によく燃えた。 戦前の日本農家における料亭まがいの宴会も、またいつの日にか復活するであろうか。 もしありとしてもその頃は我が家庭は外国の生活に順応していることであろう。

 そして帰村直後、村の農地委員が私に宣言した言葉、

 「貴方は不在地主の上に、更に歩が悪い点は正規軍人であったことです。」

 という一言は、村を出発せんとする私の心に強く響き返ってきた。

 戦い敗れて帰ってきた者にとって、これが真の故郷であろうか。 よーし! かくなる上は、貧しき村を発ち、更に肥沃なる新天地を求めて我が家の神武天皇とならん、と覚悟を決めるのであった。
(続く)

2009年08月04日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 妻の同意を得てから私の移住計画は公式のものとなり、今後一切の日本生活は移住準備に資するということになったが、山の中の寒村では海外ニュースもなく、また当時は日本国としても外国との文化交流は中断のままであったので、取り敢えず移住先をアルゼンチンに予定した。

 その頃私は重荷用自転車で刃物を荷台に積み、2歳になる次女を背におぶって、東南約30キロの佐賀市に毎週走った。 次女はスッカリ私の言葉を覚えて、回らぬ舌で 「お父ちゃん、肩車にのって早くアルゼンチンに行こうよ」 と言って私達を笑わすのであった。

 また別に私は村の中にも同志がいないかと思って、組合内の会合時に番茶を飲みながら海外移住を説いたものの、海軍にいた人でさえ直ちに賛成する人はなかった。 当時は彼らにとって南米は余りにも遠い図であった。

 思えば私の海外進出計画は、2隻の単独艦艇長を歴任した習慣そのものから産まれたものであった。 戦時中は上級司令部から与えられた新しい任務に基づき、次々に展開される彼我の状況に応じて自艦の行動を決心したのであったが、帰村してからの私には目標となる任務がなかった。

 目標なくして漫然艦(生活)を進めることは到底できなかった。 この心の空しい生活のなかに産まれ出たのが海外進出計画であった。 その状況の分析と判断と決心は余りにも長くなるので省略するけれども、いまや私には1万9,000馬力の艦もなく、200名の部下もなく、一等親以内の家族計7名だけのことを考えれば済むのであった。

 2等親以上を海外移住に誘い出すことは私の力にも及ばないことであったが、一等親以内に対しては今後の近き将来約50年間に関して、地球上のどこに居を置くことが彼らの安全と発展にいかに寄与するかという問題を考えることは、家長の最高の責任であり義務であり、家長が宣言するならば家族はついてきてくれそうに思えた。

 私は自宅付近で最も大きな町であった佐賀市に出たとき、移住先予定のアルゼンチンの言葉を知るために、「スペイン語4週間」 を買ってきて独習したが、これはだれかに模範を示してもらわないと、読むだけではなかなか物になりそうにはなかった。

 そうこうしているうちに、25年7月10日、突如としてこの田舎にいる私に、東京の第2復員部長からの至急官報が来た。

 「連合軍要務のため至急第2復員局へ出頭されたし」

 丁度朝鮮戦争の勃発した直後であった。 世の中から捨て去られたとばかりに思っていたが、再び国家の要請があったかと驚き勇み立ち急ぎ上京して連合軍へ出頭してみれば、米海軍の若い日系2世が南鮮の海図を示して、「この海域を知っているか?」 と問う。 「知っている」 と答えたら、「連合軍の作業に協力してくれるか?」 と問う。 私はしばらく考え、終戦後の米海軍の行動が一応信頼に値するものであることを思いながら、「OK」 と答えた。

 この面接のあと2復で聞いてみると、全国から呼び出されたのは少将から大尉にわたり、大佐中佐を主とし、少将少佐が副で大尉がごくわずかであって、計約150名(?)ぐらいの規模で、私達に協力させたいことは軍隊輸送の水先案内のようであった。

 ここで十分な旅費滞在費を貰い、元の上根森司令官、支那方面艦隊小田切首席参謀などの在京先輩を始め級友などを訪ね、今次東京都周辺の都市に進出の時機であると判断した。 それまでは東京大阪などの大都市は食糧不足のため転入が許されていなかったのであった。

 そしてまた連合軍の要請に対し、私のように 「OK」 と答えた者は余りいなかったことも聞いた。 「敵さんにこれ以上こき使われることは真っ平である」 と思った人が多かったらしい。

 最後に横須賀米海軍基地の古村少将 (啓蔵、40期、終戦時横須賀鎮守府参謀長) を訪ね、同基地における今後の就職をお願いして故郷に帰った。
(続く)

2009年08月03日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 その後佐賀市で療養中の唯一の弟は、結核が悪化し栄養は採れず遂に戦病死した。 これを看護した母は、戦争中とその直後で、私の父と祖父母と妹とそして最後に弟の計5名を見送ったのであって、母は 「死んでゆくより見送る方がはるかにつらい」 と言った。

 また弟は終戦直後の祖国の急変を眺め、祖国の将来を悲観し、自分は帝国海軍の美しく楽しかった思い出を抱いて死んでゆくのだと言った。 私は引き止める言葉に窮し、今や子供でないむしろ共に戦った戦友である弟の希望に同感し、私ももし独身であったら弟と同行したいくらいであったが、それは許されなかった。

 祖国に反抗して国外に逃れていた者達は凱旋将軍のように迎えられて祖国に帰ってきたのであるから、弟がそう予想したことも無理はなかった。 昭和22年頃の祖国の姿はこのような状況であった。

 私は毎晩護衛の夢を見、ガバ!とはね起き 「爆雷戦!」 と怒鳴り、家内は狂人のような私の袖を引き 「戦争は終わりましたよ」 と言うのが毎回のことであった。

 私の耳の中には、探信儀の発信音と反響音が巣食っていて、これも寝につくと毎晩出てきて私の神経を戦場に引き戻すかのようであった。 戦場で最も苦労したのが約3年だったから、この反響音も3年ぐらいで退散するだろうと予想したが、本当に退散したのは戦後5年目であった。

 この頃、私の耳もおかしくなっているのに気がついた。 これは対空戦闘の発砲音によるものであったが、高雄沖の艦載機毎日300機の3日間を思えば、耳の小々の故障ぐらいは有難いと思った。 しかしこの故障は着伯後の葡語会話に大きな支障を与え続け、今日に至っては年齢とともに更に悪化しつつある。

 そして昭和23年、古い農家の養蚕室兼用ともなっている座敷で、私は毎晩考え続けた。 私の周りには戦争前と戦争中に生まれた3人の幼児とその年生まれたばかりの赤ん坊がスヤスヤと寝ていた。 私の

 「海外に出よう。 大和民族の前途は海外に求めるよりほかにない。 幸いに私は海軍に身を置いていたのであるから、大和民族のなかでは最も外国に慣れやすい部類だ。 新しい日本の海外発展の捨石とでもなれれば、戦に敗れた前半生の償いともなろう。」

 という方針は、幸いに家内の同意を得た。

 この海外進出発想の地である私の原籍地は全く日本の縮図のような一寒村であって、多くの耕作者達は私の 「小作地を返してくれ」 との懇願に対して正面切ってこう答えた。

 「森さんには本当に悪いが、私達にとっては、この際田畑を手に入れなかったならば、金輪際こんな機会はこないでしょう。」

 私はなるほどと了解した。 日本は余りにも国土狭少に過ぎるという実感が、この村には溢れていた。
(続く)

2009年08月02日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「朝顔」着底海岸の近くに掃海部隊がいて、その隊長は旧知の萩原旻四氏(海兵60期)であった。 その特別の厚意によって内火艇を出してもらって「朝顔」に横付けしたが、上甲板以下は水中に没していて、私の 「死に場処」 であった艦橋が水面上にポックリ出ていた。

 私は狂気のように懐かしい階段を駆け上がり、ガランとなった艦橋に入ったが、既に取り外せるものはことごとく取り去られていた。

 「形見を!形見を!」 と私は心に叫んで手当たり次第に手を触れたが、何も外せる物はなかった。 内火艇を待たせている私の気は急いだ。 最後に艦橋後方左舷の魚雷戦発令所 (艦橋休憩室) に入った。

 いつも両足を折った私を休ませてくれたソファー、その上に約4つの真鍮の舷窓、私はすばやく舷窓の螺子を回してみたが、どれも止め金がしてあって抜けない。 私の心は急いで次々に回した。

 最後の1個が止め金が脱落していて抜け、遂に私の手中に納まった。 私は歓喜した。 そしてこの1個だけに止め金がなかったことは、決して偶然とは思えなかった。 あたかも解体を待つ最後の「朝顔」が私に唯一の形見を贈ってくれたように感じた。

 この舷窓の螺子が今自宅の応接間の飾戸棚にある 「朝顔の御神体」 である。 それは真鍮の燦然たる輝きと、艦齢22年の間毎日磨かれた角々の丸味を示しており、童顔の若き水雷科員の日課手人の毎日を物語っているかのようである。

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(朝顔御神体図)

 このあと体力も回復してまず行動したのは下関の水産会社であった。 漁業実習のため97トン底曳綱漁船に乗って懐かしの東シナ海に出漁し、荒天下に操業中、眼前200メートルに漁業保護中の米駆逐艦が漂泊してきて、相手の艦長はあたかも私を見下ろすかのように感じた。

 その後不在地主を続けていた私の原籍地の農家は、家邸まで買収されそうになったので、母と戦病療養中の弟(和夫)(海兵71期)を佐賀市に残して、私は妻子4名を連れて原籍地多久に入った。

 多久は南の駅からも北の駅からも約1里ある山の中の寒村で、どちらに出るにも峠を越きねばならなかった。 私は近くの炭鉱の崖崩しの土方に出たり、炭鉱住宅建設の現場監督に出世したり、これらを卒業して家庭刃物の卸兼行商をやって現金収入の道を辛うじて立てたが、家邸の周辺の畑は狭く (0.2ヘクタール)、主な畑と水田は小作人が返してくれず、農地改革を断行した片山内閣を恨んだ。
(続く)

2009年08月01日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 長い間御愛読いただきありがとう。 これで私の聖市夜話を終わります。

 思えば3年7箇月間の昔話に、貴重な紙面を3年4箇月間にもわたって汚した次第で、もし私の昔話が逆の効果でもありましたら、平に御容赦を得たい。

 若き日に私達は江田島で5月27日の海軍記念日を、今年は第28周年記念日であるぞと教えられ、おとなしく戦史講話を聞いたのであったが、腹の中では 「また30年近く前の昔話か」 と思った。

 しかし今や私はそれよりも更に古い32年前の話を、しかも地球の対蹠点から、長期にわたって放送してきたのであるから、更に罪が深いかもしれない。

 しかし当時の講師は大抵体験者ではなく代弁者の話であり、かつその内容はいつも勝ち戦であった。 この昔話は当の体験者でかついつも負け戦であるという意味で、長い下手な話ではあったが、英敏な諸君が何がしかの教訓を汲み取られて、今後の御参考に活用していただければ幸いである。

 御縁も深くなった諸君に、最後に 「その後の私」 についてもその大要を記述してみたいと思う。

 21年4月末、佐賀に復員した私に、海軍の残務処理部ともいうべき第2復員局からきた電報は、「復員艦の「槇」艦長にならんか」 というものであった。

 今後の自活の道に苦しんでいた私にとっては、慈母の心遣いのように有り難い電報ではあったが、当時の私の健康はガタガタに傷んでいた。

 上根で終戦後私達幕僚は過労の果てマラリヤにやられ、池田大佐はじめ次々に倒れたことがあったが、その後の養生もできていなかった。

 しかし私にとっては、たとえ終戦後であっても丁型駆逐艦長を体験できる点で大なる魅力もあったが、私は今後の苦難な人生を考え、この有り難い辞令をキッパリと辞退し、向こう6箇月は体力の回復に専念する方針に決した。

 あとで反省してみて、この6箇月の休養は極めて有効かつ貴重であったが、博多で貰った退職金500円で家族7名が食って行けるわけではなく、しばらく 「売り食い」 が続いた。

 この頃、駆逐艦「朝顔」が終戦後の命令で母港舞鶴へ回航の途中、関門海峡で触雷し、下関側海岸に着底していることを聞いた。 しかし私には下関まで行く暇はあったが旅費がなかった。 私は母に相談した。

 母は最後まで膚身離さなかったダイヤモンドの結婚指輪を出してくれた。 私は亡き父が母に贈った当時を想像して心がジーンとするのであった。

 しかし、私の生命の恩人である名馬「朝顔」との最後の訣別にも、これに劣らぬ貴重さがあった。 母の指輪は十分な旅費となった。

(注) : タイトルの 「正錨」 は 「まさいかり」 と読みます。 艦艇が出港する場合、錨を揚げて水面に見えてきた時に、錨が自分の錨鎖に絡むなどしておらず、“正常”の状態で揚がってきたことを意味する言葉です。 前甲板からのこの報告を聞いて (艦橋からは見えないので)、艦長は始めて前進の機械を使います。 これを 「航進を起す」 と言います。

(続く)

2009年07月31日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その10)

著 : 森 栄(海兵63期)

 やがて3月に入り、2大集中営の中の浦東集中営の残留員が30日復興島に移り、以後復興島集中営だけとなり、あとの作業は簡単化し、引き場げ船の来着によって逐次引き揚げるばかりとなった。

 次いで最後の旧上陸電信所と第2送信所の復興島集中で森司令官の終戦処理の大任に一段落がつき、4月15日司令官は上海方面日本海軍連絡部長の任務を解かれ、残務は首席参謀池田大佐と人事主任亀井主計中尉が処理し、その他の上連司令部員は司令官とともに第15回便に4月20日乗船帰国することになった。

 乗る艦は八十島垂三(海兵71期)元大尉の指揮する特別輸送艦駆潜47号で、これに海軍部隊は森司令官以下30名、陸軍部隊は総軍参謀副長川本少将以下6個司令部員の125名、合計155名であったが、私は 「よく乗せるなー」 と驚いた。

 また別に私を驚かせたことは、同艦に信号代理として海兵75期の斉藤正一、萩原孝、堀井利彦の3君が乗組んでいたことであって、そのけなげさに深く感謝した。

 森司令官の上海方面日本海軍終戦処理報告の本紙(主)は司令官自身が携行し、写1通(副)は私が腹に巻いて携行したが、私にとっては上海市政府における厳重な乗船前の身体検査でもこの写が一番大事な携行品であった。

 そして幸いにも(正)(副)とも無事日本に着き、(主)は帰国直後司令官が直接中央に提出し、(副)は34年1月私から防衛庁戦史室に寄贈したのであったが、この報告書がまた私にとっては私の海軍時代で最も簡潔にして要領を得たお手本の一つであったことも特筆に値するところである。

 4月20日の乗船は記録にあるが、博多に着いた日は記憶していない(25日?)。 博多では旧知の石隈辰彦元少佐の温かい出迎えを受けて嬉しかったが、退職金500円を貰い、上海製の洗面器などを入れたリュックサックを背負って佐賀まで汽車に乗った道中は、周囲の人の眼が冷たかったように感じた。

 私の内地復員はこれで終わったが、以上のように中支方面で私達を武装解除したのが、終戦後重慶から出てきた中国軍であり、かつその背後には共産軍が追撃していたという情勢は他の方面では見られない独特のものであったし、したがって鉾の収め方についても幾多の教訓を残したのであった。
(第39話終)

2009年07月30日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その9)

著 : 森 栄(海兵63期)

 このように艦が上海に在泊していて、司令部の直接交渉可能の場合にはまだ艮かったが、上流にいて電報以外に連絡の方法もない残留員の日々の境遇こそは、全く苦労の明け暮れであった。

 しかし中国側の急速配員も日時の経過とともに少しずつ捗り、1月10日 「第1黄浦丸」 残留員が撤退完了したのを皮切りとして、3月8日「興津」3名、「番陽」6名の撤退完了で苦難多き艦艇の撤退集結を終わったのであった。

 そして陸上を含み全員の撤退集結が完了したのは、4月11日旧上陸電信所47名と旧第2送信所18名の撤退であって、前年9月13日の接収開始以来実に7か月間、延々として武装解除に長日時を要したのであって、特に艦艇の撤退が終わるまでは司令部員の心の休まる日はなかった。

 私はかつて 「武人は最後まで武器を手放してはいけない」 という、山口多聞 「五十鈴」 艦長の教を肝に銘じたのであるが (聖市夜話第24話)、上記上海方面艦艇の撤退の苦心に鑑み、この時は相手の事情が許さなかったけれども、

 「艦艇の異国間引継ぎは、基地において艦艇長以下全乗員一挙に行うべし。」

 という一般的な強い教訓を得たのであった。

 上記の間、最も危険の多い掃海も9月9日に始まって11月29日に無事完了したし、還送 (引き揚げ) 関係も11月9日に始まって1月上旬以後本格化し、3月末で累計約1万6,500名に達し、10月中旬始まった復員教育も各部隊の撤収、集結が逐次行われるに伴ってだんだん本格化して行き、落ちついて帰国準備をするようになって行った。

 私達は忙しくて、2大集結地の復興島及び浦東集中営を訪問する機会には余り恵まれなかったが、六三園司令部の中でも英語講座が始められたり、時に演芸会があり面白い芝居をみて全員腹の底から笑うこともあった。

 一番心に残ったのは 「終戦某年後」 という一幕で、現在の階級に関係なく各人がそれぞれ成功没落の運命に流され、同じ道路上に某年後再会する光景を展開したものであったが、私は心の中で 「森参謀乞食になるの図か」 と将来を自信なげに心配した。

 全く私などは焼け野ケ原の日本に立って、どうして家族を養ってゆけば良いのか皆目名案とて心に浮かばなかったのである。
(続く)

2009年07月29日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 対共産軍の上流の配備に就いていた某艦では、一部の缶管が損傷し残留中の日本側機関員からは至急材料の手配が電報で要請されてきたが、日本側司令部 (上海連絡部) としては既に全部の艦艇を中国側に引渡したあとであるので、中国側司令部に手配を考慮してもらうよりはかに道はなかった。

 そして同艦の日本機関員は将来の最悪の状態を予想し、あれこれと不吉な心配はつのるばかりであったが、これに対し中国側艦長、機関長たちは

 「揚子江の流れは上海の方に流れている。 機械が使えなくなったら長江の流れにまかせよう。 余り心配するな。」

  と説得したそうである。

 また某艦の旧乗員から、「中国乗員の入浴時間は別々にするよう中国側幹部に交渉されたい」 と要請の電報がきた。 それまでは中日側混浴であった。 この実情を調べてみたら思いも寄らぬ両者の生活習慣、衛生思想の相違によるものであった。

 また某艦では中日乗員の居住区間の所持品の盗難事件が頻発して、親善友好の線からもまた蒋総統の訓示の線からも程遠い空気となった艦もでてきた。

 このほか思いも寄らぬ多くの事件があり、おそくまで残留させられた旧乗員の苦労は恐らく終戦後の中支方面の最高であったであろう。

 某日江南 (?) 横付中の砲艦に、中国語のできる赤木参謀と私は、残留乗員の撤退催促に出かけた。 私達2人は艦長室に座って、赤木参謀は初め冷静に理を立てて説き出した。

 この艦長は既に予定日を2回も一方的に延期していたが、またも言を左右にして撤退日を約束してくれない。 遂に怒った赤木参謀は 「この嘘つきめ!」(?) と怒鳴ったようであった。 私はその語気の鋭さに吃驚して中国艦長の反応を見た。

 ガバと椅子から立ち上がった艦長は腰の拳銃をまず探したが、幸いになかった。 急いで壁の呼び鈴を押した。 最高の険悪さが狭い艦長室に溢れた。

 座ったまま微動だにしない赤木参謀は 「撃つなら撃て!」 といわんばかりの強い気迫であった。 幸いに呼び鈴も不達に終わったらしく剣付き鉄砲の番兵も駆けつけてこなかった。

 2回の失敗で艦長の気迫が弱り、少しずつ態度が軟化し、最後には約1週間後には全部の残留員 (日本乗員) を退艦させることを約したので私たちは同艦より去ったが、帰り道で私は赤木参謀が残留員を思う心の真剣さに強く感銘し、また今日の現場を残留員に見せてやりたいと思った。

 司令部に帰ってからこの砲艦の撤退予定日を訂正しなから、「また延期するのでないか」 と従来どおり信用はできなかったが、驚くべし! この約束は約束どおりキチンと実行され、赤木参謀の交渉は見事に成功したのであった。
(続く)

2009年07月28日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 さて陸上の接収とともに海上部隊の接収が各艦艇ごとに行われたが、当時背後に共産軍の近迫があったためか、大型の砲艦は揚子江の各地に分散配備のまま各艦個別に行われたので、陸上の接収に比べはるかに複雑困難で長期を要した。

 もしも全艦艇を上海にでも集め、係留のまま一挙に明け渡してしまえば迅速容易であったであろうが、背後に迫る共産軍のほかに、中国海軍側の人事の準備も大きな理由であったかもしれず、乗員の交代は中国側の着任あり次第少しずつ日本側が退艦するという、あたかも日本海軍同志の内輪のやり方そっくりの要領であった。

 確かにこの頃の中国海軍は人集めにさぞ大変であったであろう。 ある日ある会議で少佐参謀が顔を出したが、会議後ある日本人は 「彼はたしかに長江筋の汽船会社の事務員だった」 と語った。

 また某艦から、「機関長3人着任す、いかがすべきや」 という面白い電報が来た。 私達はこの3人の機関長を、重慶海軍出身、和平海軍出身、地方海軍閥出身に想像することが常識のようであったが、この3人はそのうち日が経つにつれ自然に1人となって落ち着いた。

 新旧乗員の間の引継ぎがまた大変であった。 その典型は機械室であって、私も上海の某艦の引継ぎの現場に立会ったが、旧乗員は森司令官の方針に基づき、東洋和平を守る東洋一の海軍を残すべく張り切って引継ぎ用の操式教範を作り、まず新乗員組の前で模範を示す、終わると詳細説明して新乗員にやらせるという段取りであったが、新乗員たちは1人減り2人減りして、いつの間にか旧乗員だけの独り芝居になってしまって、「何んのためにやっているのか」 分からなくなるのであった。

 各艦の残留旧乗員は還送 (日本引き揚げ) も始まったと聞けば、1日も早く引継ぎを終わって上海に集結し、引き揚げ順序を待つ身になりたかった。

 ところが新艦長は、着任して操艦に自信ができると旧艦長はじめ艦橋員、甲板員、主計科員、看護科員などの退艦を許すが、こと機関科員、電信員となるとなかなか退艦させてくれない。 これはあと艦の運航と上海との通信系が絶たれることを恐れるからであって、有能な新乗員が来なければいつまでも退艦させてくれない。

 こうなると、中国旗を掲げた一つの艦に、中国人の居住区と日本人の居住区ができ、両国民の思想、習慣、知識、技術などの相違は思わない大小の事件を引き起こした。

 旧乗員はこれらの状況を電報で私達の司令部に訴える通しか残されていないのに、中国の艦長は自分に不利な電報は打たせたくない。

 このようにして当初は友好親善のうちに始められて行った引継ぎも、日が経つほど両者の間は険悪になって行くのであった。

 私達司令部でも、このような事態は予想もされないことであったので解決策に心を痛めたが、一方中国側でも機関員、電信員などの要員をそう簡単に補充できるような情勢でもなく、また艦艇を基地に横付けしてしまうことのできるような平和な情勢でもなかったようであった。
(続く)

2009年07月27日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 11月9日の第1使のあとの還送は11月12月中しばらく途絶え、12月27日になってようやく第2便が出発し、更に1月10日の第3便からが軌道に乗ったようであった。

 私は海軍側の連絡参謀として日本側の副領事・陸軍暁部隊少佐参謀とともに、中国陸軍船舶部隊少佐参謀が迎えにくるトラックに乗り、早朝上海を出発して乗船所である 「ジューコン」 埠頭に着き、同日の還送船を見送ってから再び上海市に夕刻帰るのが還送日の日課となったが、この埠頭の監理は米陸軍船舶部隊の某大尉以下が担当していた。

 還送船は日本及び米国の艦船からなっていたが、日本海軍の生き残りの艦艇を訪ねてみると旧知の船長が多く、これらを通じて終戦直後の日本の様子を聞けることが楽しみであった。

 しかし一般乗組員の服装は悪く、態度も粗暴で、下駄ばきで鉄甲板の上を歩き回るのでその騒音もやかましく、かつて世界3大海軍の一つと謳われた帝国海軍も、一朝にして海賊まがいの地方水軍に落ちぶれたかのように感じた。

 しかし祖国は一面焼け野ケ原になって多くの衣類・靴なども焼失してしまったであろうと想像するとき、これら乗員の服装態度がいかにお粗末なものであろうとも、こうやって次々に迎えにきてくれるだけでも私たちは感謝しなければならないことと思った。

 そして日本・台湾・韓国にそれぞれ帰国して行く乗船者の隊伍を見ていると、終戦まで同じ日本人として戦ってきたこれら3種類の隊伍が、今や従来のあらゆる統制から解放され、それぞれの民族の裸の 「むき出し」 の性格を現し、新しい統制のもとに 「乗船」 という一つの団体行動をとるにしても、各民族の固有性格が出て私達に強い教訓を毎日見せ続けたのであった。

 その日の乗船も終わり各船の出港を見送り、私達は桟橋の大きな角材に腰をおろして故郷を語った。

 日本陸軍暁部隊連絡 ( 少佐) 参謀をいつも英語通訳として補佐しているT少尉は、いつも私のよい話相手であったが、彼は東京外語 (葡語) を出て渡伯し、伯国婦人と結婚し、戦争直前日本に帰り従軍し、立派に戦い抜いた人であって、彼は日本よりもはるかにずっと遠いブラジルの地に思いを馳せていた。

 そして私はブラジルだけが葡語で、他の中南米各国が全部スペイン語であることも初めて知った。 また上海付近にはポルトガル人が案外沢山いることを彼は教えてくれ、近くこの実演を私達に見せてくれることになった。

 某日西欧系労働者的数名を乗せたトラックが桟橋に入ってきた。 T少尉は 「あれは確かポルトガル人ですよ」 と言って、素早くトラックの前に躍り出て、私達にとっては皆目分からない言葉で第1声をトラックに浴びせた。

 けげんな顔の運転手と労働者はたちまち相好を崩して車から降りてきて彼の全周を取り巻き、喜々として語り合った。 私達はこの光景をみて彼が英語のほかに葡語にも長じていることを知り尊敬の念を一層深めた。

 戦争に初めて敗れた私達にとって、とりあえず将来必要なことは外国語を使いこなすことだと考えられた当時であったから、彼の存在は私たちの心を明るくするものであった。

(原注) : このT氏は現在リオ市に健在で、お互いに近く30余年振りの再会の日を楽しみにしている。


(続く)

2009年07月26日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この砲艦が温州(?)かに寄港した際、乗組士官は喜々として上陸して行ったが、私達二人はもちろん艦内から一歩も出るわけにはゆかなかった。

 私達は舷窓から桟橋近くを眺めて時間を費やしたが、沿岸通いの客船が在泊中の短時間を利用して、素早く客用の薄いふとんのカバーを外し、泥水の中で洗い、岸べりで太陽に乾かし、再び素早く大きな針でふとんに縫いつけて行く工程が面白く日に映じた。

 そして手際よく作業してゆく中国の中年婦人のたくましさに強く教えられた。 私は内地復員後この中国式ふとんの作り方、洗濯法を我が家に伝え、中国婦人の勤勉さを思い出すのであった。

 最後に、機帆船同便の時の主人公は中国海軍中尉で、陸上にいるある指揮官の副官であったが、この行動では指揮官代理として接収任務を代行していたのであるが、この主人公と私の寝台は約2メートルを隔てていた。

 夜になり私は早速南京虫の来襲を受け、到底眠れることではなかったが、主人公はいかにと見ると、金モールの腕章のついた軍服そのままで眠っていて、時々無意識に手でかいているものの遂に目を覚ますことがなかった。

 私は連続ボンボンいう焼玉エンヂンの音を耳にしなから寝台につくねんとして腰かけ、眠れない一夜に敗残の身を悲しく思うことであった。

 以上のような離島接収も終わり私は上海に復帰し、我が方では10月21日から復員に備えて復員教育が始められたが、当時の予想では復員用船舶が日本側所有船だけでは数が少なくて長い年月を要するので、どうしても米国側の大きな協力が要望されていた。

 11月に入り、近く最初の還送が始まるとて軍民合同の還送会議が行われた。 民間関係は総領事館の某副領事、陸軍関係は暁部隊、海軍関係は上連が担当として一堂に会して基本方針の打合せが行われたが、席上陸軍の某中佐参謀が腰からやおら 「矢立ての硯」 を引き抜き、別に公告用でもない全くの個人用覚書を席上毛筆をもって記録するのには驚きかつ呆れてしまった。

 そして上海方面からの日本・台湾・韓国あての還送は11月9日から始められ、この第1便である 「第5米丸」 には各部の連絡員が乗り (海軍関係は吉田謙吾中佐(58期、終戦時「鳥羽」艦長)以下)、博多向け同日上海を出港した。

 これでようやく我々にも帰国できる順序がくると軍人一同は大喜びであったが、営々として父祖の代から上海における財産を築き上げてきた在留邦人にとっては、還送をうけることが一切の財産を失い丸裸になることであって深刻な問題であったが、中国側の検査は厳重で、その言い分は 「中国において築いた財産は全部中国に置いて帰れ」 ということにあった。
(続く)

2009年07月25日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私達が六三園に監禁されたすぐあとの10月13日までには、上海在留邦人も北四川路以東の虹口・揚樹浦・江湾地区の方面に集中するように、中国側の命令があった。

 次いで10月14日には、上根麾下の離島部隊である舟山島方面部隊が、また17日には同じく泗礁山部隊が、いずれも中国海軍により正式接収されていった。

 私はこの頃、中国語の上手な海軍中尉を帯同して中国海軍の砲艦及び元日本建造の機帆船に同乗して、中国海軍側の接収に立会ったのであるが、その時の2、3の思い出を次に御紹介しておこう。

 その一つは、泗礁山接収の際、日本側は軍事点検のように各建物の中に整列している間を、中国側は接収官を先頭にして1列に進み、各建物の中を順序に巡視して行った。

 このとき接収官の約10名ぐらい後方を進む中国海軍士官が、整列している日本側の古い下士官の前で2〜3秒立ち止まり、下士官の顔をさも懐かしげにまじまじと眺めこんで、あと急いで再び接収官の列に復旧した。

 この下士官は突如のこととて、薄れていた昔の記憶を盛んにたどった。 両者は同年配であった。 暫くして同兵曹がようやく思いついたのは、「彼は海兵団における同年兵であった」 ということであった。

 この中国海軍々人がいつ頃日本海軍を辞め中国に渡り、いつ頃中国海軍に就職したのかはもちろん明らかではなかったが、接収する側とされる側に、若き日の海兵団の同年兵がいたということは、全く珍しい思いも寄らぬことであった。

 次に私が同乗していた約1,000トンの砲艦々長(中佐)は学者風の紳士で、副長談によれば艦長は日本語の読み書きはできるが話すことはできないとのことであった。

 副長(少佐)は艦長より年上で、日本語も一通り話し、山東省出身で、日本食で不自由しているだろうとて山東省名物の色々な饅頭を作って私たち二人に御馳走してくれたが、艦長以下艦内一般の空気は日本海軍を尊敬すること厚く、日本海軍が敗戦したことに対し深い同情の念を抱いていた。

 また同艦の若い主計中尉は一番日本語が上手で、精神面にわたることまで細かく表現し、私が忙しいことを慰めて、「中国語には能者多労という言葉があります」 と教えてくれた。

 この主計中尉とともに離島内の坂道を登り山腹の山寺を訪ね、中国側の大小様々の額の中に、金色燦然とした浪速の商人何某の寄進した一際目立った額を発見し、同中尉とともに中支沿岸におけるかつての中日交流の歴史を偲び、同時に将来における極東の和平を語り、私は同中尉の有為の人材なることを愛しその大成を祈念したが、同中尉は言葉少なく静かに 「個人の力は微力です、世の大勢には抗することができません」 と笑って答えた。

 私はこの教養深き主計中尉の名前を失念したことをいまだに残念に思っている。
(続く)

2009年07月23日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 そして上海に米第9艦隊が入港してきた頃、米軍から矢のように催促されたのは米軍捕虜の処置に関する調査報告であって、これは私達にとって直に戦犯問題に繋がるものとして重要であった。

 例えば終戦直前上海上空に進入した小型機を撃墜したことがあり、その搭乗員K中尉は落下傘で降下したが全身大火傷で我が方の病院に入院加療中遂に死亡した事件に関しても、早速矢のような催促がきた。

 上空進入から撃墜地点、救難状況、入院中の患者日誌、死亡状況、遺品目録まで詳細な報告書類を早急に作成して提出を要する。

 こちらとしては全身火傷で降下時既に重態であったので当たり前と思ってはいたが、先方米側としては全身火傷にも疑いを抱いており、入院加療にも疑いがあり、本当は健康体で虐殺されたのではないかという疑いを強く持たれているかのようであった。

 この時司令官は迅速に各種書類の作成集め方を命じた後、私室に入って何かゴソゴソと作業を始めた。 少し経ってから司令官は縦長の白布に、達筆の毛筆で日本式、中国式に 「鳴呼忠勇K中尉之霊」 と大書し、これを中心として日本式祭壇を作らせた。

 私は司令官に、「東洋式が米軍に通じましょうか?」 と尋ねたら、司令官は次のように答えた。

 「戦死者を弔い、その功績を讃える心はどこの民族でも同じである。 国のために勇敢に戦って遂に戦死したK中尉の英霊を弔った私達の気持を示すには、日本式であろうと一向に構わん。 調査団の人達にも私達の誠意が必ず通ずるであろう。」

 そしてこの我が方の報告は、司令官談のごとく問題なく調査団の了解するところとなった。 またもや私は司令官の変転自在な、この場合むしろユーモラスにも思われる措置に教えられるところが少なくなかった。
(続く)

2009年07月22日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 艦隊参謀長は左近允中将(尚正、40期)であったが、聞くところによると17年3月連合艦隊が印度洋一掃作戦のとき、当時第16戦隊司令官(少将)として参加され、拿捕した貨物船の乗員取扱いの件で、英軍の追及に対し全責任を負われたとのことであり、最悪の場合が予想されていた。

 たまたま森司令官は参謀長と海兵同期でもあり、司令官は昼の仕事が終わると毎夜のように参謀長室を訪ねて懇談激励していたが、参謀長は泰然自若、従容として迫まらず、いつも両雄の間は春風駘蕩という光景であった。

 司令官は 「年寄りばかりでは面白くない」 と思うとすぐ池田先任参謀を呼んだが、先任参謀は毎夜2200以後まで仕事で忙しく、「オイ森参謀代わりに行ってくれ」 ということで私が両雄懇談の席にしばしばかり出された。

 参謀長は既に長男(正章)(69期)を戦死させていた(少佐、「島風」砲術長)ので、生き残った次男(尚敏)(72期)が復員駆逐艦「初桜」先任将校として活躍中であることを喜び、私との間に「初桜」の行動が話題となることが再三であった。(注)

(注) : 左近允尚敏氏は戦後海上自衛隊に入隊され、最終は統合幕僚会議事務局長・海将で退官されました。 現在も戦史研究などでご活躍中です。


 私はここで武人の在るべき態度について無言の教訓を強く刻み込まれた。 このようにして部下の誤ちは我が責任として、潔よく終戦後刑場の露として散っていった指揮官が数多くあったことを思い、ここに参謀長の一端を御紹介しておく。

 艦隊の首席参謀は、私たちが生徒時代最も若い砲術科教官だった小田切大佐(政徳、52期)であったが、再びここで幕僚道のいろはを懇切に指導されるに至り、これを御縁として個人的なつながりは以後30余年、ブラジルの今日まで続いている。

 その他の艦隊司令部は、参謀副長の少将を始めとして大佐、中佐の大先輩がズラリと約12名で、かつて中国全海岸及び場子江を指揮したこれらの幕僚にとって六三園は余りにも窮屈そうに見受けた。 そして若造の私にとって一番心やすく物を尋ねることができたのは、やはり昔の一号生徒であった朝田(現姓久原)参謀(一利、60期)であった。

 このような陣容で六三園の生活は開始されたが、これが森司令官と私にとっては翌年4月末の日本帰還まで続いたのである。
(続く)