2016年10月15日

「世界の艦船」 11月号増刊


海人社さんから見本誌が届きました。 まもなく書店の店頭に並ぶと思います、『世界の艦船』 11月号増刊の 『アメリカ巡洋艦史』 です。

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同タイトルのものは93年の4月号増刊として出ておりますが、出版されてから既に23年を経ておりますので、今回はこれのリニューアル版として写真ページも記事ページも全く一新されたものとなっております。

特に今回は 「アメリカ巡洋艦12話」 として、短編のエピソード集が掲載されています。
私もこの中で次の4話を担当させていただきました。

  F ガン・クルーザーの頂点 「デ・モイン」 級の主砲
  I シー・オービット作戦
  J 変身の極み 「オルバニー」 型
  K 原子力巡洋艦はどうして消え去ったのか?

まもなく書店に並ぶと思いますので、是非手にとってご覧下さい。

またこの方面に関心のある方は、出来れば93年版の方も一緒に揃えられると、写真も記事内容もより充実したものとなるでしょう。


なお、この短編集は原則各テーマ1ページという制約からその細部まではご紹介できませんでした。

特に艦載砲の歴史上大変にユニークな存在である 「デ・モイン」 級の主砲の8インチ速射砲 Mk16、そして 「オルバニー」 型を始めとして戦後のアメリカ巡洋艦のメイン兵装の一つとなったタロス・ミサイル・システムについては、これまでその詳細が語られたものは海外のものを含めていまだにありません。

機会があればこれらについても別途ご紹介したいと思っているところでが ・・・・

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2016年10月07日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続3・補)


防衛研究所所蔵史料を再確認していましたら、10月24日の 「武蔵」 沈没時の戦死傷者表が出てきました。

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(「武蔵」 戦死傷者表 元画像 : 防衛研究所所蔵史料より )

これに基づき先の記事を少し修正・加筆して見たいと思います。

「武蔵」 生存者は隔離された? (続) :

この 『菲島沖海戦ニ於ケル戦死傷者表』 によりますと、下士官兵は

  戦死者 :   235名
  行方不明者 : 749名 (内傭人3名)

であり、先の 「戦闘詳報」 からは出撃時の乗艦者数は2287名ですので、生存者数は1303名となります。

これは 「戦闘詳報」 記載の員数と一致しますが、戦死者と行方不明者の内訳は若干異なります。

そして、生存者1303名の内、戦傷者は

  受診者 :    67名
  入院者 :   116名

とされていますので、コレヒドールに収容されたのはこの入院者を除く1187名であったと考えられます。

准士官以上については生存者73名には重傷者はおりませんので、この73名全員がコレヒドールに収容されたものと考えられ、下士官兵との合計は1260名となります。


なお意外なのは、出撃時に便乗していた准士官以上及び同相当官の7名の内4名は 「島風」 に移乗したことが判っていますが、残りの3名のその後は不明です。

また、「摩耶」 の生存者も含めた下士官兵の便乗者の内、「島風」 に移乗したとされる者 (これも正確な数は不詳ですが) 以外の状況も判りません。

もちろん入院者116名のその後は判りませんが、もしかすると何人かは2回に分けて内地に帰還した者の中、あるいは比島からの最後の便となった昭和20年年明け早々の病院船 「第二氷川丸」 の乗船者に含まれていたのかもしれません。

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前 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続3)

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2016年10月04日

秋月型 「初月」 の最終装備状態について


別記事にてHN 「小島」 さんからお尋ねいただきましたが当該項の内容についてではありませんので、私の回答と併せこちらに纏めて記事とします。


お尋ねの件は次のものです。

 秋月型について、特に初月について (最終時の武装の配置) をよく知りたい


あ号作戦後の状況について各海軍工廠が調査したものを故福井静夫氏が纏めた 『各艦機銃電探哨信儀等現状調査表』 という史料があり、これに 「初月」 も含まれています。

これについては最近になって光人社から復刻されましたが、何しろ9千円近い価格です。

この内の駆逐艦についてでしたら 『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』 (光人社) の巻末に元のものを書き直したものが掲載されていますので、これをご覧いただくのが手っ取り早く、またこれで十分ではないでしょうか。

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ただし、「初月」 については昭和19年6月30日現在のものとされています。

したがって、「初月」 はエンガノ沖海戦において10月25日に戦没しておりますので、それまでの間に変化があったのかどうかは私も調べたことはありませんので判りません。


なお、この史料は従来故福井静夫氏の著作物とされていますが、上記のとおり、各海軍工廠が作成した調査表を氏が職務上の命により纏めた “公文書” であり、いわゆる氏の “著作物” ではないことには注意が必要です。

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( 元画像 : HP 「海軍砲術学校」 所蔵の複製版より )

そして本来ならこれは復刻出版するような性格のものではなく、むしろ 「アジ歴」 や 「大和ミュージアム」 などのしかるべきところで一般に公開すべきもの、と私なら考えますが ・・・・ ?

posted by 桜と錨 at 12:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月29日

呉海軍工廠テキスト 『軍艦ノ発達』


以前神田の古書店で入手した福井静夫編の呉海軍工廠テキスト 『軍艦ノ発達』 についてご紹介しました。


ご存じのとおり福井氏は戦後になって自分がかつて関わった史料に手を入れ、元々の作成時の内容からかなり変わっていることがあります。 ですから、このテキストについてもその有無と私の所持する複製が何時の段階のものであるのかを確認したいと思っていたところです。

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( いずれも管理人所有の複製版 )

そこで 「大和ミュージアム」 に収蔵されている福井史料の中にこれの元の原紙がないかどうかを問い合わせたところ、複製なら一冊あるとの回答がありましたので先日見に行ってきました。

結果的には、私が持っているものと全く同じ原紙からの複製で、綴じ方が多少異なるだけのものでした。 そして同館には元々の原紙は収蔵されていないとのこと。

しかしながら、同館収蔵の複製には福井氏自身による書込がありまして、それによってこのテキストの経緯などについて幾分判明しました。 その要旨は次のとおりです。

1.昭和19年7〜8月に工廠実習の学生・生徒用のテキストとして第1巻分を作成・配布し、20年初頭これに第2巻も合わせたものを完成。

 福井氏本人曰く、内容は Hovgaard 著 「Modern Warships」 の和訳ほぼそのままで、これに訂正・修正を加え、更に氏の勤務録より追加を行った。

2.昭和20年4月兵学校教官の内示があり、その講義用として最終的な纏めを実施。

3.戦後になって、昭和27〜28年に青陽社 (注) によりブループリント30部を印刷・製本し、20冊は造船工業会などに、そして10部を海幕用として配布。 海幕は更に別途青陽社に10〜20冊の増刷を発注した。

(注) : 現在東京の港区にある 「(株) 青陽社」のことと思われます。

そして元々の原紙では、(何故か) わざわざ米国の 「米」 を 「獣偏に米」、同じく英国の 「英」 を 「獣偏に英」 と書いていたものを、この戦後の再印刷の時に正しく 「米」、「英」 と修正したとしています。

大和ミュージアム収蔵分も私の複製もこの修正跡がありますので、戦後増刷分であることは間違いありません。

また、同館のものは目次が第1巻と第2巻のそれぞれの表紙の後にありますが、私の複製では両方の目次が冒頭の合冊表紙の後に纏められています。

そして私のものは明らかにブループリントからコピーしたものであることから、海幕が別に発注した増刷分 (おそらく原紙は使わせて貰えなかった) の1冊であり、これがどこからか古本で流れたものであると考えられます。

・・・・ ということで、残念ながら 「大和ミュージアム」 には元々の原紙は無く、しかも福井氏の書込には戦時中に印刷したもの1冊は仮製本して所蔵していると記されていますが、これも同館にはありませんでした。

これらは今どこにあるのか ? もしご存じの方がおられましたら是非ご教示下さい。
posted by 桜と錨 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月24日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続3)


やっと本題に入ります (^_^;

それでは、何のために約1400名もの生存者を一個所に集めておく必要があるのでしょうか?

そうです、乗っていた艦の事後処理と残った乗員の次の配置への準備を“早急に”実施しなければならないからです。 旧海軍ではこれら全てを総称して 「残務処理」 と呼んでいました。

大きく分けると次の様な事項があります。


1.艦及び乗員の状況の調査・確認

出港時の乗艦者の確認から始まって戦闘時の状況、生存者、負傷者、戦死者そして行方不明者にいたる迄を一人一人について調査し纏める必要があります。

沈没によってほとんど全ての記録が失われたことから、これらを確認するだけでも物凄い労力を要するものであることはお判りいただけるかと。 その成果を総括したものの一つが 「戦闘詳報」 であるわけです。

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( 「武蔵」 戦闘詳報表紙 元画像 : 防衛研究所所蔵史料より )


2.戦死者及び行方不明者の取扱

戦死者について士官は海軍省へ、准士官及び下士官兵は所管の鎮守府へ一人一人について正規の報告しなければなりません。

もちろんその前提として、1.の調査で戦死者は誰が何時どこでどの様な状況で戦死したのか、それを誰が確認したのかを、行方不明者も同様で、特に最後は誰がどの様な状況で見たのかを明確にしなければなりません。

そして、もし誰かが戦死者の遺品、遺髪などを持っていた (預っていた) としたら、それの送付手続きも必要になります。

3.個人の記録の確認

入隊以来の各個人の経歴などを記した 「履歴表」 は失われておりますので、この記載事項を可能な限り復元しながら、各個人の次の配置決定に備えなければなりません。

階級、特技、賞罰、俸給額はもちろん、過去の経歴などは全てこれに基づいているからです。

そして最終的には内地に帰って、将校は海軍省、准士官以下は所管の鎮守府人事部にある履歴原簿と照合しなければなりません。

4.官給品の支給

沈没時に戦闘配置から着の身着のままで海に投げ出されたわけですから、身の回りのものは何もありません。

一人一人に規定の衣服・装備品などの支給が必要になりますので、誰に何を支給したかの貸与簿も一から作り直しです。

正式な支給品は次のようなものがありますが、もちろん一度に全てを揃えることはできませんので、何時何を支給したのかをきちんと記録していく必要があります。

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そして履歴表がありませんので、制服に着ける階級章、特技章、善行章なども一つ一つ間違いのないように確認する必要があります。


以上の事務処理・手続きだけでも相当な期間を要しまず。 副長以下の主要メンバーが内地送還となった頃に、ようやく 「戦闘詳報」 などの主な事項の目途が立ってきた時期でしょう。


そして更に重要なことは、この残務処理のために1400名もの人数を一個所に集めますので、そのため総員用の食住が必要になります。

宿舎に士官・准士官・先任の下士官・その他の下士官兵に分けた部屋や事務室などが必要ですし、生活及び事務に必要な物品も整えなければなりません。

食事も毎日三度三度の烹炊員や主計員を主体とした体制を作らなければならないことです。 どこかの部隊の食堂に行って並べば何時でもセルフで食べられる、などということはあり得ませんので、ともかく 「武蔵」 乗員として自活できるように、1400名分の食材 (生糧品、貯糧品) の補給体勢、調理場と調理器具、配膳の道具類等などを整えなければなりません。 それもコレヒドールに着いたその日から直ちにです。

加えて、戦闘や脱出時に数多くの乗員が多かれ少なかれ負傷しており、これらの治療も必要になります。 海軍病院へ入院を要するような重傷者は別として、それ以外の負傷者の介護などの面倒は基本的に全て自分達で行うことになります。


これら全てが如何に煩雑であり多忙を極めるものであったかは皆さんもご想像がつくと思います。

したがって、これらのこと全てを行う施設として、「武蔵」 沈没の翌日10月25日、急にその受け入れを担当することとなった31特根としては、コレヒドールが最適であり、しかもここしか選択肢がなかったと考えられます。

通常ならば、これらの残務処理を行いつつ順次内地送還を待ち、内地において最終的に残務処理の残りを行うことになります。

これらの個人個人の事務処理のカタがついたところで、初めて正式に各自の次の補職替えの手続きに進むことができるのです。


以上の “残務処理” とそれに伴う要措置事項の必要性について、これまで語られてきた生存者の処遇・待遇についての話しの中では “スッポリと” 抜け落ちて、コレヒドールという “僻地” に収容されたことのみが一人歩きしているように思えます。

例えば、10月18日までにマニラだけで既に給糧艦 「伊良湖」 を始めとする21隻の海没・放棄艦船の乗員がおり、そして10月18日以降は更に 「最上」 を始めとする実に92隻の艦船の乗員がマニラに収容されていたのです。

そして戦況は、「武蔵」 の乗員でさえ何とか2回の機会を捉えて620名を内地送還するのがやっとであり、そしてマニラを中心とするルソン島やその周辺の防衛体制強化の必要から、正規に送り込まれる部隊以外に多数の兵員の充足に迫られていたのです。

したがって、前回お話ししたコレヒドール収容以降の 「武蔵」 生存者の状況も、ある意味では日本海軍としても止むに止まれぬものであったと言えるでしょう。

「武蔵」 乗員という、いわば選び抜かれた多数の熟練兵は、全海軍のどこの艦船・部隊でも喉から手が出るほど欲しかったことは間違いないことなのですから。

そして、当時の旧海軍には 「武蔵」 沈没を秘匿するような必要性も余裕も無かったといえますし、それは既にお話しした実際の経緯からも、その様な事実は全く無かったと結論付けられます。


が “しかし” です。

この様な “残務処理” のことや戦況がよく判っているのは准士官以上の一部です。 そして下級の士官や下士官兵になる程、こういう自分の置かれた状況というものを理解する知識に乏しいでしょう。

いちいち事細かに説明して納得させるような事柄ではなく、淡々と事務処理を進めればいいだけのものだからです。

もちろん上陸 (外出) などは論外です。 服装 (階級章や善行章など全てを含む) が各個人で正しいものでなければならないことはもちろんですし、なにしろ肝心なお金を持っていません。

給与簿がないと個人個人の俸給額が決められませんので支給できませんし、また個人の貯金通帳や印鑑も無くしたのですから。

したがって、残務処理が全て完了するまでは基地内に “幽閉状態” となることは当然なことなのです。 外に出したくとも出せないのです。

しかしながら、こう言う海軍として当然の措置である境遇におかれることを十分に理解できない下士官兵の中には、これを “隔離された” と感じる者がいたとしても不思議ではないでしょう。

ましてや 「武蔵」 の乗員であればこそ、それが “沈没を隠すために” と結び付いてもおかしくはありません。

そして悪いことに、副長以下が1ヶ月後に、第2陣がその後に内地帰還となり、そのあとは便が無かったわけです。

フィリッピンを巡る戦況などは判らずに後に残された者達が “自分達は棄民” と感じたとしても、それはあり得ないことではないと思います。


これが結局戦後になって、生き残り乗員達の回想や手記となって世間に広まり、“日本海軍は 「武蔵」 の沈没を隠すためにコレヒドールに隔離した” とまことしやかに流布されることになります。


余談ですが、先日放映されたNHKのドラマ 「戦艦武蔵」 でもその様な流れになっています。

元々の台本ではもっと強い表現のものだったのですが、プロデューサーや監督さんに事実としての “隔離” はなかったものの、生存者の感情として “中には” そう思った者がいたとしてもそれはあり得る話しで、このストーリーはこれはこれで有りですよ、とお話しし納得いただきました。

そしてそういう個人の自然な感情になるように配慮していただいております。

(この項終わり)

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2016年09月19日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続2・補)


ちょっと本来の主題からは外れますが、折角の機会ですからHN 「大隅」 さんからコメントをいただいたマニラ湾口の人工島 「エルフレール島」 (El Fraile Island) についてご紹介したいと思います。

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( 現在のエルフレール島 元画像 : ネットより (サイト名失念) )

この島は元々は次の上の写真のように天然の小さな岩礁でしたが、1909年から米陸軍によってこの上に巨大なコンクリート砲台の人工島が築かれ、1930年代には下の写真のような姿になっていたとされています。

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( 米陸軍の戦前史料より )

米軍の正式名称で 「ドラム要塞 (Fort Drum)」、占領後の日本軍ではその姿から通称 「軍艦島」 と呼ばれていました。

ここには14インチ連装砲塔2基を始め6インチ単装砲及び3インチ単装砲がそれぞれ4基づつ装備され、これに関連して屋外には探照燈台兼見張台のマスト、将校居住棟、そして内部には弾火薬庫や機械設備が完備する他、充実した居住設備なども設けられました。

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( 米陸軍の戦前史料より )

1942年5月に日本軍によって占領されましたが、この占領時の要塞の状態については各砲台の概略以外はほとんど判りません。 (陸軍史料によると少なくとも外観的には屋外のマストや建物などは残っていなかったようです。)

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( 占領時の同島遠景写真  元画像 : 防衛研究所所蔵の陸軍史料より )

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( 占領時の同島略図  元画像 : 防衛研究所所蔵の陸軍史料より )

要塞に装備されていた各砲台については陸軍の手によって調査が行われ、北砲台の6インチ砲2門以外 「使用不能」 と判断されていますが、あまりにもラフな報告書しか残されていませんので詳細が不明で、どの程度のものであったのか判りません。

14インチ連装砲塔2基4門も、あるいは工作部などによって本格的な修理を行えば何門かは使用できるようになったのかもしれません。

一方で米側の記録によると、降伏時に3インチ砲を除き他の砲全てについて駐退装置を除去した上で、砲身内に砲弾のみを装填しこれを遠隔爆破させて使用不能とし、弾火薬庫内には海水を充填した他、可能な限り島内各部の破壊を行ったとされています。

結果的に同島占領後は、陸軍によって1944年後半頃までほぼ放置状態であったとされています。

そして44年後半になってから前述したようにコレヒドールを始めとするマニラ湾口の防御強化が始まり、かつての米軍の水上砲台などの再活用、再整備が行われたとされたわけですが、同年12月に編成されたマニラ湾口防衛部隊についてさえもきちんとした記録が残されておりませんので、詳細は全く不明です。

僅かに二復史料の中に 「武蔵」 乗員35名がここに配置され、そして45年3月25日の爆発により全員戦死と記録される以外は、全くその状況は不明です。 この35名が何時何のために配置されたのかも判りません。


一方米陸軍の公刊戦史では、2月に魚雷艇1隻が偵察のため上陸を試みたものの、守備隊 (海軍) の抵抗を受け、戦死1名及び戦傷6名を出して撤退しています。 ただし、日本側が使用したのは機銃のみとされています。

おそらくこの時の守備隊が 「武蔵」 の乗員であったと考えられますが、これによって米側は同島が無人のまま放置されていたのではないことを初めて知ることになります。

そして本格的な奪還のため、4月13日になって米軍側は上陸用舟艇に乗った陸軍部隊などが同島に上陸、内部に爆薬及び燃料 (一説ではディーゼル油とガソリンの混合物とされています) を投入し爆破しました。 この時、日本軍守備隊との銃撃戦により戦傷者1名を出したものの、後日日本兵69名全員の死亡を確認したと記録されています。

しかし、この日本軍守備隊69名とはいったいどこの部隊がいつ配置されたのかも判りません。

そして米軍によって更に2回にわたり内部が徹底的に爆破され、現在残るのはこの残骸の姿です。

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( 元画像 : 米軍史料より )

なお、このエルフレール島の歴史などについては、次のURLに素晴らしいサイトがあります。 昔及び現在の同島の写真なども豊富ですので、是非一度お訪ねください。



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2016年09月18日

大井上博著 『魚雷』


先程本家サイトの今週の更新として、引き続いてご来訪50万名達成感謝記念企画の第3弾、工学博士の大井上博氏 (1901-1966) が昭和17年に海軍省の検閲を受けて山海堂出版部より出版した 『魚雷』 を 『史料展示室』 コーナーにて公開しました。

TP_cover_s.jpg

   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/45_torpedo_ohoinoue.html

魚雷というのは元々が機密レベルの高いものとはいえ、内容的には出版当時からすると少々古いもので、かつ多くは一般に公開されているものに基づいていますが、流石は工学博士らしく魚雷全般について網羅し、かつ足が地に着いた記述となっています。

ビジュアル的な見栄えの良いものがもてはやされる昨今ですが、こういった基礎から丁寧に解説されたものはあまり見かけません。 その意味でも貴重であり、この方面に関心のある方々の入門書としても格好の一冊と思います。

posted by 桜と錨 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月12日

桜と錨の独り言


旧海軍の電波探信儀について、主電源については公開されている旧海軍史料の中に各種電探のものが明記されているんですが ・・・・

某所で質問されている方、この方は確か以前も艦艇装備品の電源について同じ様な疑問を呈されていたかと。

そもそも艦艇とその装備品の電源がどういう関係にあるのかきちんと理解していれば、この類の疑問は出て来ないんですがねえ (^_^;

posted by 桜と錨 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月11日

写真集 『海気集』 公開


本家サイトの今週の更新は、ご来訪50万名達成記念の感謝企画第2弾として、『懐かしの艦影』 コーナーにおいて昭和36年に 「防衛友の会本部」 によって編纂・刊行された海上自衛隊写真集 『海気集』 を公開しました。

kaikishu_cover_s.jpg

     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/photo_cont.html
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/kaikishu/kaikishu.html

現在では海上幕僚監部や各地方総監部などからその都度その都度の写真などが公開され、またネット上でも多くのファンの方々から様々な写真がUPされておりますが、この種の普段の部隊の様子を紹介する纏まったものはまず見かけません。

( 私などからすれば、本来なら 「水交会」 などが一般に対する啓蒙活動の一つとして出すには最適なものと思いますが、現在の同会にはそのようなつもりはないのでしょうね ・・・・ (^_^; )

加えて、海上自衛隊創設初期の写真集というのも今日においては大変に珍しいものであり、その意味でも貴重なものと言えるでしょう。

写真集とはいっても通常の1ページ1葉のものではありませんで、いわゆる “パンフレット” 形式ですので、全頁を1つのPDFファイルとしました。

ただし元々の画質があまり良くありませんのでその点はご了解ください。

55年前の出版物ですが、出版元の 「防衛友の会本部」 というのも現在ではネット検索しても見当たりませんし、著作権の現状について確認するにも個人としては限界があります。

しかしながら、当時の海上自衛隊を紹介するこのような素晴らしい写真集がこのまま埋もれてしまうのは大変に勿体ないことと思い、私個人の独断と責任において公開する次第です。

したがいまして、現在の正当な著作権保有者からの連絡をいただきました場合には、削除などの措置をとらせていただくことが前提であることは申し上げるまでもありません。

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2016年09月10日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続)


始めに 「武蔵」 沈没からの生存者の状況について少し整理してみましょう。

まず沈没からコレヒドール島到着までです。

10月24日
  1918 「武蔵」 沈没 (「清霜」 の記録では1940、「武蔵」 の記録では1935)
  1932 「浜風」 救助作業開始
  2026 「清霜」 救助作業開始 (2013 第2カッター降下)

10月25日
  0057 「清霜」 救助作業終了
  0120 「浜風」 救助作業終了

この時に収容された 「武蔵」 の生存者は両艦の戦闘詳報・戦時日誌などにより次のとおりとされています。

  「浜風」 : 准士官以上44名、下士官兵860名、計904名
  「清霜」 : 准士官以上31名、下士官兵468名 計499名
  合計  : 准士官以上75名、下士官兵1328名、計1403名

ただし、「武蔵」 は沈没した 「摩耶」 の乗員を収容しており、被害が酷くなった1830頃 「島風」 を横付けして移乗させていますが、応急関係員などはそのままとなっておりますので、沈没時に救助された人員にこれらの生存者が含まれていたかどうかは不明です。

  0140 「浜風」 コロン湾 (注1) に向かう
  0214 「清霜」 コロン湾に向かう

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( シブヤン海、コロン湾、マニラの位置関係 元画像 : Google Map より )

両駆逐艦長は協議の上、取り敢えず 「武蔵」 が損傷時に向かっていたコロン湾にそのまま向かい、同湾で上級司令部からの指示を待つことにしました。

その途中で第1遊撃部隊指揮官から両艦宛に次の命令が届きます。

1YB機密第242138番電
武蔵乗員を 「マニラ」 に輸送したる後 「コロン」 湾に回航妙高艦長の指揮を受け同艦及び日栄丸の警衛に任ずべし

この電報がいつ両艦に着信したのかは不明ですが、両艦はそのまま引き続きコロン湾に向かいます。

  1306 「清霜」 コロン湾着
  1455 「浜風」 コロン湾着

  1830 両艦コロン湾発、マニラに向かう

このコロン湾仮泊中に重傷者を在泊中の他艦に移したとするものもありますが、記録などはありませんので詳細は不明です。

コロン湾出港直前に 「浜風」 は第3南遣艦隊及び第31特別根拠地隊 (以下 「31特根」 という) へ次の電報を発信しています。

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( 「浜風」 の発信電報内容 元画像 : 防衛研究所所蔵資料より )

ここに示す 「武蔵」 生存者数は、准士官以上80名、下士官兵1343名の計1423名 となっており、先の救助作業直後の数とは多少異なっておりますが、コロン湾仮泊中に再確認した結果であり、少なくとも 「武蔵」 沈没時に救助した人員数 (便乗者等を含む) としてはこの値が最も正しいものと考えられます。 (注2)

10月26日
  0902 「浜風」 キャビテ軍港桟橋着
  0935 「清霜」 「武蔵」 乗員を 「浜風」 に移乗させた後マニラ港桟橋に横付けし補給
  1200 「浜風」 キャビテ発
  1303 「浜風」 コレヒドール着 「武蔵」 乗員退艦
  1446 「浜風」 コレヒドール発

先の電報にあった要収容負傷者についてはキャビテにおいて海軍病院に送られたのかどうかは不明です。

ここまでが 「武蔵」 の生存者がコレヒドール島に到着するまでの状況の概要です。

これを見る限りでは、「武蔵」 の生存者の収容先がコレヒドール島となったことは、両艦がマニラに到着するまでは、両艦はもちろん第1遊撃部隊司令部も知らなかったと言えるでしょう。

したがって、同島への収容は第3南遣艦隊あるいは31特根の都合による判断と考えるのが自然です。

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( 元画像 : 1944年の米軍地図より )

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( コレヒドール島 元画像 : 1944年の米軍地図より )

ではなぜコレヒドール島だったのか?

これはお考えいただければすぐお判りのように、急に1400名もの人員を収容できるような施設はマニラの31特根といえどもそうそうあるわけではありません。 しかも後でお話しするように、「武蔵」 生存者1400名は取り敢えずは分散配置せずに一纏めにしておく必要があります。

当時はマニラ及びその周辺に海軍部隊の収容可能な施設はいくつかありましたが、マニラ防衛のために送り込まれる部隊はもちろん、多数の沈没艦船の乗員が所在しており、一挙に1400名もの人員を収容できる施設はそう簡単には確保できなかったと考えられます。

その一方で、コレヒドール島には19年9月までは31特根の僅かな部隊が配置されていたにすぎませんでしたが、9月に震洋隊1隊が配置されたのを皮切りとし、以後震洋隊、防空隊、設営隊などが次々と送り込まれることとなり、このための施設の増設が急ピッチで進められていました。 また、マニラ湾港防備強化のための更なる人員増加の必要性も見込まれていました。

このため 「武蔵」 生存者1400名がマニラに到着した時、彼等の処遇が決まるまでの取り敢えずの仮施設としても、コレヒドール島は当時最適な選択肢であったと考えられます。


さて次がその後の状況になります。

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(注1) : コロン湾 (Colon Bay) はパラワン諸島の北東端にあるブサンガ (Busuanga)、クリオン (Culion) 及びコロン (Colon) の3つの島で囲まれる天然の良港です。

ここコロン湾は連合艦隊の泊地・作業地として海軍部内ではよく知られたところで、この捷号作戦時でも使用していました。 実際、「武蔵」 生存者を運んだ 「浜風」 「清霜」 は再補給の後、損傷艦艇の応急修理のための派遣修理班90名をキャビテ軍港からこのコロン湾まで運んでおります。

colon_Bay_map_02_mod_s.jpg
( 元画像 : 1984年のONCシリーズより )

colon_Bay_map_03_mod_s.jpg
( 元画像 : 1960年の米軍地図より )


(注2) : 「武蔵」 の戦闘詳報によると、救助した 「摩耶」 の乗員を除き

   出撃時 : 准士官以上 112名 (その他便乗者等 7名)
        下士官兵・傭人 2287名 (その他便乗者等 11名)
        計  2399名 (その他便乗者等 18名)
   生存者 : 准士官以上 73名 (その他便乗者等 4名 3名は記録無し)
        下士官兵・傭人 1303名 (その他便乗者など 11名)
        計 1376名 (その他便乗者等 15名 3名は記録無し)

とされており、「浜風」 「清霜」 2隻による救助記録の合計より若干少なくなっております。

「武蔵」 戦闘詳報はコレヒドール島上陸以降、後になって書かれておりますので、もしかするとコロン湾あるいはマニラで移したとされる重傷者の数が入っていないのかとも考えられます。

また 「武蔵」 戦闘詳報の戦闘経過の中で 「島風」 への 「摩耶」 乗員移載の際に応急関係員は残したとされていますが、人員表の中にはこの数がありません。

したがって、便乗者等を除く 「武蔵」 乗員の正確な生存者の数については、結局のところ今日もなお確定的なものは無いと言えるでしょう。

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posted by 桜と錨 at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月06日

「武蔵」 生存者は隔離された?


これもまずご来訪の皆さんのご意見をお聞きした方がよろしいかと思います。

戦後通説として言われていることの一つに、「武蔵」 がシブヤン海で沈んだ時の生存者は2隻の駆逐艦によって救助され、当初はマニラに運ばれる予定だったものが急遽コレヒドール島に変更となり、「武蔵」 沈没の事実を秘匿するためにここに隔離されたということがあります。

この “沈没の事実を秘匿するため” というのは本当だったのでしょうか?

先日放映されたNHKのドラマ 「戦艦武蔵」 でも、生き残りの乗員が主人公達にその様に回想する場面がありますが、さて実際は?

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次 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続)

posted by 桜と錨 at 09:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月05日

将旗と長旗 ・ 続


艦長が海軍少将である (に進級した) 場合、その艦に掲げる指揮官旗は何であるかをお尋ねしました。


皆さんから回答をいただいたとおり 「長旗」 で正解です。

旧海軍の場合は 「海軍旗章令」 (昭和7年勅令359号) で次の様に規定されているとおりで、


第十九條 将旗は指揮権を有する海軍大将、海軍中将又は海軍少将の旗章とし海上勤務の司令長官又は司令官に在りては其の座乗する艦船に、・・・ (以下略)

第二十一条 代将旗は司令官たる海軍大佐の旗章とし ・・・ (以下略)

第二十四条 長旗は各艦船を指揮する海軍将校の旗章とし ・・・ (以下略)

したがって、海軍少将といえども艦長は長旗を掲げなければなりません。

でもこれ、その筋では結構有名な方でも間違えておられました。 突然 “海軍少将の艦長なら少将旗でななければ” と言い出されてビックリしたことがあります (^_^;


では、人事規則上海軍少将が艦長となり得るのか、ということです。

ご存じのとおり、艦長に配置される者の階級はその艦の 「定員表」 で定められています。 先の例で言いますと 「武蔵」 の場合は海軍大佐です。

また海軍の伝統と慣習から、将官の階級に対する処遇として、大佐から少将に進級した場合はその進級と同時にしかるべき配置に補職替えとなるのが普通です。

この定員表に定められた階級については、「海軍定員令」 (大正2年内令34号) により

第十条 必要に応じ海軍定員及び補欠員の範囲内に於いて一時本令別表に依る各定員表所定の官職階に依ることなく配員することを得 但し上級者を以て下級の位置に充てるはやむを得ざる場合に限る

として定員表に定める階級より下位者を補職することは出来ますが、上位者を充てることは余程のことが無い限り (例えば国外派遣中の艦艇で死亡した場合のその交代など) できませんでした。

しかしながら戦時ともなるとそうも言っておれなくなり、その一つとして昭和13年には内令899号により、大東亜戦争中は戦艦及び航空母艦の艦長は一時少将を充てることができるとされたのです。

更にこれは、昭和19年の内令592号により、大尉以上少将までは全ての定員において一階級上の者を充て得るように改正されました。

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したがって、猪口敏平大佐の場合途中で少将に進級してもそのまま 「武蔵」 艦長であることは旧海軍の人事規則上は問題なかったのです。

とはいっても、もちろんこれは戦時における特例中の特例であり、古今東西の海軍でも極めて異例なものであったことは間違いありません。

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「将旗と長旗」 :


posted by 桜と錨 at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月04日

本家サイトご来訪50万名達成感謝記念企画第1弾


本家サイトは先週ご来訪50万名を達成しました。 今回はキリ番を踏まれた方からの申告もいただきましたので、キリ番賞の粗品を差し上げたところです。

そして本日は本家サイトの定期更新に合わせ、その達成感謝記念企画としての第1弾をUPしました。

第1弾は、明治40年に時事新報社が邦訳出版した 『露艦隊三戦記』 で、これは同社が先に出した 『露艦隊来航秘録』、『露艦隊幕僚戦記』 及び 『露艦隊最期実記』 の3つを改めて1冊に纏めたものです。

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    http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
    http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/44_rokantai_sansenki.html
 
バルチック艦隊の大遠征と日本海海戦における様子については、日露戦争直後に出されたプリボイの 『ツシマ』 がよく知られ、日本においてもこれまで幾度か邦訳版が出ています。

しかしながらこれは良く言って “戦記物”、一般的に評価すれば “小説” に過ぎません。

これに対してこの 『三戦記』 はそれぞれが当事者たる将校及び同相当官の手になるものであり、史料的価値についてはこちらがはるかに高いと言えます。

気軽に読めるロシア側の記録としてお楽しみいただければと思います。

なお、現在ではこの内の 『来航秘録』 と 『幕僚戦記』 は 「近代ディジタルライブラリー」 にて公開されていますが、残念ながら例によって画質は良いとは言いがたいものがあります。

( しかも何故か検索ページのタイトルと内容が相互に反対になっています (^_^; )

今回本家サイトで公開しましたのは、それぞれの全頁を1つのPDFファイルにしたもので、例によって印刷と加工は出来ない設定としておりますが、いつものロゴや透かしなどは入れておりません。

どちらをご利用されるかは皆さんのニーズに合わせてでよろしいかと。


なお、引き続き第2弾以降も準備出来次第順次公開する予定です。 お楽しみに。

posted by 桜と錨 at 23:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月02日

将旗と長旗


ご存じのとおり、旧海軍や海上自衛隊に限らず、古今東西の海軍にはその指揮官旗として将旗・代将旗と長旗が定められています。

将旗は指揮官配置にある将官、代将旗は将官配置にある大佐がその旗艦あるいは陸上司令部などに掲げ、そして長旗は海軍将校が指揮する (=艦船の長である) 艦船に掲げられます。

旧海軍の場合、これらの旗は次の様式のものでした。

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ではここで皆さんにお尋ねします。

艦長が少将であるというのは戦時の途中進級でも無い限り大変に珍しいケースではありますが、人事規則による補職上あり得ないことではありません。

実際に旧海軍では、太平洋戦争中に 「武蔵」 の艦長であった猪口敏平大佐が途中で少将に進級し、シブヤン海の戦闘において 「武蔵」 と運命を共にした例があります。

では猪口艦長が少将に進級した時、「武蔵」 には長旗に代わり少将旗が新たに掲げられたのか、あるいはそのまま長旗だったのかどちらでしょう? あるいは代将旗などの他の旗だったのでしょうか?

posted by 桜と錨 at 17:15| Comment(6) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年08月29日

朝雲新聞


一般の方々にはあまり馴染みが無いかもしれませんが、防衛省・自衛隊部内やミリタリー関係に興味のある人には有名な、陸海空3自衛隊や国内外の軍事関係ニュースを中心に特化した朝雲新聞社発行の 「朝雲新聞」 というのがあります。

この新聞に毎月1回掲載されております 「世界の新兵器」 コーナーで、これまで海上兵器の担当であった小滝國雄氏がご都合により交代されることになりましたので、私が換わって担当させていただくことになってしまいました (^_^;

8月25日付の紙面でその第1回目が掲載されましたが、何しろ初めてですので手堅くという意味もあって、現在艤装が進められております掃海艦 「あわじ」 のことを切っ掛けとして、FRP製の掃海艇のお話しからです。

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( 文字が小さくて内容は読めないかもしれませんが ・・・・ 自衛隊及びミリタリー関係に興味のある方は是非定期購読を、っと宣伝してみる (^_^; )

陸海空と誘導武器の担当者が持ち回りですので4ヶ月に1回となりますが、海担当の私としては、技術者ではなく用兵者としての視点から、平易で判りやすい内容で、読者の方々に興味を持っていただけるようなテーマを選んでいきたいと思います。

posted by 桜と錨 at 14:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年08月19日

合戦準備における木甲板の砂撒き


少し前に某巨大掲示板で話題になっておりました艦艇において合戦準備の際に木甲板に砂を撒くといことについてです。

当該掲示板では HN「hush」 さんがいつも通りの豊富な知識を活かして頑張っておられましたが、こちらで少々補足を。


帆船時代を含めて、艦艇では合戦準備の一貫としてまず木甲板を水で流します。

帆船時代は水兵達は裸足の者が多かったため(多少なりとも) 足裏を傷つけないようにするためと、火災予防のためです。 (そして日本海海戦時には甲板上に搭載した石炭を艦内格納又は海中投棄した後の清掃を兼ねていました。)

そして更に重要なことは、砲弾が木甲板に当たった場合、これにより飛散した木片による負傷を少しでも少なくするためです。 乾燥してささくれだった木片が人体に食い込んだ時には、ペニシリンが無かった当時としては時として致命的で、基本的には手足を切断することになりますが、多くの場合失血や感染症で命を失いました。

この水洗いの後に、木甲板に湿った砂を撒きます。 これは良く言われるように滑り止めのためであり、また流れ出た血の広がりを抑えるためでもあります。

ただしこれは人員のためであって、大砲の滑り止めなどにはなりません。


何時撒くのか。

基本的には合戦準備の一貫としての作業ですが、帆船時代を始め船の速力が遅い時代は敵艦が見えてからでも十分に間に合います。

しかし甲鉄艦の時代になって速力が早くなっるに連れて合戦準備は会敵前の比較的早い段階に終えるようになると、これでは戦闘時に木甲板と砂が乾いてしまい、目的の効果が無くなりますので、合戦準備後会敵までの適当な時期を見計らって実施することになります。


どの範囲に撒くのか。

目的が人員のためですので、原則として人が戦闘配置として就いている場所、つまり露天舷側砲などであり、そして人が頻繁に通る場所、つまり運弾通路となるところなどです。

したがって、帆船時代などでは木甲板全体にわたる広範囲なものとなりますが、甲鉄艦となった以降はその必要とされる範囲は次第に限定されたものとなります。

(もちろん、木造船時代と甲鉄艦時代とでは木甲板の意味合いが異なることは申し上げるまでもありません。)


誰が撒くのか。

帆船時代のように広範囲に撒く場合にはそれこそ総員作業になり、副長などの指示により一斉に行うことになります。

しかしながら甲鉄艦時代となると、戦闘時に木甲板の露天甲板に出る必要のある人員は次第に限定されてきます。

したがって、作業は砲員及び運弾員に指定された兵員がその中心となり、次第に総員作業から砲術科の通常の合戦準備作業の中の一つになってきます。

これは砲側に諸工具・用具などを準備したり、撃ち殻薬莢の跳躍防止用のマットを敷いたりするのと同じです。

このため、木甲板の水洗いや砂撒きなどはわざわざ艦の戦闘詳報などで採り上げて記載するまでもなく単に 「合戦準備」 の中に含まれることになりますし、更にはまた昭和期には艦としての合戦準備事項の一つとして規定することも無くなって来ました。


ですから、hush さんの言われるように日露戦争期でさえ戦闘詳報などに当該事項の記載が見られないというのは自然なことなのです。

しかしながら、本ブログで連載しました 『日露海戦懐旧談』 の中でも出てきますように、これが淡々と実施されていたことは明らかです。

ただし、日本海海戦などにおいても、これがどの程度の効果があったのかについては不明で、各艦の戦闘詳報や戦訓などにおいて記されているとおり、既に個艦における防禦措置としての重きはこれには無かったことは確かです。


いつ頃まで行われていたか。

上述のとおり、木甲板そのものが少なくなり、かつ露天甲板に配置される人員が少なくなったことと、運弾員など甲板上を動き回る兵員は戦闘時には底がゴムの布製ズック又は厚手の地下足袋を多く着用したことから、木甲板の砂撒きは昭和期までには必要な個所を必要に応じて各艦、各部署ごとに実施するようになったと考えられます。 もちろん太平洋戦争期でもある程度は行われていたであろうことは想像に難くありません。

また砂巻きは鉄甲板では意味がありませんし、リノリューム甲板では材質表面を痛めることにもなります。

そして鉄甲板のところは、砲座なども含めて必要な個所には波形の滑り止めがついたものを使用したことはご存じの通りです。


現在では掃海艇などを除けば鉄甲板以外の艦艇はまずありませんが、戦闘時に限らず普段でも濡れた鉄甲板は滑りやすいため、某巨大掲示板でも紹介があったように、海自では通路 (歩行帯) 指定個所に砂を撒いてその上から塗料で塗り固めて滑り止めとしています。

もちろん米海軍などではそんなけちくさいことはせずに滑り止めの塗料を分厚く塗っていますが (^_^;


では最後にご来訪の皆さんに質問です。

木甲板に撒く砂は、この合戦準備作業として使用するために艦にわざわざ搭載しているものなのでしょうか?

(8月21日追記):

実はこの砂は合戦準備作業用のためだけではなく、平時から木甲板の保存・手入れ用に艦に常備しているものなんです。

木甲板を常に正常で綺麗な状態に保つためには大変に手間暇がかかります。

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毎朝の水洗いのみではなく、必要に応じて掃き掃除をしてゴミなどのないようにすることはもちろんですが、雨や海水を被った後はこれを拭って常に乾燥した状態を保たなければなりません。

そして艦の振動や気候の変化により木板と木板の間に隙間が出来たり、詰め物が欠損したような場合には、見つけ次第中に水が染み込まないように補修をする必要があります。

また、もし油性のものを溢してしまった時には、石灰などを使ってシミにならないようにしなければなりません。

しかしながらここまでやっても、それでも経年変化とともに木甲板の表面は水垢などによって変色し薄汚れてきます。

そのため、定期的に木甲板の表面を綺麗にする必要が出てきます。 これは檜の浴槽などをお考えいただければお判りいただけると思います。

つまり、サンドペーパーや鉋を使う代わりに、この砂で磨くわけです。 もちろんこれを頻繁にやりますと木甲板はすぐに磨り減ってしまいますので、これを行う時期を見極める必要があります。

戦艦などにおいては、こうして木甲板を常に綺麗な状態を保つために大変な手間暇をかけて、その威容を保持していたのです。


posted by 桜と錨 at 22:15| Comment(12) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年08月16日

邦訳版 ジェリコー著 『グランド・フリート』 完成!


ブログ 『軍艦三笠 考証の記録』 を主催されるHN 「八坂 八郎」 氏が私家版として邦訳出版されているジェリコーの 『グランド・フリート』については、既に第1巻と第2巻をご紹介してきたところです。


この度、残りの全てを第3巻として出され、これにて同書の邦訳が完成しました。

GF_JP_all_s.jpg

今回の第3回は、分量的には前2冊を合わせたくらいの厚さがあります。

そしてこれまでと同じくビニール・カバーのついた大変に綺麗な装丁で、また付図が大きなA3サイズで別になっているのも嬉しいところです。

もちろん本文の訳も例によって丁寧で、かつ判りやすい日本語になっていることは申し上げるまでもありません。

やはりこういった有名な古典が日本語で読めるというのは嬉しいことですね。

この方面に興味のある方は、入手方法など、氏のサイトから直接コンタクトをとってみて下さい。 (プロフィール欄からメッセージが送れます。)


posted by 桜と錨 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年07月17日

『一般計画要領書』 への追加公開


本家サイトの今週の更新として、しばらく間が開いてしまいました 『史料展示室』 コーナーの造工史料 『一般計画要領書 潜水艦の部』 へファイルを追加しました。


今回は、先日本家サイトの掲示板でも話題になりました 「伊6潜」、水中高速タイプ (潜高型) の 「伊201型」、そして実用性の高さが評価された 「呂35潜型」 の3つです。

I-006_mod_001_s.jpg  I-201_mod_001.jpg

Ro-035_mod_001.jpg

潜水艦の部は、当該頁のリストにありますようにまだまだ多くのものが残っておりますが、今後とも少しずつ追加していく予定です。


この造工史料は親しくお付き合いさせていただいておりますHN 「閑居不善庵」 氏のご厚意により複製をいただいて順次ディジタル化したものすが、この様な貴重なものを私のサイトで公開できることは大変に嬉しく光栄なことです。

しかしそれにしても、この史料はいまだにどこからも纏まった形で出てこないのはどうしたことなのでしょうか?

本来ならば私のところの様な個人サイトではなく、キチンとした組織・機関のサイト、あるいは出版物として公開されておかしくないものと思いますが ・・・・ ?

posted by 桜と錨 at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年07月16日

『世界の艦船』 8月号増刊


間もなく 『世界の艦船』 8月号増刊 (通刊843号) として 『傑作軍艦アーカイブ A 米空母 「レキシントン」 型』 が発売となります。

SoW_No843_cover_s.jpg

この中で私も 「メカニズム A 兵装」 の項を担当させていただきました。

ただ、割当の紙幅からは 「レキシントン」 と 「サラトガ」 2隻の兵装の変遷を追うのがやっとですので、残念ながらその個々の兵器の詳細まではほとんど行き着きませんでした。

それでも各種データなど今まで無かった内容についてかなり盛り込めたと自負しております。

増刊号全体の構成も大変バラエティに富んだものとなっております。 書店の店頭で見かけられましたら是非手にとってご覧ください。


う〜ん、それにしても表紙の写真は、「サラトガ」 が後進しながらF4B戦闘機が逆向きに艦尾方向へ発艦しつつある珍しいもので、この辺は編集部さんの遊び心ですね (^_^)

posted by 桜と錨 at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年07月03日

『海軍須知』 コーナー開設


本家サイトの更新として、旧海軍についての基礎的・基本的な事項を解説する 『海軍須知』 コーナーを設けました。


当面は本ブログで過去に採り上げたもので、世間に誤って流布されていることや誤解されていることなどを中心にして、これらを纏め直して掲載していく予定です。

第1回目は 「戦闘旗」 と 「海軍における挙手の敬礼」 の2つです。

battle_flag_2_s.jpg  salute_01_s.jpg

前者は平成20年に同じ軍艦旗でも艦旗と混同していることについて、後者は平成22年 “海軍式敬礼” なるおかしなものの誤りについて、それぞれ本ブログで記事にしたものです。

ブログですと古いものは流れていってしまいますので、今回本家サイトで改めて記事にし直しました。

お陰様までこれらについてはブログ掲載以来、現在ではネット上でもウィキなどを始めとしてかなり直ってきておりますので、私としては嬉しい限りです。

posted by 桜と錨 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと