2020年12月09日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (21)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

性 善

この戦闘における米駆逐艦の砲雷撃や煙幕展張等、目ざましい働きは敵ながらまことにあっぱれであり、また艦尾は既に水につかった状態にも拘らず、前部ではなおも砲塔を動かそうとしているかに見えた駆逐艦乗員の闘志には、胸を打たれるものがあった。

さてその駆逐艦のすぐそばを高速で通りぬけて行った時に、私は本艦もまた我が隊の各艦も、最早戦闘不能になった彼等乗員を撃たなければいいがと念じたもので、これは前記したように、かつて 「ガ」 島撤退作戦時、ゴム筏に乗って漂流中の米パイロットに対しても同様の気持を持ったし、またこの日の戦闘中に視界内に着水し、撃墜されたパイロットを救出していた敵飛行艇に対してもこれを攻撃する心境にはならなかったことを考えても、戦闘状態にない敵に対するこのような自然の心情は、人間の性の本来善なる一面の表れではなかろうかと後年思った。

しかし反面、捕虜斬殺等の話も聞いているので私は敵愾心が不足していたのかとも思ったり、あるいはちょっとした環境や立場の相違で人間の気持はどのようにも変わるものかと思ったりするが、やはり前者のような性善の方が人間本来のありのままの心情ではないかと思い、戦争といえどもそれでいいのではなかろうかと私は思う。

そしてこのため必要なときの敢闘精神に欠けるようなこともなかろうと思っている。 もちろん御批判はあろう。


反 転

さてこの時栗田長官直率部隊の、レイテを目の前にした敵前反転ほど戦後論議されたことはなく、当時の艦隊乗員の中にもこれを不満とする者が多かったようにも言われているが、戦局の大勢を知らない若輩の私などは反転北上して敵機動部隊に向かうと知った時は、何となく心の隅に残っていたレイテの船団相手かという凝りがとれ、今度こそ本当にやり甲斐のある戦闘ができるかという気持を持ったように思う。

なおこの日も重巡 「熊野」 被雷、「鈴谷」 沈没、そして 「筑摩」 が被弾したが、うち 「筑摩」 に対しては我が後方を続行中の 「野分」 が救助に派遣された。

しかし同艦は 「筑摩」 の乗員を救助し1隻のみ遅れて帰投中、北方より駆け付けた米戦艦部隊に叩かれ、全員戦死したと聞いている。


ところでちょっと横道にそれるが、この 「野分」 の沈没により、私が18年初頭十七駆逐隊に着任した時、第十戦隊を編成していた16隻の精鋭駆逐艦 (「陽炎」 型12隻、「夕雲」 型4隻) は、我が隊の4隻 (ただし 「谷風」 沈没、「雪風」 編入) と損傷を受けて離隊した 「天津風」 との5隻を残し、他は全部沈没したこととなった。


さて反転北上したものの、敵機動部隊とは遭遇できず、燃料の懸念もあって当夜再びサンベルナンジノ水道を入って行った。 そして、正直に言って、この時 「これでまた生きて帰れるのかな」 とふと思ったものである。

なお翌26日シブヤン海において又々空襲を受け第二水雷戦隊旗艦の 「能代」 も沈没、その他にも損傷艦が出た。


ブルネイ帰投

この日をもって一応戦闘も終了し、駆逐艦の大部は燃料補給のため分離してコロンに回航、本艦及び 「雪風」 が残ったが、27日新南群島 (南沙諸島、スプラトリー諸島) 北東口において、本艦も 「長門」 から横曳補給で油を貰った。 (当時のメモには速力12ノット、速力差赤3、針路交角外方3/4度と書いてある。) この時の給油時間は2時間近くかかったように思うが、緊張の連続に加え、連日の戦闘による疲労が出たのか、終わった時は急に力が抜けたような感じがした。


(参考) : 「コロン」 はパラワン諸島北部のブスアンガ島及びクリオン島、コロン島などで囲まれるコロン湾のことで、旧海軍艦艇の作業・補給基地の一つでした。 捷号作戦においても特設運送船の給油船 「日栄丸」 をここに前進待機として派出しておき、駆逐艦などのブルネイ帰投までの燃料補給を行っております。

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( コロン湾の位置関係 Google Earth より加工 )

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( コロン湾 1966年版の米国防地図局の地図より加工 )


なお終了時 「長門」 の兄部艦長 (勇次 大佐、10月15日少将 兵45期) から本艦々長に 「操艦法見事なり」 との信号をいただいたが、終始艦橋張出しに立って見ておられた同艦長の姿が今も険に浮かび、またこのような時の大艦々長の思いやりは、小艦乗員にとって一入心に泌みるものがあったことを思い出す。


(備考) :  新南群島 (南沙諸島) 近傍における戦艦から駆逐艦への燃料補給においては、『第一遊撃部隊戦闘詳報』 や 『第十戦隊戦闘詳報』 などでは 「長門」 → 「雪風」、「榛名」 → 「磯風」 となっていますが、当の 「磯風」 航海長であった著者の回想では上記のとおり 「長門」 → 「磯風」 とされています。

なお、大艦から小艦への燃料補給については、リンガ在泊の訓練項目の一つとして取り上げられており、昼夜間での実施に自信を持っていたとされています。

旧海軍における洋上給油の方法には縦曳き給油と横曳き給油の2つの方法があり、そのうちの横曳き給油の一例として下図に給油艦対軽巡の場合を示しますが、これ以外の艦種同士でも基本的には同じ要領です。

補給側と受給側の艦首間に錨鎖とワイヤーを繋いだ 「前索」 を取りますが、これは受給艦側が直進する補給艦との対艦距離と横並びでの前後の位置を保ち易くするためのもので、これによって補給艦が受給艦を “曳航” するためのものではありません。

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さて一週間前、あれほどの大部隊が出撃して行ったのに、28日夜一緒にブルネイに帰投した艦は、戦艦 「大和」 「長門」 「金剛」 「榛名」、重巡 「利根」 「羽黒」、軽巡 「矢矧」、駆逐艦 「雪風」 及び本艦の計9隻であり、損傷艦及びその警戒に分派された艦や燃料補給に行って遅れて入港した艦を加えると計18隻であった。 しかも駆逐艦2〜3隻を除きすべて中・小破の状態で、正に刀折れ矢尽きたとでも形容できよう。

思えば戦闘の全期間を通じ、折にふれ闘志をかきたててはきたが、シブヤン海上での空襲の合間には、これだけの敵機がやってくるのに我が味方機は1機もいないのかとの思いがふと心をよぎったものであり、航空機の援護下にない水上部隊の無力さを嫌というほど昧わわされた数日であったと言えよう。


それにしても本作戦における栗田長官に対する世の批判はまことに厳しい。 もちろんあとから批判すれば非難される点はあろう。 しかし長官とても人間である。 錯誤もあったろうし、判断の誤りもあったろう。 ましてやあのような長期の戦闘で心身の疲労の加わった状況下においてはなお更のことである。

次々に多くの魔下艦船と部下将兵を失いつつも、残存艦隊の指揮を続けられた長官の御心痛は、想像を絶するものがあったことと拝察、麾下乗員の1人としてただただ心から御慰労の言葉を捧げたい。


(備考) : サマール島沖海戦も含めた捷号作戦については、現在に至るまで戦後に 『戦史叢書』 を始めとして様々な文献が出されておりますが、その一方では、防衛研究所などに当時の各部隊・艦艇の戦時日誌や戦闘詳報などの多くの記録が残されており、アジ歴でも公開されております。

しかしながら、当時の状況についてはまだまだ世に出てきていないものもいくつもあり(例えば、某司令部参謀の戦後の証言など)、結局のところ日本側の記録としてはいまだに “これだ” という正確な確たるものが無いのもまた事実です。

とは言っても、当時の戦時日誌や戦闘詳報の類は戦史研究上の基本史料として押さえておく価値は十分にあるものと考えます。


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(続く)

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2020年12月10日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (22)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

「金剛」 及び 「浦風」 沈没

レイテ沖海戦後駆逐艦は第二水雷戦隊及び第十戦隊を併せても完全な1個水雷戦隊の数に充たなくなり、11月15日、十戦隊は解散して新しい第二水雷戦隊が編成された。

そこで新第二水雷戦隊に入った旗艦 「矢矧」 及び当隊は戦艦 「大和」 (栗田二艦隊長官及び宇垣一戦隊司令官乗艦)、「長門」 及び 「金剛」 (鈴木三戦隊司令官乗艦) (鈴木義尾 中将 兵40期) を護衛して内地に帰投することとなった。

ところが、帰途、台湾北方海域において海上模様も悪かったため一時之字運動を中止し、18(?)ノットで直進中、11月21日0300頃、敵潜水艦 (米潜 シーライオン SS-325 Sealion) の雷撃を受け 「金剛」 及び 「浦風」 が被雷した。

そこで 「浜風」 と本艦は 「金剛」 の警戒救助に残され、他はそのまま内海に向け先行して行った。

本艦は 「金剛」 を曳航して基隆に回航の命を受けたが、実施されないうちに総員退去の止むなきに至り、遂に沈没、重油まみれになった乗員を救助し終わったのは午前10時過ぎであったろう。


さて実は我々は、「浦風」 が我が艦と 「金剛」 を挟んで丁度輪形陣の対称の位置にいて被雷轟沈したのに気付かず、「金剛」 の乗員を救助中にそのことを知ったわけで、同艦の沈没推定位置に行った時は既にグレーチングや応急用木材が浮かんでいるのを見たのみで付近を捜索したが、ついに1名の生存者も見つけることができなかった。

いくら轟沈とは言っても、何名か何十名かは生存し漂流していたであろうのに、大波と寒さで時間の経過とともにみんな波に飲み込まれていったのであろう。


(参考) : 「シーライオン」 は東シナ海の台湾海峡付近における哨戒任務中に夜間北上する第二艦隊をレーダー探知し、水上航走にて捕捉追尾、水上航走のまま「金剛」に6本、続いて艦尾発射管から「長門」に3本の魚雷を発射。 「金剛」には2本が命中、また 「長門」への魚雷は外れて近傍の 「浦風」 に1本命中しました。 「浦風」 は被雷によりその場で瞬時に轟沈、「金剛」 は航行不能となり 「磯風」 「浜風」 の2隻で救助・警戒に当たる中、「シーライオン」 が第2撃を企図している最中に火薬庫に引火 (一説にはボイラーの爆発)、爆沈したとされています。

なお、「シーライオン」 による第二艦隊襲撃については、大戦中の対日米潜水艦作戦史を纏めた大作 Clay Blair Jr. 著 『サイレント・ヴィクトリー』 (Silent Victory : The U.S. Submarine War Against Japan) などに詳述されていますので参考にして下さい。


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( 2001年米海軍協会版の同書表紙より )


この 「浦風」 は私が最初に乗艦した艦であり、当時親しい友人も多く、また谷井司令には、かつて司令駆逐艦の航海長としてずっとお仕えしたので親しみも深かったし、特に前記したように、本艦のシンガポールでの入渠をいささか強引なまで司令部に掛け合われ、しかも自らは 「浦風」 に移られて居残られたわけで、もし司令が約束どおり本艦に帰っておられたら当然 「浦風」 と占位々置は代わっていたはずであり、我が艦の方が沈没の運命に遇っていたかもしれないと思うとひとごとには思えなかった。

なおまた沈没後司令も生きて泳いでおられたら、まだ麾下の駆逐艦が3隻もいるのに、なぜすぐに救助に来ないのかとどんなにか心待ちされ、かつさぞガッカリされたことであろうと思うし、乗員にしても何と頼みがいのない僚艦かと怨んだことかと思う。

戦後このことについて何も言う人はいないが、私は、なぜ1隻すぐに救助に出さなかったのだろうかと今もって残念に思えてならず、司令及び同艦乗員に対しては、ただただ慚愧 (ざんき) に堪えない。


また余談になるが、前大戦中の我が駆逐艦に関するある記録によれば、開戦時の保有隻数113隻、戦時中の建造隻数63隻 (うち戦時急造艦41隻) であり、また沈没艦129隻 (うちソロモン海域における1年半の戦闘によるもの45隻) となっている。

そしてその原因として、開戦時に比し、次第に乗員の質の低下したことが大きな要素とされ、もしもミッドウェイ海戦時の 「谷風」 のような、あるいはルンガ沖夜戦における第二水雷戦隊のような技量があったらと悔まれているが、それはそれとしても、駆逐艦はあのような苛酷な状況下において、正に斃れる (たおれる) まで駆使されたと言える面もあるかと思う。

言い訳は言いたくないが、多くの艦と運命をともにされた駆逐艦乗員に代わり多少の弁明を御許容ありたい。

なおまたその記録に沈没駆逐艦中1名の生存者もいなかった艦が70隻と記されていたのには驚いた。

その中にはもちろん単艦行動中で如何ともできなかった艦もあったろうし、また僚艦がいても戦闘継続のため、救助に任じ得なかった場合も多かったかと思うが、それにしても余りにも数が多い。

前記 「浦風」 のような例もあることとて、全てが真に如何ともできなかったものであろうかとつい思ったり、また戦後大艦のほとんどは各縁 (ゆかり) の地に慰霊碑も建立されていることから、前記のような生存者皆無の艦の弔いは如何になるかと憂えざるを得ない。

ここに改めてこれら駆逐艦及び散華された乗員の御冥福を心からお祈りする。

(続く)

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2020年12月11日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (23)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

空母 「信濃」 沈没


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( 未完成状態ではあるが、日本側撮影の唯一ともいえる 「信濃」 の艦影 昭和19年11月の第1回公試時と推定 )


昭和19年10月のレイテ沖海戦を終え、ブルネイから 「大和」 「長門」 「金剛」 を護衛して内地に帰投の途次、11月21日台湾北方海域において、「金剛」 及び 「浦風」 が敵潜の雷撃を受けて沈没したので、「浜風」 と本艦は 「金剛」 の乗員を救助し、「浦風」 の捜索を打ち切って豊後水道に向かい、速吸の瀬戸 (佐賀関と佐田岬の間、豊後水道から内海の伊予灘へ抜けるところ) を入ったところで、先に帰投仮泊中の 「大和」 に横付けして燃料補給を受け、その間に 「金剛」 の乗員を同艦に移乗させ、そのまま 「浜風」 先任艦長の指揮で十七駆逐隊の3隻は 「長門」 を母港横須賀へ護衛して行った。

続いて瀬戸内海に回航する新造空母の 「信濃」 を護衛することとなり、11月28日、同地を出港したが、又々不運にも翌29日0300頃、「信濃」 は熊野灘において敵潜水艦の雷撃 (アーチャー・フィッシュ USS Archerfish SS-311 発射6本中3本 (一説には4本) 命中 ) を受け、しばらく航行を続けていたが、次第に浸水傾斜し、遂に停止、航行不能となった。

そこでこれを曳航することとなり、山のような巨艦の前部に曳索を渡したものの、風浪が高くたちまち曳索も切断したので曳航は断念せざるを得ず、そのうち傾斜もひどくなって総員退去となった。

やがて艦は横転し、巨大な赤腹を上にして浮かんでいたが、艦底に這い上がる者、滑り降りる者等見守るのみで如何ともできず、そのうち艦尾よりサーッと沈んでいった。

その後は 「金剛」 のときと同様、漂流者の集りを見てはその風上側に行って行き脚を止め、風に横倒しにして流し、舷側に近寄ってくる者を次々に引揚げていったが、折角目の前に近づきながら力尽きて沈んでいく者や、本艦の動揺が大きいため舷側に辿り着いた時、反対舷への傾斜で艦底に引きずり込まれ、それなり浮かんで来なかった者等、まことにかわいそうであったが、やはり生き運の無かった人であろう。

なお漂流者も次第に離れ離れとなり、あちらに1人こちらに2人と見つけては救助に当たったが、しばらく捜索の後、最早生存者はおるまいと判断され、「浜風」 艦長指揮のもと 「磯風」 「雪風」 と続いて呉に向かった。

なおこの時も漂流中は極力集団から離れないことの大切なことを痛感した。


(備考) : 戦後にものされたものの中には、乗員が不慣れであったため、とか、中には 「信濃」 の艤装に直接かかわった者が 「乗員がバラスト調整ための注水弁の左右を間違えたため」 などという惚けたことを言い出すしまつです。

要は、進水後の装備品等の艤装も十分でなく正規の公試もまだほぼ実施されないままの、完工状態などとはとても言えない中途半端な建造途中に過ぎない艦を、呉回航のために進水後たった1ヶ月足らずで無理やり就役させ、艤装員として着任したばかりの者を (中には海軍軍人としての経験さえほとんどない特年兵も含め) 乗員にしたてて動かしたわけで、戦闘任務に就くどころか、就役後の慣熟訓練さえ行われておらず、艦全体を艦長以下一つのチームとしてまともに動かすことにも無理がある状況であったのです。 それを就役後僅か10日足らずで呉に回航させる。 如何に戦時とはいえ、あまりにも無茶苦茶です。

その上、通常の航海では (戦時はもちろん平時でも) 当然行われるべき艦内閉鎖さえ十分にできないような状況で、多くの工員を載せて艦内の艤装工事を行いつつの回航であったわけで、これで雷撃を受ければ沈没して当然であった、とも言い得るでしょう。

そして最も肝心なことは、「信濃」 艦長たる阿部大佐 (俊雄 兵46期、戦死後少将昇任) の判断・処置の誤りでしょう。 2つの駆逐隊司令の経歴があるとはいえ、阿部大佐は太平洋戦争開戦後の米潜水艦による熾烈な対潜戦の経験・知識はほとんど全く無かった上に、不運にも 「浦風」 の被雷爆沈時に隊司令が乗艦していて行方不明となったために、隊司令欠員状態となったままの第十七駆逐隊3隻が護衛についたことにより、その17駆隊の豊富な生の実経験を活かさなかったどころか、独善と偏見でそれを無視してしまったことです。

管理人としては、この未完成のままの無茶苦茶ともいえる 「信濃」 の呉回航にあたり、せめて航路選定を含む対潜護衛については、17駆隊3隻の最先任である 「浜風」 艦長を護衛指揮官たる隊司令代行とする3人の艦長に任せていれば、と残念でなりません。

そして、特に旧海軍の元技術士官や元技師などが、戦後になって 「信濃」 沈没の原因を乗員の不慣れに帰するなどは、自己の立場を棚に上げてのあまりにもおかしなことと言わざるを得ません。


なお、「信濃」 喪失についての日本側の記録もいまだ確たるものが無いといえますが、一方の米側のものとしては、先に揚げた Clay Blair Jr. 著の 『Silent Victory』 中で要領よく纏められてる他、当の 「アーチャー・フィッシュ」 艦長であった Joseph F. Enrite 元海軍中佐が James W. Ryne と共にその顛末をものした 『 Shinano ! : The Sinking of Japan's Secret Supership 』 ( 1987、邦訳版 『信濃! − 日本秘密空母の沈没』 (光人社) 有り ) が参考になるでしょう。


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(続く)

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2020年12月13日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (24)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

船団護衛

12月初、呉に帰投の後、本艦はレイテ沖海戦での被害個所の小修理を終え、新司令新谷大佐 (喜一 兵50期) も乗艦されて、「浜風」 及び海防艦とともに 「ヒ87船団」 の護衛任務につくこととなった。

これは特務艦 「神威」 及び空母 「龍鳳」 を含む船団で、船団部隊指揮官は応召の 「神威」 艦長 (藤牧美徳 大佐 兵46期) であり、護衛部隊指揮官が当隊司令であったので、本艦は門司の岸壁に横付けして船団会議に参加した。


(参考) : 「ヒ87船団」 は当初は特務艦 (給油艦) 「神威」、空母 「龍鳳」 の他タンカー7隻及び貨物船1隻の 門司 → シンガポールの輸送船団で、途中に基隆 (「龍鳳」 分離) を経由することとされていました。

第七護衛船団司令官駒澤克巳少将 (兵42期) を船団指揮官とし、護衛部隊は第二護衛隊 (駆逐艦 「時雨」 「旗風」、海防艦4隻) 、「神威」 は船団第一分団 (「神威」 「龍鳳」 「天栄丸」 「さらわく丸」 )ですが、門司出撃時には駒澤少将は 「神威」 を旗艦として将旗を揚げていました。

そして、護衛艦艇として第十七駆逐隊 「磯風」 「浜風」 の2隻が追わることになり、これにより 護衛部隊は17駆隊司令が最先任となったことによりその指揮官になったと思われます。

なお、ヒ87船団の船団指揮官は残された旧海軍公式史料では第七護衛船団司令官ですが、本回想では 「神威」 艦長とされております。 これは、昭和20年1月分の 『第17駆逐隊 (浜風) 戦時日誌』 においても、船団の指揮・命令の発信者名は 「神威」 と記載されておりますので、当時 「磯風」 航海長であった著者の伊藤茂氏もそのように記憶していたのかと思いますが、指揮・命令系統の実際のところの詳細は判りません



さて12月31日、船団に先立ち護衛部隊の方は0530六連沖を出港、当時の方法として敵潜・敵機の攻撃を避けるためまず釜山沖に渡り、そこから朝鮮南岸の多島海の間を縫って行ったが、20年の元日をこの島の間で迎えた時の寒かったことは忘れ得ない。


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( 門司出撃から高雄までの往路 「磯風」 戦時日誌より加工 )


艦橋の眼鏡についていた見張員が、雨衣の下に毛布を捲いているのを艦長に見つかりひどく怒られた。

実は私はその前に異様に膨らんでいる見張員を見て下に何か着ているなと気は付いたが、余りにも寒く冷たいのでそのままにしていたわけで、もしその時私が注意しておればあんなに怒られなくてもすんだのにと申し訳なく思った。

かくてこの多島海を通り抜け泥海の黄海を横切って支那沿岸に渡り、陸岸づたいに南下、舟山列島の間を夜間通り抜けてようやく広い所に出たと思ったら、台湾に敵機の空襲があったということで、再び一時列島の中に引き返すこととなって、折角一晩中苦労して船団を誘導してきたのに、また島の間に入るのかと思いいささかがっかりした。

能力不足のためもあったろうが、船団を誘導して夜間、島の間を縫航するのは全く神経をすりへらされた。

なお私は戦後レーダーほど身に沁みてありがたいと思ったものはなかったが、戦時中、艦位艦位と寝ても醒めても頭にこびりついていたためでもあろう。


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( 舟山群島周辺 昭和30年版海図No.210より加工 )


(参考) : 舟山群島、韭山列島、馬鞍列島などの島嶼群の中心が上図の赤丸で示す舟山島で、ここには同島及び周辺諸島の警備・防備のための 「舟山島警備隊」 が置かれていました。

舟山島警備隊については、既に連載済みの森栄氏の回想録 『聖市夜話』 でもご紹介したことがありますので、これをご参照ください。




なおこの船団は高雄から以南は他の護衛部隊が引き継いだが、その後敵機の空襲で商船は全部沈められたと聞いている。


(参考) : ヒ87船団は、1月8日高雄港外仮泊、翌9日高雄港外の定位に転錨し、第1護衛隊(海防艦「千珠」以下7隻)と合流しましたが、高雄において船団旗艦の「神威」が空襲による被害を受けたため、旗艦を「千珠」に変更し、第1及び第2護衛隊計10隻の護衛の下にシンガポールに向けて10日高雄を出撃しました。

しかしながら、視界不良及び米機動部隊による各地への空襲により途中で香港 (12〜17日) 及び海南島の楡林 (19〜24日) に避退しましたが、香港及び楡林での空襲や途中での米潜水艦による襲撃により船団及び護衛艦艇に多大な被害を受けております。

そして、楡林において第7護衛船団司令部は下船、以後楡林から昭南までは海防艦 「千珠」 艦長指揮のもとに運航しましたが、結局輸送船団の内最終的にシンガポールに辿り着いたのは 「さらわく丸」 1隻のみ (途中被害を受けた 「光島丸」 は高雄で修理の後、後続船団に合流してシンガポール到着) という結果に終わっています。



本艦も高雄入港後港内において空襲にあい、岸壁係留中とて対空砲火に頼るのみであったが、幸いにも被害はなかった。

なお 「浜風」 は霧中、商船 (海邦丸) に接触され (台湾中港泊地 (竹南沖)、8日) 修理のため馬公に行った (9〜21日) ので、本艦は単艦で基隆に回航することとなった。


荒 天

高雄出港後台湾海峡では荒天に遭遇した。 前甲板を海中に突っ込み、高く持ち上げた波の塊が天蓋や艦橋の窓ガラスに叩きつけ、ガラスは割れ、中に入った海水はグレーチングの上をザーッ、ザーッと流れ、雨衣も靴もびしょ濡れで、速力を微速に落としてやっと航行を続けることができた。

なお当時基隆の入口にも掃海水道があって、天測もできない状況下では、夜明け時にいきなり入口に向かうことには自信が持てなかったので、艦長に申し上げ、一旦支那大陸に接岸し陸測で艦位を確かめた後、東行して入口に達した。(9日高雄発、11日基隆着)

どうも昔の方がよく荒天に行き遭ったように思うが、作戦行動となれば少々の荒天は突っ切っていたからであろう。

その後基隆からは別の船団 (タモ35船団) を護衛して関門に入り内地に帰投 (18日呉) した。


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( 高雄から基隆経由門司までの復路 「磯風」 戦時日誌より加工 )


(参考) : 昭和20年1月の第17駆逐隊の行動については、17駆隊及び 「磯風」 の戦時日誌が残されております。 同じものが防衛研究所にも所蔵されており、現在ではアジ歴 (レファレンス・コード : C08030147200 及び C08030147500 )でも公開されております。

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また、ヒ87船団を指揮した第七護衛船団司令部の戦時日誌は、楡林で下船するまでの分が残されております。 これも同じものが防衛研究所にも所蔵されており、現在ではアジ歴 (レファレンス・コード : C08030707700 )でも公開されております。 それぞれご参考にしてください。

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(続く)

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次 : 回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (25)
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2020年12月14日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (25)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

「回天」 目標艦

内地帰投後、一時徳山湾の大津島基地において 「回天」 の襲撃訓練に協力した。


(参考) : 大津島の回天訓練基地については改めて申し上げるまでもないことと思いますが、ご参考までに当該場所の位置と昭和20年終戦時に連合軍に引渡しのために作られた史料から、当時の施設概要図をご紹介します。

現在では資料館としての回天記念館や慰霊のための大津島回天神社も整備され、当時の訓練桟橋跡なども残されています。


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( 徳山 (現周南市) 沖の大津島と馬島が陸続きとなる赤丸位置が回天訓練場のあったところです。 Google Earth より加工 )

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( 現在の回天訓練場跡付近 Google Earth より加工 )

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( 光突撃隊大津島派遣隊となった終戦時の施設概要図 上が西南西方向 引渡し目録より加工 )


当時はクラスの仁科中尉(関夫 戦死後2階級特進で少佐) は既にウルシーに突入した後であり、加賀谷 (武) 大尉も出撃していたし、先任搭乗員の近江大尉 (誠 兵70期) とクラスの帖佐 (裕)、斉藤 (高房)、根本 (克)大尉らがいた。

この時本艦は昼間、主として新任搭乗員がやる襲撃訓練 (艦底通過) の目標艦となり、夜は基地で行われる研究会に出席していたが、基地指揮官板倉少佐 (光馬 兵61期、戦後海上自衛隊技術部の非常勤嘱託) の痛烈な批評を聞きながら、遠からず絶対に死ぬべき運命にある人達がよくもこのような厳しい指導に堪えているものだと、全く頭の下がる思いがした。


工 夫

その後は内海での訓練に従事したが、水雷屋の新谷司令は艦橋で 「これは俺が考えた運動盤だ」 と言われ、艦内工作で造らせた細長い棒状のローラー付真鋳製平行定規をもって運動盤 (運動要図を板にはり、手に持って使用可能にしたものにすぎない) の上をころがして簡単に所要針路など出しておられた。

私は当時こんな程度 (ラフに思われた) で良いのだろうかとやや不安に思ったが、これは巧緻よりも拙速が大切なわけで、あれでよかったのだとあとになって了解できた。

なお旧海軍では前記 「大和」 航海長の六分儀の持ち方やこの新谷式運動盤のような小さなことでも、多くの人がそれぞれの分野で艮いと思うことを色々と考え出して活用しておられたと思う。


之字運動

さて戦時中は、艦が掃海水道を出ると次の掃海水道に入るまでは、特別な事情のない限り之字運動をやっていないことはまずなかったろう。

御承知のとおり之字運動はその時の状況に応じて、簡単なものから複雑なものまで色々とやられていた。

そして艦隊に随伴しているときは、哨戒長は之字運動をやりながら7倍双眼鏡による目測を頼りに占位々置の修正をやり、しかも暇さえあれば自らも対潜見張をやっていたので夜間複雑なものをやっている時にはなかなか神経を使っていた。

したがっていつ頃だったか、之字時計ができて変針時刻を知らせてくれるようになってからは非常に助かった。

ついでながら、昔も今と同じく舵をとったら必ず舵角指示器を見るようやかましく教えられていたが、戦時中はこの之字運動のおかげで数えきれないほどの変針をやったので、その都度指示器を見ることだけは全く習い性となっていたと思っている。


対潜戦

ここでかつての我が海軍の対潜戦の一端について一言ふれる。 乗員の1人であるので人ごとのように言うわけではないが、護衛任務を主としていた旧式駆逐艦や海防艦などは別として、艦隊所属の駆逐艦の対潜能力はお粗末であったと私は思う。

第一、射撃や水雷はあれほど熱心に研究訓練をやりながら、こと対潜戦に関してはどれほどの力を注いだであろうか。

対潜武器の立ち後れもさることながら、眼鏡による潜望鏡見張以外はまずその熱意の点からも決して十分であったとは言えまい。 したがってその実力も推して知るべしであろう。

悔いても致し方のないことであるが、戦後残念に思ったことの一つである。

(続く)

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2020年12月15日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (26)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

戦場心理

さて今までに申し述べたとおり、私は余り悲惨な戦闘体験は持たず、また悪戦苦闘して九死に一生を得たということもなかったので、至って平凡な体験を通じての所見に過ぎないことをおことわりしておくが、古来、砲煙弾雨の中をものともしない勇敢無比の将兵は多かったし、また、場数を踏めば戦場での恐怖感はなくなるものと先輩からは教えられていた。

しかし私は口にも出さず、特に態度にも表したつもりはないが、恥ずかしいことながら、「ガ」 島以来、ソロモン方面や 「あ」 号作戦、「捷」 号作戦と戦闘の回を重ねても全く怖くないという心境には到達し得なかった。

前記したように、砲弾や爆弾や魚雷が当たらねばいいがという、やはり一種の恐怖感ともいうべき思いが、チラッチラッと心の中をよぎっていた。

そして折々、もっとしっかりしなければいけないぞ、と自省自戒しながらやってきた。 ただ、いつの場合もその時自分のやるべき任務の完遂には全力を尽くしてきたと思っている。

なおこのことについては戦後、先輩から 「それでいいんだ、そしてどんなに怖くても自分のやらねばならないことをやり通す人でさえあれば戦場で立派な働きはできる」 とお聞きし、このとき初めて私もあれでよかったのかと心の安らぎを覚えた。 したがってこれが普通の人間の一般的な戦場心理と考えてもよいのではなかろうか。

なお、もちろん諸官の中にも、事に臨んで何ら恐怖心など持たない勇敢な人は多いと思うが、やはり実際にその立場に立ってみなければ確信の持てない人もおられるであろう。

しかし、私程度のことなら誰にでもできる。 ただいかなる場合も自分のやるべきことをやり遂げねば気がすまないという責任感を持っておればよい。

ただし人間は生死の境に立つと地金が出てくるので、つけ焼刃では役に立たない。 だからこそ平素から旺盛な責任感の持主でなければならないこととなる。

したがって常に責任感のおう盛な人であれば戦場でも、あるいは平時における危急の時でも恥ずかしくない働きはできると考えて、信念と自信を持っていてよいのではなかろうか。

偉そうなことを申し述べたが老婆心までであり、御一考いただきたい。

(続く)

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2020年12月16日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (27)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

退 艦

20年3月、私は思いがけなく潜水学校に転勤となった。 考えてみると前年は同校に学生として入校できず、一人取り残されたことを内心不満に思ったが、あれから更に1年、一緒に戦場を駆け回った艦と乗員に対しては本当に別れるに忍びないものがあった。


(参考) : 伊藤茂氏の補職替えは2月20日付で 「潜水学校付兼教官」 が人事発令されていますが、後任者は2月末現在でも未着任とされており、その着任を待っていたために実際の退艦は3月になったようです。


下士官の中には長期勤務の者が何人かいたが、士官の中では私が一番長かったので、乗員も他分隊員まで全員を知るほどになり、また艦長には配置上傍 (そば) でお仕えする時間が長かったせいもあって、通信士時代特に鍛えられた時は、自分の未熟を棚にあげて不関旗をあげたくなったことさえあったが、実情は艦に乗っていたというよりは、乗せられていたという方が適当と言えた私を、老練な艦長が見られればさぞ心もとなかったろうと思う。

しかし最後に、「俺をおいて先に降りるのか ・・・・」 と言われ、また部下乗員の心情を察しても、自分一人退艦することは何とも忍びない心境であった。

やはり2年間もいわゆる同じ釜の飯を食い、死なばもろともの運命のもとに戦場を駆け回ってきたお互いの間には心の奥深く通い合うものがあり、離れがたいものができていたのであろう。

芋虫と称した小さな内火艇に乗って振り返り眺めた懐しい艦影は今なお瞼に浮かぶが、この後1か月も経たないうちに、沖縄水上特攻の1艦として 「大和」 に随伴して出撃し、ついに沈没した。


思えば長期の間、万里の洋上をよく駆け巡り、高速を出し、そしてまた主砲にしても機銃にしてもよく撃った。

しかるに戦闘において被害を受けた時以外、機関も武器も故障したのを見たことも聞いたこともない。 舵にしても然りで、高速時の急速大転舵をあれほどやっても舵故障など皆無であった。

万全の整備が続けられ、かつよく使いこなしていたものであろうし、また艦も機関も武器もまさに武人の蛮用に適したいわゆる大いに使いものになったものと言えよう。


なお 「磯風」 沈没の当日 「浜風」 も沈んだので、開戦劈頭から最も長期間、隊として健在し続けてきた第十七駆逐隊もこの時を最後に遂にその4隻とも姿を消したこととなり、「雪風」1隻となった。 艦といい隊といい、私の胸に今なお限りない愛着を残している。

なお 「雪風」 は当初第十六駆逐隊で生き残り、第十七駆逐隊に入ってまた生き残ったこととなるが、この艦は終戦時まで健在で有名になり、本誌 (海自部内誌 ) にも紹介されているので御存知の方は多いと思う。


ついでながら、不関旗と言えば俗に意味するところを知らない人はいないと思うが、どんなことがあっても上司に対し不関旗だけは絶対に揚げることのないよう若い諸官に対し、私の経験を通じての希望として特にお願いしておきたい。


(参考) : 「不関旗」 については改めてご説明する必要はないかと思いますが、正式には 「官名」 旗で、別名を 「不関」 旗といいます。

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この旗の正式な用法については、本家サイトの 『史料展示室』 コーナーで既に公開しております 『海軍信号規程』 のp35〜36に記載されていますので、これをご参照ください。


『次室士官心得』 (これも本家サイトの 『史料展示室』 コーナーにて公開しております) などにおいて初級士官の勤務上の心構えとして躾けられた 「不関旗を掲げるな」 というのはこの旗のことを意味します。 如何に自分の気に入らないことを命ぜられたとしても、プイッとそっぽを向くことなく、勉強・経験と思って何事にも全力を尽くして当たれ、という意味として言われてきました。


なお、管理人自身は現役の時に2回、この 「不関旗」 を掲げたことがあります。 いずれも初級幹部時代ではなく、艦長のときのことですが、上司のあまりにもおかしなやり方に対して、艦の乗員一同のためにも敢えて堂々とやりました。 当時の乗員一同は私の考え、というか海軍の伝統、あり方について理解してくれたものと思っています。

その内の一つがある時の護衛艦隊の訓練検閲における訓練射撃においてです。 護衛艦隊から事前に群司令部を通して “艦長に (の) 安全監視員を付けろ” と指示がありましたので、“何をふざけたことを。 艦長 (指揮官) というものがどういうものか判っているのか! そんなみっとも無い、恥ずかしいことができるか!” と万座の前で声を荒げて怒鳴ったのです。 もちろん当然そんな馬鹿げたことはやりませんでしたが、群の他艦艦長は検閲終了時の評価が悪くなることを気にしてか (艦長の安全監視員を付けていなかった、と減点され、最後の講評・訓示において群総員が居並ぶ前で指摘されますので) 言われるがままに黙ってやったようですし、群司令や各隊司令、幕僚クラスなども誰も何も言いませんでした。

もちろん訓練検閲の報告書は護衛艦隊から自衛艦隊及び海上幕僚監部に提出されるわけですが、それを受けての両者においても何の反応も無し。

あまりの情けなさにガックリきたものです。 あ〜、海自は絶対に “海軍” になれる組織ではないな〜、と。

私が勝手に師匠と仰いできた本回想録の著者 伊藤茂氏も、きっと苦笑いしながらお許しいただけるのでは、と今でも思っております。



(続く)

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2020年12月19日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (28)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

予備学生

潜水学校では第6期予備学生の教官となった。 その予備学生は採用時は普通の艦船部隊要員として採用しながら、入校後になって海軍省から全員特潜 (「蚊龍」 及び 「海龍」) 乗りとしたいので、そのつもりで精神教育をやってくれと言われ、家族との面会も禁止された。

その時のことについて、ある学生の御母堂から戦後手紙をいただき、「嘗て私が息子に面会に行った際、面会禁止と言われ途方にくれていたのを、あなたの計らいで面会させていただいた時の嬉しさは、忘れることができない」 と書かれてあり、その後現在に至るまで親しくお付き合いさせていただいている。

なお私は、前記したように 「磯風」 通信士のとき、戦地勤務が半年に満たず、規則に触れるからということで休暇が許可されなかったときに、深く自省自戒はしたものの、心の底には何かひっかかるものを持っていたことから、この予備学生に対する面会許可に当たっては、私のありのままの気持に従って対処したものである。


ただし御批判はあると思うが、私も規則にルーズでもよいなどとは、昔も決して思っていたわけではない。

しかしいつどんな場合にも規則一点張りで通すのはどうかと思う。 例え軍隊のような所であろうとも、時と場合に応じ、思いやりを持って規則の運用を適切にすることは大切ではなかろうか。 そしてここにいわゆる 「運用の妙」 が必要となってくるのではないかと思う。

なおついでながら、運用の妙と言えば、大谷中将の教えられた 「運用の妙は一誠にあり」 という言葉を知らない人はおられまいが、一誠すなわち、艦を思う真心や部下に対する思いやりによってこそ部下統御の妙諦を発揮することができるものであり、多少でも私心があると、真の運用の妙はなりたたない、と言っても過言ではないと思う。


(参考) : 大谷幸四郎中将の 「運用の妙は一誠にあり」 という教えについては、本ブログで既に連載しました氏の名著 『運用漫談』 をご参照ください。

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言うは易く実行は難しいので、平凡な身には、身近な小さなことからこの心掛けをもって積重ねていく外はないように思っている。


なおこの予備学生には、4000名中数名の特潜不希望者が出て学生免となった。 このことに対し、海軍省人事局員より教育不十分のお叱りを受けたが、私どもの力では遂に説得し得なかった。

しかし、私は一面では例え時局柄とは言え、また特潜は 「回天」 のような必死の兵器ではないにしても、いわゆる水中特攻員となることを、よくもあれだけの学生が 「熱望」 あるいは 「望」 として応じたものと感激したし、また同じ予備学生出身の教官と、私よりまだ若い兵学校出身の教官が、文字どおり寝食をともにしてよく指導されたことにも感謝した。

(続く)

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2020年12月20日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (29・完)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

死について

私は駆逐艦乗艦中、航海長になってからは、この道が自分の進むべき道と覚悟を決め、差し当たりの本務遂行以外に思いを巡らす余裕もなかったが、20年3月 「磯風」 退艦後陸上勤務となってからは、身体頑健な青年士官が戦局の不利を知りながら、内地に在って平穏な毎日を送ることには気持の安らぎが得られず、当時の大方の諸兄がそうであったように、大げさに言って、今後の戦局打開のために如何に微力を尽くすべきかについて、級友諸兄と語り合い、自分なりに心を砕いていたものであった。

そして丁度その折5月9日、先般大津島基地で御縁を得た 「回天」 搭乗員の近江大尉 (前出) に呉において邂逅 (かいこう)、突然 「俺のあとにきてくれないか」 と言われた。

当時前記した私のクラスの 「回天」 搭乗員の諸兄はそれぞれ任務があったようで、近江大尉は自分が出撃するためには誰か別の後任者を見つけなければならないとのことであったので、私は応ずることを即答し、同日潜水学校に帰った後、事情を上司に申し上げ、たまたま上京予定であった第二特攻戦隊参謀を通じ、海軍省人事局員に 「回天」 熱望のことをお願いしていただいた。

しかし今すぐ現配置を離れることはできないということで、予備学生の卒業後に発令することを約束された。


ところでその頃私は死ということに対し漠然とした考え方ではあったが ・・・・ この時代に軍人たる自分はあと何年も生きることなど考えられないし、また考えてはならないことだ。 最も人間はおそかれ早かれ、いずれは死ぬもので、今後如何に長生きしようと大した違いではない。

それに人間の生死は全く運命であり、自分も今まで何度か戦闘に参加しながら生きながらえてきたわけで、もしあのとき死んでいたらと思えば、現在もそしてこれからもみな拾いものの人生と言ってよい。

したがって、最早これ以上生き延びる欲を出す必要はあるまい。 今後いつでもお役にたって死ねればそれで良いではないか。 ・・・・ というような考えを持っていた。

したがって、ただただ国を思う一念で生死を超越し、自ら進んで 「回天」 の世界に突入して行った諸兄のような純粋そのものの、また理想的な心境には及びもつかないものであったが、それでも、この突然の近江大尉の誘いに対し、これが今後自分の進むべき道として、その場でふん切りがついたのがそのときの心情であった。

しかしもちろんその夜、私は死について改めて真剣に考えたわけで、その結果はやはり上記の私の考え方で、自らを納得させ心を落ち着けることができた。

したがって私は死について決して悟ったというようなものではなく、むしろ生への執着から逃れようとし、一応諦め得たと思ったにすぎないのであろうが、何ら修業もしていない未熟な若者が死を決心する場合、これでも良かったのではないかと今も思う。

なお最後の時は先にも申し述べたような責任感によって恥ずかしくない死所は得られるはずである。

したがって私のささやかな体験からではあるが、このような死の捕え方は、平凡な若者にとり事に処して割合容易に死を決心し得る一つの考え方と言えるのではないかと思ったので、実際に 「回天」 に身を投じたわけでもない私如きが 「回天」 を引き合いに出したことを面映く思いながらも、このようなことを申し述べた次第である。

何かのときの考え方の参考にでもなれば誠に幸いに思う。


おわりに

以上、長々ありがとうございました。

そもそも私が本誌 ( 海自部内誌 ) に寄稿するなど夢にも考えられなかったことなのに、折角お薦め下さった御厚情を無にしてはと思い、ついに意を決して、わずかな体験と幼稚な所感を申し述べてみたが、やはりかくもお粗末な内容、文章に終始したことは何とも申し訳なく、長期間諸官の貴重な時間を無意にしたことに対し、深くお詫び申し上げる次第です。

なお編集室の諸兄には何かと御厚誼を賜りまことにありがとうございました。

終わりに隊員皆さんの御健康御活躍と本誌の益々の充実発展をお祈り申し上げます。

(続く)

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前 : 回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (28)
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連載終了に当たり

かつて私が海自幹部としての若かりし時にその部内誌に8回にわたり掲載されました故 伊藤茂氏の回想録の連載が終了しました。

既に本ブログで連載しました他の方の回想録に比べると大変に短いものですが、最後までお読みいただいた方々にはお判りいただけるように、現役の海自隊員、特に艦艇勤務の若年幹部にとってのまさにすばらしい “処世訓” と言えるものになっております。

この伊藤茂氏の感性、ものの考え方・見方こそが、私が若年幹部時代から尊敬し、このような方の下で仕えられるならば、そして自分自身が将来はこのような幹部でありたい、と思ってきたところです。

そして、操艦法についての氏のすばらしい 「三部作」 や若年幹部向けの艦橋勤務についての著作と合わせ、私が “我が師” と仰いできた理由です。

残念ながら、現役の時はもちろん、退職後も一度もお目にかかる機会はないままに、本年10月にご逝去されてしまいました。

そこで、ご遺族様のご了解を得て、この素晴らしい回想録を海自の若い人達に、そして艦船勤務に興味のある方々に、かつての海自部内誌に一度掲載されたまま埋もれてしまうことを惜しみ、今後に伝えていければと本ブログで全文をご紹介しました。

なお、ご来訪いただく一般の方々はもちろん、現在の若い海自幹部でももう知らない、判らない箇所があるのではと、私の判断で色々と青色のコメントを入れさせていただきましたが ・・・・ 回想録というよりは処世訓としては、むしろ無くても良かったのかとも思っております。 そこはどうかご容赦を。

管理人 桜と錨