2011年08月28日

『海軍旗章條例』 と 『海軍旗章令』

 本家サイトの今週の更新で、『海軍法規類集』 のページに明治22年制定の 『海軍旗章條例』 と、昭和7年に全面改訂・制定された 『海軍旗章令』 の昭和20年2月現在のものを公開しました。


 前者は旧海軍が使用する旗章類についてキチンと一つに纏めて規定された最初のもので、特に 「軍艦旗」 の制定に伴うことが最大の特徴です。 これは明治29年に大きな改訂がなされた後、大正3年に 『海軍旗章令』 となります。

 そして後者はこの 『海軍旗章令』 の最後のもので、昭和20年2月までの改訂・改正が盛り込まれたものです。 太平洋戦争期は基本的にはこれでした。

 明治の創設期はともかくとして、両者を比較していただけるならば、明治22年以降、この海軍旗章についてもかなりの変遷があったことがお判りいただけるでしょう。

 そこで、スケールモデルや艦船画に興味がある方もおられると思いますので、その中から 「将旗」 について少し。

 昭和期まで使われた 「大将旗」 「中将旗」 「少将旗」 の3つの将旗が制定されたのは、『海軍旗章條例』 が明治29年に改訂された時からです。

 明治22年から29年までは、後の 「大将旗」 と同じものが 「将旗」 として指揮官たる大中少将の旗章として定められていました。

 では当時、大将、中将、少将のそれぞれはどのようにして区別していたのでしょうか?

 それは当該條例に規定されているとおり、掲揚する場所 (マスト) の違いと、紅球を中将の場合は将旗の上に、少将の場合は上下に付けることにより、これを現していました。 例えば日清戦争の時はこの形です。

 そして大中小将の各将旗が定められた明治29年以降も注意が必要です。 何故なら、各将旗の掲揚場所の変遷があるからです。 簡単に纏めると、次のとおりです。

年  代大将旗中将旗少将旗
 明治29年〜大檣頭前檣頭後檣頭
 大正 3年〜前檣頭
 昭和 7年〜大檣頭

 したがって、例えば日露戦争の時は、連合艦隊司令長官たる東郷平八郎の将旗は開戦時から黄海海戦前の37年6月までは中将旗が前檣頭に、6月以降は大将旗が大檣頭に、ということになります。 (・・・・って、NHKのVFXさん、全部キチンと直してくれましたよねぇ? (^_^; )

 以上のように、年代によって中将旗及び少将旗は掲揚場所が異なってきますので要注意です。


 ついでに申し上げると、海軍旗章とは別ですが、艦船モデルによく取り付けられている万国船舶信号旗 (現在の国際信号旗) ですが、これも明治34年まで、34年から昭和8年までと、昭和9年以降とではアルファベット旗で模様・形が違うものがあります。 また数字旗は昭和8年まではまだありませんでした。 もちろん海軍部内で定めた数字旗やその他の信号旗は明治期からありましたが。

 ネット上や模型雑誌などでよく紹介されている 「国際信号旗」 はこの昭和9年1月1日以降のものですので、これも要注意ですね。

Int_Flag_M17_01_s.jpg   Int_Flag_M34_01_s.jpg
( 左 : 明治34年まで    右 : 明治34年から昭和8年まで )


 旧海軍が使用した旗章類のことたった一つにしても、色々あって結構複雑なのです。 先にお話しした 「戦闘旗」 にしても、「大和ミュージアム」 現館長の戸高氏でさえ間違われるくらいですから ・・・・ (^_^;


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2011年09月05日

山屋他人 『海軍戦術』

 現役時代からのものを含め、溜まりに溜まった史料を少しずつディジタル化していることは、これまでもお話ししてきたところです。

 今回作業が完了したものは山屋他人の 『海軍戦術』 です。

navtac_yamaya_cover_01_s.jpg

 本著は山屋が海軍大学校において講義したものを纏めたものですが、残念ながら発刊の日付が記されておりません。

 山屋が海軍大学校の教官を務めたのは明治31年12月から33年6月 (この間の32年9月に海軍中佐に進級) と、同34年9月から35年7月の2回ありますが、本著中に記されている日露海軍の艦船名などからしても、この2回目の勤務中に書かれたものとするのが適当と考えます。

 本著は海軍戦術について現実的・実際的な視点で書かれた大変に優れたものであり、特に 「円戦術」 の考え方は、山屋の後を継いだ秋山真之の戦術思想に大きな影響を与えたものと言えます。

 しかしながら、日露戦争後は秋山真之の戦術論 (と名声) の陰に隠れてしまってあまり日の目を見ないのは残念なことです。 現在においては山屋他人についても、そしてその 「円戦術」 についてもほとんど知られていないと言えるでしょう。

 とはいえ、秋山真之の 「丁字戦法」 「乙字戦法」 の発想は、この山屋の 「円戦術」 を見るとよく判るところであり、秋山真之を研究する上でも必須のものの一つです。

 そして、艦艇の運動及び砲術について、当時の海戦における戦術要素を理解する上で恰好の資料となっています。

 もちろん、本史料は本来が艦船の実務経歴もそれなりにある海軍大尉クラスを対象とする内容のものですから、現在の研究者の人達がこれを読みこなすには相当の知識と感覚が要求されることは間違いありません。

 それを忘れて、論文書きなどでよく見られるように、元資料の一部の文言だけを好きなように取り上げて勝手な解釈をするようなことをすると、とんでもないことになりかねないことには注意が必要です。

 本史料は一般刊行物でも、またネット上でも未だにその全貌が公開されたものはないと思いますので、いずれは本家サイト 『海軍砲術学校』 の 『史料展示室』 にて公開する予定です。


 ・・・・ それはともかくとして、この史料のディジタル化、結構手間暇のかかるものです。 スキャナーにかけるだけならば簡単なんですが、その後に1頁ずつゴミ取りと成形という作業が入ります。 特にゴミ取りは根気が必要に。 したがって、1冊仕上げるのは結構大変です。

 日々の時間を利用しての手作業ですから、100頁程度のものならともかくとして、数百頁ともなると1つで何ヶ月もかかる場合があります。

 もちろんスキャナーで読み込んだだけでそのまま1つのファイルに纏めるという方法もあります。 「近代ディジタルライブラリー」 や 「アジア歴史資料センター」 などは基本的にこの方法です。 多量のものを統一した方法・規格で外注するとこうなるのでしょう。

 史料のディジタル化というものには、その元史料の “現在の状態” 重視で行くのか、その史料の “本来の姿” 重視で行くのかの考え方の違いもあります。 「近代ディジタルライブラリー」 などは前者の方針であり、勿論私は後者の方です。 折角後世に残すのなら少しでも良い形で、と思うからです。


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2011年09月09日

久しぶりの神保町散策

 今日は神田まで出掛けましたが、肝心な会議は予定より早くアッサリと終わってしまいましたので、久しぶりに近くの古書店街をブラブラとしてみました。

 マイミクの某氏風に言うと 「斥候ヲ派遣シ人民古書露天市地区ヲ威力偵察スルモノナリ」 というところでしょうか (^_^)

 古書店の店舗数は昔に比べるとかなり少なくなったとはいえ、改装や改築によってそれなりにオシャレなところが増えてきたこともまた確かです。

 初めて気が付きましたが、横浜にあった 「軍学堂」 が昨年暮れにこっちに移転してきているんですね。 大変に小さな店舗 (失礼) ですので、まあ品揃えはそこそこかと。

 ミリタリー関係を始めとしてあちこち覗いてみましたが、たまに行くぐらいではなかなか良い物には出会いません。

 しかもこれはと思うものは非常に、というか異常に高いですね。 昔のように自分の勉強のためというよりは、コレクションとして、あるいは将来の投機対象として、という方向になってきているんでしょうか。 本来の古書のあり方からするとちょっと違う、と私は思うのですが ・・・・

 本日の戦果は結局これ1冊。 福井静夫が呉海軍工廠造船部在任中の昭和19年に取り纏めた 『軍艦ノ発達』 です。

fukui_hattatu_S19_cover_s.jpg

 『福井静夫著作集第8巻 世界巡洋艦物語』 の中に本資料の巡洋艦関係だけを抽出して再編纂の上掲載されていますが、全容はまだ世に出たことがないと思います。

 原本のブループリントのものを電子コピー (のコピー?) したものですが、一応キチンとハードカバーで製本されていますので、どこかの学校なり機関なりが所有していたものかと思いますが、表示や印などがありませんので不明です。

 元々の原本の劣化もあってちょっと読みにくいところもありますが、中身が判れば私的にはこれで十分です。 これもその内ディジタル化?

fukui_hattatu_S19_01_s.jpg   fukui_hattatu_S19_02_s.jpg

 しかしちょっと迷うのは、こういう類の著作権の取扱いの話しですね。 もし福井静夫が公務上作成した公文書であったならば、著作権は福井静夫には無いことになります。

 本資料は 「造船部部員 福井技術少佐編」 とは言いながら発刊は呉海軍工廠造船部であり、かつ公的なものを使用して編纂されています。 しかも、福井静夫自身の言によれば、“命による” 造船科技術学生・生徒講義用の資料とされています。 さて?

 何れにしても、棚の横に同じ福井静夫のブループリント 『帝国海軍艦艇一覧表』 が1万6千円で並んでいたのに比べれば遥かに安価で、レジの店主に 「ホントにこの値段?」 と聞いたくらいです (^_^)  よい掘り出し物でした。


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2011年09月19日

山屋他人 『海軍戦術全』 公開 !

 本朝、本家サイトはご来訪21万名を達成することができましたので、これの感謝企画として同サイトの 『史料展示室』 にて、先にご紹介しました山屋他人の 『海軍戦術 全』 の全文をPDF版にて公開いたしました。


navtac_yamaya_cover_01_s.jpg

 どうかこの第1級史料を存分にお楽しみいただきたいと存じます。

 なお、ご承知のとおりのネット事情の現状から、一人歩き防止のため大変残念ながら印刷及び加工はできない設定とし、各頁には透かしが入れてありますことをご了承ください。

 もし印刷可能、あるいは透かし無しのバージョンをご希望の研究者の方がおられましたら、お申し出下されば考慮させていただきます。

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2011年09月22日

錨と錨鎖の話し (1)

 事の始めは、相互リンクをいただいているHN 「龍門」 氏のサイト 「艦艇模型工廠ヴァンガード工場」 の掲示板 ↓ でのこと。


 HN 「北鎮海軍」 氏の書き込みで、「大和」 の捷号作戦時の写真では前甲板の錨鎖が明瞭に写っているのに、沖縄特攻時、いわゆる坊岬沖海戦の写真ではこれが見えないが? というご意見でした。

 実は私も今まで全く気にもしていなかったのですが、指摘を受けて改めて写真を見返してみますと ・・・・ 確かに捷号作戦時の米軍撮影写真では明瞭に写っています。 しかも、錨甲板の中央部には錨鎖の揺れ止めのストッパーの存在もハッキリしています。

Yamato_S19_01_s.jpg   Yamato_S19_02_s.jpg
( 米海軍 Naval History & Heritage Command 所蔵写真より )

 また、昭和20年3月の呉空襲時とされる写真でも、前甲板の錨鎖が確認できます。 (この時は揺れ止めのストッパーをしていませんので、艦の右旋回によって左の錨鎖がかなり舷側側にわたんでいることも判ります。)

Yamato_S20_03_s.jpg
( 米海軍 Naval History & Heritage Command 所蔵写真より )

 そして、坊岬沖海戦の時の有名な写真を見てみますと ・・・・

Yamato_S20_01_mod_s.jpg
yamato_S20_01_part_01_mod1_s.jpg
( 米国 National Archives 所蔵写真より )

 う〜ん、そう言われると確かに艦首の錨孔 (ホーズホール) から延びる短鎖部分 (後述) と、それを留める各2本のストッパーは明瞭に写っていますが、これに対してそこから後、錨鎖車と錨鎖管までの間には錨鎖が左右とも無いようにも見えます。 さて、皆さんはどのようにご覧になられるでしょうか?


 実は、この海戦時にもし実際に錨鎖が無かったとしても、別に不思議なことでも何でも無いのです。

 旧海軍においては、「合戦準備」 において錨鎖を錨鎖庫に格納する場合もありました。 戦闘被害時の錨鎖の損傷とそれによる破片での二次被害を防止するためです。

 もちろん、「合戦準備」 をした時に常にこれを行うわけではなく、その時の行動内容や予想される戦闘様相などにより、その時その時で艦長が必要性を判断しました。

 で、これだけで終わってしまっては折角の機会がもったいないですから、「短鎖ってな〜に?」 ということなど、モデラーさんのために艦艇における錨と錨鎖の関係について少しお話しさせていただきました。

 こういうことは余程興味がある方でないとなかなか調べたりはしないと思いますし、それを纏め直してこちらでも皆さんにお話しするものですので、まあ、艦船に関する “トリビア” の一つとしてお読みいただければと思います。

 したがって、これからが本項の本題です (^_^)

( それにしてもHN 「北鎮海軍」 氏はよく気が付かれたものと思います。 私もそうですが、普通なら同じ写真を何度となく見ていても何気なく見逃してしまっているところです。 スケールモデル作製上のこととはいえ、注意深い考証の結果ですね。)
(続く)

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2011年09月24日

錨と錨鎖の話し (2)

 前回のお話しで、

>「合戦準備」 において錨鎖を錨鎖庫に格納する場合も

 と言いましたが、「大和」 の写真だけでは中には “ホントにそんなことやってたの?” と思われる方もおられるかもしれません。

 そこで他にその実例がないかどうか、私の手持ちのものから戦艦と重巡について探してご紹介をします。

 まず、昭和17年2月のインド洋作戦中の 「金剛」 とされる有名な写真から。


 左右の錨鎖を短鎖のところで切り離して錨鎖庫に格納しており、錨鎖車にはハンモックによるマントレットも施されているのがご覧いただけるでしょう。

 その他、艦首の旗竿も格納、そして夜間通行時の目印となるように甲板上の突起部周辺に白色線を入れるなど、入念な合戦準備がなされています。 (前甲板のハンドレールはそのままですが、これは昼戦から夜戦に備えて立てたものか、長期行動を勘案してそのままだったのかは不明です。)

 ただ 「金剛」 型の場合、近代化改装前まであった建造時からの副錨 (後述) の関係もあり、これを撤去したあとの錨関係の艤装はその当時の名残があって、錨を固定するスクリュー・スリップ・ストッパーの内、後の2番が左右ともかなり後ろになっています。

 このため 「短鎖」 で切り離すとこの2番ストッパーが届きませんので、短鎖端とストッパーとをワイヤー・スロトーブ (ストラップ、strop) で繋いでいるのがお判りいただけるでしょうか?

 次ぎも同じくインド洋作戦中の 「金剛」 とされるものです。


 甲板に打ち上げられた海水によって、錨鎖がないことが明瞭にお判りいただけるかと。

 ただし、この写真では錨鎖車のマントレットがないこと、そして突起部周辺の白色線がないことなどを勘案すると、上記の写真とはちょっと時期が異なり、よく出版物での解説にある “同時期の撮影” とするには疑問が残ります。

 次は重巡での例を2つ。

   

 左が昭和17年5月のミッドウェー作戦時の 「愛宕」 とされるもの、そして右が昭和16年3月に南シナ海行動中の 「羽黒」 とされるものです。

 両方の写真とも赤丸で示したように、錨鎖が外されていることが明瞭に判ります。

 もちろん、この様なことは最初にお話ししましたように 「合戦準備」 において常に実施している訳ではありません。 その時その時の情勢・状況などにより必要性を艦長が判断することですので。

 特に平時では、重い錨鎖を取り扱う作業ですので大変に面倒で手間がかかりますから、戦闘訓練時でもほとんど行われなかったと考えます。

 また大戦中の行動時には写真そのものの数が非常に少ないですから、これを写したものは大変珍しいと言えるでしょう。

 それにこの錨鎖を格納することは、合戦準備の一連の作業の中の一つとして行われますので、各艦の戦時日誌や戦闘記録・戦闘詳報に記載されることはまずありませんから、今となってはどの艦がいつ行ったかはほとんど判らないと思います。

 とは言え、上記の写真にしても錨鎖が外されていることは一目見ればわかる話です。 しかしながら、これらの写真を掲載した出版物ではこのことに触れているものは皆無かと。 興味がないということなのか、何故なのか疑問に思いつつ判らなかったからなのか ・・・・ ?

 それでは、次からはまず錨のことから始めたいと思います。
(続く)

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2011年09月28日

錨と錨鎖の話し (3)

1.錨について

 それでは、まず錨のことから。

 昭和期の旧海軍艦艇において主として用いられていたのは、大きくは次の3種の錨です。

        山字錨 (Hall's stockless anchor)
        十山字錨 (Martin's anchor)
        十字錨 (Admiralty anchor)

anchor_ijn_01_s.jpg
anchor_ijn_02_s.jpg

 画像サイズの関係でこの図ではちょっと各部の名称が見難いかもしれませんので、ご参考までに以下にご紹介しておきます。

      1. 鐶 (錨鐶) (アンカーリング、Anchor Ring)
      2. 幹 (錨幹) (シャンク、Shank)
      3. 重心帯 (バランシング・バンド、Balancing Band)
             : 錨孔に格納する方式の艦の主錨では付いていません。
      4. 根 (クラウン、Crown)
      5. トリッピング・ホーン (Tripping horn)
      6. 腕 (錨腕) (アーム、Arm)
      7. 爪 (錨爪) (フルーク、Fluke 又はパーム、Palm)
      8. 爪尖 (つめさき) (ビル、Bill)
      9. 笄 (こうがい) (ストック、Stock)

 更には次の様な型式のものもあったとされていますが、残念ながらこれらは具体的にどの艦に装備されていたのかは判りません。

anchor_ijn_03_s.jpg

 そして、旧海軍ではこれらの型式の錨について、その用途により次の4つに種別して搭載していました。

  主 錨 (Bower anchor) :
艦首両舷に装備された錨泊用の常用の錨です。 明治後期以降の大型艦艇では錨孔にそのまま格納するため、山字錨が用いられます。 それ以前のものでは、錨座に格納する方式では十山字錨が主流でした。


  副 錨 (Sheet anchor) :
主錨と同じ大きさの応急用予備錨です。 右舷主錨の後方に1個を装備するのが普通ですが、中には左右両舷にある艦もあります。


  中 錨 (Stream anchor) :
主として艦尾を一時所用の方向に維持する ( 「振れ止め錨」 と言います) ために用いられるもので、錨鎖又は錨索 (鋼索) を使用し、通常はカッターなどで運搬して所定の位置に投錨します。 大型艦では艦尾外舷に装備され、一般的には主錨の1/3〜1/4程度のもので、十山字錨が主流です。


  小 錨 (Kedge anchor) :
中錨より更に小さく、より広汎な用途に利用されます。 十山字錨が主流ですが、中には十字錨のものもあります。 舷側又は上甲板の甲板障壁 (Screen Bulkhead)に置かれるのが普通です。 また、錨索 (鋼索又は麻索) を使用するのが一般的です。


 この種別に基づく各艦種ごとの装備は、昭和初期の段階で次の様になっていました。

IJN_ships_anchor_data_02_s.jpg

 この定義に基づく 「副錨」 というのは、皆さんご承知のとおり大正期までに建造された大型艦では装備されていましたが、昭和期になってからはこれを廃止しております。

 したがって 「長門」 型以下の戦艦は近代化改装時にこれを撤去していますし、「大和」 型は元々の新造時からありません。
(続く)

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2011年10月04日

錨と錨鎖の話し (4)

1.錨について (承前)

 錨についての続きです。 先に錨の用途による4つの種別についてお話ししました。

 では、昭和期になっての 「副錨」 の廃止に伴い、従来主として艦尾舷側に装備されていた 「中錨」 を改めて 「副錨」 と呼ぶように定義し直したのでしょうか?

 実は結局今次大戦終戦時までしなかったんです。

 したがって、戦後の物書きさん達の手になる出版物はそのほとんどがこの艦尾舷側に装備されたものを 「副錨」 と書いていますが、これは正規には誤りで、あくまでも 「中錨」 が正式です (あるいは右舷が中錨で左舷が小錨の場合もあります) 。 私の知る限りでは、確か正しく 「中錨」 と書かれたものは一つも無かったような ・・・・

 例えば次のものなどがその一例です。

anchor_stream_01_s.jpg
( 学研歴史群像シリーズ 『大和型戦艦』 より )

anchor_stream_02_s.jpg
( シコルスキー著 『戦艦大和図面集』 日本語版より )

 因みに、ここで出てくる 「After Anchor」 や 「艦尾用錨」 などという名称・用語はありません。 中錨は一般的には艦尾外舷に装備されますが、別に艦尾だけでの使用に限ったものではありませんので当然です。

( 船のことなのですから、どうせならせめて 「Stern anchor」 とぐらいは言って欲しかったところですね (^_^; )

 また後者の図では 「艦尾曳航フェアリーダー」 とありますが、その様な名称・用語のものもありません。 これは曳航用専用ではなく、中錨を 「振れ止め錨」 として使用する場合はもちろん、前後浮標繋留、岸壁繋留などでも当然ながらここを使用するからです。 というより曳航用よりはむしろこれらの方が主用です。

 ただし、戦後の海上自衛隊においては、米海軍からの貸与・供与艦艇には元々本来の 「副錨」 という考えが無かったこともあり、艦尾に装備する従来の 「中錨」 を正式に 「副錨」 と呼ぶことになりました。

 勿論これは戦後の海自のことであって、だからといって旧海軍艦艇の中錨を 「副錨」 と呼ぶのは誤りであることは頭に置いていただいて宜しいかと。

 では肝心な 「大和」 型の主錨の要目は?

 残念ながら私の手持ちのデータにはありません。 15トンと書かれた刊行物もありますが ・・・・ もし正式な要目をご存じの方がおられましたら、是非ご教示下さい。

 なお、旧海軍における主錨及び副錨の大きさの基準は、次の様に定められていました。

IJN_ships_anchor_data_03_s.jpg

 これからすると、「大和」 型の主錨を仮に15トンであったとしても、それ程大きくは違ってはいないということになります。

 因みに、現在の海自イージス艦の 「こんごう」 型では、前錨 (第1主錨) が 5.6トンですから、この旧海軍の基準からすると1万2千トン程度の艦艇用を装備していることになります。 (左錨 (第2主錨) は3.5トン)

 これは最近の海自艦艇は風圧面積が旧海軍艦艇と比較して大きいことがその要因です。

( 主錨、副錨は 「しゅびょう」 「ふくびょう」 ですが、前錨、左錨は 「まえいかり」 「ひだりいかり」で、「ぜんびょう」 「さびょう」 とは読みません。 右舷、左舷を 「うげん」 「さげん」 と言わないのと同じです。 )
(続く)

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2011年10月18日

錨と錨鎖の話し (5)

2.錨鎖について

 錨鎖というと、普通の人は 「要するに鉄の鎖がずら〜っと繋がってるだけでしょ?」 と思われるかもしれません。

 まあ確かにそうだと言えばそうなのですが ・・・・ (^_^)、しかし正確に言うならばただそれだけではありません。

 実はこの錨鎖、一定の長さのものが順々に繋がっているのです。 その一定の長さの1つずつを 「節」 (せつ) と言います。 そしてこの1節の長さの途中では切り離すことができません。

 昭和期から現在の海上自衛隊に至るまで、錨鎖1節の長さは錨鎖の太さ (=リンクの太さ)、即ち装備する艦の大きさには関係なく、一律で25mと決められています。 これは運用上その方が都合が良いからです。 (何故都合が良いかはこれもまた後でお話しします。)

 旧海軍では古くは1節が12.5尋又は15尋 (ひろ、1尋=1.818m) のものが使われていましたが、昭和期になってこの25mで統一されました。

 したがって、「長門」 型は1節12.5尋 (約22.7m)、「大和」 型は 25mです。

 このため、大型艦では各リンク一つずつが大きく太い分だけ1節当たりのリンク数は少なく、逆に小型艦では各リンクが小さく細いのでリンク数が多くなります。

 錨鎖のリンクには、スタッド付きとスタッドなしの2つの形状がありますが、大型艦艇はほとんどがスタッド付きです。 当然ながらこちらの方が強度が高いことになります。

anchor_chain_06_s.jpg

 艦の大きさによってどれ位の太さの錨鎖が使われていたのかと言いますと、一応の旧海軍の艤装基準では次の様になっていました。

chain_size_03_s.jpg

 「長門」型はこの表の摘要範囲にはありませんが、3.125吋 (78mm) でした。 では「大和」型は? 残念ながら史料がありませんので判りません。 90mmとする戦後文献もありますが、旧海軍の規格的には中途半端な数値ですし、写真からするともう少し太い様にも見えます。

 ただし、錨鎖というものは錨泊に必要な水中重量はその長さで調整できますから、必要な強度さえ確保できていれば、太さそのものはあまり重要ではありません。

 そして、この1節ごとの錨鎖を順々に繋いでいくのが 「ケンターシャックル」 (Kenter Shackle)と言われるものです。 これは外観はスタッド付ききリンクと同じ形状をしていますが、次の図のように分解できる構造になっており、必要時にはここで錨鎖1節毎の切り離しができます。

shackle_02_s.jpg

 例えば、錨泊中に突然の荒天などで緊急出港しなければならない時に、揚錨する時間 (通常ですと20〜30分ほどかかります) がない場合には、ここで切り離して錨と錨鎖を捨てて行きます。 これを 「捨錨」 といいます。 勿論、後で戻ってきて回収することはいうまでもありません。

 このためもあって、錨泊時には錨に目印用の小さなブイを付けて投錨するのが普通であり、船乗りとしての躾けです。 (最近では、一般の港近くに錨泊すると近傍を行き来する民間船や漁船などによってすぐブイを切られたりしますので、荒天錨泊の場合でも無い限りあまり付けないようですが (^_^; )

 なお、旧海軍では昭和初期頃までは、このケンターシャックルではなく 「接続シャックル」 と言われるものを使っている艦艇もありました。 この場合は1節の錨鎖の構成もちょっと異なってきますが、これについてはこの後でお話しします。

 では、錨一つについて繋がっている錨鎖の長さは全長でどれくらいあったのでしょうか?

 この錨一つについての錨鎖を 「1房」 (ぼう、=1連) と言い、通常は主錨で14〜16節、中には20節持っている艦もありました。 実際に何節であるかはその艦 (艦型) ごとで決められています。

 具体的な例を示すと、次の様になっていました。

chain_size_02_s.jpg

 当然ながら錨に近い側の錨鎖ほど使用頻度が高くなりますから、その損耗を考慮して適当な時期 (定期修理の時など) に節の連なりの順序を前後で入れ替えていました。

 そしてこの錨鎖、錨鎖庫側の最終端末は、図のように錨鎖庫内にシャックルとスリップで留められています。 この図は一例ですが、ほかのものでもほぼ同様の構造です。

senhouse_slip_01_s.jpg

 因みに、海自イージス艦の 「こんごう」 型では、前錨用、左錨用ともに56mm径のものを16節ずつ装備しています。 錨の重さが異なるのに錨鎖の径が同じなのは共通性を持たせるためです。

 例えば、左錨を使うことはまずありません (ソーナー・ドームが邪魔になって通常では使えません) ので、私が 「きりしま」 艦長の時は左錨鎖3節を外して前錨鎖に繋ぎ、19節にして使っていました。 この方が何かと便利ですし、この様なことは艦長の権限で自由に出来ますから。
(続く)

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2011年11月09日

『世界の艦船』 12月号

 連続お出かけ中に海人社さんから 『世界の艦船』 12月号が届いていました。

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 今月の特集は 「世界の戦略原潜」 と 「日本海軍の建艦計画」 の2つですが、私も後者の中で一項を担当させていただきました。 「3.軍縮条約下の努力」 です。

 残念ながら僅か6頁という紙幅の制限がありますので、概要をサラリと流す程度に留まらざるを得ず、とても当該テーマについて十分に言い尽くすことができませんことは申し上げるまでもないと思います。

 それでも、私は出版社さんから執筆のご依頼をいただいた時には、どんなに短いものであっても、1つでも2つでも、今まで刊行された同じテーマのものには出てこなかったものを必ず付け加える努力をすることにしております。

 今回についても、ともすると本テーマは技術的視点からのものになりがちですので、要求側である用兵者の視点を加えて、より実態に近い経緯を意図してみました。

 ご一読いただけると嬉しいです。


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2011年11月25日

錨と錨鎖の話し (6)

3.錨と錨鎖の接続方法について

 ここまでで錨と錨鎖のことをお話ししてきましたが、ではこの錨と錨鎖はどのように繋がっているのかといいますと、これは単純にそのままシャックルで連結されているわけではありません。

 明治期までの艦艇のような艦首両舷にある 「錨座」 (アンカーベッド、Anchor bed) に錨を引き揚げて格納する方式から、錨孔 (ホーズホール、Hawse hole) にそのまま錨幹 (アンカーシャンク) を引き込んで錨腕と根 (クラウン) で錨孔外端の 「ベルマウス」 (Bell mouth) にガチッと固定する方式に変わりました。

( 錨座方式のことについては、機会があればまた別にお話しすることといたします。)

 この方式に変わって以降は、錨と錨鎖の構成方法については現在に至るもどの様な艦艇でも基本的には同じです。

 次の図は現在の護衛艦のものですが、錨のタイプは異なるものの、この構成法は旧海軍時代と変わりません。

anchor_&_chain_s.jpg

(注) : 上の図で 「連結用シャックル」 となっているのは、正しくは 「接続シャックル」 で、この 「接続シャックル」 と 「ケンターシャックル」 を併せて 「連結用シャックル」 と言います。

 錨のところでお話ししましたように、錨幹の先端には錨鐶 (アンカーリンク) が付いています。 ここに 「短鎖」 (Lengthning piece) と呼ばれる短い錨鎖を 「錨鉄枷」 (アンカーシャックル、Anchor shackle) で繋ぎます。 このシャックルの形状は一般的に次のようになっています。

shackle_01_s.jpg

 この 「短鎖」 というのはいわば “長さ調整用錨鎖” とも言うべきもので、これの長さ (=リンクの数) は錨幹の長さと錨孔 (ホーズホール、howse hole) の長さとの関係、前甲板の形状や錨・錨鎖関係艤装品の配置・構成などによって各艦型ごとに違ってきます。

 「短鎖」 の構成は上の図の様に、両端に 「大鐶」 (戦後は 「端末鎖鐶」 と言います、以下同じ) (エンドリンク、End link)、次ぎに 「中鐶」 (拡大鎖鐶) (エンラージドリンク、Enlarged link) があり、そしてその中間は艦の大きさに応じた通常の 「小鐶」 (普通鎖鐶) (コモンリンク、Common link) が必要な長さとリンクの大きさに応じて繋がっています。

 また、錨鎖の太い細いに関係なく、大鐶と中鐶はスタッドなし、小鐶はスタッド付きが一般的です。 このため、大鐶と中鐶は小鐶よりリンク径がやや大きくなっています。

 因みに旧海軍の規格では、各鎖鐶と鉄枷の大きさの標準は次のとおりとされています。

chain_size_01_s.jpg

 そしてその短鎖の次ぎに 「転鐶」 (スイベルピース、Swivel piece) というものが続きます。 このスイベルというのは、いわゆる錨鎖の捻れ取りで、一般的には次の図の様なものです。

swivel_01_s.jpg

 このスイベルピースは古い艦艇では次の様な形状のものも使われていました。 

swivel_03_s.jpg

 シコルスキーの 「戦艦大和図面集」 では、こちらの形状のものが画かれていますが、残念ながら 「大和」 型はこれではなく上の図のものです。 これは残された写真にありますのでハッキリしています。 (あとのお話しでまた出てきます。)

 この短鎖とスイベルピースを繋ぐのが 「接続鉄枷」 (ジョイニングシャックル、Joining shackle) と言われるものです。 形状は 「錨鎖鉄枷」 と同じですが、上の表にある様にやや小さいものです。

 因みに、前回お話ししましたように、1節ごとの接続に 「ケンターシャックル」 ではなくてこの 「接続シャックル」 を使っていた時代では、錨鎖1節の両端の構成は上記の 「短鎖」 の構成と全く同じでした。

 違うのは中間の小鐶 (コモンリンク) 部分の長さだけですから、短鎖はまさにその名のとおりの “短い錨鎖” であったわけです。

 実はこの 「接続シャックル」 というものは大変大切な部品なのです。 と言いますのは、錨を格納した状態で錨と錨鎖を切り離す時 (例えば浮標繋留の時など) は、この接続シャックルを外すことになるからで、通常の使用時には絶対に外れてはならず、反対に切り離すときは迅速に外れなければなりません。 したがって、普段からこれの分解手入れと、装着時の確実な組立が必要になります。

(テーパーピンの頭は挿入口より僅かに置くまで入ります。 そしてその上からペレットと呼ばれる鉛片を叩き入れて抜けないようにします。)

 通常はこの短鎖とスイベルピースを合わせて単に 「短鎖」 と呼んでいることがありますが、厳密に言えばご説明したようにそれぞれ別の物ですので注意が必要です。
(続く)

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2011年12月24日

錨と錨鎖の話し (7)

4.繋止方法について

 錨と錨鎖がどの様になっているかまでをお話ししましたので、それでは次はその錨と錨鎖がどの様に錨甲板に繋止されているのかに入ります。

 次の図が、「大和」 型における錨甲板の一般艤装です。 この錨関係の艤装は「大和」型に限らず、どの艦でも、また艦種や艦型の大小に関わりなく、大体似たり寄ったりです。 (小型艦では錨鎖車が一つしかないものなどもありますが。)

yamato_anchordeck_01_s.jpg
( 元画像 : ヤヌス・シコルスキー 「戦艦大和図面集」 より )

 判りやすくするために、今錨を揚げた場合の手順に基づいてお話しを進めます。

 揚錨して錨を船体に固定する場合、この錨をベルマウスにガチッと繋止するためのものが赤丸で示した 「スクリュー・スリップ・ストッパー」 (Screw Slip Stopper)又は 「ブレーキ・スクリュー・ストッパー」 (Brake Screw Stopper)と呼ばれるものです。 通常、錨一つに付き2つのストッパーがあります。

( 旧海軍の史料の中には 「チェーン・スクリュー・ストッパー」 と書かれているものもあります。)

yamato_anchordeck_02_s.jpg
( 元画像 : ヤヌス・シコルスキー 「戦艦大和図面集」 より )

 このストッパーの一般的な構成は次の様になっています。

Blake_Screw_Stopper_01_s.jpg

 先端の 「スリップ」 と呼ばれる鰐口状のもので短鎖を挟み、スクリューで長さを調整します。 そして、錨孔に近い方のストッパーに錨の全重量を持たせ、錨をベルマウスにガチッと固定します。

 後ろの2本目は1本目が外れた場合などに備えての補助・予備の役目です。

 当然ながら、錨鎖を切り離す時に外す接続シャックルはこの2本目のスリップの後ろに来るように短鎖の長さが決めらることになります。

( なお、投錨した場合には、このストッパーで錨鎖を挟み、風潮による船体の流圧の全抵抗を支えることになります。)

 次ぎに、錨をストッパーにより固定した後は錨鎖車の役目はありませんから、揚錨機への負荷を無くすために、この錨鎖車と揚錨機の両者の接続 (縁) を切ります。 これにより錨鎖車のブレーキを緩めると錨鎖車はフリーになります。

anchor_deck_04.jpg
( 元画像 : ヤヌス・シコルスキー 「戦艦大和図面集」 より )

anchor_deck_05.jpg
( 元画像 : ヤヌス・シコルスキー 「戦艦大和図面集」 より )

 この錨鎖車の縁を切ってブレーキを緩める前に、錨鎖管の口の部分に装備されている 「抑鎖桿」 と言うのを閉めて、これによって錨鎖が動かない (出入りしない) ように押さえつけます。

 これによって、錨鎖は錨孔直後にあるストッパーとこの抑鎖桿とによって固定されることになります。

 ところが、このストパーと抑鎖桿までの錨鎖の長さは必ずしも錨鎖のリンク数にピッタリにはなっていません。 というより多少遊びが出るようになっています。

 このため、錨鎖車のブレーキを緩めた段階で、錨鎖は甲板上にある程度ダランとしたようになります。 これは例えば有名な次の 「武蔵」 公試時の写真の状態です。

Musashi_anchordeck_01_ss.jpg

 次の写真は錨鎖車で錨鎖に張力がかかっている状態ですが、これと比較していただければよくお判りいただけると思います。

yamato_anchordeck_04_s.jpg
 
 通常の場合ですと、錨鎖車をフリーにした状態でも全く問題はないのですが、荒天航行の場合や戦闘時の急激な運動などの場合には、この遊びによって錨鎖が錨甲板上をゴロゴロ振れ回ることになります。

 したがって、これを防止するために、次ぎの図のようにストッパーやワイヤーストローブなどによって左右に引っ張って固定することが行われます。

yamato_anchordeck_mod2_s.jpg
( 元画像 : ヤヌス・シコルスキー 「戦艦大和図面集」 より )

 この状態を示すのが、これも有名なレイテ海戦時の 「大和」 の写真です。

Yamato_anchordeck_leyte_01_s.jpg   Yamato_anchordeck_leyte_02_s.jpg

 もちろん、このやり方は別に 「大和」 型に限ったことではなく、旧海軍では一般的に用いられてきた方法です。

 例えば、次の写真は昭和5年の 「日向」 とされるものですが、左右の錨鎖が各3個所で固定されていることがお判りいただけると思います。

hyuga_S05_anchordeck_mod_01_s.jpg

 このやり方の例は、荒天航行時にも実施されますので、戦前も含め結構写真が残されていますので探してみて下さい。

 そして、本項の第1回目と第2回目でお話ししましたように、戦闘時の錨鎖関係の戦闘被害及びこれによる二次被害の防止のために、合戦準備において短鎖とスイベルピース間の接続シャックルを外して、錨鎖を錨鎖庫に格納することも行われました。

 ただし、駆逐艦程度の艦ならともかく、戦艦や重巡の重い錨鎖を錨鎖庫に出し入れするのは結構手間暇のかかることです。

 したがって合戦準備として前者の方法によるのか、あるいは錨鎖を切り離して格納するのかの何れを採るかは、予想される作戦行動期間の長さや戦闘様相によって各艦毎で決めることになります。
(続く)

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2011年12月25日

錨と錨鎖の話し (8)

5.「大和」 型の錨甲板

 それでは、残された写真によって 「大和」 型の錨甲板についてもう少し細かく見てみることにしましょう。

 まず艦首から後方を見たもの 「武蔵」 の公試時の写真について。

Musashi_anchordeck_02_s.jpg

 上の写真の右下の部分を拡大したものです。

Musashi_anchordeck_03_s.jpg

 「接続シャックル」 「スイブル」 「ケンターシャックル」 などがお判りいただけると思います。

 「スクリュースリップストッパー」 は一部しか写っておりませんが、スクリューの部分に帆布製のカバーが掛けられています。

 「摺板」 はよくこれを 「錨鎖導板」 と言われますが正式には違います。 ただし一般的には部内でもこの摺板も併せて通称 「錨鎖導板」 と呼んでいますので、まあこれでもよろしいかと。

 錨鎖管覆が付けられておりますが、錨及び錨鎖を使用する時には普通は取り外し、錨鎖を繋止したところで再度取り付けます。 航海中など長期に錨/錨鎖を使用しない (動かさない) 場合には、この錨鎖管覆の上から帆布製のカバーを掛ける場合が多いです。

 白ペンキで塗られた 「半節」 を示す 「節数マーク」 が見えますが、これについては後でお話しします。

 この艦首から後方を見た写真は、もう一枚、もう少し画角が広いものがあります。 その写真に写っている左右錨鎖部分の拡大したものを示します。

Musashi_anchordeck_04a_s.jpg
( 右錨鎖 )

Musashi_anchordeck_04b_s.jpg
( 左錨鎖 )

 これらの写真によって、ヤヌス・シコルスキーの 『戦艦大和図面集』 に画かれた 「スイベルピース」 や 「接続シャックル」 の位置と形状は誤りであることが明らかです。 (もちろん、シコルスキーの図では一般常識からしてもおかしいですが。)

 次ぎに同じく 「武蔵」 の公試時の写真から、今度は艦橋から艦首を見たものを。

Musashi_anchordeck_05.jpg

anchor_chain_02_s.jpg

 写真でははっきりしませんが、赤点で示すところがほぼ 「接続シャックル」 の位置です。 錨を揚収・格納した状態で錨鎖を切り離す時は、ここを外すことになります。

 艦首中央の2組のボラードの間に浮標繋留用のスクリュースリップストッパーが見えます。 浮標繋留時には錨から切り離した錨鎖を艦首の錨孔から延ばして浮標に繋ぎますが、その錨鎖をここで繋止します。 当然ながら浮標繋留を予定しない場合には取り外して格納します。

 錨甲板の錨鎖の真ん中付近に 「半節」、そして錨鎖管の直前に 「第1節」 の節数マークが白ペンキで表示されています。 こについては後でお話しします。

 ところで、下は昭和18年1月撮影とされる錨甲板に立つ山本長官の写真の一部です。 左右の錨鎖に細いチェーンが巻かれているのがお判りいただけるでしょうか?  さてこれは何でしょう?

yamato_anchordeck_06_s.jpg

 実は、例えば浮標繋留などでは錨鎖を錨から切り離し、これを延ばしてブイに繋ぐわけですが (まさに当該写真で右錨鎖がこの状態です)、この時、ブイに繋ぐ前に錨鎖を移動し、かつある程度錨鎖を延ばして準備しておかなければなりません。

 この様な時に錨鎖を動かすのは “人力” でやるのが普通なんです。 例えば、次の図のようにします。 左の用具を 「鉤索」 (Hook Rope)、右のものを 「鎖鉤」 (Chain Hook) と言います。

chain_hook_01_s.jpg

( 細かい話しですが、実はこの図、旧海軍の運用術教科書にあるものですが、大変な誤りが書かれているのです。 フックをリンクに直接引っかけていますが、これですとリンクとリンクの間にフックが挟まって取れなくなってしまい、時には危険なことになります。 したがってスタッド (鎖柱) 付きの錨鎖の場合は、フックはこのスタッドに引っかけるようにするのが船乗りとしての躾け事項です。)

 しかし、「大和」 型のように錨鎖が太くなりますと、フックをリンクやスタッドに引っかけることが難しくなってしまいます。

 このため写真のように細いチェーンを錨鎖に巻いて、これにフックを引っかけて引っ張るようにしたものです。

 ところが、この様な細いチェーンを使っている写真はこれ一枚しかありません。 他の 「大和」 の写真 (例えば先の伊藤2艦隊長官のもの) でも 「武蔵」 のものでも見られません。

 さて、この細いチェーン、この時期だけだったのか、あるいは必要に応じて適宜取り付けるようにしていたものなのか、残念ながら詳細は不明です。
(続く)

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2011年12月28日

秋山真之 『海軍基本戦術 第一編』

 遅くなりましたが、本家サイトご来訪22万名達成及びサイト開設満6周年を記念しまして、 『史料展示室』 にて有名な秋山真之の 『海軍基本戦術 第一編』 の全文をPDF版にて公開いたしました。

Akiyama_Tac1-1_cover_s.jpg


 この史料の内容は出版物では既に紹介されているものもありますが、原本全てをディジタル化したものは、ネット上も含めて始めてのことと思います。

 秋山真之の著作につきましては、この他に 「海軍基本戦術 第二編」 「海軍応用戦術」 「海軍戦務」 が有名ですが、これらにつきましても追々機会を見て追加公開していきたいと思っています。

 どうかこの第一級史料をじっくりとお楽しみ下さい。

 なお現在のネット環境の事情から、残念ながらいつもどおり本文各頁には透かしが入れてあり、また印刷・加工は出来ない設定になっておりますことをご了承ください。 もし研究者の方で印刷可能バージョンなどをご希望の方がおられましたら、ご連絡いただければ考慮いたします。


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2012年01月15日

日露戦争期の機雷の話し

 先程、今週の本家サイトの更新として 『水雷講堂』 中の 『水雷の話題あれこれ』 の項に 『第3話 日露戦争期の機雷の話し』 を追加いたしました。


 これは既に本ブログで連載したものですが、ブログではその性格から日付順で流れてしまい、しかも一つの連載ものとしては大変に見難いものですので、改めて本家サイトの方へ纏め直したものです。

 同じく本ブログの連載を纏め直して掲載した 『第2話 連繋機雷 (一号機雷) の話し』、そして各機雷などの詳細については本家サイトの 『帝国海軍水雷術史』 や 『水雷兵器解説』 で旧海軍の史料に基づき明らかにしてあるところです。

 これらによって主として日露戦争期における旧海軍の機雷について、その全貌をお話ししたことになります。 そして、例えば次の様なトンチンカンなことが二度と出てこないことを願う次第です。

petro_mine_sink_01_s.jpg
( 『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦』 p185 より )

betsumiya_p188_s.jpg
( 『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦』 p188 より )

 なお、この第2話及び第3話でお話しの切っ掛けとして引用しました 『別宮暖朗本』 の指摘個所一覧を今回の第3話の終末に纏めました。


 「機雷」 というこの一つのことについて、これだけのウソと誤りが書かれてるということです。

 当該本の 「砲術」 での指摘個所については、既に本ブログで連載したものを纏め直した本家サイトの 『砲術の話題あれこれ』 の第2話末に纏めてあるところです。


 これらは 「引用」 として使用した最小限のものを纏めただけのものですから、これらによる当該本の前後の記述を含めると “たった2つの項目だけでも” 1冊の本の中でどれだけの分量になるのか。

 日本海海戦について云々する以前の問題であり、そういうレベルと内容の本だと言うことを認識していただければと思います。

 そしてそれら全てを棚に上げた上で、司馬遼太郎氏に対してはもちろん、旧海軍軍人に対しても 「少壮官僚の作文」、「信濃丸の通報時刻を 『公刊戦史』 ではわざと遅らせた」、「昭和の砲術将校の発想は」 等々、何等の根拠もない数々の暴言を吐く。 とんでもないことです。


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2012年01月16日

台湾海軍艦艇写真集

 資料紹介というよりは、マイミクさん編集の私家本の宣伝です。

 私のマイミクさん達の中には、台湾のモデラーさんなどと交流があり、頻繁に訪台しては台湾海軍艦艇の写真を撮っているグループがあります。

 この中の一人、HN 「いでら」 さん (ペンネーム 「井出 倫」 さん ) が自身及びグループメンバーの撮ったこれらの写真を集めて編集したのが、今回ご紹介する 『台湾海軍艦艇写真集 第1集』 『同 第2集』 です。

ROCN_ships_vol_1_cover_s.jpg   ROCN_ships_vol_2_cover_s.jpg

 第1集には 「康定」 級や 「基隆」 級を始めとする現在の台湾海軍の主要艦艇、そして第2集は第1集には収められなかった旧米海軍大戦型駆逐艦やその他の艦艇が収録されています。

 台湾側メンバーの協力を得て、実際に訪台して撮影した写真ばかりであり、外観はもちろん、装備武器のクローズアップや艦橋内の写真も豊富です。 第1集には私の撮った写真も含まれております。

 残念ながら本文頁は白黒写真のみですが、丁寧な解説はもちろん、要目や側面図もキチンと掲載されており、台湾海軍艦艇の現状を伝えるビビッドなものに仕上がっています。

 元々がコミケ用に作られたものですが、在庫はまだあるようですので、この方面に興味のある方は入手されておいて損は無いと思います。 特に 「世界の艦船」 別冊の 『中国/台湾海軍ハンドブック』 では物足りない方にはお薦めです。

 1冊1200円だそうですので、もし入手ご希望の方がおられましたら、「井出 倫」 さんへ次のメルアドで直接連絡をとってみて下さい。 メールでのみの受付のようです。

idera@za2.so-net.ne.jp


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2012年01月18日

木甲板の話し

「三笠」 の考証で素晴らしい成果を披露されているNH 「八坂」 氏のブログ 『軍艦三笠 考証の記録』 で木甲板のことが話題になりました。


 当該ブログのコメント欄では画像が使えませんので、こちらで少しお話しをしてみたいと思います。

 ここでいいます木甲板とは、もちろんその名の通り木を敷き詰めた甲板のことで、近代軍艦の初期でも上甲板のみならず中甲板などでのこの木甲板のものがあったようです。 しかしながら、旧海軍では明治中期以降は基本的には露天甲板のみとなり、かつ巡洋艦以下では木に換わりリノリュームが多用されることとなったことは皆さんよくご存じの通りです。

 何故近代軍艦で木甲板なのかといいますと、甲板下の防熱・防音のためと、鋼板による甲板の段差を無くすことはもちろんですが、艦上における足腰への負担の軽減の効果もあります。 加えて、大艦における外観の威容にも役立ちます。

 この木甲板には2つのタイプがあります。 つまり、木を敷き詰めた下は梁 (横材、ビーム) のみである場合と、中・大型艦のように鋼甲板の上に木を敷き詰める場合です。

 前者の場合には梁の上に木材を敷き詰めますが、木材の縦の接合部となるところは梁に鋼板の継ぎ手を取付け、継ぎ手とボルト締めします。

woodendeck_01_s.jpg

woodendeck_02a_s.jpg

 この木甲板固定用のボルト・ナットは次の様なものが標準として使われます。 このボルトとナットには亜鉛メッキが施されています。

woodendeck_02b_s.jpg

 後者の鋼甲板の上に敷き詰める場合にはこの鋼板に孔を明けて同じくボルト締めしますが、前者と異なり梁そのものには通しません。

woodendeck_03_s.jpg

 木甲板に使う木材は、“木板” というよりは “角材” と言った方が適当で、厚いものです。 日露戦争期頃までの戦艦ではチーク材で 9インチ幅 のものが標準で、厚さは 3〜6インチ あります。

 この厚さは艦上での場所や甲板での部位で異なってきますが、基本的には重要なところほど厚いものが使われることは言うまでもありません。

 もちろん元々の木材そのものも厳密には一本一本が全部全く同じ幅と厚さではなく、製材・加工上の問題もあって、幅、厚さともに多少の差異が生じます。

 そして後でお話ししますように、木材と木材の間には必ず防水の為の詰め物をすることが必要ですので、数ミリの隙間が採られることになります。 したがって、これらの木材の太さの誤差、特に幅は詰め物の利用も含めて現場で調整することになります。

( つまり、9インチ幅ピッタリの木材が隙間無くビチッと甲板に並んでいるわけではありません。)

 この木甲板ですが、元々はチーク材ですが、日本ではなかなか入手が難しいものがありますので、大正期以降には国産のもの、特に台湾檜が多く用いられました。

 そしてその材質のこともあって、木甲板で使用されるものは幅が7インチとなり、厚さも2〜3インチ、標準としては戦艦が2.5インチ、巡洋戦艦では2.25インチとなりました。


 さてこの木甲板の張り方の詳細ですが、以下は鋼甲板に木材を張る方法の場合についてご説明します。

 まず始めに、当然ながら木材を張る鋼甲板の表面に丁寧に防錆塗装を施します。 そしてその上からタップリと 「トロ」 と呼ばれるものを塗ります。

 この 「トロ」 というのは、旧海軍史料によれば次の様に説明されています。

「 光明丹 (酸化鉛) 及び唐の土 (鉛白) に糊粉を混ぜ、生亜麻仁油を以て糊状に練ったもの 」

 う〜ん、私も良く判りません (^_^;  要は、鋼板表面と木材との密着用と共に防錆塗装との緩衝材としての役目と考えられます。

 そしてこのトロを塗った上に木材を並べ、予め開けてある鋼板の孔と木材の孔とを合わせてボルトを木材側から埋め込み、下の鋼材側からナットで締め付けます。

 この時、ボルトは木材の表面より少し奥まで埋め込むように孔が開けられており、その上に槙絮 (まきはだ、オークム (Oakum) ) とトロを詰めてから木栓を打ち込んで、水密を確保すると共に木甲板の表面を面一になるようにします。

( したがって 『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』 (グランプリ出版) などでは “あらかじめ鋼甲板に取り付けてあるボルトにナットで固着し” とされていますが、これはボルトの向きが逆で、その様なことをしたらナットを締められません。)

 このオークムというのは、本来は古くなった麻索の切れ端などを解して糸屑状にし、艦上での各種用途に使うものを言いますが、ここではこの詰め物用に新たに作成したもののことです。

 次ぎに、並べて固定した木材の間は予め数ミリ程度の隙間が空くようになっていますので、この隙間にビッシリとオークムを詰め、更にその上から 「瀝青」 (ピッチ、Pitchy) を流し込み、これによって防水の役目をします。

 「ピッチ」 とは石油を精製する時にタールと共に出てくる粘性の高い樹脂で、常温ではタールはドロッとした液体ですが、ピッチはほぼ固形に近いものです。

 したがって、木甲板を有する艦艇では毎日の清掃によって木材表面を綺麗に保つと共に、防水効果維持のためにこれらピッチの保守整備も重要な仕事になります。


(余談ですが、この槙絮 (オークム) に関する逸話はかつて連載しました 『運用漫談』 でも出てきますのでご参照下さい。)



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2012年01月21日

悪戦苦闘中

 本家サイトの方で先に秋山真之の 『海軍基本戦術 第一編』 のディジタル版を公開したところです。

 このあと機会を捉えて順次残りのものも公開しようと思っているのですが、『海軍戦務』 は原本からの直接スキャンしたものがありますし、『海軍応用戦術』 も部内教育用に昔作ったものがありますのでこれを利用することにしています。

 問題は 『海軍基本戦術 第二編』 です。 これは私もまだ今に残る原本そのものを見たことはありませんで、手元にあるのはかつて先輩からコピーさせていただいたもので、その先輩のものでさえコピーのコピーでした。

 最初の原本からのコピーが昔の電子複写機 (例の臭いのする用紙のもの) でのもので、これの再コピー、再々コピーですから大変に写りが悪く、読むには読めるのですが、そのままスキャンしただけでは公開するに堪えられません。

 で、文字部分だけを残すべくゴミ取り作業を始めたのですが ・・・・

Akiyama_Tac_2_01_s.jpg     Akiyama_Tac_2_01_mod_s.jpg

 ご覧いただいてお判りのように、手間暇のかかること夥しく、1頁で約1時間ほどかかります。 まるで昔やったことのある化石発掘キットのようです (^_^;

 まあこんなことをしなくても、全文をパソコンに手入力で打ち込んでしまえば簡単なですが、それでは私のサイトとしてはちょっと物足りないものになってしまいます。

 この 『海軍基本戦術 第二編』 は、全文を活字起こしをしたものは既に出版物の中にありますが、原本の形態で公開されているものはまだありませんので。

 時間を見つけてはコツコツやることにしますが、いつ完成することやら (^_^)


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2012年01月25日

参謀飾緒の話し (前)

 映画 『山本五十六』 を観てのことを書きましたので、これを機会にちょっと参謀飾緒についてお話ししたいと思います。

 皆さんよくご存じの通り、参謀飾緒というのは参謀官がその職務にあることを明示するために制服に着用する、いわゆる識別のための飾りの紐 (緒) ことで、これを世間ではよく 「参謀肩章」 と言いますが、正しくは肩章ではありません。

 この飾緒の形状等については 「海軍服制」 (大正3年 勅令23号) により次の様に規定されており、丸打ちの金線又は黄絹線で作られますが、正装や礼装をする場合には金線のものとされています。

shokucho_01_s.jpg

 旧海軍においてはこの 「飾緒」 を着けることができる (というより実際は着けなければならない、つまり省略できません) のは 「海軍服装令」 (大正3年 勅令24号) の第11条で、「将校たる将官」 「参謀官」 「副官」 「皇族付武官」 の4つの職にある者となっていました。

shokucho_07_s.jpg

 4つの職用とも全て同じ形状で、将官用は紐が少々太いものですが、参謀官以外の将校たる将官は正装及び礼装時のみ着けることができます。 これは俗に 「将官飾緒」 とも呼ばれることがあります。

 そして上記のように将校以外の将官はこの飾緒を着けることができなかったのですが、昭和17年になって 「海軍服装令」 の改定により次の様に 「将校たる将官」 の “将校たる” が削除され、全ての兵種の将官が用いることができるようになりました。 (まあ少々遅きに失した感はありますが。)

shokucho_02a_s.jpg

 また副官用と皇族付武官用は銀線又は白絹線のもので、これも正装及び礼装時には銀線のものとされています。


 さて、本題の参謀飾緒ですが、これを着用できるのは 「参謀官」 とされていますが、さてその 「参謀官」 とは誰のことでしょうか?

 もちろん 「参謀」 (注) と名が付く人事補職上の固有の職名の者 (例えば艦隊参謀長、参謀など) は全てこれに含まれますが、その他にこの参謀と同じ様な職務に関わる配置の者もこれに含まれます。 そしてこれらを全て合わせて 「参謀官」 と呼んでいました。

 「参謀官」 に含まれる範囲は明治期から色々変遷がありましたが、太平洋戦争期のこの 「参謀官」 は、内令によって次の様に指定されていました。 「海軍参謀官たる職員に関する件」 (昭和2年 内令236号) がこれです。

sanbou_06_s.jpg

 そしてこの内令の規定の内 “特に命令に於いて規定のあるもの” というのが、軍令部の部員以上がこれにあたります。 つまり 「軍令部令」 (昭和8年 軍令海第5号) の第8条の規定により

sanbou_07_s.jpg

と定められています。

 もちろん、同じ軍令部勤務の将校でも、「部員」 以上に人事発令で指定されていない者は参謀飾緒を着けることができません。

 そしてもう一つが海軍軍人たる侍従武官長及び侍従武官です。 これは 「侍従武官府官制」 (明治41年 勅令319号) の第7条の規定によります。

sanbou_08_s.jpg

 濃紺や白の端正な制服に金色の参謀飾緒は大変に目立つこともあって、立身出世を望む若手将校には、これを身に着けることは一つの憧れであったことは間違いありません。
(この項続く)

(注) : 「参謀」 と言いますのは司令長官、司令官を補佐する司令部の幕僚の内、その職名で補職される将校を言います。
元は兵科将校のみだったのですが、一元化の問題により機関科将校も含まれることになりました。 このため、機関科将校でも参謀に補職されたものは飾緒を着けることができますが、同じ司令部の幕僚でも艦隊機関長は着けることができないということになってしまいました。
また当然ながら将校 (兵科及び機関科) 以外の士官は参謀になれないことは言うまでもありません。 参謀は 「用兵」 に関わる事項に携わる配置だからです。


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2012年01月26日

参謀飾緒の話し (後)

 さて、その参謀飾緒を着用するときの制服への付け方ですが、先の「海軍服装令」 第11条の第2項で、次のとおりとされていました。

shokucho_02b_s.jpg

 海軍省軍務局から出された服制についての 「参考図」 では次のようになっています。 (第2種軍装での着用例が掲載されていないのが残念ですが。)

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 私は人物写真はほとんど持っていませんので綺麗なものがありませんが、手持ちの写真の中から実際に参謀飾緒を着けた例を。 規定どおりであることがお判りいただけるかと。

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 ところが、映画やテレビドラマなどではこの参謀飾緒の吊り方を誤っているものがかなり見受けられます。 残念なことにこの度の映画 「山本五十六」 は第1種軍装と第2種軍装では全ての登場人物で間違ったままでした。

( というより、そもそもテロップが無いので誰が誰の役なのか非常に分かり難いんですが、東映さん (^_^; )

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( 同映画の公式パンフレット及びWebサイト・フォトギャラリーより )

( 因みに、真珠湾攻撃やミッドウェー作戦など昭和17年11月以前では、正規にはまだ士官の艦内帽 (略帽) には 2本の識別線は入っていませんでしたのでこれも誤りです。 また第1種軍装用は色は “紺” ではなく “黒” でした。 これらについてはまた別の機会に。)

 濃紺と白の軍服に金色の派手な飾緒ですから、これを間違った位置に吊すと少々だらしなく見えます。 折角それぞれの俳優さん達の立派な演技にも関わらず、それが台無しということになりかねません。

 早い話しが、こういう事は “刺身のツマ” のようなもので、立派なお皿の上に如何に上質な魚が並ぼうとも、それを引き立てるツマがなかったりいい加減なものであると、料理としての見栄えも評価も下がってしまうと言うことです。

 実は私が関わったものでもこの参謀飾緒で誤った場面がいくつかあるのですが、それらを指摘した時にはいつも既にそのシーンを取り終えてしまった後で、どうにもなりませんでした (^_^;


 さて、参謀飾緒について、ついでにもう少しお話ししておきたいと思います。

 映画 「山本五十六」 でも後半から出てきます褐青色 (モスグリーン) の「略服」ですが、これに参謀飾緒を着ける場合には規定に従って最上位のボタンに吊るします。

 したがってこの映画で略服については吊る位置は正しいと言えます。

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( 同映画の公式パンフレット及びWebサイト・フォトギャラリーより )

 ところが、昭和19年8月にこの略服が 「第3種軍装」 として採用されて以降で、次の写真の様に襟の裏側に吊す例が見られます。

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 飾緒をこの略服に吊る場合には、正規の位置に吊すと邪魔になってしかたがありませんから、この形になるのは自然と言えば自然なことと言えます。

 しかしながら、私の知る限りでは例規類にはこの位置に変更されたとする規定が見あたりませんので、これの根拠を知りたいところです。


 そしてもう一つ。

 南方での作戦で防暑服や略服などが用いられるようになると、参謀飾緒は上に書きましたように規定により最上位のボタンに吊すことになります。 これは第1種や第2種軍装などよりかなり低い位置になります。

 このため、垂れ下がる石筆型の金具が通常勤務においては邪魔になりますし、そもそも戦時では飾緒そのものの形も少々派手すぎます。

 これらのことから、防暑服や略服 (第3種軍装) はもちろん第1種や第2種の軍装などでの通常勤務の場合に用いるものとして 「略式飾緒」 というものが定められました。

 「海軍服制」 の昭和17年11月の改正で規定されたものは、次の様なもので黄絹線製 (副官及び皇族付武官用は白絹線) です。

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 これを着用できるのは 「海軍服装令施行規則」 (大正4年 達164号) の昭和17年11月の改正で細かく決められており、もちろん儀式・点検などの公式な場合や、通常礼装以上の服装の時には使えないことは言うまでもありません。

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 ところが、私はまだこの略式飾緒を着けた実際の写真を見たことがありません。 もしご存じの方、お持ちの方がおられましたらご紹介をお願いします。


 2回に分けて参謀飾緒についてお話ししましたが、これ一つとっても色々あることをご理解いただければ幸いです。 (いえ細かいことはもっとあるのですが (^_^; )

(この項終わり)

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posted by 桜と錨 at 18:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと