2015年01月04日

大空への追想 (225)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊 (承前)

        その2 PS-1の事故と私の巡り合い (承前)

(2) 手記その2 (承前)

〇 現地救難

七護隊は事故発生時点において、支援任務を解かれ航空救難行動に移行した。

1558現場着、クルーの乗ったラフトを発見した。 1名、6名、4名の順に3隻のラフトは集結しており、その後方300米付近に白鯨のような姿で五号機が漂流していた。 私は搭乗員の無事を喜びながらも、この五号機の姿を見た時、何とも形容できない悲壮感に襲われた。

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( 原著より 著者の当時のスケッチ )

「いかづち」 艦長は自らメガホンをとり、

「 最後まで頑張れッ、気を抜くんじゃないぞ !! 」

と激励しながら直接救助法を採った。

(原注) : ボートを使わず、艦で直接接近して救助する法

1615 まず機長を救助し、続いて6人のラフトを舷側に捕捉した。 ちょうどこの時、新田原基地のヘリコプター 2機が飛来し、最後の4人のラフトに接近し、次々と吊り上げ収容した。

上空にはPS-1が2機、MU-2、B-65 各1機が見守っていた。 長い間飛行艇乗りとして自分なりに自負して来た私は、飛行艇搭乗員がヘリコプターに救助されるのを見て、涙が流れて仕方がなかった。 感涙ではない。 複雑な意味でのくやし涙である。

1642 全員が元気で救助された。 「いかづち」 艦内では既に風呂が準備されており、真新しい下着類や暖かい飲物が次々と運ばれた。

それまで救助することのみに専念していた私は、救助後の処置がこんなに整然と各配置で完備されていたのを見て、護衛艦における救難部署というものに本当に驚いた。 同時に感謝の念で一杯であった。

早速風呂場に飛び込んで行った。

「 みんな、よかったなーッ 」

「 有難うございましたッ 」

機長が飛びつくように手をさしのべて来たが、それ以上はお互いに声が出なかった。

誰かの 「たばこを下さーい」 との声で一同ニッコリ、そこで初めて、助かった ・・・・ という実感が沸いてきた。


〇 遭難機の警護

11名の乗員が無事収容され、一同本当にホッと胸を撫で下ろした。

1800、夕闇が迫ってきた頃、右フロートを発見し艦に収容した。 海上は荒れ出してきた。 風速35〜40ノット。 波高も3米以上となり、五号機に対しては手の下しようがなかった。

間もなく沈没するものと予想していたが、どうもその気配が見えなかった。 黒潮の流れは東へ毎時4ノットもある。 「いかづち」 「いなづま」 の両艦で五号機を挟むように位置し、交互に探照灯で照射しながら見守ってついて行くだけである。

真っ暗な洋上に、照射されながら美しい艦底チャイン部の線をくっきりと水面に現して、時々大波に洗われつつ静かに漂流してゆくPS-1。 こんな姿を見ることになろうとは、夢にも考えられなかった。

悪夢のような22日も終わり、23日の朝を迎えた。 海上はやや静まったようだが昼ごろから再び40ノットの風が吹き出した。 PS-1は昨日と少しも姿勢が変わっていない。 “もうこれ以上沈まないぞ” 誰もがそう感じた。

ジーッと目をむけているとPS-1は逆さまになっても風に立っている。 左のフロートが波にゆられながら一番ペラのブレードが一枚海上に出ている。 風波を受けてこれが時々左右に振れている。

私はこれを見て思わず泣けてきた。 “PS-1は生きているんだ。 早く揚げてくれと手を振っているじゃないか” もし童話に出てくる巨人になれるなら、私はすぐにも飛び込んでいってこの手ですくいあげてやりたい ・・・・ 夢のような気持ちがひしひしと起こってきた。

22日の夜間、他の艦船が駆けつけて来た。 警戒艦は 「ちはや」 「はまな」 「はるかぜ」 を加えて5隻となっていた。

艦橋に上がって見ると、隊司令以下ほとんどが徹夜していた。 司令から、昨日夕刻になり、自衛艦隊司令官から護衛艦隊に対し、“全力を尽くしてPS-1を揚収せよ” との命令が出されていることを聞かされた。


〇 収容作業開始

23日の午後になって海も大分静まって来た。 護衛の段階から、PS-1の収容に向かって全体が動き出して来た。 岩国から事故調査員がヘリコプターでやって来た。 「いかづち」 からは入れ代わりに救助されたクルー達が岩国に空輸された。

やって来た連中が、

「 日辻さんは随分手回しがいいですね。 もう来ていたんですか。」

と驚いていた。 20日から乗艦していることを知らなかったらしい。

「 PS-1のある所私は常に一緒にいるんだよ 」

と冗談を飛ばしておいた。

昨日収容した右フロートを、呉に帰る 「はまな」 に移した。 岩国基地からは、支整司令が深田サルベージの曳船に乗り込んで現地に向かっていた。 三十一空群司令は陣頭指揮のため、ヘリコプターで 「ちはや」 に舞い降りた。

収容態勢は出来上がった。 ただ海上の平穏を待つばかりである。


明けて24日の朝を迎えた。 艦橋に詰め切った人達にもようやく疲労の色が見えてきた。

今日も早朝からPS-1が警戒に飛んで来た。 風は北の8ノットまで治まった。 うねりもわずかながら低くなってきた。 サルベージ船の到着が待ち遠しかったが、護衛艦のように正確なナビゲーションができないんだからやむを得ない。

七護隊の位置を調べてびっくりした。 すでに室戸岬の南方まで流されていたのである。 PS-1は全く最初の姿勢を変えていない。

「いかづち」 が思い切り接近して写真撮影をした。 しかし各動翼、魚雷ポッド、尾翼等は、やはり浪にもまれたためか既にもぎとられていた。 改めて浪の威力を見直した。

七護隊は本日1600 で警戒任務を交代することになった。 「ちはや」 「はるかぜ」 が後を引き受けるということである。 こうなると、PS-1との別れがつらくなった。

“今日は曳航してくれるぞ、岩国で待っている。 それまで頑張ってくれ”、心の中で手を合わせた。

1600 潮岬の南方80浬の地点で任務を交代し、七護隊は呉に向かって速力をあげた。

サルベージの現場到着が遅れたため、三十一空群司令は 「ちはや」 艦長に曳航を試みるよう依頼し、1700頃から作業が開始された。

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( 原著より 当時の著者のスケッチ )

まず数名のダイバーが飛び込んで水中写真を撮って調査の上、沈没防止のため、PS-1の機首に準備した4人乗りのラフトを2隻、各エソジンの下部に1隻ずつ、更に艇内に6隻のラフトを押し込んだ。

翌25日1120、尾部から曳航索を取り、速力5ノットで曳航を試してみたが、この態勢で曳航は心配なしと判明した。 そうこうするうちにサルベージ船が到着し、1735 「ちはや」 と交代して曳航を開始した。

かくして漂流3日間の孤独の旅は終止符をうち、大王崎の南方150浬から尾鷲湾に向かって曳航が開始されたのである。 あとは海上平穏を祈るのみである。
(続く)

2014年12月27日

大空への追想 (224)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊 (承前)

        その2 PS-1の事故と私の巡り合い (承前)

(2) 手記その2 (承前)

〇 PS-1 五号機では ・・・・

22日、ASW訓練を終了したのち 1400頃から沖ノ島の南西17浬の海面で外洋離着水訓練を開始した。 北西の風15ノット、西方からのうねりがあったが、波高平均1.7米、時々2.0米くらいの波もあった。 それほど困難な海上模様ではなかったと聞いている。

2回目の着水も無難に終わり、次の離水準備にかかった時 (1442) 右に傾き出した。 不思議に思って右側を見ると、四番ペラが水をすくっており、右フロートがもぎれてプカブカ流れ出していた。

傾斜は右に20度くらいになっていた。 機長は直ちに緊急電波で危険状態に入ったことを放送した。

傾斜が30度に達するようならば総員脱出することを決意し、左舷各ハッチは全部開き、クルーに脱出準備をさせ、2隻のライフラフトを左舷に出し、秘密書類、信号拳銃を積み込ませた。

次第に傾斜が増し、四番エンジンが水に浸かり始めたので機長は総員脱出を命じた。 しかしクルーは愛機を離れがたく (クルーでないとこの心境は分からないと思う) なかなか出ようとしない。

機長は “早く脱出しろ” と叱咤しながら、追い出すようにラフトに乗せ、モヤイ索をナイフで切り離した。

ラフトが離れたころ、機体は右にロールをうつように傾き出し60度くらいになったが、機長はただ一人尾部艇底付近に移動したまま離れようとしなかった。

( 救助後機長は次のように話してくれた。 “転覆沈没はまぬがれないと思って乗員を脱出させたが、責任感がひしひしと迫って、自分は覚悟を決めた。 最後まで残るつもりでいた” )

「 機長早く脱出して下さい 」

ラフトのクルー達が必死に叫ぶので、やっと海中に飛び込んだ。 1.5分後に完全に転覆し、白い艇底を海面に出してしまったのである。

上空にいる十一号の投下したラフトがちょうど機長の眼前にあったので、これに這い上がろうとしたが、耐水服の下半身に浸水していたため、何としても這い上がれず、片脚をやっと乗せ、両腕でラフトを抱え、何回か海水を飲みながら救助されるまでの40分間を頑張り抜いたのである。


〇 基地では ・・・・

緊急信をキャッチした十一号機の通報により、事故発生を知り、直ちに “第五区航空救難” を発動した。 空自新田原基地も緊急信をキャッチし、事故発生場所の関係から “第六区航空救難” も発動された。

ちょうど試験を終了したUS-1 七十一号は、岩国着水後事故を知り、燃料補給後救難出動の態勢をとったが、時間的には既に七護隊、新田原のヘリコプターが先行しており、クルーの生存も確認されていたので、この出動は取りやめられた。
(続く)

2014年12月22日

大空への追想 (223)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊 (承前)

        その2 PS-1の事故と私の巡り合い (承前)

(2) 手記その2

   洋上の悲劇 PS-1 五号機 (51年2月10日 記)


◎ 概説

昭和51年1月22日、PS-1 五号機が豊後水道南口海面で外洋離着水訓練中、右フロートがもぎとれて転覆し、搭乗員は脱出救助されたが機体は横転し、逆さまになって浮上したまま黒潮本流に乗って潮岬の南南東の遥か洋上まで流された。

荒波の静まるのを待ち、25日夕刻これを捕らえ、護衛隊と深田サルベージが出動し、尾鷲湾にいったん曳航のうえ、台船上に揚収し、事故発生後10日目に母基地岩国に帰還、従容として艇体を横たえたのである。

5年前 (手記その1) 50時間に及ぶ荒海曳航に堪え抜いたPS-1が、片足をとられて転覆したことは、それがいかなる理由があったにせよ飛行艇としてはまことに悲しい事故である。

自衛艦隊司令官は事故を重視されて、“万難を排して揚収せよ” と命令された。 三十一空群司令自ら陣頭に立ってこの難作業を完遂したのであるが、当時の手記をご披露したい。


〇 事故発生 !!

51年1月20日、US-1の外洋救難試験支援のため、第七護衛隊 (いかづち、いなづま) は 0900 呉を出港した。

天気図によると20日〜23日にかけて、北西の季節風が吹き出すことは確実であった。 久し振りの乗艦なので、私も今回は酔っぱらうのを覚悟の上で乗り組んだ。

七護隊の出動で岩国は好機到来、21日から3日間にUS-1の試験を含め、延べ約20機が外洋訓練に挑むというかつてない積極的な訓練計画がたてられていた。

1月22日1400、US-1の外洋試験に続いてPS-1の曳航訓練も終了したので、七護隊は補給のため佐伯に向け北上しつつあった。

連日の観測作業でいささか疲労を覚え、士官室で隊司令と休憩していると、隊付があわただしく電報を届けに来た。 司令は電報に目をやると直ちに艦橋に駆け上がった。

隊付の電報を読む声がとぎれとぎれに耳に入った。

「 PS-1五号 ・・・・ 右フロート切損 ・・・・ 傾斜 ・・・・ 脱出 」

場所は七護隊からは少し遠かった。 これは容易ならんことになった ・・・・ 私も司令のあとを追った。

1520 「オモーカージ」 針路150度、「いなづま」 は約10浬北にいた。 「我に続け」  すぐ指令が飛んだ。 艦内拡声器がけたたましく鳴り渡った。

「 PS-1がフロートを切損し、條斜したまま救助を求めている。 本艦はただ今から現場に急行し搭乗員の救助にあたる。 航空機救難部署につけッ 」

「第三戦速」 (「いかづち」 の全速である。 22ノット)

海上は大分荒れ出していたが、戦闘行動である。 動揺する甲板上に救命具と鉄カブトで身を固めた乗員が一斉に動き出した。 やはり護衛艦である。 一瞬にしてきびきびした光景に塗り替えられた。

艦橋電話には岩国から派遣されていた搭乗員が配員され、事故現場に駆けつけたPS-1 十一号機との連絡を確保していた。

「 五号機は約20度右に傾斜している。 四番エンジンが水に浸かっている。 今ライフラフトを出している。」

「 乗員は何名か 」

「 11名。 転覆の恐れあり。 乗員は脱出を始めた。 ラフトは2隻、今10名が脱出した。 1名残っている、機長らしい。」

「 本機からもラフトを投下した 」

「 残った1名を早く脱出させろ 」

「 1名飛び込んでラフトを捉まえた。 残留なし。」

このやりとりを開きながらクルー全員の脱出を知ってホッとした。 気温は摂氏6度、海中に浸かったら危険だと思ったが、水温16度と知って安心した。

艦速がもどかしい。 事故現場は七護隊の発動点から南へ約18浬くらいある。

1600頃から双眼鏡で五号機を捕捉できた。 水平線に垂直に突っ立った一本の線、これは左翼だった。

そのうちにそれが消え、しばらくすると逆さに立った左フロートが見え出した。 完全に転覆している。

“搭乗員は無事だろうか” これだけが頭の中を駆け巡る。
(続く)

2014年12月16日

大空への追想 (222)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊 (承前)

        その2 PS-1の事故と私の巡り合い (承前)

(1) 手記その一 (承前)

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(原著より  PS-1 二号機曳航図)


〇 基地だッ! 岩国だッ !!

12月10日、3日目の朝を迎えた。 怒和島水道に近づいていた。 快晴、平穏な海面が限前に広がっていた。 0900、最後の狭水道通過である。

200米の曳索を100米に詰め、PS-1は外側2発を起動したまま曳かれていた。 2日間、潮をかぶり通したのだがエンジン起動は心配に反して快調だった。

難なく水道を通過した。 ここまでの総航程は220浬、いよいよ残すところ20浬となった。

「 1130 岩国揚陸可能の予定 」

元気なボイスが飛び込んで来た。 1000頃からスべリ地区には隊員が総出で出迎えの態勢をとっていた。

「 PS-1が見えたッ 」

1010 タワーから声あり。 まるで日本海々戦における “敵艦見ゆ” ・・・・ 「信濃丸」 の発見第1報でも受けたような感がした。 いかに総員が心配し、心待ちしていたかが窺えた。

まもなく兜島北方に 「なつぐも」、PS-1、「みねぐも」、「みくま」、タグボート、消防艇が、単縦陣で姿を見せた。 ちょっとした艦隊入港の光景を呈していた。

「 只今曳索を放した。 全発起動 ・・・・ 」

次々と大声で報告がタワーから流される。

「 曳航索を放して自走に移った時、苦労をともにしてきた艦と誠に別れがたい思いがした。 艦のまわりを一周したかったが、燃料が心配だったので、手を振って別れて来た。 艦側も総員が見送っていた。」

その時のことを語る飛行隊長の言葉は、思いなしか濡れていた。 3日間荒天の洋上を、がっちりと手を握り合って突破して来た海の男達の気持ちが本当に汲みとれる気がした。

去りゆくPS-1を見送りながら、「なつぐも」 艦長は別れの言葉の最後に次の一首をつけ加えていた。

「 安着を 夢見た基地の 海青し 」

あの強風下の難作業に敢然としていどみ、“俺に任せろ” の一言を見事にやり遂げた逞しい 「なつぐも」 艦長の心の中に、奥ゆかしい一面のあったことが読みとれたのである。

飛行隊長は主操席に座り、いつもと変わらず一直線にスべリに向かって来た。 総員の視線が集中する。 50米、30米、10米、そして前輪がしっかりとスべリを踏んだ。

“還って来たPS-1 !!” 私は思わず感涙にむせんだ。 時12月10日1221、土佐沖に着水してから実に50時間を要したわけである。

スべリ上に静止したPS-1は、一見何事もなかったような美しい姿を呈していた。

最後に降りて来た飛行隊長の顔には、僅かな微笑みの中に3日間の苦闘に堪え抜いた指揮官の気魄が滲み出ていた。

副操縦士が私のところにやって来て、大きな波浪を乗り切って曳かれている時の格好を手まねで示しながら 「やっぱり体験してみなければ分りませんわー」 としみじみと話してくれたのが印象に残っている。

“ご苦労様”  私はPS-1に向かって声をかけずにいられなかった。


(あとがき)

12月8日 (太平洋戦争開戦の日) から3日間、PS-1最大の試練とも思われる今回の外洋曳航が風速30ノット以上の強風下で強いられることになった。 こんな例は海軍にも見られなかった。

− 私の記憶では、戦争中、九八式大艇が被弾のため双発で帰投し、遂に力尽きて比島ダバオ湾口に不時着し、駆逐艦に曳航されて30浬先の基地に還ったことがある −

総航程240浬を無事乗り切って還ったことは、PS-1の強靭な耐波性もさることながら、曳くもの、曳かれるもののPS-1に対する愛情によって結ばれた両者のチームワークの勝利であったと信じている。

艦船の支援を要するようなPS-1であってはならない。 実験しようと思ってもこんな曳航試験はできるものではない。 技術的にも数多くの貴重な資料を提供してくれた今回の苦しい体験は、PS-1の育成面に大きな貢献をしてくれたことは言うまでもない。


最後に一言、“流言飛語に注意せよ” ということをつけ加えたい。

大きな騒ぎが起こると、流言飛語は必ず付きまとうものである。 今回の故障は、初期において発表を避けたため真相が伝わらなかったこともあるが、関係部門には正確な連絡はなされていたはずである。

参考までに実例をあげてみよう。 すべて情報源を確認せず、受信者の主観がいくつも混じったために生じていることがよく分かる。 私の耳に次ぎのようなことが入っていた。

(1) PS-1は、ライフラフトを落としたので、これを拾うために荒海に着水したのである。

(2) 艇内の浸水が激しくて、ビルジポンプをかけっ放しでいる。

(3) 呉監から派遣されたタグボートの指揮官から岩国宛次のような問い合わせがあった。
  「 曳航索が2回も切断したそうであるが、何ミリのワイヤーを使用したらよいか 」

以上の3件いずれも誤りであるが、この出所を調べてみると、次のようなことである。

(1) 飛行隊長が万一に備えて、艇内各部にライフライトを準備するようクルーに指示していたが、この時ICSがRADIOに切り替わっていた。 これを受信したのが、そもそもの始まりである。

(2) 浸水が予想されたため、基地指揮官から艇内ビルジポンプの使用法について指示をした。 これが前述のようなことになっている。

(3) 本文中にも述べたが、飛行隊長と基地間で曳索切断等の不安に対し質疑応答がくり返されたが、直接交信と艦船系の2回にわたって送信された。 電文をよく読まず、曳索切断ということだけを耳にして、これを2回聞いたことから、タグボート指揮官のような受けとり方になったものである。

何とも馬鹿々々しいことだが、大事故になるほど情報の入手は冷静沈着に処理する必要がある。 出所を確認すれば、誤りはすぐ判明するのであるが、流言飛語の名のごとく、誤りが誤りを産んで飛び回るからまことに始末が悪い。 心すべきことである。
(続く)

2014年12月09日

大空への追想 (221)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊 (承前)

        その2 PS-1の事故と私の巡り合い (承前)

(1) 手記その1 (承前)

〇 厳しかった豊後水道

足摺岬南岸付近を西進中は風波も大分静まってきたという報告を受けたので、明日に備えて少しでも眠ろうということで、私も宿に引きあげた。 すべては時が解決してくれるだろうという無責任な考えで、搭乗員にはまことにすまないと思いながら、ただ明朝を待ちたかったのである。

明けて12月9日、0600 になると、大変なことになっていた。

「 只今豊後水道南口にかかって、北に変針中です。 風が強く北西の40ノット、潮は南で逆流になっており、実速2〜3ノットしか出ていません。 艦長もコースを四国寄りにするか九州寄りにするか迷っているようです。 ここ2〜3時間が勝負というところで心配しています。」

ということである。 再び曳索のことが気になり始めた。

司令は 0630 にヘリコプターで岩国を出発した。 直接現場に飛んで状況確認のうえ、「なつぐも」 艦長と打ち合わせをするという。

飛行隊長からは、

「 昨夜は割合に静かな時間がとれたので、三直交代で休養した。 一同元気である。」

との連絡があり、ひとまずは安心した。

司令のヘリコプターも、直接PS-1への物資吊下を試みたが危険のため中止し、司令は 「なつぐも」 に天下った。

搭乗員は昨日から給食を受けいない。 毛布もない。 APUのオイルも不足している。 どうしても物資補給とクルー交代の必要があった。

艦長との打ち合わせの結果、佐伯湾外の仮泊が決定した。

飛行隊長は、

「 基地でもみんな詰め切りで心配している。 疲れているのは誰も同じである。 ガブられるのに馴れただけこっちの方が強い。 搭乗員交代の要なし、岩国まで頑張る。」

と、強硬である。

私は隊長の心情は十分察し得たが、もう一晩過ごさねばならんし、船乗りの恐れている “魔の伊予灘” が待ち受けている。 仮に隊長だけ残すとしても、搭乗員を交代させる必要があるだろうと司令に助言した。

司令も全く同意して、かくなる上は命令により交代させると決められたが、なるほど “命令” とはこんな時に使うものだなーと、司令の決意に感心した。

一方呉総監も非常に心配されており、「なつぐも」の長時間にわたる微速運転は避ける要ありとして、佐伯以後、大型タグボート2隻と曳航を交代させたいと言って来た。

「なつぐも」 艦長は即座に答えていわく、

「 私は曳航のベテランである。 ここまで30時間の実績を積んで、飛行艇の曳航に自信を持っている。 新手に曳かせるのはかえって危険である。 このまま岩国まで曳航する。」

俺に任せろという強い態度を示されたが、この場面は、飛行隊長、艦長ともに強い責任感と、海に生きる男の意地を見せての感激のシーンが展開されたのである。

私は独り喜んでいた。 “飛行艇乗りの伝統は生きている。 海軍魂健在なり” と心の中で両者に拍手を送っていた。

馴れるということは恐ろしいものである。 波高3メートル、風速45ノットという荒天曳航も、曳索は切れない、艇体も壊れないという自信がついた結果、心配は吹っとんでしまった。

ピッチングも振動も乗り越えて、豊後水道をどんどん北上し、1243 遂に佐伯湾外に到着した。 気にしていたAPUも搭乗員も健在である。

司令命により 1305 新たなクルーがヘリコプターで空輸され、PS-1の搭乗員は交代したが、飛行隊長の意志は強固で、独り艇内に残り、新たなクルーを指揮することになった。

「なつぐも」 の曳航継続も決まり、1440 再び佐伯港外を出発し、豊後水道を北上、最後のコースに向かったのである。

8日着水時の燃料は1万ポンドあったが、既に4千ポンドに減っていたため、怒和島水道通過時と岩国での自走揚陸に備え、燃料節約のため、APUの使用は以後極限された。

水道に出ると風はいまだ30ノットもあり、苦難の2日目の夜を迎えることになった。 2000 いよいよ伊予灘に出た。 西の風26ノット、予想どおりの “魔の伊予灘” かと思われたが、天我れに味方す、2100頃から風は次第に収まり始めたのである。

この頃になると飛行隊長もすっかり元気が回復し波に対しても馴れ、波形を見て、機首にたたき上がる波と、横にそれる波をはっきりと見分けることができたという。

隊長の手先信号一つで安心して、パイロットは波に対処できるようになっていた。

「 天空に瞬く星を眺めながら、曳かれてゆくPS-1の中で、忘年会の唄でも練習しろと一同を元気づけた。 こんな調子なら、まだまだ一週間くらい続いても心配ないと思った。 食欲も出たが、いくら重ね着しても体だけは暖まらなかった。」

隊長はあとでこのように語っていたが、豊後水道を乗り切るまでの苦闘はとてもロでは言い表せなかったのである。
(続く)

2014年12月06日

大空への追想 (220)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊 (承前)

        その2 PS-1の事故と私の巡り合い (承前)

(1) 手記その1 (承前)

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( 原著より )

〇 強風との闘い

曳航針路320度、風は完全な向かい風、次第に風速が増してきた。 1500 には風速30ノットになった。

ピッチングが大きくなる。 ドドドーン、ビリビリビリ ・・・・ ギシギシギシ、大波を機首に受けるたびに不気味な振動がクルーの体に響いてくる。 上空にはP2Vが一機、心配そうに見守ってくれていた。

全発を停止した二号機の艇内で聞こえるのは、波の音と隊長の声とAPUの音だけであった。

ザザザーッ、バタバタッ ・・・・

「 波消し溝の中を通り抜ける波の音が、こんなに凄いものとは予想もしていなかった。 時々前方の艇内を点検に行ったのだが、実に恐ろしかった。 ハッチを緊締するのが精一杯であった。」

あるクルーはそのときの実感をこう語っていた。

1630、そろそろ宵闇が迫ってきた。 風速は相変わらず30ノット、曳航開始後わずかに20浬しか進んでいない。

酔っぱらったクルーが目立ち始めた。 今朝来何も食べていないが食欲が全くない。 ピッチングは、マイナス5度からプラス10度、艦長が心配して、「暖かいメシが出来たから送ってやる」 と言ってきたが、受けとる方法がない。

隊長は一同を元気づけながら、交代で休むよう指示したが、とても眠れるものではない。 大波が間欠的にパイロット席の天井を乗りこえてゆく。

曳航索が切れないだろうか、艇首の取付け金具は? 艇体前部がたたき壊されないだろうか? 逃げる時は後部ハッチから海へ飛び込む以外にはないだろう。 いろいろな不安がつのる一方だ。

大丈夫なはずだが、こんな場面になると、初めての体験だけにどうしても心配が先行する。 ビルジポンプ、ラフトを艇内に準備し、クルーは耐水服を着用して万全を期していた。


〇 指揮所からの激励

司令は 「なつぐも」 に連絡官2名をヘリコプターで送り込むことにした。 1500 ヘリコプターは現場着、念のため持参した物件をPSに吊下しようと試みたが、とても危険でだめだ。

万一の要があってエンジンを起動する場合に備え、APUの温存が必要である。 PS内では、APUの負荷軽減と燃料節約のために、暖房は停止し、UHF、HF各1台だけを使用することにした。

艇内は全く雑音から解放された。 波の音だけがやけに大きく感ずる。 寒さとピッチングに対する闘いは限りなく続く。 約20秒ごとにやってくるギシギシという横揺れが、地獄からの呼び声のように不気味に感じられる。

隊長も心配でならない。

「 どうも曳索切断が気になる。 曳航金具の破損と、艇首の破損も含め、本当に心配ないのか検討して欲しい。」

と言って来た。 私もボイスを聞きながら、甲南に海面状況と照らし心配ないのか問い合わせた。

徳田博士が真剣になって、最悪条件下の計算をした結果、全く心配なしとの返事が来た。 早速これを隊長に連絡したところ、徳田博士の計算と聞いて安心できたと言う。

1800頃になると、風速35ノット、吹き出しがいよいよ強くなってきた。 いくら机上の計算で心配ないと言われても気が気でない。 徳田博士に念を押したが、“ご心配無用” と言われる。

真っ暗な荒海の上で闘っている搭乗員の姿が、はっきりと眼前に浮かんでくる。

先程の隊長の問い合わせのボイスを佐伯基地が傍受して、これを艦船系で送って来た。 一時間も後のことだが、電信室ではなかなか聞きとれないため何回も問い返している。

電文の中の要点のみを大声で復唱するのが耳に入る。 ・・・・ 曳航索切断 ・・・・ 金具破損 ・・・・ 前部艇体破損、これだけが指揮所まで聞こえたからたまらない。 “なにッ” 司令が立ち上がった。 私も思わずハッとした。

この3つを心配しているという意味のことが分かって、“おどかすなッ” みんなへナへナッと腰をおろしてしまった。

指揮所からは、荒海上のクルーを言葉で激励する以外に方法がない。 緊張の連続ですっかり疲れ切ってしまった。 自分が群司令に舞い戻ったような錯覚がおきる。

部屋を出ると、そこに私の急報で駆けつけたのか、新明和の4人の担当課長が心配気に待機していた。 何かほッとした感じがした。 この場では、徳田博士の計算と4人の来援は本当に元気づけに役立った。


〇 曳航を続けるか、仮泊するか

自衛艦隊司令官からも救援命令が出されていた。 空団司令官も、搭乗員の身を案じいろいろ助言された。

宿毛湾で作業中の 「みねぐも」 が片舷航行の状態で馳せ参じ、曳航の後方警戒の配備についた。

「 真っ暗な洋上では、大波が艇体をたたく音と、艇の上下運動だけを感ずるだけで、地獄の底でも走っているような感じがした。 「みねぐも」 が後方について、時々海面を照射してくれたが、これは何よりも力強かった。 例えPS-1がバラバラになっても後方の 「みねぐも」 が救助してくれるという気がして非常に安心できた。」

と、べテランの搭整員が語っていたが、暗夜の光明というか、こういう真っ暗な中では、たしかに照射してもらうことが人間を安心させるうえで大いに役立つことは確かである。

艦位報告によると、足摺岬の南北線よりは大分東方に流されているようである。 1900頃になると、そのまま曳航を続けるか、足摺東方の陸岸に接近して仮泊するかが論議の的になってきた。

長い航程だけに、各上司からも、搭乗員の体力が問題となり、仮泊して休ませるべきだという意見が強かった。 私も司令と相談してみた。 岩国までの曳航を考えると、少なくとも一回は仮泊して必要物件を積むか、搭乗員の交代を必要とするということで意見が一致した。

そこで仮泊するとしたら、飛行艇は艦尾係留かブイ係留かの問題があったが、私は搭乗員を休ませるためには、艦と切り離してブイ係留することを勧めた。

一方ではこの強風は明日も続く予想のため、いったん仮泊すると、再スタートする時に追い風又は横風となるので、飛行艇が艦を追尾せず、艦は変針し切れなくなるだろうという強行意見が出て、指揮所内はワイワイと賑やかになっていた。

いずれにせよ、あと2時間の我慢である。 足摺に近づけば、大分凪いでくるはずだ。 そこで現地が考えればよい。

艇内では唯一の食料である機上応急糧食に手をつけた。 乾麺包 (海軍の伝統食だ) を囓ると水が欲しくなる。 “水ッ” と叫んでもクルーは酔っぱらっていて動くのも苦痛なようだ。

2230頃、艦長から司令に電話があった。

「 現在艦は西に向かっている。 曳航状態は良好である。 このまま豊後水道を突破したいと思う。 搭乗員の意向を聞きたい。」

続いて隊長から

「搭乗員一同元気です。 交代で寝ているので心配なし。 曳航状態不安なし。 艦長の意志に従いたい。」

と、言ってきたが疲れていることは声で分かった。

しかしここで話は決まった。 仮泊中止、豊後水道に向かうことになった。

さっきの曳航問題に対する討論の結果はPS-1自身が解決してくれた。 横風ではあるが、PSは素直に艦を追尾していたのである。 強行派はしきりに首をかしげていた。
(続く)

2014年12月02日

大空への追想 (219)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊 (承前)

        その2 PS-1の事故と私の巡り合い

私の新明和入社は44年4月1日であるから、今日まで約12年間が経過 (著者執筆当時) した。 PS-1の立派な育成に微力を尽くすことが入社の目的であった。 技術者集団の中に混じって自分なりに、信念を決めて我が道を進んで来たつもりである。

私はPS-1と取り組んで懸命な努力を続けている岩国部隊の意に沿うような飛行艇の完成を祈りながらも、心は岩国部隊搭乗員のもとに走らせ、いかにしてPS-1の有する能力を発揮するような運用をすべきかに意を注いでいるつもりである。

この約12年間を振り返って見ると、岩国部隊には約600日余り顔を出している。 実験だ、演習だ、故障発生だと聞けば常に部隊にあってその実情把握に努めてきた。 それが私の生甲斐なのである。

虫が知らすわけではないが、今までPS-1の事故発生時には不思議に私は現場に − 少なくとも岩国基地に − 居合わせていた。

“日辻顧問が来たから注意しろよ” という声を聞いたことはないが、中にはそう思う指揮官もいたかも知れない。

前述したが “人間電探” でソロモンの空襲を予知した頃が思い出される。 人間、真剣に物事に取り組んでいると、予感があるものだ。

フラップの損傷で3日間の洋上曳航、五号機の転覆、八号機の大事故等、いずれもその場におったのである。 身を千切られるような思いがした。

私はその時の赤裸々な所見を手記として纏めている。 事故調査に抵触しないよう発表を避けていたが、その中から教訓を引き出してもらうというよりも、海軍の伝統がまさに受け継がれていると私に信じさせた搭乗員達の立派な行動を知ってもらいたいと考え、ここに紹介する。

いずれも現職の人達なので手記中本名を避けることにしたのでご了承を得たい。


(1) 手記その1

   PS-1荒海曳航50時間の記録 (46年12月22日 記)

◎ 概 説

昭和46年12月8日、岩国のPS-1二号機が、土佐沖でソーナー試験のため着水した際、両舷の内フラップを損傷し飛行困難となり、護衛艦 「なつぐも」 に曳航されて風速30ノット以上の荒海上を、総航程240浬、3日2晩、50時間にわたり、まさに死闘を続けながら無事岩国に帰投したのである。

故障発生時、私は岩国におり、司令と共に指揮所に詰めきって、一部始終を見聞していた。 この難作業に敢然と取り組んだ海の男達の勇気と努力には、ただただ頭が下がるのみであった。

飛行艇乗りと、船乗りたちのガッチリ組んだスクラムが、50時間にわたる荒海との闘いに勝ち抜いたもので、数多くの教訓を与えたことは言うまでもない。


〇 飛行不能、曳航に決す

46年最後のソーナー試験の3日目、12月8日飛行隊長自ら二号機に搭乗し、0730 岩国を発進した。 早朝発進のため、クルーの中には朝食をとっていない者も数名いた。

足摺岬の140度71浬、土佐沖の遥か南方の試験海域に到着したのが 0930 であった。 風は330度12ノット、波高1.5米の波があった。

上空からの念入りな海面評価後、1019 正常な着水をした。 海は生きている。 潜在うねりがあったのだろう、接水後2回ジャンプした。

私は、丁度この時に岩空分遣隊の司令室に着いたばかりであった。 司令に挨拶をしていると、(1030頃) 突然電話が鳴った。

「 PS-1 二号機 1019 現場着水、内フラップに異常あり 」

という第一報であった。 続いて整備隊長から、「今すぐ通信室に行って異常の内容を調査します」 ということである。 司令もすぐ出ていった。

私は、どうも胸騒ぎがするので、直ちに甲南工場に異常発生の第一報を入れておいた。

内フラップの異常はすぐ分かった。 両方の内フラップとも作動筒のロッドが折れてフラップが動かず、種々検討の結果飛行は断念せざるを得ないとのことで、残燃料等調査したうえ、支援艦 「なつぐも」 による曳航が決定された。

司令から助言を希望されて、私も指揮所に入りこんだ。

現場では、曳航準備作業が開始されていた。 以前から会社で研究されていた一本曳きの理論が、いきなり本番で試されることになったわけである。

「なつぐも」 の艦尾から40ミリのナイロンロープを流し、これをPS-1の艇首曳航索に取り付けることになったが、前部ハッチから波が飛び込み、クルーはこの作業は初めてのことであり、危険も伴うため大分苦労したが、索長2百米として曳航準備を終了し、1317 いよいよ曳航が始まった。

「 足摺まで70浬、どこを見ても海ばかり、何も目に入らない。 曳航速度は5ノット。 いったいどうなることだろう、心配でたまらなかった。」

と、副操が後でしみじみと語ってくれた。

かくして240浬曳航への挑戦が始まったのである。
(続く)

2014年11月26日

大空への追想 (218)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊 (承前)

        その1 PS-1と七護隊 (承前)

私は艦には昔から強い方だと自信をもっていたのだが、日本一ゆれる七護隊では、さすがの私でも何回か酔っぱらったものだ。 中でも苦しかった体験が2回あった。


(1) 土佐沖の荒天

44年12月6日から12月13日までの8日間、呉を出港してから須崎を仮泊地として毎日土佐沖を行動した時のことである。 「いなづま」 の任務はPS-1のソーナー試験支援、古賀艦長は連日、風浪と闘いながら指定海面に出動した。

毎日6時間、この8日間において4日間PS-1lの外洋試験ができた。 他の4日間は全く風浪に翻弄されたのである。 仮泊地に入ってからでも寝ていて酔っぱらうほどであった。 特に12月7日、8日の二日間は最大波高7米、風速30ノット、平均波高5米のうねりにぶつかった。

山頂から谷間に突き落とされるようなもまれ方で、一番砲塔のバルクヘッドがへし曲がるくらい酷かった。 何回か吐きながら艦橋に這い上がっていった。 乗員もさすがに酔っていた。 古賀艦長はずっと艦橋を離れなかった。

海軍でよく教えられたことを思い出す。

“ 人間だからガブられれば酔っぱらうだろう。 いくら酔っぱらってもよい。 吐きながら仕事を続けられるようになれば、船乗りも一人前と言える。 とにかく仕事を続けることが大事なのだ。”

古賀艦長はまさにその人であったと思う。

任務が終わって呉へ帰る途中、1700頃 「いなづま」 は片舷機故障を起こした。 真っ暗な豊後水道で行き合い船の多い中を、片舷航行のまま、ぐんぐん乗り切ってゆく海の男達の心意気には本当に感心した。

この時化た土佐沖の行動を見て、私は飛行艇乗りの立場から、海上自衛隊艦船乗員のシーマンシップをいやというほど汲み取ることができたのである。


(2) 紀伊水道沖の大シケ

50年2月3日、やはり 「いなづま」 であるが艦長は替わっていた。 US-1第一回社内外洋試験の支援行動中のことである。

3日に呉を出港し、輯湊する内海航路を避け、土佐沖を経由し、紀伊水道南方の試験海面に向かうことになった。

2000頃、足摺岬にかかっていた。 それまで天気図には現れてなかったのに突如新たな低気圧の発生が受信された。 もはや内海に引き返すこともできず、航海のべテラン吉田隊司令は、低気圧に追いかけられる態勢のまま、土佐沖を東進することに決定された。

2200頃から、海は天気図どおり時化だした。 東の風32〜40ノット、最大瞬間風速60ノットが観測された。 海はますます荒れ出し怒涛化してきた。

夜間、艦首にくだける白波というものは実に恐ろしいものである。 波高平均5米、最大7米に達し艦の動揺が激しく、速力は実速5ノットという難航である。

ピッチングの酷い艦橋で、吉田司令から、

「 荒天航行の “こつ” は低速、風浪の方向をよく観察して、いかにこれにうまくのるかということである。」

と聞かされた。 艦内では立っておられなかった。 何かにつかまらない限りだめだ。 各所で食器類がガラガラと音を立てていた。 さすがの私も酔っぱらうどころか、危険をひしひしと身に感じてきた。 ピッチング時のビリビリする振動が気になった。

「 シケますねーッ、海上自衛隊に入って3回目の体験ですよ 」

吉田司令でも、こんな時化は珍しかったようだ。

4日0900室戸を通過し、紀伊水道に進入しようと試みたが、変針は危険、横波による最大傾斜左へ47度、ピッチング上下それぞれ15度、司令は変針を止め、風に立ててそのまま東進を命じた。

1430、潮ノ岬の15マイル手前で、やや風波の治まったのを見て一挙に左へ変針し、紀伊水道に入った。 追い風追いうねりに変わった。

紀伊水遺に入っても、波高は依然として5〜7米、風は南南東35〜40ノットもあるので、針路325度、速力15ノットで小松島避退を決意された。 最初はどうなるのかと心配していた。 このまま東進するのでは紀伊水道には入れまいと思っていたが、潮の岬付近での大変針、さすがはベテランの司令である。

私は実は室戸から先はベッドにもぐり込んだまま起きられなかったのである。 艦長自ら私のベッドに来られて、海上模様をよく教えてくれたうえ、PS-1の試験はどうするかと言われ、即座に、

「 試験は今日はとてもだめですから、どうぞ艦の保安を第一に行動して下さい 」

と答えたが、すっかりへたばってしまって、早く小松島に避退してもらいたいと願っていたのである。 酔っぱらいながら覗いた海の状況から想像したスケッチが下の図なのである。 記念に今まで保存していたのだが、これは決して大げさな図ではない。

218_01_s.jpg
(原著より  著者スケッチの荒天航行中の 「いなずま」 )

吉田司令がつくづく語ってくれた。

「 こんな大シケは本当に珍しいですよ。 ローリングは大きくても心配しませんが、古い艦なのでピッチング時の衝撃が少し心配でした。 まあ、本艦としては、今回が運航の限度だったでしょう。 飛行機から見れば、艦の行動が実にまどろっこしく感じられると思います。」

とんでもない。 こんな貴重な体験は一生涯ないだろう。 生きている海、怒涛との闘い、それは体で体験しない限り到底わからないことだ。


以上二つの貴重な体験で、私は海上で訓練に従事している護衛艦乗組員達の意気込みにすっかり惚れてしまった。

一度でよいからPS-1搭乗員は荒天航海を体験してもらいたい。 それは其の風浪というものを身をもって体験できるばかりではなく、航空部隊と協同作戦を続ける艦艇部隊の苦労を知るためにも大切である。

高空から眺める護衛艦隊の絵にかいたような姿を見ているだけでは、血の通った協同作戦はできないのではないか。

この2回の例を見ると、前者は8日間、後者は4日間の支援行動であったが、この間におけるPS-1の実験は前者が4日間、後者が2日間の計画である。 いずれも実験の本番は一日2時間にすぎない。 合計12時間の飛行実験に対し、これを支援する艦船側は12日間も大変な苦労をしているのである。 便乗して苦労を共にしてみると、感謝の念で一杯だった。

「 これが我々の任務です 」

と言って快く行動してくれる司令、艦長に対し、改めてこの紙上を借りて御礼を申し上げたい。
(続く)

2014年11月22日

大空への追想 (217)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊

私は海上自衛隊約15年間の勤務中、飛行機屋の関係で護衛艦に乗った機会はほんの数える回数しかない。 正直言って艦船乗組員の練度がどうあるのか等ということは話に聞く以外分からなかった。 そのために、海軍時代のあの逞しい乗員の姿だけが頭の中に浮かんでいた。

44年の秋、初めて海上自衛隊観艦式を見に行って艦上から航空部隊の編隊を仰ぎ見たのが、外から自分の姿を見たそもそもの始まりであった。

43年の年末に海上自衛隊をやめ、翌年4月新明和に入社してPS-1の育成に関係するようになってから今日まで、調べてみるとPS-1の洋上試験毎に護衛艦に便乗し、艦内宿泊をした日数は約2百日にも達している。 その中で七護隊 (現三十三護隊) が最も多かった。 現職中は航空部隊勤務、退職後は護衛隊勤務とでも言いたいくらいよく乗艦している。

この間多くの隊司令や艦長と起居を共にすることができたが、その責任感というか実に積極的に作業に率先して取り組んでいる姿が強く印象に残っている。 海軍以来久しぶりに艦内の家庭的雰囲気に浸ることができたと同時に、海の男達の逞しさを知って、まことに心強さを感じた次第である。

この間夜航海、荒天航行等あらゆる体験をすることができた。 PS-1のおかげで、春夏秋冬を通じ、艦船部隊から本当に有難い恩恵を蒙ったものと感謝している。


        その1 PS-1と七護隊

PS-1と第七護衛隊、それはまことに深い関係がある。 PS-1は七護隊によって育て上げられたと言っても過言ではないと思う。

初めてのソーナー試験において、故障のためソーナーケーブルを切断した時の 「いなづま」 古賀艦長 (現海幕総務部長) の指揮振りや、波高計の曳索をぺラに巻き込んだ時、艦長自ら海中に飛びこんでこの除去作業をやったこと等、海軍でも見られなかった陣頭指揮振りは今でも忘れられない。 (注)

そもそも最初の乗艦観測は39年1月、佐世保港外におけるPF 「くす」 によるものである。

またPS-1が誕生して最初の外洋試験が43年4月15日から4月26日にかけて紀伊水道で実施された時、私はまだ現職にあったが、支援艦は呉地隊のPF 「すぎ」 で、これに7日間乗り組んで適当な荒海を順々に求めながら、毎日6時間くらい行動したものだ。 今は亡き寺島艦長を始め、乗員一同の真剣な努力は今でも眼前に髣髴として浮かんでくる。

PS-1が岩国部隊に渡ってからはほとんどが七護隊のお世話になっている。 日本一よく揺れる艦だと聞かされていた。

七護隊では 「いなづま」 「いかづち」 のいずれか一艦に便乗した。 隊司令、艦長もそれぞれ四代の人に巡り合っている。

最初が44年4月、最後が52年2月、この間約8年間にわたり、少なくとも約30回 (一回4日〜10日) 100日以上は七護隊の艦内で過ごしてきた。

今の航空隊搭乗員でこれだけの護衛艦便乗の経験を持つ人はいないであろう。 “特に50歳以上の人で” と自慢している次第である。

これだけの乗艦体験は、PS-1はさておき、潮風に吹かれながら逞しく育っている海上自衛隊艦船乗組員の現状、司令、艦長の苦心、風波の実体等まことに得難い体験をさせてくれた。 飛行艇搭乗員には是非ともこの体験を踏んでもらいたいとつくづく感じた次第である。
(続く)

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(注) : 念のために申し上げますと、私達船乗りはこのようなことは絶対にするべきではないと教えられてきました。 1艦の艦長は、艦長としての職務を果たすべきであり、またこの様な行為は “陣頭指揮” とは言わないからです。


2014年11月18日

大空への追想 (216)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その7 実験支援部隊の苦労

試作機の飛行試験と言えば、一般には飛行状態のみに一般の注目が集まるのが常であるが、この陰に働いている支援部隊の努力と苦労を忘れてはならない。

試験機はその特性上、いついかなる故障が発生するか予測できない。 一日3時間程度の試験ではあるが、このために支援作業に従事する隊員の真剣な努力には本当に頭の下がる思いがする。

試験開始の2時間前から、天候偵察、海面状況調査、海面の清掃等に従事する艦艇、航空機の行動は、実験機以上に苦労が多い。

これだけの作業を完了して待機していても、実験機は故障のため引き返す場合がある。 したがってその日の実験は中止される。 このような状態が何日か続くと、いかに任務とはいうものの、がっかりしてしまうものだ。

艦船部隊の支援の苦労については次項で詳しく説明するとして、PX-S 一号機が42年10月3日に社内飛行試験を開始し、43年7月31日に部隊に引き渡されるまでの支援部隊の支援実績を、私の記録により参考までに挙げてみよう。

◇ 直接支援 〔 飛行試験55回 (43日間) 〕

     P2V-7 ・・・・・・ 延べ 45機 (五十一空)
     UF-2 ・・・・・・・ 延べ 11機 (村空)
     HSS1-N ・・・・ 延べ 51機 (松空)
     艦艇 ・・・・・・・・ 延べ 113隻 (呉地隊)

◇ 間接支援 〔 輸送 (人員、物件、資料) 〕

     P2V-7 ・・・・ 延べ 115機 (五十一空)
     S2F-1 ・・・・ 延べ 52機 (五十一空)

◇ UF-XS技術試験 (PX-Sの設計段階) 〔 飛行試験123回(123日) 〕

     UF-2 ・・・・・・・・・・ 延べ 182機 (村空)
     S-55、HSS-2 ・・ 延べ 41機 (鹿空基、松空)
     艦艇 ・・・・・・・・・・・ 延べ 149隻 (呉地隊、佐地隊)

以上を総合すると、PX-S 1機が完成するまでに、海上自衛隊支援部隊の示した実績は、航空機延べ497機、艦艇262隻という海自演習にも匹敵するような膨大な数に達したのである。 まさに自衛隊ならではなし得ない大作業であった。


(付記) : かくしてPX-Sの一号機は、関係各部の懸命な努力と真剣な支援を受けて誕生した。 昭和43年12月16日、試作を完了した一、二号機は新たにPS-1と命名され、新設された岩国航空分遣隊に迎え入れられた。

私もまた、PS-1の誕生と共に、43年12月末海上自衛隊を去った次第である。

私が海上自衛隊を去る時、かつての海幕長西村海将 (前出) から、次のような激励の辞をいただいたので披露しておきたい。(注)


飛行艇の開発は小生在職中を通じ、もっとも骨の折れた施策の一つであったと思う。 問題はむしろ今後にあると、かねてから予想している次第である。 すなわち製作についての案件は別としても、維持 (そのための設備、経費を含む)、基地の運営等について、水上機が宿命的に持つ困難さを、どのように克服するか、余程の努力が必要と思う。 しっかり基礎を築いて欲しい。

なお私の考え方の中で、飛行艇の開発は、表面に主張された効用性の外に、独自の考案の具体化、それに伴う独自の戦法の開発ということの持つ意義を高く評価し、併せて関係技術者達を鼓舞し、できるだけ優秀な技術幹部の要員を吸収することを、いわゆる百年の大計として重視した点が多分にあった次第であり、この種の考え方も、密かに、できるだけ活かしてほしいと思う。

ともあれ貴官の地道な努力が活かされ、使われ、堅実な基礎づくりから進展するよう祈念する。 努力されたい。 成功を祈る。

    この有難い激励の辞は、PS-1に事あるごとに読み返し肝に銘じているが、PS-1部隊はもちろんのこと、海上自衛隊、生産者側ともに、PS-1開発の出発点をふり返り、西村海将の言葉を熟読して欲しいと念願する次第である。

(続く)

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(注) : 著者が海上自衛隊を退職するに当たっての内容としては奇妙に思われるかもしれませんが、これは著者が昭和44年4月にPS-1のメーカーである (株)新明和工業の顧問として再就職することを見越してのものです。



2014年11月17日

大空への追想 (215)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その6 外洋運用試験 (承前)

(2) 波高観測

UF-XSの試験時は波高観測の基準となる信顔できる波高計はなかった。 せいぜい長崎造船所の持っていた艦船公試時に使用する波高計を利用したくらいである。 他は、目測が主であった。

その他にも艦側の考案した各種の測定法もあり、これらを総合して観測値を決めたのであるが、大きな誤りはなかったと信じている。

PX-Sの試験においては、波高に関する限り相当自信のある観測値が得られた。 技本が開発した通称金魚ブイ式波高計 (波の上下運動の加速度を二重積分することにより波高を求めるもの) を用いたが、これは信頼できる数値を示していた。

なおPX-S装備の電波式の波高計も、艦船で曳航する金魚ブイ式のものとほとんど数値は一致していた。 現在、PS-1は各機ごとに波高計に誤差があるらしいが、当時は一号機の1機が唯一の試験機なので比較のしようがなかった。

この二つの波高計の指度を基準にして考えると次のようなことが分かった。

 〇 艦船航海当直員の観測値は波高計よりもやや高い数値を示していた。
 〇 一般乗員は相当高い数値を示していた。

以上のように一般に人間の目測値は高い波はより高く、低い波はより低く観測する傾向がある。

このなかで同一海面で着水をトライしたUF-2パイロットの目測値は、ほぼ基準値に一致していた。

すなわちUF-2の着水可能な波高の限度は1.2米程度であり、接水でジャンプしたり、接水を思い止まる時の波高は大体1.5米であり、着水の限界にあるため、日頃の真剣な目測により1.5米付近の波高が目に焼きついているためであると思う。

また波高観測については次のような挿話があった。

艦船便乗中の会社の観測員が、食事の時間になっても上甲板を去りたがらない時が波高2米、同じく数名の船酔い者が出た時は波高3米である、と ・・・・ この数値は基準値と大体において合致していたことは面白い事象だった。


(3) 波高4米の海上で感激の握手

米海軍は当初からPX-Sの開発には異常なくらい興味をもって協力してくれていたが、中でもPX-Sの本命とも言うべき荒海試験には注目していた。

NASC (Naval Air Systems Command) (注) からロック技師 (故人) が、この試験視察のため派遣されていた。 氏は試験期間中、支援艦 「すぎ」 に乗艦し、熱心な観測を続けていた。 試験の成果は詳しくNASCに報告されるのである。

215_01_s.jpg
( 原著より  荒海試験中のPX-S )

試験最終日の43年4月26日、遂に最大波高4米が観測された。 横うねりであり、PX-Sの正横2百米に位置する 「すぎ」 の上甲板から見ると、完全に飛行艇はうねりの山に隠れてしまったのである。

幸いに波長が長かったので、私は試験最適と思っていたが、さすがのロックさんも不安に思ったか、いろいろと助言された。 パイロットからも

「 どんな着水になるか分からんが試してみる。 ヘリコプターを少し遠ざけて欲しい。」

と言って来た。

一同固唾を呑んで緊張しきって見守っていると、PX-Sはジャンプすることもなく安定した着水を見せた。

探照灯甲板から観測していたロックさんは、双限鏡をワシ掴みにしたまま、あの大きな体をゆさぶってラッタルを駆けおりて来た。 艦橋甲板にいた菊原博士の手を掴むと、「成功した、お目出とう」 と叫んだ。 まさに感激の一瞬であった。 そして、

「 この調子だと、パイロットの荒海運用に対する研究が更に進めば、波高5米の海面でも着水は可能となるだろう。」

とつけ加えていた。

とにかくUF-XSの試験報告に残しておいた外洋着水の課題は一応これで解決されたものと、私もほッと胸をなでおろしたものである。

現状と比較して、私のこの考えが甘かったのか否かは、岩国部隊の皆さんに判断していただきたい。
(続く)

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(注) : 現在の正式略語は NAVAIR  この Naval Air Systems Command は Naval Sea Systems Command (NAVSEA) と並んで、米海軍における巨大な技術研究機関の一つです。  このNAVAIRだけでも、その制度、規模、内容 (もちろん予算的にも) の全ての面において、陸・海・空3自衛隊を1つで担当する防衛省技術研究本部は足下にも及びません。


2014年11月12日

大空への追想 (214)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その6 外洋運用試験

PX-S社内飛行試験の焦点は、やはり外洋発着にあった。 これだけは、UF-XSによっては見届けることはできなかったのである。

航続力わずかに4時間たらずの試験機では、せいぜい佐世保港外平戸の沖くらいが試験海域とならざるを得なかった。

私は実験報告に次ぎのような意見を述べておいた。

「 UF-XSは、波高1.8米、風速30ノットまでの離着水実証はできたが、航続力の関係で、外洋における試験は実施できなかった。 希望としては、波高2.0米以上に挑み、風波とうねりの交差する海面での離着水を実験したかった。 この試験だけはPX-S 一号機に課せられた重要課題である。」

PX-Sの宿命ともいうべきこの試験は、波高3.0米に挑まなければならないのである。

43年4月15日から4月26日までの間に、条件に適した海域を5日間選出して荒海試験を実施したのである。 パイロットはもちろん、艦上の観測員も、まことに真剣そのもので、この試験終了までは安眠できなかったくらいであった。

5日間で延べ16回の離着水を実施したが、4段階に分け、波高1.5米から4.0米まで実証したのである。

パイロットにしてみれば、初日は小学校、次の日は中学校、次が高校、最終日は大学、毎回受験の連続のような緊張と努力に縛られたものである。

結果としては波高1.0米から4.0米、風速8ノットから30ノットまで、故障もなしに実証できたのである。 この事実は読者諸君にも評価してほしいと思っている。

私にとっても、大村空でのUF-XSの実験飛行において残されていた最大の課題がPX-Sによって実証されたことは、生涯のよき思い出として残ると思っている。


ここに荒海試験中のエピソードを少しあげてみたい。

(1) 外洋発着に関する当時の論議

PX-Sは波高3.0米、風速25ノットの海面において、正常な操作をする限り安心して離着水ができることを目標としていた。

少しくらいへマをやっても大きな損傷は起こらないのだ、というのが我々運用者の了解事項であり、波高というものについてはそれほど深い関心は持っていなかった。

技術者の言う波高3.0米というのは有義波高であり、最高4.0米、最低2.0米程度のものが含まれている数字なのである。

このような海面で正常な操作をするためには、パイロットの練度は最高のレベルが要求されるはずであり、海軍飛行実験部のテストパイロットは確かにそのような技量の持ち主でもあった。

(原注) 有義波高 : 風によって起こされる波はいわゆる不規則波であって、波高や周期にはかなり大きなばらつきがある。 このような水面の波高の代表値として用いられるのが有義波高であり、連続した例えば百個の渡のうち、高い方から上位三分の一の波高を平均したものである。

我々運用者側の意見は次ぎのようなものであった。

波高3.0米の海面において、どこに着水しようが心配のないPX-Sであって欲しい。 が海は生きている。 千変万化の波が起こる。 いかに高練度のパイロットといえども、そのような海面で技術者の希望するような完全な着水姿勢を維持するということは望むべくもないことである。

運用者に必要な波高は有義波高ではなく、着水しようとする海面内の最高波高である。 そのような高い波のある海面に安全に着水するためには、いかなる着水針路を選ぶべきか、波のいかなる面に接水すべきかがキーポイントである。

わざわざ波頭にぶっつけて破壊試験をやる者はいない。 しかし人間のやる操作である。 いかなる理由で最大波高にぶちあたってしまうかは分からない。 そのような場合でも、搭乗員の生命を守り、なんとか飛行機を助け得るだけの強度は必要である。

一方外洋着水の目的はソーナーオぺレーションにある。 ソーナーオペレーションができないような海面にあえて着水する必要はない。 ただ外洋着水の練度向上のためには積極的に荒海に挑む必要がある。 機体強度はこのような運用者の要求に応じ得るものでなければならない。

と、このような論議が盛んに行われていたのである。 (十数年前の話である)
(続く)


2014年11月10日

大空への追想 (213)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その5 PX-S飛行試験開始

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( 原著より  離水直前の試作一号機 )

あれやこれやと審査が繰り返された後、41年10月5日、遂に試作一号機の初飛行までどうにか漕ぎ着けることができた。

新明和が新型飛行艇の基礎実験を開始 (28年) してから14年目、海幕が開発に踏みきってから (34年) 8年目である。 (下表参照)

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戦争という環境下と、飛行機の腹わたの相違はあるが、二式大艇 (当時としては飛行艇の革命児である) が、海軍が要求してから4年目にハワイ攻撃を敢行していることを考えてみると、その間の差異をどう説明したらよいのか迷うのであるが、戦時と平時の差が大きく表れているように思われる。

とにかく世界に例を見ないSTOL型飛行艇の誕生であり、実験機としてのUF-XSにおいて大体の見当はついていたものの、PX-SとUF-XSでは、性能上大差があり、予測できない危険性がどこかに潜んでいるかも知れず、飛ぶまでは安心できなかった。

ただパイロットだけは、既にUF-XSによってSTOL性の体験を持っていたので、初飛行についてはさほど不安はなかった。

それでも初飛行までには、慎重な水上試験が相当期間繰り返されたのである。

この一号機においては危険な空中故障が一回発生している。 42年11月10日、高度8千フィートで試験中、機構上の不備により、下げていたフラップの右外側だけが上がってしまったため、右のロールに入り、バンク角約80度まで傾斜し、パイロットの懸命な操作により辛うじて水平に戻せたものの、この間に高度は6千フィートまで低下している。

もし高度2千フィートでこの故障が発生しておれば、PX-Sは、この世に出現できなかったであろう。

難産ながらPX-Sはとにかく誕生した。 この中にあって、我々の印象に残るのは、やはりUF-XSである。 STOL性というものに最初に挑んだことだけに、関係者の真剣な努力は結果のいかんにかかわらず、まことに貴重なものであったと信じている。
(続く)

2014年11月05日

大空への追想 (212)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その4 PX-S試作開始

PX-Sは、UF-XSの技術試験の結果を見つめながら基本設計、試作と段階ごとに慎重な審議を重ね、幾多の物議をかもしながら一歩一歩進めていったのである。 試作が決定したのは40年5月である。 まことに苦難の道を歩み続けたものである。

いつだったか西村海幕長 (友晴、兵59期) にお会いした時、

「 俺の白髪が増えたのは、PX-Sのためだよ。」

と笑っておられたが、まことにご苦労をおかけしたと思っている。

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( 原著より  西村元海上幕僚長 )

設計段階から試作に入ってゆくと、いよいよ飛行機の姿となってくるのだが、審査という問題がある。

旧海軍には航空技術廠があり、その中の飛行実験部担当主務部員が中心となって、航空本部、空技廠各部と連係をとりながら、試験機の育成に没頭していた。

実験部の部員は、実戦、艦隊勤務、教育部門を渡り歩いた経験豊富な搭乗員が集まっていたので、試作機の審査は空技廠の担当部員のみでも十分実施できた。 しかも迅速適切に処理されていた。

現在の自衛隊では、そうはいかない。 特に飛行艇に関しては戦後の体験者のみであり、PX-Sの審査を考えてみても、審査員それぞれが独自の指摘事項を示しており、30人集まれば30の問題点が生じ、それが審査の回数に比例して増えてゆく。

1970年型を産み出そうとする努力は大いに評価すべきであるが、残念ながら国産機開発の体験がないために審査の結果は、せっかくの斬新な考えに逆行して、現実に戻ってしまう。

現在でも巡り巡って設計の原点に舞い戻ったものが相当に見受けられる。 会社にしてみれば、審査ごとに技術変更が山積みとなるばかりで、工期の足を引っ張られるだけとなる。

航空開発官や五十一空司令が重量軽減を叫んだとて、審査員の指摘事項は重量増の一途を辿るのみである。 設計陣はもちろん重量のへそくりを隠してはいるものの、結局は全部吐き出しても間に合わないというのが偽らざる状況であった。

戦後10年の空白を持ち、国産機開発というものがほとんどなかった時に、STOL性という飛躍的な対潜飛行艇の誕生となったのだからやむを得なかったと思うが、開発技術に関しては、勉強の余地まことに大なるものがあることを痛感した。
(続く)

2014年11月02日

大空への追想 (211)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その3 UF-XSの飛行試験 (承前)

(3) 実験中の思い出 (承前)

c.故障発生

UF-XSの飛行試験は消極的と思われるくらい慎重を極めていたので、故障は少なかった。

P-2J試作機でも社内飛行時、あわや胴着という脚の故障が発生している。

UF-XSは、離水時機首下げの傾向があったため尾部にハイドロダンパーを装着した。 この水槽試験は米海軍で実施してくれた。

38年12月2日、水上高速で試験したところ、このダンパーが水中でフラッターを起こし、根元から切損してその破片が飛行艇を追尾し、あの高い水平尾翼をたたいて損傷を起こしたのである。

海軍実験部で、中攻による反跳爆弾の試験を実施した時、投下した爆弾が水面で一回反跳後、中攻を追いかけ、尾部をもぎとるという大事故を起こしたことを思い出さずにはおられなかった。

その後種々の対策を実施した結果、ハイドロダンパーは不要と決定したからよいものの、万一UF-XSも離水直後にダンパーの切損事故が発生していたならば、かつての中攻の二の舞を演じたはずである。 まことにぞーっとするような事故であった。


d.大村移動時の苦労

官の第一次試験は、故障即応や改修等を配慮し、甲南工場を基地として続行されたが、第二次試験以降は大村航空隊に移動して実施することになった。

この移動が簡単にはゆかなかった。 UF-2水陸両用機を保有する大村になってから、陸上からビーチングギヤを取り付けるような揚収はやっていないし、装置もなかった。

UF-XSは、UFの改造型とはいうものの、完全な水上専門機であるうえ、専用のビーチングギヤは一組しかなかったのである。

本当の実験機にすぎなかったので、航続力も4時間、VFRのみ可能、いわんや長時間の洋上係留に堪え得るかどうかも特に配慮はされていなかった。

甲南を出発して、大村に無事着けるか、故障により引き返すこともあり得るので、ビーチングギヤをいつ移動させるかが頭痛の種であった。

結局折り返し点を岩国とし、岩国通過後は大村直行ということになり、往航は大村からUF-2が天候偵察を兼ねて甲南往復をやり、UF-XSの露払いの役を務めた。

岩国を無事通過の報告を聞き、ビーチングギヤを積んだトラックが甲南を出発した。 UF-XSは整備隊の厳重な警戒のうちに一晩をスベリの先の洋上で過ごし、ビーチングギヤの到着を待って、無事大村に揚収された。

考えてみればまことにやっかいな代物であったが、PX-S開発を左右する貴重な実験機だけに、本機の取り扱いには随分と注意を払ったのである。
(続く)

2014年10月30日

大空への追想 (210)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その3 UF-XSの飛行試験 (承前)

(3) 実験中の思い出

いろいろな迂余曲折を経ながらも石橋をたたいて渡る慎重な実験方式は社内試験を含み5段階に分けて、37年12月から39年まで、約2年間にわたって実施された。

この間において、風洞、水槽試験では掴めなかったいろいろな貴重な事象が飛行試験で判明している。 エピソードも多い。 その中のいくつかをあげてみよう。

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( 原著より  水槽試験 )

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( 原著より  風洞試験 )


a.機力操縦の珍問答

前述のように、UF-XSは全機力操縦である。 従来の人力操縦と果たしてどう違うのが分からなかった。 そこで新明和の徳田技師の説明を受けた。

「 機力操縦は人力操縦に比べ、時間的な遅れがあると言うが、パイロットの体感としては具体的にどうなるのか。」

「 機構的には人力操縦+αの時間がかかる。 αは0.2秒くらいと思う。 具体的にパイロットの操作面で説明すると、ピッチングの修正に一例をとれば、人力では機首が上がるのを感じた時にスティックを抑え、機首の下がる時に引けばよい。 機力操縦になると、この操作では間に合わない。 機首が下がるからと言ってスティックを引いても機首はお構いなしに下がってゆく。 機首が下がり始める前にスティックを引かないといけない。」

徳田さんはサインカーブを描きながら、ゼスチャーよろしく説明してくれた。

とたんにパイロットから声あり。

「 ピッチングと操舵が一山遅れるようなそんな飛行機なんて恐しくて飛べない。」

徳田さんは目を丸くして声なし、ゼスチャーの手のやりどころに困っていた。

説明しろという方が無理だ。 やってみればすぐ分かった。 しかし人間の勘というものは、0.2秒という僅かな時間であっても、操作面では恐ろしく違うものであることを知った。


b.失速試験に異議あり

UF-XSの失速試験の時の話である。 当時海自としても最初の国産試作機であり、飛行実験開始に当たり各専門家の意見を求めるため、旧海軍航空本部員、空技廠実験部員等の大先輩達に甲南に集まってもらい、指導を乞うたことがある。

この大先輩の中に、二式大艇の初飛行を担当したテストパイロット伊東祐満氏 (海兵51期) がいた。 会社ではこの人を以後臨時顧問とし、種々の助言をしてもらったのであるが、この伊東氏が失速試験の実施について強硬に反対論を唱えた。

「 大型機の失速試験は海軍では、高空では実施しなかった。 特に試作機においては、どんな状態が起こるか分からない。 風洞試験や技術的計算がいかに進んだとは言え、確実には把握できない。 実際に失速に入ってしまったら回復できる保証は何もない。 二式大艇の失速試験は着水前高度1米で実施した。 落ちても痛くないからだ。」

冗談とも、忠告ともつかぬようなことを言い出した。 そこで私は現在の飛行学生操縦教育のシラバスから説きはじめ、失速試験の必要性を強調したが、がんとして受け入れてくれなかった。

やむを得ず一時保留しておいたが、伊東氏が所用で会社を留守にする時が来た。

「 STOL機が失速試験をやらずにどうなるんだ。 鬼の居ない間の洗濯だ。 思う存分やって来い。」

ということになり高空で予定どおりすませて知らん顔をしていた。 後日伊東氏にこれを話したところ、

「 俺の頭も古くなったのか。 無事済んだのだから仕方がない。」

と。

それにしても、旧海軍空技廠の飛行実験は、一見無暴に近いと思われるような実証試験をやった記憶があるが、反面、実に慎重を期していたことを知らされた気がする。
(続く)

2014年10月26日

大空への追想 (209)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その3 UF-XSの飛行試験 (承前)

(2) 険しかった新型機開発の道

陸上機主力の海上自衛隊にあってみれば、水上機に対する理解が意のごとく進まんのは無理もないことだが、STOL性飛行艇の開発、しかも苦しい予算の中で当時60億という大金をもぎとられるのだから抵抗のあるのは当然であったと思う。

さて実験に取り組む関係者にしてみれば、まことに難作業であったが、我々は大いなる誇りを感ずると共に、異常な情熱を燃やして努力を傾注したのである。

「 こんな飛行機が果たしてものになるのか 」
「 こんなものはやめて大きな予算を他の兵器開発に回せ 」
「 村空が固有任務を持ちながら、こんな大作業を抱えこむのは過酷だ 」

なりゆきを心配してくれての意見ではあろうが、村空司令である私のまわりには冷たい圧力がひしひしと迫って来ていたことは事実である。

時々考えこむことがあった。 − なぜ我々だけがこんな苦しい実験に取り組まねばならんのか − と、情熱の焔が消えかかることがしばしばあった。

しかし一方では力強い激励も受けていた。 38年と記憶しているが、UF-XSの官側第一期試験に入ったある日、当時の防衛副部長 (高橋 (定) 元海将) が大村にやってこられた。 私の心境を察してか、

「 PX-Sの開発は、中山海幕長が強い信念をもって進められているんだ。 誰が何と言おうと、君は一切の雑音に耳をかさず、この実験に専念せよ。 もし佐監が異論を唱えるならば、この実験作業に関する限り、海幕直轄にする用意がある。」

と言われた。 この激励の一言には百万人の応援を受けたような感激を覚えた。 再び情熱の焔に油を注いで奮闘したものだ。

また相生空団司令官 (村空は指揮下ではないが) が大村空を祝察し、UF-XSの離着水試験を親しく見学され、

「 いろいろな情報が入っているが、百聞一見にしかずだ。 一層努力して欲しい。」

と、激励された。 有難い一言であった。


甲南における第一期飛行試験終了の間際に、海原防衛局長が突然一人で甲南工場にやってこられた。 PX-Sの設計予算はついたものの、試作に移すか否かで再び問題化して来た時である。

“実験担当者の率直な意見を聞きたい” とのことで、一切の人をオフリミットし、私とパイロット2名だけで局長と対談した。 局長は、

「 今ここで結論は出せないが、第三者の意見は開きたくない。 君達だけの率直な答えが欲しい。」

と前置きしながら、約15〜16件の質問が出された。

腹を割っての話し合いであったが、私は次のような総合的な答えをしたと覚えている。

「 UF-XSでは満足な実験もできないが、STOL性による耐波性能の向上は顕著に実証できた。 設計と実験の結果はほとんど一致している。 特に極低速における安定性については、むしろ設計を上回っている。 不安は感じない。 ただし、機力操縦に関しては、ハード面で更に改善の余地がある。 荒海試験までにはまだ解決すべき諸問題が残っているが、成功する自信がついて来た。」

海幕も会社も、この局長と我々の対談には大分神経を尖らせていたようだが、私は正直に答えただけで、何のかけ引きもなかった。 おそらく局長も安心されたと思っている。

その晩局長と夕食を共にしたのであるが、局長は機嫌麗しく、あの長い長い “戦友” の軍歌を全部歌って聞かせてくれた。 古くさい歌を歌う人だなーと思ったりしたが、海原局長が “戦友” を歌う時は至極満足しておられる時だけだということも部員から聞かされた。
(続く)

2014年10月24日

大空への追想 (208)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その3 UF-XSの飛行試験

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( 原著より  昭和37年12月25日 水上旋回試験中のUF-XS )


(1) 初飛行成功

UF改造機 (UF-XS) はPX-Sの75パーセントの実物大実験機である。 STOL性のPX-S設計資料を得るための技術的試験を目的としたものである。

着々と改造は進んだが、初飛行開始まで最も苦労したのは機力操縦装置であった。 UF-1型機 (双発) の外側にSNJ用のエンジンを装備して四発とした他、高揚力、波消し、機力操縦等ほとんどがPX-Sと大差はなかった。

一方飛行実験担当は村空と決定され、37年8月、大村空甲南部隊 (16名) を編成し、副長を指揮官として甲南工場に長期出張 (約1年3か月) させた。

(原注) : 村空には新たに副長が配員された。

この間においてSTOL機に対する0からの勉強を開始したのである。 特にパイロット (小金三佐、朝倉一尉) は初体験であり、事前にヘリコプターの操縦まで講習させることにした。 全機力操縦と人力操縦の差、低速飛行ほど高出力を必要とするバックサイドパワーの使用等に並々ならぬ苦労を続けたものだ。

37年11月1日社内飛行開始のところ、工事が遅れ12月20日まで延期され、38年度PX-S開発予算査定最終日 (12月26日) にぎりぎりの日程まで追いつめられてしまった。

しかも12月20日、初の水上滑走試験において外側一番エンジンが焼損してしまった。 絶体絶命の境地とはあのことであろう。 予算第一次査定は既にアウト、26日の第二次査定までに飛行できない場合は、38年度PX-Sの予算はお流れとなる。

鮫島業務班長もジッとしておれず甲南に飛んで来た。 海幕、調本、技本、会社、村空の首脳陣が集まって超党派会議が始まった。

「 今からではエンジン交換は間に合わない。 UF-XSは内側の双発で飛べるのだから、このまま初飛行をやれ、ジャンプ程度でもよい。」

一同の意見をまとめて飛行担当の村空に圧力をかけた。

私は、あの時よくもがんばったものだと我ながら感心している。

「 本機は四発機である。 一発故障のまま飛ぶような邪道な飛行は断る。 直ちにエンジン交換を開始して欲しい。 26日までには間に合うはずである。 もし会社ができないというなら、村空整備隊を直ちに空輸してやって見せる。 予算獲得も大事だが、飛行の安全に更は大事である。」

私はがんとして断わった。 鮫島班長が私に同意してくれた。 この私の意見に拍手喝采を送った人がいた。 改善班長の山田二佐である。

彼はエンジン不調を知るや、直ちに川崎航空に指令してSNJのエンジンを手配し、急送依頼済みで、会議の議論が沸き立っている時、既にこのエンジンは東海道を甲南に向けてまっしぐらに走っていたのである。 いわば山田氏の機敏な処置がPX-Sの首を繋いだとも言い得るだろう。

会社はZ旗を職場に掲揚して、懸命な交換作業を開始した。 成せば成る。 会社は驚くべき能力を発揮し、2日間で試運転完了まで漕ぎ着けたのである。 25日飛行可能だと言う。

今だから言うが、機力操縦はこの段階ではなお不安があったため、人力操縦に切り換えていた。

12月25日の朝が来た。 「今日は是が非でも飛んでくれ、ジャンプでもよい」 こうなると一種の脅迫である。

「 8時間の水上滑走を終わるまでは絶対に飛ばん。」

私はがんとして受け付けなかった。

連日の徹夜作業で目を真っ赤にしている工員たちの疲れ切った姿を見ると、胸が一杯だった。 パイロットも私の苦しい気持ちは以心伝心的に汲んでいた。

「 司令、調子がよかったら全力滑走を試してみます。」

目と目が合図した。 全力滑走をやれば、浮き上がってしまうことは分かり切っていた。 それは、飛行を意味している。 私は黙認した。

いよいよ試験開始、万人注視の中で何回か高速滑走を試した。 観測船にいる私の耳に約束のボイスが飛び込んだ。

「 ただいまから全力滑走を試す。」

UF-XSの爆音が急に高まった。 走り出した。 “あッ” と思う瞬間、水を切った。 STOL機が日本で初めて空中に浮いた。

私は心臓が止まるような気がした。 高度30フィート、飛行時間18秒、安定した姿勢で完全に空中に浮いた。

やがてUF-XSは静かに水面に降りた。 正午のサイレンがボーッと鳴り響いたのが、今でも耳に残っている。

“初飛行成功”  陸に海に大歓声が湧き起こった。 海幕に電話が乱れ飛んだ。 その晩になって、嬉しいような悲しいような変な気持ちで祝電を読んだ。

「 初飛行おめでとう。 38年度PX-S予算成立 」

発信者は海幕航空機課長塚田 (正) 一佐だった。

かくしてUF-XSは37年12年25日1200 初飛行に成功したのである。

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( 原著より  昭和37年12月25日1200 UF-XS初飛行 離水の瞬間 )

(続く)

2014年10月21日

大空への追想 (207)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その2 PX-S開発と故人の面影 (承前)

もう一人熱血漢がいた。 それはやはり故人となられた薬師寺海将 (前出) である。

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( 原著より  一佐当時の故薬師寺氏 )

彼は防衛課勤務の時、新型飛行艇とソーナーの組み合わせによる対潜飛行艇の出現を強調した主役である。 幹校評論に論文まで発表して飛行艇の必要性を理路整然と述べていた。

PX-Sの基本設計が開始され、UF-XSの飛行試験が近づいた頃、海幕内では実験担当部隊の決定でもめていた。 空自の飛行実験隊、五十一空、大村空、三者のいずれにするかが論議をよんでいたのである。

私は村空以外にやるところなしとして、準備を進めていた。 “村空以外でやるのは、自転車屋が、自動車の修理をやるようなもの、俺以外誰が出来るというんだ” 三沢一佐の遺志を継いでいるだけに、この線だけは絶対譲らなかった。

海幕も既に同意をしていたのだが、完成の近づいた37年2月頃、予告もなく村空司令室のドアを叩いた者がいた。 入って来たのは五十一空司令の薬師寺一佐である。

“来たなーッ” と思い迎え入れると、「UF-XSの飛行試験は、五十一空が担当するのが筋であると思うので意見を聞きに来た」 と言うのである。 私は、はっきりと言っておいた。

「 あんたの気持ちはよく分かっている。 五十一空の任務から言っても、あんたの意見は正しい。 しかし五十一空には現在水上機を実験する体制は全くできてない。 どこがやるにしても、実験要員を大村空から引き抜く以外に方法はない。 そんなことをしていては期間に間に合わぬ。 五十一空が今やろうとするのは時機尚早である。

UF-XSの試験はPX-S開発を進める上において非常に重要であり、基礎固めになるものである。 この段階だけは村空がやる。 安心して任せて欲しい。 いずれPX-Sの本番に入ったら五十一空でやってもらうよう、その実現に俺も努力する。」

薬師寺司令は快く了解してくれた。 私が四空群司令、彼が空団幕僚長の時、新たに植草五十一空司令 (重信、兵69期、後に海将、大湊地方総監) のもとでPX-S 1号機の実験が開始されたのであるが、熱血漢薬師寺海将のPX-S開発に対する積極的な努力は、三沢さんの最後の叱咤激励の言葉と共に永久に忘れられないものとなっている。

PS-1部隊の各位、この両者の御霊に対しても、大いに努力しようではないか。
(続く)

2014年10月15日

大空への追想 (206)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第3話 PX-S誕生記 (承前)

        その2 PX-S開発と故人の面影

PX-Sの開発が机上で論議され始めた頃のことであるが、忘れられない人がいた。 故人となられた三沢 (裕) 一佐 (海兵六十二期) である。 海軍時代から “三沢の頑鉄” の異名で慕われていた。

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( 原著より  故三沢裕氏 )

研修所戦史室勤務から望まれて海上自衛隊に入隊されたのが32年頃だったと思う。 入隊時二佐であったが、“俺を一佐にするまで制服は着ない” と相変わらず “頑鉄” ぶりを発揮されていた。

34年大村航空隊司令となられて、飛行艇育成に努力されていた時、鹿屋航空隊司令以下首脳部4名を大村に呼び出された。 (私もその中の一人) 丁度海幕ではPX-S開発に踏み切った頃である。

三沢さんは海軍の艦隊搭載機 (水上機) の経験が極めて豊富な人で、右に出る人はいなかったと思う。

村空司令室に入った4名を前にして、“大型飛行艇不要論” を一席ぶったのである。

「 現在海幕は対潜作戦用に大型飛行艇を開発しようとしているが、あんなものは役立たん。 日本全周にわたり、各要所に槍先100浬くらいの固定ソーナーを備え、敵潜を捕捉した場合直ちに発進できる小型高速水上攻撃機を配備すればよい。 100浬以遠はP2V等に一任することだ。」

という論法で、大きな日本地図に赤丸でソーナー探知圏を記入し、熱っぽく説明を続けた。 “頑鉄” の名に相応しく、三沢さんはこの持論を最後まで曲げなかった。

36年の暮、海幕でPX-S及び大型ソーナーに関する第1回の説明会があり、その構想が発表された。 当時三沢一佐は教育二課長をされていたが、開口一番、

「 大村航空隊という唯一の水上機部隊が現存するのに、これになんらの相談もなく、防衛部の一部と技術屋が先走ってこんな大型飛行艇を開発しようとするのは暴挙に近い。」

と語勢鋭く発言し、更に

「 水上機の必要性はよく分かるが、兎飛びのようなソーナーオペレーションを太平洋の真ん中でやらせようというのは、特攻隊をつくるに等しいことだ。」

としてその用法に反対したのである。

しかし全般の情勢はPX-S開発の方向に進み、UF-XSの工事も進められていた。 反対はされたものの、三沢さんは村空に対しては、開発に対する体制作りをよく指導してくれた。

その後残念ながら病魔に冒され、遂に入院となったのだが、病床にあってもUF-XSの実験に取り組んだ村空に対しては絶えず気をつかっておられた。

丁度その頃、私が司令となって実験を担当したのであるが、実験の評価を誤らぬよう常に助言してくれたことを深く感謝している次第である。

39年10月、三沢さんの病重しとの知らせを受け、私は中央病院に飛んでいった。 当時UF-XSの実験結果は、予想を上回るくらい上々の出来であった。

既に三沢さんは面会謝絶となっていたが、奥さんの特別の計らいで面会することができた。 既に死期の迫っている三沢さんはすっかりやつれておられたが、私が入室するとベッドの上に無理に半身を起こされ、「UF-XSの実験はどうなっているか」 と質問された。

私は正直に状況を説明した。 すると、

「 ここまで進んだら、PX-Sの実現は決まったようなものだが、まだまだ遅くはない。 60億いう大金を生かすも捨てるも、大村空司令たる君の報告一つにかかっているんだ。 大勢に押し切られて評価を誤るようなことは絶対許されんぞ。 これだけは肝に銘じておけよ。」

と言われた。 私は、「その点は十分承知しております」 と、それだけしか答えられなかった。

その後、日ならずして39年10月28日遂に永眠されたのである。 私はもちろん、海幕にも、新明和にも、これが三沢さんの遺言となってしまったのである。

その後PX-Sの審査に立ち合うごとに、三沢さんの最後の言葉が身を引き締めるように心に甦ってきたものである。
(続く)