2010年01月17日

船舶工学の基礎 − タンブル・ホームと復原力 (4の補)

 ところで、

 この縦隔壁のことは、日本海海戦における露戦艦の転覆沈没原因の一つとして、旧海軍にとっても艦艇設計上の貴重な戦訓となりました。

 しかしです、

 旧海軍はこの戦訓を得たにも係わらず、その後の艦艇設計において、遂に今次大戦までそれを活かすことはなかったのです。

 このため、この大区画の縦隔壁の存在が、先の鋲構造の問題と併せ、今次大戦における旧海軍艦艇の浸水被害に対する “弱さ” の重大な一因となっていることは明らかです。

 なぜ旧海軍がこの縦隔壁を止めなかったのか? なぜ日露海戦の教訓が活かせなかったのか?

 これについては福井静夫がかつて次のように書いています。

No021_p076_s.jpg
( 『世界の艦船』 昭和34年5月号 (通巻第21集) より )

 まるで他人事のように、かつ大したことではなかったかのようにサラリとかわしています。

 それはそうでしょう。 平賀譲を持ち上げ、平賀譲 − 牧野茂 − 堀元美・福井静夫の系列だと強調することによって、戦後の艦艇研究家としての自己の正当性とノーブルさを訴えようとした福井静夫にとって、これが大問題とは言えるはずがなかったのです。

 しかし、冗談ではありません。 これこそ、平賀譲を始めとする造船屋さんたちの犯した “大失態” の一つであり、彼らが負うべき重大な責任です。

 改善できたにも関わらず、故意にやらなかった。

 そしてそれを棚に上げて、ダメコン (ダメージ・コントロール) 云々などとさも用兵者側にその責任があるかの如く問題の焦点をすり替えてきたのが、戦後の造船屋さん達のやり方です。

 トップヘビーや船体強度の不足などは 「友鶴事件」 や 「第四艦隊事件」 などの発生によって戦争前に “何とか” 手を打つことができました。

 もちろんそれ故に、藤本喜久雄に替わった平賀譲の技法によって、他の問題を総て覆い隠したままとなったのですが。

 しかし残念ながら、この縦隔壁の問題は今次大戦において実際に戦闘によって艦艇が沈み始めるまで表に出ることがありませんでした。

 旧海軍艦艇史において、本家HPの掲示板で出た鋲構造や軽質油タンクの問題などと併せ、そしてそれ以上に、この縦隔壁の問題はもっと強く指摘されてもよいものの一つです。

 もちろんこの日露戦争後に続く旧海軍の縦隔壁の問題については、当然ながら 『別宮暖朗本』 の中では全く触れられておりません。 この著者が根拠として引用するような書籍類には出てこないからです。
(この項終わり)

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posted by 桜と錨 at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年01月31日

「大海令第1号」 と海軍の軍令

 『極秘明治378年海戦史』 から、

  「 (明治37年2月) 5日、山下大佐到着し、大臣の封緘命令を東郷司令長官に交付せしが、同日更にこれを開封すべきの命あり、是に至り、東郷司令長官は始めて発進の大命を蒙れり 」


 日本が対露開戦を決意し、天皇から連合艦隊に最初に与えられたものが 「封緘命令」 という言葉で有名な 「海大令第1号」 です。 実際には、山下源太郎大佐が持参した封書にはこの大海令ともう一つ、大海令についての海軍大臣から連合艦隊司令長官宛の理由説明書が同封されていました。

 この2つの文書は、原紙そのものは残されていないようですが、その内容については当日の 「連合艦隊戦時日誌」 に次のように記されています。

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 さて、ここで疑問に思われる方がおられるのではないでしょうか?

 そうです。 海大令という海軍の用兵に関する天皇勅裁の統帥命令 (注1) の伝達が、なぜ海軍軍令部長からではなくて、海軍大臣からなのでしょう?

(注1) 「統帥」 : 軍隊を指揮統率すること
「統帥命令」 : 統帥(軍令)機関を通じて伝達又は発出される命令、及び当該命令を承けて各級指揮官が発する命令をいいます。


 そして、この封緘命令の伝達が海軍大臣からであるならば、なぜこれを東京から佐世保在泊の連合艦隊司令長官の所まで持参したのが海軍省の省員ではなくて、海軍軍令部第1班長の山下大佐なのでしょうか?

 実はこれ、そのような疑問を持たれる方は昭和8年に制定された 「軍令部令」 に基づく内容が頭にあるからなんです。

 したがって、日露戦争当時については、明治26年に制定され、明治36年に改正された 「海軍軍令部条例」 によらなければなりません。

 海軍の軍令事項 (注2) を所掌する機関については皆さんよくご存じのとおり、明治元年の建軍に始まって、海軍省軍務局 → 同軍事部 → 参謀本部海軍部 → 海軍参謀本部 → 海軍参謀部 という変遷を経て、明治26年に天皇を輔翼 (注3) する独立機関として 「海軍軍令部」 が設置され、軍政事項 (注4) を所掌する海軍省との明確な2局体制となりました。

(注2) 「軍令」 : 軍隊の統帥に関する命令
「軍令事項」 : 軍令機関の所掌する事務

(注3) 「輔翼」 : 天皇の大権行使を補佐することを意味しますが、天皇の統帥権行使を補佐する意味に主用されます。

(注4) 「軍政」 : 軍部大臣の所掌事務を意味し、国務と統帥の一部を含みます。また、時に占領地行政のことを言う場合もありますが、本項ではこの意味の場合は除きます。


 この時に制定されたのが 「海軍軍令部条例」 です。 そして明治36年の改正においては、軍令部の所掌事項のみを条例で示し、その具体的な機構については軍令部長の定める 「海軍軍令部庶務細則」 で規定する形となりました。 即ち次のとおりです。

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 この第3条に注目してください。

  「 第3条 海軍軍令部長は国防用兵に関する事を参画し親裁の後之を海軍大臣に移す 」


 この “移す” という用語は、ここでは海軍軍令部長から海軍大臣へ一方通行的に行う事務手続きのことで、要するに 「後は海軍大臣が処理せよ」 という意味です。

 つまり、当時は用兵についての奉勅命令 (注5) は、この規定に従って処理されていたわけで、当然ながら 「海大令第1号」 も例外ではありません。

(注5) 「奉勅命令」 : 帷幄上奏の結果発せられる天皇直接の命令

(注6) 「帷幄上奏」 : 帷幄機関が直接天皇に上奏すること

(注7) 「帷幄機関」 : 天皇の統帥権を輔翼する機関のこと。 参謀総長、海軍軍令部長、陸海軍大臣がこれに該当します。 統帥部とも言います。


 したがって、連合艦隊司令長官に対する用兵上の奉勅命令を海軍大臣が伝達することは何の不思議もありませんで、そうするように規定されていたからなのです。

 付け加えるならば、海軍軍令部と海軍省とでの軍令事項と軍政事項の棲み分けとはいっても、実際には海軍大臣も軍令事項の一部を所掌することになります。

 例えば、遠洋航海などを考えていただけばお判りでしょう。 教育・訓練として行う遠洋航海も、練習艦隊を編成して艦船・人員を運用する以上はこれも用兵に関することですから軍令事項になります。

 しかしながら、このようなことまでも軍令部長の所掌とするのでは本来の棲み分けの意義に反しますので、当然のことながらこれは海軍大臣の所掌になります。

 とは言え、用兵に関する事項ですから軍令部長も無視するわけにはいかず、結局 海軍大臣 → 軍令部長 → (勅裁) → 軍令部長 → 海軍大臣 という煩雑な事務手続きが必要となります。

 このように海軍大臣所掌の軍政事項の中にも統帥に関するもの、即ち軍令事項であるのがかなり含まれますので、海軍大臣は国の行政機関でありながら一部統帥機関 (帷幄機関) でもあるという二重の性格を有しており、このため帷幄上奏権が認められています。

 このため、海軍軍令部と海軍省間の軍令事項に関する事務分担を明確にするために定められたのが 「省部事務互渉規程」 です。 「海軍軍令部条例」 と同じ、明治26年の制定です。

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 この第3項にも注意して下さい。

  「 第3項 軍機戦略に関し軍艦及軍隊の発差を要するときは軍令部長海軍大臣に商議 (注8) し部長案を具し上裁を経て大臣に移す 」


(注8) 「商議」 : 一般的には “相談、協議” の意味ですが、旧海軍においては軍令部長と海軍大臣の間についてのみ使用された用語です。


 同じように海軍大臣に “移す” とされています。 したがって、平時 (開戦前) に国防上の必要があって海軍の部隊を動かすときには、軍令部長によって勅裁を得た軍令を実際に処理するのは海軍大臣なのです。

 ただしこれはあくまで平時のことであって、戦時になって大本営が置かれた時には事情は異なってきます。 今度は 「戦時大本営条例」 に従うことになるからです。

 ご存じのとおり、「戦時大本営条例」 は明治25年5月に制定され、日露戦争直前の明治36年12月になって改正されましたが、その内容は次の通りです。

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 したがって、2月11日には戦時大本営が置かれたことにより、以後の用兵に関する統帥命令に関しては、奉勅命令の伝達も含めて、海軍大臣を経ずに全て大本営海軍幕僚長たる軍令部長が直接行うこととなりました。

 これは2月11日付けの 「官房機密第364号」 によって海軍大臣から海軍各部へ念押しの電報が発信されましたが、実際、2月13日付けの 「聯隊機密第126号」 でも次のように確認することができます。

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 これを要するに、冒頭の 『極秘明治378年海戦史』 の記述については

 戦時大本営が置かれる2月11日以前に、海軍軍令部によって起案された 「大海令第1号」 が軍令部長によって帷幄上奏されて勅裁を得た後、海軍大臣が連合艦隊司令長官に伝達した。 そして命令の細部説明のためにこれを起案した軍令部担当者が佐世保まで持参した。

 ということです。

 これは平時の手続きとして何の問題もないわけで、別に法令に違反して海軍大臣が海軍軍令部長を差し置いて伝達したわけではありませんし、また海軍軍令部の山下大佐が意味もなく所掌外の文書を運んだわけでもありません。

 ましてや、海軍大臣が勅裁を得ずに大海令を出したり、自分が起案して直接上奏するなどは、絶対にあり得ないことは言わずもがなです。

 したがって、『別宮暖朗本』 でこの著者が滔々と書く、

 山本は開戦当時、営業部長も兼ねているような外観を呈した大海令 (大本営海軍部命令) 第1号を出した。 その内容は 「東洋における露国艦隊を全滅すべし」 であり、海軍大臣山本権兵衛が命令者なのである。
 明治憲法に従えば統帥権は天皇に属するのであって、勅令命令である限り、(天皇のスタッフである) 軍令部長が艦隊司令長官に命令すべきである。 山本は、他の諸国における 「戦時においては陸軍参謀総長が海軍軍令部長に優先する」 という常識にあくまで逆らった。 これはまったくの反陸軍 = 海軍セクショナリズムであって、1945年まで日本はこれに苦しむことになる。 山本が大海令1号の命令者になったのは、統帥権一元化を阻む意図があったのだろう。
(p141) (p148−149) 

 は、全くの誤りであり、ウソであることがお判りいただけたでしょう。 特にその後半は “知らない、判らない、調べていない” を棚に上げたうえでの、ただの戯言でしかありません。 お粗末に過ぎます。
(この項続く)

posted by 桜と錨 at 13:45| Comment(4) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年02月04日

「大海令第1号」 と海軍の軍令 (補)

 この項に関連して、是非お話ししておかなければならないのは、昭和8年制定の 「軍令部令」 でどう変わったのか、ということでしょう。

 既にご説明しましたように、平時は明治23年制定の 「海軍軍令部条例」 により、軍令部長は軍令の起案、上奏は行うものの、その後の実施については海軍大臣が行いました。

 また、戦時になって大本営が設置されると、明治36年改正の 「戦時大本営条例」 によって軍令部長が統帥に関する軍令を直接所掌しました。

( 余談ですが、皆さんご承知のとおり、明治23年制定の当初の 「戦時大本営条例」 では、陸軍の参謀総長が大本営における参謀長として陸海軍を統轄することとされていました。 それが明治36年、それも12月28日になっての改正によってやっと参謀総長と軍令部長が対等並列となりました。 対露開戦決意が翌37年2月4日であることを考えると、まさにギリギリのところであったと言えます。 この件でも 『別宮暖朗本』 の著者は明らかに何か勘違いをしてますね。)

 これによって旧海軍は日露戦争を戦い、第1次大戦を経てきたわけで、多少の海軍機構の変化はあったものの、基本的にはこの原則は維持してきました。

 しかし、昭和に入ってから、昭和5年のロンドン軍縮会議とそれに伴う統帥権干犯問題の惹起、昭和6年の満州事変、昭和7年の上海事変と進むにつれ、今日で言う有事即応体制の確立の必要性が言われるようになりました。 

 即ち、戦時平時を問わず国防用兵に関することは全て軍令部長の所掌とするとともに、一層の軍令部長の権限強化を企図したわけです。

 しかしながら、結局はこの改革は海軍省との折り合いが付かなかったため、「海軍軍令部」 が 「軍令部」 へ、「軍令部長」 が 「総長」 へと名称が変わったものの、最終的な内容は、平時も軍令部長所掌とするための 「海軍軍令部条例」 第3条の改正のみが中心となりました。

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 即ち次のとおりです。

 「海軍軍令部条例第3条」
      海軍軍令部長は国防及用兵に関することを参画し親裁の後之を
      海軍大臣に移す

            ↓ ↓ ↓

 「軍令部令第3条」
      総長は国防用兵の計画を掌り用兵の事を伝達す

 これによって、軍令部総長は平戦時を問わず用兵に関することは総て自ら海軍の部隊に伝達・命令することができるようになりました。

 ところが実際はこれだけではなかったのです。

 当然のことながら、この改定に伴い用兵事項の事務処理上の分担・手続要領を定めた明治26年の 「省部事務互渉規程」 も、昭和8年の 「海軍省軍令部業務互渉規程」 へと全面改正されました。

 重要なことは、「軍令部令」 で改正された表現以上に、この 「業務互渉規程」 において、具体的な各項目毎についての軍令部と海軍省との事務処理分担・要領を改正することにより、実質的な軍令部総長の権限が拡大・強化されることになったことです。

 がしかし、同規程は 「内令」 (内令第294号) とされたために、それが表に出ることはありませんでした。 旧海軍はこの状態で支那事変と、続く今時大戦を戦ったのです。

 また、「軍令部令」 制定に伴い、軍令部長が定める軍令部の機構及び所掌事項の処理要領については、明治37年に定められた 「海軍軍令部庶務細則」 が、「軍令部服務規程」 (軍令部機密第2号) 及び 「軍令部庶務規程」 (軍令部機密第3号) へと全面的に改正になりましたが、これも機密文書とされたためにその実態が外に出ることはありませんでした。

( 正確に言うならば 「海軍軍令部庶務細則」 は昭和6年の改定の際に、上記昭和8年の 「軍令部令」 改正に先だって機密文書に指定されました。)

 因みに、この昭和8年の 「軍令部令」 制定については、昨年8月にNHKの番組に関連して書いた次の記事 ↓ の中でご紹介した 『軍令部令改正之経緯』 と言う旧海軍史料に詳述されています。


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 また、海軍の軍令に関しては、以前に 「旧海軍の軍令について」 と題する記事 ↓ でご紹介した 『日本海軍軍令の研究』 に詳述されていますので、興味がある方は機会があれば是非ご参照下さい。


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(この項続く)

posted by 桜と錨 at 16:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年04月03日

天気晴朗なれども浪高し

 旧海軍の連繋水雷については、既に 「連繋機雷 (一号機雷) について」 と題して 『別宮暖朗本』 のデタラメな記述に関連して4回に分けて説明してきたところです。

 そこで、先日HN 「プロコンスル」 さんとのやり取りの中で日本海海戦時の有名な電報

 「敵艦隊見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出動之を撃滅せんとす 本日天気晴朗なれども浪高し」

 のことが出ましたので、当該記事の補足としてお話ししておきたいと思います。

 何かと言いますと、標題のこの電報の末尾にある 「本日天気晴朗なれども浪高し」 の意味するところについてです。

 ご存じのとおり、この電報は飯田参謀が起案した本文に秋山真之が後から付け加えたものであるとされています。

 この付け加えられた文言の意味については、秋山自身が何も言ってはおりませんので、後世になって色々と憶測がなされているところです。

  それはそれで良いのですが、しかしながら最近になってこの文の意味について、とんでもない解釈を堂々と述べる人達が現れてきました。 それも、それなりに名の売れた研究家と称する人までもが。

 例えば、ウィキペディアを見てみますと、

 「 海が荒れて計画していた連繋水雷作戦が行えないので、砲戦主体による戦闘を行うの意とも言われる。」

 との記述が見られます。 本当にそんな解釈があり得るのか?

 まず5月27日の日本海海戦の立ち上がりの経過について、「三笠」 の戦時日誌及び戦闘詳報を中心に拾ってみますと次のようになります。

 午前05時05分 「厳島」 による 「信濃丸」 の敵発見電の転電を受信
 午前05時10分 「三笠」 至急点火下令
 午前05時35分 連合艦隊 「直ちに出港用意」 下令
 午前05時55分 「三笠」 出港用意下令
 午前06時05分 「三笠」 航進を起こす
 午前06時15分 「三笠」 前進原速12ノット、針路不定にて加徳水道に向かう
 午前06時20分 「三笠」 合戦準備下令
 午前06時30分 連合艦隊 「速力15海里順序に従い出港せよ」 下令
 午前06時50分 連合艦隊 「旗艦の通跡を進め」 下令
 午前07時05分 「三笠」 戦闘配置下令
 午前07時10分 「三笠」 加徳水道を出る
 午前07時20分 各艦 「三笠」 の航跡に従い予定航行陣形に続行
 午前07時35分 「三笠」 前進原速15ノット
 午前09時39分 敵艦隊との接触地点と想像する沖ノ島に向かう
 午前09時54分 連合艦隊 旗命により臨時奇襲隊を各その固有の隊に復帰させる
 午前10時50分 「和泉」 電により敵の編制・陣形の概要を知る

 ご存じのとおり、連合艦隊主力は出撃し易い鎮海湾入口の加徳水道に錨泊して待機していましたが、5月25日になって 「三笠」 は軍令部との通信連絡が便利なように単独で鎮海湾内の錨地に移っておりました。 そのため27日の出撃に際しては上記のような経過になったわけです。

 では、かの電報は何時発信されたのか? 次のとおり、午前6時21分です。

tenki_01_s.jpg   tenki_02_s.jpg
( 左 : 軍令部長まで報告された翻訳紙     右 : 翻訳前の受信紙 )

 とすると、加藤参謀長を経て東郷の決裁を受けたあと、電文を暗号化し、発信紙を作成するまでの時間を考えると、秋山真之が加筆したのはどんなに “遅くとも” 午前6時前後でなければなりません。

 その時間に 「三笠」 はどこにいたのか?

 上記の経過を見ればお判りのように、「三笠」 はまだ鎮海湾の中において錨を揚げたばかりのところです。

 実際には沖ノ島に向けて海峡を航行中の午前10時過ぎに、やっと決戦予想海面での臨時奇襲隊の使用断念を決断し得たにも関わらず、それより遥か前の午前6時の鎮海湾の中にいる段階で、どうやったら秋山真之がその対馬海峡の風浪の状況を判断できるのでしょうか?

 しかも、臨時奇襲隊による連繋水雷敷設と甲種魚雷攻撃は、海戦劈頭に敵の航行を妨害して陣形を混乱させ、主力の砲戦を有利に進めるための補助手段であって、主力の砲戦に “とって替わる” ようなものでは全くありませんから、こんな出港の段階でわざわざ軍令部に報告するような事柄でもありません。

 実際、もしこの臨時奇襲隊による連繋水雷の攻撃が連合艦隊の作戦全体に影響を及ぼすほどの重要なものであるとするならば、何故その午前10時8分の決断の時には軍令部に報告しなかったのでしょう?

 少しでも 「海」 というもの、「艦」 というものを知るならば容易に判ることであり、史料に基づいてキチンと調べてさえいれば出てくるはずのない “妄想” “空想” の類ですね。


 ついでですが、『別宮暖朗本』 ではこの 「天気晴朗なれども」 の件は出てきません。 その替わりに、次のようなことが書かれています。

 10時5分、浅間を旗艦とする水雷艇からなる奇襲隊を竹敷要港に戻した。 バルチック艦隊の先頭が巡洋艦ゼムチューグであるため、戦艦スワロフへの連繋水雷による奇襲ができなくなったためである。 (p292) (p303) 

 これが全くの大嘘であることは皆さんもうご存じでしょう。

 東郷は、7時30分の 「厳島」 電により 「ゼムチェグ」 が先頭であることは判っていましたが、バルチック艦隊の編制・陣形については10時50分の 「和泉」 電や12時2分の 「厳島」 電によりようやくその概要が判明してきたところです。

 つまり、バルチック艦隊の状況が不明な段階で臨時奇襲隊の編制を解いています。 「スワロフ」 がバルチック艦隊の陣形のどこに位置するのか、どころかバルチック艦隊の陣形さえ判らないのに、なぜ連繋水雷の攻撃が出来なくなったと判断できるのでしょうか?

 そもそも臨時奇襲隊の目的は 「スワロフ」 攻撃ではありません。

 そして「ゼムチェグ」 が先頭にいるとなぜ攻撃ができないのでしょうか? 「浅間」 が一体何のために臨時奇襲隊の旗艦に配されているか、第1駆逐隊の役割は何なのか、を考えれば明らかかと。

 即ち、臨時奇襲隊による攻撃取り止めは、海面状況によるもの以外の理由はありません。

 付け加えるなら、この臨時奇襲隊は、“水雷艇からなる” のもでもなく、編制が解かれた後に竹敷に戻ったわけでもありません。

 これを要するに、余りにもお粗末かと。

(注) : 本項で引用した電報史料は、防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。

posted by 桜と錨 at 11:58| Comment(3) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年05月08日

第2次大戦における艦艇の戦闘被害

 某巨大掲示板にて艦艇の機関配置に関連して戦闘被害のことが話題になっていました。

 その話題に直接関するお話しはともかくとして、そう言えば、第2次大戦における艦艇の戦闘被害について纏まったものというのが意外に無いよね〜、と思ってしまいます。

 もちろん個々の艦艇の状況については、出版物でも様々なものがありますし、原典史料たる 「戦闘詳報」 なども既に公開されているものもあります。

 しかし統計データ的なものは? それも、一般の方々が入手可能な出版物や資料としてあるんだろうか?

 ということで、海自部内にはかつてこんなものもありました、というものをご紹介します。

 まず最初は、『第2次大戦における艦艇の戦闘被害』 というもので、かつて旧ソ連で研究された文献集を米国の有名な研究所 「David Taylor Model Basin」 がその中から英語で編纂し直したものを、昭和45年に邦訳したものです。

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 各国の水上艦艇について、空母、戦艦、巡洋艦及び駆逐艦ごとに、魚雷、航空爆弾、機雷などによる被害形態別に簡単に分析したものです。

 ソ連において情報収集したものですから、個々の艦ごとにはかなり精粗の差があるものの、統計的に見る分には充分で、この観点からすれば貴重な内容です。

 もう一つが、『戦史・艦内防禦参考書 大東亜戦争中の水上艦艇戦闘被害の集計』 というもので、昭和31年に当時利用できる史料・資料に基づいて集計したものです。

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 前述のものと似たところがありますが、日本及び連合国別に、艦艇の沈没(喪失)状況と沈没・喪失以外のものの損傷状況について纏めたものです。

 こちらも今日の目からすれば、当時の使用可能史料・資料の点からしてとても完全なものとは言えませんが、それでもこれだけ纏められていれば、研究のスタートとしての基礎資料としては充分なものがあると考えます。

 両者とも相当に古いものですから、現在では当の海自自身にさえ残されているのかどうか判りませんが、この方面に興味がある方のご参考として。
posted by 桜と錨 at 17:25| Comment(4) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年06月29日

海軍式敬礼?

 旧海軍のことについて世の中にまことしやかに言われているものの一つとして、以前 「大尉」 「大佐」 の読み方について 『 「たいい」 か 「だいい」 か』 のタイトルでお話ししました。

 今回は海軍における敬礼についてのお話しです。

 そもそも一般によく言われるこの 「海軍式敬礼」 とは何のことでしょう? その様な用語自体がありませんので、本来なら何を示すのかを断った上でなければ全く意味不明なんですが ・・・・

 多分、皆さん方が頭に思い浮かべられるのが、このような “形” の敬礼 ↓ のことでしょう。

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(陛下が敬礼されることはありませんので、この写真は正確には 「答礼」 になりますが。)

 敬礼というのは、旧海軍では 『海軍礼式令』 (大正3年、勅令15号) の中で、細かく定められています。

 その中で、室外における徒手の場合の各個の敬礼が、一般に流布するこの 「海軍式敬礼」 というものに該当します。

 当然ながら、室内の場合や、屋外でも執銃、抜刀中などの場合、個人ではなく隊としての敬礼、艦船の敬礼、など多くの 「敬礼」 があります。

 艦船相互の敬礼などは、本来ならまさに 「海軍式敬礼」 そのものなんですが (^_^)

 それはともかく、この “室外における徒手の場合の各個の敬礼” は、「海軍礼式令」 において次のように規定されています。

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 文章だけでは非常に判りにくいと思いますが、例えば新兵教育のメッカの一つであった横須賀海兵団では、次のような写真が隊舎の出入り口付近などに掲げられて、これが模範として指導されてきました。

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 ただし、この敬礼の形一つとっても、現実には非常に難しいものがあります。 例えば次のように、整列をした上でわざわざ “写真を撮るため” といっても、なかなか同じ形、即ち斉一にはなりません。

salute_03_s.jpg   salute_04_s.jpg

 そして、上の写真のような場合はともかく、更に普段の個人の場合は、その時の状況や “個癖” つまり個人個人の癖や好みというものによって、その形は様々であり、一律に論じることができるようなものではありません。

 例として、有名な写真から幾つかをピックアップしてご紹介すると、次のようなものもあります。

salute_05_s.jpg   salute_06_s.jpg

salute_09_s.jpg   salute_01_s.jpg

 繰り返しますが、旧海軍における敬礼は基本形は基本形としつつ、現実にはその時その時、その人その人によって形が異なる、ということです。

 これは、旧海軍自身が敬礼の “形” そのものについてはそれほど厳格でなかったこともあります。

 ですからこれが逆に、終戦近くなって、極端に脇を締めて肱を前に出す “おかしな” 敬礼が一部で言い出され、指導がなされたこともありましたし、またそれを習った一部の旧海軍軍人で戦後に 「海軍の敬礼は・・・・」 という者も中にはいることも確かです。

 そして、これがさも旧海軍における “正しい” 敬礼であったかのように流布されることになります。

 “狭い艦内では、云々・・・・” などともっともらしく。

 それを受けて、ネット上でも映画などの論評で 「〇〇の敬礼が “海軍式敬礼” でなかったから、あの映画の考証はなっていない。」 などと堂々と書いているものが見られます。

 しかしながら、私などからすれば、単に “聞きかじりの知ったか振りさん” でしかありませんね。

 “海軍式敬礼” などと一律に規定できるものはありませんし、上記のように、全ての場合で基本形どおりに忠実に再現しなければならない理由もありませんから。

 まあ、一般の方々に対する話しのネタとして、面白可笑しく語られる分については、それはそれで良いかもしれませんが (^_^)

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このお話しに関する続きは

     海軍における挙手の敬礼(前)

     海軍における挙手の敬礼(中)

     海軍における挙手の敬礼(後)


posted by 桜と錨 at 16:04| Comment(12) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年07月25日

本家サイトで 『War Vessels of Japan』 公開

 本家サイトのご来訪15万人達成記念というわけでもありませんが、同サイトの今週の更新として 『懐かしの艦影』 で明治期の著名な写真家の一人、光村利藻氏の手になる 日露戦争に参加した旧海軍主要戦闘艦艇ほぼ全てを一冊に纏めた 『War Vessels of Japan』 を公開しました。

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 この写真集は、当時の印刷製本技術を考えても、一般向けに出版されたものとしては素晴らしい写真集で、1艦1葉1頁の大判で、大変に綺麗で見事な写真が多いです。

 この写真集は2004年に柏書房から出版された 『極秘日露海戦写真帖』 という2万円もする高価な写真集の巻末附録として全頁が収録されていますが、何故かこの本、写真の印刷が非常に荒いのです。

 原本をそのまま、と言えばそうなのかもしれませんが、現在の印刷技術からすれば元々の写真の素晴らしさを生かし切っておりません。 もったいないですね。

 本家サイトで公開するものには、残念ながら拡大写真については一人歩き防止措置としてロゴを入れておりますが、もしこれが気になる方は当該本を図書館などで閲覧されるか、自費で購入してご覧いただければと思います。

 拡大表示の設定については間に合いませんでまだ作業中で、取り敢えず 「三笠」 「朝日」 「初瀬」 の3隻だけですが、残りも準備出来次第順次公開いたします。

 特に 「三笠」 については約1600 x 1200ピクセルの大判のものを用意いたしました。 この写真集の本来の素晴らしさを少しでも感じ取っていただけたらと思います。

 なお、大判公開ご希望の艦がありましたら、ここでも掲示板の方でも結構ですからお知らせください。 考慮いたします。
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2010年08月09日

海軍における挙手の敬礼 − 前編

 先に旧海軍における挙手の敬礼について、

     正式に決められているものは 『海軍礼式令』 の内容であり、それが全てであって、肱の位置がどうのこうのなど、一般に流布される “海軍式敬礼” などと言う具体的な規定はなく、実際の具体的な “形” については、その時その時の状況や、個人の癖などによって変わる、即ち “臨機応変なもの”


 ということをお話ししました。


 そこで、この海軍における挙手の敬礼について、何故そうなっているのかを、その起源まで含めてもう少しお話しをしたいと思います。

( 言うまでもないことですが、本稿で問題にするのは挙手の敬礼についてのみであり、銃や剣による敬礼、あるいは艦や部隊としての敬礼、室内における敬礼などは別のことです。 これらについては、必要が出てくればまた項を改めてお話しします。)

★  ★  ★  ★  ★

 海軍における挙手の敬礼の始まりはご存じのとおり “脱帽” にあります。 そして、この “脱帽” するということは、組織としての 「儀式」 「儀礼」 ということの前に、まず 「マナー (礼儀) 」 「躾け」 「身嗜み」 ということから始まっています。

 遠く、ギリシャやローマ、そしてカルタゴの時代には、既に艦上、そのほとんどの場合が後甲板に祀られた祭壇に向かって脱帽することが行われてたことが知られています。 

 そしてこれが次第に後甲板、即ち 「Quarterdeck」 という権威 (=指揮官) の場所、そして軍艦旗 (=統治者、王室などに対する遵奉の象徴) に最も近い場所に対するものへと繋がって行きます。

 この脱帽という行為が、尊敬や敬意の表現として使われることは、例えば西欧においては今でも教会や祭壇の前、あるいはお墓、特に戦士の墓の前、で一般的に見られることなどで、皆さんご承知のとおりです。

 また、個人に対する敬礼というものも、古くは騎士の時代にその冑や帽子の庇を上げて互いに顔をよく見えるようにしたことが始まりとも言われています。

 そして、階級差というものが大変に厳しかった時代ですから、下の者が上の者に対して帽子や頭巾などを取るという “形” を伴った挨拶が求められたことは、当然の成り行きでしょう。

 こうして、海軍における個人の敬礼も、“脱帽” という行為によって始まったわけですが、当時の海軍における候補生 (midshipman、middy) 以上の帽子はご存じのとおり、いわゆる 「仁丹帽」 です。

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( Charles Rathbone Low 著 「Her Majesty's Navy」 より )

 この帽子を艦上において如何に “スマート” に扱って脱帽するかが、紳士たる士官のマナー、身嗜みとして重要な事項であったことは、想像に難くありません。

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( Jean Randier 著 「La Royal」 より )

 この様な伝統と慣習に則って、19世紀の初め頃までは、英海軍においても、上官に対しては脱帽することが “躾け” られていたとされています。

 そして、19世紀の半ば頃になると、この躾けは脱帽する場合と、単に帽子に手を触れるだけで実際には脱帽しない場合に別れてきました。 段々と “形” という形式が重んぜられ、今日のような 「儀式」 「儀礼」 に近づいてきたわけです。

 色々なケースがありますが、例えば上官が下級者に答礼する場合は触れるだけ (触れる素振りだけ)、あるいは軍艦旗などに対する場合は脱帽するが上官に対する場合は触れるだけ、などなどです。

 特に、士官の艦上における帽子が、正装する場合を除いて、通常は仁丹帽からいわゆる今日の 「軍帽」 になってきたことは、この帽子に手を触れる形式に拍車をかけたものと考えられ、今日の挙手の敬礼への移行が始まったと言えます。

 1882年の英海軍の規則では、

    「 海軍における敬礼は、帽子に手を触れるか脱帽により、受礼者を眼前に見た時に行うものとする。 提督、艦長及びそれと同等の士官は常に脱帽の敬礼を受けるものとする。」 (意訳)


 と定められていました。

 ところがこの英海軍では、1890年の国王祝賀会において、出席した海軍士官及び下士官兵は揃って脱帽して起立しましたが、この姿がビクトリア女王のお気に召さず、以後挙手の敬礼のみとすることが布告されたとされています。

 したがって、英海軍ではこの時点で長年の “脱帽” という伝統と慣習から、儀式・儀礼としての挙手の敬礼に切り替わりました。

 そして、海軍におけるこの挙手の敬礼が、「仁丹帽」 を脱ぐために帽子に触れる動作が基本になっていることは申し上げるまでもありません。

 つまり、英国やフランスの陸軍のように、手に何もないことを示すために掌を表に向けるものとは、その意味が異なると言うことです。
(続く)

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海軍における挙手の敬礼 (中)
           http://navgunschl.sblo.jp/article/40083250.html

海軍における挙手の敬礼 (後)
           http://navgunschl.sblo.jp/article/40098164.html

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2010年08月10日

海軍における挙手の敬礼 − 中編

 それでは、旧海軍における個人の敬礼はどの様に始まったかと言うことですが、残念ながら明治初めの創設期の頃のことについてはよく判りません。

 しかしながら、旧海軍そのものが英海軍に範をとったことから、敬礼などについてもほぼそれを踏襲したものと考えられます。

 現在のところ、この旧海軍における敬礼について定められた最も古い公文書は、明治18年制定の 『海軍敬礼式』 と思われます。

 この中で、挙手の敬礼は次の様に規定されています。

    「 第四条 凡そ軍人の敬礼は挙手注目とす其方姿勢を正ふし右手を挙げ五指を伸し掌を左方に向け食指を帽庇の右側に当て敬礼を受く可き人に注目す答礼も亦之に準ず (後略)」


 ここで、注意していただきたいのは、この時の規定においても、肱の位置がどうのこうの、等という “形” を画一化する文言は入っていないということです。

 これは、海軍における挙手の敬礼の原型が、脱帽に至る手の動きであることを考えればその理由がお判りいただけるでしょう。

 そして、国旗 (明治22年以降は軍艦旗に対して) と、天皇以下の皇族に対しては “脱帽” によることとされています。 例えば次のとおりです。

    「 第二条 凡そ軍人 天皇に行ふ敬礼は正面して其姿勢を正ふし帽を脱し之を右手に持ち体の上部を傾け拝するものとす」


    「 第十三条 軍艦停泊中国旗昇降のときは (中略) 甲板上の者及び端舟番は之に面し直立脱帽し (後略)」


 即ち、上記2つの場合の様に、まだ脱帽による海軍の伝統と慣習が完全に無くなってはいません。

 しかし、この国旗・軍艦旗及び皇族に対する脱帽による敬礼も、明治30年の 『海軍敬礼式』 の全面改訂で無くなり、全て挙手の敬礼となりました。 この挙手の敬礼のやり方は改訂前と同じです。 つまり、

    「 第三十六条 軍人室外の敬礼は挙手注目とす其の法姿勢を正し右手を挙げ五指を伸ばして之を並べ掌を左方に向け食指を帽の前部右側に当て受礼者に注目す答礼亦之に準ず」


 ここにおいて、旧海軍においても敬礼というのが伝統と慣習に基づく 「礼儀」 「躾け」 から、完全な 「儀式」 「儀礼」 に切り替わったと言えるでしょう。
(続く)

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海軍式敬礼?
           http://navgunschl.sblo.jp/article/39335366.html

海軍における挙手の敬礼 (前)
           http://navgunschl.sblo.jp/article/40065243.html

海軍における挙手の敬礼 (中) ← 現在の頁

海軍における挙手の敬礼 (後)
           http://navgunschl.sblo.jp/article/40098164.html

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2010年08月11日

海軍における挙手の敬礼 − 後編

 一方の旧陸軍はどうだったのか。 私は陸軍は専門外ですが、判っている範囲でお話ししますと、

 明治6年制定の 「陸軍敬礼式」 では、次のとおりとされています。

    「 第六条 将校の敬礼は帽の紐を顎に掛けるときは右手を挙げて帽に及ぼす若し紐なき時は帽を脱す」


    「 第七条 下士官及び兵卒は帽の前庇の右側に右手を当て掌を外面に向け肘を挙げて肩に斉くし敬すべき人に注目す (後略)」


 つまり、将校についてはまだ脱帽の伝統・習慣が残されていることが判ります。 そして将校も全て挙手の敬礼となったのは明治20年のことです。

 即ち、明治20年に 「陸軍敬礼式」 が全面的に改正され、新たに制定された 「陸軍礼式」 中の 「乙 室外の敬礼 其一 通則」 において、次のとおり規定されました

    「 第一項 軍人室外の敬礼は挙手注目とす其法姿勢を正し右手を挙げ諸指を接して食指と中指を帽の前庇の右側に当て掌を稍外面に向け肘を肩に斉くし受礼者又は敬すべきものに注目す」


 そして注意すべき点は、旧陸軍においては既に明治6年の時点において、挙手の敬礼で肘の高さが規定されている点です。 これによって敬礼の“形”がかなり制限され、明確となっています。

 これに対して旧海軍では、敬礼の要領及び “形” については、艦上を含むその場その場の状況に応じた “臨機応変” な対応を求めています。

 このことは、「海軍礼式令」 の次の規定でも明確にされています。

    「 第十二条 本式に規定せざる場合若くは艦船の構造運用上及び演習等に依り本式の規定を運用すること能はざるときは適宜之を取捨することを得」


 つまり、敬礼はその形式的な “形” の画一性には必ずしも拘らない、本来の本質や規定の主旨を踏まえていればよい、ということです。

 この様な規定は旧陸軍にはありません。 全体としての形式の画一性を求めることが旧陸軍の特徴とするなら、これが旧海軍の “科学的合理性” という特徴の現れと言えます。

 とは言え、旧海軍においても教育訓練においては、まず何等かの “形” を教えなければなりません。 特に海兵団や兵学校などにおいて、一度に数十人、数百人に教えるような場合に置いては、その教育内容の統一を図るために “基本の形” を決める必要が出てきます。 これの一つが、先の記事において例示した海兵団における “模範形” の写真であるわけです。

 しかし、何度も申し上げるように、これが 「正式」 な形であるわけではありません。 あくまでも教育訓練上の “一つの形” であり目安に過ぎないわけです。

 これは、今次大戦の末期にその一部において行われた、極端な、いわゆる今日流布される 「海軍式敬礼」 と言われるものについても同じことです。 それも “一つの形” なのです。

 が、それら臨機応変に行われる (理由は様々ですが) ものの一つ一つを 「正式」 とは言いません。 規則に定められたものの “応用・適用” の一つに過ぎないわけです。

 もちろん、旧陸軍のような肘を肩まで上げた敬礼をしたとしても、その時の状況などによってはあり得ないわけではなく、しかも “誤り” ではありません。 「海軍礼式令」 の規定を外れない限り、それも一つの “応用・適用” なのです。

 旧海軍の科学的合理性とはこういうものです。
(この項終わり)

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海軍式敬礼?
           http://navgunschl.sblo.jp/article/39335366.html

海軍における挙手の敬礼 (前)
           http://navgunschl.sblo.jp/article/40065243.html

海軍における挙手の敬礼 (中)
           http://navgunschl.sblo.jp/article/40083250.html

海軍における挙手の敬礼 (後) ← 現在の頁

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2010年08月14日

『歴史読本』 9月号

 既に書店でご覧になられた方があるかも知れませんが、新人物往来社から出ている 『歴史読本』 の今月号 (9月号) に拙稿を載せて貰いました。

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 しかし残念ながら、頂いたテーマに対して割当はたった6頁 (原稿用紙12枚) と言うことで、とても満足にお話しすることはできませんでした。 ほんのさわりだけをざっと流すのが精一杯というところです。

 まあ、細かい内容はまたこれからどこかでお話しする機会もあると思いますので、これはこれで良いかもしれませんが ・・・・

 もしかしたら最終的な頁調整で入れてもらえるかな、と思って当初の原稿には最後に私の総括的所見を1頁分書いていました。 これは早い話が初めから削り代になることを想定していたのですが、やはりそのとおりになってしまいまして (^_^;

 しかし鉄砲屋の末席に連なる私としては、この削り代のところが本当は声を大きくして言いたかったところなのです。

 つきましては、ここにその部分をご紹介します。 当該記事の最後に続くものとしてご覧下さい。

 しかし最後に申し述べるならば、これは単に海上航空主兵への移行という時代の趨勢を見誤った結果であり、思想転換の遅れと簡単に片付けるのは、結果を知って物を言う後知恵の類であろう。

 「百年兵を養うは、一日の用に用いんが為」 と言われるように、日本海軍は日露戦争以後、戦術思想 (戦略戦術) ・装備・教育訓練・ロジスティックなどの全てにおいて戦艦を中心とする艦隊決戦を想定して進んできた。

 そして厳然たる事実として、太平洋戦争開戦までは少なくとも海上戦力の中心が戦艦であることは世界中の常識であった。

 それが、ハワイ作戦を始めとする戦争初頭において如何に航空戦力の威力を見せつけられたと言っても、海軍のみならず、国内の科学力・工業力を含む全てのことをそう簡単に転換できるものではないことは自明の理である。

 実際、日本海軍は開戦前には世界有数の航空兵力を持っていた。 しかしそれは平時の話であり、戦時急増には堪えられるものではなく、空母一隻を建造しこれを戦力化すること一つとっても、そう簡単な話ではないことはお判りいただけるであろう。

 そして日米の科学力・工業力の差は当初から明らかであった。 ましてや自動車、トラクターやオートバイなどを普通に乗り回し、ラジオ放送を個人で楽しむのが当たり前どころか、昭和16年には既にテレビ放送が始まった社会と、ラジオはおろか自転車でさえ各家庭に普及しているとは言い難い段階の社会とでは、パイロットや整備員の戦時大量養成にどれだけの差が出るかは自明の理である。

 したがって戦争が始まってからの戦艦主兵から海上航空主兵への転換は、日本にとってはあの実態で精一杯であり、それ以上は実際問題として不可能であったといえる。 そしてその意味では実によく戦ったといえるのである。

 しかしそうであるならば、何故その養ってきたもの、既に持っているものを活かせる戦いをしなかったのか? 立ち上がりの土俵は日米共にほぼ同じだったはずなのに。

 百発百中を目指して日夜血の滲む努力をしてきた者達にとって、如何に日本海軍の射撃の命中率が米海軍の3倍と自負しても、それが活かせる戦い方をさせて貰えなければ、力の発揮のしようがなかったのは当然であった。

 そしてもしその様な戦いができないのであるのならば、それは始めから戦争を始めるべきではなかったのである。 この面からしても、日本は戦争というものに対する国家としての政略も戦略も誤っていたと言わざるを得ない。
(終)


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2010年08月17日

史料紹介 − 海運関係4部作

 私の飲み友達の一人である某氏の掲示板で戦前の商船の造船施策に関することが話題になっていました。

 まあ、私もその方面については議論に参加できるほどの知識はありませんので、当該掲示板では傍観の立場だったのですが、折角の機会ですので、これに関連して、戦前〜戦中、特に大戦中における我国の海運関係施策について、当時の関係者が纏めた史料がありますので、まだご存じない方々のためにこちらでご紹介します。

 史料は次の4部から成ります。

marchant_WWII_01_s.jpg    marchant_WWII_02_s.jpg
(全144頁)                    (全105頁)

marchant_WWII_03_s.jpg    marchant_WWII_04_s.jpg
(全105頁)                    (全136頁)

 これらは昭和28年に防衛庁が一括して部外調査委託として作成したもので、その成果を昭和43年に海上幕僚監部調査部から部内参考資料として印刷・配布しました。 (なぜ委託から15年も経ってからなのかは不明です。)

 委託先は当時の 「日本海事振興会」 (昭和38年に財団法人 「日本海事広報協会」へと発展解散) で、主として旧海軍の海軍省や艦政本部にあってこれらを直接担当した者達によって書かれたものとされています。

 コンパクトに纏められており、これらのテーマに興味のある方にとっては、その研究のスタート台として恰好の入門兼参考の史料となるものと考えます。 特に4部に分けて海運全般が網羅されていることは有益かと。

 ただし、既に作成から57年、印刷配布からでも40年以上も前のものであり、海自部内でさえ現在ではどこにどれだけ残されているものか・・・・?
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2010年08月25日

海軍人事の不文律 − その1

 飲み友達の一人であるHN 「出沼ひさし」 氏がいま戦時編成調査の流れとして駆逐艦長全ての人事について調べておられます。 これも今日となっては大変地道な努力が必要となる事項で、氏の熱意に感服する次第です。

 さて、その氏の掲示板で 「天津風」 艦長の人事についての話しがありました。


 これに関連して、駆逐艦長そのものについてではありませんが、ちょっと旧海軍の人事についてのお話しを、長くなりますのでこちらで。 

 何かと言いますと、海軍というものには、元々伝統的に補職人事上の不文律がいくつかありました。 その一つが、

 規則で階級が定められた職に対して、その階級の者を補職できない場合には、それより上位階級の者を就けることはなく、下位階級の者を補職する。

 というものです。

 例えば、旧海軍では定員上中佐である駆逐艦長の職には、その中佐に適任者がいない場合には、上位階級の大佐の者を替わりに就かせることはなく、少佐、場合によっては大尉が補職されることになります。

 理由はお判りいただけると思います。 即ち、上級階級の者を充てるということは、その本人にとっても、また回りの者達から見ても、実際の理由はともかくとして “降格” となるからです。 これは軍という組織として、規律と士気の維持のためには極めて好ましくないことです。

 このことは旧海軍においても初めは言わずもがなのことだったのですが、だんだんと体制が整備されてくるにつれてそうも行かなくなり、明治29年に始めて 『海軍定員令』 (明治29年内令1号) が制定された時に、次のように規則として盛り込まれました。

  「 第7条 各部定員中上級者に欠員あるときは其の次級以下ものを以て之を補することを得 」


 つまり、上位階級の者を就けることは規則上もできないように明文化されたのです。

 しかし下位階級の者を就ける場合でも、この “欠員あるとき” というのがその解釈上のネックになって、この規則の運用にはかなりの支障がありました。

 そこで、大正3年の 『海軍定員令』 改訂時 (内令34号) に、次のようにスッキリとしたものになります。

  「 第9条 海軍各部の定員は一時下級者を以て之に充つることを得 」


 この 「一時」 というのがどの程度の期間なのかは明確にしておりません。 また、「次級者」 ではなく 「下級者」 としています。 この2つによって規則運用上の柔軟性を確保したわけです。 
(続く)

posted by 桜と錨 at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年08月26日

海軍人事の不文律 − その2

 とは言っても、如何に旧海軍と言えども全ての定員上の配置について、その定員階級の者の替わりが下級者だけしか充てられないのでは、個々の職によって、あるいはその時の状況によっては不適当、不適任な場合もでてきます。

 そこで、この大正3年の改正時には次の条項も追加されることとなりました。

  「 第10条 戦時事変若は演習に際し又は艦船外国に在るときその他止むを得ざる事情あるときは一時上級者を以て次級者の位置に充つることを得 」


 そしてその後幾たびかの改訂を得て、この第9条と第10条は最終的に次のようになります。

  「 第10条 必要に応じ海軍定員及補欠員の範囲内に於て一時本令別表に依る各部定員表所定の官職階に依ることなく配員することを得
但し上級者を以て下級の位置に充つるは己むを得ざる場合に限る 」


 もちろん、上級者をその下級階級の職に就けるためには、実際問題として人事担当者がこの “己むを得ざる場合” というのを上司に説明するのは極めて難しいことはお判りいただけるでしょう。 海軍の伝統としての元々の不文律がそうさせているからです。

 ところが、昭和になって支那事変や第2次大戦が始まってみると、組織の大拡張と頻繁な補職替えの必要性によって、それを厳格に維持することは不可能であることが明らかとなります。 特に、軍縮条約によって極端に削減した将校層の穴埋めや、召集した予備役を配置する場合などには、です。

 そこで、“適用期間を限定” という条件をつけて、昭和12年には次の文書が出されます。

『支那事変中兵科、機関科の中佐、少佐若は大尉の定員には上級者を配員し得るの件』 (昭和12年内令708号)

 これだけでも人事担当者としては随分と楽になったわけですが、更にその後、大使館付武官、戦艦や航空母艦の艦長、鎮守府機関長等について同様の文書が次々に出されます。

 そして、遅ればせながら昭和19年になって、これらを全て纏めた形で出されたのが次の文書です。

『大東亜戦争中各科の少将、大佐、中佐、少佐又は大尉を配すべき定員は各一階上位の官等を其の定員と為し得るの件』 (昭和19年内令592号)

 昭和19年ではいささか遅きに失した感がありますが、後付ながらもやっとその補職人事について公式なお墨付きができたわけです。

 もちろん、だからといって実際の補職人事ではそう簡単に出来るものではないことはお判りいただけるでしょう。

 例えば先の例で、仮に中佐の駆逐艦長職に大佐を充てるにしても、その直属上司たる隊司令よりも先任者をもってくるわけにはいかないからです。

 そして、不文律としての成り立ちである “降格人事” と取られ兼ねない配慮も必要になってきます。 (例えば、これからその部隊等が拡張・拡大される、あるいはその職がより重要な地位になる、などと思わせるような。)

 なお、上記の不文律には一つの例外がありました。 それは 「兼職」 です。 これは 『海軍定員令』 でも次のように規定されていました。

  「 第8条 海軍各部には必要に応じ本職ある者を定員外として其の定員表内の職務を兼ねしむることを得
前項の場合に於ては定員表所定の等級に依らざることを得 」


 これは兼職を必要とする理由を考えていけば、当然のことでしょう。

 海軍という組織の人事については、職種の一元化問題や特務士官の取り扱いのみならず、難しい点が色々あるものです。 もう一つの不文律として、兵学校卒業期の後先というものもありますが、これはまたの機会に。
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2010年09月03日

次の連載準備中

 高橋定氏の回想録 『飛翔雲』 の連載が終わりましたので、次のご紹介を何にしようかということで、今度は前2作とはちょっと毛色の違ったものをと考えています。

 その1つが原題 『17フィートのベニヤボート』  辰巳保夫氏の回想録で、第12震洋隊の戦記でもあります。 これもかつて海自の部内誌に連載されたものですが、その後一般刊行物などでも全く出てこないようですので、本ブログで皆さんにご紹介したいと思います。

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 もう一つは旧海軍史料の 『運用漫談』  運用の大家と言われた大谷幸四郎中将が昭和9年に書かれたもので、艦の扱いや艦上作業の要領など、いわゆる船乗りの “潮気” についてのものです。 こちらは実際に船に乗られたことのない方々には少々判りにくいところがあるかと思いますので、適宜私の解説を付けて行きたいと考えています。

mandan_00_s.jpg

 ということで、準備を始めたのですが、現在少々夏バテ気味で捗っておりません。 何時からどの程度のテンポで連載できますか ・・・・
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2010年09月05日

旧海軍全機雷の詳細データ

 本家サイト『海軍砲術学校』の今週の更新として、既に分割して公開してきました旧海軍の機雷の詳細データについて、残り全てを追加致しました。

 これにて旧海軍の機雷について、 「一号機雷」 から今次大戦終戦までの全てを公開終了です。

 公表したデータは、一部に米海軍史料及び戦後海自資料を使用して補足した他は、全て旧海軍史料に基づくものです。 このため、機雷毎に内容に多少精粗がありますことはご了承ください。

 特に今次大戦中に新規開発されたものについては不明な点も多いのですが、この方面では権威のある『海軍水雷史』では本論記述と一覧表の内容が合っていなかったり、裏付けが取れないものもありますので、同書からの引用は必要分のみ参考として注記するに留めました。

 また、同書の一覧表で出てきます 「一式機雷」 などにつきましても、私の手持ち史料では確認の出来ないものについては省略しております。 これらを含め、今後新たな史料を入手できた場合には、随時更新していきたいと考えています。

 なお、図・写真については一人歩き防止のための透かしロゴを入れております。 もし研究などでロゴ無しの大サイズのものが必要な方がおられましたらご連絡ください。 考慮させていただきます。
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2010年12月05日

Fred T. Jane 著作2冊本家にて公開!

 本家サイトがご来訪17万名を達成しましたので、これの感謝記念として『史料展示室』にて英国の著名な海軍研究家 Fred T. Jane の 『 The Imperial Russian Navy 』 (1899年) 初版本の全頁をPDFファイルにて公開いたしました。


 先行して公開している同氏の 『 The Imperial Japanese Navy 』 (1905年) の初版本と併せ、日露戦争開戦時の両国海軍のガイドブックとしてお楽しみいただけると思います。

 本日より私もお手伝いをしておりますNHKスペシャルドラマ 「坂の上の雲」 の第2部も総合テレビにて放映されますので、丁度良い恰好の読み物と考えます。

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2010年12月17日

『世界の艦船』 1月号増刊

 『世界の艦船』の1月号増刊が発売になりました。 もう書店に並んでいると思います。 今回の特集は 『日本航空母艦史』 です。

SoW_IJN_CV_cover_01_s.jpg

 日本の航空母艦については、1994年の5月号増刊で同じ特集が組まれていますが、既に17年近くを経ておりますので今回の再特集になったようです。

SoW_IJN_CV_cover_02_s.jpg

 写真もほとんどが新しいものに差し替えられました。 また、記事も前回は技術面に重点が置かれていた反面、戦史関係はありませんでした。

 で、今回はその日本の空母の戦いについて書かせていただきました。 ちょっと宣伝 (^_^;

 とは言っても、繋がり上空母の誕生時の状況から始まらなければなりませんので、どうしても割当頁数では足りませんでした。 下書き原稿を削って、削って ・・・・ 結局舌足らずになってしまった感は拭えませんが、そこはご容赦を。

 それでも、元船乗りとしての今までの空母戦史とはちょっと違った観点・視点を入れてみましたので、これはこれでお楽しみいただけるのではと思っています。

 書店で見かけられましたら是非ご購入を。 ただし増刊号ですので2300円と少々高いですが (^_^)
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2010年12月24日

史料紹介 − 旧海軍の研究開発

 先に防衛庁・海上自衛隊の部内資料として、大戦時における海運関係について取り纏めた4部作をご紹介しました。 現在残っておれば一般の方々のこの方面研究の取りかかりとして恰好の入門書となるはずのものです。

 今回ご紹介するのは同じく防衛庁・海上自衛隊が昭和31年に印刷して部内に配布した 『 日本帝国海軍の研究ならびに開発 (1925〜1945) 』 です。

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 ただしこの史料は、部外委託して纏めさせたものとはちょっと毛色が異なり、終戦直後の米海軍 COMNAVFE (Commander, US Naval Forces, Far East) の調査に対する旧海軍側の回答書として作成されたものを、改めて体裁を整えて複製したものです。

 したがって、有名な USNTMJ (US Navy Technical Mission to Japan) シリーズと同じような系列に属するものと考えていただけばよろしいですが、本史料の方はおそらく今まで一般には知られていないものと思います。

 内容は旧海軍の研究開発組織の概要と、それぞれの機関で何時、どの様なものを誰が開発・実験をしたのかを簡潔に纏めたもので、後半は米海軍側からの質問に対するQ&A型式となっています。

 この史料も、もし一般に公開されていたならば、この方面の研究者にとっては恰好の入門書として、また手頃なカタログブックとも成り得たと考えます。 でも、今となっては残っていないんでしょうねぇ ・・・・ ?

 それと、この回答書作成に利用したとされる史料が記されていますが、これの所在も気になるところです。
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2010年12月29日

A3スキャナーの活用

 先日お話ししましたヤフオクで格安入手したA3スキャナーですが、今のところスムースに作動しておりまして、良き掘り出し物であったと思っています。

 そこで、折角ですのでこんなものもスキャンしてみました。

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 小さくて判りにくいと思いますが、昭和19年7月15日現在の旧海軍の組織系統図です。 『海軍系統一覧表 其の一』 『同 其の二』 の2枚で構成され、前者は主としていわゆる正規部隊・機関、後者が主として特設部隊です。

(系統図ですので、同じ様な部隊・機関は1つで表示されております。 例えば海軍工廠は 「海軍工廠」の 1つで表され、各工廠ごとに網羅されている訳ではありません。 これをやり始めたら厖大なものになりますし、本来の目的からも不要でしょう。)

 系統線が 「直隷」 「隷属」 「指揮」 「区処」 「指示」 の5つで示されており、また各部隊・機関などのレベル(階層、echelon)もハッキリしています。

 これを見ると、旧海軍というのが如何に大きな、かつ複雑な組織であったのかがよく判ります。 わざわざ 「執務参考」 として作ったのも納得です。

 元々は 『内令提要』 の改訂時に一緒に配布されたもののようですが、A3用紙3枚を横に繋げた様な大変に大きなもので、『内令提要』 に一緒に綴じるような形にはなっていません。

 紙質が悪い上に、A6サイズに小さく折りたたまれているためもあって、かなり痛みと変色が進んでおります。 これもいまディジタル化しておかなければ、何れ失われてしまう史料の一つでしょう。

 今までのA4スキャナーでは手も足も出ませんでしたし、かといって分割・縮小コピーをしてからではコピー時にかなりズレ (歪み) が出てしまいますので、スキャン後の合成時にうまく繋がりません。

 今回はA3スキャナーで3〜4枚に分割して合成しましたが、ほとんど歪みもなく、うまく再現できました。 また、折り目に重なって破れたり見えなくなってしまったところの文字も全て復元し、変色部分などのゴミ取りも一応済ませました。 これで一安心というところです。

 ・・・・ で、これの公開方法については現在検討中です。 何か良い方法、アイデアがありましたらお聞かせください。
posted by 桜と錨 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと