2012年08月31日

大空への追想 (20)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第3話 南支沿岸封鎖作戦 (承前)

        その4 港湾都市潰減

( クーニャンよ許せ )

 南支沿岸のめぼしい港湾は、内陸からの陸軍の制圧と、海上からの海軍の封鎖、監視をうけて、ほとんどその機能を失っていた。 私が参戦してから既に18個所が潰滅している。

 窮すれば通ず、重慶政府は必死の密輸基地開設に執念を燃やした。 その一つに水東市 (現在の広東省茂名市電白県) があった。

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( 元画像 : Google Earth 及び Google Map より )

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( 1954年版の米軍地図より )

 支那方面艦隊の情報部がこれをキャッチし、15年10月25日、水東市攻撃任務が 「神川丸」 に与えられ、同時に二遣支艦隊司令部からその攻撃が宣言された。

 下命後の天候が思わしからず、はやる腕を撫 (ぶ )しながら待つこと三日間、10月28日第一次攻撃を開始した。

 相当の地上砲火を覚悟せねばならんが、「神川丸」 の名誉にかけても絶対潰滅せよとのお達しが出た。

 飛行長指揮のもとに12機の編隊群で出動、天候はまだ十分に回復しておらなかったが、編隊群は海面を這いながら突進した。 約一時間の航程である。

 広田分隊長の3機が、途中から先行して三権の有無と地上砲火の程度を超低空で強行偵察の結果 「三権、砲火ともになし」 とのことで、飛行隊は計画どおり行動した。

 各小隊ごとに高度をとり、それぞれ決められた区域に目標を求める間に、我が三小隊は市民の追い出し、すなわちカウボーイ役となって一般市民を避難させるのである。

 例によって威嚇射撃と擬襲によって一刻も早く逃げ出すよう、空いっぱいに伝単 (チラシ) を撒き散らしながら飛び回った。

 色とりどりの服の色とパラソルが目にしみる。 老人もおれば子供もいる。 毎度のことながら闘志が次第に消えてゆくのがわかる。 機上から合掌したい気持ちである。

 一方港に目をうつすと、外国船が4隻停泊して盛んに荷揚中である。 これに群がるジャンクが約2百隻。 波止場付近は一見民家のようには見えるが、倉庫が列をなしている。

 いつのまにこんなに整備されたのだろうか。 これを見ると、避難民に対する同情心も吹き飛んでしまった。 なんとしてもやっつけろ ・・・・ ファイトが湧く。
(続く)

2012年09月07日

大空への追想 (21)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第3話 南支沿岸封鎖作戦 (承前)

        その4 港湾都市潰減 (承前)

( クーニャンよ許せ ) (承前)

 整然とした市街は今日は避けよう、誰もがこう考えたに違いない。 避難民はほとんど郊外に離れた。 グリーンの信号弾を撃ち上げる、待ち焦がれたように、まず一小隊が埠頭倉庫に対し鮮やかな降爆に入った。

 いずれも命中したが、二番機の弾着点は大爆発を起こし、紅連の焔が数十丈に達し、黒煙は千2百米の上空にまで吹き上がった。 恐らく火薬類であろう。

 続いて二小隊、四小隊がほとんど同時に爆撃を開始した。 ほとんどの倉庫が大火災を起こし、各所に爆発が起こる。 その焔をかいくぐりながら、各機入り乱れて銃撃戦に移る。

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( 原著より  炎上する倉庫 ) ( 何故か原著では写真が上下逆さまになっています )

 外国船が錨を揚げて急遽出港し、ジャンク群が蜘蛛の子を散らすように逃げ始める。 こうなると、こちらのもの。 ジャンク目がけて機銃の連射だ。 海に飛び込むもの、泳いで逃げるもの、地上では恐らく大狂乱の地獄絵巻が繰り広げられているだろう。

 暴れ回る空中では、火災のあおりで座席の中まで熱くなったような気がする。 ふと見ると風上の山手方面から再び避難民の大群が逃げ始めた。 今まで我が家を離れ難くがんばっていたのであろう。 「早く逃げろ」 大声で叫びたい気持ちである。

 相変わらず赤青緑と花が咲いたようなパラソルの波が続く、クーニャン達だ。 諦めて川に飛び込む者もあれば、もはやこれまでと観念して道路上にすわり込んでしまう者、これが逆に日本人だったらと思うと胸が痛む。 許せよクーニャン。

 三小隊は全般の経過を見た上で残された主要な拠点を最後に爆撃した。 埠頭地区は完全に焔に包まれ、市街地の一部も火災に巻き込まれている。

 攻撃は約一時間続いた。 戦果写真偵察を終えて明日の目標を定め第一日を終わった。 我が方は被害なし。

 10月30日第二次、31日第三次と水東市潰滅作戦は容赦なく続けられた。

 第一次の攻撃で、荷揚場、倉庫地帯は見る影もなく消え去っていた。 ジャンク群も数は大量に減ったが、焼け跡から運び出された積荷は相当量に達しているはずだ。 市街地の焼き打ちは明日でもできる。

 川上を偵察すると森かげに数隻のジャンクを発見した。 飛燕のように舞い下りて連射を浴びせると、積荷のドラム缶が燃え出した。 舟艇からはボンボン川に飛び込んでいる。 怪しいぞ ・・・・ と思って山の中をよく偵察すると、ある、ある。 黒い天幕で覆われた物資集積所が約7棟、昨日の残り物に違いない。 これに数弾を見舞うと、やはり燃料である。 たちまち爆発して次々と類焼し、山火事まで発生した。 これでよし。

 第三次攻撃は最終日、市街地の焼き払い計画を実行した。 市民は連日の空襲で既に水東市から避難していた。 風上側の商店街と思われる一画に火災を起こせば、まず市街地の全焼は免れない。

 残酷とは思ったが援蒋ルート絶滅の至上命令と、水東市を潰滅せよとの特別攻撃命令を受けている以上やむを得ない。 心を鬼にして徹底的な銃爆撃を敢行、炎々と燃えさかる水東市を見下ろしながら帰艦した。

 精神的に疲労を覚えた。 特に眼中に残るクーニャンたちのパラソルの波はなかなか消えなかった。 戦争とは勝っても負けても苦しいものである。
(続く)

2012年09月10日

大空への追想 (22)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第4話 治岸急襲作戦 (K作戦)

 南支沿岸の封鎖が強化されるに伴い、次第に物資の導入は苦しくなって来たはずだが、何としても、南支のみでも一千浬に及ぶ長い海岸線だけに封鎖の網に穴ができてくる。 水東市もその例に洩れない一つであった。

 その後も何回か叩いた小さな港が復活し、これに対し正規軍の支援強化が目立ちはじめたという情報により、支那方面艦隊は連合艦隊からの協力をうけて南支沿岸急襲作戦を実施したのである。

 15年7月16日から約10日間にわたって、第三水雷戦隊の出動となった。 これに対して 「神川丸」 飛行機隊が支援し、その強力な陸戦隊を以て、主要港を片端から急襲し、地上施設を破壊し再起不能を図ろうというものである。 7回の作戦を実施したがその主要戦闘をあげると次のとおりである。

        ● K泉作戦 (泉州港の急襲)   15年7月16日
        ● K興 〃 (興化湾の 〃 )      7月17日
        ● K三 〃 (三都澳港の 〃 )     7月21日
        ● K尾 〃 (汕尾港の 〃 )      7月26日
        ● K門作戦 (海門港の 〃 )      8月10日
        ● K興二作戦 (興化湾二次急襲)    8月15日
        ● K石作戦 (褐石港急襲)        8月26日

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( 前出 「南支沿岸略図」 より部分 )


        その1 7月16日急襲作戦の開幕

 第一陣をうけ、水偵8機を率い出動した。 三水戦の砲撃により泉州港は白煙に覆われ、陸戦隊の先陣は上陸寸前の状態にあった。 飛行機隊の到着により、砲撃から航空攻撃へ移行した。

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( 元画像 : Google Map より )

 この市街 (泉州市) は小さいながら城壁に囲まれている。 正規軍が潜むに好都合の場所である。 砲撃をうけて市民は既に城壁外に避退していた。 残っているとすれば、上陸軍を迎え撃つ正規軍以外にはいない。

 城壁の監視塔目がけて爆撃を開始、上陸軍を支援する。 初の上陸で陸戦隊の士気は旺盛、腰まで水に浸かっての奮戦だが、敵は早々と遁走したらしく、この日はほんの小手調べで終わってしまった。

 7月17日、続いて興化湾 (前出) を急襲した。 この湾内の主要港は涵江市である。 数回の爆撃行もその場限りで、必ずといってよいくらい復元するのだから不思議である。

 今日は陸戦隊を上陸させて、地上から主要施設を焼き払うというのである。 飛行機隊の任務は十九路軍の陣地制圧だが今日も一向に姿を見せない。 こうなると目標は荷揚げジャンク群を蹴散らす以外にない。

 何と外国船が六隻、英国、仏国、ポルトガル、いずれも堂々と国旗を掲げて、いつもながら盛んな荷役を続けている。 なんとかして、一弾たたきつけてやりたいが、“外国船の爆撃相成らん、先制攻撃を受けた場合この限りに非ず” というお達しが頭痛のたね。

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( 原著より  荷役中の英国商船 艦橋両舷に英国旗を広げている )

 陸戦隊は港湾地区の焼き打ちを開始した。 後れてはならじ、まず第一弾を英国船の西方5百米の倉庫に見舞う。 目もくらむような焔と光とともに気持ちよく吹き飛んだ。 今日はなんとしても外国船のどぎもを抜いてやる。 肚を決めて爆撃にも計画をたてていた。 陸戦隊の直接支援は列機にまかせて十分と見抜いていたからでもある。

 第二弾は船の風上側にあたるジャンク群の真っただ中、2〜3隻転覆したが、火が出ない。

 第三弾は、これ見よがしとばかり桟橋に積まれたドラム缶の山、陸戦隊も目標にしているとは思ったが、お先に失礼とばかり突っ込んだ。

 ガソリンではなかった。 爆発は期待外れだったが、メラメラと黒煙をあげて燃え出した。

 最後の一発、船腹にたたき込みたくてうずうずするが、涙を呑む。 血気にはやる海鷲の心中察するに余りありというべし。 重慶爆撃のような大がかりの空襲なら “三権” の類焼で事はすまされるが、沿岸封鎖作戦における攻撃はまことに地味で、忍耐を要する戦闘である。

 いよいよ最後の一発。 獲物はないが、英船の正横百米の泥田に捨て弾、船の約半分にわたって泥を浴びせて日頃の鬱憤を晴らす。 長い戦闘の間にはこのようないた悪戯もやりたくなるものである。
(続く)

2012年09月17日

大空への追想 (23)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第4話 治岸急襲作戦 (K作戦) (承前)

        その2 急襲作戦たけなわ

 15年7月21日、急襲作戦はいよいよその峠に達した。

 この日黎明を期して陸戦隊は要衝三都澳を襲った。 飛行隊は全力出動、第二波が我が三小隊の出番である。

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( 元画像 : Google Map より )

 上空に到着すると、陸戦隊は腰まで水に浸かる所で一斉に舟艇から飛び込んでいた。

 ジャンク群の出港前にこれを捕らえ、焼き打ち作戦に出た。 砂浜に引き上げられたジャンクに油をかけ燃やすのだから実に効率よく燃え上がる。

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( 原著より  炎上するジャンク群 )

 旗艦 「川内」 から、一名重傷絶望という電報をキャッチして闘志を燃やす。

 後方山麓に正規軍反抗中との情報を受け、猛然とこれに突っ込んで、あたり一面に機銃弾を浴びせる。 うまく擬装した三個のトーチカを発見した。 銃眼付近の松の枝が盛んに揺れているのが分かる。 射っている証拠である。

 よーしッ、今日はトーチカ攻撃を特殊の方法でやってみよう。 六番 (60瓩爆弾) では頑丈なトーチカはびくともしない。 幸いに山の斜面につくられているので、超低空で銃限と同高度で前方を横切りながら単縦陣で連射を浴びせることにした。

 射手は熟練の士のみだ。 銃眼に吸いこまれるように曳痕弾が集中するのがよく分かる。 沈黙したところを真正面から急降下して銃眼の直前に爆弾をたたき込む。 大きな松の木が真っ二つに折れてふき飛ぶのを見て快哉を叫んだ。


 急襲作戦の最終日は15年8月15日、興化湾 (前出) の荷揚げが復活したらしいとの情報により、再度攻撃をかけることになった。 今回は湾口付近に機雷を敷設し船舶の出入を阻止してしまうという計画である。

 この日湾外の海上は荒模様で風も強かった。 海上部隊の先頭は敷設艦 「測天」 (注1) である。

 敵側も我が方の動きから、敷設作戦を見抜いていたものと思われる。 先陣をきって出撃した我が小隊は、湾口付近の狭い両岸が気にかかるので、例によって低空偵察を実施すると、何と、両岸に陣地を構築し火線を構成しているではないか。

 頭かくして尻を丸出しにした青服の正規軍がいる、いる、いる、その数約百名。

『 パコダ水道 (注2) 両岸に敵約百名 「測天」 に対し火線を構成しあり、厳重なる制圧を要す。』

 と、まず緊急信を打電し、銃撃戦に転じた。 しかし我が目標は涵江市の倉庫群である。 第二波の九五水偵隊にこの好餌を譲り、目標目がけて進入した。
(続く)

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(注1) : 原著も今日の話題社版でも敷設艦となっていますが正規の艦種は 「敷設艇」 で、「測天」 型敷設艇 14隻の1番艇です。 この 「測天」 の良い写真が手元にありませんので、同型の 「由利島」 の写真をご参考として示します。 「測天」 は前甲板の8糎単装高角砲が40粍連装機銃である点が異なります。


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(注2) : 興化湾の入口の興化水道のことですが、「パコダ水道」 という名称がどこから来ているのかは不明です。


2012年09月19日

大空への追想 (24)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第4話 治岸急襲作戦 (K作戦) (承前)

        その2 急襲作戦たけなわ (承前)

 荷揚場にポルトガル船が一隻。 市内三権を低空で偵察中民家に擬装した倉庫数個所を発見した。 倉庫の中を覗き込むような超低空に移ったとたん、偵察員から声あり、

「 射ってまーす 」

 操縦席風防付近にピューッ、ピューッと数発の通過音が耳をつく。 どうも、三権のマークをつけた建物付近から射っているらしい。 クソッ、むらむらッと胸の中が騒ぎ出す。

「 ところ構わず射ちまくれッ 」

 と怒鳴りながら、暴れ回ること数分間、

『 涵江地上銃火熾烈なり 』

 と第二電を打ちながら三小隊の暴走族は盛んに射ちまくった。

 地上が沈黙するのを待って、先日の怨みを思い知れッとばかり倉庫に対する降爆を開始した。 闘志がかき立てられると命中率も良好、第一弾見事に命中ッ、倉庫が一瞬のうちに爆発、大火災を起こした。

 折からの強風にあおられ、火はどんどん市内に移ってゆく。 こうなると避難民の逃げ出すこと等眼中にない。

 第二弾の降爆態勢に入る瞬間、ボカーンという音を耳にした。 迫撃砲の発射音である。 こんなに抵抗するのは珍しい。

 「我れに続けッ」  紅蓮の焔をくぐりながら、三権建物の至近に “これでもかッ” とばかり爆弾を見舞って叩きのめしてやった。

 獅子奮迅の活躍というのはこんなものをいうのであろう。 少しでも消極的な行動に出ようものなら反撃はつのるばかりである。 死を超越してこそ、生きる道は開かれる。 これが戦場の常識である。

 各機とも先を争って、入れ替わり、立ち替わりの猛射を浴びせて尽きる所を知らず、生命あって帰艦すれば、今夜は自慢話に花が咲くことだろう。

 ジャンクや牛車を追い散らしての単調な封鎖作戦だけでは、いかに地味な水上機部隊でもやり甲斐がない。 時にはこのような対敵戦闘の機会が必要なのである。

 このような狭い港湾や山岳地帯での陸戦協力は、速力の大きな戦闘機や攻撃機よりも身軽な水偵隊の方が遥かに有効であり、陸戦隊や陸軍部隊も水上機を大いに歓迎していたのである。

 「神川丸」 艦上では、次々と交代しながら出撃する飛行隊に刺激されて、乗員も陸戦隊となって戦いたいと言い出すことがしばしばある。 搭乗員達は、帰艦後は疲労も忘れてその日の戦闘状況をつぶさに説明しながら整備員達を喜ばせている。

 かくして一機の損害もなく南支沿岸急襲作戦は幕を閉じたのである。 戦死者数名の遺骨をのせて内地に帰還する第三水雷戦隊を上空から翼を振って見送りながら、「神川丸」 は再び地味な沿岸行動に移っていった。
(続く)


2012年09月23日

大空への追想 (25)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第5話 海南島基地

 雷州半島の南端に近接する海南島 (支那領土) は日本の四国に匹敵する面積を有し、安南海峡を挟んで仏印と対している。

 初期の支那奥地に対する渡洋爆撃は大村、高雄基地を使用したが、後半に至り昆明、重慶、成都等の要衝爆撃には、海南島は重要な航空基地であった。 後刻太平洋戦争に連なる仏印進駐作戦に関しても陸海軍の重要基地となっていたのである。

 昭和15年の時点においては、海軍は同島北岸の海口、南岸の三亜に航空部隊 (三連空中攻隊)、特別根拠地隊 (注1) を進駐させ、さらに陸軍部隊が駐屯して沿岸地区から島の中央部に向かって残敵を封じ込めていたが、時折敵の反抗に遭い掃討戦を実施していた。

 なお、海口、三亜、白馬井 (西岸) 等には良好な水上機基地があり、主として 「神川丸」 飛行機隊が使用していた。

 海南島攻略戦(14年)は相当の激戦を展開したが、制圧後も、「神川丸」 は封鎖作戦行動時に、根拠地隊、陸軍部隊の掃討戦に協力を続けていたのである。


        その1 海軍特別根拠地隊の戦闘

 雷州半島方面の作戦も一段落し、15年6月8日久し振りに海南島海口に入港、引き続き同島掃討戦に協力し、中央部の潜伏地点攻撃を四日間にわたり実施した。

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( 1954年版の米軍地図より )

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( 現在の海口  Google Earth より )

 当時次のような快報を手にして我がことのように拍手喝采したものである。

「 15年6月11日、中攻隊は垂慶を大空襲し、2機自爆したが、この日零戦隊が初出動、重慶上空にて敵戦闘機26機と交戦、16機を撃墜した。」


 海南島陸軍部隊は、「神川丸」 来たるというので大いに張り切り、それまで一時休戦状態にあった掃討戦を大々的に再開した。

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( 原著より  海口市上空を飛行する 「神川丸」 飛行隊 )

 6月13日、連続の戦闘で疲労した乗員の鋭気を養うため、朝から海口市へ半舷上陸を許可することになった。 特根司令部も特別配慮をもって、この日は 「神川丸」 乗員のみに海口市を開放してくれた。 (当時海口市内には、日本女性による “レス” (注2) が数軒つくられ繁昌していたのである。) 小生は午後外出することにして、久し振りに艦内で安眠をむさぼっていた。

 1000頃、慌ただしく飛び込んで来た番兵にたたき起こされた。 艦長も残っていた。 急いで馳せ参じて見ると、根拠地隊からの急報である。

「 本日午前10時、湖山市北方において移動中の我が陸戦隊が、敵の遊撃隊と衝突し激戦を展開中である。 至急飛行機隊の救援を乞う。」


 さあ、大変だ 「艦内戦闘配備、飛行機隊出動用意、警急呼集ッ」 在艦者総動員、呼集隊が全舟艇をもって陸岸に走る。 根拠地隊にも手配するやら、私は残っている全搭乗員をかき集め、整備隊は約半数しかいないが、飛行機の試運転にかかった。

 慌ただしいが、そこはいずれも熟練の士である。 作業は次々に完成した。 搭乗員は幸いにも九五式 2機、九四式 2機分が揃った。
(続く)

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(注1) : 海南島特別根拠地隊は、昭和14年2月10日の海口方面攻略作戦に引き続く、三亜方面攻略作戦時新編された 「海南島 「乙作戦」 特別陸戦隊」 をその始まりとしています。

     海南島「乙作戦」海軍特別陸戦隊 (司令官 : 太田泰治少将 (37期) )
         横四特 (司令 : 加藤栄吉中佐 (46期)、約860名)
         呉六特 (司令 : 大田実大佐 (41期)、約730名)
         佐八特 (司令 : 井上左馬二中佐 (44期)、約860名)
         艦船聯合陸戦隊 (九戦隊、一航戦、五水戦、四十五駆逐隊)

  攻略後は、陸戦隊の基地及び三亜航空基地の設営のために第四根拠地隊 (司令官 : 太田泰治少将) として再編成されましたが、その後、海南島の治安維持と開発に従事するため、昭和14年11月15日に 「海南島特別根拠地隊」 となりました。

     海南島特別根拠地隊 (司令官 : 福田良三少将 (38期) )
         横四特 (1424名)
         佐八特 (1906名)
         舞一特 (1924名)
         第十五防備隊 (海口、2186名)
         第十六防備隊 (三亜、1209名、水雷艇 「鷺」 )

(注2) : レストラン (restaurant)、旧海軍の隠語の一つで 「料亭」 のこと。

2012年09月25日

大空への追想 (26)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第5話 海南島基地 (承前)

        その1 海軍特別根拠地隊の戦闘 (承前)

 1100 第一波として九五式 2機を出撃させ、1200 我が小隊も第二波として出動した。

 私の小隊はまず発進後、海口市の上空を低空で警急呼集を伝え、折角お楽しみの連中を慌てさせたうえ戦場に向かった。

 1300 戦場上空に達すると、陸戦隊が軍艦旗をふりながら友軍の位置を知らせると同時に布板信号によって敵陣に対し爆撃要求を出していた。

 第一波の九五水偵隊は、約一時間で爆弾、機銃弾を使い果たし、盛んに擬襲をしながら我が隊を誘導している。

 敵軍とはいうものの、人夫姿の半天と半ズボソに素足で小銃を持っているだけ、市民も正規軍も見分けがつかない。 彼らの動きを見て判断せねばならんのだから苦労する。

 第一弾を指示した目標にたたき込む、大木が吹き飛ぶ、陸戦隊が一斉に突撃を開始した。 しかし、その後方で担架隊が盛んに負傷者を運んでいるのが目に滲みる。

 これは相当の激戦である。 よーしッ、まかせろとばかり、得意の低空飛行偵察すると、木の陰、森の中に青服が約3百名は潜伏している。

 陸戦協力は低空飛行が主になるので、爆弾を残していると危険である。 したがって爆撃が先行する。 徹底的に潜伏地点を爆砕した後は、専ら機銃攻撃になる。 得意の後部射手の独壇場である。

 既に攻撃は開始後4時間を経過したが、後続小隊が見えない。 低空のため、コックピットは蒸し風呂のように暑い。 相当奥地に入っているので四周は鬱蒼たる潅木地帯、コソパスを見ても方向がよく分からない。

 とにかく頑張ろう。 銃身が焼けてしまうので、しばらく擬襲を繰り返す。 大木の陰に約30名の敵が足だけを出してずらりと潜り込んでいた。

「 居たぞーッ 」

 フロートで引っかけるほど突込む。 死んだのか、恐ろしいのか、全く動こうとしない。

「 あと一弾倉 」

 後席から悲壮な叫びが聞こえる。

「 かまわん、射ってしまえ 」

 吸い込まれるように曳痕弾が敵兵に命中する。 死んでも場所を去ろうとしない支那軍の執念深さか、弾丸が欲しい。 やっと分隊長の第三波が視界に入った。

「 後続機が来るぞ、頑張れ 」

 報告球を落して地上軍を激励する。

 かくして外出組は腰を軽くして猛然とやって来た。 おかげで在艦組は外出どころではない。

 「海軍はうまいことを言ったなー、休暇は前期、外出も前半に限るぞ」  帰艦の途についてから、機内の会話は戦果よりも、外出組を羨む声で賑やかであった。

 この日の戦果、敵軍の死傷240名、残敵は潰走して、多数の兵器を捕獲した。 我が方戦傷死15名、とのことであった。
(続く)


2012年09月28日

大空への追想 (27)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第5話 海南島基地 (承前)

        その2 仏印進駐作戦 (IC作戦)

 15年9月1日、支那沿岸でも二百十日がある。 台風を避けて瑞安港の近くに錨泊、明日は50日振りに高雄入港のはず、艦内は不思議に精気が漲っていた。

 入港のお土産に瑞安市を焼土と化してやれ ・・・・ 全機試運転を開始すると艦までが一緒に飛び跳ねるように振動してくる。

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( 元画像 : Google Map 及び 1953年版米軍地図より )

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( Google Earth より )

 さあ出撃だ、というところに 「飛行中止」 「出港準備」 が下令された。 どうしたんだろう、せっかく張り切っての出撃に足止めとは、と地団駄ふんでくやしがっていると、第二南遺艦隊司令長官から命令が来ていた。

 「神川丸は直ちに海南島三亜港に回航せよ」 というのである。 どうやら大作戦が始まるらしい。 副長の思わせぶりの言葉で、新たな闘志を掻き立てた。

 9月6日三亜港に到着したが、特に変わった様子もなかった。 「神川丸はしばらく雷州半島西岸地区の偵察攻撃を実施しながら待機せよ」 という命令を受け、約10日間にわたり連日攻撃を実施しながら、胸のうっぷんを晴らしていた。

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( 1962年版の米軍地図より )

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( 元画像 : Google Earth より )

 一方支那本土攻撃空襲部隊からは胸のすく快報が届き、一同万歳を唱えてその快挙を祝した。

「 9月13日、零戦13機による第35回重慶空襲において、重慶上空に出現した敵戦闘機27機を捕捉し、その全機を撃墜した。 我に被害なし。」

 まさに世界空戦史上輝かしい記録の樹立である。

 9月16日、待ちに待ったIC作戦 (仏印進駐作戦) が発動され、三亜においてIC作戦部隊が編成されたのである。

 旗艦 「鳥海」 (二遣支長官)、二航戦 (空母1)、八戦隊、一水戦、三水戦、二十一駆逐隊、(十二掃海隊、「神川丸」、三連空、陸軍重爆隊、 波集団 (一個師団)、香港飛行隊 (九七式大艇1)

 こんな大部隊が南支に集まったのは珍しいことである。

 「神川丸」 は三亜に基地を設置したが、即日西海岸白馬井基地 (注) に転進した。 支那事変では恐らく他のいずれの部隊よりも糞度胸をもってはいたが、地味な沿岸封鎖作戦とは異なり、大部隊の不気味な行動から感ずる異様な雰囲気の中に、新たな闘志を燃やしていた。

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( 原著より  当時の白馬井基地 )

 作戦開始は9月17日であった。 今度は基地からの発着である。

 「神川丸」 の任務は、艦隊上空の哨戒を空母戦闘機隊と分担し、かつ安南海峡の哨戒であった。

 ただ一機の九七式大艇が、長駆シンガポール付近までの洋上哨戒を担当しているのには驚いた。

 我々は洋上哨戒よりも、艦隊の上空哨戒の方が遥かに楽しかった。 何しろ地上温度が天幕内で38度C、炎天下で54度Cという猛暑である。

 搭乗直前にすばやく飛行服をつけ、急速離水して高度4000米まで急上昇、涼しい2時間の上空哨戒を実施し、交代機がくると急降下、そのまま着水し、速やかに飛行服を脱ぎすてる。 これがわずかな時間ながら猛暑対策であった。

 当時の日本海軍力は偉大なものであった。 これだけの部隊が集まっているところに仏印空軍など手も足も出るはずがない。 したがってこの上空哨戒は搭乗員の納涼空中漫歩とも言えるであろう。

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( 原著より  白馬井基地における著者 )

 ある時の哨戒中にタービランス (気流により航空機が大きく揺れること) に入ると、後席で何かビンのふれるような音がする。

「 おーい、何か変な音がするな 」

 ・・・・ 返事がない。

「 どうしているんだッ 」

 と怒鳴りつけると、偵察員が肩ごしに黙ってサイダー一本差し出した。 見ると、すっかり冷えている。 「ハハーン ・・・・」  兵隊さんは抜け目がない。

 当時冷蔵庫なんてシャれたものはなかった。 そこで、掌衣糧長と兵隊さんの間で密かに約束したのが上空哨戒機に冷蔵庫役を頼むことだったのである。

 「空戦になったら (予想もできなかったが) 即刻投棄すること」 という厳命のもとに許可をすることにした。 こんな戦闘行動も時には必要である。 弓は常に張りつめていてはいけないと教わったはずである。
(続く)

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(注) : 水上機用の白馬井基地の正確な位置及び基地機能などについては不明です。 海南島占領以降太平洋戦争に至るまでかなり利用されていたようですが、恒久的施設の有無なども判りません。 おそらく海岸の砂浜を必要に応じて一時的に使用し、テントなどを設置した程度ではないかと考えます。

  位置については、残された当時の写真及び現在の海岸線の状況などからここ ↓ で間違いないと考えています。


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( 元画像 : Google Earth 及び Google Map より )

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( 元画像 : Google Earth より )

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( 1962年版の米軍地図より )

     もし当該基地について、詳細をご存じの方がおられましたらご教示下さい。

なお、海南島の海口、三亜、黄流の航空基地については、纏めてから後ほど本家サイトの 「旧海軍の基地と施設」 コーナーでご紹介したいと思います。


2012年10月02日

大空への追想 (28)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第5話 海南島基地 (承前)

        その3 バクロンビ島隠密偵察

 上空哨戒と洋上哨戒は交互に実施されていた。 9月22日は洋上哨戒日で、海南島西150浬の洋上にある仏印領のバクロンビ島 (注) という小島の偵察を命じられた。

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( 原著より  バクロンビ島遠景 )

 作戦が本格化した場合、「神川丸」 の前進基地とする計画があり、また軍事施設の有無が艦隊の行動に影響を及ぼすためであった。

 しかし、超低空飛行が何より好きな我が小隊に、わざわざバクロンビ島の高々度隠密写真偵察を命ずるとは一体何を考えているんだろう、という思いもあったが、いきざよく命を承けて九四水偵2機で出発した。

 島の西方30浬には仏印海岸の山々が臨まれた。 あの山の向こう側には仏印空軍の基地がある。 当時仏印空軍は新鋭機約130機を持っていた。

 まず3千米上空、雲の切れ間から緊張した偵察行。 ここから写真を撮っても何が分かるもんか。 この肉眼で施設を確認しない限り満足できない。

 二番機を上空に残したまま、視界外に急降下し高度100米で上空を航過しながら写真撮影、よく見ると、簡単な灯台があるだけの無人島である。 そのまま南下して二番機と合同の上、偽航路をとって帰投した。

 無事任務終了、報告は高度3千米としておいた。 写真が出来るとすべてがばれてしまうが、軍事施設はないんだから別に心配はない。

 しばらくすると 「艦長がお呼びです」 との知らせがあった。 さてはばれたかと、恐る恐る出頭すると、艦長いわく

「 この偵察写真はよく撮れているね、無人島なることが一目瞭然だ。 高度3千米でこれがねー、今の写真機は優秀なんだなー 」

 艦長は俺の行動を見抜いていながら、知らん顔をしていたのである。

 飛行長があとから一枚の写真をそーッと私に見せていわく

「 飛行士、今日の偵察は見事だよ。 「神川丸」 飛行士だけに出来る芸当だ。 褒めておく。」

 その写真は、二番機が正直に3千米上空から撮影したもので、何も分からなかった。 ただ低空で接近してゆく一番機が島と一緒に写っていた。

「 二番機の大馬鹿野郎ッ、これからは重要任務は単機行動に決めるぞ。」

 ・・・・ 一同大笑い。

 とにかくIC作戦は一週間で終わった。 作戦は無言の圧力下に成功していたのである。
(続く)

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(注) (10月5日修正) : 「バクロンビ島」 は、ベトナム語で 「dao Bach Long Vi」 (バック・ロン・ヴィー島) (フォントの問題で綴りはアルファベット表記)、中国語では元々は 「浮水洲」 と呼ばれ、現在では 「白龍尾島」 (バイロンメイ) と呼んでいる島の名と思われます。


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( 元画像 : Google Map より )

     ネットで検索しますと、現在では無人島どころか相当に整備された島のようです。 ただし、残念ながらいまだに詳しい衛星写真や地図などはないようで、1954年版の米軍地図では名前もない白地図です。


Bach_Long_Vi_map_1945_01.jpg

     とすると、逆に疑問も出てきます。 本稿で出て来る島が本当にこの 「バック・ロン・ヴィー島」 のことだったのか、ということです。

一つは、地理的位置が合いません。 本項では “海南島の西150マイルで、その西30マイルには仏印の山々が” とされていますが、「バック・ロン・ヴィー島」 は海南島の北東側にある海口市からでも100マイル少々ですし、仏印へはその海岸線でも最短のところで30マイル以上あります。

また、次のサイト記事からすると、当時からでも無人島どころか、かなり開発された人口密度の高い島であったことになります。



     先に管理人は 「Hon Matt 島」 ではと推測しましたが、この方が原著掲載写真や上記の条件に合うように考えられますし、そもそも高度100mで飛行したとすると 「バック・ロン・ヴィー島」 が本稿でのような表現になるのか ・・・・ 残念ながら今となっては確認のしようがありません。


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( 元画像 : Google Map より )

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( 左 : 1954年版の米軍地図より  右 : Google Eath より )

(追記) : HN 「ebisu」 氏より “ここではないか” とのご指摘いただきましたので、再確認の上で上記のように修正いたしました。  ebisu 氏にお礼申し上げます。



2012年10月04日

大空への追想 (29)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第6話 南寧撤退戦

 この話を特に取りあげたのは、沿岸封鎖作戦における輸送機関の攻撃や、港湾機能の破壊を目的とする陸戦隊の戦闘支援とは異なり、陸軍部隊の地上戦闘に対する空中からの直接支援の戦闘だからである。

 したがって、攻撃目標は地上軍であり、熾烈な防御砲火を冒しての行動となり、無抵抗の輸送機関を相手とする時とは大きく異なっている。

 一般にこのような陸軍の作戦においては、海軍は間接支援が主であり、中攻隊、艦爆隊による要地爆撃がすなわちこれである。

 戦闘機は空襲部隊の直接支援、または、空中戦を求めての攻撃であり、陸上部隊の戦闘に直接協力をするのは、陸軍直協機、又は連絡機であった。

 ところが、「神川丸」 等海軍水上機隊は、昭和13年頃から支部大陸において活躍しており、中攻隊のように華やかな戦果はあげていないが、支那沿岸揚子江沿岸地区における累積戦果は相当大なるものがあり、決して見逃がすことはできない。

 水上機隊の戦闘の主なるものは支那事変の初期においては陸上攻略部隊に対する直接支援であった。

 奥地を除き沿岸地帯の制圧が一段落した時点では、封鎖作戦における輸送機閑の攻撃等、艦船との協同作戦が主となっていた。


        その1 陸上戦闘協力と水上機

 陸軍部隊が地上戦闘に陸軍機の協力を求めず、海軍水上機隊 (特に 「神川丸」 ) が直接協力をしていたのは、変則のように思われるが、これは縄張り根性を捨て陸海協同のもとに、最も効果的な兵力を投入して作戦を実施したに過ぎなかったと思う。

 先にも述べたとおり、陸軍機は移動基地の必要もあり、沿岸に沿って自由に機動できる水上機母艦に比較すれば、陸軍直協機の運用は非常に困難であったはずである。

 また、支那沿岸地帯の戦闘は山岳戦が多く、かつ河川に沿っての行動も多かった。 山の峰一つを境界として敵味方が対時する場合が多いため、高空からの爆撃等は友軍が損傷することもある。

 一方山の斜面に潜む敵軍の偵察は超低空でなければ発見できないのである。地形的に山あり谷ありの山岳地帯を行動するには高速機は不適である。

 このような点を配慮すると、当時の水上機は速力 (100ノット前後) 運動性ともに適していた。 更に、海軍水上機隊は洋上において艦隊作戦に従事するのが使命であり、搭乗員の技量、特に偵察能力等は陸軍機等の比ではなかった。 なお海上に行動する搭乗乗員の常として、低空飛行には絶大なる自信をもっていた。

 さて地上戦闘の直接の協力は、低空銃爆撃を主とし、地上軍との連絡は、当時無線電話はなく、専ら地上布板信号、発煙信号、報告球、手旗等による以外になかった。

 「神川丸」 飛行機隊のように、長期にわたり、陸軍同一師団と行動を共にしていると、両者間に以心伝心的なつながりが生じており、その協同作戦は見事に実施されていた。

(原注1) : 在支水上機隊のうち九五式水偵 (二座) は支那事変初頭、戦闘機と互角の空戦を実施し、数機を撃墜している。 なお上海市街、揚子江支那艦艇に対する急降下爆撃においても艦爆と同等の活躍をしている。 固定銃、旋回銃各1、60瓩爆弾2を搭載し、航続力約5時間、戦闘機、艦爆の中間的存在の水上機であった。


(原注2) : 九四式水偵 (三座)、艦攻なみの機種であり、旋回銃1、60瓩爆弾4を搭載する偵察機で 夜間触接等に活躍した。 支那事変においては偵察攻撃を実施し、航続力7時間、艦隊洋上偵察の主役機であった。


(続く)

2012年10月09日

大空への追想 (30)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第6話 南寧撤退戦 (承前)

        その2 南寧撤退戦闘開始

 昭和14年11月、南支の要衝 “南寧” の攻略は陸海軍協力のもとに実施されたが、十九路軍の精兵を相手に大激戦が展開されたのである。

 仏印国境に近く、香港方面からの輸送上からも支那軍が南寧を固守していたもので、この攻略戦においては 「神川丸」 も自爆2機を出している。

 15年に至り、一応陸軍部隊による掃討戦も終了し、新たに仏印進駐作戦等が予想されていた陸軍 “波” 集団は南寧を撤退することが確定した。

 敵地撤退というのは前例がなかった。 しかも一個師団の兵力が、敵軍 (掃討したとは言うものの撤退を察知して包囲陣を固めていた) の来襲を防戦しつつ、無血撤収をしようというものである。

 南寧一帯から竜文江 (河) に沿って欽州湾に南下した上、約40隻からなる輸送船団により、引き揚げるというものであった。

 このような大がかりの撤退戦は、平和裏に基地を撤収し、喜んで故国に帰還するというものとは全然様相を異にしている。 最前線 (撤退の場合は最後端になるが) では当然のことながら激戦を交えながら防御線を死守する必要がある。 攻略戦以上に困難な作戦である。

 このような情勢にあったことはつゆ知らず、「神川丸」 は支那事変の任務を終えて15年11月6日、長期にわたる戦塵を流し、いよいよ佐世保に凱旋することになったのである。 鳥籠山攻撃を最後に6日早朝佐世保に向け出港、帰国の艦脚も早く8日早朝には佐世保入港の予定であった。

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( 前出 「南支沿岸略図」 より部分 )

 飛行機隊は7日午後全機発艦して一足お先に佐世保航空隊に先行する計画を既に立てていた。 支那での戦闘を回顧しながら、6日夜は久し振りに早寝し、楽しい夢路をたどっていた。

 7日 0300 頃、支那海の横断にしてはいささか静かすぎる、どうも変だと感じてそーッとベッドを離れて艦橋を覗くと、航海士が忙しそうに走り回っている。

「 おい、何かあったんか 」

「 帰国取りやめです。 大作戦が起こりますよ。」

 頭を一発ガーンとやられたような感じで、多少やけ気味にベッドにもぐり込んだ。

 0700、「入港用意」の号令で、みんな狐にだまされたように起床、甲板に出て見ると、なんと瑞安 (前出) の島影に入港しようとしている。

 これで内地の夢は破られてしまった。 目前のご馳走を、ロに運ぶ前に皿ごと持ち去られたような気持ちで、ふくれ顔の面々が士官室に集まっていた。
(続く)

2012年10月12日

大空への追想 (31)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第6話 南寧撤退戦 (承前)

        その2 南寧撤退戦闘開始 (承前)

 朝食時、副長の説明でやっと事情が分かった。

『 南寧撤退を開始した陸軍部隊が予想もしなかった大敵に包囲されて危険に頻している。 陸軍航空部隊が協力しているが意のごとくならず、撤退部隊指揮官から、「神川丸」 飛行機隊の支援を要請してきた。 昨夜二遣支長官から、「神川丸」 は最寄りの港湾で待機せよと命令が出された。 ただ今から作戦準備にかかる。』


 陸軍部隊危うし、「神川丸」 の支援を乞うという文句で、胸の中のもやもやがすーッと消え去った。 一年間にわたって空地で手を振り合っていたあの陸軍が危い ・・・・ よーしッ、今しばらくの辛抱だ。 必ず助けに行くぞ。 内地の夢等さらりと捨てる。

 結局、本艦は途中馬公港に寄港し、食糧弾薬を補給のうえ欽州湾に駆けつけることになった。 旗艦 「足柄」 始め、船団護衛のため三水戦も追いかけてくると言う。

 最大速力15ノットの 「神川丸」 が欽州湾にかけつけたのが11月10日であった。 直ちにい州島 (海南島の北西百五十浬、「い」 は三水偏に圍の字) (注) に水上基地設置にかかった。

 同日N2作戦部隊が編成された。 これによると飛行機隊は、「神川丸」、「能登呂」 (水上機母艦)、「足柄」 水上機隊を合わせ、25機が 「神川丸」 艦長の指揮下に入ったのである。

 「能登呂」 (江上飛行機隊) は後で 「神川丸」 と六航戦 (第六航空戦隊) を編成して連合艦隊に編入させる予定になっていたので、これは上海方面から駆けつけて来たのである。

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( 昭和18年シンガポールにおける 「能登呂」 )

 その搭乗員の顔ぶれは大分変わっていたが、「神川丸」、「能登呂」 水上機隊といえば、一年前の南寧攻略戦において、敵、十九路軍を震えあがらせた海鴛たちである。

 これだけの水上機隊が集まると、基地もなかなか壮観を呈して来た。 一同闘志満々、ジャジャ馬のたずなを必死にしぼっているような感じがする。

 陸軍集団の参謀長が大発でやって来て戦況を伝え、撤退計画、支援要請を説明されたが、25機の水偵隊を見ながら、

「 これで成功疑いなし。 我々は残念ながら陸軍機を頼りにできません。 決して低空には降りないし、各部隊は水上機隊の協力を待ち焦がれております。 よろしくお願いします。」


 と言った。

「 お任かせください。 我々が来たからには絶対心配無用です。」

 「神川丸」 艦長も搭乗員以上に張り切っていた。
(続く)

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(注) : 本項に出てくる水上機基地は、い洲島南側の湾内に設けられたものと考えられます。


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( 元画像 : Google Map 及び1954年版米軍地図より )

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( Google Earth より )

   この島は南支作戦上の海軍の要地として、また海南島と中国本土間の中継基地として重要な位置を占めており、先に連載しました高橋定氏の回想録 『飛翔雲』 でも出てきましたように、陸上機用の航空基地も置かれていました。

同書掲載の写真を見る限りかなりの規模の飛行場の様ですが、どの程度のものだったのかやこの小さな島のどこにあったのかなどは不明です。



( 高橋定氏著 『飛翔雲』 より )

2012年10月16日

大空への追想 (32)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第6話 南寧撤退戦 (承前)

        その3 海驚来る !!

 11月13日N2作戦の幕は切って落とされた。 現地の全貌偵察を実施し、陸軍部隊を激励するため、「神川丸」 飛行長指揮のもとに、20機が編隊で出動した。

 撤退口は竜門江の河口の予定なので、この川の両岸山岳地帯に敵陣が強化されているくらいは素人眼で分かる。

 編隊は川に沿って奥地に進んでいった。 老獪な十九路軍の精鋭が南寧付近に集結している模様との情報はつかんでいたが、さすがに戦に馴れた敵軍、上空からでは何の気配も感じない。

 我が水偵隊を見て喜んだのは日本軍である。 あちらの峰、こちらの森から一斉にとび出して、日の丸を振り、手を振り、小踊りして万歳々々と歓迎している。 “海鷲来たる” もう大丈夫というのであろうが、これで我が方の陣地構成は一目瞭然である。 敵さんも喜んでいるんではないか。

 味方の危険を忘れてこんなに騒ぐのも、飛行機の支援を待ち焦がれていた証拠であろう。 百万の味方を得た喜びが、機上にまで伝わってくる。

 思えば一年前にこの付近の激戦において、「神川丸」 の戦友たちも地上砲火を浴びて戦死している。 あれ以来再びここに同じ陸海の同僚が、空と地から顔を合わせたのである。 以心伝心、「よーし、やるぞッ」 という気迫がみなぎるのは当然である。

 敵側にすれば、この下駄ばき機が恐ろしいはず。 いやな奴がやって来た、と考えているに相違ない。

 全貌偵察に止めようとしたが、各所から爆撃要求の信号が出されるのを見ると腕が鳴って仕方がない。 指揮官機のバンクのみを待ちわびる。

 最先端の陣地を確認した途端、飛行長機が大きく巽を振った。 「待ってましたッ」 とばかり各小隊が四方に散って行った。 降爆高度に急上昇する小隊、銃撃に移行すべく低空に舞い降りる小隊、獲物を追う犬鷲の舞いのような光景が展開された。

 上空からの偵察で、敵の拠点に間違いなしと見た地点に対し、各小隊一斉に銃爆撃を開始した。

 これに合わせたように、地上軍も一斉に進撃を始めた。 我が山砲の弾着点を低空で偵察すると、やはり居た、菜葉服の連中がダニのように山の斜面に這いつくばっている。

 撤退戦は進撃ではない。 川の上流まで遡って定められた川岸に潜む無数の大発に移乗するための血路を開くのが目的である。 このための移動路を護るのが水上機隊の仕事である。

 計画的に前線を後退させながら、飛行機の来ない夜間はジーッと陣地を守って頑張っている。

 暴れるだけ暴れ、友軍を激励、敵のど肝を冷やして引き揚げた。 昨夜入港したのか、欽州湾には40数隻の輸送船団が三水戦に護られながら海を圧して投錨していた。

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( 原著より  欽州湾に終結した輸送船団 )

 敵の潜水艦もなし、機雷の心配もない、空襲もまた予想されない時点では、空中護衛は25機の水偵隊で十分間に合ったのである。
(続く)

2012年10月21日

大空への追想 (33)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第6話 南寧撤退戦 (承前)

        その4 老獪十九路軍を追う

 南寧付近の十九路軍の特徴はまず服装にある。 前述のとおり、支那軍の服装は大体同じようであるが、一般民衆、特に人夫 (クーリー) や農夫との区別が困難である。

 一つの例を示すと、三度笠を被り、あさぎ色 (浅葱色。 薄い藍色、水色、又は薄青のこと) の半天風の上衣に半ズボン、小銃を背負い、天秤棒を担ぎ、それに下げるカゴの中に食糧や身の回り品を入れて、素足で歩いている。 時には傘を背負っていることもある。

 これで田圃道を歩いていようものなら、余程熟練した搭乗員でない限り見逃してしまう。 農夫と思いこんでいると、これが狙撃兵だったりする。

 山林の中や、潅木帯に潜入すると、まことに巧妙に擬装してしまう。 しかしまぬけのところもあり、傘を隠し忘れたり、頭隠して尻隠さずで、素足の部分を丸出しにしていて発見の端緒を作ったりする。

 しかし油断大敵、集団化すると執念深く抵抗し、意外な激戦を招くことがある。 飛行機隊は、相手が一人でも徹底的にこれを叩き潰すことにしていた。

 ある時こういうことがあった。 墓場の石碑の陰に潜む二名の敵兵を発見し、旋回しながら銃撃に移ると、ゆっくりと飛行機を見ながら、旋回方向と反対回りに、石碑の周りを逃げながら巧みに射線をかわす。 結局は飛行機の方が根負けしてしまった。

 また彼らは、諦めもよい。 一般住民でも、逃げきれないとなれば、地に座り込んで飛行機に向かって合掌する。 軍人ともなれば、攻撃されるとすぐ死んだふりをして逃げないのがいる。 絶対に動かない。 そのままあの世に旅立つのもいるが、飛行機の方で急ぐ時は見逃がすので、死の公算は五分五分だろう。

 当方も水偵は2機種で、爆弾は丸出しに付いている。 敵は爆撃をよく見ており、落とした数を覚えており、残弾を知っている。 投下終了と知ると、途端に行動を起こしたりする。 とにかく支那軍との戦いは根くらべである。
(続く)

2012年10月24日

大空への追想 (34)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第6話 南寧撤退戦 (承前)

        その5 山岳戦と神武天皇戦法

 南寧付近は山岳が多い。 陸軍磯は、山の頂上以下にはほとんど降下しない。 陸軍地上部隊があまり歓迎しない理由もここにある。

 「神川丸」 飛行機隊は、無謀とも言えるが、低空銃撃戦を十八番のお家芸としていた。 そのかわり、谷間の獲物を狙いすぎて深追いしすぎ、谷間から脱出するのに上昇力の鈍い水偵が螺旋状の上昇旋回で長時間を要し、辛うじて脱出したという例も多かった。

 11月14日、出撃第一波を命ぜられ、4機を率いて出撃、撤退の日限目標もあって作戦強行の必要があり、激戦の場面が増して来た。

 竜門江に沿った山岳地帯で、山の斜面にへばりついて頼強に抵抗する敵兵約150名を発見した。 山の峰を一つ隔てた反対側には日本軍が迫っている。 いわば峰の争奪戦である。

 一発必中を期して爆撃針路に入ったが、どうしても後席がハソドルを引かない。

「 どうしたんだ。」

と聞くと、

 「 この針路ではちょっと照準が狂ったら味方をやってしまいます。」

 と言う。 しかたがない。

「 銃撃にする。」

 と一声、そのまま飛燕のように襲いかかる。 小隊長に続けとばかり、九五水偵隊が突っ込んやくる。

 「 九五隊低すぎるぞッ 」

 聞こえるべくもないが、思わず叫んでしまう。 引き起こしながら、草をかき分けるように上昇してくる。 帰投後調査すると、そのフロートの先にたくさんの草が食い込んでいた。

 苦しい戦闘の結果一つの戦法をあみ出した。 風を利用しての焼き討ちである。 山の斜面に対し、その山麓付近から爆撃のかわりにガソリソ缶を投下し、後続機がこれに曳痕弾を射ち込むとたちまち豪華な山火事が発生するのである。

 これには敵も手の出しようがない。 我々はこれを神武天皇戦法と称して盛んにこの手を使ったものだ。 原始的な戦法だが、山岳戦における直接協力は尋常一様では効果がない。

 さすがの十九路軍も、火あぶり攻撃にはお手上げだった。
(続く)

2012年11月12日

大空への追想 (35)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第6話 南寧撤退戦 (承前)

        その6 推車嶺の激戦

(原注) : 15年11月15付、「神川丸」、「能登呂」 は支那方面艦隊から連合艦隊に編入され、同日第六航空戦隊を編成した。 ただし、N2作戦終了までは従来どおり行動することになった。


 さて、連日の攻撃で、いささか疲労してきた。 11月16日、今日が撤退戦も峠である。 六航戦としての初陣でもあった。

 戦況から判断して、本日最後の部隊が戦場を離脱する場合、竜門江河口を見下ろす推車嶺の峰に根強く陣を敷いている敵を潰滅させることが最も重要なことであり、恐らくこの辺で両軍の激戦が予想された。

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( 前出 「南支沿岸略図」 より当該部分 )

 本日は水上機隊は全力を投入して、終日波状攻撃を行うことにした。

 まず我が小隊が第一波となって先陣を切った。 大発による川下りはどんどん進んでいた。 欽県地区を偵察後約5分北上したところ、上空からもただならぬ緊張した気配が感じられた。 やはり予想したとおりの戦闘が展開されている。

 推車嶺を中心として、四周を取りまく山々には、竜門江河口側に日本軍の姿が見える。 反対側には敵の姿こそ見えないが、友軍山砲の弾着から見るとこの辺一帯に敵陣があることは間違いない。

 両軍の砲撃戦は、N2作戦中、最も激しさを加えているように見えた。

 目標は友軍の弾着点付近とされているが、推車嶺の峰に友軍の弾着観測所が設置してあるらしく、砲弾は峰をこして谷間の部落に集中している。

 今日は飛行機隊の行動も慎重を期した。 列機の支援を受けながら低空を這うようにして偵察を開始してみると、峰の西側には稜線近くまで友軍の歩兵が進出しており、頂上に接近していた。

 峰の東側は弾着点の部落よりも斜面に沿って森の中にもぐり込むような格好で、ダニのごとくへばりついている。 服装から見て明らかに十九路軍の正規軍である。 その数約500名、両軍ともに峰を境として、相互に砲撃戦を展開しており、地上部隊は対峙の形である。

 偵察を終了して急上昇に移った途端、迫撃砲の攻撃を受けた。 運よく発射の焔を偵察員が目視したことから敵の砲兵陣地を発見した。 事前偵察はこれでよし、一切を基地に報告するとともに報告球をもって地上司令部に連絡する。

「 我れ死力を尽くしてただ今から銃爆撃を開始する。 しばらく砲撃を止められたい。」

 単縦陣となってまず真っ先に敵の砲兵陣地に突っ込み爆撃を開始した。 12弾をたたき込んで完全に沈黙させる。 続いてお得意の低空銃撃戦に移った。

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( 原著より  爆撃中の水偵隊 矢印の位置に我が水偵 )

 今日は両軍接近戦になるので、焼き討ち作戦は取りやめた。 飛行機隊の銃撃開始とともに、友軍歩兵の前線が一斉に山頂に突入し、日の丸を盛んに振り出した。 捨身の 「神川丸」 飛行機隊の攻撃で、敵は戦意を失ったのか、潰走するのがよく分かる。

 約3時間の奮戦で推車嶺の峰は完全に占領した。

 この日の夕方陸軍部隊 (中川兵団参謀長) から感謝電が届き、艦長からは特に清酒二本を頂戴した。

 海軍の面白い一面である。 命をかけた激戦のご褒美に清酒二本は少なすぎるが、明日への闘志を盛り上げるのには効果十分である。

(感謝電)
 本十六日、午前九時四十分ごろ、推車嶺付近における森山部隊、林部隊の接戦に際し、海軍機の熱切なる攻撃により、多大の戦果を収め得たり。 ここに慎しみて感謝の意を表す。

(続く)

2012年11月15日

大空への追想 (36)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第6話 南寧撤退戦 (承前)

        その7 無血撤退作戦成功、さらば南支よ

 11月17日、早朝から大部分の陸軍部隊は、大発で川を下った。 結局は推車嶺に対峙した部隊が最後になった。

 この日飛行機隊は、川の両岸の爆撃に専念していたが、我が小隊の爆撃目標は川の支流に近かった。 爆撃を終了して集合点に向かう途中、見馴れない舟艇が数隻川を下るのに不審をいだぎ急降下してみると、襲撃されると思ったのか、カバーをかけた舟艇から一斉に人間が川の中に飛び込み出したのである。 明らかに十九路軍の舟艇部隊である。

 さすがに敵の名に恥じず、ねちっこい連中だ。 恐らく、日本軍の大発を側面から狙ったものに違いない。 「襲えッ」 と合図しながら飛びかかった。 各機猛烈果敢に全弾を射ち尽くすまで、暴れに暴れた。

 舟艇のまわりの水面はたちまち真っ赤に染まり、その赤い水が下流へと流れてゆく。 舟艇はエンジンに命中したためだろう、3隻は火災を起こした。 この思わぬ戦果は高く評価され、艦長の期待にこたえることができた。

 かくて17日の夜間、40隻の護衛船団はほとんど満杯になった。 ほとんど無損害裡に撤退できたのである。 (負傷者はあったが)

 18日早朝陸軍部隊は船団で帰還の途についた。 しかしながら湾口を出るまでは安心はできない。 接近している山上から砲撃をうければ、何の防御設備もない輸送船なんかひとたまりもない。

 飛行機隊は、南支への訣別の挨拶と、陸軍部隊の無血撤退のお祝いを兼ねて、陸岸地帯への威嚇爆撃を実施した。 いよいよこれが最後の爆撃と思うと、まことに感無量のものがあった。

 三水戦に先導されながら徐々に速力を上げてゆく船団に対し、全機単縦陣となって、舷側すれすれに訣別の飛行を実施した。 送る者、送られる者、一週間の死闘のあとをふり返って見れば、万感胸に満つるものがある。

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( 原著より   母国へ向かう陸軍部隊との決別 )

 船列の中に病院船が一隻、真っ白い姿のナースたちが盛んに手を振っている。松葉杖にすがって手を振る傷病兵の姿に、思わずキューンと胸をしめつけられた。

 船団と飛行機隊の訣別行はなかなか離れ難く、い州島 (前出) の基地を遥かに遠ざかるまで続けられた。

 さらば南寧よ、南支よ、平和を取りもどしてからまた会おう。

 この夜N2作戦部隊の解散に伴い、支那方面艦隊司令長官から次のような感無量の別辞があった。

 第六航空戦隊は、今次の欽州湾作戦にあたり、適切に陸軍作戦に協力し、その飛行機隊は、練熟せる技量と果敢なる行動とにより、敵の企図を挫折し、もって前例なき敵地撤退を無損害裡に完了するに寄与するところ最も大なるものありたり。
 特に 「神川丸」 は久しきに亘る南支方面の炎熱風涛に抗し、沿岸協同作戦において、克く万難を排して友軍を窮地に救い、遺憾なくその威力を顕揚せり。
 今やN2作戦部隊を解散するに当たり、作戦の成功をよろこぶとともに、諸員の労を多とし武運長久を祈る。
 時局いよいよ艱難を加うる折柄、一層の自愛と奮闘を望む。

(続く)


2012年11月17日

大空への追想 (37)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第7話 想 い 出

        その1 高雄市と 「神川丸」

 「神川丸」 は支那事変初期から中支、南支とかけめぐりながら、数々の武勲をたててきた。 飛行機隊も百戦練磨の士が多く、炎熱下の支那沿岸を機動しながら、よくも続くと思うくらい、連日飛んでいた。

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( 原著より   15年11月撮影の 「神川丸」 飛行科勇士の面々 )

 艦内では特に慰安とてなく、搭乗員達は、飛んで戦うことに何よりの慰安を求める心境になっていた。 明日は飛ばねと決まった夜、せめて酒に心を癒すくらいのもの。

 こういうと艦内生活は殺伐の感がするが、これのないのが水上機母艦の特徴とも考える。 特に 「神川丸」 は特設水上機母艦で、大型貨物船である。 航海長、運用長、機関科分隊長等、この船を動かす主力の士官は商船出身の予備士官で、いわばこの船のぬしである。 この種の船の運用は実にうまい。 一方ユーモアに富んでおり、士官室を退屈させない。

 飛行隊の士官といえども、戦闘のない時は航海直をやる。 艦位測定等はお手のもの、水上機乗りのシーマンシップもこの辺から自然に培われるのである。

 戦場生活の水上機母艦乗員達唯一の楽しみは、やはり45日ごとの台湾高雄入港であった。 高雄市もまた 「神川丸」 に対しては市をあげて特別の歓迎をしてくれた。

 4日間の休養だが、南支の勇士たちのため、何軒かの 「レス」、「バー」 等が一般人の立ち入りを止めて待っていたのである。 全く夢のような思い出である。

 高雄入港の一例をあげてみよう。

 入港の2時間前にもなると、艦橋には日頃顔を見せない連中までがやってくる。 見張用の十二糎双眼鏡は、臨時見張員で満員になる。

 「神川丸」 の入港はマル秘のはずだから関係者以外には知らされない。 高雄海軍武官府がすべての窓口になる。 関係者というのは艦の補給に関連する部門が主であるが、歓迎部門の花街が、うまい連絡法によって繋がっていた。

 臨時見張員の目標は、障害物ではなくて、高雄港入口の岸壁であった。 岸壁上に高雄市のきれいどころが正装でずらりと整列し、日の丸の小旗をもって登舷礼で迎えてくれるのである。 迎えられるみんなの目の色が変わるのは当然である。

 実は私は最初の入港時、この光景を見て、艦長にくってかかったことがある。

「 艦の行動は秘密のはずだが、なぜ、彼女達は知っているんだろう。 不思議に思わんですか。」

 すると艦長はうまいことを言った。

「 君の小隊のごとく、以心伝心だよ。 次の入港くらいから君も眼鏡を覗くようになるだろうなー。 これだけは止めようがないよ。」

 あの狭い高雄港内では、貨物船とはいうものの一万トンの巨体、潮風にうたれて白っぽく焼けたグレー色の船体に、高く掲げられた色も鮮やかな軍艦旗をなびかせ、いかにも南支の空をかけめぐって来た感じでいっぱいの精悼な水上機がぎっしりと甲板を埋めつくしている姿は、まさに高雄港を威圧するに十分であった。 「ご苦労様でした」 の一言に尽きる。
(続く)

2012年11月19日

大空への追想 (38)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第7話 想い出 (承前)

        その2 酒と彼女と搭乗員

 高雄の港に横付けが終わると、艦隊入港と同じく 「外出用意」 が元気よく令される。 外出員の整列というのは全く速い。 海軍の特徴だが、戦場帰りの連中は特に速いようだ。

 飛行隊は特別恩典があり、入港すると、出港当日の朝まで連続外泊が許可される。 しかし士官の方は一般と同じく当直勤務がある。

 戦場で暴れるためか、搭乗員は割と静かな座敷を好む。 銃撃音と爆弾音に明け暮れる生活に命をかけて、1〜2ケ月を送っている者からすると、この気持ちはよく分かる。

 機上からクーニャンばかり眺めているせいか、日本女性の姿はやはり懐かしい。 正直のところ海軍中尉華やかなりし時であったが、特別のことがない限り、大きな顔して 「バー」 等を飲み歩く気になれなかった。 やはり家庭的雰囲気を望んだ。

 上品な表現をせず、はっきり言うと、彼女?と一緒に静かに暮した方が、荒れた気持ちが洗われるのである。 4日後には再び戦場の生活に入る。 いかに支那軍相手というものの、敵弾との勝負である限り、次の逢う瀬は約束できない。

 とにかく人それぞれに高雄入港中の暮し方を計画して帰ってくる。 この計画が希望どおりにゆくか否かが、以後の戦果に影響することは事実である。 こう考えると、高雄での彼女達の役目はなかなか大きいものがある。

 私はこの反対の場合が多い。 3回目の入港だったか、喜び勇んで外出してみると、彼女は台北に出かけており、遂に会う機会がなかった。 散々市内を暴れ回っての出港となってしまった。

 飛行長はこの事情を知っていたので、内心小生の戦場の行動を注意していた。 確かに気はイライラしていた。 出港しても士官室で余り高雄の話が出ない。 みんな小生に対して遠慮しているのである。

 さて、出撃後初回の攻撃時、いつになく後席の偵察員がおとなしくしている。 「今日は暴れてやるぞッ」 との出発時の一言を、高雄との行動を関連させて、くだらん気をつかっているのかもしれない。

 この日の涵江港湾爆撃は、4弾とも見事に命中した。 突っ込んでゆく時に、目標が 「S」 (注) の顔に見えた。 「畜生ッ」 と心に叫んでの投弾だ。

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( 原著より  銃撃により炎上する燃料船 )

 帰艦してすっかりご機嫌になった私を見て、飛行長いわく、

「 君が高雄に入港した時は、君の 「S」 を隠しておくことにしよう。 その方が戦果が挙がる。」

 くだらんことをぬけぬけと書いたが、純情な海軍中尉時代の一コマである。 お許しあれ。
(続く)

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(注) : 旧海軍の隠語の一つ。 エス = Singer = 芸者 のことですが、これを各自に関連して使う時はその馴染みの芸者 (これも隠語で “インチメイト” 又は単に “インチ” ) を指し、特に “She” 即ち 「俺の彼女」 的な意味合いが含まれている場合が多いです。


2012年11月21日

大空への追想 (39)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第7話 想い出 (承前)

        その3 「神川丸」 の地味な戦果

 太平洋戦争 (第4章に予定) のようなものとは、戦闘内容そのものが違っており、極めて地味な作戦であり、華々しい場面がなかった。

 零戦隊のように、出現した敵戦闘機全機撃墜とか、重慶強行爆撃等に比較すると、戦果そのものも地味なものであるが、封鎖作戦というものから見れば、これら小さい戦果の積み上げが大きな効果をもたらすものであることに注目して欲しい。


 昭和14年11月から昭和15年11月までの1年間の 「神川丸」 総合戦果 (戦闘詳報より)

       攻撃した敵兵    : 1万7400名 (内5300名を致死)
       戦車          : 6両爆砕
       部落(大小)     : 533ヶ村爆撃炎上
       自動車        : 113両破壊
       ジャンク等      : 852隻攻撃 (内216隻撃沈)
       倉庫          : 357棟破壊又は炎上
       橋梁(大小)     : 39大破
       牛車荷車       : 725両損傷
       敵機          : 6機と空戦 (効果不明)

       我が方の損害    : 九五式水偵4機 (8名) 自爆


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( 原著より  戦友の胸に抱かれて故郷へ )

(第2章終わり)