2009年11月16日

連繋機雷 (一号機雷) について (中編−その1)

 前・中・後編の3回に分けて掲載するつもりでしたが、書き始めましたらどんどん長くなりましたので、後編は予定どおり津軽海峡防備をお話ししますので、この中編を2回に分けることにします。

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 それでは、この 「連繋機雷」 は誰の発想で、誰が考案したか、ということになります。

 これもまず 『別宮暖朗本』 の記述から。

 小田は機雷の攻撃的な使用として、さらに別の方法を編み出している。 連繋水雷である。 小田はこの方法を日露戦争前に発案しており、一号機雷という特殊な浮標機雷をそのために発明していた。 (p188)

 小田は機械水雷を2種類考案した。 一号機雷と二号機雷であり、一号機雷が通称「浮標機雷」と呼ばれるものである。 (p266)

 ただ敵艦に浮標機雷一つを触雷させたとしても、小型であり、撃沈することはむずかしい。 このため小田は、浮標機雷をロープで連繋させることにした。 これならばロープに当たった艦はそのまま進むしかないので、2個以上命中させること (が) できる。 これは去年、ペトロパブロフスクを撃沈したのと同じ方法である。(185ページ参照)
(p267)
 ( )は脱字につき管理人補足

 一体、どこのどんな史料を捜せばこんなことが書いてあるんでしょうか?

 既に本家HPで公開中の 『帝国海軍水雷術史』 をお読みいただいた方はお判りでしょう。 連繋機雷は残念ながら小田喜代蔵海軍中佐 (当時) の発案でも発明でもありません。

 ましてやこの著者が言う 「一号機雷」 という浮標機雷は日露戦争前には存在しません。 通称 「旧一号機雷」 と言われる明治19年に英国より導入したものを若干改良した旧式な機械水雷はありましたが。

 そして後に 「一号機雷」 と改称されることになる 「連繋水雷」 は、“通称” 「浮標機雷」 とは呼びません。 通称 「連繋機雷」 と呼びます。

( もちろん改良連繋水雷以降の連繋機雷は 「浮標機雷」 という “機雷の種別” の一つではありますが、これを “通称” とは言いません。)

 旧海軍の公式史料において、この連繋機雷の考案に至る直接の発想は秋山真之とされています。 と同時に、同様なものの発案は、山路一善海軍中佐など幾つかのものがあったことが知られています。 そして、小田喜代蔵が提案したという記録はありません。

 では、誰が実際に考案したのか?

 これは 『帝国海軍水雷術史』 などでも記述されているとおりで、秋山真之の提議により聯合艦隊司令長官である東郷が、小田喜代蔵艦隊附属敷設隊司令及び 山崎甲子次郎 特務艦 「関東丸」 工作長等に命じてこれの開発をさせたとされています。 そして実際に最初の連繋機雷完成の中心となったのが 小山十満洲 「関東丸」 乗組海軍大技士であったとされています。

 小田喜代蔵が全く関係していなかったということではなく、また組織的にはその担当の最も先任者であったことは確かですが (これ故に当初のものを “時たま” 「小田式連繋水雷」 と呼ぶこともありました)、しかし、これをもって彼の “発明” とするには無理があります。

 以上については、上記 『水雷術史』 のみならず、『極秘明治三十七八年海戦史』 でも記述されていることです。

 ましてや、「去年、ペトロパブロフスクを撃沈したのと同じ方法」 のものであるはずがありません。 ペトロパブロフスクを撃沈したのは “ロープで結んだ連繋機雷” ではなく、それぞれ独立して敷設する 「二号機雷」 そのままですから。

 そして、ついでに申し上げるなら、「二号機雷」 も小田の発明ではありません。

( これらの件も、後の一般機雷の項で詳しくお話しする予定です。)

 これを要するに、『別宮暖朗本』 の記述は誤りであり、何の根拠もありません。 ( そして例によって、この本では著者の主張を裏付ける自らの根拠は何も明らかにされていません。)

 更には、この連繋機雷の名称は、

   明治37年10月 「連繋水雷」
   明治38年 6月 「特種水雷」
   明治41年12月 「乙種機雷」
   大正5年2月   「一号機雷」

 と変遷しており、この 『別宮暖朗本』 がターゲットとするのが日露戦争であることを考えれば、この連繋機雷を何のことわりもなく 「一号機雷」 と記述することは誤りです。

 それに、この著者はどうもこの著者の言う 「一号機雷」 を 「連繋機雷」 という “機雷の種別の一つ” と思っているようです。 でなければ、後編で述べる津軽海峡防備で使用する 「連繋機雷」 の意味がおかしくなります。

 即ち、津軽海峡で同時多数使用する連繋機雷が “駆逐艦2隻で曳航するもの” であるはずがありませんから (^_^)

 もっとも、この著者なら、

「 浮標とその下の小型機雷1組が 「一号機雷」 で、これをロープで結んで駆逐艦2隻で曳くものが “連繋機雷攻撃法” であり、多数を繋げたものが津軽海峡用の “連繋機雷” だ。」

 などとトンチンカンを言い出しかねませんが (^_^;

 そして、

 小田は旅順陥落後、駆逐艦乗組員を交代で集め、この連繋機雷攻撃法の訓練を実施した。 そして日本海海戦では具体的戦果を挙げるに至った。 (p189)

 日本海海戦での第四駆逐隊の実戦使用については、この次にお話ししますが、この著者のいうところの “連繋機雷攻撃法” などというトンチンカンなものでは無いことは既にお話ししました。

 「旅順陥落後、駆逐艦乗組員を交代で集め」 ですって? 小田がどのような権限で、どの様に集め、どの様に訓練したんでしょうか?

 当初の連繋機雷が完成し、実戦配備が始まって以降、駆逐艦乗員を小田のところに集めて訓練したなどということはありません。 この連繋機雷を敷設するのに、それ程の特別な専門知識が要るわけではありませんので。

 そして、次の例のように、この連繋機雷の 「隔時器」 など機雷本体の取扱・整備については、これは駆逐艦乗員ではできませんので、“敷設隊から” その専門員を搭載する各駆逐艦に派遣したんです。

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 日露戦争以降平時になると、駆逐艦艦尾にレールを設置したり、浮標機雷を大型化させたりなど、改悪が相次いだ。 (p198)

 それまで、日本の駆逐艦は、一号機雷を、2〜4個常備していたのである。 (p189)

 レールを設置したり、大型化することが何をもって “改悪” と言うんでしょう?

 まさか、乗員2〜3名が持ち上げて舷側から投入したのに、大型化したからできなくなった、だから改悪、とでも思っているんでは無いでしょうね? 当初から 「落下框」 などの投下装置があったんですが?

 そして 「相次いだ」 とは、他に何があるというのでしょう?

 しかも、これを搭載したのが駆逐艦だけだとでも? 駆逐艦に2〜4個常備?

 そして、魚雷の航走距離が伸び、速度もあがると、連繋機雷は駆逐隊の武器としては徐々に必要性が薄れ、1927年制式武器から除外された。 (p189)

 魚雷だけの理由ですか? 砲戦距離や、海戦の形態は? 1927年?

 戦時では、水兵の生命の犠牲を覚悟した非常手段・非常訓練ができるが、平時で命をかけた訓練はやりにくい。 (p189)

 一体何を言いたいのか、全く意味不明ですね。 平時の訓練で実機雷を使用するから危ないとでも? 安全措置・対策が講じられていないとでも?

 これらのことについては、本家HPで公開している 『帝国海軍水雷術史』 に記述されておりますので、そちらをご参照下さい。

 それにしても、本当にこの著者は、何も知らず、何も調べていないんですね (^_^)

 そしてこの著者が、海のこと、海軍のことを全く知らず、判ってもいずに、机の上の空想・妄想でものを書いていることがよく判ります。
(この項続く)

(注) : 本項で引用した各史料は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。


posted by 桜と錨 at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年11月17日

連繋機雷 (一号機雷) について (中編−その2)

 続いて、この連繋機雷の実戦での使用例についてです。

 連繋機雷の実戦での戦果は、実は、というか皆さんよくご存じのとおり、明治37年の考案時から昭和期までを通じて、日本海海戦の時に鈴木貫太郎海軍中佐 (当時) 指揮する第四駆逐隊の例、一つのみです。

( その他には、戦果不明ですが、“攻撃した” というならば27日夜戦において、第十艇隊の水雷艇 「第三十九号」 と 「第四十一号」 がそれぞれ1群連 (4個) を敵艦前程に敷設しています。)

 そして第四駆逐隊については 『別宮暖朗本』 でも出てきます。

 午前0時ごろ、連繋機雷をもつ奇襲隊として指定された、鈴木貫太郎率いる第四駆逐隊がナワーリンの前方に現れた。 (p322)

 すでに前編でも書きましたが、第四駆逐隊は 「奇襲隊」 ではありません。 駆逐隊の4隻全部に連繋機雷が搭載されたことにより、駆逐隊及び水雷艇隊の魚雷による夜襲が終わった後に、この連繋機雷による攻撃をすることとされていたものです。

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 そして、午前零時頃?

 第四駆逐隊は、27日午後5時頃の 「スワロフ」 雷撃のあとは、次の27日午前2時半頃の 「シソイ」 攻撃まで敵艦捜索中であり、どの艦も攻撃しておりません。

 これは残されている第4駆逐隊及び同隊各艦の戦闘詳報でも明らかです。 ちょっと長くなりますが、同戦闘詳報から関連部分をご紹介します。

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 鈴木貫太郎はナワーリン撃沈を次のように描写している。

 「(前略)・・・・ そして敵と平行して反対の方向に走りながら 射つ のである。 これは敵の砲撃を避けるのに一番いい方法である。 そうすると見事水雷が当たった。 どうも 水雷の発した 距離を見ると朝霧が六百メートル、三番の白雲はたかだか三百メートルくらいだったから、水雷爆発の衝動を感じた。 ・・・・(後略)」(『鈴木貫太郎自伝』)

 二つの駆逐艦でロープを張り、機雷二個をつなげ、そのまま前方に突撃する連繋機雷攻撃法が見事に成功した例だろう。(188ページ参照) (p322−323)
  (注) : 赤色 は管理人が付けたものです。

 笑えますね。  「射つ」 「発した」 とチャンと書かれているのに、どうしたらこれがロープで曳航する機雷になるのでしょう (^_^;)  多少とも海軍についての知識がある者ならば、そんな解釈は “絶対に” 出てきませんが。

 そして戦闘詳報のとおり 「スワロフ」 攻撃においては、射距離600メートルと300メートルとの2回雷撃しており、この内の後者で1発の命中を確認していますが・・・・ 「ナワリン」 攻撃? 「白雲」?

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( 第四駆逐隊戦闘詳報より )

 前出の戦闘詳報にもあるとおり、第四駆逐隊は 「ナワリン」 を攻撃しておらず、しかも 「白雲」 は27〜28日の海戦では魚雷は1発も撃っていません。 これは鈴木貫太郎自身が提出した報告書です。

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( もっとも、27日の聯合艦隊司令長官の戦闘詳報では、「ナワリン」が第四駆逐隊の連繋機雷で触雷・沈没したとの文が出てきます。 もちろん、これは爾後の分析によって、第四駆逐隊によるものでもなく、また連繋機雷ではなく魚雷によるものとされています。)

  昭和43年初版の「自伝」 だけしか見ておらず、史料による裏付けを何も取っていないんですねぇ、この 「歴史評論家」 さんは (^_^)

 この攻撃のあとの午前2時、鈴木はさらにシソイにも連繋水雷攻撃をかけた。 この攻撃も成功したが、沈没せず、シソイは自力で航行をつづけた。 (p323)

 この 「シソイ」 攻撃が、史上唯一の連繋機雷敷設による戦果です。 が・・・・

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(第四駆逐隊戦闘詳報より)

 この航跡図を見て、どうやったら2隻の駆逐艦でロープを張った攻撃運動になるのでしょう?

 「シソイ」 “にも” ではなく、またこの著者がそうだと言う “トンデモ連繋機雷攻撃法” でもありません。
(この項続く)

(注) : 本項で引用した各史料は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。


posted by 桜と錨 at 19:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年11月18日

連繋機雷 (一号機雷) について (後編)

 この連繋機雷の用法の応用例として出てくるのが、バルチック艦隊北上に備えた津軽海峡防備です。

 これも笑えます。 『別宮暖朗本』 ではこれについて 「津軽海峡封鎖作戦」 と題して、2頁にわたって色々書かれていますが、この2頁まるまる全部誤りです。

 黄海海戦が終了すると、海軍省は本格的にバルチック艦隊対策を検討し始めた。 1904年 (明治37年) 9月、海軍省は極秘裏に津軽海峡封鎖作戦の策案を小田喜代蔵に命令した。 封鎖せよという命令の本旨は防禦水雷敷設にある。 小田は封鎖の方法について昼夜を問わず熟考した。 (p266)
 ( )は管理人付記

 最も困難な点は、津軽海峡の水路部の水深が200メートル以上在り、小田自身の考案になる二号機雷(183ページ参照)が敷設出来なかったことである。 (p266)

 さらに状況次第では連合艦隊は津軽海峡を通過して、高速で太平洋方面に出る必要が生じるかもしれない。 また、できるだけ沿岸水運を遮断したくない。 つまり永久敷設となり、かつ敷設に時間がかかる機雷原という方法はとれない。 (p266)

 津軽海峡防禦の作戦を立案するのは 「海軍省」 でなくて 「海軍軍令部」 なんですが? そして、その要求に応じて必要な人、物、金の算段をするのが 「海軍省」 です。

 それはともかく、小田がこれを命ぜられて従事したなど、一体どこのどの史料にあるんでしょう?

 当時、連合艦隊の艦隊附属敷設隊司令であった小田に命令するなら、“当然” 同時に聯合艦隊司令長官にその旨通知がなければなりません。 少なくとも命令と通知の2通の文書が必要ですが、さてどの文書でしょう?

 そもそも津軽海峡防備には、軍令部は 「二号機雷」 の使用など始めから頭にありません。 水深はもちろんのこと、潮流が早すぎてとても使い物にならないことは自明の理ですし、そもそも 「管制水雷」 ではありませんから。

 “遮断したくない” ために、「二号機雷」 などの 「電気機械水雷」 以前から 「管制水雷」 があるのですから、そんなものは始めから選択肢に入る訳がありません。

 軍令部が考えたのは、明治36年に兵器採用された 「管制水雷」 の一種である沈底式浮揚機雷の 「牧村水雷」 です。 ( 牧村水雷については、本家HPで公開中の 『帝国海軍水雷術史』 をご覧下さい。)

 そして、この牧村水雷が強潮流の津軽海峡敷設に適するかどうかの実地調査を行うこととし、明治37年8月、本機雷の考案者である 牧村孝三郎海軍中佐 にこれを命じました。 当時、牧村は呉水雷団長心得として大連方面の作戦に従事中でしたので、直ちに召還され、この調査に当たります。

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 そしてこの牧村自身の手になる実験により、すぐにこの 「牧村水雷」 は適さないことが判明します。

 しかし、当時まだ他に有効な方法が見つからなかったことから、明治37年10月、大湊水雷団長宮岡直記海軍大佐を委員長とする 「津軽海峡水雷防禦調査委員」 が編成され、引き続きの調査と、併せて 「牧村水雷」 の改良が検討されることになります。 もちろん、牧村もその委員の一人です。

 厳冬期には一時中断されたものの、春になって再開され、度重なる実験が行われましたが、結局は明治38年11月に最終的にこの種水雷では適さずとの結論を得て調査は終了することになります。

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 小田の出した結論は、太平洋に面する汐首岬−大間崎に浮標機雷を敷設し、竜飛岬沖には電気水雷を敷設することだった。 (p266)

 「牧村水雷」 が津軽海峡に適さないことが明らかになってくるにつれ、連合艦隊において実用化された連繋機雷を津軽海峡で用いることについて、軍令部でもその考えが出始めました。

 丁度その頃の 明治38年4月17日、タイミング良く、連合艦隊参謀長から軍令部長に対して、連繋機雷を多数繋げて用いるという次の発案がなされます。

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( 4月17日発信の軍令部長宛上進電報 )

 もちろん小田の名前は出てきません。 もしこれが小田の発案であるなら、その旨記述されているはずです。

 これを受けた軍令部長は直ちに海軍大臣に対して連繋機雷の津軽海峡での有効性を調査することを商議し、そして海軍大臣も直ちに実施することに同意しました。

 そして、早くも翌日の 4月18日 その調査を命じられたのが、軍令部参謀であった 森越太郎海軍中佐 です。

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 森中佐は、大湊水雷団長宮岡大佐及び特務艦 「韓崎」 などの全面協力・支援を得て調査、実験を行った結果、翌5月にはこの 「連繋機雷」 が有効であることを軍令部に報告します。

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 これを受けた軍令部は、バルチック艦隊の津軽海峡通過の懸念が出てきたことにより、直ちに準備できるだけの艦船、器材をもってこの連繋機雷による暫定的な津軽海峡防備の計画を立てることになります。 幸いにして、その発動の機会はなかったわけですが。

 1904年12月、海軍省は津軽海峡防衛隊を発足させ、函館に水雷艇を配属した。 さらに津軽海峡の海流や風向きを徹底的に研究するため、造兵大監種子田右八郎が防衛隊所属となった。 種子田は浮標機雷の線状敷設のため、海峡に対し、どういった角度で、どういった量が適当か調べ上げた。 (p267)

 明治37年12月の 「津軽海峡防衛隊」 って何でしょう? そんなものどこを捜したら出てくるのでしょうか?

 それに、種子田は横須賀海軍工廠造兵部長であり、前出の 「津軽海峡水雷防禦調査委員」 の一人ではありますが、彼自身は津軽海峡での調査そのものに直接は従事しておりません。 これは残された調査関係書類や報告書などに明らかです。

 この調査を実際に推し進めたのは、森参謀と大湊水雷団長宮岡大佐であり、その命により従事した特務艦 「韓崎」 などの艦船です。

 そして宮岡大佐は、明治38年5月19日 に新設された 「津軽海峡防禦司令部」 の司令官を兼務することになり、実際の津軽海峡の防禦任務だけでなく、この連繋機雷や牧村水雷の実験等もすべて担当することになります。

 汐首岬−大間崎線を6ブロックに分け、おのおの6線の浮標連繋機雷を、敵艦進入阻止の命令あり次第、竜飛岬沖に待機している6隻の仮装巡洋艦が前進し、敷設することにした。 また掃海をあざむくため、大量のダミー水雷を浮流させ、さらに副次的手段として海岸砲と組合せ、管制機雷をより浅い竜飛岬沖に張り巡らせる計画が最終案とされた。 (p267)

 「6ブロックに分け」 とはどういう意味でしょう? そして、それにおのおの6線の連繋水雷?

 全く違います。 この著者は本当に 「津軽海峡防禦計画」 を見たことがあるんでしょうか?

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 連繋機雷の敷設方法は、汐首岬〜大間崎間に敷設するのではありません。 その時の海流状況により、長さ約6マイルで幅400ヤード間隔に6線の連繋機雷が、ロシア艦隊が汐首〜大間崎を結ぶ最狭部を通過する予定時刻に、“そこに到達するように” するものです。 浮遊機雷である以上、そんなことは当然のことなんですが・・・・

 しかも、ブロックではなくて、6隻の敷設船が400ヤード間隔の横並びで同時に、長さ6マイルの連繋機雷 x 6線を一斉に敷設します。

 そして長さ約6マイルでは足りない敷設線と陸地との間に、それ以外の敷設艦船を以て擬水雷を大量に撒きます。

 しかも、なぜ敷設艦船が敷設する東口の付近でなくて、わざわざ遠い西口の竜飛岬沖で待機を? 流れの強い海峡の中で? この著者は、本当に全く海というものを知らないのですね。

 松倉川尻 (現在の松倉川河口から函館空港にかけて付近) に “錨泊待機”、必要により函館に入港し、これらから出港するんです。

 ましてや 「竜飛岬沖」 には管制機雷など敷設しません。 津軽海峡で管制機雷が敷設されたのは函館のみで、これは函館港の防禦のためです。

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 もっとも日本海海戦の時機には、“竜飛岬とは反対側” の 「白神岬沖」 に丁度先の牧村水雷がその実験のために2群連敷設されていましたが・・・・ (^_^)

( 牧村水雷の実験は、白神岬の陸上に実験用の仮設衛所を設け、ここで敷設水雷の電纜を接続して管制していました。)

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 さて、「連繋機雷」 という “たった一つのこと” について、 『別宮暖朗本』 で如何に多くの誤りが記述されているかを、4回に分けてご説明してきました。

 そして最後に、

 小田喜代蔵が発見した攻撃法であるが、その主題の一貫性に驚かさせる。 すなわち機雷を攻撃的に使用すること、および管制(コントロール)することである。 コントロールする手段は常にロープであるが、戦艦パブロフスクを撃沈し、津軽海峡を封鎖し、戦艦ナワーリンを撃沈した小田の創意工夫は不朽だろう。 (p323)

 史実とは全く異なることを延々書き連ねた結論がこれですか (^_^)  驚かされたのは、この著者ではなくて、こんな “トンデモ主張” を聞かされる読者の方でしょう。

(この項終わり)

(注) : 本項で引用した各史料は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。


posted by 桜と錨 at 18:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年11月28日

「203地点ニ敵ノ第二艦隊見ユ」 (前編)

 今回は、タイトルどおり、5月27日早朝の 「信濃丸」 によるバルチック艦隊発見時のお話しです。

 何故これかというと、まずは次の 『別宮暖朗本』 の記述をご覧いただきましょう。

 信濃丸が203地点で「敵艦見ゆ」と発見し、無線で報告したのは、ロシア側記録では1時15分ごろとなっているが、『公刊戦史』では4時半とされている。 ロシア側が偽りをなす理由がないので、1時15分が正しいと思われる。 (p291)

 ひどい、余りにもひどい。 私もこれ程のものは他にそうそう見たことはありません。 こんな “大ウソ” が出版物としてまかりとおること自体に、怒りを覚えますね。

 では、この著者に聞きましょう。

 一体、どこの何という 「史料」 に、そのような “ロシア側が偽りをなす理由がない” という証拠の 「記録」 があるのでしょうか?

 そして、もし “午前1時15分” にロシア側に何某かの無線の傍受記録があったとして、それがどうして 「信濃丸」 が発信したものであり、その内容がどうしてバルチック艦隊発見電だと判るのでしょうか?

 電波の方位探知の満足な装備・技術もなく、日本語の略語・暗号解読の充分な能力もないのに?

 そもそも、「信濃丸」が発信したのは、午前4時45分頃発信した第1報は 「敵艦見ゆ」 ではなく、 「敵艦隊らしき煤煙見ゆ」 (実際の電文は 「ネネネネ」 ) であり、続く午前5時頃の第2報が有名な 「203地点ニ敵ノ第二艦隊見ユ」 (実際の電文は 「タタタタ モ203」 ) なんですが? そんなことも知らない、調べていない?

 それ以前の問題として、深夜の午前1時に、煤煙が見えるわけもなく、ましてや灯火管制をした艦隊が見えるわけがありません 。 そんなことはちょっとでも海の上のことを知っていれば “常識” ですが (^_^;

★  ★  ★  ★  ★

 まず、ロシア側の文献からです。

 最初にロシア海軍の公刊戦史である 『千九百四五年露日海戦史』 (海軍軍令部訳) の第7巻から、

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 無線の傍受どころか、午前五時頃の 「信濃丸」 視認まで全く気付いておりません。

 次に 『露艦隊三戦記』 の中の 『最期戦記』 中の記述です。 これの著者はクラド海軍大佐であると考えられています。

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 「和泉」 の接触まで、汽船を疑わしいとは思いながら仮装巡洋艦との識別はありません。 もちろん発見電の電信傍受などありません。

 このクラド大佐には別に 『日露戦争における海戦』 と題する著書がありますが、これにも午前1時15分の 「信濃丸」 バルチック艦隊発見電などは出てきません。

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( 海軍軍令部訳の同書より )

 同じく 『露艦隊三戦記』 の中の 『幕僚戦記』 の中の記述です。 これの著者はロジェストウェンキーの参謀の一人であったセミョーノフ海軍中佐であると考えられています。

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 これも 「信濃丸」 の視認によってバルチック艦隊の被発見とされており、午前1時15分の発見電傍受の記述はありません。

 そして、この著者が 「史料」 であると思っているプリボイ著の有名な戦記小説 『バルチック艦隊の殲滅』 (原題は「ツシマ」) からです。

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 バルチック艦隊発見電の傍受どころか、「信濃丸」 の識別さえ出てきません。

 以上が日本おいてよく知られたもので、これが一般認識と言えるでしょう。 一体どこに午前1時15分の 「信濃丸」 発信電傍受の記録とするものがあるのでしょうか?

 もし、この著者が少なくとも “日本で初めて” そのようなロシア側の記録を発見したと主張したいなら、当然その根拠を明示すべきであり、その責任を果たすべきであったと考えます。

 もちろん、今からでも遅くはないですが。
(この項続く)
posted by 桜と錨 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年11月29日

「203地点ニ敵ノ第二艦隊見ユ」 (後編)

 続いて、日本側の史料・文献からです。

 まず、旧海軍の公式戦史である 『極秘明治378年日露海戦史』 の記述から。

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 次は、日本海海戦初日から3日後 (!) の5月30日付である当の 「信濃丸」 の 「戦闘概報」 から。

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 午前2時45分に病院船 「アリヨール」 の燈火を発見し、近接、確認の後、敵発見を発信します。 その発見電の第1報及び第2報の発信時刻が書かれていませんが、成川艦長が4時40分過ぎ頃に第1報の発信を命じていますので、その直後と考えられます。

 「三笠戦時日誌」 の5月27日の第1ページです。 「三笠」 では 「信濃丸」 の発信電が直接受信できておらず、「厳島」による午前5時5分の転電が第1報となったことが記されています。

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 そして、第6戦隊の 「戦闘詳報」 に添付された 『第六戦隊無線電信発受信傍感報告』 から。

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 「厳島」 の転電では地点符号が抜けていましたので、何度もそれの問い合わせのやり取りがあったことが判ります。
 
 その他、証拠史料を示すならそれこそ雲霞の如くありますが、先の公式戦史のみならず、戦闘詳報や発受信電記録などの残された当時の “あらゆる史料” において 何等の齟齬もありません。

 当然のことですが、この著者のいう午前1時15分の 「信濃丸」 の敵発見電なるものの発信はもちろん、受信・傍受の記録はありません。

 これを要するに、日本側及びロシア側の双方 のものを合わせても、「信濃丸」 の敵発見報告第1報の発信時刻を 5月27日午前4時45分前後 とすることに 何の疑いもありません。

 その上で、この著者はこれですか。

 『公刊戦史』 もロシア側の 『露日海戦史』 も同様であるが、デスクワークに専念する少壮官僚の作文であって、実際的な問題を精神主義的なことに置き換えることが多い。 連合艦隊が日没による砲戦時間の終了を考慮すれば、早めの出撃をなすべきだった、との批判にそなえ、信濃丸の通報時刻を 『公刊戦史』 では、わざと遅らせたものだろう。 (p291)

 はっきり言ってもうここまで来ると、この著者の人格を疑います。

 (いえ、人格を疑う内容は、他にもこの 『別宮暖朗本』 の中には沢山あります。 それらは今後とも引き続き “気ままに” ご紹介していきます。)

 お粗末を通り越して、余りにもひどい。 こんなものがよく出版できるものと。

★  ★  ★  ★  ★

 ちょっと考えてみて下さい。

 この著者は、「203地点に敵の第二艦隊見ゆ」 の発信電が午前4時50分前後でなく、午前1時15分だと言っています。

 とすると、バルチック艦隊は 午前4時50分頃には203地点より30マイル以上先に進んでいる ことになります。

 これが 何を意味するか お判りでしょうか?

 そう、連合艦隊が鎮海湾や竹敷から出撃して、バルチック艦隊と会敵するまでの位置や時刻の関係が総て変わってきてしまいます。

 と言うことは、連合艦隊の “全艦船” の刻々の位置や時刻が総て変わってくると言うことです。 各艦・隊司令部を始めとする総ての 「戦闘詳報」 記載の時刻、位置、そして航跡図などが現在残されているものと違うということです。

 時刻と位置が変わると言うことは、全艦船の針路、速力、航程なども総て変わる、ということはお判りいただけると思います。

 そして、変更を要するのは 「戦闘詳報」 だけではありません、連合艦隊各司令部・全艦艇や軍令部を始めとする総ての電報受信紙、総ての記録紙などもこれに合わせなければなりません。

 これはバルチック艦隊側の記録にも総て同じことが言えます。

 逆に、「信濃丸」 の報告位置を、午前4時50分頃の 「203地点」 でなく、午前1時15分のバルチック艦隊の位置だとしても、上記のことは同じことが言えます。

 もしこの著者が言うように 「わざと遅らせた」 ものであるなら、何れの場合でも、そのためには現在知られているこれら 総ての史料が何等の齟齬もなく改竄されていなければならないはず です。

 しかしながら、現在に残された総ての史料は、午前4時50分頃に「203地点」、で何の疑問も齟齬もありません。 この著者の 「ロシア側記録では1時15分ごろとなっている」 と言う “たった一つ” のもの以外は。 ( もちろん、そのようなものが存在するとして、ですが。)

 これをこの著者はどのように言い訳するつもりなのでしょうか?

( もし改竄が可能だと思う方がおられるなら、「信濃丸」 の航跡図だけでもいいですから、やってみて下さい。 そして深夜の午前1時15分に灯火管制をしたバルチック艦隊を、どのようにしたら発見できるのかを説明してみてください。 加えて、その 「信濃丸」 の発見電を受けて最初に触接した 「和泉」 の対応をどう説明するのかを。)

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 「信濃丸の通報時刻を 『公刊戦史』 では、わざと遅らせた」 の “たった一言” で、どれだけのことが関係してくるのか?

 海戦というものが、いや海、船というものが “少しでも” 判っているならば、この著者の言うような “寝言” “戯言” は決して成り立たないものであることは、すぐに判ることです。

★  ★  ★  ★  ★

 『別宮暖朗本』 の著者は、「ロシア側の記録」 について何の証拠も示していないのですが・・・・

 「1時15分」 「バルチック艦隊発見電」 という文言で、“ハタ” と気が付きました。 まさかこれのことではないですよね?

 前編でご紹介したクラド海軍大佐著とされる 『最期戦記』 の中にある記述です。

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 これと同じ内容が 「1時頃」 という表現でロシア海軍公刊戦史にも出てきます。

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 この著者はこれを勘違い?

 これって、「27日午前1時15分」 ではなくて、「26日午後 1時15分」 なんですが (^_^;  しかも、「信濃丸」 発信電ではなくて、単なる何か判らない無電を誤認識したとされているものです。

 いくら何でも、まさかねぇ・・・・ とは思いますが、この著者がその記録なるものの根拠を示していない以上、既に知られているデータでは これしか考えられません。

 もしそうだとしたら、これはもう “お粗末” どころでは済まされませんが・・・・

 この著者には、明確な証拠史料の提示を求めます。 いや、こんなことを書いて出版する以上、始めから示す責任があったのです。

(この項終わり)

(注) : 本項で引用した各史料は、ロシア側刊行物以外は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。

posted by 桜と錨 at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年12月02日

機械水雷(機雷)の基礎 (1) − 「敷設水雷」

 先に旧海軍の 「連繋機雷」 についてご説明しましたので、今度は一般的な機雷についてお話ししたいと思います。

 その為にはまず、「敷設水雷」 というものから始めます。

 ただし、「水雷」 という語源と起源などについては省略いたします。 それこそ火薬が発明されてそれを軍事的に使用され始めたときに存在するといえるからです。

 例えば、1585年のオランダ独立戦争でのアントワープの戦いにおいて、火薬船を流してパーマ (Parma) 橋の破壊を企てたことを以て 「浮遊水雷」 の始まりとも言うことが可能です。

( 今日においては「敷設水雷」は 「機雷」 の中に分類されますが、本項では一応日露戦争当時の旧海軍に焦点を当てていますので、当時の分類により 「敷設水雷」 と 「機雷」 (機械水雷) とは用語を分けてお話しします。)

 本来 「水雷」 というものは、大きくは次の2つに分けることができます。

   「非可動水雷」 : 一般的に 「敷設水雷」 と呼ばれるもの、いわゆる 「機雷」 など
   「可動水雷」   : 「魚形水雷」 (魚雷) など

 もちろん、水雷というものはその形式も機能も多種多様ですので、これを厳密に分けることは不可能ですし、あまり意味がありません。

 例えば、「牧村水雷」 の様な沈置浮揚式のものはどうするのか? 浮遊機雷はどちらに入るか? などです。

 ただし、『別宮暖朗本』 では

 防禦水雷とは攻撃水雷(魚雷や爆雷)に対する言葉 (p179) (p186)

 旧海軍には 「防禦水雷」、「海防水雷」 という用語はありますが、また 「攻撃水雷」 という言葉はありますが、だからといって「攻撃水雷」という名称の兵器があった訳でも、またその様な区分があったわけではありません。

 そもそも 「防禦水雷」の “防禦” は “攻撃” に対比させた意味ではありません。 単にその当初に港湾防備用として使用したのでそう呼んだだけのことで、尚かつ制式用語ではありません。

 もちろん、水雷を防禦的に使うか、攻撃用に使うかは、単に用法上の問題であって、水雷そのものにそのような区分や違いがある訳ではありません。

 これは例えば、「三四式魚雷」 などを港湾・海峡防備に使用したのを考えてみただけでお判りになるでしょう。

 しかしながら魚雷が導入されたあと、水雷術を教育する時に便宜的に機雷と区別して、教育課程の中で「防禦水雷」「攻撃水雷」という科目を設けた時が一時期ありました。 ただしそれは水雷兵器としての名称でも区分でもなく、単に教育上の都合だけのことです。


 さて、この 「非可動水雷」 を明治期の旧海軍では次のように区分していました。

「管制水雷」   : 「敷設水雷」 あるいは 「有線水雷」 と呼ばれるもので 「海底水雷」、「浮漂水雷」、「電気触発水雷」 に細分されます。


「非管制水雷」 : 「機械水雷」、即ち 「機雷」 と呼ばれるもので、「機械的機械水雷」 と 「電気的機械水雷」 に細分されます。


 また 「海底水雷」 と 「浮漂水雷」 はその発火方式として 「視発水雷」 に分類されますが、「電気触発水雷」 もこの視発方式で使用することが可能です。

 日露戦争のころの防禦水雷は大きく3種類に分けることができる。 @視発水雷、A電気水雷、B機械水雷である。 (p179) (p186) 

 先にも述べましたが、もう既に日露戦争当時では 「防禦水雷」 などとは言っておりません。 「敷設水雷」 です。

 また、「電気水雷」 などという用語はありませんし、これでは何のことか判りません。 「電気触発水雷」 です。 もちろんこれを 「電気水雷」 とは略しません。

 (視発) 水雷には二通りあり、海底水雷と浮標(ふひょう)水雷がある。 だいたいのことろ電線をつなげ、それで発火させるのが普通である。 (p179) (p187) 
(注) : 水色文字は管理人が付加

 「浮標水雷」 ではありません 「浮漂水雷」 です。 そして 「浮標水雷」 は 「浮漂水雷」の一種です。 当然、浮標を用いない 「浮漂水雷」 もあります。

 「だいたいのことろ電線をつなげ」 って、管制用の電纜が繋がっていない視発水雷などありません。

 @視発水雷とは字のごとく、哨兵が見た上で爆発させるものである。 たとえば海峡などに爆発物を設置し、衛所(見張り場)で敵艦が侵入してきたならば、その真下の水雷を爆発させるわけである。 (p179) (p187) 

 また安全を期して、衛所を二ヶ所以上設け、目撃が合致した場合のみ爆破させることもできる。 (p179−180) (p187) 

 どうやって視発水雷を管制するのか? 「甲衛所」 「乙衛所」 の違いは何か? 「視発弧器」 とは何なのか?

 この著者はそんなことは判らないんでしょう。

 目標 (敵艦) の位置を甲、乙2箇所の衛所で 「視発弧器」 (いわゆる 「照準器」 の一種と考えていただけるとよろしいかと) で方位測定をして 「クロス・ベアリング」、即ち2つの方位線の交点をとって決定し、敷設水雷との位置関係を求めるのです。

 そして、目標位置と水雷位置とが合致したところで、その水雷を最終的に 「甲衛所」 で発火させます。

 当然ながら、決して “安全を期して” やるために、2箇所で管制するわけではありません。

 この2箇所で管制するのを1箇所で実施できるように考えられたのが 「単衛所視発弧器」 です。

 海峡突入に当たり敵艦が手前で砲撃をおこない衛所や砲台を事前に破壊することが予想される。 その場合、敵の砲撃位置をあらかじめ予想し、視発水雷を設置することは極めて有効であり、これを大前進水雷と呼んだ。 (p180) (p187) 

 いいえ、「大前進水雷」 などというものはありません。 しかも “大前進” の意味も全く違います。

 日清戦争後に、例えば広島・呉の防禦のために防禦水雷の敷設線を広島湾から豊後水道に “大前進” させることを検討しました。 これには敷設水雷はもちろん海防用魚雷の使用も含まれていましたが、この方式を 「大前進水雷」 などと呼んだことはありませんし、もちろんその様な名称の水雷もありません。

 電気水雷は電線を海底にはわせる必要があり、発見されやすい欠陥がある。     
(p180) (p187〜188) 

 「電気触発水雷」 だけですか? 同じ管制機雷である 「海底水雷」 や 「浮漂水雷」 はどうなのでしょうか?

 「発見されやすい」 とはどういう意味でしょう? これでは全く意味不明ですね。 水雷本体が? それとも電纜、衛所? あるいは、敷設作業が?

 水雷本体は例え「浮漂水雷」であっても、余程近づかなければ判りません。 それに、電纜や衛所などを “隠蔽” することや、敷設作業を “秘匿” することは当たり前のことです。

 この著者には、管制水雷がどのようなもので、どの様に敷設し、どの様に管制するのかという “実際” は何も判っていないからでしょう。

 外国では防禦水雷(Mine)を大きく管制型と接触型(コンタクト・マイン又は発明者からハーツ・タイプ)に分類する。 日本でいう電気水雷と視発水雷が管制型であり、機械水雷が接触型である。 (p180) (p188) 

 「電気触発水雷」 は 「管制水雷」 であると同時に 「触発式」 でもあります。

 そもそも 「防禦水雷 (Mine)」、「接触型」 って何でしょうか? こんな用語さえキチンと使えない。 “外国では” などとさも判ったようなことを言う以前の問題です。

薩英戦争では薩摩藩が錦江湾に、日清戦争では清国が旅順湾口に、電気水雷を敷設した。 (p180) (p188) 

 薩摩藩が敷設したのは明治期になって言うところの 「海底水雷」 の一種であって、「電気触発水雷」 ではありません。

 「電気水雷」 などと誤った言葉を使うからこうなるのです。 それとも、もしかするとこの著者は 「電気触発水雷」 がどの様なものなのか知らずに書いているのでしょうか?

 また、日清戦争では、旧海軍は佐世保、長崎、呉(広島湾口)、東京湾口、横須賀、竹敷に 「電気触発水雷」 を含む敷設水雷を敷設していますが、こんな肝心なことは言わないのでしょうか?

 米西戦争でスペインがマニラ湾に (電気水雷を) 敷設したが、爆発しなかった。(100ページ参照) (107頁参照) (p180) (p188) 
(注) : 水色文字は管理人が付加

 何の脈絡もなく、突然として米西戦争の事例が出てきますが、日露戦争以前の敷設水雷の例を挙げるなら、何故米国の独立戦争や南北戦争での活躍が出てこないのでしょう?

US_old _mine_01_s.jpg   US_old _mine_02_s.jpg
( 左 : 米国独立戦争当時のブッシュネル (Bushnell) 考案の 「Keg Mine」
  右 : 南北戦争において南軍が使用した敷設水雷(機雷)             )

 少なくともこれらをキチンと押さえてさえおれば、この著者による日露戦争における敷設水雷や機雷の使用について、突拍子もない主張にはならないはずです。

 もっとも、もし 「電気触発水雷」 だったとしても、それは船が当たらなければ爆発しないのは当然のことです。

 スペイン側が 「電気触発水雷」 を敷設し、それが “当たったのに” という記録でもあるのでしょうか? 例によって何等の根拠も示されていませんが。

 その一方では、何故かこの著者は言及していませんが、この時の海戦では2発の敷設水雷が発火しています。 遠くて当たりませんでしたが。 こちらの方はハッキリしています。 ( 「A History of Naval Tactics from 1530 to 1930」 (S. S. Robison、USNI、1943) などによる。)

 以上について、旧海軍における詳細は本家HPの 『水雷講堂』 で順次公開中の 『帝国海軍水雷術史』 の中にありますので、そちらもご参照下さい。

(この項続く)

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(参考) : 現代では、当時の 「敷設水雷」 の類も総て 「機雷」 として取り扱われ、次のように分類されるのが一般的です。


(1) 水中状態による分類
     「繋維機雷」 (moored mine)
     「沈底機雷」 (grounded mine)
     「浮遊機雷」 (drifting mine)

(2) 発火方式による分類
     「触発式」(Contact) :
         a.電気化学を応用のもの (electro-chemical)
         b.海水電池を利用したもの (galvanic)
         c.機械的装置を利用したもの (mechanical)
     「感応式」(Influence) :
         a.磁気式 (magnetic mechanisms)
         b.音響式 (acoustic mechanisms)
         c.水圧式 (pressure mechanisms)
     「管制式」 (Controlled)
     「複合式」 (Combined usages)

(3) 敷設機関による分類
         a.水上艦艇より敷設するもの
         b.潜水艦より敷設するもの
         c.航空機により敷設するもの


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次へ : 「機械水雷 (機雷) の基礎」 (2) − 「機雷」 一般 (前編)


posted by 桜と錨 at 18:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年12月05日

機械水雷(機雷)の基礎 (2) − 「機雷」 一般 (前編)

 敷設水雷に続いて、「機械水雷」、即ち 「機雷」 の一般的なことについてお話しします。

「機雷」 と言うものの、現代における分類については、前回の末尾に (参考) として付記させていただきました。

 この分類のうち、日露戦争当時においては、単に 「機雷」 と言えば 「繋維機雷」 のことを指しています。 勿論、それ以外のものを意味する場合もありますが、非常に少ないことは頭に置いてください。

 さて、一般的な繋維機雷がどの様なものかは、皆さんよくご存じとは思いますが、簡単にご説明しますと、その典型的な例は次のようなものです。 これは当時でも現在でも基本的には変わりません。

moored_mine_01_s.jpg

 海底に 「繋維器」 が置かれ (敷設され) ます。 これは機雷を一地点に留め置くための重しであり、かつ敷設前の繋維索の格納箱であり敷設時のその展張装置でもあります。

 そこから 「繋維索」 が展張されて正浮力を有する機雷本体、即ち 「機雷缶」 を繋ぎ止めています。 そして、海底の繋維器からの繋維索の長さ、即ち逆に言うと機雷缶の水面からの深度、を決めるのが、後からお話しする 「深度索」 と 「深度錘」 です。

 機雷缶には触発発火用の 「触角」 が付いていますが、日露戦争前後の旧海軍の機雷はまだこの触角方式ではありませんで、この点はロシアの機雷に遅れをとっていた事項と言えます。 詳細については本家HPの 『帝国海軍水雷術史』 をご覧ください。

 そこで、『別宮暖朗本』 に入りますと、

 B機械水雷の略が機雷である。 ただ日露戦争当時の機雷は、水深100メートルを超えては、なかなか敷設できなかった。 このため大型艦は、水深の浅い場所を通航すること自体を避けるようになった。 (p180) (p188) 

 ここで言う機雷が 「繋維機雷」 のことであることをこの著者は何の断りもしておりませんが・・・・ それはともかく、

 当時の旧海軍の繋維機雷は、その主力である 「二号機雷」 では100mどころか、たったの35ファザム (=約64m) でしかありません。 これに機雷缶の最大深度4.5m (=深度索の索長15フィート) を加えても、最大約70m程度の水深の場所にしか敷設出来ませんでした。

 と言うよりは、それ以上の水深のところへも敷設することは可能ですが、繋維索の長さが35ファザムでしたの、肝心な機雷缶そのものが有効深度にならない、ということです。 つまり、物理的な敷設の可・不可ではなく、敷設しても無駄になるだけのことです。

 何故その長さの繋維索かと言いますと、それは敷設前にその繋維索を収納している繋維器の大きさや重量などの問題や、深いところに敷設しても繋維索が長いと海流などによる機雷缶の振れる範囲が大きくなる (=機雷缶の位置、深度が変わる) などの問題があるからです。

 この問題は、「繋維機雷」 である以上、日露戦争当時であろうが現代であろうが同じです。

( ただし、現代では例えば機雷缶から上にセンサーとなる索を浮きに付けて上に伸ばすなど、繋維索長を長くしなくても良いような工夫をしていますが。)

 ところで、

 吃水の深い大型艦艇が水深の浅い場所、あるいは陸岸に近いところを避けることは、別に機雷があろうがなかろうが 当たり前のことで、船乗りの常識です。

 特に、測量がまだ不十分で、正確な海図が完備していなかった当時のことを考えれば、当然のことと言えます。

 したがって、大型艦艇が浅いところや陸岸近くを通るのは、港や狭い海峡への出入りなど、必要に応じて、あるいは止むを得ない場合ですから、この著者の主張は全くの見当外れです。

 この著者が、船というものを如何に知らない、判っていないかが、これだけでもよく判ります。 私達船乗りからすれば、何を寝ぼけたことを、と思います。

 機雷は非常に危険な武器である。 まず敵味方を区別しない。 次に機雷は海流などにより移動することがある。 ワイヤーから切断されれば海上を浮流する。
 (p181) (188) 

 だからどうだと言うのでしょうか? 判ったようなことを書いていますが、当たり前のことに過ぎず、一体何を言いたいのか全く意味不明です。

 「敵味方を区別」 しなくても、我は自軍機雷の敷設位置を知っていて、そこを避ければよいだけのことです。

 また 「海流などにより移動」 とはいっても、ズルズルとあちこちの海域へ放浪して回るようなものではなく (まさかこの著者はそう思っているのではないでしょうね?)、敷設位置から多少はずれるということです。

( 「浮流機雷」 についてのこの著者の “トンデモ” は、機雷掃海についての時にお話しします。)

 そんなことよりも、

 海軍にとって最も肝心なことは、当時の機雷はこれを “取り扱う者が” 危険であった、と言うことです。

 つまり、機雷を使用可能状態に組立・整備した後、特に敷設作業時に、それを担当する者に対する安全機構・装置が不十分だったということです。

 このことが、日露戦争以前では機雷を大規模に使用する、あるいは計画するに至らなかった理由の一つになります。

 このため、旧海軍では明治36年兵器採用の 「二号機雷」 において、それまでの 「断縁器」 に加えて、更に 「隔時器」 という二重の安全装置を考案してこれを機雷缶に装備したことによって、やっと何とか取扱及び敷設時の安全が確保できるようになりました。

( 二号機雷については、この次にまたお話しします。 ここでは取りあえずその安全装置のことのみで。)

 そしてこの安全装置付きの機雷缶と、後でご説明する小田喜代蔵の発明になる 「自働繋維器」 との組み合わせによって、ここに “初めて機雷というものを大規模に使用することが可能” になったのです。

 こんな肝心なことが抜けていれば、何故旧海軍が日露戦争で機雷の大規模かつ攻勢的な使用に踏み切れたのか、が全く理解できません。

 この著者は、このことを知らない、判らないのか、あるいはこの後で出てきます小田喜代蔵の手柄話しをでっち上げるために無視したのか、のどちらかです。 あるいはその両方か。
(この項続く)

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posted by 桜と錨 at 12:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年12月06日

機械水雷(機雷)の基礎 (3) − 「機雷」 一般 (中編)

 日露戦争当時の繋維機雷一般についての続きです。

 日露戦争後3年たっても渤海湾や黄海における民間船舶の触雷事故はあとをたたなかった。 (p182) (p189) 

 これも何を言いたいのか不明です。 単に、繋維索が切れて浮遊機雷になると危険なもの、と判ったふりをしたいだけにしか見えません。

 前回お話ししましたように、旧海軍はこの日露戦争直前に “大規模” な 「繋維機雷」 の取扱・敷設が可能な状況となり、そして実際にその実戦使用に踏み切りました。

 そのために繋維索が切断して 「浮流機雷」 となるものも増えました。 当然のことです。

 ロシア側はほとんど史料がありませんので、実態についてはよく判りませんが、戦中及び戦後に極めて多数の浮流機雷が発生した事実からも、同じように大規模な使用を行ったとは間違いありません。 また、始めから 「浮遊機雷」 としてワザと流したものも相当あるものと考えられます。

 そして更に当然のこととして、当時の繋維機雷にはその繋維索が切れて浮流機雷となったときの安全措置は講じられていませんでした。

 だからこそ、そのことが原因となって、日露戦争後の明治40年 (1907年) にハーグで開かれた国際平和会議第8回総会において 『 自動触発水雷ノ敷設ニ関スル条約 』 というものが出来たのです。 その第1条は次のとおりです。

「第一条 左ノ件ハ之ヲ禁ズ

  一 投入者ノ監制ヲ離レテヨリ一時間ノ最大限内ニ於テ無効トナルガ如ク製作セラレアラザル無繋維触発水雷ヲ敷設スルコト

  二 繋維ヲ離レタルトキ無効トナラザル繋維触発自働水雷ヲ敷設スルコト

  三 不命中ノ時無効トナラザル魚形水雷ヲ使用スルコト」


 浮流機雷となった自軍敷設の繋維機雷による味方艦艇の不用意な触雷被害を防止するためと、この条約の規定を受けたことにより、日露戦争後に旧海軍では早速この機能を有する 「四号機雷」 を開発し、更に大量に保有する 「二号機雷」 を改造してこれを付加した 「三号機雷」 としたのです。

 このことを言わなければ、何の意味もありません。

( 因みに、先にご説明した浮遊機雷の一種たる 「連繋機雷」 は、友軍に対する被害防止のために、明治37年の考案当初からこの機能を持っていることはご承知のとおりです。)

 (機械水雷は) 海底に重しをおき、そこからワイヤーを上に伸ばし、機雷本体につなげてある。 水面下に敷設するのが普通であるため、事前に水深をチェックし、ワイヤー長を調節しておく。 (p182−183) (p190) 
注):( )は管理人の付記

 敷設にあたっては、エレベーターで上甲板まで上げ、そこで一定時間後に作働するよう遅延スイッチを押し、レールで海中に投下する。 小田は、海中投下後ワイヤーが自動的に伸びるよう 「小田式自動繋維器」 をまず発明した。 (p183) (p190) 

 水面下に敷設しない繋維機雷などあるのか? とか、「重し」 「遅延スイッチ」 「エレベーター」 ? などというツッコミはさておき、

 皆さんは、上記のこの著者の説明で小田喜代蔵が考案したこの 「自働繋維器」 がどの様なものなのか、お判りになりますか?

 事前に水深に合わせて調整したワイヤーを自動的に伸ばすだけ?

 その様なことは 「繋維機雷」 なら当たり前のことです。 おそらくこの著者自身もその実態を知らないのでしょう。

 では何が 「自働」 なのか?

 この自動繋維器が考案されるまでは、確かにこの著者の言うように事前に敷設地点 (箇所) を決めて、その水深に合わせて繋維索の長さを、機雷一つ一つごとに正確に調整しておく必要がありました。 A点に敷設する1番機雷は何m、B点の2番機雷は何m・・・・ という具合にです。

( ここで言う 「水深」 とは、単に海図に示されたものではなく、その場所の海流や潮汐などを考慮して、機雷缶が正確に計画深度になるような繋維索の長さを決定するための水深という意味です。)

 このため、敷設時には計画した位置一つ一つに、その水深に事前設定した機雷を正確に敷設しなければならないなど、大変な手間暇を要しました。 先の例では、1番機雷は正確にA点に、2番機雷は正確にB点に、という具合にです。

 当たり前のことですが、水深や海底地形、海流、潮汐などが正確に分からない海面には使用できません。 いえ、使用できない、と言うよりは、敷設しても機雷缶の深度が不明・不正確となるので有効性が期待できず無駄になる、と言う意味です。

 したがって、当然ながら繋維機雷を敷設するのは、それらが詳しく判っている自分の港湾などの防御用にしか使えなかったわけで、水深や海底地形などの不明な敵前海面などに “有効に” 敷設することは不可能でした。 だからこそ、当初は 「防禦水雷」 という呼称の範疇に分類されていたのです。

 そこで、繋維索の全長以内の水深のところであるならば、事前にその敷設地点の正確な水深や海底地形が判らなくても (=無関係に)、敷設する機雷の総てについて、その機雷缶が予め設定した深度 (例えば水面下4mならその4m) に一律になるように、その時その時、その地点その地点での水深に応じて、投入後の繋維器自体で個々の “繋維索の長さを自動的に設定” する装置が考案されました。 これが 「自動繋維器」 です。

 当然の流れと言えば当然です。 既知の自分の港湾などに敷設するのでさえ手間暇がかかって、面倒くさいのですから。

 したがって、考案の当初から攻撃用を念頭に置いてのもの、というわけではではありません。

 小田喜代蔵海軍大尉(当時)が 「自働繋維器」 を考案し兵器採用されたのは明治31年のことですから、これはその時機を考えてみただけでも明らかです。 繋維器はできても、機雷そのものにまだ大規模使用に耐えるものがありませんでしたし、その要求も大きく無かったのですから。

 そのための機雷、即ち前回お話しした 「二号機雷」 が出来たのは明治36年になってからのことです。 それも、日露開戦が目の前に迫ったために急遽、です。

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 どうもいけません。 書き始めると、どんどん長くなってしまいます。 この項も前・後編の2回のつもりでしたが、3回に分けることに (^_^;

 この 「自働繋維器」 の原理については次回でご説明します。
(この項続く)

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posted by 桜と錨 at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年12月09日

機械水雷(機雷)の基礎 (4) − 「機雷」 一般 (後編)

 さて、この自働繋維器の原理は非常に単純で、下図のとおりです。 現在の繋維機雷でも基本的には同じです。

moored_mine_theory_01_s.jpg

 (A) 機雷を投下すると、(B) 〜 (D) 先ず海面に浮かんだままで繋維器に装備した深度索が下に伸びます。 この深度索の長さ (d) が、機雷缶の海面下の深度と同じです。

( 詳細なデータや図面が無いので確認できませんが、どうも小田喜代蔵が考案したものはこの深度索は展張式ではなく、繋維器に固定されたものだったようにも思えます。)

 (D) 〜 (E) 深度索を伸ばし終わると、繋維器に注水して繋維器は繋維索を伸ばしながら沈みます。 この段階では機雷缶はまだ海面に浮いています。

 そして、(E) 深度索の先端にある深度錘が海底に着くと、この段階で繋維器は繋維索を伸ばすのを止めます。 (F) あとは繋維器と一緒に海面上の機雷缶も深度索の長さ分だけ沈むことになります。

 (G) すると繋維器が海底に着いた時には、機雷缶は深度索の長さ (d) に等しい海面下深度にあることになります。

 即ち、深度索の長さ (=機雷缶の深度) さえ決めておけば、繋維索の伸ばす長さ、即ちそれの元になる敷設地点の水深は、予め決める必要もなければ、知る必要もありません。

 まさに 「コロンブスの卵」 的着想であったわけです。

 つまり、この様な極めて単純な原理のものでありながら、これによって事前に個々の機雷の敷設位置の水深や海底地形の正確な情報を確認する必要がなく、それによる繋維索の長さの調整も必要ありません。

 敷設予定海面の概略の水深と底質など、即ち敷設に適する海底かどうかさえ判っていれば、それでも十分なわけです。

 また実際の敷設位置やその水深に当初計画と誤差があっても、総ての機雷缶を正確な計画深度に “自動的に” 敷設することが可能となりました。

 即ち、敵前の未知の海面にも大規模・迅速かつ適切な機雷缶深度で敷設することが可能となったのです。 つまり機雷を 初めて 大規模に “攻勢的” に使えるようになったのです。

 これは 機雷戦の発展において、極めて重要な意味を持つ ことになることはご理解いただけると思います。 実に “偉大な” 考案だったわけです。

 この肝心なことが抜けていると、日露戦争における旧海軍の旅順やウラジオストックに対する大規模な機雷敷設戦の実態について、

 日露戦争が勃発すると、港内に潜み、たまにしか出てこない旅順艦隊の戦艦をなんとか一隻でも撃沈することはできないか、と小田は考えた。 現在からみれば、当然のように聞こえるかもしれないが、当時としては破天荒な考えだった。 (p183) (p191) 

 ペロトパブロフスク撃沈は、機雷戦術に新局面を開くものだった。 とにかく、機雷を攻撃的に使用するという発想はそれまでの世界の海軍界にはなかった。 (p187) (p194) 

 など、何の意味も無い文章であることがお判りいただけるでしょう。


 「繋維機雷」 の一般について3回に分けてお話ししましたが、要するに、この著者は当時の繋維機雷について、肝心なことは何一つまともに述べていない、いやスッポリと抜け落ちていると言うことがお判りいただけたかと。

 何も知らない、何も判らない、何も調べていない、からでしょう。

 次回は、小田喜代蔵と機雷の関係について、です。
(この項続く)

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2009年12月10日

機械水雷 (機雷) の基礎 (5) − 小田喜代蔵と機雷 (前編)

 小田喜代蔵という人物の功績が旧海軍史に現れてくるのは、先に述べましたように、明治31年に 「小田式自働繋維器」 という個人名がついた兵器が制式採用されたことによります。

 これは明治36年の 「二号機雷」 及びそれを改造した明治41年の 「三号機雷」 の繋維器として使用されました。 そしてその後、改良型の繋維器が開発されるにつれて、この繋維器はその形から 「円錐形自働繋維器」 と呼ばれるようになりました。

 この自働繋維器の原理は 「コロンブスの卵」 的なものであり、かつこれの考案により 「繋維機雷」 が攻勢的大規模使用に繋がっていったことは確かです。

 ただ、これが小田の完全な考案か? というと、残念ながらそうではありません。

 小田の考案は、イタリアの工場見聞報告でもたらされた情報と、英海軍の水雷書を参考としたものであり、彼独自の発想というわけではありません。

 そして、

 その後1896年、二号機雷を発明した。 これは、発火装置を除いて現在使用されている機雷と同じものである。 (p183) (p190) 

 では 「旧一号機雷」 とは何なのか? とか、現在使用されている機雷と同じ、とは何をもってのことか? というツッコミはさておき、

 「二号機雷」 の考案は 小田ではありません。 武部岸郎 です。 しかも1896年 (明治29年) などと、一体どこの何 を見たら出てくるのか。 明治36年 (1903年) です。 これについては旧海軍の公式史料 『帝国海軍水雷術史』 に詳細に記されています。

 この二号機雷は、武部岸郎考案の機雷本体 (機雷缶) と、小田の考案になる 「小田式自働繋維器」 との組合せになるものです。 だからといってこの二号機雷を 「小田式機雷」 などとは決して言いません。 それはそうでしょう、繋維器は機雷本体とは別のものですから。

 この二号機雷の主要目は 『帝国海軍水雷術史』 にも一部記述されておりますが、別の昭和期の旧海軍史料によると次のようなものです。

ijn_mine_type2_01_s.jpg

 加えて、既出ですが、

 小田は機械水雷を2種類考案した。 一号機雷と二号機雷であり、一号機雷が通称 「浮標機雷」 と呼ばれるものである。 (p266) (p276) 

 一号機雷と二号機雷、って・・・・ 当時の 「連繋水雷」 が 「一号機雷」 と改称されたのは大正5年のことであり、「二号機雷」 の採用は明治36年であることは、既にお話ししたとおりです。

 この著者、その大正期のこの機雷の改称のことと、当時の元々の通称 「旧一号機雷」 との区別さえ知らない、判らないんでしょう。 ですから、何の断りもなく2つを平気で並べている。

 そして、後に 「一号機雷」 と改称されることになる “当時の” 「連繋水雷」 については、先の5回にわたる連載の中で、この機雷の発案・考案も、そしてその津軽海峡での使用についても、この著者が小田の手柄と書き立てるトンデモ話しの総てが 真っ赤なウソ であることを証明したところです。


 これを要するに、小田自身は全く機雷そのものの考案、発明はしておりません。 僅かに、日露戦争後に機雷の発火方式を改善する 「傾倒式」 というものでは一部寄与しているだけです。

( 因みに、当該本ではありませんが、ウィキペディアなどで流布されている “ 「小田式機雷」 の発明者” などというのも誤りです。 そのような機雷はありません。 )

 そして、

 小田は機雷敷設船蛟竜丸も自ら設計した。 (p183) (p191) 

 「蛟龍丸」 は徴用船ですから、小田が設計するわけがありません。 ましてや彼は造船屋ではありませんから、出来るはずがありません。

 「蛟龍丸」 は、当初日露開戦と同時に他の船舶と同様に徴用され、佐世保において仮装砲艦として艤装をされた上、改めて現地において機雷敷設用の艤装が施されたものです。

 この現地における機雷敷設用の 「流し式落下台」 の設置については、小田を司令とする連合艦隊附属敷設隊の手で実施しましたので、まあ彼がこれに全く関与していないとまでは言えませんが。

 しかし、下図に示すように、レール式の簡単な現地部隊工作のものを船に取り付けただけですので、“設計” というようなものでもありません。

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 もし、これがこの筆者が特筆するほど重要なものなら、同時に使用したこの団平船の方はどうなのか?

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 そして徴用船を改装した 「水雷沈置船」 「仮装砲艦」 などの大小多数の特設機雷敷設艦艇については?  バルチック艦隊を迎えるに当たって多量の連繋機雷搭載用に改装された駆逐艦 「暁」 (旧ロシア駆逐艦 「レシーテリヌイ」 ) は?

 この著者は、この様な自分に都合の悪いことには、全くの “ダンマリ” です。
(この項続く)

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2009年12月11日

機械水雷 (機雷) の基礎 (6) − 小田喜代蔵と機雷 (後編)

 それでは小田は 「自働繋維器」 を考案しただけなのか?

 いえ、実は小田の大きな功績は、日露戦争における連合艦隊の 「艦隊附属敷設隊」 ( 後に 「艦隊附属防備隊」 と改称された ) の指揮官 (隊司令) としての任務完遂にあります。 この著者は全く無視して、触れていませんが。

 この艦隊附属敷設隊というのは、開戦時からずっと根拠地にあって、敷設水雷・機雷のみならず海底電纜も含む、いわゆる “敷設” に関する一切合切の総てを担当しました。

 当然、港湾防備用の水雷敷設を含む各根拠地の防備施設の設置及び運用もその主要任務ですし、これには陸上の衛所や防備砲台などの建設も含みます。

 特に、敷設水雷・機雷の調整・整備と艦艇への供給、現地での改良・改造と実験などは、極めて多忙な業務です。 もちろんそれを取り扱う人の問題もあります。

 この艦隊附属敷設隊で準備して各艦艇へ供給した敷設機雷は、 明治37年中だけでその総数約1600個に登り、これに明治37年末〜38年にかけての数百個 (詳細な数は不明) の連繋機雷が加わります。

 これ以外に、敷設隊自らが敷設作業を実施した根拠地等防備用の各種敷設水雷があります。 これだけでも大変な業務です。

 そして、小田自身はその敷設に関する専門技能・知識を買われたこそ艦隊附属敷設隊司令に選抜され、それに関する幕僚として東郷の元で働いたのです。

( 旗艦艦長や後方支援部隊などの指揮官は、正式名称はありませんが、その専門分野について艦隊司令部の特別幕僚として機能し、司令長官を補佐します。 このやり方は現在の海自でも変わりません。)

 また、小田自身は、東郷の命により 「ペトロパブロフスク」 を撃沈することになる明治37年4月12日の旅順口沖への第1回目と、同4月29日のウラジオストック港外への第1回目の、両方の機雷敷設作戦に従事しています。

 両方とも専門職の部下を引き連れて、旅順口沖では仮設砲艦 「蛟龍丸」 に “同艦の” 敷設指揮官として、またウラジオストック沖では敷設に関する指導・補佐役として 「日光丸」 (直接の指揮官は 「日光丸」 艦長) に、乗艦したのです。

 つまり小田喜代蔵は、“敷設” ということに関し、連合艦隊の作戦を支える縁の下の力持ちとして、実に見事にこれをやってのけたのです。 これは大きく評価されてよいと思います。


 ここまでお話しすると皆さんにもお判りいただけるように、実はこの小田喜代蔵は、この著者が言うような機雷そのものの専門家ではなくて、その機雷の 敷設に関する専門家 なのです。 『別宮暖朗本』 の記述とは全く違う人物であることがお判りいただけた思います。

 したがって、

 小田喜代蔵は防禦水雷を攻撃的に使用できないかと考えた。 (中略) 小田は、電気水雷は防禦目的にしか利用できないとして早くから棄て、研究対象を機械水雷一本に絞った。 (p182) (p190) 

 ではありません。 これでは全く当を得ておりません。

 彼は機雷そのものは一つも考案していません。 そして前回お話ししたように、彼が考案した自働繋維器は、当初から攻勢的使用を念頭に置いたものではありません。

 防御用、攻勢用ということには関係なく、彼は “敷設の専門家” なのです。

 発明してもいないものを発明したと言われ、やってもいないことをやったと褒めちぎられ、揚げ句に自分の本来の功績は何等語られていない、では小田喜代蔵もさぞあの世で苦笑いしていることでしょう。


 そして、その機雷敷設についてです。

 ペロトパブロフスク撃沈は、機雷戦術に新局面を開くものだった。 とにかく、機雷を攻撃的に使用するという発想はそれまでの世界の海軍界にはなかった。 (中略) そして、小田の発明になる線状敷設も残った。 (p187) (p194) 

 ロシア海軍にも小田に匹敵する水雷の鬼がいた。 機雷敷設艦アムール艦長のイワノフ中佐である。 イワノフも小田と同様に、攻撃的に機雷を使用できないかと、密かに考えていた。 イワノフの回答は「機雷原」だった。すなわち、面をもって圧倒的な量の機雷を敷設する。 (p187) (p194) 

 この著者、一体何を言いたいのやら。

 一般的な意味での 「機雷」 で言うならば、その攻撃的に使用する発想も実際の使用例も起源時に遡れるほどあります。 そんなことはちょっと戦史を紐解けば明らかかと。

 またこの 「機雷」 を 「繋維機雷」 のことだとするなら、当然そのように記述しなければ、意味が違ってしまいますし、またその 「繋維機雷」 が大規模かつ攻勢的に使用可能になったのが何時、どうしてなのかを書かなければ、機雷戦について語る上ではおかしなことになることは前回ご説明したとおりです。

 ましてや “密かに考えていた” など笑止ものです。

 そして、そもそも 「繋維機雷」 というものはどのように敷設するのか?

 「敷設水雷」 のような管制式のものであるならば、その管制用の電纜を取付、これを陸上の衛所まで伸ばさなければなりませんから、一つ一つの敷設が大変手間暇のかかるものになります。

 しかし、繋維機雷では、先にご説明したその構造・構成をご覧いただけば、敷設艦船から計画に従って連続して次々に投入していけば良いことはお判りいただけると思います。 自働繋維器が出来てからは、特にそうです。

 したがって、1個だけの機雷を敷設するならともかく、1隻で複数個を連続して敷設するなら “線状” になるのは当たり前 のことです。

 そして “面” を要求するならそれは複数の敷設線をもって する以外には敷設の方法がないことは、これも言わずもがなです。

 もちろん “面” と言っても、敷設海面が (多分この筆者の頭にある) 広い “四角” や “楕円” になるわけではありません。 そんなことをしても効果は上がらず、機雷が無駄になるだけです。

 “厚い帯状” でなければなりません。 要するに待ち受け幅が広くなるように、です。 当然のことです。 この著者は言っていませんが。

 また、線状にする以上、機雷の効果を考えれば、その敷設間隔が適切でなければならないことも当たり前です。

 別に何もこの著者が判ったような振りをして “小田の結論は” とか “イワノフの回答は“ などは全く言う必要もないことで、誰でも考える “常識” です。

 これ ↓ は旧海軍が旅順港沖に敷設した全繋維機雷と擬似機雷の敷設実績ですが、これが小田の考えた “線状敷設” の実績だとでも?

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 この著者が機雷そのものについてはもちろん、機雷戦、機雷敷設というものの実態を全く知らない、全く判らないで書いていることが明らかです。

 そして小田喜代蔵という人物についてさえ、まともに調べていないことも。

 次回は、この小田喜代蔵に関連して、更にこの 『別宮暖朗本』 のトンデモ話しの傑作の一つ、「ペトロパブロフスク」 撃沈のお話しです。
(この項続く)

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posted by 桜と錨 at 18:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年12月12日

機械水雷 (機雷) の基礎 (7) − 「ペトロパブロフスク」 撃沈 (前編)

 さていよいよこの項の最後、旧海軍の旅順港前面への機雷敷設による 「ペトロパブロフスク」 撃沈です。

 皆さんよくご存じの通り、この件は明治37年4月13日、日本海軍の誘致作戦に釣られて出港してきた 「ペトロパブロフスク」 が、その前夜に特別に編成された部隊によって敷設された 「二号機雷」 に触れて爆沈したものです。

 同艦に座乗していた太平洋艦隊司令長官のマカロフ中将がその幕僚ともども戦死したことでも知られています。

 そして、これがこの後12月6日まで続く旅順港沖に対する攻勢的大量機雷敷設の始まりとなります。 この著者は触れていませんが。

 さて、そこでこの時の機雷敷設の作戦についてですが、敷設作戦そのものについては、4月7日付の 「聯隊機密第286号」 で次のとおり下令されています。

GF_ord286_02_s.jpgGF_ord286_01_s.jpg
( 訂正は、4月8日付の 「聯隊機密第286号の2」 によるもの )

 そしてこの敷設作戦は、同日付けで出された 「聯隊機密第287号」 に基づく、連合艦隊主力による旅順艦隊誘致作戦と一体のものであることを忘れてはなりません。 これもこの著者は何も言っていませんが。

 敷設部隊の編成などは、次のとおりです。

   第四駆逐隊 (隊司令 長井群吉 海軍中佐) :
        「速鳥」 「春雨」 「村雨」「朝霧」 団平船2隻
        機雷 : 団平船各8個、計16個
   第五駆逐隊 (隊司令 真野源次郎 海軍中佐) :
        「陽炎」 「叢雲」 「夕霧」 「不知火」  機雷 : 各艦3個、計12個
   第14艇隊 (隊司令 桜井吉丸 海軍少佐)  :
        「千鳥」 「隼」 「真鶴」 「鵲」  機雷 : 「真鶴」 「鵲」 各2個、計4個
   「蛟龍丸」 : 
        臨時乗組指揮官 : 艦隊附属敷設隊司令 小田喜代蔵 海軍中佐
        機雷12個

   敷設機雷合計 44個

 そして、計画された敷設位置は各隊毎に別れておりまして、次のようになっています。

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 この敷設については、上記の聯隊機密にあるように、各隊の指揮官が敷設要領など総てをそれぞれで決めることとされています。

 ですから、この時第四駆逐隊では団平船 (だん べい せん) 2隻を使いましたが、これの計画は小田ではなくて長井です。 そして、団平船に傾斜板張り甲板を敷き、その上に機雷落下装置を設けたのも長井です。

 その証拠の一つとして、第四駆逐隊の戦時日誌から当該部分をご紹介します。

4dd_m3704_02_s.jpg4dd_m3704_01_s.jpg

 つまり、4月7日の聯隊機密286号の発令以前に、4月1日までには連合艦隊司令部から各隊司令に指示が出されて、それを受けて各隊で計画と準備を行っております。

 また、小田が 「蛟龍丸」 に乗ったのは、敷設作戦全体の指揮を執るためではなく、単に仮設砲艦である 「蛟龍丸」 に敷設についての指揮官と専門職の下士官兵がいなかったからです。

 実際、敷設海域が各部隊ごと異なりますので、小田にその全体の指揮が執れるわけがありませんし、それよりも何よりも、小田は第四駆逐隊司令の長井中佐よりも後任 ですから、全敷設部隊の先任指揮官でもありません。

 なお、「蛟龍丸」 は当時機雷敷設船として4月7日には繋維機雷40個を搭載していますが、この作戦において敷設したのは、流し式落下台上に装備した12個のみです。

 さらに、水深の問題がある。 小田はできれば戦艦を狙いたかった。 それがためには戦艦の深い船底に合わせてワイヤー長と満潮時の水深、位置を綿密に計算せねばならない。 (p184) (p191)

 既に 「自働繋維器」 でご説明したように、機雷缶の深度、即ち深度索の長さを決めればよいのです。 連合艦隊司令部の指示は 「最干潮時」 (現在の海図の水深記載と同じ 「略最低低潮面」 に対する水深) に 「12呎」 とされていますので、敷設時の潮汐をこれに加減すれば終わりです。

 この著者は自働繋維器が何かを知らないからですね。

 4月、ロシア艦は満潮時の午前9時前後3時間しか出撃できず、 (後略)
 (p184) (p191) 

 4 “月” の満潮時が午前9時? 前後3時間が出撃可能?

 『別宮暖朗本』 の中でこの著者は同じことを何度か書いていますが、笑えますね。

 この著者は 「潮汐」 というものさえ知らないとは。 「潮汐」 がどういうものかは、船乗りや漁師さんのみならず、海釣りをやる人でも誰でもみんなよく知っている話しです。 いや、小中学生でも知っている物理です。

 そして、そもそも旅順港の海図さえ、見たことも、調べたこともないんですね。

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 4月12日深更、小田をのせ た 『蛟龍丸』 は、船尾や舷側に機雷を提げた8隻の駆逐艦・水雷艇と団平船 (だんぺいせん) (石炭積み込みに用いる小舟) を連れ従えて、旅順港外に向かった。 (p184) (p192) 

 小田の面白いところは、駆逐艦や水雷艇の司令官に具体的敷設方法を任せたことである。 (p184) (p192) 

 船尾や舷側に機雷を提げた? 8隻の駆逐艦・水雷艇? 石炭積み込み用の団平船? 駆逐艦や水雷艇の “司令官”? などというツッコミはともかく、

 小田が計画したわけでもなく、全敷設部隊の指揮官であったわけでもないのに、一体何を言いたいのか?

 敷設方法を任せたのは、小田ではなく、連合艦隊司令部です。 小田には “任せる” ような権限さえありません。

 そもそも小田が乗船した 「蛟龍丸」 を連合艦隊司令部がこの作戦に使用することを決めたのは4月2日以降のことです。

 それは特務船舶を統制する 「台中丸」 に対してその日に同司令部より 「蛟龍丸」 の排水量の問い合わせがあったこと、同艦乗組の元々の徴用船員が総員退去させられたのが4日であること、などでも確かです。 ( 小田の提出した本作戦の 「行動報告」 によれば4月6日とされています。)

 そして、先の第四駆逐隊の戦時日誌にあるように、第四駆逐隊司令などに対して司令部より敷設作戦の計画指示があったのは4月1日です。

 この敷設作戦が小田の計画でないことはこれでも確かかと。 連合艦隊司令部に対する専門職の幕僚として、アドバイスはしたかもしれませんが。

 そして 「蛟龍丸」 の使用が決定してから、小田がこの艦の敷設指揮官として指定され、専門職の部下を率いて臨時乗組することになりました。

 したがって、もし連合艦隊司令部が 「蛟龍丸」 を使うことを考えなかったら、あるいはその準備が間に合わなかったら、小田がこの敷設作戦に参加することさえありませんでした。

 約2時間をかけ、平均100メートル間隔、4.3キロに延びる機雷線をつくり終えた。
 (p185) (p192) 

 44個を4.3キロに延びる機雷線? 一本線で?

 前出の敷設図を含めた当該作戦の敷設要領を一度でも調べたことがあるなら、“絶対に” このような表現にはなりませんね。

 もし敷設線の総全長のことを言うなら、この著者の言う100m間隔をもってしても、第4駆逐隊は団平船2隻を使用して8個ずつで、700mx2線、計1.4km、第5駆逐隊は4隻で各艦3、200mx3線、計800m、「蛟龍丸」が12個、1.1km、で合計3.3kmにしかなりません。

 水雷艇は4隻中の2艇各2個の計4個で、元々の計画は線状ではありません。

 しかも史実は、各隊・艦の 「行動報告」 によると、「蛟龍丸」 は70ヤード (約64m) 間隔で敷設し、所要時間僅か4分。 第4駆逐隊の団平船2隻は5ノットにて22秒間隔 (約60m) で16個を順次敷設し、所要時間6分。 第五駆逐隊は各艦機雷3個宛で、所要時間3分です。 ( 水雷艇は不詳 )

 これを見ても、自働繋維器の効果が明らかかと。

 この著者の言う約2時間が何を意味するのか全く判りませんが、それをハッキリと書かなければ意味はありませんし、読者に誤解を与えるもとです。


 これを要するに、この著者は、この敷設作戦につていも、何も知らず、何も判らず、何も調べていない、ことが明らかです。

 やっぱりこの話も1回では終わりませんでした (^_^;
(この項続く)

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2009年12月13日

機械水雷 (機雷) の基礎 (8) − 「ペトロパブロフスク」 撃沈 (後編)

 さてお待ちかね、いよいよこの機雷の項で最も笑えるところです。

 問題点がいくつもある。 点で敷設すれば間隔が空きすぎ、衝突するかどうかは神任せになってしまう。 つまり、敵の予想される航路に点ではなく線で敷設せねばならない。 (p184) (p191) 

 また、戦艦などの水雷防禦のため二重底の艦底を持つ船には、2発以上同時にあてる必要がある。 (p184) (p191) 

 小田は解答を出した。 2つ以上の機雷を互いにロープでつなげばよい。
 (p184) (p191) 
(注):黒字 強調 は管理人による。

 ペトロパブロフスクは、沈船の少ない安全航路を選び、ルチン岩方面に突出した瞬間、艦首をロープにあて、そのまま2個の機雷を引き込んだ。 機雷は艦の両側で炸裂した。 ペトロパブロフスクは1分半で轟沈した。 マカロフは艦と運命をともにした。 (p185) (p192−193)

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( 『別宮暖朗本』 より (p185) (p193)

(注):黒字 強調 は管理人による。

 皆さんはこのイラストの上段をみて、これで下段のようになると思いますか?

 実に笑えますね。 この著者、中学生どころか小学生並の知識も無いのでしょうか。 このイラストの様なことには 絶対に、100% なるわけがありません。

 考えてみて下さい。 100m間隔で敷設したと言っているそれぞれの機雷の下には、繋維索に繋がった約200キロの繋維器が海底にあるのです。

指摘 (1) :

 この連繋は2個ずつなのでしょうか、それとも各隊で敷設した機雷全部なのでしょうか?

 もし2個なら、1つおきに100mの間隔が空きますので、露戦艦はこの間をすり抜ける可能性もありますし、当たったとしても1個です。

 もし全部繋がっているなら、その全部の機雷が全部の繋維器を引きずりながら?

 繋維器を引きずる衝撃により機雷は自爆するでしょう。 幸か不幸か 「二号機雷」 は触角式ではありませんので。

指摘 (2) :

 両脇の機雷は繋維器に引きずられて、繋維索かあるいは他のどこかが切れる (壊れる) 時点まで、機雷は露戦艦の艦首と海底の繋維器の間のどこかです。

 もしこのまま繋維索も連繋索も切れなければ、そのままズルズル行きますから、機雷は艦底のより深いままで、かつ横にかなり離れた位置で。

 そして何かの拍子に自爆します。 もちろん艦底直下でもなければ、舷側でもありません。

指摘 (3) :

 仮にこの上段の図のように敷設が可能であったとしても、露戦艦が連繋索を引っかけた時に、何処が一番強度的に弱いのでしょう?

 そうです。 連繋索かその連繋索を機雷缶に繋ぐ金物以外にはあり得ません。 もしそうでなければ、次に壊れるのは機雷缶本体とその金物との接続部または、機雷缶と繋維索を繋ぐ部分です。

 そして、その切断時の衝撃によって機雷が自爆する可能性が高いですし、さもなければ機雷缶の外板が壊れて水が入ります。

指摘 (4) :

 そもそも、このイラスト上段のように連繋索が真横に張れるとお思いでしょうか? 連繋索には何を使ったのでしょう。 マニラ索? ワイヤー? 太さは?

 マニラ索なら敷設直後は浮きますが、時間が経って水分を吸うに連れて海中に垂れ下がります。 ワイヤーなら最初からその自重でもちろんです。 何れにしても、海中で索を真横一線になどは張れません。

 横に引っ張って固定するものが無い限り、両側は繋維索によって海中に漂っている機雷缶ですから。

 もしこの様なことが可能とするなら、何故今日に至るまで、旧海軍・海自のみならず、繋維機雷の敷設について世界中のどこの海軍もやっていないのか?

 ちょっとでも考えたら、こんな 「繋維機雷」 を連繋索で繋ぐなどは、現実にはあり得ないことが判ります。 お恥ずかしい限りの “素人さん” の空想・妄想ですね。 何が何でも小田喜代蔵の手柄話に作り上げたい、というための。

 そして当然ながら史実も、この時以降、旅順港沖だけで1400個もの機雷を敷設しますが、この時も含めて、旧海軍では繋維機雷を連繋索で繋いだ、またその為に機雷缶を改造した、などということはありません。

 そして、ロシア側の記録によっても、「ペトロパブロフスク」 に当たった機雷は “艦首に1個ないし数個” とは言っていますが、“連繋された” などは言っておりません。 そして、機雷の爆発は1回のみです。

 もちろん、この著者の言う100mも離れて連繋されたものなら、2個又はそれ以上が艦首1箇所に当たるわけがありません。 そして、ロシア海軍公刊戦史にあるように、艦首部への触雷以降の爆発の連鎖については、ロシア海軍の専門家の手によって明らかにされています。

 また、その直後に触雷した 「ポビエダ」 も当たったのは1発のみです。

 更には残余のロシア艦艇は周辺海域の警戒を行いました (付近の浮流物を潜水艇の潜望鏡と錯覚して射撃までしました) が、“連繋された機雷” などは見つかっておりません。

 これを要するに、少しでもキチンと調べる気があるならば、二号機雷をそのまま敷設したことは明々白々のことです。


 ところで、この著者が何によってこんな空想・妄想したのかを考えると、おそらく当時の 各国の新聞記事が元になったものでしょう。

 これら新聞記事が何に基づいたものかは不明ですが、この記事の件は連合艦隊でも入手しまして、逆にロシア側の “連繋機雷” の発想・使用が疑われる一つになりました。

 これは、第二艦隊参謀の山路一善海軍中佐が提出した意見書の一部です。

yamaji_opini_01_s.jpg

 普通なら、こんな何の根拠にもならないものをもって、こんな “これが真実だ” などのトンデモ文を書くのか、と思いますが・・・・


 そしてこの 「ペトロパブロフスク」 の撃沈とマカロフの戦死ですが、

 日本側の記録による 「ペトロパフロフスク」 の触雷・沈没位置です。 これと、旧海軍側の機雷敷設位置とを比較してみてください。

petro_mine_sink_02_s.jpg   ryojun_minelay_chart_01a_s.jpg

 そう、「ペトロパブロフスク」 を撃沈したのは、小田が指揮した 「蛟龍丸」 の敷設したものではなく、第四駆逐隊が敷設したものです。

 ロシア側の記録はこれよりも少し西側ですが、機雷敷設位置からすると日本側の方が正しいと考えられます。 何れにしても、これより更に東側の 「蛟龍丸」 敷設線ではあり得ません。

 「ペトロパブロフスク」が被雷したのは、ロシア側の浮流機雷であった可能性も否定はできませんが (実際、この作戦時にも日本側は多数の浮流機雷を発見、処分しています)、ロシア側の記録はこれには言及していませんので何とも言えないところです。

 したがって、小田が敷設した機雷でもなく、かつ小田は敷設部隊の指揮官でもありませんから、 『別宮暖朗本』 中のタイトルにある “世界で初めて機雷で戦艦を撃沈した男” は、第四駆逐隊司令の長井群吉海軍中佐とするべきでしょう。

 少なくとも “100%” この著者の言う小田喜代蔵ではありません。 もちろん、「二号機雷」 を発明しただの、本作戦を考えただのも含めて。


 以上、8回にわたって敷設水雷及び機械水雷についてお話ししてきましたが、この著者が得意げに蕩蕩と書いているものが、何等の確たる史料に基づかない、総てウソと誤りであることを検証しました。

 そして、これまでの指摘と合わせて、結局、

 小田喜代蔵が発見した攻撃法であるが、その主題の一貫性に驚かさせる。 すなわち機雷を攻撃的に使用すること、および管制(コントロール)することである。 コントロールする手段は常にロープであるが、戦艦パブロフスクを撃沈し、津軽海峡を封鎖し、戦艦ナワーリンを撃沈した小田の創意工夫は不朽だろう。 (p323) (p335) 

 と、この著者が得意げに書くその総てが、全くのデタラメであることがお判りいただけたと思います。
(この項終わり)

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前へ : 「機械水雷 (機雷) の基礎」 (7) − 「ペトロパブロフスク」 撃沈 (前編)

「『別宮暖朗本』 のウソと誤り」 一覧目次へ :


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2009年12月29日

「たいい」 か 「だいい」 か

 NHK 「坂の上の雲」 の関連スレで、

 海軍大尉 (だいい)、海軍大佐 (だいさ)、陸軍大尉 (たいい)、陸軍 (たいさ) なのに海軍で 「たいい」 と呼んでたのがおかしい。 艦 (フネ) なのに 「かん」 と呼んでたのもおかしい。 基本的な軍事考証がなってないので駄作決定。

 だそうです (^_^)

 確かに、今次大戦の末期には、旧海軍内の “一部において” 「だいい」 「だいさ」 と言わせていたところがあることは事実です。 そして、戦後になって、さもこれが海軍での一般的な呼び方であった如くされてしまっています。

 元々の発端は不明です。 陸軍と一緒にされたくないと思う一部の者が始めたのか、あるいは後述のことが切っ掛けなのか。

 しかし残念ですが、旧海軍でも 「たいい」 「たいさ」 が正解であり正式です。 もちろん、文字にする場合も、会話の場合でも、です。

 最も判りやすい例をお示ししましょう。  ↓ は昭和13年に発行された中島武海軍少佐の手になる 『海軍物語』 4部作の内の、『昭和の海軍物語』 からその1ページですが、この4部作 (幕末、明治、大正、昭和) の総てのルビで同じです。  現役の海軍将校の著書であり、したがって海軍省の校閲済みであることは言うまでもありません。

captain_02.jpg


 もう一つ。 明治期から今次大戦の終戦まで 『海軍須知』 という小冊子が発行されてきました。 これは海軍について概説したいわゆる 「入門書」 ですが、海軍部内においても広く活用されてきたものです。 当然ならが海軍省校閲。 その大正6年版から ↓

captain_03.jpg

 ただし、海軍内でも 「ダイイ」 「ダイサ」 とするものも “1つだけ” あります。 そう、信号文です。 信号文は総てカナ書きですから、文中において 「大意」 「大差」 などの錯誤を生じないように “わざと” していました。 例えば ↓ のようにです。

captain_01.jpg

 また、「艦」 と書いて 「ふね」 と読む “場合も” あります。 これも会話の中で言いやすく、かつ聞き間違いがないようにするための船乗りの慣習の一つで、「潤滑油」 を 「じゅんこつゆ」、「内火艇」 を 「ないかてい」、「右舷」 を 「みぎげん」 と言っていたのと同じ類です。

 したがって、会話の中はその時その時によって 「かん」 でも 「ふね」 でも両方ありです。 当然ながら、どちらかでなければならない、などの “躾け” がなされていたわけでもありません。

 判りましたか、2chスズメさん?

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続きは

     「たいい」 か 「だいい」か (2)


posted by 桜と錨 at 12:42| Comment(7) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年12月30日

「たいい」 か 「だいい」 か (2)

 旧海軍においては 「大尉」 は 「だいい」 と呼ぶ (読む) のではなく 「たいい」 が正式であるとお話ししました。


 もう少し刊行物から例示をしておきましょう。 何れも海軍省校閲 (即ち公認) のものであり、かつ著者・編者は海軍軍人・軍属又は海軍関係の専門家です。

 先の例示及びこれらによって、旧海軍は明治期以来ずっと 「たいしょう」 「たいさ」 「たいい」 が正式であり、その様に呼称させていたことは明らかでしょう。

 特に2.及び3.について、「中」 「少」 には振り仮名がないことには注意するべきですね。 即ち、「だい」 ではないことを明確にしているわけです。

1.『海軍画報』 (明治30年) より

captain_04_s.jpg

2.『海軍一班』 (明治33年) より

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3.『海軍解説』 (明治38年) より

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4.『海上生活』 (大正5年) より

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 これを要するに、旧海軍においては 「大将」 「大佐」 「大尉」 は 「たいしょう」 「たいさ」 「たいい」 であり、「だいさ」 「だいい」 などは、(理由・発端については不詳ですが) そう呼んでいた・呼ばせていた者も “中にはいた” ということに過ぎません。

 したがって、ウィキなどで書かれている、

 「 日本海軍では、「だいさ」 と呼んでいた 」

 などは、それだけの記述では誤りと言えます。
posted by 桜と錨 at 16:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年01月03日

本家HPで大物公開!

 先程本家HPで年明け最初の更新をいたしました。

 今回は、昨年末に達成しましたサイト開設4周年とご来訪12万名の感謝企画としまして、ちょっと大物をと考え、藤本喜久雄海軍造船大佐の手になる 『ジュットランド海戦における造船関係事項の研究』 全文をPDFファイルにて公開いたしました。

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 「其の1」 の主力艦の部 (16.1Mバイト) と、「其の2」 の巡洋艦及び駆逐艦の部 (4.6Mバイト) の2つでお届けします。

 この文書は名前は知られているものの、その全容は今まで明らかにされてこなかったもので、いわゆる “幻の史料” の一つと言えるでしょう。

 幸いにして私がディジタル化しました原本は非常に状態が良く、判読できない部分などは殆どありません。  基本的には、原本の青焼きをスキャンしたあと、白黒反転し、多少のゴミ取りをした以外はそのままです。

 ご存じ藤本造船大佐といえば、旧海軍艦艇の基本設計についてその歴史を語る上では外すことが出来ない人物です。

 「友鶴事件」 「第四艦隊事件」 でミソをつけたものの、見方によっては 「造船の神様」 として一部の者達に祭り上げられた平賀譲の上をいくでしょう。

 したがって、本史料が旧海軍の基本設計に与えた影響は決して少なくないと言えます。

 どうぞ本家HPにてこの第1級史料をお楽しみ下さい。
posted by 桜と錨 at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年01月04日

船舶工学の基礎 − タンブル・ホームと復原力 (1)

 ロシア戦艦で言われているタンブル・ホームの問題について、船舶工学という程までは行きませんがその簡単な理論についてご説明したいと思います。

stabi_09.jpg
( 「ツザレヴィッチ」 の船体中央横断面 (注)

 まず、

 タンブル・ホームとは舷側の下方が張り出している形をいい、重心を下げるための措置である。 (p45) (p371) 

 舷側が下方に張り出している、・・・・ ってバルジの説明じゃないんですから (^_^ ;

 この一言で、『別宮暖朗本』 の著者が船舶工学どころか、船そのものに関して “も” 全くの素人さんであることを白状したようなものです。

 逆で、タンブル・ホーム (Tumble Home) とは、船体横断面の形が上方で内曲がりになっていることを言います。

 実際の船体形状を見てみましょう。 ほぼ同じ排水量のもので、左が 「富士」 で右が 「ツザレヴィッチ」 です。

stabi_08a.jpg  stabi_10.jpg
( 左 : 「富士」  右 : 「ツザレヴィッチ」  (注)

 喫水線のやや上までは、ほぼ普通〜の外形形状であることが判ります。 そしてタンブル・ホームだからといって、そうでない艦型より別に艦幅が広い (全長に対する艦幅の比率が大きい) わけでもありません。

 実際、「富士」 型が 0.1951 であるのに対して、「ツザレヴィッチ」 は 0.1919 で逆に稍細長いのです。 ( 簡単にするため、船舶工学で使用する 「ファインネス係数」 の話しは省略します。)

 つまり、その特長は船体の下部にあるのではなくて、上方にあるのです。 ちょっと考えさえすれば、当たり前と言えば当たり前のこと。

 しかも、

 フランス人がタンブル・ホームのアイデアを発想した。 (p43) (p44) 

 タンブル・ホームとは、元々は帆船において、マストの横索具を舷側に固定するために好んで採られた方式です。 そして、鋼鉄船の時代になってからは、この方式を利用して、船体上方及び構造物の幅を狭くして重心を下げる効果を狙った、船体設計の一形式です。

 また、副次的に、艦首尾線方向への側砲の射界を確保する目的もあります。

 したがって、

 タンブル・ホームとは、近代的艦船の常識の高舷側形式と、イタリア式砲艦に代表される低舷側方式との、過渡期の型式とみなすこともできる。 (p45) 

 この文は文庫本で新たに書き加えられたものです。

 高舷側形式、低舷側方式? 高乾舷、低乾舷でしょう。 というツッコミはさておき、

 過渡期、・・・・とはどういう意味なのでしょうか? 低乾舷型から高乾舷型、あるいはその逆への発展の途中?

 とんでもありません。 これは前述の効果を狙った、フランスを主とする一つの設計方式であって、それを模倣したロシア海軍以外の諸外国海軍ではほとんど採用されなかったのですから、“みなすこともできる” わけがありません。

 当該本の “改悪” ですね。

 そして、この著者はタンブル・ホームの欠点として

 戦闘中、なんらかの原因で艦が傾斜した場合、8度を超えると砲甲板が海面にかぶり、そのまま転覆する可能性がある。 (p44) (p45) 

stabi_11.jpg
(タンブル・ホーム (p44) (p45)


 これが、タンブル・ホームとは全く関係ないことは、誰にでもお判りいただけるでしょう。 単に下層の砲甲板の位置が低いだけの問題あって、これはタンブル・ホームであろうがなかろうが同じです。

 この図が、タンブル・ホームだから 「転覆する可能性」 があるという説明には全くなっていないことは、一目飄然です。 一体何処がと言うのでしょう? (この図にある縦隔壁や遊動水の話しは、この後で。)

 しかも、この 『別宮暖朗本』 の中では、何度も盛んに 「8度」 「8度」 と、数値を出すことによってさも自分が専門知識を持っているかのような印象付けようとしていますが、この 「8度」 とは一体何に基づいたものなのか?

 実はこの著者が根拠とするものは、この本の後半に出てくる各露戦艦沈没の説明で引用している、例のプリボイの “小説” です。

 「 (前略) 司令塔にいた者はみんな、8度の傾斜が限界と言うことを知っていたので一言も発するものがなかった。 (後略) 」( 「プリボイ 『バルチック艦隊の潰滅』 )
  『アリヨール』 では艦が8度の傾斜までしかもたないことを計算していたので、回頭するさいには、鋭角的に曲がらず、大きな弧を描くようにしていた。 (p317) (p329) 

  “鋭角的に曲がらず” などと言うトボケタ表現のことはさておいて、

 このような小説に書かれた数値を何の裏付けもとらずに引用し、それに基づいた想像・妄想を蕩々と述べているのがこの著者の特色です。

 では、この著者が当該書で参考としたとして巻末に列記しているものの中に、キチンとしたものはないのか?

 いえ、ちゃんとあります。 この著者が “少壮官僚の作文” だからプリボイの小説より信用できないとする、露海軍の公刊戦史 『1904、5年露日海戦史』 の中で、7月11日付 「艦隊令第7号」 という公式文書として述べられています。

stabi_12.jpg

 8度? そんなものはありませんね。

 この著者、自分に都合の悪いものは無視なのか、あるいは全然読んでもいないのか? 唖然とします。

 それでは、そのタンブル・ホームを含む露戦艦の復元力について、もう少し船舶工学の基礎的なところから見てみましょう。
(この項続く)

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(注) : 月刊誌 『世界の艦船』 各号からの引用です。

次 : タンブル・ホームと復元力 (2)

posted by 桜と錨 at 14:36| Comment(7) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2010年01月05日

船舶工学の基礎 − タンブル・ホームと復原力 (2)

 鋼鉄製の艦船が何故水に浮くのか。 言うまでもなく船体構造によって得られる 「浮力」 が 「重量」 を上回るからです。

 そして、その浮力と重量が釣り合った状態で浮いていますが、浮力が上回る分が水面より上にある 「予備浮力」 となります。

 下図のように、通常の艦船では当然ながら 「浮心 (浮力中心 )」 (B) は 「重心」 (G) より下にあります。 このことが、復原力に関する様々な問題を引き起こしてくるのです。

stabi_01_s.jpg
(注) 

 つまり、「浮心」 が 「重心」 より下にあるのに、何故転覆せずに浮いていられるのか?

 それは船体が傾くことによって浮心の位置が “傾いた側に” 移動し、これによって船体を元の状態に戻そうとするモーメントが働くからです。 これが 「静復原力」 (Statical Stability)であり、単に 「復原力」 と言う場合にはこれを意味します。

stabi_02.jpg
 (注) 

 上図のように、GZが大きくなるほどその復原力も大きくなります。 このGZ値を 「復原挺」 と言います。 同じ傾斜角であるならば、重心が低いほどこのGZ値が大きい、即ち復原力が大きい、というごく当然の結論になります。

 しかしながら、GZ値は重心の位置だけではなく、傾斜の角度によっても変わってきますので、復原性能を表す定性的なものとしては使えません。

 そこでこれを一般的に言い表すために、個々の船固有の値となる 「重心」 (G) と 「メタセンター」 (傾心、M) 間の長さによって、その船の復原性能の指針とするのが通常です。 このGM値を 「メタセンター高」 (Metacentric Height) と言います。

 傾きが小さい場合 (一般に5〜10度まで) には、メタセンター (M) はこの図のようにほぼGBの延長線上のほぼ1点ですが、傾きが大きくなるにつれて、その位置からずれてきます。 下図のようにです。

stabi_04.jpg
 (注) 

 実際のこのメタセンターの移動などは、個々の船の船体形状や重心位置によって変わってきて、大変複雑なお話しになりますので、取り敢えず本項では、“そういうもの” という概念だけにしておきます。

 そこで、先の復原性能の指針であるGM値、即ちメタセンター高ですが、当然のこととして、沢山の物を搭載したり、改造などによって重量が増えると、浮心の上昇以上に重心が上昇 (図では G→G’) することになります。 これはつまり、GM値の減少、即ち復原挺の減少をもたらします。

stabi_06.jpg
 (注) 

 これをタンブル・ホームについて考えますと、この形状船体を有する艦船では上甲板以上の幅が狭いので、もし船体上部や上部構造物に必要な容積を確保しようとすると、必然的に上に積み上げる、即ち背の高いものになります。

 元々が重心位置を下げるためのタンブル・ホームですが、このために反って上方の重量が増え、重心位置が高くなる原因となります。

 特にロシア海軍艦艇では、充分な寒冷対策を要するために、上部構造物も密閉構造とせざるを得ず、ますます重量増となる傾向を生じます。

 それに、上部が重くなるといわゆる 「トップヘビー」 となって、うねりや転舵による横動揺が大きくなり、これが一層復原力に悪影響を及ぼします。

 つまり、重心位置という問題に関しては、タンブル・ホームという形状そのものではなく、それに伴う上部構造物のあり方、設計・建造の仕方の話しなのです。

 こんな肝心な点について、『別宮暖朗本』 では全く触れられていません。

 しかも、

 ロシア艦政党局は、ボロジノ級を建造するにあたり、この問題を一挙に解決しようとした。 すなわち主砲を12インチとし45口径6インチ砲を両舷6個の連装砲塔に格納し、かつ装甲強化を行なおうとした。 そのため上部構造への加重負担は厳しく、タンブル・ホームを維持せねばならなかった。 (p42−43) (p43) 

 両舷6個、って合計で12基という意味? 違うでしょう、多少なりとも船を知っている者はそんな書き方はしません。 片舷3基宛、でしょう、・・・・ などというツッコミはさておいて、

 “維持せねばならなかった” 理由の説明には、何にもなっていません。

 フランス戦艦では当時既に副砲の砲塔化を採用しておりますので、「ボロジノ」 型のプロトタイプたる 「ツザレビッチ」 をフランスに発注し、かつその図面を元にして 「ボロジノ」 型を設計・建造したために、あのようになっただけのことです。

 つまり、要求性能を充たしてかつ必要な安定を得るためには、それに応じた設計・建造方法をすれば (変えれば) よかっただけのことで、タンブル・ホームを維持する必要性とは何の関係もありません。

 なお、

 ロシア艦政当局は、フランスで建造したツェザレヴィッチをボロジノ級に含めないが、同一設計であり、含めることにする。 (p43) (p44) 

 前述の様に 「ボロジノ」 型は 「ツザレヴィッチ」 の図面を元にしてロシアで設計をした物ですから、この分野の素人さんが書くものとしては “同一設計” というのも、まあ許容範囲内ではあります。

 もっとも、そうする場合には 「ボロジノ級に含める」 ではなくて、「ツザレヴィッチ」 型6隻とするべきでしょうね。

 こちらの方はいいとしても、

 ペレスウェート級4隻(ペレスウェート、ポベーダ、レトヴィザン、オスラビア、ロシア艦政当局はアメリカで製造されたレトヴィザンをペレスウェート級に含めないが、同一設計であり、含めることにする。) (p42) (p43) 

 “製造”? などというツッコミはさておき、

 一体どこが 「同一設計」 なのか? 同一設計という意味が判っているのでしょうか、この著者は? それとも、例によって何の説明もないこの著者自身の独自な定義付けによるものでしょうか?

 皆さんよくご存じのとおり、アメリカに発注され設計・建造された 「レトヴィザン」 と、ロシア国内で設計・建造された 「ペレスウェート」 型とは全くの別ものであって、同一の 「型」 「級」 に含めることなど到底出来るものでないことは “常識” のことです。

 ロシア艦政当局は含めない、などというのは当たり前のことです。 同一設計では全くないのですから、含めるわけがありません。

 この著者のようなことを言うなら、むしろ 「クニャージ・ポチョムキン・タウリチェスキー」 の方が遥かに 「レトヴィサン」 型でしょう。
(この項続く)

-------------------------------------------------------------

(注) : 『理論船舶工学 上巻』 (大串雅信著、海文堂) より引用。 因みにこの全3巻本は私が学生の時に使ったものですが、未だにこれに替わる船舶工学の解説書は出ていません。



次 : タンブル・ホームと復元力 (3)

前 : タンブル・ホームと復元力 (1)

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2010年01月06日

船舶工学の基礎 − タンブル・ホームと復原力 (3)

 一般的に、傾斜が大きくなるほど復原挺も大きくなり、従って復原力も大きくなります。 そして、ある傾斜角度を過ぎると今度は逆に小さくなっていき、遂には復原挺 (=復原力) が 「零」 となります。

 この復原力が零となる傾斜角を 「復原力消失角」 といい、これよりも更に傾くと船は転覆することになります。

 これを表したのが下図の 「復原挺曲線」 です。 通常 「復原力曲線」 と言う場合にはこれを指します。

stabi_05a.jpg
(注)

 (1) でご紹介した 「艦隊令第7号」 に従うと、「ボロジノ」 型は、下部砲門を開放した場合にはこの復原力消失角が “たったの20度” であり、砲門を閉鎖した場合でも40度しかないとされています。 実に驚くべき数字です。

 ただしこれは、如何に設計・建造の仕方が誤っていたのか、ということであって、決して “タンブル・ホームだから” ということではありません。

 つまり、基本設計と建造・工程管理 (重量管理) の悪さが最大の原因です。 それは旧海軍の 「友鶴」 の例を見ていただければ明らかでしょう。

 そして、実際に露戦艦の復原性能の悪さは、タンブル・ホーム自体にあったのではなく、設計と建造の方法にあったことが実証されています。

 即ち、露海軍の公刊戦史 『1904、5年露日海戦史』 の中で、次の数値が示されています。

ボ ロ ジ ノ
 計 画 時実際 (リバウ出港時)
満載排水量13,940 トン15,275 トン
平均吃水26呎 8吋 (8m 12cm)29呎 1吋半 (8m 88cm)
GM値4呎 4吋 (1m 32cm)
(通常載炭)
2呎 6吋 (76cm)
(満載炭)

インペラトール・アレキサンドル3世
 計 画 時実際 (リバウ出港時)
満載排水量13,500 トン15,300 トン
平均吃水26呎 6吋 (8m 7cm)28呎10吋 (8m 79cm)
GM値3呎 9吋 (1m 14cm)
(通常載炭)
2呎 9吋 (84cm)
(満載炭)

 特に 「ボロジノ」 のメタセンター高 (GM) の実際値については、海軍技術会議の決定値としてロジェストウィンスキーに通知されたもので、これに併せて

 「 メタセンター低き故に海洋の航行を疑惧し特に其戦闘条件に対しては最慎重の注意を要する 」

 との勧告が付けられています。

 この平均吃水の増加とメタセンター高の減少が何を意味するのかは、既にご説明してきたところです。

 これだけのキチンとしたデータが示されているにも関わらず、『別宮暖朗本』 ではこの公刊戦史を参考文献としながらも、全くこのことに触れていません。

 この著者は、まともにこの公刊戦史を読んでいないのか、あるいはこれが何を意味するのか理解できなかったのか?

 いえ、次の記述を見る限りではこの著者は船舶工学のほんの初歩さえ、知らない、判らない、調べていない、で書いているとしか言えません。

 タンブル・ホームは上部構造を重くしても重心が上がらない工夫であるが、重心がある限度を超えて喫水線に近づくと、急速に復原性が悪化する。 (p310) (p321) 

 ここまで本稿をお読みいただいてきた皆さんには、これの何がおかしいかはもうお判りですね。

 まったく、何をか況や、です。


 それでは、タンブル・ホームという型式自体には復原性能についての欠点はなかったのか? というと、確かにこれもあります。

 ただし、これは欠点と言うより、不利な点、と言った方が正しいでしょう。

 下図は乾舷の高さによる復原挺曲線の違いを表したものです。

stabi_07.jpg
(注) 

 乾舷が高いほど、傾いたときに浮心が横に移動する幅が大きくとれますから、このため復原挺が大きく、復原力消失角も大きくなります。

 この図から考えていただけばお判りのように、タンブル・ホームのように船体上部が内曲がりしている船形では、この高乾舷によるメリットが生じません。

 すなわち、タンブル・ホームの内曲がりのラインよりも更に水面が高くなるように大きく傾いた場合には、その内曲がりによって船体上部の内部容積が小さくなるため、傾いても浮心の横への移動が大きくならないためです。

 したがって、同じ大きさ、同じ乾舷の高さならば、通常の形状よりはタンブル・ホームの方が復原性能としては悪いということになります。

 そして、その不利な点を重心の低さで補うのが、タンブル・ホームの本来のあり方です。

 つまり、露戦艦はタンブル・ホームという船体形式の “不利” な点を、設計と建造のまずさにより現実の “欠点” にしてしまったのです。

( ただし、これは高乾舷でも低乾舷でも吃水 (=排水量) は同じとしての場合で、実際には同一形式の構造の場合にはあり得ないことですから、単純に低乾舷だから復原力が悪く、高乾舷だから良い、というような簡単な話しではないことにはご注意ください。)
(この項続く)

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(注) : 『理論船舶工学 上巻』 (大串雅信著、海文堂) より引用。 

次 : タンブル・ホームと復元力 (4)

前 : タンブル・ホームと復元力 (2)
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2010年01月07日

船舶工学の基礎 − タンブル・ホームと復原力 (4)

 この項の最後としてご説明しておかなければならない重要なことは、縦隔壁と遊動水の問題です。

 「遊動水」 といいますのは、船体内にあって空気と接する表面 ( 「自由表面」 と言います) がある液体のことを言います。 別に水でなくても、油などでも構いません。

 この遊動水があると、船が傾斜した場合にはGM値を著しく減少させることになります。 つまり、下図のようにです。

stabi_03.jpg
(注1)

 船が傾くことによって、この遊動水もその傾いた側に移動します。 これはつまり遊動水の重心が移動することを意味します。

 すると、船全体の重心も横に移動し、これによって見かけの重心 (G’) は大きく上昇し、したがってGM値はG’Mへと大きく減少することになります。

 理論式などの詳細な説明は省略しますが、この遊動水が問題なのは、実はこの GM値の減少は遊動水の “量” ではなくて、“表面積” に関係 するからです。

( 正確には表面積ではなくて自由表面の形状ですが、これの方が感覚的に理解し易いでしょう。)

 例えば、缶室や機械室などにおいて縦隔壁が設けられ、右舷側と左舷側に大区画が分けられている場合を考えてみて下さい。

 こうした構造の大区画に戦闘被害などで浸水があった場合には、その浸水量はもちろんですが、それ以上に問題なのはこれが遊動水となることです。

 片側の大区画で浸水して船体が傾くと、極めて大きな表面積の遊動水によって、GM値が一気に落ちることがお判りいただけると思います。

( これは、満水のタンクや完全に充満した浸水区画などの場合、即ち自由表面がない場合には当てはまらないことにはご注意下さい。 これらの場合は、単に船体片側の重量が増えるだけのことです。)

 そこで、もう一度 (2) で出てきたこの著者が “タンブル・ホーム” の説明であるとするトンデモ図を見てください。


stabi_11.jpg
( タンブル・ホーム (p44) (p45)


 実は、「ボロジノ」 型など露戦艦の復原性能の大きな問題点は、この機関区画の縦隔壁の存在もその一つなのです。 まさにこのトンデモ図は、タンブル・ホームの特性の説明ではなくて、縦隔壁による片舷浸水とそれによる遊動水の問題を示しています。

 もちろん、片舷浸水や遊動水の問題はタンブル・ホームとは何の関係もありません。

( この著者が小説を根拠にした 「8度」 などという数値については、先にご説明したとおりです。)

 しかもこの著者、遊動水の問題は全く理解しておらず、単に浸水による片側だけの重量増と浮力の喪失のこととしか考えていないようですが。

 日本海海戦において沈没した露戦艦は、元々がタンブル・ホームという復原性能の面では “不利” な船体形状を採用した上に、設計と建造の誤りによって、上方重量の増加による重心の上昇 (トップヘビー) とGM値の減少、吃水の増大という “欠点” を作り出しました。

 そして、縦隔壁の存在という設計上の重大な “欠点” も加わって、中には戦闘被害と下層砲甲板の低さによる浸水のため遊動水の問題が発生し、まだ相当な予備浮力を保持している状態にも関わらず、一挙に復原力を失って転覆し沈没したものがある、という可能性もあります。

 したがって、

 フランス人は重心を下げるためにタンブル・ホームを採用したのだが、大洋における海戦では重大な欠陥がある。 すなわち砲戦の結果、海水が入ると、船体復原性が急速に悪化する。 (p44) (p45) 

 これらの欠陥はロシア艦政当局に気づかれていたようだが、元にある設計コンセプトが問題だと、是正は不可能である。 (p45) (p46)

 ボロジノ級戦艦の設計、とりわけタンブル・ホームがこの悲劇を招いた。  (p320) (p332) 

 と、この著者が判ったように言う “タンブル・ホームだから”、ではないことはお判りいただけたと思います。

 ましてや、

 マカロフ理論にもとづく、6インチ砲塔式というコンセプトが引き起こしたといえるが、価格の関係からか、トン数を1万3000トンに落としたことも関係している。 (p44)

 加えて、予算の関係でトン数を1万3000トンに落としたことも関係している。 (p46) 
(注2) : 緑色 は管理人による。 当該部分は文庫本では削除されています。

 などは、タンブル・ホームの問題とは何の関係ありませんし、復元性能の問題とも直接は関係しません。

 要するに、船体設計と建造の両方のやり方が悪かったのです。

 日本海海戦における個々の露戦艦の沈没状況に関する考察は、また項を改めてご説明する予定にしています。
(この項続く)

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(注1) : 『理論船舶工学 上巻』 (大串雅信著、海文堂) より引用。

 

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posted by 桜と錨 at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと