2016年09月18日

大井上博著 『魚雷』


先程本家サイトの今週の更新として、引き続いてご来訪50万名達成感謝記念企画の第3弾、工学博士の大井上博氏 (1901-1966) が昭和17年に海軍省の検閲を受けて山海堂出版部より出版した 『魚雷』 を 『史料展示室』 コーナーにて公開しました。

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   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/45_torpedo_ohoinoue.html

魚雷というのは元々が機密レベルの高いものとはいえ、内容的には出版当時からすると少々古いもので、かつ多くは一般に公開されているものに基づいていますが、流石は工学博士らしく魚雷全般について網羅し、かつ足が地に着いた記述となっています。

ビジュアル的な見栄えの良いものがもてはやされる昨今ですが、こういった基礎から丁寧に解説されたものはあまり見かけません。 その意味でも貴重であり、この方面に関心のある方々の入門書としても格好の一冊と思います。

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2016年09月12日

桜と錨の独り言


旧海軍の電波探信儀について、主電源については公開されている旧海軍史料の中に各種電探のものが明記されているんですが ・・・・

某所で質問されている方、この方は確か以前も艦艇装備品の電源について同じ様な疑問を呈されていたかと。

そもそも艦艇とその装備品の電源がどういう関係にあるのかきちんと理解していれば、この類の疑問は出て来ないんですがねえ (^_^;

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2016年09月11日

写真集 『海気集』 公開


本家サイトの今週の更新は、ご来訪50万名達成記念の感謝企画第2弾として、『懐かしの艦影』 コーナーにおいて昭和36年に 「防衛友の会本部」 によって編纂・刊行された海上自衛隊写真集 『海気集』 を公開しました。

kaikishu_cover_s.jpg

     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/photo_cont.html
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/kaikishu/kaikishu.html

現在では海上幕僚監部や各地方総監部などからその都度その都度の写真などが公開され、またネット上でも多くのファンの方々から様々な写真がUPされておりますが、この種の普段の部隊の様子を紹介する纏まったものはまず見かけません。

( 私などからすれば、本来なら 「水交会」 などが一般に対する啓蒙活動の一つとして出すには最適なものと思いますが、現在の同会にはそのようなつもりはないのでしょうね ・・・・ (^_^; )

加えて、海上自衛隊創設初期の写真集というのも今日においては大変に珍しいものであり、その意味でも貴重なものと言えるでしょう。

写真集とはいっても通常の1ページ1葉のものではありませんで、いわゆる “パンフレット” 形式ですので、全頁を1つのPDFファイルとしました。

ただし元々の画質があまり良くありませんのでその点はご了解ください。

55年前の出版物ですが、出版元の 「防衛友の会本部」 というのも現在ではネット検索しても見当たりませんし、著作権の現状について確認するにも個人としては限界があります。

しかしながら、当時の海上自衛隊を紹介するこのような素晴らしい写真集がこのまま埋もれてしまうのは大変に勿体ないことと思い、私個人の独断と責任において公開する次第です。

したがいまして、現在の正当な著作権保有者からの連絡をいただきました場合には、削除などの措置をとらせていただくことが前提であることは申し上げるまでもありません。

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2016年09月10日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続)


始めに 「武蔵」 沈没からの生存者の状況について少し整理してみましょう。

まず沈没からコレヒドール島到着までです。

10月24日
  1918 「武蔵」 沈没 (「清霜」 の記録では1940、「武蔵」 の記録では1935)
  1932 「浜風」 救助作業開始
  2026 「清霜」 救助作業開始 (2013 第2カッター降下)

10月25日
  0057 「清霜」 救助作業終了
  0120 「浜風」 救助作業終了

この時に収容された 「武蔵」 の生存者は両艦の戦闘詳報・戦時日誌などにより次のとおりとされています。

  「浜風」 : 准士官以上44名、下士官兵860名、計904名
  「清霜」 : 准士官以上31名、下士官兵468名 計499名
  合計  : 准士官以上75名、下士官兵1328名、計1403名

ただし、「武蔵」 は沈没した 「摩耶」 の乗員を収容しており、被害が酷くなった1830頃 「島風」 を横付けして移乗させていますが、応急関係員などはそのままとなっておりますので、沈没時に救助された人員にこれらの生存者が含まれていたかどうかは不明です。

  0140 「浜風」 コロン湾 (注1) に向かう
  0214 「清霜」 コロン湾に向かう

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( シブヤン海、コロン湾、マニラの位置関係 元画像 : Google Map より )

両駆逐艦長は協議の上、取り敢えず 「武蔵」 が損傷時に向かっていたコロン湾にそのまま向かい、同湾で上級司令部からの指示を待つことにしました。

その途中で第1遊撃部隊指揮官から両艦宛に次の命令が届きます。

1YB機密第242138番電
武蔵乗員を 「マニラ」 に輸送したる後 「コロン」 湾に回航妙高艦長の指揮を受け同艦及び日栄丸の警衛に任ずべし

この電報がいつ両艦に着信したのかは不明ですが、両艦はそのまま引き続きコロン湾に向かいます。

  1306 「清霜」 コロン湾着
  1455 「浜風」 コロン湾着

  1830 両艦コロン湾発、マニラに向かう

このコロン湾仮泊中に重傷者を在泊中の他艦に移したとするものもありますが、記録などはありませんので詳細は不明です。

コロン湾出港直前に 「浜風」 は第3南遣艦隊及び第31特別根拠地隊 (以下 「31特根」 という) へ次の電報を発信しています。

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( 「浜風」 の発信電報内容 元画像 : 防衛研究所所蔵資料より )

ここに示す 「武蔵」 生存者数は、准士官以上80名、下士官兵1343名の計1423名 となっており、先の救助作業直後の数とは多少異なっておりますが、コロン湾仮泊中に再確認した結果であり、少なくとも 「武蔵」 沈没時に救助した人員数 (便乗者等を含む) としてはこの値が最も正しいものと考えられます。 (注2)

10月26日
  0902 「浜風」 キャビテ軍港桟橋着
  0935 「清霜」 「武蔵」 乗員を 「浜風」 に移乗させた後マニラ港桟橋に横付けし補給
  1200 「浜風」 キャビテ発
  1303 「浜風」 コレヒドール着 「武蔵」 乗員退艦
  1446 「浜風」 コレヒドール発

先の電報にあった要収容負傷者についてはキャビテにおいて海軍病院に送られたのかどうかは不明です。

ここまでが 「武蔵」 の生存者がコレヒドール島に到着するまでの状況の概要です。

これを見る限りでは、「武蔵」 の生存者の収容先がコレヒドール島となったことは、両艦がマニラに到着するまでは、両艦はもちろん第1遊撃部隊司令部も知らなかったと言えるでしょう。

したがって、同島への収容は第3南遣艦隊あるいは31特根の都合による判断と考えるのが自然です。

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( 元画像 : 1944年の米軍地図より )

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( コレヒドール島 元画像 : 1944年の米軍地図より )

ではなぜコレヒドール島だったのか?

これはお考えいただければすぐお判りのように、急に1400名もの人員を収容できるような施設はマニラの31特根といえどもそうそうあるわけではありません。 しかも後でお話しするように、「武蔵」 生存者1400名は取り敢えずは分散配置せずに一纏めにしておく必要があります。

当時はマニラ及びその周辺に海軍部隊の収容可能な施設はいくつかありましたが、マニラ防衛のために送り込まれる部隊はもちろん、多数の沈没艦船の乗員が所在しており、一挙に1400名もの人員を収容できる施設はそう簡単には確保できなかったと考えられます。

その一方で、コレヒドール島には19年9月までは31特根の僅かな部隊が配置されていたにすぎませんでしたが、9月に震洋隊1隊が配置されたのを皮切りとし、以後震洋隊、防空隊、設営隊などが次々と送り込まれることとなり、このための施設の増設が急ピッチで進められていました。 また、マニラ湾港防備強化のための更なる人員増加の必要性も見込まれていました。

このため 「武蔵」 生存者1400名がマニラに到着した時、彼等の処遇が決まるまでの取り敢えずの仮施設としても、コレヒドール島は当時最適な選択肢であったと考えられます。


さて次がその後の状況になります。

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(注1) : コロン湾 (Colon Bay) はパラワン諸島の北東端にあるブサンガ (Busuanga)、クリオン (Culion) 及びコロン (Colon) の3つの島で囲まれる天然の良港です。

ここコロン湾は連合艦隊の泊地・作業地として海軍部内ではよく知られたところで、この捷号作戦時でも使用していました。 実際、「武蔵」 生存者を運んだ 「浜風」 「清霜」 は再補給の後、損傷艦艇の応急修理のための派遣修理班90名をキャビテ軍港からこのコロン湾まで運んでおります。

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( 元画像 : 1984年のONCシリーズより )

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( 元画像 : 1960年の米軍地図より )


(注2) : 「武蔵」 の戦闘詳報によると、救助した 「摩耶」 の乗員を除き

   出撃時 : 准士官以上 112名 (その他便乗者等 7名)
        下士官兵・傭人 2287名 (その他便乗者等 11名)
        計  2399名 (その他便乗者等 18名)
   生存者 : 准士官以上 73名 (その他便乗者等 4名 3名は記録無し)
        下士官兵・傭人 1303名 (その他便乗者など 11名)
        計 1376名 (その他便乗者等 15名 3名は記録無し)

とされており、「浜風」 「清霜」 2隻による救助記録の合計より若干少なくなっております。

「武蔵」 戦闘詳報はコレヒドール島上陸以降、後になって書かれておりますので、もしかするとコロン湾あるいはマニラで移したとされる重傷者の数が入っていないのかとも考えられます。

また 「武蔵」 戦闘詳報の戦闘経過の中で 「島風」 への 「摩耶」 乗員移載の際に応急関係員は残したとされていますが、人員表の中にはこの数がありません。

したがって、便乗者等を除く 「武蔵」 乗員の正確な生存者の数については、結局のところ今日もなお確定的なものは無いと言えるでしょう。

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前 : 「武蔵」 生存者は隔離された?

次 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続2)

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2016年09月06日

「武蔵」 生存者は隔離された?


これもまずご来訪の皆さんのご意見をお聞きした方がよろしいかと思います。

戦後通説として言われていることの一つに、「武蔵」 がシブヤン海で沈んだ時の生存者は2隻の駆逐艦によって救助され、当初はマニラに運ばれる予定だったものが急遽コレヒドール島に変更となり、「武蔵」 沈没の事実を秘匿するためにここに隔離されたということがあります。

この “沈没の事実を秘匿するため” というのは本当だったのでしょうか?

先日放映されたNHKのドラマ 「戦艦武蔵」 でも、生き残りの乗員が主人公達にその様に回想する場面がありますが、さて実際は?

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次 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続)

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2016年09月05日

将旗と長旗 ・ 続


艦長が海軍少将である (に進級した) 場合、その艦に掲げる指揮官旗は何であるかをお尋ねしました。


皆さんから回答をいただいたとおり 「長旗」 で正解です。

旧海軍の場合は 「海軍旗章令」 (昭和7年勅令359号) で次の様に規定されているとおりで、


第十九條 将旗は指揮権を有する海軍大将、海軍中将又は海軍少将の旗章とし海上勤務の司令長官又は司令官に在りては其の座乗する艦船に、・・・ (以下略)

第二十一条 代将旗は司令官たる海軍大佐の旗章とし ・・・ (以下略)

第二十四条 長旗は各艦船を指揮する海軍将校の旗章とし ・・・ (以下略)

したがって、海軍少将といえども艦長は長旗を掲げなければなりません。

でもこれ、その筋では結構有名な方でも間違えておられました。 突然 “海軍少将の艦長なら少将旗でななければ” と言い出されてビックリしたことがあります (^_^;


では、人事規則上海軍少将が艦長となり得るのか、ということです。

ご存じのとおり、艦長に配置される者の階級はその艦の 「定員表」 で定められています。 先の例で言いますと 「武蔵」 の場合は海軍大佐です。

また海軍の伝統と慣習から、将官の階級に対する処遇として、大佐から少将に進級した場合はその進級と同時にしかるべき配置に補職替えとなるのが普通です。

この定員表に定められた階級については、「海軍定員令」 (大正2年内令34号) により

第十条 必要に応じ海軍定員及び補欠員の範囲内に於いて一時本令別表に依る各定員表所定の官職階に依ることなく配員することを得 但し上級者を以て下級の位置に充てるはやむを得ざる場合に限る

として定員表に定める階級より下位者を補職することは出来ますが、上位者を充てることは余程のことが無い限り (例えば国外派遣中の艦艇で死亡した場合のその交代など) できませんでした。

しかしながら戦時ともなるとそうも言っておれなくなり、その一つとして昭和13年には内令899号により、大東亜戦争中は戦艦及び航空母艦の艦長は一時少将を充てることができるとされたのです。

更にこれは、昭和19年の内令592号により、大尉以上少将までは全ての定員において一階級上の者を充て得るように改正されました。

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したがって、猪口敏平大佐の場合途中で少将に進級してもそのまま 「武蔵」 艦長であることは旧海軍の人事規則上は問題なかったのです。

とはいっても、もちろんこれは戦時における特例中の特例であり、古今東西の海軍でも極めて異例なものであったことは間違いありません。

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「将旗と長旗」 :


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2016年09月04日

本家サイトご来訪50万名達成感謝記念企画第1弾


本家サイトは先週ご来訪50万名を達成しました。 今回はキリ番を踏まれた方からの申告もいただきましたので、キリ番賞の粗品を差し上げたところです。

そして本日は本家サイトの定期更新に合わせ、その達成感謝記念企画としての第1弾をUPしました。

第1弾は、明治40年に時事新報社が邦訳出版した 『露艦隊三戦記』 で、これは同社が先に出した 『露艦隊来航秘録』、『露艦隊幕僚戦記』 及び 『露艦隊最期実記』 の3つを改めて1冊に纏めたものです。

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    http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
    http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/44_rokantai_sansenki.html
 
バルチック艦隊の大遠征と日本海海戦における様子については、日露戦争直後に出されたプリボイの 『ツシマ』 がよく知られ、日本においてもこれまで幾度か邦訳版が出ています。

しかしながらこれは良く言って “戦記物”、一般的に評価すれば “小説” に過ぎません。

これに対してこの 『三戦記』 はそれぞれが当事者たる将校及び同相当官の手になるものであり、史料的価値についてはこちらがはるかに高いと言えます。

気軽に読めるロシア側の記録としてお楽しみいただければと思います。

なお、現在ではこの内の 『来航秘録』 と 『幕僚戦記』 は 「近代ディジタルライブラリー」 にて公開されていますが、残念ながら例によって画質は良いとは言いがたいものがあります。

( しかも何故か検索ページのタイトルと内容が相互に反対になっています (^_^; )

今回本家サイトで公開しましたのは、それぞれの全頁を1つのPDFファイルにしたもので、例によって印刷と加工は出来ない設定としておりますが、いつものロゴや透かしなどは入れておりません。

どちらをご利用されるかは皆さんのニーズに合わせてでよろしいかと。


なお、引き続き第2弾以降も準備出来次第順次公開する予定です。 お楽しみに。

posted by 桜と錨 at 23:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月02日

将旗と長旗


ご存じのとおり、旧海軍や海上自衛隊に限らず、古今東西の海軍にはその指揮官旗として将旗・代将旗と長旗が定められています。

将旗は指揮官配置にある将官、代将旗は将官配置にある大佐がその旗艦あるいは陸上司令部などに掲げ、そして長旗は海軍将校が指揮する (=艦船の長である) 艦船に掲げられます。

旧海軍の場合、これらの旗は次の様式のものでした。

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ではここで皆さんにお尋ねします。

艦長が少将であるというのは戦時の途中進級でも無い限り大変に珍しいケースではありますが、人事規則による補職上あり得ないことではありません。

実際に旧海軍では、太平洋戦争中に 「武蔵」 の艦長であった猪口敏平大佐が途中で少将に進級し、シブヤン海の戦闘において 「武蔵」 と運命を共にした例があります。

では猪口艦長が少将に進級した時、「武蔵」 には長旗に代わり少将旗が新たに掲げられたのか、あるいはそのまま長旗だったのかどちらでしょう? あるいは代将旗などの他の旗だったのでしょうか?

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2016年08月29日

朝雲新聞


一般の方々にはあまり馴染みが無いかもしれませんが、防衛省・自衛隊部内やミリタリー関係に興味のある人には有名な、陸海空3自衛隊や国内外の軍事関係ニュースを中心に特化した朝雲新聞社発行の 「朝雲新聞」 というのがあります。

この新聞に毎月1回掲載されております 「世界の新兵器」 コーナーで、これまで海上兵器の担当であった小滝國雄氏がご都合により交代されることになりましたので、私が換わって担当させていただくことになってしまいました (^_^;

8月25日付の紙面でその第1回目が掲載されましたが、何しろ初めてですので手堅くという意味もあって、現在艤装が進められております掃海艦 「あわじ」 のことを切っ掛けとして、FRP製の掃海艇のお話しからです。

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( 文字が小さくて内容は読めないかもしれませんが ・・・・ 自衛隊及びミリタリー関係に興味のある方は是非定期購読を、っと宣伝してみる (^_^; )

陸海空と誘導武器の担当者が持ち回りですので4ヶ月に1回となりますが、海担当の私としては、技術者ではなく用兵者としての視点から、平易で判りやすい内容で、読者の方々に興味を持っていただけるようなテーマを選んでいきたいと思います。

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2016年08月19日

合戦準備における木甲板の砂撒き


少し前に某巨大掲示板で話題になっておりました艦艇において合戦準備の際に木甲板に砂を撒くといことについてです。

当該掲示板では HN「hush」 さんがいつも通りの豊富な知識を活かして頑張っておられましたが、こちらで少々補足を。


帆船時代を含めて、艦艇では合戦準備の一貫としてまず木甲板を水で流します。

帆船時代は水兵達は裸足の者が多かったため(多少なりとも) 足裏を傷つけないようにするためと、火災予防のためです。 (そして日本海海戦時には甲板上に搭載した石炭を艦内格納又は海中投棄した後の清掃を兼ねていました。)

そして更に重要なことは、砲弾が木甲板に当たった場合、これにより飛散した木片による負傷を少しでも少なくするためです。 乾燥してささくれだった木片が人体に食い込んだ時には、ペニシリンが無かった当時としては時として致命的で、基本的には手足を切断することになりますが、多くの場合失血や感染症で命を失いました。

この水洗いの後に、木甲板に湿った砂を撒きます。 これは良く言われるように滑り止めのためであり、また流れ出た血の広がりを抑えるためでもあります。

ただしこれは人員のためであって、大砲の滑り止めなどにはなりません。


何時撒くのか。

基本的には合戦準備の一貫としての作業ですが、帆船時代を始め船の速力が遅い時代は敵艦が見えてからでも十分に間に合います。

しかし甲鉄艦の時代になって速力が早くなっるに連れて合戦準備は会敵前の比較的早い段階に終えるようになると、これでは戦闘時に木甲板と砂が乾いてしまい、目的の効果が無くなりますので、合戦準備後会敵までの適当な時期を見計らって実施することになります。


どの範囲に撒くのか。

目的が人員のためですので、原則として人が戦闘配置として就いている場所、つまり露天舷側砲などであり、そして人が頻繁に通る場所、つまり運弾通路となるところなどです。

したがって、帆船時代などでは木甲板全体にわたる広範囲なものとなりますが、甲鉄艦となった以降はその必要とされる範囲は次第に限定されたものとなります。

(もちろん、木造船時代と甲鉄艦時代とでは木甲板の意味合いが異なることは申し上げるまでもありません。)


誰が撒くのか。

帆船時代のように広範囲に撒く場合にはそれこそ総員作業になり、副長などの指示により一斉に行うことになります。

しかしながら甲鉄艦時代となると、戦闘時に木甲板の露天甲板に出る必要のある人員は次第に限定されてきます。

したがって、作業は砲員及び運弾員に指定された兵員がその中心となり、次第に総員作業から砲術科の通常の合戦準備作業の中の一つになってきます。

これは砲側に諸工具・用具などを準備したり、撃ち殻薬莢の跳躍防止用のマットを敷いたりするのと同じです。

このため、木甲板の水洗いや砂撒きなどはわざわざ艦の戦闘詳報などで採り上げて記載するまでもなく単に 「合戦準備」 の中に含まれることになりますし、更にはまた昭和期には艦としての合戦準備事項の一つとして規定することも無くなって来ました。


ですから、hush さんの言われるように日露戦争期でさえ戦闘詳報などに当該事項の記載が見られないというのは自然なことなのです。

しかしながら、本ブログで連載しました 『日露海戦懐旧談』 の中でも出てきますように、これが淡々と実施されていたことは明らかです。

ただし、日本海海戦などにおいても、これがどの程度の効果があったのかについては不明で、各艦の戦闘詳報や戦訓などにおいて記されているとおり、既に個艦における防禦措置としての重きはこれには無かったことは確かです。


いつ頃まで行われていたか。

上述のとおり、木甲板そのものが少なくなり、かつ露天甲板に配置される人員が少なくなったことと、運弾員など甲板上を動き回る兵員は戦闘時には底がゴムの布製ズック又は厚手の地下足袋を多く着用したことから、木甲板の砂撒きは昭和期までには必要な個所を必要に応じて各艦、各部署ごとに実施するようになったと考えられます。 もちろん太平洋戦争期でもある程度は行われていたであろうことは想像に難くありません。

また砂巻きは鉄甲板では意味がありませんし、リノリューム甲板では材質表面を痛めることにもなります。

そして鉄甲板のところは、砲座なども含めて必要な個所には波形の滑り止めがついたものを使用したことはご存じの通りです。


現在では掃海艇などを除けば鉄甲板以外の艦艇はまずありませんが、戦闘時に限らず普段でも濡れた鉄甲板は滑りやすいため、某巨大掲示板でも紹介があったように、海自では通路 (歩行帯) 指定個所に砂を撒いてその上から塗料で塗り固めて滑り止めとしています。

もちろん米海軍などではそんなけちくさいことはせずに滑り止めの塗料を分厚く塗っていますが (^_^;


では最後にご来訪の皆さんに質問です。

木甲板に撒く砂は、この合戦準備作業として使用するために艦にわざわざ搭載しているものなのでしょうか?

(8月21日追記):

実はこの砂は合戦準備作業用のためだけではなく、平時から木甲板の保存・手入れ用に艦に常備しているものなんです。

木甲板を常に正常で綺麗な状態に保つためには大変に手間暇がかかります。

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毎朝の水洗いのみではなく、必要に応じて掃き掃除をしてゴミなどのないようにすることはもちろんですが、雨や海水を被った後はこれを拭って常に乾燥した状態を保たなければなりません。

そして艦の振動や気候の変化により木板と木板の間に隙間が出来たり、詰め物が欠損したような場合には、見つけ次第中に水が染み込まないように補修をする必要があります。

また、もし油性のものを溢してしまった時には、石灰などを使ってシミにならないようにしなければなりません。

しかしながらここまでやっても、それでも経年変化とともに木甲板の表面は水垢などによって変色し薄汚れてきます。

そのため、定期的に木甲板の表面を綺麗にする必要が出てきます。 これは檜の浴槽などをお考えいただければお判りいただけると思います。

つまり、サンドペーパーや鉋を使う代わりに、この砂で磨くわけです。 もちろんこれを頻繁にやりますと木甲板はすぐに磨り減ってしまいますので、これを行う時期を見極める必要があります。

戦艦などにおいては、こうして木甲板を常に綺麗な状態を保つために大変な手間暇をかけて、その威容を保持していたのです。


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2016年08月16日

邦訳版 ジェリコー著 『グランド・フリート』 完成!


ブログ 『軍艦三笠 考証の記録』 を主催されるHN 「八坂 八郎」 氏が私家版として邦訳出版されているジェリコーの 『グランド・フリート』については、既に第1巻と第2巻をご紹介してきたところです。


この度、残りの全てを第3巻として出され、これにて同書の邦訳が完成しました。

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今回の第3回は、分量的には前2冊を合わせたくらいの厚さがあります。

そしてこれまでと同じくビニール・カバーのついた大変に綺麗な装丁で、また付図が大きなA3サイズで別になっているのも嬉しいところです。

もちろん本文の訳も例によって丁寧で、かつ判りやすい日本語になっていることは申し上げるまでもありません。

やはりこういった有名な古典が日本語で読めるというのは嬉しいことですね。

この方面に興味のある方は、入手方法など、氏のサイトから直接コンタクトをとってみて下さい。 (プロフィール欄からメッセージが送れます。)


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2016年07月17日

『一般計画要領書』 への追加公開


本家サイトの今週の更新として、しばらく間が開いてしまいました 『史料展示室』 コーナーの造工史料 『一般計画要領書 潜水艦の部』 へファイルを追加しました。


今回は、先日本家サイトの掲示板でも話題になりました 「伊6潜」、水中高速タイプ (潜高型) の 「伊201型」、そして実用性の高さが評価された 「呂35潜型」 の3つです。

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潜水艦の部は、当該頁のリストにありますようにまだまだ多くのものが残っておりますが、今後とも少しずつ追加していく予定です。


この造工史料は親しくお付き合いさせていただいておりますHN 「閑居不善庵」 氏のご厚意により複製をいただいて順次ディジタル化したものすが、この様な貴重なものを私のサイトで公開できることは大変に嬉しく光栄なことです。

しかしそれにしても、この史料はいまだにどこからも纏まった形で出てこないのはどうしたことなのでしょうか?

本来ならば私のところの様な個人サイトではなく、キチンとした組織・機関のサイト、あるいは出版物として公開されておかしくないものと思いますが ・・・・ ?

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2016年07月16日

『世界の艦船』 8月号増刊


間もなく 『世界の艦船』 8月号増刊 (通刊843号) として 『傑作軍艦アーカイブ A 米空母 「レキシントン」 型』 が発売となります。

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この中で私も 「メカニズム A 兵装」 の項を担当させていただきました。

ただ、割当の紙幅からは 「レキシントン」 と 「サラトガ」 2隻の兵装の変遷を追うのがやっとですので、残念ながらその個々の兵器の詳細まではほとんど行き着きませんでした。

それでも各種データなど今まで無かった内容についてかなり盛り込めたと自負しております。

増刊号全体の構成も大変バラエティに富んだものとなっております。 書店の店頭で見かけられましたら是非手にとってご覧ください。


う〜ん、それにしても表紙の写真は、「サラトガ」 が後進しながらF4B戦闘機が逆向きに艦尾方向へ発艦しつつある珍しいもので、この辺は編集部さんの遊び心ですね (^_^)

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2016年07月03日

『海軍須知』 コーナー開設


本家サイトの更新として、旧海軍についての基礎的・基本的な事項を解説する 『海軍須知』 コーナーを設けました。


当面は本ブログで過去に採り上げたもので、世間に誤って流布されていることや誤解されていることなどを中心にして、これらを纏め直して掲載していく予定です。

第1回目は 「戦闘旗」 と 「海軍における挙手の敬礼」 の2つです。

battle_flag_2_s.jpg  salute_01_s.jpg

前者は平成20年に同じ軍艦旗でも艦旗と混同していることについて、後者は平成22年 “海軍式敬礼” なるおかしなものの誤りについて、それぞれ本ブログで記事にしたものです。

ブログですと古いものは流れていってしまいますので、今回本家サイトで改めて記事にし直しました。

お陰様までこれらについてはブログ掲載以来、現在ではネット上でもウィキなどを始めとしてかなり直ってきておりますので、私としては嬉しい限りです。

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2016年06月01日

船底に穴はいくつ ?


普段海上からは見えない艦艇の喫水線以下ですが、この船底に一体いくつの穴が開いているかご存じでしょうか?

Asakaze_JO_trng_rep_01a_s.jpg

また、艦艇には重油や真水などのタンクが船底部に配置されていますが、どのようなタンクがいくつ、どの様に置かれているのかご存じでしょうか?

Asakaze_JO_trng_rep_01b_s.jpg

これらは一般の方々にとってはある意味 “トレビア” の類の話しですが、逆に艦船に興味がある方々にとっては出版物でもネット上でも案外これらについて詳細に説明したものが少ないのもまた事実です。

そこでちょっと古いですが、ご参考までに現代の護衛艦における一例として、私が三菱長崎で 「あさかぜ」 の艤装中に作成したものをご紹介します。

Asakaze_JO_trng_rep_01_s.jpg
(クリックするとPDF版を表示します)

米国留学から帰国した後、「あさかぜ」 初代ミサイル士予定の艤装員として約10ヶ月間勤務しましたが、就役前に最後のドック入りをした時に、何を思ったか艤装員長 (初代艦長予定) から初級幹部に対して課題が出されました。

次の3つについて実地に調べて書面で報告せよ、と言うものです。

   船底諸弁など開口部について
   汚物処理タンクについて
   諸タンクの配置、容量、用途について

もちろん機関科の図書などを写すのではなく、各自でドックの底に潜り込んだり艦内をくまなく回って調べろと言うものです。

こういうことは私は得意ですので、実はあっと言う間に作り上げてしまったのですが、それはそこ、あまり早く提出してはズルをしたと思われるのもイヤですから、2週間ほどしてから (^_^;


この 「あさかぜ」 も既に退役していますし、「たちかぜ」 型3隻も全艦除籍されて久しくなりました。 今となっては懐かしい思い出の一つですね。

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2016年05月29日

旧海軍の従軍記章と記念章


本家サイトの 『談話室』 にて 「大正三年乃至大正九年戦役従軍記章」 と 「支那事変従軍記章」 の授与範囲についてお尋ねがありましたので、本家サイトの今週の更新として 『海軍法規類集』 コーナーで旧海軍の各種の従軍記章及び記念章記章に関する規定を追加公開しました。

T03-09_medal.jpg
( 大正三年乃至九年戦役従軍記章図式 )

china_incident_medal.jpg
( 支那事変従軍記章図式 )

また、『水雷講堂』 コーナー中の旧海軍の魚雷及び同発射機一覧の頁を更新しました。

旧海軍の魚雷はともかく、その発射機については太平洋戦争期以外のものはほとんど知られておりませんので、取り敢えず水上発射管について旧海軍の公式史料から纏めてみました。 まだ抜けがあるかもしれません。

なお、これら各種の魚雷及び発射機の詳細については今後機会をみて順次公開していくつもりにしております。

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2016年05月24日

錨と錨鎖の話し (9・補)


捨錨準備の補足

HN 「きのけんさん」 から前回の捨錨の話しに関連して次のような補足質問をいただきました。

駆逐艦の錨を引き上げられるワイヤの直径となるとどのくらいになるのでしょうか。
また、図にあるワイヤと丸材との締結部は捨錨時に順次勝手に切断されていくよう、ワイヤよりも強度の弱いシュロ縄などで締結されているのでしょうか。


事前に捨錨準備を行う余裕がある場合には、すでに荒天錨泊として十分な長さの錨鎖 (一般的には 4x水深(m)+145m) を出しておりますので、収錨時にこの鋼索に直接錨の重量がかかるようなことはありません。

したがって、鋼索にはこの錨鎖を引き揚げるのに必要な強度が求められます。 旧海軍においては通常は錨鎖2節 (50m) 程度に耐えられるものとされています。

これは錨鎖の1節の重量と鋼索の強度から簡単に計算することが可能ですが、一般的には更に簡単にして、軽巡程度以下の艦艇においては錨鎖の径に応じて次表のものを用いることとしていました。

shabyou_03.jpg

特型駆逐艦等でも錨鎖径は40ミリ程ですので、24ミリ以上の鋼索を使用することになります。


鋼索を綰ねて外舷側に用意した円材に順次 「雑索」 と呼ばれる麻索の細索で固縛していきますが、この結び方は 「曳索結び」 と呼ばれるものです。 ただし、商船などで用いられるものとは少し異なり、「ふた結び」 と 「ねじ結び」 とを組み合わせた特種なものです。

shabyou_04.jpg
(ちょっと綺麗な図がありませんので (^_^; )

shabyou_05.jpg    shabyou_06.jpg
( ふた結び )      ( ねじ結び )

shabyou_07.jpg
( 一般的な曳索結び )

捨錨時には前甲板指揮官の 「スリップやれ」 の号令によりスリップを切る (ハンマーで掛け金を外す) のと同時に最初の2〜3ヶ所をナイフで切り、あとは鋼索の走出状況を見ながら、次々と切っていきます。

もちろん、鋼索の張力がかかった時は自然に切れますが、この場合円材などを壊すおそれも出てきます。

この固縛索を切るのも危険な作業になりますので、熟練の運用員や砲術科員(通常は前甲板の作業員)が当たりますが、スリップ操作とともにいつも緊張する瞬間です。

なお、上記の鋼索を使用しますので、示錨浮標索もこれを引き揚げるためにそれなりのものが必要になることは申し上げるまでもありません。

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前 : 「錨と錨鎖の話し (9)」

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2016年05月22日

錨と錨鎖の話し (9)


捨錨 ・ 収錨 ・ 探錨

以前 『錨と錨鎖の話し』 として連載し8回で止まってしまっていますが、HN 「きのけんさん」 から捨錨に関連して次のようなご質問いただきましたので、前回の続きではなく単発頁として追加いたします。

捨錨時には錨にブイを付けて目印にする、とありますが、ブイを目印に位置は確定できるとして、回収時の揚錨はどのような手順で行うのでしょうか。
錨とブイをつないでいるラインはそれによって錨を引き上げられるほど頑強なものとは思えません…。


ご存じのように 「捨錨」 と言いますのは、荒天錨泊中などにおいて緊急で出港する時に錨を揚収する暇が無い場合に錨鎖を切ってそのまま錨と錨鎖を海底に残したままとすることです。 もちろん後でこれを収容しますが、これを「収錨」と言います。

捨錨する必要が出てくることを予期されるような場合には、錨泊した後で 「捨錨準備」 という作業を行います。 その準備が完成した形が次の図のようになります。

shabyou_01.jpg

つまり、錨鎖を一節ずつ繋いでいるケンターシャックルを錨鎖を固定しているスリップの直ぐ後ろ側になるようにし (捨錨準備に関係なく、錨泊時は “船乗りの躾け” として常にそうしています)、外舷に錨鎖を引き揚げるのに十分な強度の鋼索 (ワイヤー) を図のように準備してその一端を錨孔の外側から回してここに仮止めしておきます。 そして鋼索の他端に示錨浮標と浮標索を結んでおきます。

実際の捨錨時には、ケンターシャックルを外して切り離した錨鎖の後端に鋼索を取り付けてから、スリップを外して錨鎖を投入し、順次鋼索を伸ばしていきます。 そして適宜の時期に浮標と浮標索を投げ入れます。

したがって、収錨時にはまず示錨浮標を人力で引き揚げてその浮標索を揚錨機に巻き、あとは浮標索、鋼索、錨鎖の順で機力で巻き上げて行きます。


では、緊急時にこの捨錨準備をしていなかった場合や、何かの理由によって錨鎖が途中で切れてしまった場合はどうするのでしょうか?

この場合は色々なやり方がありますが、下図のように自艦の小錨を使って錨又は錨鎖を引っかける方法や、あるいは短艇などを使って錨の爪に索を引っかける方法などはその例です。 これらを 「探錨」 と言います。

shabyou_02a.jpg  shabyou_02b.jpg

小錨の場合はそのまま引き揚げますが、短艇を使用する場合は、錨が引っかかったらこの索のどちらか一端に順次太い索を繋いで繰り出し、錨を引き揚げるのに十分な強度の麻索又は鋼索となったところで、自艦で錨を引き揚げます。

収錨や探錨は天候や海面状況が良くなったらゆっくりやればよいのですが、捨錨は昼夜を問わず荒天の中での緊急作業になりますので非常な危険を伴い、下手をすると甲板員の足の1本や2本は失うことになりかねません。

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前 : 「錨と錨鎖の話し (8)」

次 :「 錨と錨鎖の話し (9・補)」

posted by 桜と錨 at 18:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年04月26日

『世界の艦船』 6月号


まもなく書店の店頭に並ぶと思います、『世界の艦船』 6月号です。

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今月号の特集は 「現代の艦隊防空」 なんですが、1916年5月31日から6月1日にかけて行われた 「ジュットランド海戦」 から丁度100周年を迎えますので、私はこちらの方の記事を担当させていただきました。

『ジュットランド海戦から100年! その意義を検証する』

古今東西の海戦史でもっとも有名なものの一つで、当時から様々な論文や著作物などで採り上げられて来ており、代表的なものだけでも200はくだらないと思います。

それだけに膨大な内容を含みますのでとても月刊誌の一記事に収まるようなことではありませんので、現代の若い方々への “ほんのさわり” ということとなりました (^_^;

いろいろな意味で非常に面白い海戦ですので、本記事をご参考にしていただき、詳細については是非この機会に一度専門文献に当たたられることをお薦めする次第です。


なお本来の特集記事ですが、こちらもテーマとしては大変に広汎なものがありますのでそれぞれ概論とならざるを得ないものですが、それでもちょっと各ハードウェアについての内容が物足りないように思えるのは私だけでしょうか ・・・・ ?

posted by 桜と錨 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年03月20日

本家サイトの 『史料庫』 コーナー開設


本家サイト立ち上げ以来未開説のままとなっておりました 『史料庫』 コーナーですが、今週の更新として、取り敢えずの叩き台の頁を作成し公開しました。


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当該コーナーはこれまで私が研究用として収集してきた旧海軍の史料を中心に、併せて関係する海上自衛隊及び米軍の資料なども含めて、項目毎にリスト・アップしていくものです。

もちろん私の保有しております史料・資料は今では膨大な数になり、かつまだまだ収集・整理中ですので、とてもその全てを網羅することは不可能です。

したがって、手始めに既に本家サイトや当ブログでその名前などが出てきたもの、あるいは 『史料展示室』 コーナーで全文を公開しているものを中心に順次リストに追加して行く予定です。

防衛研究所図書室などにも収蔵されていないものも多数ありますので、皆さんの研究などにおいて、“こういう史料も残されているのか” “そういう資料も作成されていたのか” という参考にしていただければと思います。
posted by 桜と錨 at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと