2020年11月06日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』


連載を始めるに当たって

かつて私が初級幹部の時に海自の部内誌に連載された、海軍兵学校71期生伊藤茂氏の太平洋戦争中の回想録 です。

氏は戦後海上自衛隊に入られ、その時の勤務経験から、私が 「操艦三部作」 と呼んでいる 「けやき」 「おおなみ」 「きくづき」 そして 「はまな」 の艦長時代の操艦記録や初級幹部を対象とする勤務参考など、優れた著作をものされ、これらを読んで私が若い現役の時代の時から勝手に師と仰いできた方です。

この回想録が連載された当時、私はこれを毎号読むのを心待ちにするとともに、今後の勤務での参考とするためにコピーをとっておきました。

と言いますのも、この部内誌は毎月作成・印刷製本され、配布された部隊などで幹部及び海曹士に回覧されるものの、次々に新しい号が届きますので、余程のところでない限り保管場所もありませんので1〜2年もすれば古いものから破棄されてしまうからです。

したがって、海自内で初号からの全てが揃って残されているのはせいぜい数カ所のみ、それも書庫に格納されたまま、というのが現状ですから、もう半世紀近く前にこの回想録が連載されたことさえ今の若い後輩達では知らない者が多いのではないかと思います。

お読みになっていただければすぐにお判りいただけるように、船乗りにとってその身の処し方や海上勤務での考え方など、“うん、なるほどそうですよね” とうなずけることばかりです。

功成り名をなした海自高級幹部達の手になる、いわば杓子定規的な綺麗事の羅列記事のようなものではなく、これぞ 戦時における現場の船乗りの “素直な” 本音 です。

しかしながら海自部内誌の現状は上記のとおりであり、このすばらしい回想録がこのまま埋もれ去ってしまうのではあまりにもったいない貴重なものです。

機会があれば海自の後輩幹部諸官にも読んでもらいたく、また一般の方々にとっても、太平洋戦争を戦い抜いた現場の船乗りの記録・所感として大いに参考になるのではと思っておりました。

しかしながら、伊藤茂氏は97歳で広島ご在住ということが判りましたので、是非とも一度直接お目にかかりたいと思っておりましたが、昨今のコロナの状況に鑑み延び延びになっておりましたところ、その後体調を崩されて入院加療となられ、誠に残念ながら去る10月14日にご逝去されました。

つきましては、ご親族様のご了解をいただきましたので、ここに故伊藤茂氏の回想録を本ブログでご紹介するとともに、この素晴らしい回想録を今後に残したいと思う次第です。

どうかこの “これぞ船乗り” と言って差し支えない回想録をお楽しみください。

そして、私が師と仰いできた故伊藤茂氏のご冥福を心よりお祈りするとともに、回想録の公開をもって追悼とさせていただきます。 (合掌)

なお、基本的には元の記事のままを文字起しておりますが、ブログ上ということで文の区切りなどを読みやすくし、また参考事項や難しい言葉の読みなどについて 青字 で付け加えさせていただいておりますことをご了承ください。

管理人 桜と錨


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回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (1)

伊藤 茂 ( 元海自海将補 ・ 兵71期 )

寄稿にあたって

何か書くようにとのお勧めがあり、私などがと思って再三お断りしてきたが、結局戦時中の体験記でもということでお引受けすることにした。

ただし、戦闘の経過や所見等については既に先輩方が詳しく記述しておられるし、もちろん私にはそのようなものが書ける能力もないので、主として初任幹部の諸官に対し、平、戦時の差はあれ、多少なりとも温故知新の一助にでもなればと思い、私の戦時駆逐艦勤務の体験を中心に、年月を追って書き並べていくこととする。

なお当時は、私もひたすら報国の念に燃え、任務完遂に邁進したつもりであるが、一面では何かにつけて弱音を吐きたくなり、時には不平不満も持ったので、そのような気持も折々の所感にまじえて申し述べることとする。

したがって、御批判は多かろうと思うが、考えようによっては、この方が平凡な若年士官のありのままの戦争心理ではなかったろうかと思っているので、その点御賢察いただければ幸いに思う。

また、内容の貧弱さもさることながら、文章がまずく読み辛い点の多いことを、最初に特にお断りしておきたい。


柱島実習

私どものクラス (兵71期、昭和17年11月14日卒、581名) は、昭和17年11月から2か月間、柱島泊地に在泊中の戦艦部隊で侯補生実習を行った。

私は 「武蔵」 に乗ったが、特にとりたてて申し述べるほどのことはなく、ただ、指導官の古賀大尉 (裕光 兵62期 高射長) から教えられた次の言葉のみ今なお深く心に残っているので、諸官の大方は御承知と思うが、念のため御紹介する。

一つは、「青春は意気であり、熱であり、顧みるときの微笑み (ほほえみ) である」 ということである。

しかし、私はこの意気と熟に不足したのか、顧みてこれはという微笑める思い出が少ないことにいささか悔を残しているので、これからの若い諸官には是非思い切ってやっていただきたく、若者の意気と熟をもって、ときには百尺竿頭 (かんとう) 一歩を進めて (既に努力・工夫を尽くした上に、更に尽力すること) やってみられることをお奨めしたい。

またもう一つは、「明朗颯爽 (さっそう) たる海上武人たれ」 ということであった。

なるほど、旧海軍にはこの言葉にふさわしい先輩が多かった。 私もかくなりたいと心に期してやってはきたが、これもほど遠い憧れのみに終わったので、諸官にはすべからく、このようになってほしいと念願してやまない。

( 続 く)

(参考) : 柱島錨地 (泊地) について

戦前から連合艦隊がその作業地として長年にわたり使用してきた有名な 「柱島錨地」 については、改めてご説明の必要は無いかと思いますが、一応ご参考としてその場所をご紹介しておきます。


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( 元画像 : Google Earth より加工 赤丸位置が柱島錨地 )

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( 元図 : 昭和23年版の海図 N0.142 より )

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( 屋代島陸奥記念館の高台より望む柱島錨地 右奥が柱島 管理人撮影 )

広島湾南部に位置し、柱島を始めとする大小の島々と、南側を屋代島で囲まれた、平均水深約30m、底質砂又は砂泥で起伏が少なく、かつ波静かで、連合艦隊の多くの艦艇を収容できる広大な泊地です。

そして、呉に近く、また伊予灘や周防灘の内海西部、そして速吸瀬戸 (佐田岬) を抜けて豊後水道、四国沖の太平洋に出ての訓練にも適しており、戦前のみならず開戦後も、修理や補給などで呉に戻る以外は、戦艦を始めとする連合艦隊主力は多くの時間をここをベースとして訓練に励んだところです。


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2020年11月09日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (2)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

赴 任

候補生実習を終了し、配属先も決まって、それぞれの任地に赴任して行ったが、水上艦あり、潜水艦あり、あるいは前線根拠地隊付等様々で、ここから我々級友各々の運命は大きく別れ別れになっていった。

さて、私ども第十七駆逐隊付に発令された3名は、他の南方方面行きのクラス数十名と一緒に空母 「瑞鶴」 に便乗し、18年1月18日夕刻、岩国沖を出港した。

静かな内海の島の上には宵の明星が美しく輝いていたが、日向灘に出るやたちまち荒天に遭い、巨艦 「瑞鶴」 も、また同航の 「武蔵」 さえも大きく揺れ始め、側方を警戒航行中の駆逐艦に至っては波の谷間に入るとマストだけしか見えなくなり、まるで木の葉のような有り様で、間もなく俺もあのような艦に乗るのかと思うと、最初の意気込みはどこへやら、内心いささかがっかりした。

実は、かねて先輩から 「駆逐艦に乗らねば一人前の海軍士官にはなれない」 と教えられていたので (このことは米海軍資料にも同様に書かれてある)、それ相応に鍛えられることは覚悟のうえであり、駆逐隊付に発令されたときには “よし一つやってみよう” と意を決したのに、もうこんなことではと先が思いやられた。

一路南下すること5日、トラック島の泊地に入ると、そこには 「大和」 を始めとする大小様々の艦船がずらり停泊し、その威容は目をみはらしめるものがあった。 環礁内の風景も誠に平和で、一向に戦地にきた感じはおきない。

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( 昭和18年トラックにおける 「大和」(左) 「武蔵」(右)  背景は秋島 (FEFAN I.) )

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( トラック環礁内の艦隊錨地 (斜線の3か所) 1944年の米海軍史料より )

ここで駆逐艦に乗る連中十数名は第十六駆逐隊の 「雪風」 に移乗。 同艦では出港前の慌ただしい状況下にもかかわらず、いよいよ戦場に臨まんとする我々候補生のために武運を祈って乾杯してくださったのが印象に残っている。

なお、このときクラスの某が、「今度駆逐艦に乗せられた者の中には成績の優秀な者は一人もいないぞ。 どうもいつ死んでもいい連中ばかり乗せられたらしいが、何かあるのではないか」 と冗談ともつかぬことを言っていた。

しかし他のクラスには、当時もその前も多くの最優秀組の人達がおられたのに、我がクラスだけどうだったのだろう。

トラック島をあとにして更に南下し、翌日ラバウル着、ここで我々3名は第十七駆逐隊の司令駆逐艦 「谷風」 に乗艦、北村司令 (昌幸 大佐 兵45期) の訓示があり、午後同艦通信士の案内で上陸、初めて南方の土を踏んだ。

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( ラバウルとショートランドの位置関係 Google Earth より加工 )

しかしここでも席の暖まる暇はなく、翌朝出港してブーケンビル島のショートランド泊地に進出、漂泊中の隊内3艦に一人づつ別れ、私は2番艦 「浦風」 (艦長 : 岩上次一 中佐 兵50期) に着任した。 内地出撃後11日目であった。

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( ショートランド泊地 Google Earth より加工 )

(参考) : ショートランド泊地はショートランド島と北側のブーゲンビル島とに囲まれたところを主としますが (輸送船などはショートランド島東側にある水上機基地の沖合も利用) 、ラバウルより更に南の最前線であり、港湾防備施設もほとんど整備されておりませんので、艦艇は日中は即時待機状態で漂泊、夜間に錨泊していたようです。

落ち着くところに落ち着きはしたが、遙々来たものかと思い、いよいよ一人になった感じはいささか心細く、大艦には数名は一緒に乗ったのにと、羨ましく思ったりして級友を懐かしむこと一入 (ひとしお) であった。

(続く)

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2020年11月12日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (3)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

第十七駆逐隊

ここで第十七駆逐隊について簡単に紹介する。

当時は第十戦隊 (内容は水雷戦隊と同一で、軽巡 「阿賀野」 を旗艦とし、第四・十六・十七駆逐隊の 「陽炎」 型駆逐艦12隻と、第十駆逐隊の 「夕雲」 型4隻の計17隻で編成。 当時いずれも健在) に所属し、隊内は 「谷風」 「浦風」 「浜風」 「磯風」 の4隻からなり、ハワイ海戦以来の諸海戦に機動部隊の警戒部隊として参加、その後、17年後半は概ねソロモン方面において作戦を続けていた。


初めての天測

私は 「浦風」 航海士兼第二分隊士となり、戦闘配置として1番煙突両側の25ミリ3連装機銃2基の指揮官を命ぜられた。

なお、航海科は三分隊であったが、先任将校の水雷長兼第二分隊長小山中尉 (大六、兵67期) が、私を自分の分隊士として何かと教育してやろうとの好意で、二分隊士としたらしい。

当時、ショートランド泊地には20隻の駆逐艦が、昼間は敵機の来襲に備えて漂泊し、夜間は投錨待機していた。

私は乗艦当日、夕闇迫る頃旗甲板に上ってあたりを眺めていると、先任将校から 「航海士は天測をどのくらいやったか」 と問われ、「学校で習って柱島の実習でやった程度です」 と答えたところ、「今からやってみるか」 と言われた。

そのとき天測は私にとっては大仕事で、簡単にやれるものではなかったので、1時間以上もかかって艦位を報告したわけであるが、最前線にきて一人になった感傷もこれでいっぺんに吹きとばされ、ぼんやりしている暇などないと現実の厳しさにまず目を覚まされた。

なお、この先任将校には折にふれ、あたたかい御指導をいただいたもので感謝にたえず、その後潜水艦で戦死された (呂号116潜、水雷長、大尉 昭和18年5月アドミラルティ諸島方面作戦中に消息不明、戦死認定後少佐) のは残念に思えてならない。


ガダルカナル撤退作戦

乗艦後3日目の2月1日から3回にわたり、ガダルカナル島の撤退作戦が行われた。

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( ショートランドとガダルカナルの位置関係 Google Earth より加工 )

20隻の駆逐艦が2列の縦陣でソロモンの海を焉進し、夜半ガ島北部着、エスペランス岬付近から陸軍及び陸戦隊を収容して、計約1万余名をショートランドへ撤収したものであり、計画の段階では駆逐艦の半数はやられるだろうと言われていたそうであるが、「巻雲」 が触雷沈没したほか、2〜3隻中・小破した程度で、予想外の成功を収めた。

なお、当時の戦闘状況の一部については、当時の砲術長井上中尉 (龍昇、兵68期) が、先年呉総監時代 (昭和49年7月〜51年11月) に書いておられたので読まれた人も多かろうと思う。

この収容作業においては、時々敵魚雷艇の襲撃を受けながらも、夜陰に乗じて粛々と行われ、夜が明けてみると全く骨と皮の陸兵が、甲板の上はもちろん、風呂場から便所まで足の踏み場もないほど一杯であり、ひとかかえもありそうな握り飯を両手に乗せてほおばっていたが、ほんとに御苦労様と思った。

さて、私にとってはこれがいわゆる初陣であり、2基の機銃に 「あの飛行機」 「あれだ」 と次々に目標を指示しながらも、突込んでくる敵機の機銃掃射の弾が当たらねばいいがという思いがその都度心をかすめたことと、撃墜され落下傘降下した米パイロットが、ゴム筏の中で手を振っていたとき、そのすぐそばを高速で通り抜けながら、今は無力になった彼を本艦も、そして後続する各艦も撃たねばいいがとしきりに念じたことが、今なお心に残っている。

なお、これらに関連した所見については後ほど改めて申し述べることとする。

(続く)


(参考) : ガ島撤収作戦における 「浦風」 を含む第17駆逐隊の行動については、「 第17駆逐隊戦闘詳報第2号 「ケ」 号作戦 」 (アジ歴 リファレンスコード : C08030146300 でも公開されています) をご参照ください。

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昭和18年2月1日から8日にかけての3次にわたる作戦行動は、第1次が往復とも中央航路、第2次が往路は中央航路、復路が南方迂回航路 (下図では何故か往復とも南方航路となっています)、警戒隊としての第3次は往路が南方航路、復路が中央航路でした。

17dg_Ops-Ke_S1802_route_s.jpg

そして第1次及び第2次における4隻による陸軍兵士等の収容員数は次表のとおりで、実に合計5,867名に上っています。

艦 別谷 風浦 風浜 風磯 風合 計
第 1 次
(2/1〜2)
4087718071,0753,061
第 2 次
(2/4〜5)
2087906341,1742,806
総 計5,867

なおこれらの陸軍兵士等の揚陸場所は、当回想録でも17駆隊の戦闘詳報でも、第1次及び第2次ともショートランド島 (の北岸) となっていますが、戦史叢書の 『 南東方面海軍作戦 <2> −ガ島撤収まで− 』 や 『 太平洋陸軍作戦 <2> −ガダルカナル・ブナ作戦− 』 などではブーゲンビル島のエレベンタとされています。

このブーゲンビル島の 「エレベンタ」 という場所は手持ちの地図や海図にはありませんし、戦史叢書や旧陸軍関係史料にも無いようで正確な位置や収容施設などは不詳です。 また、17躯隊の揚陸場所との関係 (作戦の都合上、取り敢えずショートランド島に揚陸し、後から舟艇などで移動?) も不明です。 ただし、ブイン沖のモイスル湾 (Moisuru Bay) に 「エレベンタ島」 (Erventa Isle) という2つ続きの小島があり、ここの北側は駆逐艦の錨地に使用していますが ・・・・ ?


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( Erventa Isle Google Earth より加工 )

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2020年11月14日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (4)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

「春雨」 曳航

昭和18年2月初めのガダルカナル撤退作戦も一段落したので、第十戦隊司令官小柳少将 (富次、兵42期) は本艦 「浦風」 に乗艦してショートランドを出港、途中ラバウルに寄港し、2月11日の紀元節を白服でお祝いした後、トラック島に帰投、将旗を旗艦 「阿賀野」 に復帰された。

続いて本艦は第十六駆逐隊の 「天津風」 と共にウエワーク (ニューギニア) への輸送任務に従事し、帰途は艦首をやられて同地沖に待機中の 「春雨」 を曳航することとなり、最初 「天津風」 がとも曳き ( 「春雨」 を後ろ向きにその艦尾を曳航すること。 したがって通常の艦首を曳航するやり方より抵抗が大きくなります ) で実施したが、途中曳索切断のため 「浦風」 が交代し6ノットでとことこトラック島に帰投した。

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( ウェワクの位置関係 Google Earth より加工 )

(参考) : 「春雨」 はウェワクへの輸送任務中の1月24日にウェワク沖で米潜 「ワフー」 (USS Wahoo, SS-238) の雷撃を受けて前部大破、ウェワクにおいてトラックから進出した救難船兼曳船 「雄島」 の支援による応急措置を受けていたとされています。

しかしながら、この時の 「雄島」 の行動については当回想録及び旧海軍史料には出てきませんで、「春雨」 のトラックへの曳航時にも 「天津風」 と 「浦風」 に同航したのかさえ不詳です。 そして僅か800トンの雑役船とは言え専用の救難船兼曳船ですので、同航していたとするなら、何故 「雄島」 が曳航しなかったのかなどの疑問が残ります。

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( 米潜 「ワフー」 自身の撮影による被雷時の 「春雨」 )

ところでこの時、同島環礁内の水曜島が蓬か水平線上に見え始めたころ、岩上艦長から 「航海士、艦位は出たか」 と聞かれ、「今出しています」 と答えたのはいいが、15分たっても20分経ってもうまく入らず、結局、もっとしっかりやるよう注意を受けた。

その時の艦位は右艦首方向の水曜島山頂の一方位で入れていたもので、針路との交角が小さく、しかも実速約6ノットでは方位の変わりが少なくて新米航海士の私にはうまく入れることができなかった。

そしてこんな状況下でそう簡単に入るわけはないと思い、これだけ一生懸命やっておるのにと不満に思ったが、あとになって考えてみると、艦長は当時経験20年のベテランで何も彼も知り尽くしておられた筈、技量未熟もさることながら、乗艦後いつまでもボヤボヤしている私に、ここらで一発喝を入れられたのに違いないと後年思った。

(参考) : トラック環礁内の四季諸島と七曜諸島などの主要な島々の中で、最も高いのが水曜島 (Tol I.) の山頂 (Mt. Winipot) で、標高は1453フート (443m) です。 したがって、気象・海象の条件が良ければ30マイル以遠からその山頂が望めるようになり、方位が測れるようになります。

しかしながら、「春雨」 を曳航しながらの6ノット程度で南方向から環礁に向かうのでは、上記にあるように艦首方向近くに見えるこの一方位のみで正確な艦位を出すのは、兵学校卒業後まだ3ヶ月程度の候補生としてはかなり難しいと言えるでしょう。


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( 1991年版の米国防地図局のTPC (Tactical Pilotage Chart) より )

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( トラック諸島を北側上空から南方向を見たところ 赤丸が水曜島 1944年の米軍史料より )

その後トラック島在泊中、環礁内で駆逐艦による大艦の曳航訓練が計画実施され、本艦は先ず軽巡 「阿賀野」 の曳航をやり、これが成功したので、次は対空母について計画された。

私も夜は士官室の隅で汗をふきふき曳航抵抗の計算を一生懸命やらされたが、この方は実施されずに終わった。


定員外

当時私は隊付のままで乗艦指定をされていた身で定員外であったため、私室はなく士官室の隅に全財産の行李を1つ置き、寝るのはソファーや椅子の上であったが、停泊すれば士官室には大抵夜おそくまで誰かがいるので眠たくなっても自分勝手に寝ることはできず、また航海中食べるよりは寝ていたいと思うときもそういうわけにはいかず、終始どうも落ち着いた心境にはなれなかった。

なおたまに勉強らしいことをしていると親切な高等商船出の小沢航海長が 「俺の部屋を使いなさいよ」 と言って下さったし、また航海中、昼間非番のときは、機銃員が煙突横の機銃台にうまく日陰をつくって歓迎してくれたので、おおむねそこへ行って休んでいた。 皆さんのちょっとした心遣いが身に沁みたものである。

それにしても私はどうも気を使い過ぎたように思う。 その点今の若い諸官は新しい環境にもすぐ馴染み、堂々と振舞っているようで、良いことだなと思う。

(続く)


(参考) : 候補生が駆逐隊に配属される場合、海軍省の辞令は 「隊付」 で、これを受けて隊司令が各艦への乗艦指定を出し、各艦長が職務指定をします。 したがって、各艦の定員表に基づくものではありません。

内令による 「陽炎」 型の昭和20年2月現在での定員表は次のとおりとなっています。



即ち、駆逐艦長の他、准士官以上は士官6名、特務士官2名、准士官 (兵曹長) 3名の計11名が定員ですので、候補生はまさに “定員外” です。

そして艦長室の他は、前部にある士官私室4部屋でベットが計7つ、後部の第二士官室にベットが4つです。


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( 残念ながら綺麗な図面がありませんが、「陽炎」 型の一例です )

もちろんその時に准士官以上に欠員がある場合でも、候補生は士官私室などの空き室、空きベットは使わないのが躾けとされていました。 中型艦以上の場合では、候補生は士官室前の通路などにハンモックを吊るケースがあるようですが、駆逐艦などの小型艦艇の場合にはそのスペースはありませんので、上記のように士官室で寝起きすることになります。

もっとも、「陽炎」 型でも後期艦では上図のように士官室のソファーの上部に夜間用の仮設ベットを設置できるようになっていたものがあるようですが ・・・・

とは言え、本ページ最初に書かれているように戦隊司令部などが乗ってきた場合には、その期間は個艦の士官達も参謀や幕僚の上級者のために自分達の私室を明け渡さなければなりませんので大変です。


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2020年11月15日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (5)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

「磯風」 乗組

18年4月、同じ隊の 「磯風」 乗組に発令された。

同艦はその2月、ガ島撤退作戦中に爆弾が一番砲塔を直撃し、付近の士官室や居住区も吹き飛ばされたため、既に呉に帰投し、川原石沖の目指しブイに係留中であった。

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( 呉軍港内繫留浮標位置 赤丸が駆逐艦用 1944年の米軍史料中の旧海軍軍機海図複製より )

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( 昭和5年の呉・川原石沖の駆逐艦係留状況の写真 )

(参考) : 第3次のガ島撤収作戦における 「磯風」 の損傷状況の詳細については、先にご紹介した 「 第17駆逐隊戦闘詳報第2号 「ケ」 号作戦 」 (アジ歴 リファレンスコード : C08030146300 でも公開) に記載されていますのでご参照ください。

そこへたまたま 「浦風」 が入港し、同艦に横付けしたので、私は全くのブイツーブイで転勤していった。

「磯風」 では通信士兼第三分隊士を命ぜられ、配置だけは1人前となったが、未だ候補生の身とて上陸しても外泊はなく、非番のときも帰艦後は大抵家族持ちの特務士官に当直を代わることとしており、いつも艦内宿泊のため、突貫工事で夜半過ぎまでやる鋲打ちのあのガタガタというものすごい音には随分悩まされたものである。

なお昼間は、被弾の際ほとんど流出した赤本 (秘密の図書類のこと。表紙・裏表紙が赤色の紙で印刷・製本されていましたのでそう呼ばれていました) の受込み整理や、分隊員の履歴作り、及びそれに伴う善行章、叙位叙勲等一切の人事に関する事務のやり直しで、結構忙しい毎日であった。


休 暇

ここで少々すっきりしない思い出を記す。

修理中、各自一週間の休暇が付与された。 ただし当時の規則では戦地に半年以上いた者に一週間の休暇が与えられることとなっていたので、私は前艦での戦地勤務が3か月しかなく、正規に解釈すれば資格はないと思い、随分考えはしたが、前年は開戦のため兵学校の休暇も取りやめられたことであり、再度の出撃も迫ったので、ちょっとでも帰郷してきたい思いにかられ、思い切って2日間の休暇をお願いしたところ、規則はどうなっているかと言われて、何とも答えようはなく、そのような気持を起こしたことに対し、ただただ恥じ入るばかりで深く自省自戒したもので、そのときの心境を自啓録に長々と書きとめている。

したがって以下後年の所感であるが、自分の非を棚に上げてこんなことを言えた義理ではないが、当時、許可してくれなかった上司は優秀な人であったけれども、何ぶん年齢的にはまだ20歳台の半ばにも達しておらず、ちょっとの思いやりに気づかなかったのであろう。

もしもあの時 「貴様はまだ戦地の勤務が3か月しかないから休暇も半分しかないぞ」 とでも言われていたらどんなにか感激し、一点のわだかまりもない心からのやる気を出していたことかと思う。

このことからも私は海上自衛隊においては休暇に関し、差し支えない限り善意に処理するよう努めてきたつもりである。

(続く)

(補記) : この休暇についての故伊藤茂氏の所感は、当該記事を読んだときに全く “我が意を得たり” と思い、私の現役の時に常に頭の中に残るものとなりました。

そして、いわゆる功なり名を成したと言われる人達が書き残したもので、この様なことを素直に書かれたものは他に見たことがありませんでした。 それ故に、私が故伊藤茂氏を師と仰ぐ理由の一つとなったのです。

このブログでも私のかつての現役時代のことを次の2回の連続記事で書いたことがありますが、そこで出てくる現役の時のような例のことは、この故伊藤茂氏の記事のことが頭にあったからでもあります。

「親の死に目に」 :

     http://navgunschl.sblo.jp/article/179628438.html

隊員本人が 「心おきなく勤務に励めるようにする」 ということがどういうことなのか。 これが即ち、上司として部下を 「人として大切にする」 「人を育てる」 ということの大きな命題の一つだと思います。

しかしながら、海自では、この回想録にあるような旧海軍の悪しき慣習をそのまま引き継いで、部下に 「命令だ!」 「規則だ!」 と押し付けることが (上にアッピールする) 自己の指導力だと勘違いしている者、それも肩書とか階級に執着する自称エリート達の中に結構います (いました)。

このことが結果として、世間一般から海自が 「人を大切にしない」 「人を育てない」 組織だと言われる大きな原因となっています。 いえ、私自身でさえ現在でも、海自とはそういう組織であったと認識しています。 船乗りとしての現場は面白く、良いところで、自分の選んだ道に悔いは無いのですが ・・・・

この 「人を大切にする」 「人を育てる」 ということが、何も優れた知識技量を有する隊員に教育訓練する、ということだけでは無いことはお判りいただけるでしょう。

要は、もっと大きな、いかに人生の仕事としてのやり甲斐を見出させるのか、いかに自己の職務に打ち込むことができるようにするのか、という問題なのです。

昨今イージス・アショアの代替えとして海自がこれを搭載する艦を建造する案が出てきましたが、海幕長自らが何を勘違いしたのか、いの一番に 「現場の負担が ・・・・ 」 と言い出したのをご記憶の方も多いと思います。

海自艦艇部隊で昔から常態となっている低充足率も、私は決して若い人達に艦艇勤務の魅力が無いわけではないからと考えております。 では何故この低充足率が慢性化し、若い人達の艦艇勤務希望が少ないのか。

その最大の原因の一つが “世間一般の目から見た” 組織としての海自の 「人を大切にしない」 「人を育てない」 ということなのです。


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2020年11月17日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (6)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

出 撃

18年7月、修理及び諸種の準備も完了し、いよいよ出撃となった。

今度は 「磯風」 は機動部隊から離れて外南洋部隊 (基地ラバウル) の増援部隊に入り、腰を据えてソロモン方面で働くことになった。

ところで、当時艦隊の駆逐艦はこの増援部隊に入れられることを内心好んでいなかったように思われる。 それはそこに入ると大抵やられるまで使われていたようで、無理からぬ心境であったかもしれない。

しかし、もちろん命ぜられたからには皆覚悟を決めてかかったのは当然である。 おそらく再び帰ることはあるまいと、平和そのものの内海の島々をながめながら、内地はいつまでもこのようであって欲しいとの願いをこめて別れを告げて出て行った。

弾も糧食も満載し、通路には一杯ビール箱を並べ、その上に道板を敷いて歩くようにしていた。 もっともこの箱もいつの間にかどこかへ処理されていた。


ソロモン

いつものコースでトラック島を経てラバウルに進出、そこから 「日進」 を護衛してブインに向かったところ、同地も間近くなって敵大型機の空襲を受け、樽酒その他弾薬、魚雷を満載していたという 「日進」 は瞬く間に沈没した。

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( 水上機母艦 「日進」 の最も有名な艦影 昭和17年2月の公試運転時 )

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( 空襲時の陣形 )

(参考) : 「日進」 戦没時の状況については、生存者が戦没後に纏めた「 軍艦日進戦闘詳報第第2号 ブイン輸送作戦 」 がありますのでこれをご参照ください。 (同じものがアジ歴 リファレンスコード : C08030586800 でも公開されており、これの24コマ目以降です。)

Nisshin_btlrep_S1807_cover_s.jpg

なおこの時生存者救助のために降ろした本艦の救助艇 (カッター) も転覆したが、その原因については記憶にない。

その後ラバウルを基地としてソロモンへの出撃を繰り返したわけで、主としてコロンバンガラ島やべララベラ島等の撤収に伴う作戦が実施され、ある時は第3水雷戦隊司令官直率の夜襲部隊に入り、また時には当隊司令指揮の輸送隊となったりして作戦したが、毎度のことながら、ラバウル出撃後大抵敵大型機の触接を受け、夜になって敵水上部隊と遭遇すると夜戦となっていたものである。


司 令

当時第17駆逐隊の新司令は戦前アメリカに駐在したことのある極めて頭脳明噺な人 (宮崎俊男 大佐 兵48期) であったが、戦闘のやり方については戦後何かと批判は受けておる。

次のことはこのこととは関連はないが、ある日、夜半、戦場近くなって海図台に入ってこられた司令が 「おい通信、位置はどこだ」 と言われたので、「ここです」 とお答えしたら、「それでは、こう変針してこう行こうか」 と私に問いかけるように言われながらコースをひっぱられた。

私はただ 「ハア」 と言うだけで何ら返事のしようもなかったが、司令はおそらく決心をロに出して言いながら自分の心に念をおされていたものと思う。

しかし全然敵情のわからない暗夜の中を司令一人でこのような作戦を指導されるとは大変だろうなと思った。

なお戦場では退くより突進する方にむしろ活路を見出せるものと開いているが、この辺の決心が指揮官の勇猛か然らざるかによるものであろう。

(続く)

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2020年11月19日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (7)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

夜 戦

この頃私は戦場でも艦位を入れるのが主任務で一生懸命であったが、こちらからは全く敵影の見えない真っ暗な中で一方的にレーダー射撃を受け、発砲の瞬時砲焔がパッと見える時、敵の所在がわかるのみで、暫くすると艦の周囲に砲弾は落下するし、暗夜の海を夜光虫で光った雷跡も向かってくるしで、やはり当たらねばいいがという一種身の固くなるような思いが心をよぎっていた。

大した経験ではないが、その後を通じ、昼夜の砲戦や魚雷戦や艦載機の急降下、大型機の水平爆撃等一通り経験したところでは、何といっても全然見えない所からレーダー射撃でやられる夜間の砲戦が一番気味が悪かったと私は思っている。


艦 位

さて敵と交戦したときもあるいは敵影を見ないで引きあげるときも、夜明け前にはできるだけガ島を基地とする敵小型機の空襲圏外に出ておく必要があったので、ある暗夜、速やかに離脱するためチョイセル島とイサベル島の間 (マニング水道、Manning Str.) を抜けソロモン海を東側に出ようとして水道の入口にさしかかったとき、艦長 (神浦純也 少佐 兵53期) から 「通信士、位置はいいか」 と言われ、私はつい自信もないのに 「はい」 と言ってしまった。

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(チョイセル島とイザベル島間のマニング水道 Google Earth より加工 )

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(マニング水道 昭和43年版海図 No.830 より)

(参考) : 私の手持ちの海図にはこの縮尺のものしかありませんが、それでもこれを見て、水上レーダーは無く、満足な海図も整備されていなかった当時、暗夜の中をよく通狭したものと感心させられます。 両者が揃い、更には GPS や電子海図も使えるような現在において、平時であってさえも、特別な理由がない限りわざわざ通ろうとは思わないようなところです。

したがって引続き艦位は入れたが、当時の海図が小縮尺のものをただ部分的に引き伸ばしただけの薄刷りで大ざっぱなためもあり、暗闇の中ではなかなかうまく入らず、自信が持てるまでにどれだけヒヤヒヤしたことか、ちょっとの間ではあったが、ログの指示 (速力受信器の表示のこと) が落ちたときはドキッとした。

何ともなくてすんだからよかったものの、乗し揚げでもしていたらどうなっただろう。 このときつくづく自信もないのにいい加減なことは言うべきでないと肝に銘じさせられた。 なお特に海上では知らないことは絶対知らないで通さねばならないと思う。

この経験から私は海上自衛隊でも折にふれ若い諸官にこのことを強調してきたつもりである。


停泊勤務

昭和18年のこの頃も駆逐艦では、大艦のガンルーム士官に匹敵する者は通信士1人であったので、(艦によっては隊付の機関士か庶務主任の乗っている場合もあったが)、若年士官のやるべきこととなると嫌だとか好きだとかあるいは苦手だからなどと弁解の余地はなかった。

一行動終わってラバウルに帰投すると大抵2〜3日の整備・休養・補給期間があったので、その間一晩はいつも映画をやっていたが、陸上 (第八艦隊司令部) にフイルムを借りに行くのも通信士の仕事であり、演芸会の世話役やら保健行軍の指導官やら雑務はおおむね一手に引受け、ときには司令の伝言で一升ビンを持って陸上に届けたこともあった。

そのときアッパッパを着た日本人に違いないがと思われる女が出てきたので、おかしいな、このような前線にどうしてこんな女がいるのだろうかと不思議に思ったこともある。

もちろん雑用ばかりが通信士の仕事ではない。 旧海軍時代誰もが気を使った分隊事務があり、分隊員の叙位叙勲や善行章の計算等は、分隊長を懲罰にしないためにも、戦地であろうと絶対におろそかにはできず、また航泊日誌や諸記録の提出は現在と同様であるが、戦時なるがための毎月の戦時日誌と、戦闘のたびの戦闘詳報の作成発送があって、(これらは今考えてもなかなかの仕事であったと思う) どうしてこんなに何も彼も1人がやらねばならないのかと不満に思ったりしたが、やはり 「負けじ魂これぞ船乗り」 で弱音を吐くわけにはいかず、若さのおかげと、幸いにも字のうまい気の利いた信号の下士官が、日誌類の記註やガリ切り等、実によくやってくれたのとで、何とかやってこれたものと思う。

(続く)

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2020年11月21日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (8)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

級 友

ラバウル停泊中も機会をみては、級友と行ったりきたりするのが得がたい喜びであった。

某日、クラスの野元少尉 (祐一) がきてくれたが、舷門当番に不審尋問されたとかで、見ると艦内帽・防暑服・ズック靴等すべて新しい貸与品で、階級章はなく、新兵と同様な格好なのにびっくりし、聞いてみると、「俺は隊付なので艦がやられてもそのまま隊内の他の艦に移乗させられるため、既に2回泳ぎ、目下は 「天霧」 (特型) に乗っているのだ」 ということであった。

「何かいるものはないか」 と尋ねたところ、「別にないよ」 と悟ったように淡々として言っていた。 武運の強かった彼もその後潜水艦にいって遂に未帰還となった (伊361潜にて沖縄東方で護衛空母艦載機の攻撃を受け消息不明、戦没・戦死認定され少佐)

なお当時も南東方面部隊の艦は全くよく使われたようであった。 次々に沈没していく艦を見たり聞いたりしても、内心やはり沈むまで使われるのだな、という感じを持たされた。

しかしまた、折々心に生じる小さな不平不満を常に自戒しなから、若いなりにも毎日が真剣な生き方であったと思う。

もちろん、このころも自啓録には、滅私報国の決意のみ書き留められており、今振り返ってみても、それらの言葉にいささかも偽りや誇張があったとは思わない。


初級士官査閲

途中一度被弾箇所の小修理のためトラック島に帰投したら、折悪しく初級士官査閲に出くわした。

旗流信号C法 (現在の NAVCOMEX 303 と似たような方法のもの)、天気図作製、航泊日誌や戦時日誌の提出等今も昔も変わらぬ作業が課せられたわけであるが、大艦と違って駆逐艦では、C法にしても信号書をひくのは通信士1人であり、天気図作製も暗号電報で送ってくるデータの翻訳ぐらいは信号員が手伝ってくれたが、万事平素余りやっていない者が良い成績のとれる訳がなく、常時トラック島にいて訓練ばかりやっている大艦の連中には差をつけられたと思う。


勤務録

この時勤務録の提出は運よく免れた。 私は戦地に出てからは勤務録を余り書いていなかった。 いつ死ぬるかもしれないのにという気持もないではなかったが、どちらかというと点検のためという程度にしか考えておらず、本当の価値に対する理解が足らなかったので、つい多忙にかこつけて記註を怠っていた。

なお勤務録は兵学校卒業前、65期の優秀な若手教官の書かれたものが参考に回覧されたとき大したものだと感心したが、このように素晴らしいものではなくても、また提出するしないに拘らず、自分の関係した作業を反省し、経過・所見・対策等を記録しておくことは極めて有効と思うので、実行していない人がおられたらこの際お勧めしておきたい。

ちなみに米海軍の某駆逐艦長も、この記録の重要性について非常に強調して書いておられたことを付記しておく。
(続く)


(補記) : 管理人が見たことのある実際の 「勤務録」 は、戦後に数々の著作でも知られる高木惣吉海軍少将 (明治43年生 兵43期) の少尉 〜 中尉時代の大正6 〜 8年のものです。

当時のものは厚手のカバーに 「将校勤務録」 と金文字で印刷されて製本された大変に立派なものでした。 そして中は最初に数枚の印刷された目次というか見出しページがあり、あとは自由記載用の白紙が150枚 (300頁) 綴られています。


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( 高木惣吉氏の勤務録の目次ページ例 )

高木氏のものは大変に几帳面・丁寧に記載されており、乗組みあるいは見学した艦艇の要目や兵器の構造など、それに寄港地の概要や見聞した事項などが詳細に書かれておりました。

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( 高木惣吉氏の勤務録の自由記述ページの例

要は日付順に書き加えていくデータと所感などの備忘録の一種と言えますが、当然ながら秘密事項も多くなりますので、表紙には 「軍極秘」 扱いとしての注意事項が印刷されております。

艦船や兵器に関するデータなどは、今次大戦での敗戦を受けて、多くのものが焼却処分されてしまっており、僅かに残されているのは技術士官などの個人的なノート類、終戦直後に米軍などによって接収されたものがその後返却されて現在では防衛研究所に収蔵されもの、あるいは一般に 「福井史料」 などと言われるもののように終戦時の混乱に乗じて個人所有となったもの、などなどです。

これからすると、将校勤務録などには技術データなどの相当に貴重なものが書かれていたと考えられますが、残念なことに今に残るこれらのものは、“遺品” あるいは “個人情報” を理由にまず公開・公表されることはありません。


なお、戦後の海上自衛隊では、昭和50年代に入って印刷配布物が多くなったことと、秘密文書取り扱いの問題で、だんだんこの種のものを個人が自己のノートなどに書き写すことが無くなってきました。

その上に、数々の秘密漏洩事件が生起した影響などがあって、候補生学校や術科学校でも印刷物が配布されて個人所有となることは無くなりましたし、私物のパソコンに秘密に関することを残すこともできなくなりました。 要は、頭の中に入れ、必要があれば正式な文書を見て確認しろ、ということです。

また、記載事項が多くなってきますと項目別にしないと、日付け順でしか残せないものでは後で参照するのに不便です。


因みに私の場合は、昭和40年代の防大時代からB5判26孔のハードカバーのバインダーを利用して項目ごとに、昭和50年代以降はA4サイズのノートや用紙を利用し、これを角型2号の事務用封筒を使ったいわゆる “袋ファイル” 式にしました。

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( B5版26孔ノートの例 )

これらが溜まり溜まって書籍類以外に5段書架数個分になりましたが、そうおいそれと捨ててしまうわけにはいきませんので、定年退職を機にディジタル化を進め、終わったものは処分してきておりますが、まだまだ大量に残っています。 特に古い鉛筆書きのものや青焼きと言われる昔の湿式感光紙のものは1枚1枚濃淡を確認しながらですから手間暇がかかって ・・・・

それに質の悪いワラ半紙にガリ版刷りして配布されたものも沢山ありますが、これらも紙質の関係でスキャナーでの自動連続スキャンはできず1枚1枚手作業です。

しかしながら、長年にわたっての私の 「ディジタル勤務録」 ですから何とか最後までやり遂げたいと思ってはいるのですが ・・・・

でも、今の現役の若い後輩諸官はどうしているのでしょうねえ?


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2020年11月23日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (9)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

触 雷

18年11月3日、陸軍部隊を満載した 「愛国丸」 船団を護衛して赤道直下を南下中 (丁四号輸送部隊第二輸送隊)、敵大型機の大編隊に見舞われたが、幸いにも大した被害はなく、翌日ニューアイランド島のカビエンに入港した。

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( カビエンの位置関係 Google Earth より加工 )

ところが湾口を入るや大音響とともに触雷し、出し得る最大速力18ノットとなって、戦闘に支障をきたすこととなり、そのまま内地回航のこととなった。


(参考) : 丁四号輸送作戦についてはこれを実施した第14戦隊司令部から出された 『丁四号輸送部隊任務報告』 が残されておりますので (アジ歴でもレファレンス・コード : C08030052500 で同じものが公開されています) これをご参照ください。 「磯風」 の行動及び触雷などを含む第2輸送隊については当該史料の18ページ目からです。

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(14戦隊の丁四号輸送部隊任務報告の表紙)


そこで出港にあたって、小艇が前路掃海をやってはくれたが、磁気機雷と聞いていたので必要最少限の者を艦内に残し、他は上甲板に上がってヒヤヒヤしなが出て行った。 しかし幸いなことに何もなくてすんだ。

なお途中は昼間チラチラ光る星 (金星) を敵機と見誤って配置につけたり、偽潜望鏡に惑わされたりしながらも、単艦のこととてやはり気楽な航海ではあった。

したがって、ついのんびりした気分になり、静かな大洋の日出・日没時の美しさもー人心に泌みたものであるが、それでも、もしこれが敵潜・敵機に対する警戒の全くいらない平和な時代であれば、もっとどんなにか素晴らしく、心からの感激が味わえるだろうにと思ったものである。

途中トラック島経由で呉に帰投、このときも修理は突貫工事で徹夜で行われたが、今度は候補生ではないので (18年6月1日少尉任官済)、上陸のときは水交社にも泊れ、また休暇も許可されて郷里にも帰り、大いに鋭気を養うことができた。


ブラウン、ルオット島への輸送


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( ブラウン及びルオット島の位置関係 Google Earth より加工 )

この頃になると、15年の艤装以来、したがってハワイ行動以来の乗員の中に、健康を害した者 (主として胸部疾患) も案外出てきたり、また普通科や高等科課程入校のための交代者もかなりあって、ここらで一同心気一新し、19年1月、呉を出港、いったん横須賀に入り、同地からは15ノットの 「浅香丸」 (運送船、連合艦隊付属) を護衛してブラウン島へ陸戦隊を輸送した (己一号輸送)。

なお、このブラウン島 (現在のエニウェトック環礁) は前年10月中・下旬、「武蔵」 を旗艦とする連合艦隊のマーシャル方面行動に随伴した際、入泊したところである。


(参考) : 運送船 「浅香丸」 を主体とする己一号輸送については、同船の戦時日誌 『軍艦浅香丸戦時日誌』 が残されております( アジ歴のレファレンス・コード : C08030639300 で同じものが公開されています。これの27コマ目からです ) のでご参照ください。

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( 浅香丸の戦時日誌 昭和19年1月分の表紙 )


次いで1月17日、駆逐艦のみで陸戦隊の一部を空襲下のルオット島 (ケゼリン環礁の北端の島) へ輸送したが、両島ともに、これから1か月前後たって米軍が来襲し玉砕したと聞いている。


(参考 ) : 「ブラウン島」 (エニウェトック環礁) 及び 「ルオット島」 については、本家サイトの 『旧海軍の基地と施設』 コーナーにおいて航空基地の一貫として次のところでご紹介しておりますので、そちらをご参照ください。

ブラウン島 :
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/134A-Eniwetok.html
ルオット島 :
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/A024-Kwajelein.html#Kwaje_03


ここからはまた何度目かのトラック島に進出して行った。 しかしこのトラック島も既に17〜18年のような平和な基地ではなくなっており、敵の空襲を予期して連合艦隊はパラオ島に移動、ほどなく2月半ばには敵機動部隊によるトラック島大空襲のため、残留艦船のほとんどが撃沈されている。

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( 昭和19年2月17日のトラック空襲 )

なお当時も既に護衛艦艇不足のため、当隊は一旦 「長門」 その他を護衛してパラオ島に移り、再びトラック島に引き返して 「愛宕」 等の重巡部隊を護衛し同島に移動した。


魚雷艦底通過


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( パラオ諸島におけるコッソール水道の位置 Google Earth より加工 )

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( コッソール水道 大型艦はここを錨地にしていたようです )

さてパラオ島に移ったものの、ここも安住の地ではなくなり、古賀長官の一行が飛行艇にて飛び立たれたあとの 「武蔵」 を先導して2月29日夕刻、パラオ島のコッソル水道 (Kossol Passage) を出港、左前方の警戒航行の配備位置につきつつあるとき、敵潜水艦の雷撃を受け、魚雷は本艦々底を通過してそのまま 「武蔵」 に当たった (米潜タニー USS Tany SS-282、6本発射し1本のみ命中)

同艦は左艦首水線付近にパッと白煙が立ちのぼったのみで他に異状は見えなかったが、予定を変更して駆逐艦に護衛され内地に回航、残余の部隊はダバオ経由、リンガ泊地に進出して行った。

「武蔵」 には申し訳なかったが、もし本艦に当たっていたらおそらく沈んでいたであろうと思われ内心ホッとした。

(続く)

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2020年11月25日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (10)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

リンガ泊地

リンガはシンガポールの南約90マイルの赤道直下にある広々とした泊地で、暑い所ではあったが、当時最も貴重な燃料が十分に使えたことから、艦隊の泊地としては最適であったので、ここで大いに訓練することとなった。

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( リンガ泊地 Google Earth より加工 )

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( 戦史叢書 『海軍捷号作戦 <1> 』 より加工 )

なお4月初め、内地から新造空母の 「大鳳」 が進出してきたため本艦は同艦の後方を続行し、発着艦時失敗して海中に墜落した搭乗員の救助などを行ういわゆる 「トンボ」 釣りに従事した。

なおこの頃 「雪風」 が第十六駆逐隊の解隊により第十七駆逐隊に編入され当隊は5隻隊となった。 1隊に5隻とは他に例はなかったかと思う。


残 留

さて戦争のおかげで、私どものクラスも瞬く間に中尉に進級し (19年3月15日付)、また大量移動の時機ともなったので、昨年末以降の転入者を除き、最初から駆逐艦に乗っていたクラスの者は私のみを残して全員 (ほとんどが潜水学校学生として) 転勤することとなった。

私も卒業時、潜水艦熱望と出していたにも拘らず、ただ1人そのまま残されたことについては、別にこれといった理由も思い当たらないので、たまたまやりくりがつきにくく、若年士官の1人ぐらい意に介されてはいなかったのであろう。

しかしこのときはいささかがっかりした。 実のところ、当時内心では機会があればここらでちょっと内地に帰り、噂に聞く学校という気楽な所で気分転換をしたり、あるいは幾ばくもないかもしれない青春を謳歌したりすることができればという気特もないではなかった。

なおガ島以来折にふれ助け合ってきた級友諸兄もやはりチャンス到来の喜びを秘め、居残りの私にしきりに同情しながら別れを告げて行った。

さてその後私どものクラスは、19年4月、駆逐艦の航海長に発令され、私もこんどはブイツーブイよりまだ簡単にそのまま 「磯風」 航海長兼第三分隊長 (4月15日付) になった。

ところで、この頃の転勤は人によって様々で、行く先々で乗るべき艦がおらず、回り回っているうちに乗艦予定の艦が沈没し転勤旅費をたんまり貰って旅行を楽しんだ人もあったようであり、反対に転勤発令になりながら後任者が未着のため退艦できないまま戦死した人もいたりした。

なおこのとき一緒に 「満潮」 航海長に発令されたクラスの渡辺 (譲) 中尉が4月下旬、同艦の入港を待ってシンガポールのセレター軍港に滞在中、たまたま本艦も同地に入港し、思いがけない邂逅(かいこう)を喜び合ったが、それから約1か月半たった6月10日、タウイタウイに入港し、燃料補給のため 「鶴見」 (タンカー) に横付けしたところ、またも便乗中の彼に会い、びっくりした。

責任のない気楽な毎日だったろうと思われたが、彼の方にはまた何かと苦労はあったらしく、同じ艦での成り上がりで一番てっとり早い私の転勤をしきりに羨ましがっていた。

なお彼はそのあと漸く同地で 「満潮」 に着任し、日ならずして 「あ」 号作戦に参加したわけで苦労しただろうと思う。

なお同艦はその後レイテ沖で沈没、彼も戦死した。 快男児だったのに残念でならない。

(続く)

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2020年11月26日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (11)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

航海長教育

さて航海長に発令されたからには、やはり大任を自覚し、心を新たに、大いに奮起し、まずは新任航海長教育に参加、いろいろと御指導をいただいた。

なお当時、駆逐艦では通信士勤務を大体半年やると、待ちかねたように副直将校から当直将校に昇格させられていたが、私も既に約半年、航海中の哨戒長勤務に就いていたし、天測もまず心配はなくなっていたので、割合気楽に講習に参加し、クラスの諸兄に会えるのも楽しみであった。

さてこのとき 「大和」 において指導官たる同艦航海長 (津田弘明 大佐 兵51期) が六分儀が重くなった関係で、ガブる艦上ではまず持ち方からしっかりさせなければ駄目だと言われ、自分で考えられた持ち方を教えて下さったが、海軍大佐の航海長がこのような細かいことまで真剣に考えておられるのかと驚かされた。

しかし当時私は、既に1年余自己流の持ち方で何ら支障があるとも思わずやってきたので、それに馴れ、今更といささか抵抗を覚えたが、あとになって、やはり教えられたように換えてよかったと思った。


「あ」号作戦

 タウイタウイに集結

昭和19年5月、「あ」 号作戦の準備が開始され、リンガ泊地で訓練中の 「大鳳」「翔鶴」等の第一航空戦隊を含む艦隊は、5月15日ボルネオの北東部にあるタウイタウイ島に進出し、その翌日には内地からも第二航空戦隊及び第三航空戦隊が、先般の被雷箇所の修理を終えた 「武蔵」 などと一緒に入港してきたので、空母9隻を含む戦艦・巡洋艦及び駆逐艦からなる第一機動艦隊の大部隊は環礁内を埋め、まことに壮観であった。

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( タウイタウイ島の位置関係 Google Earth より加工 )

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( タウイタウイ泊地 Google Eath より加工 )

しかし間もなくこの環礁付近は敵潜水艦の蝟集するところとなり、駆逐艦で対潜掃討部隊を編成、我々の隊も何回か環礁外に出ていたが、ここの入港には全く苦労させられた。

昼間は、ボンガオピーク (Bongao Island の Visia 山 (1631ft) の南西側 ) という顕著な山を割合遠くから目標にして近づくことができたが、夜間となるとそれもできず、位置の入りにくい、そして潮流の速い、しかも珊瑚礁の浅瀬の多い狭水道の夜間通狭は全く寿命の縮まる思いであった。

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( 6月15日タウイタウイ泊地より出撃する第一機動艦隊 背景の赤丸位置がボンガオ・ピーク 南西側から見ると尖って見えます )


 「谷風」 沈没

これより先、米海軍は潜水艦に対し 「日本の駆逐艦を狙え」 との指示が出されていたとのことで、比島・ボルネオ付近海域でも4月以降、「秋雲」 「刈萱」 「電」 が被雷沈没し、特に6月になってからは6日に 「水無月」、7日に 「早波」、8日に 「風雲」と、続いて撃沈され、更に9日夜半には、当隊司令指揮のもとに 「磯風」 「谷風」、及び第二水雷戦隊の 「島風」 「早霜」 をもって対潜掃討を実施中、本艦の左正横において 「谷風」 が被雷し、暗夜に大火焔が立ちのぼった(米潜ハーダー USS Harder SS-257、4本発射し2本命中)

たまたま私は立直中であったため、直ちに眼鏡で同艦を見たところ、火柱がサーッと消えたあとには既に艦影はなかった。 正に轟沈と言える。

暫く12ノットの探知速力で捜索を実施した後、生存者の救助に当たったが、沈没後 「谷風」 は自艦の爆雷 (安全針が抜いてあった) の爆発による水圧が漂流者の肛門から入ってほとんど腸をやられ、折角救助された者も比島の病院で大方戦死された。

なおここで 「谷風」 について補足すると、同艦はその半年前のミッドウェイ海戦において、空母 「飛竜」 の救助を命ぜられ1隻で引き返して行った際、敵艦載機30数機に加え、大型機約20機の来襲を受け、これを一手に引き受けて孤艦よく奮戦したもので、その見事な回避は私などの想像を絶するものであり、ただただ驚嘆の外なく、それこそ本当に神技としか言い得ないものであったと思われる。

このため他の味方部隊では敵機の空襲を受けることなく、駆逐艦に救助していた沈没空母の乗員を無事に大艦に移乗し得たとのことであり、その功績を称えられたものであった。

なお、この勝見艦長 (基 中佐 兵49期) はその後旬日を出ないうちに「ガ」島撤退作戦中、敵機の機銃掃射により戦死 (戦死後大佐) されており、惜しみて余りある人であったし、また艦であった。

(続く)

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2020年11月28日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (12)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

待 機

タウイタウイで待機すること約1か月、ここはリンガ泊地と違い狭い環礁内で、搭乗員の発着艦訓練ができないのが非常な痛手であった由。

この間何回か旗艦 「大鳳」 の艦上で図上演習が行われたので、私も艦長のお伴で行っていたが、たまたま兵学校入校時同分隊の一号生徒 (68期) でパイロットとなっておられた山下(博)、嶋田 (雅美) 両大尉にお目にかかれたのは嬉しかった。

その時、「野分」 航海長の佐藤中尉 (同分隊四号・海自OB) (清夫) も一緒にいたので、「貴様たちがもうあの駆逐艦の航海長か」 と言われ、感心されたのか頼りなく思われたのか真意を測りかね、2人で見合って苦笑した。


(参考) : 佐藤清夫氏は著者伊藤茂氏と兵学校71期の同期で、この 「野分」 航海長としての回想を中心とした 『駆逐艦 「野分」 物語 − 若き航海長の太平洋海戦記』 を光人社から出版されております。 氏も戦後海上自衛隊に入られたようですが、残念ながら経歴などは不詳で、また在職中に書かれたものなどもあるのかどうか判りません。

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余談になるが、この山下大尉は兵学校生徒時代、柔道3段、銃剣術・相撲・体操体技ともに特級の猛者で、この人になぐられるのは最もこたえた。 (後、神風特攻隊にて戦死) (宇佐空 第十八幡護皇隊 沖縄沖 戦死後中佐)

また嶋田大尉は当時我々四号の指導には特に熱心で、何かにつけてまことに名調子のお達示をやっておられたが、そのたびに殴った数も一番多かった。 (後、戦死) (マリアナ沖 601空 戦死後少佐)

しかし殴られはしたがお二人とも心に温か味のある親しめる人々であった。

なおこのとき、各艦から集まってきたクラスの連中と一緒に、軍楽隊の演奏の聞こえる所で弁当を食べたのも懐しい。

5月30日、在泊各艦は 「大和」 「武蔵」 以下 「渾」 部隊の出撃を登舷礼式で見送り、いずれは同じ運命と思いながら、一足早く戦場に向かう諸艦の武運長久を祈った。

(続く)

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2020年11月29日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (13)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

鉄拳制裁

さて殴られたことをちょっと書いたので、殴ったことも紹介し、併せて関連した私見を申し添える。

18年に遡るが、呉において修理も終わりに近づき弾薬搭載が行われた。 休暇員が出ていて作業員不足のため、副直将校であった私は1人でも多く集めたいと思って艦内を回り、後部砲術科倉庫を開けたところ、中で下士官が2人酒を飲んでいた。 人が少なくみんな苦労しているときに砲術科の下士官たる者がと、即時その1名を1発殴った。

あとで聞いたところでは、いよいよ出撃も間近いのでお別れにきた同年兵と2人で飲んでいたとのことであったが、このときは相手の立場も考えず、感情のままにいきなり殴ったことを深く後悔している。

次にもう一つ、リンガ泊地において訓練中、一時敵の空襲が懸念され、夜間警戒停泊することとなった。 哨戒長は終夜直であり、哨戒員の方は3直交代になっていたので、私 (哨戒長) は夜半、状況を見るため艦橋に上がり、哨戒長付たる某先任下士官の名を呼んだが一向に返事がなく、眠っていたことを知ったので、「艦橋立直員の責任者たる者が眠るとは何事か」 と、旗甲板に呼んで1発制裁を加えた。

このときはただ感情のままになぐったとは思わないが、やはり殴るべきではなかったと今でも悔いている。

なお、殴ることには一長一短があり、殴る人の心の持ち方も大切であるし、またそれを受ける人によってもプラスともなればマイナスともなろうが、私は殴らないでも下級者指導の目的は達し得ると思い、むしろその害を思えば殴るべきではないと思っていた。

かつて兵学校においても、殴った人の中には下級生指導の確固たる信念も持たず、自分が殴られたから殴り、また上級生たるの特権のみをかざし、感情のままに殴った人も決して少なくなかったように思われたので、往時の懐旧談などでよく言われるような、殴られてありがたいと思ったことなど当時の私にはなく、むしろ嫌な感じを持ったことの方が多かった。

したがって自分は殴るまいと決心し、人並みに大いに殴られたのみで、自らは1度も殴らなかった。 しかし後年振り返ってみるとき、私も殴られて鍛えられたことで、その後の軍隊生活においてプラスとなった何ものかがあったような気もするし、また軍隊において、戦場で必要とされる強靭な精神を短期間に染み込ませるためには、殴って鍛えることに何か得がたい意義があったようにも思える。

しかし、私はその後深く突っ込んで考えてみていないことでもあり、その是非についての信念は持ち合わせていない。

またこの殴る殴らないについては、兵学校でも何十年来討議を重ねたものであろうが、いずれを良しとするかは年々異なり、結局多く殴ったクラスと然らざるクラスとあって、概ね最下級生時代大いに殴られたクラスは最上級クラスになってからまた大いに殴ったようで、この繰り返しが覗える。

したがってやはり一長一短があって、一般には自分の鍛えられた方法をベターと考え、これを選んだもののように思える。

いささか横道にそれたが、ともあれ私の軍隊生活を通じ、殴ったただ2人の前記下士官に対しては今も申し訳ない気がしてならない。

したがって私は人のことを言えた義理ではないが、士官になってからも極めて安易に下級者を殴っていた人には何かしら引っ掛かるものを感じていた。


さて、「あ」 号作戦の戦闘経過については詳細皆さん御承知のはずなので、以下私は実際に目で見、あるいは体験し、また感じたことのみ申し述べる。

(続く)

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2020年12月01日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (14)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)


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( 最も著名な 「大鳳」 の写真 昭和19年5月タウイタウイ在泊中の姿 )


Z旗一流

6月19日朝、いよいよ攻撃隊の発進にあたり、右正横を並んで驀進中の旗艦 「大鳳」 のメインマストに高々と戦闘旗が輌えり、その両舷ヤードにZ旗が掲げられた。

信号員も 「Z旗一旒」 と届けたが、実際は当時の信号書にはZ旗一旒の信号はなく、日本海々戦時のZ旗と同意味の信号は 「L4C」 と規定されていることを記憶していた私は、(「L4C」 は当時旗旒信号教練C法の問題にしばしば用いられていたため) かえって一瞬とまどいを感じたものの、すぐに日本海々戦時の故事が頭に浮かび、これにならったものと納得できたわけで、艦橋内もしばし寂として声なく、この時の胸を締めつけられるような感激や光景を忘れることはできない。

なお前大戦中、Z旗の掲揚は真珠湾攻撃時に続きこれが2度目であった由。


敵潜水艦に突入

「大鳳」 艦上から飛び立った攻撃隊は次々に編隊を組んでは遠ざかって行ったが、最後になって1機のみ反転旋回したのが同艦の右前方海中に突っ込んでいった。

私どもはてっきり事故かと思っていたが、実はその時、潜航中の敵潜水艦を目がけて急降下し海中に突入していったとのことであり、搭乗員は小松 (幸男) 兵曹長ということであった。

しかし不幸にもしばらくして 「大鳳」 は艦橋の右前に被雷した。 やはりこのようなときは、各艦とも、飛び立って行く飛行機に目を奪われ、他に手抜かりができていたものかと思う。


「大鳳」 艦長

午後、遂に 「大鳳」 は爆発炎上、総員退去となったので、本艦は艦首を同艦の右艦尾に着け、道板を渡して乗員を移乗した。

なおこの時あのような沈没間近い炎上中の艦に接舷するには、司令・艦長にとって相当な勇気を必要としたものと思う。

さて同艦後甲板に降りてこられた艦長菊地大佐 (朝三 兵45期) は乗員の勧めもきかれず、どうしても乗り移ってこられない。

他の乗員が移乗し終わったところで、独り残られた艦長は、本艦に早く離せと手でしきりに合図されるので、やむなく後進で離れていったが、そのまま後甲板で手を振っておられた艦長がしばらくして付近に散乱していた紐らしきものを拾い、体に縛りつけておられるのを眼鏡で見たときは、何かジーンと胸に込み上げてくるものを感じた。

同艦はその後間もなく大爆発を起こしやがて沈んでいったが、すぐにまた海中で大爆発を起こした。

なお艦長はその後他の駆逐艦に救助された由。 何かの衝撃で紐が切れ、浮かび上がられたものであろう。


(補記) : 日本版ウィキペディアなどでは 「大鳳」 艦長の菊池大佐は 「磯風」 に救助されたこととなっていますが、当の 「磯風」 航海長として戦闘配置の艦橋にあった著者伊藤茂氏は上記の通り 「その後他の駆逐艦に救助された」 とされております。


前大戦中、艦と運命を共にしようとしても果たされなかった何人かの戦艦や空母の艦長がおられるが、人の運命は自分の意志ではどうすることもできないものがあることをしみじみ思う。

艦と運命を共にされた司令官・艦長にはもちろんのこと、事志と違い生き残られた艦長に対しても心からの敬意を表するものである。


翌20日の戦闘も終わり夕闇の中で、折角帰投しながら着艦できる母艦がおらず、やむなく海上に不時着した飛行機の搭乗員を救助し、燃料不足のため経済速力で1隻だけ遅れて6月22日、中城湾 (沖縄) に入港したが、今や 「大鳳」 「翔鶴」 「飛鷹」 の姿はなく、損傷艦の 「隼鷹」 を初め既に帰投停泊中の各艦の間を縫いながら泊地の奥に入って行ったときも感慨一入のものがあった。

艦隊はここから内地に帰投、6月24日夜半、本艦は柱島泊地に投錨した。

(続く)

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2020年12月02日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (15)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

居眠り

さてこの作戦中、私が失敗したことについてはかつて本誌 ( 海上自衛隊部内誌 ) に記載されたこともあるが、もう一度大略を付記する。

6月19日の夜、空母 「瑞鶴」 の左正横2,000メートルに占位して之字運動を実施していたところ、「面舵」 と令したままちょっとの間眠ってしまい、ハッと気づいて何かおかしいぞと直感し、すぐに眼鏡で前方を見たところ、正しくは右正横の対勢になるべき 「瑞鶴」 が右艦首方向に見えたのにびっくりし、コンパスを見るとまだ回っているので、内心大いに慌てながらも、静かな声で 「戻せ、取舵一杯」 と下令、運よく事故もなくて旧位置に復することができた。

なおこのようなときは慌てず、落ち着いた声で号令を掛るよう昔もやかましく教えられていたが、実は私はそのとき両脇の椅子に眠っておられた司令・艦長が目をさまされないようにという懸念もあって静かに下令したもので、こんなときにそのような気遣いをしたとは何とも恥ずかしく自戒すべきことと、あとになって反省したものである。

このことはその後も思い出すたびに、ゾッとしかつ胸をなでおろしていたものであるが、戦後これをかつての上司にお話ししたところ、俺も同じく眠って一回転したことがあったと話され (隊形は輪形陣で後方に位置していた由)、また先年、優秀な先輩がやはり戦時中、これに似た失敗をやり、注意を受けたとの話をされたので、いずれも駆逐艦でのことであるが、自分だけではなかったのかと、それまでの心のもやもやが幾らかとれた感じがした。

なお、ついでにもう1度当時の状況を思い浮かべてみると、当日は早朝来攻撃隊の発進や 「大鳳」 の救助やらでずっと総員配置が続き、夜になって一段落して三直配備となったので、哨戒員は皆引き続いての立直となり、哨戒長も最初はいつものように航海長たる私が立っていたが、司令・艦長もそのまま眠られ、誰しも多少ホッとして疲れも出てくるのが人の常とは思う。

しかしこういうときこそ哨戒長は何としてもしっかりしていなければならなかったのにと恥ずかしく思っているが、一方では、この苦い経験とともに、駆逐艦では同様な例が案外多かったのではないかと推測できることから、少々大袈裟かもしれないが、この睡魔だけはいくら旺盛な精神力や体力があっても如何ともできないような気がしてならないので、このようなことの防止にはただ精神力のみを頼まず、他に対策をたてる必要のあることを私は痛感している。

なお、通常なら操舵員もこのような場合、いつまでも 「戻せ」 がないことをおかしいと気づき、すぐに問い合せていたであろうが、夜間のことでもあったし、彼とてもやはり疲れていてそこまで気が付かなかったのであろう。

また、艦橋勤務員の誰もが操艦者の各種号令や艦の動きに疑問を持った場合、すぐに問いただすように平素から心掛け、かつそうしやすい艦橋の雰囲気にしておくことも大切である。

くどいようであるが、操舵時のいろいろな間違いは前記のような眠ったときに限らず、錯覚や錯誤等もあって、長い海上勤務中には何回かは起きると思っていた方がよいと思っているので念のために申し添える。

(続く)

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2020年12月03日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (16)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

再びリンガ泊地に進出

昭和19年6月の 「あ」 号作戦終了後、艦隊は内地に在って再度出撃準備を整え、7月上旬、第二艦隊 《第一・三戦隊 (戦艦)、第四・五・七戦隊 (重巡)、第二水雷戦隊、第十戦隊 (駆逐艦)》 の大部は再びリンガ泊地に進出、今度は水上部隊のみによる戦闘訓練や爆撃回避運動の研究等に精進したわけで、第二艦隊参謀長小柳少将 (冨次 兵42期) の回顧録に戦前の技量にも決して劣らない域に達したと書かれてあるほど、油をふんだんに使っての猛訓練が行われた。


低速船団の護衛

このころボルネオ方面への船団護衛にも従事したが、しばしば真っ黒い煙を出し、まるで石炭船ではないかと思われるような6ノットの小型船の混じった船団を、海防艦とともにこれまたよくもここまできたと思える小さな駆特が一緒に護衛しているところへ、我が隊も加わったわけで、我が方は12ノット以下には落としたくないので、蛇行しながらかつ船団の周りを行ったりきたりして護衛していった。

(参考) : 今に残る記録では、昭和19年8月に第十七駆逐隊の 「磯風」 「浜風」 の2隻で、第一海上護衛隊の作戦指揮下に、往路は 「シミ08船団」 を護衛して10日シンガポール発、14日ボルネオのミリ着、復路はこれが 「ミシ06船団」 と名称が替わり16日ミリ発、19日シンガポール着で行動しています。

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( ミリの位置関係 Google Earth より加工 )

往路の 「シミ08船団」 は商船12隻を第七号海防艦と共に護衛、途中商船1隻が敵潜により被雷沈没、復路の 「ミシ06船団」 はこの1隻と生存者救助・敵潜制圧に当たっている海防艦を除き商船11隻を17駆隊2隻で護衛、往路、復路共に船団速力8.5ノットであったとされています。

上記の回想がこのことだとすると、駆潜特務艇などの事はこの時に同時運航された 「ミシ07船団」 などのことも含むものと思われます。

因みに、ボルネオのミリは元々は小さな漁村でしたが、20世紀に入って石油によって栄えたところで、現在では人口30万人を超え、ボルネオの観光都市の一つにもなっております。 ただし、現在でも外洋に面した港湾は無く、Sungai Baong 川の川岸に桟橋などが並んでいます。

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( 現在のミリ市街 Google Earth より加工 )


ジョホール水道

さてリンガ泊地において訓練中の各艦は、交代で整備・補給・休養のためシンガポールのセレター軍港に回航していたが、某日、本艦も予定の行動を終え、再びリンガ泊地に向けセレターを出港したところ、谷井司令は前夜のもて方が如何だったものか、「早くセレターとの腐れ縁を切ろう」 と言われながらも、いつもの柔和な笑みを浮かべて 「航海長、強速」 と言われた。

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( セレター軍港の位置関係 Google Earth より加工 )

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( 民間造船所となっている現在のセレター軍港跡 Google Earthより加工 )

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( 昭和17年 占領後の元英海軍セレター軍港の状況 )


(参考) : シンガポール占領後は、旧海軍はここシンガポールを一大前進基地とし、セレター軍港を艦船の造修施設として使用して海軍工廠に匹敵する第101工作部を置き、加えて施設部、軍需部などの後方部隊、第一南遣艦隊司令部などを置いた他、ドイツ人経営の一流ホテルだった Goodwood Park Hotel を水交社支部とするなどを始めとして休養・厚生面でも極めて充実しており、英国風の街並みと併せ、寄港する艦船乗員にとっても日本では味わえない南洋での充実した日々を送ることができました。

なお、旧海軍の基地としてのシンガポールの様子については、既に連載しました森栄氏の回想録 『聖市夜話』 中に詳しく紹介されておりますのでそちらをご参照ください。



( ただ、これを読むと、今も昔も後方部隊・機関の職員というのは ・・・・ と思わされますね。)


しばらくするとジョホール水道ではお決まりのスコールがやってきて対岸も見えなくなってきたので、私は思い切って司令にお願いし、原速に落として棒杭や竹竿の立っているのにヒヤヒヤさせられながら、しばらく時間変針で通って行った。

今考えるとこのような場合、もっと落としてしかるべきであったと思うが、あの程度でも、我れながらよく思い切って減速をお願いしたとは思っている。

「頭より先に船を進めるな」 と教えられていることを、このときまでに何回も失敗しそうになっては身につまされて感じさせられていたためであろう。

(続く)

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2020年12月05日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (17)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

第二戦隊の護衛

9月になって、ある日 (11日) 夕刻、我が隊が訓練を終えて錨地につくと突然旗艦 (軽巡 「矢矧」) からの信号で、第十七駆逐隊司令は第十七駆逐隊及び 「若月」 (当時同じ十戦隊所属の防空駆逐艦の1隻) を率い準備でき次第出港、内地に帰投のうえ第二戦隊 (「山城」 「扶桑」) を護衛してリンガに進出せよ、という意味の命令を受けた。(機動部隊電令作第48号に基づく第十戦隊電令第153号)

全くこのような行動は当時いとも簡単に命令されていた。


(参考) : 第17駆逐隊の呉回航と第二戦隊の護衛については 『第十七駆逐隊戦時日誌 昭和19年9月分』 を参照して下さい。 なおこれと同じものが現在ではアジ歴のレファレンス・コード : C08030146500 でも公開されています。

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なお旧駆逐隊には現在の護衛隊々付のようなデッキの幹部の配置はなく、司令駆逐艦の航海長及び通信士が補佐していたので、今から準備でき次第となると各艦の燃料補給が終わるまでに航海計画を立てねばならないこととなるが、それにはまず今までに受信だけしてためていた敵潜情報の記入から始めなければならなかったので、早速通信士 (宮田實 通信士兼航海士 兵72期 少尉、19年9月15日中尉昇任) と一緒に海図に入れてみると、大げさに言ってこれらを全部避けて通るとすれば、通るところがないと思えるほどの敵潜の配備状況であった。

各艦の出港準備完了までに、差当たり必要な一部のコースを発光で送り、水道を通るまでには夜が明けてくれればいいがと思いながら、夜半過ぎに泊地を出港していった。

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( 17躯隊の概略行動図 同隊戦時日誌19年9月分より加工 )


ただし、この航海は久しぶりに駆逐艦のみの部隊であり、しかも本艦は司令乗艦のため之字運動も基準艦であったので、艦位を入れるのが最大の仕事ぐらいで気楽な航海であった。

しかし本当は駆逐艦は先の 「谷風」 のように魚雷一発で轟沈と思ってまずまちがいないのだから気を弛めることはできなかったのに、やられたらやられた時のことよと、敵潜の多い中を通るというのに当直と天測と食事の時以外はひたすら寝ていたのが実情であった。

なお戦時中全期間を通じ、航海当直に起こされる時の眠かったことは今以て忘れ得ない。どうしてあれほど眠かったのだろうと不思議に思うが、睡眠時間が細切れであり、十分でないうえに、暑さで熟睡できなかった点もあったかと思う。

途中無事に呉に帰投し、在泊は3〜4日あったろうか。 この時、内地に居残ることになった 「若月」 の石川 (査平) 航海長が送別のクラス会を開いてくれた。

彼の艦とは、リンガでの訓練時委員の交換等で行ったりきたりしていたので、自分だけ残ることを申し訳ながり、私の武運を祈ってくれたが、同艦はその後比島沖海戦に小沢部隊で参加し、ついでオルモック方面に出撃して沈没、彼も戦死した。 やはり 「人間万事塞翁が馬」 である。


さて、今度は十七駆逐隊のみの4隻で第二戦隊を護衛し、途中安下庄 (屋代島南側、明治期からの艦隊作業地の一つ) に1泊の後、豊後水道を出撃した。

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( 安下庄湾の位置 Google Earth より加工 )

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( 海図 No.142 昭和23年版より 安下庄湾 )

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( 関重忠機関中監 (当時) の明治35年オリジナル・アルバム 『海軍揚輝』 より 朝霧の安下庄に停泊する 「笠置」 と 「高砂」 )


(参考) : 上の写真と同じものは、福井静夫編 『海軍艦艇史2 巡洋艦・コルベット』(K.K ベストセラーズ) では撮影場所不明の 「千歳」 と 「高砂」 とされていますが、撮影者たる関重忠氏自身の手になるアルバムで 「安下庄の朝霧 笠置、高砂」 と毛筆で手書きされております。 また撮影時期は明示されていませんが、同アルバムの他の写真及び船体塗色から明治33〜34年と推測されます。

なお、関重忠氏のオリジナル・アルバム 『海軍揚輝』 は本家サイトにて既に公開中です。




昔も艦隊の出撃となると、駆逐艦の方はいつも出撃前の対潜掃討を実施していたもので、夜間、四国寄りの掃海水道を通り、沖の島と蒲葵 (びろう) 島の間から出ていったが、レーダーのないときの夜間無燈火での掃海水道通過もやはり神経を使った。

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( 蒲葵島の位置関係 Google Earth より加工

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( 海図 No.151 昭和36年版より 蒲葵島 )

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( 佐伯防備隊戦時日誌昭和19年9月分の豊後水道防備要図より加工 赤線が東側掃海水道 )


このときも途中敵潜水艦には遭わず、無事に二戦隊の両艦をセレター軍港に送り届け、我が隊は即時リンガに帰投した。

なおこの両艦とも約1か月後にはスリガオ海峡突入で西村司令官及び両艦艦長以下乗員のほとんどが艦と運命をともにされた。

(続く)

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2020年12月06日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (18)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

谷井司令

リンガに帰投後直ちに谷井司令は、本艦が長期間ドックに入っていないことを心配され、入渠させてもらうよう掛け合ってくると言われて、十戦隊及び二艦隊司令部までお願いに行かれた。

その結果本艦はシンガポール (商港) のドックに入ることとなったので、当隊着任以来、本艦に乗艦しておられた司令は、「俺は 『浦』 に残る。 『磯』 が帰ったらまた帰ってくるから」 と言われ、隊付の庶務主任 (内田源吾 主計中尉) を連れて 「浦風」 に移乗された。


(補記) : 「磯風」 が入渠したのは、シンガポール島南西部の旧商港地区と推測されますが、具体的にどこのドックだったのかなどは不詳です。

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( シンガポールの旧商港地区 Google Earth より加工 )


本艦はシンガポールに回航入渠したが、そのうち 「捷」 号作戦の行動が起こされることとなり、急遽リンガに帰ると、既に艦隊はブルネイに向け出撃準備中であり、爾後も司令は 「浦風」 のままで行動されることとなった。


「捷」 号作戦  ブルネイ出撃

10月20日ボルネオのブルネイに進出、そこで小艦は大艦から、大艦はタンカーから燃料の急速補給を受け、レイテに向け出撃することとなった。

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( ブルネイ湾 (泊地) の位置 Google Earth より加工 )

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( ブルネイ湾 (泊地) Google Earth より加工 )

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( ブルネイに集結した艦隊 昭和19年10月21日 「磯風」 より撮影 )

指揮官参集による会議の模様などは巷間伝えられているとおりであるかと思うが、大局を知らない若年の私などは、やはりこれだけの大部隊ならと、大艦に対する期待もあって、空母もおらず直衛機もいないハンディがあるとはいえ、我が連合艦隊の最後が敵船団相手の殴り込みとはと何とも残念でならない気持であった。

しかし考えてみれば、我が艦もよくここまで生き残ったもので、その最後をこの主力部隊と運命をともにすることができれば、この上ない幸せと考えるべきであろう。 最後の御奉公に全力を尽くそうと自ら言い聞かせた。

さて、いよいよ栗田中将直率の第一遊撃部隊は10月22日午前、ブルネイを出撃していったが 「大和」 「武蔵」 「長門」 と続いて湾内を出て行く堂々たる雄姿はさすがに頼もしかった。

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( 有名なブルネイ泊地を出撃する第一遊撃部隊の姿 昭和19年10月22日 「磯風」 より撮影 )

なおまた、午後の出撃を控えてまだ静かに待機中の第二戦隊 (「山城」 「扶桑」) を始め、我が十戦隊から分派の僚艦 I満潮」 「朝雲」 「山雲」 等西村部隊の各艦を眺め、あの艦にはクラスの彼がいるのだがなどとの思いを巡らせながら一足先に出て行った。


以下 「捷」 号作戦における経過の詳細も諸官御承知のとおりであろうから、ここでは私の心に残っている点のみ申し述べる。

(続く)

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2020年12月07日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (19)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

「赤々」・「青々」

ブルネイ出撃の翌23日早朝、パラワン水道において敵潜水艦の雷撃により栗田長官の旗艦 「愛宕」 及び同じ第四戦隊の重巡 「摩耶」 が沈没、「高雄」 が大破する被害を受けた。 早くも旗艦変更を余儀なくされた長官や参謀長の御心境は如何ばかりであったろう。

その後は潜望鏡の発見信号が揚げられたり、続く「青々計7」 (緊急右70度一斉回頭) の信号で緊急回避をしたりして、各艦見張員にいたるまで異様な緊張が続いた。

さてこの「青々」 (緊急右45度一斉回頭) とか 「赤々」 (緊急左45度一斉回頭) はこれだけならまず大したことはないとして、このあとに 「計7」 (計数ななと読み70度の意) や 「計9」 (計数ここのつと読み90度の意) がつくと極めて困乱を起こしやすい運動となり、後の方の艦や遠い艦は特に計数以下を見落としがちであるし、また次々に発動も遅れるので危険な状態を引き起こしがちなものである。

幸いこのときは昼間であり、付近の艦の運動がよく見えたので危険になることはなかったが、例のミッドウェイ海戦の際、第七戦隊の4番艦 「最上」 が3番艦 「三隈」 の左舷に衝突したときは、敵浮上潜水艦の発見によって 「赤々」 を2度やったとかあるいは「計9」をつけたとか、また、信号でやったり電話でやったり、ということで旗艦の方は左90度までの緊急一斉回頭のつもりであったのを、「最上」 の方は左45度に解しており、また、齋藤自衛艦隊司令官 (國二郎 兵70期 ミッドウェー当時少尉候補生として七戦隊旗艦 (1番艦) 「熊野」 乗組) が書いておられるような状況とか、種々錯誤はあっても、あとからの無責任な批判をお許し頂くとすれば、各艦艦橋にはベテランの艦長も航海長も当直士官も、そして多くの優れた見張員もおられ、臨機応変の適切な処置がとられるはずであったろうに ・・・・。


夜間の高速編隊航行中、敵潜水艦を発見して注意を奪われているような状況下では、当時の七戦隊ほどの高練度隊でもあのような事故が起きている。 訓練のときと、実際の戦闘場面とでは心理状態が違っているのが一般と考えるべきであろうし、「左警戒右見張」 とあれほどやかましくいわれ、誰もが注意しているつもりであっても、いざとなると中々である。 戦場における一般的な心理状態としても、心に留めておくべきではなかろうか。


シブヤン海における空襲

10月24日のシブヤン海での空襲による戦闘状況についても多くの本に書かれているとおりであり、私ども小艦の方は初めは概ね大艦に集中攻撃するのをチラチラッと見る余裕もあったが、そのうち損傷艦も出始めると小艦を攻撃するものも多くなり、艦長を補佐して必死の回避運動をやった。

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( シブヤン海で米軍機の空襲を受ける「武蔵」 )

ところで駆逐艦のような運動性能の良い小艦であっても、続けさまに急降下してくると、2機までは何とかかわせても、3機目の爆弾の当たる当たらないは運だという感じを私は持った。

申すまでもなく、艦には回頭惰力があるので、引き続いての急降下機に対しては、間に合わない場合の出てくるのは当然と思う。

したがって、よく何十機の爆撃を回避したと言われるのは、もちろん艦長の抜群の技量があったろうが、次の急降下機との問に回避できる時間的間隔があったわけでもあり、また計り知れないその艦の運もあったものと思わざるを得ない。

それにしても前記ミッドウェイ海戦時の 「谷風」 の見事な回避ぶりが偲ばれるが、人間技をこえたものとしか言いようはあるまい。

なおこのとき本艦に、続いて急降下してきた3機目の爆弾が、面舵一杯から取舵一杯にして丁度回頭が止まった時に、艦首の右舷至近距離に落下し、胸をなでおろしたその時の光景が今なお瞼に残る。

何ぶん駆逐艦は小型爆弾1発でも命取りにならないとは限らないので、運動性能が良いからといっても、2発や3発当たっても悠然としている大艦に比べて、それほど有利とは言えない面もある。

なお言うまでもないことであるが、回避にあたっては、大転舵による艦の傾斜のため、射撃効果の減殺も考えねばならない。 最大戦速時、一杯転舵中に続けて反対舵を一杯とると艦の傾斜は大きく、そのまま立ってはおれないくらいになるし、主砲の射撃精度は著しく低下するので、大事なときに気が気でなく、状況を見ながら適宜舵角の修正もやった。特に燃料も少なくなって重心が上がってきたときの傾斜は物凄い。

なおこれだけの大部隊になると、味方艦の対空砲弾の破片がバラバラ落ちてきて危ないなと思ったが、これは事前には考えていなかったことで泡を食った。


(参考) : 捷号作戦時の対空戦については、昭和20年2月に横須賀海軍砲術学校が纏めた 『比島沖海戦並ニ其ノ前後ニ於ケル砲戦戦訓速報 其ノ二 (対空砲戦之部) 』 にシブヤン海での戦闘も含めたものが残されています。 ただし、同じものは防衛研究所にも収蔵されているようですが、現在のところアジ歴ではまだ公開されておりません。

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(続く)

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2020年12月08日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (20)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

再進撃

19年10月24日、シブヤン海で栗田艦隊が一時西方へ避退し、再度東方へ反転進撃したことについても戦後随分批判されているが、私など、もちろんそのいきさつは知らず、また最初の反転を退却と考えて疑問に思ったわけでもなく、再度反転した後、夕闇迫るシブヤン海へ、既に前甲板すれすれまで水につかった 「武蔵」 の何となく寂しい艦影を残し、心残りはしたが、感傷にひたってもおれず、我々はこれからだと自ら励ましつつサンベルナンジノ水道に向かった。

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( 前甲板を大きく沈めた姿の 「武蔵」 「磯風」 から撮影 )

なお、この水道は海上自衛隊の遠航部隊も何回か通ったようであるから馴染みの深い人も多いと思うが、あのような水道をあれだけの部隊が夜間よくも無事に通りぬけたものと戦後言われているけれども、後方続行の場合は 「ともせともせ」 を厳しく戒められ心してやってはいても、やはり精神的には気楽な立場にあるためか、私には余り苦労した印象は残っていない。

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( サン・ベルナルディノ海峡の位置関係 Google Earth より加工 )

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( サン・ベルナルディノ海峡付近 1954年版の米軍地図より加工 )


(参考) : 「ともせともせ」 と言いますのは、ご存知の小豆島の伝統行事 「虫送り」 における棚田での 「灯せ、灯せ」 の掛け声ですが、それが転じて、旧海軍では夜間単縦陣での航行においては、前続艦との距離 (通常500m) を保ちつつ、その艦尾灯又は航跡灯を追いかけていくことを意味します。

単縦陣 (一本棒) で直進している場合は基本的に艦尾灯 (航跡灯) を真艦首に維持しつつ対艦距離に注意を払っていれば良いのですが、変針する場合、特に無信号で次々と変針して行くような状況の時には、前続艦の航跡にしっかり乗っていくのは注意力と操艦技量が必要で、回頭する航跡の内側になったり、外側にはみ出したりしてしまい、更に後続艦がいる場合にはこれに迷惑をかけることになり一本棒の陣形が乱れます。

ただ、現在では 「虫送り」 のこと自体がほとんど知られなくなりましたので、海自でもこの 「ともせともせ」 のことを知っている者はほとんどいないと思います。



さて1時間前まではこの水道の出口に米戦艦部隊が待ち受けていたというのに、戦闘はお互い錯誤の連続とはよく言ったもので、米側は既にそこを引揚げており、そのあと我が隊は幸運にも夜半無事に通り抜けて一路レイテに向かって行った。


サマール島沖海戦

25日早朝猛烈なスコールが晴れ、視界はまだ余りよくはなかったが、東天紅に染まる中に敵機を発見、続いてその下方にマストらしきもの数本が見え、やがて敵空母が見えてきた。 その時の身の引締る思いと、よしやるぞとの意気込みはいわゆる武者震いとでも形容できようか。

ほどなく突撃針路の指示もあり、各艦橋頭高く戦闘旗を掲げ獅子奮迅の突撃に移ったわけで、まずは戦艦の撃ち出す砲声が殷々として天にこだます中を、我が十戦隊も旗艦 「矢矧」 に続く十七駆逐隊の 「浦風」 「磯風」 「雪風」 (「浜風」 は前日 「武蔵」 の救助に派遣されたままで欠) 及び 「野分」 (四駆逐隊の1艦であり、他の3艦は前記のとおり西村部隊の方に分派されていた) の5隻が一本棒で敵空母を追撃して行ったが、当初十戦隊は最も敵に近く占位していたのに、燃料に対する配慮から後方続行の指示を受け全速力での突撃ができず、また天柘も彼にくみしたのか、しばしばスコールがやってきては見失いがちとなるのを悔しくてたまらなく思いながら、更に敵駆逐艦の展張する煙幕にも遮ぎられたりして、空母に対しては遂に遠距離魚雷戦を余儀なくされてしまった。


なお折々艦載機が突っ込んでくるので、艦長の指令に間髪を入れず操舵号令を下令して爆撃回避をやり、また艦の周囲に落下する敵砲弾の弾着を見ては、「艦長面舵をとります」 「取舵をとります」 と避弾運動をやりながら、その合間には一本棒の隊形から大きく外れないよう舵と赤黒の修正で一生懸命前続艦について行った。

全く息つく暇もないような一時であり、爆弾や砲弾に対する恐怖感は余り感ずる暇もなかったように思う。 したがって、戦場ではこのようにやるべきことが一杯ある方がよく、ひたすらこれに取組むのが、艦のためにはもちろん、自分のためにも一番よいようにあとで思った。

さて午前10時過ぎ集結が下令され、水上戦闘も一段落した後、敵機の空襲の合間をみて戦闘配食があったが、空腹と喉の渇きで、握り飯と1本のサイダーのおいしかったことも今もって忘れ得ない。


(参考) : 捷号作戦における水上戦については、昭和20年1月に横須賀海軍砲術学校が纏めた 『比島沖海戦並ニ其ノ前後ニ於ケル砲戦戦訓速報 其ノ一 (水上砲戦之部) 』 にサマール島沖海戦も含めたものが残されております。 ただし、同じものは防衛研究所にも収蔵されているようですが、現在のところアジ歴ではまだ公開されておりません。

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(続く)

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