2008年10月17日

戦闘旗について

 旧海軍のことで簡単に言い流されるけれども、間違ったことがまことしやかに通用していることは多々ありますが、その一つに「 戦闘旗 」があります。

 例えば、艦船モデラー達に愛読されている有名な『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』(グランプリ出版)には

 「駆逐艦での戦闘旗は、後檣の揚旗斜桁に掲げるのが一般的であった。」(p169)

 あるいは、インターネット上でも艦艇写真をUPしてその説明に「後檣ガフに戦闘旗が揚がっている」などと書いているものもあります。

 違いますって! 私などからするともういい加減にして欲しいくらいです。 確たる根拠を一度でも見てみたら、と。

 昭和7年に改正された『海軍旗章令』の第28条で、

「軍艦旗ハ艦艇及特務艦ノ後部旗竿又ハ斜桁ニ掲揚ス・・・(後略)」

 と規定されています。 つまりガフに掲揚するのは、通常の “日本海軍の軍艦であることを意味する旗”、いわゆる「艦旗」です。

 そして、規定上は軍艦旗は後部旗竿でもガフでもどちらでも良いようになっていますが、普通は後部旗竿に掲揚します。 そして、艦が合戦準備をした時には戦闘時に邪魔になる後部旗竿を格納しますので、これを後檣ガフに移します。 これは規則に定められたものではなく、いわゆる慣習であり、船乗りの常識です。

 では戦闘旗とは何か?

 『海軍旗章令』の第30条第2項で、

「艦船戦闘中ハ前項ニ規定スルモノノ外檣頂ニ軍艦旗一旒ヲ掲揚スルヲ例トス」

 と規定されています。 これが戦闘旗です。 つまり戦闘旗とは実際の戦闘中しか掲揚されませんが、この時には先の「軍艦としての旗」と合わせて “ 2つの軍艦旗 ” が揚がっていることになります。

battle_flag_1_s.jpg

battle_flag_2_s.jpg

 例を示しましょう。 上の写真が明治37年8月の黄海海戦時の一枚、下は昭和16年12月の真珠湾作戦時の一枚、共に有名な写真ですから一度はご覧になったことがあるでしょう。 これが戦闘時の艦旗と戦闘旗です。

 余談ですが、戦勝した海戦において掲げた戦闘旗を「 記念軍艦旗 」として保存します。 これは一戦役につき一旒、即ち1枚に限られますが、海軍記念日や当該海戦記念日などで掲揚することができます。 そしてこの記念軍艦旗には、隅にその戦歴を書いたものを縫いつけるのが普通です。

 このことは「記念軍艦旗規則」として定められています。

 私がこの記念軍艦旗の実物で見たことがあるのは、かつて「出雲」が日本海海戦で掲げたものです。 この旗が時を経て、かの有名な松本零士氏から海上自衛隊に寄贈された時、その贈呈式を「きりしま」艦上で行いましたが、式の後の体験航海時にこれをメインマストに掲げて出港しました。 懐かしい思い出の一つです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

戦闘旗について (2) :

戦闘旗について (3) :

posted by 桜と錨 at 21:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2008年10月21日

戦闘旗について(2)

 それでは、戦闘旗について現在の海上自衛隊ではどうなのか、と言うことですが、これがまた大変におかしなことになっています。

 まず、軍艦旗に替わる「自衛艦旗」(とは言っても、ご存じのとおり旧海軍の軍艦旗と現在の自衛艦旗は全く同じものなのですが)については、昭和30年に制定された「海上自衛隊旗章規則」の第15条で、

「(自衛艦の場合)
 第15条 自衛艦は、次の各号に掲げる時間、艦尾の旗ざお(潜水艦が航海中である場合にあつてはセール上部の旗ざお)に自衛艦旗を掲揚しなければならない。・・・(以下略)」

 となっています。 つまり、日本国海上自衛隊の艦であることを示す旗、即ち “艦旗” は、旧海軍とは異なり「斜桁」というものがなくなり、停泊中でも航海中でも基本的には艦尾旗竿にしか掲揚しません。

 “基本的には”というのは旗竿や後甲板が整備のために使えない(立ち入れない)場合などには当然メインマストなど適宜のところに掲揚できるからです。

 で、その次の規定が面白いんです。

「(武力行使等の場合)
 第15条の2 法第76条第1項の規定により出動を命ぜられた自衛艦が、武力を行使する場合には、自衛艦旗をメインマストに掲揚 するのを例とする。
 2 前項の規定は、自衛艦が戦闘訓練を行なう場合に準用する。」

 “例とする”というのは、特段の支障や事情が無い限りそうしなさい、という法規独特の言い回しです。

 それでもまあ、これは何ですか、という文言です。 一体 “武力行使をする場合” とはどういう状況の時で、それは何時から何時までか、などは全く示されておりません。

 第2項の戦闘訓練を行う場合でも、これは戦闘訓練中は常時なのでしょうか? それとも訓練中の “武力行使をする時だけ” なのでしょうか?

 実は、この「旗章規則」というのは 「防衛庁訓令」 という法令の種類です。 つまり、海上幕僚長ではなく、防衛庁長官が自ら定めたものです。 と言うことは、軍のことなど全く判らない、紙の上でしか知らない防衛官僚なる小役人の手になるものということです。

 で、結局はこの「旗章規則」、訳の判らないところが沢山ありますので、海上自衛隊は昭和45年に「海上自衛隊旗章細則」という達と、「海上自衛隊旗章規則の解釈及び運用方針について」という通達を出して、なんとか現場の海上自衛官達が迷わないようにしたのです。

 その後者の通達の中に、次のような規定があります。

「10 第15条の2第2項関係
 「戦闘訓練を行なう場合」には、合戦準備の下命があつたときからを含むものとする。」

 と言うことで、海上自衛隊では「教練合戦準備」が下令されている間は(戦闘中か否かを問わず)常に自衛艦旗はメインマストに掲揚されていることになります。 そして、当然この考えから、実動の場合でも「合戦準備」をしている間は常にメインマストということになります。

 即ち、海上自衛隊には「戦闘旗」という概念は無い ことになります。

 ではこれをお読みいただいている皆さんに質問です。 旗章規則第15条の2でメインマストに掲げられる自衛艦旗は、通常は艦尾旗竿に掲揚するものを移す(揚げ替える)のでしょうか? それとも旧海軍の戦闘旗のようにもう一つ別の自衛艦旗を掲揚するのでしょうか?

 さて、どちらでしょう? 考えてみて下さい。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

戦闘旗について (1) :

戦闘旗について (3) :

posted by 桜と錨 at 21:51| Comment(4) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2008年11月11日

水雷艇「雁」の運んだ金塊は

 連載中の「聖市夜話」で第10話に出てきました「雁」がペナンに運んだ金塊2トンですが、第10話の最後に追記 しましたように、「伊29潜」と「U−180」とによって独逸に無事運ばれたものです。

 この金塊、2トンという量のことはロスキル(Roskill)著「The War at Sea」の第2巻でも書かれており、日付的な関係からこれで間違いないと考えます。

 なおチャンドラ・ボースとも関係する、この「伊29潜」と「U−180」の話は余りにも有名で、様々なものが出ており、皆さんもよくご存じのことと思いますので、詳細については省略します。

 一つのことが、調べていくと色々なことに関係していますね。 だから歴史(戦史)は面白い。
posted by 桜と錨 at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2008年11月12日

「雁」がシンガポールで出会ったドイツ特設砲艦とは?

 11月7日の『聖市夜話』(第9話)平和郷「昭南」(その2)の最後で出てきた“ドイツ特設砲艦”についてです。

 日付がはっきりしませんが、「雁」が修理のためシンガポールに到着したのが18年2月初めで、少なくとも現在の第12話で出てくる「山里丸」の事件(4月22日)までは同地に在泊して修理に従事しております。

 とすると、この特設砲艦はシンガポールに2月18日〜20日に在泊した通称“Schiff 28”、イギリス側で“Raider H”と呼ばれる、仮装巡洋艦「HSK-9 Michel」のことだったとも考えられます。

 もしそうであったとすると、同艦はこの記事のあとドイツに帰国したのではなく、日本に向かい3月1日〜5月21日の間神戸に在泊、その後10月17日に日本近海で米潜「Tarpon」に撃沈されるまでの長い長い最後の航海に出ることになります。

 仮装巡洋艦「HSK-9 Michel」については、次のサイトなどで紹介されていますのでご参考までに。


 なお、「雁」がシンガポールで出会ったとするこのドイツ特設砲艦について、他にご存じの方がおられましたならばご教示をお願いいたします。
posted by 桜と錨 at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2008年12月20日

海上護衛戦史料について

 既に連載中の「聖市夜話」で何度か出てきましたが、旧海軍の海上護衛戦についての貴重な史料として、次の一連のものがあります。

 『 海面防備(対潜・対機雷)史料 』
  同 別冊第一 『 海面防備(対潜・対機雷)関係者回想所見集 』
  同 別冊第二 『 大東亜戦争における海上護衛戦資料 』

escort_ww2_cover_s.jpg

escort_ww2_cover_app1_s.jpg

escort_ww2_cover_app2_s.jpg

 元々は、戦史叢書編纂のために昭和34年頃から編纂官が旧海軍の関係者から集めたものですが、自衛隊部内の教育・研究の参考とするため、昭和47年に防衛研修所戦史室(当時)がこれらを取り纏めて3分冊の冊子として印刷・配布したものです。

 したがって、当然ながら一般には配布されませんでしたし、また現在となっては部内でももうほとんど残されていないものです。

 しかしながら、旧海軍の海面防備及び海上護衛についての研究上大変貴重なものであり、特に後者については、戦史叢書「海上護衛戦」を補完・補足するものして必須ともいえる内容でしょう。

 この方面に興味のある方がおられましたら、もし機会がありましたら是非ともご一読・ご入手されることをお薦めします。
posted by 桜と錨 at 23:01| Comment(10) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2008年12月30日

レイテ沖反転−栗田証言

 未整理のままで段ボール箱に入って山積みになっているものの中からは、こんなものも取っておいたのか、というものが沢山出てきます。

 例えば、↓ は、レイテ沖海戦において栗田艦隊の “謎の反転” と言われることについて、栗田提督自身が昭和46年に語ったものの毎日新聞の記事です。

kurita.jpg

 今日ではよく知られたことですので、内容そのものが貴重というわけではありませんが、一つの史料としてコピーしておいたものです。

 もちろん、この栗田証言によっても反転理由の全貌が解明された訳ではありませんで、未だにある意味 “謎” の部分がかなり残されています。

 といいますのも、当時の関係者が真実の全てを語ることなく冥土の土産にしてしまったところもあるからです。

 実際、私も海自OBの某戦史家からの又聞きですが、某司令部参謀が自ら電報を栗田長官に見せることなく握りつぶしてしまったことなどを氏に直接語ったということも耳にしています。

 これなども、某参謀も既に故人となられた今となっては、もう永久に真実が日の目を見ることはないでしょうね。 残念なことですが。

( もし、当該新聞のコピーを参考として欲しいという方がおられましたら、本家HP掲示板にその旨書き込むか又はメールを下さい。 ただし、もう20年以上前にコピーしておいたものですので、あまり綺麗ではありませんが。)


posted by 桜と錨 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年02月06日

第2次大戦中のソ連海軍について

 これも某巨大掲示板で話題に出たことですが、第2次大戦中のソ連海軍、中でも極東艦隊とアムール分遣隊の艦艇について知りたいということでした。

 同掲示板で以前にも一度出た話題なのですが、十分な回答が得られなかったのと、教えられたサイトが見つけられなかったとのことらしいです。

 まあ、質問したご本人にどの程度の必要性があるのか、またどの程度の活用が出来るのかは不明ですが、少なくとも外国のことを調べるのでしたら、例えそれがソ連のことであったとしても、せめて英語でそれなりに検索すればかなりのことが判るのではないかと思うのですが・・・・

 一例として、米国の情報公開法のお陰で秘密指定が解除されたこんな文書もネット上にあります。

soviet_navy_1943_cover_s.jpg

 1943年に米海軍の情報部(現在のONI)が作成したソ連海軍に関する調査報告書で、当時は「極秘(Secret)」文書だったものです。

 内容は早い話が公刊されているノーマン・ポルマー氏の『ソ連海軍辞典』の米海軍公式版の様なものと思っていただければよろしいかと。

 組織・編成や人事・教育などはもちろん、艦艇・航空機・武器や各基地などについて網羅されており、写真、図なども豊富で全390頁です。

 興味のある方は捜してみてはいかがでしょうか?
posted by 桜と錨 at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年02月11日

旧海軍の機雷と機雷戦について

 本家HPの方で相互リンクしていただいている GO氏の 「稀少資料艦艇研究所」 の掲示板に外国の方から旧海軍の機雷堰に関する話題が入っておりました。

 当該話題には直接関係がありませんが、これに関連して旧海軍の機雷についてこちらでご紹介を。

 ご存じのように、機雷には攻勢的用法と防勢的用法とがあります。

 前者は敵の侵攻(作戦)予想経路の前提に機雷原を作り、これによって敵の勢力削減や企図挫折を狙うものです。 日本海軍としての代表的なものが、日露戦争時の旅順港前面への機雷敷設による「ペトロパブロフスク」撃沈と座乗していたマカロフ提督の戦死というのがその一例でしょう。

 そして後者の代表が港湾(海面)防備です。 これについての旧海軍関係の戦後史料の例として、先に「海上護衛戦」の話題で取り上げた部内史料などがあります。

 ここでご紹介するのは、GO氏のところで話題になった具体的な攻勢機雷堰ではありませんで、旧海軍の機雷やその取扱そのものに関する部内史料です。

 まず一つ目がこれ ↓

SG_Mine_S28_cover_s.jpg


 昭和28年の警備隊術科学校におけるテキストです。 当時の情勢から、扱われているのは第2次大戦で使用された旧海軍及び米海軍の代表的な機雷で、これらの機雷について、構造・作動や使用法などが記述されています。

 2つめがこれ ↓

SG_Minesweep_S30_cover_s.jpg


 警備隊から海上自衛隊となってからの昭和30年の術科学校におけるテキストです。 当然ながらこれも当時の情勢から、扱われているのは日本周辺に敷設され残存している可能性がある旧海軍や米海軍の機雷の掃海法についてのものです。

 とはいえ、掃海のためには、その対象とする機雷やその機雷の用法(敷設法)が必要ですので、前半はこれらについてが説明され、後半にそれらに対する掃海法が記述されています。

 そしてその掃海法も、当時の海上自衛隊が保有する掃海具及び掃海のノウハウは旧海軍のものそのままが中心です。

 これらの戦後史料も旧海軍に関する貴重な史料ではありますが、何せもう50年以上も前のものであり、当の海上自衛隊そのものにもまだ残されているんでしょうかねぇ・・・・?
posted by 桜と錨 at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年02月21日

艦の変針・変速と当直将校

 本日の「聖市夜話」(船団轟沈・流れ弾警戒−2(その2))


 で、艦長が当直将校などへの命令事項を綴った「艦橋命令簿」というものが出てきます。 この中で、

 「当直将校は艦長の命を待たず、直ちに船団外方に緊急転舵するものとす。」

 となっています。 当直将校は、艦長の命令がないと変針や変速は自分の判断では出来ないの? と思われる方もおられると思います。

 そう、出来ないのです。

 当直将校の職務については 『艦船職員服務規程』 の第481条で

 「当直将校は航海中艦長の定める所により艦の操縦を掌るべし」

 とされていて、艦長の指揮監督下で操艦に当たります。 これによって、航海中に交代者のいない“一直配置”の艦長も食事やトイレ、仮眠が可能になるのです。

 しかしながら、同規程の第485条で

 「当直将校は針路の変換、速力の増減、・・・(中略)・・・に関しては必ず艦長又は副長の命を待つべし、但し緊急の場合に於いては適宜必要なる措置を執りたる後事件に応じ速やかに之を艦長又は副長に報告し・・・」

 とされ、夜中であろうと何であろうと、全て艦長の許可を得た後でなければ当直将校は勝手に変針も変速もしてはならないのです。 これは例え旗艦からの変針変速命令が出た場合でもです。

 艦長の “一直配置” の大変さ、というのがこのこと一つでもご理解いただけるでしょうか?

 したがって、艦長の責務としては第485条にある「緊急の場合」というのがどの様な時なのかを、イザという時にその場で当直将校が迷わないように、出来るだけ具体的に予め示しておく必要があります。

 その一つが今回の「聖市夜話」に出てくる艦橋命令簿の話しなのです。

 ところで一方では、やはりそこは“船乗りのスマートさ”、上手く考えられています。

 例えば速力の増減。 ここで言う増減とは、「前進原速」とか「第一戦速」とか、機関操縦上で定められた速力の使用法のことを示します。

Sp_Telg_s.jpg

 ところが、例えば単縦陣で航行している場合、同じ「前進原速」であっても、実際には各艦とも全く同じ速力で走れるわけではありません。 船体の汚れ具合や、その時の吃水、微妙なプロペラ回転数の違い、・・・・等々があるからです。

 そこで、この「前進原速」などを適正に維持するために「赤黒」というのを使用します。 例えば「赤10」と言うように。

 これはその時の使用速力に対する規定プロペラ回転数に対してその数値分だけ回転数を増(=黒)減(=赤)することを意味します。

 この赤黒の使用は艦長の許可を得る必要はなく、当直将校が自分の判断で自由に使うことができます。

(単縦陣の列艦距離を常に適正に維持するための赤黒の使用で、夜中に一々艦長が数分〜十数分おきに起こされたのでは堪りません。)

 この赤黒は、これを機関操縦室に指令するために「回転通信器」というのを使用します。 戦艦や空母ですと最大で20まで、巡洋艦で30ですが、駆逐艦などでは50が最大です。 大雑把に言って大体10回転が1ノットぐらいに相当すると考えていただければ宜しいかと。

Prop_Roll_Telg_s.jpg

 この変針変速の権限や、「赤黒」を使う速力調整のやり方は旧海軍からの伝統で、現在の海上自衛隊にも引き継がれています。

 で、それなりの操艦技量を持った普通の当直士官ならば、陣形位置保持のための「赤黒」の使用は大きくてもせいぜい10か15までを使えば十分なんですが、中には艦長が寝ている間に40とか50とかをバンバン使う強者も・・・・(^_^;
posted by 桜と錨 at 14:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年03月01日

旧海軍の「軍令」について

 インターネットで、例えば “日本海軍” というキーワードで検索すると、多くのサイトなどで次のような文章表現に出会うと思います。

 「 戦前の日本には「海軍」という組織はなかった。 もちろん、「海軍」は存在した。 それは憲法からも明らかである。 にもかかわらず「海軍」と呼ばれる統一されたひとつの組織が存在したことはない。」


 これ、言っている意味が判りますか? 簡単なようで、よく読むと何を言いたいのか判らない。

 その原因は、一番肝心なこの表現が前提とする文言がスッポリ抜けているからなんです。

 多分書いているご本人はそのことを承知の上で、自分の知識を誇示するためにわざとやっているのだと思いますが、中には他人のところからそのまま丸写ししたようなサイトもありますので・・・・

 何が抜けているのでしょうか? それは皆さんにお考えいただくとして、

 旧海軍という組織を考える場合に、最重要なものの一つが「軍令」というものです。 これの理解を抜きにしてはその特異性というもの、したがって「日本海軍」という組織・制度そのものを語ることは不可能でしょう。

 しかしながら、これをキチンと研究した文献というものは案外少ないのです。

 で、ご紹介するのがこれ ↓ 「日本海軍軍令の研究」 という論文です。

nav_ord_his_1979.jpg

 1979年に防衛研修所(当時)が印刷し部内配布したもので、旧海軍の軍令について現存する根拠文書等を網羅し、体系的に纏めた良書です。

 配布は部内だけで、一般の研究機関などへは配布されなかったと認識しておりますが、それでもまだ30年しか経っておりませんので、防衛省の関係各部には残されているものと思います。

 この方面に興味がある方は一読されてはいかがでしょうか?
posted by 桜と錨 at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年03月04日

「特艇員」とは?

 連載中の「聖市夜話」の第26話「三亜の白砂」(その6)の中で「特艇員」と言う用語が出てきました。

 「特艇員」とは「特別短艇員」のことですが、この正式名称で呼ばれることは滅多になく、ごく普通に単に「特艇員」と言われます。

 この特艇員、各艦ごとに乗員の中から選抜したカッターの艇員(クルー)の事で、例えば昭和17年に出された『海軍辞典』では、次のように説明されています。

    「 軍艦で特別に編成している短艇員=ボートクルーである。 特別短艇員は通例水兵中特に体力に優れ、気力旺盛なる者より選抜し、戦闘教育訓練の外には艦の雑務に服せしめず専ら短艇(カッター)橈漕の練習をなさしめ、主として荒天時または急を要する場合のカッター運用に従わしめられる。 なお海軍に於い行われるカッター競漕に出場する。 ・・・(中略)・・・ 又駆逐艦等にも所有短艇を以て軍艦に準じて編成する。」


 旧海軍では、荒天時などでの本来の使用は勿論ですが、この特艇員が最も有名なのは毎年一回行われる艦隊での短艇競技のための各艦代表クルーである点です。

cutter_02.jpg

 この競技で優勝した時の艦の名誉は非常に高いものとされ、このため各艦ともこの特艇員の養成と練習には相当な力を入れていました。

 そしてこの旧海軍の伝統は戦後の海上自衛隊にも引き継がれまして、昭和48、9年頃までは護衛艦隊でも盛んに行われました。

 当時、第10護衛隊(むらさめ、はるさめ、ゆうだち)などの特艇員の名はよく知られたところだったと聞いています。

 ところでこの特艇員、上記の解説にありますように“艦内の雑務に従事しない”というのがミソでして、普通の下士官兵は停泊中でも正規の課業や当直勤務の他に「役員」と称する色々の雑用で忙しいのですが、特艇員はこれらから免除され、練習がない暇な時間にはそれこそ日中でも居住区で寝ていたり、食事は特別なおかずが付いたりとか、ある意味で色々特別扱いされていたようです。

 逆に言うと、それくらいカッターを漕ぐのはきついことなんです。 そして旧海軍の士官及び下士官兵の全員が、海軍兵学校や海兵団で、そしてまた、今の海上自衛隊でも幹部及び海曹士の全員が、幹部候補生部学校や教育隊などで一度は必ず漕がされますから、それが如何にきついものかは判っています。

 したがって、当然のこととして「特艇員」ということで乗員一同からは一種の畏敬の目で見られていました。

 でも、手のひらはともかく、お尻の皮が剥けるのには困るんですよね〜。 年中治る暇がありませんから、痛いし、ジクジクしてズボンのお尻のところは汚れるし・・・・特に白制服の夏場は。

 にもかかわらず、現代でも防衛大学校、海上保安大学校や旧商船大学などでは部活動としてカッターが行われており、年一度の全日本大会での母校の名誉のために一年中練習をしています。 もちろん本人の自由意志による部員として。 彼ら自身、自らカッターのことを「奴隷船」と呼びながら。

cutter_03.jpg

posted by 桜と錨 at 20:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年04月10日

「特設突撃隊」 について

 相互リンクをいただいているHN「GO」氏のサイト 『稀少艦艇研究所』 掲示板にて 「特設突撃隊」 に関する質問がありましたので、コメントをつけましたが、こちらでこれに関連した補足説明を。

 ご存じのとおり、「特設突撃隊」 とは今次大戦終戦間際に「蛟龍」「回天」「震洋」などにより主として本土防衛のために、それこそ雨後の竹の子のように全国各地の沿岸に配備された部隊です。

 名称はその所在地名を冠したものと番号を付したものとの両方があります。(例えば、光突撃隊、第11突撃隊など)

 そして多くは 「特設特攻戦隊」 に属していましたが、中には鎮守府や警備府に直属しているものもありました。

 この部隊の基本的な編成については、『特設艦船部隊令』 の中で規定されており、主要職員は次のとおりです。

 司令、副長、特攻長、特攻隊長、通信長、内務長、修補長、軍医長、主計長、分隊長、隊付、教頭、教官

 また、各突撃隊の定員についてはそれぞれ内令で定められています。

 ところで、HN「GO」氏のところでの質問は、この 「特攻長」 と 「特攻隊長」 の職務とその関係についてでした。

 そちらでのコメントのとおり、これは海軍航空隊での 「飛行長」 と 「飛行隊長」 にそれぞれ相当します。

 ここでそれらの職を 『海軍航空隊令』 と 『特設艦船部隊令』 の規定で対比しますと、次のとおりです。

飛行長 : 司令の命を承け飛行科員を監督し戦闘に当たり其の指揮を執り飛行及び航空機の整備に関することを担任し之が教育訓練を掌り主管又は分担の諸物件を整備す (第12条)


特攻長 : 司令の命を承け特攻科員を監督し戦闘に当たり指揮を執り特殊兵器の使用及び整備に関することを担任し之が教育訓練を掌り分担の諸物件を整備す(第61条の25)


飛行隊長 : 司令の命を承け司令指定の飛行隊を監督し戦闘に当たり其の指揮を執り飛行及び航空機の整備に関することを分担し主任者の指示に従い之が教育訓練を掌り分担の諸物件を整備す(第13条)


特攻隊長 : 司令の命を承け司令指定の特攻隊を監督し戦闘に当たり其の指揮を執り特殊兵器の使用及び整備に関することを分担し主任者の指示に従い之が教育訓練を掌り分担の諸物件を整備す(第61条の26)


 なお、飛行隊長は原則として分隊長を兼務することはありませんが、特攻隊長の場合は「内令定員」上では通常は兼務することとなっています。

 複数の兵器を使用する突撃隊では、「内令定員」によって特攻隊長の所掌が決められている場合もあります。

 例えば、安房勝浦に配備された 「第12突撃隊」 の場合は19名の特攻隊長がいますが、蛟龍x 1、海龍x 2、回天(一型)x 2、回天(四型)x 1、震洋(一型)x 5、震洋(五型)x 8 の各隊長に充てられることとされています。

 また先の職員で特攻隊長、通信長などは分隊長兼務ですが、兼務でない兵科分隊長は、通常は各隊の基地隊長となります。

 したがって、例えば上記の 「第12突撃隊」 では19名の分隊長たる各隊基地隊長がいることになります。

 更には、始めから派遣隊の編成が予定されているような場合では、その派遣隊の指揮官要員は「内令定員」で「隊付」として計上されています。

 例えば、小松島に配備された 「第22突撃隊」 では、中佐又は少佐x 1名がこのために「隊付」に含まれています。

 特設特攻戦隊や特設突撃隊の創設経緯や編成・配備、各隊毎の定員などについての詳細は、機会があればまたその時に。
posted by 桜と錨 at 19:02| Comment(6) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年04月18日

軍艦のエンジン起動はスイッチ・ポン?

 あまり知られていないことの一つとして、軍艦というものは停泊状態から航行可能になるまでに一体どれだけの時間がかかるのか? ということがあります。

 つまり推進機関の準備所要時間のことです。

 中には、車と同じで 「スイッチ一発!」 などと思っている人もいるようですが・・・・(^_^;

 蒸気推進艦の例をとりますと、

1. まずボイラーに点火して高温・高圧の水蒸気を出せるようにしなければなりません。 これを 「気醸」 といいます。

2. プロペラを回すための蒸気タービンや蒸気管、蒸気弁などを暖めなければなりません。 これを 「暖気暖管」 と言います。

3. この1.及び2.が完了したら、キチンとプロペラを回せるかどうかのテストをして確認する必要があります。 これを 「試運転」 と言います。


 それぞれに必要な時間は、ボイラーやタービンの形式・大きさなどによって異なってきますが、旧海軍における一般的なものとしては、

 まず1.の気醸ですが、ボイラーに点火してから蒸気圧が使用圧力になるまでに、水管式で1〜3時間とされていました。 古い円管式では、小円缶で4〜12時間、大円缶になると12〜24時間もかかっています。

 2.の暖気暖管ですが、小型のタービンなら3〜4時間、大型のものでは中には24時間かかるものもありました。

 では、気醸が終わらないと暖気暖管に移れないのかというとそうではありません。 補助ボイラーといって、ご飯を炊いたり、真水を作ったり、発電機を回したりするためのものが動いていれば、これの蒸気を利用して暖気暖管をすることができますし、補助ボイラーを持っていない艦では、幾つかある主ボイラーの内の1〜数基を炊いていますので、これを使用します。

 ただし、通常は出港時には全力発揮可能の状態にしますので、全ボイラー、全タービンは使用可能状態にしなければなりません。

 そして試運転は、順調に行って大体10〜15分かかります。

 この試運転は、岸壁繋留又は浮標繋留ならば出港の45分前までに、錨泊ならば30分前までに完了しておくのが普通です。

 そしてこの試運転が完了して始めて、艦全体で出港準備の作業に入ることになります。

 これに加えて、この試運転までにやっておかなければならないことは沢山あります。 蒸気タービンの回転をプロペラ回転数に落とす減速装置の準備。 舵取装置はもちろん、各種通信器(例えば速力通信器など)の作動確認、等々があります。

 当然ながら、気醸や暖気暖管を始める前にやっておかなければならない準備作業も沢山あります。 煙突の確認に始まり、ボイラーを炊くための通風装置、油圧装置などの各種補機の準備、燃料系統の準備・確認、等々。

 ですから機関科員は出港の前日から大変に忙しいことになります。

 戦時に、例えば空襲を受けて緊急出港する場合などは、上記の中でかなりのことを省略するなどして、一部の機器が準備できないまま、あるいは故障することを覚悟して無理に動かして、これらの時間をある程度短縮することは可能です。

 しかしそれでも 「スイッチ、ポン!」 などとはとても行かないことはご理解いただけると思います。

 因みに、戦後の海上自衛隊では、蒸気推進艦の気醸及び暖気暖管の標準は次のとおりでした。

   気醸 : 普通 1時間30分、 至急 1時間
   暖機 : 普通 1時間30分、 至急 45分

 う〜ん、それにしてもHN 「駄レス国務長官」 さんもご苦労なことですね (^_^)
posted by 桜と錨 at 00:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年07月11日

防空幹部隊、防空隊、防空砲台、照空隊・・・・

 いつもお世話になっているNH 「出沼ひさし」 さんの掲示板 「戦時編制調査室」


 で話題になった旧海軍の 「防空幹部隊」 などについて少し。

 当該掲示板で出てきたものは、「防空隊」「防空砲台」「照空隊」「防空幹部隊」「船舶防空隊」 などです。

 話題の切っ掛けは、前3つは判るとしても、後の2つ、特に 「防空幹部隊」 とはいったいなんじゃろな? ということから。 そして、その概略は戦史叢書 「海軍軍戦備2」 の末尾付録に記述されているもののやはりよく判らん、ということでした。

 実は、ここでいう「防空隊」「防空砲台」「照空隊」「防空幹部隊」「船舶防空隊」は、「海軍諸令則」 中で規程される常設の部隊でもなく、また 「特設艦船部隊令」(大正8年内令116号) で規定される特設の部隊でもありません。

(以後、説明の都合上 「船舶防空隊」 については除外させていただきます。)

 防空関係部隊に関しては確かに後者の規程に 「特設防空指揮所」 と 「特設防空隊」 というのがあり、それぞれについて内令定員も定められています。

 しかし、前者は鎮守府や要港 (警備府) など決まった場所の防空組織のためのものであり、後者は一定の装備・人員を整えてから必要なところへ送り出すものです。

 ところが、戦争が進捗するにつれて防空隊などは、一々一定規模の装備・人員を整えてから送り出すような状況ではなくなってきましたし、また現地でも、地理的・地勢的な問題や部隊の規模等々に応じて必要とされる防空組織の規模も内容もそれぞれ異なってきます。

 したがって、各現地部隊の方で、五月雨的に送り込まれてくる装備や人員を、それぞれの実状・実態に応じた形で編成し、配備し、部隊のニーズにあった防空組織を構築していく必要が出てきました。

 これの基準になるのが、この話題の部隊です。 したがって、これらの部隊は一応標準的な装備・人員は決められましたが、これはあくまでも実際に編成する上での参考に過ぎません。

 主たる配備先としては根拠地隊や航空戦隊であり、航空基地、重要工業地帯、軍需品集積所、港湾などを防護するための防空組織を構築することが目的です。

 では、「防空幹部隊」 とは何か? ということですが、既に当該掲示板で出沼さんご自身が旧海軍文書から見つけてこられたとおり、

「 所在防空隊 (防空砲台) 照空隊及監視機関ヲ統一指揮スル為防空幹部隊 (仮称) ヲ編成シ配備地所在ノ根拠地隊等ノ他部隊ニ臨増ス 」

 というものです。

 この防空幹部隊の “幹部” というのは、艦艇での射撃指揮における 「射撃幹部」、即ち射撃指揮所及び発令所において、射撃指揮官たる砲術長や副砲長、高射長の射撃指揮を補佐する将校及び下士官などのことと同じ意味です。

 つまり、前線部隊において防空指揮官を補佐するためのもので、鎮守府などに配備された 「特設防空指揮所」 に相当するものですが、これのように固定施設配置を念頭に置いたものではなく前線部隊への移動・配置が前提で、このため自衛のための機銃なども装備しています。

 これら逐次部隊に送り込まれてくる装備及び人員をもって、「防空隊」 などを順次編成、陣地を構築して配備し、最適な防空組織を作り上げる役目として、「防空主務幕僚」 の創設も考慮されていましたが、現実には艦隊や根拠地隊の参謀、あるいは乙航空隊司令などが分掌担当せざるを得ませんでした。

 因みに、昭和19年の段階で、これら 「防空隊」 など防空関係部隊の編成標準として考えられていたものは、次のとおりです。

区    分主  要  装  備人 員
 防空隊 甲1 四十五口径十二糎高角砲 x 6門
 陸用高射装置 x 1組
 高角測距儀 x 1基 等々
114
甲2 九七式七糎野戦高射砲 x 6門
 高角測距儀 x 1基 等々
136
丙1 四十五口径十二糎高角砲 x 4門
 二十五粍単装機銃 x 12基
 陸用高射装置 x 1組
 高角測距儀 x 1基 等々
164
 十二糎高角砲台 四十五口径十二糎高角砲 x 4門
 陸用高射装置 x 1組
 高角測距儀 x 1基 等々
 77
 十糎連装高角砲台 九八式十糎連装高角砲 x 2門
 陸用高射装置 x 1組
 高角測距儀 x 1基 等々
 70
 二十五粍単装機銃砲台 二十五粍単装機銃 x 12基 等々 77
 防空幹部隊 豆移動電信機 x 1台
 TM軽便電信機 x 2台
 共電式電話機 x 28組 等々
 64
 照空隊 自動車付150糎探照燈 x 3台
 管制器 x 3台
 四号三型電探 x 1組
 二十五粍単装機銃 x 8基
 十三粍機銃 x 6基
 携帯電話機 x 4組 等々
 62

 以上が旧海軍史料に基づいて私が理解しているところですが、更なる点についてご存じの方がおられましたら、是非ともご教授をお願いいたします。
posted by 桜と錨 at 18:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年08月02日

本家にて 『終戦時の日本海軍艦艇』 公開!

 昨日本家サイトのご来訪10万名到達間近とお知らせしましたが、カウンターがあっという間に進んでしまい、未明には大台を超えてしまいました。

 また、こちらのブログもお陰様で昨年10月末に開設以来10ヶ月弱で既にご来訪2万名を超えております。

 この両方を併せ、感謝記念として本家サイトの 『史料展示室』 にて昭和22年に第2復員局が作製した 『 終戦時の日本海軍艦艇 』 (Japanese Naval Vessels at the End of War) の全頁をPDF版にて公開いたしました。

 私は常々、この様な貴重な史料が “保存” という名目の元に日の目を見ずに埋もれたり、あるいは個人の所有物として骨董品扱いの “お宝” となってしまうべきでは無いと考えています。

 旧海軍艦艇史研究上必須の基礎資料の一つ。 本家サイトにご来訪の上、本物の第1級史料をお楽しみ下さい。

 また、公開ファイルの状態のままでしたら再配布もOKですので、どうか日本海軍艦艇好きのお知り合いの方々にご紹介下さい。
posted by 桜と錨 at 19:18| Comment(6) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年08月14日

NHKの番組と『軍令部令改正之経緯』

 9(日)の午後9時からNHK総合テレビで 『日本海軍 400時間の証言 第一回 開戦 海軍あって国家なし』 という1時間番組がありました。

 ここにご来訪の皆さんならご覧になられた方々も多いと思います。

 番組そのものは、センセーショナルなところばかりをつまみ食いしただけの、極めて意図的な、“始めに結論ありき” 的な編集であり内容でした。

 もっと言えば、不必要に “売らんかな” だけが強調される最近の悪いジャーナリズムの典型そのもので、NHKでさえこんなものを作るのか、と思いましたね。

 それに中身的にも特に目新しいものはありませんでしたし。

 肝心の録音テープにしても、戦後35年以上も経ってからの証言集にどれだけの価値を見出せるか、ということになります。 しかも証言をつまみ食いする以外には何等の裏付けもとらずに。

 そしてなによりも、NHKが新発見新発見と言う割には、この「海軍反省会」というものの全貌が正しく正確にキチンと示されていません。

 この番組についてのミクシイのマイミクさんの日記にもコメントを付けさせていただきましたが・・・・

 出席者、証言者の全体が不明で、自由参加なのか、ある程度メンバーをキチンと揃えて、偏りのない証言、証言者を得たのかと言う点も不明であり、疑問な点です。

 しかも、本当に要職にあった生き残りの高級幹部達の証言を集め得たのか? それさえも判りません。 特に第1回について言うならば、悪く言えば肝心要の富岡定俊氏などが死去したのを見計らって会を開いたんではないか? とも疑いたくなります。

 最大の問題点は、終戦後35年以上も経ってからのものですので、出席者そのものの記憶も細部についてはどうかということと、既に各自がそれぞれ別の人生を確立してしまった後ですので、良い意味でも悪い意味でも各自それぞれの思惑があるかと。

 言い方を変えると、言いたいことがある人が出てきて言いたい放題言ったとか、気の合う仲間が集まって “あいつらを吊し上げよう” とか、そう言った傾向が無かったのかです。

★ ★ ★ ★ ★

 ところで、この番組の中で突然 『軍令部令改正之経緯』 という文書が出てきました。 軍令部総長としての伏見宮殿下の名前が出てきたところですので、覚えておられる方もおられるかと。

 この文書、別に目新しいものではなく、研究者の間では以前から知られていたものなのです。

 が、問題はNHKがこの文書についての正確な説明をしないまま、都合のよい文言だけを採り上げていることです。

 当該文書は、実際には2部からなっており、海軍大学校教官であった高木惣吉中佐(当時)が、第1部は昭和9年に高橋三吉中将から軍令部第二課長及び軍令部次長の時について、第2部は昭和10年に井上成美大佐 (比叡艦長) から軍令部第一課長の時について、それぞれ聞き取りを行った時の 「メモ」 です。

(そう言えば高木惣吉氏も上記反省会開催開始直前の昭和54年に物故されていましたね。)

 こう言う説明が全くないまま、さもこれが海軍の “公式文書” であるがごとく編集され放映されたことは、その姿勢に疑問を覚えます。

 そしてここで一つ疑問が。 私の手元には当該文書のコピーがあるのですが、表紙も中身も全て手書きです。

kaisei_01_s.jpg

 ところが、NHKで放映されたものは、確か表紙は手書きでしたが、中はタイプ印刷のものが写されていました。 こんなタイプ印刷したものが別にあったんでしょうか?

 しかもNHKの画面に映ったものでは、

「・・・・〇〇〇ハ此ノ案ガ通ラネバ〇〇ヲ辞メル・・・・」

 となっていましたが、私の手書きのものでは

「・・・・××ハ此ノ案ガ通ラネバ〇〇ヲ辞メル・・・・」

 となっています。

kaisei_02_s.jpg

 NHKのものは放送で視聴者に判らせるようにわざと 「〇〇〇」 と 「伏見宮」 の三文字に合わせてあるようにも見えたのですが・・・・?

( 最後の件は録画をしておりませんので再確認しておりません。 どなたか録画されておられましたらお願いします。)

(追) : 最後の件につきましては、コメント欄にありますように、手書きのものと同一であった旨のご確認をいただきました。 山本一雄さん、ありがとうございました。 (8月16日)




posted by 桜と錨 at 20:48| Comment(6) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年10月11日

戦闘旗について(3)

 HN 「Fleet Review」 さんから日露戦争時における駆逐艦の軍艦旗及び戦闘旗の掲揚方法についてご質問がありました。

 合戦準備以後の軍艦旗の掲揚の例は公表された有名な写真にいくつかありますのでここでご紹介します。

ensign_dd_03.jpg

ensign_dd_01.jpg

ensign_dd_02.jpg

 この様に後部で戦闘に邪魔にならない位置に設けられた旗竿に掲揚されています。

 そこで戦闘旗ですが、残念ながら当時の写真で駆逐艦が戦闘旗を掲げているものを私は見たことがありません。 戦闘時しか掲げませんので、当時のカメラの状況を考えるなら、まあしかたのないことかもしれません。 今次大戦中のものでさえ少ないのですから。

 しかしながら、戦闘旗は「大檣頭」に掲げますので、駆逐艦や水雷艇などの場合は前檣 になります。 当然ながら、隊司令が乗っている場合には、ここにその 隊司令旗と戦闘旗が併揚 されることになります。

 因みに 「大檣」 (メインマスト) とは、その艦で最も 「高い」 檣楼のことで、同じ高さの檣楼が2つある場合は 「後檣」 のことです。

 ただし、戦闘旗の掲揚が規則上明文化されたのは昭和7年の 『海軍旗章令』 の改定からで、改定前及びそれ以前の 『海軍旗章条例』 にはありません。

 明文化しなくとも「軍艦」にあっては当然のこととされていたためと考えますし、このことは実際に残された写真や文書からも掲げていたことが証明されているわけですが。

(追):

 HN「出沼ひさし」さんより上記について、『日本海軍艦艇写真集 駆逐艦』 (呉市海事歴史科学館編 ダイヤモンド社) 中の 「暁」 の写真に戦闘旗が掲げられているように見えるものがある、とのご指摘をいただきました。

 当該写真と同じものが ↓ です。

akatsuki_bf_02_s.jpg

 確かに軍艦旗の光線のようなものも微かに確認できますし、当該檣頭に掲げる旗は限られますので、ほぼ間違いないものと考えます。

 ただし、これが戦闘旗であるとすると疑問が無いわけではありません。 それは何時、誰が撮したのか? という点です。

 艦尾甲板上には 「聯隊機密第350号」 に基づく連繋機雷 x 8組らしきものが搭載されておりますので、5月17日以降の写真であることは間違いないでしょう。

 日本海海戦においては、「暁」 の戦闘詳報では次のとおりとなっています。
    5月27日
      午前6時30分 竹敷出港
      午前8時50分 「浅間」 以下の奇襲隊に合同
      午前9時 奇襲隊と分離し、第一駆逐隊司令の指揮下に入る
      午後1時15分 戦闘旗を開く
      午後8時30分 第一駆逐隊と分離、連繋機雷襲撃のための単独行動に入る
      午後9時30分 水雷艇と衝突し船体損傷
      午後10時40分 襲撃断念、修理のため竹敷に向かう
    5月28日 午前8時10分 竹敷入港、修理に着手
    5月29日 午前9時15分 応急修理完了、第一駆逐隊司令の指揮下で出港
    5月30日 午前6時30分 竹敷入港

 となっていますので、5月27日の戦闘旗掲揚中の撮影とすると、この荒天下で何時、誰が撮影したものなのか? 最も考えられるのが 「浅間」 からなんですが、奇襲隊分離後もこんな近くにいたのでしょうか?

( 余談ですが、当該写真集のキャプションでは 「明治38年5月28日 日本海海戦に参加するために進撃中。 まもなく荒天のために待避した。」 とありますが、これが全くの誤りであることは上記の行動からも明らかです。)

 HN 「出沼ひさし」 さん、ありがとうございました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

戦闘旗について (1) :

戦闘旗について (2) :


posted by 桜と錨 at 18:25| Comment(3) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年11月04日

「対馬か津軽か」 − 連合艦隊の動揺

 砲術関係でその基礎の解説に合わせて、例の 『別宮暖朗本』 の誤りをご説明しておりますが、既に書いてきましたとおり、この本は砲術や水雷術のみならず、海軍や艦艇は勿論、戦術や戦略、戦史にいたるまでありとあらゆるところで誤りがあります。

 砲術以外についてもこれから “気まま” にご紹介していくつもりですが、取り敢えずその一例として標題の件を。

 皆さんご存じのとおり、本件は、日本海海戦が生起する直前の時機になって東郷平八郎や連合艦隊司令部の参謀達が、バルチック艦隊が対馬海峡に来るのか、それとも津軽海峡に回ったのか、そして聯合艦隊が鎮海湾で待機を続けるのか、それとも北海に向かうべきか、でその “判断に悩んだ” ことについてです。

 このような日本海海戦に至る重大な事項について 『別宮暖朗本』 は約2頁にわたって全く根拠のない誤りを書き連ねております。 私はこの本の誤り箇所にマーカーペンでマーキングをしてチェックをしておりますが、当該頁はそのために真黄色になってしまっています。

betsumiya_p272c_s.jpg
( 管理人所有の「別宮暖朗本」より当該頁 )

 当該部分から幾つか拾って、その誤りを具体的にご説明しましょう。

 野村は密封命令 (封緘命令) についても論じている。 津軽海峡大島付近に終結し、その後 「北海」 に向かうという命令が存在したことをもって、「動揺」 の根拠としている。 だが、これも理由がない。 参謀が次の手を策案し、密封命令とするのは普通のことであって、日常業務である。 実行されたか否かが、戦史であって、歴史なのである。
(p273) (p282) 

 その 「封密命令」 がこれです。

gf_ord_373_02_s.jpggf_ord_373_01_s.jpg

 「聯隊機密第三七三号」 の機密文書の発簡番号が採られており、当然ながら聯合艦隊司令長官名で出されています。 この 「連合艦隊命令」 は、開封されて実行されたかどうかには関わらず、発簡措置が採られている以上、文書処理上は後で無かったことにはなりません。 したがって、参謀が自分の腹案を封密命令として勝手に送ったなどは旧海軍では絶対にありえません。

 陸軍のことはともかくとして、海軍においては指揮官抜きにして (了解を得ずに)、参謀がそのようなことは絶対にしないという組織であり、慣習・躾です。 それは海軍が 「指揮官」 というものをいかに重要視するか、ということを理解していれば判ることです。

 史料をキチンと調べてさえいれば判ることですが、旧海軍では、参謀などの担当者同士で調整の必要がある時は、その担当から担当者宛にその名前で文書や電報を出します。

 例えば、聯合艦隊参謀長から軍令部次長へ、聯合艦隊参謀から軍令部参謀へ、あるいはその逆、といった具合で、参謀が “無断で” 勝手に指揮官の名前を使うことは絶対にありません。

 それが、旧海軍、そして今日の海上自衛隊へと伝わる幕僚業務のやり方です。

 この封密命令が5月25日に出されたこと、当日司令長官・司令官が「三笠」に参集したこと、そして主隊の北進に先だって給炭船・給水船を先行させたことは、当日の 「聯合艦隊戦時日誌」 に書かれています。 そして同時に、その判断措置について大本営 (軍令部長) に報告したことも記載されています。

gf_wardiary_03_s.jpg  gf_wardiary_02_s.jpggf_wardiary_01_s.jpg

 「戦時日誌」 というものは、参謀や乗組士官等のメモや備忘録などではなく、部隊としての “公式記録” です。 したがって、そこに記載された内容に関する事をそれぞれの指揮官 (即ち、司令長官、司令官や艦艇長等) が承知していない、などということはあり得ません。

 しかも、この封密命令が実際に送達されたことは、例えば次の 「三須第1艦隊司令官戦時日誌」 によっても裏付けられています。

misu_wardiary_0525_02_s.jpgmisu_wardiary_0525_01_s.jpg

 かつ、この日誌によっても、25日には 「三笠」 に各司令長官、司令官が集められ、北進についての指示があったことが明らかです。 でないと、その後に出された 「聯隊機密三八〇号」 が何を意味するのかや、炭水の増載指示が北進に備えてであることを、麾下部隊が判るはずはありませんから。 そして封密命令の内容が北進であることがどうして判るのでしょう?

 参謀が司令長官に断らずに勝手に出したもの? これは普通のことで、日常業務? 一体何を根拠にこんなことを書いているのでしょうか。 もし旧海軍の組織運営がそうだと思っているならば、キチンとその証拠を示して書くべきでしょう。

 少なくとも、それが旧海軍における “日常業務” だと言い切るならば、この時以外の (そして日露戦争時以外の旧海軍において) その様な 「封密命令」 の実例を史料と共にいくつか提示して、証明してもらいたいものです。

 「別宮暖朗本」では総てこの調子で、大変歯切れのよい文が羅列されていますが、その中で自分の主張についてはその確たる証拠となる具体的な史料は何等示されていません。 全編そういう論調なんです、この本は。

 25日に封密命令を発簡し、大本営に報告し、北進用の石炭を搭載し、給炭船・給水船を先行させた。 これが連合艦隊司令部の 「動揺」 であり、実際の 「動き」 でなくて何なんでしょう?

 このことの裏付けとして、25日の 「敷島戦時日誌」 でも連合艦隊司令部の北進の意図が麾下部隊に対して出されていたことが判ります。

shikishima_0525_02_s.jpgshikishima_0525_01_s.jpg

 また、日本海海戦当日の27日の 「三笠戦闘詳報」 では、増載した石炭が北進用のものだったと記載されています。

mikasa_btlrep_0527_01_s.jpg

 日本ではよく起きることだが、本部人間の軍功誇りというのがある。 東京や広島の大本営でデスクワークをしていた参謀は、軍功をあげることはできない。 軍令部の参謀が 「連合艦隊が動こうとしたが俺が止めた」 と主張する根拠が交換電報であるに過ぎない。 それでいくばくかの軍功を主張したいわけである。 (p272) (p282) 

 東郷の裁可をとったわけではなく、連合艦隊司令長官名で東郷司令部の幕僚と軍令部の参謀が、「津軽海峡か朝鮮海峡か」 と論争し、ヒマつぶしをしたものにすぎない。 経験がない若手参謀というのはどうしても、石炭残量・機雷・航海上の問題など実際のことを考慮できず、蜃気楼のような議論を展開しがちである。
(p272〜273) (p282) 

 旧海軍及び海軍軍人に対する根拠のない極めて卑劣な暴言であり、捏造であり、脳内妄想以外の何ものでもありません。 よくこれだけの事を書け、また出版できるものと思います。 よく判りもせず、またよく調べもせずに こんな事を書いて出版しては絶対にダメです。 許されざる行為です。

 翌26日の 「聯合艦隊戦時日誌」 からです。

gf_wardiary_06_s.jpggf_wardiary_05_s.jpg gf_wardiary_04_s.jpg

 軍令部次長からバルチック艦隊が運送船を分離し、これが上海に入港したとの情報が入り、“実に危ういところで北進を延期した” のかが判ります。 27日の日本海海戦生起を考えれば、まさに紙一重になるところでした。 これが史実であり、真実です。

 そして、明確に 「今夕の出動を見合わす」 と言い切っています。 また前日に先行させた給炭船・給水船を止めたと言っています。 このことからしても、25日に出した北進の意図が、単なる幕僚の腹案レベルでは決してあり得ないないことが明らかかと。

 ところが、「幸運な男」 東郷平八郎が率いた連合艦隊が、動揺したと主張する人物が絶えない。 最近における代表例は野村實で次のように書いている。
(中略)
 以上の表現は全面的に誤っている。 なぜならば、「連合艦隊の動揺」 と表現するには東郷や幕僚の心の中ではなく、実際に艦隊が動いたことを示さねばならない。 だが、「連合艦隊が鎮海湾から動かなかった」 が単純な史実であって、真実なのである。 (p272) (p281〜282) 

 東郷や幕僚 (の心の中) が動揺したというのも疑わしい。 (p272) (p282) 

 実行されたか否かが、戦史であって、歴史なのである。 (p273) (p282) 

 鎮海湾から動かなかった理由をまず検討すべきであって、密封命令発見 = 「新資料」 というならば、連合艦隊が動いたことを示さねば、史実に関連するものとしては 「新」 にはならない。 (p273) (p283) 

 極めておかしな主張ですね (^_^)  まるで小学生の言うような “屁理屈” にしか聞こえません。

 この著者の言う “連合艦隊が動いたこと” とは一体どういうことを言うのでしょう? 「三笠」 以下の聯合艦隊主力が実際に鎮海湾を出て、北進することを言うのでしょうか?

 もしその意味なら、それはもう既に “動揺” とも “悩み” とも言いません。 北進の “決断に基づく実際の作戦行動” と言います。 悩んだということと、決断し行動したこととは、全く違います。 そんなことは言うまでもないことです。

 更に言うならば、上記で示した25日のことをもってすれば、明らかに聯合艦隊は動きました。 もし実際の “組織の運営” というものが少しでも理解できている者であるならば、これだけのことがあれば、それを称して “聯合艦隊が動いた” と言うんですが?

 25日の聯合艦隊の状況を考えるならば、それは東郷平八郎とその参謀に “判断の悩み” があったからこそ、それらの措置になり動きになったのです。

 これが “根拠に基づく疑いもない史実であり、真実” です。

 これだけの史料・事実が揃っているのですから、もっと素直に、先入観無く、冷静に、かつ客観的に、それらを見るべきでしょう。

 「歴史評論家」 と自ら名乗る人物の著書にしては、あまりにも根拠のないお粗末な主張です。 しかも、野村實氏は勿論、旧海軍軍人を侮辱してまで。

 もっとも、上に示した証拠も総て “日露戦争後になって旧軍人が捏造したものだから信用できない” ぐらいは平気で言いかねませんね、この著者は。

(注) : 本項で引用した各史料は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上で管理人が付けたものです。

posted by 桜と錨 at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年11月05日

「対馬か津軽か」 − 連合艦隊の動揺 (補足)

 本件について、既に 「別宮暖朗本」 での著者の主張が全く根拠のない “誤り” であることは充分にご理解されたと思います。

 ただ、本件の史実としてのご説明としては、やはりこのことを追加しておく必要があるかと考えます。 それは先にも出てきました給炭船及び給水船の動きについてです。

 聯合艦隊主力の北進の為には、先に補給・支援部隊や哨戒・警備部隊に準備をさせる必要が出てきます。

 そこで東郷は、両者の指揮官に北進の意図を伝えると共に、特務艦隊司令官に対しては艦隊随伴用に足の速い補給船を選んで準備するように指示を出し、他方、哨戒・警備を担当する第3艦隊司令長官にも主力移動に伴う準備を指示しました。 24日のことです。

 これについては、「聯合艦隊戦時日誌」 では次のようになっています。

gf_wardiary_0524_02_s.jpggf_wardiary_0524_01_s.jpg

 「聯隊機密第三七二号」 の内容については書かれていませんが、それについては 「特務艦隊戦時日誌」 にあります。

tokumu_wardiary_0524_02_s.jpgtokumu_wardiary_0524_01_s.jpg

(24日夕に特務艦隊司令官は 「封密命令」 を受け取ったとされています。 これは先の25日の 「聯隊機密第三七三号」 と同じものと考えられますが、残念ながら確認はできません。)

 そして、特務艦隊司令官は、その麾下補給船の中から給炭船3隻 (富士山丸、大弧山丸、宇品丸) と給水船1隻 (広島丸) を選んで北進準備を命じます。

(「聯合艦隊戦時日誌」 では 「宇品丸」 ではなく 「芝罘丸」 とされています。)

 がしかし、その翌25日には、東郷は主隊随伴用に準備をさせた補給船を 「聯隊機密第三七九号」 を以て同日午後に先行させるよう指示します。 これを受けて特務艦隊司令官は、その4隻を 「特隊機密第五五六号」 を以て同日の夕刻に出港させることになります。

tokumu_wardiary_0525_03_s.jpg   tokumu_wardiary_0525_02_s.jpg   tokumu_wardiary_0525_01_s.jpg

 この後のことは既にご説明したとおりで、26日になって情勢が急展開し、25日に先行させた補給船4隻は美保関において待命となります。

 これを要するに、24日に艦隊随伴用の補給船の北進準備が命ぜられ、翌日には先行指示を受けて出港、ついで翌々日には途中待機となったわけです。

 これが東郷の “悩み” の末の結果でなくて何でしょう? そしてそれによる聯合艦隊の “動き” で無くて何なんでしょう?

-----------------------------------------------------------


 「別宮暖朗本」 がターゲットとする司馬遼太郎著 『坂の上の雲』 は、皆さんご存じのとおり 「サンケイ新聞」 に連載され始めたのは1968年からのことです。

 当時は本項で引用した史料や、今ではその存在が広く知られるようになった海軍軍令部編 『極秘明治37、8年海戦史』 などは、それを保管する防衛研究所図書館でも整理が出来ていない等の理由によって、まだ一般には非公開だった時代です。

 したがって 『坂の上の雲』は、今日の目からすれば確かに史実の点で幾つかの指摘されるところがあります。 が、しかし、その執筆当時のことを考えならば、司馬遼太郎の文筆力は勿論のこととして、歴史小説としての海軍史部分だけをとっても、驚嘆に値する実に素晴らしい作品であると評価せざるをえません。

 そして、その後一般公開されるようになったこれら史料は、例えば初出が1982年からになる児島襄著 『日露戦争』 においても引用され、本項でご紹介したものは総て出てきます。

 翻って、この 「別宮暖朗本」 はどうなのか? 2005年の出版時点において、これら史料を全く顧みておらず、“屁理屈” としか言いようのない主張をもって “誤り” を書き連ねています。

 この著者は口では “これが戦史だ、史実だ” などと言いながら、これらの史料を、自己主張を通すためにワザと無視をしたか、でなければ全く調べていなかった (知らなかった) か、のいずれかでしかあり得ません。 お粗末の一言です。

(注) : 本項で引用した各史料は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。

posted by 桜と錨 at 22:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2009年11月14日

連繋機雷 (一号機雷) について (前編)

  『別宮暖朗本』 の誤りについて、砲術関係については既にその基礎の解説に合わせて順次ご説明しているところであり、またその他についてもその一例として先日 「対馬か津軽か」 と題しご紹介したところです。

 これからは、水雷関係についてもこの著書の誤りについてご説明して行きたいと思います。 もちろん、不定期の “気まま” に。

 旧海軍の水雷史については、幸いにしてその創始より昭和年代初めまでについて 『帝国海軍水雷術史』 という素晴らしい公式史料が残されており、本家HPで順次公開しているところです。 そして、魚雷及び機雷そのものの発達史については既に大部分をUPしてありますので、まだ未見の方はそちらをご参照下さい。

 本来はこの公式史料をご覧いただけばそれで充分なのでしょうが、初心者の方々がこれを読みこなすには多少の知識も必要ですので、ここでは他の史料なども加えてもう少し解りやすくご説明することにします。

 そこで、まずその第1弾として、当該本の “トンデモ” 振りの最高傑作の一つである 「連繋機雷」 についてです。

 その連繋機雷とは何なのか?  『別宮暖朗本』 の記述です。

 (小田喜代蔵海軍中佐は) 一号機雷という特殊な浮標機雷をそのために発明していた。 一号機雷は全重量123キロ、炸薬量45キロ、深度索長6メートルである。 浮標機雷とは「浮き」の下に小型機雷を吊したものである。 (p188)
  ( )内は管理人の付記

 小田は、ヒョロヒョロ魚雷による駆逐隊の戦果不振を一号機雷でもって打開することを提議した。 方法は、「二隻の駆逐艦が、700〜900メートル幅でロープを引き、敵艦の前方から突進する。 ロープの中央には2個の一号機雷をつなげる。 そして、その2個の中央を敵艦の艦首に激突させる。 駆逐艦はその瞬間にロープを放す。 敵艦は惰性で前に進み、機雷は敵艦の両舷側で炸裂する」 というものである。 (p188−189)

betsumiya_p188_s.jpg
( p188 )

 (戦艦 「ナワリン」 撃沈は) 二つの駆逐艦でロープを張り、機雷二個をつなげ、そのまま前方に突撃する連繋機雷攻撃法が見事に成功した例だろう。(188ページ参照)
(p323)
  ( )内は管理人の付記

 笑えますねぇ。 一体どこからこんな “空想” “妄想” が生まれたのか。 トンチンカンなイラストを付してまで。

 そもそも、その2隻の駆逐艦に幅700〜900メートルで、一体何ノットで曳かせるつもりなんでしょう? 余程の低速でない限り、機雷は引きずられて海面に浮いてしまい、波に叩かれることになりますが?

 そんなことはちょっとでも “海のこと” が解っていれば常識なんですけどねぇ。 それとも一定深度を走るように機雷にフィンが付いていたとでも?

 またもし、敵艦の350〜450メートル脇を数ノットの微弱な速力で曳航するんだなどと言うのなら、それこそその駆逐艦は沈めてくれと言わんばかりの、恰好の “射撃標的” なんですけど (^_^;

 ついでに、「一号機雷」 って何でしょう? この日露戦争当時、当該連繋機雷はそのような名称ではありませんが。

 とまあ、その様なツッコミはともかく

 既に本家HPの 『帝国海軍水雷術史』 でも公開しましたように、「連繋機雷」 (当初は連合艦隊によって 「連繋水雷」 と名付けられました) は 浮漂 機雷4個をマニラ索で繋いだもので、これを搭載艦艇から敵艦艇前程の海面に “投下して敷設” するものです。 この著者の空想・妄想の産物とは全く異なります。

 4個を長さ100メートルの連繋索で繋ぎますので、全長300メートルで1組とし、そして状況によっては2組を短い連結索で繋いで、機雷8個、全長600メートル (実際には連結索が約20メートルあります) として使うことも考慮されています。

 また、日本海海戦時には旧ロシア駆逐艦の 「暁」 にこれを8組搭載し、機雷32個、全長約2500メートルとして敷設することを計画しました。

 しかも、明治37年10月に考案された当初のものは、「浮標機雷」 ではありませんで、機雷本体が海面上に浮いている 「浮遊機雷」 であり、しかも既存の球形機雷の缶体を利用したもので 「小型」 でもありません。

renkei_mine_01_s.jpg

(そもそも、この著者は 「浮遊機雷」 と 「浮流機雷」、「浮漂機雷」 と 「浮標機雷」の区別さえもついていないと考えられますが・・・・ これについてはこの後の一般機雷の項で。)

 そしてこの当初のものを製造して駆逐艦に実戦配備しつつ、38年1月、海軍大佐中村静嘉を委員長とする連繋機雷試験委員が指定され、これの改良実験が行われます。 ( 先の小田喜代蔵もその委員の一人 )

 当初のものの実戦配備については、例えば10月24日付けの 「連合艦隊訓令」 (聯隊機密第1217号) を以て麾下全般に、そして具体的な搭載については 「同機密第1208号」 (10月20日付) などによって出されています。 この時に本機雷を正式に 「連繋水雷」 と呼ぶこととされています。

 そして改良実験の結果、38年2月に出来上がったのが、その後の6月に制式兵器採用されることになる改良連繋機雷です。 ( この兵器採用時に、その内容秘匿のために 「特種水雷」 という名称に変わりました。)

 この改良型になって、機雷を海面下で爆発させるための 「浮標機雷」 になり、かつ連繋索が敵艦艦首に引っかかって機雷が舷側に引き寄せられた時に、水中で適切な姿勢と運動で艦体に衝突するような缶体形状と浮標への吊下方法になりました。 本家HPの 『帝国海軍水雷術史』 で公開した図がこれです。

3-131_fig_s.jpg

 別の史料からもう少し正確な形状を示しますと、

renkei_mine_02_s.jpg     renkei_mine_flt_01_s.jpg
( 左 : 改良連繋機雷の缶体          右 : 同浮標 )

 この改良型は直ちに製造、実戦配備に入り、38年4月には 「連繋機雷使用心得」 (聯隊機密第270号) として連合艦隊全体に知らしめるとともに、これを用いた戦術が連合艦隊戦策の改定により採り入れられます。

 日本海海戦前に、この連繋機雷は先ず手始めに第三、第四駆逐隊の全艦に2組ずつ、及び一等水雷艇隊の各隊2〜3隻に各1組ずつ搭載され、その後製造・供給されるにつれてほとんどの駆逐艦及び一等水雷艇に搭載されたとされています。 また、実連繋機雷を搭載しない艦艇には、欺瞞用として 「擬水雷」 まで作製・搭載し、実機雷との同時・連係使用まで考慮していました。

gisuirai_02_s.jpggisuirai_01_s.jpg

 そして、「浅間」、「暁」 を含む第一駆逐隊、及び第九艇隊による 「臨時奇襲隊」 を編成し、バルチック艦隊に対する昼間連繋機雷攻撃を計画しました。 (残念ながら、実際にはこれは荒天のためもあって中止となりましたが。)

 この改良連繋機雷の実用化により、急遽日本海海戦の直前になって改定された 「連合艦隊戦策」 (聯隊機密第259号の3) では、次のような連繋機雷を用いた戦術が例示されています。

renkei_tac_chart_s.jpg
( 図左上で、奇襲隊により敵艦隊の前程に取り囲むように連繋機雷を敷設します )

 機雷をロープでつないでも、海に落とせばグニャグニャになってしまいコントロール不可能である。 そのうえ予定戦場に機雷を落とすと味方被害の可能性がある。 こういった発想にもとづくものは、初めから武器にならない。 (P289)

 この著者が勘違いしている 「連繋機雷」 という立派な武器になったんですが?

 そして、連繋機雷が想定した作動時間の範囲で、海の上でどうして “グニャグニャ” になるのでしょう? 海流の強い津軽海峡においてさえ実験の上で使用を計画したのに。 想像だけでものを言っており、海の上の実際のことは何も理解できていないことがよく解ります。 (連繋機雷による津軽海峡防禦については、後編でご説明します。)

 加えて、敷設する艦艇自身及び味方艦艇、そして中立船舶に被害を及ぼさないように、「隔時器」 というものを組み込み、敷設後一定時間 (当初のものでは15分) してから作働状態になり、そして触雷起爆しなければ一定時間 (同じく当初のものでは、1時間ないし1時間半) 後に自動的に爆沈するように作られていました。

 こんなことさえ調べていないのでしょうか?

 機雷をまくという海軍戦術は、どこの国の海軍にもない。 機雷とは径0.74メートル、400キロに達する大きなものであって、それを浮流させたならば簡単に発見されてしまう。 それゆえ海底の重しからワイヤーを伸ばして沈置する。 そしてコントロールできるものが魚雷なのであって、機雷まきが戦術になるのであれば、魚雷はいらない。
(p289)

 何を寝ぼけたことを、と思います。 先にも書きました 「浮遊機雷」 と 「浮流機雷」 との区別さえ判っていないからなんでしょうね。

(注) : 本項で引用した各史料は、総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。


(この項続く)
posted by 桜と錨 at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと