2014年07月27日

大空への追想 (186)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その2 名将寺内陸軍元帥と海軍大尉 (承前)

パーティー場に入って驚いた。 粗末な部屋ではあったが、陸軍佐官級がズラリ、民政部長官も含め威儀を正しており、中央に寺内元帥、左側に河辺中将、右側に “海軍最高指揮官” の名札のついた空席がある。

さては南西方面艦隊司令長官でもおいでになるのかと思っていると、元帥自ら立ち上がって、

「 よーッ、日辻君、君の席はここだよ。」

と招かれた。 陸軍大佐連中が大勢いる中で、一海軍大尉が元帥の横に座るなんて、まことに申し訳ないが元帥の指示だからやむを得ない。

寺内元帥の招宴とは言うものの、部隊の野戦料理と、現地製 “日本上等もち米酒”、総隊から持参したブドー酒が若干並んでいた。 実はこの地酒 “日本上等もち米酒” だが、馬鹿飲みでもしようものなら命取りになりかねないしろものである。(体験ずみ)

陸軍が灘からの召集兵を集め、現地に酒造工場を造って生産している酒なのである。 こうなると、日本のビールを飲んでいる海軍の有難さが身に滲みるとともに、陸軍に対して申し訳ない気がしてならなかった。

宴が酣になると、元帥は盛んに話しかけて来た。 “もち米酒” が少しまわって来たせいもあるが、私も大尉の分際をそっちのけにして騒ぎはじめた。 元帥と百年の知己のごとく話している私を見て陸軍側は、あの大尉は何者なんだろうと不思議そうに見つめていた。

元帥いわく、

「 日辻君、何か言いたいことはないか。 視察の時に参謀に言ったことはお世辞だろう。 何でもやってやるから遠慮なく申し出てくれ。」

そこで私は、

「 いや、あれは真実です。 海軍大尉の分際で、このような席で元帥と直接盃を汲み交わせるなんて無上の光栄です。 敢えて希望をと言われるなら、一生の思い出に、この手で元帥のツルツル頭を撫でてみたいということです。」

と答えた。 さあ、一同が驚いた。 どうなることか、河辺中将が大笑いして拍手した。

「 よーし分かった。 さあどーぞ。」

元帥は笑いながら頭を私の方に出して来た。 私は遠慮なく撫で回わした。

「 有難うございました。 一生忘れません。」

と、お礼をのべると、万座の拍手喝采が起こった。 海軍広しといえども一海軍大尉が寺内元帥の禿頭を撫で回したなど全く前代未聞のことだろう。

元帥いわく、

「 おい、今度は俺が頼みたいことがある。 日辻君、海軍には日本のビールがあるだろう。(元帥はそれを知っていた) この連中に一杯ずつ飲ましてやってくれんか。」

「 あー、これは失礼しました。 陸軍にもあるものと思って持参しませんでした。」

早速基地に電話して掌衣糧長をたたき起こした。 ツー、カーで話のわかる掌衣糧長は、

「 寺内元帥に差し上げるのは光栄のいたり、20箱も届けましょうか。」

民政部長官 (後の新潟大学学長) から声あり、

「 隊長、申し訳ない、民政部にもビールはないんです。 2ダースもあれば結構ですよ。」

早速基地から5箱 (20ダース) が届けられた。 元帥は大喜びで海軍からの寄贈を一同に告げられた。 今度は私が逆に崇め奉られた。 これで宴会はやり直し、盛大な陸海懇親会となった次第である。

明けて翌朝、昨夜の宴が祟って寝坊していると朝食だと起こされた。 食卓を見ると、ブドー酒が6本ずつ束になって飾ってある。 貼られている紙を見て驚いた。

『 寸志、陸軍南方方面軍総司令官寺内元帥、二十五軍司令官河辺中将 』

と達筆で書かれてあるではないか。 今朝早く陸軍副官が持参し、

「 元帥一行は早朝出発されたので、日辻大尉によろしく。」

と伝言して行ったと言う。

私はこの巡視により、陸軍上層部の礼儀正しい一面と、人間寺内元帥の一端を覗いたような気がする。 宴席ではあったがお別れする時、元帥は私にこういうことを言い残した。

「 日辻君、昭南に来た時は必ず俺の宿舎に訪ねてこいよ。 私が居る限り遠慮するな。 大いに歓迎するからね。 司令部副官に電話してくれれば迎えにゆくよ。」

あのビールが余程嬉しかったようだ。 元帥自身ではなく、部下達が久し振りに日本のビールを口にできたことをである。

しかし元帥との昭南の約束だけは残念ながら果たせなかった。 昭南の町に行ったものの、宮殿のような元英国総督官邸の奥に居られる元帥を正気で訪ねてゆく心臓は持ち合わせてなかったのである。

一部情報では、日本橋の美妓が軍属となって、官邸に勤務しているということであった。 私は是非とも確認したかったのであるが、私が虜になりかねない心配もあり、元帥の御好意は遂に受けずに終わった次第である。
(続く)

2014年07月24日

大空への追想 (185)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その2 名将寺内陸軍元帥と海軍大尉

東港空は、八五一航空隊と改名後、18年5月17日再度印度洋方面に転戦することになり、基地をスラバヤからスマトラ西岸シボルガ (注) に移動した。

ソロモソ方面の死闘に比較すると、身心の疲労の度合いには雲泥の差があった。 私はシボルガ派遣隊指揮官を命ぜられ、大艇12機を率いて進出した。

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( 原著より  シボルガ派遣隊の迷優達 (昭和18年) )

この方面には民政部と陸軍独立守備隊 (一個大隊)、海軍八五一空派遣隊の三者が駐留した。 ここにおいて私 (大尉) が海軍最高指揮官ということになっていた。

ここの独立守備隊は一風変わっていた。 いわば特殊な集団であった。 大隊長 (少佐)、中隊長 (大尉) ともに後備役 (予備役を終えた者が服した兵役) の人で、二人とも山下泰文大将と陸士同期生であった。

部隊の中堅幹部は、有名なテロ事件五・一五事件の民間側行動隊員の主流であり、事件後満州方面に追放され暗躍していたが、戦局の急迫に伴い、応召されたものである。

この独立守備隊は満州で活躍していたが、今回スマトラ方面に転戦して来たものであった。 一風変わった部隊だけに、その方面の話は実に興味があり、作戦の余暇をみては官舎を訪ねて、テロ事件の内容等について話を聞くのが楽しみであった。

18年6月28日、南方方面軍総司令官寺内元帥のシボルガ方面現地視察が行われた。 視察団は寺内元帥と、その指揮下にある二十五軍司令官河辺中将をはじめ各軍司令部の参謀たちで、いわば海軍ならば連合艦隊司令長官の巡視と同じ性質のものであった。

寺内元帥といえば、陸軍部内の大物であり、いろいろと逸話のあった人、温情あふれた将軍で俗に言うならば娑婆気のある陸軍元帥であった。

巡視の経路に海軍部隊内通過を特に私からお願いした。 陸海協力、手を握り合って仲よくやっていることを直接見てもらいたかったためである。 舟艇を出して、飛行艇係留状況を含み湾内も一周してもらった。

航空隊内にくると、元帥はわざわざ車を降りて整列した隊員の前に立ち、ニコニコしながら、「御苦労さん」 と一言、なかなか抜け目のない司令官ぶりを示された。

巡視終了後、総軍の先任参謀が独立守備隊長を連れて、わざわざ指揮所にやって来た。 何事かと思っていると、

「 元帥の命を受けて意見を聞きに来たのですが、元帥は先程の視察において、海軍側は陸軍に比べ隊舎や施設面で非常に狭苦しい思いをしているように感じられた。 必要ならば守備隊側をぐーッと絞って航空隊優先に便宜を図りたい。 何なりと遠慮なく申し出てほしいと言うことです。 それで隊長の意見を伺いに来た次第です。」

と言うのである。 私もこれには思わず感激した。 守備隊長は、私が何を言い出すだろうと、内心心配していた。

「 元帥の有難い御配慮に対し、深く感謝します。 私どもは海軍航空隊の習慣から現状のような施設を計画しているもので、何も不自由はありません。 当地の守備隊からは、公私ともに日頃から多大の支援協力を受けており、感謝している次第です。 自慢ではありませんが、当地の陸海軍くらい本当に手を握り合って作戦協力をしているところはないと信じております。 私も遠慮なく大隊長との間で調整してゆきますので、元帥には、その旨お伝え下さい。」

私とて多少のお世辞もあったが、真相を語った。 軍参謀は目を輝かせながら

「 あなたの言葉をきいて感激しました。 元帥もきっと喜ばれると思います。 今後ともできる限りのことはいたしますから遠慮なく申し出てください。」

帰る時に、老守備隊長は眼鏡をくもらせながら、私の手をしっかり握っていった。

守備隊本部では元帥に対する現状申告が行われ、スマトラ地区の連隊長等約十名が集まった。 何しろ南方方面最高指揮官に対する申告なので、陸軍側は威儀を正しての申告である。

私も海軍部隊代表として自ら進んで現状報告を申し出た。 陸軍側の終わるのを待って、海軍大尉の白服をつけて元帥の前に出た。 途端に元帥は

「 よーよーよー、まあかけ給え。」

これにはいささか迷ったが、作戦現状をきちんと説明した。 元帥は終始ニコニコしながら聞いてくれたが、

「 やあ、やあご苦労さま、寺内です。 海軍にはお世話になりっ放しです。 御奮闘祈ります。」

と握手を求められた。 これが寺内元帥か、陸軍にもこんな人がいたのだなー、と感慨ひとしお。

その晩元帥はシボルガ一泊となり、守備隊の作戦室で各指揮官以上の晩餐会があった。 元帥からの招待だと言って参謀が迎えに来てくれた。 防暑服のままということで、早速参上した。
(続く)

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(注) : シボルガの臨時水上機基地についてはその所在地も含めて不詳です。 ご存じの方がおられましたらご教示ください。


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( 元画像 : Google Earth より )

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( 元画像 : 1948年版の米軍地図より )

2014年07月21日

大空への追想 (184)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その1 海軍とユーモア (承前)

(6) 「我佐保世に入港す」

16年10月初旬、出動も近い頃、東港航空隊は編隊群の基地移動訓練を盛んに実施していた。

丁度私は第四分隊長であった。 第二飛行隊長米原少佐 (綱明、兵58期) 指揮のもとに九七式大艇12機が編隊のまま東港、佐世保間の移動訓練を実施した。

米原隊長は別名海軍法務少佐の異名を持っていた。 規則等に厳しい堅物だが、非常にユーモアに富んだ好人物であった。 米原式天測法を編み出した名士でもある。

東港を出発したのが0830、偏西風を利用して快翔を続け、1300には男女群島を通過した。

ところが九州西岸に入ると密雲に覆われ、やがて雨となり、雲下に出て海面を這いだしたが、大艇12機の編隊行動は広範囲に及ぶので全く油断ができない。 小隊ごとに分離すれば行動は楽になるのだが、米原隊長は編隊を解かなかった。

佐世保港外に達し、黒鳥は見えたが、向後岬 (現在の高後崎) から佐世保湾内は全く見えず、燃料は余裕があったが、こんな編隊でうろうろはできない。 思い余って黒島付近に着水し、水上で待機しようということになった。

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(原著より)

12機は小隊ごとに着水したが、天候は一向に回復の兆しがない。 かすかに向後岬の入口が雨の中に視認できた。

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( 佐世保港外より向後崎を望む 赤丸が旧信号所跡  S49年管理人撮影 )

米原隊長は水上滑走のまま佐世保湾内進入を決意し、自ら向後岬信号所に接近し、発光信号で連路のうえ、大艇12機の水道通過まで船舶の通航を停めてもらった。

隊長から電話で指令が出た。

「 ただ今から単縦陣となり距離100米を保ち、相互にオルジスで連絡のうえ霧中航行を続け、向後岬水道を経て佐世保航空隊に向かう。」

というのである。 隊長は艦隊長官のつもりだなー、と思いながら後に続いた。

大艇12機が1千米もの列をなしての水上滑走は盛観である。 向後岬信号所もこの例のない大艇隊の入港にびっくりしていた。

各機は偵察員を翼上に立たせて前後続機を視認しながら、速力10ノット、遠雷のような爆音を立てながら慎重に滑走を続け、無事向後岬を通過できた。 着水後1時間を要して何とか航空隊水域に到着、全機ブイをとって本当にホッとした。

さすがに飛行艇である。 飛行艇なればこそこんなことができる。 まさに飛行艇艦隊の入港である。 この時の着電がふるっていた。

「 1500 我大艇12機を率い、佐世保に入港す 」

とやった。

佐空司令は、初め飛行機の着電にこんな文句はないと反対したが、法務少佐といわれる隊長の強硬な申し入れでそのまま打電された。 着電に “入港す” とやったのは前代未聞のことである。 しかし入港に間違いはなかった。

その後戦地においても基地の天候不良時、大艇はとんでもないところに着水し 「〇〇時入港の予定」 と連絡しながら水上滑走で帰投することが多かった。

飛行艇らしいムードが溢れた行動であると思う。 やはり着水したら飛行艇は船なのである。 別に不思議はない。

陸上機を主体とした航空法規にのみ捕らわれていると、飛行艇の持ち味を発揮しきれないような気がしてならない。
(続く)

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(注) : 佐世保航空基地については本家サイトの 「旧海軍の基地」 コーナーの記事をご参照ください。



2014年07月17日

大空への追想 (183)

著 : 日辻常雄 (兵64期)


第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その1 海軍とユーモア (承前)

(5) 正装のまま舷梯からザブン

開戦前、某艦副長の話である。 この人は戦争中応召され、施設隊長として活躍されている。

当時海軍の式服には正装、礼装、通常礼装の3種類があった。

 正装    : 四大節式典に着用。 仁丹帽と燕尾服型の金ピカ物。 長剣を持つ。
 礼装    : 正装と通常礼装の混用。 仁丹帽とモーニング型。 長剣を持つ。
 通常礼装 : 軍帽とモーニング、短剣。 四大節等の外出時及び離着任時に着用。

(原注) 四大節 : 四方拝 (1月1日)
             紀元節 (2月11日)
             天長節 (4月29日)
             明治節 (11月3日)

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( 元画像 : 昭和5年版海軍軍務局編 『海軍服制』 より )

佐世保停泊中、天長節を迎えた。 艦内式典には少尉以上皆正装である。 式が終わると艦内では各室ごとに祝盃をあげる。 平時の停泊中ともなれば、祝盃が尾を引いて艦内宴会に続くことが多かった。 もちろん休業で半舷上陸となる。

この副長は無類の酒豪であり、飲むと特に奇人になる人であった。 お相手をするにも限度がある。 いつの間にか相手は逃げてしまう。

上陸の定期便の時間が来た。 当直将校が届けに来たが、上陸どころではない。 定期便ともなれば乗る人に関係なく時間厳守である。 ほろ酔い連中を満載して、定期便は艦を離れていった。

大艦でない限り内火艇も数が揃ってはいない。 次の便までは少なくても2時間は待たねばならない。

上陸員を送り出して静かになったころ、したたかに飲んだこの副長が正装のまま出て来て、「おーい上陸するぞ」 と言った。

当直将校が慌てた。 便船はない。

「 定期便が帰り次第、臨時便を出しますから酔いを覚まして下さい。」

としきりになだめたが副長は、

「 臨時便等出す必要なし、定期に遅れた俺が悪いんだ。」

と言う。 ここまでは筋が通っている。

「 俺は泳いで上陸する 」

と言い出したから大変だ。 よもやロだけのことであろうと思っていると、やにわにとんとんと舷梯を降り出した。 番兵も一緒に後を追ってかけ降りたが、時既に遅し。

「 副長待って下さい 」

と叫ぶ当直将校の声とともにこの副長、正装のままザンブと飛び込んでしまった。

仁丹帽と軍刀はつけていなかったが、金ピカの服装のまま飛び込んでは、酔ってもいるし、泳げるはずがない。 いったん海中に没したが、プクプクと浮かんでから犬かきでアップアップしている。 放っておいたら土左衛門になりかねない。

番兵や取次まで着服のまま飛び込んで “溺者救助” の号令こそかけなかったが、やっとのことで引き揚げることが出来た。

こうなるとユーモアを遥かにオーバーしてしまう。 さすがに奇人と言われるだけに、やることが人並み外れている。 定期便厳守の精神はよかったが、副長自らこんなお手本を示すのは困ったものだ。

これが天長の佳節だっただけに有名な話となってしまった。
(続く)

2014年07月16日

大空への追想 (182)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その1 海軍とユーモア (承前)

(4) 「煙突の煙を見られたし」

太平洋戦争開戦前から横浜航空隊は大艇による南洋行動をやっていたが、この飛行艇隊と軍艦 「神威」 は切り離せない仲になっていた。

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( 昭和13年漢口作戦時の 「神威」 )

横浜空の唯一の支援艦である 「神威」 は、もともと水上機母艦としての古い歴史をもっている。 米国で建造された艦であり、横浜空搭乗員・基地員の居住、燃料補給、物資輸送が主任務である。

東港空の支援船が 「葛城丸」 という貨物船であるのに比べ、「神威」 は軍艦であった。 大佐の艦長が乗っていた。

開戦後もずっと横浜空と共に行動しており、所属する二十四航空戦隊司令部のお召艦もしていた。

「神威」 の艦型はオシタップ型 (洗濯たらい) で、どちらが艦首か艦尾かちょっと見当がつかず、速力も遅い。 長い煙突から “いわきの煙” を吐きながら走り回る、まことに親しみのもてる、と言うよりもユーモラスなロートル艦であった。

これに乗り込む二十四航戦司令官がまた大の酒好きで、開戦前、停泊中はよく参謀相手に飲んだものだが、参謀では長続きせず、大阪弁の一等水兵 (従兵) がよくお相手した。

司令官と一等水兵が、司令官室で差し向かいで飲んでいる姿は 「神威」 という艦に相応しく、和やかなユーモアを感じさせたものである。(乗員の話)

この司令官、酒は好きだがいったん訓練ともなれば指揮下の大艇隊、中攻隊がお互いにライバル意識をもって実戦さながらの雷撃を敢行するのを、艦橋にデンと立って指揮する姿はまことに頼もしいものがあった。

戦争に突入後、トラック島が米軍の夜間空襲をうけた際、艦隊は完全な灯火管制の下で島陰に避退し、一切応戦せずに敵の目を逃れていたが、このおんぼろ艦 「神威」 は単艦で奮戦し、搭載中の大正8年製の高角砲と七・七粍機銃で、目標もあらばこそ、大空に向かって盲射し、敵を一身に引き寄せていたというから勇ましい話である。


この艦は航行中よく 「貴艦前進なりや、後進なりや」 と問われたとか。 答は決まっていた。

「 煙突の煙を見られたし 」

これでも分かるように、「神威」 という艦は、乗組員と共にユーモアたっぷりの存在であったようだ。

戦争の勝ち負けは別として、海軍にこのようなユーモアをまき散らしていた軍艦がいたというのは、何とも長閑な感じがする。
(続く)


2014年07月11日

大空への追想 (181)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その1 海軍とユーモア (承前)

(3) 「一機討ち漏らしたり」

17年1月17日、東港航空隊ほ比島ダバオ基地から、セレべス北端のケマ基地 (前出) に進出し、バンダ海方面の索敵行動を開始していた。

1月24四日、索敵に出た大艇3機は帰途猛烈なスコールに襲われ、苦労して帰投した。 そのうちの1機(益山中尉)は一番哨戒線を受け持っていたが、帰投コースは豪雨のため、確実な機位が掴めなかった。

超低空でバンダ海を北上しているうちに、ブル島の北東端にあるナンレア (注1) 上空を横切る形になっていた。

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( 原著より  当時の哨戒ルート )

高度50米で洋上を飛んでいたが、平坦な陸地にさしかかって間もなく、目前に突然飛行場が現れた。 よく見ると B-17 3機が雨に洗われて星のマークもはっきりと列線をつくっていた。 幸運にも針路はこの列線を串刺しにする形になっていた。

敵は慌てた。 この雨の中、日の丸の大艇が侵入して来たのだ。 益山機は咄嗟に爆撃を思いついた。 照準どころではない、爆弾を捨てるように落としただけである。

運のついている時はこんなもので、捨てた爆弾が見事に列線上で爆発し、B-17  3機のうち、2機が爆発炎上、1機だけが残された。

ところが、大艇も突如つき当たった陸地なので位置も分からず、報告なしでそのまま食い逃げの形で一路北上、ケマ基地に帰投しての報告となった。

検討の結果ナンレア島であることが判明したが、アンボン飛行場が我が空襲で使用できなくなり、米軍が密かに造った隠れ飛行場だったのである。 まさに棚ボタ式の獲物であった。

当時の司令三浦鑑三大佐は (前出) 小踊りして喜んだ。 早速二十一航戦司令部 (ダバオ) に報告 (注2) したが、中攻隊がこれを傍受した。 獲物が少なく、いらいらしていた所に好機到来、「残敵知らせ」 と言って来た。

司令は通信長を呼んだ。 3機中2機炎上ということで大戦果とも受けられない。 咄嗟に司令が電文を決めた。

「 無念ッ、1機討ち漏らしたり 」

これには一同思わずウーン、とうなったものだ。 まさに名文である。 わずか残りは1機しかいない。

中攻隊がわざわざ出かけることはあるまい。 大艇隊にまかせておけ ・・・・ と暗に指示したものなのだが、この意味深の電文がひょいと飛び出すあたり、非凡な指揮官でなければなかなかできないことである。

ことは一行の電文にすぎないが、この機智にとんだ電文は大艇隊の士気を大いに向上させたものである。
(続く)

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(注1) : ここで出てくるナンレア航空基地は、「Pacific Wrecks」 によると現在の 「ナンレア空港」 (黄色矢印の地点) ではなく、更に南の今では住宅地になっているところ (赤色矢印の地点) となっていますが、当該サイトの写真は日本が占領後に飛行場を拡張したあとの1943年とされていますので、当時の詳細については不明です。



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( 元画像 : Google Earth より

AF_Namlea_photo_1943_01.jpg
( 元画像 : Pacific Wrecks Org より )

(注2) : 本報告についてはアジ歴 (レファレンスコード:C13120043000) で公開されていますのでご参照ください。


2014年07月08日

大空への追想 (180)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その1 海軍とユーモア (承前)

(2) 「俺は頭の中で計算している」

宇垣纏の話が出たついでにもう一つ、字垣艦長の豪胆さには全く頭が下がったものである。

これは昭和12年、候補生の内地航海で練習艦隊が旅順に入港した時のことである。 私は 「八雲」 乗組、あの日露戦争の遺物、巡洋艦 「八雲」 「磐手」 が艦隊である。 最大速力15ノットしか出ないあのたらい船で、いわきの煙を吐きながらの行動である。 今の練習艦隊とは雲泥の差がある。

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(昭和11年遠洋航海時のロスアンジェルスにおける 「八雲」)

旅順で岸壁横付け作業時、「八雲」 艦長宇垣大佐は自ら操艦されて横付け体勢をとられたのである。

私は二分隊長と共にボートで岸壁に派遣され、達着作業の補佐役を命ぜられた。 この鈍重な艦の操艦は気の短い艦長では恐らく勤まらないであろうと思われた。

岸壁を至近に見て方向変換に入った。 微速のまま岸壁に接近、後進をかけたがなかなかこれが効かない。 やがて後進全速、面舵一杯をとったが、艦は一向に下がらず、じりじりと岸壁に直角に迫ってくる。

二分隊長、冗談の好きな人だが、慌てだした。 前甲板では運用長が慌ただしく動いている。 防舷物を用意している。

この艦は舳が水中で突き出している。 水が澄んでいるのでその槍先のような艦首が岸壁に接近するのがよく見える。

総員が艦橋を見上げて、艦長何してるんだと言わんばかり、岸壁からも艦長の顔がよく見える。

二分隊長が両手をあげて 「さがれ、さがれ」 の手まねをしている。 この大艦、そんなことでさがるはずがない。

艦首 (水中) と岸壁の間は、60糎、50糎 ・・・・ これはゴツンとゆくぞー 惰力があるから壊れるかも分からん。 見ていてもハラハラする。

まださがらない。 40糎 ・・・・ ああもうだめだ、と目を瞑りたい気になる。

30糎 ・・・・ この時艦首はピタリと止まった。 徐々にだが今度はさがり出した。

艦長がニヤリとするのが見えた。 みんながほッとして胸をなでおろした。 二分隊長が万歳をして合図した。

艦橋にいた候補生達の話だが、宇垣艦長は後進全速をかけた後、少しも慌てず、岸壁の合図を見て、一回だけ 「後進かかってるか」 と機関室に叫ばれたが、副長以下おろおろしているのを見て 「あわてるなッ」 と制せられたまま、仁王様のように立って前方を見ておられたと言う。

30糎のところで艦が後ずさりするのを見て、艦長も内心ほッとされたようだが、ほほ笑みながらいわく、

「 俺の頭の中でチャンと計算してあるんだ 」

実際みんなが地団駄ふんだところでどうにもならんことである。 後進が効くまでは誰が騒ごうと艦は進んでいるんだから考えてみれば致し方がない。

しかしあの場で態度に示さず、泰然としていた宇垣艦長、恐らく内心では、後進が遅れたことを自覚されていたはずだが 「頭の中で計算していた」 の一言は見事である。

負け惜しみもあったろうが、それがユーモアに受け取れるところにあの艦長の人物がよく表れていた。
(続く)

2014年07月06日

大空への追想 (179)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話

        その1 海軍とユーモア

人それぞれにユーモアがあるもの、海上自衛隊でも、数多くのユーモアは体験されていると思う。 しかし平常の場合はそれが冗談に繋がることが多い。

生死をかけて戦っていたあの厳しい戦場においてもユーモアはあった。 忙中閑ありの場合に多いことはいうまでもないが、ユーモアが出るというのは、それだけ心にゆとりがあるからだと思う。

もちろん上級指揮官ともなれば、その厳しい場面に応じて部下の心情を十分察した上で意識的にユーモアを飛ばし、これを統率面に利用される人もあった。

時により、指揮官のユーモアに富んだ言動は極めて大きな効果をもたらすことがある。 特に海軍にはユーモアが多かったように思われる。


(1) 「よく見れば赤に似た白なり」

昭和13年春、南洋方面における艦隊演習中のことである。 私は少尉で戦艦 「伊勢」 の副砲発令所長をやっていた。

艦長はかの有名な山口多聞大佐 (当時) である。 「伊勢」 は二戦隊の二番艦、「日向」 が一番艦で、艦長は終戦時の五航艦司令長官宇垣纏大佐 (当時) であった。

一戦隊 (陸奥、長門) との対抗演習で、約1ヶ月間にわたる長期行動、連日の航海で相当疲れが見えていた。 我々初級士官は連日艦橋当直に立っていた。

ちょうど深夜0200頃のことであるが、一戦隊に対して夜明けの砲撃戦を行うべく接敵行動中であり、艦橋には艦長、副長以下関係者が一杯詰めかけていた。

ややミストがあり、「日向」 の艦尾灯を唯一の目標として対艦距離を保ちながら進んでいた。 測距手の距離報告の声だけが時々聞こえる他はまことに静かであった。

「 おいッ、「日向」 の艦尾灯がおかしいんじゃないか。 赤のようだなー 」

山口艦長が突然声を出した。 みんな一斉に双眼鏡を手にした。

「 そう言えば赤のようですね 」

副長が答えた。 私もよく見た。 いや白だ。 どうしても赤ではない。 ミストがあるので錯覚だろう。

当直将校が伝声管で、

「 おーい、測距変化はないか 」

と確かめたが測距はやはり600米前後である。

艦橋電話が交話を始めた。 「日向」 を呼び出した。

「 艦長より艦長へ、汝の艦尾灯赤なり 」

日向は恐らく慌てたことだろう。 しばらくすると、

「 我が艦尾灯は白、変わらず 」

と返事がきた。 山口艦長は頑として、

「 汝の艦尾灯はやはり赤なり、よく調査されたい 」

とやり返した。 宇垣艦長から

「 我が艦尾灯は白なり、なんじ色盲ならずや 」

と言って来た。 こうなると漫談のようなことになる。 決戦を期して接敵中という場面でまことに面白いやりとりである。 山口艦長はみんなを促がして、

「 あの色は赤か白か 」

と。 やがて艦長自らウーンと唸りながら、

「 よく見ると白かなー 」

結論は白と一致した。 艦長は直ちに 「日向」 に対し、

「 よく見れば赤に似た白なり 」

艦橋がどッとわいた。 これで交話は終わった。

私は両艦長のやりとりを聞いていたが、よくもこんな場面で人を笑わせるようなトンチ問答が出たものだと感心した。

太平洋戦争におけるこの両雄の活躍、壮烈な最期を偲ぶと、あの夜のユーモアが両雄のどこから生まれたんだろうと不思議でならない。

あるいは疲れた乗員の気分を取り直させるために、あんなやりとりを意識してやったのかも分からない。

それにしても余程腹のすわった人物でなければ、あの場面では、あんなトンチ問答は浮かばないであろうに。
(続く)

2014年06月13日

大空への追想 (178)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

   第5話 飛行実験部 (承前)

       その4 フロートのない 「零水」 (零式水上偵察機) のテスト

「零水」 とは双浮舟の三座水偵であるが、浮舟を取れば九七式艦攻にそっくりである。

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( 原著より  零式水上偵察機 )

当時小型水上機にも各種優秀なものがあり、「紫電」 戦闘機の母体になった高速水上戦闘機 「強風」 があり、その他水上爆撃機 「瑞雲」 「晴嵐」 等が実用化されていた。

中でも昼間強行偵察用に開発された 「紫雲」 は軍艦等から発艦し、浮舟を捨てて高速行動をする水偵である。 潜水艦用の 「晴嵐」 も雷撃機であり、やはり浮舟は捨てて行動する計画であった。 (まま)

これらの性能実証のため、三座水偵のフロートを捨てた状態で空中性能を求めようとする実験が計画されたのである。 19年8月頃の話であるが、この試験の担当は実験部水上機班長船田少佐 (前出) である。

零水のフロートをもぎ取り、カタパルトで射出後空中性能試験を実施し、陸上に計画的に胴着するというもので、今時考えられない危険な実験であった。

三座機だが、パイロット、計測技師の2名にして実施された。 地上での各試験が終了後、横空のカタパルトから発射された。

あの大きな双浮舟をもぎ取られた 「零水」 はまことにスマートな姿であった。 約2時間にわたる空中での各試験を終了後、横空の陸上飛行場に帰還し胴着をやることになった。

当時はクラッシュカーもなく、一般消防車のみで救護班を編成して待ち受けた。 船田機は着水と全く変わらぬアプローチを続け、見事に着陸した。

ぺラは曲がったが、胴体の一部を擦った他は火も出なかったし、下手な陸上機の着陸よりは余程うまくいった。 計測技師だけが青ざめていたに過ぎなかった。 最高速ではフロートをもぎ取って約15ノットの増速を見たことを記憶している。

戦争という条件下なればこそ、水偵のフロートを捨てて任務を遂行するような構想も許可されたのであるが、実験部の仕事は、とにかく緊急操作も必ず身をもって実証するのが原則であった。

犠牲を顧みない無謀な実験と思われるかも知れないが、犠牲なきところに航空機の発展はあり得ずとされた当時の思想は、少なくとも空技廠飛行実験部部員には徹底していたのである。

これも作戦部隊の飛行安全を願っての仕業に他ならなかったし、だからと言って特別の危険手当が支給されていたわけでもない。
(続く)

2014年06月03日

大空への追想 (177)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第5話 飛行実験部 (承前)

        その3 試製 「蒼空」

「蒼空」 と言っても余り知られていない。 二式大艇を輸送飛行艇にしたのは 「時空」 であり大いに活躍した。 18年の暮になって、上陸作戦の陸戦隊や物資の空輸を目的として海軍が川西に試作を命じた全木製四発の大型飛行艇が 「蒼空」 である。

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( 「蒼空」 モックアップ )

資材不足の現状から全木製で計画され、木と鉄の代用材料を使用し、ジュラルミンの使用は禁止されたのである。

着水後上陸地点に接近すると、LSTのように機首がパックリと観音開きとなり、道板を出して陸戦隊や兵器を揚陸させるという奇抜なものであった。

全備重量45トン、全幅48米、陸戦隊 (完全武装) 一個小隊、又は戦車一台、十糎加農砲 (牽引車付き) 一台を搭載し、航続力2千浬という要求である。 逆上陸が狙いで、夜間飛行容易、操縦容易というおまけがついていた。

大型飛行艇が全木製で、しかも45トンにまとめるということは極めて至難の設計であった。

水上係留を立前としたので、浸水防止を重視し艇底部にはセルロイド合板を使用し、特殊な防水塗料も考えられた。 重量軽減は徹底的に計画されたが、最大の難関は主翼のメーンスパンであった。 なにしろ、45トンの巨体を木製桁の翼で支えようというのだから大変である。

まずこの桁材は浜松の日本楽器工場が担当となった。 硬化積層材と称し、各種の板材を高圧でプレスし、これを重ね合わせて圧着したものである。

審査を前に、そのテストピース (長さ2米) が十数本鳴尾工場に届けられ、立てかけられてあった。 ところが清掃作業中の女子挺身隊員が、このうち3本を誤って倒してしまったところ、うち1本が真ん中から折れてしまったのである。 この挺身隊員は気の毒にもひどく叱られたが、それよりも倒れたくらいで折れたというこの資材が大問題となった。 原因追求の結果次のようなことが判明した。

素材が高圧でプレスされると、板の繊維の方向に樹脂 (ヤニ) が押し出される。 長尺物であるから一度に加圧できず、ある長さづつずらして加圧する時押し出される樹脂が、前回分の境目付近で一か所に溜まり、この樹脂が固まってもろい部分ができる。 すなわち人工的に節をつくることになる。

何枚かプレスした板を圧着する時に、各板の同じ部分が重なって接着されてしまったためにそこから折れたものであるという結論が出た。 叱られたけれども、この女子挺身隊員のミスがかえって貴重な実験をしてくれたことになった次第である。

部分的に加圧せずに24米の長いものを一挙にプレスすれば、このような現象は起こらないが、そんなプレス機械がなかった。 あれこれ調査した結果、大阪の松下航空 (松下電器もかつては海軍機を作っていた) に大型プレス機械のあることが判明し、急拠工場を変更する等早くも大きな壁にぶち当った。

それにしても戦争という環境下、国を挙げて航空機造りに真剣な努力を傾けていたことがよく分かると思う。

またこの大艇が場所によっては接岸不能の場合を考え、係留ブイに浮桟橋を繋ぐようにした。 この浮桟橋はベニヤ製の箱型をいくつか繋ぎ合わせたもので、飛行艇自体で空輸できるもの、極めて簡単なうまいアイデアのものであった。 これは茅ヶ崎のヨット工場が製作を担当した。

基礎設計は順調に進み、各部の構造も一回の審査で合格したのである。 さすがに川西飛行艇屋の面目躍如たるものがあった。 このようにして、木型審査も終わり、現小松島空近くの木造船工場を買収して試作の段取りに入ったのであるが、次のような理由から、20年8月2日、本機の試作は停止されたのである。

(1) 川西製の紫電改戦闘機の大量生産が本土防衛上最優先となり、川西自体「蒼空」の試作に工員を充当することが困難となった。

(2) 小松島への資材輸送が空襲のため困難となった。

(3) 硬化積層材の原料となる特殊木材の入手が極めて困難であり、辛うじて試作機1機分の材料が集まったに過ぎなかった。


仮に試作を続けたとしても20年8月15日の終戦を考えると、本機の実現は不可能であったはず。 しかしこの大型全木製飛行艇の構想は実に面白いものがあっただけに惜しまれる。 「蒼空」 は幻の飛行艇として、その名を止めたに過ぎなかった。
(続く)

2014年05月21日

大空への追想 (176)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第5話 飛行実験部 (承前)

        その2 二式大艇二二型試験

部隊に配備された二式大艇は一二型である。 二二型というのは、速力の増大を狙って、翼端フロートを揚降式とし、胴体上方の二十ミリ機銃座を引込み式に改装したものである。

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( 原著より  二二型の翼端フロート )

ダグラス DF 型飛行艇の引込み式フロートに着目して考えられたものであるが、これで最高速プラス10ノットという設計陣のふれ込みであった。

資材不足の時機でもあり、量産は中止、2機が完成したに過ぎなかった。 フロートは平たく改造されて、翼端に引き揚げられ、翼下面に露出していた。

20年2月13日、海軍はこの2機を領収し、実験部で性能試験を実施することになった。 私と金子氏が担当し、甲南上空で数回の試験を実施してみたが、最高速度、失速、上昇等一二型と一向変わらず、試験のやり方が悪いんではないか等、技術者の不満の声が出た。

離水時、ハンプ後フロートを揚げれば離水秒時が短縮できるとのことであったが、当時日本機は脚の揚降に信頼性が低かったので、こんな試験は中止した。


最高速テストの時である。 水平飛行で190ノットまで増速したとたん、突然ガクンと大きなショックをうけて右に振り回された。 翼を何かにぶっつけたような感じがして、思わず金子氏と顔を見合わせた。 直視するのが怖かった。

恐る恐る右に目を向けると、右のフロートのアップロックが外れて翼端から少しぶら下がっていたのである。 速力は185ノットに落ちた。 結論は最高速でもプラス5ノットの効果しかない。 こんな度肝を抜かれるようなフロートはもうごめんだ。 「落第」 と判定。

水上運動においても、フロートの容積が減ったために10メートルの横風滑走において風下のフロートが全没する。 結局2トンの重量増加とフロート揚降操作の複雑性が加わり、実用不適と判定された。

しかし、最後には二式大艇の兵力不足のため、この二二型2機も私の部隊が領収して作戦機として使用した。 フロートを揚げるとスマートだったが、B-24 と誤認されて零戦に追っかけられたりして随分苦労したものである。

PS-1 開発時フロート揚降式の意見が出たが、効果よりも故障の方が先行する心配もあって、この二式大艇の経験から私は反対したのである。 賛成論者よ、悪しからず。
(続く)

2014年05月05日

大空への追想 (175)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第5話 飛行実験部 (承前)

        その1 二式大艇のポーポイズ実験

飛行艇班の実験の主役は、日辻、能代、金子の3名のパイロットと稲手計測技師の4名である。 私以下は皆ベテラン達なので、相当思い切ったテストをやっても安心しておれた。

二式大艇の性能は当時世界水準を大きく上回っていたが、空中性能 (特に速力) に重点をおいたので、水上性能はある程度犠牲になっていたといえる。

既に菊原博士 (静男、東京帝大卒) の詳しい説明が51年度安全月報に記載されているので御存知と思うが、艇体幅が狭く、背高になっているので、吃水も深く、ビームローディング (艇面荷重) が極度に大きかった。 このためにポーポイズが起き易く、部隊パイロット達の大きな悩みの種になっていた。

二式大艇のポーポイズの恐ろしさは PS-1 ではとても体験できないが、イルカ飛びに入って放っておくと、最後は機首から海面に突っ込んで艇体が折れてしまい、まず生命は助かりようもない。

ポーポイズの性質をよく覚え、発生の初期にパワーを絞って待つ以外に防止の方法はない。 下手に操作面で修正しようなどとすると、まず大事故発生は確実であった。

二式大艇のポーポイズ事故は、当初相当多発し、重大問題化していたので、飛行実験部がこの防止策に取り組んだ。

ポーポイズはロングステップの方が起こり易いと言われ、ショートステップ型は舵による修正が効くので、旧海軍パイロット間では後者が歓迎されていた。

二式大艇は二段ステップであり、両ステップ間隔は割合に短かかった。 私が着任前のことであるが、実験部が、ステップ間隔を変えてポーポイズの発生状況をテストしようと試験を続けていた。

まず水槽試験が開始され、空技廠科学部の小川技術大尉、川西航空機の徳田技師等が真剣に取り組んでいた。 第一ステップを後方に30糎延長して、両ステップ間隔を詰めると、ポーポイズ現象が著しく減少するという結論が出た。

これまでの結果を出すには技術者の苦労は並大低のものではなく、美男子の小川大尉も顔はヒゲぼうぼう目は吊り上がって別人のようになってしまった。

水槽に取り組む技術屋の真剣な姿を見て、テストパイロット達もさすがに襟を正し、同時に戦地で死闘を繰り返しながらポーポイズに悩む戦友のことを考えて、よーし、我々も体を張って発着実験に取り組もうということになった。

水槽試験の結果を持ち込んでいよいよ実機試験が計画された。 有名な大村湾におけるポーポイズ実験がこれである。

第一ステップを現状、15糎、30糎の3段階に延ばし、各段階毎に重量を正規 (24.5五トン)、過荷重 (32トン) に分け、更に重心点を正規位置から前後に2パーセント刻みに移動し、機首角度をアップ5度を中心にプラスマイナス1度刻みに保持した時のデータをとろうというものである。

当時は現在のような計測機器もなく、目視と計器の写真観測をやる以外になかった。 空技厳の各部、川西からも最高の技術陣が集まり、どの時点でポーポイズが起こるか、ポーポイズが発生した時どの時点で舵の修正が可能か等について、いろいろと悪条件を与えて、ぎりぎりの線まで実証を繰り返したのである。

この試験は約3か月間続けられたのであるが、実験中に何回か本物が発生し、計測室の椅子が折れたり、計測技師が隣室のタンク室まで吹き飛ばされるという苛酷なテストであったが、ビームの一部にアバラが出たり、リベット打ちの工作不良で多少の水漏れがあった他は、艇底はビクともしなかった。 「強いなー」 と感ひとしお。

このようなきびしい実験が続けられたものの、これらのデータが集積され、分析された結果、大きな期待が見事に裏切られてしまったのである。

すなわち 「現在のステップ位置が最良である」 ということになって、一同唖然としてしまった。

二式大艇の初飛行を担当した伊東祐満中佐 (兵51期) が、数回の試験の結果、ステップ位置は変更の要無しと言ったが、そのとおり実験の結果が裏付けしたのである。 さすがに飛行艇育ての親と言われた名パイロットなるかなである。

しかし、この大村湾実験の結果、重心点が正規ならば、機首角度をアップ5度プラスマイナス1度の範囲に保持すれば離水時のポーポイズは重量のいかんにかかわらず発生しないという貴重な成果が判明したのである。

重心点の前方移動と、機首角度がアップ5度以下の時にポーポイズは発生し易いという結果が出た。

このような実験の結果二式大艇のポーポイズ防止対策はパイロットの操作法を確立することで落着したのである。

機首のピトー管の主柱を利用して、これに水平のカンザシをつけ、風防にマークを入れて、カンザシとマークの見通し線 (機首角度5度) 上にパイロットの正しい姿勢の時の目がゆくように、各パイロットは座高を決めるのである。

こうして、カンザシが水平線と一致した時に機首角度はアップ5度になるように工夫されていた。

更に操縦桿を離水操作開始前から、引き6度の位置に保持して動かさずに待てば、最初機首はピッチングをしていても、速力がついてエレベーターが効き始めた時にアップ5度の機首角度にセットすることが発見できた。

これらの操作を組み合わせて離水初期の操作法を標準化することにより、若いパイロットの大量生産法に成功したのである。 この方法をとってから二式大艇のポーポイズは急激に減少したことは事実である。

なおこの離水操縦法の安全性確認の試験は、私が担当した。 霞ヶ浦の中心部を端から端まで一杯に使いながら一直線の水路を選び、毎日60回の離水操作を、腰弁持参で3日間連続実施した。 疲労のため、数回本物のポーポイズを起こしたことを今でもよく覚えている。

結局機体の改修等は行われず、離水操作法の工夫により、ポーポイズ防止策を生み出すことができたのである。

PS-1 の機首にもこの面影が残されているが、当時の実験部の苦労が、飛行艇部隊の諸君に何らかの参考になれば幸甚である。
(続く)

2014年04月29日

大空への追想 (174)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第5話 飛行実験部

19年1月20日付で横須賀鎮守府付となり、開戦から約3年余続いた長い戦場生活から開放され、後任の飛行隊長の来着を待って、19年2月10日、久し振りに横須賀に着任した。

「長かったなー、十分休養してまた頑張って欲しい」 と、横鎮長官 (塚原二四三中将) から労いの言葉を頂戴し、当時としては特典とも思われる2週間の休暇を貰って帰郷できた。 過去3回にわたって 「日辻大尉戦死」 の噂を聞いていた両親は、夢かとばかり驚いていた。

「2月25日付 詫間海軍航空隊飛行隊長兼教官」 の電報を貰って人事局に出頭し、再び故郷に別れを告げた。

詫間空は当時、飛行艇搭乗員の教育部隊であったが、戦局の急迫に伴って約2ヶ月後に教育部隊は解散した。

最後の御奉公として再度戦地行を強硬に申し入れておいたが 「4月1日付 海軍航空技術廠飛行実験部々員」 という人違いではないかと思うような電報が舞い込んで来た。

俺なんぞに勤まるところではないと直感したので、いささか迷っていた。 当時空技廠飛行実験部々員と言えば、普通の人の行くところではなかった。

それぞれの機種ごとに、其のベテランパイロットのゆくところであり、教育、艦隊、実戦とあらゆる場を踏んだ経験豊富な者ばかり、更に頭脳明噺、創作力に富み、文才あって、しかも弁のたつ、それこそ名実ともにベテランのパイロットで、闘志満々、海軍航空を背負って立つ人々の集団であったのである。

血生臭い戦場を人一倍駆け巡っていただけの私などは到底資格はなかったはずである。 飛行艇乗りがほとんど戦死していたので、やむなく生き残りの私が呼び出されたに相違なかった。

着任して見てビックリした。 この戦いたけなわの時に、よくもこんなべテラン達が集まっていると思うくらいに人材が揃っていた。 しかし思えばその後半年の間に、これらの人はほとんど要職に引っ張り出され、大半が戦死してしまったのである。


飛行実験部は新型機や新兵器の試作実験が主要任務であり、実験部々員は、いわゆるテストパイロットであり、新型機の採用上極めて重要な役割りを持っていた。

現在の51空とは相当趣きを異にしており、国産機の試作に際しては、空技廠 (現在の技本) 飛行実験部は主として試作会社側の指導監督、要求性能の実証を担当し、これを部隊で実動するため、部隊運用の立場で実験するのが横空の任務である。

現在の51空のように、試作機を部隊運用に即した実験、いわば旧海軍の実験部と横空を一緒したようなものとは違っていた。

したがって空技廠実験部においては要求性能についてはとことんまで実証する必要があり、ある線以上は技術者の計算による推論になるような例は少なかったと思う。 それだけに飛行実験部の試験は危険を伴っていた。 要するに実証によってその極限を求めるという方針であった。

飛行実験部と横空は密接な関係をもっており、人事の交流もよく行われ、思想統一が図られていた。

このような形の実験なので飛行実験部の性能試験は非常に厳しいものがあり、横空の実用試験 (現在の運用試験) と併せ検討されるので、部隊における新型機の運用制限値は大体において実験部の測定値の80パーセントに抑えていたと思っている。

さてこのようなところに飛び込んで来た青二才の私だったが、先輩部員達は極めて親切に指導してくれた。

「 君は今後3ヶ月間何もせんでいいから、ジーッと人のやることを見ておればよい。 早急に覚えようとしてはいかん。」

まことに有難い話であった。

飛行艇主務部員を命ぜられたが、私の上には水上機全般を担当する船田水上機長班長 (渡辺元空将) (前出) がおられ、公私ともに指導していただいた。 かつて飛行学生の時の担当教官であったことも嬉しい御縁である。

実験部々員は古参の大尉、少佐、副部員は特務士官、兵曹長であったが、この副部員というのが、いずれも超ベテラン級のパイロットであった。 飛行艇の副部員に金子飛曹長 (現存) (執筆当時) がいたが、二等兵の時から飛行艇を操縦していたという強者であった。 以下金子氏の思い出も併せ、飛行艇実験物語りを少し書いて見たい。
(続く)

2014年04月22日

大空への追想 (173)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第4話 南洋委任統治領と飛行艇 (承前)

        その3 スパイ行動 (承前)

(3) スパイ競争

九七式大艇の輸送機型が誕生したのは13年8月頃である。 当時、大日本航空 (株) (日航の前身) が横浜根岸に基地を置き、内南洋諸島及びチモール島に至る飛行艇による民間航空路の開設に着手していた。

海軍が全面的に支援したことはいうまでもないが、横浜空はこの航空路、経由基地の調査、職員の教育訓練等の指導を担当していた。

丁度会社の海洋部長松永元海軍少将 (壽雄、兵37期)、南洋庁の堂本 (貞一) 内務部長等高官も同乗されて、航空路試験飛行が実施された。

サイパンが第一経由基地であるが、そのすぐ南方には米国委任統治下のグァム島がある。 試験飛行はパラオ往復であったが、復航、テニアン島付近に来た時、ふと見ると、テニアン島沖合に見なれぬ大型艦が一隻、テニアン島に接近しつつあるのを発見した。

日本の軍艦が一隻こんなところにいるはずもなく、不審に思ってこれに向首接近すると、先方も大艇に気づいたらしく、急に変針増速してテニアン島から遠ざかる行動をとり出した。

直上を航過してパチリと一枚撮影したが、明らかに米大巡であった。 何たることぞ、先方もまさかこんなところで日本の飛行艇に遭遇するとは思わなかったであろう。 思わぬところでテニアン島隠密偵察がばれてしまったわけである。

全くけしからん米艦の行動に憤然として早速打電し、サイパン着水後も早速サイパン支庁に報告した。 この米大巡の写真は海軍省にも提出した。

さて疑問だったのは、なぜあんなところに米大巡が一隻行動していたかである。 よく考えてみると、横浜出発前、当時の駐米大使斎藤さんがアメリカで亡くなられ、その遺体を米海軍の 「アストリヤ」 号 (注) で遥々と日本に送り届け、日米親善に大きな役割りを果たした一件があった。 当時日本はその友情に感謝感激して、その乗組員達は熱狂的な大歓迎を受けたものである。

しかし任務を終了して、日本にさよならを告げるや否や完全なる敵艦行動に移行したのである。

日本委任統治領のサイパン、テニアン付近の海上偵察を指令されていたに相違ない。 軍艦である以上当然予期されることである。 さりとて本件に余り深入りして文句をつけるわけにもゆかなかった。

ひけ目は我が方にもあった。 大艇は米大巡に遭遇する以前に、米領グァム島沖に接近し、アプラ港の写真偵察をちゃんとやっていたのである。

米大巡の写真と、アプラ港の写真は揃って軍令部にも提出されていた。 お互い様のことであるが、長距離行動の大艇においてはこの程度のスパイ活動は朝飯前のことであったものだ。
(続く)

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(注) : CA-34 Astoria 

CA34_Astoria_1937_01_s.jpg

故斉藤駐米大使関連については、アジ歴の 『故斉藤大使遣骨礼送艦 「アストリア」 号来朝に関する件』 (レファレンスコード : C01001773600) などを参照してください。

同艦艦長リッチモンド・ケリー・ターナー大佐はこの時勲三等瑞宝章を受けています。 もちろんこのターナー大佐は、後に太平洋戦争で名を馳せたあのターナー中将のことです。

なお 「アストリア」 は第一次ソロモン海戦において第八艦隊 「鳥海」 などの砲撃を受けて沈没しましたが、奇しくも所属する第62任務部隊の指揮官がこのターナーでした。

2014年04月15日

大空への追想 (172)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第4話 南洋委任統治領と飛行艇 (承前)

        その3 スパイ行動

(1) デモンストレーション

(原注) : 本件は南洋行動とは反対に北方での話である。

横浜航空隊九七式大艇4機が耐寒訓練のため、大湊基地に進出した。 この時軍令部から面白い指示が出された。

「 各種耐寒訓練の実施と同時に、航法訓練を頻繁に実施せよ。 コースは必ず小樽上空を南から北に、高度1千米以下で航過し、復航は小樽上空を避け、北海道東岸又は遠く洋上を迂回して帰投せよ。」

軍令部はなぜこんな指令を出したのか。 しかもこの指令は分隊長以上のみに限定されていたので、一般搭乗員は理由も分からずに指示どおり飛行せざるを得なかった。 中には樺太の国境付近まで飛ぶ機もあった。

問題は小樽上空の北上飛行にあった。 これには理由があった。 当時、日ソ漁業交渉問題が難行しており、新聞は連日のようにその険悪状況を報じていたのである。

この耐寒訓練は約一週間続行されたのであるが、訓練終了とほとんど同時に、日ソ漁業交渉もまた妥結していた。

その直後海軍省情報関係者から、「横浜空大艇の小樽市上空航過飛行は相当の効果があった」 と通知を受けた。 当時、漁業交渉を巡って、小樽、札幌方面には、ソ連のスパイが相当数潜り込んでいることが分かっていた。

「日本の大型飛行艇が連日北上している。 帰投しないところを見ると、北海道北辺に臨時基地を作り、日ソ漁業交渉決裂時に備え、日本海軍がなんらかの手段に出ようとしている。」

スパイがソ連政府に上記のような情報を送っていたことを軍令部はキャッチしていたのである。

この大艇の行動がどの程度効果をあげたのかは分からないが、当時の日本の海軍力から推定するとソ連側に不審を抱かせるだけの効果はあったものと考えられる。

思わぬところに伏兵があるもので、デモンストレーションとか謀略とかは通常の常識では考えられぬ結果を生むものである。

現在の日ソ漁業交渉に対するソ連の態度は、まことに人を食ったところがある。 旧海軍の北洋警備隊の示した威力を偲ぶとたまらない淋しさを感ずる次第である。 海上自衛隊も一つやってみたらどうだろう。


(2) 隠密偵察

太平洋戦争前や開戦後はもちろんのこと、隠密偵察は当然の措置として実施されていたが、これは昭和14年南洋での実話である。

第一次の南洋基地調査については前述したが、引き続き大艇による調査が実施されていた。 横浜空が日本一の飛行艇隊として開隊されて以後3個飛行隊が整備され、2個飛行隊 (16機) による大掛かりな南洋行動が約20日間に及ぶ長期にわたり実施された時のことである。

施設部の技師団も加わって大々的な基地調査を実施したことは、言うまでもない。 各離島をめぐり、あそこに2日ここに3日というように天幕生活を続けながら行動していた。

この行動中、軍令部から次のような指令が出ていた。

「 好機を捉え、状況許す限り、マキン、タラワの隠密偵察を続行せよ 」

というものである。

同島は英国委任統治下にあり、堂々と上空を飛行することはできない。 もしこの禁を犯かせば、国際間題を起こすことは必至である。

当時の横浜空司令は三木大佐 (森彦、兵40期) である。 司令から飛行偵察に出る福岡隊長 (義雄、兵62期 ?) に対する指示は、非常に厳しく、特に隠密行動に対しては慎重を期すよう指示された。

それもそのはず、三木司令は日支事変の際、揚子江の 「パネー号」 を誤爆した時の責任者であった。 その苦い経験を持っておられただけに、再発するようなことになると、左遷されることは明白なのである。

一方命を受けた福岡隊長は、現地に接近してみると下層は一面の密雲で、高々度偵察等思いもよらぬ状況である。

この隊長は横紙破りの名人、物事に拘泥しない人物であり、平常は大人しいが思いついたら絶対に後ろに引かぬ気性の持ち主であった。 こんなことでおめおめ引き返すはずがない。

千載一遇の機会だ。 一挙に雲下に急降下し、両島の上空を一航過 (さすがに数航過はやめた)、見事な写真偵察と目視確認を終えて意気揚々と帰って来た。

報告を聞いて、さあ司令が驚いた。 今でもあの時の司令の顔が目に浮かんでくる。

搭乗員の前で隊長を怒鳴りつけるわけにもゆかず、通信長を呼んで状況を詳しく海軍省に報告すると共に、後手に回らぬよう、英国側からクレームがつく前に善処するよう配慮されたいとつけ加えた。 司令の処置はさすがに体験者だけに手早かった。

その後幹部集合のうえ善後策を協議したものの、事実は事実であり、いかんともしがたい。 張本人の福岡隊長は一向に悪びれず、

「 実際現地を飛んだ者でなければ、あの時の心理状態は分からんよ。 あの場合、そのままみすみす引き返す手はない。」

と、平然と漏らしていた。

どうも、支那事変当時、筆者のやったバクロンビ島隠密偵察 (注) とよく似ているようだ。 あの時は低空飛行を隠していたのだからこっちの方が悪党といえるが ・・・・

内地帰還早々司令は海軍省に出頭し、ひたすら陳謝したが、英国からは何の反応もなく極めて平静、「ああ、あの件は心配無用」 との一言があっただけ。 やきもきしていたのは三木司令ただ一人だったということで万事解決。
(続く)

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(注) : 本件については連載第28回をご覧ください。

2014年04月10日

大空への追想 (171)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第4話 南洋委任統治領と飛行艇 (承前)

        その2 南洋行動中のエピソード

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( 原著より  南洋諸島基地調査風景 )


(1) 野菜作り

マーシャル群島の環礁は陸地の起伏がほとんどなく、リーフの破片でできている。 したがって地形を利用して施設を隠蔽することはまず不可能であった。 地下貯蔵のため穴を掘るとすぐ海水が湧き出す仕末であったが、鉄材とセメントをふんだんに使えば、耐爆施設をつくることも不可能ではない。

しかし、戦時最先端基地となり、激しい敵襲にさらされた場合内地からの艦船輸送は途絶え勝ちになるので、貯蔵品はともかく、生糧品、特に生野菜の欠乏は戦闘員の体力を減耗させることになる。

そこで現地における野菜作りの必要性が生じてくる。 このため内地から予め各種野菜のタネを送って実験してみることにした。

実験の結果によると、現地での発育は悪く、野菜は、カボチャ類だけがある程度生育したが、他はほとんど失敗した。

これは発芽直後の幼い首が、強烈な日光と、猛烈なスコールを浴びて枯死するためであり、仮に生き残っても、ばらばらのリーフの砂では根づきが弱く、肥料の含有力も乏しいため発育が止まってしまうためであることが分かった。

しかし、隣接の島の土人の中に、1ヶ月に3尺も延びた葉野菜を持って来たものが居た。 この島は鳥糞による燐鉱土質であり、その上にタネを蒔いたことが分かり、南洋でも栽培の方法さえ考えれば野菜作りは可能であるということになった。

客土による土質改善と化学肥料、日照覆いの必要性も判明した。 当時百姓の真似等一笑にふされてしまう状況であったが、長期離島作戦においては、野菜作りは極めて重要な問題なのである。 現在でも硫黄島、マーカス等においては恐らく研究されていることであろうが、なんらかの参考になれば幸いである。


(2) 豚の丸焼き

各離島では測量の補助員として、土人を10〜20名くらい毎日徴用した。 前日中に酋長を呼んで、翌日徴用する人数を通知することにしていた。

いずれも蕃刀を持って集まってくる。 彼らの仕事は測量用ポール間の見通しの悪い部分を蕃刀で切り開いてゆくことである。 毎日所定の賃金を支払ったが、土人たちには金銭の有難みはわからず、酒やタバコの方が喜ばれていた。

ウオッゼの測量時、人夫の数が日ごとに減ってきた。 集まって来なくなったのである。 酋長を呼んで文句を言っておくと、その翌日未明テントの外で、頓狂な悲鳴が聞こえた。 飛び出して見ると、酋長が一匹の子豚を引っ張って来て、これを献上したいと言うのである。

豚を一匹貰ったところでどうにも因ると言うと、酋長は料理してやるから食べてもらいたいと言うので好意を受ける。 酋長は子豚を海岸に持ってゆき、蕃刀で首の動脈を切断し、海水ですっかり血を洗い流した。 しばらくするとこの血の匂をかぎつけて大きなフカが浅瀬まで集まって来たのにはびっくりした。

土人たちは砂浜に穴を掘り、リーフの石を敷き、椰子の実を焼いて作った炭で覆い、子豚をその上に置いて、炭と石で更にこれを覆って、まわりを砂で包み、火を入れた。

数時間後に蒸し焼きになった子豚を掘り起こしてその肉を割きながら一同車座になって食べたのだが、その味は淡白で香ばしく実に美味しかった。 郷に入れば郷に従うのが世の常であるが、我々の知らぬ珍味にありつけたことも南洋ならではのことである。


(3) 南洋の美人

 マーシャル土人は体格は立派だが、色はかなり黒い。 初めて見ると女は皆同じような顔で、美人も醜女も見分けがつかない。 しかし一か月もすると、兵隊達は 「別嬪が来たぞッ」 「トテシャンだッ」 などと騒ぎ出すから妙なものだ。

ウオッゼの北方にあるウートロック島に船で上陸した時は、陸上に集まって眺めている土人はすべて男で、女は一人も見当たらなかった。

「この島には女はいないのかなー」 誰かが嘆声をもらしていた。 上陸して島内を回って見ても、女は一人も発見できなかった。 ところが数日経つと、どこからともなく女がぽつぽつと現われて来た。

土人の話によると、船が入港するというので、島内の女をとりあえず離島に緊急避難させていたのだということであった。 何年か前にどこかの国の難破船が漂着した時、上陸した船員たちが島の女達に乱暴狼籍の限りを尽くしたことがあったと言う。 その嫌な思いが彼らに甦って来たためであった。

しかし海軍測量隊は善良な人達であることを納得したので、島の美人やトテシャンたちも安心して出て来たということである。 測量隊を始め、島の土人達の空気もおかげで和やかになったものである。

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( 原著より  木陰に憩う調査団員 )


(4) 伊勢海老の大盤振舞い

内南洋は魚族の豊庫である。 私達が16年11月、開戦直前に進出した時も、町の料理屋にゆくと仙台方面のマグロ漁船が入港しており、陸揚げされた新鮮なマグロが名物で、「江戸前寿司」 が出現していた。 その味はまことに忘れられない思い出がある。

さて南洋では下手な釣人でも、たやすく大物が釣り上げられる。 ただし毒魚が多いので、これだけは十分注意を要する。 その上やっかいなのは、同じ魚でも、ある環礁のものは食べられるが、異なった場所で釣れたものは食べられないということがある。

したがって魚については土人によく聞いてみる必要がある。 もし土人が魚を見て、腕を曲げながら首にあてて寝るまねをした時は、食べたらあの世行きだぞという意味である。

マロエラップで立派な大きい伊勢海老を見かけたので、土人に聞いてみると、沢山採れると言うので頼んでおくと、翌朝大きなたらいに一杯に盛りあげてもって来てくれた。 早速徴用船に頼んで料理してもらった。

船員が、海老の味噌煮を作って調査員達に大盤振舞いをしてくれたが、料理法が拙いのか、評判はよくなかった。 しかし伊勢海老だけで満腹するという食事は豪勢なものである。 これも南洋なればこその話である。
(続く)

2014年04月08日

大空への追想 (170)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第4話 南洋委任統治領と飛行艇

11年10月1日に横浜海軍航空隊が飛行艇の専門部隊として開設されたのであるが、16年の太平洋戦争開戦までは、大艇隊と南洋委任統治領との関係は切り離せないものがあった。

南洋群島のあのサンゴ礁地帯が天然の水上機基地を形成していたことはもちろんであるが、未開発の広範囲にわたる南洋委任統治領は、太平洋戦争遂行上極めて重要な作戦基地であったことは言うまでもない。

横浜空飛行艇と南洋群島、何かそこにロマンチックなことを想像しがちであるが、南洋群島の基地開発に貢献した飛行艇の役割りは、まことに計り知れないものがある。

太平洋戦争必至となって、東港、横浜各飛行艇隊が南洋群島に展開した頃には、開発の苦闘が実り、既に立派な飛行艇基地が各所に完成されていた。

当時これら基地開発に駆け巡ぐっておられた先輩から、珍しい数々のエピソードをお開き出来たので、本編でいくつかを取り上げ、紹介しておきたいと考える。

いずれも飛行艇の大先輩であるが、海軍大佐長谷川 (旧姓田村) 栄次氏 (兵52期)、元海将寺井義守氏 (兵54期) のご了解を得て 『海軍飛行艇の戦記と記録』 (浜空会編、1976年) に寄稿された両氏の手記から抜粋または参考にさせていただくことにした。


        その1 浜空部隊の南洋行動

昭和14年7月上旬から約一か月間にわたり、横浜航空隊は九七式大艇6機をもって内南洋方面を行動し、訓練を兼ねて主としてマーシャル群島の基地調査を命ぜられた。

「衣笠丸」 (1万トン) (注1) が海軍徴用船となり、飛行艇特設母艦として横浜空所属となり、横須賀防備隊の 「沖島」 (注2) も協力艦となって基地調査に加わった。

準備期問としては1ヶ月しかなく、多忙を極めたが、何しろ南洋群島といっても、当時は海図で知っているほかは、「酋長の娘」 の唄に出てくる程度の予備知識しかなかったのである。

南洋庁に飛行艇を飛ばして連絡資料収集をやったり、南洋駐在武官を招いて講演を聴くやら大変な騒ぎであった。 一方内地から野菜のタネを送ってその発育状況を調査する等現地における大艇隊の長期行動を考え、遠大な計画を立てたのである。

調査員には用兵者の他、施設関係者、砲台等兵装関係の技術者も加わった。 飛行艇隊は7月上旬横浜発、サイパンを経てヤルートに進出し、「衣笠丸」 「沖島」 と合流した。

ヤルートを根拠地として飛行艇による日帰り調査を原則とし、ミレ、メジェロ、マロエラップ、ウオッゼ、ウートロック、クェゼリン、エニウェトク等の各環礁調査を実施した。

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( 原著より   内南洋諸島 )

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( 昭和16年の海図 No.838 より  マーシャル諸島 )

これら環礁の持つ諸特性を調査し、どの程度の施設が出来るか、所要資材の入手方法等を知るのが主目的であり、測量も実施して、陸上飛行場建設にも即応できる図面の作製まで実施した。

かつて寺井さんは米国駐在武官をされていたのであるが (開戦直前まで)、17年2月に米機動部隊がマーシャル群島に来襲した時の米軍偵察写真を見ると、クェゼリン、ルオットに作られた米軍の飛行場は、横浜空調査団の計画したそのままのものであることを知って、実に感無量であったと言われている。

飛行艇隊は調査団の移動に協力する他、「衣笠丸」 を母艦として、独自に写真偵察、飛行訓練を実施した。 現地の基地作業、外洋発着、洋上での母艦からの給油作業、夜間飛行等が主要訓練項目であった。

一方南洋群島に日本の飛行基地を作った場合、マーシャル群島の3百浬南方に存在する英領ギルバート諸島は重要敵基地となるため、これらの隠密写真偵察は当然実施していた。

さて南洋方面基地調査が一段落すると、そのままヤルートに留まって海軍大演習に赤軍として参加し、調査済みの基地を利用して、南洋から一挙に瀬戸内海南西部に停泊中の青軍艦隊を奇襲雷撃することに成功したのである。

もともと大艇は、遠距離哨戒偵察を専門とされていたのであるが、本演習の結果、長駆大型爆弾、魚雷等による奇襲攻撃が可能であるとして当時は大きくその威力が認められたのである。
(続く)

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(注1) : 川崎造船所建造、昭和11年竣工、国際汽船 (株) 所有、3度目の徴傭により昭和12年呉鎮守府所管の特設水上機母艦


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( 昭和13年青島における 「衣笠丸」 )

詳細についてはHN 「戸田.S.源五郎」 氏の 『大日本帝国海軍特設艦船』 をご参照ください。


(注2) : 敷設艦 「沖島」 型、基準排水量4470トン、全長113m、幅15.7m

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( 昭和12年杭州湾における 「沖島」 )

2014年04月01日

大空への追想 (169)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第3話 冷や汗談義 (承前)

        その3 砂糖密送記

これは戦闘行動とは異なるが、二式大艇ならではできないであろうし、私のような人間でないとやらなかったと思われる冒険行為である。 しかしとにかくこんなに感謝されたことも初めてであった。

昭和19年6月頃といえば、日本国内の食糧事情も苦しかったし、砂糖等は乳幼児のため以外は配給も極めて少なく、砂糖の甘さ等は忘れ去られていた。

一般国民だけではなく、軍隊においても同様であった。 比較的栄養食を誇っていた横浜航空隊でさえ、三度の食事はほとんど砂糖を使用していなかった。 こんな時だけに、私の冒険的砂糖密送はまことに時宜を得たものと自負している。

19年6月23日のことである。 これもまた防空凧緊急空輸任務に関連するが、いろいろの難関にぶち当たりながら6月22日とにかく東港基地 (前出) まで無事帰りついた。 あとは東港から横須賀に無理をせずに帰るだけのことであった。

折角の南方行動である、物資不足の空技廠に何か土産でも持参したいと考えた。 東港というと、バナナか砂糖である。 航空隊に依頼して、砂糖の2俵も買い込んで、飛行実験部を喜ばしてやりたいものと主計長に頼んでみた。

ところが、主計長から逆に棚からぼた餅のような相談を受けたのである。

一年前に詫間航空隊から砂糖の注文を受けていた。 しかし輸送の方法が全くないために弱っている。 詫間からは既に契約取り消しの通知を受けているが、その砂糖は確保して倉庫に眠っているというのである。 代金は詫間に返却しようと考えているところであると言う。

「 どの位あるんですか。」

「 90キロ入り袋で25俵、長く置いていたので、大分溶けたのもあるから約2トンくらいでしょう。」

私はたちどころに燃料を計算し、出来ると判断した。

「 よしッ、その空輸を引き受けましょう。」

ということで、たちまち交渉成立。 詫間に空輸のうえ分けてもらうことにして、クルーに相談したところ大喜びで話はきまった。

優秀な計測技師と、天下一品の名パイロットが揃っている。 銀河搭乗員25名は最優先として、合計約4トンの搭載量となる。 詫間までの燃料を考えて、過荷重32.5トンには、少し余裕がある。 計測技師に搭載要領を計画してもらい、銀河の搭乗員に対して名訓示をやった。

「 あす詫間経由 ・・・・ 夕刻横須賀着とする。 今日は一泊の外出を俺の責任で許可する。 久し振りの内地帰還で、お土産も欲しいと思うが、詫間まで重要物件の空輸を依頼されたので、お土産には現在の持ち物の他に一人10キロまでに制限する。 これだけは厳守して欲しい。 二式大艇は、過荷重離水の事故が多いので協力してくれ。」

搭乗員達は喜んで賛成した。 内地 (台湾も内地の一つ) 久々の外出許可だけで十分、一人10キロものお土産なんて買いっこないのである。

その晩のうちに25俵の砂糖は平らに搭載し、これをカバーですっかり囲み、その上に同乗者はあぐらをかかせるようにして席を作った。

さて、23日の朝を迎えた。 風向からすると、短水路2千米を使用せざるを得ない。 長水路は3千米あるが横風になる。 思わず金子副操と顔を見合わせた。 計測技師の計算によると、操縦のミスはないものとして滑走距離は1500米になるというのである。 「 まかしとけッ 」 実験部の名にかけても離水して見せる。

水路のエソドぎりぎりまで下がり、短水路の離水針路をとった瞬間、急速離水法をやった。 うなるエンジン、真剣な操作だ。 25名の搭乗員と25俵の砂糖の命をこの離水にかけているのである。

バンプを超えた。 どんどん加速してくる。 同時に岸壁が眼前に迫ってくる。 ジーッと我慢しながら速力を十分つけて引っぱった。 見事に水を切った。 岸壁まで600米の余裕があった。 思わず心中 “万歳” を叫んだ。

1400 詫間着。 早速、掌経理長にことの一切を説明して、砂糖を少し分けてもらうよう交渉したところ、

「 詫間としては既にあきらめていた品物ですから、代金4百円をいただければ結構です。 もしできるならば、2俵ばかりゆずっていただけませんか。」

とのこと、こちらの言い分が全く逆の立場になった。

「 それでは5俵だけ置いてゆきます。」

ということで、ここでもまず感謝された。 4百円というと大金だが、万一の場合を考え私は持参していたのである。 クルー達がみんなの持ち金をはたいて集めてきたが、

「 心配無用、かくあることを予期して俺が持っていたよ。」

と言って、それぞれに返すように伝えた。

空技廠では廠長を始め実験部長他部員一同が出迎えてくれたうえ、労をねぎらって祝杯まであげてくれた。

早速水上機班長船田少佐 (のちの渡辺空将) (前出) に砂糖の一件を報告し、実験部に内密の回覧を回し、一人1キロ宛、砂糖の特配をやることにした。 まるで福の神が舞い込んだような騒ぎとなり、一躍名声を博したのである。

考えてみると、よくも思い切ったことをやったものだ。 もしも東港の離水でポーポイズでも起こしていたら、あの狭い東港の水域は、甘い水に変わっていたかも分からない。

使い馴れた愛機、パイロット、計測技師、三拍子揃っていたからこそ、この作戦成功したのだが、文句の出るところもなく、総員から感謝されたこの空輸、戦時なればこそと思っている。

今時こんなことをやったら大変なことになるだろう。 脂汗はかいたものの、甘い甘い思い出である。
(続く)

2014年03月26日

大空への追想 (168)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第3話 冷や汗談義 (承前)

        その2 危うし、航空準則の不備

太平洋戦争開戦前、東港空大艇隊の雷撃訓練中に起こった出来事である。

話に入る前に、大艇隊の戦闘準則に示された雷撃法を思い出してみたい。

〔三方攻撃法〕 : 9機 (3個小隊) による編隊雷撃を建前とした。 (下図参照)

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( 原著より   大艇隊による三方攻撃法 )

目標発見後隠密接敵し、敵の約7浬前方 (A点) から三方に別れ (高速)、雷撃目標の3千米圏上 (B1、B2、B3点) に同時に到達し、以後図示のように三方から進入する。 発射点 目標から1000米、高度100米(全速)

〔雷撃後の避退法〕 : 各小隊発射後敵艦上を交差通過し、以後図示のようにC点で集合する。 この時の編隊は左右小隊が反対に占位する。 艦上を交差通過時の高度差は1Dは発射高度の100米のまま、左側2D 200米、右側3D 300米 (Dは小隊の略)

以上のような雷撃法は3機の場合もこれに準じて行われており、特に問題は無かった。

さて16年8月、開戦の公算大なる情勢下、艦隊の士気はいよいよ旺盛航空部隊の艦船攻撃等も実戦さながらで、殉職者も多く出たがとにかく熱がこもっていた。

ちょうど台湾東方海面で駆逐艦を目標に東港大艇隊の雷撃訓練が実施され、9機が出動した。 私は二小隊長である。

第一次攻撃は実射で準則どおりなんら迷うことなく行われた。 普通は、これで帰投するのだが、避退集合点 (図のC点) に到達後、指揮官一小隊長が、「もう一回擬製訓練を行う。 このままの隊形で反転し、三方攻撃を実施する」 と通報してきた。

その時は特に疑問も抱かず、第二回の攻撃に転じた。 3千米圏上からは私は今度は右側からの突入になった。 全速で突っ込んでゆく途中、私の頭の中に交叉する時の高度がチラリと閃いた。

今度は2Dは右側 (個有の二小隊の位置) である。 交叉高度は300米と咄嗟に決めた。

そのまま艦上を交叉する時、300米に引き上げてゆくと、左側から突入して来た3Dがどんどん上昇してくる。

「 危いッ、三小隊高度を下げろッ 」

と叫んでスティックを一杯引っ張った。 幸いに2Dの腕力が勝ったらしく、とにかく500米付近の高度でやっと3Dの上方を乗り越えることができた。 全くハラハラさせられた。

帰隊すると、さあ大変だ。 一小隊長が、

「 二、三小隊は何をやったんだ 」

と言ったものだから、私は、

「 3Dの間違いだッ 」

と叫ぶと、三小隊長が、

「 2Dの高度の感違いだッ 」

と食ってかかって来た。 飛行長が間に入って 「まあまあ」 ということで検討会が開かれた。

私は個有の2Dだが、編隊では2Dは左側と定められている。 第二次雷撃時は3Dの位置に占位していた。 したがって私は占位位置を基準として準則を解釈し、避退高度300米としたのである。

3Dは2Dの占位位置にあったが、3Dという固有名を基準として、やはり300米にしようとしたのである。

大体が雷撃訓練をあんな形で連続実施したことがなかったし、準則には小隊名を基準とはなっていない。 占位位置と小隊名が明示してあるだけである。

二回目の訓練に入る前に、指揮官が早くこれに気がついて交叉高度を指示すべきところ、これをやらずに突入してしまったために混乱が生じたのである。

結局両者共意見は間違っていない。 2Dは占位位置を、3Dは小隊個有名をそれぞれ基準としたところからかく相成ったもので、指揮官の事前の計画が不良、空中で思い立って飛び入り訓練をやったりするからいかんのだということになった。

しかし根本は、このような場合を考えて準則に明示していなかったことにある。 早速準則は訂正された。 問題はすぐ解決されたが、危うく6機の大艇が空中でガチャンとやるところであった。

戦闘準則等は、いささかも疑問の余地なく明確に示す必要があり、思想統一を十分にしておかねばならないことを痛感した次第である。
(続く)

2014年03月22日

大空への追想 (167)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第3話 冷や汗談義 (承前)

        その1 エマージェンシー (承前)

(6) 空中火災運命の5分間

20年に入ると詫間の基地も安泰ではなくなった。 艦上機の来襲を度々受けるようになった。

20年8月7日、一機でも多くの可動機をとの要望から、前日、詫間十一空廠分工場から受け取ったばかりの二式大艇の試飛行を自らかって出た。

空襲の時間帯を避け夕刻飛び出し、高度4千米で糸崎沖に差しかかった際、突然 「火災」 という大声を耳にした。

副操にスティックを渡して後方をふり向くと、右内側エンジンの全周 (短排気管) から青白い大きな焔が一斉に吹き出していた。

最初は単なる排焔と思ったが、おかしいので直ちにスイッチを切った。 やはり焔だ、消えない。 全発動機停止、基地に報告後、全電源を切った。

「 翼内タンクの燃料を卸せ 」

と指示して消火装置を使用したが全く効果なし。 そこで、

「 急降下で消して見 る 」

と言って遮二無二突っ込んだ。 しかし、過速は厳禁、260ノットのまま、制限ぎりぎりの降下姿勢をとった。

恐らくシリンダーから漏れるガソリンに引火したものだろう。 防火壁があるから翼内タンクに引火するとしても少し時間はあるはずだ。 とにかく着水が先決である。

高度4千米からの急降下なので非常に時間が長く感ずる。 煙が機体の隙間をくぐって、搭乗員室にまで入って来た。

「 俺は操縦に専念するから、艇内指揮は分隊長がやれ 」

と怒鳴る。 室内に入った煙を見て、搭整員が、「 もう駄目だッ 」 と大声を出したが、そのまま彼はへナへナと腰を抜かしてしまった。 気の弱い奴がいるものだ。

「 しっかりしろ 」

と言いながら分隊長がいきなり鉄拳を加えたが効果なし。 口をパクパクさせている。 その様子をちらりと見たとたん、余りの滑稽さにおかしくなって私も心の余裕をとりもどした。 分隊長が、

「 火災はエンジンだけです。 大丈夫ですから、隊長ッ着水に注意してください 」

と叫んだ。 私は右手を挙げてこれに応えたが、すごい速力で突っ込んでいるので心配になったのであろう。

海面がふくらんできたが、なかなか長く感ずる。

よく死の直面には、いろいろな思い出が走馬灯のごとく頭の中に浮かんでくると言われていることをふと思い出したが、あれは小説家の作り事だと思った。 実際に心を静めながら思い出そうとして見たが、何も浮かんでこなかった。

もっとも、浮かんで来たら死んだのかも分からないが、気になったのはフラップが使えないことと、大きな速力をどうして殺そうかということだけであった。

エンジンの火災は続いている。 ナセルの色が変わってしまった。 夜だったら真っ赤に見えていたことだろう。 高度100米、何とこれまでを長く感じたことだろう。 わずか10分足らずのはずなのに。

漁船の近くを選んで着水操作に入った。 海面近くで120ノットまで速力は落ちた。 全発停止である。 着水ポーポイズでも起こしたらすべてがパーだ。 だましだまし機首をあげながら90ノットで接水、軽く長いジャンプを一回起こしたが無事着水した。

私はエンジンがまもなく焼け落ちると思ったので、「搭乗員脱出用意」 を令した。 私一人パイロット席に残り各脱出口を全開したまま、総員を艇上に出した。

接水後5分ほどして、大きな音を立て長い焔を吹きながら一番エンジン (右内側)  は、エンジンベッド (マウント) が溶けて、ジャボーン、ジューッ、という異音を残して海中に没した。 爆発と見たのか、後部に残っていた連中があわてて海に飛び込んだ。

防火壁は真っ黒に焦げていたが、火は翼内には入っていなかった。 一番エンジン、ぺラの他は全く無傷である。 防火壁の効果は大きいものだとつくづく感心した。

本機はその後救助隊の到着を待って、詫間に曳航、十一空廠分工場で修理、完全に復元した。

しかし考えてみると、降下開始がもし5分遅れたり、制限速を恐れて緩降下でもしていようものなら、エンジンは空中で落下し、第二次損傷を起こし大事故に連なる可能性があった。 私の生涯を通じて空中火災の体験はこれが最初で最後であった。

それにしても、あの降下中、走馬灯のごとく思い出が閃めかなかったことで生還の糸口がつかめたのかも分からない。 そういう閃きは死の世界にだけ適用するもので、私の場合のようにピンピン生還する者に閃くはずがない。 危機に遭遇した時には、皆さんも試して見て欲しい。
(続く)