2017年01月10日

艦隊司令部職員の構成と職務 (6)


さて次の日露戦期まで進む前に、明治27年段階でのことをもう少しお話しします。


この明治27年に艦隊條例が改訂されたことは既にお話ししましたが、艦隊編制時のその名称は勅令によることは先のとおりです。

その他で注目すべきはその第3条で

 第三條 艦隊ニハ水雷艇及運送船等ヲ附スルコトヲ得

とされ、従来軍艦のみとされ、艦隊が狭義での戦闘を主眼としていたものが、常備艦隊の経験もあり、ここに来て広汎且つ柔軟な運用を可能とする近代的な艦隊としての編成とすることができるようになりました。

日清戦争ではまさにこれが具現化され成果を挙げたわけです。


もう一つが、従来の参謀に加え、幕僚として艦隊航海長、機関長及び軍医長という職員が置かれたことです。

なおこれら幕僚とその名称については多少の変遷がありますが、これについては省略いたします。

また、従来からあった 「伝令使」 についてはこの明治27年の制定時に、「秘書」 については明治32年の改正時になくなり、代わってその明治32年の改正時以降は 「副官」 が置かれることになりました。

例えば明治36年の条例改正時における幕僚及び艦隊付は次の様になっています。

Kantaishokuin_M36.jpg

この明治27年の艦隊條例制定当時において、実際の艦隊の編制とその目的・任務が次第に拡がってきましたので、司令長官の職務も広汎なものとなり、それを補佐する幕僚の業務も次第に増えることになります。

このため、艦隊條例で定められた幕僚のそれぞれの職務内容の詳細について示す必要が出てきたため、明治27年11月に艦隊職員条例が廃止されて、新たに 「艦隊職員勤務令」 (達168号) が制定されたのです。


この艦隊職員勤務令は、明治34年に達42号を以て全面改訂されました。


そしてその後幾度かの小改正が行われましたが、大正3年になって廃止されてしまい、以後この種のものが制定されることはありませんでした。

なぜなんでしょう?

それは、この艦隊職員勤務令をご覧になれば、各幕僚の職務についての規定はともかく、指揮官たる司令長官等の職務はこの当時でも大変に広範多岐にわたるものであるということがお判りになるでしょう。

したがって、幕僚の役目はこの司令長官等の職責の全ての業務について円滑に行われることを補佐するものであることを考えるなら、一々これを “これは○○参謀担当” などと細かく分けて規定することは不可能であるということです。

そして大正、昭和へと益々艦隊の編成、目的、行動内容が多岐にわたってくるに及んでは、具体的な職務については海軍省達等で規定し、その都度一々改変していくよりは、各艦隊に任せ、艦隊内でその任務・行動や業務に応じて振り分ける方が都合がよくなりました。

これが艦隊職員勤務令が廃止された大きな理由です。

このため、海軍部内では当然のこととして行われてきたことが、海軍の公文書として明文化されていないこともあって、戦後の研究家などにとって “○○参謀が担当するものは何?” “艦隊機関長とは何するの?” ということになってきたのです。

したがって、これらの具体的なことについては艦に乗ったことの無い方々には、なかなか理解いただけないことではないかと。

とはいっても、明治期後半〜大正初期のものであり、また中には当時の古い条項もありますが、この艦隊職員勤務令をお読みいただけば、司令長官等の職務や各参謀や幕僚によるその職務分担の一端がお判りいただけるのではないかと思います。

例えば、ネットの某所で艦隊機関長や主計長について話題になった時に

 なんか……パッとしない職業なんですねぇ。

という所見を述べた方がおられますが、とんでもありません。 大変に重要で多忙な職務であり、単に機関大佐のポストを増やすためとか、あってもなくてもよいようなという配置ではないのです。

-------------------------------------------------------------

前 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (5)

posted by 桜と錨 at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年01月06日

艦隊司令部職員の構成と職務 (5)


前回明治27年7月19日に連合艦隊が初めて組織されたことを書きましたが、その中で “あれっ?” と思った方がおられるかもしれません。

そうなんです、連合艦隊編制に先立って警備艦隊が編制されましたが、その上裁・裁可が7月10日であるのに海軍省達の発簡は7月13日になっているのです。

裁可を得られたならば当日、遅くとも翌日には出されるのが当然ですが、これは何故なんでしょう?


これは次の通り海軍の意図として、 「橋立」 及び 「厳島」 が佐世保に集結し、常備及び警備の両艦隊の体勢が揃うのを待ってから実施するためだったんです。

Keibikantai_M27_02.jpg

そして 「厳島」 は11日、「橋立」 は12日に佐世保に到着しており、これによって翌13日の警備艦隊編制となりました。


次ぎに、この初めて編制された連合艦隊ですが、何時何を以て解かれたのでしょうか?

旧海軍が出した公式資料である 『海軍制度沿革』 でも、なぜかこの時の連合艦隊が解かれたことについてだけは記述されておりません。 また、公刊戦史である 『二十七、八年海戦史』 にもありません。

このため戦後出されてきた多くの出版物などでもこれを明確に書かれたものはまずありませんでした。

実際には、日清講和条約発効直後の明治28年5月17日に 「官房1873号の3」 によって解かれております。

Rengoukantai_kaitai_M28.jpg

また、戦時に際しての臨時編制であった西海艦隊は、戦後処理が一段落した同年11月15日になって 「海軍省達125号」 によって解隊されています。

Seikaikantai_kaitai_M28.jpg


さて、そこで注目していただきたいのは、初めて連合艦隊が誕生した日清戦争においては、警備艦隊については 「編制する」 「解隊する」 となっていますが、連合艦隊については 「組織する」 「組織を解く」 として公式文書では明確に用語を区別していることです。

これは後で述べる “連合艦隊とは何か” ということについて重要なポイントになりますので、是非覚えておいてください。

-------------------------------------------------------------

前 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (4)

次 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (6)

posted by 桜と錨 at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年12月25日

艦隊司令部職員の構成と職務 (4)


さて、前述の明治22年に制定された 「艦隊條例」 と 「軍艦條例」 ですが、これらはそれまでの海軍省達などではなく、勅令となっています。

これは、この年の2月に大日本帝国憲法、俗に言う明治憲法が発布されたことによります。 即ちその第12条で、

 第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及其ノ常備兵額ヲ定ム

とされました。 これがいわゆる 「編制大権」 と言われるもので、これによって関連する法規類も勅令によることとなったわけです。 因みに第11条が有名ないわゆる 「統帥大権」 です。


そこで、前述した明治17年の 「艦隊編制例」 及び 「艦隊職員条例」 と同時に定められた司令長官等及び艦隊職員に対する補佐業務のための 「旗艦増員表」 です。

この海軍省達として定められた旗艦増員表は明治19年2月19日に廃止されました(達丙28号)。

Kikanzouin_haishi_M1902.jpg

換わって同日付の海軍省達丙29号によって、旗艦の構造により増員する上限を示すものとなります。


そして明治22年の憲法発布により、艦隊條例などと同様にこれも23年10月になって勅令として定められることになります。

これが 「鎮守府艦隊司令長官旗艦増加定員表」 (勅令239号) で、更にこの増加定員の内訳を示したものが 「同 識別表」 (達392号) です。


この時の増加定員表には司令官旗艦についての定員増加は有りませんでしたが、明治27年6月の艦隊條例改訂に併せ、同年7月に旗艦増加定員表が改正 (勅令71号) されて司令官旗艦にも増員されることとなりました。



そこでこの明治27年ですが、この年に朝鮮で発生したいわゆる東学党の乱は静まることはなく、6月になって鎮圧に失敗した朝鮮政府が清国に助けを求めるとの情報が日本にもたらされました。

これに応じて6月5日には前年の5月19日に制定された「戦時大本営条例」(勅令52号)に基づいて大本営が設置され、朝鮮国内の平定と居留邦人保護のための出兵の体制を整えます。

海軍も情報収集を兼ねて朝鮮周辺に艦艇を集中すると共に、7月13日これまでの常備艦隊に加えてもう一つ、臨時に 「警備艦隊」 を編制し、19日にはこれを 「西海艦隊」 と改称します。

Keibikantai_M27.jpg   Saikaikantai_M27.jpg

そしてその19日付けで常備艦隊と西海艦隊の2つをもって 「連合艦隊」 が組織されました。 ここに 旧海軍初の連合艦隊が誕生 することになったのです。

Rengoukantai_M27.jpg


ところが、ここに大きな疑問があります。 なぜなら6月に勅令をもって定められたばかりの 「艦隊條例」 ではその第2条で

第二条 艦隊ハ之ヲ常備シ又ハ臨時編制ス 其ノ名称ハ特ニ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

とされているからです。

この規定にもかかわらず、警備艦隊の編制及びその西海艦隊への改称はそれぞれ 「海軍省達117号」 及び 「同122号」 によってなされており、更に連合艦隊の編制については大臣官房から 「官房2019号」 により示されているに過ぎません。

もちろんこれらは全て上裁の上で裁可されていますが、ではなぜ勅令として出されなかったのか?

Keibikantai_jousai_M27.jpg   Seikaikantai_jousai_M27.jpg

Rengoukantai_jousai.jpg

いくつかの理由は考えられますが、“これだ” という史料がありませんので実際のところは不明です。


なお、この連合艦隊ということについてはまた後でお話しする予定です。

-------------------------------------------------------------

前 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (3)

次 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (5)
posted by 桜と錨 at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年12月21日

艦隊司令部職員の構成と職務 (3)


明治17年に定められた 「艦隊編制例」 は、明治22年になって 「艦隊條例」 (勅令100号) となました。


この條例によって、これまで大・中・小の3種であった艦隊の区別がなくなり、艦隊司令長官は大中少将のいずれでも良いことになります。

そして大・中将が司令長官の場合で艦隊の隻数が多い時には、その下に少将又は大佐の司令官を置くことができるようになりました。

この條例に併せて7月29日、海軍省達294号によって常備小艦隊は 「常備艦隊」 と改称されます。

Joubikantai_kaishou_M2207.jpg

これにより小艦隊ではなくなったことにより、井上良馨司令官は少将のままで 「常備艦隊司令長官」 となりました。 ただし少将ですのでその幕僚には参謀長がおりません。


この艦隊條例には艦隊の編成についてだけではなく、司令長官等や艦隊職員についても盛り込まれ、“艦隊及びその司令部とは何か?” ということが次第に明確になってきました。

そしてその職員としてこれまで 「属員」 と呼ばれていたうち、参謀長、参謀、伝令使、秘書については初めて 「幕僚」 という名称となりました。 

bakuryo_M22_s.jpg

また、この艦隊條例制定と同時に 「軍艦條例」 (勅令99号) が制定され “軍艦はどのように運用さるか?” が明確となり、そして艦隊に編入中といえどもその本管 (所管) は鎮守府にあることが規定されました。


いわば艦船の修理・補給などの後方支援や准士官以下の乗員の人事などは所管の各鎮守府が全て一括して担当し、任務行動が可能となった 「在役艦」 を艦隊に派出するという形になったわけです。

これによって各艦の艦長はもちろん、艦隊の司令長官等も後方支援や人事などについて所管の鎮守府と調整すれば良く、スッキリとした形となり随分と楽になったと言えます。


次はいよいよ連合艦隊の誕生となります。

-------------------------------------------------------------

前 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (2)

次 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (4)

posted by 桜と錨 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年12月19日

艦隊司令部職員の構成と職務 (2)


前回お話ししたように、明治17年の 「艦隊編制例」 とその関連の規定により、ようやく今日の 「艦隊司令部」 に通じる姿が出来てきました。

とは言ってもまだまだ荒削り、試行錯誤の段階であり、艦艇が次第に整備し始めるに併せて順次改定・修正が加えられつつ形を整えていくことになります。

これらの詳細については機会があれば別項にてお話しすることとし取り敢えず先に進みますが、ここでは一つ補足をしたいと思います。 それは艦隊の指揮官の名称についてです。


明治3年に初めて小艦隊が編成された時は、その指揮官の名称は 「小艦隊指揮」 でした。

その後 「艦隊指揮」 「艦隊指揮官」 「艦隊司令官」 などが使われていましたが、明治15年になって海軍省達丙70号によってこれらを 「大 (中) (小) 艦隊司令官」 と呼ぶことで統一されました。

Kantaishireikan_kosho_M15.jpg

そして更に明治17年には同じく海軍省達丙139号によって大 (中) 艦隊は 「司令長官」 と改正され、小艦隊は 「司令官」 のままとされました。

これが後に 「(連合) 艦隊司令長官」 「戦隊司令官」 へと繋がっていくことになります。

kantaishireichoukan_kosho_M17.jpg


ついでにもう一つ、明治17年の 「艦隊編制例」 によって艦隊はその編制される軍艦の規模によって大、中、小の3種に分け、そしてこれら常備又は臨時に編制されることとされました。

そこで、これに基づき翌18年12月29日になって、海軍省達丙82号により当時編制されていた中艦隊の8隻をもって 「常備小艦隊」 が編制されました。

joubishoukantai_hensei_M18.jpg

初代の司令官には 「扶桑」 艦長であった相浦紀道大佐が少将に昇任の上での補職です。 もちろん小艦隊ですから、司令長官ではなくて司令官です。
 
この常備小艦隊は 「艦隊編制例」 の規定によりその編制目的が冠された初めての艦隊名となり、また明治・大正・昭和を通じて連合艦隊が編成された場合を除き、常設の艦隊が置かれる始まりとなりました。

-------------------------------------------------------------

前 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (1)

次 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (3)

posted by 桜と錨 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年12月11日

艦隊司令部職員の構成と職務 (1)


これもネットにあった話題からです。

某所で旧海軍の艦隊司令部などの参謀や幕僚などの構成とその職務についての質疑応答がありました。

その某所では内令定員表についてだけで良かったのかもしれませんが、これをきちんと説明するには、そもそも艦隊とは何なのか、艦隊司令部とは何をするところなのか、という基本的なところから進める必要があるでしょう。

そこでまずはその概要から。


旧海軍において艦隊というものを編成したのは明治3年7月25日のことで、普仏戦争勃発により中立を堅持し周辺海域の海防を確立するため、太政官より 「艦隊」 の編成が命ぜられ、横浜、兵庫、長崎の各港に小艦隊1個ずつを配備したことに始まります。

kantaihensei_M030725_p01.jpg

( 今に残るこの太政官の記録文書には内容的に誤りや矛盾点などが多くあって色々と問題も多いのですが、これについては省略いたします。 ともかく、艦隊の編成について出てくる最初のものということで。)

ただし、この時はまだ艦隊の編制について明文化された規定はなく、翌4年に制定された 「海軍規則並諸官俸給表」 において大中小艦隊について初めて定められました。


そして艦隊について改めて単独の規則として定められたのは明治17年の 「艦隊編成例」 (丙136号) によってです。


この中で注目すべきは、初めて 「連合艦隊」 という言葉が出てくることです。

そしてこれと同時に 「艦隊職員條例」 (丙137号) によって司令長官・司令次官・司令官 (以下単に 「司令長官等」 という) 及びその参謀長以下職員の職名、階級、員数が定められるとともに、司令長官以下の簡単な職務概要が規定されました。


この中で、参謀とは 「司令長官等謀略の資に供するを任とす」 (第37条) とされています。 なお艦隊職員の内、参謀長、参謀、伝令使及び秘書はこれを司令長官等の 「属員」 と称され、まだ 「幕僚」 という用語は使われておりません。

また当時はまだ 「司令部」 という概念はありませんでしたので、これら旗艦に乗艦する司令長官等と艦隊職員の雑務と身の回りを担当する下士官兵は、「旗艦増員表」 (丙138号) によって旗艦乗員の増員として取り扱われておりました。


因みに、軍楽隊一隊が旗艦増員として乗艦するようになったのは明治22年からのことです。


(12月15日追記):

明治22年からというのは、制度上の定員としての話しですので間違えないようにしてください。

実際に海軍軍楽隊が初めて艦船に乗り組んだのは明治16年当時中艦隊旗艦であった 「扶桑」 であるとされていますが、これが一時的であったのか常駐であったのかはわかりません。

ただし当時の海軍軍楽隊の状況からするならば、明治22年までは必要の都度であったと考えられます。

-------------------------------------------------------------

次 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (2)

posted by 桜と錨 at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年12月07日

軍艦吉野か、巡洋艦吉野か


先月の 「加藤友三郎元帥研究会発起会」 において、加藤元帥の経歴に関連して英国で建造した 「吉野」 の監督官兼回航委員であり、初代の砲術長であったことから、これを紹介する時に 「軍艦吉野」 と 「巡洋艦吉野」 のどちらが正しいのかが話題になりました。

この時に私がお答えしたのは “両方とも正しく、どちらでもOK” ということでした。

これについて少し説明をしたいと思います。


明治23年度第1回帝国議会において協賛され裁可された24年度の海軍の新たな軍艦建造計画は、軍艦3隻 (3,500トン、2,500トン、750トン) で、これらは後にそれぞれ 「吉野」、「須磨」 及び 「龍田」 として就役することになります。

ここで当時の旧海軍における艦船の分類についてどうなっていたかですが、

後の時代のように軍艦を類別して一等・二等戦艦、一〜三等巡洋艦などのようになるのは明治31年のことで、これが後に 「艦船類別標準」 へとなります。


「吉野」 の計画〜就役の時期である明治24〜26年の当時は、明治23年に定められた 「海軍艦船籍條例」 (達291号) の時代でした。


これに基づき、国内建造の艦船は命名式、即ち進水式の時をもって、また国外建造の艦船の場合は引渡、即ち就役の時をもって、海軍艦船籍に登録されます。

したがって、「吉野」 は英国アームストロング社から引き渡された明治26年9月30日をもって海軍の艦船籍に編入され、第一種の軍艦となったわけです。 大日本帝国海軍の 「軍艦吉野」 です。

しかしながら、これは海軍における艦船の公式な区別、類別であって、「吉野」 がどういった艦船のタイプ、艦種のものであるかとは別のことになります。

明治24年に建造予算が成立した当時、この3,500トン型のものは海軍部内において 「二等巡航艦」 と呼ばれていました。

この 「巡航艦」 というのは本家サイトの 『懐かしの艦影』 コーナーで公開している旧海軍の公式写真帳 『大日本帝国軍艦』 及び 『大日本帝国軍艦2』 にある要目表でも使われているとおりです。

もちろん「巡航艦」とは、世界共通的な (というより手本たる英国での) 呼称である 「Cruiser」 の当時の日本語表記です。

そして、これの建造が英国に発注され、次第にその姿が明らかになるに連れ、英国における艦艇の状況についても情報が入ってきた結果、旧海軍での呼び方も少しずつ変わっております。

即ち当初は 「巡航艦」 の内の 「二等巡航艦」 であったものが、アームストロング社との建造契約の段階で 「迅速鋼鉄防禦巡航艦」 という表現となり、明治25年半ば頃から現在の用語である 「巡洋艦」 というのが文書上に出始めます。 これにより 「迅速防禦巡洋艦」 なども使われるようになります。

そして25年8月の命名時には単に 「巡洋艦」 とされています。

Yoshino_meimei_01.jpg

( 旧海軍部内においては、この明治25年半ば頃に従来の 「巡航艦」 という用語が正式に 「巡洋艦」 に換わったと判断されます。)

これを要するに、帝国海軍艦船籍の艦船としては 「軍艦吉野」、艦種としては 「巡洋艦吉野」 ということで、どちらも正しいことになります。


なおついでですので 「吉野」 に関連して、例えば次の写真などは故福井静夫著 『海軍艦艇史2』 にも掲載されているものです。

Yoshino_fukui_01_s.jpg

そのキャプションに

“日清戦役当時の世界最優秀巡洋艦の勇姿を示し、以来、内外に著名の写真である”

となっていますが、残念ながらこの写真は後からコントラストを強調した上で軍艦旗などが書き加えられたものです。

この写真のオリジナルは本家サイトの 『懐かしの艦影』 コーナーで公開しているとおり、明治26年9月の全力公試時のもので、艦橋付近に安社の技師などが写っています。

Yoshino_trial_0rig_01.jpg

Yoshino_trial_0rig_02.jpg

流石に海人社の 『世界の艦船』 は、「日本巡洋艦史」 や 「日本軍艦史」 などでもこのオリジナルと同じものを掲載し、きちんと解説が付いていますね。

posted by 桜と錨 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年11月25日

公職者等の序列について


軍や警察などの組織における職員の先後任順序、即ち序列については、これは階級とその進級日が基準となります。 そして軍においてはこれを基準にした士官名簿が作成されます。 この名簿に記載されている順番が序列です。

ただし、軍では指揮 (継承) 関係を明確にする必要から、例えば旧海軍の 「軍令承行令」 などの様な規則が定められますが、これはこの公的立場としての処遇である序列とは別の問題です。

( 余談になりますが、現在の米海軍でもどの様に階級が上でも Line Officer で無い限り、その他の職種の士官では作戦部隊の指揮官にはなれません。 例えば Supply Officer は海軍作戦部長や艦隊司令長官などになることはできません。 当然と言えば当然のことですが。)

では軍だけでなく官公庁や公的組織・機関と横並びになった場合はどうなっているのでしょうか?


太平洋戦争まではこの序列のことを一般的に 「席次」 と言いました。 つまり儀式などにおける参列の範囲や並ぶ時の順番を決めるための基を定めたもので、これが公的立場における処遇を典型的に示したものであるといえるでしょう。

その最も権威のあるものが 「宮中席次」 で、「皇室儀制令」 (大正15年皇室令第7号) の中で定められており、これは公職、爵位、叙位叙勲による優遇者の3つが基本となっています。

そしてこれに準じて公職者の席次を定めたものが 「高等官席次」 (明治25年内閣総理大臣通牒) です。

koutoukan_sekiji_M25_01.jpg
( 画像は第8号の枢密院議長宛のもの、海軍大臣宛は第29号 元画像 : 国立公文書館所蔵史料より )

ではその席次において各組織・機関などの公職の横並びはどうやって決めているのかというと、これはズバリ “俸給額” が基準です。 つまり高い地位の人ほど俸給も高い、という考え方ですね。

この公職者の横並びの基準を定めたものが 「官等」 であり、特に幹部以上の等級を定めたものが 「高等官官等俸給令」 (明治43年勅令第134号) です。

koutoukan_houkyurei_M43_01.jpg
( 元画像 : 国立公文書館所蔵史料より )

この高等官官等俸給令において、「高等官」 を親任官及び第一〜第九等の高等官に分け、親任官の筆頭の内閣総理大臣から文部省直轄諸学校訓導に至る職名に応じた等級が第一〜第五表で示されております。

また、親任官及び高等官第一 ・ 第二等を 「勅任官」、第三〜第九等を 「奏任官」 と呼ぶこともこの勅令の中で定められています。


では、公職者だけではなく一般市民との横並びはどうなっているのかというと、これはありません。 確かに叙位叙勲による優遇者であれば宮中席次にはありますが、それ以外では定める必要性が無いからです。

例えば、民間会社の社長と海軍少尉とどちらが偉い (地位が高い) か、などということを、一般社会における公的な場の席次として予め決めて置かなければならないようなことはまずありません。

何かの機会に宴席や会議・式典などで同席する場合であっても、それはそれでその時その時の集まりの主旨に基づいた一般常識や社会通念、慣習などによって判断して決めれば良いことだからです。


したがって、先日ネット上の某所で軍人と民間人との地位と処遇について話題になった中でもありました、一般に良く言われる

階級を持たない者に対しては、極端にいえば、何をしてもよいという風潮があった

というのも、確かに昭和期の旧陸軍の一部において見られたようですが、これは多分に個々人やそのグループの問題であって、陸海軍の公式なものでも国家としての公的な立場のものでもありません。

そして

造船会社の社長が海軍の機関に呼ばれ、守衛に来意を伝えると、延々と寒天の中で待たされたという話が載っておりました。 つまり、守衛室に招き入れられることもなかったわけです。 これは、軍人が一番偉く、一兵卒であっても、会社の社長よりも偉いという意識が働いたものでしょう。

と言うようなことも、これは単に “自分は社長なのに” という自意識の上でその様に思ったのでしょう。 私から言わせれば、そのような反応の方がおかしいと思いまね。

一般に通じるそれなりの肩書きをもった人が公式訪問 (単に呼ばれたから行ったというのは非公式訪問です) する場合などでない限り、海軍として一般の人々に対する応接や礼式などの規定はありません。

と言うかそのようなことを想定した組織ではありませんので、例え一兵卒であっても門衛としては海軍の規則に従わざるをえませんし、ましてや会社の社長などの様な人でも少なくとも徴兵の経験はあるでしょうから、その様な軍のことは当然理解できているはずです。

そして、公式訪問以外での一般の人々の通常の来訪に対して、衛門を含めてどの様な対応・接遇をとるかは、その基地・施設の指揮官の裁量の範囲内のことと言えます。

もちろん裁量の範囲と言っても、それは当時の日本社会全体における風習や慣習の中でのことですので、現在の感覚で単純に比較してあれこれ指摘しても意味はないことは申し上げるまでもありません。

この様なことは現在の一般社会でも似たようなものではないでしょうか? もし仮に私が現役時代に、非公式かつ事前アポなしでいきなり大企業や官公庁などの受付に行って来意を告げたとしても、大同小異のことでしょう。

もちろん現在の企業などの訪問者に対する受付の対応は “企業イメージ” を大切にしますので、昔と違って相当に良くなっているでしょうが。

いずれにしても、これら一般的な訪問時の対応・接遇などのことと、今回の主題である公的な立場における処遇としての席次・順位のこととは、全く次元の異なる話しということになります。

posted by 桜と錨 at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年11月20日

駆水頭部について


所要があって旧海軍の史料を整理していた時に、先日ネットのどこだったかで魚雷の駆水頭部(訓練弾頭)のことが話題になっていたことを思い出しました。

ついでですから、この機会にこの駆水頭部について少しご紹介を。

当然のことながら、平時の魚雷発射訓練では炸薬の詰まった実用頭部をそのまま使うわけにはいきませんので、爆発しない訓練弾頭が必要になります。

旧海軍では、明治期から既にこの訓練弾頭の必要性により、当初は薄い鋼板製頭部の中に炸薬の代わりの鉛などの錘をいれて実用頭部との重量を合わせたものを使用しました。 これを 「演習頭部」 といいます。

続いて標的艦の艦体に衝突させ、その命中の有無を確認できるようにした 「衝突頭部」 が開発されました。

その後両者それぞれで一層の改善が加えられましたが、大正4年になって英国から演習兼衝突頭部が導入され、これを元に改良が図られることになりました。

しかしながら、艦隊側からは更なる実戦的な訓練に使用するため、魚雷の沈没・失踪を防ぐより高度な機能を有するものの要求が強くなり、このため大正9年になって魚雷の航走終了後又は標的艦衝突後に魚雷頭部の中の水を抜いて軽くして海面に浮くようにしたものが開発され、翌10年から艦隊での使用が始まりました。 これが 「駆水頭部」 です。

この昭和4年頃までの経緯などについては、本家サイトの水雷講堂コーナーで公開している旧海軍の公式文書『海軍水雷術史』の中でご紹介しておりますので、詳細はそちらをご参照ください。


そしてこの駆水頭部は、海面に浮いた時に着色の発煙を出したり、ライトを点灯したり、あるいは発射時からのデータを記録する装置を付加したりするなどの改善が図られ、昭和10年頃以降太平洋戦争期にはそれまでの「駆水頭部改二」に換わり 「駆水頭部二型」 が使用されています。

もちろんこの時期でも艦艇用の魚雷は53センチ径と61センチ径のものがありましたので、前者用の 「八九式二型駆水頭部」 と後者用の 「九〇式二型駆水頭部」 の2種類がありますが、径が異なるために内部のレイアウトが少し違うものの、基本的な機能・構造は両者ともほぼ同じになっています。

Kusuitoubu_Type89_model2_draw_01.jpg
( 八九式二型駆水頭部構造図 )

Kusuitoubu_Type90_model2_draw_01.jpg
( 九〇式二型駆水頭部構造図 )


因みに、頭部先端にある鈎状のものが 「衝突尖」、その後ろ側内部の筒状のものが 「水圧筒」 で、衝突又は航走終了により頭部内の水を排出する弁を作働させるためのものです。

posted by 桜と錨 at 23:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年10月30日

加藤友三郎元帥研究会発起会


先週金曜日は、呉市のクレイトンベイ・ホテルにて加藤友三郎元帥研究会の発起会が行われました。

KatouTomosaburou_SA_h281028_01.jpg

私もお誘いをいただきましたので、賛同人の一人に名を連ねさせていただいております。

同会は (株) 大之木ダイモ社長である大之木小兵衛氏の音頭により発起されたもので、第9代の呉鎮守府司令長官でもあった加藤友三郎元帥の業績を研究していこうと言う主旨のものです。

当日は発起人や賛同人、多数の一般市民の方々を始め、海上自衛隊の呉地方総監部や第1術科学校などからも多くの現役の自衛官の参加がありました。

会則や理事選出などの発起会に引き続き、加藤友三郎元帥の玄孫である加藤健太郎氏の記念講演、そして懇親会が行われました。

ただ懇親会は1時間弱の短いものであったため、加藤健太郎氏とは少しお話しができただけでした。

そして加藤氏からは折角2次会へのお誘いもいただいたのですが、翌日朝早く出かける用事があったため出席できなかったのが心残りです。

この研究会、今後どのように進めていかれるのか、理事に選出された発起人の方々の腕の見せ所、ということでこれからを楽しみにしています。
posted by 桜と錨 at 22:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年10月15日

「世界の艦船」 11月号増刊


海人社さんから見本誌が届きました。 まもなく書店の店頭に並ぶと思います、『世界の艦船』 11月号増刊の 『アメリカ巡洋艦史』 です。

SoW_No849_cover_s.jpg

同タイトルのものは93年の4月号増刊として出ておりますが、出版されてから既に23年を経ておりますので、今回はこれのリニューアル版として写真ページも記事ページも全く一新されたものとなっております。

特に今回は 「アメリカ巡洋艦12話」 として、短編のエピソード集が掲載されています。
私もこの中で次の4話を担当させていただきました。

  F ガン・クルーザーの頂点 「デ・モイン」 級の主砲
  I シー・オービット作戦
  J 変身の極み 「オルバニー」 型
  K 原子力巡洋艦はどうして消え去ったのか?

まもなく書店に並ぶと思いますので、是非手にとってご覧下さい。

またこの方面に関心のある方は、出来れば93年版の方も一緒に揃えられると、写真も記事内容もより充実したものとなるでしょう。


なお、この短編集は原則各テーマ1ページという制約からその細部まではご紹介できませんでした。

特に艦載砲の歴史上大変にユニークな存在である 「デ・モイン」 級の主砲の8インチ速射砲 Mk16、そして 「オルバニー」 型を始めとして戦後のアメリカ巡洋艦のメイン兵装の一つとなったタロス・ミサイル・システムについては、これまでその詳細が語られたものは海外のものを含めていまだにありません。

機会があればこれらについても別途ご紹介したいと思っているところでが ・・・・

posted by 桜と錨 at 16:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年10月07日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続3・補)


防衛研究所所蔵史料を再確認していましたら、10月24日の 「武蔵」 沈没時の戦死傷者表が出てきました。

Musashi_serv_crew_01_s.jpg
(「武蔵」 戦死傷者表 元画像 : 防衛研究所所蔵史料より )

これに基づき先の記事を少し修正・加筆して見たいと思います。

「武蔵」 生存者は隔離された? (続) :

この 『菲島沖海戦ニ於ケル戦死傷者表』 によりますと、下士官兵は

  戦死者 :   235名
  行方不明者 : 749名 (内傭人3名)

であり、先の 「戦闘詳報」 からは出撃時の乗艦者数は2287名ですので、生存者数は1303名となります。

これは 「戦闘詳報」 記載の員数と一致しますが、戦死者と行方不明者の内訳は若干異なります。

そして、生存者1303名の内、戦傷者は

  受診者 :    67名
  入院者 :   116名

とされていますので、コレヒドールに収容されたのはこの入院者を除く1187名であったと考えられます。

准士官以上については生存者73名には重傷者はおりませんので、この73名全員がコレヒドールに収容されたものと考えられ、下士官兵との合計は1260名となります。


なお意外なのは、出撃時に便乗していた准士官以上及び同相当官の7名の内4名は 「島風」 に移乗したことが判っていますが、残りの3名のその後は不明です。

また、「摩耶」 の生存者も含めた下士官兵の便乗者の内、「島風」 に移乗したとされる者 (これも正確な数は不詳ですが) 以外の状況も判りません。

もちろん入院者116名のその後は判りませんが、もしかすると何人かは2回に分けて内地に帰還した者の中、あるいは比島からの最後の便となった昭和20年年明け早々の病院船 「第二氷川丸」 の乗船者に含まれていたのかもしれません。

-------------------------------------------------------------

前 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続3)

posted by 桜と錨 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年10月04日

秋月型 「初月」 の最終装備状態について


別記事にてHN 「小島」 さんからお尋ねいただきましたが当該項の内容についてではありませんので、私の回答と併せこちらに纏めて記事とします。


お尋ねの件は次のものです。

 秋月型について、特に初月について (最終時の武装の配置) をよく知りたい


あ号作戦後の状況について各海軍工廠が調査したものを故福井静夫氏が纏めた 『各艦機銃電探哨信儀等現状調査表』 という史料があり、これに 「初月」 も含まれています。

これについては最近になって光人社から復刻されましたが、何しろ9千円近い価格です。

この内の駆逐艦についてでしたら 『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』 (光人社) の巻末に元のものを書き直したものが掲載されていますので、これをご覧いただくのが手っ取り早く、またこれで十分ではないでしょうか。

fukui_Vo_5_destroyer_cover_s.jpg

ただし、「初月」 については昭和19年6月30日現在のものとされています。

したがって、「初月」 はエンガノ沖海戦において10月25日に戦没しておりますので、それまでの間に変化があったのかどうかは私も調べたことはありませんので判りません。


なお、この史料は従来故福井静夫氏の著作物とされていますが、上記のとおり、各海軍工廠が作成した調査表を氏が職務上の命により纏めた “公文書” であり、いわゆる氏の “著作物” ではないことには注意が必要です。

kijuu_zoubi_S19_cover_s.jpg
( 元画像 : HP 「海軍砲術学校」 所蔵の複製版より )

そして本来ならこれは復刻出版するような性格のものではなく、むしろ 「アジ歴」 や 「大和ミュージアム」 などのしかるべきところで一般に公開すべきもの、と私なら考えますが ・・・・ ?

posted by 桜と錨 at 12:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月29日

呉海軍工廠テキスト 『軍艦ノ発達』


以前神田の古書店で入手した福井静夫編の呉海軍工廠テキスト 『軍艦ノ発達』 についてご紹介しました。


ご存じのとおり福井氏は戦後になって自分がかつて関わった史料に手を入れ、元々の作成時の内容からかなり変わっていることがあります。 ですから、このテキストについてもその有無と私の所持する複製が何時の段階のものであるのかを確認したいと思っていたところです。

fukui_warships_cover_mod.jpg

fukui_warships_cover_02_mod.jpg
( いずれも管理人所有の複製版 )

そこで 「大和ミュージアム」 に収蔵されている福井史料の中にこれの元の原紙がないかどうかを問い合わせたところ、複製なら一冊あるとの回答がありましたので先日見に行ってきました。

結果的には、私が持っているものと全く同じ原紙からの複製で、綴じ方が多少異なるだけのものでした。 そして同館には元々の原紙は収蔵されていないとのこと。

しかしながら、同館収蔵の複製には福井氏自身による書込がありまして、それによってこのテキストの経緯などについて幾分判明しました。 その要旨は次のとおりです。

1.昭和19年7〜8月に工廠実習の学生・生徒用のテキストとして第1巻分を作成・配布し、20年初頭これに第2巻も合わせたものを完成。

 福井氏本人曰く、内容は Hovgaard 著 「Modern Warships」 の和訳ほぼそのままで、これに訂正・修正を加え、更に氏の勤務録より追加を行った。

2.昭和20年4月兵学校教官の内示があり、その講義用として最終的な纏めを実施。

3.戦後になって、昭和27〜28年に青陽社 (注) によりブループリント30部を印刷・製本し、20冊は造船工業会などに、そして10部を海幕用として配布。 海幕は更に別途青陽社に10〜20冊の増刷を発注した。

(注) : 現在東京の港区にある 「(株) 青陽社」のことと思われます。

そして元々の原紙では、(何故か) わざわざ米国の 「米」 を 「獣偏に米」、同じく英国の 「英」 を 「獣偏に英」 と書いていたものを、この戦後の再印刷の時に正しく 「米」、「英」 と修正したとしています。

大和ミュージアム収蔵分も私の複製もこの修正跡がありますので、戦後増刷分であることは間違いありません。

また、同館のものは目次が第1巻と第2巻のそれぞれの表紙の後にありますが、私の複製では両方の目次が冒頭の合冊表紙の後に纏められています。

そして私のものは明らかにブループリントからコピーしたものであることから、海幕が別に発注した増刷分 (おそらく原紙は使わせて貰えなかった) の1冊であり、これがどこからか古本で流れたものであると考えられます。

・・・・ ということで、残念ながら 「大和ミュージアム」 には元々の原紙は無く、しかも福井氏の書込には戦時中に印刷したもの1冊は仮製本して所蔵していると記されていますが、これも同館にはありませんでした。

これらは今どこにあるのか ? もしご存じの方がおられましたら是非ご教示下さい。
posted by 桜と錨 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月24日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続3)


やっと本題に入ります (^_^;

それでは、何のために約1400名もの生存者を一個所に集めておく必要があるのでしょうか?

そうです、乗っていた艦の事後処理と残った乗員の次の配置への準備を“早急に”実施しなければならないからです。 旧海軍ではこれら全てを総称して 「残務処理」 と呼んでいました。

大きく分けると次の様な事項があります。


1.艦及び乗員の状況の調査・確認

出港時の乗艦者の確認から始まって戦闘時の状況、生存者、負傷者、戦死者そして行方不明者にいたる迄を一人一人について調査し纏める必要があります。

沈没によってほとんど全ての記録が失われたことから、これらを確認するだけでも物凄い労力を要するものであることはお判りいただけるかと。 その成果を総括したものの一つが 「戦闘詳報」 であるわけです。

Musashi_BR_cover_s.jpg
( 「武蔵」 戦闘詳報表紙 元画像 : 防衛研究所所蔵史料より )


2.戦死者及び行方不明者の取扱

戦死者について士官は海軍省へ、准士官及び下士官兵は所管の鎮守府へ一人一人について正規の報告しなければなりません。

もちろんその前提として、1.の調査で戦死者は誰が何時どこでどの様な状況で戦死したのか、それを誰が確認したのかを、行方不明者も同様で、特に最後は誰がどの様な状況で見たのかを明確にしなければなりません。

そして、もし誰かが戦死者の遺品、遺髪などを持っていた (預っていた) としたら、それの送付手続きも必要になります。

3.個人の記録の確認

入隊以来の各個人の経歴などを記した 「履歴表」 は失われておりますので、この記載事項を可能な限り復元しながら、各個人の次の配置決定に備えなければなりません。

階級、特技、賞罰、俸給額はもちろん、過去の経歴などは全てこれに基づいているからです。

そして最終的には内地に帰って、将校は海軍省、准士官以下は所管の鎮守府人事部にある履歴原簿と照合しなければなりません。

4.官給品の支給

沈没時に戦闘配置から着の身着のままで海に投げ出されたわけですから、身の回りのものは何もありません。

一人一人に規定の衣服・装備品などの支給が必要になりますので、誰に何を支給したかの貸与簿も一から作り直しです。

正式な支給品は次のようなものがありますが、もちろん一度に全てを揃えることはできませんので、何時何を支給したのかをきちんと記録していく必要があります。

IIJN_hifuku_01_s.jpg

そして履歴表がありませんので、制服に着ける階級章、特技章、善行章なども一つ一つ間違いのないように確認する必要があります。


以上の事務処理・手続きだけでも相当な期間を要しまず。 副長以下の主要メンバーが内地送還となった頃に、ようやく 「戦闘詳報」 などの主な事項の目途が立ってきた時期でしょう。


そして更に重要なことは、この残務処理のために1400名もの人数を一個所に集めますので、そのため総員用の食住が必要になります。

宿舎に士官・准士官・先任の下士官・その他の下士官兵に分けた部屋や事務室などが必要ですし、生活及び事務に必要な物品も整えなければなりません。

食事も毎日三度三度の烹炊員や主計員を主体とした体制を作らなければならないことです。 どこかの部隊の食堂に行って並べば何時でもセルフで食べられる、などということはあり得ませんので、ともかく 「武蔵」 乗員として自活できるように、1400名分の食材 (生糧品、貯糧品) の補給体勢、調理場と調理器具、配膳の道具類等などを整えなければなりません。 それもコレヒドールに着いたその日から直ちにです。

加えて、戦闘や脱出時に数多くの乗員が多かれ少なかれ負傷しており、これらの治療も必要になります。 海軍病院へ入院を要するような重傷者は別として、それ以外の負傷者の介護などの面倒は基本的に全て自分達で行うことになります。


これら全てが如何に煩雑であり多忙を極めるものであったかは皆さんもご想像がつくと思います。

したがって、これらのこと全てを行う施設として、「武蔵」 沈没の翌日10月25日、急にその受け入れを担当することとなった31特根としては、コレヒドールが最適であり、しかもここしか選択肢がなかったと考えられます。

通常ならば、これらの残務処理を行いつつ順次内地送還を待ち、内地において最終的に残務処理の残りを行うことになります。

これらの個人個人の事務処理のカタがついたところで、初めて正式に各自の次の補職替えの手続きに進むことができるのです。


以上の “残務処理” とそれに伴う要措置事項の必要性について、これまで語られてきた生存者の処遇・待遇についての話しの中では “スッポリと” 抜け落ちて、コレヒドールという “僻地” に収容されたことのみが一人歩きしているように思えます。

例えば、10月18日までにマニラだけで既に給糧艦 「伊良湖」 を始めとする21隻の海没・放棄艦船の乗員がおり、そして10月18日以降は更に 「最上」 を始めとする実に92隻の艦船の乗員がマニラに収容されていたのです。

そして戦況は、「武蔵」 の乗員でさえ何とか2回の機会を捉えて620名を内地送還するのがやっとであり、そしてマニラを中心とするルソン島やその周辺の防衛体制強化の必要から、正規に送り込まれる部隊以外に多数の兵員の充足に迫られていたのです。

したがって、前回お話ししたコレヒドール収容以降の 「武蔵」 生存者の状況も、ある意味では日本海軍としても止むに止まれぬものであったと言えるでしょう。

「武蔵」 乗員という、いわば選び抜かれた多数の熟練兵は、全海軍のどこの艦船・部隊でも喉から手が出るほど欲しかったことは間違いないことなのですから。

そして、当時の旧海軍には 「武蔵」 沈没を秘匿するような必要性も余裕も無かったといえますし、それは既にお話しした実際の経緯からも、その様な事実は全く無かったと結論付けられます。


が “しかし” です。

この様な “残務処理” のことや戦況がよく判っているのは准士官以上の一部です。 そして下級の士官や下士官兵になる程、こういう自分の置かれた状況というものを理解する知識に乏しいでしょう。

いちいち事細かに説明して納得させるような事柄ではなく、淡々と事務処理を進めればいいだけのものだからです。

もちろん上陸 (外出) などは論外です。 服装 (階級章や善行章など全てを含む) が各個人で正しいものでなければならないことはもちろんですし、なにしろ肝心なお金を持っていません。

給与簿がないと個人個人の俸給額が決められませんので支給できませんし、また個人の貯金通帳や印鑑も無くしたのですから。

したがって、残務処理が全て完了するまでは基地内に “幽閉状態” となることは当然なことなのです。 外に出したくとも出せないのです。

しかしながら、こう言う海軍として当然の措置である境遇におかれることを十分に理解できない下士官兵の中には、これを “隔離された” と感じる者がいたとしても不思議ではないでしょう。

ましてや 「武蔵」 の乗員であればこそ、それが “沈没を隠すために” と結び付いてもおかしくはありません。

そして悪いことに、副長以下が1ヶ月後に、第2陣がその後に内地帰還となり、そのあとは便が無かったわけです。

フィリッピンを巡る戦況などは判らずに後に残された者達が “自分達は棄民” と感じたとしても、それはあり得ないことではないと思います。


これが結局戦後になって、生き残り乗員達の回想や手記となって世間に広まり、“日本海軍は 「武蔵」 の沈没を隠すためにコレヒドールに隔離した” とまことしやかに流布されることになります。


余談ですが、先日放映されたNHKのドラマ 「戦艦武蔵」 でもその様な流れになっています。

元々の台本ではもっと強い表現のものだったのですが、プロデューサーや監督さんに事実としての “隔離” はなかったものの、生存者の感情として “中には” そう思った者がいたとしてもそれはあり得る話しで、このストーリーはこれはこれで有りですよ、とお話しし納得いただきました。

そしてそういう個人の自然な感情になるように配慮していただいております。

(この項終わり)

-------------------------------------------------------------

前 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続2・補)

次 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続3・補)

posted by 桜と錨 at 15:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月19日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続2・補)


ちょっと本来の主題からは外れますが、折角の機会ですからHN 「大隅」 さんからコメントをいただいたマニラ湾口の人工島 「エルフレール島」 (El Fraile Island) についてご紹介したいと思います。

Fort_Drum_photo_00_s.jpg
( 現在のエルフレール島 元画像 : ネットより (サイト名失念) )

この島は元々は次の上の写真のように天然の小さな岩礁でしたが、1909年から米陸軍によってこの上に巨大なコンクリート砲台の人工島が築かれ、1930年代には下の写真のような姿になっていたとされています。

Fort_Drum_photo_01_s.jpg

Fort_Drum_photo_02_s.jpg
( 米陸軍の戦前史料より )

米軍の正式名称で 「ドラム要塞 (Fort Drum)」、占領後の日本軍ではその姿から通称 「軍艦島」 と呼ばれていました。

ここには14インチ連装砲塔2基を始め6インチ単装砲及び3インチ単装砲がそれぞれ4基づつ装備され、これに関連して屋外には探照燈台兼見張台のマスト、将校居住棟、そして内部には弾火薬庫や機械設備が完備する他、充実した居住設備なども設けられました。

Fort_Drum_draw_01_s.jpg

Fort_Drum_draw_02_s.jpg
( 米陸軍の戦前史料より )

1942年5月に日本軍によって占領されましたが、この占領時の要塞の状態については各砲台の概略以外はほとんど判りません。 (陸軍史料によると少なくとも外観的には屋外のマストや建物などは残っていなかったようです。)

Fort_Drum_photo_03_s.jpg
( 占領時の同島遠景写真  元画像 : 防衛研究所所蔵の陸軍史料より )

Fort_Drum_draw_03_s.jpg
( 占領時の同島略図  元画像 : 防衛研究所所蔵の陸軍史料より )

要塞に装備されていた各砲台については陸軍の手によって調査が行われ、北砲台の6インチ砲2門以外 「使用不能」 と判断されていますが、あまりにもラフな報告書しか残されていませんので詳細が不明で、どの程度のものであったのか判りません。

14インチ連装砲塔2基4門も、あるいは工作部などによって本格的な修理を行えば何門かは使用できるようになったのかもしれません。

一方で米側の記録によると、降伏時に3インチ砲を除き他の砲全てについて駐退装置を除去した上で、砲身内に砲弾のみを装填しこれを遠隔爆破させて使用不能とし、弾火薬庫内には海水を充填した他、可能な限り島内各部の破壊を行ったとされています。

結果的に同島占領後は、陸軍によって1944年後半頃までほぼ放置状態であったとされています。

そして44年後半になってから前述したようにコレヒドールを始めとするマニラ湾口の防御強化が始まり、かつての米軍の水上砲台などの再活用、再整備が行われたとされたわけですが、同年12月に編成されたマニラ湾口防衛部隊についてさえもきちんとした記録が残されておりませんので、詳細は全く不明です。

僅かに二復史料の中に 「武蔵」 乗員35名がここに配置され、そして45年3月25日の爆発により全員戦死と記録される以外は、全くその状況は不明です。 この35名が何時何のために配置されたのかも判りません。


一方米陸軍の公刊戦史では、2月に魚雷艇1隻が偵察のため上陸を試みたものの、守備隊 (海軍) の抵抗を受け、戦死1名及び戦傷6名を出して撤退しています。 ただし、日本側が使用したのは機銃のみとされています。

おそらくこの時の守備隊が 「武蔵」 の乗員であったと考えられますが、これによって米側は同島が無人のまま放置されていたのではないことを初めて知ることになります。

そして本格的な奪還のため、4月13日になって米軍側は上陸用舟艇に乗った陸軍部隊などが同島に上陸、内部に爆薬及び燃料 (一説ではディーゼル油とガソリンの混合物とされています) を投入し爆破しました。 この時、日本軍守備隊との銃撃戦により戦傷者1名を出したものの、後日日本兵69名全員の死亡を確認したと記録されています。

しかし、この日本軍守備隊69名とはいったいどこの部隊がいつ配置されたのかも判りません。

そして米軍によって更に2回にわたり内部が徹底的に爆破され、現在残るのはこの残骸の姿です。

Fort_Drum_photo_04_s.jpg
( 元画像 : 米軍史料より )

なお、このエルフレール島の歴史などについては、次のURLに素晴らしいサイトがあります。 昔及び現在の同島の写真なども豊富ですので、是非一度お訪ねください。



-------------------------------------------------------------

前 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続2)

次 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続3)

posted by 桜と錨 at 16:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月18日

大井上博著 『魚雷』


先程本家サイトの今週の更新として、引き続いてご来訪50万名達成感謝記念企画の第3弾、工学博士の大井上博氏 (1901-1966) が昭和17年に海軍省の検閲を受けて山海堂出版部より出版した 『魚雷』 を 『史料展示室』 コーナーにて公開しました。

TP_cover_s.jpg

   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/45_torpedo_ohoinoue.html

魚雷というのは元々が機密レベルの高いものとはいえ、内容的には出版当時からすると少々古いもので、かつ多くは一般に公開されているものに基づいていますが、流石は工学博士らしく魚雷全般について網羅し、かつ足が地に着いた記述となっています。

ビジュアル的な見栄えの良いものがもてはやされる昨今ですが、こういった基礎から丁寧に解説されたものはあまり見かけません。 その意味でも貴重であり、この方面に関心のある方々の入門書としても格好の一冊と思います。

posted by 桜と錨 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月12日

桜と錨の独り言


旧海軍の電波探信儀について、主電源については公開されている旧海軍史料の中に各種電探のものが明記されているんですが ・・・・

某所で質問されている方、この方は確か以前も艦艇装備品の電源について同じ様な疑問を呈されていたかと。

そもそも艦艇とその装備品の電源がどういう関係にあるのかきちんと理解していれば、この類の疑問は出て来ないんですがねえ (^_^;

posted by 桜と錨 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月11日

写真集 『海気集』 公開


本家サイトの今週の更新は、ご来訪50万名達成記念の感謝企画第2弾として、『懐かしの艦影』 コーナーにおいて昭和36年に 「防衛友の会本部」 によって編纂・刊行された海上自衛隊写真集 『海気集』 を公開しました。

kaikishu_cover_s.jpg

     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/photo_cont.html
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/kaikishu/kaikishu.html

現在では海上幕僚監部や各地方総監部などからその都度その都度の写真などが公開され、またネット上でも多くのファンの方々から様々な写真がUPされておりますが、この種の普段の部隊の様子を紹介する纏まったものはまず見かけません。

( 私などからすれば、本来なら 「水交会」 などが一般に対する啓蒙活動の一つとして出すには最適なものと思いますが、現在の同会にはそのようなつもりはないのでしょうね ・・・・ (^_^; )

加えて、海上自衛隊創設初期の写真集というのも今日においては大変に珍しいものであり、その意味でも貴重なものと言えるでしょう。

写真集とはいっても通常の1ページ1葉のものではありませんで、いわゆる “パンフレット” 形式ですので、全頁を1つのPDFファイルとしました。

ただし元々の画質があまり良くありませんのでその点はご了解ください。

55年前の出版物ですが、出版元の 「防衛友の会本部」 というのも現在ではネット検索しても見当たりませんし、著作権の現状について確認するにも個人としては限界があります。

しかしながら、当時の海上自衛隊を紹介するこのような素晴らしい写真集がこのまま埋もれてしまうのは大変に勿体ないことと思い、私個人の独断と責任において公開する次第です。

したがいまして、現在の正当な著作権保有者からの連絡をいただきました場合には、削除などの措置をとらせていただくことが前提であることは申し上げるまでもありません。

posted by 桜と錨 at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月10日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続)


始めに 「武蔵」 沈没からの生存者の状況について少し整理してみましょう。

まず沈没からコレヒドール島到着までです。

10月24日
  1918 「武蔵」 沈没 (「清霜」 の記録では1940、「武蔵」 の記録では1935)
  1932 「浜風」 救助作業開始
  2026 「清霜」 救助作業開始 (2013 第2カッター降下)

10月25日
  0057 「清霜」 救助作業終了
  0120 「浜風」 救助作業終了

この時に収容された 「武蔵」 の生存者は両艦の戦闘詳報・戦時日誌などにより次のとおりとされています。

  「浜風」 : 准士官以上44名、下士官兵860名、計904名
  「清霜」 : 准士官以上31名、下士官兵468名 計499名
  合計  : 准士官以上75名、下士官兵1328名、計1403名

ただし、「武蔵」 は沈没した 「摩耶」 の乗員を収容しており、被害が酷くなった1830頃 「島風」 を横付けして移乗させていますが、応急関係員などはそのままとなっておりますので、沈没時に救助された人員にこれらの生存者が含まれていたかどうかは不明です。

  0140 「浜風」 コロン湾 (注1) に向かう
  0214 「清霜」 コロン湾に向かう

colon_bay_map_01_mod_s.jpg
( シブヤン海、コロン湾、マニラの位置関係 元画像 : Google Map より )

両駆逐艦長は協議の上、取り敢えず 「武蔵」 が損傷時に向かっていたコロン湾にそのまま向かい、同湾で上級司令部からの指示を待つことにしました。

その途中で第1遊撃部隊指揮官から両艦宛に次の命令が届きます。

1YB機密第242138番電
武蔵乗員を 「マニラ」 に輸送したる後 「コロン」 湾に回航妙高艦長の指揮を受け同艦及び日栄丸の警衛に任ずべし

この電報がいつ両艦に着信したのかは不明ですが、両艦はそのまま引き続きコロン湾に向かいます。

  1306 「清霜」 コロン湾着
  1455 「浜風」 コロン湾着

  1830 両艦コロン湾発、マニラに向かう

このコロン湾仮泊中に重傷者を在泊中の他艦に移したとするものもありますが、記録などはありませんので詳細は不明です。

コロン湾出港直前に 「浜風」 は第3南遣艦隊及び第31特別根拠地隊 (以下 「31特根」 という) へ次の電報を発信しています。

hamakaze_10251800den.jpg
( 「浜風」 の発信電報内容 元画像 : 防衛研究所所蔵資料より )

ここに示す 「武蔵」 生存者数は、准士官以上80名、下士官兵1343名の計1423名 となっており、先の救助作業直後の数とは多少異なっておりますが、コロン湾仮泊中に再確認した結果であり、少なくとも 「武蔵」 沈没時に救助した人員数 (便乗者等を含む) としてはこの値が最も正しいものと考えられます。 (注2)

10月26日
  0902 「浜風」 キャビテ軍港桟橋着
  0935 「清霜」 「武蔵」 乗員を 「浜風」 に移乗させた後マニラ港桟橋に横付けし補給
  1200 「浜風」 キャビテ発
  1303 「浜風」 コレヒドール着 「武蔵」 乗員退艦
  1446 「浜風」 コレヒドール発

先の電報にあった要収容負傷者についてはキャビテにおいて海軍病院に送られたのかどうかは不明です。

ここまでが 「武蔵」 の生存者がコレヒドール島に到着するまでの状況の概要です。

これを見る限りでは、「武蔵」 の生存者の収容先がコレヒドール島となったことは、両艦がマニラに到着するまでは、両艦はもちろん第1遊撃部隊司令部も知らなかったと言えるでしょう。

したがって、同島への収容は第3南遣艦隊あるいは31特根の都合による判断と考えるのが自然です。

Corregidor_map_01_mod_s.jpg
( 元画像 : 1944年の米軍地図より )

Corregidor_map_02_s.jpg
( コレヒドール島 元画像 : 1944年の米軍地図より )

ではなぜコレヒドール島だったのか?

これはお考えいただければすぐお判りのように、急に1400名もの人員を収容できるような施設はマニラの31特根といえどもそうそうあるわけではありません。 しかも後でお話しするように、「武蔵」 生存者1400名は取り敢えずは分散配置せずに一纏めにしておく必要があります。

当時はマニラ及びその周辺に海軍部隊の収容可能な施設はいくつかありましたが、マニラ防衛のために送り込まれる部隊はもちろん、多数の沈没艦船の乗員が所在しており、一挙に1400名もの人員を収容できる施設はそう簡単には確保できなかったと考えられます。

その一方で、コレヒドール島には19年9月までは31特根の僅かな部隊が配置されていたにすぎませんでしたが、9月に震洋隊1隊が配置されたのを皮切りとし、以後震洋隊、防空隊、設営隊などが次々と送り込まれることとなり、このための施設の増設が急ピッチで進められていました。 また、マニラ湾港防備強化のための更なる人員増加の必要性も見込まれていました。

このため 「武蔵」 生存者1400名がマニラに到着した時、彼等の処遇が決まるまでの取り敢えずの仮施設としても、コレヒドール島は当時最適な選択肢であったと考えられます。


さて次がその後の状況になります。

-------------------------------------------------------------

(注1) : コロン湾 (Colon Bay) はパラワン諸島の北東端にあるブサンガ (Busuanga)、クリオン (Culion) 及びコロン (Colon) の3つの島で囲まれる天然の良港です。

ここコロン湾は連合艦隊の泊地・作業地として海軍部内ではよく知られたところで、この捷号作戦時でも使用していました。 実際、「武蔵」 生存者を運んだ 「浜風」 「清霜」 は再補給の後、損傷艦艇の応急修理のための派遣修理班90名をキャビテ軍港からこのコロン湾まで運んでおります。

colon_Bay_map_02_mod_s.jpg
( 元画像 : 1984年のONCシリーズより )

colon_Bay_map_03_mod_s.jpg
( 元画像 : 1960年の米軍地図より )


(注2) : 「武蔵」 の戦闘詳報によると、救助した 「摩耶」 の乗員を除き

   出撃時 : 准士官以上 112名 (その他便乗者等 7名)
        下士官兵・傭人 2287名 (その他便乗者等 11名)
        計  2399名 (その他便乗者等 18名)
   生存者 : 准士官以上 73名 (その他便乗者等 4名 3名は記録無し)
        下士官兵・傭人 1303名 (その他便乗者など 11名)
        計 1376名 (その他便乗者等 15名 3名は記録無し)

とされており、「浜風」 「清霜」 2隻による救助記録の合計より若干少なくなっております。

「武蔵」 戦闘詳報はコレヒドール島上陸以降、後になって書かれておりますので、もしかするとコロン湾あるいはマニラで移したとされる重傷者の数が入っていないのかとも考えられます。

また 「武蔵」 戦闘詳報の戦闘経過の中で 「島風」 への 「摩耶」 乗員移載の際に応急関係員は残したとされていますが、人員表の中にはこの数がありません。

したがって、便乗者等を除く 「武蔵」 乗員の正確な生存者の数については、結局のところ今日もなお確定的なものは無いと言えるでしょう。

-------------------------------------------------------------

前 : 「武蔵」 生存者は隔離された?

次 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続2)

posted by 桜と錨 at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと