『極秘明治378年海戦史』 から、
「 (明治37年2月) 5日、山下大佐到着し、大臣の封緘命令を東郷司令長官に交付せしが、同日更にこれを開封すべきの命あり、是に至り、東郷司令長官は始めて発進の大命を蒙れり 」
日本が対露開戦を決意し、天皇から連合艦隊に最初に与えられたものが 「封緘命令」 という言葉で有名な 「海大令第1号」 です。 実際には、山下源太郎大佐が持参した封書にはこの大海令ともう一つ、大海令についての海軍大臣から連合艦隊司令長官宛の理由説明書が同封されていました。
この2つの文書は、原紙そのものは残されていないようですが、その内容については当日の 「連合艦隊戦時日誌」 に次のように記されています。
さて、ここで疑問に思われる方がおられるのではないでしょうか?
そうです。 海大令という海軍の用兵に関する天皇勅裁の統帥命令
(注1) の伝達が、なぜ海軍軍令部長からではなくて、海軍大臣からなのでしょう?
(注1) 「統帥」 : 軍隊を指揮統率すること
「統帥命令」 : 統帥(軍令)機関を通じて伝達又は発出される命令、及び当該命令を承けて各級指揮官が発する命令をいいます。
そして、この封緘命令の伝達が海軍大臣からであるならば、なぜこれを東京から佐世保在泊の連合艦隊司令長官の所まで持参したのが海軍省の省員ではなくて、海軍軍令部第1班長の山下大佐なのでしょうか?
実はこれ、そのような疑問を持たれる方は昭和8年に制定された 「軍令部令」 に基づく内容が頭にあるからなんです。
したがって、日露戦争当時については、明治26年に制定され、明治36年に改正された 「海軍軍令部条例」 によらなければなりません。
海軍の軍令事項
(注2) を所掌する機関については皆さんよくご存じのとおり、明治元年の建軍に始まって、海軍省軍務局 → 同軍事部 → 参謀本部海軍部 → 海軍参謀本部 → 海軍参謀部 という変遷を経て、明治26年に天皇を輔翼
(注3) する独立機関として 「海軍軍令部」 が設置され、軍政事項
(注4) を所掌する海軍省との明確な2局体制となりました。
(注2) 「軍令」 : 軍隊の統帥に関する命令
「軍令事項」 : 軍令機関の所掌する事務
(注3) 「輔翼」 : 天皇の大権行使を補佐することを意味しますが、天皇の統帥権行使を補佐する意味に主用されます。
(注4) 「軍政」 : 軍部大臣の所掌事務を意味し、国務と統帥の一部を含みます。また、時に占領地行政のことを言う場合もありますが、本項ではこの意味の場合は除きます。
この時に制定されたのが 「海軍軍令部条例」 です。 そして明治36年の改正においては、軍令部の所掌事項のみを条例で示し、その具体的な機構については軍令部長の定める 「海軍軍令部庶務細則」 で規定する形となりました。 即ち次のとおりです。
この第3条に注目してください。
「 第3条 海軍軍令部長は国防用兵に関する事を参画し親裁の後之を海軍大臣に移す 」
この “移す” という用語は、ここでは海軍軍令部長から海軍大臣へ一方通行的に行う事務手続きのことで、要するに 「後は海軍大臣が処理せよ」 という意味です。
つまり、当時は用兵についての奉勅命令
(注5) は、この規定に従って処理されていたわけで、当然ながら 「海大令第1号」 も例外ではありません。
(注5) 「奉勅命令」 : 帷幄上奏の結果発せられる天皇直接の命令
(注6) 「帷幄上奏」 : 帷幄機関が直接天皇に上奏すること
(注7) 「帷幄機関」 : 天皇の統帥権を輔翼する機関のこと。 参謀総長、海軍軍令部長、陸海軍大臣がこれに該当します。 統帥部とも言います。
したがって、連合艦隊司令長官に対する用兵上の奉勅命令を海軍大臣が伝達することは何の不思議もありませんで、そうするように規定されていたからなのです。
付け加えるならば、海軍軍令部と海軍省とでの軍令事項と軍政事項の棲み分けとはいっても、実際には海軍大臣も軍令事項の一部を所掌することになります。
例えば、遠洋航海などを考えていただけばお判りでしょう。 教育・訓練として行う遠洋航海も、練習艦隊を編成して艦船・人員を運用する以上はこれも用兵に関することですから軍令事項になります。
しかしながら、このようなことまでも軍令部長の所掌とするのでは本来の棲み分けの意義に反しますので、当然のことながらこれは海軍大臣の所掌になります。
とは言え、用兵に関する事項ですから軍令部長も無視するわけにはいかず、結局 海軍大臣 → 軍令部長 → (勅裁) → 軍令部長 → 海軍大臣 という煩雑な事務手続きが必要となります。
このように海軍大臣所掌の軍政事項の中にも統帥に関するもの、即ち軍令事項であるのがかなり含まれますので、海軍大臣は国の行政機関でありながら一部統帥機関 (帷幄機関) でもあるという二重の性格を有しており、このため帷幄上奏権が認められています。
このため、海軍軍令部と海軍省間の軍令事項に関する事務分担を明確にするために定められたのが 「省部事務互渉規程」 です。 「海軍軍令部条例」 と同じ、明治26年の制定です。
この第3項にも注意して下さい。
「 第3項 軍機戦略に関し軍艦及軍隊の発差を要するときは軍令部長海軍大臣に商議 (注8) し部長案を具し上裁を経て大臣に移す 」
(注8) 「商議」 : 一般的には “相談、協議” の意味ですが、旧海軍においては軍令部長と海軍大臣の間についてのみ使用された用語です。
同じように海軍大臣に “移す” とされています。 したがって、平時 (開戦前) に国防上の必要があって海軍の部隊を動かすときには、軍令部長によって勅裁を得た軍令を実際に処理するのは海軍大臣なのです。
ただしこれはあくまで平時のことであって、戦時になって大本営が置かれた時には事情は異なってきます。 今度は 「戦時大本営条例」 に従うことになるからです。
ご存じのとおり、「戦時大本営条例」 は明治25年5月に制定され、日露戦争直前の明治36年12月になって改正されましたが、その内容は次の通りです。
したがって、2月11日には戦時大本営が置かれたことにより、以後の用兵に関する統帥命令に関しては、奉勅命令の伝達も含めて、海軍大臣を経ずに全て大本営海軍幕僚長たる軍令部長が直接行うこととなりました。
これは2月11日付けの 「官房機密第364号」 によって海軍大臣から海軍各部へ念押しの電報が発信されましたが、実際、2月13日付けの 「聯隊機密第126号」 でも次のように確認することができます。
これを要するに、冒頭の 『極秘明治378年海戦史』 の記述については
戦時大本営が置かれる2月11日以前に、海軍軍令部によって起案された 「大海令第1号」 が軍令部長によって帷幄上奏されて勅裁を得た後、海軍大臣が連合艦隊司令長官に伝達した。 そして命令の細部説明のためにこれを起案した軍令部担当者が佐世保まで持参した。
ということです。
これは平時の手続きとして何の問題もないわけで、別に法令に違反して海軍大臣が海軍軍令部長を差し置いて伝達したわけではありませんし、また海軍軍令部の山下大佐が意味もなく所掌外の文書を運んだわけでもありません。
ましてや、海軍大臣が勅裁を得ずに大海令を出したり、自分が起案して直接上奏するなどは、絶対にあり得ないことは言わずもがなです。
したがって、『別宮暖朗本』 でこの著者が滔々と書く、
山本は開戦当時、営業部長も兼ねているような外観を呈した大海令 (大本営海軍部命令) 第1号を出した。 その内容は 「東洋における露国艦隊を全滅すべし」 であり、海軍大臣山本権兵衛が命令者なのである。 明治憲法に従えば統帥権は天皇に属するのであって、勅令命令である限り、(天皇のスタッフである) 軍令部長が艦隊司令長官に命令すべきである。 山本は、他の諸国における 「戦時においては陸軍参謀総長が海軍軍令部長に優先する」 という常識にあくまで逆らった。 これはまったくの反陸軍 = 海軍セクショナリズムであって、1945年まで日本はこれに苦しむことになる。 山本が大海令1号の命令者になったのは、統帥権一元化を阻む意図があったのだろう。 (p141) (p148−149) |
は、全くの誤りであり、ウソであることがお判りいただけたでしょう。 特にその後半は “知らない、判らない、調べていない” を棚に上げたうえでの、ただの戯言でしかありません。 お粗末に過ぎます。
(この項続く)