2015年03月16日

大空への追想 (244)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道 (承前)

〇 待望の潜水艦浮上す !!

昔見たことのあるフランス映画に、アフリカ外人部隊の激闘の場面があった。 塹壕の中で恐怖のあまり、気が狂った一人の兵士が、二本の木の枝を十字に結んで塹壕を飛び出した。 あッという間に敵弾に倒れてしまうシーンがあった。

メレヨン島では、ある兵隊が “内地へ帰るんだ” と叫んで海中に飛び込み、そのまま消え失せたことがある。

場面は達うにせよ、恐怖の結果起こった悲劇には共通したところがある。

梓隊のクルー達も、2か月近い自活で栄養失調に冒されていた。 精神状態も次第にメレヨン島守備隊員と同化してきていた。


20年5月7日の午後、一日千秋の思いで待ち焦がれていた潜水艦が予告もなく浮上したのである。 上陸してから57日目であった。

「 潜望鏡が見えたぞーッ 」

誰か分からないが海岸の方から気狂いじみた大声が聞こえた。 島内は一挙に殺気立った。

しかしただ一回だけ見えたというだけで、しばらく見えなかった。 ところが再度見えた。 間違いなく潜望鏡である。 島中が割れ返るような騒ぎとなった。

司令部の旗竿に軍艦旗が揚げられた。 各防空壕の上には黒山の人だかり、竹竿の先に日の丸をつけて振り出した。

その潜水艦は日没を待ってから完全に浮上した。 「伊三六九号」 (注) である。 茜色に染まる雲の下に、真っ黒な艦体をくっきりと浮上させ、軍艦旗をなびかせたその姿は、まさに神の国の使者のごとく頼もしい限りであった。

この時にも、米の飯が食べられると叫んでガバッと起き上がった病人が、そのままばったり倒れて死んでしまったという悲しい話があったことを後になって聞いた。 まことに哀れな物語りである。

潜水艦は、まず食糧、医療品等を陸揚げさせる。 島からは、比較的元気な者を作業員に選び、あるだけの大発が一斉に走り出していった。 主計科分隊はほとんどが作業隊として乗り込んでいった。

ところが主計科員の異様な服装に気がついた。 この暑さの中で上下が繋がった服を着て、腰を紐でしっかりと縛っているのである。

大発の第一便が帰った時に、この服装の意味が分かった。 腰紐から上半身の部分は臨時の米袋なのである。

作業中に、竹で作ったさしを肩に担いだ米袋に突き差し、流れおちる米を襟元から上半身の服の中に受け入れるのである。 彼らの食糧獲得の知恵には、ほとほと感心させられた。 こんな地獄の島では、弱肉強食のあることは事実なのである。

潜水艦からの食糧陸揚げはどんどん続けられた。 翌朝には潜航のまま出港せねばならない。 潮風に鍛えられ、敵弾下で戦い抜いて来た闘志満々の潜水艦乗員から見れば、栄養失調の極限に近いメレヨン島の兵隊の動きは、歯がゆくて仕方がなかったであろう。

司令部の命により梓隊員は総員乗艦することになった。 ボロボロの飛行服姿で、ふらつく足元をしっかりと踏みこたえながら、やっと艦上に這い上がると一人の士官が駆け寄って来た。

「 特攻隊員だなッ、12名とも異常がなければ報告はあとにして急いで艦内に入れ 」

一刻の休みもなかった。 物資陸揚げが終わると、潜水艦は即刻潜航を始め、暗闇の中を一路横須賀に向かったのである。

梓隊員の他に、設営隊にいた徴兵適齢期の軍属と自力歩行可能な患者併せて80名が、伊三六九号潜水艦の前部魚雷発射管室に収容されたのである。
(続く)

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(注) : この伊369潜による救出劇の話しは、当時同艦航海長であった泉五郎氏の回想が兵72期など3校合同のクラス会である 「なにわ会」 のサイト中に、次のURLで掲載されております。

併せてお読みいただくと、救出される側とする側の両方からの事情が判りますので、大変貴重なものと思います。

なお、本話でメレヨン島の名が出ましたところで、泉五郎氏のご親族であるHN 「六甲山住人」 氏より “これがあるよ” と当該記事をお知らせいただきました。

以前連載いたしました回想録 「聖市夜話」 の著者である森栄氏が兵72期の指導官であったことから、この関係で同会サイトは時々拝見しておりまして、今回伊369潜が出てきましたところで当該記事を一緒にご紹介しようと考えておりましたので、丁度良いタイミングでした。

こんなマイナーなブログでの連載ではありますが、気にかけていただく方がおられますことに感謝申し上げます。


2015年03月11日

大空への追想 (243)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道 (承前)

〇 蚊帳の中の盲腸手術

不時着後2週間くらいした時、クルーの一人が横腹を押さえて転げ回って苦しみ出した。 早速森軍医の診断を受けたところ、盲腸だからすぐ手術するということになった。

さて、この島で手術とは大変なことが起こったと心配した。 ただでさえ体力が衰弱しきっているのにどうなるだろうと案じていたが、軍医長はてきぱきと指示しながら、防空壕の中に蚊帳を吊り、自動車のバッテリーを取り外して来てライトを点け、軍医長自らの執刀で、看護長とともに手術を始めた。

暑い中である。 両者とも全身汗でぐっしょり、患者も麻酔薬等はないので歯をくいしばって必死に痛みを堪え、脂汗にまみれて頑張っていた。 顔面蒼白、苦しいだろうが頑張ってくれと祈りながら、湯を沸かすくらいが精々の手助けである。

手術は終わった。 軍医長は防空壕を出て強い日差しを受けながら、

「化膿が進んでおり、もう少しで手遅れだったが、間に合ってよかったよ。」

と深呼吸をしていた。 このときは軍医長が神様のように見えた。

なんの設備もない南海の島の防空壕の中で、盲腸手術が奇跡的に成功したのである。 患者の体力が心配だったが、戦友愛を発揮し、毎日交代で看病の結果、回復できたのである。


〇 盗ッ人の島、飢餓の極限

人間が食糧不足のため飢餓の極限状態におかれると、良心は麻痺し盗むことの善悪がぼやけてくる。 まことに恐ろしいことである。 メレヨン島は、飢餓の島であると同時に盗ッ人島の一面をもっていた。

各隊での精神教育も、空腹の前には空念仏でしかなく、食糧庫や耕作地の盗難事件は毎夜のごとく起こっていた。 各隊とも実弾を持った番兵が警戒していたが、毎夜どこかで2回くらいは銃声を聞いたものである。

盗みが見つかるとすごい私刑が行われ、多くの者が殺されたという噂さえ耳に入っていた。 なにしろ弱り切った身体であるから、数回の絶食や数時間木に縛りつけておかれるだけで簡単にこと切れてしまうのは明らかである。

ある朝、番兵が酷くしかられていた。 盗ッ人の警戒に当たっている番兵自身がその夜、畠のイモを盗んだのである。 イモといっても精々卵くらいの大きさにしか育たないのだが、栄養失調の番兵には、ポケットに隠し持ったイモが重すぎて歩けなくなり、遂に発見され捕らえられたのである。 全く笑えない喜劇である。

中には発見を恐れてイモを生のまま囓る奴がいた。 栄養失調の身体は悲しいかなこれを受けつけず、たちまち下痢を起こしてそのままあの世に直行してしまう者がいた。

島内では物資の闇取り引きも見うけられた。 たばこ教本でスイス銘柄の腕時計が交換されたり、米や缶詰の取り引きもあった。 地獄の沙汰も閻次第ということか? 交換や横流しのできる物資を持っている隊、たとえば医務科や主計科などは恵まれていたようだ。 そのうえ割り当てられている土地 (耕作地) の地質もその隊員の健康状態に大いに関係があった。

「 私の持ち物と貯金通帳を全部あげますから、何か缶詰を食べさせてください。 お願いです。」

死ぬ前に、このように頼まれて困った体験をほとんどの人がもっていた。

前年に潜水艦による食糧補給が行われたことがある。 その入港予定日を知らされるや、瀕死の重病人が入港まで生き永らえていたという。 人間の精神的生命力の強さには全く驚かされたが、恐らく今度の救助用潜水艦が入港した時も、同じような悲劇が、メレヨンでは起こっていたに違いない。 とても常識では考えられぬことである。

栄養失調が極限にくると、体にムクミが出てくる。 いわゆる飢餓浮腫が現れるのであるが、このムクミが引くと、三日後くらいに餓死するのである。

司令部には毎日何人かの死亡報告が来ていた。 多い時には全島で20名にも達することがあった。 報告書には 「脚気衝心で死亡」 と書かれるが、餓死のことである。

死体の処理は当然のことながら生きている戦友の仕事である。 生きているだけがやっとの体力では、この仕事も大変なことなのである。

棒のように細くやせ衰えた死体を毛布でくるみ、これを電線で縛り、タイヤのついてないリヤカーに乗せて、ゴットンゴットンと、でこぼこ道を運んでゆくのを毎日目送した。 これがメレヨン島で行われる精一杯の盛大な葬式なのである。

陸軍では穴を掘って土葬したが、海軍は本島から離れたサンゴ礁まで舟艇で運び水葬にしていた。 平和の現代に生きる人々には想像もつかぬ話だろうと思う。
(続く)

2015年03月10日

大空への追想 (242)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道 (承前)

〇 アメーバ赤痢と皮膚病

島内では水は不足しなかった。 どこでも2米くらい掘れば井戸が出来た。 しかしアメーバ菌が多く、煮沸して飲んでも、馴れないうちは酷い下痢を起こしたのである。

新参のクルー達は全員この洗礼を受けて苦しんだ。 粘液のような便が1日20〜30回も続き、普通でも弱り切っている体力に決定的な打撃を与え、重症となれば血便が出てきた。

これの特効薬は 「エメチン」 だが、この薬が不足していた。 下痢は長引き、苦しみぬいて一命を堕とす者が多かった。

原住民はわずかに百数十人が残っていたに過ぎず、これらはフラリス島に集められていたが、彼らも主食とするタロイモが不足していたためにやせ衰えてしまっていた。 しかし原住民達はアメーバ赤痢に罹った者はほとんどなかった。

素人考えであるが、極度の食糧難で体力が消耗し尽くしているため、身体が全く抵抗力を失ってしまうので、病気に冒されるものと思う。

加えて、南方潰瘍という皮膚病も、体力の消耗に起因しているのである。 足などがちょっと蚊や虫に刺され、それを掻くとそこから潰瘍が起きてくる。

わずかな傷でも蝿が群がってとまると決まってそのあとが化膿して深く穿れた傷口となり、骨まで達するほど悪化してなかなかよくならない。 幸いに全快しても皮膚に凹んだ傷跡が生じて消えなくなる。

カイセンもまた身体の抵抗力を失うことから発生する。 猛烈なインキンタムシとともに、これらの皮膚病はメレヨン島の将兵を悩ましたものである。


〇 島の日課と空襲

島での日課は農耕が主であり、空襲があれば防空蒙に潜り込むくらいである。 要するに自らの生命を保つことに精一杯の生活であった。

防空壕と言っても穴を掘れば水が出るような所なので、ドラム缶に土を詰めて、地面の上に作る形となり、湿気が多く極めて不健康なものであった。

敵の爆撃は非常にのんびりしたもので、内地空襲時の恐ろしさ等は全くなかった。 島の中央にある滑走路の真ん中に投下してゆくだけで、これを米機の爆撃訓練と称していた。 しかし小さな島だけに、どこに隠れようが、上空を見ると自分に命中するような恐怖感だけがあった。

梓隊員 (クルー) は、最初のうちは潜水艦がすぐ救助にくるものと信じていたので割合優遇されていたが、10日も過ぎた頃、司令部から 「梓隊員も畑を耕して、イモとカボチャを作れ」 というお達しが出た。

与えられた土地は畑なんてものではなかった。 島内には既に畑になりそうな所はすべて領有が決まっているので全然余地がなかった。 飛行場の端と雑草の生い茂った未開懇地の固い土地が与えられた。

ツルハシとスコップで毎日掘り起こしに精を出した。 1日に10坪くらいは開懇できたが、空腹と暑さで次第に速度が落ちて来た。 ボロボロの飛行服と破れた飛行靴での作業なので陸軍の兵隊さんから “ご苦労なことですなー” と同情されていた。

12名が自活するためには1000平方米以上の土地が必要であった。 いろいろな野菜の種子や苗を分けてくれたり、植え方を親切に教えてくれたが、番兵の立っていない所は、野菜ができてもすぐ盗まれてしまうため、舟底形の畑にして、木の枝で隠しておかないとだめだと言うのである。

だいたい種子を蒔いてから三か月くらいで食べられるというが、この開墾作業はまことに辛いものであった。

食糧難は急迫するばかりで、遂に米の配給は1日1人1合に減らされた。 雑炊にしてただ満腹感だけを求めていても何の効果もないことが分かったので、1合の米を少しの無駄もなく体内に吸収することが大切であると考えて、米は米だけを炊いて1回一口のご飯を食べる時に30回以上噛むことにした。 これは栄養の完全吸収と同時に、口内にできるだけ長く飯の感触を味わっておくためである。

今考えると常識では浮かんでもこないような話である。 戦後の食糧不足の状態などは、まだまだ贅沢な状態だったと痛感している。 雑炊を食べられるのは、まだ食物にゆとりのある証拠である。 メレヨンを思い出しては、つくづくそう感じている。
(続く)

2015年03月07日

大空への追想 (241)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道 (承前)

〇 危険な漁労

四面海に固まれ、どこを見ても海ばかりの島なのだから、魚を採って食べればよいではないかというのが人情であるが、道具がない。 弱り切った体では、魚の手づかみはまことに難しい仕事である。

クルー達も浜辺で魚を採る方法を指導された。 誰かの発案で、履いて来た木綿の靴下をほどき、二糎目ほどの網を編んだ。 長さ四米くらいの網が出来上がった。 これを使用し五人一組で小魚を採るのである。 馴れてくると、4糎から10糎くらいのベラに似た赤色の魚が十匹ほどは採れた。

中には爆弾を解体して火薬をとり出し、これを空缶に詰めこんで導火線を取り付け、ボロ布で火縄を作ってこれに火を点け、海中に投げこんで水中爆発をさせる者がいた。 しかし、これは極めて危険な方法であった。

水中にいる空腹の人間には、この爆発は物凄いショックを与え、おまけに魚は浮き上がらずに沈んでしまう。 結局は、水に潜って、死んだ魚を採ることになるので、栄養失調の人間には非常に堪える仕事であった。

一方なんとか魚は採れても、調味料の味噌、醤油がなかった。 焼くにしても薪がない。 海上に流木を見つけると、ひねもすその流木から目を放さず、ただじーつと我慢の人として待っている。 そして区分された受持ちの砂浜に、流木が流れつくように祈っているのである。 普通の人には説明しても納得できないような話だが、これが地獄島の実体なのである。

運よく流木が手に入ると、早速薪を作り、海水を煮つめて黒い塩を作る。 この方法は手間がかかるので直接海水で煮ることが多かった。

草や葉や、魚の海水煮がどんなものであったかはご想像に任せるが、経験者は今だに “メレヨンスープ” と称して思い出すのも嫌な味だったと言っている。


〇 ゲテ肉の絶品

この島にも動物性蛋白質はまだ少し残っていた。 それはヤドカリである。

朝暗いうちに起きて浜辺にゆく。 ヤドカリは明るくなると一斉に砂浜をおりて海に入ってしまうので、これを逃げないうちに捕らえるのである。

描らえたヤドカリを鉄板の上に載せて、下から火を焚くと、穀の中から飛び出して焼身自殺をする。 これは磯の香りが漂って、歯ざわりもカリカリとして塩味もあるが、決して美味いものではない。 普通ヤドカリは可愛いものだが、飢餓の前には貴重な蛋白源として人間の犠牲になってしまう。

最もすばらしい動物性蛋白源で、しかも脂肪の多いのは、トカゲとヤシガニである。 しかしクルー達が上陸した頃には、ほとんど採り尽くされてしまって、ごく稀に捕まえることができたに過ぎなかった。 焼き払われた平坦な島では、動物の棲息も難しく、更に人間に見つかれば捕らえられてしまうのだから無理もない。

ある日、30糎くらいのトカゲを一匹発見した。 トカゲは焼け残った木に駆け上ってしまった。 兵隊達は、その木の下で辛棒強く交代で見張りを続けていた。

遂に捕らえてその晩料理され、クルーの食卓にも供された。 脂肪が多くたいへん美味かったが、トカゲは離島するまでこれが最後であった。

ヤシガニは、ドラム缶を半分に切ったものを土中に埋め、夕方その中に餌を入れておくと、夜中にこれを食いに来て中に入って出られなくなり (つまり蟻地獄の原理)、強い爪でガリガリやるのが響き渡るので、すぐ気づいて捕らえることができた。

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( 原著より )

大きいのは1キロ程もある。 これも週に一匹くらいがせいぜいであった。

最大の珍味は鼠である。 実に美味しいものである。 今でも覚えているが、上陸後5日目の夕食の時に出されたスマシ汁に珍しく脂が浮いており、小指の先程の肉片がいくつか入っていた。 主計科の兵曹が、

「 今日畠の中で捕らえた鳥の肉だ。 搭乗員に特別ご馳走する。 美味いからどうぞ。」

と言う。 確かに美味い。 空腹のため食欲の本能が働くからだ。 あとでその兵曹が言った。

「 あの肉は鼠だった。 美味かったろう。 体力のあるうちに、食べられるものは何でも食っておくことが飢餓と戦う唯一の方法である。」

それからは率先して鼠つりのワナを仕掛けてみた。 しかし、58日間の島内生活中鼠は遂に2回しか食膳には載らなかった。

最後に実に驚いたことがある。 ある日畠の中を歩いていると、人通りのない草むらの中で、痩せ衰えた二人の兵隊が人目につかないように屈み込んで、両手に一杯にした米粒くらいのものを鉄板の上に拡げて乾燥させていた。 何だろうと思って聞いてみると、二人は迷惑そうな顔をして、いかにも見られたくない素振りをしていた。

そっと覗いて見てビックリした。 紛れもない雪隠虫 (便所に生ずるウジ虫) である。 要するにあのウジ虫を集め、これを海水で洗って乾燥させて食べるのである。

余程のことには驚かない長峯上飛曹も、これだけには度肝を抜かれてしまった。 この二人、ボロボロになったゲートルのすき間から見える足の肉が傷になって化膿しており、そこに蝿が集りウジが湧いていたのである。

便所のウジではなかったが、どちらにしても同じである。 この二人、果たして無事内地に帰還したであろうか、まことに胸が痛んで仕方がなかった。

三番機の機長小森宮氏は次ぎのように話してくれた。

「 自分のことで恐縮だが、メレヨン島の飢餓のショックと、敗戦の体験から、食生活と人生観がすっかり変わってしまった。 あれから35年を経た現在でも、美味しい食事を味わう時、ふとメレヨン島の鼠の肉の旨さを思い出すのである。

それを思い出さない時の方が少ないんだから悲しくなる。 それに連なって、島でのことが次から次へと思い出されるのである。 人生観も大きく変わった。 戦争の虚しさ、馬鹿らしさ、そして大いなる苦しみを子孫にだけは決して味わわせたくないと一途に願っている。」

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( 原著より  小森宮少尉 )

メレヨン島での食生活、それは普通人では信ずることもできず、想像することもできない異常なものだったのである。
(続く)

2015年03月05日

大空への追想 (240)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道 (承前)

〇 島内の食べもの

メレヨン島で一年以上前から耐乏生活を強いられている将兵の健康状況はただならぬものが感じられた。

まず食料が極度に不足していて、全員が常時空腹をかかえていた。 栄養失調の慢性飢餓状態であったことに大きなショックを受けたものである。

つい数日前までは、好き嫌いは別とし食べ物に何一つ不自由を感ずることもなく、空気や水と同様に考えられる生活環境にいたクルー達が、わずか十数時間の飛行後に、想像もしなかった飢餓の世界に飛び込んだのであるから、その強烈なコントラストには全く面くらったのである。

空襲があっても高射砲陣地は何の動きもなかったので不思議に思っていると、高射砲の弾丸を一人で持てる者が全くいないためであることが分かった。

無線通信も時折トラック島と連絡するだけであった。 既にこの島では全員が戦闘し得る体力がないことを知り、着水時いくら連絡しても応答し得なかった理由も納得できた。

主食の米は一日一人2百グラム (コップ一杯の米) である。 これを三食に分けて食べていられるところは恵まれた方であった。 ほとんどの給食状況は米が浮いているような雑炊と芋の葉、カボチャの葉と茎、それに花までも食べた。

朝顔の葉、雑草、木の実など口に入るものは何でも食べていた。 カボチャや芋の葉はまことに小さく、収穫も限られており、めったに口にすることのできない貴重品であった。

この島には主な環礁が9つくらいあり、いずれも平坦なサンゴ礁なので地質が悪く、農家出身兵が、懸命に努力しても収穫は少なかった。

このような南海の孤島に来ても、農家出身兵は自給自足を考えて、芋、野菜の種子を携行していたのには全く頭の下がる思いがした。

この島に日本軍が上陸した時には、食糧や資材は5か年分以上を揚陸したのであるが、空襲や、艦砲射撃によりほとんどが焼失してしまっていた。 被害を免れたものの中には、歯磨粉のような食べられない梱包のみが沢山残ったという皮肉な巡り合わせもあった。

南方特有の椰子、パン、パパイヤ等食糧になるものは、爆撃によりすべて焼野が原となって、食べられないのみかその木さえ見ることができなかった。 また目の届くところ、手の届くところにある食べられそうな草木は全く取り尽くされていた。

それは想像以上のもので、食べものがない恐ろしさは、この島の新参者であるクルー達でもすぐ了解できた。

最初はとても喉も通らなかった異様なものでも、やがてそれに馴染むようになり、みじめな空腹感が四六時中自分の身を悩まし始めたのである。 寝れば寝たで食べ物の夢を見る。 まことに餓鬼道の亡者になり下がってしまったのである。

主島である 「フララップ」 以外の島でわずかに採れた椰子の実は、海軍で医務科が統制し、ブドー糖の代用品として注射液に使われた。

今の常識ではとても考えられないことだが、クルー達全員がアメーバ赤痢にやられ衰弱がひどくなった時、森 (万寿夫) 軍医中尉の特別の許可でこの代用薬を注射してもらったが、いまだに感謝の念で一杯である。
(続く)

2015年03月04日

大空への追想 (239)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道 (承前)

〇 地獄の島メレヨン

メレヨン島 (注) は西カロリン諸島ヤップ島の東方約300浬にある。 島といってもいくつかのサンゴ礁からなる環礁である。

大小15あまりの群島からなり、最大の島でも周囲5キロの小島である。 全島が偏平で、高さ0.5米から5.0米にすぎない。

19年2月、海軍設営隊が一本の滑走路をつくり、海軍四十四警備隊が支援のため上陸し、19年4月12日には陸軍第五十独立混成旅団が上陸している。

“あ” 号作戦の頃、米機動部隊の空襲を受け大損害を被り、ほとんど基地機能を失っていた。 守備隊員は防空壕生活をしており、敵の上陸を受ければひとたまりもない状況であった。

米軍側は戦略上何の価値も認めていなかったが、ウルシーが米軍の一大前進根拠地になったため、格好の爆撃訓練標的として、はなはだ迷惑なことだが定期的に爆撃を受けていたのである。

米軍の太平洋飛び石作戦が激しくなるにつれて、メレヨン島の我が将兵は撤退の途も閉ざされ、全くの島流し同然の形になってしまった。

艦砲射撃を受けて、すべての施設が破壊され、備蓄していた食糧も、地下の一部を除いてすべて焼失し、極度の飢餓に晒されていた。

島全体が前述のように平担のため、2米も掘ればたちまち水が出た。 防空壕は地上に盛り土をし、その上に、カボチャの葉や、雑草を茂らせて隠蔽していた。

盛り土といってもドラム缶に土を入れたものに過ぎない。このような壕が約4千坪ごとに区切られた中に1〜2か所つくられていた。 壕の頑丈さの程度が、そこに住む兵士達の健康状態を現していた。

太平洋戦史にも稀に見る飢餓の島として残るメレヨン島は、生活の極限状態を生き抜いた悲しくもまた貴重な体験の島として有名である。

昭和41年4月、全国メレヨン会員一同によって建てられた慰霊碑に次のような一節が刻まれている。

「 寧日ない米軍機の爆撃にさらされ、戦況の悪化に伴い、補給は全く途絶え孤立無援となった。

現地自活のための懸命な農耕も適せず、不備な漁具による漁獲は少なく、食糧は日を迫って窮乏し、一時は主食一日一人百グラムの給食となって生命維持の限界を遥かに割り、全島に鼠やトカゲ類の影を見ない状態になってしまったのである。

あまつさえ熱病、アメーバ赤痢等の風土病が蔓延し、医薬品は欠乏して、斃れるもの続出し、総員6千8百名のうち、爆撃による戦死者を含め、実に5千2百名を失うに至ったのである。」

(原注) : 死亡者の大半は飢餓と病魔によるものである。
(続く)

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(注) : メレヨン島は現在では Woleai Island (Atoll)と言われるのが一般的で、本項でも出てくるフララップ島 (Falalap) が最大のものです。

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( 原著より  メレヨン島略図 )

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( 元画像 : Google Earth より )

このフララップ島には旧海軍の飛行場があり、19年の建設当初は実際に使われていましたが、その後はここに出てくるように米軍の砲爆撃に晒され放置状態になりました。

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( 元画像 : Google Earth より )

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( 元画像 : 1944年撮影の米軍記録写真より )

2015年02月28日

大空への追想 (238)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道 (承前)

〇 愛機処分

クルー達は特攻任務を終了した翌日から、飢餓とはどういうものなのかを強烈に思い知らされたのである。

文字どおり天から降って来たような、しかもメレヨンにおいては全く所属部隊もない搭乗員なのである。 この地獄の島では、所在するどの部隊にとっても迷惑千万の穀つぶしの居候でしかなく、明らかに招かれざる客であった。

それでも、海軍部隊指揮官宮田大佐や、設営隊長、陸軍旅団長北村少将等が、上陸第一歩のクルー達に対し、

「 神風特別攻撃隊としてまことに御苦労だった 」

と慰めてくれた。

その夜は主計科分隊の一隅に宿舎を与えられた。 宿舎といっても、平地を少し掘り下げた防空壕である。 綿のように疲れ果てているクルー達は、飛行服を脱ぎすてるなり、緊張と興奮が安堵に変わり、疲労が一挙に押し寄せて来て、翌朝日の高く上がるまで死んだように熟睡した。

目を射るような南国の強い日光を受けてくらくらしたが、昨日までの死に対する苦闘から解放された感激を覚えたのである。

司令部の話では、毎日1100頃空襲が定期的にあるので、飛行艇をあのまま係留しておくと、基地使用と誤認され、敵の上陸の可能性がある。 もし、他基地に移動できないのならば撃沈しなければならないということになった。

もっともなことである。 クルー達はただ潜水艦を待つだけのこと、早速必要な武器類を除去し、守備隊の射撃訓練にもなるので、敵機の来る前に銃撃するように依頼した。

直ちに銃撃が行われたが、射ちどころが悪いのでこの大艇は一向に燃えあがらなかった。 胴体を真横に見せているが、その姿は主人との別離の情堪えがたく、あくまで頑張っているようにさえ感じとれた。

昨日まで身に重傷を負いながら、特攻作戦に最後まで頑張ってくれたこの愛機を撃沈するのは、搭乗員にとってはまことに辛いことであった。 早く消え去って欲しかった。

射手に対して水際を狙うよう指示した。 曳光弾が吸い込まれるように命中したとたん、黒煙が吹き出し、真っ赤な炎に包まれて愛機は沈下し始めた。

各窓から一斉に火柱を上げながら、二式大艇は母国を遠く離れたメレヨンの海に大往生を遂げたのである。 見つめるクルー達は不動の姿勢で挙手の礼をもって愛機の最後をいつまでも見送っていた。

溢れ落ちる涙を拭おうともせず立ちつくした。 わずか15分くらいの時間ではあったが、それは長い長い別離の時であった。

(原注) : 戦後のメレヨン島遺骨収集団は現地人の案内で沈没地点に至り、水深7〜8米の海底にこの飛行艇の姿を目撃している。


(続く)

2015年02月25日

大空への追想 (237)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道

既述の 「神風特別攻撃隊梓隊の出陣」 (注 : 第4章第9話) に関連するが、特攻誘導隊三番機 (機長小森宮少尉、主操長峯上飛曹) は結局、単機となって銀河攻撃隊を誘導し、ウルシー突入前に攻撃隊と別れ (計画どおり)、メレヨン島に着水して、機体を処分したのち同島に上陸し、守備隊と共に、58日間に及ぶ棲愴な飢餓の生活を続け、伊三六九号潜水艦に便乗して、奇跡的に日本本土に生還することができたのである。

医学の極限をゆくとも思われるような島での飢餓の生活は、サバイバル教育上の教訓などというには余りにも厳しいものであったと思われるが、参考までにここに記載することにした。

内容については、三番機機長小森官正悳氏 (13期予備学生、当時少尉) の体験記と、長峯良斉著 「死にゆく二十歳の真情」 (読売新聞社刊) に書かれた記録の一部を加えて、まとめたものである。

(原注) : 海上自衛隊に対する教育の参考資料になればということで、特に両氏の了解を得ている。


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( 原著より  メレヨン島の位置関係 )


〇 メレヨン島に着水

梓特攻隊の誘導機は、ヤップ島確認後攻撃隊と分離し、航続力が許せばトラック島に帰投するが、燃料乏しければメレヨン島に不時着し、待機中の潜水艦に救助される計画になっていた。

実際にはこの潜水艦がメレヨン島到着前に撃沈されてしまったため、誘導機の二式大艇 (小森宮機) はメレヨン島で、いつ来るか分からぬ次の潜水艦を待たねばならないことになってしまったのである。

20年3月11日、特攻誘導機三番機は鹿児島を離水した後、南大東島上空からヤップ島上空まで、単機 (二番幾はエンジン不調で鹿児島発進が遅れたため、誘導は三番機一機になってしまった) で銀河隊を誘導し、1840、夕闇迫るヤップ島上空で分離後メレヨン島に針路を向けた。

その直後一番エンジン (右内側) のシリンダーが爆発を起こした。 制限を超えて高速運転を続けてきたためである。 考えてみれば、ヤップ島上空までよくこのエンジンが動いてくれたと思う。 お陰で任務を完全に果たすことができたのである。

エンジンに感謝しながら、三発飛行のまま見たこともないメレヨン島を目指し先を急いだのである。 約2時間後メレヨン島らしい島影を発見した。 燃料残量は2時間足らず、トラック島までの望みは完全に絶たれてしまった。

五航艦司令部は正直のところ、メレヨン島の状況を十分は接しておらず、梓特攻計画は軍機であり、メレヨン島守備隊等には全く伏せられていた。

救助に派遣された潜水艦にその後の一切を任せてあったので、これが撃沈されてしまったため、メレヨン島ではこの日二式大艇が不時着するなどとは夢にも知らなかったのである。

1500浬の特攻誘導に死力を尽くし、辛うじてたどりついたメレヨン島、どこに着水してよいかも分からなかったのである。

五航艦司令部も、ウルシー突入の攻撃隊のみに全神経を集中する余り、任務終了後の二式大艇にまで十分な配慮が及ばなかったと思う。 やり放された観なきにしもあらず。

三番機は計画電波をもって盛んにメレヨンを呼び出したが全く応答なし (実はこの電波は既に撃沈された救難任務の潜水艦との間に設定されていたものなのである)。

この電波を鹿屋基地がキャッチした。 司令部は窮余の策として、「こちらメレヨン。メレヨンに不時着せよ」 と指示したのであろう。

三番機は、やむを得ず自ら腹を決め、運を天に任せて湾内とおぼしき海面に決死的夜間着水を敢行した。 見事に成功したものの、着水を指示しておきながらメレヨン基地は完全に灯火管制をしていた。

実は、メレヨン島では何も知らなかったのである。 不意に着水した大艇を見て敵味方の識別もつかなかったのである。 大艇としては、銃撃を受けなかったのがせめてもの幸運だった。

「 特攻とは死ぬことなり。 大艇に対しても、誘導のうえ、戦果を確認報告した後、残敵に自らも突入させてほしい。」

と私は強硬に申し入れたのだが、五航艦司令部はこれを承認しなかったのである。 それならば、任務終了後この大艇を収容する方策について責任ある処置を講じてくれるべきであったと思う。 小森宮機にはまことに申し訳ない次第である。

鹿児島出撃後14時間、陸岸に接近してやっと投錨し、地上の人間としてこの場は生還することができたのである。

しかし、ここがメレヨン島であるという確証は何一つないのである。 オルジスで信号を繰り返しているうちに、友軍機と確認できたのか、一隻の小舟が近づいて来た。

「 おーい、ここはメレヨンか 」

と怒鳴ると、

「 おーい 」

と返事が来た。 やはり日本人だ、日本軍のいるメレヨン島だという実感が初めてわいてきた。 しかし、陸上とは全く連絡はとれなかった。

大艇に横付けした小舟の主はただ一人、この人の手を握ってぐっと引きよせると、彼のからだがフワリと空中に浮いてしまった。 何と軽い人間なんだろう。 懐中電灯で照らして見て驚いた。 この人間の頻はすっかりおち、痩せこけて、筋骨が異常に突出していたのである。

海軍の水兵であるこの異常人物が、搭乗員を見つめながら、

「 食糧を持って来ましたか、この島は食糧のない地獄島です。」

と一言いったことが今でもはっきりとクルー達の記憶に残っている。
(続く)


2015年02月23日

大空への追想 (236)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず (承前)

〇 あとがき

古賀長官の遭難については、戦後いろいろとまことしやかな記事が書かれているが、参謀長と長官をとり違えて、長官は捕虜になって自刃した等という勝手な記事も見たことがある。

最近では吉村昭氏の 「海軍乙事件」 が、最も真相に近いものと思っている。

長官機については、パラオ離水と、当日の夜半三番機が長官機の電波をキャッチした事実以外、全く情報は得られていないのである。

同一行動をとった二番機の経過と、生存者の証言から、長官機の遭難は確実と推定されているに過ぎない。

作戦部隊の最高指揮官である連合艦隊司令長官の遭難なればこそ問題を重視されているが、これを単なる二式大艇の夜間移動としてとりあげてみれば、運用上多くの不備を発見できる。

準備の点で十分な燃料を搭載しなかったこと、天候を無視したこと等、まことに無謀な行動であり、指揮官は厳罰に値するものがある。

この手記で私は “連合艦隊司令部という重圧” なる言葉を用いたが、当時我々は、連合艦隊司令部に対しては絶対の信頼をもっていた。 古賀長官が同乗されるということは、機長としても誇りであると同時に、極めて重責を感ずる次第である。

それだけに、万遺憾なきを期さねばならないが、若い機長にとっては、精神的にも姿なき重圧を感じたことであろう。

現在自衛艦隊司令官が搭乗されるからといって、機長としての職責まで見失うほど圧力を感ずる搭乗員は恐らくないであろう。 まさに民主的軍隊の有難さを感ずる次第である。

当時この空輸にあたった搭乗員達は各隊の最高レベルの実力を持っていた連中であり、二式大艇の能力から見ても、相当の悪天候にも十分耐え得るものであったことはいうまでもない。

電波航法等は当時はない。 ただ、二式大艇はレーダーを持っていたが、低気圧の中では役にも立たなかったと思う。 しかし、高々度ならば天測航法には自信があった。

直線で5百浬の飛行であり、巡航145ノットの大艇が、わずか4時間たらずの燃料で悪天候下の夜間移動に踏み切ったということは何と言っても非常識である。

尻に火のついたような混乱状態の中で、冷静さを失った参謀達のごり押しの結果に他ならない。 パラオ島の空襲は31日1400までで終わり、上陸も夜間爆撃もなかったのである。

テニアン出発時の四艦隊松浦参謀の指示したとおり行動しておれば、こんな悲劇は起こらなかったのである。 私は今日でもそれが残念でならない。

3月31日、燃料搭載を中止すると決めた時に古賀長官の運命は既に決まっていたといえる。

福留中将等が救出されたセブ島は、当時は平穏であったが、その後戦局の急迫と共に激戦場と化し、20年3月26日にはアーノルド少将の率いるアメリカル師団が上陸したのである。

運命とは言うものの余りにも悲しく、またあきらめきれぬ遭難である。

諸君、この手記から “いかなる理由があろうと、飛行保安の責任は、機長の双肩にかかっている” ということを汲みとってほしい。
(続く)

2015年02月21日

大空への追想 (235)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず (承前)

〇 特記事項

人事上の処理はけりがついたが、問題は重要書類に関する件である。

“Z” 作戦計画に関してはいろいろの話題がある。 戦時中こんな話は全く耳にしなかったのだが、「海軍乙事件」 を読んでみると、実に興味深いことが起こっていたことが分かる。

福留参謀長と山本作戦参謀は、漁船に救助される時に万一を予想して、携行していた作戦計画書をケースに入れたまま海中に投棄した。

その当時、もしゲリラがこれを入手しても米軍に渡るような心配はない、と軍令部も判断していたらしい。 その後の作戦計画も暗号書も変更されていなかった。

戦後の調査によると、実際にはこれら重要書類はゲリラから米潜水艦に渡され、順を迫って米海軍情報部に送られていたことが判明した。

米軍は諸手をあげて万歳を叫んだ。 原本をすべて複写し、日本に感づかれぬよう、そして日本海軍が “Z” 計画を実行してくれることを祈って、原本は再びケースに戻し、ご丁寧にもこれを潜水艦により、セブ島沖の元の収得地点に流したのである。 全くスパイ映画に出てくるような場面である。

更に新しい事実が判明している。 戦後連合軍命令で戦史編纂が行われているが、連合軍最高司令部に勤務し、米軍側の戦史編纂に従事した旧海軍の某氏は、米国情報部から送付された資料を調査中 “Z” 計画書の原本を発見したのである。

その一貫ナンバーから、これが山本作戦参謀に配布されたものと推定された。 即ち、米海軍が潜水艦により元の海域に流したのは参謀長のものであり、作戦参謀用のものは原本のまま保管していたに相違ない。

レイテ海戦における米軍の勝利は、“Z” 計画入手のためとも言われるが、真偽の程は明らかでない。


さて、私としては、こんな高度の秘密漏洩事件は別として、二番機の生存搭乗員のその後の消息を追ってみた。

彼らは、遭難後厳しい試練を受けながら参謀長と共に辛うじて生還した後、原隊八〇二空に復帰している。

この時、吉津、今西の両君は内地転勤となり、練習生の教官となった。 この2名だけが今も健在である。

機長岡村中尉は、原隊復帰後もこの時の事件が深く心に焼きつき、己の責任を忘れ難く、その後何回かの出撃に身を処すべく機会を狙っていたようである。

19年7月18日米軍のサイパン上陸の際、トラック島から八〇二空の二式大艇3機が哨戒に出た。 このうちの一機、岡村中尉の搭乗機は、一発起動しなかったが三発のまま発進し、僚機を追ってそのまま還らなかったのである。

やはりこの日を待ち望んでいたのであろう。 彼の心境からすれば、宿願を果たし、満足して悠久の大義に殉じたものと思う。 悲しいことではあるが、冥福を祈ってやまない。

福留中将とは戦後、鶴見総持寺境内にある特攻観音の前でお目にかかったことがあるが、46年2月6日、病のため亡くなられた。
(続く)

2015年02月16日

大空への追想 (234)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず (承前)

〇 事件の公表

このような大事件が起こっていたが、公表されるまでは、極く一部の高官以外は全く知らなかったのである。

私は19年1月20日付、八五一空飛行隊長を交代し、横須賀空技廠飛行実験部員として、当時二式大艇のポーポイズ防止対策に専念していた。

19年5月5日、川西航空機甲南工場 (現在の新明和) に実験のため出張し、八五一空の空輸員に会うことができた。

「 苦労しているだろうなー 」

と問いかけると、機長小林少尉 (ソロモンで一緒に戦っていたパイロット) が沈痛な顔をして、

「 まだ公表されていませんが、灘波分隊長は、連合艦隊長官と共に未帰還になってしまいました。」

と語ってくれた。 まさに晴天の霹靂だった。

事件発生後、一か月経っていたが、部隊でもいまだに2機とも行方不明となったことしか分かっていなかったのである。 私も小林少尉から聞くまでは、夢にもこんなことが起こったことなど知らずにいたのである。

想い起こせば、19年2月10日、私が昭南基地を去る前日に着任した灘波大尉に、戦場心得をこんこんと言い聞かせておいた。

横須賀まで私を送って来たあのクルーをそのまま分隊長機として彼に譲ってきた。 それが連合艦隊長官と共に消え去ったとは、どうしても考えられなかった。

ちょうど小林少尉との話が終わった時、工場の拡声器から 「海ゆかは」 の曲が流れ出した。 戦果発表ならば 「軍艦マーチ」 のはずだがおかしいぞ。 胸騒ぎを覚え思わず小林少尉と立ち上がった。

『 大本営海軍部発表 (19年5月5日1500) 一、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は ・・・・ 』

「 おいッ、小林、今発表だぞッ 」

心臓の止まる思いがした。

『 一、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、本年3月、前線において飛行機に搭乗、作戦指導中殉職せり。
 二、後任には豊田副武大将が親補せられ、既に連合艦隊の指揮を執りつつあり。』

全工場の機械が停止した。 会社の放送はこれを繰り返し、全員が黙祷を捧げた。 私達はその場で合掌したが、あの時の情景は今でも心に焼きついて残っている。

古賀長官殉職と発表され、戦死とされなかったのは、二番機の遭難が確認されたためであることは言うまでもない。 発表までの中央の苦衷は筆舌には尽くしきれないものがあったと思う。 もちろん、参謀長の搭乗した二番機については一切発表はされなかった。

福留参謀長は捕虜か否かの問題について、中央では大きな問題がわき起こっていた。

(原注) : この辺の詳細は 「海軍乙事件」 がよく説明している。

万一捕虜と断定されると、海軍では 「浮虜査問会」 に付されて重刑が定められていた。 捕虜と言うならば、この時のゲリラは敵と言えるか否かに論争が集中していたようである。

しかし捕虜にあらずと断定されたのであるが、これを裏づけた根拠となったのは、比島方面陸軍司令官黒田中将の次のような証言であったと聞いている。

「 比島セブ地区にいたゲリラは、確かに味方ではないが、敵でもない。 ただ治安を乱す集団であったから討伐したに過ぎない。」

実に明快な答えであると思う。 海軍は、福留中将一行を不問に付し、一般の疑惑を一掃するために、福留中将を栄転させたのである。

即ち次のような人事異動が発表された。

 〇 連合艦隊参謀長     草鹿中将
 〇 第二航空艦隊司令長官  福留中将

なお山本作戦参謀も5月1日付大佐に進級して栄転している。

古賀長官は事件公表と共に元帥の称号を賜わり、旭日大綬章を授けられ正三位に叙せられて国葬を賜わったことは一般の知るとおりである。
(続く)

2015年02月12日

大空への追想 (233)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず (承前)

〇 二番機生存者の苦闘

二番機は海面激突時、艇内で8名が即死し、漂流中更にクルー3名が死亡した。

(生存者)
  ◎ 福留参謀長、山本作戦参謀、山形掌通信長 (以上司令部員3名)
  ◎ 岡村中尉、吉津一飛曹、今西一飛曹、浦杉一飛曹、岡田一整曹、
    奥原一整曹、谷川整長 (以上クルー7名)

(死亡者)
  ◎ 大久保軍医大佐、宮本主計大佐、奥本大佐、 小池中佐、島村中佐、
    小牧少佐、高橋兵曹長、石川二曹 (以上司令部員8名)
  ◎ 針谷二飛曹、田口二飛曹、下地上飛 (以上クルー3名)

生存者は、参謀長を中心として極力体力の消耗を防止しながら、約8時間を要して海岸を目指して泳ぎ、土民の漁船数隻に救助された。

しかしこの土民が実はゲリラだったのである。 ゲリラ達は、生存者10名を山中深く連れ込んでゲリラ本部に収容した。

参謀長は一切の身分を隠していたが、ゲリラ側は特別、情報を探ろうとはせず、当時日本軍のゲリラ討伐が激しかったので、これに対する取り引きのため人質作戦を考えていたようである。

結果は、セブ島駐留の日本陸軍独立混成旅団大西大隊長の独断専行にも等しい適切な処置により、福留参謀長以下10名は帰還できたのであるが、この間約10日間にわたる小説を地でゆくような奇跡的生還 − もちろん苦難の連続であった  − の事実は、吉村昭氏の「海軍乙事件」を読んで、初めて知ることができた次第である。

(原注) : 52年に実施した海軍飛行艇戦没者慰霊祭に参列した吉津一飛曹(生存者)の話で、その辺の詳細を知ることができた。


岡村機長は、ゲリラとの10日間の山中生活において特に苦闘を続けた。 彼はゲリラ隊長と、日本の大西大隊長の間に軍使的役割に身を挺して活動し、日本海軍軍人10名の引き渡しを条件に、日本軍の討伐を中止させることに成功したのである。

かくして19年4月11日、福留中将一行は遭難10日にして、日本陸軍部隊のもとに引きとられたのである。
(続く)

2015年02月09日

大空への追想 (232)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず (承前)


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( 原著より  二番機及び三番機の行動図 )


〇 長官機還らず

二番機は1日0254、セブ島ナガ市沖海面に不時着大破しているが、この度のダバオ移動は極秘裏に行われているので、比島方面で知っていたのは、第三南遣艦隊司令部 (マニラ) と、第三十二特別根拠地隊 (ダバオ) くらいであり、セブ島の陸軍部隊にも、第三十三特別根拠地隊にも全く知らされていなかった。

二番機の遭難地点は、セブ島東岸ナガ市の小野田セメント工場沖4浬付近である。

この付近は南への潮流が強く、生存者が泳ぎついた海岸は、三十三特根のあるセブ市からは大分南方であり、米軍に加担しているゲリラの勢力範囲にあった。

二番機の状況は後述するが、乗員の半数は死亡した。 搭乗の一名が辛うじて海岸に泳ぎつき、小野田セメント工場から三十三特根を経て第三南達艦隊司令部に遭難の第一報が入電したのである。

一方ダバオの三十二特根では、1日0300頃には長官機は到着の予定だったので、出迎え準備をしていたが、朝になっても情報はなく、0730、三番機のみが到着し、その話から遭難の不安が高まっていたところ、第三南遣司令部からの急報で二番機の遭難を知り、上を下への大騒ぎとなったのである。

比島東岸一帯に対し全力をあげて捜索活動が開始された。

緊急信は直ちに軍令部にも飛んだが、海軍は連合艦隊司令部の遭難という一大事のため、極めて高度の機密を守り、セブ島防衛にあたっていた陸軍独立混成旅団 (三十一旅団) にさえ一切を伏せて、海軍のみの捜索を開始したのである。

後述するように、二番機生存者が非常な苦難に陥ったのもこのためである。

諸状況から判断されたことは、今回の遭難は敵襲によるものではなく、低気圧に突っ込んでの遭難であり、長官機も二番機同様の事態に陥ったことは確定的と見られるに至ったのである。

海軍最高首脳部の悩みは大きかった。 諸情報を待たなければ、長官の死は断定できなかったが、この重要戦局において、連合艦隊の作戦指揮に大穴があくことが最大の問題であり、同時にまた、二番機福留参謀長と山本作戦参謀の生存の可能性から、この両者の携行している “Z” 作戦計画の重要書類が敵手に入る恐れがあった。

長官の後任は人事上処理できるが、“Z” 作戦計画が敵手に入った場合、以後の作戦に重大なる悪影響を及ぼすことは明らかであった。

4月4日に至っても、長官機ならびに二番機生存者の確報はなかったので、4月6日付、後任の連合艦隊司令長官として、横須賀鎮守府司令長官、豊田副武大将が親補された。
(続く)

2015年02月04日

大空への追想 (231)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず (承前)

〇 天は長官機に味方せず (承前)

さてダバオで待機中の安藤機 (三番機) は、長官機の行動は全然不明のまま、命令に従ってパラオの空襲がその後途絶えていることを確認し、月没寸前にパラオ着水を企図し、31日2110 ダバオを出発した。 まことに適切な判断である。

出発後1時間、パラオに向かうコース前方及び北側にはものすごい雷光を伴う密雲が立ちこめていたので、南寄りのコースをとって進んだところ、星空が輝くような好天となってきた。

天測航法を実施しながら東進していると、2400頃電信員が 「機長ッ、分隊長機 (長官機) の電波をキャッチしました」 と突然叫んだ。

安藤中尉は、分隊長機は30日パラオでやられてしまったとばかり信じていたので、何かの間違いだと思いながらも、電信員に “よく注意しておれ” と命じたが、空電に妨害され、その後は遂に受信できなかった。

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( 原著より  二式大艇の電信員席 )

安藤機長は後刻、次のような感想を涙ながらに語っていた。

「 あの時、長官機の行動をダバオで知っておれば、自分は天候通報をしてコースの誘導ができたのに残念でしかたがない。 あの時の一番機の電波は、低気圧の真ん中に突っ込んで、燃料が切れ、不時着寸前の緊急信打電ではなかったろうか。 保安を考えれば無線封止が仇をなしたと思う。」

三番機は1日0030 パラオ着、ブイ係留後、長官機等が二機パラオに向け発進していること、及び一番機灘波大尉の30日ダバオ発後の行動の一部始終を聞いて、初めて状況を知ったのである。

三番機は地形の関係上夜間のダバオ着水は困難なことを熟知していたので、パラオ出発を1日0400 と予定し、係留した機の中で仮眠していた。

昼間のパラオ空襲は余程酷かったらしく、この時間になってもなお火災と誘爆が続いていた。

1日黎明からは、天候もすっかり晴れ上がってきた。 三番機は0730 無事ダバオに帰還し、任務を終了している。

三番機の状況から考えると、長官一行の行動は全く魔がさしたと言うか、悪夢のような出来事であった。 敵情、気象条件をよく判断し、空輸命令にも示したとおり4月1日の黎明に決行すべきであったと思う。

松浦参謀の考え方を機長が強力に押し進めればこと無きを得たはずだが、相手が連合艦隊司令部であるだけに、灘波大尉にとっては余りにも荷が重すぎたと思う。

あの切迫した情勢下では、早期脱出の必要性のみが先行し、連合艦隊司令長官といえども神ならぬ身の悲しさ、情勢判断に錯誤を生ずることもあり得るであろう。

私はこの時の各機のパイロットの技量は知り抜いていた。 燃料さえ積んでおれば、こんな遭難は決して起こり得なかったと信じている。

航空機の保安に関しては機長に絶対の権限を与えなければならない。 機長もまた、乗せる相手が高官になるに従い、権限行使に其の勇気が必要であることを痛感する次第である。

人事を尽くして天命を待つ、神は助くる者を助く。 連合艦隊司令長官といえども、なすべきことを欠いておれば神助はあり得ないのである。
(続く)

2015年01月29日

大空への追想 (230)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず (承前)

〇 天は長官機に味方せず

パラオの出発はまことに慌ただしいものであった。 各機は便乗者が乗り込んで来て初めて、その名前を知ることができたと言う。

一番機は2130、二番機は5分遅れて2135、それぞれパラオを離水した。 この5分の差が永久に相手を見失うことになったのである。

搭乗割は次のとおりである。

一番機
   (長官) 古賀大将  (艦隊機関長) 上野大佐 (先任参謀) 柳沢大佐
   (航空参謀) 内藤中佐  (航空参謀) 大槻中佐  (副官) 山口中佐
   姉原軍医少佐  (暗号長) 新宮大尉  〔計8名〕

二番機
   (参謀長)福留中将  (艦隊軍医長)大久保軍医大佐
   (艦隊主計長) 宮本主計大佐  (作戦参謀) 山本中佐
   (機関参謀) 奥本大佐  (水雷参謀) 小池中佐  (航空参謀) 小牧少佐
   (気象長) 島村中佐  (掌通信長) 山形中尉  他二名  〔計11名〕

三番機
   司令部暗号員全員  〔約10名〕

一番機は31日2130のパラオ離水がこの世に残した最後の姿であり、そのまま行方不明となってしまった。

敵機に対する警戒上恐らく航空灯は各機消していたであろうし、二番機との相互間連絡をとらない限り5分間という差は、夜間相互に機影を視認することを不可能にしてしまい、それぞれ単独行動となった。

二番機は、副操今西一飛曹 (生存) の話によると、パラオ係留時雨に遭いピトー管にカバーを着けたが、離水するまで彼はそれをすっかり忘れていて、カバーを取らなかったと言うことであるが、主偵察員吉津一飛曹 (生存) は、

「 自分は天測もやった。 速力が分からなければ位置も出ないはずである。 あのものすごい悪天候内で速力計が零だったら、いかに名人岡村中尉でも計器飛行はできなかったはずである。 今西君はピトーカバーを忘れていたと言うが、離水前に気がついた他の人が外していたと思う。」

と語っているが、その真否は不明である。


(原注) : これから先は、二番機の行動と三番機安藤機長の追想談を総合し、吉村昭著 「海軍乙事件」 を参考に、私なりの手記を纏めてみることにする。


二番機はパラオ離水後、先行した一番機を懸命に追った。 コースはパラオから、比島ミンダナオ島南端のサンアグスチン岬に向ける打ち合わせになっていた。

高度3千米で飛行したが、天候状況はテニアンで聞いただけで、その後の状況は分かっていなかった。

一方、三番機 (逆コース) の話では、ダバオ、パラオを結ぶ線上の北側には雷光を伴うすごい雲が立ちこめており、天気図どおりの低気圧があって北上していたが、コースを少し南にとれば星空さえ見えていたという。

二番機は、出発一時間後にはこの低気圧の東端に突き当たっており、すごいタービュランスに入った。 危険を感じて北方に転針した。 追い風を利用しようとしたことと、南方は敵機動部隊に遭遇する公算があったことが北上を決意した理由らしい。 (31日午後、哨戒機はパラオ南西方で友軍機の編隊を発見し、敵機と誤認している)

雲頂は高く、悪気流に揉まれながら北方に迂回を続け、約3時間後の午前0時半頃辛うじてこの低気圧から脱出したのである。 低気圧の西北端に達したのであろう、星が輝いていた。

主偵察員の吉津兵曹は早速天測位置を求めてみたが、コースを160浬も北にそれていた。 推測位置と余りにもかけ離れていたため、機長は天測位置を信用せず、推測位置を頼りにした。

飛行艇は、悪天候に遭遇した際、よく超低空で海面を這いながら突破することを得意にしていたのであるが、あるいは一番機はこの方法をとったのかも分からない。 最後まで一番機とは会合出来なかった。

二番機は4月1日0100頃、微かに陸影を認め、それをダバオ付近だと思って接近したが、よく調査したところミンダナオ島北方海面に点在する島であり、セブ島が近いと判断した。 天測位置が正しかったのである。

“マニラに向かえ” という参謀の声が聞こえたが、“燃料あと三十分 !!” 搭整員の悲壮な声がこれを打ち消して、鋭く響き渡った。

絶体絶命 !! もはやダバオに向かうことはできない。 付近の海面に不時着する以外に途はなかったのである。 せめてセブ市に接近しようと考えた。

(原注) : セブ市には海軍の第三十三特別根拠地隊があった。

セブ島には、セブ市南方 (ナガ市) に当時小野田セメントが工場を持ち操業していた。 この夜、小野田セメントは徹夜作業をしており、その灯火が遠方から視認できた。

二番機はこの灯火をセブ市と判断して接近していたが、既に燃料計は零に近づいていた。 岡村機長は意を決して福留参謀長に不時着する旨を伝え、降下に移っていった。

気象の急変もあり、気圧高度計には信頼がおけなかったうえ、真っ暗な海面には何一つ着水を助ける目標もなかった。 航法目標灯を投下したがこれも不発なのか火が点かなかった。

まだまだ高度はあると思っている間に機長は急速に海面のふくらみを感じた。 急いで引き起こしたが遅かった。

機首が前のめりに海面に突っ込む形となり、接水と同時に胴体が折れてしまったのである。 完全に夜間着水は失敗した。 4月1日0254 のことである。

(原注) : 今西兵曹は、ピトー管のカバーがついていたと言っているが、あるいはこれが真実で、速力計は零のまま行動していた疑いもある。 暗夜の着水失敗はこのためかも分からない。


(続く)

2015年01月26日

大空への追想 (229)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず (承前)

〇 空輸機発進す

サイパンで編成された2機に対し、四艦隊司令部はこれをテニアンに集結させ、四艦隊航空参謀松浦中佐 (水上機のベテラン) が搭乗員に対し、我が子に諭すように細心の注意を与えた。

任務の重大性を自覚させると共に、同乗者が連合艦隊司令長官といえども航空機運航の責任は機長にあることを懇々と説いたのである。

「 30日から31日にわたり、パラオ南東方面には米大機動部隊が行動している。 パラオは大空襲を受けおり、司令部以下全員が浮き足だっている。 恐らく司令部は、ダバオ進出を急いでいると思う。 しかし、ダバオ、パラオ間には目下台風性の低気圧があり、徐々に北上している。 気象条件は31日の夜半が最悪と推定される。

二式大艇の夜間離着水の難しさは諸君が一番よく知っている。 米軍の空襲は、日出後45分から日没後30分までの間に行われている。 これは極めて正確な情報である。 パラオ出発は明 (4月1日) 黎明とせよ。

テニアン出発後はなるべく西方を迂回して、パラオの100浬圏で低空で待機し、少なくともパラオには日没30分以後に着水する必要がある。 早朝出発までに最少限ダバオ往復分の燃料を搭載することだ。

司令部が何と言おうと以上のことは厳守しろ、連合艦隊司令部の圧力に屈してはならんぞ。」

噛んで含ませるとは、まさにこのことだ。 松浦参謀の注意は、任務遂行に対する機長の責任を鋭くついたものであり、連合艦隊長官の搭乗という重圧感に青二才の大尉が屈服し、機の保安を忘れることを恐れたからに他ならなかったのである。

かくして二式大艇2機は31日1700 テニアンを出発し、重要任務に就いたのである。

31日の米軍の空襲は1400で終わり、実際にはその後一機も飛来していなかった。 2機は与えられた注意をよく守って行動し、夜間に入りパラオと連絡を保ちながら味方識別のため北方より進入し、31日2035、相ついで無事パラオ基地に着水した。

パラオの陸上は昼間の空襲の余波をうけて、市街地も飛行場も炎々と燃えており、空襲後10時間してもなお、ドラム缶や爆弾が誘爆を続けて凄惨を極めていた。 しかし米機動部隊の艦上機は夜間空襲はその当時やっていなかったのである。

2機は、ブイ係留後早速第三十特別根拠地隊の手によって燃料補給の準備を開始した。

30日から続いた空襲が余りにも激烈を極めたために、夜間空襲必至と浮き足立っていた司令部は、索敵機の友軍機誤認情報も一枚加わって、空襲警報を発令した。 更に桟橋近くのドラム缶の誘爆音が爆撃と誤認されたからたまらない。

“燃料補給を中止して大艇は直ちに出発準備をせよ” ということになった。 (大艇到着前に、司令部は搭乗準備を整えて桟橋で待機していたのである)

松浦参謀の心配がまさに実現したのである。 機長の進言など聞き入れる余地がなかった。 尻に火がついたような場面では、いかに聖人たりといえども冷静さを失うものであろう。 海軍最高司令部にしては、お粗末すぎる。

夜間台風の中に突入させようという蛮勇があったのなら、なぜ燃料補給のわずかな時間を待つ真の勇気が出なかったのであろうか。 この遭難は身から出たサビだとも言えるのではないか。

思うに、二日間連続の激しい爆撃によりあらゆる施設も破壊され、このままでは連合艦隊の司令部機能が封止されたのも同然である。 以後の作戦指揮を考えると、一刻も早く機能を復活する必要があった。 このことが敢えて航空機の保安をも無視して運を天にまかせての出発に踏み切らざるを得なくさせたのであろう。

なお長官機の行動は、山本長官機が米戦闘機に奇襲された例もあるので極秘裏に進められたため、無線はほとんど封止されており、ダバオで待機していた三番機には全く連絡されていなかった。

ダバオから逆コースを飛んでいた三番機が、もしも長官機の行動を知っておれば、天候通報もできて誘導することも可能であったろう。 一、二番機はパラオ到着後、気象状況をも知らされずに、台風の中に突っ込む結果となってしまったのである。

三番機は南寄りのコースで悪天候も避けてパラオに到着し、4月1日黎明にパラオを離水し、無事ダバオに到着することができた。 まさに運命の皮肉としか考えられない。
(続く)

2015年01月20日

大空への追想 (228)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず (承前)

〇 当時の飛行艇隊の行動

ツラギで玉砕した八〇一空 (横浜空) は横浜で再建後、東方からの来襲に備え、日本本土に配備されていた。

八五一空 (東港空) は、本部を昭南 (シンガポール) に置き、部隊の転進、撤退等の空輸作戦を主にジャワ、比島、サイパン、ラバウル間を駆け巡っており、3月28日もラバウルの搭乗員救出のため二式大艇2機が昭南を出発していた。

八〇二空 (十四空) はウオッゼを本拠として内南洋で頑張っていたが、マキン、タラワの陥落後、米軍の進攻目標がマーシャル群島にあると察知されたために、19年1月下旬サイパンに転進していた。

このころのサイパン島は平和そのもの、戦争はどこ吹く風という状況であったが、2月上旬になり、クェゼリン、マロエラップ島が相ついで陥落するに至り、サイパンも極度に緊張してきた。

2月17日、米軍はパラオを空襲した際、その余勢を駆ってサイパンをも襲い、地上の大艇はたちまち敵戦闘機の餌食になってしまった。 19年3月に入ると、サイパン島には八〇二空の大艇4〜5機が常駐する他、八五一空も同基地を使用していた。


さて19年3月31日朝9時頃、八五一空、八〇二空は連合艦隊司令部からの緊急信を傍受した。

一、連合艦隊司令部は本31日夜 (又は4月1日黎明) パラオ発ダバオに進出する。
二、輸送のため二式大艇八五一空 2機、八〇二空 2機をパラオに派遣されたい。

この命令はサイパンの四艦隊司令部を経てそれぞれの航空隊に打電された。

八五一空司令は任務の重大性から、ラバウル搭乗員救出のため昭南を出発し、ラバウルに向け進出中の大艇2機に対し任務を変更し、連合艦隊司令部の輸送を命令した。

八五一空灘波大尉 (兵69期) 機は29日ダバオ着、30日パラオに向かっていたが、途中でパラオの空襲を知り、大きく迂回してサイパンに到着してからこの空輸命令を知ったのである。

二番機安藤中尉機は、昭南出発後エンジン不調となり、スラバヤで修理をしたため一日遅れ、30日ダバオに到着したが、パラオの大空襲を知り、既に出発していた灘波機は恐らく空襲に出会って自爆しているものと信じていた。

そして翌31日も空襲は必至という情報でダバオで待機中、ダバオの第三十二特別根拠地隊から1500頃になって長官の空輸命令を受領した。

サイパンでは、30日到着した八五一空難波機を一番機、八〇二空岡村中尉機を二番機として、連合艦隊司令部の空輸隊を最終的に編成し、三番機はダバオで待機中の八五一空安藤機を当てることにした。

   〇 一番機 八五一空 灘波大尉機 (サイパン)
   〇 二番機 八〇二空 岡村中尉機 (サイパン)
   〇 三番機 八五一空 安藤中尉機 (ダバオ)

(原注) : 各機とも搭乗員はベテラン揃いであが、二番機岡村中尉はダバオ基地発着の体験がなかった。
(続く)

2015年01月19日

大空への追想 (227)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記

    第1話 古賀連合艦隊司令長官還らず

〇 まえがき

全海軍に二度目の悲報が飛んだ。 連合艦隊司令長官古賀峯一大将の殉職である。 (長官は64期生遠洋航海時の練習艦隊司令長官でもあった)

太平洋戦争突入以来、連合艦隊司令長官が二人亡くなられている。 海軍航空育ての親といわれた山本五十六長官は、一式陸攻に搭乗し18年4月18日、ソロモン群島で壮烈な戦死をとげられた。

その後を引き継がれた古賀長官もまた一年後の19年4月1日、二式大艇に搭乗し、パラオからダバオに移動中末帰還、殉職と認められたのである。

戦争が既に戦艦決戦の時代から航空決戦に移っていたことを物語っていると思う。


古賀長官は悲運の提督であったと思う。 山本長官戦死の後わずか一年間、太平洋戦争も既に進撃の峠を越し、敗戦への下り坂にあった。

国民を湧き立たせるような華々しい戦果もなく、守勢一方の時期に、前線を後退する途中において殉職されたのである。

山本長官戦死の際も二番機宇垣参謀長は重傷を負いながら救助された。 古賀長官未帰還の場合も二番機福留参謀長は奇跡的に生遼されている。 相異するところは、前者は空戦、後者は遭難である。

(原注) : 本件については 『海軍乙事件 (吉村昭著 文芸春秋社刊)』 の詳細な記事があり、読まれた人もあると思うが、参考になることが多い。

私がここに書く手記は、内容的に似ているが、決して引用ではない。 この時の二式大艇は、一か月前まで私の飛行隊に所属していたものであり、戦闘詳報もあり、生存搭乗員二名にも対面して話も聞いている。 特に当日の三番機の機長の追想談を参考にまとめたものである。



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( 原著より  位置関係図 )

〇 当時の戦況

昭和19年に入ると、米軍の日本本土進攻作戦は顕著になってきた。 米軍の太平洋上飛び石作戦の様相が、はっきりしてきたのである。

開戦当初、日本の委任統治下にあった内南洋群島も各地で米軍の本格的攻撃を受けており、18年11月になると、ギルバート諸島沖で数回の航空戦が繰り返され、マキン、タラワ諸島も遂に米軍の手中に墜ちた。

19年2月2日にはマーシャル群島クェゼリン島も陥落し、日本の太平洋防衛線はトラック島が最前線となってしまったのである。

一方ソロモン島群は、ラバウルを根拠地として壮絶な攻防戦を展開し、陸軍戦闘機までも注ぎ込んで死闘を繰り返していた。 トラック島の我が海軍航空兵力もこのために大消耗を余儀なくさせられたのである。

米軍の攻撃は益々織烈化し、19年2月17日早朝からトラック島は米機動部隊による大空襲を受け、我が方は艦船、航空機ともに甚大な損害を受けて最前線基地としての機能をほとんど失ってしまった。

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( 原著より  米機動部隊の攻撃を受けるトラック基地 )

連合艦隊司令部はパラオに移動していたために、直接の被害は受けなかったが、トラック島の空襲後、アドミラルティ群島の一部も米軍の手に墜ちたため、最大の堅陣を誇っていたソロモン群島の要衝ラバウルは孤立状態に陥ってしまった。

米軍の進攻はまさに飛び石伝いであり、一方はニューギニアを経て比島、沖縄、他方はトラック、パラオを叩ききながらサイパン、硫黄島と進攻しており、この二方向から日本本土に対して鉾先を向けていることが窺えた。

古賀長官は、この時点においていわゆる “Z” 作戦計画を立てていた。 すなわち、主作戦を太平洋正面に指向し、専ら敵の進攻に対する防御を固めることにあった。

全般情勢から見ると、日本の太平洋防御線は次第に西方に後退しており、ニューギニア方面に対する敵の活発な行動から推して、安全地帯と思われたパラオも危険が迫って来ていた。

このような情勢から連合艦隊司令部は、パラオに対する敵の上陸を予想し、司令部をパラオからダバオに移動し、機を見てサイパンに進出する腹を決めたのである。

索敵網を強化し情報確認に努めた結果、米機動部隊のパラオ空襲は早期に迫っていると判断されたので、司令部は旗艦 「武蔵」 からパラオの陸上に移り、艦船部隊を緊急避退させた。 このとき 「武蔵」 は被害し、要修理のため日本本土に帰還を止むなくされた。

3月30日、予想どおりパラオは早朝から終日米軍の大空襲を受け、避退の遅れた艦船を含め基地は大損害を受けてしまった。

空襲は翌31日も半日にわたり続行された。 ここにおいてパラオ上陸は必至と判断され、連合艦隊司令部は急速ダバオ移動を決意した。
(続く)

2015年01月17日

大空への追想 (226・補)


連載してまいりました日辻常雄氏の回想録 『大空への追想』 は第6章までが終了いたしました。

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既にお話ししておりますとおり、本回想録をその後書き改めて出版した今日の話題社版 『最後の飛行艇』 では、元々の第4章までの内容しか収録されておりません。

そして第5章は連載してきましたとおり、海上自衛隊の飛行艇についてで、これは海自関係者でも今となってはあまり知られていないものです。 ましてや、一般の方々にとっては初めて聞く内容であったと思います。

そして、あと残るのが第7章 「特別手記」 となります。 これは著者自身が直接体験したものではありません。

もしかするとお読みいただく方々の中には、期待する内容とは少々異なるものがあるかもしれません。

しかしながら、著者が見聞したことを取り纏めたものであり、著者の心の中にある 「大空への追想」 として省略するわけにはいかないものです。 その事をお酌み取りいただきお読みいただければと存じます。

準備出来次第、最後の第7章の連載に入ります。

2015年01月13日

大空への追想 (226)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第6章 海上自衛隊の巻 (承前)

    第4話 PS-1と艦船支援部隊 (承前)

        その2 PS-1の事故と私の巡り合い (承前)

(2) 手記その2 (承前)

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( 原著より  PS-1 五号機漂流図 )

〇 PS-1満身創痍の姿で岩国帰還

幸いに海上も平穏なまま、27日夕、尾鷲湾に到着した。 名古屋から派遣されたサルベージの150トンクレーンで慎重な揚収作業が行われ、28日午後、PS-1は逆さのまま台船上に移された。

かくしてPS-1 五号機は6日間の洋上生活から解放されて静かに台船上に眠ることができたのである。 さぞかし苦しかったことであろう。 事故発生時から曳航開始までの正味3日間で、約250浬も東流したのである。

尾鷲到着までの間、延べ10数機のPS-1、計8隻の護衛艦が警戒のため出動した。

台船に載った損傷機は、29日早朝尾鷲を出港し、瀬戸内海を経て、30日深夜岩国基地に到着した。 そして最後の陸揚げ作業に移り31日1145、所定位置に揚収されたのである。

五号機が、この基地のスベリを離れてから10日目に、このような悲惨な姿で帰ってこようとは誰もが考えなかったことである。

46年12月 (手記その1) 3日間の洋上の死闘を終えて還って来たPS-1 二号機が自走のままこのスべリを這い上がって、総員の拍手に迎えられた当時の光景が私の頭の中に浮かんでいた。

この五号機の対照的な帰還に胸がしめつけられる思いであった。 基地に還っていた五号機搭乗員達が、クレーン船で静かに引き揚げられる満身創痍の愛機をジーッと眺めている姿を見て、その胸中察するに余りあるものを覚えた次第である。


(あとがき)

PS-1が開発されてから約8年目に入って、このような悲しい事故が発生した。 なぜ五号機だけがこんな目に遭わねばならなかったのだろうか。

4年前には荒海曳航の試練をうけビクともしなかったPS-1が、予想もできない転覆という忌まわしい事故を惹き起こしたのである。

私の手記は事故調査を目的としたものではないが、事故発生後10日間の過程をふり返って見ると、いろいろのことが勉強になったと思う。

事故防止上の教訓は事故調査の結果に待たなければならないが、サバイバル面では多くの教訓が得られたと思う。

自衛艦隊司令官が、“万難を排して揚収せよ” と命令され、多大の兵力を投入された。 本機を揚収できたことにより、技術面、運用面 (海上一般運用作業を含む) ともに、今後の対策実施上貴重な資料を数多く求めることができたことは感謝に堪えないところである。

事故発生後2時間で全員が救助されたことは幸運であったと思う。 七護隊が至近にあったことがこれを可能ならしめたのであるが、救助終了1時間後には、風速40ノットとなり海上は荒れ始めていた。

万一この事故が2時間あとに発生したとすれば、七護隊の現場到着が遅れるばかりでなく、脱出してもラフトが転覆するか、そうでなくても相当流されたはずである。 殊に夜間に入ってしまうことを考えると、漂流者の発見が困難であったことは明らかである。

五号機の事故は、着水の失敗でもなく、物体との衝突でもなかった。 洋上でポロリとフロートが取れたような形で、転覆してしまった。 艇底も壊れず、穴も開かず、逆さになって浮上したまま、事故発生後曳航も含め約4.5日間沈まなかったのである。

ここで私は太平洋戦争末期における米海軍 「インディアナポリス」 (巡洋艦) 撃沈時の救助活動を頭の中に浮かべてみた。

日本の潜水艦により撃沈されたこの巡洋艦の乗員救助は、報告の遅延により、発動が非常に遅れたのである。

現場に駆けつけた2機のPBY飛行艇が真っ先に漂流中の乗員の救助にあたったのであるが、海が荒れ (波高12フィートの記録がある) 着水には成功したものの離水が不能となり、PBY自らが一つの救助用ブイの役割を演じ、翼上をはじめ胴体内外にまで漂流者を拾い上げて、救助艦船の到着を待ったのである。 もちろんPBYは捨てたのである。

今回の五号機の場合、私個人の所見であるが、クルーはラフトに移乗後転覆機の状況をよく観察し、沈没しないことが分かれば五号機艇体をブイと考えてラフトを係留するか、状況によっては小さなラフトよりもこの艇体に移乗する等、五号機から離れない手段をとる方が有利であったと思われる。

夜間捜索に入ったような場合を考えると発見も容易であったろうと思う。 「インディアナポリス」 遭難と関連し、サバイバル面からは、これも生存の一手段として考えられることではなかろうか。

いずれにせよ、穴も開いてない飛行艇が傾ぐことはもとより、簡単に転覆するようなことがあってはならないことである。 旧海軍飛行艇をふり返って見ても、着水事故や、衝突、座礁等でなければ転覆したという例は知らなかった。

この日までにPS-1は1万6千時間の飛行時間に達していた。 そして遂に1機喪失ということが記録されたのである。

3日間の曳航に勝ちぬいた例や、胴体着陸という予想もしない事故もあった。 しかし、いずれも修理成って復元している。 いろいろの教訓を残しながらも、五号機は永久に還らない。

海軍では “犠牲なきところに、航空の発展はあり得ず” とまで言った。 しかし30余年の歳月が流れ、科学の著しい進歩発展を見た今日、このような言葉は適用できないと思う。 汚名挽回とPS-1の栄光のため奮起したいと考える。
(第6章 終わり)