2015年06月02日

『大空への追想』 連載終了に際して


連載してまいりました日辻常雄氏の回想録 『大空への追想』 が263回をもちまして終了いたしました。

連載冒頭に申し上げましたように、本回想録は海自部内誌に3年にわたり掲載されたものを、その後部内において1冊に編集し直したものを元にしております。

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本回想録は、前半の太平洋戦争終戦までが昭和58年になって今日の話題社から 『最後の飛行艇』 というタイトルで出版されました。

しかしながらこれは商業出版上いたしかたないとはいえ、本来の “大空への追想” とは異なった趣きになってしまい、単なる戦記ものであるといえます。

部内誌であったとはいえ、日辻氏の想いをこのまま日の目を見ずに終わらせることはなんとも勿体ないことであり、元々の本回想録の全容を後世に伝えるべく、私の独断と責任において本ブログでご紹介することにしました。

特に、後半の戦後の海自飛行艇部隊誕生のことや、戦時中の知られざる史実などは、初めて公になるものでしょう。

“こういう事実もあったのか” ということで少しでも興味をお持ちいただき、また日辻氏の想いを感じ取っていただけましたならば、本ブログで公開した意義があると思っております。

なおブログ掲載にあたり、読みやすさを考慮して段落・文節や文体などを多少変えております。 それによってもし著者の文意が正しく伝わらないことがあるとすれば、それはひとえに管理人の責任であり、ご容赦ください。

またお読みいただくための一助として、適宜注釈、写真、地図などを加えております。 ご参考になりましたならば幸いです。


最後に、日辻常雄氏のご功績に対し敬意を表し、以下にそのご経歴を紹介いたします。

 
昭和 8年 4月 1日  海軍兵学校入校 (64期)
12年 3月25日同  卒業
11月 5日戦艦 「伊勢」 乗組
13年 3月10日任海軍少尉
8月 1日飛行学生
14年 2月 1日館山航空隊
6月 1日任海軍中尉
8月15日舞鶴航空隊
11月15日佐世保航空隊
15年 5月 1日特設水上機母艦 「神川丸」 乗組
16年 4月 1日佐世保航空隊 (飛行艇講習)
5月15日任海軍大尉
6月16日東港航空隊
8月 1日同 分隊長
17年 5月26日横須賀鋲守府付 (横病入院)
6月27日佐世保航空隊 教官
9月25日東港航空隊 分隊長
(11月 1日八五一航空隊に改称)
18年 3月15日同 飛行隊長
19年 2月25日詫間航空隊 飛行隊長
4月 2日航空技術廠飛行実験部
9月 1日横須賀航空隊飛行審査部
10月15日任海軍少佐
10月27日八〇一航空隊 飛行隊長
20年 4月25日詫間航空隊 飛行隊長
11月27日復 員
 
昭和29年 6月 1日海上警備隊 三等警備正
7月 1日三等海佐
7月 9日海幕防衛部 防衛課航空班
10月16日鹿屋航空隊派遣勤務 (第4期幹部操縦講習)
30年 5月 1日鹿屋航空隊付
8月16日二等海佐
9月16日第1回IFR講習
10月 2日JRF講習
12月16日鹿屋第二航空隊 九十一飛行隊長
31年 3月22日大村航空隊 九十一飛行隊長
12月 1日PBY講習
33年 3月 1日鹿屋航空隊 教育部長
12月16日鹿屋教育航空隊 副長
35年 8月 2日一等海佐
12月16日幹部学校学生
36年12月16日大村航空隊司令
40年 4月16日海幕防衛部付
11月16日第四航空群司令
42年 1月 1日海将補
12月16日海幕防衛部付
43年12月31日退 職


2015年05月31日

大空への追想 (263)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第8章 海軍飛行艇隊の霊よ安らかなれ (承前)

神官の御霊昇天の音声で壮厳な慰霊祭は無事終了し、神官の退場と入れ替えに呉音楽隊が静々と入場して来た。 これから追悼式、献花に入る前の一時をぬって音楽隊長の指揮棒一閃、壮重な軍楽が響き渡り、沈みがちな式場の空気を一変させてくれた。

しかし今日はお祭りではない。 曲目はすべて我が胸を打つものばかり、「予科練の歌」 になると、もう総員の顔がくしゃくしゃになっていた。

追悼式に入り、音楽隊の奏楽裡に一同敬虔な黙祷を捧げる。 あの友、この友の笑顔が浮かんできて涙がとめどなく流れてくるが、拭ういとまもなかった。

最後に “同期の桜” の合唱になった。 神殿から御霊達の歌声も一緒に混じっているような気がしてならない。 こみ上げてくる感情も涙の声もともに合唱の中に皆消されていった。

最後は詫間基地の海に花束を投げて、亡き戦友の冥福を祈ることにした。

1730、飛行艇の第三スベリ跡に集合した。 ここにあった3つのスベリから飛行艇隊は出撃していったのである。 梓特攻隊員も第一スべリから出ていった。 基地の海は青く静かに広がっていた。

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かつて二式大艇が波を蹴たてていた発着海面には、漁船が数隻操業していた。 3つのスべリの遥かかなたには、水平線がくっきりと浮かび、間もなく日没を迎える西の空にはあかね雲がたなびいて美しい影を基地の海に宿していた。 夕日が既に水平線上にかかって、基地の海はまことに美しかった。

音楽隊の奏でる “海ゆかば” の曲が静かな海面上に流れてゆく。 静かに菊の花を投げて敬度な祈りを捧げた。 あちこちから起こるすすり泣きが耳にしみる。 静かに沈みゆく夕日は、あたかも飛行艇戦没者の御霊にも似て壮厳であった。

“海ゆかば” の曲の余韻が消え、真っ赤な夕日が姿を没するとともに慰霊祭のすべての行事は終了したのである。


この日は総員詫間町に宿泊の計画であり、1800 から憩親会に入った。 式典とは違ってリラックスはしたが、慰霊祭とはまた異なった感情の波に襲われた。

総員が在天の御霊と共に乾杯はしたものの、飲んだり食べたりロに入れることよりも、口から飛び出す思い出話の方が先行した。

本日天候に恵まれ、すべての慰霊行事を壮厳裡に順調に進め得たのは、在天の御霊の加護があったからこそと誰もが感謝した。

今まで民間の慰霊祭において、伝統を引き継ぐ飛行機が慰霊飛行を行い、軍楽隊が奏楽するような壮厳な式典が果たしてあっただろうか、海軍飛行艇隊もって瞑すべしである。

今日一日を振り返って見た時、私は再び31年前の飛行隊長に舞い戻ってしまったような錯覚に陥っていた。 31年目に会ったあの顔、この顔、私の脳裏に残っているのは当時二十五才前後の若鷲の顔だけであった。 白髪を混じえて初老の域に踏み込んでいる今の顔が名前と一致しない。

開戦後間もない17年2月15日、自爆と断定されて戦死公報を受けていた4名の搭乗員 (特別手記第3話) のうち2名もこの慰霊祭で初めて顔を揃えたのである。

私を見つけたとたん 「分隊長ッ」 と一言、わッと泣き出してしまった。 何も語れなかった。 35年間、彼らの心中に秘めていた一切のものが涙で表現されたのである。

あちこちに感激のシーンが展開され、いつ果てるとも分からなかったが、各宿舎でそれぞれの計画があるものと考え、2130 閉会とした。

飛ぶ鳥跡を濁さず、閉会が宣せられたとたん、式場は誰が命令するでもなく見る間に整然と片付けられた。 そして甲板洗いの要領で広い板の間を拭い、見事にあと始末をして市の係員を驚かせてしまった。 海軍躾教育の権化とでも言うか、海軍の伝統は30年後もなお立派に生きていた。


慰霊祭の翌17日、残務整理を済ませてそれぞれ故郷に散っていった。 懇親会終了後詫間の町はさぞ賑わったことだろうと考えていたが、これは私の全くの誤算であった。

前述のように私は30年前の若鷲を考えていた。 飲むほどに、酔うほどに、勇気百倍、特別外出の申し出やら、喧嘩やらの時代を想像していた。

よく考えてみれば今や五十才の峠を越し、慰霊祭中涙の流れ放しというような者がほとんどだったのである。 苦しかった戦の思い出は一夜で語り尽くせるものではなかった。 飲みに出るどころか寸刻を惜しんで語り合っていたのである。

帰る車中で眺めた瀬戸の島々、美しい海原、私の頭の中に残ったのは、式典の感激と、夕焼けの基地の海に流れていった “海ゆかは” の曲だけであった。

生存者の努めとしてやるべきことは山ほどあるが、31年目になし得た慰霊祭、それは課題の一つを解決したものとして、何か肩の荷がおりた感じを覚えさせる。


“大空への追想” を書き続けることによって、私は戦争の渦中における海軍飛行艇隊の姿を私なりに甦らせて来た。 そしてこの慰霊祭によって一層それを強く心の中に浮かび上がらせることができた。

海軍飛行艇隊の慰霊祭記事をもって “大空への追想” を締めくくることにしたい。

最後にこの慰霊祭を盛り上げていただいた岩国 PS-1 と呉音楽隊の御協力に感謝するとともに、海上自衛隊の限りなき発展をお祈りする次第である。


( 『大空への追想』 完 )


2015年05月25日

大空への追想 (262)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第8章 海軍飛行艇隊の霊よ安らかなれ (承前)

「 祭文奏上、委員長 」

と告げる司会者の声に、私は夢から覚めたように席を立った。 いよいよその時が来たのである。 一か月前から書きあげ読み直し、6分間で読み終えることにしており、一言一句たりともこれ以上省略できないものになっていた。

“落ち着けよ” と自らを励ましながら神前に進んだ。 会場一杯の人等全く限中に入らなかった。 在天の御霊達が一斉に手を伸ばして私を迎えてくれるような気がする。

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( 原著より  祭文奏上中の著者 )

静まり返った式場に祭文が流れてゆく。 読んでいるうちに、もう一人の自分がこう叫んでいた。

「 今、神前で亡き戦友に呼びかけているんだ。 平然として続けてゆけ、決して声をつまらせてはならんぞ 」

しかし祭文の中に、これだけは読まなければならないという次の部分があった。

『 詫間基地発進時の光景を思い出すと感無量である。 「気をつけて征けッ」 「征きます」 と交わし合った短い言葉が今生の別れ、「征けッ」 と命じたこの隊長も、 −散る桜、残る桜も、散る桜− の一句を口ずさみながら笑みを浮かべて見送ったのである 』

この段になると何としてもこらえきれなくなった。 涙がとめどなく出て来た。 思わず声がつまってしまった。 式場からもすすり泣きが聞こえていた。

一呼吸して一挙に最後まで読み終えて委員長としての大役の一つは済ますことができた。


〔原著追記〕 : 慰霊の辞 (祭文)

謹んで在天の海軍飛行艇隊搭乗員の御霊に申し上げます。

顧みますれば昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発するや、帝国海軍飛行艇隊員として勇躍国防の第一戦に進出し、東はハワイ、西はインド、南は濠州、ソロモンから北はアリユーシャソの全海域にわたり、その長大な機動力を発揮して、飛行艇ならではなし得ない行動をくり広げたのであります。

しかしながら一億国民の死闘も空しく、昭和20年8月遂に無念の終戦となり、それとともに70年間の栄光に輝く帝国海軍も世上からその姿を没し去りました。

国敗れ、海軍消えて廃墟の中にただ茫然自失していた私どもの上に、生活の苦しみは容赦なく襲いかかってまいりました。 のみならず心なき人々は敗戦の責任を我々軍人に帰し、その家族や遺族にまで累を及ぼしたのでありますが、今はただ頭を垂れ、耐え難きに耐え、忍び難きを忍んで生活の再建を図るばかりでありました。

この大戦を通じ、私達は数多くの隊員を失いました。 杖とも柱とも頼むお子様や兄弟、或は夫や父上を失われた御遺族の方々の悲しみや苦しみは、如何ばかりであろうかと、まことに慙愧に耐えないところであります。

さて終戦このかた、年移り月変わってここ三十有余年、お互いにようやく立ち直ることができ、当時未だ幼かった子供達もすでに成人いたしましたが、ふと気がつけば私達もいつの間にか頭には労苦のあとの白髪を見、顔には辛苦を物語るシワを認めるようになりました。

帝国海軍飛行艇隊は横浜航空隊に発祥の源をおき、東港航空隊、第十四航空隊、第九〇一航空隊ならびに輸送部隊、教育部隊に分かれてその任を全うしてまいりましたが、最後の戦線縮小の段階にあたり、詫間航空隊飛行艇隊に総力を結集し、その最後を全うしたのであります。

詫間基地における当時の死闘を偲べば、万感胸にみちて言葉では言い表わせません。 指揮所の神棚に拝礼して毎晩出撃する隊員に対し 「気をつけて征け」 「征きます」 と交わし合ったあの短かい言葉が、皆さんとはこの世における最後の別れになったのであります。 「征けッ」 と命じたこの隊長も、

「 散る桜 残る桜も 散る桜 」

の一句を口ずさみながら、笑みを浮かべて出発してゆく皆さんを見送っていたのであります。

今回最後の一隊となった詫間飛行艇隊の隊員一同が相図り、生き残った者の務めとして、最後の作戦基地となったこの詫間において、厳かに慰霊祭を執り行うことにいたしました。

今ここには、共に戦った戦友達が集まっております。 詫間市民の皆様も集まっておられます。

幽明境を異にされた在天の皆さんに呼びかけ、共にありし日の面影を偲びつつ語り合いたいと念ずるものであります。 何とぞ私どもの志を受けて下さい。

祖国日本は廃墟の中から立ち直り、今や驚異的発展をしつつあります。 祖国の不滅と民族の興隆を祈念しつつ、国家のために身命を投げ出された皆さんの願いはここに実現を見たのであります。

しかしながら発展の陰には国民精神の弛緩、思想の混乱、社会不安の増大等があり、他方日本を取り巻くアジアの情勢は激しく流動を続け、日本に対する諸外国の態度は厳しさを増しております。

この時にあたり、私達はますます結束を固め、御遺族の方々と相携えて祖国の平和と発展に微力をつくし、皆さんの御遺志にこたえる決意であります。

在天の御霊よ、安らかに鎮まりますとともに、御遺族ならびに私どもの行手を護り導かれんことをお祈り申し上げます。

  昭和51年10月16日
           詫間海軍航空隊
           飛行艇隊隊員一同

(続く)

2015年05月23日

大空への追想 (261)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第8章 海軍飛行艇隊の霊よ安らかなれ (承前)

明けて10月15日は快晴、早朝から会員が続々と集まって来た。 いずれも30年ぶりの対面であり、何本手があっても間に合わないくらいの握手攻めにあった。

1430、約束の時刻どおり PS-1 が爆音を押し殺すように静かに式場上空に進入して来た。

二十五才の若鷲の面影こそないが、白髪を混えた旧搭乗員達は一斉に上空を見上げ感涙にむせびながら手を振った。 30年前の昔、かの二式大艇の姿を見覚えている詫間市民も一緒に拍手を送ってくれた。

低速低空で慰霊飛行にふさわしいこの日の PS-1 は、かつて二式大艇を駆使した老鷲達の頭の中に、詫間の海を蹴立てて飛び回った想い出を呼び起こさせてくれた。

同時に新しい時代の国防の任を背負って羽ばたく岩国隊員に対し “あとは頼むぞ” と声なき声援を送ったのである。

PS-1は数回にわたり、いろいろの姿勢で飛んでくれたが、やがて翼を振りながら西の空に消えていった。 しばしの興奮にかり立てられながら一同着席し、開式を待った。

神殿は垂れ幕で覆われ、新明和から特別飾られた二式大艇と九七式大艇の大型模型が、飛行艇隊の慰霊祭にふさわしい雰囲気を醸し出していた。

1500 開式宣言とともに幕があげられ、白木の祭壇の中央には “大艇隊の御神霊” が飾られていた。 この御神霊こそ、あの大戦中飛行隊指揮所の神棚に祀られていたものである。

部隊解散の時、私は涙の別辞の中で

「 出撃ごとに搭乗員が拝礼していたこの御神霊は、再び諸君と相まみえるまで、この隊長が預かっておく 」

と固く約束したものである。

あれから31年間、私は大切に我が家の宝物として保管してきた。 私が自書した銘牌を、湊川神社に持参して入魂していただいた由緒あるものなのである。

それが今日初めて慰霊祭の神殿に飾られた。 まことに感無量の一言に尽きる。

式が始まってからの私の頭には、三十余年前の激戦の場面が次から次へと浮かんで来て、とても冷静を保ち得なかった。

神官の祝詞が神々しく式場の隅々まで響き渡った。 祝詞の内容は一般的のものとは異なり、飛行艇隊督戦の模様がこと細かに盛り込まれており、12分間も続く名文であった。
(続く)

2015年05月20日

大空への追想 (260)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第8章 海軍飛行艇隊の霊よ安らかなれ

「 ただ今から海軍飛行艇隊搭乗員戦没者の慰霊祭を挙行いたします。」

司会者の開式宣言が重々しく響き渡った。

遂に実現した。 宿願成就である。 3年間にわたって、練り抜いた計画が本日ここに実を結んだのである。

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( 原著より 詫間における慰霊祭式場 )

昭和51年10月16日1500、香川県詫間町福祉会館の式場は、詫間航空隊飛行艇搭乗員の生存者で埋められていた。 この日は秋晴れの快晴で、詫間の海は静かに青々とした美観を呈していた。

詫間海軍飛行艇隊、それは海軍飛行艇最後の一隊である。 全国の飛行艇隊を詫間に結集した日本海軍最後の飛行艇集団なのであった。

既述のとおり、開戦当初から勇戦激闘を続けて来たものの、20年8月15日、詫間の基地 (注) において終戦を迎えることになったのである。

あれから31年の歳月が流れた。 戦争以上の苦難の道を歩み続けて来た生存者達の心の中に、絶えず残されていたものは、いずれの日にか全員が顔を揃えて、最後の作戦基地詫間において、今次大戦で散華していった飛行艇隊員の霊を慰めたいという悲願であった。

今日その悲願がやっとかなえられたのである。 詫間町民の暖かい支援と、香川地方連絡部の協力を得て実現の運びとなった。

私の保管していた終戦時の飛行隊編成表を唯一のたよりとして、約3年間にわたる調査の結果、218名の生存隊員中180名の住所を掴むことができた。 当日の出席隊員150名。

何より嬉しかったことは、呉総監、三十一航空群司令の取り計らいにより、音楽隊とPS-1が参加していただけたことである。

15年間も海自勤務をしておりながら、自衛隊が部隊としては民間の宗教的行事に参加することができないということを、この慰霊祭において初めて知った次第である。 呉監から、

「 当日の慰霊祭においては、神官による行事が終了し、神官退場後追悼式に移行してから音楽隊を入場させて欲しい 」

という御親切な通知を待て、新たに式次第を変更する等、委員長を引き受けた私は前日から心の休まる時がなかった。
(続く)

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(注) : 詫間航空基地については本家サイトの次の記事でご紹介しておりますので、ご参考にして下さい。


2015年05月14日

大空への追想 (259)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 あとがき

51年10月16日、終戦後32年目の秋、海軍飛行艇隊の最後の基地となった詫間 (香川県) において、第一回海軍飛行艇隊搭乗員戦没者慰霊祭が海上自衛隊協力のもとに、盛大に行われた。

かつての若驚たちも、今は五十の齢を過ぎていた。 30余年振りの再会に生存者達は抱き合って涙にくれたものである。

この慰霊祭に、古川、天本両君が出席して万座の注目を浴びた。 これがもとで、奇跡的に生還した4人の連絡がとれた。

52年10月、神戸湊川神社における第二回慰霊祭の席上、高原、平山、古川、天本の4名が全員元気な姿で会合できた。

彼らは内地帰還後も、あの4年間の苦難の行動については、一切伏せていたのである。 それは語りたくないというよりも、話したところで信ずる者はいないと考えていたからである。

戦傷の後遺症に苦しみながら、自らを鞭打って第二の人生を雄々しく踏み出し、現在は各自社会的にも要職について立派に過ごしている。

この度、古川、高原両君から、私のもとに克明な当時の手記を送ってくれた。 この手記を整理して纏めているうちに、当時東港航空隊分隊長として共に戦い、激戦の渦中に、生死を度外視して飛び込んでゆくことのみに生甲斐を感じていた私自身の頭の中に、いろいろな当時の思い出がよみがえって来た。

戦争とはいうものの、このクルー達に対して、誠に申し訳なかったと思う気持ちで一杯である。

既述のとおり、連合軍のチモール島兵力増勢の企図は、東港空三浦機の貴い犠牲により、完全に挫折したのである。

この翌日 (17年2月16日) 二十一航戦は、中攻27機、大艇9機をもって三浦機の発見した船団を空襲し、大損害を与え、辛うじて難を免がれダーウィンに逃げ込んだ一部兵力も、2月19日に行われた我が海軍のポートダーウィソ大空襲で藻屑と消えてしまった。

私は当日 (2月16日) の空襲において索敵隊指揮官を買って出た。 三浦機の弔い合戦でもあった。

幸いにもチモール島南東250浬の洋上で敵船団を捕捉し、攻撃隊を誘導できたのである。 今にして思えば、あの時戦場からそれほど遠くない洋上に、6名のクルーが苦しい漂流を続けていたのである。

当時の状況から、三浦機は自爆と断定せざるを得なかったことがこのような悲劇を生んだのである。 不時着の公算が10パーセソトでも予測されていたなら、捜索網にかかったであろう。

戦争の悪戯と片付けるには余りにも残酷なことである。

死の空中戦において愛機を失ったことに対する海軍搭乗員の責任感、生きて虜囚の辱かしめを受けずとする当時の軍人の激しい精神をこの手記の中から汲みとっていただければ幸甚である。 それに対する批判は読者の自由である。

「 愛国の精神は誰にも負けず、人一倍堅持しているつもりである。 国防軍の保持と軍国主義の区別が分からんような連中とは根本的に違っていると自覚している。 余生を注ぎ込んで日本の発展のため微力を尽くしてゆきたい。」

と語る奇跡の生還者4名の言葉をつけ加えてこの章を閉じる次第である。
(続く)

2015年05月11日

大空への追想 (258)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 終戦、帰国

カウラの悪夢から覚めて、負傷者はカウラ、へイ両収容所の協同病院に入院のうえ治療を受けていた。

沖本兵曹を失って遂に4名が残されたが、彼らはあくまで軍属を通して来ていたのである。

昭和20年に入り、終戦も知ることができた。 いよいよ不安は募る一方で、悶々としながらも、彼らは皆捕虜として働きながら毎日を希望もなく過ごしていたのである。

20年の暮れ迫った頃、日本に送還の話が盛り上がってきた。 こうなると捕虜の身が一段と苦しくなり、帰国の喜び等少しも湧いてこなかった。


21年1月、復員船 「第一大海丸」 がシドニーに向け日本を出港したことを知らされた。

その頃、日本人居留民達の間から次のような深刻な意見が出ていた。

「 日本は敗戦により、台湾、樺太、朝鮮が連合軍の手によって没収され、国土は大幅に減少してしまった。 そこに海外から何百万という日本人が帰国すれば、食糧難はもとより、あらゆる苦難が押し寄せ、国民全体が暗黒の世界を彷徨うことになるだろう。

そこで居留民としては、日本の国力が回復するまで、現在地に留まって働くことができるようオーストラリア首相に嘆顧することとしたい。 ついては軍人捕虜の皆さんはどうするか。」

これに対して軍人側で一決した意見は、

「 我々は捕虜であり、一般居留民とは遣う。 日本本土における負傷者のために、輸血源の役をして死ぬまで献血を続け、せめてもの恩返しをしよう。」

というもので、居留民とともに、この決議事項を携えて濠州政府に嘆願することになった。

しかし、濠州政府の回答は、

「 諸君の気持ちは察し得るが、居留民、捕虜の送還については既に連合軍命令が出されているので、濠州政府としてもこれに従わざるを得ない。」

というもので、シドニー市長自ら政府代表として説得に来られた。 これに対しては一同いかんともし難く、同意せざるを得なかったのである。

濠州政府は日本送還にあたり、捕虜に対し、各自バター、チーズ、砂糖などをふんだんに支給したほか、1500人分の糧食を準備する等、帰国に際しては実に暖かい配慮をしてくれた。


21年3月3日、「第一大海丸」 (一万トン) に乗船し、4年間にわたる濠州捕虜生活に終わりを告げ、シドニーを出港し故国日本に向かったのである。

出港後、ハーバーブリッジをくぐり抜け、コーラルシーに出てから、海軍特殊潜航艇が突入した地点において、一同船上から敬虔なる祈りを捧げて冥福を祈り、牛歩航海を続けながら一か月後の21年4月3日、浦賀に上陸したのである。

振り返ってみれば、太平洋戦争開戦後、僅か100日間の御奉公をしたのみで、17年2月15日、燃える闘魂を剥き出しに奮戦しながら、たった一機の戦闘機に叩き落とされた無念さがいまだに拭い去ることができないのである。

漂流、彷徨、捕虜、そしてあの集団自殺行、日本軍人として捕虜の汚名から逃がれんがため、あらゆる手段を尽くしながら過ごした4年間の苦闘 − それは現代人から見れば、なんと馬鹿げたことをしたんだろうと一笑にふされるだろうが− 死を大前提としていた当時の日本軍人の教育環境からすれば、当然やらねばならないことなのである。

“ 生きて虜囚の唇かしめを受けず、死して罪科の汚名を残す勿れ ” と心の奥底に叩き込まれた軍人の教えは、現在でも拭い去ることができないと古川兵曹は言い切っている。
(続く)

2015年05月05日

大空への追想 (257)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 決行 !!

19年8月5日午前2時、日本の気候にすれば二月頃に似ていた。 外を見ると風もなく霜が真っ白に降りていた。 月は皎皎と輝き、なんとなく日本の歴史上に残る大事件の勃発にふさわしい光景であった。

「 行くぞーッ 」

リーダーの合図により、約1千名の者が大喚声をあげて宿舎から飛び出した。 突撃ラッパが鳴り響いた。 ラッパを吹いたのは、例の艦爆搭乗員であった。 彼はどこから手に入れたのかラッパを隠し持っていたのである。

かねてからの計画どおり、宿舎に火が放たれた。 各自持ち出した2枚ずつの毛布を有刺鉄線のバリケードにかけてよじ登り、収容所の四隅にある監視塔に向かって突進して行った。

監視兵は全く予期しなかった事態に面食らいながらも、猛烈な機銃射撃を浴びせて来た。 あちこちでバクバタ倒れる者が続出したが、これはかねてから望んでいたことである。

捕虜達は武器といえるほどの物は持っていなかった。 手に手に、箒の柄で作った手製の槍などを持って、ただ喚声をあげながら弾幕の中を突進するだけである。 射たれて死ぬことが目的である。

捕虜側から見れば監視兵達はまんまと我が計画に引っかかったのである。 倒れた戦友の屍を踏み越えながらただ走った。

あちこちから “天皇陛下万歳” という叫び声が聞こえる。 実に壮絶な光景であった。

古川兵曹は、竹箒を構えながら早く弾丸に当たることを祈っていた。 国賊の汚名を逃がれ、護国の鬼となる時が一刻も早く来ることをひたすら祈っていた。

前の方で戦友が将棋倒しになるのが目に入った。 “来るぞーッ” と思った途端脚をすくわれるように倒れこんだ。 どうしても起き上がれない。 古川兵曹はどうやら脚をやられたようだと感じた。

これでは死ねない。 胸をせりあげて “ここを射てッ” と叫んだものの通ずるはずもない。

後ろから、どんどん自分を踏み越えて前進が続いている。 生き残ったら大変だ。

彼はコンクリートの床で刃先を研ぎすまして万一に備えて隠し持っていた洋食ナイフを取り出し、胸をはだけ、左乳下を思い切り突き刺した。 血がダラダラ流れ出し、手が滑ってとても心臓まで刃先が届きそうもない。 凍りついたような手に血の暖かさが感じられる。

やむなくナイフを両手で握ったまま、うつ伏せになって体重をかけてみた。 しかし思うように出血がない。

いよいよ焦った。 そこで刺したナイフを力一杯スリコギのようにえぐり回した。 痛みは無かったが今度はどくどくと出血し始めた。

“これでよしッ” 再び仰向けになり隣の戦友の遺体を枕にした。 アスファルトの地面の冷たさが背に滲みてくる。 残月がなお白々と光を投げている。 周囲の呻き声が一段と増してきた。 吹き出る血を左手で抑え、右手でナイフを握ったまま静かに目を閉じた。

これで死ねると考えた。 これで帝国海軍軍人としての誇りがよみがえって来た。 今こそ捕虜の汚名も濯ぐことができる。

“ 分隊長ッ、司令ッ、私はただ今立派に戦死します。 捕虜ではありません ”

心の中でこう叫びながら、腹の底から “天皇陛下万歳ッ” と大声を出したつもりであるが、そのまま意識を失ってしまった。


その後どうなったのかは全く分からないが、気のついた時には病院のベッドの上に寝ていた。 手や胸、足が包帯でぐるぐるまきになっているのだ。

“ああ、また生き残ってしまった” ポロポロ涙が出て仕方がない。 戦友はどうなったのだろうか、あのラッパを吹いた艦爆搭乗員の姿が目に残ってなかなか消えない。

グループの一人、沖本一飛曹がこの時に戦死したことを後になって知ったのである。 遂に4名のみになってしまった。 古川兵曹は左肺を失い、左脚に銃創を受けていることを知らされた。

何気なくベッドの下を見ると、海兵出身のA少尉が両手両足に包帯をまき、四つん這いになって動き回りながらみんなを見舞っていた。

かくてカウラ収容所の日本軍捕虜約1千名のうち、死亡者237名、負傷者550名を数えて集団自殺行も幕を閉じたのである。

飛行艇搭乗員も、沖本一曹を失い、遂に高原、平山、古川、天本の4名のみが生き残り、彼らにしてみれば、残念ながら目的を達成することが出来なかったのである。
(続く)

2015年05月03日

大空への追想 (256)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 カウラ収容所の集団自殺行

この事件については、日本軍捕虜達の暴動とか、脱走とかの噂が流れているが、いずれも真相には程遠いものである。 捕虜の汚名から逃れようとしての敵弾による集団自殺行為であると見るのが妥当であろう。

カウラ収容所で生活していた約1千名の日本陸海軍の将兵が、日本軍人として、捕虜の汚名に堪えきれず、敵弾に倒れることによって軍人としての最期を全うしようとする異常心理から出発した行為であった。 (現存4名のクルーの一致した意見である)

敵側を挑発して、この身を射殺させるために演じた集団行動であり、始めから敵を攻撃したり、脱走しようなどとは全く考えていなかった。

本行動を起こすについては、いくつかの原因があった。

第一は、日本軍人には捕虜ということはあり得ないという観念論である。 たとえ不可抗力の場合でも捕虜となれば死以外にないという根強い観念をもっていた。

第二は、流言飛語による心理的影響である。 当時収容所にはいろいろな人間が集まっていた。 勝ち戦の場面で捕らわれの身となり憤懣やる方ない者、既に闘志を失い敗戦を意識してすっかり観念していた者等種々雑多であった。

たまたま捕虜の中にいた零戦搭乗員が、次ぎのような話をしていた。

「 開戦の時、被弾のため比島に不時着し、捕虜になった中攻隊の1クルーがあった。 進攻して来た陸軍の手で幸いにも救出され、原隊に帰ることができた。

しかし既に自爆と認定され、部隊の名簿からも抹殺されていた。 宿舎も隔離され、しかも危険度の高い攻撃行には必ず囮機としてかり出された。 しかしこの精強なクルーは、その都度見事な戦果をあげて生還していたのである。

ポートモレスビー爆撃の際、遂に強制的に自爆させられた。」

こんな非人道的な行為が海軍航空隊に実存したことは考えられない。 真相の程は不明であるが、捕虜の身に泣く人々に与えた心理的影響は極めて大きいものがあった。

第三は、当時日本は捕虜に対する配慮が不足していたことである。 濠州の捕虜に対する取り扱いは、前述のとおり非常に好意的であった。 内務に従事する者としては烹炊員、理髪、ミシン、病院の通訳等があり、これらの勤務者に対しては、日当賃金が支払われた。

金銭の必要が全くない捕虜であり、合計額は相当のものになっていた。 そこで万国赤十字社の取り計らいにより、日本本土内の病院に献金する手続きをとってくれた。

ところが日本政府から、日本軍人に捕虜はないはずである。 そういう者からの献金は受けられないということで返金されたと聞かされた。

あるいは反動分子の計画的謀略だったのかも分からないが、捕虜の身から考えると悲しかった。 捕虜になった者は、もはや日本には無用の存在なのであろう。 いわば国賊なのだ。 結局死以外に選ぶ道はないという考え方がもち上がってきた。

以上のようなことから、“生きて虜囚の唇かしめを受けず” という思想が、敗北してなお生き永らえようとすることは恥辱であるという観念となり、日本人の胸中に根深く宿っている死を選ぼうというムードが次第に収容所内に高まってきた。

これはリーダーの過激な意見によるものではなく、捕虜全員の共通した意見であったのだ。

いろいろと考え抜いた末、次ぎのような意見が纏まった。

「 全員で騒ぎたて、収容所のバリケードを乗り越えることだ。 警備兵は必ず銃撃してくる。 濠州兵の銃弾により死ねば、これこそ希望している戦死である。」

かくして密かに行動計画が練られ、総員に計画が徹底されていた。 問題はいつ決行するかであった。

しかしその日は意外に早くやって来た。 日本人捕虜の数がうなぎのぼりに増えだし、不隠な空気を察知したのか、濠州側は下士官と兵の収容所を別々にすると言い出した。 当然捕虜一同はこれに反対した。 同時に “決行はこの機会を逃したらない” という声が高まった。

「 何でもよかったのである。 決行の切っ掛けだけが欲しかったのである。」

古川兵曹は当時を偲んでそう語ってくれた。
(続く)

2015年04月28日

大空への追想 (255)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 笑いを忘れた収容所生活

へイの町はシドニーの西方約600キロ内陸にあり、アランビッチ河畔に面した所に日本人居留民の 「ナンバー6」 収容所があった。

そこにはシドニー、メルボルン出向の日本商社員、銀行員等の高級社員から、木曜島での真珠貝採取ダイバー等に至るまで、種々な職業に就いていた日本人が約1000名もいた。

軍属と偽ってはいたものの、この収容所に日本軍捕虜として収容されたのは高原兵曹等の5名が最初であった。

既に元気を取り戻していた5名の収容所生活は、毎日付近の野菜栽培の農場で働き、僅かな日当を貰うという味気ないものであった。

捕虜の身であり、いずれの日にか死を覚悟している5名にとっては、死ぬ日と、死ぬ方法を考えるくらいがせめてもの慰めであった。

まもなく捕虜第二号として、海軍の下士官グループがやって来た。 その中に既述の 「加賀」 艦爆隊の搭乗員がいた。 高原兵曹等5名は軍属として偽名を使い、一切飛行艇搭乗員であることを秘していた。

戦況が切迫するに伴い、ニューギニア、ニューブリテン、ビアク、ガダルカナル等から陸海軍の傷病兵、艦船沈没時の漂流者等が続々と送り込まれ、へイ収容所は満員になってしまった。

日本人居留民達は17年の春、捕虜たちと分離するため、ポルトガルの斡旋により居留民交換船で濠州からロレンコーマルケス港 (アフリカ) に移動することになった。

居留民達がへイを出る時、彼らから捕虜達に対して、日本に帰国したならそれぞれの故郷に連絡してやりたいので住所を知らせて欲しいという話があったが、今更家族に知らせたところで心配させるだけであると考え、彼らの好意に感謝しながらほとんどの者が断った。

へイ収容所が満員になったため、約1年後には日本軍捕虜はすべてカウラ (ナンバー12) 収容所に移動した。

カウラ収容所はシドニー西方約300キロにあり、陸海軍下士官兵約1千名と別棟の士官収容所に陸海軍将校約20名が収容されていた。

5名のクルー達は軍属ということで、士官収容所の当番兵として約6か月間勤務を命ぜられた。

5名は明日の命も分からぬ捕虜ではあったが、死ぬまでは酔生夢死することなく、何でもいいから勉強しようということを誓い合った。

高原、古川両君は英語の勉強を思いつき、進んで収容所や病院の通訳を買って出た。 中学卒業時の頼りない学力ながら、懸命に努力したので、濠軍看護婦や軍医から好感を持たれるようになった。

このことは、我が負傷兵の治療面にも大いに貢献できた。 英語の勉強といっても教科書があるわけでほない。 濠軍の読み捨てた英文の新聞等でなんとか力をつけていただけである。

濠州兵の日本人捕虜に対する取り扱いは決して悪いものではなかった。 捕虜の要求に対しては、衣食住に関する限り大部分のことは受け入れてくれた。

ただ真っ赤な服を着せられたことだけが、日本人の慣習として歓迎されなかった。 そこで、自らの工夫で出来るだけ赤を変色するように努めていた。

負傷者の治療についても、当時日本の医療技術にはなかった神経縫合手術を施す等、高度の治療を受けて回復した者も相当数にのぼっていた。

しかし捕虜にとってはただ一つ “生きて虜囚の辱かしめを受けず” という軍人精神を心の奥底に叩き込まれているだけに、常に終局は死に連なる考え方だけはどうしても捨て切れなかったのである。

日本人として捕虜ということに対する恥辱に堪えきれない苦痛が常に我が身を大きく覆っていたことは事実である。
(続く)

2015年04月27日

大空への追想 (254)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 濠州大陸縦断、護送の旅は続く

目隠しを取られた時、5名は互いに顔を見合わせたが、誰も放心状態になっていた。 しかし、一室に集められた時に訊問を受けるなーと気がついた。

誘導訊問に引っかかって真実を喋ないよう相談したが、そこで考えついたのが、17年1月24日にセレべス島ケマ基地で米潜水艦の雷撃をうけて沈没した東港航空隊所属の支援船 「妙見丸」 (注) のことである。

(注) : この件については本連載第80回を参照して下さい。

5人は 「妙見丸」 乗り組みの軍属であり、アラフラ海で飛行艇の不時着救難配備についていた際、火災を起こして沈没し漂流していたということで辻褄を合わせることに一決した。

(原注) : 日本帰還時まで5名は徹底して軍属を名乗り通したのである。

予期したとおり、濠軍老中尉の通訳で5人は別々に訊問を受けることになった。 「妙見丸」 乗り組みの海軍軍属だと言うと、調査官達は船舶年艦を持ち出して熱心に調査していたが、確認できない様子であった。

軍隊のこと等さっぱり分らないという態度を強引に示していると、こんな半死半生の船員を調べたところで何も効果なしと思ったのか、とうとう訊問を諦めてしまった。

訊問をされたその日、初めてパンと牛乳を与えられた。 敵から食物を与えられることは好まなかったのであるが、いずれの日にか銃殺されるものと覚悟していたので、最後に折角の彼らの好意を受けてやろうという気になった。 負傷の手当ても受けた。

漂流が5日間、島内の彷徨が10日間とみて、今日は3月6日頃のはずであると思った。

全く久し振りに食器を手にすることになったが、更に万国赤十字社からだと言って、帽子、運動靴、下着、軽装服、日用品等が支給された。

久し振りにシャワーを浴び、ヒゲも剃った。 剃るというよりも、刈るという方が適当である。 そして応急治療で体中を包帯され、森の中の病院に入れられた。

どうやらこれで生きた心地がして来た。 これでよし、いつでも処刑に応じてやると思っていたが、どうやら処刑はしないらしく、ただ病院生活を続けているだけであった。


ある日、大尉の看護婦が古川兵曹のところにやって来て、小さな銘板を示し、これを読んでくれというのである。

一目見てそれは日本の九九式艦爆の脚オレオについていたものだと分かったが、こんなことで身分がばれたら大変と思って、数字以外は何も分からないと答えておいた。

(原注) : これは17年2月19日、ポートダーウィン空襲時撃墜された空母 「加賀」 の艦爆のもので、このパイロットは負傷して捕虜となり、やがて同じ収容所にいたのだが、カウラで死亡したのである。


17年3月15日と記憶しているが、ポートダーウィン所在の濠州軍の一部がメルボルンに移動することになり、我が5名も護衛付きで移動部隊に便乗することになった。

一同傷もほぼ治っていたが、この移動がまた大変であった。 約30両のトラック部隊である。 ダーウィンを出発し、遥々と濠州縦断の旅についた。

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( 原著より  濠州大陸行動図 )

殺風景な原野をひた走りに走って森林地帯にさしかかろうとした時、トラック群が急に列を乱して先を争うように森の中に逃げ込んだ。

何事が起こったのかと思っていると、上空を日の丸も鮮やかに零戦が数機編隊で轟々たる爆音を響かせながら、北西方に飛び去っていった。

「零ファイターは恐ろしいんだ」 と彼らは一斉に顔色を変えていた。 5人は逆に胸を張った。 あの二十ミリ機銃をぶち込んでもらいたかった。 恐らく、ブルーム基地を襲い、燃料に余裕がないためチモールに急ぐ三空の戦闘機隊だったのであろう。

大森林、大草原、砂丘から砂丘へ、オアシスからオアシスへと計画的なトラックの旅は約一週間続いて、アリススプリングス (縦断鉄道の基点) まで行くことになっていた。

この間途中に繰り広げられた光景は実に雄大なものであった。 大草原の中の巨大な蟻の塔、潅木帯を走るカンガルーの大群、コアラがその葉を食べるというユーカリの巨大樹、風化の激しい真っ赤な山岳、果てしもなく続く砂漠、大きなカゲロウ、まるで西部劇にでも出てくるような光景の連続で、夢の国にでも遊んでいるような錯覚に陥ったものである。

しかし銃殺を覚悟しての捕虜の身となっている現実に甦ってみると、何の感動も湧いてこなかった。

砂嵐に何回か出遭って、トラックの乗員はいずれも全身が真っ黒となっていた。

やっとのことでアリススプリングスに到着すると、休む間もなく待機していた輸送列車に乗り込まされた。 バザースト島での彷徨に比べれば雲泥の差ではあったが、それでもやはり苦しい旅であった。

列車の旅は更に一週間を費やし、アデレード、メルボルン、キャンベラを経て、5名は17年4月上旬、日本人居留民の収容されているへイ収容所に入ることになったのである。
(続く)

2015年04月20日

大空への追想 (253)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 遂に会敵 !! 捕らわれる

海岸を彷徨っているうちに、薄黒い肌をした中年の原住民2名に出会った。 一瞬緊張したが敵意は感じられなかった。 彼らは手まねで、食べ物をやる、薬もやるからついて来いと言っているのである。

みんなで相談をした。 島に着く時に一同が腹を決めたとおり、いざという時には無手勝流で戦って死ぬだけである。 少し怪しいという心配はあったが、とにかくついて行くことにした。

考えてみると、これが捕虜という苦しみを味わう発端となったのではあるが、今日まで生を維持する切っ掛けとなったことも事実である。 まさに運命の分かれ道であった。

喜びと不安の入りまじった気持ちで彼らについていった。 這ったり転倒したりしながら、どのくらい進んだことだろうか、内陸に入りかけたと思った時、突然四方から濠州兵が銃剣を構えて躍り出て来た。 ぐるりと四方を取り囲まれた。 その数は5〜6名である。 今にも発砲しそうな気配であった。

反撃に出る暇もなく、その力さえなかった。 霞む両眼で睨みつけ、“ここを射てッ” と胸を開いて突き出して見せた。 万事休す。 次の瞬間起こるであろう銃声を予期しながら瞑目した。

しかし一向に射ってこない。 二人の原住民案内者は濠州兵から謝礼を貰って姿を消してしまった。 不覚にも敵の罠にかかったのである。

敵兵の銃剣に追われるようにして、引っ張られ、後から押され、しばらく山道を進んで倉庫らしい建物の中に閉じ込められた。 いよいよ今夜が銃殺だろう。

10日間の死の彷徨の虚しさをしみじみと考えてみた。 既に俎板の上の鯉である。 日本軍人として絶対忠誠を誓ってこれまで生き抜いて来たからには、決して見苦しいことはすまいと一同心に固く誓い合った。

追い込まれた倉庫をよく見ると、メリケン粉が格納されていた。 飲料水はない。 便所の手洗鉢にわずかばかりの水があった。 この水でメリケン粉をこねて食べた。

少しは腹がおちついたので、袋の上に寝ころんだ。 銃殺覚悟の最後の睡眠である。 余り遠くないところで、飛行機の爆音が聞こえていた。 仮設飛行場でもあるのだろう。

突然大勢の兵士たちがドヤドヤと入って来た。 5人を後ろ手に縛りあげ、目隠しをした。 いよいよ刑場行きだなーと覚悟した。

前から手を引かれ、後ろから尻を叩かれて倉庫を出た。 どこまで行くのだろうか、大分歩いた。 ガヤガヤと人声が増えて来た。

「 早く射ち殺せッ 」

と怒鳴ってみたが、通ずるはずもなかった。 そのうち何かの中に押し込まれた。  感じで飛行機だと分かった。 エンジンが起動され、動き出したなーと思っているうちに間もなく離陸した。

さては空中から海にでも突き落とすつもりだろうと覚悟を決めていた。 “もうどうにでもなれ” いささかやけになった。 しばらく飛んだと思う頃、着陸態勢に入ったことが分かった。 どこだろうか。

飛行機から降ろされると、今度は自動車に乗せられた。 やがて車から降りると初めて目隠しを取られた。 兵舎らしい建物の中に連れて行かれたが、大勢の陸兵が右往左往している。 どうらやら濠州本土内の大きな基地らしかった。

そこはポートダーウィンだったのである。
(続く)

2015年04月17日

大空への追想 (252)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 死闘は海から陸に移った

筏は風に流されながら島の海岸に接近した。 海がよく澄んでいた。 下を見ると非常に浅かった。

“これなら歩けるぞッ”  みんな飛び込んだが、長い間漂流していたため、2〜3歩歩いたらふらふらと海の中に倒れてしまった。

後で気がついたのであるが、この辺の海岸の水中には鉄の網が張ってあり、絶えず動いていた。 何のためかは分からないが、筏のモヤイ索をこの網に縛りつけておくと、網と一緒にひとりでに陸上に引き揚げられてゆく。 みんな筏にぶら下がったまま、自然に接岸し、遂に数日ぶりに泥沼の底のようになった土を踏んだ。

早速筏は敵の目から逃れるために、マングローブの曲りくねった根っ子の間に突っ込んで隠しておいた。

足がいうことをきかなかった。 這うようにして上陸前に白く見えていた砂浜を目指して必死に進んでいった。

何の木か分からないが榊の葉のような線色の葉が目についた。 何も考えずにむしゃむしゃ食べた。 砂浜には胴の丸い小さなカニが無数に這いまわっていた。 これを手当たり次第に捕らえて口の中に放り込んだ。

水が欲しくてたまらない。 天の恵みか、蓋のない赤いチンケース (tin case) があった。 大分古いもので、底の方に赤いサビが沈澱していたが、上澄みの水を手ですくいながらみんなで分けて飲んだ。 何とも言えない美味さである。

気がついてみるとものすごく蝿が多かった。 海上では全く気がつかなかったことだが、傷口がすっかり乾いてしまって膿が溜まり、蝿が群集して痛くてたまらない。 そのうちすごくかゆくなってきた。 よく見ると蝿が傷口に卵を産みつけるのでうじが湧いていた。

上陸後第一夜を迎えることになった。 草の上に大の字に寝ころんだ。 波にゆられながらの筏の中にいる時よりは安定しているが、体は絶えずふわふわと揺れている感じである。 間違いなく大地の上なのだ。

南十字星が実に美しく見えた。 沖の方では探照灯の光だが何本も煌めいている。 防空演習でもやっているのであろうか、それとも夜間爆撃の日本機でも追い回しているのだろうか。

蚊の大群に襲われてとても眠れない。 何時間過ぎたのだろう。 天空の星座は全く動いていない。 地球の自転が止まったような気がする。

いつまでも長い長い夜が続くように思えたが、とろとろしているうちに朝が来た。 小鳥がさえずり出した。

いろいろ考えてみたが、やはりこの島はバザースト島らしい。 土人にでも会ったら何とか原隊に帰る方法を研究して頼もうと考えていた。

海岸に沿って北に進む。 昼が来て夜がまた来る。 満天の星を眺めながら草の寝床に夢を結ぶ。 今日で空戦後14日間になる。 希望なき漂流と陸地の放浪により、いかに強靭な海鷲といえども体力と気力は既に限界に達していた。

5人の中でも高原、沖本の両名は衰弱がひどかった。 いくら歩き回っても海岸に出られそうになくなった。 強烈な太陽に目を射られながら丘を歩き、暗いジャングル内を彷徨ったが、傷ついている足では耐えられなくなってきた。

やっと小さな川を見つけて水を飲み、カニを口にすることができたが、とうとう歩けなくなってしまった。

“ ここまでがんばったが、今日は二十数年の俺の人生の終わりだ。”

と高原兵曹は遂に観念した。 死を覚悟すると不思議に恐怖心も消え去った。 浅い小川の泥の上に座り込むと、そのままま意識が朦朧としてきた。

「 高原兵曹ッ、高原兵曹ッ、しっかりしろ、頑張るんだッ 」

眼の前で他の4人が大声で励ましながら、高原の手を引っ張った。 どうしたのか、不思議に気がとり直せて立ち上がれた。

枯れ枝を拾って杖にした。 体を曲げたり、回したりしながら口の届く限り乾いた傷口を舐めた。 うじを食べてみた。 実に美味かった。 これ以来傷口のうじを食べるのが楽しみの一つになった。

内陸部に入ってからは、水も食べ物も何一つなくなったため、北進を諦めた。 体中が痛む、休みたいが休んでいたところで救援隊が来るわけでもない。 休んだが最後、立ち上がれなくなりそうだ。

蘇鉄の木がやっと見つかった。 梅の実くらいの赤い実が20個ほどなっていた。 早速5人で分け合って食べてみた。 ところが一人がたちまち腹痛を起こして血を吐いた。 毒がある。 これ以来蘇鉄の実は絶対食べないことにした。

どうやら総員、体力の限界が来たようである。 刻々と体力の消耗してゆくのが、はっきりと分かるようになってきた。

彷徨い歩いているうちに、天の恵みか、水量の多い川に出た。 幅30米くらいの川である。 水は高きより低きに流れる。 この川を流れてゆけば必ず海に出るはずである。

水深は1〜2米ほどである。 泳ぐ必要はない。 5人とも落ち込むように川に入って流れ出した。 川の中に漂流する大きな古木につかまって、各自離れないようにした。

途中原始林や潅木の間を通過したり、鬱蒼たる密林の中で両岸から巨木の枝や薬が絡み合って真っ暗なトンネルを作っているところを通ったりした。 生への執念も消え失せ、流れにまかせての旅は、珍しいものばかりが目についた。

マングローブの湿地の奥深い林も通り抜けた。 大きな木登り魚に驚かされた。 ある者はワニを見たが、みんなを驚かさないようにと思って黙っていた。

どのくらい流れたのだろうか、木の間から空が突然開けたと思うと、すぐ真っ暗なトンネルの中に入る。 これを繰り返しながらやっと河口に出た。

日光がまぶしかった。 海が見えた。 本当に嬉しかった。 例の丸いカニがいた。 貪るように食べた。 眠くてたまらない。 日差しが強いので、川で濡れた防暑服はたちまち乾いてしまった。

杖を両手に握りしめて熱砂の上を彷徨い歩く、ロをきく者もいなくなった。 目がかすみ、意識が朦朧としてきた。 今度こそ死期が迫ってきたことを感じた。
(続く)

2015年04月14日

大空への追想 (251)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 島だぞッ、本当の島が見えた!

2月19日漂流開始後四日目の朝を迎えた。 アラフラ海の朝は朝霧が乳白色に海面を覆っていた。

ぼーっと霞んでいる海上に二本マストの軍艦が現れた。 幻ではない。 日本海軍でもない。 明らかに敵の哨戒艦である。

“敵艦だッ”  この時初めて捕虜という言葉が思い出された。 捕まったらおしまいだ。 軍人としての羞恥心が湧き起こった。

海にみんな飛び込んで息をこらし、空っぽのボートに見せかけようと頑張った。 幸いにも敵の目にはとまらなかったらしく、近よらず反転していった。

命拾いをしたと思っていると、約一時間後、再びこの艦がやって来た。 今度こそだめだ、海の中で観念していたが、やはり敵艦はUターンして行ってしまった。

もう先のない寿命だと思っていたのだが、それでも助かったという気持ちで一杯であった。

太陽が中天高く昇ったころ、友軍中攻隊の大編隊が南下してゆくのを発見した。 この日、第一機動部隊と基地航空部隊が合同し、ポートダーウィンの第一次大空襲が行われたのである。 (17年2月19日、大戦果を挙げている) 約2時間後再び中攻編隊は北に向かって帰っていった。

我々5名は飢えながら漂流している。 余りにも惨めな自分が悲しかったが、それでもみんな手を振って勝利を祝福して見送った。

友軍の機影が空の果てに消え去ると、大きな海原があるだけだ。 大きな赤い太陽が西の海に沈んでその日も暮れようとしていた。

この時である。 前方遥か彼方の水平線上に島が見えた。

「 島だッ、島が見えるぞッ 」

雲ではない。 確かに島だ。 しかし暮れかかった海原の中にやがてそれも消え去ってしまった。 高原兵曹以外は見えなかったし、幻だと言われてみれば自信はなかった。

空はやがて満天の星が輝き出した。 暗闇の中で5名の飢えた人間は、既に視力も衰え、飢えさえ感じない程になっていたのである。 明らかに精神障害の兆しがあった。 夕方見た島影も、本物だ、いや雲だと二派に分かれてしまった。

“早く夜が明けて欲しい” と筏の中でうつらうつらしていると、何もないはずなのに眼前にボートが迫ってくる。 浅瀬が見えてくる。 “さあ乗ろう” という気になって本当に身を乗り出そうとさえした。

突然天本兵曹が立ち上がった。

「 俺の親父が船で迎えに来たぞッ、みんな一緒にゆこう 」

叫んだと思うと筏からザンブと海に飛び込んでしまった。 みんなで引き揚げるのに大騒ぎをした。 精神障害が既にここまで進んで来たのである。

東の空が白々の明けて来た。

「 島が見えたぞッ 」

幻の島ではなかった。 本物の島なのである。 筏はなんと島の方に向かって流されていた。

砂浜の海岸線も見えてきた。 どこの島だろう。 平山兵曹が索敵時のチャートを頭に浮かべて考えると、どうやらバザースト島 (本連載第248回の地図参照) に違いない。

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( Bathurst Island  元画像 : Google Earth より )

狂気乱舞する力は既になかった。 しかしみんな活気づいた。 島は見る見るうちに近づいて来る。 太陽がやや西に傾き出していた。 午後3時頃だと思う。 本当に嬉しかった。 その反面、あの島に敵はいないだろうかという心配が起こってきた。

5人は防暑服を着ただけで、身に寸鉄も帯びず、飢えと負傷のまま会敵すればどうしたらよいのか。 その時には敵にしがみついて射たれるまでだ。 捕虜にさえならなければいい、死を選ぼう。 よしッ上陸しよう。 意見は一致した。

椰子の木もあるだろう、バナナもあるだろうと、南方基地の今までのことを想像しながら、とにかく近づいて行った。 しかしすべての目算は外れてしまった。

島の海岸には千古未踏の大森林が昼なお暗く生い茂っていた。 落葉が山積みとなり腐り果てており、全く人の気配は感じられなかったのである。
(続く)

2015年04月12日

大空への追想 (250)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 新たなる洋上の死闘

「おーい」 高原兵曹は叫んでみた。 すると、「おーい」 という声が返って来た。 誰かいる。 

声のする方に向かって泳いでゆくと、あッいた、一人、二人、三人 ・・・・ 全部で6人いた。 (高原、平山、沖本、古川、天本、七島)
 
みんなの顔は地獄の赤鬼のように赤かった。 焼けてただれていた。 古川兵曹の抱えていた物件は幸運にも救命筏であった。

当時はライフボートではなく、底に網を張っただけの1米×3米くらいの楕円形のもので、まわりの浮遊体が、赤と白に塗りわけられており、上空から見ると軍艦旗に見えるようになっていた。

6人は必死にもがきながら、古川兵曹の周りに集まった。 向こう脛に切り傷を受けただけの軽傷の高原兵曹が筏を組み立て、6人が次々と筏の中に入り、畳一枚ほどの小さな網の上により添うようにして腰から下を海水につけ、風の吹くまま、うねりの山に運命をまかせて洋上に浮かんでいた。

パイロット2名の姿の見えないのが悲しかった。 機長は機上で戦死、副操は海面接水時の衝撃で失神し愛機と共に沈んでいったのである。

魔の空中戦があってから数時間経った。 真っ赤な南海の太陽が静かに水平線に沈みかけている。 みんな虚脱したアブノーマルな顔をしていた。

平山兵曹の右掌の皮膚はダラリと剥げていた。 古川兵曹は両手甲、両肘の前部の皮膚が火傷で剥けてしまっていた。 天本兵曹は右太股に盲貫銃創 (現在もそのまま) を受け、七島一飛だけが腹部貫通銃創を受け、実に苦しそうであった。

“ 日本の潜水艦がいてくれたらなー ” “ 友軍機が見つけてくれないかなー ”

お互いに心の中で、期待しても空しいことを念じていたはずだが、誰一人それを口には出さなかった。

頭が痛い。 腹が減った。 南海の海上には真っ暗な長い長い夜がやってきた。 南方の空には、ケンタウルスの二主星を左側に従えた神聖な南十字星が美しく輝いている。 さそり座が頭の上まで大きく広がっており、その中の主星であるアンタレスが特に赤々と輝いていた。

南の国、十字星、憧れて南進を続けてきた我ら日本男児、闘志満々の海鷲だったのであるが、単機の戦闘機に射ち落とされ、翼をもぎとられた哀れな姿で、南半球であるアラフラ海の晴黒の海に漂流しているのだ。 北斗七星も、北極星も見ることのできない南海の果て遠くである。

長い長い第一夜が明けた。 “どんなことをしてももう一度原隊に帰って戦列に戻るんだ” 6人が心に深く誓ったのはこの一言であった。

太陽が上がってきた。 相変わらず頭が痛い。 顔も痛い。 腹が減っても何一つロにする物がない。 海水を飲むとすぐ吐き出して、一層空腹がひどくなる。

北方に飛行機の爆音が聞こえた。 本当に飛行機が見えた。 遠いけれど中攻27機の大編隊である。 後で分かったことであるが、輸送船団発見の翌2月16日、二十一航戦全力による攻撃実施だったのである。

“ 成功を祈るぞ ”

届かぬこととは分かりながらみんで手を振って見上げていた。 この編隊は約2時間後再び北に帰っていった。 アンボン基地に帰るのであろう。 我々は帰ることができない。 みんなの顔には幾筋かの涙が光っていた。

再び長い第二夜がやってきて次の朝を迎えた。 19歳の七島一等飛行兵は遂に永眠した。 さぞ苦しかったであろう。 なんの手当てもしてやれず、ただ 「我慢しろよ」 と声をかける以外に方法がなかったのである。

許してくれ、申し訳ない、誰もが泣いた。 彼の腹の傷は海水につかまったままでどうすることもできなかったのである。

亡骸をどうしようか、みんなで相談の結果水葬と決めた。 水葬といっても、筏の外に出すだけのことである。 海ゆかば水潰くかばね − 供物もなければ読経もない。 ただ合掌して泣いてやるだけが、この際できる精一杯のはなむけなのである。

七島一飛の顔は苦しみ抜いたにしては、静かなあどけない顔であった。 何の悔いもない、清らかな仏さんのような平和に眠っていた。

高原兵曹は持っていたシガレットケースを取り出し七島一飛の髪の毛を数本抜いて収めた。

「 生きていたら必ずお父さんに届けるからなー 」

泣きながら精一杯の声を出したのだが、遂にこのシガレットケースも失ってしまった。 七島一飛の亡骸はしばらく筏のそばを離れずに浮いていたが、やがて南洋の海に沈んでいった。 みんな泣いた。

悲しいその日もやがて暮れた。 三日目、突然小魚が沢山筏のまわりにやって来た。 網の目を抜けて筏の中にまで飛び込んで来た。 各自数匹ずつ手掴かみにしてロの中に放りこんだ。 口の中で暴れていたが実に美味かった。

イルカの大群にも遭った。 白い腹を見せて波のように来襲して来た。 被害はなかったが実に恐ろしかった。

風が出てくると、着ていた防暑服の上衣を繋ぎ、手で持ちこたえながら帆の代用にしたり、スコールが来れば、飛行帽を裏返してわずかな雨水を貯めて渇を癒したものの、こんなことで空腹が満たされるほずもなかった。

次第に目がかすみ、耳鳴りが起こり、頭痛が激しくなって、傷の痛みさえ感じなくなっていた。 そろそろ精神障害が始まり、気が狂い出して来たように感じられた。
(続く)

2015年04月11日

大空への追想 (249)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 空戦 !!

「 戦闘機だッ 」

後席からけたたましい声が響いた。 クルー達は直ちに機銃にしがみついた。 後部二十粍に高原、右スポンソンに古川、中央銃座に天本、左スポンソンに七島、前方に平山配置に就くや否や中央の天本兵曹が先ず射ち出した。

ダダダダーッ、スピットファイヤーが一機、右前方から矢のように突っ込んで来て、あッという間に後方に消えた。 すぐ敵は切り返して来て今度は尾部から突っ込んで来た。

高原兵曹の二十粍発射音が力強く機体を揺さぶった。 バラバラッ ・・・・ 敵弾がどこかを射ち抜く音がした。

敵機が大きく目に写った瞬間、尾部から白煙き吹いたと思うと一直線に海面に急降下していった。

「やったッ」 と思わず叫んで、高原兵曹が後方を振り向くと、七島一飛が 「ウウーン」 と唸ったままうつ伏せになって腹部を抑えていた。

この時、古川兵曹の目に真っ赤な炎が映った。 ぞーッと悪寒が背筋を走り抜けた。 よく見ると、胴体タンク室後部扉付近からメラメラと炎が吹を出している。

“しまった !!”  「火災」 と叫びながら、炭酸ガス消火装置の引き手に飛びついて力一杯これを引っ張った。

ものすごい白煙が立ちこめて、タンク室内の火災はいったん消え去ったように見えたが、再び燃え上がった。 こうなると前部の消火装置を使う以外に手がない。

信号ブザーをいくら押しても応答がない。 かくなる上は自ら炎の中に飛び込んでゆくだけである。 後部の扉を開いた途端、一陣の風がさーッと吹き込んだ。 これが運の尽きだった。 猛烈な炎が立ち上ったのである。

慌てて扉を閉めてみたが、火は消えず、これで艇内は前後部が完全に遮断されてしまった。

火勢はいよいよ広がる一方で、今にも天井が吹き抜けそうに見えた。 高度3千米、前席でも気がつき、消火のため一挙に急降下に入った。 タンクの爆発が先か、海面突入が先か、炎と海面に交互に目をやっていた。

一方尾部銃に就いていた高原兵曹は、吹きつけてくるものすごい白煙に襲われながら、床に伏して見ていると、白煙の中から真紅の炎がちょうど大蛇の紅い舌のように不気味に自分の尻を舐め出した。 我慢しながらただ膨らんでくる海面を見つめていた。

“ジー、ジー、ジー” と三声のブザーが響く、いよいよ自爆だ。 これで俺の人生も終わりだと観念したが、何も頭の中には浮かばなかった。

海面が迫った。 やがて引き起こしのものすごいGを感じると共に銃座の窓から放り出されたところで失神してしまった。

古川兵曹は、急降下中に自分の最期を意識した。 腹の奥底から 「天皇陛下万歳ッ」 と叫んだ。 海面が目の中に飛び込んだ。 いよいよ激突だッ。 思わず 「お父さん」 という声が出た。

引き起こしのGを感じた瞬間ドーソと言う強いショックとともに機は大きくジャンプした。 同時にタンク室後部隔壁の片隅にめり込むように叩きつけられて失神してしまった。

前方席は悲惨だった。 戦闘機の一弾は機長三浦中尉の後頭部を直撃した。 壮烈な機上戦死である。 偵察員平山兵曹はこれを目撃し、ただ一人操縦に専念する副操島田兵曹を励ましながら彼の後ろから操縦を助けていた。

沖本兵曹は最後まで電信席でキイを叩いていた。


〇 沈みゆく愛機

古川兵曹はしばらくして気がついた。 体の上にはいろいろな物件が積み重なっていて全く身体の自由が失われていた。

どこからともなく海水がどんどん浸入してくる。 タンク室から紅蓮の炎がふき出している。 熱くてたまらない。 海水は腰まで来た。 海水の上面はガソリンで火の海である。

苦しい、手も喉も焼けるようだ。 海水は遂に肩まで来た。 早く頭がマヒしてくれと念願した。 すべてを諦めて両眼を閉じ、息も止めた。

と、そのとき急に肩が軽くなった。 まだ運があるのか、体を抑えつけていた物件が海面に浮上し始めたために、ライフジャケットをつけている体が浮き上がったのである。 そして、壊れた中央のハッチから自然に海に押し出され始めた。

“ ああ、これはいかん。 自分は搭整員だ。 愛機から離れるわけにはいかない。 火災を消せなかったのは俺の責任である。 この愛機を失ってどうして生きられよう。 罪は万死に値する。 俺はここで愛機と共に沈むんだ。”

こう気がついて銃座に掴まろうとしたが、肘関節が動かず、握力も全然ない。 完全に体は海上に流し出されてしまった。

海中で気がついた高原兵曹は、逆さになったドン亀のような格好になって海水を飲みながらもがいているうち、ぽっかりと海面に浮かんだ。 炎上する愛機から20米くらい離れていた。

愛機は左に傾いたまま、もうもうと黒煙を吹き上げていた。 古川兵曹は何やら分からないが、体に当たった物件を抱えたまま愛機の最期を見つめていた。

左翼は海中に没し、艇体の大部分は沈んでいた。 右翼が斜めに高く天に向き、折から西に傾いた夕陽を浴びて日の丸のマークだけが鮮やかに輝いていた。

やがて徐々に傾斜を増しながら沈んでいった。 海上のガソリンの火も消えて、そこには静寂な大海原があるのみで何一つ目にとまるものはなかった。 あの敵の船団はどこに行ったのだろう。 浮流物を抱えたまま静かに目を閉じた。
(続く)

2015年04月06日

大空への追想 (248)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 当時の戦況

太平洋戦争緒戦期における海軍航空隊は、まさに世界に敵なしの勢いをもっていた。 南進また南進で開戦後2か月を経た17年2月には、海軍基地航空隊の最前線は、ボルネオ、スマトラ、ジャバ、ラバウル、外南洋まで進展していた。

濠州方面の作戦に絞って見ると、濠州北方のチモール島を17年2月20日に攻略することを目標として、前日の19日には機動艦隊をアラフラ海に進出させて濠北の要衝ポートダーウィンを空襲し、チモール島の背後を絶つべく作戦計画を巡らせていた。

基地航空部隊の主力十一航空艦隊の二十一航空戦隊を主体として編成された第一空襲部隊 (中攻、零戦 (鹿屋空支隊、一空及び三空支隊)、大艇 (東港空)) は、2月6日、ジャバ攻略戦に協力しつつ、セラム島アンボン基地 (注) に集結し、チモール海、アラフラ海を制圧して濠州作戦を開始した。

攻略目標日の2月20日には、海軍落下傘部隊がチモール島の陸上飛行場を占領するのであるが、東港空大艇隊は、アンボン進出後息つく間もなく濠州北岸海域に索敵網を張り巡らしていた。

17年2月16日、二十一航戦は次のような軍司令部情報をキャッチした。

「 チモール島防衛に躍起となっている連合軍は、ポートダーウィンに集結し、大規模の輸送船団が近々チモール島増援のため出港する気配濃厚である 」

この情報をつかんだ二十一航戦の精鋭は全力攻撃の態勢を整えて待機し、まず大艇隊がその尖兵となって船団索敵の行動を開始した。


〇 索敵隊発進す

17年2月15日 (シンガポール陥落の日) 0200、九七大艇3機が索敵出発の準備を急いでいた。 二番索敵線を担当する三浦機は、搭乗員交代等のため、この日は新編成で初陣であった。

機長は飛行艇操縦の神様と言われる中の一人、三浦特務中尉、副操は島田二飛曹、偵察員平山一飛曹、高原一飛曹、電信員沖本一飛曹、七島一飛、搭整員古川二整曹、天本三整曹の計8名が搭乗していた。

いつものとおり洋上係留のままエンジン起動に取りかかったが、4発ともなかなか起動せず、クルー達は翼上に上がり、汗まみれになってエナーシャを手回ししたがそれでもだめ、南海の夜空には無数の星が美しく輝いていた。

気は焦るばかり、僚機は 0300 前後に先を争うように出発して行った。

指揮所から代機を指令されたが、なんとかこの愛機で行きたいと懸命に努力した結果、約一時間遅れの 0400に アンボン湾の波を蹴ったのである。

美しい星空も消え、東の空は既に白みかけていた。 日の出が始まった。 黄金色の雲海が実に美しかった。

汗だくの飛行服も冷たく感じてくる頃、何一つ見えない青い海が雲の切れ間から広がってきた。 南海特有の白い雲が音もなく機体を撫でてゆく。

やがて右下方に、チモール島が接近してきたが、間もなく後方に遠ざかっていった。 機内は次第に殺気が漲ってきた。 全機銃配置に就き、海と空に警戒の眼を集中させていた。

前方遥かに濠州の北岸がうっすらと見えてきた。 時計は午前10時を指していたが、基地からも僚機からもなんら連絡はなかった。 やがて右旋回し第二コースに入った。 左側に濠州海岸が割とはっきり視認できた。

「 敵船団ッ !! 」

突如副操が叫んだ。 彼は左前方を指さしている。 見える!! 見える!! 大型巡洋艦を先頭に、駆逐艦2隻、大型輸送船4隻が、輸型陣で西に向かっている。

「 敵輸送船団見ゆ、ダーウィンの西100浬、針路270度、速力12ノット、晴、雲高3千米、視界20浬、1100 」

作戦特別緊急信が全軍の耳を鋭くついた。 三浦機長は直ちに上昇し、高度4千米の雲上に出た。 一旦視界外に去って隠密触接の態勢に入った。

248_01.jpg
( 原著より  位置関係略図 )

軍令部の情報は適中した。 チモール島上陸を企図する船団に相違ない。 アンボン基地は沸き立った。

“ よーし、やったッ、 うまく触接してくれよ。 明日はチモール海の真っただ中で藻屑にしてくれるぞッ ”

戦機到来、二十一航戦は翌黎明時これを捕捉撃滅する計画をたてて腕を撫でていた。

私は一人気になって仕方がなかった。

“ 三浦機は初陣だ。 位置から見ると、どうも深入りしすぎている。 戦闘機を誘いこまなければいいがなー ”

その時である。 「ヒ」 連送が耳をついた。 私の心配は現実となってしまった。 予想もしないことが現場では起こっていたのである。

どうしたことか、三浦中尉は隠密触接を止め高度4千米のまま船団上空に引き返して六十キロ爆弾を一発見舞ってやると言い出したのである。 歴戦のクルー達はビックリした。

“ 敵発見後3時間近くもせっかく隠密裡に触接できていたのに ・・・・。 機長は何を考えたのだろうか。 このままそっと敵から離れるのが嫌なのか、初陣の初手柄で触接機の任務をはき違えたのか、飛んで火に入る夏の虫だ ・・・・”

しかし、高原兵曹にはもはや機長をなだめる余裕がなかった。 そして爆撃効果確認のため、写真機を握って左スポンソンにしがみついていた。

機の前後左右がたちまち猛烈な弾幕に覆われた。 機長は決死の突入を続けた。 平山兵曹の爆撃針路修正の声が耳をうつ。 やがて投下、同時に右急旋回し全速で避退した。

幸いに弾幕は突破できた。 しかし、せっかくの隠密触接もこれで完全にパーだ。 大艇は既に袋の鼠となってしまったのである。

基地も慌てた。 戦闘機に食われることは明らかである。 これで敵船団は引き返してしまうだろう。

敵にしてみれば、明日の行動海域はダーウィンからの戦闘機行動圏外になるし、日本軍の空襲も必至である。 これでも強行策を採るとすれば敵の指揮官は馬鹿野郎だ。

それにしても三浦機はなんてことをしてくれたのだろう ・・・・。 とにかく早く逃げてくれと祈るのみであった。
(続く)

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(注) : アンボンの陸上航空基地については本連載の第73回のところで、同じく水上機基地については第83回のところでそれぞれご紹介しておりますのでご参考にして下さい。


2015年04月02日

大空への追想 (247)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還

この手記の主人公は、東港海軍航空隊九七式大艇索敵機の4人の生存者である。

大平洋戦争においては、戦死の公報を受け、葬式まで済んでいる人で生還していることが確認された例は少なくない。 こういう人達は想像に絶する苦闘を堪えて帰って来たものが多い。 この記録もその実例である。

海軍航空隊搭乗員としての責任感溢れるこの実話は、恐らく現代人には理解し得ないことであろうが、生存していた4名が語る4年間の生々しい実録であり、小説よりも奇なりと言うべき感動の物語りである。


昭和17年2月15日、セラム島アンボン基地を発進し、濠州北岸の洋上索敵中の九七大艇が、敵輸送船団を発見触接中、敵戦闘機と交戦、「ヒ」 連送 (敵飛行機見ゆ) のまま遂に還らなかった。

当時自爆と断定され、東港空としてはこれが4機目の自爆となったのである。 (当時筆者は東港空飛行分隊長であった)

戦後20年 (40年12月)、この時の搭乗整備員が “私は生きております” と言って夢のような手紙を筆者宛に送ってきたことから、奇跡の生還の事実が判明したのである。

自爆ではなかった。 撃墜された九七大艇は不時着し、炎上沈没したのであるが、操縦員を除いて6名が洋上に放り出され生命をとりとめたのである。

空戦、撃墜、漂流、漂着、島内放浪、会敵、捕虜収容所生活、集団自殺行と、4年間の難行、苦行に身をさいなまれながら、最後まで生き残った4名が戦後帰国していたのである。

52年10月、神戸湊川神社で行われた第二回海軍飛行艇隊搭乗員戦没者慰霊祭においてこの4名と再会し、詳しく聞くことができた。

高原一飛曹、平山一飛曹、古川二整曹、天本三整曹 (いずれも当時の階級) がその人である。 彼らは帰国後32年間、過去の一切を秘匿してそれぞれの道を選び、今日に至っていたのである。

この手記は、この人達の語るところを筆者が纏めたもので、十分に意を尽くせない点があるが了承を願いたい。 やはり 「奇跡の生還」 と題する以外に適当な標題は見当たらなかった。
(続く)

2015年03月28日

大空への追想 (246)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道 (承前)

〇 あとがき

この手記は、人間の本能をむき出しにして飢餓にあえぐメレヨン島守備隊の実情を暴こうとするものではない。 南海の孤島で、補給路を絶たれ、餓死寸前の窮状に追い込まれながらも守備隊の使命を果たしながら倒れてゆく悲壮な実態を知ってもらいたいために書いたものである。

20年3月11日の夜半、突如二式大艇が舞降りたことは、メレヨン島にとってに一大ハプニソグであった。

守備隊は、本来の任務地であったからこそ飢餓の島でも必死になって戦っていたのであるが、十数時間前までの娑婆の生活から、一挙に飢餓に襲われている地獄島に飛び込んで来ただけに、想像に絶する衝撃を受けたことは事実であった。

メレヨン島守備隊にしてみれば、久し振りに内地からの来客であったはずだが、何一つ歓待するすべもなく、食糧に余裕が全くなかったために、梓隊員も早速自活せざるを得なかったのである。

馴れない農耕と、わずかばかりの悪条件下の土地を割り当てられ、栄養失調に苦しみながら、人智の限りをつくして生き抜いてきたのである。 生き抜いてきたからこそ、彼らの語ってくれたこの手記が貴重なものなのである。

恐らく日本全土が大災害にでも襲われない限り、こんな苦しみは味わうことができないであろう。

しかし空に生きる者達にとっては、連絡の方法もなく、洋上遠く不毛の孤島に不時着することもあるだろう。 その時にこの手記はなんらかの参考になると思う。

日本は現在余りにも平和過ぎる。 世界のどこかではいまだにメレヨンの地獄生活に近い苦しみを味わっているところがあると思う。

幸いにして生還できたメレヨン守備隊の森軍医官は、メレヨン島の状況を “極限の医学” という見地から把握されている。 戦争の悲劇でなくて何であろう。

このように、人間生きるための最低条件を更に超越して苦しみながら、メレヨン島守備の任務に倒れていった隊員達を思えば、激しい敵弾の中をくぐり抜けながら自爆していった搭乗員達の方が遥かに幸福だったと思うのである。

いつだったか、私はテレビで “米国の評価する零戦” という番組を見たことがある。 米海軍の従軍パイロットが次のようなことを語っていた。

「 日本の零戦も、搭乗乗員も確かに優秀だった。 ただ日本は余りにも搭乗員の生命を粗末にしていた。

我が F6F (米海軍戦闘機)は、パイロットを護るために、性能を犠牲にして防弾装備をしていたのに対して、零戦は性能を重視して極力自重を軽くするために、パイロットの防護を考えていなかった。

パイロットは自らを護るためには、戦闘技量を向上させる以外になかったであろう。 “大和魂” という神がかりの指導理念だけで人間の生命は護り得ないはずである。」

この言葉は (私) 筆者の心を痛打した。 メレヨンの飢餓と、零戦の防護装備とでは直接比較するわけにはゆかないが、人命軽視という点では相通ずるものがある。

太平洋戦争においては、日本軍の太平洋離島進攻はまことに迅速であった。 しかしこれら離島に対する補給支援の面では、米軍のそれに比べた場合とても足元にも及ばなかった。 極めて弱体であったと言える。

離島攻略はただ戦線を拡大するのみで、補給路を絶たれた後の守備隊は島流しの囚人にも等しかったと思う。 防衛どころか、自分の生命を繋ぐに精一杯であったろう。

零戦に対するアメリカ人の批判も、日本人はなぜ命を大切にしないのかという点にある。 同じ命を粗末にするにしても、飢餓だけは人間生存の根本を覆すものであり、そこには大和魂など生まれてくるはずはない。

南洋の孤島メレヨンに倒れた幾多の将兵の霊に謹んで合掌するとともに、このような事態が再び起こらぬよう “備えあれば憂いなし” という古人の金言を国民全体が心の奥に深く叩き込んでもらいたいと祈るものである。

(原注) : メレヨン島不時着搭乗員12名は、内地帰還後再び戦列に加わり奮戦したが、戦後、河野上飛曹 (当時の階級) が故人となっている。

なお、当時の12名は次のとおりである。
    (機長) 小森宮少尉 (偵察)
    (操縦) 長峯上飛曹、安井上飛曹
    (偵察) 河野上飛曹、大橋一飛曹
    (電信) 高橋上飛曹、坂元一飛曹
    (電探) 遠藤少尉、本山上飛曹、吉田二飛曹
    (整備) 渡辺一整曹、氏田一整曹
(続く)

2015年03月23日

大空への追想 (245)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第2話 メレヨン島不時着、58日間の飢餓道 (承前)

〇 さらばメレヨン島

58日間の飢餓の島での闘いは終わった。 今クルー達は、狭苦しい潜水艦の中に乗り込んでいる。 乗艦後食器一杯のカユと一粒の梅干が各自に与えられた。 カユというよりも重湯であった。

その美味かったことは何にも例えようがなかった。 このときの味は今でも忘れることができない。

メレヨン島でも1日1合の米はあった。 しかし死の不安に脅えながら食べるのと、“これで飢餓から脱出できたのだ” という安心感のもとで食べる重湯とでは、格段の差があった。

栄養失調者にいきなり普通食を与えたりすると、消化不良を起こして死ぬことがあるのを配慮しての給食である。 腹が慣れるまでしばらくの我慢であると軍医官の親切な説明があった。

便乗者はクルーを始めいずれも栄養失調者ばかりである。 カユしか与えられず、空腹感はとても満たされなかった。

餓鬼となっている若い二人の設営隊員が、艦の側壁とパイプの間に備えてある艦の非常糧食のビスケット缶を発見した。 あさましい話だが軍属達がみんなでこれを貪り食ってしまった。

さあ大変、甲板士官が気がついて駆け付けたが時既に遅し、狭い艦内はたちまち便所と化してしまった。 この事件で遂に軍属2名が死亡した。 食べたい一心上でのことだからあるいは満足して死んだとも言えるだろう。

艦長はこの二人を軍艦旗にくるんで、夜間浮上航行に移ってから厳かに水葬に付した。

潜水艦は、メレヨン出港後は日出2時間後に潜航し、日没2時間前に浮上した。 潜航中は1.5ノット、浮上航行時は12ノットで横須賀に向かっていた。

本艦に乗り込んでから、梓特攻隊の二式大艇をメレヨンに不時着させて救助するはずの潜水艦が途中で撃沈され、伊三六九号が任務を引き継いでいたことを初めて聞かされた。

艦内生活もまた地獄に近かった。 敵艦影を認めて急速潜航し、全機関を停止して探信儀に全注意力を集中してジーッと堪えている時のあの不気味さは、この世のものとも思われなかった。

汚れた空気と汗にまみれての潜航、全身にカイセンとアセモができて本当に苦しかった。 しかしメレヨン島の死闘に比べると、生還への明るい希望を持ちながらの苦しみなのだから、そこには雲泥の差があった。

5月24日の朝、メレヨン出港後16日目、潜水艦は伊豆七島の沖合に達していた。 再び潜航に移り “1600 野島崎沖に到着の予定” と艦内に告げられた。 いよいよ日本の表玄関である。

クルー達にしてみれば、一挙に浮上して突っ走ってくれればいいがなーと思っていたが、今では東京湾内に完全に入るまでは、潜水艦にとっては一刻も油断のならない戦場なのだと聞かされて、戦局の厳しさを痛感した。

1600、予定どおり東京湾の入口に達した。 艦長から “梓隊員は3名ずつ交代で艦橋に上がれ” と特別の指示が出た。 早く内地を見させてやろうという艦長の暖かい配慮からである。

「 右が野島崎、左が洲崎の灯台である 」

18日振りに見る太陽の光は目にまばゆかった。 胸一杯空気を吸い込んだ。 空気の美味さがこんなに身に滲みるのも初の体験であった。

「 ああ生還できた 」

この感激は一生忘れられない。 5月24日1800、無事横須賀に入港できたのである。

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(原著より  伊369潜  撮影時期不明、横須賀帰投時と推定)

鹿児島の天保山沖の波を蹴って日本に訣別してから75日目、再び日本の土を踏むことができた。 まさに地獄からの生還である。

戦況が日本軍に不利になって以来、潜水艦によるメレヨン島への補給は何回か計画されたのであるが、任務を果たして無事帰国できた潜水艦は、伊三六九号ただ一隻のみと開いている。 本当に天佑神助としか考えられない。
(続く)