2011年08月22日

日露海戦懐旧談 (21)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

  六、三笠損害及死傷

 午後一時年頃敵の三十糎砲巨弾後部セルターデツキ司令塔右舷側の稍前方に命中、同甲板を斜に貫通して右舷機室通風筒に近き下部にて炸裂之を大破し、更に左舷機室通風筒を破壊して士官厠の一部及附近甲板を破壊す。

 大檣も亦根本に於て僅かに其の全周の四分の一を余す迄に破損し甚だ危険なるを以て、第一次戦闘後八糎砲員等にて六吋スチールワイヤロープを以て後部司令塔と共に十数回捲廻し其の転倒を防止しました。

 之がため、

   戦 死   二名
   重 傷   三名 (小倉参謀、准士官一名、市川五分隊長) (注)
   軽 傷   十一名 (内、吉村主理一名)

(注) : 「三笠戦闘詳報」 によれば、小倉参謀は伊地知艦長負傷と同じ時午後6時半頃に前部艦橋において植田参謀と共に負傷とされています。
なお、以下の被害や戦死傷者の発生状況などについては原文のままとし、戦闘詳報などとの照合によるコメントは省かせていただきます。


 午後二時頃敵三十糎砲巨弾後部砲塔左舷側甲板に命中炸裂、上甲板を貫通して中甲板士官室、主計長室、清水缶を破壊す。 人命に損害なし。

 午後三時半頃彼我の距離益々接近し砲戦愈々激烈を加ふるや、敵の巨弾後部檣楼上にある重四十七密砲に命中炸裂し砲身は数十尺の高さの檣楼より甲板に墜落し砲楯は粉砕して海中に飛散せり、唯此の時檣楼砲員は既に大檣大破し居たるを以て其の部署に居らざりし為危害を免れたり。

 之が為 戦死  品川三分隊士、畑五分隊士、下士兵三名。 品川中尉は初瀬の生残者にして戦死の際は弾丸のため腹部全部を奪はれ凄牡の有様は言語に絶す。
   重 傷   高辻候補生、以下四名

 午後四時敵三十糎巨弾第四号清水缶外側水準線下約五呎の所に命中、七吋鉄板を貫通して其の位置に止せる。

 午後六時頃砲戦最も酎なる時、敵の一弾は第三分隊長 伏見宮博恭王殿下指揮の下にある後部三十糎砲右砲身中央部に命中し炸裂するや輪環部より切断し砲身は海中に墜落し、同時に砲塔は右舷側に同時して再び旋廻すること能はず。

 又砲塔内部は防水鍔及揚弾機右砲駐退機を破損し、激動したる空気と砲丸炸裂の発生瓦斯の為め一時真暗となる。

   重 傷   伏見宮殿下以下五名
   軽 傷   八澤砲塔長以下十三名

 然して塔内は鮮血迸り凄惨を極む。 指揮官少佐の宮は此の時胸部に打撲傷を負れ、軍服右袖及ヅボンの大腿部より膝下に至るまで甚しく裂け、軍帽、望遠鏡等は破損し、宮殿下には火薬瓦斯のため圧迫を受けさせられ、戦時治療所に当てられたる下甲板中部ネツチング上百度以上の所に板を敷きて一般兵員と共に御休みあらせらる。

 午後六時過敵三十糎巨弾兵員病室に命中、中甲板を貫通し反対側にて炸裂し径約一米半の破孔を生ず。 此の際下甲板に整列し防火の命を待ち居たる機関科防火隊員十四名中戦死二名、重傷五名、軽傷六名を出す。

 牛後六時半頃敵十五糎弾前艦橋セマホア信号機に命中炸裂し、前艦橋左舷甲板の一部其の他海図室附近を破壊す。

   戦 死   藤瀬航海士以下 十一名
   重 傷   植田参謀外一名 (植田参謀佐世保海軍病院入院後死亡)
   軽 傷   伊地知艦長以下二名

 危い哉、此の時コンパスブリツチにて東郷司令長官を初め島村参謀長其の他の参謀及伊地知艦長等八名相集まりて敵状を観望しつゝありし際なり。

 伊地知艦長の傷は膝下に弾片突入し鮮血淋漓たるも、従容として看護手を呼び其の傷にて仮繃帯をせしめ、艦の指揮を継続せられました。

 同時刻頃敵三十糎巨弾中甲板参謀長室と士官室との隔壁に命中炸裂、同室を粉砕す(死傷者なし)。

 午後七時頃敵の巨弾左舷兵員厠を貫通、掌帆要具庫、潜水器格納庫を破損す。
   重 傷   四名
   軽 傷   六名

 同七時過敵十五糎弾十四番八糎砲々楯に命中爆発し、其の上部を切断し砲身を墜落せしめ、後方にありたる準備弾薬約二十発を誘発せしめ、附近上甲板は凹陥の上部にありし第三カツターを粉砕し揚艇機大破して砲員を全滅せしめ、身首を辨せざるもの多数ありました。

   戦 死   澤本候補生以下四名
   重 傷   小山田水雷長以下十二名
   軽 傷   六名

 にして実に此の一弾にて二十二名の死傷者を出しました。

 同時刻頃敵十五糎弾十番十五糎砲廓上部に命中貫通し、砲廓内に墜落し重軽傷五名を出しました。

 午後七時半頃敵十五糎弾十四番十五糎砲砲門下部六吋鋼飯に命中炸裂し、砲門の下縁及側方を内方に屈曲せしめ、弾片は砲各部を破壊し、尚ほ弾片の一個は砲廓天上を通過せる士官厠の鉄管を破り糞汁上方よリ漏れ、砲員は背頭より汚物を被りたるも躊躇することなく発砲を継続し、戦闘緩なるを見て漸く応急処置を採りました。

 此の戦闘中後部三十糎砲発射不能と在りました為後部の弾丸を前部砲塔に移すことゝなり、上甲板八糎砲員十二三名にて後部三十糎弾庫より前部三十糎弾庫迄数十分の間に十一発運搬しました。

 又後部砲塔右砲二番砲手二水百坂清助は、戦闘半に尾栓腕毀損して之を交換することゝなり栓腕軸も同時に交換する必要を認められしが、該栓腕軸は砲塔弾庫に格納しありしを彼は直に弾庫に下り、単身該軸を担ぎ砲室に昇り来り一同を驚嘆せしめたり。

 之等は何れも平時に在りては到底出来得ざる作業なるも、斯る場合には何程力が出るものか想像が出来ません。

 斯くては八月十二日、戦死者藤瀬中尉以下三十一名を裏長山列島海浜に於て火葬に附し、翌十三日上甲板後部に祭壇を設け荘厳に戦友の英霊を慰めたり。
(続く)


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2011年08月26日

日露海戦懐旧談 (22)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

  七、五月二十七日日本海海戦に従事

 二十七日午前五時五分哨艦 「信濃丸」 より敵艦隊来航の警報あるや直に至急点火を命ぜられ、同時に総員作業服に着換へ連日搭載せし石炭の一部 (砲旋回動作にさまたげになる部) を海中に投棄し終て合戦準備をなし、各自最上の服に着換へ命を待ちました。

 一方艦は六時三十四分鎮海湾を抜錨、「三笠」 は例の如く先頭に立ちて進航し、八時過には檣頭高く戦闘旗翻る (注) 、各艦皆之に倣ふ。

(注) : 「三笠」 が戦闘旗を掲げたのは、バルチック艦隊視認後の午後1時44分のことです。 この 「三笠」 の戦闘旗掲揚を以て連合艦隊としての戦闘開始の合図と規定されていました。


 やがて艦長は総員を甲板に集め敵と合戦すべき時刻及各員の決心を訓示されました。


  八、伊地知艦長の訓示

 総員に告ぐ。 予てより一日千秋の思ひを以て待ちたる敵の第二、第三艦隊は愈々本日を以て浦塩へ向って当対馬海峡を通過せんとす。

 乃ち我が聯合艦隊は今より之が滅撃に向ひ、凡そ一時間を経れば彼我相見ゆるを得べし。 無線電信の伝ふる所に依れば、敵の序列は先頭 「ゼムチユーグ」 型一隻、其の後に二列をなし右翼列に 「ボロヂノ」 型四隻、左翼列は 「ゼネナルアプラツキシン」 型三隻にして、其の後方に仮装巡洋艦続航するものゝ如し。

 但し此の陣列は戦闘の進行上の状況に従ひ種々変化を来すは勿論なりと雖も吾等が雌雄を決せんとする敵勢カは大略此の如きものなる可し。

 想ふに今日の戦は実に邦家の安危に関する海戦なり。 我等は此の重要なる戦に於て天佑を稟けて平素錬磨を重ねたる鉄腕を揮ひ、必ずや敵を全滅せしめざればやまざらんとす。 願はくば諸子と共に協力一致して光輝ある成功を得んことを切望す。

 本日は風波穏かならずして射撃に困難を感ずるは聊か遺憾とする所なり。 依て照準は極めて慎重に行ひ号令は最も明瞭に伝へ、沈着にして毫も狼狽する事なく百発百中を期すべし。 予は此期に臨み是以上更に何等言ふべきものなし。 唯諸子と共に奮励努力、以て少くも敵艦隊の二分の一を撃破せんことを誓はむ。

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( 防衛研究所保有保管史料の 『三笠戦時日誌』 より )

 天皇陛下万歳!
 大日本帝国万歳!
 聯合艦隊の全捷を祈り万歳!

 と艦長の発声にて総員万歳を三唱す。

 然して一同に代って松村副長は 「艦長の御無事を祈ります」 と、艦長は有難うと一言を残して前艦橋を指して急ぎ去られました。

 終って総員は十時半午餐を喫し命の下るを待ちましたが、一刻千秋と申すのは此の時のことであらうと思ひます。


  九、敵影を認む

 午後二時頃左舷南方五哩位を距れ濛気の中に敵影を認む。 最初は十分其の艦型を識別し得ざりしも、時の移るにつれて続々敵の艦型は水平線上に現はる。

 是に於て 「気ヲ附ケ」 の号音が下り総員は戦闘部署に就て間もなく、前艦橋にある伊地知艦長は 「勝敗の決此の一戦にあり砲員は沈着百発百中を期せよ」 と令す。 伝令は高声にて之を艦内に伝ふ。

 間もなく東郷聯合艦隊司会長官は視界内にある全艦隊に信号を似て有名なる彼の 「皇国の興廃此の一戦にあり各員一層奮励努力せよ」 と令せられ、各艦の将士意気大に昂りました。
(続く)


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2011年08月30日

日露海戦懐旧談 (23)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

  十、我が艦隊より発せし弾丸の命中率

 午後二時過約六千米の距離に近くや旗艦三笠先づ火蓋を切り各艦之に倣ひて百雷の一時に落下するが如し。

 射撃開始後二三十分にして左翼先頭たりし 「オスラビヤ」 は我が猛撃のために大火炎を起し進退の自由を失ひて戦列を脱す。

 又旗艦 「クニヤージスワロフ」、二番艦 「アレキサンダー三世」 も大火炎を起し之亦戦列より離るゝに至る。

 当日の天候は浪高くして駆逐隊の如き航行困難を来すが如き天候なりしに、殆んど百発百中到底、平時平穏なる日の射撃にても未だ見たることなし。 之れ全く天佑としか思はれませんでした。


  十一、伊地知艦長戦死者に戦況を知らす

 二十七日も日没となり直に哨戒配備に移る。 配備終りし後艦長は副長の先導に依り下甲板後部の負傷者を見舞ひ、次いで戦死者を安置せる兵員浴室に至り総員集合を命じ、全員の集合を待ちて艦長は戦死者太田兵曹より順次抱き起し涕涙して恰も生ける人に物言ふが如く、「太田々々天晴名誉の戦死じゃ、汝等の勇戦に依り戦は勝ったぞ云々」と。 聞く者皆袖を絞らざるはなかった。

 斯くて戦死者の官等姓名を記したる新しきハンカチーフに其の洗血を附して之を木製の箱に納め、八月十日黄海海戦々死者と共に艦長公室に安置し、艦長は毎月十日及二十七日には必ず神酒を之に捧げて英霊を祭られました。


  十二、翌二十八日敵艦隊の降伏

 敵艦降伏して我が軍の為めに捕獲せられたる場面を眼前に見たる時は何んとも言ひ難き愉快さを感じたると同時に、一方露艦の将卒は祖国のために遠く二万哩の海路を辿り来たりて今日斯る運命に陥るとは恐らく彼等も予期せざりしところなるべし。

 其の心情を想び至れば一掬の涙なしには居られん様な感が致しました。


  十三、敵艦隊降伏の挿話

 敵の旗艦 「ニコライ一世」 が降伏信号を揚げし時、敵の各艦上に起ちし悲痛の出来事は実に筆を以て盡すべからざりしと言ふ。

 或る者は茫然として起立したる儘一言も発せず、或者は絶望の極艦橋に倒れ小児の如く慟哭し、又或者は尚ほ胆力を持して艦長に向って勧告し信号を揚ぐべからず命命に徒ふべからずと主張し、或は自爆若くはキングストン弁 (注) を開くべしと主張し、又中には続いて戦闘を続行すべしと呼ぶものあり。

 艦長は手を以て之を制しながら答へて日く 「降伏の不可なるは我等も能く之を知る、されど信号は苟も是れ我が提督の命令なり。 我等艦長たるもの此の命令を奉ぜざれば 「ニコライ一世」 を砲撃すべし云々」 と。 此の争論間に兎に角降伏の信号を揚げたりと。

 二十七八両日の戦闘に於ての三笠の損害は他艦に此すれば相当大なりしも、戦闘航海には大なる影響なし。

   戦死者     七名
   負傷者   八三名
(続く)

(注) : キングストン弁についてはこちら ↓ の (注5) をご参照下さい。
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2011年09月03日

日露海戦懐旧談 (24)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

『日本海海戦砲後の感想』

 御粗末な実戦談を申上げる前に順序として私の志願に関する追想談と当時の新兵教育の一部を加へて置きます。

   一、志願の動機と入営前後の模様

 日露の戦雲暗澹として国を挙げて一大危惧に鎖され国交断絶と共に日毎に召集される予後備兵、さては補充兵と内地各所は送る者も送らるゝ者も感慨無量、此の数多き出征軍人の中には筆にも盡せぬ悲哀話此の上なき気の毒な人もあり、戦況の進むにつれて戦病死者の遺骨を村に迎へて哀悼やる方なき家もあり、一家の大黒柱としてなくてはならぬ人を亡くし悲嘆に暮れる一家もありました。

 国の危難を前に見ては青年ながらせめてもお役に立ち度いものと日常呆然として思案に耽ることもありました。

 その結果長兄に其の切望を打明けましたが、兄は私の心を酌んでくれず、父にその情を訴へたが之れも亦同じ返事で一頓坐を来しました。

 何とか手段はないものかと思案の結果、父の認印をもって秘かに願書を提出し、翌年旧正月三日の朝友人と共に五里を離れた隣郡北條町の役所にて身体検査を受けました。

 結果は満十七才にて十四貫五百、五尺三寸八分で甲種合格となり、合格證書を載いたときの嬉しさは二十幾年の今日迄其の喜びを忘れ得ませぬ。

 然し実家から親戚に出懸ける外は泊りがけの外出は嘗てしなかった私ですから、実家に於て心配することゝは思ひましたが、此の秘密行動に対し只一人家の職人だけに打明けて居ましたから右の事情は家人の知ることであらうと察せられました。

 昨正月二日から降りしきる雪は尺を算する位でありましたが、希望に満ち喜悦此の上もない私は其の寒さに拘らず気も心も浮々として実家に向ひましたが、兄三人は二里に近き処まで雪を踏で迎に来てくれました。

 隣村の村端れを四人は語りながら帰りましたが、帰りがけの兄の言葉では、寧ろこうなっては兄も村人の手前却って採用を願うて呉れて居る様でありました。

 思ふ通り採用證書も来り、日数経って入団といふ事になりました。 時が時として憂愁に満ち泣き泣きの出征軍人の見送りを常として居る村人は、此の度は志願兵の私を見送ることゝして村内の喜悦一層のものがあった様です。

 県下入団兵は播州赤穂の高等小学校に集り、見送る群集の歓呼の裡に同地の駅から乗車して呉に向ひました。

 途中見も知らぬ人々、さては田畔の農民も其の勇ましき首途を送る為腰を延ばし、双手を挙げて出征軍人と同様の歓声を揚げてくれました。

 呉線に乗り換へ初めて見る軍港の様、嘸や戦争気分に満されて居るであらうと思ひつゝ車窓に首を伸しましたが案外軍港の寂莫さ、軍艦どころか一隻の水雷艇さへも影を見せず、只工廠の辺は黒煙と激しき鉄槌の響きと宛ら戦場の如き活況を現して居ました。

 呉に着くと、二万をこゆる工廠従業員と臨時傭の数知れぬ人夫の群の出入するを見て其の内容の程も伺はれるばかり。 之に加へて構内道路の広さが田舎者の肝っ玉を驚かせました。
(続く)


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2011年09月07日

日露海戦懐旧談 (25)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

『日本海海戦砲後の感想』 (承前)

   二、入団と新兵時代

 戦時とはいひながら団内は案外な寂莫さでありました。 当時の部内の高級幹部と本団幹部は左の通りです。

  海軍大臣              海軍大将  男爵  山本 権兵衛 (2期)
  呉鎮守府司令長官        海軍中将       柴山 彌八 (期前)
  呉海軍工廠長           同            山之内 満壽次 (6期)
  呉海兵団長             海軍大佐       徳久 武宣 (期前)
  同 副 長              海軍中佐       山本 竹三郎 (竹次郎?、13期)
  第五、六分隊長兼教育主任  海軍大尉       野中経彦 (17期)
  教育主任附             海軍上等兵曹    多久和 謙吉

 私等兵科新兵は六百六十名を二百名宛一区画に入れ、二区画四百名を五分隊とし残る二百六十名を一区画に二百名を入れ、後の六十名を雑務員区画に繰り込み之を六分隊とし、此処に分隊長兵科雑務員を通じ教育主任兼務で只一人、其の外に上等兵曹一名、教員というても二区画 (人員四百名、一ヶ分隊) に専任教員一名 (高砲一曹)、各区画には区画長と申しましても二曹普砲一名、区画は二十名を一班とし (号と称す) 十班に分ち、之に予備無章一等水兵が教員で二班に助手無章二、三等水兵一名がおります。 (之は 「吉野」 の生存者 (注) です。)

(注) : 巡洋艦 「吉野」 は明治37年5月15日装甲巡洋艦 「春日」 に衝突され沈没し、艦長佐伯闇海軍大佐 (8期) 以下3百余名が殉職したとされてます。


 又入団式としてもほんの型ばかりで、団長のみで行はれました。 教育期間は五ヶ月半 (元新兵卒業は五月十五日と十一月十五日でありました。)、其れに船体船具の名称はほとんど英語であり修業は甚だ困難を極めました。

 運用術教科書の一例を揚げましても、木艦から鉄骨木皮艦、装甲艦といふ順序にやるので、其れに附属する諸器具の取扱法等又容易ではありませんでした。

 砲術に於きましても極旧式の前装砲 (砲口から填めます) の長短四听砲から克式、保式、山之内式、安式の諸砲から、一吋ノルデン式五連機砲に到るまでやるのでありまして、殊に六百六十名中何時でも戦地からの要求あり次第補充をせねばならぬ関係でもありませう、全教程を二ヶ月で一先づ済まし一通りの試験を行ひ、其の成績上位の者から何時でも四等水兵に出来る様に短時日の速成をやりますので、其の激烈な教育であった事言ふまでもありません。

 私は不幸にして入団式直後から病気で二十九日間病室で過しましたが、教科の進況を聞かされて病室で居ても立っても居られぬ程あせり、寸暇も教科書を手ばなさず出来得る丈け机上の勉強をやりせしたが、何分にも直接従事しない陸戦には何んとしても追ひつくことも出来ず、退室後分隊に帰りますに其の教科の進歩はあきれるばかり、是れでは如何ならうかと心配しました位です。

 然し一生懸命で皆と共にあり、釣床卸後二科目位やるので、銑隊の如きは遅れた者ばかり五六名電燈の下で夜九時過まで稽古してやっと短時日でどうやらこうやら追ひつきましたものゝ、不安に絶えませんでした。

 夜毎に当直教員から戦地の状況を聞かされては骨鳴り肉躍るの思ひでありました。 此の危急の場合一日も早く新兵を卒業し戦地へ送らるゝ事を願ひ、そして朝夕神仏に祈り続けました。

 一寸申して置きますが、勿論新兵間一回の外出もなければ、間食も五銭の菓子が週に一回丈けであり、新兵の束縛は非常なものでありましたが、誰一人苦情を訴ふるものもなく此の教育に従ひました。

 さて戦地要員の必要上此の六百六十名中から若干抜擢進級さすことゝなり、八月の未に全部の試験が行はれて其の中二百十名丈けを新兵分隊から抜き、旧兵分隊に移して進級命令を待つ事と在りました。

 私は久しく入室もあり、とてもと思ったのに其の中に加へられて居りましたので、其の時の嬉しさは例へ様もありませんでした。

 旧兵同様な教科を受けること一ヶ月で、十月一日に進級させて戴きました。 然し茲に心もとないのは、当時軍港には軍艦は一隻もないので教科書と雛形等で学んだ位で、練習艦と言っても 「敏捷」 (注) といふ大和船が一隻あるのみで之に依りて艦上の実習をやりました位ですから、其の不安は一通りではありませんでした。

(注) : 「敏捷」 は日清戦争の時の捕獲艦で、戦後軍艦籍にありましたが僅か5ヶ月で除籍、その後は明治42年まで呉で運用術練習艦として使用されていたようです。 ただし、艦型、要目等も含め次の事項以外は知られておりません。 詳細をご存じの方がおられましたら、ご教示をお願いします。



(続く)

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2011年09月14日

日露海戦懐旧談 (26)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   三、「浅間」 乗組みと前後の模様

 然るに前申しました通りに軍港には一隻の艦形を認めず、例へば軍艦が或る災厄に遭ひましても其の乗員中幾分かが残って居りせすれば兵数に多少の余裕を持って居た訳ですから、戦地応召員の用途と云ひましても内地陸上勤務か運送船 (今の特務艦の如き後方部隊) に限らるゝ程度でありました。

 斯様に当時卒業はさせて戴きましたものゝ何処へ配乗されると言ふ的もなく、為めに本団の定員として四等水兵ながら秋月火薬庫の番兵に従事して居ました。

 当時内地の勤務と雖もなかなか厳粛なもので、其の緊張し切った軍規の様を伺はれます。

 又当時は一等水兵でも仲々責任の観念旺盛なる上に進取の気に富み、且つ率先典型を示すを誇とすることが盛んでありましたので、至難なる新兵教育にも何をやらしても出来ないといふ事はありませぬ。 真にシーメンライクの美点を発揮して居りました。

 恰度 明治天皇天長の佳節にボートレースがありましたが、これも本団の定員と新四等水兵の臨時クリューと、先に申しました 「敏捷」 といふ練習艦の定員とで極く淋しく行はれました。

 十二月に入りましてからそろそろ艦隊は単独で船体の小修理や軍需品の搭載、兵員一部の補充交代等で入港し初めました。

 「富士」 の勇姿を小麗女島附近で見た時の心持ちは何んとも例へ様がありませんでした。 山の如く威容堂々として、近付くにつれ其の雄姿と苦戦の状況を物語る弾痕、殊にミリタリトップの破損の様只凄惨の極でありました。

 斯様な姿を見せられては唯無意識に敵愾の念が燃え上り出征の希望が我慢出来なくなりましたが、猶配乗命令に接せず、秋月火薬庫に勤めて居りますと出入りの艦の模様が手に取る如く電話で知らされます。

 恰度十二月十六日と記憶して居りますが、即時帰団せよとの電話に接し取るものも取り敢えず帰団しました。

 かくて私等二十三名は軍艦 「浅間」 乗組みを命ぜられ、翌十七日寒気肌をさす早朝夢中で乗艦しましたが、何分初めて軍艦の人となったので何が何んだか一向判りませんでしたが、艦は名高い軍艦 「浅間」、任務は第二艦隊 (上村司令官麾下)、艦長は尺八艦長の沈勇振りを発揮せられた名代の艦長八代六郎 (8期) 、副長は元呉海兵団の副長であった中佐山本竹三郎 (前出)

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( 光村利藻 『War Vessels of Japan』 より )

 当時の 「浅間」 の勢力は安式八吋四門、同六吋十四門、同三吋十二門、山之内軽二听半砲 四門 (元檣楼砲なりしも上甲板におろす)、此の外魚雷発射管六門で、二十二節の速力を持って居りました (当時快速力を以って名あり)。

 私は第二分隊第二砲台五番六吋砲の四番砲手 (今の二番砲手) に配置せられ、砲台長烏山大尉 (一、29期) 、砲台附生田候補生 (矢一、新姓寺島、32期) (大正十三年造兵工廠水雷部検査官たりし予備生田大佐)、砲台下士官沖一等兵曹 (広島県人、今春亡くなられた沖特務中尉)、(一) (今時の射) 二曹長尾茂平 (広島県人、目下呉布西本通六丁目に生存せり)、(二) (尾栓操作) 一水戸綿戸熊太 (山口県人)、(三) (弾丸装填) 神谷友五郎 (岡山県人)、(四) (薬莢装填) 四水有延芳太郎 (当時兵庫県人)、(五) (装填杖、薬莢抜鉤) 三水大津米蔵 (山口県人) の五名。

( 当時は両舷に砲員全部の配置なく、戦闘側充員は非戦闘側より砲手三名来り戦闘側砲員に加はる。 非戦闘側 (二) 来りて (八) (今時の尺)、(四) 来りて (六) (薬莢補給) 、(五) 来りて (七) (弾丸補給) となる。 当時安式四十口径六吋砲は脚踏旋回装置にて (一) は上下左右照準及発射をなす。)

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( 四十口径安式六吋砲の訓練風景  8番が写っておりませんが
  1番の左前が定位置  元画像 : 『日露戦役海軍写真帳』 より )

 一寸艦内の模様を申しますと、臨戦準備其の儘であり (元臨戦準備は極く必要の部分をやる丈けで 「食卓手箱」、スインギングブーム、片舷ランチ、ピンネース、「第四カッター」、ガレー、ギグ、第二煙突後方のヴェンチレーター、左舷々梯、手箱、衣服棚、斯様なものは全部陸揚げして、釣床マンドレッド、フラッピング全部其のまゝ) 居住甲板迄石炭糧食満載、各砲台には準備弾薬 (榴弾にて信管脱出せるもの) を備へあり、テーブルカバーを甲板に敷き、尚手箱なきため各自木箱を自作自給せり (之は合戦準備直後海中に投ずるものである)。

 斯様に何処へ行っても戦場気分の横溢せるを見る。 又古参兵の頬髯の濃きを戦争髭と称して誇とする風あり、イバグリ頭に眼光鋭く一見戦場往来の古武士の面目躍如として幼稚な私等は一人其の意気に引き立てられました。
(続く)

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2011年09月16日

日露海戦懐旧談 (27)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   四、乗艦の嬉しさと自覚

 私は栄誉ある戦歴の艦、其れに名艦長を頂いて重大任務に服するの武運に恵まれ、次の様な事を乗艦最初砲長永尾一等兵曹から言ひ含められました。

 「お前の前の配員は八月十日の海戦で戦死し其の後を受け継いで行くのだが、其の戦死せし戦友の死様が甚だ見苦しく口を開け舌を出して居たのはまことに遺憾であった。 お互い砲員は何時敵弾に砕くるか知れぬ故、お互に平生から覚悟して、お前の戦死のときは目を開き口を閉ぢ怨敵 「露助」 を睨める如く死様を飾れ。」

 と言はれました。 其の時感極ってひしひしと艦上の人たるの自覚を促されました。 砲長の指導に依り砲員の親しき事も今時のものに見ることが出来ませぬ。


   五、忘れ得ぬ一月元旦

 忘れ様として忘れられぬ明治三十八年一月元旦、此の日こそ私に取りまして永久に忘れられぬ日であります。

 平時ならば壽を祝ひ屠蘇酒に酔うて居る処ですが、未だ朝食もすまぬ午前七時早くも母港を出港しました。 (注)

(注) : 「浅間」 は第2艦隊司令長官の 「乙隊機密819号」 (明治37年12月30日付電訓) に基づき、第2艦隊司令官三須少将指揮により津軽・宗谷海峡方面の北海警備のため明治38年1月1日に呉を出港し、翌日足摺岬沖で竹敷より回航の 「吾妻」 と会合の上、函館に向かいました。


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( 防衛省防衛研究所保有・保管史料より )

 任務を遂げて再び母港の山川を見るは果して何の時でありませう。 艦長初め乗員一同登舷礼に送られつゝ万感胸に一杯、出る艦、送る艦共に高き舷側で打ち振る帽子にこもる熱涙、今では昔話に過ぎませぬが事実悲壮な様でありました。

 軍港も遥か艦尾に変りし時初めて朝食を済し暫し、休憩後後甲板に総員集合、八代艦長の部下を愛撫する真情を面に表し総員に本艦此の後の任務の大要と行先 (当時露国バルチック艦隊の迂回は何れにあるや意見一致せぬ時) 又本日を期し自艦の所在は絶対に秘し、どこどこ気付けとすることに一定せられ、又遺言状を書かしめられ、遣る形見として各自の頭髪を切り、最寄の寄港地にて写真を撮り一枚を艦長へ一枚を故郷へ遺書及頭髪と共に送ることを命ぜられまた。

 私の一命に就ては遠から覚悟しては居ましたものゝ、愈々今生の御暇乞になるかも知れぬ、又これが形見の品々と思へば遺書にも写真にも特別な感じが湧きました。

 先輩の人々もかくして死地に臨みしことならん。 さて之が我が身に降りかゝって来るとなれば、今は一條の昔話として伝へられて居ますものゝ、当時其の光景を目前に見て決心の味を嘗めて来た私等でも、とても其の時の心情を此の拙なる筆には盡す事が出来ませぬ。
(続く)


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2011年09月21日

日露海戦懐旧談 (28)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)


   六、初航海と寄港地函館の事共

 一月五日北海の海は何れの山も雪に被ほれて、銀世界そのものでありました。

 乗員は半舷短時間の散歩上陸を許されしも、重大事を前に控へて居る事とて何をおいても艦長御命令通りの形見の写真を撮り、出港後昼夜の航海にも堪へ得る如く日用品等を先輩の人から聞いては買ひ求めたものです。

 忘れませぬが、支那鞄の小さいのを買って帰ってゐる先輩の人があるに其の用法を聞きますと、今は艦内に日用品を入れる手箱さへないから此れを手箱代りにするといはれるに、私も古参者の言の通り一個買ひ求めてこれを海戦のある迄用ひました。

 函館寄港は只故郷への手紙を認める位が唯一の慰安で、此れから軍港地に入る迄一回の泊り上陸なく、古き下士官も我々四等卒も同じく短時間の散歩のみ、夜間は内地何れに居るも厳重なる哨兵配備を行はれ、洋中石炭搭載は漂泊のまゝ商船横付けで英炭 (当時練炭は未だ常用して居りません) を満載するのでした。


   七、初寄港地より艦隊集合時期迄何れに居たか又何うしたか

 函館も四五日の碇泊で出港 (碇泊も余程沖に居て外筒砲射撃訓練、夜間は哨兵配置警戒す) (注1) 、千島諸島を巡航警備して山なす氷山大氷原を突破してその任務を遂行して居る中、氷の為めにラムより二三枚後部のアーマーが脱出して一時函館へ引き返して函館の船渠に入渠したこともあり、千島の或島では有線電信に依り発電す可くレースクリューに依り電報使を差遣した処が夜八時九時になっても帰って来ず、日没後直ちに結氷した為帰路を氷に杜絶されやっと氷上を滑らしてボートを運んだ奇談もありました。 (注2)

(注1) : 「浅間戦時日誌」 によれば、「浅間」 の函館寄港は1月5日〜1月18日で、18日に青森湾に移動、19日夜緊急出港し宗谷海峡での密航船等の監視に当たっています。


(注2) : 「浅間」 は、宗谷海峡方面の行動から一旦函館に戻った後、1月31日〜2月13日に国後方面へ行動しておりますが、本項に出てくるエピソードについては 「浅間戦時日誌」 にも記載が無く、詳細は不明です。


 漂泊中艦は結氷のため一時進退の自由を失った事もあります。 又夜間は商船が無燈のまゝ航行し船名又は国籍を尋ねても応答なく過ぎ去らんとするものある為、探照燈を照射し、停船命令の空砲を発射して商船臨検を行ひ、疑はしきは拿捕し若干の廻航員を派して横須賀軍港に回航、廻航員は陸路復帰したこともありました。

 当時横須賀のメス紐ステップ (注3) と云って捕獲船廻航員は横須賀土産に買って帰って親味なものに分ったものです。 又当時は漂泊のまゝ外筒砲の射撃を致しました。

(注3) : 水兵は常に作業用の折りメス (折り畳み式ナイフの一種) を携帯し、左胸ポケットに入れていましたが、これを首にかけるための紐に各自の好みがありました。 何と言っても丈夫で手触りの良いのが一番ですが、当時横須賀にこれの良い業者のものがあり、水兵達は口伝てに聞いては横須賀寄港の機会などを捉えて買い求めていました。

余談ですが、現在でも例えば 「サンドレッド」 に付ける投擲用の紐は各艦ごと術科競技用に特別のものを揃えるのが通例で、私も艦艇勤務の時には、時には多少のポケットマネーを出して掌帆長に買いに行かせたものです。 これも横須賀某所の業者でした。


 ハンドレールに手が氷結する位の寒さでありましたが、こんな寒さでも元気旺盛なもので大砲を大事にすることを忘れず、如何様な寒さにも屈せぬ砲術長三輪少佐 (修三、17期) の厳なる当直振りに砲員挙って之に見習ひましたものです。

 当時北海の寒さはとてもお話にならない。 私の砲員の神谷二水は、舌の暖みでは結氷する様なことはなからうと思って自分の舌をハンドレールに当てゝ見た処舌が凍りついて脱れず大怪我をして永く休んだ実例があります。

 恰度三月の中頃と思って居りますが、聯合艦隊は例の鎮海湾に集合しました。 (注4)  それまでは単独で北海の警備配置につき訓練を重ねて居ました。 其れ迄に 「八雲」 に一度遭ったばかりと憶えて居ます。

(注4) : 第2艦隊派遣艦艇による北海方面警備は4月14日に終結、「浅間」 は同日夕刻函館を出港、4月17日鎮海湾に入港しています。


(続く)


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2011年09月26日

日露海戦懐旧談 (29)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   八、艦隊集合地滞泊と海戦迄

 御承知の通り艦隊集合地に於きましては各艦競って射撃術及各部署の訓練に熱狂して居りまして、吾等最下級員の之に伴ふ奮闘は到底現今の艦隊労苦の比ではありませぬ。

 何分幼稚な兵器であり、且技術の幼稚さは今日思ふと可笑しい程で御座います。 一例を上げて見ますと、第一砲術長の射撃指揮法としましても射撃指揮用具として大したものがあるでなく、測距離に対し速力針路交角より来る変距率、飛行時、風力、風向、火薬類等を胸算用で加減して其の下さるゝ射撃号令が出るので御座いますので、今其れを思ひますとよくもあの様に命中弾を出したものかと思ひます。

 又私の配置されました六吋砲としましても、前に申しました通りの操縦人員八名の処を非戦側 (当時は片舷戦闘が建前でありました) 砲員三名を以て補充してやっと八名にし、照準器と申しましても右照準器 (此の右照準器は左の破損せし場合 (一) は右に移り、破損応急発射法として (一) は上下左右照準及発射をするのであります) はH字形円桿式照準器で、左照準器だけはやっと英国ロツス会社製一吋半 (昼間用) 照準望遠鏡が間に合ひ、円桿式照準器を改造致しまして海戦に間に合せた位であります。

 電源と申しましても電気打方は只列氏電池三個を直列接合にし発生電流に依る単一なる電源であり、此れも発砲中 (五月二十七日丈けでも) 数回電路員を呼びに行った位であります。

 私等は下級砲員のことゝて実戦の意識も御座いません。 如何にして海戦が行はれるかさへ五里霧中で御座いましたが、平常から敵艦型を活版刷にして各砲楯の裏面側に貼り何時もその艦名と艦型の識別を練習して、海戦前には私等までがこの型の艦は何々だといふことを知って居ました。

 然し露艦名を暗記するには骨が折れたものでしたが、当時 「三笠」 砲術長 (今の安保大将閣下) の発案で原名に似よった覚え安き、そして縁起の悪い綽名をつけられたものです。

 例へば 「ボロヂノ」 を 「ボロデロ (ボロ出ろ) 」 とか、「アリヨール」 を 「アリガヨル (蟻が寄る) 」 とか、「アプラキシン」 を 「アブラブキン (油布巾) 」 など改名して見ると覚え易く、最早開戦前には原名までも暗記したものでした。

 斯くして私等は昼夜配置に関して訓練される外、余暇には (当時四等卒の特別教育とてはあるではなく、各自各個に自習して艦内の様子を習得するのですが、我々四等卒には仲々覚える事が多く御座いました) 艦内編制等に就て我を競って勉強したものであります。

 根拠地集合中には常に他艦に見学に行き、その兵器の善用に就て各艦毎に工夫された設備を見学したり、又艦内では射撃競技が行はれたり、東郷長官の艦隊解散に降し訓示された百発百中を目途として磨きをかけ、既に遠き以前から我が艦隊の射手には充分の自信があったことゝ思ひます。

 又何時幾昼夜全力運転が続けられるや知れぬ、又戦闘も長時間に渉るか知れぬと言ふ覚悟の下に各部最善の良策を凝らしてありますし、石炭は英炭で下甲板から士官の私室の入口まで上甲板の余地ある処は山なす程一杯に積まれ、糧食其の他万違算なき様にし、常に運送船に依り軍需品の補給を、又海上港務部は台中丸を兵器工作船として艦隊の修理に遺憾なき様万全の策を講ぜられて居ました。

 又夜間は常に水雷防禦網を展張し厳重なる哨兵配備を怠らず、勿論臨戦準備は厳重に、発砲電路を接合して準備弾薬の幾発かに信管を附けて装填さへすれば何時にでも発砲の出来るやうになって居ました。

 斯くしていやが上にも緊張し切った気分と自信とは、今思ふても我が戦勝は当然だと思はれます。 斯様に海戦までには充分準備も出来て居るので、各艦は敵艦の来着を待ちわびて居ました。

 恰度私が今考へますと五月二十一、二日頃ではなからうかと思ひます、日没前に出港しました。 見ると総艦隊は陣容をなして湾外に出でつゝあるので、やあ戦闘だと思ひやした。 これは未だ海戦にも出会はない初心な四等卒の心には其の様な早合点も道理でありませう。 出港後は勿論戦闘教練であります。

 他の沢山な準備弾薬に信管を取り付けないのが可笑しいとさへ思ひました。

 各艦は如何様に運動されたが、深夜に一斉に投錨、例のネット張り方、哨兵配備で、艦内は一層の緊張を漲らせて居ました。 (注)

(注) : 5月21日ウラジオ艦隊発見の報により午後4時前に 「磐手」 「常盤」 「浅間」 の3隻が出動し、翌22日午後6時に鎮海湾に戻っておりますので、この時のことかとも思います。 ただし、総艦隊との表現は5月23日の 「佐渡丸」 のバルチック艦隊発見の誤報による連合艦隊出撃時のことかと思いますが、この時は午前十時出港、同日午後4時半に鎮海湾に戻っております。 何れにしても述べられた状況にピッタリ合うものがありませんが、四半世紀後の記憶による回想と言うことですので。

(続く)

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2011年09月30日

日露海戦懐旧談 (30)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   九、海戦の朝

 私は釣床掛で総員より十五分前に起され、釣床を格納し終るや上甲板に上りますと両舷直は出港配置に。 残る総ては昨日まで苦心惨憺して満載せし石炭の叭積みを海中に投棄せよとの命令。 艦内は物すごき迄勇み立ちて居る。 私等も前部砲塔両舷後部に積んである石炭を海中に投棄し、中部に至り砲廓入口のものを他に移しました。

 折しも艦は平常の艦足より一層の速力を加へ、我が第二艦隊定位置に続行しました。

 総員で手早く甲板を流し洗面を急いで朝食、中甲板の拭掃除も終らぬ中に総員手足顔洗へ、最上の軍服に着換への号令下る。 戦友は言ひ交した様に嬉し涙の語合ひ。 今日この最後だ、女々しい振舞ひ断じてない様に、取り分け有延は初陣だ、何事も古参者のなす所を見て沈着剛気をもって戦ふ様との激励の言葉を受けました。

 其れより間もなく合戦準備があり、各受持ちに就いて違算なきを期する為合戦準備に物足らざる所を完成に努めました。

 程なく総員を後甲板に集合せしめられ、愈々本日は大海戦が来た必戦の自信を持つべきことゝ慎重なる用意ある様との艦長の訓示がありました。

 続て酒保貯蔵の日本酒菰冠りを上甲板中部に運び鏡を脱、柄杓を付けて各自随意に戦勝前祝ひの縁起酒を飲ましめらる。 誰一人として酩酊する者なく無言の儘顔を見合すばかり。 中には柄杓に酌みたる酒を天に捧げて勝を上天に祈るものあり。

 気早やの者は恰も四十七義士の打入の如く晒木綿で鉢巻をなす者さへありました。 過ぎし八月十日の海戦に八代艦長より令された晒木綿の合戦鉢巻とも称へられたるもので (是れは負傷の場合繃帯代りに用ふ、便利あればなり)、誰しも守護神の守袋を身につけて足袋を穿ち上衣を脱ぎ、凛々しく装束したものです。 遇ふ人毎に戦の門出を祝福し不事の備へに後事を頼む。

 さて自分々々の受持に最善を盡して待ちましたものの、敵艦隊が如何に航進しあるや私等四等水兵の知るところではありません。

 恰度此の日は濛気がありて四面の視通を妨げられ、飛散る海波の飛沫と共に物凄さを加へて居ました。 此の朝東郷長官が大本営に打たれた電報 「天気晴朗なれども波高し」 とは後の世迄も名文として伝へられて居りまするが其の通りでありました。

 午前十一時に昼食をなし後片付を急ぎましたが、古参者の話に依れば、あの前檣楼に巻き上げられたるは戦闘旗なり之が開くと戦闘ラッパがなると云ふことでした。(注)

(注) : 当時の 『海軍旗章條例』 ではまだ戦闘旗の規定がありませんが、船乗りの慣習・伝統の一つとして 「大檣頭」 に戦闘旗の掲揚するものとされ、2檣艦で前後の檣楼が同じ高さ場合は後檣を大檣頭とすることとなっていました。 当時の 「浅間」 の艦型からすればそのとおりであるはずですが、もし本回想の前檣頭が正しいとすると、おそらく後檣頭に装備された無線アンテナ用ガフの為ではなかったかと考えられます。

なお、本回想にあるように戦闘旗などの掲揚は、旗甲板での通常の旗旒の格納状態のように畳んでその掲揚索で巻き止められたまま揚旗線に付けて檣頭に上げて準備しておき、戦闘開始とともに揚旗線を引いてパッと開くようにする場合がありました。 掲揚時の見栄えを良くするためで、これも船乗りの “スマートネス” の一つです。


(続く)


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2011年10月07日

日露海戦懐旧談 (31)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   十、いざ海戦

 時も時、信号兵の慌しき旗旒信号の掲揚あり、続いて戦闘旗の展開さるゝや戦闘ラッパが鳴り響いて各員配置に付きました。

 次から次へと変り行く号令に戦況の推移を察しつゝ初めて実弾の音を聴く。 そして大砲の発射に依りて如何様な変動があるや皆目解らず、落付かざる気持で号令さるゝ通りに動作して居ましたが、距離六千幾百と号令された時楯の隙間から射腺を見れば微かに見ゆるは山なす敵艦褪せたる黄土色の太き長き怪物が我れと平行に海波を蹴って進んで居ました。

 「何んと太いものだな」 と思ひました。 それも其の筈敵と我とは形式が異り、我が艦は水上に現はるゝ目標面を小にし、敵は唯頑丈のみを旨とせる為外貌上多大の差異あるに依る。 其れを知らざる私等の目には犬を予想した眼に獅子を見るが如く感ぜられたのであります。

 本艦は未だ発射せぬに敵弾我が艦上をかすめ、近弾は跳弾と変じてリュン、リュンとうなりをたて我等が頭上をかすめますので、初めは私の身を楯に潜める様にしましたが、砲長から注意されてやっと我に返るのでありました。

 私は右舷前中部の五番砲側に居た為確実なことは云へませぬが、何んでも本檻は主隊と離れ艦尾に駆逐艦を率いて居ました。


   十一、我れ先づ一発

 右舷に 「三笠」 を見て本艦の艦首が 「三笠」 より少し前に出た位な所で先づ一発を発射しました。 その時確か取舵に過って居たと思ひます。 艦長の慌しき声で 「舵故障ハンドホイールに就け」 と叫ばれたので、中甲板応急員補作員等が人力ホイールに就いた様でした。

 吾等は懸命な時であり何時故障が復旧したか分りません。 厳めしき射撃命令は次から次へとかゝり、打つは打つは十発も打たぬ間に旗艦 「スワロー」 ( 「スワロフ」 のこと) 撃沈との艦内伝令の知らせあり、万歳の声も揚る。

 激しき射撃が続けられ不発が屡々起る、直に撃発に移る、初は左照準器の望遠鏡で打って居ました。


   十二、嶄新の兵器も可惜効無し

 海水飛沫のため照準望遠鏡の鏡面くもり到底打てぬので、望遠鏡を脱してH字型照準器で打つことにした。 如何に嶄新兵器も可惜効をなさずに終った。

 不発毎に私は電路員の中川兵曹を呼びに行けと (一) の命令。 リュン、リュンと飛び来る敵弾の中を走り廻りつゝ何れに居らるゝや皆目目当もつかぬを探し廻ってはやっと来て貰ひ、電路に短絡あるを見出しては直し又電気打方をなす。

 戦は愈々酣になり御承知の通り敵艦の火災、我が弾丸の炸裂する凄惨極まる模様、続いて船体傾きマスト折れ、幽かながら敵艦の舷窓から吹き出す火焔、さながら阿嗅叫喚其のものでありました。
(続く)


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2011年11月30日

日露海戦懐旧談 (32)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   十三、敵は火死を免れんとマストに登る

 一番哀れなのは工作船らしき一艦が大火災を起して焔に包まれ時々上る火焔に目を据えて見て居ますと、マスト、ヤード、ガーフまで一杯敵兵が火死を免れる為挙ぢ登って居る。 やがてはマスト、ヤードが落ちる。 海中に飛び込むハンモックや木材を抱へて泳ぐものあり、又敵艦沈没のため其の渦の中に捲き込せるゝもある。

 人の事として見て居るものゝ之が反対なら如何であらうと思へば、敵ながらも哀れを催さずには居られませぬ。 思はず皆は目をうるほして居ました。

 打ち続く発射の為砲身が高熱を生ずる為、数発毎には砲底より清水を手動ポンプで注ぎ、砲身も外面から湿ったソーブで拭ひ、時々フワイヤメン (消火海水管) で水をかけたものです。

 かくて生死如何の分れ目寸秒を争ふ此の危機にも砲員挙って剛気沈着砲身冷却に努めつゝ、午後四時過迄射撃を続けました。

 勿論此の間には左舷戦闘の時には私は打殻薬莢を片付け甲板を処理して居りましたが、激しい発射のため打殻がたまり致方なくどしどし海中に投棄しました。

 段々射距離も近付き 「山之内砲員砲に付け」 の命令がありました。 それで始めて近距離に接近して居た事に気付きました。

 射撃に熱中しつゝも上甲板第二煙突のケーシングから上甲板一面蒸気の噴出したること三度、大音響の爆音を開きましたことは未だに記憶に残って居ます。

 戦闘側が右舷左舷と変るにつれ、烹炊場と鍛冶工場との間の通路から漏出する蒸気を避けつゝ戦闘側についたのであります。

 射撃中は何が何やら少しも耳に這入りませんでしたが、砲台附の生田候補生 (矢一、後ち寺島姓、32期) が 「永尾兵曹、もー五十米上げろ」 と言はれるに 「いけません私の弾は私が見て居ります、砲台長の号令通りにやります」 と、又命中弾が目につくと 「万歳! 俺の弾が当った」 と喚声を立てるなど、射撃軍紀上は如何かとも思はれるが、各砲手の自信の程が思ひ出されます。

 四時を廻つた頃 「打方待て」 の号令があり、次回発射の準備をなし各部を調査整頓に掛りました。
(続く)


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2011年12月15日

日露海戦懐旧談 (33)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   十四、小憩時の艦内巡硯

 「暫く時間がある」 との通報があって、砲長から艦内を一廻り見物に行けと許さる。

 先つ直後部隣の種兼君の大砲の肩当が敵弾で飛んで居る。 第二煙突のケーシングを右舷から左舷迄打抜き、其の敵弾は奇蹟にも左舷ウオーターウエーに転がって居ます。

 そして右舷後部では目も当てられぬ様。 七番三吋砲の周囲にありしハンモックマントレットのベットの裂けたのもあり、十一番砲廓外内舷には血潮が附着してゐるやら。

 後甲板はモグラの穴の如く左舷から右舷に甲板上面に近く通ってゐる弾痕幾條あるや知れぬ程であり、スタリンオークは海中に没し士官ハッチ、ケビンハッチのドアーは大破、ケビンも爆破。

 左舷水準線に二、三十吋の大孔二個、スチヤレージ全部浸水、ケビンやスチヤレージのドア−は大破し効力更になし、スチヤレージは艦動揺につれ海水が甲板に打揚ぐる様になってゐる。

 堀田中尉分隊長 (予備海軍中佐子爵堀田正路) (29期) の正装の写真が浮きつ沈みつして居ます。 其の他浸水に浮んだ諸物件が艦動揺と共に中甲板に打揚ぐるのは凄惨の極みである。

 庶務室並に士官食器室は爆破、前部燈具室は数弾を受け中孔三個、一、二番三吋砲は砲門より二発程這入つとか、艦は全体として後部に傾きラマは浮きスタルンは没して居ました。

 今まで何も知らずも我が戦闘配置に就いて居たが、斯様に敵弾が当って居やうとは少しも気付かずに居たのです。 斯く我が配置を懸命に盡す艦員なればこそ十二分に威力を発揮し得るのでありませう。

 夕日は傾き、何時艦は沈み我等も艦と共に運命を共にするやも知れぬと覚悟して居ました。

 夕食は全部誰かに奪はれ、臨時焚出しを仕様にも烹炊室では茶鍋も汁鍋も弾が当り (当時浅間はざる鍋で米をざるで蒸したものでした) 蒸鍋さへも破損して之が修理に全力を注ぎつゝあるので御座います。


   十五、飴二、三本にて夕食を済す

 米倉は御承知の通り後部最下甲板なる為め全部浸水し、小出し糧食庫も左舷から受けた敵弾のために米俵も飛散し埃混りの米が少しあるも到底乗員の粥さへ炊きかねる程であるので、ただ酒保の朝鮮飴二、三本に依って夕食を済ます。

 夜間は二直哨兵配備、他の一ケ直の水兵は後部の排水にかゝる。 滲水喞筒は不具合だしラオンドポンプは破損し、少しく速力を掛くれば舷側後部を圧する海水の強圧が内部よりチエストや毛布、ハンモック等を当てがった防水手段もコリジョンマットも何等功を奏せず、瀧つ瀬の如く奔流する様はとても御話になりませぬ。

 船匠長と掌帆兵とは必死となって防水に努めてゐる。 各部各ハッチの上にはシーヤスを立て、一廻半もあらうと思ふドラバケツを急造して之を艦外に引張り出す様な次第で、排水カの微々たる到底浸水の速さには及びませぬ。

 随って本檻は列外に出て速力を止め鬱陵島附近で殆んど漂泊同様にて防水作業に艦員全力を盡し、やっとハンドポンプを直しケビンの後部からスタルンウオークに通ずる扉を開放し之れよりホ−スを出し之を急転する。 又一方上甲板では 「張れ」、「引け」 の掛声でバケツ一杯の水でも汲み捨てんとあせりますが、他にせん術も御座いません。 疲弊と空腹とによりへとへとになりつゝも一生懸命であった。

 暫く休めと言はれて准士官室前の通路でゴロ寝したのは確か午前四時過であったろうと思ひます。
(続く)


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2011年12月23日

日露海戦懐旧談 (34)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   十六、敵艦愈々降伏す

 「砲員砲に就け」 との慌しき伝令の声に夢破られて梯子も一飛びの勢で我が砲につきますと、早や弾薬は装填され、将に発砲準備が出来て居る。 楯の後から外を眺めますと、露艦数隻白旗を揚げて居る。

 敵艦降伏と知られたれども尚厳重なる警戒の下に命を待つ。 艦橋からは決して発砲してはならぬとの艦長からの命令

 暫くすると 「敵艦捕獲員整列」 があり、短艇を卸して捕獲員出発す。


   十七、戦後の朝食

 残る砲員半数宛は朝食の飯がなくてメリケン粉と若布汁一杯に舌鼓を打って食事を済ませ、艦は漂泊のまゝ砲員の半数宛甲板を片付け装填弾薬を抜出したるは午前九時過であったらうと考へます。

 斯くして最早勝戦は決定し、敵艦四隻の他は如何なったかと古参兵に聞きますと何れも撃沈したとのことなり。

 噫! これで戦の局は結べたと思はれましたが、打続く浸水に船匠員や応急員は防水に努めて居た。 恰度我が艦隊の漂泊は本艦にとってはもっけの幸でありました。 それは速力低下の為浸水量は減じた為です。


   十八、本艦負傷者の概略

 親友二氏を初め艦員の安否を尋ねました処に同じパートの尾崎三等兵曹 (今の尾崎予備特務少尉) は踵をとられ、親友古谷四水も右踵をとられてはケビン砲員は仙波四水 (今の仙波特務少尉) 外全部が負傷、其の他知人の負傷も相当あり前後部戦時負傷者収容所を往ったり来たり、負傷者容態を心配してやる瀬なき胸を押へありしが、古谷とは永久の別れとなりました。


   十九、捕虜将校来る

 午後に至り捕獲員帰艦後甲板には朱髪の捕虜将校を迎へることになり、初めて敵将校を後甲板スクリーンバルクヘットで見た時、鳴呼! 気の毒であると思ひました。

 夕方近く駆逐艦の何かが横付して軍需品の一部を積み込んだ時、沈没敵艦よく駆逐艦が拾ったといふ露兵下士官兵三名を本艦に移すことゝなったが、其の中の一名は衰弱甚だしく間もなく死亡し、残る二名は上甲板中部に居た。

 艦長が訊ねられた処何れも露国の予備海兵にて、一人は無章二等兵曹、現に郷里には三人の子あり、敵ながら救はれし御恩は忘れぬと言って居たとの事です。

 一人は一等水兵であった。 其の濡れたる服を脱がしめ一等兵曹の服を与へられましたが (昔時二等兵曹が漸く詰襟に変った時代であったが官給品不足のため殆んど水兵服を着て居たり) 手入れの悪しき頭髪に眼光のみ鋭く、恐怖の念に慓えたる様は捕はれた鳶の如くでありました。

 未だ日本海の冷い海水に長時間漂流の疲労と救はれた安心とにがっかりした様であった。 之れに番兵を附し右舷弾薬通路に伴ひ行きたるが、中には自分の小型鏡を彼に与へて其の姿の変りしを眺めさせるものあり、又或者は酒保で食物を購ひ与へるやら伸びた髭をかってやるやら、溢るゝばかりの熱情を示したのです。
(続く)


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2011年12月27日

日露海戦懐旧談 (35)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   二十、敵艦護衛と本艦損所修理のため内地に帰る

 斯くして二十九日には東郷長官の破損個所検視の上本艦の露艦 「アリヨール」 を曳航して舞鶴に向ふことゝなった。

 後部下甲板以下浸水に拘らず艦長八代大佐は前部バウ、ケーブルを切断して後部砲塔に捲き露艦 「アリヨール」 曳航の準備をされしも、捕獲員の信号により八節位の速力を出し自力にて航行出来得るとの報に依り先づ一安心。

 「薄雲」 を先頭に次に 「アリヨール」、之に本艦並に敵艦の護衛として 「朝日」 が後に続き事なく三十日の午前十時頃と思ひます頃芽出度舞鶴に帰港しました。


   二十一、久し振りの握飯

 早くも内地の各地には此の大海戦の戦捷が報ぜられたるものか舞鶴軍港外まで (常時舞鶴は軍港として盛なり) 歓迎の汽艇を差向けられ、入港して見れば遥か市中は煙花を揚げ宛ら御祭の如くでありました。

 艦も一時も早く入渠せしめ船台に据えねば安心出来ぬので、入渠しある雑役船急遽引出し 「浅間」 を入れたのです。

 偖て二十七日以来完全なる食事もせぬので、入渠と同時に鎮守府命令で炊出しの大きな握飯をどしどし運ばれ一同盛に頬張ったものです。 人間が久しく常食に離れたら大人も斯く迄小供らしくなるものかと心恥かしく御座居ました。


   二十二、戦捷後初めての上陸と捕虜収容

 其の日半舷上陸。 地上に足の着くのを知らぬ程雀躍して上陸、到る処で大賑ひ大勝の催物あり、其の日は千載一遇の記念の日として各自郷里へ向け舞鶴への無事帰港を電報した。

 遥々面会に押しかける者、舞鶴は唯二艦の入港と捕獲艦見物に入り来れる者とで其れは其れは上を下への大騒動でありました。

 露艦の捕虜をシャラン船に乗せ本艦の捕虜将校に二名の露兵も之と共に海上より宮津へ送ったものです。 当時宮津には捕虜収容所がありました。


   二十三、至急修理と跡片付

 本艦では一刻を奪うて破損個所の修理と軍需品の積み換へを急ぎつゝも乗員の半数宛上陸を許され、残員総掛りで各倉庫の諸物件を担出し昼夜兼行で働いた。

 ここに苦痛と思うたことは、三、四日の間海水の浸潤の為倉庫内が非常なる臭気を帯びてゐたことゝ、缶詰類は別として他の悉く変色腐敗、紙顔の如きは跡形もなく解けて居たること、中でも一番臭気の甚しきは革製品でとても鼻持ちならぬ程でありました。

 総員は日課手人にしてもただ食卓附近の拭掃除位に止め、夜は十時頃迄此の激務に服して軍需品を元々通り満載す。 工廠側も特に職工を督励し昼夜兼行、唯舷側外板丈けを済まして数日後には早や出港艦隊集合地に向ひ再度長官の巡視を受けしも、時期既に海戦の終局を告げんとするときとて再度構須賀に帰港の上徹底的の修理をすることになりました。
(続く)


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2012年01月03日

日露戦争懐旧談 (36)

海軍主計特務大尉  古 林 忠 次

   一、戦争は恐くない

 私は二等下士官で 「浅間」 の先任筆記であった。 開戦前明治三十六年秋の頃呉を出て舞鶴方面に巡航した。 其の時艦長は 「未だ開戦とはなって居ないが何時露国の艦隊に襲撃されるかも知れぬ。 何時襲撃されても猿狽しない様に準備を整へて置け」 と云ふことを達せられた。 軍艦に乗って居るものも既にかくの如くで、一国挙つて既に開戦の已むなきことは皆覚悟をして居った。

 三十七年となってから艦隊は佐世保に集合したが、石炭も糧食も満載して教練等に出勒するときでも戦争が始ったのではないかと思はれることが度々あった。 又遺言書を認める様命ぜられたが、何を書いて良いか考へがつかぬ。 同僚と相談して書いた。 何んでも同僚は 「死後の総ての権利義務は父親に任す」 と云ふことを書いた。 妻もなければ子供もなく財産とてもない身には何にも書くことがないのには閉口した。

 頭髪や爪を紙に包みて、写真と共に之れも分隊長に出した。 写真は佐世保で撮ったが写真屋は大変な繁昌で門前市をなす有様。 平和克復後、写真は鎮守府から皆返して貰ったが、私は今に持って居る。

 こんな次第であるから国許の一家一族は大変に心配して戦争になれば直ぐに戦死でもするものとでも考へられるのか、神仏に祈願して沢山のお守りを送って来た。 安心な様な心配の様な気持ちとならざるを得なかった。 然るに愈々戦争となってからは恐いと思ふ様な事は皆無で面白い一方であった。 不都合ではあるが、私は戦争が長く続けば良いと思った。

 三十七年二月六日朝、私は主計長と共に金庫へ金を受取りに行った。 波止場に帰って見ると艦隊は朝から出港して港内は淋しくなって居る。 「浅間」 は一番後から出港した。

 港外に出ると艦長は総員を集めて、愈々露国と開戦、第一艦隊は旅順の敵艦を襲撃するの命を承け、我が 「浅間」 は第三戦隊 「浪速」 などと共に仁川に向ふ。 仁川には 「ワリヤーグ」、「コレーツ」 の二隻が居る。 これを撃破して陸兵三千を揚陸さす任務を有す。 陸軍運送船三隻は港外で待って居るとの事であった。

 出港迄は或は開戦するのではないかと思はれぬ事もなかったが、何時もの出港と余り変りがないのに此の御達しは実に若人の血を湧き立てしめた。

 仁川の戦には敵艦二隻は健けにも錨地を出て戦ったが、間もなく錨地に引き返へし遂に二艦共自分から爆破して終りを告げた。

 吾軍は一兵をも損せず 「浅間」 はかすり傷一つも負はずに、二艦を葬って仕舞った。 此れが私の戦争の手始めである。 恐くないのも無理はない、此の印象が戦争の終りまで続いたからである。

 戦争は進展して 「金州丸」 の撃沈、「龍田」 の遭難、「初瀕」、「八島」 の沈没等不詳事は続いたが恐れたからと云って禍を転じて幸とする事は出来ぬ。 御国に捧げた身命は恐るべきでない。


   二、己の手当は後でよい

 第二回閉塞決行の時である。 「浅間」 は旅順港口近く進んで決死隊収容の任に当った。 私の戦闘配置は後部治療所である。 負傷者は幾人であったか慥には記憶しないが重傷者が数名あった。 其の内の一人は非常に苦痛を訴へて見る目も誠に気の毒であった。 駆逐艦で応急手当をするとき服も靴も帽子も剥ぎ取られてあるから士官か兵か一向に解らない。

 之等と共に正木指揮官 (注) も来られたが、軍装の儘、顔面の傷から鮮血点々悽愴の気溢れ鬼神を避けしむるの概があった。

 手島軍医長は直ちに駈け寄りで耳朶に其の儘なる弾片あるを除かんとせられしに、「己の手当は後でよい。 彼れを助けよ」 と呼ばれた。 生死の巷にありて此の一言、部下を愛するの情が溢れてゐる。 洵に吾々の為めに良き教訓である。


   三、配置を離れるな

 日本海大海戦の時である。 敵影をかすかに認むるとき戦闘配置に就かしめられた。 段々戦酣なるに及んで伝令は敵何番艦火炎、何番艦傾斜、何番艦沈没、露兵マストに鈴なりなどと伝ふ。 拱手治療室に在るは遺憾千萬である。 此の戦を見ずして終ることは出来ぬ。 上甲板に行かんとしたる者があったが手島軍医長は 「配置を離れて犬死すな」 と厳達された。 私は遂に戦争の有様を見ずして職を終った。
(続く)


(注) : 正木義太 海兵21期、第2回閉塞作戦時の第4閉塞隊 「米山丸」 指揮官、当時海軍大尉、本職は 「高砂」 砲術長、本作戦での負傷により佐世保鎮守府付となる。



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2012年01月07日

日露海戦懐旧談 (37)

海軍特務中尉 上 田 安 治

 私に何か戦争の思出を話せと云ふことでありましたが、私は漸く十二听砲の一番 (今の射手) でありました。 艦は第三艦隊の第五戦隊 「橋立」 で、帯に短したすきに長しとでも云ひたい使い道の少ない足の遅い攻防共に薄弱なものでありましたから、合戦と云ふ花々敷場面へ臨みません処へ、私は旅順開城後一時帰朝しました時砲術練習所が再開始になりまして練習生になりましたので、八月十日の海戦に取残の数隻の敵と交戦を致しました丈けでありますから面白い話もありせせん。

 何しろ十二听砲では如何に距離が近くても効力は殆どありません。 私は十七発程発射しましたが、二発位は命中した様に思ひました。 指揮法等も今から見ますと御話になりません。 只指揮する人は目標の敵艦と距離を示す丈けで、横尺なぞは示さんのであります。 横尺は射手が自分の判断で整へるのでありました (判断と申しましても練習所で敵速と角度に依り公式的のものを教授を受けました)。

 私の配置が艦橋直下でありましたから敵の状況も良く見えましたし、又艦橋の話もよく聞えました。

 四時頃と思払ますが、参謀が司令官に 「今少し近寄りませう」 と申しましたが、司令官は 「いや本隊の邪魔になるから不可」 と申されました。 成程自艦許りのことには行かぬものだと思ひました。

 其れから一時間以上も過ぎましてから司令官がもう少し近寄ると云はるゝのを聞きましたから、又射てると思ひましたが距離が遠いので副砲以下は発射しません。

 三十二糎を二、三発発射しまして一発は爆煙を挙げて敵艦を覆ひ要したので、艦長始め拍手をして喜びました。 其れで砲戦はやめになりました。

 此の時の合戦に下甲板十二珊砲射手の一人が発射するとき、右足の位置が悪ったゝめ砲の退却の時膝に当ったので撃たれたと思ひ 「やられた ・・・・ 」 と倒れたと云ふ滑稽もありました。

 又開戦以前から敵の艦形から要目を全部各砲の而も射手の見易い所に列記してありましたので、兵員は皆要目即ち敵の力量を知って居るのであり、皆落付いて居た様に思ひました。

 其の後は封鎖任務でありますから旅順の沖に許り居りました。

 其の頃から強行偵察として、戦艦の艦載水雷艇に各艦から交互に艇員を選抜して機雷を搭載して港口に接近し、偵察並びに沈置を実施されましたので、十月下旬に私も二回従事しました。

 艇員としては下士官一名 (操舵員)、掌水雷兵一名、掌砲兵一名 (四十七耗砲があるので) 指揮一名と機関部員であります。 機雷は六個積んで行きました。 出港するときには登舷礼式で送られ中々壮快でありました。

 港口近くなりますと煙突を倒し成るべく波を立てぬ様前進します。 私は掌砲兵でありましたから艇首の艇砲に就て居りましたが、第一回には何事もなく帰りました。

 第二回目にも同じ要領で出て行きましたが、港口近くなりますと黄金山の探照燈に照され光芒の真中に入りました。 皆一様にやられたと云ふ感じが致しましたが、其の中に他方に旋回しましたので無事に任務を果して帰艦致しました。

 第三回目に本艦から出ました人達は艇諸共行方不明になりまして、戦争が済んだ時に戦死と云ふことになりました。 皆私共より先輩の人許りでありました。

 又其の頃は浮流水雷を一個発見するか或は強行偵察に一回行きますと直ちに特別善行章を授与されるので、浮流水雷を発見しますと善行章が流れて居ると云ふ様な戯談が流行しました。

 つまらない御話を申し上げましたが、此れ位で御許しを願って置きます。
(続く)


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2012年01月12日

日露海戦懐旧談 (38)

海軍軍楽特務中尉 河 合 太 郎

祖国を守れ

 日本海海戦当時旗艦 「三笠」 の前部砲塔伝令員であった。

 私には今尚ほ髣髴として目前に見る心地のする事が沢山ある。 其れは水平線上に見え始めた敵艦無数の煤煙、皇国興敗の信号、沈み行く敵艦、砲煙中の旭日旗、夕陽の中の追撃、敵艦の捕獲、捕虜となった敵将の来艦、死に行く兵員の萬歳等恰も絵巻物を広げた様に限りないが、最も深い印象として忘れられないものは戦の首途に於て対馬海峡上勇ましくも又悲壮なる艦長の訓示であった。

 五月二十七日の朝 「敵の大艦隊対馬海峡を通過せんとす、全艦隊直ちに出動せよ」 と云ふ命命が出た。 何んといふ嬉しい命令だろう。 満載して居た石炭を惜しげもなく海に捨てゝ艦足を軽めつゝ対馬海峡へと向った。

 「敷島」、「富士」、「朝日」 以下帝国艦隊の精鋭ずらりと単縦陣に並んで波を蹴る勇ましさ、旭日旗燦として、威風堂々敵を圧するものがあった。

 全員の身体には褌に至るまで新らしいものが着け換へられた。 原籍と戦闘配置を記した木札を肩から脇に掛け、少量の毛髪と爪とを手箱に納めた。 言はば戦に臨む覚悟と晴衣が出来上った。

 天気は晴朗なれど浪の高い対馬海峡を南下しつゝあったが、丁度正午頃 「総員後甲板に集合」 と云ふ号令が出た。 一同最後の告別と感じ異様の緊張で集合した。

 伊地知艦長は一段高い所から、「一同に訓示する」 と其の顔にも既に決死の色が見える 、、、 しばらく無言 、、、 艦は怒涛に揺られ波は上甲板をかすめる。 咳一つするものがない。 決死の将卒は踏みしめる足にも既に敵を呑むの概があった。 艦長は軈て声を新にして

 「 諸子も既に知って居る様に一、二時間の後には愈々バルチック艦隊と雌雄を決せんとするのである。 吾等は今日あらんが為めに困苦欠乏臥薪嘗胆を久しうして居た。 明けても暮れても根拠地で訓練ばかりして居たが其の手練を示す時が今来たのである。

 敵艦隊は吾に比し有力である。 然し我々には祖先伝来の大和魂がある。 如何にしても敵艦隊を全滅しなくてはならない。 殊に我が 「三笠」 は数隻を引き受けなければならない。 其の責任の甚だ大なると共に此の上ない名誉である。

 畏くも 陛下は吾等を股肱と仰せられ国民は吾等に信頼して居る吾等にして万一不覚を取ることがあるとしたら、 上陛下に対し奉り、下国民に対して何の面目があるであらう。

 祖先伝来汚された事のない我が帝国である。 祖国を守れ 、、、 墳墓の地を守れ 、、、 一死報国己が本分に全力を尽くして貰ひたい。」

 艦長の眼には熱い涙が滲んで居る。 誰一人として感涙せぬ者はない。 艦長は更に声を大にして

 「 本日諸士の命は本職が貰ったから左様承知ありたい。 本職も亦諸士と生死を共にする。 吾々は今こそ本分を尽くして大御心を安じ奉り、祖先の霊に対へる時である。

 今より遥かに聖壽の無窮を祈り、帝国の隆盛と戦の首途を祝すべく諸士と共に帝国海軍の萬歳を三唱したい。」

 「 天皇陛下萬歳! 大日本帝国萬裁! 帝国海軍萬歳!」

 喉も裂けよと祖国に向って最後の訣別をした。 泣かぬ者は一人もない。 悲しいのではない。 嬉しいのでもない。 只名状し難い一種異様の涙であった。 松村副長は一歩を進めて艦長に向ひ

 「 御訓示身にしみました。 吾等一同は粉骨砕身、決して敵に敗けない事を誓ひます。 艦長は実に吾等の生命であり吾等の士気を握られる大切な御身体でありますから、自重自愛御武運の長久を祈りせす。 我等は只今より艦長の武運を祈るべく一同と共に艦長の萬歳を三唱致します。」

 「 「三笠」 艦長萬歳! 萬裁! 萬歳!」

 熱烈な声は天地も裂けむばかり大海原に響き渡った。

 古今に稀な日本海海戦の大勝利は素より御稜威に因るものではあるけれど、此の決心が全艦隊の将卒にあったからだと私は信じて居る。 私は日本海海戦の記念日にはいつも此の訓示を思ひ浮べて精神教育の一端にして居るのであります。
(続く)


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2012年01月23日

日露海戦懐旧談 (39)

海軍特務大尉 佐 竹 玉 吉


 私は日露戦争常時は一等兵曹で軍艦 「春日」 で戦役に徒事致しました。 明治三十七年五月十五日軍艦 「吉野」 の不幸な事件がありまして、「春日」 は損傷個所の修理のため一時呉に帰港しました。 私は其の時 (六月五日) 兵学校教員から 「春日」 に乗艦、間もなく出港、裏長山列島の根拠地に居た第一艦隊に会しました。

 当時旅順根拠地に居た敵の東洋艦隊は露国の精鋭を集めたものでありました。 旗艦の爆沈、名将マカロフ並にキール大公の戦破等其の他相当の損害は被って居たが未だ中々の勢力で、殊に我が軍でも 「初瀬」、「八島」、「吉野」 等を失ひ実は侮り難き有様でありました。

 六月二十三日に敵艦隊は全部脱出を試みましたが、我艦隊の追撃急でありました為め敵は間もなく転回して全部港内に入りました。


   一、黄海々戦

 越て八月十日黄海の海戦となりました。 当時の艦長は故加藤定吉大将、副長鈴木貫太郎大将でした。 此の戦闘は彼我の勢力殆んど伯仲して居たため仲々の大海戦で、とても日本海々戦の様に立上り三十分で勝負がついた様な愉快な戦争ではなく、一時はどうなることかと思ふ様な有様で、殊に日光直射の炎天で午後一時頃から始まって日没まで引き続き、主に左舷戦闘でありました。

 私は後部八吋砲塔左砲の一番砲手 ( 「日進」、「春日」 はアルゼンチンより購入せられたもので、各学校、練習所、等の教員が大部沢山乗艦したもので後任一曹は斯様な配置であった) でありました。 先づ此の海戦の砲塔内の状態を御話したいと思ひます。

 物事は準備が大事と云ふことは申すまでもありませんが、実際に当って見ると中々思ふ様に行かないのです。 此の日は予備品等皆下甲板の倉庫内に置きまして事ありたるとき運ぶ事にしてありました。

 凡そ十二、三発々射後から段々尾栓の開閉が困難になりました。 二番砲手は色々苦心して居ました。 それでもまた五、六発々射しましたが遂に閉鎖不能となりました。 時恰も距離は接近して四千米突以内に入り実に気が気でない。

 尾栓頭に紐状火薬の燃滓が焼け石の様に固く喰っ付く状態は日頃の教練の尾栓頭拭ひ抔では何んの役にも立ったものでなく、必ず之が禍をなし居るものと思払込んで居たのであったが、良く々々調査して見ると石綿環の一部損傷が原因でしたので、是れはいけないと 「石綿環を換へ」 をやった。

 七番砲手は倉庫に走り、塔内では直ちに分解に掛る。 やっとの事で出来上って又打ち初めたが、大事な距離は遂に遠ざかって実に々々残念に堪へなかった。

 之等も日頃予想せざる出来事で、後日の為めには実に良き参考となったのである。 或る程度の石綿環破損ならば破損の部分を切り取り火門環牝螺を緊縮して発射すれば敢て差支なきものとの経験を得たのである。

 此の日砲塔内は炎天と砲身の熱気とで百度以上にも昇ったと思はれます。 実に焦熱地獄も斯くやと思ふ計りで非常な苦しみでした。 夫でも千載一遇の戦争であるから一同勇気を出して奮励努力したのでした。

 偶に砲眼口から敵情を見れば、いつ迄やっても敵の陣形も変らないと云ふ有様。 運弾盤で弾を運び装填杖で装填するにも腕も萎える有様で、大角度の仰角になっては時々とんでもない近距離に弾丸の落ちる事もあって互に激励し合ってゐましたが、遂に敵旗艦のマストを打折り陣形乱れたるを見て、それ勝ち戦さだと一同勇気百倍し、段々と落ち付きも出て愈々精確な射撃も出来た訳である。 実に勝利は最後の五分間であるとの言葉が今以て頭の中に浸み込んでゐる次第であります。

 此の日 「春日」 に命中した敵弾は十五糎砲弾以下八発位であったと思ふ。 後部砲塔の両砲身の間から甲板を貫いて士官食器室に入り、士官室も大分損害を被って運弾員が負傷しました。

 此の敵弾の来た時バチンと云ふ様な音がして甲板を木片が飛散したのが砲眼口から見えました。 先づ第一発が来たなと思うと、それから大いに心が落付いた様に感じた。 所謂敵弾の洗礼を受けた次第である。

 戦闘中止の時中部甲板に出て見たら、艦橋通路附近にあった端艇用の浮標が敵弾の為に打揚げられマストの中腹に引掛ってゐた。 艦内誰言ふとなく 「武威」 を揚げたと云ふ洒落で持切った。

 つまらぬ事の様ではあるが、かゝる場合のことゝて如何にも武威を発揚する前兆とも思ほれて嬉しかった。 次の接戦には必らず大勝利と勇み立った次第で、果して近距離の戦闘となり敵は大混乱に陥って大勝利を奏した訳であった。
(続く)


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2012年01月28日

日露海戦懐旧談 (40)

海軍特務大尉 佐 竹 玉 吉

   二、日本海々戦

 黄海海戦後の約十ケ月の間練りに練り磨きに磨いた其の伎倆は実に素晴しいものであった。 併し又一方千載一遇の此の大海戦を控へて海上各種の任務に就いてゐる十ヶ月の間の敵を待つ日の永かったこと。

 脾肉の嘆をしみじみ感じた次第で、明けても暮れても内筒 ( 「月」 偏に 「唐」 ) 砲射撃と、海上の石炭積みと乾燥無味な生活であった。 併し日々の訓練作業は誰一人ずるける者もなく上下一致働いたもので、石炭積の時など分隊長自身から石炭俵を担はれたものだった。

 尤も 「日進」、「春日」 は遠距離射撃の花型艦であった為め我陸軍を悩ます敵艦を砲撃し、旅順の砲台からは亦 「日進」、「春日」 を射撃する等相当愉快な日もあったが、何しろ海洋に於ての此長時日こそ本当に大事な長い戦闘であったと思はれる。

 黄海海戦での苦しい経験と苦痛とは実に日本海海戦に振古未曾有の戦勝を得た因をなしたもので何から何せで実に遺憾なく準備は整ってゐた。 照準器にも初めて望遠鏡が取付けられ、無線電信も段々立派なものになり、信管や発射電路の改造、砲身冷却の方法等微細な注意を払って居た。

 自分は今度の戦事で決して生きて帰るとは思はないが、戦は確に勝ちだと思ふてゐた。 それは各艦ともやって居た事であるが敵の艦型を小型に書き並べて其の艦型と艦名を誰も覚えてゐた。 其の速力や武器の状態や艦齢等も知ってゐて、そうして我が伎倆の上ってゐた事を確信して居たからであらう。

 愈々開戦の当日五月二十七日、総員起床時釣床を納めに上甲板に上った時待ちに待った敵艦見ゆの信号が上ってゐた。 全艦隊直ちに出動 ( 「浅間」 は後れて出港した。 それは病院船から軽い患者を全部収容したため)、釣床で防弾装置を作るやら石炭投棄作業やら (各艦共上甲板には山なす石炭を積んで居て之を海中に捨てたのである)、十時頃には一切の準備を整へ兵員は緩くり休憩した。

 昼食の時には下士卓で揃って食事をしたが (夕食は握飯で戦闘配置で勝手に喰べた) 明日の朝は揃って喰べるかと思った。 果して一人欠けた。

 追々時間も迫るとの通知があるので肌着を新らしく着換へ身仕度して父母妻子の写真にも訣れの挨拶をして戦闘配置に就いた。

 之れより先き、我が艦隊の進路は時々変換され漸時に敵に接近しつゝある事を聞かされた。 午後になって濛気は稍々散じて展望も好くなり敵艦隊の発見を待ち焦れた。 折々濛気の内に五戦隊、六戦隊などをちらちら見受けて、速力も十五節に増された。 最早近いぞと思った。

 二時少し前有名なる 「皇国の興廃此の一戦に在り各員一層奮励努力せよ」 の信号が揚げられ頗る緊張した。

 間もなく左舷艦首に方って遠来の珍客は濛気の裏に髣髴として現はれた。 ずらりと並んだ三十余隻の大艦隊の其の雄姿は敵ながらも実に堂々たるものであった。 其の煙突は皆黄色に塗られ絶好の照準目標となった。

 気候は良し元気は充溢して居る。 前の経験で度胸は坐って居るし、誰の顔を見ても実に落付いたものであった。

 戦闘は始った。 発射の状態は至極良好調子を揃へて打出す有様は実に見事であつた。 砲台長は 「命中」、「近 (遠) 弾」 等と砲手に知らされた。 壮快とも愉快とも例へ様もない有様であった。

 時々砲眼口から敵状を見た。 開戦後約三十分で、はや敵の苦み抜いて居る様が見えて、もう占めものだと思った。 益々落ち着きは出る元気は加はる訳で気楽な愉快な戦争であった。

 而して開戦後間もない時砲塔後部の入口から我が隊の状況が見えた。 ずらりと列んだ我が艦隊の両舷に落ち来る敵弾の盛んな事、又其の有様の猛烈な事に驚いた。 其の割合に命中する弾の少ないのも不思議な様に思はれた。

 心を落付けて居ると敵弾がゴウゴウゴウ、シュツ、ピューウと様々な唸りを立てゝ聞える。 シュウと鳴るのが一番近くでゴウゴウゴウが一番遠い。 そこで考へて見た、自分に命中する弾丸には音はあるまいと。 こう考へると音の聞えるのは怖るゝに足らぬと。

 只砲眼口の隙間から見える敵艦のピカッと打出す弾丸が何だか其処から這入て来る楼に思はれる。 こうなると何んとなく心が乱れ、胸に掛けて居る御守をじっと押へて心を鎮めると又勇気が湧いて出る。 実際怖くないものは無かったであらう、自分も実は嬉しいとは思はなかった。

 敵旗艦の沈没の時等実に悲壮なもので、煙突、檣等皆打倒され火災を起した儘単艦漂流の状態で、千米計りの位置を我が艦隊が通過の時、各艦より打出す弾九の命中で黒煙に包まれ漸時射撃を中止し、消煙と共に各艦更に一斉に打出し、斯様な状態が三回計りで黒煙中に艦型は見失はれた。 ヤードなぞの浮流物に取縋って激浪にもまれつゝある敵兵を見ては実に悲惨の極みであった。

 敵乍らも実に勇敢で且つ悲壮に威じたのは、進退自由を失って将に沈没の状態にあり乍ら後部ケビン砲の十二听砲一門が緩徐なる礼砲発火の如く間断なく発火しつゝあった事で、最後の一人になるまで戦った実状とも見えて武士の最期を飾る奥床しい有様は感に堪へなかった。

 午後四時休戦の時中部甲板に出て見た。 マストの根元は蜂の巣の様になってゐた。 其処、此処に血が流れマンドレットに沢山なる肉片が喰付いてゐた。 やられたなと思った。

 聞いて見ると右舷前方のステイに命中して炸裂した三十拇の砲弾で信号甲板附近の兵員を倒し、マストを壊し、甲板をえぐり ( 「春日」 上甲板には甲板ありしため中甲板の損害を免れた) 弾片は反対舷に飛び出たものである。

 此の処で戦死者七名、重軽傷者十三名を出した。 それから数日の後にも思ひも寄らぬ所から肉片が発見された。

 一寸負傷者を見舞って見度くなって治療室に行った。 治療室では盛に荒療治が行はれつゝあった。 中に一人の戦友が真裸体で甲板をのた打廻って居た。 負傷の個所は見えなかったが、内臓をやられたものと見えて苦しみつゝも陛下の萬歳を称へてゐた。

 自分は思はず傷は見えない、しっかりせよと呼んで見た。 戦友は早く麻薬を麻薬をと言った。 苦痛から免れたいのであったらうと思ふ。 戦ひ終って見舞った時には彼の霊は安らかに昇天してゐた。
(続く)


posted by 桜と錨 at 12:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)