連載を始めるに当たって
かつて私が初級幹部の時に海自の部内誌に連載された、海軍兵学校71期生伊藤茂氏の太平洋戦争中の回想録 です。
氏は戦後海上自衛隊に入られ、その時の勤務経験から、私が 「操艦三部作」 と呼んでいる 「けやき」 「おおなみ」 「きくづき」 そして 「はまな」 の艦長時代の操艦記録や初級幹部を対象とする勤務参考など、優れた著作をものされ、これらを読んで私が若い現役の時代の時から勝手に師と仰いできた方です。
この回想録が連載された当時、私はこれを毎号読むのを心待ちにするとともに、今後の勤務での参考とするためにコピーをとっておきました。
と言いますのも、この部内誌は毎月作成・印刷製本され、配布された部隊などで幹部及び海曹士に回覧されるものの、次々に新しい号が届きますので、余程のところでない限り保管場所もありませんので1〜2年もすれば古いものから破棄されてしまうからです。
したがって、海自内で初号からの全てが揃って残されているのはせいぜい数カ所のみ、それも書庫に格納されたまま、というのが現状ですから、もう半世紀近く前にこの回想録が連載されたことさえ今の若い後輩達では知らない者が多いのではないかと思います。
お読みになっていただければすぐにお判りいただけるように、船乗りにとってその身の処し方や海上勤務での考え方など、“うん、なるほどそうですよね” とうなずけることばかりです。
功成り名をなした海自高級幹部達の手になる、いわば杓子定規的な綺麗事の羅列記事のようなものではなく、これぞ 戦時における現場の船乗りの “素直な” 本音 です。
しかしながら海自部内誌の現状は上記のとおりであり、このすばらしい回想録がこのまま埋もれ去ってしまうのではあまりにもったいない貴重なものです。
機会があれば海自の後輩幹部諸官にも読んでもらいたく、また一般の方々にとっても、太平洋戦争を戦い抜いた現場の船乗りの記録・所感として大いに参考になるのではと思っておりました。
しかしながら、伊藤茂氏は97歳で広島ご在住ということが判りましたので、是非とも一度直接お目にかかりたいと思っておりましたが、昨今のコロナの状況に鑑み延び延びになっておりましたところ、その後体調を崩されて入院加療となられ、誠に残念ながら去る10月14日にご逝去されました。
つきましては、ご親族様のご了解をいただきましたので、ここに故伊藤茂氏の回想録を本ブログでご紹介するとともに、この素晴らしい回想録を今後に残したいと思う次第です。
どうかこの “これぞ船乗り” と言って差し支えない回想録をお楽しみください。
そして、私が師と仰いできた故伊藤茂氏のご冥福を心よりお祈りするとともに、回想録の公開をもって追悼とさせていただきます。 (合掌)
なお、基本的には元の記事のままを文字起しておりますが、ブログ上ということで文の区切りなどを読みやすくし、また参考事項や難しい言葉の読みなどについて 青字 で付け加えさせていただいておりますことをご了承ください。
管理人 桜と錨
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (1)
伊藤 茂 ( 元海自海将補 ・ 兵71期 )
寄稿にあたって
何か書くようにとのお勧めがあり、私などがと思って再三お断りしてきたが、結局戦時中の体験記でもということでお引受けすることにした。
ただし、戦闘の経過や所見等については既に先輩方が詳しく記述しておられるし、もちろん私にはそのようなものが書ける能力もないので、主として初任幹部の諸官に対し、平、戦時の差はあれ、多少なりとも温故知新の一助にでもなればと思い、私の戦時駆逐艦勤務の体験を中心に、年月を追って書き並べていくこととする。
なお当時は、私もひたすら報国の念に燃え、任務完遂に邁進したつもりであるが、一面では何かにつけて弱音を吐きたくなり、時には不平不満も持ったので、そのような気持も折々の所感にまじえて申し述べることとする。
したがって、御批判は多かろうと思うが、考えようによっては、この方が平凡な若年士官のありのままの戦争心理ではなかったろうかと思っているので、その点御賢察いただければ幸いに思う。
また、内容の貧弱さもさることながら、文章がまずく読み辛い点の多いことを、最初に特にお断りしておきたい。
柱島実習
私どものクラス (兵71期、昭和17年11月14日卒、581名) は、昭和17年11月から2か月間、柱島泊地に在泊中の戦艦部隊で侯補生実習を行った。
私は 「武蔵」 に乗ったが、特にとりたてて申し述べるほどのことはなく、ただ、指導官の古賀大尉 (裕光 兵62期 高射長) から教えられた次の言葉のみ今なお深く心に残っているので、諸官の大方は御承知と思うが、念のため御紹介する。
一つは、「青春は意気であり、熱であり、顧みるときの微笑み (ほほえみ) である」 ということである。
しかし、私はこの意気と熟に不足したのか、顧みてこれはという微笑める思い出が少ないことにいささか悔を残しているので、これからの若い諸官には是非思い切ってやっていただきたく、若者の意気と熟をもって、ときには百尺竿頭 (かんとう) 一歩を進めて (既に努力・工夫を尽くした上に、更に尽力すること) やってみられることをお奨めしたい。
またもう一つは、「明朗颯爽 (さっそう) たる海上武人たれ」 ということであった。
なるほど、旧海軍にはこの言葉にふさわしい先輩が多かった。 私もかくなりたいと心に期してやってはきたが、これもほど遠い憧れのみに終わったので、諸官にはすべからく、このようになってほしいと念願してやまない。
( 続 く)
(参考) : 柱島錨地 (泊地) について
戦前から連合艦隊がその作業地として長年にわたり使用してきた有名な 「柱島錨地」 については、改めてご説明の必要は無いかと思いますが、一応ご参考としてその場所をご紹介しておきます。

( 元画像 : Google Earth より加工 赤丸位置が柱島錨地 )

( 元図 : 昭和23年版の海図 N0.142 より )

( 屋代島陸奥記念館の高台より望む柱島錨地 右奥が柱島 管理人撮影 )
広島湾南部に位置し、柱島を始めとする大小の島々と、南側を屋代島で囲まれた、平均水深約30m、底質砂又は砂泥で起伏が少なく、かつ波静かで、連合艦隊の多くの艦艇を収容できる広大な泊地です。
そして、呉に近く、また伊予灘や周防灘の内海西部、そして速吸瀬戸 (佐田岬) を抜けて豊後水道、四国沖の太平洋に出ての訓練にも適しており、戦前のみならず開戦後も、修理や補給などで呉に戻る以外は、戦艦を始めとする連合艦隊主力は多くの時間をここをベースとして訓練に励んだところです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
次 : 回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (2)
http://navgunschl.sblo.jp/article/188099427.html