2012年06月29日

大空への追想 (序)

連載の開始にあたって

 これから連載を始めます 『大空への追想』 は、海軍兵学校第64期 (昭和12年3月23日卒) の故 日辻常雄氏の回想録です。

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 この回想録は、かつて私が初任幹部の時代に海上自衛隊の部内誌に連載されたものですが、その後昭和56年に改めて1冊に纏めて印刷・製本の上、部内誌別冊として限定配布されました。

 そして、『最後の飛行艇』 と題して、昭和58年に 「太平洋戦争ノンフィクション」 シリーズの一つとして今日の話題社から、続いて平成6年には 「新戦史シリーズ」 の一つとして朝日ソノラマから出版されました。

 ただし、一般刊行物として出版されるに当たり、元の第5章〜第7章がカットされて、第1章〜第4章のみが収録されたことなっていますが、その第1章〜第4章にしても大幅に変更・修正がなされています。

 元々が海上自衛隊の後輩に書き残すことを意図した内容のものですから、商業出版物とするにあたりある程度は致し方ないものとは思いますが、元の内容・様相とは大きく変わってしまっています。 『最後の飛行艇』 というタイトルも、私からすれば本回想録の実態を表していないと思います。

 しかも、残念ながら市販の両シリーズにしても現在では既に絶版になっており、古書で入手するしかありません。

 その一方では、元々の回想録が連載された当時の部内誌はもちろん、後に1冊となって配布されたものも海自部内にはもうほとんど残っていないと思います。 (目の前の勤務に直接関係しない文書類が長く保存されるような組織ではありませんので。)

 だからこそそれが時々古書店に並び、それを入手された方々のサイトやブログの記事などにもなっているわけです。

 私も定年退官した今、この 『大空への追想』 と題された素晴らしくかつ貴重な回想録が、現役の若い海上自衛官のみならず、ましてや一般の方々の目に触れず、このまま消え去ってしまうのは如何にも惜しい、勿体ない、そう思わずにはいられません。

 それはこれからの連載をお読みいただければ充分にお判りいただけるでしょう。

 ただし、ご遺族のことなどについての詳しいことは存じ上げませんので、私のこのブログでの掲載に当たり著作権についての許諾は得ておりません。 また海自の発行元にも版権や編纂権上の確認もしておりません。

 したがって、正式にはそれらのことを無視したものであることを承知の上で掲載いたします。 それは上に記したとおりの意志からであり、かつこの貴重な回想録は日本人としての宝だと思うからです。

 このブログにご来訪の皆様も、是非じっくりお読みになり、この回想録の素晴らしさを味わって下さい。

 もちろん、正当な権利を有する方からの要求があった場合には直ちに削除することは言うまでもありません。 これが前提での掲載であることを予めお断りしておきます。

 なお、ブログ掲載にあたり、読みやすくするために段落などを細かく区切りました。 もしこれによって本来の著者の文意が変わってしまったとしたら、それは私の責任であり、ご容赦をお願いいたします。

大空への追想 (1)

著 : 日辻常雄 (兵64期)
第1章 水上機の巻

    第1話 大空への憧れ

        その1 故 郷

 「オギャーッ」 と産声をあげたのが大正3年 (1914年)、茨城県は筑波山の麓、霞ケ浦に流れ込む桜川を囲む沃野一望の中の片田舎である。 海軍航空のメッカ霞ヶ浦から飛び立つ練習機の唯一の目標は “筑波山ヨーソロ” である。

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( 原著より )

 この山に抱かれ、飛行機の爆音を開きながら育ったのだから、大空への憧れが人一倍強くなったのは当然である。

 小高い丘の上の小学校に学び、裏にそそり立つ石山の上に登って、遥かに霞ヶ浦航空隊のツェッペリン飛行船格納庫の大きな銀色の建物を眺めながら、虫のように飛び上がった飛行機が次第に近づいてくるのを待つのが何よりの楽しみであった。

 土浦中学校に通学し始めてからは、市内を闊歩する航空隊士官の姿が強く目に滲みるようになっていた。

 昭和7年頃、毎日のように新聞紙上を賑わせる上海事変の海鷲の活躍、その大胆不敵の行動に心を踊らせるようになったのが中学4年、

「 よしッ。 俺は海兵に入ろう。 若いうちに思う存分暴れ回ってパッと散ってしまいたい。 それには飛行機乗りになることだ。」


 という一風変わった考えを心の中に決め込んだのである。 家は貧乏だが親戚が応援してくれるはずだ。

 当時の教育環境だが、死を大前提としての教育は軍隊ばかりではない。 北畠親房公が神皇正統記を書いたという小田城跡を残している我が故郷、やはり俺の体の中には勤皇の血が流れていたのである。

(続く)

2012年07月01日

大空への追想 (2)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第1章 水上機の巻 (承前)

    第1話 大空への憧れ (承前)

        その2 血書事件と海兵入学

 霞ケ浦、海鷲の町に溢れる青年士官の姿と、支那事変の雰囲気による大空への決心はますます深くなっていった。

 中学校には張り切った配属将校がおった。 この先生が私の海兵希望をさらに煽ったのである。

 4年生の秋、配属将校が霞ヶ浦航空隊司令 (注) のもとに軍部学校志望者8名を連れて訪問し、激励を受けたことがある。

(注) : 昭和6年のこととすると、当時は小林省三郎少将 (兵31期) になります。

 この時司令は、

「 海兵、陸士の受験はまず厳重な身体検査からである。 ちょうど今操縦練習生採用試験の身体検査が行われているから一緒にやってやる。」


 と言われ、早速検査を受けることになった。

 きびしい検査が終わってから軍医長いわく、

「 君は立派な体格だなー、満点だ。 操縦練習生を今志願しないか、合格疑いなしだぞ。」


 私は即座に、

「 海兵を希望しています。 海兵に入ってから飛行機乗りにはなれませんか。」

 と尋ねた。 すると軍医は、

「 それはなれるよ、しかしね、こんな立派な体格の持ち主は、とかく海兵には入れないものなんだよ。」


 と笑っていた。 さすがは名軍医、俺の頭の程度を見抜いていたようだ。

「 合格して見せます!」
「 しっかりやれよッ!」

 私の大空への希望はこの時固まったのである。 パイロットとしての身体検査に合格の大鼓判を押された以上、是が非でもこの自信のない頭の方を叩き直さなければならんと決意した。

 中学5年、とにかく海兵を受験した。 幸か不幸か、第一次身体検査、4日間の学科試験とも通過した。 150名の採用に対し、最後に残った者がなお750名おるという。 運は天にまかせるのみ。 ところがここに大事件が勃発した。

 昭和8年1月の新春 “土浦中学校に赤の卵” と地元新聞が一面五段抜きのセンセーショナルな記事を書きまくったのである。 まさに晴天の霹靂である。 学校中がひっくり返るような騒ぎとなり、父兄も悲嘆のドン底にたたき込まれてしまった。

 当時の教育環境からすれば大変な問題である。 校長以下、頭を抱えこんでなすことを知らず、配属将校からは、

「 残念だが今年の軍部学校受験生はあきらめろ、先ず採用はあり得ない。」

 と言い渡された。 私は悲憤慷慨の余り、半ばやけくそとなってある行動に出た。

 級長をしていたので、先ず先生に頼んで授業はやめ、1年生に至るまで、少しでも怪しいと思われる奴等については、授業中にもかかわらず先生を無視してその教室に入り込み、指名の上外に連れ出し徹底的に糾明した。 しかし赤の卵等全くいなかったのである。

 私は更に5年生一同を教室に閉じ込め、

「 ただ今から一同血書をもって本校には赤の該当者はおらぬことを声明し、赤新聞の謀略であることを訴え、明日県知事、文部大臣、陸軍大臣に、この血書を持参提出したい。 賛成の者は俺に倣らって欲しい。」


 と勇ましい言葉を吐いた後、自ら左指先を切った。 私の心中には海兵望みなしという配属将校の言葉が焼きついていた。 総員が同意し、教室中に血の匂を漂わせてたちまちのうちに三通の血書ができ上がった。

 しかしその晩のうちに先生たちの必死の説得にあい、血書提出は差しとめられたのである。 学校当局も立ち上がり、父兄とともにかけ回って新聞社に謝罪文を書かせたりして、やや騒ぎは峠をこしてきた。

 2月11日紀元節、式を終わって帰宅すると、「海軍兵学校生徒に採用の予定、採用委員長」 という速達が舞い込んだ。 両親が泣いていた。 私はその通知を鷲づかみにして学校に舞い戻った。

 会議中の職員室に飛び込んだ異様な顔色の私を見て、先生達は一瞬警戒の色を見せた。 黙って差し出した通知書を、私の手からひったくるように取りあげた配属将校は、たちまち目を光らせて大声を張りあげた。

「 日辻が海兵合格しましたッ!」

 と手を高く差し上げると、先生達は歓声をあげたが、皆涙を流していたのを今でもよく覚えている。 校長も、

「 よかったな。」

 と一言いい泣いていた。 校長にすれば、私の合格よりも、この騒ぎの渦中にあって海兵合格者が出たということで、今回の事件なんか問題にしていないことを実証してくれたことが嬉しかったのである。

 翌日の朝礼の際、陸士合格も一名出たことが分かり、総員の前で、私ども2名がお立ち台の上で紹介され、校長は、

「 海兵、陸士合格者が出たということは、本校の赤誠が認められたものであり、今回の事件はこれで解決した。」


 と言われた。 どこからともなく万歳が叫ばれ、校歌の合唱となって、三枚の血書がその場で焼き捨てられたのである。 嬉しいやら恥ずかしいやら、穴に入りたい気持ちとは、まさにあの時のことであろう。 全く波乱の中の海兵合格であった。

(続く)

2012年07月06日

大空への追想 (3)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第1章 水上機の巻 (承前)

    第1話 大空への憧れ (承前)

        その3 海兵時代の航空実習

 片田舎で育った人間が海兵に入り、正直のところ “い” と “え” の発音の区別ができないのだから馬鹿にもされ、かえって人気者になったりもしたが、とにかく苦闘の連続であった。

 ただ一つの息抜きは体育の時間である。 特に鉄棒、平均台、陸上競技は私の得意とするところであった。

 ここで一言ふれておくが、操縦の勘と、体操の勘は必ずしも一致しないものである。 その実例は数多く見ている。

 霞ヶ浦の軍医長から見抜かれた頭の方はどうも具合が悪かった。 大空への夢も何回となく消えかかろうとしたが、自ら “活” を入れて頑張り通した。

 海兵には夏冬の2回の休暇が毎年あった。 卒業までに8回のこの休暇をいかにして活用しようかと考えたあげく、故郷の地の利を占めて、霞ヶ浦航空隊での体験飛行を思いついた。

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( 冬と夏の帰省休暇中の著者  原著より )

 当時既に支那事変に入っており、航空隊も多忙であったが私は大歓迎された。  見学にゆく度に、各飛行隊から体験飛行に引っ張り凧にされた。 それは優秀な後輩を育てようというよりも、この生徒を一泡ふかせてやれという野次馬的歓迎の方が強かったように思う。

 青くなったり、酔っぱらったりはしたが、8回の体験を積んだので海兵卒業頃には操縦桿の動きと飛行機の姿勢くらいはよく分かっていた。 この体験は飛行学生適性検査に大きく貢献したことはもちろんのことである。

 海兵卒業前に毎年航空実習が行われた。 水上機母艦が江田内に入港して各種の同乗飛行が行われたが、その中で写真銃射撃が適性検査の一つになっていた。 九五式水偵の後席から、襲いかかる目標機を射撃し、照準点との関係からその成績を求めるものである。

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( 九五式水上偵察機 )

 当時私は射撃の名手であった。 拳銃小銃射撃ではこれまでに海兵で3回、舞鶴警備府で1回、海自4空群司令の時に群司令射撃大会で1回優勝している。

 写真銃射撃の結果は、専門偵察員を凌ぐものと賞讃されて、大空への希望にますます胸を膨らませていった。

(続く)

2012年07月12日

大空への追想 (4)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第1章 水上機の巻 (承前)

    第2話 待望の飛行学生

        その1 適性検査 (相生教官の手解き)

 12年の秋、遠洋航海を終了すると1か月間の航空実習が待ち構えていた。 飛行学生発令までにはその後1年間の艦隊勤務があるのだが、この航空実習が飛行学生への最後の関門である。

 いろいろな地上検査を修了すると、いよいよ同乗飛行が行われる。 我々の場合は筑波航空隊 (注1) で行われた。

 しかし、これが大変である。 海兵四号に入校したような雰囲気になってしまう。 実戦で鍛えた教官たちが手ぐすね引いて待っていた。

 搭乗前に航空希望の程度を書いて出すのだが、当時支那事変における航空隊の活躍が影響し、63期までは総員が熱望していたと聞いている。 したがって書く文句が振るっていた。 “支那事変的大熱望” “決死的大熱望” 等が大半を占めていた由、指導官から、大熱望、熱望、望、不望の4種類に限定されたが、64期には3名の不望者があった。

 おかげで飛行終了後、一号対四号のごとく、次々と若い教官達のお達しがあり “最近の海兵教育はなっとらん” とまでどなりつけられた。

 さて、この適性飛行だが、3回の飛行をやるが、最後の1回が締め括りであり、何かの都合で私は最終の番になってしまった。

 不望者の3名は、気の毒にも離陸直後からアクロバットの連続で適性どころか青くなって帰ってきた。

 いよいよ順番がきた。 教官は誰あろう、最も恐れをなした相生中尉 (若かりし日の相生海将) (高秀、海兵59期、戦後は海自自衛艦隊司令官を最後に退職、海将)

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( 中国大陸における相生中尉  原著より )

(相) 「君の希望は。」
(日) 「大熱望です。」
(相) 「よーし。」

 ということで間もなく離陸した。 一応説明を受けて上昇姿勢のまま操縦させられた。 8回の体験飛行が効を奏することになった。 旋回計の球は見事に中央に止まっている。 上昇旋回、水平飛行、パワーは教官が入れるが、我ながら上手いもんだと感心した。

(相) 「 上手いなー、君は飛行クラブにでもいたのか。」
(日) 「 素人です。 海兵の8回の休暇を利用し、霞ヶ浦で乗せてもらっておりました。」
(相) 「 よーし、今からアクロバットをやるからよく見ておれ。」

 爆音が変わった。 どんどん高度をとって始まった。 連続のスタントである。 水平線を見ながら飛行機の姿勢をとらえていた。

「 今からキリモミに入る。」

 と言うとまもなく機首が下がり、2〜3回旋転した時、相生中尉の

「 これがキリモミ。」

 という声を聞いたが、雲と地面が交互に目に映るだけだ。 懸命に地面の一点を眺めていた。 なかなか止めない。 飛行場の周囲では農家が稲刈りの最中であった。 農夫の顔がよく見えだした時、

「 地上20米だ。」

 の声と、パーッと農夫が逃げ出すのが同時だった。 相生機以外、空には一機もいなかった。 飛行場ではキリモミのまま松林から姿を消したこの飛行機を見て “事故だッ” とサイレンを鳴らして、消防車とトラックが走り出したのである。

「 学生は日辻だぞ。」
「 とうとうやったか。」

 大騒ぎになった。 空では相生さんが超低空のまま、松林の陰を飛びながら、

「 少し低くなったがよく分かったろう。」

 と平然として救助隊と反対方向の松林を越え、サーッと飛行場に入って行った。

 海自に入って鹿屋で相生司令 (注2) に対面した時、相生さんはこの時のことをはっきりと覚えておられた。

「 君とはあの時以来初めてだが、君のことは強く印象に残っている。 恐ろしく操縦が上手いなーということ、日辻という珍しい名前だということ、戦闘機にとって鍛えてやろうと思っていたら水上機にまわされてしまったこと、この三つの印象が残っている。」


 と言われたが、まさに私が希望どおり飛行学生になれたのは、相生中尉の手解きであったと感謝している。
(続く)

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(注1) : 筑波航空基地については、本家サイトの次の記事を参照下さい。


(注2) : 昭和28〜30年の間の話しで、当時相生氏は鹿屋航空隊 (現在の第1航空群の前身) 司令、2等警備正)


2012年07月15日

大空への追想 (5)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第1章 水上機の巻 (承前)

    第2話 待望の飛行学生 (承前)

        その2 水上機学生

(基本に忠実になることが上達の早道である)

 飛行学生の課程は座学は一緒であるが、飛行は最初から陸上機、水上機に分かれていた。

 私は戦闘機の希望はまず断たれて水上機専修学生となった。(注)  担当教官は61期船田 (正) 中尉 (後の渡辺空将)であり、補佐が斉藤飛曹長であった。

「 学生は丸坊主になれ。」

 という指導官のお達しが出て、船田教官自ら丸刈りにされて学生に範を示すという状況であり、ここに再び一号、四号の関係にたちもどったのである。

 最初の慣熟飛行は斉藤教官であった。 九〇式水上初練でいよいよ本格的訓練に入ったが、私は過去のすべてを捨て尋常一年生にもどり、基本を忠実に身につける覚悟をきめた。

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(九〇式水上練習機)

 言われるとおりに飛ぶだけだが、最初から離着水がうまくいったということで教官は、

「 飛行体験がない人としては、うまいねー、卒業前の練習生くらいの技量だ。」

 と独りで感心していた。 私には何がなんだか分からんし、うれしくもない。 やはりこの段階までは飛行体験プラス8回のおかげだったのかも分からない。

 13時間の飛行時間に達するころ、学生単独飛行の一番乗り3名が選ばれ、その一人に指名された。

 教官、学生注目の中で、3機が順々に出発した。 前席にだれもいない、自分独りの飛行、うれしい中にも、ひしひしと孤独感を覚えるあの緊迫した気持ちは永久に忘れられない。

(原注) : 初練は教官前席、後席が学生、中練以上の席はこの反対である。

 風力なんか余り気にしない、吹き流しの方向だけを守って、離着水もうまくできた。 着水点は余りにも遠かった。 恐らく誰も見ていなかったろうと思いながら意気揚々と帰って来ると、船田教官が待っていた。

「 あれでいい、もう少し近くに降りろ。」

 と一言、やはり教官である。 滑りを離れてから帰るまで、十二糎双眼鏡から目を放されなかったのである。

 飛行機の操縦だけは初棟の教官の一挙手一投足が一生身について離れないものである。 私の水上機操縦は、この時から堅実な船田式になっていた。
(続く)

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(注) : 基地名が書かれておりませんが、昭和13年当時はまだ水上機教育も霞ヶ浦航空隊で行っており、水上機班は同基地の青宿地区にありました。 後に土浦航空基地となったところです。 詳細については本家サイトの次の頁をご覧下さい。



2012年07月17日

大空への追想 (6)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第1章 水上機の巻 (承前)

    第2話 待望の飛行学生( 承前)

        その3 指導官からほめられた中練初の失敗

(急がば回れ、疑問を残したまま飛ぶな)

 初練課程を終わり、一歩進んだ中練段階は鹿島航空隊初代学生 (注) として、九三式水中練に取り組んだ。 だんだん本物の飛行機に近づいてきた。 教官も一緒である。

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(訓練中の九三式水上中間練習機)

 中練段階になると、学生は自信過剰の傾向に陥り易い。 いかにも一人前のパイロットになったような気がするものだ。 同時に、何をやっても同じだが、サインカーブ的にスランプが生ずるのも事実である。 はっきりこれを自覚しておく必要がある。

 初練では上手にできても、偶然があり、真に了解していない場合が多い。 中練段階 (百時間) に入って水面を見ながらの引き起しに乱れが出てくる。 これを教官が指導して、早くこのスランプを乗り切らねばならない。

 中練の単独離着水を開始して二回目、どうも高起こしの癖があると自覚していたが、現実にそれが起こった。 落下着水だ。

 相当のショックを感じ、主翼中央張線の振動が増したので、そのまま訓練を中止し、はるばると水上滑走しながら帰ってきた。 教官たちが話し合っていた。

「 日辻は今引き起し高度に迷いが生じている。 あすから同乗飛行に移せ。」

 ということらしかった。 揚収後調査すると、フロート (双浮舟) 間隔が少し開き、中央張線が二本つけ根から切れていた。

 飛行終了後、指導官伊藤少佐が学生を集めて訓示された。 しかられることを覚悟していたのだが、

「 本日は指導官として非常にうれしく感じたことがある。 日辻学生が高起こしをして落下着水をやった。 これはだれでもあり得ることだ。 しかし日辻学生は異常の有無を確認するため、飛行をやめて遠い所から滑走して帰って来た。 結果は判明したとおりである。 あの場合、このくらいのことという気を起こし飛行を続行したら大事に至ったかも分からない。 今回の処置は不良着水よりも数段立派な行為である。 パイロットは、異常があったら飛行をやめて確認するという習性を身につけねばならない。」


 失敗してはめられたのはこれが初めてである。 その後二日間の同乗飛行で、完全にスランプを切りぬけることが出来た。

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(原著より  鹿島航空隊における著者と九三水中練)
(続く)

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(注) : 鹿島航空基地については本家サイトの次の記事をご参照下さい。


     霞ヶ浦航空隊水上機班がこの鹿島航空基地へ移転して鹿島航空隊となったのが昭和13年12月15日ですので、著者はまさにここの初代飛行学生であったことになります。


2012年07月25日

大空への追想 (7)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第1章 水上機の巻 (承前)

    第2話 待望の飛行学生 (承前)

        その4 希望機種と潜在適性

(教官は学生の潜在適性を正しく把握せよ)

 パイロットはその適性によって大きく左右される。 機種選定にあたっては学生自身のいわゆる単なる憧れによる希望機種よりも、その学生の持っている潜在適性を重視せねばならない。

 私の場合、飛行学生となり、操縦と偵察に区分される段階で操縦に選ばれた。 ここまでは希望どおりに進んで来た。

 しかし戦闘機を希望しながら水偵にまわり、せめて格闘戦の出来る二座水偵へと希望しながら三座水偵にまわされた。 希望は裏目に出たのである。

 卒業時に、飛行長から、

「 君は三座水債を専修することになったが、大艇パイロット要員として最適と認められたためである。」


 と言い渡された。 私の希望と、私の潜在適性は違っていたのである。

 大艇パイロットとして活躍できた我が半生を顧みた時、教官が私の潜在適性を正しく見抜いてくれたことに感謝している。

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( 原著より  昭和14年飛行学生 (水上班) 卒業記念 )

 源田先生 (實、兵52期、戦後空自に入隊し航空幕僚長、空将、その後参議院議員) の話によると、空自の例であるが、ある期間の統計で、3767名の飛行学生中パイロット技能証明をとったものが1238名、わずかに33%。 しかも最終的にF−104等戦闘機資格者は、その10パーセントに過ぎないそうである。

 全部が飛行機志望ではなく、採用条件も異なるが、我々海兵64期生の例を見ると、応募者約6千名、身体検査の結果は2分の1の3千名が残り、4日間の学科試験で初日に2分の1が落ち、最終的には750名が残っていた。

 このうち150名 (まま) が採用されており、飛行学生は55名 (パイロット30名、偵察25名) であった。 150名 (まま) のクラスから適性検査で30名のパイロットが選出されたわけだが、いずれにしてもパイロットの条件は昔も今もシビアなものである。

 教官が義理人情にほだされて潜在適性を無視し、不適格者を残すようなことをすると、本人の生命を失うばかりでなく十数名の搭乗員を道連れにするようなことになる。 学生教育における教官の責任はまことに重大なことが納得できよう。
(続く)

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(注) : 著者の海軍兵学校第64期は、昭和8年入校、同12年卒業のクラスです。 1クラス僅か160名 (卒業時) に過ぎませんでしたが、それにも拘わらず55名、実に34%もが航空畑に進んでおります。

零戦の初飛行でさえ昭和14年であることを考えれば、たった一つの例ですが、これが何を意味するかは言わずもがなでしょう。

こういう事さえ無視して、戦後の結果だけによって旧海軍の戦備について “それ見たことか” 式の批判をする人がいます。 (お恥ずかしい限りですが、現実に先日それを広言する海自OBがいました。)

その様なものの見方は、歴史を学ぶ上で常々最も戒められてきたところです。 当時の状況を当時の立場になって考えない限り、将来に対する正しくかつ有益な歴史の教訓は何も得られないからです。


2012年07月29日

大空への追想 (8)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻

    第1話 特設水上機母艦 「神川丸」

        その1 実戦目標の練成段階

 水上機専修学生は鹿島空を卒業すると、飛行学生終了となり、館山航空隊 (注1) において実用機課程の教育を受ける。 その後内地の各水上機部隊 (各鎮守府麿下に水上機航空隊1〜2) に配属されて、実力の養成に専念するのが普通である。

 その先は艦隊搭載艦 (潜水艦、水雷戦隊の旗艦、重巡、戦艦、水上機母艦) や、戦地にそれぞれ進んで行った。

 昭和13年頃から支那事変の主力水上機隊としては江上飛行機隊、特設水上機母艦 「神川丸」 が勇名を馳せていた。

 特に 「神川丸」 は長期にわたり、南支方面の炎熱風涛に抗しながら、沿岸及び奥地の攻撃に従事し、封鎖作戦に貢献するとともに海陸協同作戦において万難を排して友軍を窮地に救う等、その勇猛な行動は敵十九路軍をふるえあがらせていたのである。

(原注) : 「神川丸」 は、川崎汽船から海軍に徴用された貨物船を一部改造したもので、水上機母艦として使用されていた。 一方、速力15ノット、高角砲2門、搭載機数水偵約15機、飛行科、整備科を含み、乗員約6百名で水上機乗りたちの憧れの的となっていた。


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( 原著より  特設水上機母艦 「神川丸」 )

 艦隊水偵隊も内地航空隊も、若い搭乗員達は実戦に臨みたい熱烈な心情を抑えながら、ひたすら実力の練成に努めていた。

 私は館山修業後、舞鶴 (注2)、佐世保 (注3) と転任し、希望する 「神川丸」 への最短距離を進んでいた。

 当時の環境下においては、搭乗の実力養成の順序として、内地部隊で練成後艦隊勤務で実力を養成した後、戦場に赴くのが正常な進路であった。 しかし私のように、戦場が先になり、艦隊勤務が後になる場合もあった。
(続く)

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(注1) : 館山航空基地の概要については次の頁を参照下さい。


(注2) : 舞鶴航空基地の概要については次の頁を参照下さい。


(注3) : 佐世保航空基地の概要については次の頁を参照下さい。


2012年08月06日

大空への追想 (9)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第1話 特設水上機母艦神川丸 (承前)

        その2 今生の思い出 “「高砂丸」 一等船客”

「 昭和15年5月1日付 神川丸乗組を命ず 」

 この電報は、かつて 「飛行学生を命ず」 の辞令をうけた時に次ぐ感激の辞令であった。

 海兵入学動機 ・・・・ 若いうちに暴れてパッと散りたいというあの希望がいよいよ実現の時棟到来ということで、まさに鬼の首をとったような感じであった。

 「神川丸」 は5月7日高雄に入港するという台北海軍武官府の連絡により、5月2日門司発の台湾航路豪華船 「高砂丸」 で鹿島立ちすることに決めた。 もちろん一等船客としてである。(注)

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( 大阪商船 「高砂丸」  9315総トン )

 見送り人はだれもいなかったが、心は既に南支の空に飛んでおり、基隆まで三日間の船旅は本当にもどかしかった。

 当時の一等乗船料が55円、軍人二割引で43円、ボーイのチップが一等で5円が普通であったが、私は10円を渡した。 ボーイがびっくりして 「多すぎますよ」 という。 まことに嬉しい時代ではあった。

「 私は選ばれて戦場へ行く。 飛行機乗りだから生死は考えていない。 この豪華船も今生の思い出だ。 遠慮なくどうぞ。」


 ボーイは感激するやら、喜ぶやら。 しかしこの結果は私にはちょっと困ったことになった。

 食事は船長と同席で、船客の最高位につくという。 ところが私は中尉である。 本船には同じく台湾にゆく海軍少佐がおられたのだ。

 ボーイに一任の結果、食事は自分の船室に運ばれ、一番風呂に入り、まるで殿様のような待遇をうけたのである。
(続く)

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(注) : 旧海軍士官は例え少中尉であろうと汽車は一等客車、汽船は一等客室とし、また宿泊は高級旅館、飲食は料亭又は一流レストランとして、その社会的品位を保つことを厳しく躾けられました。


2012年08月08日

大空への追想 (10)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第1話 特設水上機母艦神川丸 (承前)

        その3 「神川丸」 に着任

 台北海軍武官府に挨拶に立ち寄ると、奇しくも緒形少将が待っておられた。 緒形武官は64期在学中の生徒隊監事であり、教え子の壮途を喜んで激励をいただいた。(注)

 5月7日高雄港着。 灰色の巨艦にギッシリと水上機を搭載し、後部マストに軍艦旗をへんぽんとなびかせながら岸壁に横着けされた 「神川丸」 は形こそ貨物船ではあるが堂々たる威容を示していた。

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( 1945年版米軍地図より当時の高雄港 )

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( 現在の高雄港  Google Earth より )

 既説のとおり川崎汽船からの徴用船であるが、川崎汽船には “神聖君国” と称する4隻の大型貨物船があった。 すなわち 「神川丸」 「聖川丸」 「君川丸」 「国川丸」 で、そのいずれも太平洋戦争では海軍徴用船となり、特設水上機母艦として活躍したのである。 「神川丸」 がその第一船として昭和12年頃から支那事変に参加していた。

 着任してみると、支那から今朝入港したところで、艦内は当直関係者のみを残し、ひっそりとしていた。 江口飛行長 (英二、兵52期) が当直将校でおられ、いろいろと歓待してくれた。 歴戦の海鷺指揮官とも思われぬやさしい紳士である。

「 みんな待っていたぞ。 今夜搭乗員会があるので、その席で飛行隊着任の紹介をやろう。」


 と言われた。 歓迎されるのは有難いが、第一撃を体験してない私には、ともかく早く戦場へ行きたい気持ちだけが先行していた。

 南支作戦中の 「神川丸」 は、月平均20回、延べ120機が出動していた。 特別の戦闘がない限り、45日ごとに補給、休養のために高雄に入港し、4日間の整備を終えて再び戦線に復帰するのが慣例となっていた。

 援蒋ルート (蒋介石に対する援助物資の流入ルート) を断ち切ることが目的であり、上海から雷州半島、海南島に及ぶ約一千浬の南支沿岸の封鎖作戦が主要任務である。

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( 原著より ) ( 細部については改めてその都度お話しします )

 このためには支那方面艦隊所属の陸戦隊による主要港湾、都市への上陸急襲作戦、陸軍部隊の進撃戦が実施されるが、これらに協力するための航空攻撃は 「神川丸」 水上機隊が一手に引き受けていたのである。

 連合艦隊水上機隊の外洋行動とは、およそ畑違いの戦闘行動であり、精神的にも肉体的にも飛行隊の労度は大きかった。 地上砲火を除き当時支那空軍の反撃がほとんどなかったことが、せめてもの気休めであったろう。

 搭乗員も乗組員も、高雄入港は戦地勤務者として唯一の楽しみとしていた。 高雄市もまた、「神川丸」 乗組員に対しては、南支の英雄として実に行き届いた歓迎をしてくれた。

 ただ初陣を目前に控えている私にとっては、獲物に飛びかかろうとしながら鷹匠に抱えられている鷹のような状態にあったと記憶している。 この気持ちだけは戦闘経験のない者には分かってもらえないであろう。
(続く)

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(注) : 原著及び 「今日の話題社」 版でも 「緒形少将」 とされています。 著者が兵学校入校時の昭和8年〜10年の生徒隊監事は 「緒方眞記」 (兵41期) ですが、本記事の昭和15年5月当時氏は 「羽黒」 艦長で、かつまだ大佐でした。 著者在校時の監事長・監事、あるいは「緒方」 「緒形」 姓を含み他に該当するような海兵出身者は見あたりませんので、詳細は不明です。


2012年08月09日

大空への追想 (11)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第2話 これが戦場だ

 台湾海峡は相当荒れていた。 4日間の休養を終えて戦線に帰る艦内は、これが出撃かと思われるくらい静かであった。

 波の音を聞きながら、動揺する艦が6百人近くを乗せた一つのゆりかごになっていたのは、末だ明けやらぬ福州沖、海は静かであった。

 太陽が昇ってから艦橋にあがり、周囲を眺めて見ると、見慣れない山々が西に迫っている。 ポツポツと数隻のジャンクが動いている。

 不気味なほど静かな環境である。 これでも戦地なのかと思ったが、号令がかからなくても艦内は警戒態勢についている。

 まず航空機の係止が解かれ、試運転が開始される。 小型といえども12機が一斉に運転を開始し、砲台員が配置につくと一挙に雰囲気が変わってくるから不思議だ。 待機搭乗員を含め、飛行士のブリーフィングが始まる。

 私は最初の母艦勤務である。 発着のための艦からの揚げ降ろしが、搭載艦の最大の運用作業である。 特に着水後のデリックによる揚収が、そのパイロットの技の見せどころである。 経験は全くない。

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( デリックにより降下作業中の九四式水偵  揚収はこの逆を行うことになります )

 広田分隊長 (保太郎、兵60期) から熱心な講義を受ける。 風と潮を考えて艦尾にアプローチする方法、デリックのフックを取り損ねた時の避退法等、双浮舟 (フロートが二つ) の方が難しいのである。 (水上機の揚収要領については後の章で詳しく出てきます。)

「 明12日、日辻君の慣熟をかねて福州地区の偵察飛行を全機編隊で実施する。 今日は九四式水偵の試飛行が一機ある。 揚収法の慣熱をかねて、日辻君が飛べ。」


 ということになった。

 余り艦から離れるなという注意を受け、整備士を乗せる。 後席の機銃は全装備である。 まことに緊張した試飛行であったが、揚収第一発は見事合格だった。

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( 原著より  「神川丸」 上空を飛行する九四式水偵 )

 翌日分隊長指揮のもとに11機の編隊で、悪天候を冒し、福州付近の示威連動を実施した。 私は前夜そっと飛行服の中に皆からもらった御守袋を全部入れておいた。

 高度千5百米、攻撃ではないので低空飛行は避けた。 上空からよく見ると、人通りのない道路はほとんどすべてが細々と切断されている。 トーチカや陣地の跡が散在している。 いつ地上砲火を浴びるかも分からず、実に不気味な光景である。

 これが戦地というものか。 初の敵地飛行は緊張の一語に尽きる。
(続く)

2012年08月10日

大空への追想 (12)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第2話 これが戦場だ (承前)

 次の攻撃に備え艦の錨地を馬祖山沖 (まま) (注1) に変更した。

 「神川丸」 には、不時着水等の救難船として、同じく徴用船 「ヌザン丸」 (百トン) (注2) が随伴していた。 これが錨地偵察中、大型ジャンクから銃撃を受けたとして救助を求めて来た。

 入港して見ると、錨地の西方2千米付近を陸岸に向かって航走中の大型ジャンクが一隻、よく偵察すると船尾に小型の臼砲が装備されている。

「 左砲戦ッ 」

 海戦だ。 高角砲射撃は何回か経験しているが、目標はいつも吹き流しだった。 人間の乗っている船を射撃するのは、初めてのことである。

「 直接照準 」  「 打ち方始めッ 」

 初弾舷側に命中、こんな機会はなかなかない。 砲台員は大張り切りで、たちまちのうちに20発を発射、ジャンクは、マストに白旗を高く掲げた。

「 打ち方やめ 」

 接近して調査すると舷側に直撃弾十数発、乗員12名が既に息絶えていた。 木材約50トンを押収し、めずらしい臼砲と、小銃を没収、負傷者には手当を加えて、そのままジャンクを解放してやった。

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( 原著より  没収した臼砲と小銃等 )

 砲撃で倒れた遺体を見るのも始めてだが、“これが戦争か” 悲惨なものだと思った。 当方には被害はなかったのだから、威嚇射撃くらいで助けてやれなかったのだろうか、という顔をしていると、

「 そんな弱気じゃ、明日からの爆撃は出来んぞ。」

 と飛行長からたしなめられた。
(続く)

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(注1) : 原著も 「今日の話題社」 版でも 「馬祖山沖」 となっていますが、馬祖山というのは上海西方800km程、漢口近くの内陸部にあります。 福州東方沖の馬祖群島 「馬祖島」 の単なる誤植ですね。


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( 元画像 : 1972年版米軍地図及び Google Map より )

(注2) : 本家サイトで相互リンクいただいているHN 「戸田S.源五郎」 氏の素晴らしいサイト 『大日本帝国海軍特設艦船』 の中で 「瓊山丸」 というのが紹介されています。 特設駆潜艇となる前の昭和15年2月に一般徴用船となっており、大きさ的にも一致しますので、本項の 「ヌザン丸」 はこの船ではないかと思いますが、詳細は不明です。



2012年08月11日

大空への追想 (13)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第2話 これが戦場だ (承前)

 15年5月18日、この日が私の初陣である。 指揮官として九五水偵2機、九四水偵2機を率い、福州、興化間の橋梁爆撃に出た。

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( 九四式水上偵察機 )

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( 九五式水上偵察機 )

 高度千5百米、雲上から切れ間を利用して測風をやり、敵陣を偵察する。 不気味な陣地はあるが地上からの反撃なしと見て、九五水偵隊がまず勇ましい降爆に入った。 私よりもみな戦場の先輩である。 弾着は惜しくも橋脚をそれた。

 新参者だが、潜爆 (対潜爆撃法) なら自信がある。 水平爆撃をやめて、突っ込んだ。 高度3百米、橋が大きく目の中にふくらんで来る。

「 テーッ 」

 力一杯引き起こして目標を見ると、命中だッ。 橋が大きな煤煙に包まれ、ズシーンと機体に感ずる振動の快感。 これが初陣、どうやらこの調子ならいけそうだぞ ・・・・。

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( 原著より  江口橋梁爆撃 (昭和15年5月18日) ) (注)

 それにしても、一か月前まで飛び回っていた九州平野と比較すると、この福州は不気味な静けさに包まれていた。

 点在する支那特有の小さな部落と、これを繋ぐ道路、それも所々が大きく分断され、車両の通行を阻止している。 飛行機隊の姿を見たからかも分からないが、人ッ子一人いない。 各部に塹壕とトーチカらしい盛り土が見える。 一見平和な田舎のように見えるが、暗い陰が漂っている。

 ふと我に返ってみると、緊張の一語あるのみ、いつどこから射ってくるかも分からない。 列機の主翼の日の丸だけが、いやに目に滲みる。 これが戦場というものだろう。
(続く)

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(注) : 上の写真が江口橋梁で間違いないとすると、下の写真の場所と考えられます。 現在の福建省ホ田市 (ホは 「蒲」 から三水を除いた字) 江口鎮付近で、2つの川が合流する地点 (赤丸) です。


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( 元画像 : Google Earth 及び Google Map より )

   拡大・回転し、斜め上から見下ろした形にして記録写真と比較してみました。 左方向が北になります。 赤丸内が当時の橋梁跡と考えられます。


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( 元画像 : Google Earth より )

2012年08月12日

大空への追想 (14)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第3話 南支沿岸封鎖作戦

 支那事変の説明は高橋海将の御説 (本ブログでも連載済みの高橋定氏の回想録 『飛翔雲』 のこと) もあるし、説明の要もないと思う。

 私の出動は、高橋海将とは時点も違うし、攻略のはげしい段階を終わって、言わば威圧の段階にあった。

 それにしても、揚子江河口から仏印国境に至る中支、南支沿岸線は一千浬にも達している。 この沿岸を封鎖するといっても、それには大兵力を投入する要がある。 したがって封鎖というよりも、この間を流しながら監視しているという方が適当であったと思う。

 陸軍部隊は、広州湾、欽州湾等から上陸軍が沿岸から内部へと掃討戦を続けており、時折、十九路軍の反撃が起こっていた。

 海軍航空部隊は、海南島、揚子江沿岸、台湾の主要航空基地から、昆明、成都、南昌、重慶等奥地に対し空襲を敢行し、零戦の誕生とともに支那空軍を圧倒しており、沿岸地区には全く敵機の姿が見られなかった。

 15年5月頃になると、沿岸に対する急襲作戦や封鎖作戦には陸上機の協力はほとんどなく、「神川丸」 水偵隊に一任された形となっていた。

 沿岸の封鎖は強化する一方であり、強化するごとに支那方面艦隊長官が布告するものであったが、支那以外の第三国にはもちろん適用されない。 したがって、作戦は第三国権益には一切手を出せないところに実施部隊の苦労があった。

 海上からの物資導入は、英、仏等の第三国船が、我が方の目をかすめて、直接あるいは香港を中継基地として南支沿岸の小さな密輸港に荷揚げするという方法がとられていた。 しかし我々はこれを発見しても、第三国船の手を離れない限り攻撃できないのである。 まことにじれったい次第であった。

 このような作戦に使用された水偵隊というものを考えてみると、攻撃の華やかな陰にあって地味な索敵任務をもつ、言わば国家の捨て石たらんとする水上機伝統の地味な闘志と粘り強さがあって初めてなし得たのであると信じている。

 このような持久作戦に堪えぬく精神力は、現在のASW (Anti-Submarine Warfare、対潜戦) に対処する海上自衛隊搭乗員に必要なことはいうまでもない。

 封鎖作戦における具体的行動を参考までにあげて見よう。

  @ 絶えず沿岸を機動しながら行う援蒋ルートの発見攻撃
  A 密輸地点 (港湾と限らない) の偵察
  B 物資陸揚施設の破壊
  C 水陸運搬機関の攻撃

    当時陸軍の制圧により、鉄道、自動車等は絶無、唯一の輸送機関は、ジャンク、牛車、手押し車であった。 人海戦術を誇る支那においては、このような小さな運搬道具は馬鹿にできなかったのである。

  D 秘匿された物資集積場、倉庫等の爆撃
  E 主要港湾都市の焼き打ち
  F 支援支那正規軍を掃討する陸軍、陸戦隊の地上戦闘協力

 これらの作戦実施は、すべて “三権” (第三国の権益) に被害を与えないという前提のもとに行われる。 しかもこれら “三権” のほとんどが支那軍のかくれ家に利用されているのだから始末が悪い。

 したがって一網打尽の奇襲攻撃等はあり得ない。 さらに無辜の民を傷つけないよう、焼き打ちするにも、低空擬襲や威嚇射撃等で、カウボーイが牛を追うような方法でまず市民を避難させねばならない。

 このような実態を知ったら、何と間の抜けたことをやっているかと思うであろう。 太平洋戦における米空軍の日本本土無差別空襲等に比べると、日米いずれが人命尊重を重んじていたかがよくお分かりと思う。
(続く)

2012年08月20日

大空への追想 (15)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第3話 南支沿岸封鎖作戦 (承前)

        その1 ジャンク狩り

 海上唯一の交通機関はジャンクである。 しかもこれらジャンクは大小さまざま (3トン〜200トン) で、荷揚場等を除けばバラバラに行動している。

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( 原著より  積荷を満載した大型ジャンク )

 生活必需品か、その内容は全く知る由もない。 しかもジャンクの輸送は全く自由であり、いたる所の海岸から荷揚げする。

 したがって、海岸と道路の関係、蟻の集団をたどって発生地点を確認するにも似て、あたかも刑事の犯人捜査のような偵察を実施した後攻撃を開始する。

 昭和15年の時点で、過去一か年間に 「神川丸」 が攻撃したジャンクは853隻にも及んでいる。 海上交通破壊戦と言えば大げさであるが、実はほとんどがジャンク狩りのことである。


15年6月24日大密輸基地を発見す。

 陸軍のバイアス湾上陸作戦 (6月22日香港西方の広州湾) (まま) (注1) に伴い、海軍は同湾の封鎖作戦を開始した。

 「神川丸」 は急遽広州湾に進出、私は当日4機を率い悪天候を利用して仏印国境付近を巧みに縫いながら、援蒋ルートの写真偵察を実施した。

 仏国は香港を支給源として、仏印国境付近の港湾を利用し、盛んに物資を送り込んでいたのである。

 奇襲に近い我が小隊がタイミングよくこれを捕捉した。 安南海峡を避け海南島の南方を遠く迂回して良田港 (国境に近い支那領) (注2) に3隻の5千トン級貨物船が入港しつつあった。

 よく見ると、良田付近の小川や森の中に、牛車約5百台、擬装された倉庫群、航行中のものを含めジャンク約1千隻が集まっていた。

 好餌発見。 早速報告して、その日の午後から3日間にわたり、飛行機隊は獅子奮迅の銃爆撃を敢行して敵の輸送を挫折させた。

 航行中のジャンクの攻撃は余り効果がない。 積荷の状況によっては銃撃で燃え上るものがあるが、昼間の攻撃に恐れをなして夜間のうちに避退し、海岸や河口、小さな入り江等に引き込んで隠しておく場合が多い。

 支那沿岸は潮の干満が大きいので、干潮時を狙ってこれらに襲いかかり、爆撃するのが有効である。 木造船だけに、集中している所には60瓩1発でもかなりの被害が出る。

 広田分隊長は豪胆な人で、この攻撃時も列機に空中制圧を命じ、自らは敢然ジャンク群の中に着水し、銃撃しながら大型ジャンクに接近して着荷を調べ、それが火薬であることを確認したことがある。

 あの当時、ベトナムにおける米軍ヘリコプターのようなものがあったなら極めて効果があったと思うが、この時点では、小型水偵が最も作戦に適していたのである。
(続く)

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(注1) : 一般的には 「バイアス湾」 (Bias Bay) と言うのは香港東方の 「大亜湾」 のことを言います。 したがって、ここでは 「広州湾」 のフランス通称名での 「バイアール湾」 ではないかと思いますが、詳細は不明です。


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( 1954年版の米軍地図より  大亜湾付近 )

     なお、 「広州湾」 というのは現在の広東省湛江市のことで、明治32年 (1899年) にフランスが中国より租借し仏領インドシナの飛び地になっていましたが、第2次大戦後に中国に返還されました。


(注2) : 本項の文意からすると、「仏印国境付近を巧みに縫いながら」 というのはフランス領広州湾沿いのことと解釈されます。 したがって、この 「良田港」 もこの付近と考えられ、また前出の原著中の 「南支沿岸略図」 でもそのように記されていますが、その正確な位置は判りません。


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( 原著より 先の 「南支沿岸略図」 より部分拡大 )

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( 1954年版の米軍地図より  広州湾付近 )

2012年08月22日

大空への追想 (16)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第3話 南支沿岸封鎖作戦 (承前)

        その2 「臨検隊長を命ず」
 
( パイロットは空で死にたい )

 戦争は勇敢に戦い、暇があればよく寝ることだと言われる。 長期戦闘行動においては特にその必要がある。 暑さと低空飛行による疲労に勝つためには、睡眠が何よりである。

 15年6月17日、攻撃から帰艦して昼寝をしていると番兵にたたき起こされた。

「 艦長が艦橋で呼んでおられます。」

 というのである。 何事が起こったのかと思って駆け上がると、双眼鏡を握ったままの艦長が、

「 日辻君あれを見ろ。」

 というのである。 早速12糎双眼鏡でよく調査すると、余り見かけたことのない大型ジャンク (約2百トン) が一隻西進中である。

 恐らく香港から出て来たものと思われる。 相当の積荷だ。 しかも船首に備えつけられた2門の旧型大砲が不気味である。 ただのジャンクではない。

 艦長いわく、

「 あのジャンクを捕獲しよう。 君は臨検隊長としてただ今から出発、積荷を調査の上本艦まで引っ張ってこい。 本艦は高角砲の直接照準圏内まで接近するから準備しろ。」


 臨検隊長を命じられたのである。

 さあ大変、飛行機に乗っては天下無敵だが、敵船の臨検じゃ心細い。 あの大砲がどうも気持ち悪い。 しかし命令だ。 よしッ、と覚悟を決めて直ちに拳銃と軍刀で武装にかかる。

 「臨検隊用意」 が下命される。 こんなことは年に一回あるかないかだ。 20名の臨検隊員が選ばれた。 内火艇2隻、一隻は直接ジャンクに乗り込むことにして、他の一隻は警戒にあたり、攻撃準備に当てることにした。

 「左砲戦」 が下令された。 相手はジャンクである。 旗旒信号では停船命令が分からん。 そこで内火艇が出発すると同時に、ジャンクの進行方向に一発射ち込むことにした。

「 射てッ 」

 張り切った砲員が発射した。 高い水柱があがる。 途端にジャンクは帆をおろした。 内火艇の艇首からは機銃が狙っている。

「 抵抗して来たら直ちに射撃開始だ。」

 私は艇上に腕組みをして仁王立ちになっていたが、どうもあの大砲が気になる。

 この時つくづく感じた。 俺はパイロットである。 大空で死ぬのは本望であるが、こんなことでは死にたくない ・・・・ と。
(続く)

2012年08月24日

大空への追想 (17)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第3話 南支沿岸封鎖作戦 (承前)

        その2 「臨検隊長を命ず」 (承前)

 ( パイロットは空で死にたい ) (承前)

 あとでよく反省してみたが、搭乗員は飛行機に乗っての戦闘は実に勇猛果敢である。 しかし一旦陸戦になると心細い。 今日の俺の考えは間違っている。 搭乗員たる者、敵地不時着等の場合の対敵行動こそ大切である。

 この体験を積んで、始めて戦場に臨み得る搭乗員というべきなのだ。 死は易い。 いかにして生き残るかが問題である。 やはり海軍中尉では修養が不十分であったことを痛感した。

 一瞬いやな予感があったが、内火艇は私の不安など意に介せず、どんどんジャンクに接近してゆく。 こうなると肚 (はら) もすわる。 艇長が張り切っているのでジャンクに衝突するように接舷した。

 ジャンクには船長らしい男一人が立っており、他は船底にもぐり込んでいた。 いっさい抵抗の色はない。 船籍、出入港先、乗員、積荷の内容等を書類とつき合わせながら調査した。 軍に引き渡す物資であることが明白である。 通訳の活躍により、この方面ジャンク輸送の親玉であることが分かった。

 「神川丸」 に報告すると、

「 積荷没収のうえ釈放する。 本艦まで曳航せよ。」

 との指令があった。 船底から小銃が七挺発見された。 乗員は正規兵ではない。 単なるクーリーであり10名がぞろぞろと這い上がって来て八掌九拝していたが、指令を伝えると安心していた。

 自らジャンクに移乗し、いかにも分捕ったぞという格好をして「神川丸」まで曳航した。

 船長を艦橋で訊問したが、香港から広州湾に輸送するジャンク群が相当数あること、及び十九路軍の指示をうけていること、連日の飛行機の攻撃を恐れて人夫が激減していることだけは判明した。

 このジャンクから没収した積荷は、白米2千俵、砂糖千俵のほか、小銃7挺、臼砲 (2門) という大戦果で、本艦は翌日馬公に回航して陸揚げすることになったものの、甲板上は飛行機の係止にも支障を生ずるくらいの戦利品の山になってしまった。

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( 原著より  「神川丸」 艦上の戦利品の数々 )

 必要な食糧品を還元され、日本のタバコまでもらって、ジャンクの船員たちは喜んで帰っていった。

 前述のとおり臨検隊長の英雄になったが、“搭乗員は空で死にたい” という感想を飛行長に話すと、

「 気持ちは分かる。 しかし空で戦うのみが搭乗員ではないよ。 何事も体験さ。」

 と言われてみて深く反省するところがあった。 戦場慣れがしてくると、飛行隊員は大空のみが死所であるというような考えを持つものだが、海軍軍人であることをしっかり心の奥にたたき込んでおかねばならない。

 今回の臨検隊長としての行動は、私にとってはまことに大きな収穫となったことが嬉しかった。
(続く)

2012年08月27日

大空への追想 (18)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第3話 南支沿岸封鎖作戦 (承前)

        その3 陸上輸送攻撃

 陸上輸送の主力は牛車である。 6ヶ月間の戦闘で自動車を発見したのはただ一両に過ぎなかった。

 人海戦術に事欠かないことと、支邦人特有の執念深さがよく陸上輸送にあらわれていた。 海上のジャンクから、牛車に連なり、道路、橋梁の破壊された所では一輪の手押し車、天秤棒までが貴重な輸送機閑になる。 やられてもやられても、続くのだから決して短期間では片づかない。

(1) 15年6月24日に広州湾密輸港良田 (前出) を襲ったものの、その先の陸上輸送は末だ確認されていなかった。 雷州半島に沿っての山岳地帯の天候回復を待って偵察の結果、田んぼの中に新しい道路を発見した。


 蛇のようにうねる道路を丘から森、畠とたどってゆくうちに、延々と続く牛車の大群を発見した。 その数3百台。 それッというので好餌にむらがるハゲ鷹のように各機が襲いかかった。

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( 原著より  延々と続く牛車の群れ )

 九五水偵が降爆に続いて銃撃、次から次へと繰り返す。 九四水偵隊の方がこの攻撃にはむいている。 地上10米くらいまで舞い下りると、単縦陣の牛車の列に平行に飛びながら、旋回銃を連射しつつ何回でも往復できる。 牛が暴れ出す、人夫が牛車をすてて逃げまわる。 哀れと思うが、援蒋物資の阻止作戦上やむを得ない。

 逃げおくれると、人夫たちは牛車の横にすわり込んで飛行機を拝む。 中には大の字に寝転んで動かない者、恐らく “好きなようにしてくれ” と心中で叫んでいるのだろう。 こんなむごい攻撃は全く嫌になる。 しかし 「許せよ」 と叫びながら、心を鬼にして射ちまくる以外にない。

 太平洋戦争でも、引き揚げ邦人を満載した輸送船が数多く潜水艦の雷撃で沈められた。 特に病院船までが撃沈されている。 これが戦争なのである。 攻撃する我々にしても決して快哉を叫んで、襲いかかっているのではないのだ。

 このような攻撃が3日間続いた。 大体3日間連続攻撃すると、そのルートは変更される。 一回くらいの攻撃が成功しても、彼らは決して輸送を断念しない。
(続く)


2012年08月29日

大空への追想 (19)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第3話 南支沿岸封鎖作戦 (承前)

        その3 陸上輸送攻撃 (承前)

(2) 15年8月15日橋梁、倉庫群攻撃

 倉庫や橋梁攻撃も又重要な戦術手段である。 6月初頭興化湾 (注) の攻撃で倉庫群と大橋梁に大きな被害を与えておいたが、3ヶ月後の15年8月15日、偵察によると見かけは破壊のままであったが、既に使用を開始していた。

 橋梁は徹底的に破壊しないと効果がない。 50糎の幅でも残っておれば手押し車が通るのである。 死んだと思った橋は生きているのである。

 また荷揚場付近の倉庫の攻撃には泣かされる。 必ずというくらい至近に第三国権益が存在するからである。

 この日の攻撃目標は倉庫である。 風下側にフランス国旗のマークをつけた建物ががんばっていた。 低空でこれを調査していると、この権益付近から機銃射撃をうけた。

「 卑怯者ッ 射つなら射って見ろ 」

 やられると、猛然とファイトが湧く。 しかもこれが要注意。 こういう時にとかくやられるものである。

 と言って紳士的行動をせよというのではない。 冷静に判断して反撃すべきである。 要するに我が方に被害がない限り、任務と攻撃目標を忘れてはならない。

 しかしあの時、私はカーッとなって “三権” も何も眼中になかった。 猛射を浴びせてからそのまま低空で倉庫を爆撃、運よく命中して黒煙濠々たる壮観を皇し首尾は上々だったが、これは幸運以外の何ものでもないと思う。

 調子がのっていたので、あのままだと仏権益まで叩き潰したと思う。 後席古参の偵察員から声あり、

「 フラソスの旗印をお忘れなく。」
(続く)

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(注) : 先の第14回で出てきました江口鎮がある現在の福建省ホ田市 (ホは 「蒲」 から三水を除いた字) の面する湾のことです。


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( 元画像 : Google Map より )