12話にわたり思い出すままに順不同でお話ししてきました。
これらは、28年前の阪神淡路大震災に対する海上自衛隊の災害派遣について、その司令部の一員として実施し、また見聞きしたことなどで、これまで他でお話ししたことはほとんど無いものです。
もちろん、公式の記録には残らないもの、残せないものも含めて、全て私の個人的な所見で、文責は私個人にあります。
私も良い歳になりましたので、これらはこの機会にお話ししておかないと、おそらくもう今後は無いかもと思ってのことです。
まだまだお話ししたい事は沢山あるのですが ・・・・ 取り敢えずこの辺で一区切りを。
1月17日の発災直後から、そして半壊した阪神基地隊の庁舎に進出しての不眠不休ともいえる48日間、私にとっても一生忘れることのできない日々となりました。
そして中には、結果オーライとはなったものの、もしその時の判断・処置が間違っていたならば後で懲罰をもらったかも知れないこともやりました。 もちろんその様なことは覚悟の上で。
呉から阪基に進出して最初の1週間ほどは、明け方頃業務の手があいた時に司令部作戦室の椅子に座ったまま1〜2時間ほどのうたた寝、それ以降は毎日夜中に自分の業務が一段落したところで、庁舎会議室を片付けて床に直にマットレスを並べただけのその上に、作業服を着たまま毛布に包まって何とか3〜4時間の仮眠。 もちろんその時でも何かあればすぐ起こされて。
暖房はなく、ヒビが入った壁やずれた窓から冷たい隙間風が吹き込み、そして付近一帯の湧水が引いて乾いた後の砂埃がその隙間風と共に室内に舞う中で。
もちろん当初は食事や入浴などは言わずもがなでしたし、トイレは何とか手が空いた時に例の庁舎裏に並ぶ簡易トイレに走って行って。
それでも、司令部一同のみならず、艦艇・航空部隊や陸上部隊からの派遣隊員も総員が皆頑張って一生懸命やったつもりです。 特に自分自身やその家族が震災の被災者でもあった阪基隊員達は。
微力であったと言われればそうだったかもしれません。 もっと一人でも多くの方々を助けられたのでは、もっと多くの色々なことがやれたのでは、との念も今でも頭をよぎります。
がその一方で、当時は、呉地方隊を始めとする海上自衛隊には、神戸のような大都市におけるこのような未曾有の大震災に対する備えが十分で無かったこともまた確かです。
それ故に、不幸にしてこの後に生起した東日本大震災では、この時の教訓が多少なりとも活かされていてくれれば、と思っていますが ・・・・
阪神淡路大震災における海自災害派遣部隊の詳細については、平成7年5月11日付の 『阪神・淡路大震災に伴う災害派遣詳報』 (呉監防3第872号別冊) が出ていますのでこれをご覧ください。
もちろんこの文書は海自部内におけるいわゆる “公式” な記録であることは申し上げるまでもありませんので、当然ながら “書けないこと” “言えないこと” などは載っておりませんが。
そして28年も前の 「注意」 文書 (=秘密文書では無い) であるにも関わらず、いまだに海上自衛隊はこれを一般に公開しておりませんので、興味のある方々は防衛省・海自に情報開示請求をしてみて下さい。 部分的にかもしれませんが出てくるかも。
( 私の手許にあるものを公開しても良いかもしれませんが、何しろ400ページを超えますで、整形とゴミ取りに手間暇がかかりその余裕もありませんので ・・・・ )
最後に、震災でお亡くなりになられた多くの方々のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた阪神淡路の皆さんに幸あらんことを。
頑張れ、神戸 !
( 発災当日の阪基の崩壊した護岸・グランドと湧水 阪基の記念テレカより )
(本項終り)
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