2014年10月07日

大空への追想 (205)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その1 PX-Sが歩んで来た道 (承前)

(2) 新型対潜飛行艇開発に踏み切る

米海軍は新明和の飛沫防止を目的とする新型艇体の研究に深い関心を寄せ、33年6月実地調査の結果、この装置をP5Mに応用したい意向を示した。 これが米海軍がPX-S開発計画に関与する端緒となったのである。

34年に入り、海幕には新型飛行艇の日米共同開発を望む声が強かった。 米海軍は、詳細説明を求めるため、新明和の菊原博士を招聘することになった。

菊原氏は、海幕と十分な打ち合わせを行った後渡米し、対潜飛行艇としての構想を説明したうえ “この飛行艇の開発には是非とも米海軍の協力が必要である” ことを力説した。

米海軍は当時P6Mの試作機が1、2号とも墜落事故を起こし、飛行艇に終止符を打つことになった直後であり、関係者が非常に残念がっていた時である。 それだけに日本で飛行艇をつくることに対する賛成者が多かった。 (米国は飛行艇の技術を日本に残しておきたかったと開いている)

米海軍は “防衛庁の正式要請があれば、海軍としては、資金面の協力はできないが、資材と技術の面で協力する用意がある” との解答があった。

更に我が方の開発段階で、試作に取り組む前、現存の飛行艇を改造し、STOL性の効果を確認する実験機を必要とするので、米軍のUF型機 1機の供与を申入れたところ快く承知してくれた。

海幕は当時対潜作戦用のセンサーとしてソーナーの必要性を強調しており、新型飛行艇に大型ソーナーを装備し着水してオペレーションができるならば、対潜作戦上新たな分野を開くことになるという結論に達していたので、新明和のSTOL性飛行艇と、別に開発する大型ソーナーを組み合わせ、相当の荒海でも耐え得る新型対潜飛行艇の構想を打ち出し、34年にこの研究が承認されたのである。

一方米海軍は35年に入り、約束したUF 1機を供与してくれた。 差し当たり、外洋における離着水性能と運動性を実験するために、供与機を改造したUF-XSによる飛行実験を実施することが決定した。

UF-XSの飛行実験はPX-S開発に極めて貴重な資料を提供し、大きな貢献をしたのである。

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( 元画像 : 『海上自衛隊二十五年史』 より )

戦後日本ではもちろん、世界でも例のないSTOL性飛行艇の開発というまことに飛躍した問題だけに、PX-S開発への道は極めて厳しいものがあり、予算執行面から見ても、UF-XSの実験結果を確認しつつ、段階ごとに予算は細かく切って進められたのである。

すなわち、38年度は基本設計のみを、39年度は細部設計、40年度試作1号機、42年度試作2号機と、およそ石橋を叩き続けながら、徐々に、慎重に開発を進めていったのである。 その間、当事者の苦労は筆舌に尽くし難いものがあった。
(続く)

2014年10月06日

大空への追想 (204)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記

(原注) : PS-1は会社の試作段階ではPX-Sと呼称されていた。 ここではPX-Sの前身、UF-XS及び試作1号が誕生するまでの状況を話しておきたいと思う。

        その1 PX-Sが歩んで来た道

(1) 飛行艇への着想

海上自衛隊が飛行艇を使うことを決めたのが、昭和28年、海上嘗備隊発足の時である。 (昭和29年7月1日海上自衛隊と名称が変わった)

新型飛行艇の構想を固めたのは新明和が先である。 従来の飛行艇は、鈍重で荒海では使用できなかった。 しかも製作費は同型の陸上機に比べると1.7倍にも達するのである。

第二次大戦の状況を見ても、列国とも飛行艇は相当活躍しているが、図体の大きな飛行艇は敵戦闘棟の好餌となり、戦果よりも被害が大きかったのは事実である。

とにかく従来のように波高1〜2米程度の洋上運用能力では飛行艇の価値は余りなく、到底陸上機には太刀打ちできない。 しかし耐波性が大幅に向上されるならば、陸上機とは異なった用法があるはずである。

すなわち地球の4分の3を占める広大な海洋河川、湖沼等を利用することにより、その用途は極めて拡大されることになる。

米海軍はこのような観点から、戦後も積極的に飛行艇に取り組んで来た。 そしてUF-1、P5M等の優秀な飛行艇を生み出したが、P6M (ジェット飛行艇) の失敗で行き詰まり、遂に飛行艇生産を打ち切ってしまったのである。

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( P5M-2 Marlin )

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( P6M-8A Sea Master )

昭和28年、新明和 (前身は飛行艇の川西) は社内に航空委員会を設置し、新型飛行艇開発に関する社内研究を開始した。 まず耐波性の高い新型艇体の研究を目標として水槽試験に着手したのである。

30年の夏、新明和を訪問した時、徳田技師が炎天下の工場で防火用水槽を使い、自分で考案した簡単な手車を回して懸命に小さな艇体模型を引いていたのを思い出す。

話を聴くと米海軍の依頼でP5Mの艇体模型により、波の悪戯を防止する方法を研究していることが分かった。 波消し装置の基本研究だったのである。

続いて30年からは高揚力方式を求めて風洞試験を開始した。 この両者を併用し、耐波性の強い新型飛行艇の基礎を固めたのが33年である。

かくして技術的問題解決の見通しはついたものの、開発資金と販路に対する面に難関があった。 当時、開発資金として約80億の見積もりを立てていたが、これは国家資金以外には求め得ないため、各部へのPRを行った結果、海上自衛隊がこれに着目し、32年から対潜飛行艇としての調査を非公式に開始するに至ったのである。
(続く)

2014年10月03日

大空への追想 (203)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第2話 片脚のUF-2を救う (承前)

        その3 空中事故と地上指揮官

事故発生を知り、損傷状況を把握し得た時、私にはいかなる困難も顧みずこのUFを救ってみせるという強い信念が燃え上がったことを覚えている。

私は大村にあり、事故機は遠く木更津の上空にあった。 最初は私自身何をすべきかに迷った。

だが、事故機のHFが極めて良好であったことが、すぐこの迷いを拭い去ってくれた。 あたかも機長と差し向かいで語っているような状態であったことがその後のすべてを円滑に進め得た大きな要因となったのである。

私の全身全霊が事故機上に乗り移っていた。 飛行隊長、整備隊長と共に目の前に拡げている整備資料を見ながら、事故機の損傷状況が、はっきりと頭の中に浮かんでいた。

空地共に一心同体となって次々と処置することができた。 私の一言一句が確実に事故機に伝わっていった。

海幕長以下夜の更けるまで待機され、色々沢山の助言があった。 これらを取捨選択しながら私に伝えてくれたのが中村 (正文) 三佐 (元技術副部長) である。

氏はUF-2米軍領収時から、技術的な面で密接に関係していた。 その中村三佐が、事故発生と共に海幕オペレーションの電話を握り続けて、私との直接連絡にあたってくれた。

海幕 − 大村 − 事故機と救難処置を円滑に進めることに大きな貢献をしてくれたことは言うまでもなく、今でも深く感謝している。

すべての人々が、地上指揮官たる私を助けてくれた。 したがって迷わず、慌てず、事故機に対する指示は全て私から出すことができたのである。 船頭多くして船山に登るようなことは全くなかった。 緊急状態にあってはこの体制が最も大事なことであると痛感している。

私はある書物で次のようなことを読んだことがある。

第二次大戦時、米空母のレスキューヘリコプターにベテランのパイロットがいた。 彼は搭乗する時は特殊なシルクハットをかぶって活躍した。

空母の各搭乗員達はこのシルクハットを見ると、全く安心して、損傷機を落ち着いて操縦しながら、不時着したという。 シルクハットが絶対に助けてくれると信頼しきっていたからである。

また米軍基地に極めて優秀な管制員がいた。 彼は老練なパイロットから転向した者であった。 航空機から緊急着陸の要求があると、彼はいかなる悪天候下でも、母が子をいたわるように、それはかゆい所に手が届くような誘導をして無事に着陸させていた。

搭乗乗員達は、いかなる緊急状態にあっても、彼の声をきくと安心して指示に従うことができたということである。

航空事故に際しては、地上指揮官たる者はすべからくこのヘリコプターパイロットなり、この管制員のごとく、絶対信頼感を与え得る人物でなければならない。

パイロットは事故を起こしてはならない。 しかしながら、常に危険と戦うことを宿命とする職務にある以上、事故の皆無は期し難い。

不幸にして緊急事態が発生した場合、地上指揮官たる者は、万難を排してこれを救わなければならない。 それだけに指揮官たる者はパイロット以上に平常から物心両面の構えができていなければならない。

使命の自覚ということほ自衛隊発足以来耳にするところであるが、その瞬間において自分は何をなすべきかを冷静に考え得る境地に到達することは、一朝一夕にしてなし得るものでほない。

平常から積み重ねた修養なくしては到底望み得ないことである。 かく考えてみると、事故防止は終局において指揮官たる者の統率力に他ならないと思う。
(続く)

2014年09月27日

大空への追想 (202)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第2話 片脚のUF-2を救う (承前)

        その2 冷静なる判断と適切なる処置

本事故に関しては種々の教訓を得ることができた。

事故を起こしたことについては色々の問題がある。 機体重量に対する配慮の不足、視界不良時の操縦において機長が副操席にいたこと (UFの副操席からはエンジンコントロールがやや困難) 等が採り上げられる。

事故後の処置における空地間の適切な連係プレーに焦点を当ててみることにしたい。

よく沈着冷静な判断処置という褒め言葉を耳にするが、まさに言うは易く行うは極めて難しいものである。 いかなる名人といえども、それをなし得る条件が備わっていなければ、なせるものではないということをよく頭に入れておいて欲しい。

今回の事故を被害最小限に止めることができたのは、何と言っても機長の適切な処置ということが第一にあげられると思うが、それは奇跡でもなければ、運がよかったわけでもない。 事故機搭乗員が最後まで諦めることなく、自信をもって処置し、その処置がいずれも成功したからに他ならなかったのである。


(1) 冷静なる判断を助けた条件

 〇 燃料に8時間の余裕があり、飛行状態に異状がなかった。


 〇 日没前にクラッシュ・ランディングを決意したが木更津、厚木ともに着陸可能態勢を整えるには時間を要し、夜間に入らざるを得なかった。 結局、日没前の着陸ということは諦めざるを得なかった。


 〇 事故発生時からHFによる大村と事故機間の連絡が極めて良好であり、司令と機長間の意志疎通が円滑に行われた。


 〇 木更津タワーに空自の老練な大型機パイロットが配員されて事故機との連絡にあたったので、相互間の連絡、助言がうまく行われ、機長の判断を迷わせなかった。


 〇 緊急着陸が着陸飛行場の都合で不可能となった時、機長は非常に迷っていたが、管制機関が、大村空司令の 「燃料のある限り飛行を続行し、ゆっくり最善策を考えろ」 という指示を、実にタイミングよく伝えてくれたことが終局的に機長の最終判断を助ける結果となったと思う。


今思うと、あの場合この指示しか出せなかったのである。 当時の坂谷総務部長 (隆一、兵60期、後に海将、海上幕僚長) から

「 あのメッセージはよかったよ。 俺もいろいろ考えてみたが、あの咄嗟の場合の指示としては、適切だった。 あれ以外になかったろう。」

と褒められたことを記憶している。 緊急時の場合、難しいことを指示しても効果はない。 まず落ち着かせることである。


(2) 適切な処置を助けた条件

機長の冷静な判断により、まず着陸は取り止めた。 機上応急処置に全力を尽くすことを決意したことがまず前提になることであるが、

 〇 機長、搭整員ともに故障復旧 (残った脚の収容) の望みを捨てず、特に搭員が極めて研究心旺盛な人物であった。


 〇 この搭整員は高圧油漏洩事故の比較的多かったUF-2について日頃から原因究明に専念しており、漏洩時の機上応急処置に対処すべく、各種の盲蓋を自作し常に携行していた。 実際にピタリ適中する蓋があったことが脚上げを可能にした直接の因をなした。


 〇 機長は雨の中、夜間のIMC (Instrument Meteorological Condition、計器気象状態) の下で故障復旧という困難な条件にもかかわらず全てをこの搭整員に一任して飛行に専念できた。


 〇 母基地大村まで飛行を続けることができたことが、最終的にはあらゆる対策を可能にし、被害を局限し得た最大の原因をなしたことは言うまでもない。


以上のように判断処置を誤らなかった裏面には、搭乗員の日頃から養成された物心両面の備えがあったからである。

事故直後冷静さを失って、緊急着陸を急いだり、技術面の知識に欠けて故障復旧不能と早々に諦めていたならば、その後に起こったであろう大事故は予想するだに恐ろしいものがあった。

飛べる限り、時間の許す限り冷静に判断し、最後まで諦めることなく、自信をもって応急処置に専念できたことが、被害局限に成功した所以である。

本事故の発生は操縦上のミスであったかも分からない。 しかし事故後の処置は賞賛に値するものがあったと信じている。

当日事故機の揚収を完了した時、佐世保総監 (魚住順治、海将、兵55期) からの次のメッセージには本当に感激した。

「 困難なる諸条件をよく克服し、損傷機を無事収容し得たことを喜ぶと共に、搭乗員の労を多とす。」
(続く)

2014年09月23日

大空への追想 (201)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第2話 片脚のUF-2を救う (承前)

        その1 世に奇跡はあり得ない (承前)

(4) 一難去ってまた一難

第一の難関を突破できると心にゆとりが出た。 次ぎは大村の着水のみに考えを集中した。

右脚が吹っ飛んだが、胴体からの水平支柱が出たままである。 これが着水の邪魔をして二次災害を起こす可能性が出てきた。 万一の場合を考え私はこの残った水平支柱を機内から収容させることを決意し指令した。

この作業が脚の収容以上の難作業になろうとは露知らなかったのである。 右脚の点検窓付近が簡単に破れると考えたが、これが大変な仕事であった。

クルーのナイフが全部坊主になってしまっても、外鈑は切り破れなかった。 トーバーを使って、辛うじて内部から突き破り、この穴から爪竿の先に一本の索をとりつけ、魚釣りのような仕草で水平支柱の先端を引っかけるのである。

何回か失敗しながら約30分間を要して、やっと捉まえることができた。 こうして、出ている水平支柱を胴体に縛りつけたのである。

高松上空でのエスコート機との会合はうまくできた。

2130 岩国上空着、飛行に不安なし。 機長は大村に帰投する最後の決意を固めた。 各管制塔は次々とUFを追ってリレーしながら、最後の連絡は福岡に移った。 各タワーが真剣に傷ついたUFを見守っていてくれた。

2220、遂に大村タワーと直結された。 私は自らマイクをとった。

「 よく頑張った。 大村の態勢は完璧だ。 着水の瞬間まで気を抜くな。 右主翼に異常があるかも知らんので、高空でノーフラップランディング姿勢をチェックせよ。 浸水防止策を怠るな。」

と、最後の指示を与えて待っていた。

2255、UFは無事大村に着水した。 事故発生後8時間の苦闘は一応終止符をうった。


(5) 揚陸作業

事故機の脚上げに成功した時、私は片脚機を陸揚げする方法を考えていた。 脚のない飛行艇を陸上に収容する施設は大村には全くなかったのである。

大きなクレーン船も考えられるが、西海橋をくぐって大村湾に入るのは困難なことであった。

現在持っているあらゆる資材を活用する他に方法がない。 そこで考えたのが隣接する陸上自衛隊竹松施設大隊の活用である。 連絡すると深夜にもかかわらず大隊長自身が駆けつけてくれた。

事情を説明すると、航空隊の苦闘に感激し、

「 よしッ、引き受けました。 任せて下さい。」

まもなく施設大隊の特殊車両班が出動した。 20トンクレーン車、牽引車の2両と一陸曹を長とするわずか5名の隊員である。

まず陸上にある実機について検討の結果万事OK。 揚陸作業についてはこの一陸曹を作業指揮官とし、航空隊側は彼の指示どおり動くということで話は決まった。

接水したUFの脚を今度は出さねばならず、この作業は空中で揚げる時以上の難作業であった。 約1時間を要し、2350、前脚と左脚のみで静かにスリップに接岸した。

まず打ち合わせどおり、脚のない右側のエンジンマウントに索を取ってクレーン車で水平まで吊り上げ、尾部と左フロートに作業台をかませ、人力と機力を混用しながら歩調をあわせ、静かに曳き始めた。

この大作業を指揮するのが何と一陸曹一名、パイプ一つで実に鮮やかな運用振りを披露してくれた。

かくて600米の距離を2時間かけて、接水後微傷だに与えず格納庫前に収めることができたのである。 時に1月11日午前2時であった。

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( 原著より  事故機の収容作業 )

事故発生時からこの時まで、中山海幕長 (定義、兵54期) 始め魚住佐総監 (順治、兵55期) もそれぞれ詰め切りで経過を見守って下さったのである。
(続く)


2014年09月20日

大空への追想 (200)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第2話 片脚のUF-2を救う

        その1 世に奇跡はあり得ない

事故は絶対に起こしてはならない。 しかし人間のなすことである以上事故の皆無を期待することは無理である。 ただし、事故が起きた場合沈着冷静に判断処置してその被害を最小限に止めるために最大限の努力を払う必要がある。

大事故に遭遇して助かった場合、人は奇跡的だとよく言うが、私は奇跡ということは実際にあり得ないと思っている。 必ずそこには裏付けとなる理由が存在するはずである。 今回の事故で私は、それを痛感した。

37年1月10日、私が大村航空隊司令として着任早々のことである。 虎の子のUF-2が木更津着陸の際飛行場南端の突堤に右車輪を接触し、右脚が主翼取付部から切損して吹っ飛んでしまったのである。 UFはそのままウェイブオフし、水陸両用機としては致命的な事故発生となったのである。

油圧もなくなり、出ている他の脚は引っ込めることもできず、着陸しても着水してもまず転覆の可能性があり、更に日没が迫り、計器気象状態という絶体絶命の窮地に追い込まれたのである。

しかしながら天は我を見捨てず、空中で片脚収容に成功し、母基地大村まで飛行を継続して無事着水し、第二次損傷皆無のまま陸上に収容できたのである。

確かに奇跡的帰還と言いたいところであるが、決して奇跡ではなかった。 その裏には空地ともに筆舌には尽くし難い苦闘があったのである。


(1) 事故発生

本機は航空路航法訓練のため37年1月10日大村発立川 (燃料補給) 経由木更津、翌日木更津発大村の飛行計画を持っていた。

1543 木更津上空着、木更津の天候は、300フィートスキャター、700フィートブロークン、視程1マイル4分の3、小雨で、煙霧のため垂直視程はあるが水平視程が悪く、日没は1647であった。

管制に従ってADF進入、飛行場は確認したがファイナルで視界が悪く滑走路が見えないためにやり直し、二回目はファイナルを低高度で進入し、滑走路を視認できた。

しかし過荷重状態のため沈みが大きく、バウンダリーに入る前に、飛行場最南端にある突堤に右車輪を接触してしまった。 ショックを感じて直ちにウェイブオフしたが、接触時右脚が支柱もろとも吹っ飛んで、右フラップがたたかれ破損していた。

管制塔に連絡、その指示により、差し当たり木更津ホーマー上空1600フィートで旋回待機、状況調査を続けていた。

出ている脚は高圧油漏洩のため全く上げることができず、フラップのみ0度に戻した。 そのままの状態での飛行は特に異常がなかった。


(2) 木更津基地の処置

機長は日没が迫っているので、夜間の緊急着陸は危険と判断、日没前に木更津又は厚木にクラッシュ・ランディングを決意した。 このため増槽タンク2個も海中投棄しようと考えた。

木更津は、海空自衛隊員の警急呼集を命じ、クラッシュ・ランディングに備え、GCA等滑走路付近の障害物除去作業を始めたが3時間を要するため、厚木の米軍にも依頼したが、厚木は準備に6時間を要することが分かった。 なお厚木からは、UFの片脚ランディングを体験したパイロットが現存するので助言するとも言ってきた。

木更津タワーには空自の老練な大型機パイロットが配員され、種々適切な助言をしながら、UFに対し、クラッシュ・ランディングは最後の手段とし、最良な方法を考えるよう助言した。 機長は、いずれにせよ日没前の着陸は不可能なることを知ったので、クラッシュ・ランディングは諦めて次の手段を考えた。


(3) 大村基地からの指令

幸いにUFのHF連絡が極めて良好で、事故発生時から詳しい情況が手に取るように分かっていた。 木更津、厚木の準備時間及び燃料残量等から8時間の飛行可能なることを知ったので、私は次のように指示した。

 〇 燃料のある限り飛行を続行し、最善策を考えよ。
 〇 搭乗員の安全を第一とし、着陸を急ぐな。
 〇 左脚収容方法は地上で研究してすぐ指示する。
 〇 天候は西方ほど良好、大村は快晴平穏である。

私は8時間の飛行可能を知り、大村に帰投させることを考えていたので、海幕に私の決心を伝えておいた。

機長は私の指示に同意し、1750 木更津上空を離れて大村に向かった。 海幕の手配で念のため岩国の米軍に緊急着陸準備を依頼した。 この時の米軍の処置に対しては今でも感謝している。

「 2400 まで岩国基地は海上陸上とも緊急着陸 (水)態勢を維持し、万全を期して待っている。 それ以後は一時間後に準備OKの態勢をとる。」

安心していつでも飛んで来いという暖かい心遣いだったのである。

まもなく脚の収容法が決定し、UFに指示したが、機上でもほとんど同一処置に気づいて既に作業を開始していた。 ここで忘れられないのは、搭乗員溝上一曹のことである。 彼を中心にクルー全員が協力し、わずかな整備要具と懐中電灯を頼りに、手を血だらけにしながら、右脚高圧油パイプの閉塞に努めたのである。

溝上一曹は平常から高圧油系統の故障に備え熱心な研究を続け、各種パイプを閉塞するためのめくら蓋を作製し、携行していたのである。 この一つがピクリと合致した。

3000ポンドの高圧油パイプ閉塞に成功し、予備油、水を補給して、約1時間を要し、クルーが交代で手動ポンプをつき、左脚の収容に成功したのである。

まさに技術の勝利である。 脚が揚がれば着水は可能である。 これで第一の難関は突破できた。

私は大村から飛行隊長機をエスコートに飛ばせた。 木更津、岩国、大村問の航空路は、東京からの管制によりクリアーされ、このUFの緊急状態飛行に全面的な協力をしてくれた。

私は第二次指令を与えた。

 〇 差し当たり岩国まで飛行し、諸条件を検討のうえ、岩国上空で最後の決心をせよ。
 〇 UF1機がエスコートに出た。 高松上空付近で会合の予定、着陸灯を点滅せよ。
 〇 大村は事故機収容に完璧な陣を敷いて待っている。
(続く)

2014年09月16日

大空への追想 (199)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第1話 飛行艇部隊誕生の裏話 (承前)

        その3 飛行艇部隊の基礎固め

日本唯一の飛行艇部隊も着々と形だけは整っていった。 31年12月1日大村航空隊の旗が揚がったが、4名の基幹要員からの立ち上がりだから、動き出すまでは容易なものではなかった。

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( 原著より  31年12月1日大村航空隊開隊式の編隊飛行 )

要員養成に力を入れながら、それでも一年半という短期間で6機を飛ばせることができた隊員一同の努力に対しては、私なりに上出来であったと評価している。

新設部隊、それ訓練だ、要員養成だと促進しながら、1機でも可動となれば、すぐ実動任務に就けさせようとするのが海幕の常道である。 鹿屋から大村に移動するとすぐ離島からの急患輸送等が始まった。 少ない機数なので訓練と実動が思うように進まなかった。

32年7月、長崎県は前代未聞の集中豪雨に見舞われて大水害が発生した。 交通途絶、有明湾に押し流されて溺死された人は200名にも及んだのである。

大村空は、まさに飛行艇の出番、ポンコツ全機を駆使して一か月間の災害行動に挑んだのである。 写真偵察、死体捜索、輸送等連日の飛行を続け、延べ600機にも及んだのである。

日本海軍の飛行艇保有数は約400機であったが、ほとんどが戦闘行動に終わっている。 飛行艇による救難活動というのは非常に少なかった。

ポンコツ機ながら、離島救難、洋上救難は今回が最初であり、戦後日本における飛行艇の用法に新たな道を開くと共に、これら水上機隊の活動は次の新型機開発に大きな貢献をしたものと信じている。

しかしながらポンコツ機の寿命は短く、35年末頃になると次々とダウンし、大村空はわずかにSNB 1機で細々と過ごさねばならないという時期が来たのである。 (注)

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( SNB )

しかし、ここに一大朗報が届けられた。 UF-2 6機のMAP供与が決まったのである。 受領員は喜び勇んで渡米し、現地講習のうえ、その2機が36年4月太平洋を横断して空輸するという快挙をなし遂げた。 P2Vに次ぎ二回目の太平洋横断である。

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( 原著より  太平洋を横断して空輸されたUF-2 )

思えば4人のパイロットがIFRに取り組んでから5年目にして、太平洋を飛び越えて来たのである。 よくもここまで育ってくれたものと感激したことは言うまでもない。 大村航空隊の基礎は確実に固まった。

36年12月、大村空司令を拝命した時、私に与えられた主要任務は二つあった。

第一はUF-2を北と南の RESCUE 配備につけること。
第二は新型飛行艇の開発を固めるため、実験機UF-XSによる実験を村空が実施することであった。

司令着任後最初に迎えた37年の新年、初飛行に準備した6機のUFが出発前に次々とダウンし、遂に1機だけの初飛行になってしまった。

“根本からやり直す”  固い決意のもと、大馬力をかけて整備隊の奮起を促し、37年3月1日から救難の実動に踏み切った。 これでどうやらUFも確実に動き始めたのである。

しかし司令として着任早々の37年1月 (後述する)、木更津において脚を切損するという着陸事故を起こしたが、この事故が村空立ち直りの切っ掛けとなったことは事実である。

このようにUFの立ち上がりは決して順調ではなかったが、私としては海軍飛行艇乗りとしての体験と大村空初代飛行隊長時代の苦労、鹿屋空教育部長としての搭乗員の教育担当等のおかげで、大村空の飛行機、搭乗員ともに十分に知り尽くしていたので、自信をもって隊員指導ができたという点では他部隊司令よりも非常に好条件が揃っており、幸福だったと思っている。

UFの RESCUE 配備も八戸、大村に常時1機宛待機し、概ね軌道に乗って来たので、第二の任務PS-1の開発に頭を向けていった。 着任後2年目に入った37年6月である。

12月から、実験機UF-XSの飛行試験開始の見通しがついたので、新明和甲南工場に大村派遣隊を進出させ本格的に開発作業に取り組んでいった。
(続く)

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(注) : 公式記録では次の様になっています。
  JRF (4機) : 35年 3月 1日 除籍開始、36年11月30日 除籍完了
  PBY (2機) : 34年12月23日 除籍開始、35年11月16日 除籍完了


2014年09月13日

大空への追想 (198)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第1話 飛行艇部隊誕生の裏話 (承前)

        その2 米軍追浜基地の思い出

30年11月、米軍追浜基地に乗り込んでみると、日本海軍でもそうであったが、同じ米海軍基地でも、陸上機と水上機では非常に感じが違っていた。 百年の知己を得たような明るい気分になって、IFR講習の頭痛もすっかり消え去っていた。

日の丸をつけたJRFが2機完成し、米軍の試飛行も終わっていた。 双発の可愛らしい小型機であるが、4名は水を得た魚のように喜んだ。 新しい闘志がもりもりとわいてくるのを覚えたものである。

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( JRF-5A )

米海軍側も非常な熱の入れ方で、我が方も、整備関係者を含め、約20名が講習を受けることになった。

連日のように日米のVIPが激励に来てくれ、小さいJRFが照れくさがっていたものだ。 七艦隊長官、厚木基地司令官を始め、自衛艦隊司令官、横総監等の激励訪問は、私達にとってはまことに光栄の至りであった。

講習は一か月間で終了したが、水上機離着水の勘だけは十分取り戻せたものの、あの二式大艇の操縦感覚までは甦らずに終わったと考えている。

電子装備や、内部の模様替えのために新明和甲南工場に搬入することになったが、これがまた大変な騒ぎを演じたのである。

甲南工場側にとってみれば、既に米軍各種飛行艇の修理はやっていたものの、戦後初めて日の丸をつけた飛行艇を迎えるのである。 かつて二式大艇が堂々と出入りしたあの頑丈なスベリの上に小さいとは言うものの、日本の飛行艇が4機やって来たのである。

会社側は総員が岩壁で出迎えてくれた。 日の丸の小旗を手に手に、あたかも戦時中出征兵士を送り出す時のような盛観を呈していた。

私も30年前、四発の二式大艇でこのスべリの上を何回か出入りしたのだが、小さな飛行艇で、大勢の出迎えを受けながらノコノコと這い上がってゆく時は、まことに歯がゆい思いであった。 しかし海上自衛隊に飛行艇が再び登場したことに対しては、我々も工場側も深い感銘を受けた次第である。

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( 原著より  JRFチェックアウト記念 )

JRF講習の卒業式がまたふるっていた。 操縦講習を受けた4名のパイロットが主役であったが、20名余りの講習員に対し、米軍追浜基地側は、関係者が総員整列し、米軍司令官以下VIPが全員出席し、我が方も構総監、海幕首脳、自衛艦隊首脳がずらっと並んで盛大な式典が行われた。

当時基地に勤務されていた大先輩安延さん (多計夫、兵51期) が、この日のために自筆で丹精こめて作り上げられた立派な米軍の卒業証書と、米軍のウィングマークをいただいたことは一生忘れられないことである。

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( 原著より  JRF卒業式風景 )

海幕では丁度この日、海自のウィングマークが出来上がったのであった。 大野航空班長が大急ぎ4個を持参し、式が始まる前に私達に着けてくれたのも感激ひとしおであった。

米軍側の指示により、4名は右胸に米軍マーク、左胸に海自マークと、2個のウィングマークをつけて基地内を閥歩したのだからなんとも愉快な話である。


31年3月から6月にかけて、引き続きPBY 2機が到着した。 再び追浜で講習を受け、修業証書をいただいた。

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( PBY-6A )

このPBYは私にとっては懐しい思い出が多い。 大戦中九七大艇の好敵手として空戦も交えているし、終戦時二式大艇を米軍に引き渡す時に (既述) 最後の思い出に操縦してみた飛行艇である。 昭和の時代でありながら、フラップがなく、大きな主翼をもつ水陸両用機である。

ジェット機が飛び交う厚木基地に訓練に行くと、日の丸を付けたこの怪物に対して米軍の連中が物珍しそうに集まって来たのだから、まさに二次大戦の遺物に相応しいものであった。

P2Vが既に部隊を編成していた海上自衛隊内で、JRF、PBYのポンコツ機で、飛行艇部隊の創設に取り組んでゆくのだから、内心肩身の狭い思いがした。 米軍では既にP5Mが第一線に配され、P6Mというジェット飛行艇が試験飛行をやっていた。

PBY講習中は厚木からサッチ中将が度々我々を激励に来られた。 激励というよりも、日本の二式大艇を知っているだけに、その搭乗員達がこんなオンボロ機で真剣に訓練をしているのに同情して、慰めに来られたのに違いなかった。

しかし、我々はこのポンコツの愛機6機をもって水上機隊の創設に真剣な努力を傾注した。 かくして30年12月16日、鹿屋第2航空隊が日本最初の水上機隊として鹿屋に旗を揚げ、第91飛行隊が誕生したのである。

この時点にあって、新明和ではPX-S (PS-1) の構想が固まり基礎実験への段階へと進みつつあったのだが、詳細計画は我々は知るよしもなかった。
(続く)

2014年09月11日

大空への追想 (197)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻

    第1話 飛行艇部隊誕生の裏話

        その1 飛行艇部隊創設

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( 原著より  日の丸を付けたPBYとJRFの編隊 )

昭和28年海上警備隊が誕生した時、私は故郷の生家に終戦後の身をもて余しながら地元で勤務していた。

自衛隊入隊の強い意志はなかったのであるが、終戦時飛行艇隊解散にあたり、固く心に誓ったことは忘れなかった。

なんらかの形で軍隊が復活する場合、生き残った職業軍人の義務として役に立つことがあるならば、身を挺して入隊しなければならないということである。

御存知のように海上警備隊発足当時、クラスの64期生上層部の相当数が入隊した。 クラスからは少なくとも顧書くらいは出しておく義務があるぞ、と呼びかけられた。

「 海上警備隊が飛行艇を持つなら、応募する。」

とずうすうしい返事をしておいた。 ところが人事課から

「 現在のところ飛行艇受け入れの意志はなく、残念ながら貴意に沿うことができない。」

というご丁寧な通知をもらい、海軍とは違って随分とご親切なものだと感心していた。

29年に入ると、クラスの連中から 「飛行艇が来ることになったので是が非でも入隊しろ」 と矢のような催促を受けた。 かくなる上はやむなし、国家公務員試験問題集を買い込んでがむしゃらに勉強した。 まさに四十の手習いである。

早速願書だけは海自、空自両方に出した。 受験する以上入隊の可否は分からんが、とにかくもう一回飛んでみたいとは考えていた。

海上の方の第二次試験 (面接) の時に、先輩の試験官から、

「 君が仮に入隊したとして、飛行艇パイロットを養成する場合、どのくらいの期間を必要とするか。」

と質問された。

「 私個人ならば一週間で十分である。 水上機の経験者ならば一か月の訓練で大丈夫と思う。」

大分大風呂敷を拡げて答えたことを覚えている。

「 防衛上の見地から見て飛行艇の必要性はどうか。」

「 太平洋戦争の経験からすれば、機動性と航続力を活かすことにおいて日本での利用価値は大きいと思う。 確かに飛行艇は戦果よりも損害が大きすぎた。 しかしこれは飛行艇の用法を誤ったからである。 現在世界的風潮として飛行艇はクローズアップされつつある。」

今考えると我ながら大見えを切りすぎたと思っている。 試験官がどう受けとめたかは分らんが、その後、

「 航空自衛隊の受験をやめろ。 相談があるから至急海幕に出てこい。」

と、クラスの担当者から呼ばれ、29年6月1日付でとにかく入隊が決まった次第である。

海上自衛隊 (29年7月1日) は、飛行艇の導入決定と共に私を入隊させてくれたものと、私なりに勝手に解釈し、とにかくこの恩に報いるために努力することを誓った次第である。

入隊教育を受けて海幕防衛部付となり、最初の仕事が、鮫島二佐 (元統幕議長) (博一、兵66期) の弟子となった。

操縦講習員の人選を一任された。 第四期操縦幹部講習員の中に飛行艇基幹要員として、小生以下4名を織り込んで欲しいという餃島氏の要望をうけ、自分勝手に、日辻、植草、小金、山田 (注) を選定した。 まさに役得である。

ついでに当時私は、四、五、六期の幹部操縦講習員と、二、三期海曹操縦講習員、一、二期偵察講習員の名簿を作製した。 今ふり返ってご不満だった人もあることと思うが悪しからず。


29年10月から鹿屋に転勤して、四期幹部操縦講習が開始された。 我々は、相生司令、高橋副長 (注) のもと “天皇” と称する6名の名パイロット教官の指導を受けて、逞しく育ったことを今でも感謝している。

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( 原著より  第4期幹部操縦講習員 )

四幹操卒業時、講習員の配員会議では4名の飛行艇要員は欲張りすぎると大分風当たりが強かったが、鮫島氏のお墨付きがあるので、一歩も譲らず確保したのである。

ADF (Automatic Direction Finder、自動方向探知機) の何たるかも知らんまま、30年に岩国の第一回IFR (Instrument Flight Rules、計器飛行方式) 米軍講習 (日辻、薬師寺、植草、宮澤の4名) (注) に放り込まれ、ノイローゼになるくらい苦労したが、その年の暮が近づいた頃朗報が入った。 JRF (小型飛行艇) 10機が新日飛に輸送されて来たのである。

4機を可動機、6機を部品取り用にすることで、4名の飛行艇要員は米軍迫浜基地で講習を開始することに決まり、IFR講習中途で岩国から解放された時は鬼の首でもとったくらい喜んだものである。

かくして30年12月、海上自衛隊水上機部隊の構想も固まり、基地も大村に決定したのである。
(続く)

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(注) : 本項で出てくる方々は次のとおりです。

植草秀一 : 兵69期、後に海将、航空集団司令官、大湊地方総監
小金   : (不 詳)
山田竜人 : 兵59期、後に海将、航空集団司令官、大湊地方総監
相生高秀 : 兵59期、後に海将、航空集団司令官、自衛艦隊司令官
高橋 定 : 兵61期、後に海将、教育航空集団司令官、海上自衛隊幹部学校長
        回想録 『飛翔雲』 (当ブログ連載済み) の著者
薬師寺一男 : 兵66期、後に海将補、第21航空群司令、在職中に死去
宮澤正介 : 兵71期、後に海将、航空集団司令官

2014年09月06日

大空への追想 (196)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その4 栴檀 (せんだん) は双葉より芳し(承前)

(7) 正月と酒とケガ

私は、太平洋戦争中4回の正月を戦場で迎えたが、今4回の正月を振り返って見ると、敵弾こそ受けなかったが、4回とも不思議に体を傷つけている。 この傷つけ方を考えてみると、戦局の変化を物語っているように思われてならない。

17年の正月、破竹の勢い。 18年ジーッと我慢。 19年やけくそ。 20年栄養不足。 もちろん、傷は己のミスから生じたものだが、取り巻く環境からすると上記のようなことになっていたと思う。


@ 17年の正月

開戦後最初の正月は、勝戦の中に比島ダバオ基地で迎えた。 私は16年の大晦日から17年の元旦にかけて敵巡洋艦の攻撃に出ていた。(既述) 太田雷撃隊長自爆の悲運に出会い、新年のお祝いは遠慮したが、戦争である。

1月9日司令自ら、士気高揚のため、慰霊をかねて新年の宴を催された。 過去を忘れるためにも、みんな痛飲した。 明日は出撃の番になっていたが、破竹の勢いで飲んだ。

私室に元気よく引きあげる途中、食器室で足元に何かが引っかかった。 “エイッ” とばかり蹴あげると、何とこれが電熱器のコードだった。 煮えくり返っていたヤカンが腹に飛んで来た。 “熱ッー”

従兵が “あーッ” と叫んで飛んで来た。 何のこれしき、痛いところに冷水をかけて、そのままベッドに潜り込んで高鼾。

明けて1月10日の早朝、どうもヒリヒリするのでよく見ると、脇腹がベロッと剥けて真っ赤な肉が出ている。 こりゃいかん ・・・・ 早速病室に駆け込んで応急治療を頼んだ。 軍医長が驚いて出撃停止と言う。

とんでもない。 手足は異常なし。 腹をグルグル巻きにして予定どおり出撃した。 以後軍医長と秘密の治療を続けたが10日間かかった。 士気旺盛、作戦に支障なし。


A 18年の正月

ソロモン群島ショートランド基地。 連日末帰還機続出の死闘、ジリ貧に陥りつつあったがジーッと我慢しながら頑張った。

17年12月末、新編横浜航空隊から補充した新鋭3組を迎えたので景気づけの新年宴会を開催した。 椰子林の中の擬装天幕の隊舎の中で、上空に B-17 の爆音を聞きながら交わす盃は、いかにも激戦場らしい風情があった。 灯火管制下の宴会である。

何とも重苦しかった。 新任の飛行隊長は、まだソロモンに馴れていない。 この席の空気に馴染まないこともあって、

「 搭乗員元気がないぞッ 」

と叫んでビール瓶をたたき割った。 誰も気付かなかったが、破片が飛んで私の左手首にグサッと突き刺さった。 どくどくと出血する手首をタオルでぐるぐる巻きにして、そーッと外に出て、治療を受けた。

機能に影響はない。 再び戻って元気に宴を続けた。 すべてに我慢を要した時点である。 翌日も新鋭を率いてソロモンの索敵に飛び立った。


B 19年の正月

印度洋のど真中、アンダマン基地に急遽転進、18年の大晦日、敵のマレー半島逆上陸の陸軍誤報が出たために八五一空大艇隊はスマトラ島シボルガ基地から全力アンダマンに進出したのである。

シボルガで搗いた正月の餅まで持参した。 誤報と知って半ばやけくその正月を迎えたのである。 しかし、こんな誤報が出るほど戦局は急迫していたのである。 果たして勝てるのか、陸軍はビルマで悪戦苦闘していたのである。

豪傑揃いの飛行隊は、敵来たらずということで元旦から二日の朝まで元気よく新年を祝っていた。 索敵の飛行艇は飛ばしていたが敵影なし。 いささか疲れていた。 二日の早朝になって床に就いた。

やけくそは禁物だが、情勢がそうさせていた。 床につく時に、右足指の裏で古釘を踏んづけてしまった。 五寸釘だ、いやに痛む。 机の上のお飾り餅を引き千切って、絆創膏の代りにくっつけて止血した。

応急治療は効を奏して、翌日手当てをしたが、ビッコを引く程度で操縦には影響なし。 正月はどうしてこのようなケガをするのか不思議でならない。 パーッと勇ましい雷撃でもやりたいなー、索敵任務にそろそろ飽きが来たのかも分からない。


C 20年の正月

最後の基地詫間、遂に4回目の正月を迎えていた。 飛行隊長、少佐になって戦局の苦しさが次第に身に滲みて来ていた。 二式大艇の最後の死闘を続けながら、衣食住とも苦しかった。

正月とて、特別にお祝いもしなかった。 連日未帰還機があったが、ソロモン時代と違って補充が続かなかったため、次第に兵力の減ってゆくのが辛かった。

さすがの私も体力が消耗してゆくのを感じた。 正月早々、腹部に大きな腫物が出来た。 軍医官は瘍の疑いをかけたが、自分で治すと言って応じなかった。 死地を彷徨っている搭乗員を考えると腫物なんか構っておれなかったのである。

毎日ドクダミを採って来て特効薬を作るのが要務士の日課となった。 化膿しているのが分かったので荒療治を決意。 腕っぷしの強い搭乗員数名を集め、私をベッドに縛りつけ、一名が私に馬乗りになった。 “隊長馬上ごめんッ” と叫ぶや両手をあてて気合諸共膿を押し出した。

気が遠くなる程痛かったが、おかげで大きな噴火口が出来、その後急速に回復した。 思い切ったことをやったものだ。 しかし考えてみるとこんな腫物ができるのも私だけではなかった。 栄養不足が搭乗員の健康にも影響を及ぼして来たのである。


かくして私の4回の正月はなんらかのケガが起こっていた。 よく考えてみると、正月のケガが、私には敵弾命中に代わってくれていたような気がしてならない。 4年間の激戦中、正月のケガ以外に戦いによる負傷は全くなかったからである。

何回か死線は突破している。 危機一髪の場面も度々あった。 しかし生き残った。 こうなると神仏の加護だったのだろうかと迷いたくなる。
(第5章 終)

2014年09月04日

大空への追想 (195)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その4 栴檀 (せんだん) は双葉より芳し(承前)

(6) 射撃優勝の効果

私は中学生の時から射撃が上手かった。 海兵でも、小銃、拳銃射撃で3回メダル組に入った。 分隊点検には、短艇と体技の優勝メダルも合わせて胸に飾り、右手で胸を抑えながら駆け足をしたものである。

42年四空群司令の時、群司令射撃大会で優勝し、ウィスキーをせしめたところを見るといまだ射撃は自信ありと言えるだろう。

14年10月舞鶴航空隊 (注) 勤務 (中尉) 時、舞鶴警備府准士官以上拳銃射撃大会があり、私は航空隊代表で出場したことがある。 自信があったので、こっそりと白手袋をポケットに潜ませておいた。 警備府長官の面前で射つのである。

無念無想、一発、二発 ・・・・ 5発射ち終わり、25秒。 監的係が戻って来ていわく、

「 本日の長官賞は決まったですね。 25秒で47点 (50点満点) が出ましたよ。」

案の定、二位とは点数で5点、時間で20秒も上回っていた。 司令が、

「 表彰式の白手袋を貸してやろう。」

と言うので、やおらポケットから白手袋を出して見せると、

「 ウーン、それだけ自信があったのか。」

・・・・ 感心していた。

優勝が決まると欲が出る。 何の賞品が出るんだろう。 一斗樽一本くらい出るかも分からんぞ。

やがて表彰式となった。 軍楽隊の演奏が始まる。 「誉の曲」 を耳にしながら長官片桐中将から、うやうやしく賞状を受けた。 続いて副賞、大きな箱だ。

捧げもって列に帰ると、副長が俺の尻をつついて、「もう、へベれんぞ (飲みに行ってバカ騒ぎはできないぞ)」 と言った。 副長は中身を知っていたのである。

あとで調べて驚いた。 何あろう !! 明治大帝の肖像額であった。 腰が抜けるような思いがした。

講評の中に名前まで挙げられ、成績抜群なりと読みあげられ、舞鶴航空隊の株が一挙に上がったものである。 帰隊後祝勝会までやってもらったが、司令は、

「 その額はお前の私室に掲げておけ。」

と言って意味ありげな笑みを洩らす。

この額を掲げた以上、私室でも何か重圧がかかる。 外出時、どうもこの額がジーッと私を見下ろしているので、別のファイトが揺らいだものだ。

考えてみると、花の海軍中尉、大空以外にも思う存分翼を伸ばしていたい時だけに、有難い無言のご指導に身の引き締まる思いがした。

さては俺の日頃の行動が長官の耳に入っていて、無言の指導をなされたのではなかったのか。

いずれにしても、射撃優勝の効果は俺の克己心にハッパをかけた。 しかし、自分の特技が己を規制したのだから諦めざるを得ない。 喜ぶべきか、悲しむべきか。
(続く)

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(注) : 舞鶴航空隊に関連して、舞鶴航空基地については本家サイトの 『旧海軍の基地』 コーナー中でご紹介しておりますので、興味のある方はご参照ください。


  http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/Nav_Air_Base_list.html
  http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/013A-Mizuru.html

2014年08月31日

大空への追想 (194)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その4 栴檀 (せんだん) は双葉より芳し (承前)

(5) 昭和の桃太郎、お手柄

海軍では5月27日の海軍記念日には、毎年各地で所在部隊が担当し、各学校等で地元民に対する講演をやったものである。 太平洋戦争開戦後はどうしたか存じていない。

丁度支那事変から帰還し、艦隊編入となった六航戦 (能登呂、神川丸) は、最初の艦隊演習に参加のため、15年の海軍記念日を淡路島の洲本基地で迎えることになった。 洲本の海岸に水上機基地を仮設し、九州東方海面の索敵を実施していた。

記念日当日、六航戦司令部から、洲本市における講演官の派遣を指示された。 こともあろうに、艦長は洲本中学校の講演を私に指定したのである。

「 明日は君は飛行中止だ。 何でもいいから話してこい。」

と言うのである。 大体海軍記念日の講演といえば、東郷元帥、日本海々戦の話をして、ついでに海軍志願のPRをやることになっていた。

こんな話は知っているようで、いざ話をするとなるとなかなか話せないものである。 私は前夜遅くまで考えた末、どうせ私一人で行くのだから、実戦談をやろうと腹を決めた。

当日 0900、洲本中学校の講堂には立錐の余地もないほど、生徒や町の有志がつめかけていた。

校長先生の紹介を受けて壇上に立った。 「日辻」 という名前が可笑しいのか、まず沸いた。

「 私は難しい話はできません。 先日まで支那事変の戦場を駆け巡っていたので、実戦談に切り替えます。」

とやると、海軍中尉の実戦談ということで、講堂には割れ返るような拍手が湧き起こる起こった。

6か月間の航空戦の状況を、ありのままに、面白可笑しく喋りまくった。 自分の体験談を赤裸々に話すのだから、開く方も話す方も熱が入り、約束の時間も遥かに過ぎて、2時間半という大講演というよりも漫談になってしまった。

校長先生のお礼の言葉が今でも忘れられない。

「 日辻中尉殿の豪放磊落と言いましょうか、熱の入った生の実戦談に全く魅せられてしまいました。 2時間半という長い講演は、当校としても初めてのことです。 しかもこの間、生徒の目が輝いて、居眠りはおろか、食い入るように聞いていましたことは、話そのものよりも、日辻さんの人格のしからしむるところと信じます。」

さすがに校長先生、お世辞も上手い。 私は穴にでも入りたい気持ちであった。

「 諸君、海軍にどんどん入ってくれ、いいところだ。」

とPRだけを一言つけ加え、陸軍の配属将校に送られて校門を去った。

当時は洲本市といえども、タクシー等は少なかった。 それでも特別に2台が用意され、生徒たちの万歳に送られて暇を告げた。

この時、海兵の何期かは忘れたが、私の話を生徒で開いていたという人がいた。 だからウソはつけないものである。

私の後ろに続く1台には教頭先生が乗り込んで、お土産に洲本地方の銘菓や、果物が山と積み込まれていたのである。 まさに桃太郎の凱旋のようなことになってしまった。

「 一体お前は何の話をして来たんだ。」

と艦長から聞かれたが、密かに聴衆の中に潜り込んで話の内容を調査に来ていた機関長が、その盛況振りを説明してくれたので助かった。

「 おい、一言千金の値があったらしいな。 基地で食べ物が不足した時は、日辻君を講演に出そうじゃないか。」

早速野次をとばす者がいた。 この実戦談は、その日のうちに市内に拡がった。 翌日になると、こんどは女学校の教頭先生がやって来た。

「 昨日中学校で実戦談をやられた中尉の方をぜひ女学校にも派遣してもらいたい。 生徒たちから責められて、なだめるのに困っています。」

女学校にも、昨日別の人が話しに行っているのである。 艦長が、部隊は現在演習中であること等丁寧に説明されて断っていた。

この日私は早朝から索敵飛行中であり、帰投してこのことを知った。 内心ほッとしながら、

「 行けばよかったですね。 洲本から、いい嫁さんをもらえたかも分からんのに。 残念ッ! 」

・・・・ 楽しい思い出である。
(続く)

2014年08月28日

『大空への追想』 写真追加

連載中の 『大空への追想』 で、第190回及び第193回に写真を入れるのを忘れておりましたので追加しました。 折角の回想録ですから著者の当時の写真が抜けていては (^_^;

2014年08月26日

大空への追想 (193)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その4 栴檀 (せんだん) は双葉より芳し (承前)

(4) 飛行学生卒業時の名訓示

六十四期飛行学生は陸上班、水上斑に二分され、水上班の学生は、霞ケ浦対岸に開設された鹿島航空隊に初代学生として学んだのである。

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( 原著より  飛行学生当時の著者 )

卒業式は両班合同の上、霞ケ浦航空隊において、御名代の殿下をお迎えして行われたが、水上機の学生は、その前に鹿島空で形だけの卒業式を実施した。 飛行艇要員最適という太鼓判を押されたため、卒業に際しては三座水偵に指定された。

水上機学生卒業に際し、鹿島空司令が海軍士官の処世術の一端を学生の餞けにと訓示されたが、公式の場であんな具体的な話をされたのは珍しい。 有難く心の中に銘記したのである。

『 諸君は飛行学生卒業と共に海軍将校として一人立ちするのである。 海軍飛行将校というものは同じ士官の中でも、一段と品位と誇りを維持する必要がある。 また諸君は危険な毎日を送るようになるので克己心を強くもたねばならない。 早い話が飛行将校は女性にもてるのである。 だからこそ克己心が必要になる。具体例を述べて参考にしたい。』

と前置きして次のようなことを懇々と話されたのである。


@ 酒は飲んでも酒に飲まれるな

今更説明の要もあるまい。 酒で失敗した先輩の例は少なくない。 酒の上でのことは、とかく笑い話ですまされることが多いが、要は飛行将校としての任務に支障を生ずるような飲み方をするなということである。


A 後家さんに手を出すな

飛行機乗りは女性にもてると言ったが、間違っても後家さんに手を出すようなことはするな。 女が欲しい時は、その地の一流の芸者を買え。 金がなくてそれができない時には、一切女に手を出すな。 素人娘を相手にする時には、必ず結婚を目的とせよ。 海軍将校としての結婚の手続きを踏んだ上での決心である。

(原注) : 海軍将校の結婚は非常にうるさかった。 不文律 (注) ではあるが、結婚の許可は海軍大臣が行った。

結婚申請は、直属上司の各段階を経て、海軍省人事局の担当各課を通過し、最後に海軍大臣のもとに提出される。

許可が出ると、再び申請時の逆順の手を経て本人に交付される。 申請書には憲兵隊の手による相手方の身許調書が添付されるので、申請から許可までに順調にいって約3か月を要した。

私も記念にこの書類をもっているが 「婚姻を許可する。 海軍大臣」 という大きな捺印の他に40個の捺印がある。

今の人から見ると馬鹿馬鹿しいと感ずるかも分からんが、このような難関を突破してお嬶チャンになるんだから、海軍将校夫人たる者は立派に内助の功をあげられるよう努力すべきである。

反面、自由に結婚できなかったためか、海軍士官夫人には余り美人がいないように私は思っている。


B 旅館に泊まる時は一流の旅館を選べ

変な安宿に泊まるな。 一流旅館に泊まれない時は、何時間かかっても歩いて隊に帰れ。 食事をする時は一流のレストランに入れ。 要は海軍士官としての品位を汚すなということである。

これに関連し次のような思い出がある。

候補生の頃、呉で友人と二人で外出した時、夜遅くなって空腹を覚え、街外れのある旅館に入って夕食をとったことがある。 私達の制服を見て、主人が平身低頭しながら案内してくれたが、

「 私どものような所でよろしいんでしょうか。」

と言う。 なんでそんなことを言うのかと思いながら、

「 心配ないと信じて入りました。」

その部屋には、東郷元帥の写真が掲げてあった。

やがて主人夫妻が揃って、高膳の夕食を捧げるようにして運んで来た。 この旅館にしては立派な食事である。

主人の済まなそうな様子が気になるので、私が二階の窓からそっと這い出し、看板を見た。

“御宿〇〇旅館” と書いてある。 友人と顔を見合わせ

「 おい、御宿とは木賃宿のことだぞ、こんな所に制服の士官が入って来たので慌てているんだよ。」

軍港の街だけに徹底しているのだろう。

「 御主人、心配無用、我々は民主的にゆこう。」

厚くお礼を言って宿を出たのだが、奥さんが先に玄関を出て人通りのないことを確認してくれるという気のつかい方であった。

鹿島空司令の訓示が身に滲みた。 しかし海軍士官の品位ということに対しては当人達よりも、一般の人々に逆に教えられたような気がした。


C 戦う時には必ず鉄かぶとを忘れるな

兵隊に教える前に、士官はまず身をもって模範を示せ。 本件は説明を省略する。


以上の4項目が司令の訓示であった。 この司令もやがては戦死された。 今時こんな卒業の訓示をする司令がおるだろうか。 恐らく司令の体験から滲み出た忠告を我が子に残されたものであろう。

名調子の訓示は数多く聞いている。 しかし抽象的な訓示は心の底にはなかなか残らんものである。 この飛行学生卒業時の司令の言葉だけは、いつまでたっても忘れられないものであった。 こういう訓示を受けていると、なかなかこの教えは破ることができないものである。

極めて常識的なことであるが、公式の場で、真面目に諭されたこの司令の処世術、日常の行動に直ちに繋がる訓示だけに、確かに効き目があったと思っている。
(続く)

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(注) : ここでは “不文律” とされていますが、実際には古くは明治18年の 「海軍武官結婚條例」 (乙14号) に始まり、同25年 「海軍軍人結婚條例」 (勅令87号)、同41年 「海軍現役軍人結婚条例」 (勅令180号)、大正10年 「海軍現役士官現役特務士官候補生及現役准士官ノ婚姻ニ関スル件」 (勅令483号) の改定を経て、昭和13年に 「海軍現役軍人ノ婚姻ニ関スル件」 (勅令706号) となりました。 そしてこの勅令706号の詳細は同年の 「海軍現役軍人婚姻取扱規則」 (海軍省令25号) によって規程されています。

なお、明治18年と昭和13年のものについては、本家サイトの 『海軍法規類集』 コーナーにて公開しましたので、興味のある方はご参照ください。




2014年08月24日

大空への追想 (192)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その4 栴檀 (せんだん) は双葉より芳し (承前)

(3) 長崎と別府の美談 (承前)

次ぎは別府の美談である。

艦隊別府入港と言えば、別府は脇に沸きに沸いたものである。 「伊勢」 が艦隊に編入されて最初の休養寄航の時であった。 13年5月頃のことである。

海軍にはなかなか粋人がおり、定係港から次の寄航地へ好きな彼女を回航させる人がいた。 候補生として呉で乗艦した時、よく揃って行った料亭 “ロック” ( 「岩越」 の愛称、昭和20年の空襲で焼失) に “お数さん” という世話好きな婆さんがいた。 若い士官を献身的に世話してくれた人である。

別府入港の翌日、私はこの際と思って大分市の知人を訪ねるべく上陸した。 桟橋につくと偶然にも “お数さん” がいたのである。 若い呉の女性を一人連れていた。

ある人を待っているのだが、宿は決まっているのだから、そこで飯でも一緒に食べようということになった。 私も時間はあるので付き合うことにした。

三人で食卓を囲んだ時、この婆さん突然腹痛を起こした。 非常に苦しみ出した。 連れの女性は、“お数さん” は時々胃痙攣を起こすことがあると言っただけでオロオロするばかり。 海軍少尉ここにあり、早速旅館に医者を呼んでもらった。

診察の結果やはり胃痙攣とのこと、治療の上暫く休んでおれば大丈夫というので安心した。 しかし旅先での急病である、私は遂に大分行きを断念し、最終定期便まで看病することに決めた。

まことに侘びしい別府の外出になってしまったが、これも社会勉強の経験と諦めた。 病人も落ち着いて心配もなくなったので、医者代、旅館の一切の費用を含め (25円だった) 支払いを済ませ、清々しい気持ちで帰艦した。

その後13年8月1日、飛行学生として霞ケ浦航空隊に着任した。 水上機初練で汗水流していた頃、一個の小包を受け取った。 発送人は呉の “お数さん” であった。

別府でお世話になったお礼だと言って立派なチリメンの帯を送ってくれた。 その中に一通の手紙が入っていた。 辿々しい字ではあったが真心込めて書いたものだった。

「 旅先でまことに心細い思いをした時にあのように世話になったことは一生忘れられない。 人の世の情の有難さをしみじみと味わうことができた。」

子供のいない独り身の労働婦人の感謝の念が一字一句によく溢れていた。

「 ああ、いいことをした。 空で戦うのみが国のためではない。 小さな親切の積み重ねが、我々のような防人達には特に必要なのだ。」

今にして思うと、あの暴れん坊の少尉時代に、よくもこんなことができたものと我ながら感心している。

このお数さんも、呉で海上自衛隊の幹部専門のクラブをやっていたが今は故人となってしまった。
(続く)

2014年08月21日

大空への追想 (191)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その4 栴檀 (せんだん) は双葉より芳し (承前)

(3) 長崎と別府の美談

引き続き純情無垢な話になるが悪しからず。

「神川丸」 による支那事変の作戦行動を終了して、艦隊編入のための準備もあり、15年11月末、長崎造船所に入渠して修理に入った。

飛行隊は佐世保航空隊に収容してもらい、専ら訓練に励んでいた。 土、日ともなれば、入渠中の母艦に戻り艦内作業を手伝ったのである。

軍医中尉 (軍中と呼んでいた) と二人で久し振りに長崎の夜の街を見物に出た時のことである。 海軍士官の身分を隠してあるバーに入ってみた。 名前は忘れたが大きな店であった。 初めて日本のバーに入ったのである。

相手に出た女性は若い静かな人だったが元気がなかった。 同じ長崎県でも長崎は軍港佐世保とは街の風情も人間も大分変わっていた。

例の女性、酒を勧めても飲まず、いろいろと話しているうちに病気であることが分かった。 思わぬところで婦人科が専門という軍中が役立った。 私には分からなかったが、そこは医者だ、軍中はハハーンと気がついた。

芸者は桂小五郎の幾松しか知らんくらい純情な俺だから、病気になってもなお働かなければならないという若い女性に同情しないはずがない。 話はウソではなかった。 軍中の話で何の病気かも分かった。 こっちに野心など毛頭ない。

丁度この頃に、「アルバジル」 という新薬が発売されていた。 軍中の話だと、この薬を1週間飲んで1週間休み、また飲む、これを2回繰り返せば、先ず全快するというのである。 残念ながら私は生まれてからこんな治療を受けたことがない。

一週間分でこのクスリ15円也。 当時の中尉の基本給が90円くらい、盛りそば一杯15銭の時代だから、相当高価なクスリである。

いつの間にかバーには相応しくもない話に熱が入り、軍中が憩切丁寧に療法を教え出した。 私は気が早い。

「 よーし、一週間分のクスリ代、俺が出すから今すぐ買って来い。」

戦地帰りだから、15円くらいは心配ない。 驚いたのはこの女性、名も知らぬ客がこんなことを言い出したら怪しむのは当然だ。 やむなく二人の身分だけは教えて安心させた。

「 二回目の分は俺が出してやる。」

軍中も遂に釣られて言い放った。 彼女は涙を流して礼を言いながら辞退したが、意を決して買いに行った。 初めて見るこのクスリ、軍中が保証するのだから間違いはない。

「 大事にしろよ。 一か月もすればよくなるだろう。 その頃来れたら来て見るよ。」

名前も住所も告げず、店を出た。 澄みきった空には大きな月が出ていたのを覚えている。

「 ああ、いいことをしたなー。 彼女はウソはついていないよ。」

と、心の中で呟ききながら、酔いも覚めて冷たい夜の空気を腹一杯吸い込んだ。

我々は二度と訪れることもなく太平洋戦争に突入していった。 長崎には原爆も落ちた。 果たしてあの時の女性は健在だろうか。
(続く)

2014年08月18日

大空への追想 (190)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その4 栴檀 (せんだん) は双葉より芳し (承前)

(2) 佐世保の “山” と “川”

「伊勢」 の定係港は呉であったが、艦隊だからどこにでも入港した。

佐世保入港中に少尉任官、13年3月10日である。 候補生時代はいわば海兵の続きみたいなもので、外出も自主的に単独行動は避け、外泊も自粛していた。 少尉に任官して初めて士官としての取り扱いを受けた。

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( 原著より  海軍少尉当時の著者 )

当時は佐世保でも呉でも、艦隊入港となれば、軍港都市として一般市民からも歓迎されたものである。 特に夜の街は一般の人々は自粛して、艦隊乗員に譲ってくれた。 有難い次第である。

各軍港にはいずこも同じ海軍専用の料亭があった。 これら料亭は士官室士官 (大尉以上) と次室士官 (中・少尉) に自然区分されていた。

13年3月12日、佐世保に入港した時である。 少尉になって最初の宴会があった。 特短優勝のおかげで、K中佐の御機嫌はまことに麗しく、

「 運用士、今日は俺について来い 」

ということで “川” に案内された。

佐世保の “川” (いろは楼) は士官室以上の巣で、ガンルーム (次室士官) は “山” (万松楼) に集中していた。

“川” に行ってみると、少尉なんてのは見たこともないようなところだけに、中年以上の四畳半方式の酒席に元気一杯の少尉の出現には、ビックリされると共に大歓迎を受けた。

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( 元画像 : 佐世保市公報パンフレットより  「いろは楼」 の戦前の絵葉書 )

正直な話、私は芸者という者を知らなかった。 こんなこと言っても誰も信用しないだろうが、これは事実である。 当時芸者とは偉い女と思っていた。 桂小五郎と芸者幾松だけを知っていたからである。

海兵生活、練習艦隊勤務、青春時代を現代的禅坊主 (初めて陸士との交歓会があった時に陸士の連中が海兵生徒をこう称したのである) で過ごした私達は、芸者とは何者かも知らぬくらい純情だったのである。

したがって初めて芸者からさされる盃を正座して、うやうやしく受け取ったものである。 今思うと穴にでも入りたい気持ちで一杯だ。

K中佐がこんなことを言った。

「 艦内ではどんどん働き、特短を叱咤しながら、若さ一杯で暴れ回っているんだから、外出した時くらいは酒ビタリの馬鹿騒ぎはやめて、静かに盃を楽しんで英気を養うのがよい。 ここは年寄り連中の来る所だが、若い者は遠慮しろという規則は何もない。 これからはここに来るようにしろ。 修養になるぞ。」

これが一人前の士官になって社会学の最初の体験であった。 これ以来私は、佐世保は “川” というように大体年寄りたちの行く所を狙うようになった。


海軍士官の行く料亭の主人には義理人情の深い人が多い。 “川” の主人について深い思い出がある。

16年11月、太平洋戦争必至となり、東港航空隊も出陣祝いをやることになった。 鶏のスキ焼を食べたいという大勢の意見が出たが、台湾ではアヒルくらいしか手に入らなかった。 ちょうど内地最後の連絡飛行があった時、相沢飛行長から特命を受けた。

「 今生の思い出に鶏のスキヤキを食いたい者共の宿願を果たしてやりたい。 今回の連絡飛行は貴様が行け。 “川” の主人に貴様から話せば何とか集めてくれるだろう。 戦果を待っている。 15羽だ。」

一泊の要務飛行では無理と思いながら飛んだ。 土産には東港のバナナをどっさり積んでいった。

佐世保着後 “川” の主人に膝詰めで事情を話した。 出陣の一語を聞いておやじの顔色が変わった。 そして、

「 明朝までに必ず集めておく。 安心して私の家に泊まってくれ。」

と引き受けてくれた。

翌朝、主人はまだ眠っていた。 しかし鶏20羽が毛までむしりとってきちんと準備してあった。 喜んで帰隊できる。 見送りに来た女中が、

「 主人は昨夜から今朝まで、街中を駆け巡ってこれだけ集めて来ました。 東港の皆さんが出陣に際して心残りするようでは申し訳ない。 長い間つき合った日辻少尉 (当時大尉だが、このおやじさんはいつでも少尉と思っていた) に対する餞 (はなむけ) だと言っていましたよ。」

と話してくれた。 私は涙の出るほど嬉しかった。

「 必ず司令に伝える。 さぞ盛大な出陣祝いが出来ると思う。 主人にくれぐれもよろしく。」

海軍料亭主人の一面に触れた話にすぎないが、嬉しい思い出である。 この “川” も主人も既にこの世から消えた。 私に特命を与えた相沢飛行長も、それから2か月後には散華されてしまったのである。
(続く)

2014年08月15日

大空への追想 (189)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その4 栴檀 (せんだん) は双葉より芳し (承前)

(1) 戦艦 「伊勢」 特短と共に (承前)

痛快だったことは、候補生でありながらあの大艦の錨作業の指揮官をやらされたことである。 出入港、一斉投錨ともなると緊張するものだ。

もちろん運用長が投錨の指揮官である。 ある時、運用長が、

「 今日の投錨はお前がやれ 」

といって涼しい顔をしている。

「 前甲板に立って錨作業をやっていると、艦長の操艦技量の上手下手がよく分かるんだよ。 大佐の艦長と候補生の投錨の意気がピタりと合って初めてうまくゆくんだ。」

と言う。 山口艦長がビックリした。

「 おい、戦艦の錨を候補生に入れさせるつもりか 」

伝令が正直に艦長の声をそのまま伝えて来た。 運用長は手をあげて 「そのとおり」 と合図した。 緊張はしたが、尻拭いは運用長がやるんだから、私も平然としていた。

時には掌運用長が何か文句をつけると、「指揮官は俺だッ」 と怒鳴り返すくらいに自信がついてきた。


昭和13年度後期の艦隊集合は伊勢湾であった。 艦隊短艇競技が第一日目に行われた。 集まった艨艟からわき起こる声援は、まるで甲子園の高校野球がそっくり伊勢湾の洋上に移されたような賑やかなものであった。

伊勢3クルーは、艦長から一人一人握手を受け、まるで特攻出陣のごとく出発した。 伊勢は全クルーが予選を一着で通過し決戦に臨んだ。 決勝戦は伊勢3クルーを含め8クルーで競われた。

大接戦だったが伊勢が地力を出して1、2、3着を占め、13年度前期、後期ともに伊勢クルーが優勝したのである。 こんなことは過去に例がないと聞いている。


特短訓練中こんな珍事を起こしたことがある。

呉軍港在泊中、伊勢の1、2クルーが湾内で練習競漕をやった。 艦隊随一の声がかかっているこのクルーの橈漕は実に迫力があった。 折り返し点からの帰りの死闘は実力伯仲、まさに在泊艦船注視の的になった。

ところがこのコースを横切る形で潜水戦隊が2隻で編隊出港して来たのである。 「こりゃいかん」  目測だが一向に相対方位が変わらない。(注)  クルー達は後ろ向きだから一向気にせず全力で頑張っているだけである。

潜水艦側は、当然カッターは避けると思うから減速しない。 だんだん両者が迫ってきた。 1クルーが櫂を揚げればこっちも止めるんだが、ガッチリ取り組んだ以上止めるわけにはゆかん。

一番艦は何とかやり過ごしたが、二番艦が目前にやって来た。 1クルーあわや衝突 !! と思ったところ、艇指揮が立ち上がって怒声一番 「10枚ーッ」 (10本全力の意)、ぐーんと速力がついて潜水艦の艦首を1米差で突っ切った。

二番艦の当直将校が艦上を突っ走って来てカンカンになって 「止まれーッ」 と怒鳴っている。 私の2クルーは、潜水艦のど真中に向かっているので絶対絶命、まず潜水艦が停止、こっちもやむなく櫂をあげざるを得なかった。 潜水艦からの怒声、罵声を一身に受けて、さんざんの目にあった。

帰還後早速手をうって、艦長から潜水隊司令にお詫びを入れことなきを得たが、「伊勢」 特短が潜水戦隊の出港をストップさせたという話題が艦隊にも流れ大分賑やかなものだったが、K中佐は、

「 子供の喧嘩に親が出るようなもんだ。 自分が針路を変えるなり減速すればいいじゃないか 」 と。

かくして私の 「伊勢」 乗組みの一歩は、とにかく両舷直作業 (艦隊における甲板諸作業) 及び名チャージ?の面で山口艦長の信任を得たことは事実であり、船乗りとしての基礎が広く浅く身についていったのである。

思えば飛行艇乗りとしての将来に、これらが大きく貢献してくれたことを感謝している。
(続く)

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(注) : 「方位変わらず、距離近づく」 というのは、海上で行合船どうし衝突の危険がある明白な状況で、船乗りが最も嫌うものの代表的な一つです。

この海上における船どうしの “相対運動” というものは、地上に足を置いて、かつ道路を初めとする地形地物の中で回りを見ながらの一般の方々には、感覚的になかなか分かり難いものでしょう。

この “相対運動” については、簡単な説明を次の記事でしておりますので、ご参照ください。


「続々 ・ 敵前大回頭と丁字戦法」 :

2014年08月10日

大空への追想 (188)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その4 栴檀 (せんだん) は双葉より芳し

(1) 戦艦 「伊勢」 特短と共に

遠洋航海を終え、半人前の士官 (少尉候補生) として最初の勤務が戦艦 「伊勢」 (呉) であった。 12年11月5日のことである。 いよいよこれからが海軍士官としての練成道場入りをしたわけである。

さて海兵時代、生徒達から嫌われたというか敬遠されていた運用科の教官 (大先輩) K少佐がいた。 この教官のもとでは、生徒がのびのびとしておれなかった。 私など器用な方なのだが、機動艇達着訓練では、よく怒鳴られたり、殴られたりしていた。

六十四期生の卒業とともに、K少佐もまた艦隊に転勤された。 よく六十四期の話題になったのは、「艦隊に配乗した時、クラスの中で誰が一番先にKさんの分隊士になるだろうか」 ということであった。

ところが遠航が終わって航空実習も修了、張り切った10名の候補生が 「伊勢」 乗組みを命ぜられた。 呉で乗り組んで見てびっくりした。 伊勢の運用長がK中佐 (進級していた) だったのである。

しかしK中佐は全く人が変わったようにニコニコしていた。

「 来たなー、一人前になったかい 」

と、懐しそうに迎えてくれた。

艦長は山口多聞、若い候補生たちに対する第一声は、

「 本艦には君達が最も尊敬しているK中佐がおられるぞ。 諸君の乗艦を待ちこがれていたよ。 しっかりやれ ・・・・ 」

であった。 山口艦長は海兵におけるK中佐の評判をよく知っていたのである。

艦内での配置が決まった。 なんと私は運用士である。 K中佐の部下第一号になったわけである。

全く暗い気持ちに襲われた。 しかしただ一つ私には希望があった。 いずれはパイロットになれるという自信があり、長く船乗りで過ごすことにはならんだろうという安心と、差し当たって私は海兵時代から短艇橈漕に秀でていたことである。

K中佐は百もこれを承知していた。 戦艦には、特別短艇員が兵科2クルー、機関科1クルーの3クルーある。 艦隊の競漕が目前に迫っていた。

運用士になって最初にK中佐から指示されたことは、

「 お前は差し当たり特短のチャージ (特別短艇員の艇指揮) をやれ。 停泊中は艦内に居らんでよい。 特短と共に海上で暮らせ。」

ということである。

(原注) 「特短」 : 艦隊巡洋艦以上の大艦には12名艇員のカッタークルーが1〜3組おり、プロのような厳しい訓練を実施していた。 任務は洋上救難作業であるが、実はその艦を代表するボートクルーであった。

艦隊は前期・後期の初めに集合地が決まっており、集合した初頭に艦隊の競漕が行われる。 この競漕に優勝した艦は大体においてその期の艦隊作業で優秀艦となるのが常であった。


したがってこの短艇競技は艦長以下全艦をあげての熱狂的な応援を受けた。 それだけに特別短艇員の訓練はまさに血みどろの特訓であり、艇指揮 (チャージ) 以下、暇さえあれば洋上に漕ぎ出して暮らしていたのである。

こんな仕事は私には向いていたが、決して生易しいものではなかった。 総員起床前からK中佐に叩き起こされて海に出る。 停泊中は0500から1800頃まで、兵食持参のうえクルーと漕ぎ出してゆく。 ほとんど艦内の配置教育には出られない。

夜間になってから勉強しなければとても仲間には追いつけない。 何しろ運用士だから艦内の構造から始め、運用作業の全てに通じなければならない。 あの大きな戦艦内の隅々まで、毎晩クタクタになって走り回っていたものである。 航海中は艦橋当直もやる。
(続く)

2014年08月03日

大空への追想 (187)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第5章 海軍航空随想記 (承前)

    第6話 よもやま話 (承前)

        その3 航空加俸とは?

金銭的な話はしたくもないが、航空加俸と言えば搭乗員には大切な問題である。 海上自衛隊勤務を振り返って見ても、この加俸問題はその初期から迂余曲折があった。

海軍の航空加俸を参考までに話してみると、大体下の表のようなものだったと思う。 (数字の面で、記憶違いがあるかも分からんが、昭和12年以降の話である。)

197_01.jpg
( 原著より  航空加俸及び危険加俸一覧 )

当時の給料が大尉130円、少尉65円くらいだから給料に対する加俸の比率は大きかった。 水上機の搭載艦に勤務すると更に航海加俸がついた。

さてこの航空加俸だが、海軍と自衛隊ではその考え方が違っていたと思う。 当時の軍人に対する待遇は生活環境、物価の面等から考えれば、現在とは大差があった。

私が中尉で支那事変従軍 (神川丸) 中の月額は戦時加俸を加えて約300円だった。 これは当時高等官六等の中学校長と同額だった。 ただ、当時は死を大前提とする軍隊教育下の職業軍人にあっては、給料とか加俸とかにはほとんど拘らなかった。


危険加俸についていろいろ面白い話がある。 こんなことを言うと、海軍もでたらめをやっていたものだと文句をつける人がいるかも分からんが、そう固く受けとらんででほしい。

夜間飛行を5回やれば、その月の危険加俸 (赤マークと呼称) は満額になる。 一回とは、10分間の離着水一回でも、6時間の飛行でも同じ取り扱いになる。

太っ腹の主計長は、月給日に飛行隊に対しては赤マーク満額の90円の加俸を前払いしていた。 いわく

「 今月は5回夜間飛行を頼むぞ 」

そこで、飛行隊長は月末までに赤マークの予想が難しくなると、

「 本日以降1530以後の飛行は全部夜間飛行としろ 」

これで万事解決というわけだ。 また “ポン六” と言う海軍用語があった。 カタパルトでポンと一回射出すると赤マーク1回で6円の加俸がつくからである。

197_02.jpg
( 原著より  カタパルトから発進する九四式水偵 )

ところが危険な洋上着水 (当時は射出発艦よりも揚収のための外洋着水の方が余程危なかった) は、何回やっても赤マークはつかなかった。 カタパルトのない 「神川丸」 のような特設空母になると、命がけの発着艦はすべて洋上だが、このための加俸は零。

更に面白いことは、戦地勤務の時に、敵弾を冒し、あるいは敵機の攻撃を排除して攻撃行動をしても一切赤マークはつかない。 即ちそれが任務だからである。

したがって戦場においても赤マークを貰うためには夜間飛行をやらないとだめ。 昼間雨の中を命がけで飛んでも一文にもならなかった。


さて搭乗員の航空加俸は何のためにくれるのかという話で面白いことを言う人がいた。

『大西滝次郎伝』 を読んだ人は御存知と思うが、大西中将がかつて横空の教官をしているころ、日曜ごとに若い学生達が官舎に遊びに来た。 その都度、奥さんは接待費に苦労したという。 大西中将いわく、

「 俺には90円の航空加俸が一般の教官より余計に支給されている。 搭乗員の航空加俸というのは、こういう時のために貰っているんだから、以後生活費はよく考えてやりくりしろ。」

と。 全くいい気なもんだ。

海上自衛隊で、航空加俸増額 (初期) でガタガタしていた頃、海軍のある先輩に、海軍が金銭的なことをくよくよしなかったために、海上自衛隊は、海軍の前例をたてになかなか改善してもらえないと話してみると、

「 航空加俸なんてものは、気晴らしに一杯やるためにくれるものと思っていたよ。 今は、四畳半遊び (料亭で芸者を上げて飲み食いすること) に行くこともないんだから、くよくよするな。」

とのことだった。 昔の海軍搭乗員が、よくもてたのはこの辺のところにあったのかも分からない。
(続く)