2012年11月23日

大空への追想 (40)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (注)

    第1話 搭載艦物語

 ここで日本海軍水上機の歴史を少し繙いてみたい。

 海軍航空の生い立ちは水上機から始まっている。 すなわち明治45年6月迫浜に海軍航空術研究委員会ができた当時 (当時の海軍航空予算は年間10万円 − もりそば一杯3銭也 )、海軍が最初に購入した飛行機は次の2種類である。

     モーリスファルマン水上機  2機 (フラソス)
     カーチス水上機        2機 (アメリカ)

SR_Farman_01_s.jpg
( モーリス・ファルマン式小型水上機 )

SR_Curtiss_01_s.jpg
( カーチス式水上機 )

AB_Oppama_T01_01_s.jpg
( 創設当時の追浜飛行場 )

 大正元年12月横浜沖観艦式に、これら水上機が空中パレードをした。

 大正3年8月第一次世界大戦青島作戦に、海軍航空部隊が初参加した。 (陸軍も同様) すなわち輸送船 「若宮丸」 を改造して水上機母艦とし、これに水上機12機、搭乗員15名を乗り組ませ、青島の偵察爆撃を実施している。  航空の初陣である。

Wakamiya_T04_01_s.jpg
( 大正4年 特務船 「若宮」 となった時の姿 )

Wakamiya_Airofficers_T0309_s.jpg
( 大正3年9月撮影の 「若宮丸」 飛行科士官 )

Chintao_kanjou_com3thflt_T03_01_s.jpg
(第二艦隊司令長官からの感状)

 この時の爆弾は大砲の弾丸にヒレをつけたものである。 

Bomb_T03_01_s.jpg
( 当時の航空爆弾   左が海軍、右が陸軍のもの )

 注目すべきは、この時点において海軍は水上機の主任務として対潜作戦を打ち出していることである。

 航空母艦の建造に着手したのが大正8年。 であるから水上機母艦の方が6年早く出現している。

 なお、この年に横廠式水偵 (単発双浮舟、二座) を国産し、最初の長距離飛行として横須賀−佐世保間無着水飛行に成功した。

SR_Yokosho_Ro_A_01_s.jpg
( 海軍横廠式ロ号甲型水上偵察機 (初期生産型) )

 この頃から以後の10年間に、海軍は陸上機、水上機ともに急速な進歩を遂げたのである。


 さて第六航戦 (神川丸、能登呂) は、前述のように南寧作戦中に艦隊に編入され、内地帰還後、そのまま艦隊勤務に変わったのである。

 血腥い戦地行動から一挙に外洋索敵任務への転向なので、大分勉強の必要があった。 ただ 「神川丸」 の場合は正式の水上機母艦とは違って、洋上での発着には人一倍苦労があつた。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : 本章は今日の話題社版には収録されていません。

2012年11月25日

大空への追想 (41)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第1話 搭載艦物語 (承前)

        その1 水上機の配備

 太平洋戦争開始前、昭和15年頃の海軍水上機 (飛行艇を除く) は、現在のように岩国のみに飛行艇部隊がある海上自衛隊とは異なり、大兵力を持っていた。

 もちろん陸上機が主体ではあったが、水上機隊の勢力は約1千機にも及んでいたのである。 大別すると、基地航空隊、艦隊水上機隊、教育部隊となる。

(1) 鎮守府麾下の水上機航空隊 (約3百機)
   大湊、横須賀、霞ケ浦、館山、舞鶴、串本、父島、呉、佐伯、佐世保、鎮海、等

(2) 艦隊 (搭載艦) 水上機隊   ( ) 内隻数
   戦艦 (13)、巡洋艦 (33)、潜水艦 (40)、水上機母艦 (10)、その他 (11)
   水上機母艦を除くこれらの艦船には、いずれも水偵1〜4機を搭載していた。
   (約4百機)

(原注) : 水上機母艦
      若宮、能登呂、神威、千代田、千歳、
      瑞穂、日進、神川丸、香久丸、衣笠丸

 作戦機のみで約7百機に達している。 これら水上機の任務は、内地航空隊は実力養成、索敵、艦隊機は、二座水偵が弾着観測、測的、近距離索敵、三座水偵が、遠距離索敵であった。

 潜水艦は伊号 (大型) 級に小型水偵1機を搭載しており、特殊任務の特大型 (四百号級) には水上爆撃機 「晴嵐」 が3機あて搭載された。

 陸上機は基地航空隊と空母 (艦載機) の二本建てであり、兵力は大きいが、艦隊搭載水上機も決して劣勢ではなかった。

 任務を大別すれば、陸上 (艦載) 機は攻撃が主であり、水上機は索敵が主である。

 海軍搭乗員の教育も、飛行学生課程から水上、陸上に二分されており、両者間のパイロットの交流は偵察員を除いてはほとんどなかったのである。
(続く)

2012年11月28日

大空への追想 (42)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第1話 搭載艦物語 (承前)

        その2 カタパルト発艦と洋上揚収法

 艦隊搭載機は艦長の指揮下にあり、その任務によっては、戦隊として各艦の搭載機をまとめて使用する場合があった。 水上機母艦については12〜20機を搭載しているので、単艦で使用される場合が多かった。

 艦隊行動中は、適時適所で発艦し任務につくため、搭載艦 (潜水艦を含む) はいずれもカタパルト発艦を行った。 特殊な場合を除き、海上模様にはほとんど無関係で発艦できた。

 任務終了後は可能な限り洋上に着水させてこれを艦に吊り上げ揚収したが、海上の状態によっては至近の基地に帰投させることがあった。

 一般の搭載艦の場合は格納庫がないため、艦砲射撃の際は、射撃開始前に全機発艦した。 射撃の爆風による損傷を防止するためである。


(1) カタパルト発艦

 搭載機発射用カタパルトは、大正15年空気式のものが試作されたが、その後呉工廠で火薬式のものが開発され、昭和3年その実験に成功してから各艦に装備されるようになり、昭和8年以後はほとんど全艦 (搭載艦) に装備された。

 いずれも旋回式のもので、潜水艦のカタパルトだけは上甲板にレール式に固定され、空気式であった。

 カタパルトの一例を示すと下図のようなものである。

042_01_s.jpg
( 原著より )

 カタパルト全長 : 26m
 有効走行距離 : 21m
 発射速度 : 2.7G
 砲塔上に装備のものもある

 カタパルトはレール上の台車に飛行機が載せてあり、一本のワイヤーにつながれ、前後の滑車を利用して数回巻かれ、発射装置のピストンに連結されている。

 発射の場合、飛行機は台車とともにA点にて係止され全速回転とし、回転がセットしたところで指揮官に合図する。 発射指揮官の命により装薬で発射される。

catapult_04a_s.jpg
( 射出準備の完了した九五式水偵 )

 飛行機はレール (21米) 上を急速に加速しながらB点から飛び出す。 カタパルトは予め計算された合成風向に固定されており、B点における飛行機の対気速度は自己の推力と発射速度及び相対風速の合成速度になり、発艦に十分な速度に達している。 発射する場合の加速度は2.7G (3.0G以下) に計画されていた。

catapult_06_s.jpg
( 射出され、まさに台車を離れた瞬間 )

 パイロットは発射の瞬間失神状態になり、後方に響く大きな発射音で気がついた時には飛行機が空中に浮いているというのが実感である。

 なお慣れないうちは、発射時慣性によりスティックに必要以上のバックプレッシャーのかかるのを防止するため、前方計器盤から一本の紐をとって、これをスティックとともに握っていたものである。

 発艦は停泊中、航行中の両場面がある。 ローリングがある場合は、B点において飛行機が適正な姿勢を保つようにタイミングをとるのが発射指揮官の腕の見せどころである。

 カタパルト発射実験の初期において、後席クルーが強い鞭打ち症で頸骨を折って殉職したことがあったと聞いている。

 水上機母艦等は前後左右に4基のカタパルトを持ったものがあった。 爆装等で過荷重状態の発射になると装薬量も多くなるが、発射の瞬間一旦沈んで軽く接水したりする例もあった。 しかし、エソジンの故障でもない限り、発射時の事故は余り聞いていない。
(続く)

2012年12月02日

大空への追想 (43)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第1話 搭載艦物語 (承前)

        その2 カタパルト発艦と洋上揚収法 (承前)

(2) 外洋着水揚収法

 カタパルトで発射された水上機は、任務終了後、各機ごとに洋上に着水し、艦に吊り上げ揚収されるのが原則である。

 着水揚収は、艦と飛行機の連係プレーである。 艦からの信号により、艦はそのウェーキで極力波を消したうえ停止し、飛行機は左舷艦尾至近に着水し、相互に接近しながらデリックで飛行機を吊り上げるのである。

 海上模様に応じ、揚収法としては第一〜三法が定められていた。

(原注) : 左舷揚収が原則であるが、母艦等の場合は両舷揚収も可能であった。


 「第一法」

 洋上が相当荒れているような場合、高速大舵角で、360度変針し、ウェーキでかこまれた海面上に着水してそのまま待つ。 艦はその後適宜運動して、飛行機をデリックの直下になるよう占位する。 まさに航海長の腕の見せどころである。 しかし、この方法は余り用いられなかった。

043_01_s.jpg
( 原著より )
  360度旋回後向風停止する。
  飛行機はウェーキの中に着水して待つ。


 「第二法」

 水上滑走可能程度の海面の時は、よく用いられた方法である。 艦は高速急角度で90度変針し、同時に後進全速をかけ向風で停止する。

 飛行機は、かき回されたウェーキの上にタイミングよく着水し、左舷デリック下にアプローチしてゆく。

043_02_s.jpg
( 原著より )
向風変針しつつ後進全速をかけて90度変針、向風停止。
飛行機はかきまぜれたウェーキの上に着水し、デリックアプローチする。

043_04_s.jpg
(原著より  第2法で後進全速をかけた水偵揚収運動中の 「鳥海」 )


 「第三法」

 海面が比較的平穏な場合は図のような運動をして後進のウェーキを定着点とする。 左変針はウェーキを艦尾からかわすために行う。

 なお平穏な場合は、艦は単に停止するのみで舷側至近に着水させる。 この場合は、変針等の必要はない。

043_03_s.jpg
( 原著より )
向風後進全速をかけた後、左に30度ぐらい変針し、ウェーキを
艦尾から左舷に離す。
飛行機は残されたウェーキの上に着水した後アプローチする。


 発艦はカタパルト射出のため、艦上の作業のみで済むが、着水揚収作業は、艦が停止するほか救助艇の即時待機、デリック作業等が伴う。

043_05_s.jpg
( 原著より )

 特に荒海の場合は、揚収フックの取り方、艦の動揺ローリングがあるので舷側と飛行機の衝突防止、吊り上げた飛行機の横振れ防止等、デリック作業とともに、飛行科、運用科のいわゆるチームワークと運用術の妙技を必要とすることは言うまでもない。

 飛行機がデリックの吊上索をとるまでの作業は水上機搭乗員だけが体験する妙技であり、主翼上面に乗って飛行機の吊上索を握り、動揺する機体に対応しながら一瞬のうちにデリックの揚収フックをとる離れ技は、なかなか熟練を要することであり、水上機乗りは同時に優秀なる船乗りでなければならなかったのである。
(続く)


2012年12月04日

大空への追想 (44)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第1話 搭載艦物語 (承前)

        その3 「神川丸」 (特設水上機母艦) 飛行機発着作業

 搭載艦における発着は前述のとおりであるが、水上機母艦の場合は機数が多いし、飛行機の発着そのものが母艦の主要作業になる。

 正規の水上機母艦の場合はカタパルトもあり、搭載艦と大同小異であるが、特設母艦となると、大型貨物船を改造したものなので、カタパルトも当初はなく、発着艦はすべてデリックにより吊下揚収をやらなければならなかった。

 さらに乾舷の高さが7〜8米もあるので、舷側では防風波堤の役割はするが、甲板上から長竿等で飛行機の接触を防ぐ作業は困難を極めたものである。


 「発艦作業」

 エンジンを最微速で回転しながら、デリックで洋上に吊り下ろす。 デリック吊上索の末端フックはクイックリリーズを使用する。

Seaplane_04_s.jpg
( この時点で既にエンジンが回っていることが揚収時との差です )

 波浪が大きい場合は吊り下ろして、フロートが波の山に接した瞬間パイロットの合図でフックを切り離すが、このタイミングを失すると極めて危険である。

3SR_type94_02_s.jpg
( 前出  まさに吊上索フックを離す瞬間 )

 フックを切り離せば速やかに舷側を離れるのだが、搭載艦機は荒海離水の機会が少ないのに反し、特水母艦機の発進は常に荒海離水となるわけである。 この点 「神川丸」 パイロットの外洋運用の練度は非常に高かった。


 「揚収作業」

 飛行機の吊り上げ揚収は、艦の乾舷が高いこと、及び艦の最大速が15ノットなので軍艦のように大きなウェーキを作れないという不利がある他は、搭載艦と大差はない。

Seaplane_02_s.jpg
( 吊上索フックに水偵側の吊上索を掛けた瞬間 )

 艦の揚収時の運動としては、搭載艦の第三法のみを使った。 後進によるウェーキを定着点として利用する以外に方法がなかったのである。
(続く)

2012年12月13日

大空への追想 (45)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第2話 シーマンシップ

 私の場合内地の航空隊から戦場生活に入った。

 水上機乗りだとはいうものの、やることは陸上機乗りと変わらなかった。 陸上戦闘に協力しての銃爆撃専門であり、発着のみが海上であったに過ぎない。 基地は静かな海面、島影を自由に選定できたのであるから荒海発着というものとは程遠かった。

 艦隊勤務となっては、任務も違う。 勝手な単艦行動は許されない。 正規の水上機母艦でないため、洋上行動に十分な施設がないので、その分だけ行動上の配慮はなされていたが、洋上の発着では 「神川丸」 水偵隊は制限ぎりぎりの線で実施していた。

 時には遥かに自分の能力を越えた場面にもぶつかっていた。 艦隊勤務においては仲間がある。 他の艦に対するライバル意識が働く。 いけないことではあるが、彼がやって俺にできないはずがない。

 放っておけば無理をするようになるが、そこで飛行長が舵を取ってゆく。 このような繰り返し指導が、どんどん練度を上げてゆくのである。

 私は搭乗員の進み方として、飛行学生、内地空、艦隊、戦場を順路とすべきであると前述しておいたが、私は戦場が先で艦隊が後の順となった。

 しかし大艇に転向して痛感したことは、艦隊勤務により外洋に挑んだ後引続き飛行艇に移行したことが非常に役立ったということである。

 次に戦場生活により度胸がついたことは事実である。 戦地行動は操縦が荒れるとよく言われる。 しかし、これはその人の心掛け次第である。

 私の戦地勤務 (支那事変) は、搭乗員勤務期間から見れば全体の三分の一に過ぎない。 言わば技能を磨く初歩の段階であった。 私は基本を重視することに心掛けた。

 戦地勤務では養成出来なかったものが、艦隊勤務ではすぐ必要になった。 しかし割合に早く掴み得たのは基本を重視していたお陰であると信じている。


 さて艦隊に編入されて、パイロットの第一歩は洋上航行中の発着艦から始まった。 連日この訓練を実施した。 艦に接触して翼端を損傷したことも数回あった。 しかし波浪との戦いは常に続けられ、練度は急速に向上していった。

 私は岩国のPS−1隊の外洋離着水については幾度か討論もして来た。 外洋発着は、時々思い出したような訓練では決して練度向上は望めない。 連続した訓練によって自信をつける以外にはない。

 水偵の方が飛行艇よりも、荒海には強かった。 波浪の性質を掴むことは極めて難しいが、研究するほど興味が湧くことも事実である。 連日波に挑んでいると、今日は昨日よりも高い波を、明日は今日よりも少し高いところをと創意と工夫を凝らしながら、自ら求める気持ちが湧いてくる。 平水に興味がなくなってくる。

 カタパルトのない 「神川丸」 で、他艦の連中と肩を並べてゆくためには、外洋での離水を敢行しない限りついていけなかったのである。

 特に水上機の艦からの吊り下ろし、吊り上げの作業は、搭乗員と運用科作業員の呼吸の一致した高度の技量が必要であった。

  艦隊水上機隊員 (搭載艦) の特色は、艦長の指揮下において、艦に乗り組み、艦の乗員と共に生活し、当直にも立ち、飛行機の発着艦を通して洋上運用作業を身につけてゆくということにあり、この点は同じ艦隊であっても航空母艦とは異なっている。

 そこに水上機乗りのシーマンシップが育まれてくるものである。 口で説明し、短期間の乗艦実習をしたくらいで簡単にシーマンシップが身につくはずはない。

 陸上に基地をおき、洋上に飛び出して着水するだけの現在のPS−1で、早急にシーマンシップを身につけようとしても無理な話である。

 海軍飛行艇乗りが体験したような艦隊搭載水上機の段階が現在はない。 これは飛行艇隊にとってまことに不幸なことであると私は思っている。
(続く)

2012年12月15日

大空への追想 (46)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第2話 シーマンシップ (承前)

 シーマンシップに関連した例をあげてみよう。


        その1 「指揮官は俺だッ」

 昭和12年頃の話 (戦艦 「伊勢」 乗組、当時少尉) 、場所は忘れたが、艦隊出港準備中に大型交通艇 (水雷艇と呼称した) をメンデリックで揚収するのを見た。 作業指揮官は当直将校西村大尉 (友晴、59期、戦後海自に入隊、後に海上幕僚長) であった。

 かなり大きなうねりが入ってくるので戦艦といえども相当ローリングしていた。 甲板上まで吊り上げた水雷艇が、時計の振子のように揺れ出した。

 予め作業員が区分され、普通よりも多くの索具類が使用されていたが、なかなかこの揺れが止まらず、非常に危険な状態になってきた。

 一名の下士官が水雷艇と架台の間には挟まれて足を怪我して倒れた。 見ていた我々は急いでこの負傷者を病室に運ばせた。 水雷艇の手摺が砲搭に当たってひん曲がってしまった。

 見ていた運用長K中佐が、西村大尉に対して何か叫んだ。 西村大尉は即座に

「 横から口を出すなッ、指揮官は私である。」

 と厳として怒鳴った。 索具の数を増し人員を増加して、やっと艇の振れを止めることができた。 大変な苦労の末、架台に納めることができ、見ていた我々もホッとした。 

 あの場合、あの振れ回りを止めるのは大変なことであった。 一方に振れて来た時、損傷覚悟の上でこれを索具で抱えるようなことを繰り返して次第に振れを止めたのであるが、常人ならば運用長の助言に頼ったかも分からない。

 しかし西村大尉は 「指揮官は俺だッ」 と叫んで自分のやり方を押し通された。 私はあの時の西村大尉の立派な指揮官振りが今でも目に浮かんでいる。 あの態度と作業に対する自信、これが真のシーマンシップであると思う。
(続く)

2012年12月18日

大空への追想 (47)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第2話 シーマンシップ (承前)

        その2 「総員釣床を持って飛行甲板、急げッ」

 これは私の艦ではない。 故人となった三沢一佐 (裕、兵62期) が、かつて大巡の飛行士をされていた時の話である。

 航空隊で訓練中の九五式水偵が帰還し、出港前の揚収作業が始まった。 この時も艦がローリングしており、吊り上げられた水偵が振り子運動を始めたのである。

 指揮官は運用長で、三沢中尉が補佐していた。 巡洋艦のことである。 高角砲や短艇が搭載されているところで振れ回るので、簡単に控え索で止めることができない。 羽布張りの水偵のことで、物に当たったらひとたまりもない。

 三沢中尉は指揮官に高く引き揚げてもらい、即座に大声で

「 飛行科総員釣床を持って飛行甲板、急げッ」

 と怒鳴った。 飛行科員は何がなんだか分からぬまま、釣床を担いでどんどん駆け上がって来る。

 三沢中尉自ら指揮しながら、水偵の振れに応じて、突起物との間に釣床をなげ込まさせながら防舷体を構成し、遂に釣床をもって水偵のフロートを取り囲んでしまった。 作戦は見事に成功し、無事に水偵は収容された。

 艦橋でジーッと見ていた艦長は、

「 あれは三沢だなー、うーん、やるね。」

 と、すっかり感心された。

 日露戦争の 「三笠」 艦上の東郷元帥の絵はよく見かけるところである。 艦橋付近が釣床で囲まれているのに気がつく人は多勢おるだろう。 あれは砲弾の破片から人や兵器を保護するためのものである。

 三沢中尉は即座にこれを利用したのである。 今では懐かしい釣床もなくなった。 この話、珍しいことでもないと思うであろうが、この飛行機を守るために採られた処置、何とも気持ちのよい話である。

 艦船乗組水上機乗りの勝れたシーマンシップの一端を示したものである。 波に挑戦する飛行艇乗りに必要なものは、操縦もさることながら、それ以上に必要なものがこのシーマンシップであることを忘れないでほしい。
(続く)

2012年12月20日

大空への追想 (48)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第3話 戦技と神技

 海上自衛隊でも戦技に類したものが始められたが、海軍の戦技は世帯が大きいだけに極めて大がかりのものであった。 特に太平洋戦争が予期された昭和15年頃の演習や戦技は、実戦さながらの凄まじいものがあった。

 当時艦船部隊には末だ大艦巨砲主義が残っており、自然、目標としても戦艦戦隊が狙われていた。 毎年行われる海軍大演習や戦技において航空部隊等も抜群の功績を認められた者は恩賜の杯を賜わったものである。

 昭和16年の6月頃と思うが、艦隊の演習において、空母を含む航空部隊が大挙一艦隊の主力戦艦部隊を襲撃し、魚雷攻撃をしたことがある。

 私は東港航空隊 (台湾) (注) の九七式大艇9機による雷撃隊の二小隊長であった。 この当時は各機とも実射 (訓練頭部) である。

 3機編隊で三方から襲いかかるのが準則に定められていた。 雷撃高度100米、射距離1000米まで突っ込むのである。 全速155ノットで一旦雷撃接敵に入ると、あの大型なので簡単に回避はできなかった。

 ちょうどこの日の雷撃は、時間的に空母の雷撃隊と重なってしまった。 何しろ各隊とも実戦どおりの発射であるから真剣そのもの、それこそ猪突猛進、他を顧みる余裕もなかった。 数十機がほとんど同時に襲いかかる雷撃となった。

 私の小隊は一小隊の左側から突っ込んで行ったが、右後方から艦攻隊が突っ込んでくるのがちらりと目に映った。 実射後戦艦の直上を低空で横切った瞬間、目前で艦攻2機が撃突し、バラバラになって海面に墜落してしまった。 あっと言う間の出来事である。

 現在から考えてみると、保安上多くの批判が浴びせられるところだが、開戦前の航空部隊には既に生死を超越した果敢な闘志が漲っており、保安など念頭になかったことを覚えている。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : 東港航空隊及び同航空基地の概要については次の頁を参照下さい。



2012年12月23日

大空への追想 (49)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第3話 戦技と神技 (承前)

        その1 やってみなけりゃや分からない

16年3月、連合艦隊の演習が沖縄方面で実施されたが、大きな低気圧が来襲したため、第六航空戦隊 (神川丸、能登呂) は中城湾の馬天港 (現在の南城市佐敷にある) 沖に避退をしていたが演習は続行された。

青軍は連合艦隊長官直率、赤軍は二艦隊長官の指揮する部隊で、両者の距離は約300浬まで接近していた。 六航戦は中城湾を拠点として赤軍の索敵任務を有していたが、低気圧来襲中実動は中止されていた。

低気圧が去っても前線が残り、演習海面は豪雨の断続で航空索敵は期待されなかった。 中城湾には、かなり大きなうねりが入りこんでいた。

その日は艦隊決戦の場面に移っていた。 午前零時演習再開、日出時に敵を捕捉する計画のもと、0300 出発とされていた。

悪天候のため、両艦から選抜クルー各一組の2機が決められ、「神川丸」 は私の九四式水偵の出番となった。

0200、艦橋に上がってみると、司令部や艦長も頭をひねっていた。 艦橋の窓ガラスに叩きつける雨の音とビュービューと唸る風の音で、不気味な感じが漂っていた。

一万トンの 「神川丸」 も大きくローリングをうっている。 真っ暗な闇の中に、航海士の声が天の声のように伝声管を伝わってくる。

「 風向南西、風速25ノット、ガスト30ノット、うねり南西から波高最大2.0米 」

・・・・ (夜間だけに、PS−1でも困難なところである)

先任参謀柴田中佐 (文三、兵50期) は強行派の人だが、さすがに、

「 こりゃひどいなー、おい飛行士自信あるか 」

私は即座に

「 やってみなけりや分かりません 」

とやる覚悟できっぱり答えた。 飛行長が横から、

「 もし自信がない時は遠慮せずに、洋上待機して夜明けを待てよ 」

と心配顔。

やがて 「能登呂」 は航空灯を点けた。 やる気だなー、負けるもんかと思っていると、灯火は出したが一向に飛行機を降ろす気配がない。

まもなく 「能登呂」 艦長から、

「 自信なし、飛行機の発進を見合わせる 」

の信号が来た。 私はとたんに肚を決めた。

「 とにかく飛行機を出して下さい。 やってみます。」

と言うや

「 無理はするなよ 」

という艦長の声をあとに、艦橋を駆け降りた。
(続く)


2012年12月25日

大空への追想 (50)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第3話 戦技と神技 (承前)

        その1 やってみなけりゃや分からない (承前)

とにかく、戦争なのだ。 天気まかせじゃ駄目だ。 飛行甲板では既に試運転が終わり、デリックの吊索をかけて、整備員たちが水偵を抱くようにして捉まえていた。

「 飛行士、飛ぶんですか 」

みんなが心配顔をして言った。 私は、

「 うん、やるよ。 転覆したら助けてくれよ。」

と笑いながら乗り込んだ。

控え索をとって、静かに舷側に飛行機が出されて行った。 作業灯が海面を照らしていたが、闇の中で見る大波というのは、まことに薄気味悪いものである。

舷側に這い上がる波の峰を見ながら、ちょっと降ろすのを止めて様子を見る。 また下げ始める。 フロートの底を次の峰がかすめる体感で、真上の偵察員に 「てッ」 と合図をした。 フックが外れた途端、たちまちにして谷間に沈んだ。 そして再び山に持ちあげられるのを見て舷側を離れた。

体感で波の息つきを知りながら離水点に徐行する。 作業灯が横を追ってくる。 艦橋からも小型探照灯が追ってくる。 邪魔だ、「消せ、消せ」 とオルジスで伝える。

真っ暗闇に目が次第に馴れる。 木の葉のようにもまれながら、波の周期を見る。

「 転覆を覚悟しておれ、すぐ飛び出せる用意をしておけ。」

後席に怒鳴って、準備させる。 風上の無灯火の駆逐艦が雨の中にボーッと浮かんでいる。 全艦が、この離水に固唾を呑んで注目している。

大波を二つ越して谷間のあるのが体感で分かった。 「よシ、上がるぞ」 艦に離水信号を出し、次の谷間で一挙に全速とした。 エソジンが唸る。 まず第一の山で大きく叩かれた。 頭から波シブキを被るが、頑張る。

再び叩かれたが舵が効き出した。 必死に水平を保ちながら谷間に落下する。 加速してゆくのが分かる。 第三の山がズシーンと来た途端、高くはね上がった。 必死にエレベーターを操作すると、落下の途中で完全に浮き上がった。 水を切った。 「勝ったぞッ」 と心の中で叫び、そのまま索敵コースに乗せる。

その後は天佑神助か、雨が小降りとなってきた。 しばらく雲の中を出たり入ったりしながら突進した。 東の空が少し白みかけたころ、約200浬も飛んだかというと頃で、幸運にも二艦隊を捕捉した。

この日の飛行索敵は断念していたところに、水偵からの敵発見電が日出前に飛び込んだのだから驚いたのは艦隊司令部だ。 「どこの水偵だ」 と喜ぶやら、驚くやらだったそうだが、こっちは敵発見よりも、荒海に勝った方が遥かに嬉しかった。

帰艦すると、先任参謀や艦長に褒められた。 離水した瞬間司令官が、「恐ろしい奴だね、入神の技とはこのことだ」 と感心しておられた由、おかげで田舎者扱いの六航戦の名が高く評価されるに至ったものである。 やはり誰かが破天荒のテストをやってのけん限り、練度の向上は止まってしまう。

飛行機の能力の限界と、パイロットの技量の限界が上手くマッチして成功したことであるが、艦隊決戦 (演習) という場面だったからこそ、あの勇気が生まれたのだと思う。

もし失敗していたら、「あいつは少し天狗になっている無茶な野郎だ」 と非難されたことであろう。 しかし自信がなければ始めからやりはしなかった。

この後、私は荒海操縦にあるポイントを掴むことができた。 説明はできないが、要するに飛行機とパイロットとしての限度が分かったのである。 飛行機の能力には限度がある。 この過度の実証は、ただのパイロットでは掴み得ない。 掴み得るパイロットになるために不断の努力が必要なのである。
(続く)

2012年12月28日

大空への追想 (51)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第3話 戦技と神技 (承前)

        その2 名報告 「各艦合同中、針路不定」

前記演習中の続き。 これも 「神川丸」 飛行士の手柄話で申しわけない。

荒海に勝って二日後、いよいよ演習は最終場面を迎えた。 連合艦隊が青軍として集結し、赤軍は仮想敵として 「摂津」 を旗艦とする5隻のみ。 両軍は200浬を隔てて発動した。

この日も天候は悪く、特に赤軍付近は豪雨に覆われていた。 中城湾は小雨、視界は悪いが海面は平穏であった。

友軍の索敵は、空母、搭載艦、六航戦から約10機が網を張ることになっていた。 六航戦から3機の選手が選ばれた。 とにかく戦技を兼ねている。 決勝戦みたいなもので、先般の功により、私は索敵網の中央線が与えられた。

演習発動とともに各機が出動したが、天はあくまで航空部隊に恵みせず、敵の百浬圏は豪雨である。 艦載機は上空哨戒のみで索敵機の発進は取り止め、搭載艦機も中途から引き返してしまった。

残るは六航戦のみ。 しかし発進後約50浬進出したところで 「能登呂」 機は引き返した。 雲は低く雨で、このままでは夜間帰投は困難である。 「神川丸」 機だけでもと頑張った。

二番機にやや不安がある。 レーダーもADF (注) もないころである。 二番機のコースは視界極めて不良ということなので、引き返すよう助言した。

飛んでいるのは私だけとなると計器飛行に安心感が出る。 内心、後は俺が引き受けるといった考えが湧く。 偵察員は優秀な下士官である。 帰路不時着しても中城湾内ならば心配ないという腹案もあった。

「 計器飛行に専念するから、航法をしっかりやれ。 どうしても敵を捕捉しなけりゃならんぞ。」

後席を激励しながら豪雨帯に突入した。 高度30米で遮二無二飛んだのだが、豪雨帯は約60浬に及んでいた。 辛うじて突破してみると、雨はあがったが雲が海面まで垂れこめている。 高度を更に15米まで下げてみると、どうにか海面を見通せた。

約180浬進出したと思う時に、雲の中に突然ぼーッと艦影が現われた。

「 居たぞーッ 」

と叫んで艦尾の方に回り込んで行った。 敵も飛行機が来るとは夢にも考えなかったらしく、あわただしく甲板上を走り回るのがよく分かる。 「対空戦闘」 が下令されたに違いない。 まさしく 「摂津」 である。 後続艦が一隻いた。

「 敵主力部隊見ゆ、地点××、針路270度、速力12ノット、我触接す 」

作戦緊急信を打電して、一旦視界外に脱出した。 艦隊司令部はこの日も航空索敵を断念していただけに驚いた。 しかし敵の針路が予想と反対である。 直接飛行機に問い合わせてきた。

「 敵の針路に誤りなきや 」

・・・・ しかし間違いなく270度である。 この受信中に、残る3隻も発見したが、針路はまちまちである。 視界不良豪雨のために、各艦目下合同中である、と判断した。 即座に答えていわく、

「 各艦合同中、針路不定、付近一帯豪雨 」

この返電まさに千金の価値ありとのことだった。 「敵は合同中、機先を制するのは今だ」 と長官は非常に喜ばれたと聞く。 演習のことで、当時の中尉には分からないが、連合艦隊の大勝利となったそうである。

我ながら、あの返電よくも気がついたと、今でも思い出している。 なるほど一時間後には敵は単縦陣となって針路090度としていた。 演習統裁官から見れば、最初の針路は正反対、偵察機の読み違えくらいに考えたに相違ない。

任務終了、再び雨と雲に悩まされながら帰路を急いだ。 夕闇迫る泊地に来たが、視界不良で母艦の姿は見えない。 そこで捜索運動に入り、間もなく雨雲に反映する探照灯の光芒を発見し、無事帰艦した。 出発してから6時間、精も根もつき果てていた。

相次いでのお手柄で、その晩は司令部の招待を受け、鱈腹呑まされた。 席上先任参謀いわく、

「 あの電報良かったなー、針路に誤まりなきや ---- 各艦合同中針路不定 ---- ありゃ本当に名文だよ。 ちょっとやそっとで出てこない文句だ。 簡単明瞭、長官我が意を得たりという即答だ。 長官から司令官が褒められたぞ。 戦争なら殊勲抜群というところだ。」

本当かなー、褒めといてまた無理な任務を押しつけるつもりだろう。 あとから更にビール1ダースを贈られた。

通信要務の重要性はよく分かる。 戦争中索敵機の報告が味方の運命を左右するような場面は数多くあった。 「天気晴朗なれども波高し」 の名文は別としても、経過報告を急いで、成果報告をゆっくりとやったために緊急を要する作戦行動をひっくり返してしまった例がよくあった。

今回の演習で長官が機先を制したと言われたそうであるが、よく考えてみると、あの即座の返電はその価値があったものと、40年後の現在になっても忘れられない。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : Auto Direction Finder、自動方向探知機。 基地・母艦などの基地局から発信される電波 (一般的には中波) を受信して、自動的にその方位を表示する装置。 2つ、あるいはそれ以上の基地局を利用できるなら三角測量の原理により航空機の概位を得ることができる。



2012年12月31日

大空への追想 (52)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第3話 戦技と神技 (承前)

        その3 魚雷航跡を追って僚艦を救う

前述したとおり、戦艦には九五式水偵 (後には零式観測機) が搭載されていた。主砲の弾着観測の他に、艦隊の上空哨戒及び近距離索敵を任務としていた。

戦争に入ってからは、よく索敵機等が帰りの燃料を無視して攻撃隊の誘導に残ったり、あるいは航空機が潜水艦の魚雷に体当たりして危急を救ったというようなことを聞いたものだが、これらに類したことは開戦前の済習でも見られたのである。

昭和14年頃の艦隊の演習は非常に実戦的であり、行動は艦船部隊、航空部隊ともに激しいものがあった。


この話は末だ私が搭乗員になっていない時のことであるが、艦隊の演習で、主力艦同士の砲戦の場面に起こったことである。 第二戦隊 (伊勢、日向) が決戦を予期して接敵行動中、潜水艦の襲撃にあった。

この頃の航空対潜戦は、現在のようにソノブイやソーナーによる探知等ではなく、専ら目視による潜望鏡の発見、雷跡の視認等によるものが多かった。

各艦搭載機はほとんど発艦されて上空哨戒中であり、艦速も全速に近かった。 海上風波も高く潜水艦の視認も容易ではなかった。

水平線のかなたに敵のマストがかすかに視認でき、主砲の砲戦もまもなく開始されようとして全員緊迫した状態にあった時、敵の潜水艦が密かに二戦隊を狙っていたのである。 観測機同士が一部で空戦に入っていた。

そのうち、空戦中の 「伊勢」 の九五水偵が一機、急降下してきた。 事故かなーと思っていると、海面至近に擬襲を行った後、低空で艦側に飛来し、バンクを行った。

異常行動に見とれていると、上部見張から 「左前方雷跡」 という報告が来た。 航海長は機を失せず転舵して辛うじて回避できた。

いうまでもなく、空戦中のこの水偵はいち早く雷跡を発見し、そのまま魚雷に向かって急降下し、航跡を追って僚艦に急を伝えたのである。

幸いにして回避の余裕があったが、回避間に合わずと見たら、実戦ではこの魚雷に体当たりしていたであろう。 こんな戦法は定められてもおらず、水偵が咄嗟に考えた処置である。

この飛行士は艦長から表彰をうけたが、開戦後これらの本番が実際に起こっている。 現在のように対空無線電話が発達していない時代のことであるが、まことに壮烈な行動であった。 身を捨てて母艦を救わんという行為に対し、当時の私達は深い感銘をうけたものである。
(続く)

2013年01月04日

大空への追想 (53)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第3話 戦技と神技 (承前)

        その4 勇気と臆病

艦隊の戦技のような場面になると、各隊、各艦とも競争意識が強くなり、個人技もさることながら、各艦の名誉のためというような意識が盛り上がり無理が出てくるものである。

特に航空機になると、天候に左右される場合が多いが、成功すれば賞せられ、失敗すると、あいつは臆病者だと言われたりするものだ。 そう言われることを恐れて自分の能力以上のことをやってしまう。


これは先輩たちの話であるが、昭和13年頃か、艦隊との協同訓練である航空隊の水偵2機が索敵に出た。 同期の中尉である。

300浬進出の索敵行であるが、途中の天候が悪化し、ほとんどが雲中の飛行となってしまった。 任務を続行すべきか、引き返すべきか、両中尉は互にライバル意識もあり、迷いながら飛行を続行していたが、天候は回復の気配がない。

A中尉は自分の技量と能力からみて、これ以上は無理であると判断し、勇気をもって引き返した。 B中尉はそのまま頑張ったようだが、遂に行方不明となってしまった。

この結果は、A中尉は適切な判断と見なされ、一方B中尉は判断を誤って無謀すぎたとされたのである。 しかし、もしB中尉が悪天候を突破して敵を発見していたらどうなったろうか、恐らくA中尉は臆病者と言われたかも分からない。

私の場合、前述のように戦技においては非常に恵まれていた。 全機引き返しているのに独り頑張り抜いて敵艦を発見した例が多い。 その結果として 「あいつは恐ろしい奴だ。 入神の技だ」 と賞された。

もちろん嬉しかったが、その都度反省してみて、無謀だったと考えられる場合が多かった。 引き返した同僚や部下に対しては、状況をよく聞き、勇気をもって潔く引き返したことをむしろ褒めておいた。 私は私なりの判断でできると信じてやっただけのことである。

さて、この問題に関し、終戦時最後の特攻隊を率いて敵艦に突入された第五航空艦隊宇垣長官の 『戦藻録』 (注) の一部をあげて考えて見たい。


    (19年4月26日より抜萃)

或る将軍日く 「 この頃は玉砕ならず軍隊を瓦砕せしめあり 」 と。

之は作戦指導司令部に対する一批判と心得るも武士の心理としては玉砕するも犬死し度きものなり。 如何にせば恥しからぬ死を遂げ得るやは我心に常に往来する懸案なり。 ・・・ (中略) ・・・

後世に名を残すが如き奮戦武勲を樹て、而して矢折れ弾丸盡きて潔ぎよく屠腹するは頂上なりと考えるも往時に於ても流れ弾に命りて死するものもありたらん。 況んや近代戦に於て航空機潜水艦により我一発をも放たずして無念の死を致すもの数少なからず、君国を思う至情に変りなく只武運のしからしむる處、何れも立派な忠死なり。この犬死を恐れぬ士ありてこそ現代戦の遂行はまさに可能なり。  ・・・ (中略) ・・・ 戦場における犬死こそ寧ろ歓迎すべきもならずやを観ずる時、如水の言や正に卓見となすべし。

葉がくれ集にも犬死も臆病といわれんよりは勝るとなし。

山本元帥も

   大君の御楯とただに思う身は  名をも命も惜しまざらなむ

と詠じられたり。 ・・・ (中略) ・・・

既に死生を超越して君国に致す身にしあれば、「往生際の慾を求むるは」 尚未練あるに等しと。

拙詠

   玉と散り瓦ととぶもおなじかし  誠一途に国思う身は

( 原書房版に基づき原文どおりとしております。)

訓練と実戦では違うという人はいるだろうが、海軍の訓練はすべて実戦主義であった。 特に戦技において然り。 A中尉もB中尉も国を思う至情に変わりなし、結果について云々すべきではない。

B中尉の死は、長官のいう犬死なのかも分からない。 またA中尉の行動も臆病とは思われない。 判断が正しかったか否かは神のみが知るところ、長官の言われる犬死しても臆病といわれるなの意を誤解して暴挙をやるとこれは瓦砕になる。

両中尉に関するような行動は、海軍の戦技においても、また特攻隊攻撃においても、多くの例を見ている。 その結果を見て成功か否かが仮りに明白であっても、失敗に対する自責の念は誰でも抱くものであり、上官としてこれを窮迫したり、遺憾なり等と言わないのが所謂統帥の妙である。

失敗があれば、もう一度使って必ず立派に仕遂げさせるのが上官の愛情であり、責任である。

(この項横道に逸れたが悪しからず)
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注) : 『戦藻録』 は、宇垣纏が連合艦隊参謀長であった昭和16年10月16日から、第五航空艦隊司令長官として昭和20年8月15日終戦の日に沖縄に出撃するまでを綴った全15冊の陣中日記です。


Ugaki_Sensouroku_cover_s.jpg

   終戦によって公文書を含む多くの記録が失われたため、この 『戦藻録』 によって知り得る太平洋戦争の真実も多く、大変貴重な第1級史料となっています。

ただし、宇垣自身が当初から後の世で公にされることを意識して記述しており、このため単なる事実関係以外についてはその点を十分に念頭に置いて読む必要があることには注意が必要です。

現在、この原本15冊中の14冊は江田島の海上自衛隊第1術科学校教育参考館に収蔵されており、その複製が展示室において一般に公開されています。

その欠となっている 「其六」 は昭和18年1月1日 〜 同4月2日の分で、黒島亀人海軍大佐 (記述当時の連合艦隊先任参謀) が終戦直後に宇垣の遺族から借りだしたまま紛失、行方不明となったとされていますが、一説によると亀島にとって都合の悪い内容を隠蔽するために処分したとも言われています。

なお、現存する14冊については昭和27〜8年に上下2巻に分けて日本出版共同社から刊行されましたが、昭和43年には原書房から 「明治百年叢書」 の一つとして増補復刻されています。 何れも古書として豊富に出回っていますし、また後者はまだ新刊として入手可能です。


2013年01月08日

大空への追想 (54)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第4話 失敗談あれこれ

いよいよ水上機生活も艦隊勤務を最後として、大艇に転向するので、この辺で水上機による失敗談等を披露しておきたい。

「失敗は成功のもと」 という格言があるが、パイロットには適用できないという源田 (實) 先生の話を開いたことがある。 パイロットの失敗は死を招くか再起不能に陥ることが多い。

海軍以来パイロットとして大小いくつかの失敗経験はあるが、ここで書きならべる事項は 「一歩誤まると」 という言葉が頭に付くものに限られている。 さもなければ、この世にはいなかったはずである。


        その1 「 ひどい雨ですね 」  この一言で救われた

飛行学生を卒業して舞鶴航空隊に配属された。 当時の舞鶴空は水偵半隊である。 九四式水偵6機を保有し、舞鶴警備府の配下にあり、日本海の哨戒に任じていた。

隣りに天の橋立、丹後の宮津を控え、清遊にはこと欠かない環境下の航空隊であった。 何とか一人立ち出来る技量にはなっていたが、余り信頼性のない水平儀と定針儀しかついてない九四式水偵では、計器飛行は専ら針球方式を重視せざるを得なかった。

14年8月 (飛行時間500時間)、当時は民間も防空演習が盛んで、ちょうど金沢市の防空演習目標機として3機を率い、指揮官を命ぜられた。

後席には偵察の老練な飛曹長が乗っていた。 古い飛曹長ともなれば偵察員とは言うものの、水偵の操縦くらいはやれる連中である。

基地からは90浬たらずの金沢市のことで、簡単に考えていた。 防空演習の目標機というので、雲上に出て雲の切れ間から突っ込んでやるという計画のもと、離水するとそのまま編隊で上昇を続けた。

基地付近は曇り、雲頂はそう高くないと甘く見たのが運の尽きだった。 4千米まで上昇したが、雲の峰はどんどん高まるのみで、遂に編隊のままで薄い雲の中に入ってしまった。

反転もせずに、もうすぐ雲上に出られるという安易な考えでそのまま上昇を続けたが、雲は次第に厚さを増し、そのうちに真っ暗になってしまった。 僚機は、危険と見て必死に緊密隊形をまもったが、やがて豪雨と雷鳴を伴って、タービュランスに入ったため、遂に編隊はバラバラになってしまった。

さあこうなると体験の浅い悲しさ、僚機は無事に飛んでいるか、衝突はしないか、その心配が先行して計器飛行等に熱中できない。 上昇限度6千米の九四水偵だが高度計は5千米を指している。

速力計を見ると80〜140ノットくらいを変動している。 水平儀が禍いして、飛行機は踊るような形で飛んでいたに違いない。

必死に水平だけは守ったつもりだが、速度計とエレベーターの関係がどう考えても合わない。

雨と雷光に攻められ通しで進退窮まった形である。 僚機は熟練の下士官達であり、この中尉じゃ危なくてついて行けないと見て分離して行ったに違いない。

後席の飛曹長は、さすがに老練だ。 後席でジーッと黙って飛行機の姿勢を確めていた。 概略ではあるが、機位も推定していた。

さすがに堪りかねたのであろう。 本来なら 「しっかりしろッ」 と怒鳴りたいところだが、静かにしかも落着いた声で、

「 ひどい雨ですね。」

と伝声管をとった。 私はこの一声で、フーッと生き返った。 そうだ、とにかく降下しょう、正しい姿勢で ・・・・

・・・・ と思いついたところに、続いて飛曹長の声。

「 このまま降下しましょう。 海上に出ますから針路に注意して下さい。」

眼鏡をはずし、体感を調整し、これで降下姿勢は正しくセットしたはず。 全身に冷や汗がにじみ出ていた。

「 これで心配ありません。 800米まで降下して地上が見えなければ左へ30度ひねってください。」

落ち着いた飛曹長の声ですっかり平静をとりもどした。 高度700米で海岸線が見えた。 やがて雨のあがった海面が広がってきた。 金沢市も視界に入ってきた。 すぐ僚機のことが心配になったが、よく見ると遥か金沢市上空を2機編隊で悠々と飛んでいた。

考えてみると天候の推定を誤まり、編隊のまま雲に突っ込んだのが若さのいたらぬところ、他のことに気をとられて、操縦桿のみを力一杯擦りしめて自ら飛行姿勢を壊していた。

何事も体験だと、ジーッと我慢しながら飛行姿勢をチェックし、不必要な助言を避けて私の操縦を見守っていてくれたあの飛曹長は立派だった。

おそらくパイロットなら、あの場合 『速カッ、機首角ッ、失速するぞッ』 と怒鳴りつけて、いよいよ迷わせたに違いない。

「ひどい雨ですね」  この一言、千金の値あり、私はこの一言を深く心に留めている。 『落ち着け、これ以上の上昇は危険だ。 正しい降下姿勢をとって雲下に出ろ。 後席で誘導する』 という深い忠告を含んだ一言であったと信じている。

あのまま続けたならば、あるいは失速に入ってあの世に旅立っていたかも分からない。 いずれにせよ、この飛行、この一言は私のその後のパイロットとしての歩みに一大反省を与えてくれた。 あらゆる面で大きなプラスになったことはいうまでもない。
(続く)

2013年01月12日

大空への追想 (55)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第4話 失敗談あれこれ (承前)

        その2 高度計過信、夜間着水に失敗

練度も大分向上した佐世保航空隊勤務中のことである。 飛行時間800時間。

九四水偵の高度計は気圧式のものではあるが、現在のようにアルチメターセッティングなどはできなかった。 頭のよい奴なら、出発点と到着点の気圧を調べて頭の中で計算のうえ、高度計の針を直接弄るくらいならやっていた。 したがって高度計に不信をもつような連中 (私もその一人) は高度計の針をいきなり修正するようなことはやらなかった。

103_01_s.jpg
( 原著より  九四式水上偵察機 )

さて14年11月、佐世保鎮守府の応用訓練で、佐世保空九四水偵6機が沖縄中城湾馬天基地 (注1) に移動していた。 約一週間の演習を終了し、明日帰隊というところで、台風が急に方向を変更し、沖縄方面直撃の公算が大となってきた。

種々検討の結果、翌日を待たず演習終了後の夜間、佐世保に帰隊することに決定した。 当時私は飛行士であったが、パイロット歴は最も浅い機長であった。

馬天基地から佐空までは450浬、向かい風が強く約5時間を要する予定。 全コース雨、飛行長勝田少佐 (三郎、兵51期) 直率のもと、6機編隊のまま1700出発で帰途についた。

視界が悪く、雲が低いため、とにかく離れるなということで取り組んだ。 私としては夜間の長距離編隊飛行は初めての体験であった。 古い下士官パイロットたちが親切に諸注意を与えてくれた。

次第に暗闇が迫ってきた。 空も海も相当の荒れ模様で、編隊それ自身が乱れ勝ちであった。 甑島上空に達するまでに、身も心もすり減ってしまった。 正直のところ緊張の連続で、もうこのまま海に突っ込んでしまったらさぞ気が楽になるだろうとさえ考えたものである。

佐世保の天候は雲高300米、雨はやんだが風は北西20ノット、高さ1.5米のうねりが入っているという。 こんな海面に夜間着水するのは一体どうすればよいのか、とにかく列機の赤青の翼端灯のみ頼りに、しっかりとついてゆくだけだ。

2200向後岬 (注2) 上空で解散し、着水が始まった。 探照灯が時々海面をなめている。 その度に大きな波が砕けて白い波頭が恐しい形をつくっているのが目に入る。 初めての体験だけに恐怖心がかけめぐる。

「波が高いのでできるだけ奥の方に降りろ」と指示が出た。 基地では司令以下飛行艇部隊員まで残って、救助艇が3隻待機している。 こんな光景は佐空として初めての騒ぎである。

私の番が来た。 高度計は300米、いつものとおりだが、どうも障害灯の高さに比べると低い感じがした。 高度計は修正していない。 着水した一番機から 「高度計に注意せよ」 と言って来たが、修正量は言って来ない。

(原注) : 当時水偵の夜間着水法は、高度100米から機首を起こし、沈下率1.2米/秒を守りながら、ちょうど PS-1 の STOL ランディングと同じ姿勢で接水するのである。


高度計の示す高度を一応まもりながら、最後のアプローチに入った。 ジャンプは覚悟している。

低すぎると感じたので、早目に姿勢をとった。 セットしたと思った瞬間、ドシーンとかなりの衝撃ではね上げられた。 2回ジャンプした。 必死にレベルを保ちながら何とか着水できた。

沖縄で零に合わせて離水したのだが、高度計は100米を示していた。 これじゃ無理だ。 フロートが折れたと思った。

滑走台上で点検すると、主脚が一本曲がり、張線が二本切断していたが、その他は異常なし。 ぺラは水を叩いたが無事でまあまあというところで済んだ。

飛行学生の時に高度計の修正法は教えられていた。 しかし暗夜実際にあの針自体を修正することは勇気を要した。 実際にこんな修正をした者はいなかった。

障害灯の高さを知っていたので、高度計は見ずに行動したのだと古いパイロット達は平気で言っていた。 とにかく、これも試練の一つである。 機体に大きな損傷も受けずに着水したのだから立派なものだと思っている。

勝田飛行長いわく、

「 高度計ばかり頼って、地形による判断を怠っちゃいかんよ。 海の中に潜って行かなきゃ、高度計は零にならんぞ。」

と笑われた。
(続く)

--------------------------------------------------------------

(注1) : 現在の南城市佐敷の馬天港付近に置かれたと考えられますが、詳細については不明です。


(注2) : 佐世保湾への入口の岬で、一般的には 「向後崎」 と言いますが、国土地理院による現在の正式名は 「高後崎」 です。


2013年01月14日

大空への追想 (56)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第4話 失敗談あれこれ (承前)

        その3 敵に位置を教えてもらった索敵機

前項沖縄における演習中の一コマである。 水上機隊は中城湾防備作戦において、湾口付近の対潜掃討と、湾外150浬圏内の索敵の任務を持っていた。 計器飛行にも自信のついたころであり、多少の悪天候は心配なかった。

この日の天候は湾内小雨、湾外は雷雨の断続で、ともに視界は悪かった。

早朝飛び立った私の一番機は、まず湾口付近でハプニングに出会った。 湾口中央付近で、侵入を企てている敵潜水艦を目視発見したのである。

ご存知のように沖縄の海は澄み切っていた。 水深20米くらいまでは上空から見透せた。 全没航行中の潜水艦の真上に偶然ぶつかったのである。

艦体の周囲から出る白波が、はっきりと視認できた。 もちろん発見電を打って触接した。 真上を急旋回しながら待っていると、潜水艦は真上の飛行機に気づかず、浮上を開始した。

潜望鏡、続いて司令塔の頭が出た。 機を失せず降爆撃に移り、一瓩の模擬爆弾を投下したところ、見事に艦の中央に命中したのである。

「敵潜水艦を爆撃、轟沈」と報告して、そのまま湾外の索敵を開始した。 幸先よい戦果をあげてから天候は次第に悪化して低空で行動せざるを得なかったが、2時間後コース先端付近は凄い雷雨となったため、落雷を心配し遠く迂回した。

(原注) : 落雷で墜落した水偵の実例がある。 パイロットの右掌に穴が開いていた。 スティックからの感電と判断されている。


突然雨の中に軽巡一隻が出現、仮想敵である。 再び発見電を打って触接を開始したが、偵察員の艦位報告にどうも不審があるので、「機位は確認しているか」 とどなると、自信がないという。

冗談じゃない。 帰りの燃料を考えると余裕がない。 そのうえ中城湾の中に入ってから基地に帰るには、周囲の山から考えても、余程正確な航法をやらんとこの視界では危険である。

こうなったら笑われても仕方がない。 恥をしのんで軽巡から艦位を聞く他ない。 しかしこれは最後の手段である。

それ以後は真剣に触接を確保した。 否、敵から離れたら機位を失してしまうからで、いわば敵にぶらさがっている形である。

そのうちに幸か不幸か 「天候悪化のため演習を中止する」 という電報が入った。 敵艦も中立を宣言した。 これで恥をかかずにすんだ。

軽巡は中々飛び去ろうとしない本機を見て、「帰投基地知らせ」 と発光信号を送って来た。 親切な敵もいるものだ。

「馬天に帰る。 視界不良につき、正確な艦位知らされたい」 とオルジスを使う。 艦の飛行長には本機の心情がよく分かったのであろう。 艦はやがて針路を変更し、「馬天基地は本艦の艦首方向100浬」 と教えてくれた。 嬉しかった。 バンクを振って雨の中に消え去っていった。

1800、命からがら基地に帰投した。 基地は豪雨につつまれていた。 基地では、この雨の中をよく帰った、潜水艦の轟沈、敵艦の発見と大手柄と激賞された。 おかげで敵に位置を教えてもらったことは遂に言い出せなかった。

敵も味方も同じ佐鎮部隊である。 潜水艦も軽巡も入港してからの会議の席で、轟沈と勝ち誇る航空隊に対し、潜水艦長は、よほどくやしかったのであろう。

「 司令塔に投弾したのは安全無視だ 」 と抗議するので 「 ぼやぼやしているからだ 」 と反撃したりして大変だったが、軽巡艦長から、

「 この前は悪天候なのによく飛んだね。 大分苦労していたようだが。」

チクリと一本さされ、

「 有難うございました。 おかげで命拾いしました。」

と述べてこの時に初めて失敗を報告して大笑いになった。 しかし敵に機位を尋ねた索敵機、トンチのような話だが、戦争だったら一体どうなっていたことだろう。 今思い出しても笑いがとまらない。
(続く)

2013年01月16日

大空への追想 (57)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第4話 失敗談あれこれ (承前)

        その4 酩酊操縦

酩酊運転と言えば、車両族ならすぐ分かる。 罪も重い。 酩酊操縦 − 大酒を呑んで飛行機を乗り出した話である。

海軍でも航空事故は厳しく取り扱われたが、「犠牲なきところに航空機の発展はあり得ず」 という思想があった。 このためか、故意の事故でない限り、人員の死傷を伴わない事故は不問にふされた場合が多かったと思う。

さて酩酊操縦となると、部下指導上の影響が大きい。 しかしこんなことをやる人は、ほとんどが海軍航空の知名士官である。 どう処分されたかは私には定かでない。 悪しからず ・・・・。

しかもこのような場合、ほとんどが人命財産の損失がなかったというのも面白い現象である。 やはりこれらの知名士は、乗り出すまでが酪酎上の行為で、一旦座席に入ると、操縦を誤るような人ではなかったのであろう。

さて酩酊操縦であるが、私の見たり聞いたりの事例でも3件ある。 いずれも故人であるが、名誉のため本名は避けることにする。


@ これは陸上機の話である。

私が館山航空隊実用機課程にいた昭和13年、副直将校をしていた時、当直将校は艦攻隊のK少佐であった。 この人の酒豪は有名である。 しかし非常に気の小さい人で、呑み出すと架空のことを次から次へと心配する余り大酒を呑んでしまうとの話であった。

飲んでもそのままならいいが、飲んだ後に必ず変わったことをやるので困っていた。 K少佐が当直ときくと、在隊員は気が気でなかった。 必ず総員を騒がすようなことをやるからだ。

当日も巡検を終わって報告に行くと、士官室の卓上に、所狭しとビールの空瓶がならんでいた。

「 ご苦労、あすの朝は俺がやるから、君はぐっすり眠ってくれ。」

と言う。 なるほど何か企んでいる。

翌朝、時間が来ても出てこないので、私が総員お決まりの体操を始めていると、K少佐がやってきた。 そして 「体操をやめて総員集合」 とやった。 これが徹底した総員集合で、軽症の病人まで集められた。

「今から飛行場一周の駈け足をやる」 というのである。 一周すると6千米はある。 副直将校はこれを厳重に監督しろ、と言って再び寝室に入ってしまった。 こんなことをやる人なのである。

次の話は私の着任前のことであるが、某中尉の語るところによると近頃は大人しくなった方だという。

ある冬の晩、当直将校がK少佐というので分隊員が心配して総員当直した。 ところが巡検後、例によって痛飲したうえ、格納庫に走って行き、

「 今から俺が夜間飛行をやるから一機準備しろ。」

と言い出した。 さあ大変、分隊士がドテラのまま飛び起き、分隊員を起こして駆けつけた。 K少佐は軍服のまま格納庫の一番前の一機 (九六艦攻) に既に乗り込んでいた。 いくら止めてもきかない。

そのうちにエンジンを起動してしまった。 危険極まりない。 かくなる上は人力で飛行機をとめる以外にない。 みんなで必死にしがみついたものの、エンジンを全速にして、

「 離せーッ、離せーッ 」

と怒鳴りながら、ビューン、ビューンと回転させる。 遂に人力に勝って艦攻は動き出してしまった。

仕方がないので障害灯だけは点けた。 K少佐は、そのまま滑走に移り、離陸してしまった。 (当時固定滑走路はなく、当日の風も弱かった。)

一同呆然として見ていると、飛行場上空を一周した後、逆コースで格納庫に向かって着陸体勢に入ってきた。 今度こそ大変だ。 格納庫に突っ込まれたら大惨事が発生する。 しかし止めようがない。

ハラハラしていると、無事着陸し、格納庫前のエプロンでピタリと停止した。 やがて 「ご苦労」 と一言残したまま庁舎に帰って何事もなかったように寝てしまったという。

この事件、どう処理されたかは聞かなかった。 多分懲罰は受けたであろう。 しかしその後も大酒飲家であることには変わりなかったのである。

考えてみると、この艦攻の燃料残も、離着陸の操作も、K少佐はちゃんと計算していたに違いない。
(続く)

2013年01月21日

大空への追想 (58)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第4話 失敗談あれこれ (承前)

        その4 酩酊操縦 (承前)

A これは水上母艦 「能登呂」 の飛行士Y中尉が犯人である。

Y中尉は、豪胆な人で、いろいろと武勇伝 (喧嘩に非ず) も多い人である。

「能登呂」 が単艦行動中のことであるが、夜間飛行訓練が実施されていた時、中尉は非番で外出許可が出ていた。 しかし訓練が実施されているため、艦内に残り、痛飲していた。 暑い夏の夜である (昭和12年頃と思う)。

訓練が終わる頃、飛行甲板に寝衣のまま出て来て、「酔いざましに最後に俺が飛ぶ」 と言い出した。 これもみんなの止めるのを聞かず寝衣のままで乗り込んでしまった。

言い出したらきかん性格を知っている隊員は、何とも手の出しようがなかった。 飛行帽だけを着ける、そのまま吊り下ろさせた。 飛行長は知っていたらしいが、艦長には伏せていたようだ。

真っ暗な洋上に出ると、Y中尉は、正しく風に向かって離水し、そのまま上昇を続けた。 上空で夜風にあたり実に壮快な気分であった由 (後刻本人が話されたことである) 約30分の飛行を終わって当日の夜間訓練は無事終了した。

今の時代には考えることもできない出来事だ。 飛行軍紀の弛緩、搭乗の資格停止等大変な騒ぎをかもし出すことであろう。

その後どうなったかは記憶がないが、戦争で武勲をたて、戦技等でも表彰されたと聞いている。


B これは 「神川丸」 分隊長広田大尉 (前出) である。

悪い話ではないから名前をあげた。 後の空将補 (今は故人)。 15年支那事変の際の私の分隊長である。

111_01_s.jpg

この年の6月頃、攻撃が連日続いていた。 この日も攻撃から帰った晩、私は明日の攻撃は休みとあって、士官室で一杯やっていた。 そこに入って来たのが広田分隊長だ。

「 俺にも一本くれーッ 」

ということになった。 この人も酒は強かった。 しかしなかなか乱れない人である。

「 おーい、搭乗員を起こして来い。」

となって、一本が二本と、大宴会に拡大される気配が出て来た。

「 分隊長、あすは出番ですよ。 飛行士と指揮官を交代した方がいいでしょう。」

と進言申し上げる私も大変酪附してきた。 分隊長は、

「 酒を飲み過ぎて飛べんようでは水上機乗りはつとまらんぞ、心配無用じゃ。」

と言い、遂に艦長山田大佐 (道行、兵42期) まで起こして来てしまった。 寝たのは午前3時である。

翌朝0700攻撃隊整列、分隊長は朝食も摂らんで出て来た。

「 大丈夫ですか 」

と案ずると、

「 二日酔だ、戦果が揚がる 」

と笑っている。 搭乗する時、後席偵察員に、

「 分隊長は二日酔だから気をつけろ 」

と、そーッと耳打ちしておいた。

この日の海面はべた凪である。 九五式水偵の発着は要注意の海面である。 心配でたまらない。 操縦は名人級の人だが、二日酔だと言い残された言葉が気になっていた。

いつもは編隊離水なのだが、この日の列機は分隊長を警戒していた。 大きな開距離で編隊離水が始まった。 私は分隊長機に双眼鏡をピタリとつけていた。

列機が次々と離水したが、分隊長機はなかなか水を切らない。 そのうちに最初の針路から右に90度変針してやっと離水した。

この日の戦果はまず平常と特に変わりなし。 帰艦後分隊長をつかまえて、

「 分隊長、今日の離水は ・・・・ 」

と聞いてみると、

「 カームなので、ちょいと吸いつき気味でね。 走っているうちに、風が出たので少しひねって風に立てただけさ。」

艦長の手前、うまいことを言っていたが、艦橋から降りると、

「 二日酔が祟ったよ 」

と正直に話してくれた。 やはり高度の技術を要する水上機の離水操作である。 いかに名人といえども二日酔が影響なしとは考えられない。 ただ壊さんように離水できたのは豊富な経験によるものに他ならない。

とにかく海軍の先輩には、このような名士が多かったことは事実である。
(続く)

2013年01月24日

大空への追想 (59)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第3章 艦隊勤務の巻 (昭和15年12月〜16年4月) (承前)

    第4話 失敗談あれこれ (承前)

        その5 生理現象には勝てず

昭和14年頃のことである。 紀州沖で艦隊の訓練があった。 ある戦艦から発艦した九五式水偵、弾着観測訓練を終了して、引続き所定海域の対潜哨戒の任務についた。 機長は59期のN中尉である。

当日の紀州沖は、真冬で相当シケていた。 2時間の哨戒後、洋上で着水揚収の予定になっていた。

当時の水偵は風防もなく上半身は吹き晒らし、一且寒気がしみ込むと、2時間の洋上哨戒でも相当こたえるものである。 生理現象が問題だ。

パイロットは体が固定されているので、(小) の方は自分で紙袋を使用してポイと機外に捨てたものであるが、(大) の方は対策なし。 もっとも (大) を催すのは、余程体に変調を生じなければ起らないし、そのような人は飛ばないはずである。

ところがN中尉は、海が荒れており、潜水艦もおらん海面なので、退屈もしたのだろう、(大) を催して来たのである。 と言って早く帰還してもすぐ揚収されるはずもない。

とにかく頑張っていた。 実際経験のある人はよく分かるはずだが、(大) を催してきた時の小型機パイロットほど切ないものはない。 任務なんかそっちのけになる。 全エネルギーが (大) を我慢する方に集中してしまうからである。

N中尉は決断を迫られた。 といってもシケているので、うっかり着水はできない。 哨区の北端は潮岬から約30浬。 そこで潮岬に突進した。 着水して処理する考えである。

人影のない、漁船もいない、静かな海面を探した。 目撃者がいてはまずいからだ。

適当な海面発見、着水、偵察員を操縦席に移してパワーと舵だけを維持させ、自らは単フロート上に降り、脚支柱と張線をつかまえて用を足した。

トコトコ ・・・・ エソジンをデッドスローとしてフロートの後部にしゃがみ込んだその姿、想像できるが、記念写真がほしかった。 けだし、優秀作品が生まれたことだろう。

陸上機では絶対まねができない。 水上機の有難さがつくづくと感じられる。 N中尉は、用を済ますと心身爽快、勇躍離水して所定の時間どおり帰艦、報告は 「敵を見ず」

それから数日間、目撃者でも出て問い合わせでもあるんじゃないかと、落ち着けなかったそうである。 「戦場を独断で離れ、哨戒の穴を作ったんだから、情状酌量しても懲罰は免れなかったろう 」 と、これはN中尉の述懐である。 この人も今は亡い。
(続く)