2017年05月12日

艦本式ボイラの型式と名称


艦船好きの人でもちょっとあまり知られていない話題を。

( と言うより、艦船の外観には興味があるけどエンジンなんて、と言う人が多いのかも (^_^; )

明治期の旧海軍の艦船のエンジンは、艦船自体が英国を主とする外国での建造でしたのでエンジンも外国製のものを使っていました。

しかし艦船も次第に国内建造になり、そして蒸気タービンが主力になってきますと、やはりこれらも国産化へと進みます。

旧海軍で最初の艦船用ボイラは明治36年に宮原二郎機関総監考案になる 「宮原水管式汽罐」 の採用です。

そして次ぎに誕生するのが艦政本部が計画したボイラで、大正3年に内令293号をもって制定された 『海軍艦政本部ノ計画ニ係ル罐ノ呼称』 による 「イ号艦本式罐」 及び 「ロ号艦本式罐」 です。

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このボイラは大変に優秀なものでしたので、基本的には昭和期までこの型式のものが続くことになりますが、少しずつ異なったタイプのものが作られましたので、昭和9年に内令1号をもって 『艦本式罐ノ呼称』 を定めてこれを細分化しました。


しかしながら、昭和期になってくると同じ艦本式でも力量や蒸気圧などにより様々な種類の物が作られるようになりましたので、昭和16年になって名称を統一することになりました。

これが同年の内令1298号をもって定めた 『水管式主罐ノ呼称』 です。


例えば、ネットの某所でも質問のあった 「三号乙三型」 という名称のはこの内令に従ったものです。

ただし、この質問の根拠の出所が例の木俣滋郎氏の記事にあるもので、「大鳳」 のボイラを 「三号乙三型」 としていますがこれは誤りで、正しくは 「三号乙一三十型ロ号罐」 です。

また同じ記事の中で “明治・大正時代は石炭を焚くイ号艦本式で、昭和期に入ると全て重油専焼のロ号艦本式である” としていますが、イ号とロ号の違いは石炭炊きか重油専焼かの違いではありません。 内令のとおりで、これも誤りです。


折角ですからついでに、ボイラと組み合わされるタービンと減速装置の呼称法もご紹介しておきます。


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2017年04月28日

『丸』 6月号


月刊誌 『丸』 6月号の見本誌が届きました。 今月号の特集は 「商船改装空母」 です。

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私もこの中の 「海鷹」 型の項を担当させていただきました。

   「 「あるぜんちな丸」 の 『海鷹』 改装プラン 」

もちろんご存じのとおり 「海鷹」 型とは言っても、姉妹船の 「ぶら志"る丸」 は改装着手前に沈没してしまいましたので、「あるぜんちな丸」 を改装した 「海鷹」 1隻だけなんですが (^_^;

4ページの紙幅をいただきましたので、いつもどおり色々書かせていただきました。 従来言われている機関改装の誤りの件や、航空機の搭載定数、乗員定数など、これまであまり言われてこなかったことを網羅しております。

それにしてもこの 「海鷹」 ですが、正確なデータや記録などが少ないものの一つですね。 船体要目なども造工資料をベースにして、もっとも正しいと考えられる数値にしております。

編集部さんによって立派な紙面にしていただきました。 ありがとうございます。

ただ惜しむらくは ・・・・ 記事に挿入されている大内健二氏の手になるとされる 「あるぜんちな丸」 と 「海鷹」 のイラストに、明らかな誤りが何個所かあることですね。 事前に拝見していれば指摘して直してもらったのに、とこれはちょっと残念 (^_^;

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2017年04月25日

邦訳版 『With TOGO、東郷とともに』 (続)


HN 「八坂 八郎」 氏の手になるセッピングス・ライト著 『With TOGO、東郷とともに』 の邦訳版第2巻が届きました。

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前半の第1巻は既に本ブログでもご紹介したところです。


今回は残りの後半で、第8章から最終の第12章までの邦訳になります。

この後半部分は日露海戦史について日本側でもほとんど知られていない内容ですので、その意味でも貴重ですし、なによりもそれが日本語で読めるのは嬉しいところです。

しかもいつもどおりの丁寧な訳出で、大変に読みやすいものとなっており、そして日本側の史料などにも丹念に当たられて、これによる脚注も充実しているのはいいですね。 また、私家版とはいえ写真の印刷も綺麗です。

第1巻に引き続き、興味のある方は入手方法など氏のサイトから直接コンタクトをとってみて下さい。 (プロフィール欄からメッセージが送れます。)


それにしても八坂氏の仕事は早いですね〜 (^_^)

posted by 桜と錨 at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年04月16日

『世界の艦船』 5月号増刊


早いところはもう書店の店頭に並んでいるかもしれません、『世界の艦船』 の最新号は5月号増刊の 『アメリカ駆逐艦史』 です。

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同名の増刊号はもう20年以上前になります1995年の5月号増刊 (増刊第43集) として出ておりますが、この度写真など内容を大幅に刷新しての出版となります。

この中で、私も 「アメリカ駆逐艦8話」 コーナーで次の4つを担当させていただきました。

     C 「米重雷装駆逐艦の戦術」
     D 「米駆逐艦復原性の問題点」
     F 「米DDナンバーを付けた外国駆逐艦」
     G 「徒花に終わった戦後型米駆逐艦用備砲」


いずれも短編ですので詳しい話しは省略しておりますが、内容的にはこれまであまり書かれたことのないものと思います。

特に最後の備砲については例に挙げた2つを含め、戦後の米海軍の砲熕武器についてもう少しその流れと詳細をお話ししないと、現在に至る状況がお判りいただけないかと思いますが ・・・・ これはまた別の機会に、ということに。

何しろ増刊としての内容が盛り沢山ですので、文字ページが制約されるのは致し方ないことでしょう。

本文記事のメインである 「アメリカ駆逐艦 その歩みと時代背景」 は私の尊敬するエンジニアの一人である多田智彦氏の手になるものですが、限られた紙幅の中で簡潔かつ要領良く纏められているのは流石です。

書店で見かけられた時には是非手にとってご覧ください。 写真ページをパラパラと眺めるだけでも圧巻と思います。

なお、掲載されている各級の写真はほぼ全面的に新しいものになっていますので、この分野に興味をお持ちの方で古い号をお持ちでない方はこちらも入手されることをお薦めいたします。

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2017年03月26日

加藤友三郎研究会セミナー


今日は昨年末に発足した 「加藤友三郎元帥研究会」 の第1回セミナーでした。

講師は自衛艦隊司令官もやられた勝山拓元海将で、演題は 「加藤友三郎 超初級セミナー」 (^_^)

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1時間の講演でしたが、内容はその名のとおり友三郎の経歴を中心としたもので、研究会発起会での加藤健太郎氏の話しを聞かれなかった方々にはピッタリのものと言えるでしょう。

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会場のスペースの関係で約70名の募集に対し、これを少し越える参加者でした。 前回の発起会では海自の現役の人達も大分駆り出されておりましたが、今回は現役はゲストの第1術科学校長のみ (^_^; 

講演の後は、お茶とお菓子での茶話会。 一般からの参加者が多かったこともあってか、顔見知りは数名だけでした。 やはり海自OBや現役主体ではなく、色々な人達に興味を持って貰えるのは良いことと思います。

さて課題はこれからですね。 研究会の活動は呉と東京の2個所を中心に進められるようですが、今後どの様に発展させていくのか楽しみです。

事務局を担当していただいている大之木ダイモの皆さんも、お疲れ様でした。

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2017年03月17日

「九三式魚雷」 について (4・終)


既にお話ししたように、九三式魚雷は燃料の噴射や加熱装置の冷却などに九〇式魚雷までの真水に替えて海水を用いました。

このためその管系統に塩分が付くことはもちろん、加熱装置及び主機のシリンダー内には塩分が析出するので、これらの対策が必要になりました。


この塩分除去のために考えられた方法は次の2つです。

(1) 二塩化亜鉛

燃料室から加熱装置までの管系統では、海水中の塩分はそれほど気にすることはありませんが、問題なのは加熱装置での燃焼以降です。

特にノズル部分に塩分が貯まって詰まることで、これは致命的となります。

そのためまずアルミの粉を吹き付けてみて適当なノズルの形状を探ろうと実験してみましたが、結局これは上手く行きませんでした。

そこで考え出したのが、二塩化亜鉛 (ZnCl2) を少量燃料に加えることにより塩分の析出を減らすことでした。

この二塩化亜鉛を用いる方法は、試製魚雷F (駆逐艦用タービン魚雷) の開発の時に担当の成瀬造兵中佐のアイデアによって解決されたとされています。


(2) 主機のシリンダー

加熱装置で発生した燃焼ガスをこのシリンダー内に吹き込むことにより、その膨張によりピストンを動かしますので、最終的にここに海水の塩分が析出することになります。

これの全てを残ったガスと共に外に排出することは出来ませんので、次第にこの中に貯まってくるわけですが、シリンダ・ヘッドを銅板製にして適切な形状とすることによって、この銅板の変形によってここに析出物を受け入れる余積を作ることで解決しました。

これは試製魚雷庚の段階で解決しております。


なおこれら2つの塩分除去法については、九五式魚雷でも採り入れられています。

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・・・・ 今回はこの塩分除去のお話しをしようと思って始めましたが、それにはまず機関系統のことを、ということで長くなってしまいました。

主機のことに限らず、舵機や操舵関係、爆発尖などなど魚雷のメカのことは沢山話題がありますが、これらは後日また機会があればということに。

う〜ん、こうして書いてくるとメカを中心とした旧海軍の魚雷開発史を纏めてみたくなってきますね。 どこかスポンサーになってくれるところはありませんかねえ ? (^_^)


(この項終わり)

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「九三式魚雷」 について (3) :

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2017年03月12日

「九三式魚雷」 について (3)


2.「一液」

さて、関係者の大変な苦労により誕生した九三魚雷ですが、実用化されればされたで色々欲が出てきます。

前回でお気づきの方がおられるかも知れませんが、その一つが 「第一空気」 です。


前述のとおりこれは乾燥空気ですので、その主成分のほとんどは窒素であり、九〇式魚雷時代と同じく魚雷の推進には直接の役には立ちません。

そして純酸素と混ざるものですから、これ空気の質の管理と気室の構造、そして空気圧の適切な保守整備など色々面倒なことが伴います。

そこでこの窒素を他の不活性の液状のものに置き換えて主機を起動できるようになるならば、第一空気そのもの (とそのタンク) が不要となります。

つまり、純酸素だけを使用し、主機の起動の際には窒素に変わるその液体を調和器までの酸素の経路上に置いておいて、酸素通過時に霧吹きの要領でこれに混ぜれば良いのではとのアイデアが出ます。

そこで各種の実験によって四塩化炭素 (CCl4) で可能である結果を得ましたので、第一空気室を無くして、この四塩化炭素の液溜まり設けました。 この四塩化炭素を 「一液」 と呼びます。 発明は横須賀海軍工廠造兵部から呉海軍工廠魚雷実験部に移った川瀬技師とされています。

ただし元々の第一空気は操舵装置の動力源としても使用しておりましたので、今度はそのための空気が必要になり、「操舵空気室」 というボトルが置かれました。 もちろん第一空気のような厳密な質の管理と機構は不要ですので、普通の圧縮空気の扱いで良いわけです。

下の略図がこの 「一液」 方式にしたものです。

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戦後になって一部において、発射直後の航走中に第一空気による航跡が数百メートル発生するため、これを無くすために四塩化炭素を使用したとする向きがありますが、もちろんこれは副次効果であって主目的ではありません。

その一方で、開戦後の戦術状況の変化により用兵者側から射程よりも炸薬量増加の要望が出された結果、これにより炸薬は780kgとなった反面、酸素室の容量が元の980リットルから750リットルとなり射程は49ノットで1万5千メートルとなりました。

これが昭和19年2月13日内令兵第10号により兵器採用された 「九三式魚雷三型」 です。

また同じ酸素魚雷で九三式の小型版と言える潜水艦用の 「九五式魚雷」 でも同様にこの 「第一空気」 を 「一液」 方式に替えたのですが、実用化は九三式よりこちらの方が早く、昭和18年9月1日内令第89号により 「九五式魚雷二型」 として兵器採用されています。


ところが、戦後になってこの 「一液」 である四塩化炭素を、海水使用による酸素の管系統及びエンジン内部に固着する塩分の除去のためであったとする説を唱える人が中にはいます。

確かにこの塩分の問題は、九〇式での真水使用を九三式で海水に替えたために生じたもので、その解決が必要なことではあります。

しかしながら、これは正常に航走を開始した後に生じることですから、一液の目的を考えていただければその塩分除去の役割は無かったことは明らかですし、そもそも四塩化炭素そのものにはその除去作用は有りません。

ではこの塩分除去はどうしたのでしょうか? これについては次にお話しします。

(この項続く)

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「九三式魚雷」 について (2) :

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2017年03月11日

「九三式魚雷」 について (2)


1.機関系統の概要 (承前)

(2) 九三式魚雷

九〇式のように圧縮空気を用いる方法では、空気の組成の大部分を占める窒素は魚雷の推進には役に立たずにそのまま排出されるわけですから、この窒素を除いた純酸素を用いることができれば、機関系統全体の効率は格段に向上することになります。 これが酸素魚雷の原理のメインです。

下図が 「九三式魚雷」 の機関系統の略図です。 これも極めてシンプルにしておりますので、先の九〇式と比べてみて下さい。

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九〇式までの圧縮空気を純酸素に置き換えましたので、窒素が無くなっただけ気室の容量を小さくでき、逆に容量が同じなら燃焼持続時間を長くし航続距離を大幅に伸ばすことができます。

しかしながら、純酸素は摩擦や熱で簡単に爆燃してしまうものですから、大変に危険でかつ扱い難いものです。

このため主機の起動時からいきなり100%の濃い酸素を使うわけには行きませんので、どうしても最初だけは空気が必要になります。 それも単なる圧縮空気ではなく水分と油分を取り除いた乾燥空気です。

そして主機を起動してから徐々に濃度の高いものにしなければならず、このため圧縮空気の小さなタンクが設けられています。 ここがこの酸素魚雷の最大のミソになります。

旧海軍では酸素魚雷であることを秘匿するために、この起動用の空気を 「第一空気」 (一空)、純酸素を 「第二空気」 (二空) と呼びました。

そして九〇式では燃料の噴射に真水を用いていましたが、酸素を使うことにより射程距離が長くなるとそれだけ大量の真水 (= 大きなタンク)が必要になりますので、これを海水に置き換え、海水を取り込むポンプを装備することにしました。

最初に起動弁を開いておき次いで発停装置を開くと、まず第一空気 (乾燥空気) が調和器、加熱装置経由で主機に送られてピストンを起動します。

そして第一空気室の圧が第二空気の酸素の圧より低くなると、不還弁によってその分だけ第二空気室から第一空気室に酸素が送られ、次第に濃度の高いものとなります。

また、第一空気の一部は緩衝器に送られて中の水を押し出し、この水が燃料室の燃料を分離器を通して加熱装置に送り出します。

主機が回転を始めると海水ポンプが運転され、海水が緩衝器に送られます。 緩衝器では空気 (次第に酸素) の圧と釣り合うと、最初の真水に続いて海水が燃料室と加熱装置に送られます。

加熱装置には逐次酸素濃度の高い空気と燃料及び水が送り込まれますので、頃合いをみて火管で点火し熱走に移ります。

緩衝器は海水ポンプが十分な圧を作り出すまでの間燃料室と加熱装置に真水を供給することと、海水圧を調和器の圧とつり合うようにバランスをとって脈動を防止し 、余分な海水を海中に排出する役目です。

また燃料室にある分離器は、魚雷がローリングしても最後まで燃料を送り出すためのものです。

そして加熱装置での燃焼後に残るのは、海水の塩分などわずかなもの以外はほとんどが二酸化炭素と水分です。 この二酸化炭素は水に極めてよく溶けますので、第一空気を使用する航走初期を除けば排出ガスとしてほとんど残ることのない、ほぼ無航跡とすることができます。 この点は魚雷として大きな利点になります。 もちろんこれは酸素魚雷とする主目的ではなく、純酸素を使うことによる副次効果ですが。

これらによって、九三式魚雷は520馬力、炸薬量490kg、49ノットで2万メートル (九〇式は炸薬量376kg、46ノットで7千メートル) のものとなりました。 当時の列国海軍の魚雷に比べ格段に優れた性能です。


・・・・ と理屈は簡単なんですが、酸素は油分や摩擦を嫌いますし、気密保持のためのパッキンは使えない、適切に燃焼させないとすぐに爆燃を起こす、などなどその対策に大変なものがあったわけです。

例えば、加熱装置内で燃焼が終わらなければ、加熱室下部や弁が炎で焼かれますので、酸素、燃料、海水それぞれの噴霧器の構造に細心の工夫が必要になります。

ここまでの開発経緯も興味深いものがありますが、詳細はまた別の機会として今回は省略します。


この酸素魚雷の開発は昭和5年に艦政本部から呉海軍工廠に実験通牒が出され、大八木造兵中佐が研究・設計に当たっておりましたが、昭和7年に試製魚雷庚となって試作され、これが九三式魚雷の予備実験になったと言われています。

そしてまず巡洋艦用に九〇式を酸素化したものを本格的に開発することとなりました。 これが試製魚雷Aで、担当は艦政本部の朝熊造兵中佐と楠技手でした。

昭和8年 (皇紀2593年) に発射実験を行って 「仮称九三式魚雷」 となり、昭和10年11月28日内令兵第50号によって 「九三式魚雷一型」 として兵器採用されました。

とは言っても、兵器採用後に各部の色々な手直しや改善を加えて、実際に部隊に配備されたのは 「九三式魚雷一型改二」 です。

(この項続く)

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「九三式魚雷」 について (1) :

「九三式魚雷」 について (3) :

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2017年03月10日

「九三式魚雷」 について (1)


実用酸素魚雷として旧海軍が世界に誇った 「九三式魚雷」 のお話しです。

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とは言っても、今回はその開発経緯や性能要目、用法と言ったことではなく、ちょっとマニアックにエンジン系統のメカについてです。

でもここにご来訪の方々にはまさか酸素魚雷の燃料がその酸素である思っておられる方はおられないと思いますが ・・・・


1.機関系統の概要

(1) 九〇式魚雷

まずは酸素魚雷はそれまでの圧縮空気を使ったものとどこが異なるのかを掴んでいただきたいと思います。

そのため圧縮空気を使用した代表例として、「九〇式魚雷」 を例にしてお話しします。

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ご存じのとおり、この九〇式魚雷は 「試製魚雷丙」 として開発が始められた24インチ (61糎) のもので、昭和5年 (皇紀2590年) に 「仮称九〇式魚雷」 となり、昭和8年に兵器採用されたのち特型駆逐艦を始めして艦隊の巡洋艦及び駆逐艦に逐次搭載され、九三式魚雷出現までの旧海軍の主用魚雷となったものです。

下図がその九〇式魚雷の機関系統の略図です。 説明のために極めてシンプルなものにしてあります。

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初期の圧縮空気だけによるいわゆる冷走魚雷や電池魚雷などを除くと、旧海軍の熱走魚雷の燃料は基本的に 「ケロシン」 (kerosene) です。 これを利用したものがジェット燃料やロケット燃料などして使用され、また石油ストーブで使われる軽油もその一派生物ですので皆さんよくご存じと思います。

ケロシンは石油の分留成分ですから、基本的に炭化水素を主成分とする無色の液体です。 これを空気と混ぜ合わせて燃焼させ、発生するガスの圧力によって主機(もとき、エンジン)のピストンを作働させて、そのクランク軸によって推進軸を回転させることになります。

いわゆるレシプロ・エンジンで、九〇式では2気筒復動式横型のものが使われており、これによって413馬力の推進力を得ています。

魚雷が発動されると、まず気室の圧縮空気が調和器から加熱装置 (燃焼室) 経由で主機のシリンダーに送られ、この空気圧によってピストンを発動します。

この主機の発動に併せて調和器から圧縮空気が清水室に送られ、この空気の圧力により真水が押し出されて燃料室に入り、燃料を加熱装置内に噴霧します。 そして火管によってこの燃料と気室からの空気に点火し、その燃焼ガスの膨張圧によって主機を運転します。なおこの真水の一部は加熱装置の冷却にも使用されます。

調和器は主機の回転状況をフィードバックしていますので、これにより起動から点火までの遅動を設定できるため、冷走 (燃料に点火せず圧縮空気だけで主機が回ること) や過熱の発生を防ぐことができます。

そして、設定された雷速に応じた燃料の濃さ(即ち清水室に入る圧縮空気の圧力)とそれに応じる気室からの空気量となるように調節する機能を持っています。

また圧縮空気は操舵装置の動力源ともなりますので、気室は容量の大きなものが必要となり、このため魚雷の内部容積の制約から、航続距離、雷速と弾頭の炸薬量との兼ね合いの問題が生じるわけです。

(この項続く)

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「九三式魚雷」 について (2) :

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2017年02月20日

旧海軍宮崎航空基地


本家サイトの昨日の定期更新で一つUPするのを忘れていました。

Facebook の方で、中谷元氏が宮崎空港脇にある慰霊碑での旧海軍宮崎航空隊及び同基地から出撃した特攻隊員の慰霊祭のことが紹介されていました。

これを機会に 『旧海軍の基地』 コーナーにて 「宮崎航空基地」 のページを公開します。

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「旧海軍の航空基地一覧」 のページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/Nav_Air_Base_list.html
「宮崎航空基地」 のページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/122A-Miyazaki.html

なお、同基地の名称として 「赤江飛行場」 あるいは 「赤江航空基地」 と呼ばれることがありますが、これは地名を採った現地での通称名で、旧海軍における正式名称は 「宮崎航空基地」 です。

posted by 桜と錨 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年02月19日

「連合艦隊戦策」 英訳版公開!


先々週本家サイトの更新として、当該 「史料展示室」 コーナーにて 「那智史料」 の一つである昭和18年の 「連合艦隊戦策」 を公開したところですが、今週はこの機会ですからついでに米海軍が 「那智」 から引き揚げた直後に主要なものを英訳した中にある当該戦策の英訳版を一緒に公開することにしました

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「史料展示室」 内容一覧ページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
「連合艦隊戦策」 更新公開ページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/46_GF_Sensaku_S18_Nachi.html

ただ私が持っているコピーもどの段階での複製版かは判りません。 ディジタル化に当たってゴミ取りをしてもまだまだ大変に見にくいものですが、幸いにして元の日本語と違って英数字だけですので何とか全て判読可能です。

元の日本文のものとこの英訳版とを対比しながらお読みいただくと、日本文で欠落又は判読不明な部分も把握できるかと思います。

なお、この 「那智史料」 の英訳版も一式が防研にあるようですが、こちらは私も見たことがありません。 本家サイトで公開するものよりも綺麗なものとも思われますので、興味のある方はこちらも是非一度防研でご確認ください。

posted by 桜と錨 at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年02月05日

『連合艦隊戦策 第1巻 戦闘編』 公開 !


本家サイトの今週の更新として、同サイトの 「史料展示室」 コーナーにて昭和18年12月5日発簡の機密連合艦隊法令第81号別冊 『連合艦隊戦策 第1巻 戦闘編』 をPDFファイルにて公開しました。

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「史料展示室」 内容一覧ページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
「連合艦隊戦策」 公開ページ :
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/46_GF_Sensaku_S18_Nachi.html

この文書は、昭和19年12月にマニラ湾で米軍機の攻撃により沈んだ重巡 「那智」 からフィリピン奪回後に米軍が回収した旧海軍の文書、通称 「那智史料」 と言われるものの中の1つで、昭和36年に日本に返還されたものです。

旧海軍関係のものは終戦時にほとんどが焼却処分されており、ごく僅かしか残っておりませんので、この 「那智史料」 は大変貴重な史料で、研究者にとってはまさに第1級のものといえるでしょう。

この返還された 「那智史料」 は現在防衛研究所戦史研究センター史料室に保管されていますが、まだアジ歴などでは公開されていません。

今回私が公開するものはこの史料室にあるものではなく、別に複製されたもののコピーからです。

米軍が引き揚げた時の状態なのか、大変に傷みが激しく、一部欠落するとともに大変不鮮明な個所も多くあります。 また複製作成時に使用された複写機も今日からすれば大変旧式なものです。 それでもかなりの部分が判読可能ですので、ほぼその全容は掴んでいただけると思います。

私は防研保管のものを見たことがありませんので、もしかするとこれより鮮明なのかもしれません。 興味を持たれた方があれば、是非一度防研の原本をご覧になることをお薦めいたします。

posted by 桜と錨 at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年01月29日

HP 『海軍砲術学校』 の更新


当ブログの本家サイトである 『桜と錨の海軍砲術学校』 の更新として、『旧海軍の基地』 コーナーに 「オレアイ (Woleai)」 「ウェーキ (Wake)」 「ナウル (Nauru)」 の3つの航空基地のページを追加しました。

Woleai_photo_s.jpg
( オレアイ環礁の全景写真 )

Woleai_map_s.jpg
( オレアイ島の日本軍施設配置図 )

航空基地リストページ :
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/Nav_Air_Base_list.html
オレアイ航空基地 :
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/070A-Woleai.html
ウェーキ航空基地 :
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/178A-Wake.html
ナウル航空基地 :
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/A018_Nauru.html

ウェーキはともかくとして、後の2つは大変にマイナーな基地ですので今ではほとんど知られていないものです。

もちろんいずれも日本側の史料に乏しく詳しい経緯などは不明なのですが、今のところここまでは何とか判る、というところで纏めまてみました。 こういうものも記録として残しておかないとと思っていますので。

リストにあるほとんどの航空基地については、史料等もそれなりに集まりつつあるのですが、なかなか時間がとれなくて記事に纏めることができないのが残念です。

本家サイトの他のコーナーと同じように、このコーナーも突然思い出したようにボチボチと追加していきますので、気長にお付き合いください。

もしこの航空基地をというご要望がございましたら、お聞かせいただければ手の空いた時にページを作ってみたいと思います。

posted by 桜と錨 at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年01月20日

「世界の艦船」 2月号増刊


『世界の艦船』 の最新号は傑作軍艦アーカイブの第3集目となる2月号増刊の 『戦艦 「長門」 型』 です。

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編集部さんの意気込みどおり、豊富な写真ページも含めて 「長門」 型の総集編に相応しいものとなっています。

私もこの中で次の記事を担当させていただきました。

  「 長門型のメカニズム B 兵 装 」

もちろん紙幅の関係で 「長門」 と 「陸奥」 の就役から最終までにわたる変遷の詳細を全てご紹介することは出来ませんでしたが、それでもまずは十分な内容と自負しております。

以前にも書きましたが、私は原稿のご依頼をいただいた場合には、過去何処かに書かれたもののつまみ食いをするようなことはしたくありませんので、私の元船乗りとしての経験とこれまでの研究成果による独自の内容を心掛けております。

そして可能な限り一般出版物ではこれまで出たことのない事項やデータを加えることにしております。

それはご依頼いただいたことに対する感謝の気持ちと礼儀であると思っているからです。

今回も細かいことも含めて色々と盛り込んでおります。 特に 「一式徹甲弾」 についてはご来訪の皆さんに興味を持っていただけるのではないかと思っています。

書店の店頭で見かけられた時には、是非手にとってご覧下さい。

posted by 桜と錨 at 14:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年01月19日

邦訳版 ライト著 『With TOGO、東郷とともに』


本ブログでも度々ご紹介しているサイト 『軍艦三笠 考証の記録』 の管理人であるHN 「八坂 八郎」 氏の最新私家本です。

今回は日露戦争に日本側艦船に乗艦して従軍した英国人記者セッピングス・ライト (Seppings Write) がものした 『 With TOGO, the story of seven months' active service under his command 』 の邦訳版で、第1巻として原著の第1章から7章までが収録されています。

内容としては、英国出発から始まって、日本到着時は丁度旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫の葬儀の時で、その後連合艦隊の根拠地に向かい、蔚山沖海戦、そしてその後の旅順口封鎖作戦の始まりまでになります。

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いつもどおり丁寧な訳出で、大変に読みやすいものとなっております。 そしてなりよりも、著者の記憶違いなどによる地名、艦艇名などの誤りを丹念に調べて訂正が加えられています。

当該書の邦訳版が出版されたことは今までなく、かつ原著も日本ではあまり広く知られているとは言い難いものがあります。

しかしながら、外国人の目で見た日露海戦記であることはもちろん、旅順口封鎖作戦についての見聞であり、また日本海軍の日常を記したものとしても大変に興味のあるものとなっています。

これが今回八坂氏の手によって日本語で読めるようになったのは嬉しいことです。

もちろん原著の方は既に著作権が切れており、インターネットのいくつかのところで公開されていますので、両者を対比しながら読まれるのも面白いと思います。 (古本では8千円〜1万円くらいするようです。 (^_^; )

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八坂氏のサイトでの紹介頁は次のところです。


この邦訳書は昨年11月の 「文学フリマ 東京」 に出品されましたが、まだ余分があるようですので、興味のある方は入手方法など氏のサイトから直接コンタクトをとってみて下さい。 (プロフィール欄からメッセージが送れます。)


posted by 桜と錨 at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年01月10日

艦隊司令部職員の構成と職務 (6)


さて次の日露戦期まで進む前に、明治27年段階でのことをもう少しお話しします。


この明治27年に艦隊條例が改訂されたことは既にお話ししましたが、艦隊編制時のその名称は勅令によることは先のとおりです。

その他で注目すべきはその第3条で

 第三條 艦隊ニハ水雷艇及運送船等ヲ附スルコトヲ得

とされ、従来軍艦のみとされ、艦隊が狭義での戦闘を主眼としていたものが、常備艦隊の経験もあり、ここに来て広汎且つ柔軟な運用を可能とする近代的な艦隊としての編成とすることができるようになりました。

日清戦争ではまさにこれが具現化され成果を挙げたわけです。


もう一つが、従来の参謀に加え、幕僚として艦隊航海長、機関長及び軍医長という職員が置かれたことです。

なおこれら幕僚とその名称については多少の変遷がありますが、これについては省略いたします。

また、従来からあった 「伝令使」 についてはこの明治27年の制定時に、「秘書」 については明治32年の改正時になくなり、代わってその明治32年の改正時以降は 「副官」 が置かれることになりました。

例えば明治36年の条例改正時における幕僚及び艦隊付は次の様になっています。

Kantaishokuin_M36.jpg

この明治27年の艦隊條例制定当時において、実際の艦隊の編制とその目的・任務が次第に拡がってきましたので、司令長官の職務も広汎なものとなり、それを補佐する幕僚の業務も次第に増えることになります。

このため、艦隊條例で定められた幕僚のそれぞれの職務内容の詳細について示す必要が出てきたため、明治27年11月に艦隊職員条例が廃止されて、新たに 「艦隊職員勤務令」 (達168号) が制定されたのです。


この艦隊職員勤務令は、明治34年に達42号を以て全面改訂されました。


そしてその後幾度かの小改正が行われましたが、大正3年になって廃止されてしまい、以後この種のものが制定されることはありませんでした。

なぜなんでしょう?

それは、この艦隊職員勤務令をご覧になれば、各幕僚の職務についての規定はともかく、指揮官たる司令長官等の職務はこの当時でも大変に広範多岐にわたるものであるということがお判りになるでしょう。

したがって、幕僚の役目はこの司令長官等の職責の全ての業務について円滑に行われることを補佐するものであることを考えるなら、一々これを “これは○○参謀担当” などと細かく分けて規定することは不可能であるということです。

そして大正、昭和へと益々艦隊の編成、目的、行動内容が多岐にわたってくるに及んでは、具体的な職務については海軍省達等で規定し、その都度一々改変していくよりは、各艦隊に任せ、艦隊内でその任務・行動や業務に応じて振り分ける方が都合がよくなりました。

これが艦隊職員勤務令が廃止された大きな理由です。

このため、海軍部内では当然のこととして行われてきたことが、海軍の公文書として明文化されていないこともあって、戦後の研究家などにとって “○○参謀が担当するものは何?” “艦隊機関長とは何するの?” ということになってきたのです。

したがって、これらの具体的なことについては艦に乗ったことの無い方々には、なかなか理解いただけないことではないかと。

とはいっても、明治期後半〜大正初期のものであり、また中には当時の古い条項もありますが、この艦隊職員勤務令をお読みいただけば、司令長官等の職務や各参謀や幕僚によるその職務分担の一端がお判りいただけるのではないかと思います。

例えば、ネットの某所で艦隊機関長や主計長について話題になった時に

 なんか……パッとしない職業なんですねぇ。

という所見を述べた方がおられますが、とんでもありません。 大変に重要で多忙な職務であり、単に機関大佐のポストを増やすためとか、あってもなくてもよいようなという配置ではないのです。

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2017年01月06日

艦隊司令部職員の構成と職務 (5)


前回明治27年7月19日に連合艦隊が初めて組織されたことを書きましたが、その中で “あれっ?” と思った方がおられるかもしれません。

そうなんです、連合艦隊編制に先立って警備艦隊が編制されましたが、その上裁・裁可が7月10日であるのに海軍省達の発簡は7月13日になっているのです。

裁可を得られたならば当日、遅くとも翌日には出されるのが当然ですが、これは何故なんでしょう?


これは次の通り海軍の意図として、 「橋立」 及び 「厳島」 が佐世保に集結し、常備及び警備の両艦隊の体勢が揃うのを待ってから実施するためだったんです。

Keibikantai_M27_02.jpg

そして 「厳島」 は11日、「橋立」 は12日に佐世保に到着しており、これによって翌13日の警備艦隊編制となりました。


次ぎに、この初めて編制された連合艦隊ですが、何時何を以て解かれたのでしょうか?

旧海軍が出した公式資料である 『海軍制度沿革』 でも、なぜかこの時の連合艦隊が解かれたことについてだけは記述されておりません。 また、公刊戦史である 『二十七、八年海戦史』 にもありません。

このため戦後出されてきた多くの出版物などでもこれを明確に書かれたものはまずありませんでした。

実際には、日清講和条約発効直後の明治28年5月17日に 「官房1873号の3」 によって解かれております。

Rengoukantai_kaitai_M28.jpg

また、戦時に際しての臨時編制であった西海艦隊は、戦後処理が一段落した同年11月15日になって 「海軍省達125号」 によって解隊されています。

Seikaikantai_kaitai_M28.jpg


さて、そこで注目していただきたいのは、初めて連合艦隊が誕生した日清戦争においては、警備艦隊については 「編制する」 「解隊する」 となっていますが、連合艦隊については 「組織する」 「組織を解く」 として公式文書では明確に用語を区別していることです。

これは後で述べる “連合艦隊とは何か” ということについて重要なポイントになりますので、是非覚えておいてください。

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2016年12月25日

艦隊司令部職員の構成と職務 (4)


さて、前述の明治22年に制定された 「艦隊條例」 と 「軍艦條例」 ですが、これらはそれまでの海軍省達などではなく、勅令となっています。

これは、この年の2月に大日本帝国憲法、俗に言う明治憲法が発布されたことによります。 即ちその第12条で、

 第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及其ノ常備兵額ヲ定ム

とされました。 これがいわゆる 「編制大権」 と言われるもので、これによって関連する法規類も勅令によることとなったわけです。 因みに第11条が有名ないわゆる 「統帥大権」 です。


そこで、前述した明治17年の 「艦隊編制例」 及び 「艦隊職員条例」 と同時に定められた司令長官等及び艦隊職員に対する補佐業務のための 「旗艦増員表」 です。

この海軍省達として定められた旗艦増員表は明治19年2月19日に廃止されました(達丙28号)。

Kikanzouin_haishi_M1902.jpg

換わって同日付の海軍省達丙29号によって、旗艦の構造により増員する上限を示すものとなります。


そして明治22年の憲法発布により、艦隊條例などと同様にこれも23年10月になって勅令として定められることになります。

これが 「鎮守府艦隊司令長官旗艦増加定員表」 (勅令239号) で、更にこの増加定員の内訳を示したものが 「同 識別表」 (達392号) です。


この時の増加定員表には司令官旗艦についての定員増加は有りませんでしたが、明治27年6月の艦隊條例改訂に併せ、同年7月に旗艦増加定員表が改正 (勅令71号) されて司令官旗艦にも増員されることとなりました。



そこでこの明治27年ですが、この年に朝鮮で発生したいわゆる東学党の乱は静まることはなく、6月になって鎮圧に失敗した朝鮮政府が清国に助けを求めるとの情報が日本にもたらされました。

これに応じて6月5日には前年の5月19日に制定された「戦時大本営条例」(勅令52号)に基づいて大本営が設置され、朝鮮国内の平定と居留邦人保護のための出兵の体制を整えます。

海軍も情報収集を兼ねて朝鮮周辺に艦艇を集中すると共に、7月13日これまでの常備艦隊に加えてもう一つ、臨時に 「警備艦隊」 を編制し、19日にはこれを 「西海艦隊」 と改称します。

Keibikantai_M27.jpg   Saikaikantai_M27.jpg

そしてその19日付けで常備艦隊と西海艦隊の2つをもって 「連合艦隊」 が組織されました。 ここに 旧海軍初の連合艦隊が誕生 することになったのです。

Rengoukantai_M27.jpg


ところが、ここに大きな疑問があります。 なぜなら6月に勅令をもって定められたばかりの 「艦隊條例」 ではその第2条で

第二条 艦隊ハ之ヲ常備シ又ハ臨時編制ス 其ノ名称ハ特ニ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

とされているからです。

この規定にもかかわらず、警備艦隊の編制及びその西海艦隊への改称はそれぞれ 「海軍省達117号」 及び 「同122号」 によってなされており、更に連合艦隊の編制については大臣官房から 「官房2019号」 により示されているに過ぎません。

もちろんこれらは全て上裁の上で裁可されていますが、ではなぜ勅令として出されなかったのか?

Keibikantai_jousai_M27.jpg   Seikaikantai_jousai_M27.jpg

Rengoukantai_jousai.jpg

いくつかの理由は考えられますが、“これだ” という史料がありませんので実際のところは不明です。


なお、この連合艦隊ということについてはまた後でお話しする予定です。

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2016年12月21日

艦隊司令部職員の構成と職務 (3)


明治17年に定められた 「艦隊編制例」 は、明治22年になって 「艦隊條例」 (勅令100号) となました。


この條例によって、これまで大・中・小の3種であった艦隊の区別がなくなり、艦隊司令長官は大中少将のいずれでも良いことになります。

そして大・中将が司令長官の場合で艦隊の隻数が多い時には、その下に少将又は大佐の司令官を置くことができるようになりました。

この條例に併せて7月29日、海軍省達294号によって常備小艦隊は 「常備艦隊」 と改称されます。

Joubikantai_kaishou_M2207.jpg

これにより小艦隊ではなくなったことにより、井上良馨司令官は少将のままで 「常備艦隊司令長官」 となりました。 ただし少将ですのでその幕僚には参謀長がおりません。


この艦隊條例には艦隊の編成についてだけではなく、司令長官等や艦隊職員についても盛り込まれ、“艦隊及びその司令部とは何か?” ということが次第に明確になってきました。

そしてその職員としてこれまで 「属員」 と呼ばれていたうち、参謀長、参謀、伝令使、秘書については初めて 「幕僚」 という名称となりました。 

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また、この艦隊條例制定と同時に 「軍艦條例」 (勅令99号) が制定され “軍艦はどのように運用さるか?” が明確となり、そして艦隊に編入中といえどもその本管 (所管) は鎮守府にあることが規定されました。


いわば艦船の修理・補給などの後方支援や准士官以下の乗員の人事などは所管の各鎮守府が全て一括して担当し、任務行動が可能となった 「在役艦」 を艦隊に派出するという形になったわけです。

これによって各艦の艦長はもちろん、艦隊の司令長官等も後方支援や人事などについて所管の鎮守府と調整すれば良く、スッキリとした形となり随分と楽になったと言えます。


次はいよいよ連合艦隊の誕生となります。

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2016年12月19日

艦隊司令部職員の構成と職務 (2)


前回お話ししたように、明治17年の 「艦隊編制例」 とその関連の規定により、ようやく今日の 「艦隊司令部」 に通じる姿が出来てきました。

とは言ってもまだまだ荒削り、試行錯誤の段階であり、艦艇が次第に整備し始めるに併せて順次改定・修正が加えられつつ形を整えていくことになります。

これらの詳細については機会があれば別項にてお話しすることとし取り敢えず先に進みますが、ここでは一つ補足をしたいと思います。 それは艦隊の指揮官の名称についてです。


明治3年に初めて小艦隊が編成された時は、その指揮官の名称は 「小艦隊指揮」 でした。

その後 「艦隊指揮」 「艦隊指揮官」 「艦隊司令官」 などが使われていましたが、明治15年になって海軍省達丙70号によってこれらを 「大 (中) (小) 艦隊司令官」 と呼ぶことで統一されました。

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そして更に明治17年には同じく海軍省達丙139号によって大 (中) 艦隊は 「司令長官」 と改正され、小艦隊は 「司令官」 のままとされました。

これが後に 「(連合) 艦隊司令長官」 「戦隊司令官」 へと繋がっていくことになります。

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ついでにもう一つ、明治17年の 「艦隊編制例」 によって艦隊はその編制される軍艦の規模によって大、中、小の3種に分け、そしてこれら常備又は臨時に編制されることとされました。

そこで、これに基づき翌18年12月29日になって、海軍省達丙82号により当時編制されていた中艦隊の8隻をもって 「常備小艦隊」 が編制されました。

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初代の司令官には 「扶桑」 艦長であった相浦紀道大佐が少将に昇任の上での補職です。 もちろん小艦隊ですから、司令長官ではなくて司令官です。
 
この常備小艦隊は 「艦隊編制例」 の規定によりその編制目的が冠された初めての艦隊名となり、また明治・大正・昭和を通じて連合艦隊が編成された場合を除き、常設の艦隊が置かれる始まりとなりました。

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