2011年06月23日

日露海戦懐旧談 (9)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   八、敵駆逐艦一隻を鳩湾に迫ひて撃沈

 其の後我が第三戦隊は屡旅順に迫り、敵の哨艦と戦ひ、或は敵砲台より砲火を受けたる事枚挙に遑はない程であった。

 或日 (2月25日) 、我が主力艦が旅順砲台を攻撃するに際し、我が第三戦隊は港口近く南方にありて敵艦隊の動静を監視しつゝあったが、午後一時頃敵の駆逐艦二隻港口に向ひ航海して居るのを認めたので、殿艦たる 「吉野」 は旗信に依り隊より離れ突進、之を砲撃した。

 敵艦大に驚き、中一隻は 「吉野」 に追はれつヽ辛うじて港内に遁げ込んだが他の一隻は舵を転じて西方に向つて遁げ出したので本艦は 「千歳」、「笠置」 と共に全速力を以て之を追跡した。

 敵は周章狼狽老鉄山を右に廻り鳩湾に入りて陸岸に乗り上げた。 而して乗員は皆海に飛び入り陸上目がけて遁げて居る有様がよく見えた。

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( ロシア駆逐艦 「ウヌシーテリヌイ」 座礁沈没位置             
 図左 : 防衛研究所保管史料より、図右 : 1956年の米軍地図より )

 我が戦隊は敵砲台の射撃を冒して接近し砲撃暫くにして、破壊沈没せしめ凱歌を挙げて引上げた。
(続く)

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2011年06月17日

日露海戦懐旧談 (8)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   七、旅順口閉塞決死隊の募集に応ず

 敵艦隊は我が軍、数次の攻撃に多大の損害を蒙り、港内深く蟄伏して専心修理を急いで居ることを知るや、我が東郷司令長官は予て計画しつゝありし旅順口閉塞の壮挙を決行することゝなり、二月十八日各艦に於て之が決死隊の志願者を募られ、之を聞くもの皆先を争うて願書を提出した。 而して僕は長男なる故を以て御採用にならなかった。

 本艦より、新上 (卯太郎) 一等水兵及舟上 (まま、舛山金藏) 、荘 (喜蔵) 二等機関兵 (まま、両名とも一等機関兵) の三人は選ばれて七十七士の中に加はり、特に艦長主催の別宴に招かれ、翌十九日総員の見送りを受け、万歳の声を浴びつゝ勇士の名誉を一身に集め意気揚々として、閉塞船 「武州丸」、「武揚丸」 に分乗した。

 翌二十日午前九時、我が第三戦隊は五隻より成る閉塞船隊を護衛し、八口浦を抜錨した。 在泊の各艦登舷礼式を行ひ、互に万歳をとなへてその行を壮にし成功を祈った。

 二十三日朝主力隊と合した。 夕刻、円島附近に達し、茲に再び登舷礼式を行い閉塞船隊に別れを告げた。 其の後数日を経て右三名の者は無事帰艦した。

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( 元図 : 防衛研究所保管史料より )

 此の壮挙は、天候の不良と敵の砲撃、防材及探照燈に妨げられ、所期の目的を達する事を得ざりしは遺憾なりしも、而も此の勇敢なる動作に依り敵の心胆を寒からしめ、我が軍の士気を振興したる精神的効果の多大なる事は言ふまでもない。
(続く)

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2011年06月13日

日露海戦懐旧談 (7)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   六 裏長山列島占領

 二月十一日、我が聯合艦隊は牙山にあって、午前八時満艦飾を施し、紀元節の祝意を表す。 乗員一同は 御真影を奉拝して更に忠節を誓ひ、武運の長久をった。 正午に各艦、旗艦 「三笠」 に倣ひ二十一発の皇礼砲を発射し、同十分満艦飾を撒し出動準備を完成す。

 夕食の終るや間もなく、我が第三戦隊先づ抜錨し、各隊之に続いて出動予定の作戦に基き索敵行勒を執りつゝ北上した。

 確か其の翌日であった様に思はれる。 我が第三戦隊と駆逐隊の一部は穏かな海面を滑るが午前十一時頃裏長山列島に達し、敵の建設せる望楼を破壊するの目的を以て陸戦隊を上陸せしめたが、露兵一人も居なく無抵抗にて之を占領した。

 或る小隊が番人の支那人三十才位の男をとらへ屋外に引き出し、裸体として厳しく迅問する場面を目撃したが、番人が恐れ戦き掌を合せて号泣助命を乞ふ光景は可笑しくも亦可愛想にも思はれた。

 島内の露兵は巳に引上げ、誰一人も残り居らざるを以て貯蔵の石炭は鹵獲品として之を駆逐艦に積み込み、残りの山なす石炭に石油を振りかけて火を点じて焼燼した。

 尚支那人の家屋より牛、豚、鶏等を手当り次第に徴発し、午後四時頃陸戦隊の帰艦するや直ちに抜錨本隊に合し、旅順沖を遊弋して威圧を加へ、無事第二根拠地に引上げた。(注)

(注) : 明治37年2月12日前後の第3戦隊は、11日付の 「聯隊機密第124号」 に従って円島方面において敵船及び戦時禁制品輸送の中立国商船捜索のために行動しており、少なくとも本記事はこの時の事ではありません。

おそらくここで出てくる 「高砂」 の行動のうち、前半の望楼及び貯蔵石炭の件については2月26日付 「聯隊機密第166号」 に基づく同27日の海洋島付近の敵情偵察時のこと、また家畜の徴発の件は3月12日付 「聯隊機密第213号」 に基づく同13日の裏長山列島偵察時のことと考えられます。


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( 裏長山列島付近   図上 : Google Earth より  図下 : 古い海図#392より )

     当時の 「高砂戦時日誌」 が残されておりませんが、これらのことは 「千歳戦時日誌」 などによって確認できます。


(続く)

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2011年06月09日

日露海戦懐旧談 (6)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   五 旅順攻撃

 本艦は首尾よく任務を果して本隊と合し、午前十一時旗艦 「三笠」 を先頭に第一戦隊、第二戦隊 ( 「浅間」 欠)、我が第三戦隊之に次ぎ、十五隻より成る精鋭は威風堂々単縦陣の戦闘序列を作り、大連方面より針路を西に旅順に向ひ、総攻撃を決行することになった。

 此の日は、昼食も時刻を繰上げ特別の献立で御馳走があった。 自分も人の真似して上から下まで新らしき衣服と着替へ、花々しく奮闘して戦死の覚悟をした。

 合戦準備も出来てゐる。 やがて十一時四十分頃勇ましい 「戦闘」 の号音で各艦の檣上には一斉に戦闘旗が翻る。 各員受持配置に就いた。 敵の艦隊十余隻は砲台掩護の下に港口近く遊弋しつゝあった。

 彼我の距離漸く一万米突に迫るや、黄金山砲台にて閃々たる砲火一斉に起ったので 「今打ったな」 と見て居る裡に轟々たる砲撃と共に旗艦 「三笠」 の近くに数条の水柱が上った。

 続いて老虎尾砲台よりも砲撃を開始し、敵弾頻りに飛来して艦側近くに落下し、水柱高く立昇ってゐる。

 距離は次第に接近して八千米突になった時、敵の艦隊先づ砲火を開き、午後十二時十二分、旗艦 「三笠」 の十二吋砲一斉射撃を合図として各艦之に倣ひて火蓋を切った。 敵の艦隊健気にも砲台の掩護射撃と協力して烈しく発砲し、砲声天に轟き飛び交ふ弾は霞の如く、茲に凄壮なる修羅場は眼前に展開された。

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( 第1次旅順口攻撃運動略図   防衛研究所所蔵史料より )

 僕は対舷砲五番十二糎砲に至り照尺改調の任に当って居た。 砲台長森永大尉は此の砲の後方舷側にあって指揮を執り、敵の巡洋艦 「バーヤン」、「ノーウヰック」 を相手に激烈な砲撃を加へたが、各艦各砲台とも独立打方のため弾着は混乱して照尺量の修正は頗る困難に陥り、始んど改調するの遑なく無我無中の有様で射撃を継続された。

 今日より之れを見れば随分幼稚な射撃の方法であるが、敵の射撃も亦同様、頗る拙劣にして乱射狂撃、飛び来る弾丸雨の如くなれども、近く落ち、遠く去り、或は右に左に偏して艦体に中らず、只砲台から放つ巨砲の一斉射撃は照準稍正確にして大部分は艦側近くに爆裂し、之が水柱の為め我等が戎衣を濡らし、頭上を飛び越す弾丸に肝をひやした事も幾度かあった。

 斯くて激戦奮闘約三十分にして打方を止め、堂々と凱歌を奏して引上げた。

 翌十日午後、牙山の沖に投錨す。 此の時仁川に向ひし瓜生艦隊も来り会す。 「ワリヤーグ」、「コレーツ」 の二艦を撃沈したるを聞き之が戦捷を祝した。

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( 牙山錨地   図上 : Google Earth より  図下 : 古い海図#301より ) 

 二月九日の攻撃に於て、本艦には敵の巨砲一弾後檣をかすめて僅かに之を傷け他の二弾はリギンを折断したのみで、乗員には誰一人の死傷者も出さず互に無事を悦んだ。 情報に依れば、我が軍の死傷者総数僅かに五十八名に対し、敵の死傷者百二十九名なりと。
(続く)

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2011年06月04日

日露海戦懐旧談 (5)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   四、敵船 「マンチユリー」 を捕獲

 途中何事もなく九日早朝旅順口沖に達し、遥かに遠く老鉄山の前方に横たはるを望見した。 近付くに従ひ黄金、威遠の砲台は視界に入り港口近く数隻の軍艦遊弋し、且つ昨夜我が駆逐隊の襲撃を蒙りた大艦三隻は正しく傾斜しておることも確認された。

 我が艦隊は戦闘旗を朝風に靡かせつゝ、各員受持部署に就き距離一万米突より八千米突まで突進して偵察任務を遂行しつゝ旅順の港を後に見て大連沖にさしかゝった。 其の時遥かに遠く一隻の商船を発見した。

 本艦は命に依り隊列より離れ、得意の速力を利用して之に近付けば敵の商船なることが判明したので万国信号に依り停船を命じた。

 彼は知らざる真似をして速力を増し舵を転じて遁げんとするので、艦長命じて八糎砲の空砲を連続三発御見舞した。 彼は其の威嚇に狼狽し、直に機械を停止した。

 そこで其の船を捕獲する旨を告げ 「本艦の航跡に従へ」 と命じた。 彼は図々しくも 「運転自由ならず」 と信号した。

 是に於て艦長大いに怒り、前後八吋砲に装填を命じ、左舷発射管、魚雷発射用意の号令がかゝると共に 「我汝を撃沈す、乗員は今より十分の間に退去すべし」 と告げた。

 流石に横着者の彼も今は到底逃るゝ途なしと覚悟したものゝ如く 「我故障復帰せり、貴艦の命に従ふ」 と云ふ意味の信号が来たので一同万歳を三唱し、彼を後方に従へ意気揚々として本隊に合すべく南方に向った。

 途中通報艦 「龍田」 が来たので之が回航護衛の任務を引継いだ。 此の船は敵の御用船 「マンチュリー号」 にして駆逐艦の材料其の他兵器を満載し旅順に向け航行中の途中であった。 是が其の後特務艦 「関東」 (注) と名乗り、我が帝国の為め忠勤を尽くした功績多い船である。

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( 特務艦 「関東」  本家サイト所蔵 『帝国海軍艦船写真帳』 より )

(注) : 特務艦 「関東」 は、日露戦争中は仮装巡洋艦兼工作艦として活躍し、その後は輸送艦、測量艦、工作艦等として使われましたが、先に連載しました 『運用漫談』 にも出てきましたとおり、大正13年12月12日佐世保から舞鶴に向かう途中悪天候のため福井県の越前糠浦海岸に座礁、船体全損に加え、死亡・行方不明者計96名という旧海軍事故史上に1頁を記してその最後を迎えました。


(続く)

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2011年05月29日

日露海戦懐旧談 (4)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   三、敵商船ロシヤ号外三隻を拿捕

 七日朝、旗艦 「三笠」 の通報に依れば朝鮮南岸に於て敵の商船四隻を捕獲し、其の中一隻は船名 「ロシヤ号」 なりと。 出陣の初めに当りロシヤを獲たるは最先きよしと一同大に喜び萬歳の声一斉に起る。

 聯合艦隊は午後二時頃、第一根拠地八口浦に集合勢揃ひをした。

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( 八口浦   図上 : Google Map より   図下 : 古い海図#302より )

 夕刻、予定の作戦に基き、司令官瓜生少将 (外吉、海兵期外) は 「浪速」 「高千穂」 「新高」 「対馬」 の第四戦隊と、別に 「浅間」 「明石」 の二艦を加へ、陸軍を載せたる運送船三隻を護衛して敵の巡洋艦 「ワリヤーグ」 及 「コレーツ」 を撃沈すべく仁川に向った。 (注)  各艦登舷礼式を以て送り、其の行を壮ならしめた。

(注) : ここでは原文のままとしておりますが、正しくは当時の第4戦隊は 「浪速」 「明石」 「高千穂」 「新高」 の4隻で、これに第2戦隊の 「浅間」 が瓜生少将の指揮下に置かれています。 「対馬」 は開戦時にはまだ就役しておりませんで、明治37年2月14日呉海軍工廠で竣工、翌15日に第2艦隊に編入され、第4戦隊編入は2月26日のことです。


 次で我が第三戦隊は大同江より旅順方面の偵察任務を帯び、先発して鎮南浦に向ひ本隊と分離した。 折しも寒気は急に激烈となり、白皚々たる朝鮮の連峰を右に遠望しつゝ貸与された防寒具 (スコッチ製の襦袢、頸巻き、手袋、フランネルの袴下、半長靴及フランネルの裏を附けたる外套) に身を包み、戦闘準備を整へ三直哨兵配置にて北上した。
(続く)

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2011年05月26日

日露海戦懐旧談 (3)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   二、聯合艦隊の出動

 明くれば六日、総員起床のラッパも一入勇ましく、上甲板に上って見ると各艦の煙突より黒煙もうもうとして立昇り、出港時刻を待つ光景は実に勇壮であった。

 此の日上甲板も洗はず両舷直は出港準備の一部を整へた。 朝食が済んで暫くすると、総員後甲板に集合のラッパが艦内に響き渡ると一同は元気よく駈け付けた。

 艦長は徐ろに口を開かれ国交断絶した事を簡単に語り、聯合艦隊に賜はった勅語を奉読され、而して後左の如き奉答文を読み聞かされた。

 「優渥なる勅語を下し賜はり臣等感激の至りに堪へす、臣は麾下の将卒と共に本日佐世保軍港を発し聖旨を奉体して犬馬の労を盡し、以て聖恩の万分の一に報い奉らんことを期す。 出師に臨み誠恐誠徨謹んで奏す。」

 次で勇壮なる訓示があつて乗員一同益々感激勇躍した。

 午前九時三十分第一駆逐隊は先発し、次で我が三戦隊も錨を抜いた。 各艦何れも登舷礼式を行ひ、見送る人と送らるゝ者、陸に海に人出を築き、国旗や帽子や又は半月布を打ち振りつゝ萬歳の声は各所に湧き起る。

 佐世保海兵団よりは軍楽隊を派遣し、勇ましき軍艦マーチの奏楽を以て威風堂々たる艦隊出征の首途を祝福した。
(続く)

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2011年05月22日

日露海戦懐旧談 (2)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』

   一、開戦前の概況

 明治三十六年の八、九月頃より日露交渉の成行に対して国内の与論は次第に八釜敷くなり、東洋の風雲は確かでなかった。

 常時僕は海軍一等水兵で、普通科掌砲のマークを着け、軍艦 「高砂」 に乗組み、六番十二糎砲の一番砲手であったが、途中三番八糎砲の射手の配置に変更された。

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( 二等巡洋艦 「高砂」  光村利藻 『日本海軍』 より

 「高砂」 は四千三百噸の二等巡洋艦で、之が姉妹艦たる 「千歳」 「笠置」 及 「吉野」 と共に第三戦隊に編入せられ、時の司令官海軍少将出羽重遠 (海兵5期) は、「千歳」 を旗艦として第一遊撃隊の勇名を天下に現はしたこと普く人の知る所である。

 我が第三戦隊は十月上旬、艦隊運動や射撃訓練を行ひつゝ鎮海湾に廻航した。 其の時露国東洋艦隊の一隊も亦鎮海に入るべく来航したが我が艦隊の入港しあるを見て、何れへか姿を消したと云ふ事を耳にし小気味よく感じた。

 碇泊は僅か一日にして其の翌朝錨を抜き、第一、第二戦隊と共に寺島水道を経て佐世保に帰港した。

 常時外舷は従来黒色であったのを各艦一様に鼠色に塗り替へられ、戦時不要と認めらるゝものは、両舷直員で毎日の事業として陸揚をすると同時に糧食石炭を満載し、防寒具を積み込み、弾丸には信管を取付けられた。

 其の後続々として大小の艦艇は集り、大型商船も多数来港して、さしもに広き佐世保の軍港も是等の碇泊艦船が港口より早岐の沖に溢れ壮観を極めた。

 斯くして其の年は多忙の裡に暮れて希望に満ちた三十七年の新春を佐世保の軍港で迎へた。 各艦は今や臨戦準備を完成し、只時々少量の炭水補充を行ふのみで、出動を待ち構へて居たのであった。

 而して二月一日頃、聯合艦隊の乗員は第二艦隊司令長官上村中将 (彦之丞、海兵4期) 指揮の下に陸上大運動会を催し、烏帽子嶽に登山競争を行ひ、一同其の頂上に於て、天皇陛下の万歳を三唱し、大日本帝国及海軍の万歳を唱へて大に気勢を挙げ意気天を衝くの有様で眼中既に敵はなかった。

 所が不思議にも、新聞記事も俄かに平凡となり世間の噂も穏かで人心漸く落着いて見えたが思へば是れも正に暴風前の小康であったのである。

 常時乗員の一般上陸は禁止されて居たが、二月四日の事であった、当地に家族を有するものに限り午後六時より十時迄特別上陸を許された。 是等の人々は短時間の裡に別れを惜しみ、如月の寒夜を物ともせぬ家族の人達に波止場迄見送られて帰艦の際ボートが陸岸を離れんとする時の情景は勇ましくも亦哀れであった。

 五日の夕刻、旗信に依り艦長以上は旗艦 「三笠」 に集まる。 雨か風か艦内では種々の噂に花が咲いた。 やがて夜の十時も過ぎて甲板の人形も次第に薄らぐ頃、艦長石橋大佐 (甫、海兵10期) は帰艦された。

 舷門に迎へし当直将校に対し微笑を浮べ、「愈々日露の談判は破裂した。 明朝九時三十分出港」 と云はれて元気よく 「ケビン」 に入られたが、間もなく准士官以上を集められて何事か訓示があった。

 此の事が忽ち艦内に知れ渡り折角寝て居た者まで起きて来て又もや艦内は騒がしくなった。 自分も実は其の一人で只嬉しく、初めて遠洋航海にでも出て行く様な気持になって夜もろくろく眠れなかった。
(続く)
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2011年05月21日

日露海戦懐旧談 (1)

 これから連載いたします本資料 『特務士官の語れる日露海戦の思ひ出話』 は、昭和10年に海軍省教育局より 『思想研究資料号外』 として、「其の一」 「其の二」 の2分冊として海軍部内に配布されたものです。

 その目的とするところは、編纂者の一法師大佐の序に記されているとおりですのでこれをご覧いただくとして、日本海海戦を始めとする日露海戦に於ける将校などの体験談などは水交社のものなどを始め数多く出されているところですが、当時一兵卒として戦った人達のものはほとんど無いと言って過言ではないと思います。

 本資料は作成当時の昭和初期には特務士官となっていた者達の手になるものですが、既に四半世紀の時が流れた後のものであり、多少の記憶違いなども含まれているであろうことは致し方ないものの、実戦体験の赤裸々な談話集として今尚貴重なものであることは変わりないと考えます。

 今年は年末に私もお手伝いをしているNHKスペシャルドラマ 「坂の上の雲」 の第3部が放映予定であり、その第3回 (第12話) 及び最終第4回 (第13話) にて日本海海戦が一つの目玉となります。

 また、横須賀にある 「記念艦三笠」 も今年は修復50周年を迎え、今月末にはその記念行事も行われるようです。

 これら良き機会ですので、ここにご来訪の皆さんのご参考として本資料の全文をご紹介してみたいと思います。 

 なお、ブログ連載に当たり、読みやすいように旧漢字を新漢字に改め、また句読点の挿入や、文節、段落などに適宜改行を入れたことを予めお断りしておきます。

 管理人 桜と錨
     
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『 特務士官の語れる日露海戦思ひ出話 』


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 本書は数年前の旧稿にして久しく編輯者一法師大佐の筐底に埋もれ居たるものなるも素朴なる従軍勇士の赤裸々なる告白として下士官兵の指導上適当なる参考資料と認め広く一般に薦むることゝせり。

  昭和十年六月

               海 軍 省 教 育 局

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      序

 日露戦役に従軍せる諸勇士も時の推移と共に現役を退き貴重なる戦訓も世に出ずして湮滅せられんとす諸将軍の懐旧談は有終会発行の懐旧録に其の一部を収録すと雖も直接砲後罐前等に在りて奮闘せる状況の世に伝へられざるは頗る遺憾とする所なり。

 然るに本団に於ては日露戦役に参加せる幾多戦士の残存するあり畏友尾崎篤四郎中佐と諮り同戦役に於ける実況、感想等を録し以て実戦場裡に立たざりし後進の為め活教訓を残さんとその材料の蒐集に力めしが補助員の勉励努力により四閲月の日子を費して漸く之れが完成を見るに至れり。

 録するものは何れも赤裸々の実状にして常時の状況を髣髴たらしめ真に吾人の好教訓となすに足るものと認む。

 治に居て乱を忘れざるは武人不断の心掛なり本書此の意味に於て諸士の好参考となるべきものと信じ之を同好の士に頒たんとす希はくは斯の教訓をして永久の生命あらしめられんことを聊か記して序とす。

  昭和三年十一月十日
            呉 海 団  一 法 師 少 佐

(続く)
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