2013年03月14日

大空への追想 (80)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その5 大艇基地を襲った米潜水艦

17年、1月中旬にはセレベスを制圧し、ボルネオ、ジャバへの先制攻撃が酣となっていた。

二十一航戦は、陸攻、戦闘機隊がセレべス南端のケンダリ基地 (注1)、大艇はセレベス北東端のケマ基地 (注2) に転進した。 海軍落下傘部隊が既にケマ基地の北側メナドを占領していた。 大艇の索敵重点は、バンダ海、チモール方面に向けられていた。

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( 元画像 : 昭和17年版の海図 No.801 より )

ケマ基地は良好な湾で、大艇24機を洋上係留し、支援船 「葛城丸」 (前出) も湾の奥に投錨していた。 官舎は土人の小屋や、バナナ畑に建てた天幕小屋を使用した。

1月24日、チモール島方面の索敵の任を受け、0400 ケマ基地を発進した。 未だ基地は暗い闇に包まれており、灯火管制も厳重であった。

基地を出て約10浬南下した洋上で、航海灯を点じてケマ方面に向かう艇種不明の北航船に遭遇したが、味方と判断し、無線封止のため特に報告もしなかった。 後説のとおり、これが大きなミスとなったのである。

この日発進した索敵機は6機、私が最後に出たのであるが、前続機はいずれもこの船を認めていなかった。

ケマ基地には 「葛城丸」 の他、係留飛行艇18機と東港空所属の特設砲艦 「妙見丸」 (200トン) (注3) が停泊していた。 静かな大艇基地に予想もしていない大事件が発生したのである。

1300頃湾口付近を哨戒中の 「妙見丸」 (いずれも軍属) が潜望鏡らしいものを発見し、銃撃を加えるとともに基地に急報した。 ほとんど同時に魚雷の雷跡2本を発見したが、その一本が不幸にも 「妙見丸」 に命中した。

しかし轟沈に近い状態で沈みゆく船上から、船員たちは最後まで銃撃を続けた。 人員は無事救助されたが、まことに勇敢な軍属の行動である。

他の一本は海面航走しながら巧みに係留飛行艇を避けて砂浜に飛び上って来た。 驚いたのは兵器員達である。 丁度その砂浜で爆弾調整作業をしていた彼らが、「妙見丸」の爆沈にビックリしていると、大きな飛び魚のようなやつが海面を跳ぶようにして向かってくるのだ。

あッと言う間に勢いよく作業場に飛び込み、しばらくペラが回転していたが、やがて停止した。 よく見ると、米軍の魚雷である。 幸いにも不発に終あった。

彼らは早速分解調査にかかったが、現用米潜水艦の魚雷であることが確認され、意外な戦利品を入手することになったのである。

基地は直ちに対潜警戒を令し、整備中の飛行艇を除き、4機が緊急発進をして哨戒を開始した。

と言っても、その当時潜没潜水艦を探知する兵器なんて何もない。 爆撃をやる以外にはないのである。 静かな基地はただならぬ戦場と化し、夕方まで哨戒が続けられたが、残念ながらこの米潜は逃がしてしまった。

実は0400頃に私の発見した船は、浮上潜水艦だったのである。 米潜も巧みに潜入して来たが、少し遅れて出発した私の一機にばったり遭遇し、観念して、咄嗟の手段として航海灯を点じたのである。 私の方が間抜けだった。

我が機をやり過ごすと直ちに急速潜航し、湾口付近で約9時間も粘りながら偵察を続けていたのであろう。 湾の奥に停泊中の 「葛城丸」 を狙ったに相違ないが、その魚雷が甚だお粗末。 照準して射ったのであろうが、慌て者どもの射った魚雷は斜進し、「妙見丸」 をやっつけたものの、一本は前述のような結果となったのである。

しかしながら真昼に大艇基地を襲撃したこの潜水艦長に対しては敬意を表したい。 この勝負、明らかに大艇隊の負けである。

この事件以後、水上基地警戒は上空だけではなく、潜水艦という忍者に対しても警戒の要があるということで、以後自隊基地の対潜警戒として、基地出入の航空機、試飛行機は、特に湾口付近の哨戒を実施することになった。

潜水艦を見逃した小生は、米潜水艦から感謝状を貰いたいところだが、これもならず、日頃の功績からか特にお叱りも受けなかった。

「妙見丸」 船員に対しては感謝状が授与されたが、それだけが目出度し目出度しであった。
(続く)

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(注1) : 当時のケンダリ (Kendari) 航空基地は、ケンダリの市街より南西に約20kmほど内陸部のところにあり、現在では 「ウォルターモンギシディ空港」 (Wolter Monginsidi Airport) となっています。


Kendari_map_1961_01_mod1_m.jpg
( 元画像 : 1961年版の米軍地図より )


なお、上の地図の右側の大きな赤丸のところが、連合艦隊の泊地で有名なスターリング湾です。


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( ケンダリ基地とされる写真  撮影時期など不詳 )

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( 現在のウォルターモンギシディ空港  画像 : Google Earth より )


(注2) : ケマ (Kema) の水上基地については、その正確な位置などについては判りません。 しかしながら、本項で 「良好な湾で」 とされていることを合わせると、現在のケマ市街の面する外海に開けた小さな湾ではなく、その北の Lembeh 島とに夾まれる水道の中と考えられます。


Kema_map_1969_01_s.jpg
( 元画像 : 1969年版の米軍地図より )


(注3) : 特設砲艦の 「妙見丸」 は総トン数4124トンとされていますので、著者の誤記と考えます。 「妙見丸」 についてはHN 「戸田S.源五郎」 氏のサイト 『大日本海軍特設艦船』 の次の記事をご参照下さい。



なお、この時ケマ基地を襲撃して 「妙見丸」 を撃沈したのは、米側の記録では 「ソードフィッシュ」 (SS-193 Swordfish) とされています。 ( 「 The Official Chronology of the U.S.Navy in World War II 」 )


2013年03月16日

大空への追想 (81)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その6 ジャバ沖海空戦と夜間触接

(1) スラバヤ第一次空襲

「 東港空は大艇4機をもってケンダリ水上基地 (注1) を開設し、スラバヤ空襲に協力せよ 」

かねがね予想はしていたが、その日が遂にやって来た。17年1月30日のことである。 二十一航戦のスラバヤ大空襲を切っ掛けにいよいよジャバ攻略の火蓋が切って落とされることになった。

ボルネオ島バリックパパンの敵前上陸が決行された直後、二十一航戦の戦闘機隊は、ケンダリからパリックパパン陸上基地 (注2) に強行着陸とも思われるような進出を決行した。

ジャバの敵空軍をたたかない限り、ボルネオ油田地帯は占領したとはいうものの絶えず空襲に脅かされたのである。 ジャバを叩けば、残るところ濠州以外に敵の基地はなくなるのである。 このため、空襲部隊はバリックパパンに進出してジャバ攻撃への足掛かりをつくる必要があった。

ケンダリには三空零戦隊がいた。 これを急遽バリックパパンに転進させねば、あとの中攻進出が丸裸である。 そこで三空の整備員55名を九七大艇4機で空輸することになった。

空輸後、大艇はパリックパパン沖にそのまま留まり、引き統きスラバヤ大空襲のレスキュー配備に就く計画になっていた。 大艇がレスキュー配備の任をうけたのはこれが最初である。

こういうことになると、白羽の矢は必ず私に立てられる。 2月1日、私は4機を率いて早速ケンダリ水上基地 (当時未設置) に進出したのである。

ここは、水路が東西に一本3000米とれるだけの湖水のようなところで、夜間は敵のゲリラが必ず襲撃して来た。 食事はすべて缶詰、風呂はなし、まさに戦場にふさわしい基地であった。

翌2日、中攻隊に先行して三空零戦隊はバリックパパンに強行着陸しており、ケンダリに残っていた三空整備員がやって来た。

そこで大艇1機当たり約15名を押し込み(搭乗員と合わせると23名)、燃料をできるだけとう載した結果、重量は約21トン、九七大艇の重量制限を少し超えていた。

風が弱い、3000米の水路で果たして離水出来るだろうか。 しかし、そんなことは言っておられない。 どうしても上がらねばならなんのである。

私がまず先陣を切った。 滑走を何回か止めようとしながら、ここがガマンのしどころと堪え、水路10米を残してやっと水を切った。 1分50秒 ( 私の生涯の新記録である。 全身脂汗にまみれ、まさに決死的離水であった。)

「 分隊長があがったぞッ 」

不思議なもので必ず列機は続いてくれる。 手に汗を振る場面を続出しながら、とにかく全機が空中に浮いた。 なせばなる。 恐ろしいものである。

パリックパパンに着くと、懐惨を極めていた。 飛行場に隣接する石油タソク群は敵が退却時に爆破し、炎々たる紅蓮の炎は天を焼き尽くさん勢いであり、4000米の沖合に投錨した大艇まで熱気が届いていた。

飛行場内もまた残存のドラム缶が炎上、爆発も起こしており、進出した零戦隊も各所に散在して類焼を防止する騒ぎで、翌日の出撃が危ぶまれる状況であった。

我々が着水したとたん、追尾して来たかのようにB−17 7機が上空に襲いかかり、船団群を爆撃した。 数十隻の輸送船 (空船) がいたが被害は炎上の2隻にすぎず、幸運と言うべし。

零戦4機が迎撃に舞い上がったが及ぶべくもなし。 これが本当の戦場だなーとの感一入。

その夜は投錨のまま飛行艇内で一夜を過ごした。 もちろん食事はボイルした缶詰弁当。 深夜の洋上で翼上に集まり、南十字星のもと、燃え盛る陸上の火災と艇側を打つ波の音を見聞しながら明日への作戦を練った。


2月3日、暗黒の洋上で戦闘機隊の百雷の如き試運転の音に目を覚ました。

「さあ、今日はレスキューだ」

今までの偵察攻撃から考えるとちょっと気が抜けるが、大艇隊が救助態勢をしているとなれば、攻撃隊も精一杯活躍できるんだ。 頑張ってやるぞ。

パリックパパンからスラバヤまで約500浬、零戦隊としては余り余裕がない。 スラバヤ北方約40浬、カンゲヤン島 (Kangean Is.) の線にレスキュー網を張って待ち受けることにしていた。

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( 元画像 : 昭和17年版の海図 No.801 より )

0900 零戦59機が未だ燃え続けるパリックパパン飛行場から飛び立ち、ケンダリを出撃した中攻隊80機と合同して、堂々の編隊陣をはり、スラバヤに向かって一路南進した。

1100、大艇も本日の成功を祈りながらパリックパパンの波を蹴って出動、離水直後早くも敵の4発飛行艇に遭遇、これを急追したが、任務上深追いは止めた。

第一次スラバヤ空襲は見事に成功し、港湾施設、飛行場、市街地に甚大な打撃を与え、敵機127機を撃破炎上させた。

零戦4機が未帰還となったが、残念ながらレスキュー網には1機もかからなかった。 我々はそのままケンダリ基地に引き返した。

攻撃隊は帰途スラバヤ沖に米、濠、蘭、合同の大艦隊を発見していた。 写真解析の結果、米大巡 「ヒューストン」、「マーブルヘッド」、蘭印軽巡 「ジャバ」、「トロンプ」、「デロイト」 の他、濠駆逐艦8隻、計13隻からなる水上部隊がスラバヤ沖の島影に潜んでいたのである。
(続く)

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(注1) : 当時のケンダリ (Kendari) 水上基地については、その場所などの詳細は判りません。 ただし、“水路が東西に一本3000米とれるだけの湖水のようなところ” とされていることから、ケンダリ湾内のどこかであったことは間違いないところでしょう。


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( 元画像:1961年版の米軍地図より )

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( 画像 : Google Earth より )

(注2) : 本項で出てくるバリクパパン (Balikpapan) の飛行場の位置など正確なところは判りませんが、バリクパパン攻略後に本格設営された陸上基地はバリクパパン市街から東北東約18kmのところのマンガル (Manggar) とされていますので、ここのことかとも考えられます。

なお、マンガル飛行場はまだ1960年の米軍地図では記載されていますが、衛星写真で見る限り現在ではそれを窺わせるものは何も無いようです。


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( 元画像:1960年版の米軍地図より )

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( 元画像 : Google Earth より )


また、大戦中の同飛行場については、次のところをご参照下さい。



2013年03月19日

大空への追想 (82)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その6 ジャバ沖海空戦と夜間触接 (承前)

(2) ジャバ沖海戦夜間触接

敵大部隊発見により2月4日に計画された第二次スラバヤ空襲は、急遽艦船攻撃に変更された。

4日1200頃、この敵部隊をスラバヤ沖東方約200浬の洋上に捕捉し、中攻隊はこれを雷爆撃し、大巡、軽巡等約5隻を撃沈、残敵の撃破を夜間攻撃に期待することになった。

昼間索敵から帰ったのが1400、着水を待っていたかのように次の命令が届いた。

「 大艇は本日の夜間攻撃に備え、敵の印度洋脱出前にこれを捕捉触接せよ 」

人間には限度がある。 如何に大和魂を発揮しても4機4組の搭乗員が、自らも整備に参加しながら、ほとんど連日連夜満足な食事も摂らずの奮闘を続けて来たので、正直言ってふらふらであった。

しかし大艇による夜間触接こそ本来の使命である。 マレー沖海戦で中攻が触接した時、大艇隊は地団駄踏んで悔しがったのである。

「 好機到来 !! 俺が行く 」

クルーを叱咤して直ちに燃料補給にかかった。 本隊からの支援を求める暇がなかったのである。 かくして1530 再びケンダリを出発した。

「 今日こそ晴れの死所である。 この任務、飛行艇以外には出来ないんだ。 各配置で最善を尽くせ。」

機内のクルーも気を入れ替えて緊張した。

日没までに捕捉しない限り、印度洋に出られると敵の行動は全く自由になるので、なんとしてもスラバヤ海で抑える要があった。 1200 以後の動静が不明になっていたが、日没まで約3時間が勝負である。

こうなると賭けである。 敵はロンボク海峡を南下する公算が強いと判断し、索敵計画をかなぐり捨てて、巡航最大速 (と言っても160ノット) で同海峡に直行することにした。

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( 元画像 : 昭和17年版の海図 No.801 より )

フロレス海に出ると、敵のマカッサル増援部隊が我が艦爆隊の攻撃により敢えなく藻屑と消え、沈没の残骸が今なお炎上していた。 これに勇気づけられ、全速力で進撃した。

予想に反し天候は悪化している。 雲が低くなるばかり、これでは大部隊による攻撃は困難である。 気ばかり焦りながらとにかく先を急いだ。

ロンボク海峡両側の山々が宵闇迫る中にボーッと浮かび出して来た。 一切の灯火を消して低空に這った。 スラバヤには未だ敵のPBM(飛行艇)が残っているはずだ。 よしッ、航空灯を点けて欺いてやれ。

1930、既に日没は過ぎていた。 海峡に向けて突進すると僅かながら海面が明るくなった。 その瞬間

「 居たぞッ 」

私の眼に写る艦影8隻 ・・・・ まさに海峡の闇の中に消えようとしていた。

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( 原著より   著者のスケッチ )

「 電報打てッ 」

と叫んで、電文を口達した。

「 敵主力見ゆ、ロンボク海峡北口、針路180度、速力12ノット、我触接す 」

作戦特別緊急信が全海軍の耳を鋭くついた。

「 司令部了解ッ 」

跳ね返ってくる返事を聞いた時、これで死んでもよいと思った。

航空灯を消し、8の字運動、高度300米で触接を開始。 敵艦から発光信号が来た。 意味は分からんが味方識別だろう。 黙って雲中に隠れた。 あとは危ない、少し離れて覗き見る他ない。

「 艦影8隻、うち大型4隻、天候曇り、雲高300、視界2浬 」

と第二電を打電した。 出発時、夜間攻撃における天候の限界は十分説明されていたが、遥かに限度は越えていた。 月出は2145 だが、これでは攻撃の見込みはない。

執拗な触接を続けたが、海峡内には進入できず、2100 の艦位を報告したところ、

「 攻撃は明日に延期する。 帰投せよ。 」

の指令を受けた。 残念だが天候には勝てん。 悪運強い残存艦隊に未練を残しながら悪天候を突破し、5日0040 無事ケンダリに帰投した。

ケマ基地の本隊では、支隊の連日の奮闘が羨望の的になっていたが、夜間触接したという緊急信に深夜の基地は祝盃をあげて湧き立ったという。

翌早朝、伊東飛行長が一機を翔って駆けつけて来た。 居ても立っても居れず、

「 貴様一人で戦争をしてるじゃないか。 応援に来たんだ。 」

と嬉しい悲鳴をあげていた。

攻撃はできなかったが、敵主力触接という機会はなかなかないものであり、今回がマレー沖海戦以来2回目であった。

それにしてもこの4日間、連日連夜4機を全力運転しての奮闘は、戦争とはいうものの、まことに得難い貴重な体験であった。
(続く)

2013年03月21日

大空への追想 (83)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その7 米濠輸送船団昼間触接

二十一航戦の精鋭がスラバヤ方面で暴れている間に、既に蹴散らしておいたアンボン、ボルネオ、セレベスの要衝はほとんど占領しており、2月12日、大難関のシンガポール市内にも陸軍が突入していた。

ジャバ、スラバヤを含むスンダ列島は既に日本軍の攻撃圏内に入ったため、残るは大陸濠州が敵にとっては最大の基地となっていた。

この頃第一機動部隊 (空母部隊) が南下しており、二十一航戦はこれを支援するため2月10日アンボン基地に転進していた。 次の進出はチモール島である。

2月12日我がケンダリ派遣隊も久し振りにアンボンで本隊に合流した。 1ヶ月前奇襲を敢行した懐かしいアンボンに来てみると、濠州軍の立派な飛行艇基地 (注) があり、破壊されたと言うものの、臨時基地としての機能は十分残されていた。

格納庫、スベリ、宿舎がそのまま使用できた。 PBY 2機が破損したまま残されていたが、ボイコー照準器の戦利品があったことは痛快だった。

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( 米海軍飛行艇 PBY−3 Catalina )

こんな挿話がある。 箱詰のバター、チーズが山積みに残されており、住民とは塩1俵とフォード乗用車 (新車) 1台が友好的に交換できた。

士官の寝室には、各ベッドにダッチワイフがそれぞれ配されていたのには苦笑させられた。 兵隊さんがチーズを石鹸と思って洗濯に使ったが、一向に落ちないので首をかしげる等、海軍でさえ文明の差に驚いたものである。


米濠軍も濠州の安泰のためにはチモール島は重要な基地であり、ジャバ方面からの撤退路を防衛するためにも要衝である。 それだけに防御はまことに堅固なものがあった。

2月14日、「強力な米濠輸送船団が、チモール島防衛強化のため、近々にポートダーウィンを出港する模様である」 という軍令部情報が入電した。 そら来たぞッ ということで大艇隊は間髪をいれずチモール海方面に網を張った。

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( 元図 : 昭和16年版の海図No.838より )

2月15日、索敵機の二番機 (三浦機) が1030頃、ポートダーウィンの西100浬の洋上で西進中の敵輸送船団 (大巡1、軽巡2、駆逐艦3、輸送船4) を発見した。 情報的中、二十一航戦は翌朝の攻撃に備えて殺気立ったが、三浦機は 「敵戦闘機機と交戦中」 の緊急電を発したまま遂に還らなかった。

(原注) : 奇蹟の生還として後述するので、この未帰還機については記憶しておいていただきたい。 (この後日談は今日の話題社版にはありません。 お楽しみに。)

夜間触接に成功した実績で私は索敵隊指揮官を命ぜられ、残念ながら攻撃隊から除かれた。 部下の仇討ちだ、是非とも攻撃隊にと申し出たが、明日の成功の鍵は索敵隊が握っているんだとのことで、だめ。

「 それなら会敵の算最も大なる中央索敵線を俺にくれ 」

ということで、2月16日、0300 アンボンの海を先頭で発進した。 2時間後には大攻撃隊が後続してくる。

「今日は死んでも捕捉する。 三浦機の弔い合戦だ。 燃料が切れるまで食いついて離さん覚悟だから、腹を決めておけ。」

クルーも決死の気迫を漲らせていた。

東の空が白みかけてくると、南国特有の断雲が美しく艇体を撫でながら流れてゆくのが目に滲みる。 高度4000米、断雲の上に出た。 すっかり明けはなれたアラフラ海の海が雲間に広がっている。 チモール島が眼下に見えて来た。

歴戦の海鷲には会敵の兆候が必ず閃くものである。 いろいろと考えてみた。 敵は昨日既に発見されている。 引き返すか、強行するか。 戦闘機の行動圏外だが、チモール強化が一日遅れると我が方の上陸 (落下傘部隊) の方が早くなる。 必ず強行するはずだ。

自然見張りの眼光が鋭くなる。
(続く)

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(注) : アンボンの水上機基地は、アンボン湾の奥のハロン (Halong) というところにあり、開戦時にはオーストラリア海軍及び米海軍のPBYがいたようです。


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( 元画像 : 1958年の米軍地図より )


現在ではインドネシア海軍基地となっており、滑りが残っているようですが、使用されているのかどうかなどは判りません。


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( 元画像 : Google Earth より)

2013年03月25日

大空への追想 (84)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その7 米濠輸送船団昼間触接 (承前)

0830、ふと左に目が向いた。

「 居たぞッ 」

誰も気づかん間に、私は雲間から一条の白波を発見した。 パワーを絞って雲下に出ると、まさしく船団だ。 昨日の報告どおりの輸送船団が全速で突進している。 反射的に再び雲上に出た。 作戦特別緊急信だ。

「 敵輸送船団見ゆ、チモール島の南東250浬、針路290度、速力15節、我触接す 」

数秒を経ずして、基地よりも先に攻撃隊の指揮官機が了解した。 思わず万歳を叫ぶ。 さあ今日こそこっちのもの。 一旦視界外に去った。 15分ごとに異方向から覗く。

ふと見ると3000米上空にPBM 3機が上空哨戒している。 そんならこっちは海面を這ってやる。 高度200米、約2000米の距離で、動静観測。 同じ飛行艇なので敵さん安心している。 味方だと思っている。 一向に射って来ない。

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( 米海軍飛行艇 PBM−1 Mariner )

攻撃隊は恐らく全速力で馳せ参じておることだろう。 時々針路、速力を通報しながら正確な位置を捉えて通報した。 PBM 3機の哨戒機がいることも了解した。

艦型表と比較してゆっくり識別する余裕が出た。 大巡は 「ヒューストン」 型確実。

1000、敵の上空3000に黒点約36、戦闘機ッ !! 思わず背すじがぞーッとする。

よく見ると違う。 高角砲の弾着である。 その前方に大艇9機編隊が先陣を切ってやって来たのだ。

「敵見ゆ」 攻撃隊から無電が来た。 もう安心だ。 かくなる上は戦果偵察だ。 敵は雷撃を警戒しているだろうから、なるべく艦尾に回るように行動した。

大艇の弾着、二十五番36発が凄まじい水柱をたてたが、輸送船に至近弾で終わる。 「早く逃げろ、落ちるなッ」 思わず心の中で叫んだ。 遅い、今にも何機かがやられるような気がする。

いよいよ中攻隊の到着、6波が三方から攻撃に入った。 魚雷があったら単幾で雷撃してやりたかった。

艦名を読んでやれーとばかり、大巡の後方1000米まで接近した。 目の前に大水柱、主砲で応戦して来た。 これにはたまらん、雲中に逃げる。 黙っておれない。

「 敵の高角砲一斉射36発 」

と打電した。 私としては防御砲火熾烈注意しろよの意味で、後続機に知らせたかったためである。

1030 から30分間に二十五番250発を叩き込んだ。 輸送船4隻は火災又は沈没、大巡どもは小破のまま、輸送船をやり放してポートダーウィンに逃げ失せたのである。 しかしこの3日後には、第一機動部隊のポートダーウィン大空襲をうけて消滅した。

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( 原著より  我の爆撃を受ける敵輸送船団 )

この日の攻撃は、連合軍のチモール増強の企図を粉砕したことにより、爾後の戦局を有利に導いたことは言うまでもない。 我が方の損害は皆無であった。

この攻撃の勝因は大艇の触接成功にあったとして司令部から激賞されたのであるが、「敵の高角砲一斉射36発」 の電文を巡って、あれはまさに名文であり攻撃隊の運動に大きな効果をもたらしたという反面、攻撃隊の士気を阻喪する等とこの一文を巡り大分話題が弾んだものである。

しかし当の本人には夜間触接に続いて昼間触接の機会に恵まれ、全軍に作戦特別緊急信を2回も打ち込めた感激だけが今でも忘れ得ない思い出となって残されている。
(続く)


2013年03月27日

大空への追想 (85)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その8 恐怖 !! 零戦隊の猛襲、PBM隊潰減す

2月16日のチモール海々戦、引き続き決行されたポートダーウィンの大空襲により、濠州を基地とする連合軍のジャバ方面反撃の計画は大打撃を受けることになった。

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( 原著より  昭和17年2月19日のポートダーウィン空襲 )

我が軍はこの好機を捉え、2月20日には海軍落下傘部隊が空からの奇襲をやめてチモール島上陸に成功した。 これに相前後して、2月15日シンガポールが陥落、16日には陸軍落下傘部隊がスマトラ島パレンバン飛行場を占領して、スンダ列島線の攻略は一応形成できた。

2月25日、二十一航戦はアンボン基地から、一斉にチモール島に転進した。 大艇基地はクーパン (注1) である。

この基地はお世辞にも良好等と褒められるものではなかった。 水が無く、しばらくの間は海水で顔を洗い、海水で飯を炊いていた。

雨が降らず、サボテンの山が続いており、空襲もまたゲリラ的のものではあるが、夜間に多く、ほとんど安眠ができない。

その他にも強敵がいた。 サソリ、ムカデの来襲、さらに空襲避退時爆撃にやられるよりも、サボテン山で転んでの負傷に悩まされたものである。


3月1日からいよいよジャバ掃討戦が開始されることになり、東印度洋の索敵が重視された。 ジャバ方面からの敵の退路は濠州に求める以外になく、これを叩くのがチモール基地の二十一航戦の使命であった。

連日の偵察の結果、ポートダーウィンの後方基地として濠州北西岸のブルーム (注2) が浮かび上がってきた。 どうやら、B−17の秘密基地であるとともに、その港湾が飛行艇基地を形成していることが判明した。

ジャバ方面には未だ米軍飛行艇部隊が活躍していたが、これらは必ず近々のうちに濠州方面に撤退することが予想されていた。

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( 元画像 : 昭和17年版の海図 No.801 より )

3月3日、チモール島の飛行場が整備されるのを待って、三空の零戦隊12機と、大艇3機がブルームの初空襲を試みた。

ブルームまで530浬、零戦はブルーム上空で15分間の余裕しかない。 そこで、スラバヤ空襲の体験を生かし、大艇2機がチモール島南方の環礁地帯にレスキュー体制を敷き、1機をブルーム付近の天侯偵察に配備することにした。

宮野大尉 (善次郎、兵65期) の指揮する零戦隊が0600 発進、長駆ブルームに殴り込みをかけた。 私は成功を祈りながらレスキューを担当することにした。

天我に恵みす。 ジャバのPBM隊22機が、我が方の計画も知らず丁度撤退して来たのである。

0930 ほッとしたようにPBMは次々とブルームに着水した。 すべてがブイ係留である。 その5分後に零戦隊が悪魔のように襲いかかったのだからたまらない。 まさに疾風迅雷、飛燕のように、これらPBMに飛びかかっていった。

水上滑走中のもの、ブイから逃れようとするもの、水中に飛び込む搭乗員、ものの数分を経ずして、機体人員もろとも血祭りにあげてしまったのである。

沖合からこの壮観?を眺めていた我が大艇搭乗員達は、海上で奇襲をうけたPBM隊の悲壮な最期を身につまされる思いで合掌したと聞いている。

零戦隊は勢いに乗じて、隣接する陸上飛行場に進入し、駐機されていたB−17 6機を道連れにし、合計28機を遺滅するという大戦果をあげ、一機の損失もなく無事帰還したのである。

12機をもって大型機28機を叩き潰したということは、タイミングがよく相手が地上にあったことにはかならないが、我が方にすれば幸運の一語につきる。 PBM隊にすれば地上最大の悲運であり、我が大艇隊もいつの日か彼らの二の舞を踏む時が来るものと、戦果の陰で胸を痛めたものである。

この5か月後、横浜航空隊がソロモンのツラギにおいて遂に悲運に泣いたのであるが ・・・・
(続く)

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(注1) : チモール島クーパン (Kupang) の水上機基地については、その位置も含めて詳しいことは判りません。 1961年の米軍地図でクーパン周辺に記載されている3箇所の水上機基地のうち青丸のものが当時のところと思われますが、現在の衛星写真ではそれらしいところは見当たりません。

また陸上基地は、1961年の米軍地図で赤丸で示す非常用滑走路のところと思われますが、ここも現在の衛星写真で見る限りは市街地のただ中になってしまっています。


AB_Kupang_map_1961_01_m.jpg
( 元画像 : 1961年版の米軍地図より )

Kupang_sat_h25_01_m.jpg
( 画像 : Google Earth より )


(注2) : ブルーム (Broome) は、ポートダーウィンから南西約1100kmにあるところで、ローバック湾 (Roebuck Bay) の北側に面した半島にあり、戦前から真珠養殖が盛んなところで知られていますが、周囲は現在でも荒涼たる原野に囲まれたところです。


Broome_map_1970_s.jpg
( 元画像 : 1970年版の豪州軍地図より )

Broome_sat_h25_01_m.jpg
( 元画像 : Google Earth より )


なお、陸上基地は現在はブルーム国際空港となっており、秘境巡りなどの観光客で賑わうところです。


Broome_sat_h25_02_m.jpg
( 画像 : Google Earth より )

2013年03月29日

大空への追想 (86)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その9 ハワイ第二次攻撃

16年12月8日開戦第一撃のハワイ攻撃は空前の出来事であり、今や全世界に知れ渡っているが、その3か月後の17年3月4日に行われた二式大艇2機によるハワイ第二次攻撃に関しては、ごく一部のものにしか知られていない。

総航程約4千浬を飛翔して、大艇2機がなんらの護衛も受けず丸裸で、真珠湾を攻撃して帰還したという事実は数多くの教訓を産んでいる。 少なくとも航空部隊に生を受けている者ならば、この事実を頭の中に叩き込んでおいてもらいたいと思う。

第二次攻撃の計画実施者、橋爪寿夫大尉 (海兵60期) とはどんな人であったのかを知る必要がある。


(1) 橋爪大尉の人となり

一言で言うならば、飛行機乗りらしからぬ紳士であり、まさに海軍士官の模範的人物である。 飛行学生を恩賜で卒業した秀才であり、飛行艇運用に関しては海軍の権威者でもあった。

私が最初に接したのは昭和12年、候補生の航空実習時の指揮官をされていた時である。 その後16年に私が飛行艇に転向し、東港空に着任前、本隊が南洋行動中のため横浜空で待機中、新人操繰士官一同は合同で橋爪大尉の指導を受けることになった。 私にとってはこれが、私の飛行艇運用の基礎を築く重要な出発点となったのである。

当時飛行艇操縦に関しては、空技廠方式と、橋爪方式の二方式があった。 もちろん私は橋爪方式で、着実な理論的な離着水法を身につけたのである。

橋爪大尉は当初 「神川丸」 飛行士として支那事変に活躍し、艦長有馬大佐 (後の特攻提督) (正文、兵43期) の下に勤務していたが、その後両者とも揃って横浜航空隊に転勤し、飛行艇乗りとなられたのである。

昭和15年頃から、橋爪大尉は有馬司令の特別許可をうけ実戦的な訓練を続行していた。 訓練飛行中といえども、ちょっとした離島があると予報もなく島陰に着水をしたり、外洋離着水を試みる等積極的に行動し、対潜訓練時は、引き続き潜水艦相手に洋上燃料補給訓練の実施、食料を艦船から支給をうけて長時間の耐久訓練 (30時間) をやるのが常道であった。 しかもこの間克明に記録をとってその後の研究資料としていたのである。

一方、長距離行動においては飛行艇の天測航法は有名であるが、橋爪大尉は常に、指揮官、操縦員、偵察員の3名一組の同時天測で機位の精度向上に心掛けていた。

常人ではまねの出来ない努力を続ける一方、15年の夏にはわずかな休暇を利用して健全な盲腸を切りとって不安を除去し、南洋行動に万全を期する等、飛行艇の運用に関しては身命を賭して取り組んでおられたのである。 この辺に飛行艇乗りとしては大いに学ぶべきところがあると思う。

16年に二式大艇が誕生すると、当然のことながら選ばれて横須賀航空隊分隊長となり、ひたすら性能実験に専念し、海軍から大きな期待をかけられたのである。
(続く)

2013年04月01日

大空への追想 (87)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その9 ハワイ第二次攻撃 (承前)

(2) 第二次ハワイ攻撃

橋爪大尉は実験が進むにつれ、二式大艇の優秀な性能を掴み、二式大艇ならではできない作戦をと、密かに腹案を練っていたのである。

米軍は真珠湾の奇襲をうけて以来、“真珠湾を忘れるな” とのスローガンのもと、反攻に躍起となり、真珠湾の機能復旧に全力を傾注していた。 当時我が機動部隊は南方海域を行動中であり、米軍はハワイ再来襲等予想もせず、灯火管制もなく、昼夜兼行で復旧作業を続けていた。

我が中央部においては、二式大艇の出現により、この際、ハワイ復旧作業の妨害と後方撹乱を狙い、その長大な航続力を活用してゲリラ的に偵察攻撃をしたらどうかという意見があった。

橋爪大尉の意見具申は、まさに適中していたのである。 氏は、二式大艇が出現する前からのその特色ある訓練振りが示しているように、大作戦を考えていたに違いなく、二式大艇の出現によりその可能性が濃厚となって来たに過ぎないのである。

橋爪大尉は横空で多忙な実験を続けながら計画を練ってみた。 概略次のようなものである。

飛行機隊は実験中のクルーと機材を使う。 2機をもってマーシャル群島の基地に進出する。 帰りを考え、往路フレンチフリゲート環礁で潜水艦から燃料を補給、満タンにする。 ハワイ上空は2100 頃とし、偵察が主だが、ついでに二百五十瓩4発を携行し、工廠地帯を爆撃し、そのままマーシャルの基地に直行する。 準備期間は少なくとも1か月、マーシャル群島において洋上補給訓練、ハワイ情報の入手に務める。

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( 前出 「太平洋戦争における飛行艇隊の転進図」 より部分 )


さて当時横浜空は南洋群島の基地に展開しており、本部はヤルート (注1) にあり、ウォッゼ (注2) にも飛行隊の主力がいた。

Chart_Marshall_S16_No838_02_mod1.jpg
( マーシャル群島  元画像 : 昭和16年版の海図 No.838 より )

 私は東港空でジャバ、印度洋方面に作戦中であったが、二式大艇が誕生して実験を開始したことだけは知っていたが、橋爪大尉がこんな大作戦に挑もうとしていること等は全く知らなかった。 ごく一部の関係者しか分かっていなかったのである。 このころの秘密保持は全く完壁に近かった。

本計画は軍令部の認めるところとなり、17年2月19日、横空で実験中の二式大艇三号、五号機が実験クルーとともに密かにヤルートに進出して来た。

この隊は横浜航空隊に編入され、夜間洋上離着水、潜水艦による燃料補給訓練等、橋爪大尉指揮のもとに連日厳しい訓練が続けられた。

一方協力する潜水艦は、フレンチフリゲート、ハワイ方面の敵情、天候等の偵察情報を刻々流していた。 3月に入って間もなく、ハワイ真珠湾の偵察攻撃の命令が下された。 3月3日、既に大艇はウォッゼに進出し、スタンバイの情況になっていた。

潜水艦は5隻、イ15、イ19、イ25の3隻がフレンチフリゲートでの燃料補給、イ23が真珠湾付近の天候偵察、不時着に備えての救助及び給油、イ9がフレンチフリゲートの南西700浬 (M地点) における無線誘導の配備についた。
(続く)

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(注1) : ヤルートの水上機基地は、ヤルート環礁 (Jaluit Atoll) の中のエミディ島(Emidj Is.)にありました。 ヤルートは米軍のマーシャル諸島侵攻において直接の対象となかったことから、この水上機基地は終戦時にほぼそのままとなり、現在でも滑り跡などが残っているようです。



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( ヤルート環礁  元画像 : 1945年の英軍資料より )

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( ヤルート環礁  元画像 : Google Earth より )

AB_Jaluit_sat_h25_01_m.jpg
( 水上機基地跡  元画像 : Google Earth より )


(注2) : ウォッゼの水上機基地は、ウォッゼ環礁 (Wotje Atoll) の中のウォッゼ島にありました。 ウォッゼもヤルートと同様に米軍の直接侵攻の対象とならなかったために、隣接する陸上基地と共に終戦時にほぼそのままとなり、現在でも滑り跡などが残されているようです。 ただし、衛星写真に見られる陸上の建物などは何時のものかは判りません。 陸上基地も今では全く放置されているようです。


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( ウォッゼ環礁  元画像 : 1945年の英軍資料より )

AB_Wotje_sat_h25_04_m.jpg
( ウォッゼ環礁  元画像 : Google Earth より )

AB_Wotje_sat_h25_02_m.jpg
( ウォッゼ島北部  元画像 : Google Earth より )

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( 水上機基地跡  元画像 : Google Earth より )

2013年04月03日

大空への追想 (88)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その9 ハワイ第二次攻撃 (承前)

(2) 第二次ハワイ攻撃 (承前) (注1)

3月3日夜、フレンチフリゲート環礁内の天候通報によると 「風速12米、波高1米以下、敵を見ず」 とのことで、決行に踏み切った。

2機は4日0025、勇躍ウォッゼ基地を発進した。 フレンチフリゲート (注2) まで1600浬を翔破し、環礁上空に達すると、計画どおり2隻の潜水艦が浮上した。 風は14米、波高約2.0米という悪条件であったが、この2機は練度十分無事着水できた。 時刻は1330を少し過ぎていた。

Map_French_Frigate_01_s.jpg
( 元画像 : 1971年版の米国地図より )

当時この潜水艦の航海長をしていた今井海将補 (元自衛艦隊司令部幕僚長) (梅一、兵67期) の話によると、潜水艦は搭載機水偵用の格納庫に燃料タソクを特設し、ポンプは使用せず、250気圧の圧搾空気を減圧して押し出す方式をとっていた。

ホースは軽い特製のものを潜水艦側から流して大艇に渡し、敵襲に備えて潜水艦は微速航行、大艇は4発ともスロー回転のまま追尾する形で燃料補給を開始した。 各機とも二百五十瓩爆弾4発を搭載しており、現在ならば保安上こんな危険な燃料補給は実施しないであろうが、戦争であり、保安は第二の問題であった。

それぞれ1万2千リットルずつ補給した。 すべての作業は1530 には完了した。 敵影も見ず、まず第一関門を突破したのである。

さて波高2.0米の条件下での超過荷重 (32トン) の離水は、二式大艇にとっては至難中の至難の技である。 しかし、橋爪大尉、笹生特務中尉といえば、当時の飛行艇パイロットとしては超ベテラン級の人物である。 加えて約一か月間にわたる外洋離着水の研究を続けていたのであるから自信満々なんら不安はなかった。 1558 至難の離水に成功、堂々と出発したのである。

潜水艦に別れを告げていよいよ敵の牙城ハワイに向かって進撃開始、480浬の航程であるが、超過荷重であり、極めて慎重にかつ余裕をとって行動した。

東進するにつれて雲が次第に増しており、完全に雲上飛行となった。 高度4500米、天測航法を実施しながら夜間飛行に入り、橋爪機 2040、笹生機は 2100、それぞれハワイ上空に達したが、残念ながら目指すハワイ軍港は1千米から2千米に及ぶ厚い雲に覆われて確認できなかった。

そのうち幸運にもわずかな雲の切れ間から、カナエ岬とヒッカム飛行場が確認できたのである。 これで機位を判定した後北方から爆撃針路に入った。 工廠地帯と思われる灯火と、熔接作業の火花を目標に、各機全弾を投下したが、すぐ雲に覆われて弾着は確認できなかった。 しかしながら第二次空襲の目的は十分果たし得たのである。

慌てたのは米軍である。 二式大艇が日本にあるとはつゆ知らず、不意の爆撃に機動部隊の再来襲と誤認し、直ちに灯火管制を布くとともに、高角砲、探照灯のめくら射ちが開始されたが、両機は悠々と西方の闇に消え去っていった。

日出後機内を点検すると、二番機は艇底に10糎×20糎の破孔が生じていた。 恐らくフレンチフリゲートの重量離水の際生じたものであろう。 機上で応急処置を構じ、5日0900 無事ウォッゼに帰還した。 発進後32時間である。

一方橋爪機の方は消息が絶えたため、基地では心配していたが、1000 ヤルートに無事帰還していた。 実は途中猛烈なスコール帯に遭遇したため、無視界飛行を続けて遅れたためであった。

この奇襲成功は、緻密な計画と、不断の猛訓練のもと、勇断決行がもたらしたものであるが、試作開始後わずか4年目の実験機であったのだから二式大艇の偉大さがよく分かる。

しかも護衛兵力とてもなく、大艇が丸裸でこともあろうに真珠湾に進入し、総航程約4千浬に及ぶ長距離行動を成し遂げたのである。 まず幸運というか、奇跡としか考えられない。

この快挙は、飛行艇部隊はもちろんのこと、全海軍に対し偉大なる闘志と勇気を与えたものである。 しかし勝利に酔うてはならない。 勝って兜の緒を絞めよとは神の戒めである。

このあとに悲劇が待ち受けていようとは夢にも考えられなかった。
(続く)

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( 注1) : 本項は今日の話題社版では大幅に加筆修正されていますが、原著のままとしております。 興味のある方はそちらの方をもご参照下さい。


(注2) : フレンチ・フリゲート (French Frigate Shoals) は 「環礁、atoll」 ではなく 「洲、shoals」 といわれるように、単なる浅瀬の集まりであり、まあよくこんなところを見つけたものと思わされるところです。 衛星写真では北部のターン島 (Tern Is.) に滑走路が見えますが、今では使用されていないようです。


Chart_Frenchfrigate_S16_No838_02_mod2_s.jpg
( 元画像 : 昭和16年版海軍水路部の海図 No.838 より  赤丸のところにフレンチ・フリゲートの名の記載はありません )

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( 2006年版の米国地図より )

Frenchfrigate_sat_h25_01_s.jpg
( Google Earth より )

2013年04月05日

大空への追想 (89)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その10 橋爪大尉ミッドウェーに散る (注)

ハワイ第二次攻撃は見事に成功した。 米軍の油断を突いた奇襲であり、二式大艇の偉大なる航続力がものを言った実証でもある。

3月5日橋爪大尉は大任を果たして、ヤルートに帰還したが、すぐ本隊のいるウォッゼに移動した。 基地ではこの英雄を迎え、横井司令以下祝盃をあげて、その労をねぎらった。 ところがこの日の午後、軍令部から無情とも思われるような命令が届いた。

「 二式大艇2機をもって、ミッドウェー、ジョンストン両島の写真偵察を実施せよ 」

というのである。

柳の下の泥鰌を狙ったわけでもあるまいが、今にして考えると無謀としか思われない。 実動組はハワイを襲って今帰った二組しかなかったのである。 3か月後にミッドウェー攻略作戦が計画されていたにせよ、何故このように、火の中に飛び込む夏の虫のようなことを計画したのだろうか。 しかも現地の意向も確かめてはいなかったのだ。

ハワイ奇襲後、米軍は即時厳重な警戒態勢を布きハワイ周辺 (ミッドウェー、フレンチフリゲート) は蟻一匹這い込む隙もなかったはずである。 また当時米軍基地には対空レーダーが装備されていた。 無かったのは日本だけである。 二式大艇いかに優秀なりを言っても、見張力は目視だけに過ぎなかったのである。

ハワイ空襲後2日目にミッドウェーに再びこの大艇が進入できよう等とは誰もが考えられなかった。 司令以下激憤を懐いていたところ、この命令を聞いた橋爪大尉は、「命令が出た以上私が征く」 と完爾として受けて立ったのである。

当時浜空総務科員だった矢吹氏は当時の模様を次のように語ってくれた。

「 私は一主計兵であったが、作戦上止むを得なかったのであろうか、ハワイ攻撃の大任を果たし、基地全体が喜びにあふれたのも束の間、ミッドウェー偵察命令が出たのは帰還して間もなくであった。 同じような作戦が再度成功するのだろうか、敵も警戒を厳にするのは目に見えている。

私は秘かに冷水を浴びせられたような気がした。 それと言うのも基地の食糧事情の悪化と、デング熱の脅威、考えて見てもゾーッとするような情況を併せて、悲常に不安を感じたのは私だけではなかった。 横井司令以下全員が再出撃に不安を感じとっていたはずである。 しかし橋爪大尉は横綱相撲のようにガッキとうけて立ったのである。 私はその時見た。 大尉の緊張した風貌の中にわずかに浮んだスマイルを ・・・・ 」

笹生中尉機は艇修理のため、少し時期が遅れたが、最も危険な、ミッドウェーを橋爪大尉が担当したことは言うまでもない。 今回は写真偵察が任務である。 昼間強行偵察以外には方法がないのである。

ハワイ攻撃は3日間の行動であったが、決行するまでの約3か月にわたる血の滲むような努力にクルーが疲れ切っていたことは相像に難くはない。 しかし橋爪大尉がこのくらいのことで弱気を起こす人でないことは誰もが知っていた。

直ちに準備が進められ、翌6日0100 (帰還した晩である) 基地総員の歓声に送られ、9名のクルーは再び敢然として暗闇の海を蹴ったのである。 これが橋爪大尉のこの世における最後の姿にになろうとはだれが考えたであろうか。

「命令だから俺が征く」 と言われた時に、恐らく死を覚悟されたはずである。 二式大艇の先駆者として後に続く我々搭乗員に対し、無言の激励を残し、「後を頼むぞ」 と心の中で叫びながら永遠の旅路に立たれたのである。 まことに悲壮な出来事であった。

ウォッゼ、ミッドウェー間は1200浬、片道7時間は要する。 幸いにも、ミッドウェー付近までは敵との遭遇はなかった。 しかしレーダーが待ち受けていたのである。

0800 頃、高度7千米、太陽を背にして全速力とし、飛行場上空を航過しながら写真偵察に移ろうとしたとき、既に上空で待機していた米軍戦闘機数機が襲いかかって来た。

大艇対戦闘機の空戦は、尋常では勝負にはならない。 ただ一つの活路は超低空で応戦するだけである。 7千米の高空の勝負は時間の問題である。 艇体下方から射ちあげられたら手の下し様がない。

橋爪大尉とて百も承知のはず。 写真偵察という任務上やむを得ず採った処置であるというよりも、初陣の功に酔って、その運用法を知らぬ輩に、身を以て警告したことだったのかも分からない。 「敵戦闘機見ゆ」 という悲壮な報告を最後に、遂に還らなかったのである。

二式大艇の華々しい初陣に溺れ、ただ性能のみを過信し、敵戦闘機に対しても、橋爪大尉ならばというわずかな勝率を神頼みとして、軍令部の打った大きな博打だったような気がしてならない。

海軍飛行艇隊を背負って立ったであろう橋爪大尉を、緒戦において死地に投入してしまったことは誠に残念でならない。 しかし大尉はなんら悔ゆることなく、日本の勝利を確信しながら完爾ととして靖国の御社に神鎮ったものと信じている。

当時浜空副官をされていた高橋主計大尉の話によると、ウォッゼ基地で橋爪大尉の遺品整理をした時、驚いたことに室内はきちんと整理され、なんら手をくだす必要もなく、遺品はそのまま遺族に送られるようにできていたと言う。 大尉はハワイ攻撃出発時既に、かくあるべきことを見抜いておられたのであろう。
(続く)

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(注) : 本項は今日の話題社版では大幅に加筆修正されていますが、原著のままとしております。 興味のある方はそちらの方をもご参照下さい。


2013年04月10日

大空への追想 (90)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その11 ビールの山、ここ掘れワンワン

血生臭い激戦の話を少し続けすぎたので、この辺で戦場らしからぬ息抜きを一件ご披露しよう。

紙一重生死の境を彷徨う戦場にも、一掴みのユーモアは探せばあるものである。 特に大艇のように長距離族ともなれば、一千浬先の洋上遥かな戦場で死闘を演じていても、帰還する基地は、これでも戦争かと思われるような平和な一時を過ごせることがあるものだ。

昭和17年3月24日、東港空は、支隊を印度洋のど真ん中アンダマンの孤島に先発させ、印度方面作戦を実施しながら、本隊はチモール島方面での作戦を一段落後、ジャバ島バタビヤ基地 (注) に転進した。

アンダマン進出の中途において、クリスマス島の攻略戦支援のため、占領直後のバダビヤを基地として約一週間道草を食うことになった。

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( 昭和16年版海軍水路部の海図 No.838 より )

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( クリスマス島  Google Earth より )

クリスマス島はジャバ南方の小島だが、燐鉱石の豊富なことで有名なところで、この小島を占領し採掘権を確保することが作戦の目的であり、海上からの阻止兵力を制圧するのが大艇隊の任務であった。

連日連夜の空襲で安眠もできなかったチモール島から離れ、久し振りにジャバに来てみるとまるで内地にでも帰ったような気がした。

バタビヤ一帯は陸軍の管轄下にあり、大艇基地となったヨットハーバー付近は、ジャバ族の別荘地帯、瀟洒な住宅が点在していたが、これらが全部陸軍の兵舎になっており、およそふさわしからぬドタ靴の兵隊が住んでいた。

一方ヨットクラブの中の我々は、作戦室も司令以下の寝室も一緒で、仮製ベッドにもぐり、野外烹炊という陸軍とは対称的な生活であった。

バタビヤ到着時、私は港湾地区の写真偵察を実施しておいたが、この写真をつぶさに調査したところ大ビール会社の倉庫跡が目についた。 一棟ほぼ無傷だが、他の一棟は完全に焼失していた。 私が目をつけたのは、この焼失した倉庫である。 一人ほくそ笑みながら腹案を練っていた。

バタビヤ進出に際し、食糧は陸軍管理部からの支給、燃料は差し当り進駐している陸軍戦闘機隊から補給することになっていた。 早速折衝を開始して見ると、陸軍は喜んで応じてくれたものの、先ず燃料が大艇六機で一機当たり一回1万6千立(ドラム缶80本)だと言ったところ、戦闘機隊は腰を抜かして驚いた。

「 そんな要求に応じたら、戦闘機隊は明日から開店休業です。 現在手持ちはドラム缶60本しかありませんよ。」

というのである。 やむなく駆逐艦2隻が、燃料廠から直接輸送することになった。

食糧はなんとかなったものの、陸軍がビール会社を抑えていることを知っているので、「飲物を少々」 と要求したところ、慇懃無礼に断わられた。

「 それでは焼跡を探して、発見したものは宜しいですね。」

と念を押すと、「どうぞ御遠慮なく」 との返事である。 私は早速掌衣糧長を呼んで、研究の結果から名案を授けた。

ダバオの空襲で体験したのだが、南方のビール会社の倉庫は地下室がある。 爆撃で地上は木ッ葉みじんに吹き飛んでしまうが、地下室には必ず埋もれて残っている。 私は斥候を出して調査させた。 すると、やはり無傷な方の大倉庫には、ビールが一杯詰まっており、陸軍が鉄条網を張り巡らせて番兵まで立てているが、隣りの焼け跡は放置されている。 片隅をちょっと掘ってみると、確かに埋まっていることが確認された。

そこで私は早速司令に許可を得て、ビール捕獲作戦を計画した。 総員集合を命じ、こんこんと説明した。 戦闘開始まで2日間の余裕がある。 まさに全軍の士気をあげるには絶好のチャンスである。

使える車両や舟艇を総動員した。 こういうことになると兵隊さん達の方が知恵が働らく。 大八車からもっこまで繰り出した。 海軍では兎狩り作戦はよくやるが、「ビール掘出し作戦」 なんて聞いたこともない。

驚いたのは陸軍側である。 海軍部隊が異様な資材を揃えて焼跡整理作業を始めたというので、何とまあ、殊勝なことをと感心していた。

作戦は見事に成功、出るわ、出るわ、そこ掘れワンワン、ここ掘れワンワン、ビール、ウィスキー、ジン、約4時間の作業で集めたビールが1万5千本、陸と海から、ワッショィ、ワッショイと大戦果の山が続く。 たちまち急造の主計科倉庫はあふれ出して野積みまでする騒ぎ、各隊舎まで持ち込んで何とかおさまった。

陸軍は地団駄踏んで悔やんだものの、あとの祭り。 こんなことなら最初から海軍に分けてくれればよかったんだ、そうすればこちらは焼跡の宝を教えてやったものを、身から出たサビだ。 お陰で駆逐艦や、アンダマン支隊にまで配分できた。

これから先一週間、野積みのビールを “ぎんばい” (銀蝿) する者さえなく、巡検に回ると兵隊さんはビール箱のかげで寝ているという前代未聞の光景を呈したものである。 索敵に出て機上食を開くと、

「 分隊長お茶をどうぞ 」

といって出てくるのがビールである。 ビール飲みながらの索敵飛行なんていうのは帝国海軍始まって以来の出来事だろう。

あとにも先にもこんな天国生活はバタビヤだけだった。 事前偵察まさに殊勲抜群、飛行艇乗りらしい一幕であった。

弓は張りつめたままではいかんもの、汝苦しむべし必ずや天の恵みあらん。
(続く)

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(注) : バタビア (Batavia) はご承知のとおり現在のインドネシアの首都ジャカルタ (Jakarta) のオランダ植民地時代の名称ですが、本項の大艇基地となったヨットハーバー付近がどこであったのかなどについては判りません。 現在の衛星写真を見てもそれらしいところは見当たりません。


Batavia_map_1954_01_s.jpg
( 1954年版の米軍地図より )

Batavia_sat_h25_01_s.jpg
( Google Earth より )

2013年04月19日

大空への追想 (91)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その12 アンダマン基地の悲劇  ある搭整員の壮烈なる戦死

「 空襲ッ !! 」

眠い目をこすって早朝の空気を吸いこみながら、体操でもやろうかと思っていた時である。 指揮所の見張りから、鋭い声が響いて来た。

ずんぐりとしたロッキードハドソンが2機、超低空で突ッ込んで来たのである。 英国のマークがはっきりと目に滲みた。

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( Lockheed Hudson Mk.V )

バタビヤの天国生活も束の間、17年4月9日には東港空は全力がアンダマンの孤島に進出していた。 既に支隊はインド洋の索敵、インド東岸の夜間爆撃に活躍していた。 アメリカ相手の戦争から、英国との戦いに変わっていたのである。

第一機動部隊は、コロンボ、ツリンコマリ方面を空襲し、英空母 「ハーミス」 をはじめ、大巡、輸送船、航空機等、大量を叩き潰し大戦果をあげていた。

しかし英空軍はビルマ方面、アキャブ基地 (注1) からここアンダマン方面に対して執拗なゲリラ攻撃をかけて来たのである。

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( 昭和19年版海軍水路部海図 No.840 より )

アンダマン、ポートブレア基地 (注2)、印度洋のど真ん中にある殺風景な島である。 東洋一の大監獄があったが、日本はここの囚人を解放して基地造りに使っていた。 いまだに人喰人種がいた。 襲われた例はなかったが、まことに不気味なところである。

4月13日早朝、基地進出後初めての空襲である。 島の山間を縫って、ロッキードハドソンが2機いきなり係留飛行艇に襲いかかって来たのである。

ブイ係留中の飛行艇は銃撃にはまことに弱い。 24機中12機が被弾、1機が炎上沈没するという大被害を受けた。 幸い被弾機はいずれも水線上の小損で沈没は免れたが、こんな離島基地には護衛する艦艇もなければ、戦闘機もいない。 丸裸の飛行艇隊くらい危いものはない。

小さな牧場は突貫工事で飛行場の形が整ったので、差し当たり本日の空襲に鑑み、ニコバル基地の三空から九六戦3機が派遣された。

今度はやっつけてやるぞッ、いつでも来いと張り切っていたところ、4月18日、再びロッキードが味をしめて襲って来た。 九六戦が半裸体のパイロットの操縦でこれに襲いかかったが、撃墜するに至らず、敵は煙を吹きながら一撃のみで遁走していった。

しかしこの一撃は痛かった。 被害は前回にも増し、死傷3名、大艇2機が炎上沈没した。

この日は各機とも、出撃前の整備中で、炎上した1機は我が愛機である。 整備員達は、避退の暇もなく機銃配置について応戦したが、無念胴体タソクから火を発した。

これを消し止めたが、既に搭載載済みの爆弾が爆発したらお終いである。 このままでは危険と、待機中のゴム艇に移乗避退した。 九六戦を見て敵の先頭機は遁走したが、後続の二番機が襲って来た。 愛機は再び胴体タソクから火を吹き出した。 もはや望みなし。

「 早く離れろ !! 」

陸岸から大声で叫んだ時、ゴム艇に乗っていた和田一整曹が、ザンブとばかり飛び込んだ。

「 危ない、やめろ !! 」

の制止もきかず、彼は愛機に乗り込んだ。

「 消火装置を開いてくる 」

と叫んだまま艇内に姿を消した。

愛機は見る見るうちに猛煙を吹き出し、手のつけようもなかった。 整備員達は必死に叫び続けた。

「 和田兵曹、逃げろッ、危ない、早く出て来い 」

しかし和田兵曹は応じなかった。 燃えさかる愛機の艇内に炭酸ガスボンべを噴射させながら、単身で防火作業を続けていたのである。

まさに 「杉野はいずこ」 旅順口閉塞隊の場面を演出していた。 火勢は増すばかり、もはや脱出の術はなかった。 白いガスが焔に混じって噴き出すのが見られたが既に用をなさず、なんとか救い出そうとする整備員達の姿はまことに悲壮な光景であった。

間もなく愛機は大音響とともに爆発し、猛烈な火柱をあげて、瞬時に沈没してしまったのである。

和田兵曹は愛機に飛び込んだ時既に死を覚悟していたに違いない。 搭乗整備員として責任上何としても消火せねばならんという固い決意のもと、狭い艇内で必死の消火作業を続けながら遂に愛機と運命を共にしたのである。 まことに責任感溢れる壮烈な戦死であった。

その後アンダマン基地の防空施設も強化され、九六戦も零戦と交代した。 ロッキードの襲撃はその後も数回続いたが、被害はなく、敵を無傷で帰すこともなくなった。

17年4月29日天長の佳節。 大艇9機をもって、アキャブ基地の夜間爆撃を決行し、潜んでいたロッキード数機を血祭りにあげ、和田兵曹の霊を慰めることができた。

これ以来、アンダマンの空襲は完全に途絶えたのである。 和田兵曹が一身を投げ捨てて基地の安全を護り抜いたものとして深い感銘を与えたことはいうまでもない。
(続く)

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(注1) : 英軍のアキャブ基地 (Akyab Air Base) はビルマ (現在のミャンマー) のアキャブ (現在のシットウェ、Sittwe) 郊外にあり、現在では民間の 「シットウェ空港」 となっています。


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( 1954年版の米軍地図より  右側の記号は元水上機基地のミスのようです )

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( 現在のアキャブ周辺  画像 : Google Earth より )

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( 現在のシットウェ空港  画像 : Google Earth より )


(注2) : 本項に出てくるポートブレアの水上機基地についてはその位置も含め詳細は判りません。 陸上基地については現在では 「Veer Savarkar International Airport」 となっていますが、拡張整備されていますので当時の状況は判りません。


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( 1975年版の米軍地図より )

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( 現在のポートブレア周辺  画像 : Google Earth より )

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( 現在の Veer Savarkar International Airport  画像 : Google Earth より )


2013年04月23日

大空への追想 (92)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その13 北方作戦、マラリヤ、自殺決意

(1) 北方作戦準備

17年5月に入ると、東方海面における米軍の反抗が本格化して来た。

5月6日から3日間、サンゴ海海戦が勃発、我が空母 「祥鳳」 が撃沈された。 (日本海軍最初の空母喪失である) いよいよ戦局は厳しい情勢を迎え始めた。 海軍はミッドウェー攻略作戦の一環として、北方アリューシャン作戦に槍先を伸ばすことになった。

17年5月1日アンダマンに居た東港空に対し大艇六機を北方部隊に編入し、アリューシャン方面に転進命令が出た。 これにはさすがの我々も驚いた。 大艇といえば古くから南洋を巣にして育って来ており、最北端基地が横浜なのである。

防暑服一枚で戦ってきた飛行艇隊が、一躍極寒のアリューシャン転戦ともなれば、根本から装備を変えねばならんと考えたからである。 至上命令である以上、急がねばならない。

東港支隊は伊東副長を指揮官として、二個分隊精鋭クルーをもって編成された。私も分隊長の一人に選抜され、早速編成、移動計画、北方運用に関する研究が夜を日に継いで検討された。 とにかく一日も早く横浜基地に集結し、中央と折衝の要があった。

総員の見送りをうけ、5月10日アンダマンを出発、サイゴン、マニラ、東港、佐世保を経て5月16日、横浜基地に移動を完了したのである。 南洋育ちの我々には5月の関東はまだ寒かった。

移動の途中、これでは勝てんぞという感じが、ひしひしと身にしみたことを覚えている。

第一線部隊から見ると本土に近づくにつれて、軍隊の生活内容から違っていた。 サイゴン、マニラにおける堂々たる宿舎、美食。 台湾、本土に足を踏み入れると、これが戦時体制かと思うくらい平和 (それが束の間であったにせよ) であり、いろいろな装備の要求に対しても、軍需部等の窓口は平時と変わらず、戦場に飛び込んでゆく部隊を真剣に支援するという空気は感じられなかった。

「 国家の捨石たらんとする者は欲を出すな。 我々の死闘によって、内地が安泰なればもって冥すべし、とにかく作戦準備を急ごう。」

という伊東指揮官の言葉に励まされ東奔西走した。

人間の方は防寒具があれば何とかなるが、問題は飛行艇の耐寒装備である。 6〜7月ならば、アリューシャンといえどもさほど極寒とは言えない。

当時飛行艇の寒冷地運用の体験も少なく、特別の耐寒装備とてなかった。 特に機体の凍結防止等は考えていなかった。 エンジンオイルの暖房くらいが精一杯のところで、係留中の飛行機では、ある時間をおいて暖機試運転のため水上を走り回るか、熱いオイルを補給するくらい。

陸上係止の場合は特殊のエンジン防寒カバーを用いた。 夜間はこのカバーでナセルをすっぽり覆って地上までその裾を伸ばし、裾の中にレンタン火鉢を入れておいた。 早い話が、夜会服を着た婦人が股火鉢していると思えばよい。

差し当たり現在なら安全幹部から 「馬鹿野郎、火災のもとだッ」 と怒鳴りつけられるところだが、これで火災になった事例は皆無であった。

窮すれば通ず、緊急作戦のためには保安等構っておれず、人智の限りを尽くして任務達成を考えたものである。 整備員にしても、木下藤吉郎が信長の草覆を懐に入れて暖める方式で、我が身の苦労等は全く考えなかった。

かくして大艇隊は5月27日大湊に進出、以後状況を見て幌延に第一段の基地を設置する計画であった。

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( 前出 「太平洋戦争における転進図」 より部分 )

参考までに話しておきたいのは、アリューシャンの霧に対する運用法であるが、この辺の霧の特徴として、その上辺は割と低く、各島々の頭が霧の上に首を出すことが多い。

この頭の形状をスケッチや写真で熟知し、離着水は盲目の計器飛行、パイロットの名人芸に頼る以外にない。 特に着水は霧の中に突入前 「オト八」 (自操装置) を入れ、エレベーターのみを手動で残し、夜間着水法をつかった。 結構うまくいったようである。

今考えると航空安全無視、無謀操縦と言いたいが、やらねばならんのである。 戦争には一々文句をつけておれない。 勇断あるのみであった。

横浜では搭乗乗員にも適当に休暇が与えられ、私も久し振りに故郷 (筑波山の麓 ) に帰った。

支那事変以来の里帰りで、両親は幽霊帰還のように驚いていた。 二日間の故郷の味をかみしめて再び大任につくわけだが、ここに予想だにしない悲運が待っていたのである。
(続く)

2013年04月29日

大空への追想 (93)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その13 北方作戦、マラリヤ、自殺決意 (承前)

(2) マラリヤとの闘い

出動を3日後に控えた5月23日、私と近藤大尉 (潔、兵65期) の2名の分隊長と、貴島中尉 (不明) の3名が相前後して高熱に倒れてしまったのである。

原因不明のまま、40度近い高熱である。 早速横空の病室に入り、医官懸命の手当をうけたが 「過労による黄痘症状」 というだけでラチがあかず、東港寄航時の食物が怪しいということで腸チフスの疑い濃厚となった。 さあ大変、早速3名とも横須賀海軍病院の隔離病舎に叩き込まれてしまった。

横空司令以下首脳部は作戦に支障ありとして、真剣に心配され、伊東指揮官と海軍省人事局までが一緒に大騒ぎとなった。 飛行艇の士官は、それくらい少なかったのである。 事は重大である。

「飛行隊が大湊を出発するまでには、どんなことがあろうと、必らず駈けつけますから、それまでの間お許し下さい。」

と必死の懇願をした。

私の発病は故郷から帰る汽車の中である。 土浦駅から横浜駅まで歯を食いしばって頑張った。 余りの苦痛のため、横浜の行きつけの 「レス」 の玄関に転げ込んだまま、高熱で人事不省に陥ってしまった。

「レス」 のおやじが泡食った。 高熱に驚いたおやじに何やら名薬と称する凄く苦い汁を口中に流し込まれた。 気がつくと、どんぶり一杯のこの液体をとにかく飲めと言う。 必死に飲み込んだものだが、後でこれがみみずを煎じたものと知ってうんざりとしたが、翌朝不思議に熱が下がった。 そのまま横空病室に運ばれたのである。

明日は飛行隊が横浜を出発するという前日の26日、横病隔離病舎に入れられ、半ば諦めざるを得なかった。 熱が再び上がってきたが27日の海軍記念日に、

「 死んでもいいから俺を屋上に連れて行ってくれ。」

と頼んだが許されず。 更に、

「 まもなく東港飛行艇隊が、俺を残して構浜から出撃してゆくんだ。 せめて機影だけでもいいから見送りたい。 分隊長を残して出撃せねばならない部下の心情を察すると、じっとして居れないんだ。」

と言うと、さすがに担当衛生部長も感激したようで、

「 全力を尽くして治療にあたるよ。 暫く我慢して欲しい。 一日も早く前線に復帰できるよう努力する。」

付添の看護婦が涙を流しながら立っていたのだけは覚えている。 浜空から伊東指揮官の伝言が届いた。

「 一足先に一同元気一杯で出動する。 分隊長のクルーも何の心配もない。 早くよくなって追っかけて来い、待っているぞ。」

気ばかり焦るが、熱が高くなるとどうにもならなかった。 しかし遂に残されたんだと思うと本当に悲しかった。 病因がはっきりしないのが気になるが、伊東指揮官の言われたとおり、とにかく早くよくなることが先決だ。 自分自身に言い聞かせながらベッドに横たわる。

誰も居ない、ただ白い壁に取り囲まれている。 その壁の中にクルーの笑顔が浮かんでいた。
(続く)

2013年05月04日

大空への追想 (94)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その13 北方作戦、マラリヤ、自殺決意 (承前)

(3)自殺を決意

入院して最初の五日間は高熱にうなされていた。 夢に出てくるのは爆撃行ばかりである。 我がクルーが 「分隊長、早く早く」 と手を振っている。

「 俺は今まで病気をしたことがない。 負傷ならまだあきらめられる。 大事な出動前に何たる不覚。 白衣の勇士等とよく言われるが、何が白衣の勇士か、完全な落伍者だ。 三人の士官が一緒に倒れるとは一体どうしたのだろう。 伊東指揮官の心中を察すると、病院を抜け出してみようか、もし大艇隊の行動がつまずくようなことになったら、何と申しわけしょうか。」

悩みに悩んでは再び高熱で失神する。 これを何回か繰り返しながらも、ふと思いついたことがある。 そうだ、あのカバンの中に守り刀が入っている。 海兵入学の時に、叔母がくれたものだ。

昔、叔母が嫁ぐ時に、守り刀として短刀が一振り渡されたのである。 それを私にくれた。 あれ以来大切に短剣に仕込んで保管していた。 「自刃」 咄嗟に頭の中に閃いた。

「 自分の不始末から病魔に襲われ、大事な作戦に支障を与えた責任は許されない。 腹かき切ってお詫びする方法が残っていたんだ。」

実際にあの時そう考えたのである。 人は笑うであろう。 うまいことを書いていると言う人もあるだろう。 しかし、これは当時誰にも見せず秘しておいた私の日記から抜きとったものである。 本当に自殺しようと思ったのである。

そう考えた時に不思議に気持ちが落ち着いた。 頭も冴えてきた。 多分顔色もよかったのであろう。 看護婦が検温に来て、

「 平熱になりましたよ。 もう峠は越しましたよ。」

と喜んでくれた。

私は個室に入っていた。 入口には 「危険患者」 の赤札が出ていたのだと聞かせてくれた。

高熱がどんどんと上昇する反面、脈が逆に下がってゆくと言う。 私には医学的にそれが何を意味するのか分からないが、発狂の恐れがあった由、時々死ぬことを口走っていたと言う。 すべては熱の悪戯だったのだろう。 しかし腹かき切ってというのは熱のためではなかったはずだ。

この日大湊から再び指揮官の電報が届いた。 今もなお原文を覚えている。

「 涙を飲んで引き入れの手続きを了す。 あと米山、松本、一刻も早く快方に向かわれ、再会を楽しみに待つ。」

何回も読み直しながら、しばし滂沱たる感涙に咽んでいた。

衛生部長がやって来た。

「 三人ともきれいに三日熱マラリアの菌が出たよ。 もう安心だ。 あとは俺の言うとおりの療法に従ってくれ給え。 あと一か月で完全に治るよ。」

情勢は一転した。 人事局も病院の報告を受けて喜んでくれた由。 実は高熱の続いた頃、人事局から日辻大尉については特に注意して欲しいと某課員から依頼が来ていた由。

大切な人間だからと言う意味ではなかろう。 自殺を予想したというのも大袈裟だ。 結局はもう一度戦場に追い出さねばならんというのが真相だろう。 飛行艇は隊長級がほとんど戦死していたからである。

峠を越してからは、どんどん快方に向かっていった。 三日熱マラリヤと断定された以上隔離病舎にいる必要はない。 第一損だ。 この病舎には一切の慰問演芸もない。 見舞人の出入も許されない。

しかしここの婦長さん、上手いことを教えてくれた。 いわく、部長に対して最後までお世話になりたいと言いなさいと。

言われたとおりにしたところ部長感激、効果適面、以後隔離病室にありながら特別扱いとなり、殿様のような療養生活を送ることができた。

かくて6月24日退院、私個人としても波乱万丈の一か月の病院生活であった。

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( 原著より  横病隔離病棟医官、職員等 )

(続く)

2013年05月08日

大空への追想 (95)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その13 北方作戦、マラリヤ、自殺決意 (承前)

(4) 第一線離脱

人事局に出頭し早速退院の報告をするとともに、一刻も早く東港航空隊への復帰をお願いした。

「 気持ちは分かるが、開戦から連続戦地に勤務しており、これから先がまだまだ長いんだから、しばらく休養のつもりで、佐世保航空隊で後輩指導をやって欲しい。」

となだめられ、遂に第一線を去ることになった。

アンダマンを離れてからわずか7週間にすぎなかったが、この間に大金飛行隊長 (茂、兵57期) が戦死したのをはじめ、ミッドウェー海戦が悲劇の中に終わっていた。

損害については極秘のベールで覆われていたが、横病の一郭に続々と戦傷者が運ばれ、そのほとんどが火傷であることから相当の被害を推察することができた。

と同時にマラリア等で戦列を離れたことが無性に腹だたしく、思いはただ戦場に走るばかりで部下の身が案じられてならなかった。

貴島中尉のみがアリューシャンの支隊に復帰し、近藤分隊長も横空教官に転任して行った。

いらいらしながら、病後の身体に鞭打ちつつ、久し振りに佐世保空教官として飛行艇搭乗員の教育に取り組み、余暇を見つけては、飛行艇の索敵作業に関する実戦の記録をまとめながら、これを生きた教科書とするのがせめてもの生き甲斐であった。

17年8月に入ると、ソロモン方面の激戦の情報が続々と入って来た。 そのうち、横浜航空隊の全滅の悲報が伝わったのである。 もう居ても立ってもおられなかった。

東港航空隊がアリューシャンを撤退し、本隊と合流してソロモンに馳せ参じ、横浜空の弔い合戦に死闘を演じていること、私の後任に投入された同期の米山大尉 (茂、兵64期) も既にこの世を去ったこと、ただ一人退院後原隊に復帰した貴島中尉も靖国の社に旅立ってしまったこと等、相次ぐ悲報が胸をしめつけるばかりだったが、人事局は私との約束を忘れてはいなかった。

「 東港航空隊分隊長に任ず 」

辞令を握って勇躍ソロモンに馳せ参ずる日がやって来たのである。
(続く)

2013年05月14日

大空への追想 (96)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その14 悲聞 !! ミッドウェー海戦と二式大艇

ミッドウェー海戦、日本艦隊が心臓部に致命傷をうけ、敗戦への下り坂を辿る切っ掛けとなったことは否めない事実である。

『ミッドウェー』 という映画を見た人は記憶しているだろう。 山本長官に扮した三船敏郎が、ある場面で 「ここに二式大艇2機を配して ・・・・ 」 と語るところがあったが、戦史家の間でも、ミッドウェー海戦の成否を握っていたのは二式大艇であるという声がある。

すなわち17年5月下旬、ミッドウェー攻略戦発動直前の段階で、米機動部隊のハワイ所在の有無を掴むことがこの作戦の成否に極めて重要な意味をもっていたのである。 ご存知のとおり本海戦においては、戦闘酣になるまで、米機動部隊の動静を把握できなかったのである。

ミッドウェー攻略戦には、日本艦隊の全力が投入されていた。 空母の主力を含む第一機動部隊の他に、上陸部隊5千8百名を満載した輸送船団12隻を護衛するため36隻の護衛艦隊と、山本長官の直率する戦艦部隊が続いていた。 まさに天下分け目の出陣であったのだ。 この大部隊は5月27日の海軍記念日に内海の柱島沖を出撃していた。

これと日を同じくして、北方アリューシャン攻略のために別動隊の第二機動部隊を先頭に、上陸部隊を護衛する護衛部隊を併せ23隻の艦隊が北上を続けていたのである。 ミッドウェー攻略を目的としての関連作戦であったことはいうまでもない。

この二大作戦を構えて、旗艦 「大和」 艦上に立った山本長官が待ち焦がれていたのは、二式大艇によるハワイ偵察報告であったのだ。

既に説明したとおり、3月実施した二式大艇のハワイ第二次攻撃が成功し、図にのりすぎてミッドウェー強行偵察を敢行させた結果橋爪大尉を失ってしまったことは、飛行艇部隊にとってはまさに痛恨の一語に尽きるものがあった。

この大艇によるハワイ攻撃はゲリラ的にその後も続ける計画であったのだ。 第三次ハワイ偵察は、後方撹乱にあらず、ミッドウェー攻略戦の重要な事前偵察であり、米機動部隊の存在をつかむことが目的であった。

山本長官の計画では、5月31日午前零時、マーシャル群島の基地を発進し、ハワイ偵察後6月1日早朝ウォッゼに帰投させて報告させることになっていた。

この計画を実行すべく、二式大艇二機は5月下旬、ウォッゼ基地に進出していた。 今回の偵察行動については二十四航戦司令官後藤中将 (英次、兵37期) が自ら指揮するという大がかりのものであり、既に6隻の潜水艦が配備されていた。

3隻が補給のためフレンチフリゲート環礁に、ハワイ南西海域には誘導と不時着救助のために2隻、更にオアフ島南西部に気象通報のため1隻、こんな態勢を聞けば私ならずとも、いや応なしに決行しなければという闘志が湧いてくるだろう。

今にして思えば、大艇の行動が3月と全く同じ計画であったことが気になるところである。

“柳の下の泥鰌” の喩えどおり、米軍は3月の第二次攻撃以後、フレンチフリゲートの警戒を厳重にしていたことはいうまでもない。

5月30日、同環礁に潜入したイ号一二三潜水艦は、米艦2隻が警戒中なることを報じた。 そこで計画を一日延期したが、翌日は更に米軍飛行艇が来ていたのである。 ここに至ってはやむなし。 二式大艇によるハワイ偵察は遂に涙を呑んで中止せざるを得なかったのである。

一方米軍は日本のミッドウェー攻略の企図を察知していた。 スプルーアンスの率いる第16機動部隊とフレッチャーの第17機動部隊は既にハワイを出撃しており、日本軍の目をかすめることができれば、ミッドウェー北東方海域で待機し、日本艦隊を一挙に奇襲できる。 勝負我にありとして、自信満々であったという。
(続く)

2013年05月16日

大空への追想 (97)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その14 悲聞 !! ミッドウェー海戦と二式大艇 (承前)

ミッドウェー北東150浬に潜む米機動部隊を捕捉するためには、先陣を切っていた八戦隊の水偵を使用する以外にはなく、当時レーダーを持たない水偵では、ミッドウェー到着前にこれを捕捉することは不可能のはずである。

本海戦の敗因は、わが企図の事前漏洩にありとはいうものの、直接の敗因は、ミッドウェー北東海域に対する索敵網に穴が開いたことである、と思われる。

ハワイ偵察が不可能となった時、山本長官は既に第二の構えをたてていた。 長官の慧眼は、索敵の重点をミッドウェー北東海域に向けられていたのである。 艦載機では実施困難と見て、ウォッゼの二式大艇の航続力を期待していたのである。

決戦の時機は迫っていた。 この索敵の大任が大艇隊に下令されたのはいうまでもない。 マーシャル群島を基地とし、ミッドウェー北東部300浬圏内の索敵命令を受けた二式大艇は、勇躍してこの大任に赴いたのである。

この時既に神は日本に恵みせず、というよりも戦線の異常な拡大に対して警告を与えていたのかも分からない。 いかに長大な行動力を持つ二式大艇でも、この索敵完遂は尋常一様の手段では可能性がなかった。

二式大艇はウェーキ島に進出し、これを基点として行動することを計画した。 ウェーキ島は委任統治領ではなく、この時点では詳細な調査は行われていなかった。

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( 元画像 : 昭和16年版の海図No.838より )

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( Google Earth より  現在のウェーキ島 )

いざ進出してみると、燃料補給、支援整備が環礁内では十分できず、更に風向により、離水用長水路が求められなかったのである。 遂に二式大艇による索敵は悲涙を呑んで中止せざるを得なかった。

これらを考えてみると、まことに無念でならない。 もしもこの索敵が成功しておるならば、大艇は無事帰還できなかったとしても、ミッドウェー北東に敵ありの判断はつくはず、結果は機先を制し待たかも分からない。 あのような悲惨な結末にはならなかったであろう。 ミッドウェー敗戦の秘話として戦史家の間に今なお伝えられるのは当然である。

人命尊重か、任務達成か。 当時我々海鷲達には任務達成あるのみ、生死はすでに超越していたのである。

ハワイ特殊潜航艇の特攻に際し、帰還の方法のない限り許可しないとした山本長官の心情には敬服するが、当時の私としては、あの大事な場面に当たり、なぜ二式大艇に死所を与えてくれなかったのだろうかと悔やまれてならない。

ハワイ偵察にしても “柳の下の泥鰌” 的計画では成功するはずがないくらいのことは誰でも承知のはずである。 あれだけの潜水艦をこの作戦に投入するよりも、ウォッゼから飛行艇に直接行動を命じて、帰途潜水艦をならべて人命救助のみを考え、不時着させるべきであったと思う。

特に今回の索敵行においては、ウェーキから発進できたとしても、敵機動部隊の哨戒圏に飛び込んでゆく以上、生還は期し難かったであろう。

東港空司令三浦大佐が、

「 索敵機が敵を発見し、友軍に通報できた時こそ、まさに死所である。 攻撃機が敵艦に命中させた時となんら変わらない。」

とよく訓示されていたが、この言葉を金科玉条としていた私どもには、今回の行動がどうしても納得できなかった。

飛行艇隊の話であるが、なんと言っても、3月、橋爪大尉をミッドウェー上空で失ったことが尾をひいたと思われる。 もし大尉健在なりせば、今回の重大任務遂行は成功していたと思う。 運命と片づけるには余りにも無責任な言葉である。

現在 PS−1 の海上作戦における使命が云々されているが、海軍飛行艇 (特に二式大艇) には、大きな出番が存在していたことをミッドウェー海戦ではっきり読みとれたと私は信じている。
(続く)

2013年05月21日

大空への追想 (98)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その15 悲運 !! 横浜航空隊玉砕

大隊艇の変遷で既に述べたとおり、開戦を迎えたのが、横浜航空隊はヤルート、東港航空隊はパラオであった。 東港空は専ら洋上遠距離の哨戒であったが、横浜空は南洋群島内の基地を転戦し、開戦初頭からハウランド島、オーシャン島、ナウル等、日本の委任統治領外の離島の攻撃が多かった。

17年1月23日、日本軍のラボール上陸が成功するのを待ち、横浜空はラボールに進出した。

戦線が東、南、西と拡大されるに伴い、洋上哨戒網もますます広がってゆき、遠距離哨戒の兵力は大艇、中攻が主力となった。 ただし、中攻隊は攻撃が主であるため、洋上の遠距離哨戒は大艇に頼る場合が多かった。

横浜空のラボール転進により、手薄になった南洋群島方面は、新たに開設された十四空 (大艇) がこれを担当することになった。 南方は横浜空、東方は十四空、西方は東港空の手で哨戒面はがっちりと固められたのである。

17年4月頃から、米軍の本格的反攻がソロモソ群島方面を中心に顕著に現れて来た。

我が方は、ラボール占領後、ポートモレスビー攻略を目標としており、この前提として、ソロモン群島を制圧する要があった。 ソロモンの中心はガダルカナル島であり、これを占領して陸上基地をつくることが焦眉の急務であった。

ガダルカナルの北方フロリダ島ツラギは良好な水上基地 (注) であり、開戦前政庁が所在するとともに、濠州軍の飛行艇基地となっていた。

ガダルカナルの攻略後、横浜航空隊は水上戦闘機隊一隊を伴ってラボールから約4百浬も離れているツラギ基地に全力を集中した。 5月7、8日にかけて日米両機動部隊が本格的にぶつかり合ったサンゴ海々戦が勃発した。 ツラギには警備隊、浜空等総勢6百名が駐留し、大艇は東方4百浬圏の哨戒を開始していた。

東港空は当時インド洋アンダマン基地に転戦し、その支隊は北方アリューシャン作戦に派遣されていた。

8月6日ソロモン方面は天候不良のため、哨戒は中止され、二式大艇による久し振りの補給が行われ、基地は賑わっていた。 米機動部隊が、悪天候を冒し、ひそかに接近していることなど夢にも考えていなかったのである。

以下玉砕した横浜空の中で奇跡的に生き残った二名のうちの宮川氏 (50日間の苦闘の末、捕われの身となったのであるが) の追憶談の一部を引用させてもらう。

17年8月6日、賑やかな宴を終わっての寝入りばな 「整備隊総員起こし」 が下令された。 敵機動部隊の接近情報を入手したため、7日早朝からの哨戒は進出距離を600浬に伸ばす必要があり、直ちに燃料補給を開始することになったのである。

宮川氏 (当時整備兵長) は直ちに指揮所の見張員に配員された。 0400 「搭乗員整列」 が下会された。 係留中の大艇は10機、暗闇の中で6機に搭乗した搭乗員が洋上で試運転を開始したのが 0430頃であった。

「 空襲ッ !! 」

突然けたたましい声が陸戦隊本部から聞こえた。

B−17 の空襲は度々あったが、いずれも高々度からであった。 雲があるが高空には異常がない。 誤報ではないかと見張っていると、微かに白みかけた東方水平線上に点々と黒点が見え出した。

直ちに報告すると飛行長 (勝田中佐) が双眼鏡をとっていたが、「戦闘機、約10機 !! 」 直ちに洋上の各機に伝えるとともに、空襲警報が発令された。

あッという間に敵戦闘機は暖機中の大艇に襲いかかったのである。 我が零戦隊のブイン奇襲が逆に演じられたのである。 搭乗乗員達は必死に応戦したが、何の効果もない。

機上で倒れる者、海に飛び込む者、飛行艇は係留中のものも含めことごとく炎上爆発し、流れ出すガソリンで一面が火の海となる中で、10機の大艇は搭乗員もろとも全滅し、基地員の目の前でまことに悲惨な光景を現出したのである。
(続く)

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(注) : フロリダ島ツラギ (正確にはツラギ島 (Tulagi Is.) ) の水上機基地は現在でもその跡がそのまま残っていますが、これが何時の時代のもであるかなどの詳細は判りません。 また、本項当時の状況についても不明です。


Chart_Coral_Sea_S17_No801_L_01_mod1.jpg
( 昭和17年版の海図 No.801 よりツラギの位置関係 )

Tulagi_sat_h25_03_s.jpg
( Google Earth より  現在のフロリダ島 )

Tulagi_sat_h25_01_s.jpg
( Google Earth より  現在のツラギ水上機基地跡 )


平成25年5月28日追記 :

ツラギの水上機基地については、ツラギ島及びツラギ島の東にあるガブツ島 (Gavutu Is.) とタナンボゴ島 (Tanambogo) 両島の間の2ヶ所にありましたが、本項の横浜航空隊全滅時のには後者の方に基地を置いており、また旧海軍ではこちらを 「ツラギ水上機基地」 と称していたようです。

Tulagi_sat_h25_06_s.jpg
( 元画像 : Google Earth より  両者の位置関係 )

Tulagi_sat_h25_04_s.jpg
( Google Earth より  現在のガブツ島 (下) とタナンボゴ島 (上) )

Tulagi_sat_h25_05_s.jpg
( Google Earth より  現在の水上機基地跡 )

AB_Tulagi_photo_01_s.jpg
( 米軍公刊戦史より  旧海軍の残した位置図 )

2013年05月26日

大空への追想 (99)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その15 悲運 !! 横浜航空隊玉砕 (承前)

敵の第一波が引いたころ、敵の巡洋艦、駆逐艦が湾内に姿を現し、第二波の空襲と併せて猛烈な艦砲射撃を開始してきた。 遂に艦爆隊も来襲し、悪魔のような虚をつかれた攻撃下に晒された。

0900頃になると、約100隻に近い上陸用舟艇が接近して来た。

飛行幾を焼き尽くされた航空隊、それはまことに悲惨なものである。 わずかな武器と機上用の機銃をもって、陸戦隊とともに地形を利用し応戦するのが精一杯であった。

敵も慎重である。 日没が迫ると戦闘は小康状態に入ったので、手持ちのガソリンドラム缶を、敵の集中しそうな海岸に並べ、これに火をつけることにして待機した。

8日になると、敵は航空隊本部の300米手前まで接近して来た。 水陸両用戦車数台が突っ込んで来た。 隊員は素手でガソリン缶をぶっつけながら倒れていった。

一台の敵戦車上に勝田飛行長が馬乗りになって、拳銃を中に射ち込んでいるのが見えたが、間もなくその姿は消え去った。

1400頃から再び猛烈な艦砲射撃が開始され、敵の上陸軍も一段と増援されてきた。 素手での抗戦には限度があった。

我が方は死傷者の山が増える一方であり、全員玉砕を覚悟の死闘を演じたのであるが、8月9日の夜遅く、ツラギ基地は遂に敵手に落ちたのである。


この戦闘において横浜航空隊は、宮崎司令以下全員 (大艇隊350名、水戦隊60名) が3日間の激戦に勇戦奮闘を続けたが、2名を残し全滅したのである。 ラボールに残っていた飛行艇数機が難を免れたにすぎなかった。

なお7日、ツラギの攻撃とともにガダルカナル島が大挙襲撃され、ラボールの十一航空艦隊は全力をくり出して敵機動部隊を捕捉し、血生臭いソロモン海戦が展開されていた。

この手記にある宮川氏は、8日の戦闘で防空壕に閉じ込められたまま失神し、その後50日間を壕内で頑張り抜いたが捕らわれの身となり、ニュージーランドに送られて終戦後奇跡的に生還したのである。

かくして海軍飛行艇部隊のご本尊たる横浜航空隊は、開戦後わずかに7か月でソロモン海に消え去ったのである。

(原注) : 17年10月1日、横浜航空隊は横浜基地において再建され、八〇一空、詫間空と名称を変えながら終戦まで奮戦した。

本戦闘でも明らかなように、大艇隊の使用法は必ずしも当を得ていなかった。 長大な航続力を活用し、後方基地から作戦可能でありながら、常に最前線に配備され、基地警備能力としてはほとんど丸裸に近い状況であった。 緒戦の勝ち戦がもたらした防御に対する油断である。

大艇隊のツラギ進出後約1か月でガダルカナル島の陸上基地が使用可能の状態になったのであるが、米軍はこれを狙っていたかのように来襲して来たのである。 ガダル基地は日本が米国に進呈したような結果に終わってしまった。

この第一次来襲後約6か月間にわたり、この飛行場奪回を廻って血みどろの海空戦が続いたのであるが、18年2月遂に日本はこの島を放棄した。

しかしながらソロモン群島をめぐる日米の海空戦は、18年12月の第六次ブーゲンビル島沖航空戦まで死闘を続けたのである。 山本連合艦隊長官をはじめ幾多の陸海軍将兵を呑んだソロモンの海と空は、我々海軍航空部隊員の脳中からは永遠に消え去らないであろう。
(続く)