2014年10月27日

海防隊編成


メールにて 「第十版 内令提要 巻一」 中の 『海防隊編成』 公開のご要望をいただきましたので、先程本家サイトの 『海軍法規類集』 コーナーにUPいたしました。

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なお、昭和20年2月現在の内令提要の文書だけでは物足りない方もおられると思いますので、併せてこの海防隊編成に関する昭和19年7月〜昭和20年8月の全内令を1つのPDFファイルとして公開しました。

ただし、この全内令では昭和20年2月以降の分についてもしかすると抜けがあるかもしれません。 お気づきの方がおられましたら是非ともお知らせください。

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2014年10月19日

『合衆国海軍発達小史』 公開


本家サイトの今週の更新を兼ね、ご来訪40万名達成感謝企画の第2弾として、「史料展示室」 コーナーにて軍令部訳版の 『合衆国海軍発達小史』 を公開しました。

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これは1911年に初版が出版された George R. Clark の 『A Short History of the United States Navy』 に、その後の推移・情勢などを加筆した1927年の第6版を昭和12年に軍令部が邦訳したものです。

その創設から軍縮条約までを約500頁に纏めた米海軍の通史ですが、おそらく著作権の問題を考慮したのでしょう、水交社などから公刊されることはありませんでした。

おそらくそのために、国立国会図書館を含む公的機関・図書館などでも本書を所蔵するところはごく僅かしかありません。

加えて、現在でも日本では日本語になった米海軍史の適当なものがありませんので、その意味では貴重なものと考えています。

なお、ディジタル化するにあたり、軍令部版は写真や絵画などは印刷の関係であまり良くありませんので、これらは原本のものに入れ替えましたことをお断りいたします。 この点では “元の史料そのまま” とは言い難いですが。

原本の第6版も準備出来次第併せて公開する予定にしておりますが、ちょっと頁数が多いので ・・・・

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このあと第3弾としてちょっと大物を考えていますが、これまた頁数が多いですし、またディジタル化でのゴミ取りなどのかなりの手間暇を要しますので、少々お時間を頂戴することになりそうです。 もしかすると別企画にするかもしれません (^_^;

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2014年09月07日

『海軍電気技術史』 全編公開完了!

久々に本家サイトでのコンテンツ追加です。 気にはなりつつも延び延びになってしまっていた 『海軍電気技術史』 ですが、最後に残っていた第6部を公開しました。

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これにて第2部〜第7部の全ての公開が完了いたしました。 (第1部たる第1章は元々の原典が存在しません。 というより当時から未完のままでした。)

お陰様でもう暫くしたら本家サイトはご来訪40万名を達成することになりますが、その感謝企画の前に何とかと思っていましたので、これで一安心です。

既に同ページ公開当初に申し上げておりますが、ここで公開しますのは昭和22年に関係者の手によって纏められて10部が印刷され、昭和44年になって防衛庁 (当時) 技術研究本部において残っていたその内の1部を元にタイプ起こしをしたものです。

これにより、故福井静夫氏の手によって無断で加筆修正されて出版されてしまった 『海軍造船技術概要』 とは異なり、内容は全く昭和22年のオリジナルどおりとなっています。 したがって、この点からも貴重な旧海軍に関する史料となっています。

今回公開するこの第6部においても、これまでの出版物などでは書かれたことの無かった内容も数多く含まれ、かつ旧海軍の直接の関係者の手になるものだけに、改めてこれが今日残されていることに嬉しさを感じずにはいられません。

どうか旧海軍についての第一級ともいえる本史料をお楽しみください。

なお、昨今のネット事情から、他の公開史料と同じPDF型式として各頁の上下に当サイトの表示を入れ、かつ印刷及び加工は出来ない設定としておりますことをご了承ください。

専門の研究家の方々などで印刷可能バージョンをご希望の方がおられましたら、お知らせくだされば考慮いたします。

う〜ん、それにしても、私は未見ですが原本の原稿が神戸大学の「渋谷文庫」の中に現存しているようです。

原稿の保存状態が分かりませんが、これを是非復刻して欲しいものです。 この手のものを多く手がけられる原書房さん、いかがでしょう?

posted by 桜と錨 at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2014年08月02日

「涼月」 と 「冬月」

次の記事にて遠山純一氏よりコメントをいただきました。


本ブログの仕様としてコメント欄には画像が使えませんので、「涼月」 「冬月」 の艦名について改めてこちらでご紹介することにします。

まず 「涼月」 (スズツキ) についてですが、昭和17年達18号により次のとおり命名されています。

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( 元画像 : 防衛研究所戦史室所蔵史料より )

また 「冬月」 (フユツキ) については、昭和18年達235号により次のとおり命名されています。

S18_tatu_235_S1.jpg    S18_tatu_235_S2.jpg
( 元画像 : 防衛研究所戦史室所蔵史料より )

これらは現在ではアジ歴でも見ることが出来ます。

   達18号  : レファレンスコード C12070116300 の24頁目
   達235号 : レファレンスコード C12070120400 の1頁目

「涼月」 の表記については、一般には 「凉月」 と記されるものもありますがこれは誤りで、上記命名文書のとおりです。

また、「艦船類別等級表」 や 「駆逐隊編成表」 「定員表」 など旧海軍の公文書全て (戦闘詳報などを除く) で 「涼月」 とされておりますので、達18号の誤字でもありません。 (もっとも、命名文書で艦名の誤字などはあり得ないことですが)


現在出版されている辞典の多くでは 「涼」 (三水) と 「凉」 (二水) とは同意義の異体字とされていますが、偏の三水と二水では意味が異なりますので、厳密には2つの字は使い分けられるべきものでしょう。

このことについては、「涼月」 についても旧海軍はキチンと考えて命名していると言えます。

もちろん、一般的にはあまり区別する必要はないのでしょうが、しかしながら大きな禍根を残すケースもあります。

そうです、故福井静夫氏が戦後直ぐに海軍艦艇史研究家として売り出したときにやってしまいました。 一般に知られる最初のものが 『帝国海軍艦艇一覧表』 ではないでしょうか。


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( 元画像 : 同書37頁より )

まあ当該一覧表は手書きですので “略字のつもり” と見ることもできるかもしれませんが、氏の初期の著作で活字となっているものも 「凉月」 (二水) となっていますので、あながちそうとも言い切れません。

例えば、『昭和軍艦概史V 終戦と帝国艦艇』 (共同出版 昭和36年) などです。


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( 元画像 : 同書53頁より)

そして氏が 「凉月」 (二水) としてしまったことにより、その後他の人々もこれを踏襲したと考えられるものが数多く出てしまいました。 代表的なものでは、堀元美氏、中川努氏などの記事もその中です。

旧海軍の公文書などは防研所蔵の史料も整理され、今では多くのものがアジ歴で見ることができるようになりましたが、当時の状況を考えると一般の人達にはそう簡単に調べることができませんでしたので、この福井氏の著作の誤りは痛かったと言えるでしょう。

後年になって福井氏もこの誤りに気付いたのでしょう、それからのものは正式表記の 「涼月」 (三水) となりましたが、それまでについての訂正文などは全く見られないままでした。

このため、今日でさえ日本版ウィキペディアでもわざわざ “「凉月」 (二水) では無い” 旨の記注がなされているなどの現状であることは皆さんご存じのとおりです。

posted by 桜と錨 at 16:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2014年07月25日

『世界の艦船』 9月号

『世界の艦船』 9月号 (通刊803号) の特集は 「連合艦隊 太平洋戦争を振り返って」 です。

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そのメインで 「太平洋戦争の日本軍艦」 として戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦及び潜水艦の艦種について各項が設けられています。

その内の戦艦について受け持たせていただきました。

本日その9月号が編集部から届きましたが ・・・・ あれ、他の4艦種の記事とちょっと毛色が違う? 私の内容で編集部の意図に合っていたのかどうか (^_^;

ただ、これまでの出版物では語られなかった切り口であり、こういう見方のことも伝え、多くの読者の方々に考えていただきたい事項のものであると思っております。

是非手にとってご一読いただけると嬉しいです。

posted by 桜と錨 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2014年07月20日

旧海軍の 「迎送式」 について (続4)

すっかり遅くなってしまいましたが、昨年11月の記事の続きが残っておりましたので (^_^;

前回は新任の長官が桟橋 (岸壁) への迎えの長官艇に乗艇して旗艦に向かうところまででした。

次は、迎えの短艇が旗艦の右舷舷梯に到着し、長官が乗艦することになりますが、この時に 「海軍礼式令」 (以下 「同令」 と言う) 第69条中の着任の新司令長官が将旗を掲げて舷門を入る場合が適用となります。

即ち、

    1.旗艦総員及び麾下各級指揮官等が出迎える
    2.衛兵礼式を行う
    3.兵曹一名が舷門で号笛を吹く

では、この1.の旗艦総員はどこにどの様に整列するのでしょうか?

実は、この整列場所、整列要領については旧海軍として統一された規定のものはありません。 これは各艦の後甲板などの広さや、構造・装備品などの配置によって変わってくるためですが、とは言っても基本的な要領・考え方は同じです。

この各艦毎の整列要領などについては、その艦の戦闘、非常応急、各種作業などの配置を定める 「部署」 の中で規定されます。

今、昭和期の適当なものが出てきませんので、代わりに大正期の戦艦 「河内」 のものをご紹介します。


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( 「河内部署」 より )

もちろんこの要領はいわゆる 「登舷礼式」 とは別のものです。 したがって、映画 「トラ・トラ・トラ」 のように、前檣楼や最上甲板舷側などの各部に兵員が居並ぶようなことはありません。 あれはあくまでも映画の演出上のことです。

そして旗艦乗員以外の者の参集する範囲は、同令により次のとおりとされています。

第129条 4号
 艦隊司令長官、独立艦隊司令官又は戦隊司令官に対しては其の旗艦以外の麾下の各艦長、各艦士官室高等武官、各艦士官次室高等武官、准士官総代各1名其の旗艦に参集し対舷に整列して其の旗艦の総員と共に送迎す

2.は同令第96条の中で次のように規定されています。

衛兵 (衛兵司令之を指揮す) は其の舷又は対舷の後甲板に整列捧銃を行い喇叭 「海行ば」 一回を吹奏す

ただし、連合艦隊旗艦のように軍楽隊が乗艦する場合には、同令第56条の規定により喇叭に代わり軍楽隊が吹奏します。 その軍楽隊の整列位置は通常衛兵隊の右側です。

3.は、これは現在の海上自衛隊でも同じですので皆さんなら一度はお聞きになったことがあると思いますが、指揮官が舷門を出入りする時の例の 「ホ〜〜ヒ〜〜、ホ〜〜〜〜」 という息の続く限りの大変長いものを2回吹きます。

1回目は短艇が舷梯に着くまでに吹き終わるもの。 そして2回目は新長官が短艇から舷梯に一歩足を進めた時から息が続く限りです。

したがって映画 「トラ・トラ・トラ」 において、舷梯を上がり舷門を通過したあとの次のシーンは、乗員が舷側に並んでいることを除けば間違ってはいないといえます。

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( 同映画広報用画像より )

ただし、黄色縁取りがある赤色の敷物は誤りです。 この様な敷物に縁取りがあることはありませんし、そもそも余計な華美を嫌う旧海軍において戦艦の木甲板に敷物を敷くなどは、陛下の行幸でもない限りありません。 これも映画上の演出と言えます。

新長官を出迎える (整列した乗員などの列外にいる) のは旧長官であり、通常ですとその後ろに参謀長、副官、旗艦艦長が控えます。

そして旧長官が案内して長官専用昇降口から長官室に入り、長官公室で申継が行われますが、これは通常は映画のシーンにあるように実際も簡単な形式的なものです。

詳細な申継はもし時間的な余裕があれば陸上に場所を設けて非公式で行われますし、余裕がない場合には申継書の授受のみで終わる場合もあります。 何れにしても詳細はあとから参謀達が説明することになりますので。

この申し継ぎが終わると、旧長官の離任がこれまでご説明した着任と逆順で行われます。

旧長官を送り出したあと、通常は長官公室において各級指揮官及び司令部幕僚による伺候式を儀式として行い、続いて新長官の訓示が行われ、これにて司令長官の離着任についての行事を終わります。

もちろん、この一連の流れや要領はその状況などにより多少変わりますし、また伺候式や訓示などは時間をずらして行うこともあります。


さて、連合艦隊司令長官の交代よる迎送式に伴う一連の流れをお話ししてきましたが、付け加えておかなければならないことが2つあります。

まず一つ目が服装についてです。

司令長官に限らず、離着任の場合は 「海軍服装令」 第3条第15号の規定によって 「通常礼装」 と定められ、同第10条の規定により夏季の場合の着装法は第二種軍装に同じとされています。 そして、同第3条16号の規定により、これを送迎する者も同じく 「通常礼装」 とされています。

また通常礼装の場合は勲章は、第28条第3号の規定により最上級のもの1個を佩用することとされています。

したがって、映画 「トラ・トラ・トラ」 でのシーンは、昭和14年8月のことですのであの服装で合っていることになります。

もっとも、史実が夏季以外であったならば、衣装さんはその準備などで大変なことになったでしょうが (^_^;


最後の1つは映画 「トラ・トラ・トラ」 の冒頭シーンでも出てこなかったことですが、何かお気づきでしょうか?

そうです 「礼砲」 です。

本来ですと、「海軍礼砲令」 第31条の規定に基づき、司令長官又は司令官たる海軍大将、中将、少将、及び司令官たる海軍大佐に対しては、その着任時及び解職による退艦時に、夫々17、15、13及び11発の礼砲をその麾下の艦何れか1隻により行わなければなりません。

しかしながら、支那事変のため昭和12年8月に 「官房4021号」 をもって同第34条 (戦時事変規定) の規定を適用して、以後我が国文武官に対する礼砲は特令の場合以外は行わないこととされました。 そしてこれがそのまま太平洋戦争まで続くことになります。

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したがって、映画の冒頭シーンは昭和14年のことですので、礼砲が無かったのは正しいことになります。

(逆に言うと、この状況により本来はあるべき礼砲がなかったと言うことを映画をご覧になったどれだけの方々が理解されているか、ということにもなりますが (^_^; )

ついでに申し上げるならば、昭和18年2月には 「官房軍144号」 をもって礼砲令第30条 (戦時規定) を適用して、太平洋戦争中は特令する場合以外は皇礼砲や対外礼砲を初め 「礼砲令」 に定める礼砲の全てを行わないこととされました。

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(この項終わり)

(追記) : 本家サイトの 『海軍法規類集』 コーナーに 「海軍礼砲令」 (大正3年勅令第12号) を追加しました。

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「 旧海軍の 「迎送式」 について (続3) 」 :

「 旧海軍の 「迎送式」 について (続々) 」 :

「 旧海軍の 「迎送式」 について (続) 」 :

「 旧海軍の 「迎送式」 について 」 :

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2014年06月11日

P. Scott 著 『英海軍での50年』 邦訳版

パーシー・スコット海軍中将 ( Admiral Sir Percy Scott, BT. ) は英海軍における近代砲術の生みの親とも称せられる人物として知られていることは皆さんご存じのことと思います。

そのスコット中将の手になる回想録が1912年に出版された 『Fifty Years in the Royal Navy』 です。

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この回想録は近代砲術のみならず英国の近代海軍の発展を知る上で貴重な文献であり、古くからこの方面の研究者の間では良く知られてきたものの一つです。

しかしながら、我が国では戦前においても水交社などからの本書の邦訳版が出されたことはなく、このためもあって、専門の研究者以外ではなかなか読む機会がなかったといえます。

この度、本ブログでも度々ご紹介してきた 「三笠」 研究では第一人者の一人と言っても差し支えないHN 「八坂八郎」 氏によってその邦訳版が私家出版されました。

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氏は 「三笠」 研究のための基礎知識として、関連する当時の文献を幅広く読まれてきており、既にそのうちの2冊の邦訳版を出されています。

このパーシー・スコットの回想録邦訳版はその3冊目になります。

先の本フリマに併せて作られましたが、次のコミケ(8月)でも前2作と共に出品されるようです。

邦訳はこれまでどおり、非常に丁寧で、かつ大変判りやすいものです。 また、写真も前回は残念ながら印刷の都合で少しモアレがかかってしまっていましたが、今回は綺麗な印刷です。

そして装丁はこれまでのような分冊式ではなく、原本と同じ全1冊ものとして製本され、しかも表紙カバー付きの立派なものとなっています。

原著の方は現在では復刻版としていくつかの出版社から出ていますし、また既にネット上でも公開されていますので比較的簡単に手に入れることができます。

しかしながら、やはり日本語で読めるというのは実に有り難いところですので、この方面に関心のある方は、是非入手されて損はないと思います。

もし入手を希望される方がおられましたら、氏のサイトから直接コンタクトをとってみて下さい。


(プロフィール欄からメッセージが送れます。)

それにしても、こうして着実に成果を挙げられていることは賞賛に値しますね。

posted by 桜と錨 at 22:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2014年05月04日

写真集 『列国東洋艦隊』 公開!

本家サイトの今週の更新はすこし大きなコンテンツの追加で、『懐かしの艦影』 コーナーにて明治37年刊行の写真集 『列国東洋艦隊』 全頁の公開です。



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先にお知らせしましたように、本写真集はペン画家の伴義之氏が所有されているもので、この度氏のご厚意によりディジタル化させていただいたものです。

出版の明治37年1月と言えば日露戦争開戦を目前にした時期であり、当時アジアに所在した列国海軍の艦艇が我が国に来訪した際その折々に撮影したものを纏めたものです。

ロシア艦艇を含んで大変に珍しい艦影が収録されており、またこれらの写真で他の出版物で掲載されたものはほとんど無いと思いますので、今日においても貴重なものと言えます。

関西写真製版印刷合資会社からはこの時期に光村利藻氏撮影の写真集 『日本海軍』 及 び『War Vessels of Japan』 が出ており、両者とも既に本家サイトで公開しているところです。

『日本海軍』 :

『War Vessels of Japan』 :

また、前者は近代ディジタルライブラリーでも公開されており、後者は柏書房からの 『極秘日露海戦写真帖』 の中で一緒に復刻されています。

本 『列国東洋艦隊』 はこれら2つの写真集の姉妹編として位置付けられるものですが、現在までのところ他での公開は見当たりませんので、本家サイトが初めてのものとなるはずです。

各艦艇ページは1000x760ピクセルの大きなサイズを基本としておりますので、皆さんにお楽しみいただけるものであると思っています。

こういうものを公開できますことは管理人としても大変に嬉しいことです。 伴義之氏には改めてお礼申し上げます。
posted by 桜と錨 at 12:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2014年04月09日

海自苦心の足跡第5巻 『船務・航海』 (後)

所見の続きです。

3.肝心な術科史は?

最も肝心なことは、ではこの回想集の土台であり本来の本編でもある 「術科史」 はどうするのか、どうなっているのか? と言うことです。

本来この種の回想集は、通史及び術科史の2つを補完するためのものであって、これ単独ではその価値は限定的です。 両者があって始めてその全体像が判り、回想記事個々の内容と位置付けが理解できるのであって、その両者が欠けていては利用の程度も低いものとなってしまいます。

各術科の 「術科史」 の必要性、重要性については第1巻 『射撃』 のご紹介の時に書いておりますので、そちらもご参照ください。

海自苦心の足跡第1巻 『射撃』 :

肝心な海上自衛隊自身は目の前の業務に多忙であり、かつこの様なことについての理解・認識が不充分な官公庁たる組織であっては、これの刊行を期待することはまず不可能でしょう。

それならば、水交会がその海上自衛隊に代わって音戸を取ったらいかがでしょう? 現役時代にそれなりの椅子に座っていた人たちが会の主要な構成メンバーであり、役職に就いているのですから。 そして伝統の継承や、普及啓蒙を掲げる “公益” 法人であるならば、その責任の一端も十分にあると思います。

繰り返しますが、術科史があって初めてこの回想集が役に立ち、そして活きて来るのです。


4.これで良いの?

最後に、この回想集とは直接関係がありませんが、「術科史」 について触れましたので、ついでに。

驚いたことに、この回想集のとある記事の中に次の様な事が出てきます。

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何とバカなことをする組織なのか、と憤りを感じます。

そこで出てくる M 事件に限らず、海上自衛隊は事あるごとにその時の当事者達に都合の悪いものは全て処分されてきました。

それでなくとも、それぞれの業務の当事者達は、自分の目先の業務に関係のない古い資料などはどんどん整理してきました。 保管の場所も手間暇も無いからと言うのがその理由であり、歴史・経緯の根拠史料としての価値などを考慮する余裕もなく、単にその時の当事者にとっては不用であり、スペース的も邪魔だったからです。

そういう体質です。 まさに海上自衛隊についてよく言われる 「自分の足跡を自分で消しながら歩く組織」 ということです。

したがって、平成12年防衛庁 (当時) の六本木から市ヶ谷への移転時、そして秘密保護関連諸規則の改正や今次の 「特定秘密の保護に関する法律」 制定などに絡んで、多くの貴重な根拠資料が失われてしまったのではないかと、危惧の念を抱かずにはいられないのですが ・・・・ ?

かつて50年史編纂の時に、これを担当していた同期のM君がある時私に言ったことがあります。

「 桜と錨よ、海上自衛隊はたった50年の歴史なのに、何にも資料が残っていないぞ。 これで年史を作れと言うんだからなぁ 」

国家組織たる海上自衛隊は、その歴史・経緯についての元資料をキチンと保存して後世に残す責任があります。 そして例えば当時は秘密に関わるものであったとしても、時期を観てそれを整理して順次国民に説明する責任があるはずです。

このことについて、かつて海上自衛隊においてその要職を占め、その運営と育成に責任を負ってきた方々は一体どう思っておられるのでしょうか。 一度キチンとしたその見解をお聞きしたいものです。

一例を挙げれば、海上自衛隊は創設50周年の時、『海上自衛隊25年史』 と新たに作製した 『海上自衛隊50年史』 をディジタル化したものをDVDに入れ、元海将達の集まりである 「木曜会」 のメンバー総員に配布しました。

これについては次の記事をご覧ください。

「海上自衛隊年史」 :

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にも関わらず、なぜいまだにこの様な、そして秘密でも何でもないレベルの通史を、海上自衛隊は一般には公開しないのでしょうか? (しかもHTML形式になっているにもかかわらず。)

本第5巻においてさえ、両年史からの抜粋記事などが含まれていますが、これら両年史が手軽に参照できる状況にさえなっていれば、わざわざ掲載する必要はないはずです。

水交会はなぜそれを海上自衛隊に働きかけないのでしょうか? 少なくともこの2つの公的な年史が読めるだけでも、海上自衛隊の歴史・経緯がよく判ると共に、国民一般に対する説明責任の一端を果たせるはずです。

そして、これにより本回想集に描かれた 「苦心の足跡」 をより理解してもらえ、そして本来の意義が達成されるようになると思うのですが ・・・・

(この項終わり)

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海自苦心の足跡第5巻 『船務・航海』 (中) :

海自苦心の足跡第5巻 『船務・航海』 (前) :

posted by 桜と錨 at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2014年04月07日

海自苦心の足跡第5巻 『船務・航海』 (中)

既に申し上げました様に、本回想集は大変に素晴らしいものです。 それは間違いありません。

したがって、以下のことはそれを踏まえての所見であることをお断りいたします。


1.回想集は回想集

非常に細かな項目分けに合わせて当事者達の多数の回想が網羅されてることは既にお話ししたとおりですが、しかしながら如何に分厚いものであっても回想集はあくまでも回想集であり、それ以上のものでも以下のものでもありません。

当然ながらそこで述べられているのは当事者個々人の回想・所見であり、海上自衛隊としての公式見解でもなければ、根拠ある客観的評価が加えられたものでもありません。

また各細部項目に従って個々人が従事し、あるいは見聞きしてきた範囲のことが綴られていますので、当該事項についての全体像はこの回想集からだけで解りません。

いわば断片的な個々人の回想短編 (1編平均6500〜7000字程度) の集合体であって、全体を通して海上自衛隊の通史を構成するものではありませんし、当該術科の術科史になるものでもありません。

その一方で、例えば、この回想集のベースとなるべき海上自衛隊の公式記録の 『海上自衛隊25年史』 も 『海上自衛隊50年史』 もいまだに一般には公開されていませんし、かつ現役の海自隊員でさえ近くにあって気軽に参照できるような状況にはありません。

また肝心な術科史はいまだに海上自衛隊からも水交会からも出ておりません。

したがって断片的な個々の回想記を読むだけでは、各項目についての全体像が解るわけではありません。 各回想記の内容は “解る人には解る” ということになります。

まあこれは本シリーズが回想集である以上致し方のないことろです。 が、それだけに次のことが気になります。


2.誰のための回想集か

ではこの回想集は、読者として一体誰を対象とするものなのでしょうか? 一般の人々? 現役及び次世代の海上自衛官?

本シリーズは、市販という形を採っていませんし、かつ水交会の公式HPでも本シリーズについては一切触れられておりません。

また海自の各術科の実際・実態を知らない人には読んでも解らない (多分) という内容のものであることから、一般の方々向けでないことは明らかです。

もちろん、一部の研究家と言われる人達、あるいはこの方面に関心を持っている人達には喜ばれるかもしれませんが。

しかしながら、全体像の実際・実態を知らない、解らない人達が読むと、反って誤解を与えることになるおそれもあります。

もちろんそれは水交会としては本シリーズ刊行の目的と対象が違うので与り知らぬところ、と言うことでしょうが。

では、後に続く若い後輩達、あるいは次の世代の海上自衛官向けなのでしょうか?

確かにシリーズ序言において、次の様にされています。

「 現役諸君への世代を超えた先人の教訓、あるいは助言を伝えることに重きを置くものであります。」

しかしながら、刊行の仕方を考えると、少なくとも一般の海上自衛官向けのものでもありません。 それぞれの術科の専門でそれなりの過去の経緯について知識がない限り、十分には理解できないでしょうから。

“ふ〜ん昔はそんなこともあったんだ〜” “苦労したと言われても、そんな古いことは今の業務に直接繋がらないからねぇ” で終わってしまう可能性があるように思われます。

結局のところ、肝心な通史や術科史の欠落により、この回想集を読んで書かれていることが理解できるのは、執筆者や同時期に同じ分野を経験したり見聞きしたことのある、ほぼ同世代、又はそれに近い海上自衛官及びOBだけ、ということになるのでは?

それに例え水交会会員にしたところで、これだけのものを皆が皆気安く購入できるものではありませんし、また “いまさら” と思うOBも多いかもしれません。

とすると、実のところ、本回想集は “刊行した” “OBとして残すものは残した” という水交会に集う海自OBの人達の自己満足、昔を懐かしむためのネタ、で終わってしまうおそれが出てくるのではないかと大いに危惧されるところです。

水交会自身が、それでもいいんだ、というならそれはそれでもいいのでしょうが ・・・・ それでは折角のこの様な大作が少々もったいないでしょう。


私に言わせて貰うならば、少なくとも刊行・配布のやり方にもう少し工夫が必要であるような気がします。

それとも、例えば海自部内にはペーパーバックのような手軽なものが別途多数配布されるのでしょうか?

現役の後輩達や後に続く世代の者達がいつでも気軽に読める様に。 しかも一度限りの配布で終わるのではなく。

また「航海」 編については操艦・運用に関係しますので、若い後輩達でも手軽に読めるようにDVDにしたとされています。

しかしながら、実際問題としてどれだけ彼らの身近に長い間存在し得るのか? これまでの海上自衛隊における状況からすれば、例え部隊・機関に広く配布されたとしても、数年保てば良い方では。

しかも隊内での私物パソコン禁止となった現在、いつでも読める様にするためには自由にコピーしていいと言うことなのでしょうか? あるいは部内での活用については海上自衛隊自身の問題なので、ということでしょうか?
(続く)

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海自苦心の足跡第5巻 『船務・航海』 (後) :

海自苦心の足跡第5巻 『船務・航海』 (前) :

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2014年04月03日

海自苦心の足跡第5巻 『船務・航海』 (前)

予定より遅れに遅れていた水交会編 「海上自衛隊 苦心の足跡」 シリーズの第5巻 『船務・航海 (C4ISR を含む)』 がこの度やっと刊行されました。

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私も依頼されて一文を投稿しましたので、原稿代替わりとしていただき、面白そうなところの拾い読みを始めたところです。

このシリーズは各術科ごとに分けて、これまでに第1巻 『射撃』 を筆頭に、『回転翼』 『掃海』 『水雷』 の4巻が出ておりますが、今回はそれら各巻の倍以上の分量で、このため箱入り2分冊となっております。

この第5巻の大項目は以下のとおりです。

   第1分冊 : 「船務」 編、「指揮統制」 編
   第2分冊 : 「電子戦」 編、「通信」 編、「情報」 編、「航海」 編

更にこの内の 「航海」 編は全頁がPDF版としてDVDに収録され、第2分冊に添付されています。

内容の形式はこれまでのものと同じで、細分された項目毎に関係者の当時の回想が収録されています。

しかし今回はカバー範囲が広いだけに、全部で約260編、執筆者約180名という膨大なものとなり、このため頁数も実に第1分冊670頁、第2分冊約630頁の合計約1300頁となっています。

しかも、厚い表紙カバーによる豪華製本であるため、非常に重厚なものとなっており、ちょっと気軽に手にとってペラペラというわけにはいきません。 ベットで寝ころんで読むにも (^_^;

収録されている回想集は、一部旧海軍時代のものも含み、海自創設期からの50年間を中心にしており、それぞれが当時の直接の当事者達の手になるだけに貴重であり、今まで一般どころか海自部内でもあまり知られていなかったような内容が数多く含まれています。

( もちろん秘密にわたる事項や、いまだに話せないことなどには触れられていないことは申し上げるまでもないことです。)

細部の項目分けも体系的に解りやすい形でなされており、大変に立派な回想集に仕上がっています。

編纂に当たった人達は皆海自OBであり、元々がこの種の作業には不慣れであることをも考えると、まさに水交会が水交会たる面目躍如、というところでしょう。

この点は素直に評価して良いと思います。 良くできた回想集です。

また海自の術科に関してこれに類するもので、市販のものも含めて刊行された例は他にありませんので、この方面に興味のある方は入手されて決して損のないものです。

・・・・ で、これで終わっては私のブログにはなりませんので、少々辛口の所見を次に (^_^)
(続く)

★   ★   ★   ★   ★   ★   ★

ご来訪の皆さんの中で本回想集の入手を希望される方がおられましたら、水交会に連絡を入れてみてください。 まだ刊行されたばかりですから、十分に購入可能なはずです。 多分、会員又は海自関係者の紹介を求められるかもしれませんが (^_^;

    連作先 : 東京都渋谷区神宮前1−5−3
            公益財団法人 水交会
            電話 03−3403−1491 (代)
            HP http://suikoukai-jp.com/

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海自苦心の足跡第5巻 『船務・航海』 (中) :

海自苦心の足跡第5巻 『船務・航海』 (後) :

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2014年03月28日

写真集 『列国東洋艦隊』

ひょんな事からお付き合いをいただくようになりましたペン画家の伴義之氏から写真集 『列国東洋艦隊』 をお借りすることができました。

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本写真集は明治37年に関西写真製版印刷合資会社より出版されたもので、日本に来航した外国艦艇55隻を49ページに収めたものです。

FE_fleet_014_s.jpg

全て神戸、横浜や長崎などに来航時に撮影されたもので、また中には珍しい艦影も含まれて、大変に貴重な写真集と言えるでしょう。

関西写真製版印刷といえば写真家光村利藻氏が主催する光村印刷 (株) の前身であり、同社からは本家サイトの方でも既に公開している写真集 『日本海軍』 及び 『War Vessels of Japan』 が出版されているところで、本写真集はその姉妹編に位置付けられるものです。

『日本海軍』 :

『War Vessels of Japan』 :

これらは近代ディジタルライブラリーでも公開されていますが、本写真集はまだありません。

嬉しいことに氏からはディジタル化後に本家サイトでの公開の承諾もいただいておりますので、準備出来次第皆さんにご披露したいと思います。 お楽しみに。


なお、ここにご来訪いただく方々ならよくご存じでしょうが、伴義之氏は多くの艦船・航空機のペン画を手がけられており、なかなかの作風をお持ちです。 海上自衛隊の観艦式のパンフレットなどでもその表紙を飾るほどですので、その実力は確かなものかと。

FleetReview_2002_Panph_cover_s.jpg

また野鳥や猫など得意とされる分野も幅広く、それらの作品の展示会も毎年のように催されていて、今年も開催予定とのこと。

氏のサイトは次のところです。 こちらも是非一度お尋ね下さい。

『挿絵展示館』 :

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2014年03月16日

『海軍電気技術史 第5部』 公開

本家サイトの今週の更新として、『史料展示室』 コーナーにおいて公開中の 『海軍電気技術史』 に第5部全文をPDFファイルにて追加しました。

nav_elec_his_part5_cover.jpg


第5部はある意味で本技術史のメインと言えるもので、電波探信儀や無線通信機などの電波関係が主体です。

特に電波探信儀や無線通信機についての開発経緯などは、大変に興味深い内容が含まれており、旧海軍におけるこの方面の技術史の原点と言っても間違いのないものです。

一般刊行物などでも語られることのなかった事項も沢山含まれております。 十分にお楽しみいただけると思います。

さて、本技術史の公開もあと第6部を残すのみとなりましたが、これはもうしばらくお待ち下さい。


旧海軍の電波探信儀については、まだまだ語られていないところが多いですが、本技術史の開発経緯については、その原理・構造などを併せて見てみると、更にその内容がより良く判るでしょう。

これについては、例えば旧海軍史料には次の様なものも残されていますが、これを始め各電波探信儀についての史料を基にして、何れ機会をみてお話しして行きたいと思っています。

IJN_Radar_cover_s.jpg

posted by 桜と錨 at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2014年03月09日

昨日は講演

既に何度かご紹介しました 『日本銃砲史学会』 さんですが、今回同学会の3月例会にてお話しをさせていただきました。

創設50周年記念としての会報誌 『銃砲史研究』 への黛治夫氏の論文再録に併せて、私がその解題を書かせていただいたことがご縁での今回の機会です。

ただ、会員の皆さんは銃砲については大変に詳しい方々ばかりですが、海の上のことについては普段あまり馴染みのない方が多いとお聞きしておりましたので、いきなり艦砲射撃などの専門的なことをお話ししてもと思い、予め事務局の了承を得て今回は失礼ながら大変に基礎的なお話しとさせていただきました。

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皆さんにどれだけご理解いただけたかは解りませんが、海戦や艦砲射撃について関心を持っていただけた反応は十分に感じることができました。

引き続いて会場の早稲田近くで懇親会、そして高田馬場へ移動して二次会。 もう大変に和やかかつワイワイで、新参の私にとっても楽しい時間を過ごすことができました。 13時から始まった例会ですが、家に帰り着いたのは何とか日付が替わる前 (^_^)

この場ではありますが、事務局及び会員の皆さんにお礼申し上げます。

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本家サイトの今週の更新

本家サイトの今週の更新は、本ブログで5回に分けて連載しました 『魚雷は真っ直ぐ走りません』 を纏め直し、「水雷の話題あれこれ」 コーナーの第4話として掲載いたしました。


本話題の切っ掛けである某巨大掲示板での議論において、常連さんの一人が複数魚雷搭載の航空機においては “欧米・独・日” において 「同時投下が原則」 と主張された上に、そのような原則はないとの反論に対して “理解できない” とか “考えられない” などと言い切っておられます。

更には過去の搭載機の 「マニュアルに書かれている」 と主張されましたが、結局のところ原則の主張についても、マニュアルについも、「同時投下」 がどの様な文書にどの様に記載されているのかの確たる根拠を明らかにしないままで終わってしまいました。

既に当該議論はスレッドから流れて過去ログに収納されてしまったようです。 誤った内容がそのままになってしまうのはネット情報の今後としても好ましくありませんので、本家サイトにおいても改めて発信するとともに、あまり語られることのない魚雷の特性についてキチンと残しておきたいと思います。

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2014年02月26日

魚雷は真っ直ぐには走りません (補)


今回のお話しの切っ掛けとなった某巨大掲示板での元々の議論である、航空魚雷の複数本搭載の場合の発射法について、少し付言してみます。


1.用兵者の要求

航空機に複数本の魚雷を搭載する場合の発射 (投下) 法ですが、まさに元々の質問者の疑問にあるとおり次の3つがあります。

  (1) 複数本 (全てあるいは選択した複数本) 同時発射
  (2) 設定した秒時間隔で連続発射
  (3) 選択したものを単発発射

そして複数本が搭載可能ならば、その使用法は、戦術状況 (敵及び我の状況、対勢、天候、昼夜など) やその国の戦術思想、機体・魚雷の性能・制約などにより変わってきますので、それに関連して必然的に3つの発射法はどれもが必要です。

したがって、用兵者側からする運用・戦術的な要求からは、航空機として3つの方法から柔軟に選択して使用できる構造・機能になっていることが求められます。

もちろんこれは魚雷だけのことではなく、爆弾やロケット弾、照明弾など搭載可能兵器の種類すべてについて同じことが言えます。

ですから搭載する兵器それぞれについて、その時その時の状況に応じてどの様なことが可能なのか、どの様な使用法が効果的なのか、の “標準” を決めることも先にお話しした 「用法」 に含まれます。 というか、これが最も肝心なことです。

つまり複数本の搭載魚雷の使用法として “同時投下が原則” などという決まり切ったものは無い、と言うか、決めてしまうことはあり得ない、と言うことです。


2.航空機の例

某巨大掲示板にて例示された航空機でご説明すると、

(1) 米海軍機

AM-1/1-Q、XTB2D-1、AD-1/4 などの米海軍機は、スイッチ類の切替/レバー操作により、基本的に上記の3つの発射方法を備えるようにしています。

例えば AM-1/1-Q の場合では次の様になっています。

AM-1_photo_12_s.jpg   AM-1_photo_04_s.jpg
( 元画像 : 米海軍公式写真より )

AM-1_cockpit_01.jpg
AM-1_cockpit_02.jpg
( 元画像 : 米海軍 「AN 01-35EF-1」 より )

また、「Naval Fighters Number 24, Martin AM-1/1-Q Mauler」 (Bob Kowalski、1994) では次のように記述されていますが、これが3本の魚雷の 「同時投下」 を意味するものでないことはもちろんのことです。

AM-1_trials_01_s.jpg
( 元画像 : 同書より )

(2) 米陸軍機

A-26B/C の例が出ておりましたが、この機体は後から魚雷が搭載できる様に改修されたもので、爆弾倉の中に2本の魚雷が搭載可能です。

しかしながら、爆弾と異なり魚雷搭載の場合は機構的に2本の同時投下 (salvo) は出来ない仕組みになっています。 即ち連続投下か単発投下です。

A-26_p000_s.jpg

A-26_p091_s.jpg
( 元画像 : 米陸軍 「AN 01-40AJ-1」 より )

ただ海軍機と異なり、この機種の場合はむしろ特殊な例といえるでしょう。

(3) ドイツ機

私は航空機が専門ではありませんが、He-111 では写真を見ても明らかなように、“少なくとも” 1本ずつ投下できる機構になっていることが判ります。

He-111_torp_01_s.jpg
( 元画像 : Wikipedia commons より )


2.戦 例

(1) 旧海軍

旧海軍における東港航空隊の九七式大艇による場合は、先の 「用法」 のページでご紹介したとおりであり、2本搭載して単発発射した実戦例が2回あるのみで、同時発射の例は皆無です。


(2) ドイツ

ドイツの戦例として、1944年5月11日に地中海で UGS40 船団に対して Ju88 の編隊が雷撃を行った例を取り上げて、

  総数 62機、被撃墜 16機、発射雷数 91本

が記録されており、これをもって射点に付いた46機が各機2本同時投下している “可能性が高い” と言う人がいます。

しかしながら、被撃墜の16機中には発射後のものがあるかもしれませんし、ましてや各機の射法等が不明であっては、普通ならばこのデータのみをもってそのようなことは判断できないことです。


以上のことを総合すると、

魚雷の複数本搭載について、いずれの国についても、また用兵上、機体別、戦例の全ての面において、「同時投下が原則」 ということを示すものは一切提示されていない、と言えます。

反対に、全ての面についてそのような決まり切った 「原則」 は無いことを示しております。

もし複数本搭載についての何某かの 「原則」 があるとするならば、むしろそれは

航空機には3つの投下法のどれでも選択して使用できる構造・機能を持たせ、用兵者は 「用法」 に従ってその3つの方法からその時その時の戦術状況に応じた最適な投下法を選択する。

ということです。
(この項終わり)

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2014年02月25日

魚雷は真っ直ぐには走りません (後)


3.航空機 (飛行艇) の場合

Type_91_Torp_draw_01_s_mod.jpg
( 九一式魚雷の構造詳細図 )

さて、では航空魚雷の場合はどうなのでしょうか? 水上艦艇はともかくとして、潜水艦の場合よりも触雷の可能性は低いのでしょうか?

まず空中雷道を考えてみて下さい。 魚雷を左右の翼下に並行に吊下して同時投下するとしても、着水まで雷道上左右0.5度の狂いもなく、かつ雷道曲線と全く同じ姿勢で着水可能でしょうか? そして全く同一の射入雷道となることは可能でしょうか?

その様なことは全くあり得ないことは容易にお判りいただけるでしょう。

九一式魚雷では、空中雷道において魚雷の姿勢が落下する雷道の切線に近くなる様に、次の様な 「框板」 と呼ばれる木製のものを尾部に装着していました。

Type_91_Torp_02_s.jpg
( 元画像 : 「海軍水雷史」 より )

この魚雷の姿勢が安定することにより、射入時に適切な落角となるような母機の機速と投下高度の範囲を求めることが出来る様になりました。

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( 同 上 )

これに基づき、九七式大艇の場合、開戦直前の東港空の戦闘準則では、全速にて距離3000mから雷撃コースに入り、高度100m、射距離1000mで九一式魚雷を投下することと規定されていました。

ただし、この框板のアイデアは必ずしも旧海軍ばかりではなく、例えば米海軍でも同じように考えており、 Mk-13 魚雷でも下図の様な木製の Stabilizer が付けられています。

USN_Mk-13_Torp_01.jpg
( 元画像 : 米海軍資料より )

( 高速着水時の衝撃を緩和するために木製の Drag Ring が付けられていますが、九一式魚雷の場合は頭部を10ミリ厚のゴム被帽で覆っています。)

しかしこれよって空中雷道における魚雷の振れや揺れを減少させることはできますが、ゼロにはすることができないことは申し上げるまでもありません。

次ぎに問題なのは、水上艦艇や潜水艦に比べれば遥かに高速で海面に射入し、急激な減速と姿勢の変化をもたらします。 これが、水上艦艇や潜水艦からの発射に比べて雷道の不安定、不規則な運動なります。

例えば、空中雷道における魚雷の縦軸方位が雷道より0.5度でも左右にずれるならば、高速での着水時にこれによって屈曲度が生じます。

また、航空魚雷の場合は縦舵機のジャイロが投下直後に発動するようになっていますので、投下時からジャイロの整定までのタイムラグによっては投下方位 (射線) との方位誤差となります。

要するに、せいぜいが数mの狭い装備間隔で複数の魚雷を同時投下すると、水上艦艇や潜水艦と比べて触雷の可能性が低いと考えられる点は何も有りません。 むしろその逆で、発生の可能性は高いと見るべきであることを表しています。

ですから、旧海軍では九七式大艇においてこれの有無も含めた用法実験・研究を行っていたのです。 残念ながら開戦により中断され、結局データは得られませんでしたが。


なお、航空魚雷の空中雷道の問題は、『航空魚雷ノート』 (九一会編、昭和60年、非売品) 中に当時の九一式魚雷の開発関係者によって詳しく説明されていますので、興味のある方はそちらをご参照下さい。

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( 「航空魚雷ノート」 表紙 )


ところで、旧海軍の航空魚雷及びその射法の発達についてはその公式記録である 『帝国海軍水雷術史』 に詳細に残されているところです。

IJN_torp-his_cover_s.jpg

要約するならば、

大正6年に 「ショート式水上機」 により 「朱式三十六糎魚雷」 を使用して初めて発射実験に成功し、以後航空雷撃の研究が進み、そして大正11年になって魚雷教練発射が始まりました。

大正13年に 「一三式艦上攻撃機」 により初めて3機編隊の発射訓練を行い、次いで15年には水上部隊との協同による 「鳳翔」 飛行機隊による応用教練発射が成功裏に実施され、これにより航空機による雷撃が艦隊の戦力の一部として研究が促進されることになります。

ただし、使用する魚雷は 「九一式魚雷」 が現れるまでは水上艦艇用の魚雷を改造したものであり、昭和年代に入ってもまだ 「四四式魚雷二号」 を改造したものが航空魚雷として使用されていました。 また、航空機は単発搭載であり、複数本搭載は将来構想としてはともかく、これの用法などについては現場においては全く頭にありませんでした。

そして、専用の航空魚雷である 「九一式魚雷」 が開発されたのは昭和7年12月であり、大型機への複数魚雷の搭載が実現したのは昭和13年1月制式採用された 「九七式大艇」 が初めてのことです。

これにより横浜航空隊において九七式大艇による九一式魚雷の 「用法」 の実験・研究が始まったわけですが、その途中で開戦を迎えたことは既にお話ししてきたとおりです。

つまり、旧海軍の航空魚雷においてはそもそも 「触雷」 が問題となるような状況・段階には至っていないのであり、ましてや航空魚雷の複数本装備時の用法において “同時投下が原則” などが出てくるわけがありません。

某巨大掲示板でこれを主張された人は、何か 「複数本搭載 = 同時投下」 であると勘違いをしているか、あるいは 「用法」 というものを理解していないためと考えられます。


さて、これにて今回のお話しは一応終わりですが、某巨大掲示板をご覧になっている方にもこちらにご来訪いただいているようですので、次回は補足として当該議論についての私の見解を纏めて見たいと思います。
(この項続く)

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2014年02月21日

魚雷は真っ直ぐには走りません (中)


2.潜水艦の場合

水上艦艇と異なり、潜水艦の場合はいつ頃から旧海軍においてこの 「触雷」 が問題視され始めたのかはよく判りません。

しかしながら、潜水艦においてもこの問題の解明と対策が重要な事項とされていたことは残された各種史料からもハッキリしています。

これら内、特に今井賢二海軍大尉 (当時、兵67期) が海軍潜水学校の高等科学生時代に研究した史料 (以下 「今井史料」 という) は大変に貴重なものであり、幸いにしてこの問題の詳細について知ることができます。

特にこの今井史料により、九五式魚雷改二においても、旧海軍はきちんとした研究とその対策が進められていたことが判ります。


潜水艦の場合は、水上艦艇による雷撃に比べると雷道に影響を与える要素はかなり緩くなります。

  1.空中雷道がない
  2.発射母体たる潜水艦は低速 ( 発射時最大 4ノット )

ところがそれでも触雷が発生するのです。

その原因については今井史料の中で前後触雷、左右触雷、上下触雷に分けて詳しく解析がなされています。

imai_shokurai_01_s.jpg
( 今井史料より )

この研究により、例えば、斜進角無し (発射進路=魚雷針路) の場合で左右触雷発生の確率からする左右距離間隔は次のとおりです。

sub_torp_shokurai_01_s.jpg
( 同 上 )

この表で、触雷確率をほぼゼロとするには駛走距離300の時に10.8m、同3000mの時に67.1m以上の横距離がなければなりません。

そして、それらの横距離を取るためにはためには、発射時の開角によって魚雷どうしが離れるようにする必要がありますが、その必要となる開角は次表のとおりです。

sub_torp_shokurai_02_s.jpg
( 同 上 )

つまり、ほぼ横方向における触雷の確率をほぼゼロとするためには、駛走距離300mの時に2.1度、同3000mの時には1.27度以上が必要ということになります。

同様にして、上下、前後についても触雷が生起しないための発射諸元が求められており、これらを総合した対策及び発射管の発射順序、発射時隔、開角などについての射法案が示されています。

この様に、旧海軍では潜水艦においても 「触雷」 が発生することを把握しており、そしてその対策が研究され、講じられていたということです。
(続く)

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次 : 「魚雷は真っ直ぐには走りません (後) 」

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2014年02月20日

魚雷は真っ直ぐには走りません (前)


先に某巨大掲示板であった議論に関連して旧海軍・海上自衛隊における 「用法」 という専門用語についてお話ししましたが、もう一つあります。 それが魚雷の 「触雷」 ということについてです。

もちろん、ここで話題にするのは一般的に言われる艦船に魚雷や機雷が当たることではありません。

雷撃において複数本の魚雷を発射した時に、前後左右の隣接魚雷どうしが接触することで、これも 「触雷」 という用語を使います。 当初は 「魚雷触衝」 と言っておりましたが、その後「触雷」となったものです。

某巨大掲示板でも、常連さんを含めて魚雷のスペックなどのことについてはご存じなのでしょうが、この魚雷を使用する上での特性・性質や発射法・雷撃法という用法上の重要な要素については、案外ご存じないようです。

もちろん、これらについては一般刊行物などにはほとんど出てきませんし、たまたま残された旧海軍史料を見る機会があっても、その内容が判らないというか、関心が無い様に思います。

例えば、本家サイトでも順次公開を始めております、旧海軍が公的に編纂した 『帝国海軍水雷術史』 という極めて貴重な史料が残されていますが、戦後関係者が纏めた 『海軍水雷術史』 (同編纂会編、非売品) を始めとして、一般刊行物においてこれが活用されたものを今まで見たことがありません。

ですから、ごく一般の方々にとっては、複数本の魚雷を搭載した時には “同時発射しても大した問題はないのでは” という思い込みになるのでしょう。

そこで表題の 「魚雷は真っ直ぐには走りません」 ということを理解していただくことになります。


魚雷の特質について予備知識の無い方は、本家サイトの 『水雷講堂』 中の 『水雷の話題あれこれ』 コーナーに次の記事がりますので、先にこちらをお読み下さい。

『 第1話 魚雷戦の基礎 』 :

この記事中の 『魚雷発射法』 の項で雷道についてごく簡単に説明しております。

魚雷の雷道は、上下 (縦) 方向と左右 (横) 方向に分けて論じられますが、最も重要なのはもちろん縦方向です。 なぜならば、この縦方向の雷道が魚雷が “ちゃんと走る” かどうかの指標になるからです。

raidou_01_s.jpg

魚雷は基本的にジャイロ及び深度機を内蔵していますので、予め設定された深度を、発射時の方位を真っ直ぐ進むか、射入後に予め設定された斜進角だけ変針してから真っ直ぐ進むようになっています。

ではなぜ 「触雷」 が起きるのでしょう?

これは、発射後に一定針路を一定深度で進む 「安定雷道」 (駛走雷道) になるまでの「空中雷道」や「射入雷道」では、極めて複雑な運動をするからなのです。

もちろん駛走雷道でも厳密には真っ直ぐ走るわけではありませんが、雷道に偏差 (誤差) を及ぼす要素はこれ以前の雷道と比べると少ないと言えます。

とは言っても、駛走雷道においても、例えば射線と個々の魚雷の縦舵機とに角度誤差があれば、それがそのまま偏差となって現れてくることは言うまでもありません。


射線に対する魚雷の偏差というのは、様々な要素によって発生します。 上に示した縦面のみならず、横面でも同じです。

下図は、横面における偏差の現れ方を示したものですが、魚雷の様々な要素によって発生する誤差によって図の様に偏差の表れ方が異なり、これらが全て合わさった複雑な偏差となってくるということです。

Torp_hensa_01_s.jpg

要は、射線、あるいは発射方位に一定速度で 「魚雷は真っ直ぐには走りません 」 ということであり、しかもそれは同時又は連続発射した魚雷の1発1発で異なってくるということです。 ですから 「触雷」 の問題が起きるのです。

以下、水上艦艇、潜水艦、航空機の発射母体別にもう少し詳しくお話しします。


1.水上艦艇の場合

まず水上艦艇の場合からお話しします。

触雷の問題が表面化したのは、大正8年頃から大正15年にかけて旧海軍における雷撃法の理論面が発達し、これに基づく射法の研究が進んでからです。

当初は、各艦において全射線発射を行うようになったことにより、次いで水雷戦隊において編隊統一射法が普及したことにより、この問題が大きく採り上げられることになりました。

この編隊統一射法の基本は、水雷戦隊が編隊のままで目標と反対舷に回頭しながら順に次々と各艦が射法計画にしたがって整斉と魚雷を発射していく方法です。
この時、各艦は一斉発動装置により縦舵機を一斉に発動した後、各発射機から発射することになりますが、そこで問題となったのが、発射機の隣接する魚雷どころか異なる発射機で発射した魚雷どうしでも触雷が発生することになりました。

この問題の解明と対策を講じるために昭和3〜4年に大々的な実験を行ったのです。

詳細は省きますが、結論は直進発射、回頭発射にかかわらず、発射する魚雷は発射時点において 隣接魚雷と最小限20メートル以上、触雷が生起しないことを十分に期待するには25メートル以上 離れていなければならない、ということです。

というのも、水雷艦艇においては魚雷は艦首尾線に対して横方向に発射するため、発射された魚雷が着水時にその頭部を艦尾側に振れる (これを「屈曲度」と言います) ことにより、設定された針路に戻すための急激な横方向の運動 (と速力の低減) となることが大きな原因となります。

raidou_02_s.jpg

これに基づき、「特型」 駆逐艦以降において連続発射する場合、発射時の艦速を35ノットとして、9射線の場合は1.5秒間隔、8射線の場合は2.0秒間隔 とされたのです。

そして、これに基づいて射法計画が改善されたにもかかわらず、触雷を完全に無くすことはできていません。 例えば、昭和14年の教練発射ではまだ発射総数の約3%で発生しています。

魚雷の駛走状況は1本1本その時その時で異なりますので、それくらいこの触雷という問題は複雑で根が深いということです。
(本項続く)

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前 : 「 用法 」 について

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2014年02月17日

「用法」 について

某巨大掲示板にて航空魚雷の複数本搭載時の発射法について議論が交わされておりました。

その中でフッと気になったことがあります。 それは 「用法」 という言葉が出てきましたが、どうも常連さん達も含めてこの言葉の意味が判っていない人が多い様です。

ここにご来訪の皆さんならご承知のことと思いますが、旧海軍及び現在の海上自衛隊には 「用法」 という専門用語があります。

これは、艦船や航空機自体を始めとする武器・装備の機構的な “操作法” “使用法”、あるいは単なる物理的な “使い方” “扱い方” のことではありません。

それらを含み、性能、制限・制約、そして場合によっては要員や整備、補給などの後方支援についても、関係するあらゆる要素を検討・検証し、それに基づいて様々な戦術的状況下における最適な使用法や運用法の標準、基準を決めること、あるいはその決めたもののことを言います。

例えば 「〇〇型イージス護衛艦の用法」 や 「〇〇式機雷の用法」 などといった具合にです。

当該掲示板での例で言いますと、航空機に複数本の魚雷が搭載できるようになったとしても、それは単に “物理的” にそうなっているということに過ぎません。

複数本搭載できるならば、当然それを全て一斉に同時発射するのか、あるいは単発ずつ発射するのかの選択肢が出てきます。 あるいは常に全数搭載するのか、状況によっては単発なのか、ということもあります。

ですからこれを実戦においてどの様に搭載し、どの様に発射すれば最も効果的なのか。 上記の様々な要素を検討、検証して最終的にこれを決めるのが 「用法」 です。

複数魚雷の同時発射であるならば、当然魚雷が水中に入って駛走を始めた時に必然的に発生する雷道の誤差によって、魚雷どうしが接触してしまう 「触雷」 の可能性が出てきます。

また、雷撃法からすると、複数本が同時に命中するならばその効果は単発よりは高いでしょう。 しかし反対に見越などに少しでも誤差があれば命中せず、複数本とも無駄になってしまいます。

その一方で、単発発射であるならば、少なくとも1発は命中させ得る確率が高くなります。 この場合、時間差を持たせて1回の攻撃で複数本を発射するのか、攻撃回数を複数回にするのかも考えなければなりません。

1回の攻撃の場合は、どのタイミングでどの程度の時間差での発射が最適なのか、そして両翼に懸架している場合の発射後の母機のバランスなどの問題も出てきます。 複数回攻撃の場合は、当然その都度対空砲火による被害の可能性が出てきます。

また、それぞれの発射法について、単機攻撃の場合と複数機の場合、後者は編隊か異方向同時なのかなども、戦術状況に応じて最適な方法を決めなければなりません。

以上のことは、実際に実験を繰り返してデータを収集しつつ、一つ一つ解決しなければなりません。 場合によっては機体やその装備、あるいは魚雷そのものに改善・改良を必要とする場合も出てくるでしょう。

これらのこと全てを網羅した結論が 「用法」 であり、この出来上がった用法に基づいて部隊が教育訓練を重ねて、初めて艦船・航空機や武器、装備品を実戦の役に立たせることができるようになります。

魚雷を複数本搭載可能になったから、あるいはイージス艦を建造したから、と言ってそれだけで実戦力になる、というような単純な話しではない、ということです。


旧海軍の場合は、九七式大艇で初めて2本の魚雷が搭載可能になりましたが、横浜海軍航空隊においてこの用法の実験中に太平洋戦争が始まってしまいました。

このため、これの用法については旧海軍として決められないまま、横浜及び東港の各航空隊において、それぞれでその時その時に判断した方法でやっていたと考えられます。

東港空は、開戦直前に横浜空の実験中の様子を参考にして見よう見まねで同空の 「戦闘準則」 に雷撃法を追加しております。

これについては本ブログで連載中の日辻常雄氏の回想録 『大空への追想』 でこの後出てきますが、雷撃態勢などについては書かれているものの、魚雷の発射法については残念ながらありません。 そしてこれが開戦以降もそのままであったかどうかも判りません。

したがって “同時投下が原則” などという 「用法」 は旧海軍として存在しなかったことは確かです。


その開戦早々の大艇による雷撃の実戦例としては、既に 『大空への追想』 でも出てきました、開戦早々の昭和16年12月31日の東港航空隊による 「ヘロン」 攻撃のケースがあります。

これについては、戦闘行動調書がアジ歴でも公開されていますので、興味のある方はご参照下さい。

    『 昭和16年12月〜昭和17年2月東港空飛行機隊戦闘行動調書 (2) 』
    ( リファレンスコード : C08051599300 ) 中の p38〜39


この攻撃において、九七式大艇 x3機の爆撃隊に引き続き、雷撃隊 x3機は各機 x1発の魚雷をもって三方向からの同時攻撃を実施していますが (指揮官機は被弾し喪失)、これがどの様な判断でこの様な戦術を採ったのか、これが東港航空隊の常用戦術であったのか、などの詳細は不明です。

また、当該戦闘行動調書 (p29) にもありますように、これに先だつ12月28日に雷撃隊 x2機をもって敵駆逐艦を攻撃し、各機 x1発の雷撃を行っております。

しかしながら、『海軍水雷史』 (同編纂会編、非売品) ではこの2回の実雷撃時はもちろん、12月6日、24日、翌1月6日の出撃準備においても、全て毎回雷撃機には魚雷 x2本を搭載したとされております。

そして開戦早々に、複数本搭載どころか、戦前の飛行艇による雷撃という “構想” そのものが全くの机上の空論に過ぎず、誤りであったことが判明したことはご承知のとおりです。

実際、東港空 (後の八五一空) においては、早くも17年1月6日以降は飛行艇による雷撃を実施しないこととされております。

結局、終戦に至るまで旧海軍における複数魚雷の用法については “決まっていなかった” のであり、ましてや “同時投下が原則” などは存在しなかったのです。


また諸外国においては、例えば米海軍の例で特定の機種のある時点でのマニュアルに 「同時投下」 が規定されている、といっても、それはそれだけのことであって、米海軍が魚雷の複数本搭載について、同時投下を普遍的な “原則” としていたということを意味しません。

それぞれの海軍において “原則” であったと言うには、上にご説明しましたようなその用法決定についての根拠・証明が必要なことは申し上げるまでもないことです。

「用法」 ということについて、少々気になりましたので。


折角の機会ですので、この次ぎに雷撃における複数魚雷が接触する 「触雷」 という問題についてお話ししてみたいと思います。

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posted by 桜と錨 at 18:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 海軍のこと