2022年10月16日
『操艦日記』 原紙
私が現役の時に師と仰いだ故伊藤茂氏の著書で 「操艦三部作」 と名付けている一つに 『操艦日記』 がありますが、これは昭和42年に海上自衛隊第1術科学校の研究部が出している 「研究期報」 の別冊として製本、印刷されて部内に配布されたものです。
これは伊藤茂氏がPF 「けやき」 及び護衛艦 「おおなみ」 の艦長時代に、その時々の各地の港への出入港時の操艦について記録として残したものですが、この 『操艦日記』 ではその内で本人が “あまり上手く行かなかった” 時の反省部分を抽出してを採り上げています。
この 『操艦日記』 は、図については元の手書きのまま、本文だけをタイプし直したものですが、昔私がこれをコピーして操艦法の教科書として活用したものは大変に見難いもので、そのままでは公開用とするには整形とゴミ取り、特に後者には多大な手間暇がかかります。
この度ご親族のご厚意により故伊藤茂氏の遺された資料・史料を少しお借りして整理を始めましたが、この中にこの 『操艦日記』 のトレース紙の手書き原稿一式がありました。
う〜ん、これをスキャンしたものと、1術校のリタイプ印刷版のコピーとどちらがゴミ取りが少なくて済むのか ・・・・?
そして更に、この 『操艦日記』 の元となった 「けやき」 と 「おおなみ」 の操艦記録のそれぞれ全てが罫紙の裏を使った手書きで遺されております。
『操艦日記』 はこの2つからのいわば抜粋ですので、本来ならばこの両艦での記録の全てを一つにした方がはるかに良かったのですが、研究季報別冊という紙面の制約上致し方なかったものでしょう。
とはいっても、『操艦日記』 そのものが今となってはどこにどれだけ残されているのか判りませんし、1術校研究季報版をその後海上訓練指導隊において艦艇長講習の参考資料としてそのまま増刷したとされていますが、詳細は不明ですので、『操艦日記』 及び 「けやき」 「おおなみ」 の記録の全てをディジタル化して後世に残していく必要があるものと考えている次第です。
もちろんこの元原稿などは、例えご遺族から海自に寄贈されたとしても、結局そのまま倉庫に眠ってしまい、そしていずれ誰かの手によって処分されてしまうであろうことは十分にあり得ることで、それではあまりに勿体なく、かつ無駄なことでしょう。
さて、ご遺族には今後これらをどうするのがベターであるかをどのようにアドバイスすべきか ・・・・
2022年10月17日
『操艦の記録』 原紙
故伊藤茂氏の著書で私が 「操艦三部作」 と名付けているものの『操艦日記』に続く2つ目の 『操艦の記録』 ですが、これは昭和43年に製本、印刷されて部内に配布されたものですが、残念ながら海自のどこが出したものかは判りません。
図を含めて全てリタイプされたものですので、海自のどこか、であることは間違いないのですが ・・・・
この 『操艦の記録』 は伊藤茂氏が護衛艦 「きくづき」 の艤装員長・初代艦長の時代に、その時々の出入港における操艦について記録として残したものですが、前作の 『操艦日記』 と同じように元々の記録から抜粋したものです。
この度ご親族のご厚意により故伊藤茂氏の遺された資料・史料を少しお借りして整理を始めましたが、この中にこの 『操艦の記録』 についても、トレース紙の手書き原稿がありました。
これからすると、「けやき」 や 「おおなみ」 の場合と同じように、この 『操艦の記録』 の基になった 「きくづき」 での記録そのものも残されているのではないかと思います。 それが確認できるのは今後のことになりますが。
それにしても、この 『操艦の記録』 の元原稿も、今後はどこでどのように保管・管理していくのが良いのでしょうかねえ ・・・・?
2022年10月21日
『 艦艇長勤務参考 (その2)』 原紙
昭和49年に海上訓練指導隊群が艦艇長講習受講者に対して配布した参考資料の一つで、始めて艦艇長となる者に対する基本的な操艦法を中心として艦艇長としての心構えやあり方などについて、当時の呉総監であった中村悌次海将からの依頼 (指示?) により故伊藤茂氏がものしたものです。
したがって、前作の 『操艦日記』 や 『操艦の記録』 のようにケース・ケースに応じた具体的なつ詳細なことよりは、これらをもっと一般化した内容となっており、かつ艦艇長として求められるもの全般に亘っております。
私が持っているのは、昭和53年にこれを開発指導隊群が増刷したものです。
今回ご親族のご厚意によりお借りした氏が遺された旧海軍・海自資料の中に、これの当初の手書き原稿一式もありました。
この資料、今でも艦艇長講習などで配布されているのでしょうか? そして配布されていたとして、若い後輩達は本当にこれを熟読しているのでしょうか?
何しろ、昨今の海自では艦艇長として優れているとか操艦が上手いなどは何ら評価対象にはならず、単に事故無く安泰に過ごし、かつ上に対するウケが良いことが “出世” ( = “制服を着た能吏” として) に繋がる大切なこととされていますので。
早い話、入港時には横付けする岸壁に遥か遠くから1番舫を取ったら 「機械・舵よろしい」 を令して、あとはひたすらタグで押せ押せでOKというのが流行りだとかと聞こえてきますが ・・・・ (^_^;
私に言わせれば、もっとも操艦の妙を発揮できるところをやろうとしない、ということです。
2022年10月23日
『艦橋勤務』 元原紙版 追加公開 !
故伊藤茂氏の著作 『艦橋勤務』 については、既に本家サイトにて文字起こし版を公開しております。
これは昭和49年に海上自衛隊第1術科学校にて教育用に印刷、配布されたものですが、当時から大変に見にくいもので、そのままでは読むに耐えられないところが多々あります。
このため、手書きのイラスト以外の全文を私が文字起こしをしたものです。
この度、ご親族のご厚意によりお借りした氏の旧海軍・海上関係史料の中に、この 『艦橋勤務』 の元原稿が遺されていました。
これをディジタル化してPDFファイルとしたものを本家サイトの当該ページに追加公開しました。
ただし残念ながら、昨今のネット事情から画質を少々落としてファイルサイズを小さくし、かつ各ページにサイトの透かしを入れておりますし、またごみ取りなどはほとんどしておりませんが、十分にお読みいただけると思います。
本資料は既に半世紀も前に作成され配布されて以降、その後その姿を見たこともありませんし、またその代わりの新たなものが作られたとも聞いたことがありません。
本資料に述べられていることは、艦艇勤務となった初級幹部が会得しておかなければならないことばかりであり、候補生学校や練習艦隊においてしっかりキチンと教えていなければならないことですが ・・・・ 最近はGPSや電子海図などを利用して技量が上がっていないのでは、と。
余談ですが、かつて私が 「きりしま」 艦長の時、夜航海で艦橋の艦長席でウトウトしていると、副直士官が 「艦橋、間もなく変針点〜」 と言う報告の声がすれども灯台の明かりが見える陸側のウィングには見張員以外おらず。 どこかと見回したらカーテンで仕切った海図台の中からGPSの表示器を見ながらだったことがありましたが ・・・・ (^_^;
2022年11月01日
幹部候補生の肩章
最近になって、海上自衛官の帽章のデザインなどが少し変わったようですが ・・・・
もう半世紀も前のことですが、私達が江田島の幹部候補生学校に入校した時には、海上自衛隊の服装規則の改正に伴い、それまでの “チェリー・マーク” と呼ばれる桜花型の金属製の襟章から、現在まで続く冬制服の袖章、そして夏服の肩章に変更になりました。
ところが、です。 当時の官品で支給される制服類は極めて劣悪な質のものばかりでした。 特に、夏服の詰襟 (当時の第2種、現在の第1種) や半袖 (当時の略衣、現在の第3種) などは生地も仕立てもそれは酷いもので。
これから海上自衛隊の幹部になろうかと意気込む候補生にとっては、自尊心を汚されるというか、とてもではありませんが着る気になるようなシロモノではありませんでした。
そこで、私は候補生学校に入校して直ぐに制服一式を全て業者さん仕立ての自前のもので揃え、普段は官品は一切着用せず、これらを着ていました。 (分隊点検などの儀式では仕方なく支給の官品を着ざるを得ませんでしたが。)
そして、この官品の候補生肩章も制服と同じく極めて劣悪なものでしたので、業者さん特製(= ニセ) のものを購入して普段はこれを着用していたのです。
( 関門大橋開通直前の見学にて 既に帽子の顎紐は変色 )
ところがある日、これが官品を着用する他の候補生と比べて余程目立ったのか、幹事付に目をつけられてアウトに。 学校側から着用禁止のお達しまで出てしまいました。
お粗末な官品のものより遥かに見栄えのするものではありましたが ・・・・
ちなみに、当時の規則では幹部 (候補生を含む) に対する制服の官品支給は最初の1回のみとなっていました。 そして、定年退職時に返却の必要がありませんでしたし、幹部には被服点検の様なこともありません。
したがって、作業服代わりにもならない粗悪な官品の夏服類などは以後二度と着るつもりはありませんでしたので、持っていても邪魔になるだけですから、全てを候補生学校卒業の前の日に赤煉瓦の外にある可燃物集積用のごみ箱に捨てました。
確か心ある同期数名も同じだったかと。 勿論、記名の布と金属製ボタンは外して。
候補生時代の夏服の詰襟には苦々しい別の出来事もあるのですが ・・・・
2022年11月20日
S48年度候校1課程用SGの追加公開
本家サイトの今週の更新として、久々に昭和48年度の幹部候補生学校1課程 (防大卒) 用スタディ・ガイド集に 「航空機 (運航)」 「航空機 (運用)」 及び 「航空機 (装備)」 の3つを追加公開しました。
SG集メニュー :
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/Shiryo/02_OCS_SG_S48.html
なかなか時間が取れませんので今回も整形とゴミ取りはかなり中途半端ですが、当時の防大卒対する教務内容でもこんなもので、かつ当時の印刷物はこんな程度のものだったという一端をご理解いただければと存じます。
まあ私に言わせれば、当時でも、防大卒の候補生に対してたったこの程度の教務なのか、と思っておりましたが ・・・・
なお、SGはいわゆる “テキスト” ではありませんので、聴講した学生が随時書き込んでいくようになっておりますが、公開するものは私が書き込んだものは全て削除・省略しております。
したがいまして、おそらく今回公開したものだけでは講義の内容がよくはお判りいただけないかと思いますので、もし研究家の方などで削除・省略した部分も全て含んだ元のもののご要望がございましたら、お聞かせいただければ考慮いたします。
2022年12月04日
術科史の無い海上自衛隊
やれ創設70周年記念の国際観艦式だとか何だとか騒いでいますが、その海上自衛隊には未だに各術科についての 「術科史」 が (さえ) ありません。
「術科」 といいますのは、海上自衛隊の現場における職種の専門的事項を言い、砲術、水雷術、航海術、機関術、etc. etc. に区分したもののことです。
まあ、“自分で自分の足跡を消しながら前に進むところ” と言われるほどですから ・・・・・
しかしながら、本当にこれで良いのでしょうか ?
国民の血税を使いながら、70年間何をしてきたのかをその国民に全く示さない。 それどころか、自分達の後輩にさえキチンと残し、伝えていくことをしてきていない。 全くおかしな組織です。
これでどこが “制服を着た能吏” の高級幹部達が二言目には口にする 「伝統の継承」 なのかと。
私は 「鉄砲屋」 の末席に連なる者の一人と自負してきていますが、現役の間に一度もこの術科史を作成しようという話しは聞いたことがありませんでした。
それが必要であると認識し、作成する意図がある、あるいは作成せよと隷下部隊に指示があった、などいうことは一度もありませんでした。
最近になって、本質的に海上自衛隊とは何の繋がりも無い 「水交会」 なるところが、この術科の幾つかについて 『海上自衛隊 苦心の足跡』 という形のものを全7巻で出しました。
もちろんこれは、現役の時に当事者だった各術科のOB達などによる、いわば個人的な回想話を集めた “回想集” に過ぎませんで、とてもではありませんが 「術科史」 たりえません。
本紙たる 「術科史」 があってこそ始めてこの回想集がその裏付け・補填として役に立つ、というものです。
しかしながら、海上自衛隊に “制服を着た能吏” として居座ってきた高級幹部達が、OB会ではない 「水交会」 の会長や理事と称する職にタライ回しで順に就き、この回想集をもって自己満足的にお茶を濁しているに過ぎない、というのが現状です。
では、創設期以来の各種史料を残すことをキチンとしてこなかった海上自衛隊が、今このご時世になって今更 「術科史」 を作ることができるのでしょうか?
私は不完全ながらも今ならまだなんとか可能であろうと思っています。
もちろん、例えば砲術についてはこれまでこのブログや本家サイトでご紹介してきた史料・資料などがまだ残されているとして、です。
そして、その 「術科史」 を纏めるにあたってその基本・基礎となる 「術科年報」 が最初のものから全て残されているとして、です。
この 「術科年報」 は、例えば砲術では昭和31年に海上幕僚監部の防衛部でその最初の 「砲術年報」 が作られ、その後これの作成担当は第1術科学校となりました。
毎年同校の砲術科が編纂し、同校各科の他の年報も合わせて研究部が纏めて発刊、海上自衛隊各部に配布しています。
「体育年報」 などは普通文書ですが、他の年報はその内容により取扱・秘密区分が指定されます。 砲術年報や水雷年報などはもちろん発刊時は 「秘」 です。
砲術年報にどのようなものが記載されるのかなどの概要は、以前本家サイトでご紹介したところです。
http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_006-2.html
これの記載項目は昭和31年当時からほぼ同じように継承しており、これはおそらく今でも変わっていないはずです。 (変わってしまっては意味がありませんので)
これに既にご紹介してきた様々な史料・資料、それに私は探し切れなかったまだ他に残されているであろうものなどで肉付けをしていけば、少なくとも昭和年代のものは書けると考えます。
ただ、海上自衛隊では既に破棄・処分して残されていないと公言しているものも多いのですが ・・・・
2022年12月25日
公刊 『海上自衛隊二十五年史』 章追加!
先週1週間はプライベートな出来事により、本家サイトの更新だけはしましたが、本ブログ及び談話室でそれをお知らせする余裕がありませんでした。 何とか元の生活に戻ってきたところです。
先週の第2章 「警備隊時代」 及び第3章 「海上自衛隊創設時代」 に引き続き、公刊 『海上自衛隊二十五年史』 の第4章 「1次防時代」 及び第5章 「2次防時代」 を追加公開しました。
(因みに、この写真の先頭を行く指揮官は “ミスター海上自衛隊” と言われた防大1期の鈴木信吉氏です。 顔・スタイルも良く、人格・識見に優れ、将来を嘱望された私の信頼する先輩の一人でしたが ・・・・)
既にお断りしてありますように、全体を通しての各章ごとのレイアウトの整合はまだしておりませんし、未修正部分などが残っているところがあると思いますが、これらは行く行くはやっていくこととし、取り敢えず資料編も含めた全ての公開を目指したいと考えております。
とは行っても、この公刊『海上自衛隊二十五年史』は、ネットや出版物などにはありませんし、いまだに海上自衛隊そのものが公開するつもりはないようですが、ご覧いただいているように、秘密に関するものは全く無く、かつ海上自衛隊創設期からの歴史に関する“公式文書”です。
ご覧いただいてお判りいただけると思いますが、本来この内容は血税を使ってきた防衛省・海上自衛隊が国民に対してその実績・実態を説明しなければならいはずのものです。
そして、ネットなどに氾濫する単なる “面白可笑しく、見かけさえ良ければ” ではなく、少なくとも海自の初期についてはまずはこの二十五年史の内容を基礎とし、それからのものである必要があります。
2023年01月01日
公刊 『海上自衛隊二十五年史』 本紙全公開完了!
元旦ですが、本家サイトの新年最初の更新で、引き続き公刊 『海上自衛隊二十五年史』に第6章 「3次防時代」、第7章 「4次防時代」、第8章 「新海洋法の幕開けとともに」、そして最後の 「あとがき・奥付」 を追加し、これにて本紙の全ての公開を完了しました。
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html
引き続き 『同 資料編』 の公開を順次行って行きたいと思っています。
そして資料編の公開が終わった後で、本紙に戻って全体を通しての各章ごとのレイアウトの整合や、未修正部分などが残っているところなどをやっていくこととしたいと考えております。
なお、先に公開しました第4章 「1次防時代」 はうっかりミスをしてしまいまして、気が付かずに章の半分のみのものをPDFにしてしまいました。 当該ファイルは改めて章全文のものに交換しております。
それにしても、この公刊 『海上自衛隊二十五年史』 は、ネットや出版物などにはありませんし、いまだに海上自衛隊そのものが公開するつもりはないようです。
したがって、全文の公開は始めてのものであると自負しております。
海自の “公式文書” たる 「二十五年史」 ですので、海自のことに興味のある方々にじっくりとお楽しみいただけたらと存じます。
2023年01月08日
公刊 「海上自衛隊二十五年史 資料編」 に追加公開 !
今週の本家サイトの更新は、引き続いて 公刊 「海上自衛隊二十五年史 資料編」 の 「W 人事・厚生」 と 「X 服制・旗章」 の2つを追加公開しました。
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html
この2つで60ページですが、ここまででも全360ページの1/3にも達していません。 これでも個人の作業としては結構手間暇がかかります。
しかしながら、この2つをとってみても、なぜ海上自衛隊はいまだにこんな立派なデータを作っておきながら公開しないんですかねえ。
2023年01月21日
阪神災害派遣の思い出 (2)
海自補給艦による岸壁での市や企業などの給水車への給水と共に、海自給水車の巡回や各桟橋などでの在泊艦艇によりペットボトルや水タンクなどを持参する市民に対する給水支援が本格的に行われていた頃です。
阪神基地隊のある魚崎浜から奥に入った青木フェリー・ターミナル桟橋 (新明和工業の工場の近く) に横付けした15掃海隊の掃海艇が市民に対する給水支援を行っていました。
(掃海艇による市民に対する給水支援)
給水場所を桟橋の掃海艇の舷門脇に設置して、夜間も24時間体制で対応できるように待機していました。
ある寒い日の夜のこと。 お婆さんが小さなお孫さんの手を引きながら歩いてやって来ました。
ところが、そのお婆さんは
「兵隊さ〜ん、寒い中大変だねえ、ご苦労さん」
「少しだけど、これ飲んでね」
と家で温めてきたらしいコーヒー缶を数本差し出したそうです。
舷門当直員達は寒い夜にわざわざ温めたコーヒー缶を持って歩いて届けに来てくれた心遣いに感謝し、ありがたく頂戴して、
「ありがとうございます。 頑張ります。 お婆さんも気をつけてお帰りください。 寒いですからお孫さんも風邪などひかないように。 お水が必要な時はいつでも来て下さいね。」
翌朝この話しを聞いた司令部では皆が感激です。 こういうことがあるからこそ、それは災害派遣に対して他のどんなことよりも私たちが報われる、何ものにも代え難い最高の栄誉だ、と。
文字通り皆が不眠不休での災害派遣ですが、それが本当に市民の方々の役に立っているのだと実感できる出来事の一つでした。
ある時、海上幕僚長から派遣部隊指揮官である加藤呉総監に電話があり、「テレビでは陸自がトラックごと全てに “災害派遣実施中” の大きな幕を掲げて走っとる。 海自ももっとテレビに映るようなことをやれ」 と言われたそうですが、翌朝の司令部の定例会報の時、総監は私達に
「俺はそんなチンドン屋みたいなことはことはやらん。 港に白地に赤の自衛艦旗を掲げた灰色の船が並んでいる姿を市民に見せるだけで十分だ。」
「我々は真に市民の役に立つことを淡々とやる。」
と言われ、実際そのとおりに実行されました。
こういう指揮官こそが、部下はどんなに苦しくとも全幅の信頼を置いて従っていく頼もしいもの、と感じた次第です。
(続く)
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2023年01月22日
公刊 『海上自衛隊25年史 資料編』 公開追加
今週の本家サイトの更新は、既に公開を始めております公刊の 『海上自衛隊25年史 資料編』 に2つのセクションを追加しました。
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html
文字通り貧乏暇なしを地で行っておりますので、たったこれだけですが、モノクロ頁ですのでカラー頁よりは多少は楽なところで。
2023年01月23日
阪神災害派遣の思い出 (3)
私達海自災害派遣部隊司令部が呉総監に率いられて半分壊れかかった阪神基地隊庁舎に進出してから1週間ほど経った時のこと。
ある日の昼間、パトカーが1台スーっと敷地に入ってきました。 一体何事かと見ていたのですが ・・・・
「済みません、簡易トイレが並んでいるのが見えたので使わせてください」 (^_^)
考えてみれば、神戸は震災で上下水道も電気も全てやられましたので、住宅街や官公庁、商店はもちろん、工場、公園などで既存の水洗トイレが使えるところはありません。
陸上自衛隊が進出してきた避難所には簡易トイレなどが置かれましたが、警察官といえどもまさか制服を着たままで住民の人達に混ざって使うわけにはいきません。 (陸自隊員が休憩でタバコを吸っているのを見ただけで “サボっている” と非難の嵐になったくらいですから。)
「警察の方もさぞ大変でしょう。 ここなら遠慮なくいつでもどうぞ。」
で、その簡易トイレなのですが、私達が阪基に進出してきた時には、既に庁舎の裏に十数台がズラリと並んでいました。 住宅建築や工事現場などでよく見かけるあれです。
これは、阪基勤務の某係長が発災の直後に突然何を思ったのか、出入りの業者に連絡をとって “あるだけのものを直ぐに持って来てくれ” と。
結局これが阪基に司令部を置いて活動するための “殊勲甲” となりました。
人間というもの、究極の状況に置かれた時には普段の言動からは考えられない発想と行動が出来るものと思わされた次第です。
そして、組織というものは、優秀で均質な人材を揃えるだけではなく、できるだけ色々な性格や言動、能力の人も沢山抱えている方が、いざという時に思わぬ強さを発揮できるものであると感じました。
この某係長、災害派遣が終わった時にそれに値する十分な賞詞が出ていると良いのですが ・・・・ ?
(続く)
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2023年01月24日
阪神災害派遣の思い出 (4)
災害派遣が始まって直ぐに、私達派遣部隊司令部の幕僚には事前の連絡も調整もないままに、海幕の指示によって全国の部隊からありったけの非常用の缶詰や乾パン(ビスケット)などがどんどんと送られてきました。
それらの中で小松島航空基地や徳島航空基地などに空輸で集積されたものでは、缶詰は受け取った市民が開ければそのまま直ぐに食べられるように両基地で煮沸して神戸へ、ということに。
ところが、当然ながらそんなに大量のものを一度に煮沸できるような設備はありません。 がしかし、急いで急いで、との矢のような催促と厳命。
そこで、何と苦肉の策として高温にした浴槽に数時間漬けて、半煮えの状態で神戸へ送ったものがあったとか。
(その後、小学校などへの給食を請け負っていたところの支援が得られることになり、そこへトラックで運んで煮沸して貰うこともあったようですが。)
これらのものはグランドなどを利用した臨時のHS離発着場 (場外離着陸場) の物資集積場に空輸された他、輸送艇などの小艦艇で運ばれましたが、その後どうなったのかは ・・・・
派遣で来援する艦艇も毛布を始めとする可能な限りの支援物資を積んで来ましましたので、神戸市や芦屋市など希望するとことろに配布することになったものの、これらの中の非常用缶詰については、手を挙げてトラックで取りに来たのは肝心な神戸市ではなく西宮市のみでした。
その西宮市でも、これを受け取った後その後どうなったのかは ・・・・ 知りません (^_^;
(続く)
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『海上しまね』 63号
遅くなりましたが、島根の海上OB会の会報誌である『海上しまね』の今年元旦号をいただきました。
海上自衛隊の基地や部隊が無い県ですが、海自OBが活発に活動しておられ、かつこのような会報誌が出されていることは羨ましい限りです。
呉には 「呉水交会」 がありますが、ご存じのとおり似て非なるもので海自OB会とは全く異なったものですし、また 「隊友会呉支部」 に入っている海自OBも多いのですが、これは元々の隊友会は陸さんが牛耳るところですので、いずれにしても中途半端な組織です。
先日 「呉水交会」 と 「隊友会呉支部」 との合同新年互礼会なるものが行われたようですが (私は出ておりませんが)、「家族会」 やら 「婦人会」 などの会員もおり、もうゴチャゴチャになっているようですね。
海自OB会、かつての 『海上桜美会』 ように全国規模の組織が必要ですね。
2023年01月26日
阪神災害派遣の思い出 (5)
発災から数日ほど経った頃のある日 (1月22日?) の朝、奥さんの体の具合が悪くなったのでどこか診てくれるところはないかと旦那さんが車に乗せて阪基までやってきました。
司令部には呉衛生隊をメインとする医療班がおり、これは主として海自派遣隊員の健康管理などが対象でしたし、震災による直接の怪我人や病人ではありませんが、急患で来られたからにはと早速医官が診察しました。
その医官の言では、心筋梗塞の疑いがありかつ妊婦さんで、至急施設が整った大きな病院に入院させる必要があるとのこと。
そこで、急遽阪基のすぐ沖に錨泊中の護衛艦 「せとぎり」 から予め待機を指示していた搭載HSを呼び、医療班のメンバーと一緒に阪基のヘリポートから病院最寄りのヘリポートまで運び、そこから手配の救急車で病院へ。
その後は病院などからは連絡もありませんでしたが、母子共に元気であったであろうことを今でも祈るばかりです。
(もしこの時のお腹のお子さんが無事に産まれていたとすると、今ではもう27歳に。 結婚して子供がいてもおかしくはないですね。)
ところでこの海自災害派遣部隊司令部の医療班ですが、発災の時に呉衛生隊長 (当時は未だ呉病院は有りませんでした) が、先に緊急出港させた38護衛隊 (とかち) と輸送艇の 「ゆら」 に続いて、22護衛隊2隻もその日からの4年毎 (当時、現在は5年毎) の定期検査・特別修理を取り止め後日に延期して神戸に応援に出す予定であることを聞きつけ、私のところへやって来て 「医療班と取り敢えずの医療品・機材を準備しましたので是非乗せていって下さい」 と。
この時私は神戸の状況の情報収集や派遣する艦艇などのことでバタバタしていましたので、ここまではとても頭が回りませんで、その申し出に 「それは助かる、ありがとう。 もちろん是非とも。 すぐに22護隊に指示するので」 と答えるのが精一杯。
結果的に、阪基で司令部や海自派遣隊員の健康管理、そして必要に応じた被災者の怪我の手当てなどに大活躍してくれました。
( かく言う私も、震災による液状化現象が乾いた後に舞い上がる細かな砂埃が半壊した庁舎のあらゆる隙間から入り込んでこれで喉を痛めて風邪を引いてしまい、2度注射や点滴などでお世話になりました。)
この医療班の編成と派出の気を利かせてくれた呉衛生隊長は、防衛医大1期生の医官として大変優秀な人物で、その後1選抜で1佐に昇任した (させた) ものの、こともあろうか当時の防衛医大の学校長自身により、さる県の大きな病院の部長職に引き抜かれて退職してしまいました。
私もその優秀さと優れた人格に前から目を付けて今後を期待していたのですが、本人にしてみれば自衛隊の医官としてよりは医学博士としての自分の将来を考えてのことでしょうし、残念ながら防衛医大の “普通のお医者さん” である教授陣 (自衛隊医官では無いし、医官ではなれない) にしてみれば、学生の頃から目をかけていた教え子を、高給を貰いながら学費などタダの4年間の研究科を終えて医学博士号取得後に (当然学費返還の対象となる義務年限の9年は既に過ぎております) 自分の顔の効くところへ引き抜くのは当たり前の様に行われていましたので (現在でも?)、これは私達自衛官にしてみれば何ともし難いことでした。
それにしても防衛医大というところは ・・・・ ではありますが。
(続く)
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2023年01月27日
阪神災害派遣の思い出 (6)
発災から1週間ほどたった経った日 (1月23日?) の夜、かなり大きな余震がありました。
この時、阪神基地隊の魚崎浜の直ぐ沖の六甲アイランドにある工場から、悲鳴のような電話がかかってきました。 「非難のために直ぐに助けに来てください」 と。
電話を代わった私が詳しい状況を聞くうちに揺れも納まってきて、相手も周りに大きな更なる被害が出ていないことから次第に落ち着いてきました。
そこでダメ押し的に 「大丈夫です、安心してください。 万一また大きな地震が発生して皆さんが危なくなった時には、直ぐに駆け付けますから」 と。
これで相手も安心したのか、最後に 「もしその時には絶対お願いしますよ」 と言って電話を切りました。
幸いにしてその後は余震らしい余震もありませんでしたが、17日にあれだけ大きな震災を身をもって味わった後ですから、少しの余震ででも動揺するのは十分理解できるところです。
それ故に、一般の市民の方々にとっては、緊迫した状況の時には自衛隊が近くにいるということだけでも、頼りになり心の支えになるものだと実感したところです。
(続く)
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2023年01月29日
公刊 『海上自衛隊25年史 資料編』 公開追加
今週の本家サイトの更新は、既に公開を始めております公刊『海上自衛隊25年史 資料編』に3つのセクションを追加しました。
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html
文字通り貧乏暇なしを地で行っておりますので、これだけの追加ですが、これでもこれまで当の海上自衛隊はもちろん、ネットや出版物などでは一般公開されたことが無いものと思います。
良く纏められた立派な図表なのですが、海上自衛隊は既に40年以上も前のこんなものでさえ何故公開しないのでしょうか? 国民の血税を使ってきたその説明であるにも関わらず。
阪神災害派遣の思い出 (8)
これはいつのことだったのかは確かな記憶がありません。
阪神基地隊には屋内温水プールがあり、以前から宝塚音楽学校のお嬢さん達も冬場の体育の一貫として利用していました。
ところが震災によってこのプールに亀裂が入って水が抜けたために使用できなくなってしまいました。
そこである日、この宝塚のお嬢さん達が慰問を兼ねて阪基を訪れてくれた時に、帰り際にこれまでのせめてものお礼にと阪基の隊員にコーラスを披露してくれました。
ただ私自身はこのお嬢さん方の制服姿にお目にかかれず、かつこのコーラスも聞けなかったので、今思っても返す返すも残念なことであったと。
また、司令部が阪基に進出して2週間くらいした時であったと思います。 大阪の 「とうばく演芸隊」 (だったと記憶) という吉本の若手芸人さん達のグループが慰問に訪れてくれ、そして何と驚くことにビール缶 (カナダのラバットと言う銘柄でした) の100ケースをプレゼントしてくれました。
嬉しかったですねえ、寝る暇などほとんど無いほど忙しく心身共に疲労が溜まっている時にこう言う激励の心遣いは。
1ケースは司令部の各人が夜中に休憩する時に1本づつ頂きましたが、残りは全て派遣部隊に配るようにと指示を。
ところでその一方で、我が海自の海幕などはもちろん、海自OBの元高級幹部達が大きな顔をしている水交会などはどうだったのか ?
期間中に一度 (2月1日) 海上幕僚長による司令部視察がありましたが、文句・お小言ばかりで “ご苦労さん” の一言も無し。 水交会はと言えば、海幕に激励に訪れたとか言うことを伝え聞きいてはおりましたが、誰一人として実際に神戸に顔を出すことは無く、もちろん激励・慰問の差し入れなどが届くことも一切無し。
司令部幕僚の一人として、一般の方々による様々な温かい激励の心遣いをいただく一方で、部内関係者はこれなのか、と派遣部隊総員に対してこれ程恥ずかしい思いをしたことはありません。
(続く)
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2023年01月30日
阪神災害派遣の思い出 (9)
海自の災害派遣の主任務が給水支援と陸自派遣隊員の宿泊支援が本格化した第2期に入ってからのことです。
ある日の夕方、ポートアイランドに進駐している陸自の部隊から電話が入りました。 曰く、
「既に陸自が寝泊りしている艦艇以外で、入浴できるところはありますか ?」
で、「魚崎浜の阪神基地隊の直ぐ隣の日本ポート産業の桟橋にいる 「しらね」 なら可能だし、大型護衛艦だからそれなりの大人数でも大丈夫」 と。
ところがその電話口の相手は、
「あ〜、残念ながらそこは担任区の外なので行けません。」
車を連ねてさっと来て入浴が終わったらさっと帰れば、と思いましたし、そのように電話口の相手には言ったのですが ・・・・
陸自さんの部隊が複数で任務に当たる時はキチンと担任区を設定するのは判りますが、災害派遣の直接の業務以外の時の入浴でさえもこれなんですねえ。
私達海自の者にはとても理解できないところです。
(続く)
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