2013年01月26日

大空への追想 (60)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第4話 失敗談あれこれ (承前)

        その6 標的機離水の暴挙、艦隊計画おじゃん

16年3月、艦隊の高角砲射撃 (戦技) が計画され、標的曳航機の派出が 「神川丸」 に命ぜられていた。 場所は台湾海峡、「神川丸」 はアモイ沖にいた。 (支那事変に非ず) 機長は私である。

標的は長方形をした大きなもので、重さもかなりある。 九四水偵により、これを長さ200米の細いワイヤーで曳航するのである。

ドラムに捲いたワイヤーを徐々に出してゆくのだが、ドラムとの摩擦でワイヤーが焼損するのを防ぐために、機内にバケツを持ち込み、雑巾で水をかけながら捲き出すのである。 厄介な作業であった。

この日アモイ沖は荒れており、相当湾内深く入らないと離水が困難であった。 当時私は、少々自信過剰の傾向があった。 出発に際し飛行長から

「 波が高いから思い切って奥に入り離水しろ、艦隊は高角砲射撃の戦技だから慎重にやれよ。」

と注意をうけていた。 注意を守って相当陸地に接近したが、まだ波はあった。

「 このくらいの波が何だ。 やって見せる。」

と強気になったのが運の尽きだった。

離水を開始してみると、一向に加速しない。 今日、PS-1 がよく言う波高波長比が最悪の条件になっていたのである。 バゥンシングの繰り返しでだめだ。

ここでやり直すべきところを頑張り抜いた。 普通の3倍もの時間をかけて、やっと離水した。

途端に、後席から 「標的が出てしまった」 と悲鳴に似た声を耳にした。 「しまったッ」 と思ったが、もう遅い。

バゥンシングの連続でドラムのケッチがはずれ、海上に標的が流れ出し、ワイヤーが焼損して切断してしまったのである。 空中で曳航すべき標的が海面に長々と延びている。 予備はない。 泣きたい気持ちでやむなく事情を報告した。

艦長も私の無謀さに呆れていたようだが、艦の面目もあり、うまい理由をつけて艦隊にお詫びした。

張り切って待機している艦隊側の計画は、これでぺしゃんこだ。 白鉢巻で張り切っていたであろう射撃員のうらめしそうな顔が目に浮かぶ。 穴に入りたい気持ちである。

自分で注意していたつもりではあったが、自信過剰はパイロットの大敵である。 一人のパイロットの失敗が、艦隊の行動計画まで変更する破目となったのである。 大いに反省している。
(続く)

2013年01月28日

大空への追想 (61)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第4話 失敗談あれこれ (承前)

        その7 居眠りの悪戯  「我追突さる」

これは医学的にも貴重な珍しい事故例である。 16年4月、佐空で飛行艇講習員をしている時の水偵隊に起きた事故例である。

1030頃発進した零式水偵 (機長A二飛曹) が、音信を絶った。 訓練項目は航法通信、コースも決まっており、天候は快晴であった。

3SR_type0_01_s.jpg
(零式水上偵察機)

1330頃、突然機長A二曹から電話が入った。

「 1130頃、牛深 (天草) の洋上で所属不明の零水に追突され、不時着。 機体は両方とも沈没、私のクルーは全員無事、他は行方不明。 ただ今牛深の郵便局から電話中。」

というのである。 さあ、大変なことになった。

佐鎮は直ちに航空機救難部署を発動、佐空飛行艇で救助隊を送るとともに、全海軍あて、訓練中の零水の有無を問い合わせた。 しかし夕刻までには、該当機なし。

総合調査の結果、不思議な夢物語であることが判明した。

追突瞬時の目撃者はいないが、搭乗員を救助した漁師の話を聞くと、牛深沖で操業中、北の方から低空で飛んで来た水上機を見た、一機だけである。

着水でもするのだろうと、別に気にしていなかった。 そのうち、バシャーンという大きな音で驚いて目をやると、この水上機が海に突っ込んで、3人が海に浮いていた。

急いで救助に行ったが、飛行機はまもなく沈んだ。 20米くらい離れた所にフロートが2つ繋がったまま垂直に突っ立っていた。 というのである。

A二曹の話では状況は次のとおりであった。

1100向後岬を高度700米で発動し、向後岬、甑島、福江 (五島) を結ぶ三角コースの航法訓練、発動点では別の一機が逆コースで発動した。

野母崎付近で、後続するように他の零水が近づいていた。 後席の2名に、この一機をよく見張るように注意した。

牛深付近に差しかかった時、後続機が異常に接近しているのが目に入った。 危いなーと思っていると、大きなショックを感じた。

「追突されたッ」 と思った時には、洋上に放り出されていた。 飛行機は主翼が浮いていたが間もなく沈んだ。 その日の丸のマークが目に焼き付いている。 後方20米くらい離れたところに、追突した零水のフロートが二つ浮かんでいたがこれも間もなく沈んだ。

私達は近くにいた漁船に救助された。 牛深までのコースは快晴、気流もよく、向後岬を出て間もなく自操 (自動操縦) を入れていた。


後席の2名とも、パイロットから何も注意は受けていないし、他機は全く見ていない。 それぞれ偏流測定、通信に懸命で、高度の変化に気づいていなかった。

どうもおかしい。 しかしA二曹は嘘は言っていない。 誰もがそう信じていた。

この原因究明のため、佐世保海軍病院を主体として軍医官の権威者達が乗り出して来た。 医学的に解明しようというのである。

詳細は省略し結論を急ごう。

A二曹は余りの快適な飛行で自操を入れた後、居眠りをしていた。 それまでに、向後岬で確かに他の一機を視認した。 居眠りをしながら夢に出て来たのがこの機である。

これに気をつけねばならんという意識が夢の中に持ち込まれ、あとを追ってくる場面の夢に変わったのである。 後席に注意したというのも夢の中のことである。

自操を入れて眠っている間に、飛行機は次第に高度がさがって行った。 (よくあることだ) 追突されそうだと思って危いなーという夢は、実際の接水のショックとなって、一瞬に夢が現実に切り替わった。 すなわち夢と現実が瞬時に意識の中で繋がってしまったのである。

自分のフロートがもぎとれて飛んでいたが、これを追突機のフロートと思い込んでしまったのである。 夢と現実の連結事象は医学的にも証明できるということである。

この軍医官達のストーリーは各部の証言で裏付けられ、この夢物語が現実化した本事故はこれで落着した。 結局A二曹機一機が接水事故を起こしたもので、追突されたものではないと断定された。

なお、A二曹は嘘を言ったのではないことが医学的にも証明できたので、懲罰にもならず、パイロットから偵察員に配置換えをすることで解決した。

ただ一つだけ、高度が700米低下してくる間に後席で気が付かなかったのかという疑問が残ったのだが、作業に熱中のあまり、気が付かなかったという証言を信用したように記憶している。

とにかく珍らしい事故である。 居眠り操縦ということはよく聞いた。 しかし夢が現実に勝ったような事故が可能性ありというのだから、パイロットは大いに留意せねばならない。
(続く)

2013年01月30日

大空への追想 (62)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第4話 失敗談あれこれ (承前)

        その8 任務か、人命か

昭和12年、遠航 (遠洋練習航海) を終わって艦隊配属、戦艦 「伊勢」 乗組を命ぜられた。 各科候補生合わせて約15名がいた。 艦長は山口多聞大佐 (兵40期) である。

特別教育の最後に、艦長の試問が行われた。 教育査閲である。 私は乗組と同時に特別短艇員の艇指揮を命ぜられていたので大分人気があった。 試問の内容は次のようなものであった。

「 本艦は本日1300出港する。 君は最終定期便のチャージ (艇指揮) を命ぜられ、1145陸上発と定められている。 時間的にはギリギリで道草はくえない。 往航基地訓練中の九五水偵が一機転覆して、搭乗乗員が泳いでいるのを発見した。 しかし場所から見て、救助に行くと定期便の時間は到底守れない。 遭難地点は島影で、艦からも基地からも分からない。 チャージとしてどうするか。」

試問の狙いは、定期が遅れて 「伊勢」 の出港を大幅に遅らせるか、人命救助が先かという点にあった。 陪席の人から、「後発航期罪」 の重要性や、本人を迷わせるような野次的助言が出された。

今の気候では、搭乗員は死ぬはずがない。 他に救助の方法はあるはずと考えたので次のように答えた。

「 桟橋に直行します。 陸発までに、桟橋の詰所から各部に急報させて救助の手段を講じます。」

「 君は救助せず、艦の出港を守るというのだなー 」 と笑われた。 なお人命を救助するという考えに変更させようとする空気が感じられたが、私は頑として初心を貫いた。

山口艦長は、

「 君のようなチャージに出会った搭乗員は不運だったね。 艦の出港が遅れても艦長が責任をとるよ。 救助してやれー 」

と諭された。

私は深く反省した。 自分だけのことを考え過ぎていた。 艦長の責任という点に考えが及ばなかったのである。 人命救助が最優先することは十分承知していたのだが、陪席の野次に迷わされてしまったのである。 「戦場では任務第一、平時は保安第一を旨とせよ」 ある航空隊司令の訓示を思い出した。


この査閲が終わると、間もなく艦隊は演習のため出港していった。

一戦隊と二戦隊の対抗演習の時である。 両軍が砲戦開始のため全速力で接敵行動を開始した。

両軍の観測機同士が空戦に入り、巴戦の最中に高度が低下し、九五式水偵一機が 「伊勢」 の正横約2千米の海上に突入してしまった (即死)。 山口艦長はこれを見るや不関旗一旒、直ちに戦列から飛び出し救助に向かった。

水偵は、機体の破片を残しただけで海底深く突入しており、駆逐艦の追跡捜索もむなしく、消え去っていたのである。 演習とはいうものの、あの切迫した場面での艦長の機敏な行動には恐れ入った。

艦長は、あの査閲における試問の答えを自ら明示されたのである。 青二才の候補生達に対して、人命尊重の重要性を実証して指導された山口多聞艦長を崇敬したのは、この時からである。

ミッドウェー海戦におけるあの闘志、艦と運命をともにされた山口司令官を思うと、まことに感無量のものがある。

(原注) :
「後発航期罪」
艦艇の乗組員が休暇、上陸 (艦艇乗組員の外出) 等で艦から離れ、その艦の出港時刻に遅れた場合の罪名で、軍法会議で処分され、通常、重罪であった。

「不関旗一旒・不関旗を掲げる」
指揮下にある軍艦が、「命ぜられた (定められた) 行動ができない」 という意味を表すために掲げる旗旒一旗信号。 「艦所」 の旗旒を用いる。 (注1)


(第3章終わり) (注2)

--------------------------------------------------------------

(注1) : 正式には 「官名」 で、別名 「不関旗」 といいます。

fukanki_01_s.jpg

   詳しくは本家サイトの 『史料展示室』 で公開している 『海軍信号規程』 をご参照ください。 これのp35〜36に記載されています。



   なお余談ですが、『次室士官心得』 などにおいて初級士官の勤務上の心構えとして躾けられた 「不関旗を掲げるな」 というのはこの旗のことです。 如何に自分の気に入らないことを命ぜられたとしても、プイッとそっぽを向くことなく、勉強・経験と思って何事にも全力を尽くして当たれ、という意味です。

会社などで上司からの言いつけに 「不関旗を掲げる」 若い人はおられませんか? (^_^)


(注2) : 章の冒頭でコメントしましたように、今日の話題社版 『最後の飛行艇』 として出版された際にはこの元々の第3章の全文が収録されておりません。 しかしながら、海上自衛官のみならず、一般の方々にお読みいただいても大変に素晴らしい回想記であることがお判りいただけたと思います。 まさに原題 『大空への追想』 としての著者の想いが伝わってくる内容で、私が本ブログにおいて公開する所以でもあります。


2013年02月01日

大空への追想 (63)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月)

    第1話 飛行艇の歴史 (開戦まで)

第3章でも述べたとおり、明治45年迫浜に海軍航空術研究委員会を設立し、ファルマン、カーチス水上機を購入したのが我が海軍航空の草分けであり、小型水上機が先行している。 我が国ばかりではなく、世界各国の海軍航空においても飛行艇の歴史は古い。

昭和初期に入り水上機の大型化が次第に進められて来た。 海軍最初にあげられた飛行艇は、昭和4年、F5飛行艇 (英国ショート社製) の導入ということであろう。 ただこの飛行艇は重量離水が極めて難しく、なかなか離水せず、偵察員までが操縦桿に綱をつけて引っ張ったという漫画になりそうな話がある。

D_F5_01_s.jpg

海軍はこの飛行艇を改造して一五式飛行艇の国産に成功したのである。 すなわち昭和4年5月、一五式飛行艇2機をもって、横須賀−サイパン間1200浬の無着水飛行に成功し、海軍多年の宿願であった南洋群島 (日本の委任統治) 連絡飛行を達成したのである。

D_type15-1_01_s.jpg

昭和3年川西航空機 (現新明和の前身) が、水上機、飛行艇研究の実績が認められて海軍の指定工場となったのであるが、その最初の仕事として海軍は川西を通じて英国ショート社に哨戒用飛行艇を発注させたのである。

川西は本機の製作については、まず設計の段階から、ショート社の技術陣を日本に呼んで自ら勉強するとともに、日本でこれを製作させたのである。 この一号機(ショート社製)が九〇式二号飛行艇として正式化された。 二号機から五号機まで川西の手で国産化されている。

D_type90-2_01_s.jpg

昭和6年5月、海軍は九〇式二号飛行艇2機をもって館山−サイパン間を飛んで、第二次南洋群島連絡飛行に成功している。

九〇式二号とほとんど同時期に全金属性九一式飛行艇が制式化されている。 これは双発 (九〇式二号は三発) の中型機であり、余り性能はよいものではなかったが、他の適当なものがなかったために長期にわたり使用されていた。

D_type91_01_s.jpg

本機は昭和12年前後、支那事変にも活躍しているし、昭和11年から12年にかけていろいろ改善され、南洋群島飛行にも成功して、長期間にわたり南洋群島の基地調査を実施し、その後の飛行艇南洋基地展開に大きな貢献をしたのである。

その後数年間は、P2Y (米国コンソリデーテッド)、ダグラスDF旅客用飛行艇等が購入されたが、これ等はほとんど実験にとどまり、実用化されていなかった。

九〇式二号が制式化されてから約5年間は次期国産飛行艇開発の研究期間であるが、昭和9年、海軍の要求により川西航空機が、例の九七式四発大艇、続いて昭和13年二式大艇に着工し、いずれも当時世界の傑作機として名声を博するに至ったのである。

  九七式飛行艇

昭和12年制式化され、輸送用36機を含み合計215機が生産された。


D_type97_01_s.jpg

  九九式飛行艇

昭和14年制式化、一般に中艇と称され、佐伯空、佐世保空で訓練に使用されたが、本機は飛行艇の大型化、中型化のいずれにするかの検討用に製作されたもので、九七大艇の性能があまりにも優秀だったために大型化に決定されたと聞いている。


D_type99_01_s.jpg

  二式飛行艇

昭和16年制式化、輸送用36機を含み合計167機が生産された。 終戦時1機が米軍に引き渡された。


D_type02_01_s.jpg

  二式練習飛行艇

昭和16年制式化、小型の練習用であるが、指宿基地から索敵機として実戦に参加している。 ビーチングギヤを自蔵していたことは珍しい。


KD_type02_01_s.jpg


さて飛行艇は以上のような経過をたどっているが、一方飛行艇部隊は着々と育成されつつあり、開戦までに次のような航空隊 (飛行艇に一部関係のある航空隊を含む) が設立されている。

      横須賀航空隊 (大正5年4月1日)
      佐世保航空隊 (大正9年12月1日)
      館山航空隊   (昭和5年6月1日)
      佐伯航空隊   (昭和9年2月15日)
      横浜航空隊   (昭和11年10月1日) 艦隊所属
      東港航空隊   (昭和15年11月5日) 艦隊所属

(続く)

2013年02月04日

大空への追想 (64)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第2話 大艇に死所を定めたり

「佐世保航空隊付を命ず (飛行艇講習員) 」 の辞令をうけたのが16年4月1日、私としては待っていた命令であったが、同時に人事局が忘れていなかったことを感謝した。

飛行学生卒業時、鹿島空飛行長から 「君は飛行艇適任」 と言われたのだが、やはりお世辞ではなかったのだ。 あの時はちょっとがっかりしたのだが、教官の見抜いた私の潜在適性が、大艇乗り最適という結果である以上、喜んでその配置に就くべきであろう。

「よしッ、おれの死所は大艇である」 支那事変で若いうちに実戦を体得し、暴れ放題に暴れ回り、度胸だけは誰にも負けない自信があった。 さらに艦隊勤務で荒海に挑むことに生甲斐を感ずるようになり、シーマンシップもどうやら身についた。

これから飛び込んでゆくところが大艇隊、しかも太平洋戦争も間近いとなれば、水上機乗りとしてまさに男冥利につきるというもの、まことに恵まれたものである。 いよいよ晴れの死所は大艇であり、太平洋上である。 神に感謝する気持ちで一杯だった。

佐世保航空隊に集まった士官講習員は11名、もちろん私が学生長 ・・・・ やがてはこの11名の戦友が私一人を残して靖国の御社に旅立ってしまったのであるが ・・・・

064_01_s.jpg
( 原著より  昭和16年5月飛行艇専修学生修業記念 前列中央が著者 )

約2か月にわたる講習が開始された。 一五式飛行艇は難なくこなして、学生長兼教官、九七式大艇になると勝田飛行長自ら教官となっての力の入れようである。

戦場、艦隊と過ごして自由奔放な操縦に陥っていたのであるが、大艇に乗ってからは、飛行艇自身がパイロットとしての性格をたたき直してくれたと思っている。 即ち重い操舵、鈍重な動き、焦っても無用の操縦をしたところで大艇はびくともしなかった。 そのかわり、一旦姿勢を崩せば復元は遅い。 自然、飛行艇乗りの性格は教官よりも飛行艇そのものが教えてくれたのである。 かくして、人馬?一体となった11名の侍が巣立っていったのである。
(続く)

2013年02月06日

大空への追想 (65)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第2話 大艇に死所を定めたり (承前)

        その1 飛行艇部隊

太平洋戦争突入はもはや時間の問題であり、戦争は避けられないという空気がひしひしと感じられる昭和16年6月、私は東港航空隊付を命ぜられ、支那事変後2回目の台湾行きとなった。

東港航空隊の兵力編成は、横浜航空隊と全く同等であり、九七式大艇24機 (常用18機、補用6機) 隊員約2000名の大部隊である。

航空隊の編成について概略を説明しておいた方が、これからの物語を読んでもらう上に参考になると思う。

065_01_s.jpg

編成は概略上表のとおりであり、兵力面から見ると、海軍の航空隊・飛行隊は、海上自衛隊の航空群・航空隊に匹敵している。

@ 飛行分隊長 (1〜6分隊長) は九七式大艇4機、搭乗員約50名を持っていた。


A 整備分隊 (ライン) は各飛行隊長のもとにあり、それぞれ飛行科3個分隊の大艇 (12機) を担当していた。


(原注) : 各長は司令直轄であり、各長の下にそれぞれ分隊長が1〜2名いた。

B 飛行科士官はすべて各飛行分隊長が握っており、特に飛行隊付という者はいない。


C 飛行分隊長は、現在の内務編成上の分隊長職の他に作戦編成上中隊長の任務を持っていた。


D 各長のもとに掌長 (掌飛行長、掌通信長等) 1名があり、資材補給等すべてを掌握していた。 この掌長制度は海軍の特色であり、各課の運用上極めて有効な支援業務を担当していた。


E 飛行長、飛行隊長は搭乗配置にあるが、現在のように機長を兼務することはない。 飛行分隊長は機長を兼ねている。


F 作戦計画等現在の司令部の仕事は、6名の飛行分隊長と飛行隊長、飛行長が鳩首してこれに当たり、事務は飛行士、飛行隊士の2名で処理していた。


G 術科指導官は6名の飛行分隊長がそれぞれ担当した。 したがって全搭乗員の思想統一ができていた。


H クルー編成は空戦を考慮して定められた。

大型機の機長は階級の上下に基づき、操偵のいずれかが機長となる。 機長は、空戦時操縦席にいては全般の指揮ができないため必ず指揮官席に着いた。 このために、パイロットが機長の場合は、パイロットは他に2名配員した。

空戦に入った場合、機長及び操2名、搭整、通信各1名は所定配置を離れず、他は全部機銃に配員するよう配慮された。 したがって九七式大艇は11名、二式大艇は13名を1クルーとしていた。

個有配置は、指揮官1名、操縦、偵察、レーダー、通信、搭整各2名、二式大艇は見張兼射手2名を追加した。


I 参考までに飛行艇の機銃装備は次ぎのとおり。


   九七式大艇 : 20ミリ ×3、7.7ミリ ×3
   二式大艇   : 20ミリ ×5、7.7ミリ ×3

(続く)

2013年02月08日

大空への追想 (66)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第2話 大艇に死所を定めたり (承前)

        その2 特殊訓練

太平洋戦争開戦を控えた当時の大艇搭乗員は、よくも集めたと思うくらい老練な者が多かった。 24機のクルーを見ると、機長は大尉8名、少中尉10名、飛曹長6名、クルーは下士官搭乗員であるが善行章5線の一曹が約3分の1を占め、搭乗員約300名を揃えてていた。

また、その天測技量は抜群であった。 ( 戦争後半、レーダー搭載は飛行艇のみであったが、その電測技量もまた優れていた。)

当時の飛行艇の主任務は水上目標の索敵、及び機を見て雷爆撃を実施することになっていた。 また飛行艇の特性として洋上低空飛行が可能のため、低空雷撃の特別訓練が課せられていた。

出撃前の主要訓練は射撃能力の向上、超低空雷撃、水上雷撃の研究等であった。 四発の関係もあり、電波航法、航空法規もさだかでない時代であるが、全天候飛行には絶対の自信をもっていた。

(1) 空戦運動

大艇が対戦闘機空戦に弱いことは当然であるが、窮すれば通ず、超低空運動により、相手を艇体下にもぐり込ませない限り、射撃能力が優れておれば対等の射ち合いは可能である。 超低空においては、戦闘機からの攻撃は上方から、しかも浅い角度の接敵態勢をやむなくするので、この空戦々法は極めて有効であった。


(2) 低空雷撃−真珠湾浅深度雷撃成功の端緒を開いた大艇隊

飛行艇は当時魚雷2本を搭載した。 戦前はもちろん、開戦後約8か月間は、あの鈍重な機体で堂々と雷撃を実施したが、戦果よりも被害が大きいために遂に停止された。 雷撃は海面を舐めながらの零高度で発射する方法を採っていた。


さて大艇隊の低空雷撃が、開戦当初の機動部隊の真珠湾浅深度雷撃を成功させるに至ったと言われている。 まず飛行艇の大先輩田村氏の話を聞くことにしよう。 これは開戦劈頭、真珠湾雷撃成功に至るまでの猛訓練の裏話ともいうべきものである。

飛行艇による雷撃等ということは考えたこともなかった。 それが九七式大艇には雷撃装置が付けられたのである。 飛行艇関係者が驚いたことは言うまでもない。

雷撃は陸上機の専売特許である。 九七式大艇誕生当時の飛行艇乗りの雷撃の知識といえば極めて幼稚なものであり、実験を担当した横浜航空隊にしても、雷撃実験は五里霧中の状態、横空から数回の講習を受けながら実に頼りない次第であった。

この実験中に秋の大演習となり、横浜空は赤軍に参加して雷撃任務を与えられた。 これには慌てたものだった。 その命令とは、「青軍は佐伯湾に停泊中である。 飛行艇隊は内地を発進し、好機に乗じこれを奇襲雷撃せよ」というものであり、佐伯湾は真珠湾に仮想し、好機とは黎明時である、と付け加えられた。

内地を出発し、ハワイを攻撃するには、どうしても真珠湾の西北西にあるフレンチフリゲート環礁を利用し、潜水艦から燃料を補給する必要があった。 そこで横浜 (内地) を前日夕刻発進し、隠密裡に宿毛湾 (フレンチフリゲート) に進出して一泊し、翌黎明時を期し佐伯湾 (真珠湾) に殺到し、停泊中の艦隊を奇襲雷撃 (手続きのみ) することに成功したのである。

ところが演習講評では、「飛行艇隊の佐伯湾奇襲は見事大成功であるが、雷撃法は全く素人で、効果は零、魚雷は全部海底突入だ」 という酷評をうけ唖然としたものである。

真珠湾の水深、湾の広さ、魚雷が飛行艇から離れたあとの運動等細かい説明を受けて、なるほどそのとおり、全くギャフンとしてしまった。

しかしこの雷撃演習が実施されたからこそ、真珠湾に対する魚雷攻撃が真剣に検討され、浅深度魚雷の研究に没頭した結果、3年後の真珠湾奇襲に大戦果を挙げるあのような立派な魚雷が完成されたのである。

この魚雷の開発に取り組んだ愛甲少佐 (文雄、兵51期) も言われているとおり、もしも佐伯湾奇襲の飛行艇の雷撃が成功したとして褒められていたなら、真珠湾の浅深度雷撃は失敗に帰していたであろう。

失敗は、いつどこで起こるかも分からない。 又その失敗をどう活かしてゆくか、この点だけでもあの浜空の雷撃失敗は貴重な結果を産んだものである。

着水雷撃法は東港空飛行長相沢中佐 (達雄、兵51期) (戦死) の発案である。 夜間、飛行艇が敵港湾に隠密裡に進入し、着水後水上滑走で目標に接近し、3000付近で照準発射したのち、飛行艇は反転し離水避退するというものである。

当時の航空魚雷は、投下する際機構的に起動ノッチが作動してペラが回転を始める仕掛になっていた。 水上滑走では速力がないため投下しても起動できないので、投下前にパイロット席から手動で魚雷の起動ノッチを作動できるように工夫をした。 この水上発射訓練は特別チームを編成して実施していたが、極めて良好な成果を得ていた。
(続く)

2013年02月11日

大空への追想 (67)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第3話 出 動

        その1 出動直前の悲劇

東港航空隊の開隊は15年11月15日である。 横浜航空隊から分割され、佐伯空で九九式中艇により基礎造りをした後、九七式大艇に装備換えとなり、南洋行動、指宿、横浜と基地訓練を続けた後、横浜基地において飛行隊の最終編成を終えて16年7月東港に移動を完了したのである。 (注)

16年9月3日、射撃訓練のため九七大艇2機に4クルーが搭乗して出発、最後の仕上げに取り組んだ。 私がまず離水、直ちに吹流し標的を開いて二番機の離水を待っていた。 二番機のパイロットはベテランの出口飛曹長であった。

離水を開始して間もなく、突然高くはね上がった。 「ポーポイズだッ」 思わず息を呑んで喰い入るように見つめていると、続いてジャンプを繰り返し、3回目に高いジャンプをした途端、機首を下げて海面に突っ込んだ。 胴体は三つに折れて海底に沈み始めた。 典型的なポーポイズである。

私は吹流しを切り捨てて直ちに現場に着水し、救助のためにクルーを数名飛び込ませた。 二号機は既に湖底につき、主翼と尾部を海面上につき出しており、数名のクルーが重傷のまま浮いている他は、ほとんどが水没していた。

救助艇に一任して、私はすぐビーチソグしたが、出動を直前に控えた時点で、まことに無念の大事故を起こしてしまったのである。 結果は16名中11名が即死、重傷5名であったが、内一名の悲惨な最期がいまだに浮かんでくる。

彼は救助されたのだが、既に肺に水を呑んでおり、呼吸が苦しいのにベッドの上に立ち上がって、「分隊長ッ、戦地に行きたい」 と叫びながら抱きついて来た。 軍医長は既に施す術がないと言ってモルヒネを注射した。 彼は苦しみから脱すると、間もなく永遠の眠りについたのである。

私は彼の眼を閉じさせながら、彼の分まで奮戦することを誓う以外に何もなすことができなかった。

副操が残ったので原因は判明した。 離水フラップの把柄のケッチがかかっていなかったために、離水操作中にセット位置からずれフラップが一杯下がってしまったことに誰も気づかなかったことが主因である。

九七大艇のフラップ角度は、離水15度着水40度であり、操作把柄 (手動) により自由な角度がとれる仕掛けになっていた。

この事故により、フラップ角度は、離水着水の選定をすることにより、操作把柄が固定されなくても指定角度にセットするように改善された。

飛行艇のポーポイズは体験者でないと真の恐ろしさは分からない。 ポーポイズの初期を探知して、直ちに離水をやめる以外に方法はなかったのである。 PS-1 のように、起こそうと思ってもポーポイズが起こらないような飛行艇が誕生したことに感謝している。

出動を唯一の楽しみとして張り切っていた二番機搭乗乗員を一挙に失ったことは痛恨の限りであった。 彼らもさぞ無念だったろう。

丁重な海軍葬が行われたが、事態は切迫していた時であり、我々は亡き戦友の遺品の一部を身につけて、再び猛訓練を続けていったのである。

出口飛曹長の夫人が黒髪をバッサリと切って主人の代わりにと差し出された時の光景は今でも忘れることができない。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : 各航空基地については次を参照下さい。 なお、指宿については作成次第別途ご紹介します。


横浜航空基地
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/009A-Yokohama.html
佐伯航空基地
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/015A-Saiki.html
東港航空基地
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/065A-Toko.html

2013年02月13日

大空への追想 (68)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第3話 出 動 (承前)

        その2 ある搭乗員の更生 (注)

16年11月6日、東港航空隊は既に臨戦準備を完了し、基地隊員は既にパラオに進出していた。

24機の飛行隊は11月8日、パラオに向かって出動することが決定していた。 6日、7日にかけて婆婆との未練を絶つべく特別外出を許可された。

さて出動を二日後に控えて、まことにいやな問題が持ち上がった。 この日規律違反者が2名、軍法会議から帰って来たのである。 司令の意向は、残留部隊指揮官に預け、佐世保海兵団の神様分隊に送ることになっていた。

(原注) : 神様分隊とは、海兵団の特殊指導分隊で、規律違反者等の下士官兵を集めて更生させるための教育斑のことである。


このうちの一名は、搭乗整備員A兵曹であった。 私は知らない人物であったが、なぜか副長から二分隊長 (私) に預けるということになった。

A兵曹は搭乗員としては優秀な人間であるが、酒を飲むとがらりと一変し、大胆なことをやらかすのである。

当時隊内飲酒は許可されており、隊合での酒宴も盛んであった。 A兵曹は分隊会で痛飲し、巡検後密かに悪友(これが他の一名)と屋上に出て、残り酒を飲んでいた。

そこまではよかったのだが、今から外出しようということになり、当直であるにもかかわらず、脱外出をやり、翌朝は寝過ごして帰らず、衛兵副司令に連行されて帰隊したのである。

今なら隊の懲罰ですむところだが、海軍では帰艦時刻遅延は極めてきびしく、後発航期罪で軍法会議送りとなったのである。 A兵曹はもちろんこの罪人扱いとなった。

出動を二日後に控えて飛行分隊に戻され、処置に困ったので相沢副長のもとに相談に行くと、昭和の広瀬中佐と言われた相沢中佐は、「来たかー」 と言って早速自分の考えを述べられた。

「 司令と相談のうえ決めたことだが、Aを更生させ得る分隊長は君以外にいないと信じている。 俺も酒は好きだが、Aは酒に呑まれてとんでもないことをやる男だ。 しかし、あんな人間は戦争には強いぞ。 海兵団に送ったら彼の人生は終わりだ。 君に任せる。」

この一言で私には副長の腹が読めた。 副長は、Aを搭乗乗員に復活させ、出動させたかったのである。 私としては大任を引き受けることになった。

「 副長ッ、A兵曹を引き受けました。 彼は五番機の主搭整員として使います。」

「 うん、頼む。 今夜は一緒に高雄に行こう。」

こんなことで、私は以後公私共に相沢副長の腰巾着となって裏の方で活躍したものだ。

A兵曹は海兵団送りを覚悟し、出動に張り切っている分隊員を羨ましそうに眺めながら、一人身の回りの整理をしていた。 早速先任海曹を呼んで事情を説明し、Aを連れてこさせた。

「 俺はお前とは初対面だ。 お前のやったことは副長から聞いて全部知っている。 今日からお前の身柄は俺が預かった。 お前は五番機主搭整として搭乗員に復活させ、一緒に出動する。」

(ここまで言うとAは手放しで泣き出した。)

「 一切の過去を忘れろ。 今回の出動は軍人として最高の栄誉である。 我々は二度と生還は考えていない。 お前は今日から第二分隊員として再出発するんだ。 過去の汚名は戦場で拭い去れる。」

先任海曹も泣き出した。

「 さあ分かったら泣くな。 今日は最後の外出だ。 みんなと一緒に外出して裟婆の未練をきっぱりと切って来い。 お前のお母さんから副長に宛てた手紙も読んだ。 搭乗員として出動することを伝えて安心させろ。」

A兵曹は泣くだけ泣くと、晴々とした顔で、奮闘を誓った。 彼はその日の外出をしなかった。 早速受持機の整備に取り組んでいた。

戦場での彼の活躍は素晴らしかった。 私が出撃する時は必ず整備を手伝って見送ってくれた。

長い戦場生活も無事に切り抜け、現在は某会社を経営して立派に暮している。

長い軍隊生活の中にはいろいろな問題にぶつかっている。 しかし分隊長として一隊員が立派に更生してくれたこの一件は、開戦という特殊環境ではあったが、何より嬉しかった思い出として脳裏に深く残っている。

上司の正しい愛情と理解、部下の信頼、これが部下指導に強い何よりの条件であると信じている。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : 本項は今日の話題社版 『最後の飛行艇』 では割愛されています。

2013年02月15日

大空への追想 (69)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第3話 出 動 (承前)

        その3 全機出動

069_02_s.jpg
( 原著より  昭和16年11月8日 東港航空隊出撃記念写真 )

銀の砂をまいたような星空が美しく輝いていた。 晴天の暗夜である。 一点の雲もなく澄み渡っている。 遠雷の一時に鳴りわたるような爆音が、足元から体中を揺さぶってくる。

金星一千馬力エンジン96基の一斉試運転が始まっていた。 時は昭和16年11月8日午前一時。

台湾の南端東港海軍航空隊の広大なエプロン上に九七式大艇24機が勢揃いして出動を待っていた。 エソジソから吐き出す青白い焔が、晴天にきらめく銀の星と相まって、まことに勇壮な美観を呈していた。

開戦必至とあって、全搭乗員は昨日までに諸準備を整え、婆婆との未練もさっぱりと断ち切って、今や思い残すことはない。

十一航空艦隊に編入された東港航空隊は、本日パラオ基地に全機進出を命ぜられたのである。 ブリーフィングは既に終わっており、既に受入態勢の整ったパラオ先発基地隊からは、天候良好の連絡が来ていた。 今はただ出発の順番を待つだけである。

指揮所の屋上に立って、この勇壮な出動の光景を眺めながら、支那事変に続いて第二次出動を迎えた私は、一人誇りをもって武者震いしていた。

司令三浦大佐 (艦三、兵47期) も、副長相沢中佐も今回が初陣だと言っておられた。 青二才の大尉の分際である私は、既に支那事変で敵陣の中をかいくぐり、爆撃の快感も味わっている。 空戦の体験を持つおらが分隊長ということで、部下隊員は他の分隊に対して優越感をもつほど信頼してくれていた。 まことに嬉しい限りである。

069_01_s.jpg
( 原著より  東港航空隊司令 三浦艦三大佐 )

司令三浦大佐搭乗の第一小隊3機が先ず先陣を切って滑走台を離れていった。 8個小隊計24機が15分間隔で順々と出発する。 このうちの何人かがこの地を二度と踏まなくなることであろう。

全機超過荷重、しかも暗夜の離水である。 私は3番目に第二滑走台から出発した。 日頃から見慣れたクルーだが、今日は皆目の色が変わっていた。 薄赤い室内灯のもとで、てきぱきと行動するクルーの姿は全く頼もしい限りである。

開距離編隊のままピッタリとついてくる列機。 難なく離水すると、針路南東、1300浬彼方のパラオに向うコースに乗った。

常用補用併せて全機24機の大艇が、一機の故障もなく深夜超過荷重離水を敢行したという事実は、当時の飛行艇隊の高練度を物語るに十分であろう。

全機無線封止のまま比島北端を東へ150浬離して高度4000米の快翔を続け、9日の1330までに全機南洋群島パラオ基地 (注1) に無事到着した。

既に先発していた整備隊、基地隊が元気に迎えてくれた。 東港空所属の輸送船 「葛城丸」 (一万トン) (注2) も環礁内に錨を下ろしていた。

南洋の海は美しかった。 椰子に囲まれた自然の水上基地に、24幾の大艇が浮かんでいる光景は、まさに一幅の錦絵のようである。 一か月後に太平洋戦争が開始されよう等とは夢にも考えられない光景であった。 しかし事態は反対に緊迫の度を深めていったのである。

「 さあ、敵さんどこからでもやって来い 」

いよいよ太平洋戦争への第一歩をふみ出したのである。


さて、戦争突入まで約一か月あるが、開戦になると忙しいので、ここでパラオ基地での生活をちょっと紹介しておこう。

猛訓練はお決まりのことなので想像に委せることにし、これから先の南方基地の生活は、パラオが最上であった。 占領した敵の基地での生活を除けば、宿舎は天幕か仮小屋であった。

パラオは海軍が既に水上基地として開設していたので格納庫もスベリもあり、基地施設としてはなんら不足はなかった。

特色をあげれば、天然水がなく、雨水をタンクに溜めて使用した。 石鹸がよく溶けて気持ちがよいが、虫歯製造に効くのでご用心となる。

夜間は必ず車軸を流すようなスコールがやってきた。 蟻が多く、ポマードを使用していると、寝ているうちに頭に巣をくわれることがよくあった。

最大の関心はデング熱、マラリヤ病の予防であった。 反面空気はよく澄んでおり、視界は一般に30浬はある。 椰子の葉薫る珊瑚礁 − 歌どおりの美観を呈していた。

パラオの町は、日本人の町、飲み屋街も料理屋も盛大に活気を呈していたが、我々の狙う女性は一般に柄が悪かった。 交通の便は隊の定期便以外はない。

戦地の生活というと、飛ぶ (戦闘) こと。 飛行艇の場合は一回の索敵が約10時間で、3日に一回は出動する。 したがって暇があれば寝ること。 体力の温存は、これ以外にない。

作戦会議以外には、よく市内の散索もできた。 南洋だけにマグロの鮨の味は飛びきり上等であったことが記憶に残っている。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注1) : パラオの水上機基地は、当初昭和9年から南洋群島との民間連絡便確保のため、パラオ諸島の中心であるコロール島の西隣の 「アラカベサン島」 に設置されたのを始まりとします。

太平洋戦争開戦までにスベリやエプロン、格納庫を備えた本格的な中枢基地として整備されましたが、その詳細については不明です。 現在でも 「Palau Pacific Resort, PPR」 の敷地内に南北2つの滑り跡が残されています。


Palau_map_01.jpg

Palau_map_02_m.jpg
( 元画像 : Google Map より )

AB_Palau_sat_h25_01_m.jpg
( 元画像 : Google Earth より )

PPR_photo_01_s.jpg
( 元画像 : PPR のサイトより  北側の滑り跡 )

(注2) : 「葛城丸」 についてはHN 「戸田S.源五郎」 氏の素晴らしいサイト 『大日本海軍特設艦船』 の次のコーナーを参照下さい。




2013年02月18日

大空への追想 (70)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第4話 大艇隊の変遷と基地展開

太平洋戦争における飛行艇隊の実戦記事を進めるに当たり、ここで開戦後の大艇隊の変遷と、全海域を駆け巡って戦う際に、どのように基地転進を行ったかを概説しておく必要があると思う。 今後の前進基地運用面になんらかの参考になれば幸甚である。

太平洋戦争における海軍飛行艇隊の活躍を知る人は少ない。 当時4000浬の航続力を世界に誇った二式大艇がどのように太平洋を駆け巡ったのか。 海軍航空部隊でレーダー索敵を実動したのは、後にも先にも飛行艇隊だけなのである。 また終戦に際し日本の空を最後に飛んで、日本航空部隊の幕を閉じたのも二式大艇なのである。

開戦当時から主力飛行艇のみで約400機を投入した海軍飛行艇部隊も、終戦時わずかに可動機は二式大艇3機を残すのみで、4年間の戦争にすべてが消耗されてしまったのである。 これらの経緯をまず概説してから戦闘場面に入ってゆきたいと思う。


        その1 開戦後の変遷

開戦までの状況については第1話で述べたので、開戦後どのような経過を辿ったかについて述べてみよう。

太平洋戦争の立ち上がりにおける飛行艇作戦部隊は、横浜航空隊、東港航空隊の2隊であり、各々九七式大艇24機を保有していた。 各隊とも開戦の1〜3か月前に内地を離れて配備を終わっていた。

〇 横浜航空隊
16年9月頃から移動を開始し、本部をマーシャル群島ヤルートに置き、周辺の各離島基地に兵力を展開していた。


〇 東港航空隊
16年11月、全力をパラオ基地に集結し、以後の機動作戦に備えていた。


〇 第十四航空隊
17年4月1日、飛行艇隊として新設された。 開戦後東方、西方、南方に戦線が拡大され、索敵隊の尖兵である大艇隊の出番が急を要する段階に入ったため、2隊48機の兵力を3隊 (16機宛) に分割したのである。


〇 17年4月の時点における3隊の配備は次のとおりである。 (本部所在地) (注)
  横浜空 (16機) ・・・・ ラボール
  東港空 (16機) ・・・・ アンダマン (印度洋)
  十四空 (16機) ・・・・ ヤルート


〇 17年8月7日、横浜航空隊はソロモン群島ツラギにおいて米機動部隊の奇襲を受けて玉砕した。


〇 17年10月1日、横浜航空隊は横浜において再建された。 ほとんど新編部隊に近かった。


〇 17年11月1日、海軍航空隊の呼称が改変され、八〇一空 (横浜空)、八五一空 (東港空)、八〇二空 (十四空) となった。


〇 18年5月頃、飛行艇第一線機は九七大艇から二式大艇に全面的に装備換された。


〇 18年6月1日、練空詫間航空隊が香川県の詫間に開設され、佐世保、博多等において教育中の飛行艇、水偵搭乗員の教育部隊を移動し、教育が一元化された。


〇 18年12月15日、九〇一空が新設された。 対潜作戦の急務上、海上護衛総隊が連合艦隊と併列して新編され、対潜護衛作戦に専念することになり、その傘下に第一線機から退いた九七式大艇を集結した飛行艇対潜部隊ができたのである。 東港、指宿を主基地とした。


〇 18年12月頃から二式大艇を改装した輸送用飛行艇 「晴空」 が誕生し、輸送航空隊、艦隊司令部に配備されて作戦輸送を開始した。


〇 19年3月、練空詫間航空隊の飛行艇教育は停止された。


〇 19年4月1日、八〇二空がサイパンにおいて解散し、そのまま八〇一空に合併されたが、19年6月15日米軍のサイパン上陸によりその大部分が玉砕した。


〇 19年9月20日、八五一空が解散した。 八五一空 (東港空) は主として南西方面に展開され、一部兵力は北方作戦 (アリューシャソ) のためキスカに分派されていたが、横浜空のツラギ玉砕により、総力をソロモソに集結し奮戦していた。 その後ガタルカナルの陥落に伴い、再び印度洋、ジャバ方面に転進していたが、兵力の漸減により八〇一空に合併し、八五一空は解散されたのである。


〇 19年11月以降、飛行艇作戦部隊は八〇一空一本化となり、外地の基地はすべて撤収し、詫間基地に集結して作戦を続行した。 航続力の大きな大艇隊が、基地を安全圏内におき、その足を生かして作戦することになったのは、これが最初である。 当然の用法であろう。


〇 20年2月10日、第五航空艦隊 (事実上日本最後の精強航空部隊である) が大幅に改編され、八〇一空は大艇と中攻 (K七〇三) の混合索敵隊となって、その傘下に編入された。 この時点における大艇隊の兵力は、二式大艇12機、クルー20組にすぎなかった。


〇 20年1月、飛行艇の生産を停止
生産停止に伴い、輸送部隊を除く全飛行艇隊 (教育部隊、九〇一空を含む) を八〇一空に合併した。


〇 20年4月25日、搭乗員教育の停止により、練空詫間航空隊は解散し、同時に飛行艇隊は八〇一空から分離され (八〇一空は中攻隊のみ) 水偵特攻隊とともに、新たに詫間航空隊を編成して、五航艦に編入された。 即ち詫間空は教育部隊から作戦部隊に改編され、海軍飛行艇部隊は一隊に絞られて詫間空飛行艇隊とその名称を変えたのである。


〇 決号作戦配備
飛行艇隊は作戦基地を詫間におき、補給基地を横浜、後方 (避退) 基地を七尾、鎮海、隠岐とした。


〇 20年8月23日、詫間において飛行艇隊は解散した。


かくして開戦時から、東はハワイ、西は印度、南は濠州、ソロモン、北はアリューシャンという広大なる戦域を駆け巡って勇戦奮闘を続けた海軍飛行艇隊は、最後は詫間基地に全兵力を集中し、最後を全うしたのである。

この間、南洋群島、ソロモンの激戦、印度、アリューシャンの索敵攻撃、梓特別攻撃隊等数多くの戦闘に飛行艇ならではの成果をあげて来たが、戦果の陰には大きな犠牲を見逃すことができなかったのである。

飛行艇隊の本流は横浜航空隊にその源を発し、いくつかの支流に分かれながら最後は再び本流に合流し、詫間航空隊飛行艇隊とその名を変更して、大任を全うしたのである。

400機を誇った飛行艇も、終戦時、わずかに3機が詫間に残って消滅した。 その中から一機を整備して、20年11月11日、米軍に引き渡したのである。

その後、その機はノーホークに保管されていたが、54年7月13日に再び日本に帰ってきた (この項本章第11話で詳述する)。 思えばまことに感無量の飛行艇の変遷であった。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : ラバウル、アンダマン、ヤルートの水上機基地については、何れもその位置及び施設の状況については不明です。


Labaul_map_01.jpg
( ラバウル地区 )

Andaman_map_01.jpg
( ポートブレア周辺 )

Jaluit_map_01_m.jpg
( ヤルート環礁 )

2013年02月23日

大空への追想 (71)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第4話 大艇隊の変遷と基地展開 (承前)

        その2 飛行艇隊の基地転進

さて、飛行艇隊が広大な戦域を転進するには、母基地を離れた後約三年間を前進基地で送り、本土集結後も天が下には隠れ家もなしの状態で離島や名もなき入江等を転々としたのである。

しかし、このために作戦に影響したことは全くなかった。 この実績は飛行艇というものの運用上の教訓として大いに肝に銘じてもらいたいと考える。

前項変遷とも併せ、下の2つの図 (注) を参照のうえ、大艇隊の足跡を辿ってみよう。 なお基地転進のため、横浜空には 「神威」 (もと水上機母艦)、東港空には徴用船 「葛城丸」 (一万トン貨物船) が各司令の指揮下に入って基地移動に協力し、場合によっては駆逐艦等が支援したのである。

太平洋戦争中に使用した飛行艇の基地は50数個所に及んだ。 そのうち半永久的施設を有したもの18、スべリを有するだけのものが別に19基地あった。

〇 飛行艇母基地 (二式大艇を基準)
横浜、東港、詫間、佐世保 (教育)、横須賀 (実験)


〇 国内で使用した基地 (母基地以外)
大湊、館山、佐伯、元山、鎮海、指宿、博多、古仁屋、馬天、宍道湖、七尾、隠岐、香港


〇 航空廠 (会社を含む)
呉、大村、詫間、土浦、根岸 (日航)、甲南 (川西)


〇 南洋群島の基地
サイパン、パラオ、トラック、ヤルート等計13基地


〇 占領地で使用した基地
マニラ、ダバオ、昭南、スラバヤ、バタビヤ、マカッサル、ケンダリ、ケマ、クーパン、ペナン、ショートランド、ツラギ、キスカ、幌延、サイゴン、フレンチフリゲート、マルデブ



( 左クリックで大きなサイズのものを別ウィンドウ表示します )

070_02_s.jpg

以上のように飛行艇隊の太平洋戦争における足跡を追ってみると、前進基地を求めながら全戦域を駆け巡っていたことが分かると思う。

特に東港航空隊 (八五一空) について見ると、この一隊だけで、ハワイを除き全戦域を行動している。

4年間にわたる空襲下の転戦まことに苦闘の一語につきる。 この間黙々として職に殉じた飛行艇隊は約400機、1000名にも及んでいる。

このような基地転進を支援した海軍力もさることながら直接的支援力としては、飛行艇自身が人員、物件を空輸した他、各航空隊司令の指揮下に必要な船艇、大型輸送船が張り付けられていたこと、部隊自身に基地建設能力を有する工作科 (主として施設) があったこと等が特に目立っている。

敢えて前者の轍を踏む要はないと思うが、飛行艇の運用、前進基地の必要性を検討する上においてなんらかの参考になれば幸甚である。

最後に中央要職にあった某先輩の所見を付け加えておく。

『 日本海々戦の亡霊が海軍首脳部の頭に強くこびりついており、最後は艦隊同士の一大決戦によって雌雄を決するという考え方が残されていたのである。 「皇国の興廃この一戦にあり」 だけが戦闘の目的であり、これに全力をあげて他を顧みないか、または極端な犠牲を平然として見ているという状況であった。

このようなことが影響して飛行艇の防御力等は軽視され、攻撃力のみを強化して決戦場で空しく消耗することを当然のように考えていたのである。 一大決戦に備えてつくられ、訓練されて来た飛行艇隊を実戦の場では、ただ消耗戦だけに終始させてしまったことに、海軍首脳部の頭の固さを痛感する次第である。

太平洋戦争における海上戦闘に利用し得る離島は、その距離上から見ても、航空機の発展度合いと併せ一大転換期に到達していたと思う。 即ち、これら離島の陸上基地を利用する軽快高速の偵察機の開発に努力すべきであったと反省している。

しかし当時の航空本部は、そんなことは考えてもみなかった。 このような陸上偵察機が出現しておれば、優秀な飛行艇部隊の運用は大きく変化していたはずである。』
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : 何故か今日の話題社版 『最後の飛行艇』 ではこれらの2つが割愛されて、地図だけの簡単なものになっています。


2013年02月26日

大空への追想 (72)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり

この項においては、実戦の記録をあげて参考に供することにした。 多少面白おかしくという意向もあるが、読者にお願いしたいことは、これら戦例から旧海軍においては飛行艇の使命がいずれにあったか、果たして海軍において飛行艇の出番があったのだろうか、ということを考えてみていただきたいということである。

死を大前提とした教育環境下の軍隊、そして太平洋戦争という特別の環境のもとにおける海軍航空部隊の行動と、現在の海上自衛隊航空部隊の対潜戦を任務とする行動では、任務及び航空機そのものが異なっていることは当然であるが、これを乗りこなす搭乗員の心構えは相通ずるものがあってしかるべしと私は考えている。

よく PS-1 の対潜戦における地位とか、PS-1 の出番が果たしてあるのかという声を聞くのであるが、旧海軍の作戦における大艇の位置付けということを研究してみることにより、なんらかの解答が出てくるのではなかろうか。

後述するが、ミッドウェー海戦を例にとってみると、ミッドウェー攻略を目的としたこの大作戦は、これを実施するための主、副両作戦を併せ考えてみると、まさに連合艦隊のほとんどを投入した一大決戦であった。

悲惨な結果を招いたのではあるが、直接の敗因は、ミッドウェー島北東部に待機していた米二大機動部隊を、その初期において発見できなかったことであったと思う。

いかなる索敵手段を用いたのか概説してみれば、まず先頭の八戦隊 (重巡) の搭載機 (当時の零式水偵では進出距離約400浬) の槍先が最先端になる。 次が空母部隊の艦載機 (九七艦攻も、進出距離は零水と大同小異)。

そこで山本長官は、航続距離世界一を誇る二式大艇をマーシャルに進出させて、事前の大索敵に投入することを計画されていたのである。 すなわち、機先を制するためにハワイを覗いて米機動部隊の有無を探り、次にミッドウェー北東海域の奥深くに目をひからせることであった。

不幸にしてこれら二式大艇の索敵は成功しなかったのであるが、海戦成否の鍵を握るような重要な情報の確認面に、海軍飛行艇の活躍場面があったことを知って欲しいと思う。
(続く)

2013年02月28日

大空への追想 (73)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その1 事前偵察と開戦第一撃

パラオ基地に集結してからは連日実戦的猛訓練が続けられた。 当時を考えてみると、戦争は避けられないと思いながらも、最後に外交交渉の好転を祈る気持ちが心の一隅にあったことを記憶している。

開戦]日は全く不明、東港空飛行艇隊としての第一撃は比島東方海面の索敵以外にはないと見て、既に索敵計画は作られていた。 投入兵力は12機である。

東港空の所属は十一航空艦隊の二十一航戦である。 不思議な縁とでも言うか二十一航戦の司令部は、支那事変の時の六航戦司令部の面々であった。 私はその先任参謀柴田中佐 (前出) をよく知っていた。 そこで三浦司令に対し意見具申をしておいた。

「 司令、柴田参謀は支那事変で一緒だったんですが、常に常用機全機を使われる人です。 恐らく第一撃の索敵には全機18機の投入が予想されますから、第二案を作っておく必要がありますよ。」

「 そんな非常識なことはやらんだろうが、万一に備えておこう。」

と了解された。 (案の定、第一撃は全機投入であった。)


11月下旬に入ると、軍令部から突如特別の任務が下令された。 九七式大艇一機をもって 「セレべス島メナド飛行場 (注1) の隠密写真偵察を実施せよ」 というものである。

この時点ではマレー半島、シンガポール方面の写真偵察が横空の高速偵察機によって既に終了していたのだから驚いた。 早速準備にかかる。

まず使用機の日の丸を消し、迷彩塗装を施した。 搭乗員がふるっていた。 隊内きってのクルーを集めた他、司令、飛行長、飛行隊長が乗り込むことになった。

私は余りにも大げさな編成に不満、撃墜されたら東港空はパーだぞ、俺一人でできることなのに ・・・・ 支那事変の体験を持つだけに多少自惚れてもいた ・・・・。

この偵察、高度7千米、雲の切れ間から見事に成功して無事帰還、ほッと安心したが、これが指揮官陣頭といえるのかなー、ちょっと首をひねったものである。

続いて再度秘密作業が命ぜられた。 当時日航 (大日本航空海洋部) の定期便 (九七大艇) が横浜 ←→ チモール間に初就航した。 サイパン、パラオ経由である。 この定期便を利用してアンボン飛行場 (注2) の写真を撮らせろというのである。

073_01_s.jpg
( 原著より  民間型の九七式輸送飛行艇 )

日航搭乗員も当時は、海軍満期者であったから彼らも快く受諾した。 パラオ寄航の際、特別待遇で整備を手伝いながら、海軍の航空写真機を渡し、撮影法やら写真機の海中投棄、ネガの隠し場所等を指示したものである。 これも成功し、貴重な資料ができたことを覚えている。


日米交渉は好転せず、開戦必至の感が強くなってきた。 12月4日を期して索敵行動開始の指令が出た。 敵地の30浬以内に入るべからず、攻撃は禁ずというものである。

4日の索敵は私が中央線を与えられた。 開戦の]日は未定。 早朝6機が発進した。

いくつかのスコール帯を突破しつつ、緊張したクルーに冗談をとばしながら雲上に出た。 比島に接近するに伴って晴れてきた。 距岸30浬、手にとるように比島の海岸や山々が見える。 不気味だが平穏だ。 レーダーがあるわけじゃなく、どうせ開戦は必至だ、15浬まで接近してUターンした。

雲の切れ間からチラリと一条の白波を発見した。 強引に高度を下げると、まさしく米軍の特務艦が一隻南下中である。

「 うーん、開戦なら一発見舞うんだがなー、残念ッ 」

自分自身を慰めながら帰る。 索敵隊としてはまず戦果第一号、幸先よし。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注1) : このメナド飛行場についてはハッキリしません。 現在ではメナド市の北東約13kmのところにサム・ラトゥランギ (Sam Ratulangi) 国際空港がありますが、この空港の経緯はよく判りませんが少なくとも当時はありませんでした。

堀内豊秋大佐率いる海軍落下傘部隊の横須賀第一特別陸戦隊 (横一特) が降下占領したのはメナドから南約30kmにあったランゴアン (Langowan) 飛行場で、メナド近郊には他にはありませんでしたので、このランゴアンのことかとも考えられますが ・・・・ ?


Menado_map_1961_01_s.jpg
( 1961年版の米軍地図より ) 

(注2) : アンボン (ラハ) 飛行場は現在ではインドネシア・モルッカ諸島における重要な国際空港の Pattimura Airport となっています。 なお、1958年版米軍地図の左上に水上機基地が記されていますが、実際の位置は記号の右下になります。


Ambon_map_1958_01_s.jpg
( 1958年版の米軍地図より )

Ambon_sat_h25_01_s.jpg
( 現在のアンボン国際空港  出典 : Google Earth より )

2013年03月02日

大空への追想 (74)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その1 事前偵察と開戦第一撃 (承前)

12月6日の午後、総員集合が合せられた。 三浦司令が白服に身を正し、大本営命令が達せられた。

「 日本は12月8日 0000 を期して米英蘭に対し宣戦を布告する。」

予想はしていたものの一同身の引きしまるのを覚えた。

「 これでよし、今度こそ思う存分暴れてやる。 相手は支那ではない、米英だ。」

思わず武者震いした。

この時ふと頭の中に浮かぶことがあった。 昭和12年の遠洋航海の時である。 マニラに寄港した時、候補生が米海軍の招待を受けて、水交社でパーティーがあった。 帰る時に彼らはにこやかに手を差し伸べて握手を求めながら 「この次ぎは太平洋上で会いましょう」 と言われたことである。

彼らは今、古参の大尉か少佐になっているだろう。 こっちも大尉である。 海に空に、彼らとの約束を果たす時が遂にやって来たのである。


12月7日の薄暮、大胆なことをやってのけた。 大艇一機が日の丸を消して、ダバオ湾を超低空で航過したのである。 12月8日の第一撃の獲物を探すための強行偵察であった。 しかし湾内には猫の千一匹おらず、目標としていた水上機母艦は既に姿を消してしまっていた。

東港空の開戦第一撃は索敵であった。 台湾南端からニューギニア西端に至る1800浬幅の比島東方海面を18機で索敵攻撃せよというものであった。

「 君の言ったとおりだ。 本当に常用機全機を使う馬鹿者が居るんだなー 」

と言う飛行長と大笑いした。 第一撃は爆撃と考えていたのでいささかがっかりした。 勇み立つクルーたちは恐らく昨晩は眠れなかったであろう。 私は第二回目の戦場ではあるし悠々たるものであった。

12月7日 2345、全比島空軍に対し戦闘機即時待機が下令されたとの情報が入った。 彼らも既に知っていやがる。

8日 0000、山本連合艦隊司令長官から全軍に命令、

「 皇国の興廃は、かかりてこの聖戦にあり、粉骨砕身その本分を全うせよ。」

まさに東郷元帥に次いでの記念すべき命令である。 さあ、開戦だッ。

18機の先陣を切ってパラオの波を蹴る。 0400 である。 これが東港空の開戦第一撃である。

目を皿のようにして飛ぶこと11時間、不思議に漁船一隻すらいない。 翼の下では爆弾が泣いていた。 先は長いんだと思ってはみたが、初陣のクルー達の真剣な顔を見ると、何とかお土産をやりたくなった。

「 ただ今から予定外だが、セブ飛行場 (注) に進入するぞ。」

と伝える。 クルー達が鉢巻きをして機銃にしがみつく。 陸岸から30浬進入すればちょうどセブ港である。 高度4千米、全速 (と言っても160ノット) 雲間を縫って接敵した。 飛行場には何もない。 上空待機かもと警戒するが、戦闘機の姿はない。 セブ港には大小さまざまの船が停泊していた。

「 命中せんでもいいから桟橋付近に4弾投下ッ 」

ドドドーン、気持ちのよい水柱が高く立ち上がったが沈没船なし。 クルーがみんなあがっている。 これで少しは気が落ちつくだろう。

この日第一撃の戦果は17番機がオランダの貨物船 (8千トン) 一隻を撃沈していた。 しかし、セブ港及び飛行場偵察は予想外の成果となった。

早速この日第二波を送り、港湾付近を叩き潰すことができた。 転んでもただでは起きない。 これが我が小隊の戦闘心得となって大奮戦の端緒となったのだから、第一弾は決して無駄ではなかった。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : セブ飛行場については連載済みの高橋定氏の回想録 『飛翔雲』 の中でご紹介しておりますで、同連載の次の回から以降をご参照下さい。



2013年03月07日

大空への追想 (75)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その2 悲壮 !! 雷撃隊長の自爆

開戦後破竹の進撃を続ける東港空は、17年2月2日にはダバオを攻略し、その直後ここに、水上基地 (注) を設置した。

東港空の基地進出は、指揮下にいる 「葛城丸」 輸送船に空輸可能の人員物件を除き全てを搭載のうえ、早目に出港して攻略輸送船団の列に入る。

攻略部隊と共に第二波敵前上陸を敢行し、海岸線を確保すると、直ちに自隊警備体勢を固めておき、整備隊を主力として基地物件を陸揚げし、係留ブイを設置する。 一方舟艇隊は退艦とともに概略の掃海を実施し障害物を標示する。

この方法で基地転進が行われた。 常に飛行艇の作戦行動を優先して基地を整備していくのである。

飛行隊は新たな前進基地が設定されるまで、現在の基地で残留員をフル回転しながら作戦を続行している。 ダバオ進出は、船団到着の午後、全機が移動を完了している。 基地転進の際は、飛行隊進出の前後約2日間くらいは缶詰食で暮すのが常であった。


12月31日大晦日、17年の新春を控え、椰子の木の下では景気のよい餅つきが始まっていた。

私は4回の正月を戦場で迎えたのであるが、如何に激戦下であっても、この餅つきだけは不思議に欠かしたことがなかった。

日本人の慣習というか、心和ませる行事で、明日への闘志を掻き立てるとともに、血生臭い戦場に団欒を巻き起こすにはもって来いの楽しい行事である。

075_01_s.jpg
(原著より  当日の餅つき風景)

この日攻撃待機中の私は、同じく待機組の太田大尉 (寿双、兵63期) とともに飛行服のままで杵をふり上げて一汗かいていた。

「 敵巡洋艦見ゆ、攻撃隊出動 !! 」

走ってくる伝令のけたたましい声に、思わず振り上げた杵を投げ捨てて桟橋に駆け出した。

索敵機が発進したあと、毎日攻撃待機として、爆撃、雷撃の各3機が指定される。 敵情により、いずれか一方が出動するが、今回は全機出動である。 私は爆撃隊長を命ぜられていた。

桟橋で飛行士から敵情を貰った。 モルッカ海を南下中の米軽巡一隻に飛行艇が触接中であるが、時間的に限度が来ている。 これに対し協同攻撃を実施せよ、というのである。

敵の位置を貰って、集まったクルーと共にそれぞれゴム艇に飛び乗った。 ライン整備員は既に先行している。 愛機に乗り込む。

「 エンジン起動、モヤイ離せ 」

6機が先を争うように水上滑走を始める。 号令を聞いてから15分間、訓練を積むと鈍重な飛行艇でも戦闘機なみの発進が可能になるものだ。

3機の集結を待って慎重な離水を開始。 1300 ダバオを発進した。 電撃隊は10分後に太田大尉を指揮官として続行した。

敵の位置まで450浬、空中で雷撃隊と攻撃要領を打ち合わせる。 爆撃隊がまず先攻して敵の注意をできるだけ上空に引きつけておき、その間に雷撃隊が三方向から飛びかかるということで意見は一致した。

60瓩爆弾を12発ずつ抱いた爆撃隊と魚雷を2本ずつ持った雷撃隊が、単艦に対して36発の爆弾と6本の魚雷を叩き込むんだから、成功すれば轟沈疑いなしだ。 しかし下手をすると48名の搭乗員が海の藻屑と消えかねない。

「 大晦日の餅を食いそこねたなー 」

と冗談口をたたきながら生死は念頭になかった。

夕闇迫るモルッカ海はどんよりと黒ずんで静かである。 触接機と連絡が取れた。 よく頑張ってくれた。 もう燃料も限度にきているはずである。 重い機体に鞭を入れて現場に急ぐ。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : ダバオの水上機基地については、その正確な位置も含めて詳細は判りません。 現在の衛星写真を見てもそれらしいところはハッキリしません。 もし情報をお持ちの方がおられましたらお願いします。



Davao_map_1954_01_m.jpg
( 1954年版の米軍地図よりダバオ周辺 )

  なお、下の写真はダバオの大艇基地とされるものですが、撮影時期などは不詳です。

AB_Davao_02_m.jpg

2013年03月08日

大空への追想 (76)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その2 悲壮 !! 雷撃隊長の自爆 (承前)

1600 遥か前方に一条の真っ白い白波を発見。 まさに敵軽巡ではない。 よく見ると開戦当時から狙っていた水上機母艦 「へロン」 (注) である。

水平線に近づいている夕日に向かって、高度2200米に上昇し、そのまま接敵開始。 雷撃隊も早目に三方に散った。

敵さんも我々を発見したらしい、蹴る波が一段と長くなった。 25ノットはある。 早くも敵艦はジグザグコースをとり出した。

「 爆撃用意!! 一斉投下でゆくぞッ 」

艦影が機首下にかくれ出したころ、

「射ち出しましたッ」 という偵察員の声がするが弾着は見えない。 弾着は大分低い。 しかも後落している。 「速力百五十ノット」 と教えてやりたいくらいだ。

しかし、次第に弾着は接近してきた。 やがて高いが目の前に集中し始めた。 爆撃針路に定針、眼前に弾幕を張られるくらい嫌なものはない。 尻がもじもじしてくる。

「 よーそろ、ちょい右、ちょい右、よーそろ 」

爆撃の修正がまことにいらだだしく感じる。 「どうでもよいから早く落とせー」 と怒鳴りたくなる。

高角砲の真っ黒い弾着が機体にビリビリ響く。 必中を期している爆撃手、目の前の弾幕に向かって突進するパイロット、水平爆撃隊のこの時の心情はなんとも表現の方法がない。

「 用意、テッ!!」

36発の爆弾が降ってゆく。 スロットル全開、エンジンが唸り出す。 一杯出し切ったスロットルをなおも力一杯押している。 この気持ち、弾幕突破のパイロットでなければ到底分かってもらえまい。

二番機からの、

「 二番エンジン被弾 」

という声が耳に入った。 なんとか弾幕を突破できた。 ホッとして旋回に入る。 チラリと敵艦尾付近に残る弾着の渦が眼に入った。 白煙が見えている。 艦尾に何発か命中したようだ。 致命傷ではない。

「 二番機は帰れ 」

と叫んだが、三発のまま必死に編隊についている。

雷撃隊の成功を祈りながら高度を3300百米に上げる。 雷撃が少し遅れている。 そのままUターン、今度は擬襲だ。 上空に敵の火力を吸いあげて雷撃を支援せわばならん。

爆撃高度を2200、3300としたのは、当時敵の高角砲信管調定は500米ごとだという情報を掴んでいたためである。 この200米、300米の差で我が身を護ろうというのだから、なかなか勘定が高い。

敵さんの射撃はいよいよ激しくなった。 単艦にしては天晴れだ。 雷撃隊が三方から突っ込み出したのが目に映る。 「魚雷よたのむぞッ」 と神に祈りながら直上を航過する。

太田機が敵の正横約3000米付近で中央のエンジンから火を吹き出した。 敵は主砲と機銃で応戦している。 束になった火の線がまさに横一文字を書いたように走っている。

「 早く発射しろ 」

思わず叫んでしまった。 3機が矢のように三方から突入し、やがて交差して飛び去った。

魚雷命中せず。 太田機は、どうやらパイロットがやられたようだ。 真っ直ぐ敵艦に向かっている。

「体当たりをやるなッ」 と思ったが敵艦上を通過してしまった。 600米も離れたかと思うころ、そのまま白波を立てて接水、魚雷に命中したらしく、物すごい爆発を起こしてあッと言う間に消え去ってしまった。 壮烈な自爆である。

しばし呆然として声も出ない。 眼下で雷撃隊長の自爆を目撃し、泣くにも泣けず、このまま突っ込んで仇討ちをしたい気持ちで一杯。

出撃直前まで一緒に餅つきをやった太田大尉、余りにも悲しい訣別である。 続いて駆けつけて来た中攻隊の爆撃で仇討ちはできたものの、やるせなさはどうすることもできなかった。

「これが戦争というものだ。 いつかは俺の番がくるんだ」 と自らに言い聞かせながら、すっかり暗くなった洋上を傷ついた列機をいたわるようにして帰途についた。

2230頃、ダバオ基地は豪雨に包まれていた。 やむなくダバオ湾口に着水を決意したが、三発の僚機が気になる。 まず私が着水、オルジスで列機を誘導しながら、荒れる洋上に無事5機とも着水できた。

天候回復を待って基地に帰ったのは元日の0015、遂に2年に跨る攻撃行動となってしまった。 雷撃隊長を失ったことはまことに無念の至り、一同仇討ちを誓って静かな17年の元且を迎えたのである。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : 米海軍の 「AVP-2 Heron」 がこれに該当しますが、大きさ、艦型、性能要目などからすると疑問がないわけではありません。 ただし、米海軍の公式記録による日時、状況からすると、飛行艇1機撃墜も含めて整合は取れます。 「ヘロン」 については次のサイト記事をご参照下さい。



2013年03月10日

大空への追想 (77)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その3 昭和の広瀬中佐、相沢飛行長の最期
            (飛行艇による魚雷水上発射)


 17年1月6日1930、ダバオ基地の指揮所には、東港空よりぬきの精鋭6チームが整列していた。 アンボン基地 (前出) 夜間奇襲部隊の面々である。

この日、自ら陣頭に立った指揮官相沢中佐 (前出) は、いつになく厳然たる態度で出発の命令を下した。

「 いよいよ待望のアンボン攻撃の時が来た。 太田大尉の弔い合戦でもある。 勝算すでに我にあり、成功疑いなし。 計画どおり行動する。」

相沢中佐、柔道、剣道、合わせて十段、相撲十両級、軍帽を前下がりにチョコンと頭に載せ、八の字髯を撫でながら、ウワッ、ハッハッと段をつける豪快な笑い方に特徴がある。 人呼んで昭和の広瀬中佐という。

タバオと濠州の中間、モルッカ海とバンダ海に別れるところにあるセラム島アンボンには濠州軍の基地があった。

Chart_Celebes_Sea_L_mod1_a.jpg
( 元画像 : 昭和17年版の海図 No.801 より )

陸上、水上両方の航空基地を完備し、艦隊泊地ともなる要衝である。 したがって、我が南方作戦上邪魔な存在であるとともに是非とも占領したいところであり、ダバオ進出後は二十一航戦が腕を撫でながら狙っていた好目標である。

相沢中佐は、かねてから司令部に対し、

「 アンボンの第一撃は、大艇による奇襲部隊に任せてくれ。 残敵掃討は中攻隊で存分にどうぞ。」

と意見を出していたのである。

大艇による奇襲計画、それは相沢中佐がパラオ進出直後から練っていたものである。 大艇6機を使用し、3機は深夜を狙って超低空の飛行場銃爆撃を敢行し、同時に他の3機は泊地に進入着水し、水上滑走のまま在泊艦船を雷撃するのである。

魚雷の浅深度発射は飛行艇がその端緒を開き、ハワイ第一次攻撃で実証ずみであるが、飛行艇による水上発射は実験が済んでいるだけであった。

当時の航空魚雷は九一式、雷速42二ノット、航走距離1500米、重量850キロ。 出撃手前に魚雷の塞気弁は開いておく。 空中から投下時、高度100米。

077_01_s.jpg
( 原著より  九一式魚雷略図 )

魚雷の発動桿は投下器に縛り付けてあるので、落下の際起動されてまず縦舵機が作動を始めるようになっている。 水中に突入すると発動桿が水圧で倒されて発動挺を起し、ペラが回転する仕組になっていた。

したがって、水上で発射する際は速力がないので、投下する前に手動によって発動桿と発動挺を起動しておく必要がある。 パイロット席でこの操作ができるよう機構的に工作しておいた。

水上滑走は照準のために機首をセットさせるためのもので、魚雷投下後そのまま、又はUターンして離水してしまう。 この方法で特殊チームを選定し、既に実験を重ね、自信満々の域に達していた。

アンボン奇襲隊は、相沢飛行長が総指揮官を兼ねて雷撃隊長、私が爆撃隊長となっていた。

ダバオ湾は当夜天気晴朗なれども波高く、灯火管制下に約40隻の輸送船団が停泊していた。 総航程1600浬、途中の無人島に念のため駆逐艦一隻を配し、給油と救難に当たらせておいた。

2000、二十一航戦司令官直々の見送りをうけて出発。 爆撃隊が先行することで私は3機を率い、暗夜の海に乗り出した。

波が相当高い。 超過荷重である上、無灯火の船団が気になるので、十分な間合をとった。 2000 見事に離水、上空で待機していた。

雷撃隊の離水が遅いので気になっていたが、実は夢にも考えられない大事故が発生したのである。

( この事故は爆撃隊は知らず、帰還後聞かされたのである。)

雷撃隊一番機は離水点が船団に近すぎた。 離水はしたが、低空で左旋回に入ったため、「君島丸」 のマストに左主翼を激突してもぎとられ、そのまま海中に突入してしまったのである。

抱いていた魚雷は落下し、船の舷側に命中したが幸いにも不発のまま沈没して大事を免れた。

相沢中佐以下全員は即死である。 何たる無念 !! 成功疑いなしと張り切って出陣した飛行長なのに、何たる悲運 !! もちろん列機は離水を中止した。

上空でイライラしながら待っていると、基地では探照灯がつき、交通艇が慌ただしく動き出したので、一番機の故障とは思ったが、何も分らなかった。

上空待機2時間後、「爆撃隊は予定どおり行動せよ」 との令が下された。 司令自らマイクをとられた模様である。

一切の不審観念を捨て去り、爆撃隊は一路アンボンに向かって進撃していった。時刻は既に2200 を過ぎていた。

高度4000米、雲上に出ると駁々たる明月、実に美しい夜の雲が流れていた。 これからアンボン基地に超低空でなぐり込むこと等を忘れてしまうような快翔を続けた。
(続く)

2013年03月12日

大空への追想 (78)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その3 昭和の広瀬中佐、相沢飛行長の最期
            (飛行艇による魚雷水上発射) (承前)

アンボンの300浬手前で、厳戒態勢に入る。

「 全機銃配備に就け、航空灯を消せ 」

静かに高度を下げ始めた。

この頃から編隊の左後方に青い光が現れた。

「 敵機 !! 」

と叫びながら機長席について、十二糎双眼鏡でよく見ると、飛行機ではなく、流れ星のような一つの青い光である。 しばらくすると光は右側に変わった。

雷撃隊が追いついて来たものと思ったが、この光は約30分間右に左に移りながら追って来て姿を消した。 不思議な光である。 目の錯覚かと思ったが、偵察員も見ている。

セラム島がかすかに見え出してきた。 あの山の向こう側にアンボン飛行場がある。 さらに高度を1500米に下げた。 幸いに月を前にして接敵できる針路になっていた。

0400、エンジンを絞り、セラム島北岸から山の谷間にそって高度を下げる。 飛行場の滑走路が月に白く光っていた。

「爆撃用意」 を下令し、どんどん降下した。 もう爆撃照準の要はなかった。 遂に高度400米、そのまま飛行場に進入し、36発の陸用爆弾をバラまいた。 この間全く反撃なし。

低空のため、爆発の衝撃が体にまで跳ね返ってくる。 全弾投下後、単縦陣Uターンして高度300とし、主として隊舎付近に集中銃撃を浴せた。 この時になって

「 射って来ましたッ 」

という尾部射手の声に外を見ると、あちこちに発射の光が見えるが、弾着がない。 上空を見ると、余りの低空に敵は信管調定どころではなく、1500米も上空で破裂しているのである。 そのあわて振りは見事なもの、爆撃隊は悠々と飛行場を離脱できた。

「 0400 奇襲成功、全弾命中、我に被害なし 」

報告をすませてホッとした。 まさに疾風迅雷の奇襲、その間わずかに20分である。

アンボン湾には3隻の艦艇が停泊していた。 当然のことながら雷撃隊が血祭りにしてくれるものと信じていた。 燃料が既に余裕がなく、見届けることはできなかった。

ダバオ基地に帰還したのは7日0900、13時間に及ぶ爆撃行である。

桟橋に着いて驚いた。 雷撃隊員が手放しで泣きながら迎えに来ていたのである。 ここで初めて相沢飛行長の前記戦死を聞かされたのである。

あそこまで備準を進めて来た相沢中佐にしてみれば、この度の悲運は諦めきれないことであろう。 しばし呆然としてなすことを知らず。

報告が終わると、三浦司令が静かに労をねぎらってくれた。

「 飛行長はさぞかし無念だったろうと思う。 しかし爆撃隊はよくやってくれた。 飛行長もきっと喜んでいるだろう。 御苦労だった。」

あの飛行長がなぜ死んだのだろう。 今更愚痴になるが、指揮官機を二番機と入れ替えればよかった。 一番機のパイロットはやや自信過剰の人間だったことを皆知っていたはずだ。 運命の悪戯だろうか。

飛行長の霊前で司令に語ったが、一体あの青い光は何だったのだろうか。 飛行機ではない、星でもなかったことは確認している。 司令は言った。

「 事故を知らずに出発した爆撃隊を飛行長の霊魂が護衛してくれたのではないか 」 と。

迷信を信じない私だが、司令と同じことを今でも私は信じている。 もし事故を知って出撃していたなら、恐らくあの光は現れなかったであろう。

飛行長の遺品整理をした時に、机の中に書き残された一枚の短冊を司令が発見された。 墨痕鮮かに一句が書かれていたのである。

    “ ひとり減り ふたり減りして またみたり
                    いずれの時ぞ われの番なる ”

(続く)

2013年03月13日

大空への追想 (79)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第5話 飛行艇かく戦えり (承前)

        その4 飛行艇、敵輸送船を拿捕す

ダバオ基地からの作戦で、東港空は2名の飛行分隊長と大飛行長相沢中佐を失うという悲運に遭遇したが、部隊の士気はますます旺盛となり、新たに伊東中佐 (祐満、兵51期) を飛行長に迎えて、仇討ちの執念に燃えていった。

我が方の槍先は、ボルネオ、セレベスに向けられており、索敵網もセレべス海に重点をおいて張り巡らされていた。

1月10日、我が大輸送船団はボルネオ島油田地帯の占領を目指し、タラカン、バリックパパン方面に進撃を続けていた。

Chart_Celebes_Sea_L_mod2_a.jpg
( 元画像 : 昭和17年版の海図 No.801 より )

この日、船団の前路哨戒の任を受けて私も飛び出していた。 タラカン (注1) は敵戦闘機の基地があり、昨日も大艇が壮烈な空戦を演じ、双発で奇跡的に生還している。 しかし我が零戦隊の制圧により、大部分はいずこかに遁走してしまっていた。

空戦を予期しながらタラカン港付近の敵情偵察を実施すると中型貨物船が一隻淋しげに停泊しているのみ。 囮船かも分からんが、これに対し雲上から急降下し、猛烈な銃撃を浴せて、サーッと引きあげたが反応なし。 この調子なら無血上陸間違いなし。 上陸後のことは関知せず。

船団は既にタラカンの60浬圏内に接近していた。 護衛陣の左翼がやや乱れて、掃海艇が一隻全力で飛び出しているのに気づき、駆けつけてみると掃海艇の前方約10浬に3千トン級貨物船が一隻これまたタラカン港を目指して全速で逃げている。

敵船と掃海艇の競走をしばし上空から眺めていたがどうやら速力差はないようだ。 これではタラカン港まで掃海艇は単艦で追って行くだろう。 こいつは危ない。

武士の情け、助けてやろうと思ったが、何とか無傷で、掃海艇に手柄を立てさせたいものと貨物船上空に接近してよく見ると、甲板上に梱包された飛行機が数機載せてある。

飛行機の大きさからみると、タラカン飛行場に戦闘機を陸揚げしようとする意向であることが一目瞭然である。

早速発光信号で停船を命じたが、聞かばこそ、国旗すら揚げようとしない。 船首方向に対し銃撃を加えたが、一向に減速しない。 さりとて撃沈したのでは面白くない。 敵性国の輸送船には間違いない。

「 よーし、爆撃する。 ただし命中させるな 」

と難しい要求を出し、反航接敵とした。 艦首の高角砲が気になったが配員していない。

高度500米で艦尾付近に2弾投下した。 もし反撃してきたら、正確に再爆撃の腹を決めた。

この爆撃で敵はピタリと停船した。 否、よく見ると、至近弾が敵船の推進器を吹き飛ばしてしまったのである。 これじゃ逃げられるはずがない。

敵は初めてオランダ国旗を揚げた。 まもなくやっとこさ追いついた掃海艇にこれを引き渡した。 (注2)

「 我掃海艇と協力、敵輸送船一隻を拿捕す、タラカンの東方40浬 」

を打電した。

この報告をうけたダバオ基地では司令部幕僚まで駆けつけて、話に花を咲かせながら私の帰投を興味深く待ち焦れていた。

「 拿捕したというからには、日辻君のことだから着水して捕えるくらいのことはやりかねないぞ。 それにしても少し大胆すぎるなー 」

1500 無事帰還、一部始終の報告を受けると、みんな首を捻っていた。

「 直接拿捕したのは掃海艇だが、その先に立往生させたのは飛行艇だ。 やはり拿捕ということか。 それにしてもプロペラを吹とばした爆撃というのは名人芸だぞ。」

「 だから掃海艇と協力して拿捕したと報告したんですよ。」

お陰で司令官からお褒めの清酒が届いた。 多忙な戦場で飛行艇が船を拿捕したという話題は、しばらく基地を賑わせていたものだ。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注1) : タラカン (Tarakan) はボルネオ北東部にある島で、原油の生産基地であると共に、良好な港湾と飛行場を有しています。 当時の飛行場は現在では民間の 「タラカン空港」 として整備されています。


Tarakan_map_1961_01_m.jpg
( 1961年版の米軍地図より )

Airport_Tarakan_sat_h25_01_m.jpg
( 現在のタラカン空港  画像 : Google Earth より )


なお、当時のタラカン飛行場については次のところをご参照下さい。




(注2) : タラカン作戦における第4水雷戦隊の戦闘詳報によれば、同日1050 第三十一駆潜隊により蘭商船 「Beynain」 を拿捕とされていますので、これのことと思います。