2017年03月10日

「九三式魚雷」 について (1)


実用酸素魚雷として旧海軍が世界に誇った 「九三式魚雷」 のお話しです。

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とは言っても、今回はその開発経緯や性能要目、用法と言ったことではなく、ちょっとマニアックにエンジン系統のメカについてです。

でもここにご来訪の方々にはまさか酸素魚雷の燃料がその酸素である思っておられる方はおられないと思いますが ・・・・


1.機関系統の概要

(1) 九〇式魚雷

まずは酸素魚雷はそれまでの圧縮空気を使ったものとどこが異なるのかを掴んでいただきたいと思います。

そのため圧縮空気を使用した代表例として、「九〇式魚雷」 を例にしてお話しします。

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ご存じのとおり、この九〇式魚雷は 「試製魚雷丙」 として開発が始められた24インチ (61糎) のもので、昭和5年 (皇紀2590年) に 「仮称九〇式魚雷」 となり、昭和8年に兵器採用されたのち特型駆逐艦を始めして艦隊の巡洋艦及び駆逐艦に逐次搭載され、九三式魚雷出現までの旧海軍の主用魚雷となったものです。

下図がその九〇式魚雷の機関系統の略図です。 説明のために極めてシンプルなものにしてあります。

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初期の圧縮空気だけによるいわゆる冷走魚雷や電池魚雷などを除くと、旧海軍の熱走魚雷の燃料は基本的に 「ケロシン」 (kerosene) です。 これを利用したものがジェット燃料やロケット燃料などして使用され、また石油ストーブで使われる軽油もその一派生物ですので皆さんよくご存じと思います。

ケロシンは石油の分留成分ですから、基本的に炭化水素を主成分とする無色の液体です。 これを空気と混ぜ合わせて燃焼させ、発生するガスの圧力によって主機(もとき、エンジン)のピストンを作働させて、そのクランク軸によって推進軸を回転させることになります。

いわゆるレシプロ・エンジンで、九〇式では2気筒復動式横型のものが使われており、これによって413馬力の推進力を得ています。

魚雷が発動されると、まず気室の圧縮空気が調和器から加熱装置 (燃焼室) 経由で主機のシリンダーに送られ、この空気圧によってピストンを発動します。

この主機の発動に併せて調和器から圧縮空気が清水室に送られ、この空気の圧力により真水が押し出されて燃料室に入り、燃料を加熱装置内に噴霧します。 そして火管によってこの燃料と気室からの空気に点火し、その燃焼ガスの膨張圧によって主機を運転します。なおこの真水の一部は加熱装置の冷却にも使用されます。

調和器は主機の回転状況をフィードバックしていますので、これにより起動から点火までの遅動を設定できるため、冷走 (燃料に点火せず圧縮空気だけで主機が回ること) や過熱の発生を防ぐことができます。

そして、設定された雷速に応じた燃料の濃さ(即ち清水室に入る圧縮空気の圧力)とそれに応じる気室からの空気量となるように調節する機能を持っています。

また圧縮空気は操舵装置の動力源ともなりますので、気室は容量の大きなものが必要となり、このため魚雷の内部容積の制約から、航続距離、雷速と弾頭の炸薬量との兼ね合いの問題が生じるわけです。

(この項続く)

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「九三式魚雷」 について (2) :

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2017年02月20日

旧海軍宮崎航空基地


本家サイトの昨日の定期更新で一つUPするのを忘れていました。

Facebook の方で、中谷元氏が宮崎空港脇にある慰霊碑での旧海軍宮崎航空隊及び同基地から出撃した特攻隊員の慰霊祭のことが紹介されていました。

これを機会に 『旧海軍の基地』 コーナーにて 「宮崎航空基地」 のページを公開します。

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「旧海軍の航空基地一覧」 のページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/Nav_Air_Base_list.html
「宮崎航空基地」 のページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/122A-Miyazaki.html

なお、同基地の名称として 「赤江飛行場」 あるいは 「赤江航空基地」 と呼ばれることがありますが、これは地名を採った現地での通称名で、旧海軍における正式名称は 「宮崎航空基地」 です。

posted by 桜と錨 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年02月19日

「連合艦隊戦策」 英訳版公開!


先々週本家サイトの更新として、当該 「史料展示室」 コーナーにて 「那智史料」 の一つである昭和18年の 「連合艦隊戦策」 を公開したところですが、今週はこの機会ですからついでに米海軍が 「那智」 から引き揚げた直後に主要なものを英訳した中にある当該戦策の英訳版を一緒に公開することにしました

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「史料展示室」 内容一覧ページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
「連合艦隊戦策」 更新公開ページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/46_GF_Sensaku_S18_Nachi.html

ただ私が持っているコピーもどの段階での複製版かは判りません。 ディジタル化に当たってゴミ取りをしてもまだまだ大変に見にくいものですが、幸いにして元の日本語と違って英数字だけですので何とか全て判読可能です。

元の日本文のものとこの英訳版とを対比しながらお読みいただくと、日本文で欠落又は判読不明な部分も把握できるかと思います。

なお、この 「那智史料」 の英訳版も一式が防研にあるようですが、こちらは私も見たことがありません。 本家サイトで公開するものよりも綺麗なものとも思われますので、興味のある方はこちらも是非一度防研でご確認ください。

posted by 桜と錨 at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年02月05日

『連合艦隊戦策 第1巻 戦闘編』 公開 !


本家サイトの今週の更新として、同サイトの 「史料展示室」 コーナーにて昭和18年12月5日発簡の機密連合艦隊法令第81号別冊 『連合艦隊戦策 第1巻 戦闘編』 をPDFファイルにて公開しました。

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「史料展示室」 内容一覧ページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
「連合艦隊戦策」 公開ページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/46_GF_Sensaku_S18_Nachi.html

この文書は、昭和19年12月にマニラ湾で米軍機の攻撃により沈んだ重巡 「那智」 からフィリピン奪回後に米軍が回収した旧海軍の文書、通称 「那智史料」 と言われるものの中の1つで、昭和36年に日本に返還されたものです。

旧海軍関係のものは終戦時にほとんどが焼却処分されており、ごく僅かしか残っておりませんので、この 「那智史料」 は大変貴重な史料で、研究者にとってはまさに第1級のものといえるでしょう。

この返還された 「那智史料」 は現在防衛研究所戦史研究センター史料室に保管されていますが、まだアジ歴などでは公開されていません。

今回私が公開するものはこの史料室にあるものではなく、別に複製されたもののコピーからです。

米軍が引き揚げた時の状態なのか、大変に傷みが激しく、一部欠落するとともに大変不鮮明な個所も多くあります。 また複製作成時に使用された複写機も今日からすれば大変旧式なものです。 それでもかなりの部分が判読可能ですので、ほぼその全容は掴んでいただけると思います。

私は防研保管のものを見たことがありませんので、もしかするとこれより鮮明なのかもしれません。 興味を持たれた方があれば、是非一度防研の原本をご覧になることをお薦めいたします。

posted by 桜と錨 at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年01月29日

HP 『海軍砲術学校』 の更新


当ブログの本家サイトである 『桜と錨の海軍砲術学校』 の更新として、『旧海軍の基地』 コーナーに 「オレアイ (Woleai)」 「ウェーキ (Wake)」 「ナウル (Nauru)」 の3つの航空基地のページを追加しました。

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( オレアイ環礁の全景写真 )

Woleai_map_s.jpg
( オレアイ島の日本軍施設配置図 )

航空基地リストページ :
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/Nav_Air_Base_list.html
オレアイ航空基地 :
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/070A-Woleai.html
ウェーキ航空基地 :
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/178A-Wake.html
ナウル航空基地 :
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/A018_Nauru.html

ウェーキはともかくとして、後の2つは大変にマイナーな基地ですので今ではほとんど知られていないものです。

もちろんいずれも日本側の史料に乏しく詳しい経緯などは不明なのですが、今のところここまでは何とか判る、というところで纏めまてみました。 こういうものも記録として残しておかないとと思っていますので。

リストにあるほとんどの航空基地については、史料等もそれなりに集まりつつあるのですが、なかなか時間がとれなくて記事に纏めることができないのが残念です。

本家サイトの他のコーナーと同じように、このコーナーも突然思い出したようにボチボチと追加していきますので、気長にお付き合いください。

もしこの航空基地をというご要望がございましたら、お聞かせいただければ手の空いた時にページを作ってみたいと思います。

posted by 桜と錨 at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年01月20日

「世界の艦船」 2月号増刊


『世界の艦船』 の最新号は傑作軍艦アーカイブの第3集目となる2月号増刊の 『戦艦 「長門」 型』 です。

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編集部さんの意気込みどおり、豊富な写真ページも含めて 「長門」 型の総集編に相応しいものとなっています。

私もこの中で次の記事を担当させていただきました。

  「 長門型のメカニズム B 兵 装 」

もちろん紙幅の関係で 「長門」 と 「陸奥」 の就役から最終までにわたる変遷の詳細を全てご紹介することは出来ませんでしたが、それでもまずは十分な内容と自負しております。

以前にも書きましたが、私は原稿のご依頼をいただいた場合には、過去何処かに書かれたもののつまみ食いをするようなことはしたくありませんので、私の元船乗りとしての経験とこれまでの研究成果による独自の内容を心掛けております。

そして可能な限り一般出版物ではこれまで出たことのない事項やデータを加えることにしております。

それはご依頼いただいたことに対する感謝の気持ちと礼儀であると思っているからです。

今回も細かいことも含めて色々と盛り込んでおります。 特に 「一式徹甲弾」 についてはご来訪の皆さんに興味を持っていただけるのではないかと思っています。

書店の店頭で見かけられた時には、是非手にとってご覧下さい。

posted by 桜と錨 at 14:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年01月19日

邦訳版 ライト著 『With TOGO、東郷とともに』


本ブログでも度々ご紹介しているサイト 『軍艦三笠 考証の記録』 の管理人であるHN 「八坂 八郎」 氏の最新私家本です。

今回は日露戦争に日本側艦船に乗艦して従軍した英国人記者セッピングス・ライト (Seppings Write) がものした 『 With TOGO, the story of seven months' active service under his command 』 の邦訳版で、第1巻として原著の第1章から7章までが収録されています。

内容としては、英国出発から始まって、日本到着時は丁度旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫の葬儀の時で、その後連合艦隊の根拠地に向かい、蔚山沖海戦、そしてその後の旅順口封鎖作戦の始まりまでになります。

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いつもどおり丁寧な訳出で、大変に読みやすいものとなっております。 そしてなりよりも、著者の記憶違いなどによる地名、艦艇名などの誤りを丹念に調べて訂正が加えられています。

当該書の邦訳版が出版されたことは今までなく、かつ原著も日本ではあまり広く知られているとは言い難いものがあります。

しかしながら、外国人の目で見た日露海戦記であることはもちろん、旅順口封鎖作戦についての見聞であり、また日本海軍の日常を記したものとしても大変に興味のあるものとなっています。

これが今回八坂氏の手によって日本語で読めるようになったのは嬉しいことです。

もちろん原著の方は既に著作権が切れており、インターネットのいくつかのところで公開されていますので、両者を対比しながら読まれるのも面白いと思います。 (古本では8千円〜1万円くらいするようです。 (^_^; )

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八坂氏のサイトでの紹介頁は次のところです。


この邦訳書は昨年11月の 「文学フリマ 東京」 に出品されましたが、まだ余分があるようですので、興味のある方は入手方法など氏のサイトから直接コンタクトをとってみて下さい。 (プロフィール欄からメッセージが送れます。)


posted by 桜と錨 at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年01月10日

艦隊司令部職員の構成と職務 (6)


さて次の日露戦期まで進む前に、明治27年段階でのことをもう少しお話しします。


この明治27年に艦隊條例が改訂されたことは既にお話ししましたが、艦隊編制時のその名称は勅令によることは先のとおりです。

その他で注目すべきはその第3条で

 第三條 艦隊ニハ水雷艇及運送船等ヲ附スルコトヲ得

とされ、従来軍艦のみとされ、艦隊が狭義での戦闘を主眼としていたものが、常備艦隊の経験もあり、ここに来て広汎且つ柔軟な運用を可能とする近代的な艦隊としての編成とすることができるようになりました。

日清戦争ではまさにこれが具現化され成果を挙げたわけです。


もう一つが、従来の参謀に加え、幕僚として艦隊航海長、機関長及び軍医長という職員が置かれたことです。

なおこれら幕僚とその名称については多少の変遷がありますが、これについては省略いたします。

また、従来からあった 「伝令使」 についてはこの明治27年の制定時に、「秘書」 については明治32年の改正時になくなり、代わってその明治32年の改正時以降は 「副官」 が置かれることになりました。

例えば明治36年の条例改正時における幕僚及び艦隊付は次の様になっています。

Kantaishokuin_M36.jpg

この明治27年の艦隊條例制定当時において、実際の艦隊の編制とその目的・任務が次第に拡がってきましたので、司令長官の職務も広汎なものとなり、それを補佐する幕僚の業務も次第に増えることになります。

このため、艦隊條例で定められた幕僚のそれぞれの職務内容の詳細について示す必要が出てきたため、明治27年11月に艦隊職員条例が廃止されて、新たに 「艦隊職員勤務令」 (達168号) が制定されたのです。


この艦隊職員勤務令は、明治34年に達42号を以て全面改訂されました。


そしてその後幾度かの小改正が行われましたが、大正3年になって廃止されてしまい、以後この種のものが制定されることはありませんでした。

なぜなんでしょう?

それは、この艦隊職員勤務令をご覧になれば、各幕僚の職務についての規定はともかく、指揮官たる司令長官等の職務はこの当時でも大変に広範多岐にわたるものであるということがお判りになるでしょう。

したがって、幕僚の役目はこの司令長官等の職責の全ての業務について円滑に行われることを補佐するものであることを考えるなら、一々これを “これは○○参謀担当” などと細かく分けて規定することは不可能であるということです。

そして大正、昭和へと益々艦隊の編成、目的、行動内容が多岐にわたってくるに及んでは、具体的な職務については海軍省達等で規定し、その都度一々改変していくよりは、各艦隊に任せ、艦隊内でその任務・行動や業務に応じて振り分ける方が都合がよくなりました。

これが艦隊職員勤務令が廃止された大きな理由です。

このため、海軍部内では当然のこととして行われてきたことが、海軍の公文書として明文化されていないこともあって、戦後の研究家などにとって “○○参謀が担当するものは何?” “艦隊機関長とは何するの?” ということになってきたのです。

したがって、これらの具体的なことについては艦に乗ったことの無い方々には、なかなか理解いただけないことではないかと。

とはいっても、明治期後半〜大正初期のものであり、また中には当時の古い条項もありますが、この艦隊職員勤務令をお読みいただけば、司令長官等の職務や各参謀や幕僚によるその職務分担の一端がお判りいただけるのではないかと思います。

例えば、ネットの某所で艦隊機関長や主計長について話題になった時に

 なんか……パッとしない職業なんですねぇ。

という所見を述べた方がおられますが、とんでもありません。 大変に重要で多忙な職務であり、単に機関大佐のポストを増やすためとか、あってもなくてもよいようなという配置ではないのです。

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前 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (5)

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2017年01月06日

艦隊司令部職員の構成と職務 (5)


前回明治27年7月19日に連合艦隊が初めて組織されたことを書きましたが、その中で “あれっ?” と思った方がおられるかもしれません。

そうなんです、連合艦隊編制に先立って警備艦隊が編制されましたが、その上裁・裁可が7月10日であるのに海軍省達の発簡は7月13日になっているのです。

裁可を得られたならば当日、遅くとも翌日には出されるのが当然ですが、これは何故なんでしょう?


これは次の通り海軍の意図として、 「橋立」 及び 「厳島」 が佐世保に集結し、常備及び警備の両艦隊の体勢が揃うのを待ってから実施するためだったんです。

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そして 「厳島」 は11日、「橋立」 は12日に佐世保に到着しており、これによって翌13日の警備艦隊編制となりました。


次ぎに、この初めて編制された連合艦隊ですが、何時何を以て解かれたのでしょうか?

旧海軍が出した公式資料である 『海軍制度沿革』 でも、なぜかこの時の連合艦隊が解かれたことについてだけは記述されておりません。 また、公刊戦史である 『二十七、八年海戦史』 にもありません。

このため戦後出されてきた多くの出版物などでもこれを明確に書かれたものはまずありませんでした。

実際には、日清講和条約発効直後の明治28年5月17日に 「官房1873号の3」 によって解かれております。

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また、戦時に際しての臨時編制であった西海艦隊は、戦後処理が一段落した同年11月15日になって 「海軍省達125号」 によって解隊されています。

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さて、そこで注目していただきたいのは、初めて連合艦隊が誕生した日清戦争においては、警備艦隊については 「編制する」 「解隊する」 となっていますが、連合艦隊については 「組織する」 「組織を解く」 として公式文書では明確に用語を区別していることです。

これは後で述べる “連合艦隊とは何か” ということについて重要なポイントになりますので、是非覚えておいてください。

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前 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (4)

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2016年12月25日

艦隊司令部職員の構成と職務 (4)


さて、前述の明治22年に制定された 「艦隊條例」 と 「軍艦條例」 ですが、これらはそれまでの海軍省達などではなく、勅令となっています。

これは、この年の2月に大日本帝国憲法、俗に言う明治憲法が発布されたことによります。 即ちその第12条で、

 第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及其ノ常備兵額ヲ定ム

とされました。 これがいわゆる 「編制大権」 と言われるもので、これによって関連する法規類も勅令によることとなったわけです。 因みに第11条が有名ないわゆる 「統帥大権」 です。


そこで、前述した明治17年の 「艦隊編制例」 及び 「艦隊職員条例」 と同時に定められた司令長官等及び艦隊職員に対する補佐業務のための 「旗艦増員表」 です。

この海軍省達として定められた旗艦増員表は明治19年2月19日に廃止されました(達丙28号)。

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換わって同日付の海軍省達丙29号によって、旗艦の構造により増員する上限を示すものとなります。


そして明治22年の憲法発布により、艦隊條例などと同様にこれも23年10月になって勅令として定められることになります。

これが 「鎮守府艦隊司令長官旗艦増加定員表」 (勅令239号) で、更にこの増加定員の内訳を示したものが 「同 識別表」 (達392号) です。


この時の増加定員表には司令官旗艦についての定員増加は有りませんでしたが、明治27年6月の艦隊條例改訂に併せ、同年7月に旗艦増加定員表が改正 (勅令71号) されて司令官旗艦にも増員されることとなりました。



そこでこの明治27年ですが、この年に朝鮮で発生したいわゆる東学党の乱は静まることはなく、6月になって鎮圧に失敗した朝鮮政府が清国に助けを求めるとの情報が日本にもたらされました。

これに応じて6月5日には前年の5月19日に制定された「戦時大本営条例」(勅令52号)に基づいて大本営が設置され、朝鮮国内の平定と居留邦人保護のための出兵の体制を整えます。

海軍も情報収集を兼ねて朝鮮周辺に艦艇を集中すると共に、7月13日これまでの常備艦隊に加えてもう一つ、臨時に 「警備艦隊」 を編制し、19日にはこれを 「西海艦隊」 と改称します。

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そしてその19日付けで常備艦隊と西海艦隊の2つをもって 「連合艦隊」 が組織されました。 ここに 旧海軍初の連合艦隊が誕生 することになったのです。

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ところが、ここに大きな疑問があります。 なぜなら6月に勅令をもって定められたばかりの 「艦隊條例」 ではその第2条で

第二条 艦隊ハ之ヲ常備シ又ハ臨時編制ス 其ノ名称ハ特ニ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

とされているからです。

この規定にもかかわらず、警備艦隊の編制及びその西海艦隊への改称はそれぞれ 「海軍省達117号」 及び 「同122号」 によってなされており、更に連合艦隊の編制については大臣官房から 「官房2019号」 により示されているに過ぎません。

もちろんこれらは全て上裁の上で裁可されていますが、ではなぜ勅令として出されなかったのか?

Keibikantai_jousai_M27.jpg   Seikaikantai_jousai_M27.jpg

Rengoukantai_jousai.jpg

いくつかの理由は考えられますが、“これだ” という史料がありませんので実際のところは不明です。


なお、この連合艦隊ということについてはまた後でお話しする予定です。

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前 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (3)

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2016年12月21日

艦隊司令部職員の構成と職務 (3)


明治17年に定められた 「艦隊編制例」 は、明治22年になって 「艦隊條例」 (勅令100号) となました。


この條例によって、これまで大・中・小の3種であった艦隊の区別がなくなり、艦隊司令長官は大中少将のいずれでも良いことになります。

そして大・中将が司令長官の場合で艦隊の隻数が多い時には、その下に少将又は大佐の司令官を置くことができるようになりました。

この條例に併せて7月29日、海軍省達294号によって常備小艦隊は 「常備艦隊」 と改称されます。

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これにより小艦隊ではなくなったことにより、井上良馨司令官は少将のままで 「常備艦隊司令長官」 となりました。 ただし少将ですのでその幕僚には参謀長がおりません。


この艦隊條例には艦隊の編成についてだけではなく、司令長官等や艦隊職員についても盛り込まれ、“艦隊及びその司令部とは何か?” ということが次第に明確になってきました。

そしてその職員としてこれまで 「属員」 と呼ばれていたうち、参謀長、参謀、伝令使、秘書については初めて 「幕僚」 という名称となりました。 

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また、この艦隊條例制定と同時に 「軍艦條例」 (勅令99号) が制定され “軍艦はどのように運用さるか?” が明確となり、そして艦隊に編入中といえどもその本管 (所管) は鎮守府にあることが規定されました。


いわば艦船の修理・補給などの後方支援や准士官以下の乗員の人事などは所管の各鎮守府が全て一括して担当し、任務行動が可能となった 「在役艦」 を艦隊に派出するという形になったわけです。

これによって各艦の艦長はもちろん、艦隊の司令長官等も後方支援や人事などについて所管の鎮守府と調整すれば良く、スッキリとした形となり随分と楽になったと言えます。


次はいよいよ連合艦隊の誕生となります。

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2016年12月19日

艦隊司令部職員の構成と職務 (2)


前回お話ししたように、明治17年の 「艦隊編制例」 とその関連の規定により、ようやく今日の 「艦隊司令部」 に通じる姿が出来てきました。

とは言ってもまだまだ荒削り、試行錯誤の段階であり、艦艇が次第に整備し始めるに併せて順次改定・修正が加えられつつ形を整えていくことになります。

これらの詳細については機会があれば別項にてお話しすることとし取り敢えず先に進みますが、ここでは一つ補足をしたいと思います。 それは艦隊の指揮官の名称についてです。


明治3年に初めて小艦隊が編成された時は、その指揮官の名称は 「小艦隊指揮」 でした。

その後 「艦隊指揮」 「艦隊指揮官」 「艦隊司令官」 などが使われていましたが、明治15年になって海軍省達丙70号によってこれらを 「大 (中) (小) 艦隊司令官」 と呼ぶことで統一されました。

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そして更に明治17年には同じく海軍省達丙139号によって大 (中) 艦隊は 「司令長官」 と改正され、小艦隊は 「司令官」 のままとされました。

これが後に 「(連合) 艦隊司令長官」 「戦隊司令官」 へと繋がっていくことになります。

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ついでにもう一つ、明治17年の 「艦隊編制例」 によって艦隊はその編制される軍艦の規模によって大、中、小の3種に分け、そしてこれら常備又は臨時に編制されることとされました。

そこで、これに基づき翌18年12月29日になって、海軍省達丙82号により当時編制されていた中艦隊の8隻をもって 「常備小艦隊」 が編制されました。

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初代の司令官には 「扶桑」 艦長であった相浦紀道大佐が少将に昇任の上での補職です。 もちろん小艦隊ですから、司令長官ではなくて司令官です。
 
この常備小艦隊は 「艦隊編制例」 の規定によりその編制目的が冠された初めての艦隊名となり、また明治・大正・昭和を通じて連合艦隊が編成された場合を除き、常設の艦隊が置かれる始まりとなりました。

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前 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (1)

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2016年12月11日

艦隊司令部職員の構成と職務 (1)


これもネットにあった話題からです。

某所で旧海軍の艦隊司令部などの参謀や幕僚などの構成とその職務についての質疑応答がありました。

その某所では内令定員表についてだけで良かったのかもしれませんが、これをきちんと説明するには、そもそも艦隊とは何なのか、艦隊司令部とは何をするところなのか、という基本的なところから進める必要があるでしょう。

そこでまずはその概要から。


旧海軍において艦隊というものを編成したのは明治3年7月25日のことで、普仏戦争勃発により中立を堅持し周辺海域の海防を確立するため、太政官より 「艦隊」 の編成が命ぜられ、横浜、兵庫、長崎の各港に小艦隊1個ずつを配備したことに始まります。

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( 今に残るこの太政官の記録文書には内容的に誤りや矛盾点などが多くあって色々と問題も多いのですが、これについては省略いたします。 ともかく、艦隊の編成について出てくる最初のものということで。)

ただし、この時はまだ艦隊の編制について明文化された規定はなく、翌4年に制定された 「海軍規則並諸官俸給表」 において大中小艦隊について初めて定められました。


そして艦隊について改めて単独の規則として定められたのは明治17年の 「艦隊編成例」 (丙136号) によってです。


この中で注目すべきは、初めて 「連合艦隊」 という言葉が出てくることです。

そしてこれと同時に 「艦隊職員條例」 (丙137号) によって司令長官・司令次官・司令官 (以下単に 「司令長官等」 という) 及びその参謀長以下職員の職名、階級、員数が定められるとともに、司令長官以下の簡単な職務概要が規定されました。


この中で、参謀とは 「司令長官等謀略の資に供するを任とす」 (第37条) とされています。 なお艦隊職員の内、参謀長、参謀、伝令使及び秘書はこれを司令長官等の 「属員」 と称され、まだ 「幕僚」 という用語は使われておりません。

また当時はまだ 「司令部」 という概念はありませんでしたので、これら旗艦に乗艦する司令長官等と艦隊職員の雑務と身の回りを担当する下士官兵は、「旗艦増員表」 (丙138号) によって旗艦乗員の増員として取り扱われておりました。


因みに、軍楽隊一隊が旗艦増員として乗艦するようになったのは明治22年からのことです。


(12月15日追記):

明治22年からというのは、制度上の定員としての話しですので間違えないようにしてください。

実際に海軍軍楽隊が初めて艦船に乗り組んだのは明治16年当時中艦隊旗艦であった 「扶桑」 であるとされていますが、これが一時的であったのか常駐であったのかはわかりません。

ただし当時の海軍軍楽隊の状況からするならば、明治22年までは必要の都度であったと考えられます。

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次 : 艦隊司令部職員の構成と職務 (2)

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2016年12月07日

軍艦吉野か、巡洋艦吉野か


先月の 「加藤友三郎元帥研究会発起会」 において、加藤元帥の経歴に関連して英国で建造した 「吉野」 の監督官兼回航委員であり、初代の砲術長であったことから、これを紹介する時に 「軍艦吉野」 と 「巡洋艦吉野」 のどちらが正しいのかが話題になりました。

この時に私がお答えしたのは “両方とも正しく、どちらでもOK” ということでした。

これについて少し説明をしたいと思います。


明治23年度第1回帝国議会において協賛され裁可された24年度の海軍の新たな軍艦建造計画は、軍艦3隻 (3,500トン、2,500トン、750トン) で、これらは後にそれぞれ 「吉野」、「須磨」 及び 「龍田」 として就役することになります。

ここで当時の旧海軍における艦船の分類についてどうなっていたかですが、

後の時代のように軍艦を類別して一等・二等戦艦、一〜三等巡洋艦などのようになるのは明治31年のことで、これが後に 「艦船類別標準」 へとなります。


「吉野」 の計画〜就役の時期である明治24〜26年の当時は、明治23年に定められた 「海軍艦船籍條例」 (達291号) の時代でした。


これに基づき、国内建造の艦船は命名式、即ち進水式の時をもって、また国外建造の艦船の場合は引渡、即ち就役の時をもって、海軍艦船籍に登録されます。

したがって、「吉野」 は英国アームストロング社から引き渡された明治26年9月30日をもって海軍の艦船籍に編入され、第一種の軍艦となったわけです。 大日本帝国海軍の 「軍艦吉野」 です。

しかしながら、これは海軍における艦船の公式な区別、類別であって、「吉野」 がどういった艦船のタイプ、艦種のものであるかとは別のことになります。

明治24年に建造予算が成立した当時、この3,500トン型のものは海軍部内において 「二等巡航艦」 と呼ばれていました。

この 「巡航艦」 というのは本家サイトの 『懐かしの艦影』 コーナーで公開している旧海軍の公式写真帳 『大日本帝国軍艦』 及び 『大日本帝国軍艦2』 にある要目表でも使われているとおりです。

もちろん「巡航艦」とは、世界共通的な (というより手本たる英国での) 呼称である 「Cruiser」 の当時の日本語表記です。

そして、これの建造が英国に発注され、次第にその姿が明らかになるに連れ、英国における艦艇の状況についても情報が入ってきた結果、旧海軍での呼び方も少しずつ変わっております。

即ち当初は 「巡航艦」 の内の 「二等巡航艦」 であったものが、アームストロング社との建造契約の段階で 「迅速鋼鉄防禦巡航艦」 という表現となり、明治25年半ば頃から現在の用語である 「巡洋艦」 というのが文書上に出始めます。 これにより 「迅速防禦巡洋艦」 なども使われるようになります。

そして25年8月の命名時には単に 「巡洋艦」 とされています。

Yoshino_meimei_01.jpg

( 旧海軍部内においては、この明治25年半ば頃に従来の 「巡航艦」 という用語が正式に 「巡洋艦」 に換わったと判断されます。)

これを要するに、帝国海軍艦船籍の艦船としては 「軍艦吉野」、艦種としては 「巡洋艦吉野」 ということで、どちらも正しいことになります。


なおついでですので 「吉野」 に関連して、例えば次の写真などは故福井静夫著 『海軍艦艇史2』 にも掲載されているものです。

Yoshino_fukui_01_s.jpg

そのキャプションに

“日清戦役当時の世界最優秀巡洋艦の勇姿を示し、以来、内外に著名の写真である”

となっていますが、残念ながらこの写真は後からコントラストを強調した上で軍艦旗などが書き加えられたものです。

この写真のオリジナルは本家サイトの 『懐かしの艦影』 コーナーで公開しているとおり、明治26年9月の全力公試時のもので、艦橋付近に安社の技師などが写っています。

Yoshino_trial_0rig_01.jpg

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流石に海人社の 『世界の艦船』 は、「日本巡洋艦史」 や 「日本軍艦史」 などでもこのオリジナルと同じものを掲載し、きちんと解説が付いていますね。

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2016年11月25日

公職者等の序列について


軍や警察などの組織における職員の先後任順序、即ち序列については、これは階級とその進級日が基準となります。 そして軍においてはこれを基準にした士官名簿が作成されます。 この名簿に記載されている順番が序列です。

ただし、軍では指揮 (継承) 関係を明確にする必要から、例えば旧海軍の 「軍令承行令」 などの様な規則が定められますが、これはこの公的立場としての処遇である序列とは別の問題です。

( 余談になりますが、現在の米海軍でもどの様に階級が上でも Line Officer で無い限り、その他の職種の士官では作戦部隊の指揮官にはなれません。 例えば Supply Officer は海軍作戦部長や艦隊司令長官などになることはできません。 当然と言えば当然のことですが。)

では軍だけでなく官公庁や公的組織・機関と横並びになった場合はどうなっているのでしょうか?


太平洋戦争まではこの序列のことを一般的に 「席次」 と言いました。 つまり儀式などにおける参列の範囲や並ぶ時の順番を決めるための基を定めたもので、これが公的立場における処遇を典型的に示したものであるといえるでしょう。

その最も権威のあるものが 「宮中席次」 で、「皇室儀制令」 (大正15年皇室令第7号) の中で定められており、これは公職、爵位、叙位叙勲による優遇者の3つが基本となっています。

そしてこれに準じて公職者の席次を定めたものが 「高等官席次」 (明治25年内閣総理大臣通牒) です。

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( 画像は第8号の枢密院議長宛のもの、海軍大臣宛は第29号 元画像 : 国立公文書館所蔵史料より )

ではその席次において各組織・機関などの公職の横並びはどうやって決めているのかというと、これはズバリ “俸給額” が基準です。 つまり高い地位の人ほど俸給も高い、という考え方ですね。

この公職者の横並びの基準を定めたものが 「官等」 であり、特に幹部以上の等級を定めたものが 「高等官官等俸給令」 (明治43年勅令第134号) です。

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( 元画像 : 国立公文書館所蔵史料より )

この高等官官等俸給令において、「高等官」 を親任官及び第一〜第九等の高等官に分け、親任官の筆頭の内閣総理大臣から文部省直轄諸学校訓導に至る職名に応じた等級が第一〜第五表で示されております。

また、親任官及び高等官第一 ・ 第二等を 「勅任官」、第三〜第九等を 「奏任官」 と呼ぶこともこの勅令の中で定められています。


では、公職者だけではなく一般市民との横並びはどうなっているのかというと、これはありません。 確かに叙位叙勲による優遇者であれば宮中席次にはありますが、それ以外では定める必要性が無いからです。

例えば、民間会社の社長と海軍少尉とどちらが偉い (地位が高い) か、などということを、一般社会における公的な場の席次として予め決めて置かなければならないようなことはまずありません。

何かの機会に宴席や会議・式典などで同席する場合であっても、それはそれでその時その時の集まりの主旨に基づいた一般常識や社会通念、慣習などによって判断して決めれば良いことだからです。


したがって、先日ネット上の某所で軍人と民間人との地位と処遇について話題になった中でもありました、一般に良く言われる

階級を持たない者に対しては、極端にいえば、何をしてもよいという風潮があった

というのも、確かに昭和期の旧陸軍の一部において見られたようですが、これは多分に個々人やそのグループの問題であって、陸海軍の公式なものでも国家としての公的な立場のものでもありません。

そして

造船会社の社長が海軍の機関に呼ばれ、守衛に来意を伝えると、延々と寒天の中で待たされたという話が載っておりました。 つまり、守衛室に招き入れられることもなかったわけです。 これは、軍人が一番偉く、一兵卒であっても、会社の社長よりも偉いという意識が働いたものでしょう。

と言うようなことも、これは単に “自分は社長なのに” という自意識の上でその様に思ったのでしょう。 私から言わせれば、そのような反応の方がおかしいと思いまね。

一般に通じるそれなりの肩書きをもった人が公式訪問 (単に呼ばれたから行ったというのは非公式訪問です) する場合などでない限り、海軍として一般の人々に対する応接や礼式などの規定はありません。

と言うかそのようなことを想定した組織ではありませんので、例え一兵卒であっても門衛としては海軍の規則に従わざるをえませんし、ましてや会社の社長などの様な人でも少なくとも徴兵の経験はあるでしょうから、その様な軍のことは当然理解できているはずです。

そして、公式訪問以外での一般の人々の通常の来訪に対して、衛門を含めてどの様な対応・接遇をとるかは、その基地・施設の指揮官の裁量の範囲内のことと言えます。

もちろん裁量の範囲と言っても、それは当時の日本社会全体における風習や慣習の中でのことですので、現在の感覚で単純に比較してあれこれ指摘しても意味はないことは申し上げるまでもありません。

この様なことは現在の一般社会でも似たようなものではないでしょうか? もし仮に私が現役時代に、非公式かつ事前アポなしでいきなり大企業や官公庁などの受付に行って来意を告げたとしても、大同小異のことでしょう。

もちろん現在の企業などの訪問者に対する受付の対応は “企業イメージ” を大切にしますので、昔と違って相当に良くなっているでしょうが。

いずれにしても、これら一般的な訪問時の対応・接遇などのことと、今回の主題である公的な立場における処遇としての席次・順位のこととは、全く次元の異なる話しということになります。

posted by 桜と錨 at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年11月20日

駆水頭部について


所要があって旧海軍の史料を整理していた時に、先日ネットのどこだったかで魚雷の駆水頭部(訓練弾頭)のことが話題になっていたことを思い出しました。

ついでですから、この機会にこの駆水頭部について少しご紹介を。

当然のことながら、平時の魚雷発射訓練では炸薬の詰まった実用頭部をそのまま使うわけにはいきませんので、爆発しない訓練弾頭が必要になります。

旧海軍では、明治期から既にこの訓練弾頭の必要性により、当初は薄い鋼板製頭部の中に炸薬の代わりの鉛などの錘をいれて実用頭部との重量を合わせたものを使用しました。 これを 「演習頭部」 といいます。

続いて標的艦の艦体に衝突させ、その命中の有無を確認できるようにした 「衝突頭部」 が開発されました。

その後両者それぞれで一層の改善が加えられましたが、大正4年になって英国から演習兼衝突頭部が導入され、これを元に改良が図られることになりました。

しかしながら、艦隊側からは更なる実戦的な訓練に使用するため、魚雷の沈没・失踪を防ぐより高度な機能を有するものの要求が強くなり、このため大正9年になって魚雷の航走終了後又は標的艦衝突後に魚雷頭部の中の水を抜いて軽くして海面に浮くようにしたものが開発され、翌10年から艦隊での使用が始まりました。 これが 「駆水頭部」 です。

この昭和4年頃までの経緯などについては、本家サイトの水雷講堂コーナーで公開している旧海軍の公式文書『海軍水雷術史』の中でご紹介しておりますので、詳細はそちらをご参照ください。


そしてこの駆水頭部は、海面に浮いた時に着色の発煙を出したり、ライトを点灯したり、あるいは発射時からのデータを記録する装置を付加したりするなどの改善が図られ、昭和10年頃以降太平洋戦争期にはそれまでの「駆水頭部改二」に換わり 「駆水頭部二型」 が使用されています。

もちろんこの時期でも艦艇用の魚雷は53センチ径と61センチ径のものがありましたので、前者用の 「八九式二型駆水頭部」 と後者用の 「九〇式二型駆水頭部」 の2種類がありますが、径が異なるために内部のレイアウトが少し違うものの、基本的な機能・構造は両者ともほぼ同じになっています。

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( 八九式二型駆水頭部構造図 )

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( 九〇式二型駆水頭部構造図 )


因みに、頭部先端にある鈎状のものが 「衝突尖」、その後ろ側内部の筒状のものが 「水圧筒」 で、衝突又は航走終了により頭部内の水を排出する弁を作働させるためのものです。

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2016年10月30日

加藤友三郎元帥研究会発起会


先週金曜日は、呉市のクレイトンベイ・ホテルにて加藤友三郎元帥研究会の発起会が行われました。

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私もお誘いをいただきましたので、賛同人の一人に名を連ねさせていただいております。

同会は (株) 大之木ダイモ社長である大之木小兵衛氏の音頭により発起されたもので、第9代の呉鎮守府司令長官でもあった加藤友三郎元帥の業績を研究していこうと言う主旨のものです。

当日は発起人や賛同人、多数の一般市民の方々を始め、海上自衛隊の呉地方総監部や第1術科学校などからも多くの現役の自衛官の参加がありました。

会則や理事選出などの発起会に引き続き、加藤友三郎元帥の玄孫である加藤健太郎氏の記念講演、そして懇親会が行われました。

ただ懇親会は1時間弱の短いものであったため、加藤健太郎氏とは少しお話しができただけでした。

そして加藤氏からは折角2次会へのお誘いもいただいたのですが、翌日朝早く出かける用事があったため出席できなかったのが心残りです。

この研究会、今後どのように進めていかれるのか、理事に選出された発起人の方々の腕の見せ所、ということでこれからを楽しみにしています。
posted by 桜と錨 at 22:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年10月15日

「世界の艦船」 11月号増刊


海人社さんから見本誌が届きました。 まもなく書店の店頭に並ぶと思います、『世界の艦船』 11月号増刊の 『アメリカ巡洋艦史』 です。

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同タイトルのものは93年の4月号増刊として出ておりますが、出版されてから既に23年を経ておりますので、今回はこれのリニューアル版として写真ページも記事ページも全く一新されたものとなっております。

特に今回は 「アメリカ巡洋艦12話」 として、短編のエピソード集が掲載されています。
私もこの中で次の4話を担当させていただきました。

  F ガン・クルーザーの頂点 「デ・モイン」 級の主砲
  I シー・オービット作戦
  J 変身の極み 「オルバニー」 型
  K 原子力巡洋艦はどうして消え去ったのか?

まもなく書店に並ぶと思いますので、是非手にとってご覧下さい。

またこの方面に関心のある方は、出来れば93年版の方も一緒に揃えられると、写真も記事内容もより充実したものとなるでしょう。


なお、この短編集は原則各テーマ1ページという制約からその細部まではご紹介できませんでした。

特に艦載砲の歴史上大変にユニークな存在である 「デ・モイン」 級の主砲の8インチ速射砲 Mk16、そして 「オルバニー」 型を始めとして戦後のアメリカ巡洋艦のメイン兵装の一つとなったタロス・ミサイル・システムについては、これまでその詳細が語られたものは海外のものを含めていまだにありません。

機会があればこれらについても別途ご紹介したいと思っているところでが ・・・・

posted by 桜と錨 at 16:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年10月07日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続3・補)


防衛研究所所蔵史料を再確認していましたら、10月24日の 「武蔵」 沈没時の戦死傷者表が出てきました。

Musashi_serv_crew_01_s.jpg
(「武蔵」 戦死傷者表 元画像 : 防衛研究所所蔵史料より )

これに基づき先の記事を少し修正・加筆して見たいと思います。

「武蔵」 生存者は隔離された? (続) :

この 『菲島沖海戦ニ於ケル戦死傷者表』 によりますと、下士官兵は

  戦死者 :   235名
  行方不明者 : 749名 (内傭人3名)

であり、先の 「戦闘詳報」 からは出撃時の乗艦者数は2287名ですので、生存者数は1303名となります。

これは 「戦闘詳報」 記載の員数と一致しますが、戦死者と行方不明者の内訳は若干異なります。

そして、生存者1303名の内、戦傷者は

  受診者 :    67名
  入院者 :   116名

とされていますので、コレヒドールに収容されたのはこの入院者を除く1187名であったと考えられます。

准士官以上については生存者73名には重傷者はおりませんので、この73名全員がコレヒドールに収容されたものと考えられ、下士官兵との合計は1260名となります。


なお意外なのは、出撃時に便乗していた准士官以上及び同相当官の7名の内4名は 「島風」 に移乗したことが判っていますが、残りの3名のその後は不明です。

また、「摩耶」 の生存者も含めた下士官兵の便乗者の内、「島風」 に移乗したとされる者 (これも正確な数は不詳ですが) 以外の状況も判りません。

もちろん入院者116名のその後は判りませんが、もしかすると何人かは2回に分けて内地に帰還した者の中、あるいは比島からの最後の便となった昭和20年年明け早々の病院船 「第二氷川丸」 の乗船者に含まれていたのかもしれません。

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前 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続3)

posted by 桜と錨 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年10月04日

秋月型 「初月」 の最終装備状態について


別記事にてHN 「小島」 さんからお尋ねいただきましたが当該項の内容についてではありませんので、私の回答と併せこちらに纏めて記事とします。


お尋ねの件は次のものです。

 秋月型について、特に初月について (最終時の武装の配置) をよく知りたい


あ号作戦後の状況について各海軍工廠が調査したものを故福井静夫氏が纏めた 『各艦機銃電探哨信儀等現状調査表』 という史料があり、これに 「初月」 も含まれています。

これについては最近になって光人社から復刻されましたが、何しろ9千円近い価格です。

この内の駆逐艦についてでしたら 『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』 (光人社) の巻末に元のものを書き直したものが掲載されていますので、これをご覧いただくのが手っ取り早く、またこれで十分ではないでしょうか。

fukui_Vo_5_destroyer_cover_s.jpg

ただし、「初月」 については昭和19年6月30日現在のものとされています。

したがって、「初月」 はエンガノ沖海戦において10月25日に戦没しておりますので、それまでの間に変化があったのかどうかは私も調べたことはありませんので判りません。


なお、この史料は従来故福井静夫氏の著作物とされていますが、上記のとおり、各海軍工廠が作成した調査表を氏が職務上の命により纏めた “公文書” であり、いわゆる氏の “著作物” ではないことには注意が必要です。

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( 元画像 : HP 「海軍砲術学校」 所蔵の複製版より )

そして本来ならこれは復刻出版するような性格のものではなく、むしろ 「アジ歴」 や 「大和ミュージアム」 などのしかるべきところで一般に公開すべきもの、と私なら考えますが ・・・・ ?

posted by 桜と錨 at 12:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 海軍のこと