2023年01月31日

阪神災害派遣の思い出 (10)


JR新長田駅南側を始めとして、神戸の長田地区は震災による被害に加えて、それに伴っての火災により甚大な被害と犠牲者が発生しました。

ところが、です。 発災から2週間も経っていない、まだ不明者の捜索なども引き続いていた時に、神戸市から突然として長田地区の復興計画なるイラスト入りのそれは立派なものが早々に出されました。

私達司令部一同はこれを見て 「何だこれは、こんな時期に、それもこんなに早く。 震災によるとはいえ、これ幸いにとこの街の壊滅をまるで今か今かと予め待っていたかのような」 と。

被災した一帯は今では見事に再建されましたが ・・・・

神戸市役所・長田区役所などと当該地区一帯とは以前からこう言う関係だったのかと感じた次第です。
  
  
そしてこの長田地区に関連してもう一つ。

当該地区の火災が一段落した時、管轄する警察署などに身元不明の焼死体が百体以上、110〜120体ほどだったかと、が置かれているとされていました。

当時のマスコミなどで公表される震災による犠牲者や不明者の数は、住所や氏名などがはっきりしてどこの誰と判っている人の数とされており、この身元不明の焼死体の方々の数は含まれていませんでした。

その後現在に至るまで、このご遺体の数は震災の公式記録上一体どうなったのでしょうか ?

(続く)

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2023年02月01日

阪神災害派遣の思い出 (11)


補給艦などによる岸壁での本格的な給水支援が始まった頃のことです。

その給水支援に当たっている某艦から

「毎日何度も同じナンバーの給水車が頻繁に真水を貰いに来るけどおかしいのでは?」と。

そこで調査隊に車で後をつけさせたところ、当該給水車は避難所や予め許可を得て復興にかかっている企業などへ向かうのではなく、某ホテルに出入りしていることが判りました。

そこで神戸市に対して、

「給水はホテルなど企業の営業用ではないので、神戸市で真水を然るべきところへ運ぶ給水車には市発行の許可証を運転席の窓ガラスにハッキリ掲示するよう指導して貰いたい。 こちらも岸壁の給水場に給水車が来ても、その許可証が確認できない場合には給水しないようにするので」

と申し入れました。 それ以来、こう言ういわば “コソ泥” 的な給水車は桟橋に来なくなった様です。

ただし企業などの営業用はダメとは言っても、もちろん例外は色々ありました。

例えば、生糧品などを専門に扱う様な大きな倉庫などの場合で、震災による湧水が中に入り込んでドロドロになっており、その湧水が引いた後も悪臭を伴う大変に不衛生な状態となっていることから、早期に床などの洗浄が必要ということで、市の了解を得た上で何度か当該給水車への給水を認めたことなど。

(続く)

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2023年02月02日

阪神災害派遣の思い出 (12・前)


これは是非ともお話ししておかなければならないでしょう。 阪神淡路大震災における海上自衛隊災害派遣部隊の現地司令部についてです。

(ちょっと長くなりますので2回に分けます。)

既にお話ししました様に、呉監では17日の発災直後から震災の中心が大阪・阪神方面であると判断しましたが、取り敢えずは神戸魚崎浜にある海自の阪神基地隊への応援を名目とする呉地隊の部隊の派出と航空機による状況偵察から手をつけました。 この段階では、まだ神戸があの様になっているなどは全く分からなかったからです。

17日の昼過ぎ頃から神戸の状況がテレビなどにより断片的に入りだしましたが、正確な全体像はさっぱり。

そして何よりも、阪神基地隊自体が震災で半分崩壊している上、電話回線も1本しか通じず、阪基本部の隊員は警急呼集でも帰隊でない者が多数おり、当直者や集まった者達も阪基やその周辺の被害確認や呉総監部を始めとする各部への連絡・対応などで手一杯でバタバタしており、呉監には現地の纏まった状況が全く入ってきません。

申し上げるまでも無く、阪神基地隊というのは補給をメインとする後方支援のための陸上部隊ですので、15掃海隊や1哨戒隊などを有するとはいうものの、本部そのものには実動部隊などのような幕僚機構が十分ではありませんし、指揮管制機能なども全くの不十分なところです。

呉監では災害派遣で動き出そうと思っても震災の全体像は掴めず、かつ兵庫県や神戸市からは待てど暮らせど災害派遣要請は一向になく、それどころか連絡さえつかない状況でした。

もちろん海幕などからの震災についての纏まった情報などは一切無し。

やっと17日の夜になって陸自の先遣隊の連絡幹部を通じて兵庫県庁から電話が呉監に入ったのですが、相手は “海自に対する災害派遣要請の方法が判らない” と。

そこで業を煮やした防衛部長が “この電話をもって要請があったものとする。 要請事項はこれ、これ、これ、で” と。 これを相手が了解しましたので、呉監はやっと正式に災害派遣として動ける様になりました。 17日の1950のことです。

そしてその僅か50分後の2040には発災直後に阪基支援名目で緊急出港させた38護衛隊 (とかち) が、続いて18日未明の0348には22護衛隊 (みねぐも、なつぐも) が、呉から阪基沖に到着し投錨したのです。

ところが、やっぱり相変わらず阪基との疎通ができず現地の状況がよく判りません。

そこで翌18日朝、呉総監が直接HSで現地へ飛んで状況を確認、そして阪基や神戸市などと調整をした結果、総監自身が防衛部幕僚を率いて現地に進出して海自災害派遣部隊の指揮をとる (とらざるを得ない) ことを決心されました。

そして19日朝になって総監は防衛部長及び2〜5幕僚室長と気象班長など防衛部幕僚10名を引き連れてHS2機で飛び、半壊した阪基の庁舎に現地司令部を置き、庁舎屋上に海将旗を掲げたのです。

(続く)

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2023年02月03日

阪神災害派遣の思い出 (12・後)


前述のように、現地司令部は呉監防衛部長以下の防衛部幕僚をメインとしたことと、半壊した阪基庁舎に置かざるを得なかったこともあって、設備や機器もほとんど無い、少人数の大変コンパクトなものでした。

しかしながら、結果的にはこの小さな現地司令部は大変上手く機能しました。

何と言っても、指揮官の加藤呉総監は常に極めて簡潔かつ明確に方針を示され、そして司令部幕僚長としての防衛部長はこの総監の方針に基づき具体的な実施事項を的確に指示されて、あとは各幕僚がこれに従って思う存分にやらせてもらえたからです。

特に有益だったのは、幸いにも2〜5幕僚室長と気象班長の5人が候校同期であり、そしてこのメンバーで既に呉監防衛部で約1年を共にしてきたことから、防衛部長以下が纏まった1つのチームとして動くことができ、幕僚間の意思の疎通と連携も極めて良好でスムーズに行ったことでした。

また、阪基司令は司令部幕僚業務の雑事に巻き込まれ無いようこの幕僚組織とは切り離し、対外的に指揮官たる呉総監の代理として、また呉総監の相談役として、更には現地司令部の日常を支える阪基本部の各機能の指揮官として動かれ、これは大変有効かつ効果的でした。

大人数・大規模で、かつ施設・設備の整った司令部であるならば、それはそれでもう少し違ったやり方が有ったのかもしれませんが、この程度の小さくコンパクトな司令部で、かつパソコンやネットさえ十分でない時代の半壊した阪基庁舎においてでは、これはこれで十分に機能し良かったと思っています。

そしてこの半壊した阪基庁舎において、元々の阪基本部の隊員に加え、呉から進出してきた呉警備隊、通信隊、衛生隊、調査隊、造修所、補給所などからの派遣隊員は、極めて精力的に司令部を支えてくれました。
 
 
しかしながらその一方で、海幕は上級司令部組織としては機能したのか?

私達派遣部隊司令部の幕僚からすれば何の役にも立たず、高所大局からする神戸を含む地域の情勢・情報を集めて司令部に流してくるなどは一度たりともなく、しかも各部・各課の担当者はそれでなくとも忙しい派遣部隊司令部に対してそれぞれがその時その時に思いついたことをその都度勝手にやいのやいのと言って来て業務の邪魔をする始末で。

例えば、海幕防衛部などは、毎日その日の実施業務や現地の状況分析内容などは日報として報告を上げているにも関わらず、内局から要求されたと言って全く異なった別の様式でその日ごとの報告書を作って出せと。 こちらは一人で何役もやってバタバタしているにも関わらずです。

内局要求の報告書は海幕防衛部で日報から当該様式に書き直せば良いだろうと言ってもダメ。 ではその書き直しのための人手を海幕から現地司令部に出してくれと言ってもダメ。 結局現地司令部で毎日二度手間の書類作りをさせられることに。

ことほど左様に現地司令部の幕僚にとっては海幕とはそんなものでした。

おそらく、海幕長からは各部・各課に対して “可能な限り現地司令部を支援・手助けしてやれ” などという言葉は全く無かったであろうし、各部長・課長クラスは各部長・課長クラスで “何かやっている” “現地に指示を出している” という姿勢を見せることによって自分達の点数稼ぎをしようとしたのでしょうね。

(続く)

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2023年02月04日

阪神災害派遣の思い出 (終)


12話にわたり思い出すままに順不同でお話ししてきました。

これらは、28年前の阪神淡路大震災に対する海上自衛隊の災害派遣について、その司令部の一員として実施し、また見聞きしたことなどで、これまで他でお話ししたことはほとんど無いものです。

もちろん、公式の記録には残らないもの、残せないものも含めて、全て私の個人的な所見で、文責は私個人にあります。

私も良い歳になりましたので、これらはこの機会にお話ししておかないと、おそらくもう今後は無いかもと思ってのことです。

まだまだお話ししたい事は沢山あるのですが ・・・・ 取り敢えずこの辺で一区切りを。
  
  
1月17日の発災直後から、そして半壊した阪神基地隊の庁舎に進出しての不眠不休ともいえる48日間、私にとっても一生忘れることのできない日々となりました。

そして中には、結果オーライとはなったものの、もしその時の判断・処置が間違っていたならば後で懲罰をもらったかも知れないこともやりました。 もちろんその様なことは覚悟の上で。
  
  
呉から阪基に進出して最初の1週間ほどは、明け方頃業務の手があいた時に司令部作戦室の椅子に座ったまま1〜2時間ほどのうたた寝、それ以降は毎日夜中に自分の業務が一段落したところで、庁舎会議室を片付けて床に直にマットレスを並べただけのその上に、作業服を着たまま毛布に包まって何とか3〜4時間の仮眠。 もちろんその時でも何かあればすぐ起こされて。

暖房はなく、ヒビが入った壁やずれた窓から冷たい隙間風が吹き込み、そして付近一帯の湧水が引いて乾いた後の砂埃がその隙間風と共に室内に舞う中で。

もちろん当初は食事や入浴などは言わずもがなでしたし、トイレは何とか手が空いた時に例の庁舎裏に並ぶ簡易トイレに走って行って。
  
  
それでも、司令部一同のみならず、艦艇・航空部隊や陸上部隊からの派遣隊員も総員が皆頑張って一生懸命やったつもりです。 特に自分自身やその家族が震災の被災者でもあった阪基隊員達は。
  
  
微力であったと言われればそうだったかもしれません。 もっと一人でも多くの方々を助けられたのでは、もっと多くの色々なことがやれたのでは、との念も今でも頭をよぎります。

がその一方で、当時は、呉地方隊を始めとする海上自衛隊には、神戸のような大都市におけるこのような未曾有の大震災に対する備えが十分で無かったこともまた確かです。

それ故に、不幸にしてこの後に生起した東日本大震災では、この時の教訓が多少なりとも活かされていてくれれば、と思っていますが ・・・・
  
  
阪神淡路大震災における海自災害派遣部隊の詳細については、平成7年5月11日付の 『阪神・淡路大震災に伴う災害派遣詳報』 (呉監防3第872号別冊) が出ていますのでこれをご覧ください。

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もちろんこの文書は海自部内におけるいわゆる “公式” な記録であることは申し上げるまでもありませんので、当然ながら “書けないこと” “言えないこと” などは載っておりませんが。

そして28年も前の 「注意」 文書 (=秘密文書では無い) であるにも関わらず、いまだに海上自衛隊はこれを一般に公開しておりませんので、興味のある方々は防衛省・海自に情報開示請求をしてみて下さい。 部分的にかもしれませんが出てくるかも。

( 私の手許にあるものを公開しても良いかもしれませんが、何しろ400ページを超えますで、整形とゴミ取りに手間暇がかかりその余裕もありませんので ・・・・ )  
  
  
最後に、震災でお亡くなりになられた多くの方々のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた阪神淡路の皆さんに幸あらんことを。

頑張れ、神戸 !


Hanshin_tlecard_01_s_mod.jpg
( 発災当日の阪基の崩壊した護岸・グランドと湧水  阪基の記念テレカより )


(本項終り)

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2023年02月05日

公刊『海上自衛隊25年史 資料編』 項目追加公開!


今週の本家サイトの更新として、公刊 『海上自衛隊25年史 資料編』 に 「XI 教育・訓練」 の項を追加公開しました。

JMSDF_25_Shiryo_Sec-06_s.jpg  JMSDF_25_Shiryo_06-114_s.jpg


http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html


本項も大変良く出来た図表ばかりなのですが ・・・・

あと残り3項目で全体の1/3ほどです。

posted by 桜と錨 at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年02月19日

『海上自衛隊25年史 資料編』 全編完了 !


今週の本家サイトの更新は、『海上自衛隊25年史 資料編』 の残りの3項目、「VIII 装備」 「XI 年表」 「XII  参考」 を追加し、これにて 『海上自衛隊25年史』 及び 『 同 資料編』 の全ての公開が完了しました。

http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html


JMSDF_25_Shiryo_Sec-08_s.jpg  JMSDF_25_Shiryo_Sec-11_s.jpg

JMSDF_25_Shiryo_Sec-12_s.jpg



「参考」 の項中の艦艇・航空機の写真は、大変に画質・印刷が悪いもので、CD版にはもう少し解像度の高い綺麗なものがありますが、『資料編』 は取り敢えず全頁をそのままスキャンして多少のゴミ取りをしただけとしておりますのでご容赦を。

この後、時間がとれましたらこれらについて少しずつ手直しをしていきたいと思っていますが ・・・・


今回の 「装備」 「年表 」「参考」 の何れも立派な出来で、海上自衛隊の初期の歴史に興味をお持ちの方々には有益なものと考えます。

例えば、「年表」 は私はこれを基に他の公的資料で補完してパソコン用のデータ・ベースを作りました。 個艦名などで検索すると就役から除籍までの経緯、所属部隊名などの変遷が出てきますし、部隊名で検索するとその編成・配属先などの変遷が一覧で表示されます。 これは便利です。


いずれにしても、この 『25年史』 及び 『同 資料編』 は、これまで海上自衛隊からは40年以上全く公開されてこなかったもので (今後もその意思は無い?)、ネットを含めて一般に公開される始めてのものであると自負しております。

ご覧いただいてきてお判りのように、秘密に関することは全く含まれておりませんし、むしろ内容的には、永年にわたり国民の血税を使ってきた防衛省・海上自衛隊がその使い道を国民に対して説明すべきものであるといえます。

しかも、50年史編纂の時に一緒にこの25年史も入れたCD版まで作りましたが、これを海上幕僚長経験者などの元海将OB達の集まりである 「木曜会」 と称するところでは、ヘラヘラとゴマすりのご機嫌取りに配っているにも関わらず、です (^_^;

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2023年02月21日

秘密漏洩 卑劣な某海自OBは誰 ?


さるニュースから

「 昨年12月末、東京・目黒にある海上自衛隊幹部学校では、ひとりの1等海佐が着慣れた制服ではなく私服姿でこの組織を去った。その去り際を見送ったのは同僚と思しき職員がたったひとり。約30年近く、この組織一筋で働いてきた者への見送りというにはあまりにも寂しい光景だ。」

そう、特定秘密漏洩で懲戒免職となった井上高志元一佐です。 まああまりにも非常識なことであり、常軌を逸していますから、“自業自得” であることは間違いありません。 これで彼は海上自衛隊における功績の全てを失い、退職金、叙位叙勲などにも影響してくるわけです。

ところがその一方で、その情報を要求して特定秘密を入手したとされる肝心な元自衛艦隊司令官という海自OBはなぜ出て来ないのか? これほど卑劣なことがあるのでしょうか。 あまりにも情けない。

聞くところによると 「自分は “確かな情報が欲しい” と言っただけで特定秘密そのものを要求したわけではない」 などとのたまわっているとか。 いい加減なものですねえ。 自分のやったことに対する自覚も反省もそのカケラさえ無いとは。

キチンと表に出て来て、「自分のせいでこの様な事になり、井上一佐は元より、古巣の海自に大変な迷惑をかけてしまい、誠に申し訳ない」 と謝罪するのが、常識ある人間として当然というものでしょう。

そして何よりも、それに輪をかけたように情けないのが防衛省・海上自衛隊と言う “お役所” ですね。

相手が一般の市民であるならともかく、元海自高級幹部という立場を利用しての海自と言う組織に対して行った不正・不法行為であるにも関わらず、そのことは棚の上に置いたままで、漏洩事件は当の海自自衛官個人の責任であると言うこれまた反省もない態度で、当の現職自衛官一人をエスケープ・ゴートにしてその首をちょん切ればそれで一件終わりという姿勢。

海自における秘密保全については、私はもう50年も前の初級幹部時代からその実態の酷さ、実効性の無さを警鐘して来ました。

つまり、下の者には口先で五月蝿く言うものの自分では決して動かない(= 如何にして保全措置をとりつつ下の業務をやり易く効率的にするかの具体策を示すことは無い)、しかも自分自身は好きな様にやって良いんだという姿勢、態度。 これは階級が上になればなるほど顕著で。

それに、下の者が一生懸命苦労して集め、纏めた情報なども、立場を利用していとも簡単に “貸してね” “貰うね” でさも自分のもののように振る舞い、上の者、官僚、政治屋に “こう言うものならあるけど” と大きな顔をする。

こう言う感覚の 「背服を着た能吏」 達が (肩書きばかり) 出世して海上自衛隊という “お役所” を牛耳る世界ですから、今の様な組織になってしまうのかと。

今回の事件もまた本人個人をエスケープ・ゴートにし(あとは少数の者を監督責任などでお茶を濁して)、現場に対しては不要、無意味な縛りばかりがキツくなるんでしょうねえ。 それで “措置・対策はとった” と。

そして当の肝心な海自OBはというと、熱りが冷めた頃を見計らって “そんなことは俺は関係無いし知らん” としれっとして大きな顔でまた世に出てくるんでしょうねえ。 きっと。

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2023年03月31日

昭和49年度世界一周遠洋練習航海の思い出


もう今年も明日から4月ですね。 歳をとると一年の時間がどんどん早くなっていきます。

先日ブログでTBSテレビさんの 「世界遺産」 シリーズに合わせて、私の遠洋練習航海の時に訪れたイタリアのポンペイのご紹介をしました。

で、考えてみましたらまだこの遠洋練習航海での回想記が本家サイトに抜けています。

そこで、もう50年も前のことになりますが、私としても最後の機会と思いますので、この時の遠洋練習航海での思い出を本家サイトに綴ってみたいと思いました。

しかしながら、もう今となっては細かいところの記憶も薄れてきております。 私が写した写真などをもとに、思い出すままに・・・・と、取り敢えず日本出航から順番に分けて、考えたのですが、これが結構手間暇がかかりますので、次の本家サイトの更新には最初の横須賀出港から最初の寄港地であるハワイまででも間に合いませんでした。

取り敢えず、今後順次ご紹介していく予定であることをお知らせだけしておきたいと。

2-4_S490617_01.jpg
( 昭和49年6月17日横須賀での出航式時のスナップ )


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2023年04月09日

昭和49年度世界一周遠洋練習航海の思い出


本家サイトの今週の更新として、『砲術への想い』 コーナーでまだお話ししていませんでした私が実習幹部の時の昭和49年度遠洋練習航海についての項を追加し、取り敢えずその第1話として日本出航からハワイまでのページを作成し公開いたしました。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4-1.html
    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4.html

Hawaii_1974_01.jpg
(ハワイ真珠湾沖仮泊時 生まれて始めて見る “外国” です)


もう半世紀 (49年) も前のことですが、海上自衛隊の遠洋練習航海について、それも実習幹部の視点でのものは珍しいのではないかと思っております。

とは言っても、残念ながら当時の資料などは既にほとんど破棄しておりまして詳細かつ具体的な事項については残っておらず、また昔のことですのでもう私自身の記憶そのものもあやふやなところがありますことはご了承下さい。

そして、全体としては大変に長いものになりますので、ご来訪の皆さん方のご意見・ご所見をいただきながら、少しずつ追加していきますので、長い目で見ていただければと存じます。

posted by 桜と錨 at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年04月16日

昭和49年度遠洋航海 マンザニヨ


本家サイトの今週の更新として、私が実習幹部の時の昭和49年度遠洋練習航海についてのお話しの2回目、ハワイ出港からメキシコのマンザニヨでのページを作成し公開いたしました。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4-2.html
    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4.html

Manzanillo_1974_01.jpg
( マンザニヨの夕暮れ ちょっとネガのカビが・・・・ (^_^; )


先に申し上げたとおり、もう半世紀(49年)も前のことですが、海上自衛隊の遠洋練習航海について、それも実習幹部の視点でのものは珍しいのではないかと思っております。

まだまだ遠洋航海の続きの先は長いですが、ご来訪の皆さん方のご意見・ご所見をいただきながら、少しずつ追加していきますので、長い目でご愛顧いただければと存じます。

posted by 桜と錨 at 13:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年04月23日

昭和49年度遠洋航海 ラ・グアイラ (ベネズエラ)


本家サイトの今週の更新として、私が実習幹部の時の昭和49年度遠洋練習航海についてのお話しの3回目、メキシコのマンザニヨを出港し、パナマ運河を通狭、南米ベネズエラのラ・グアイラでのページを作成し公開いたしました。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4-3.html
    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4.html

LaGuaila_1974_Illumi_01.jpg
( ラ・グアイラでの電燈艦飾 )


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2023年04月30日

昭和49年度遠洋航海 英国ポーツマス


本家サイトの今週の更新として、私が実習幹部の時の昭和49年度遠洋練習航海についてのお話しの4回目、南米ベネズエラのラ・グアイラを出港し、北大西洋を横断して欧州最初の訪問地、英国の著名な軍港ポーツマスでのページを作成し公開いたしました。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4-4.html
    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4.html

Victory_1974_01_m.jpg
( 現在でも英海軍 “現役艦” のヴィクトリー )


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2023年05月07日

昭和49年度遠洋航海 仏国ツーロン


本家サイトの今週の更新として、私が実習幹部の時の昭和49年度遠洋練習航海についてのお話しの5回目、英国ポーツマスを出港し、ジブラルタル海峡を通って地中海に入り、仏国の著名な軍港ツーロンとそこから夜行列車で往復した首都パリでのページを作成し公開いたしました。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4-5.html
    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4.html

Paros_1974_01_s.jpg
( エッフェル塔をバックに )


前回4回のロンドンや今回のパリについては、ご来訪いただいている皆さん方の方が良くご存じのところと思いますが、当時の練習艦隊の実習幹部としての研修 (実質は見学) はこの程度のものであったとご理解いただければと存じます。

まさに遠洋練習航海の実習幹部に “見せてやったんだ” と (^_^;

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2023年05月13日

我が師故伊藤茂氏宅再訪


昨日のことですが。

昨年9月に御子息のご厚意により、私が現役の時に師と仰いできた故伊藤茂氏のご自宅を訪れ、遺された膨大な史料、書籍、遺品などを拝見する事が出来ました。

その時はまだまだ遺されたものはほとんど未整理状態のままだったのですが、その内からダンボール2箱分をお借りして確認と分類・整理のお手伝いをさせていただくことに。

そしてその御子息からご自宅の整理に一応手をつけたのでということで、昨日お借りしていたもののご返却を兼ねて再訪させていただきました。

故伊藤茂氏のご自宅の中は綺麗に整理され、遺されたものは一階に全てを移して飾り直され、まるでプライベートの資料館のようになっておりました。

で、私がお借りしていたものを一つ一つご説明しながらご返却しましたので、そのまま一緒に並べていただけるのではないかと。

そして私の関心のあるものを少し選んでまたまたお借りしてきました。

その一つに、私もまだ拝見したことの無かったものが。 昭和43年に海上訓練指導隊群が出した 「シーマンシップ」 (訓育参考資料第1号) というものです。

Itou_Seamanship_cover_s.jpg

当該資料には編纂者名が記載されておりませんが、海指群は同じ年に故伊藤茂氏の 「艦艇長講習参考資料 (その2)」 を出しておりますので、内容からしても伊藤氏が海指群勤務者に対してシーマンシップ指導のための参考として種々の史料から纏めたものと思われます。


う〜ん、これを一読するだけでも、今回の海自の 「いなづま」 の座礁事故などは信じ難いお粗末さで、と。 既に当ブログの1月15日の記事で指摘したとおりです。

「制服を着た能吏」 として育ってきたエリート意識に凝り固まった “ワンマン” 幹部を、その経歴の飾りとして艦長に補職した結果でしょうね。

例えば、伊藤氏の当該書に出てくる艦の運航についての 「基本中の基本」 というより 「初歩の初歩」 を全て無視しています。

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よくこれで艦長が勤まる、艦長に補職されたもの、どころか艦艇用兵幹部としてよく今までやってこれたな、と。

その部下となる者達はこう言うエリートを振りかざしたワンマン艦長の上から目線でわかった様な大口を叩かれるのが嫌で、誰も何の進言も助言もしようとしなくなる。 当然ですね。

全幹部及び主だったパート長以上の海曹を集めて行う艦内事前研究会さえやらなかったのですから。

そして、こう言う人物の巻き添えを食って 「艦船事故調査報告書」 に関係者として名を挙げられ、かつ行政処分を受けることになる下の者達こそ不運というものでしょう。

“優れた船乗り” であることも “高い術科能力” を有することも、防衛省・海上自衛隊というお役所たる組織においてはその “出世” のためには何ら評価の対象にならない現状では。

これからどんどんとこんな艦長が増えてくるんでしょうね (^_^;

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2023年05月21日

昭和49年度遠洋航海 ギリシャ・ピレウス


本家サイトの今週の更新として、私が実習幹部の時の昭和49年度遠洋練習航海についてのお話しの7回目、トルコのイスタンブールを出港し、ダーダネルス海峡、エーゲ海と来た道を戻り、ギリシャの首都アテネの外港であるピレウスでのページを作成し公開いたしました。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4-7.html
    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4.html

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( 仮泊地からアテネのアクロポリスの丘を望む )

世界史に名を留める著名なアテネであり、私も乏しい歴史知識ながらアクロポリスの丘を始めとして当地を訪れることを大いに楽しみにしていました。

とは言っても、この時に実習幹部として観れたのはホンの一部に過ぎませんで、アクロポリスでは流石にガイドさんが付きましたが、それ以外ではやはりガイドさん無しで。

折角の機会なのに勿体ない話でしたね。


なお、前回のイスタンブールでのお話に出てきましたトルコの海軍兵学校がどこにあるのかご存じない方がおられましたので、ご紹介文を追記しました。

ここも250年の歴史を持つ大変に由緒正しいところです。 う〜ん、私も停泊実習などに回されずに行ってみたかったですねえ (^_^;

posted by 桜と錨 at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年06月04日

昭和49年度遠洋航海 イタリア・ナポリ


本家サイトの今週の更新として、私が実習幹部の時の昭和49年度遠洋練習航海についてのお話しの8回目、ギリシャのピレウスを出港してナポリでのページを作成し公開いたしました。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4-8.html
    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4.html

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( ナポリ港外にて仮泊中  ベスビオ火山を望む )

この時の遠洋練習航海において、ある意味このナポリ寄港はそのメインともいうべきもので、5日間在泊し、ローマ、ポンペイなどへの研修を行いました。

とは言っても、例によってこの時に実習幹部として観れたのはホンの一部に過ぎませんし、しかもやはりガイドさん無しで。 折角の機会なのに勿体ない話でしたね。

posted by 桜と錨 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年06月11日

昭和49年度遠洋航海 スペイン・バルセロナ

本家サイトの今週の更新として、私が実習幹部の時の昭和49年度(1974年)遠洋練習航海についてのお話しの9回目、イタリアのナポリを出港してスペインのバルセロナでのページを作成し公開いたしました。 遠洋航海もいよいよ地中海最後の寄港地です。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4-9.html
    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4.html

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( ムンジュイック城より当時のバルセロナ港を望む )

バルセロナは今では1992年のオリンピック開催を契機として随分と変わってしまいましたが、当時はまだ昔ながらの雰囲気が色濃く残る大変に良いところでした。 ただ、残念ながら本場のフラメンコを観る機会を失いまして ・・・・

それでもかの有名なサクラダ・ファミリアを始め、スペイン村、ムンジュイック城やバルセロナ海洋博物館などは見ることができました。

posted by 桜と錨 at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年06月15日

被害者の会はやっと解散 ? ・続


Facebook の方で触れましたが、こちらでもう少し詳しく。

亡くなられた某氏ですが、自分の直近の部下で無い者を、その指揮系統の間を飛び越して “ちょっと来い” と電話で呼びつける。 朝から1日に少なくとも3・4回、1回に最短でも1時間以上。 それが来る日も、来る日も、毎日、毎日。

で、その話の中身は毎回、毎回いつも同じことの繰り返しだけで、現在進めている業務とは直接何の関係もない自分の持論 (と本人は思っているが、単なる当たり前の一般論) をあ〜だ、こ〜だと延々。 そして喋るだけ喋ったら “分かったらその通りにやれ” とやっと解放。

これだけやられたら、こちらの忙しい日々の業務は全く進まないし、本人はそれを進めるつもりも阻害しているという自覚も、全く無し。

そして、下級者の意見や進言などは一切聞く耳を持たず、自分の考えは常に優れた立派なものであるとの自負の塊。

しかし、本人の言っていることやっていることは、指揮幕僚課程どころか、幹部中級課程以下、幹部候補生学校での講義レベル並みのものに過ぎません。

ある時などは “これをよく読んで勉強しろ” と渡されたのを見たら、自分の昔の指揮幕僚課程学生の時の課題答申のコピー、で思わず唖然〜 (^_^;

その一方で、肝心な組織としての本来の業務の運営については、決裁者に決裁を受けて報告・回答すべき起案文書の案の供覧などは、とっくの前から本人の机の上の書類箱に山積みになったまま。

にも関わらず、求められている本来の報告・回答の期限などは一切無視で、自分が勝手に決めた日以前には絶対に印を押さない。 しかもその時に何か修正・訂正事項の指摘、指導があるのかと言えば常に何も無し。

したがって、その後決裁者へ決裁を受けに行くのは常に書類の期限の後であり、決裁者に “申し訳ございません、期限を過ぎておりますが” と。

その一方で、報告・回答の書類以外の業務については、全てについて具体的な措置の方針の明示や指示は一切無し。

幸にして約半年で済みましたが、これを一年も二年もつき合わさせられた人達にとっては、精神的にも肉体的にも、その苦痛は堪らなかったでしょうね。 

かえって “馬鹿か” “阿呆か” と怒鳴られてあっさりと終わり、あとは仕事を少しでも前に進めてくれた方が余程楽かと思いました。

今流行りのパワハラでもなく、規則違反に該当するわけではありませんから、被害者達が自然と集まって被害者の会ができて、せめて飲みながら互いを慰めあうことくらいしか無かったのも当然かと。

そして、こう言う人物に限って官僚や 「制服を着た能吏」 達には受けが良いんですよね。 “組織管理能力に長けた優れた人材” と。 何をか言わんや、で。


で、当人は自分の部屋の中で濛々と香を炊く。 部屋のドアは常に開けっぱなしなので、当然部屋の中だけでは無く、建物中に充満。

周りの部屋の勤務者達には “どうだ、高尚な趣味だろう” “お前達にこれの良さが理解できるか” と自慢タラタラで (^_^;

posted by 桜と錨 at 23:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年06月18日

昭和49年度遠洋航海 コンゴ・ポアントノアール


本家サイトの今週の更新として、私が実習幹部の時の昭和49年度(1974年)遠洋練習航海についてのお話しの10回目、地中海最後の寄港地スペインのバルセロナを出港し、ジブラルタル海峡を抜けて大西洋を南下、西アフリカのコンゴのポアントノアールでのページを作成し公開いたしました。 遠洋航海もいよいよ帰りの航路です。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4-10.html
    http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_002-4.html

Sekidousai_S49_01.jpg
( 赤道を通過し南半球へ、赤道祭 )


当時は第4次中東戦争とその後の事後措置のためにスエズ運河は通行出来ませんでしたので、帰りはグルッと南アフリカの喜望峰を回ってとなり、このため、補給の必要からコンゴのポアントノアールに寄港です。

赤道は実に緯度0度0分、経度0度0分という大変に珍しいと言うか貴重な地点を通過しました。 同じ赤道通過でもなかなかこう言う機会は無いものと思います。

posted by 桜と錨 at 13:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと