2011年09月26日

日露海戦懐旧談 (29)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   八、艦隊集合地滞泊と海戦迄

 御承知の通り艦隊集合地に於きましては各艦競って射撃術及各部署の訓練に熱狂して居りまして、吾等最下級員の之に伴ふ奮闘は到底現今の艦隊労苦の比ではありませぬ。

 何分幼稚な兵器であり、且技術の幼稚さは今日思ふと可笑しい程で御座います。 一例を上げて見ますと、第一砲術長の射撃指揮法としましても射撃指揮用具として大したものがあるでなく、測距離に対し速力針路交角より来る変距率、飛行時、風力、風向、火薬類等を胸算用で加減して其の下さるゝ射撃号令が出るので御座いますので、今其れを思ひますとよくもあの様に命中弾を出したものかと思ひます。

 又私の配置されました六吋砲としましても、前に申しました通りの操縦人員八名の処を非戦側 (当時は片舷戦闘が建前でありました) 砲員三名を以て補充してやっと八名にし、照準器と申しましても右照準器 (此の右照準器は左の破損せし場合 (一) は右に移り、破損応急発射法として (一) は上下左右照準及発射をするのであります) はH字形円桿式照準器で、左照準器だけはやっと英国ロツス会社製一吋半 (昼間用) 照準望遠鏡が間に合ひ、円桿式照準器を改造致しまして海戦に間に合せた位であります。

 電源と申しましても電気打方は只列氏電池三個を直列接合にし発生電流に依る単一なる電源であり、此れも発砲中 (五月二十七日丈けでも) 数回電路員を呼びに行った位であります。

 私等は下級砲員のことゝて実戦の意識も御座いません。 如何にして海戦が行はれるかさへ五里霧中で御座いましたが、平常から敵艦型を活版刷にして各砲楯の裏面側に貼り何時もその艦名と艦型の識別を練習して、海戦前には私等までがこの型の艦は何々だといふことを知って居ました。

 然し露艦名を暗記するには骨が折れたものでしたが、当時 「三笠」 砲術長 (今の安保大将閣下) の発案で原名に似よった覚え安き、そして縁起の悪い綽名をつけられたものです。

 例へば 「ボロヂノ」 を 「ボロデロ (ボロ出ろ) 」 とか、「アリヨール」 を 「アリガヨル (蟻が寄る) 」 とか、「アプラキシン」 を 「アブラブキン (油布巾) 」 など改名して見ると覚え易く、最早開戦前には原名までも暗記したものでした。

 斯くして私等は昼夜配置に関して訓練される外、余暇には (当時四等卒の特別教育とてはあるではなく、各自各個に自習して艦内の様子を習得するのですが、我々四等卒には仲々覚える事が多く御座いました) 艦内編制等に就て我を競って勉強したものであります。

 根拠地集合中には常に他艦に見学に行き、その兵器の善用に就て各艦毎に工夫された設備を見学したり、又艦内では射撃競技が行はれたり、東郷長官の艦隊解散に降し訓示された百発百中を目途として磨きをかけ、既に遠き以前から我が艦隊の射手には充分の自信があったことゝ思ひます。

 又何時幾昼夜全力運転が続けられるや知れぬ、又戦闘も長時間に渉るか知れぬと言ふ覚悟の下に各部最善の良策を凝らしてありますし、石炭は英炭で下甲板から士官の私室の入口まで上甲板の余地ある処は山なす程一杯に積まれ、糧食其の他万違算なき様にし、常に運送船に依り軍需品の補給を、又海上港務部は台中丸を兵器工作船として艦隊の修理に遺憾なき様万全の策を講ぜられて居ました。

 又夜間は常に水雷防禦網を展張し厳重なる哨兵配備を怠らず、勿論臨戦準備は厳重に、発砲電路を接合して準備弾薬の幾発かに信管を附けて装填さへすれば何時にでも発砲の出来るやうになって居ました。

 斯くしていやが上にも緊張し切った気分と自信とは、今思ふても我が戦勝は当然だと思はれます。 斯様に海戦までには充分準備も出来て居るので、各艦は敵艦の来着を待ちわびて居ました。

 恰度私が今考へますと五月二十一、二日頃ではなからうかと思ひます、日没前に出港しました。 見ると総艦隊は陣容をなして湾外に出でつゝあるので、やあ戦闘だと思ひやした。 これは未だ海戦にも出会はない初心な四等卒の心には其の様な早合点も道理でありませう。 出港後は勿論戦闘教練であります。

 他の沢山な準備弾薬に信管を取り付けないのが可笑しいとさへ思ひました。

 各艦は如何様に運動されたが、深夜に一斉に投錨、例のネット張り方、哨兵配備で、艦内は一層の緊張を漲らせて居ました。 (注)

(注) : 5月21日ウラジオ艦隊発見の報により午後4時前に 「磐手」 「常盤」 「浅間」 の3隻が出動し、翌22日午後6時に鎮海湾に戻っておりますので、この時のことかとも思います。 ただし、総艦隊との表現は5月23日の 「佐渡丸」 のバルチック艦隊発見の誤報による連合艦隊出撃時のことかと思いますが、この時は午前十時出港、同日午後4時半に鎮海湾に戻っております。 何れにしても述べられた状況にピッタリ合うものがありませんが、四半世紀後の記憶による回想と言うことですので。

(続く)

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2011年09月21日

日露海戦懐旧談 (28)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)


   六、初航海と寄港地函館の事共

 一月五日北海の海は何れの山も雪に被ほれて、銀世界そのものでありました。

 乗員は半舷短時間の散歩上陸を許されしも、重大事を前に控へて居る事とて何をおいても艦長御命令通りの形見の写真を撮り、出港後昼夜の航海にも堪へ得る如く日用品等を先輩の人から聞いては買ひ求めたものです。

 忘れませぬが、支那鞄の小さいのを買って帰ってゐる先輩の人があるに其の用法を聞きますと、今は艦内に日用品を入れる手箱さへないから此れを手箱代りにするといはれるに、私も古参者の言の通り一個買ひ求めてこれを海戦のある迄用ひました。

 函館寄港は只故郷への手紙を認める位が唯一の慰安で、此れから軍港地に入る迄一回の泊り上陸なく、古き下士官も我々四等卒も同じく短時間の散歩のみ、夜間は内地何れに居るも厳重なる哨兵配備を行はれ、洋中石炭搭載は漂泊のまゝ商船横付けで英炭 (当時練炭は未だ常用して居りません) を満載するのでした。


   七、初寄港地より艦隊集合時期迄何れに居たか又何うしたか

 函館も四五日の碇泊で出港 (碇泊も余程沖に居て外筒砲射撃訓練、夜間は哨兵配置警戒す) (注1) 、千島諸島を巡航警備して山なす氷山大氷原を突破してその任務を遂行して居る中、氷の為めにラムより二三枚後部のアーマーが脱出して一時函館へ引き返して函館の船渠に入渠したこともあり、千島の或島では有線電信に依り発電す可くレースクリューに依り電報使を差遣した処が夜八時九時になっても帰って来ず、日没後直ちに結氷した為帰路を氷に杜絶されやっと氷上を滑らしてボートを運んだ奇談もありました。 (注2)

(注1) : 「浅間戦時日誌」 によれば、「浅間」 の函館寄港は1月5日〜1月18日で、18日に青森湾に移動、19日夜緊急出港し宗谷海峡での密航船等の監視に当たっています。


(注2) : 「浅間」 は、宗谷海峡方面の行動から一旦函館に戻った後、1月31日〜2月13日に国後方面へ行動しておりますが、本項に出てくるエピソードについては 「浅間戦時日誌」 にも記載が無く、詳細は不明です。


 漂泊中艦は結氷のため一時進退の自由を失った事もあります。 又夜間は商船が無燈のまゝ航行し船名又は国籍を尋ねても応答なく過ぎ去らんとするものある為、探照燈を照射し、停船命令の空砲を発射して商船臨検を行ひ、疑はしきは拿捕し若干の廻航員を派して横須賀軍港に回航、廻航員は陸路復帰したこともありました。

 当時横須賀のメス紐ステップ (注3) と云って捕獲船廻航員は横須賀土産に買って帰って親味なものに分ったものです。 又当時は漂泊のまゝ外筒砲の射撃を致しました。

(注3) : 水兵は常に作業用の折りメス (折り畳み式ナイフの一種) を携帯し、左胸ポケットに入れていましたが、これを首にかけるための紐に各自の好みがありました。 何と言っても丈夫で手触りの良いのが一番ですが、当時横須賀にこれの良い業者のものがあり、水兵達は口伝てに聞いては横須賀寄港の機会などを捉えて買い求めていました。

余談ですが、現在でも例えば 「サンドレッド」 に付ける投擲用の紐は各艦ごと術科競技用に特別のものを揃えるのが通例で、私も艦艇勤務の時には、時には多少のポケットマネーを出して掌帆長に買いに行かせたものです。 これも横須賀某所の業者でした。


 ハンドレールに手が氷結する位の寒さでありましたが、こんな寒さでも元気旺盛なもので大砲を大事にすることを忘れず、如何様な寒さにも屈せぬ砲術長三輪少佐 (修三、17期) の厳なる当直振りに砲員挙って之に見習ひましたものです。

 当時北海の寒さはとてもお話にならない。 私の砲員の神谷二水は、舌の暖みでは結氷する様なことはなからうと思って自分の舌をハンドレールに当てゝ見た処舌が凍りついて脱れず大怪我をして永く休んだ実例があります。

 恰度三月の中頃と思って居りますが、聯合艦隊は例の鎮海湾に集合しました。 (注4)  それまでは単独で北海の警備配置につき訓練を重ねて居ました。 其れ迄に 「八雲」 に一度遭ったばかりと憶えて居ます。

(注4) : 第2艦隊派遣艦艇による北海方面警備は4月14日に終結、「浅間」 は同日夕刻函館を出港、4月17日鎮海湾に入港しています。


(続く)


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2011年09月16日

日露海戦懐旧談 (27)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   四、乗艦の嬉しさと自覚

 私は栄誉ある戦歴の艦、其れに名艦長を頂いて重大任務に服するの武運に恵まれ、次の様な事を乗艦最初砲長永尾一等兵曹から言ひ含められました。

 「お前の前の配員は八月十日の海戦で戦死し其の後を受け継いで行くのだが、其の戦死せし戦友の死様が甚だ見苦しく口を開け舌を出して居たのはまことに遺憾であった。 お互い砲員は何時敵弾に砕くるか知れぬ故、お互に平生から覚悟して、お前の戦死のときは目を開き口を閉ぢ怨敵 「露助」 を睨める如く死様を飾れ。」

 と言はれました。 其の時感極ってひしひしと艦上の人たるの自覚を促されました。 砲長の指導に依り砲員の親しき事も今時のものに見ることが出来ませぬ。


   五、忘れ得ぬ一月元旦

 忘れ様として忘れられぬ明治三十八年一月元旦、此の日こそ私に取りまして永久に忘れられぬ日であります。

 平時ならば壽を祝ひ屠蘇酒に酔うて居る処ですが、未だ朝食もすまぬ午前七時早くも母港を出港しました。 (注)

(注) : 「浅間」 は第2艦隊司令長官の 「乙隊機密819号」 (明治37年12月30日付電訓) に基づき、第2艦隊司令官三須少将指揮により津軽・宗谷海峡方面の北海警備のため明治38年1月1日に呉を出港し、翌日足摺岬沖で竹敷より回航の 「吾妻」 と会合の上、函館に向かいました。


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( 防衛省防衛研究所保有・保管史料より )

 任務を遂げて再び母港の山川を見るは果して何の時でありませう。 艦長初め乗員一同登舷礼に送られつゝ万感胸に一杯、出る艦、送る艦共に高き舷側で打ち振る帽子にこもる熱涙、今では昔話に過ぎませぬが事実悲壮な様でありました。

 軍港も遥か艦尾に変りし時初めて朝食を済し暫し、休憩後後甲板に総員集合、八代艦長の部下を愛撫する真情を面に表し総員に本艦此の後の任務の大要と行先 (当時露国バルチック艦隊の迂回は何れにあるや意見一致せぬ時) 又本日を期し自艦の所在は絶対に秘し、どこどこ気付けとすることに一定せられ、又遺言状を書かしめられ、遣る形見として各自の頭髪を切り、最寄の寄港地にて写真を撮り一枚を艦長へ一枚を故郷へ遺書及頭髪と共に送ることを命ぜられまた。

 私の一命に就ては遠から覚悟しては居ましたものゝ、愈々今生の御暇乞になるかも知れぬ、又これが形見の品々と思へば遺書にも写真にも特別な感じが湧きました。

 先輩の人々もかくして死地に臨みしことならん。 さて之が我が身に降りかゝって来るとなれば、今は一條の昔話として伝へられて居ますものゝ、当時其の光景を目前に見て決心の味を嘗めて来た私等でも、とても其の時の心情を此の拙なる筆には盡す事が出来ませぬ。
(続く)


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2011年09月14日

日露海戦懐旧談 (26)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   三、「浅間」 乗組みと前後の模様

 然るに前申しました通りに軍港には一隻の艦形を認めず、例へば軍艦が或る災厄に遭ひましても其の乗員中幾分かが残って居りせすれば兵数に多少の余裕を持って居た訳ですから、戦地応召員の用途と云ひましても内地陸上勤務か運送船 (今の特務艦の如き後方部隊) に限らるゝ程度でありました。

 斯様に当時卒業はさせて戴きましたものゝ何処へ配乗されると言ふ的もなく、為めに本団の定員として四等水兵ながら秋月火薬庫の番兵に従事して居ました。

 当時内地の勤務と雖もなかなか厳粛なもので、其の緊張し切った軍規の様を伺はれます。

 又当時は一等水兵でも仲々責任の観念旺盛なる上に進取の気に富み、且つ率先典型を示すを誇とすることが盛んでありましたので、至難なる新兵教育にも何をやらしても出来ないといふ事はありませぬ。 真にシーメンライクの美点を発揮して居りました。

 恰度 明治天皇天長の佳節にボートレースがありましたが、これも本団の定員と新四等水兵の臨時クリューと、先に申しました 「敏捷」 といふ練習艦の定員とで極く淋しく行はれました。

 十二月に入りましてからそろそろ艦隊は単独で船体の小修理や軍需品の搭載、兵員一部の補充交代等で入港し初めました。

 「富士」 の勇姿を小麗女島附近で見た時の心持ちは何んとも例へ様がありませんでした。 山の如く威容堂々として、近付くにつれ其の雄姿と苦戦の状況を物語る弾痕、殊にミリタリトップの破損の様只凄惨の極でありました。

 斯様な姿を見せられては唯無意識に敵愾の念が燃え上り出征の希望が我慢出来なくなりましたが、猶配乗命令に接せず、秋月火薬庫に勤めて居りますと出入りの艦の模様が手に取る如く電話で知らされます。

 恰度十二月十六日と記憶して居りますが、即時帰団せよとの電話に接し取るものも取り敢えず帰団しました。

 かくて私等二十三名は軍艦 「浅間」 乗組みを命ぜられ、翌十七日寒気肌をさす早朝夢中で乗艦しましたが、何分初めて軍艦の人となったので何が何んだか一向判りませんでしたが、艦は名高い軍艦 「浅間」、任務は第二艦隊 (上村司令官麾下)、艦長は尺八艦長の沈勇振りを発揮せられた名代の艦長八代六郎 (8期) 、副長は元呉海兵団の副長であった中佐山本竹三郎 (前出)

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( 光村利藻 『War Vessels of Japan』 より )

 当時の 「浅間」 の勢力は安式八吋四門、同六吋十四門、同三吋十二門、山之内軽二听半砲 四門 (元檣楼砲なりしも上甲板におろす)、此の外魚雷発射管六門で、二十二節の速力を持って居りました (当時快速力を以って名あり)。

 私は第二分隊第二砲台五番六吋砲の四番砲手 (今の二番砲手) に配置せられ、砲台長烏山大尉 (一、29期) 、砲台附生田候補生 (矢一、新姓寺島、32期) (大正十三年造兵工廠水雷部検査官たりし予備生田大佐)、砲台下士官沖一等兵曹 (広島県人、今春亡くなられた沖特務中尉)、(一) (今時の射) 二曹長尾茂平 (広島県人、目下呉布西本通六丁目に生存せり)、(二) (尾栓操作) 一水戸綿戸熊太 (山口県人)、(三) (弾丸装填) 神谷友五郎 (岡山県人)、(四) (薬莢装填) 四水有延芳太郎 (当時兵庫県人)、(五) (装填杖、薬莢抜鉤) 三水大津米蔵 (山口県人) の五名。

( 当時は両舷に砲員全部の配置なく、戦闘側充員は非戦闘側より砲手三名来り戦闘側砲員に加はる。 非戦闘側 (二) 来りて (八) (今時の尺)、(四) 来りて (六) (薬莢補給) 、(五) 来りて (七) (弾丸補給) となる。 当時安式四十口径六吋砲は脚踏旋回装置にて (一) は上下左右照準及発射をなす。)

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( 四十口径安式六吋砲の訓練風景  8番が写っておりませんが
  1番の左前が定位置  元画像 : 『日露戦役海軍写真帳』 より )

 一寸艦内の模様を申しますと、臨戦準備其の儘であり (元臨戦準備は極く必要の部分をやる丈けで 「食卓手箱」、スインギングブーム、片舷ランチ、ピンネース、「第四カッター」、ガレー、ギグ、第二煙突後方のヴェンチレーター、左舷々梯、手箱、衣服棚、斯様なものは全部陸揚げして、釣床マンドレッド、フラッピング全部其のまゝ) 居住甲板迄石炭糧食満載、各砲台には準備弾薬 (榴弾にて信管脱出せるもの) を備へあり、テーブルカバーを甲板に敷き、尚手箱なきため各自木箱を自作自給せり (之は合戦準備直後海中に投ずるものである)。

 斯様に何処へ行っても戦場気分の横溢せるを見る。 又古参兵の頬髯の濃きを戦争髭と称して誇とする風あり、イバグリ頭に眼光鋭く一見戦場往来の古武士の面目躍如として幼稚な私等は一人其の意気に引き立てられました。
(続く)

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2011年09月07日

日露海戦懐旧談 (25)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

『日本海海戦砲後の感想』 (承前)

   二、入団と新兵時代

 戦時とはいひながら団内は案外な寂莫さでありました。 当時の部内の高級幹部と本団幹部は左の通りです。

  海軍大臣              海軍大将  男爵  山本 権兵衛 (2期)
  呉鎮守府司令長官        海軍中将       柴山 彌八 (期前)
  呉海軍工廠長           同            山之内 満壽次 (6期)
  呉海兵団長             海軍大佐       徳久 武宣 (期前)
  同 副 長              海軍中佐       山本 竹三郎 (竹次郎?、13期)
  第五、六分隊長兼教育主任  海軍大尉       野中経彦 (17期)
  教育主任附             海軍上等兵曹    多久和 謙吉

 私等兵科新兵は六百六十名を二百名宛一区画に入れ、二区画四百名を五分隊とし残る二百六十名を一区画に二百名を入れ、後の六十名を雑務員区画に繰り込み之を六分隊とし、此処に分隊長兵科雑務員を通じ教育主任兼務で只一人、其の外に上等兵曹一名、教員というても二区画 (人員四百名、一ヶ分隊) に専任教員一名 (高砲一曹)、各区画には区画長と申しましても二曹普砲一名、区画は二十名を一班とし (号と称す) 十班に分ち、之に予備無章一等水兵が教員で二班に助手無章二、三等水兵一名がおります。 (之は 「吉野」 の生存者 (注) です。)

(注) : 巡洋艦 「吉野」 は明治37年5月15日装甲巡洋艦 「春日」 に衝突され沈没し、艦長佐伯闇海軍大佐 (8期) 以下3百余名が殉職したとされてます。


 又入団式としてもほんの型ばかりで、団長のみで行はれました。 教育期間は五ヶ月半 (元新兵卒業は五月十五日と十一月十五日でありました。)、其れに船体船具の名称はほとんど英語であり修業は甚だ困難を極めました。

 運用術教科書の一例を揚げましても、木艦から鉄骨木皮艦、装甲艦といふ順序にやるので、其れに附属する諸器具の取扱法等又容易ではありませんでした。

 砲術に於きましても極旧式の前装砲 (砲口から填めます) の長短四听砲から克式、保式、山之内式、安式の諸砲から、一吋ノルデン式五連機砲に到るまでやるのでありまして、殊に六百六十名中何時でも戦地からの要求あり次第補充をせねばならぬ関係でもありませう、全教程を二ヶ月で一先づ済まし一通りの試験を行ひ、其の成績上位の者から何時でも四等水兵に出来る様に短時日の速成をやりますので、其の激烈な教育であった事言ふまでもありません。

 私は不幸にして入団式直後から病気で二十九日間病室で過しましたが、教科の進況を聞かされて病室で居ても立っても居られぬ程あせり、寸暇も教科書を手ばなさず出来得る丈け机上の勉強をやりせしたが、何分にも直接従事しない陸戦には何んとしても追ひつくことも出来ず、退室後分隊に帰りますに其の教科の進歩はあきれるばかり、是れでは如何ならうかと心配しました位です。

 然し一生懸命で皆と共にあり、釣床卸後二科目位やるので、銑隊の如きは遅れた者ばかり五六名電燈の下で夜九時過まで稽古してやっと短時日でどうやらこうやら追ひつきましたものゝ、不安に絶えませんでした。

 夜毎に当直教員から戦地の状況を聞かされては骨鳴り肉躍るの思ひでありました。 此の危急の場合一日も早く新兵を卒業し戦地へ送らるゝ事を願ひ、そして朝夕神仏に祈り続けました。

 一寸申して置きますが、勿論新兵間一回の外出もなければ、間食も五銭の菓子が週に一回丈けであり、新兵の束縛は非常なものでありましたが、誰一人苦情を訴ふるものもなく此の教育に従ひました。

 さて戦地要員の必要上此の六百六十名中から若干抜擢進級さすことゝなり、八月の未に全部の試験が行はれて其の中二百十名丈けを新兵分隊から抜き、旧兵分隊に移して進級命令を待つ事と在りました。

 私は久しく入室もあり、とてもと思ったのに其の中に加へられて居りましたので、其の時の嬉しさは例へ様もありませんでした。

 旧兵同様な教科を受けること一ヶ月で、十月一日に進級させて戴きました。 然し茲に心もとないのは、当時軍港には軍艦は一隻もないので教科書と雛形等で学んだ位で、練習艦と言っても 「敏捷」 (注) といふ大和船が一隻あるのみで之に依りて艦上の実習をやりました位ですから、其の不安は一通りではありませんでした。

(注) : 「敏捷」 は日清戦争の時の捕獲艦で、戦後軍艦籍にありましたが僅か5ヶ月で除籍、その後は明治42年まで呉で運用術練習艦として使用されていたようです。 ただし、艦型、要目等も含め次の事項以外は知られておりません。 詳細をご存じの方がおられましたら、ご教示をお願いします。



(続く)

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2011年09月03日

日露海戦懐旧談 (24)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

『日本海海戦砲後の感想』

 御粗末な実戦談を申上げる前に順序として私の志願に関する追想談と当時の新兵教育の一部を加へて置きます。

   一、志願の動機と入営前後の模様

 日露の戦雲暗澹として国を挙げて一大危惧に鎖され国交断絶と共に日毎に召集される予後備兵、さては補充兵と内地各所は送る者も送らるゝ者も感慨無量、此の数多き出征軍人の中には筆にも盡せぬ悲哀話此の上なき気の毒な人もあり、戦況の進むにつれて戦病死者の遺骨を村に迎へて哀悼やる方なき家もあり、一家の大黒柱としてなくてはならぬ人を亡くし悲嘆に暮れる一家もありました。

 国の危難を前に見ては青年ながらせめてもお役に立ち度いものと日常呆然として思案に耽ることもありました。

 その結果長兄に其の切望を打明けましたが、兄は私の心を酌んでくれず、父にその情を訴へたが之れも亦同じ返事で一頓坐を来しました。

 何とか手段はないものかと思案の結果、父の認印をもって秘かに願書を提出し、翌年旧正月三日の朝友人と共に五里を離れた隣郡北條町の役所にて身体検査を受けました。

 結果は満十七才にて十四貫五百、五尺三寸八分で甲種合格となり、合格證書を載いたときの嬉しさは二十幾年の今日迄其の喜びを忘れ得ませぬ。

 然し実家から親戚に出懸ける外は泊りがけの外出は嘗てしなかった私ですから、実家に於て心配することゝは思ひましたが、此の秘密行動に対し只一人家の職人だけに打明けて居ましたから右の事情は家人の知ることであらうと察せられました。

 昨正月二日から降りしきる雪は尺を算する位でありましたが、希望に満ち喜悦此の上もない私は其の寒さに拘らず気も心も浮々として実家に向ひましたが、兄三人は二里に近き処まで雪を踏で迎に来てくれました。

 隣村の村端れを四人は語りながら帰りましたが、帰りがけの兄の言葉では、寧ろこうなっては兄も村人の手前却って採用を願うて呉れて居る様でありました。

 思ふ通り採用證書も来り、日数経って入団といふ事になりました。 時が時として憂愁に満ち泣き泣きの出征軍人の見送りを常として居る村人は、此の度は志願兵の私を見送ることゝして村内の喜悦一層のものがあった様です。

 県下入団兵は播州赤穂の高等小学校に集り、見送る群集の歓呼の裡に同地の駅から乗車して呉に向ひました。

 途中見も知らぬ人々、さては田畔の農民も其の勇ましき首途を送る為腰を延ばし、双手を挙げて出征軍人と同様の歓声を揚げてくれました。

 呉線に乗り換へ初めて見る軍港の様、嘸や戦争気分に満されて居るであらうと思ひつゝ車窓に首を伸しましたが案外軍港の寂莫さ、軍艦どころか一隻の水雷艇さへも影を見せず、只工廠の辺は黒煙と激しき鉄槌の響きと宛ら戦場の如き活況を現して居ました。

 呉に着くと、二万をこゆる工廠従業員と臨時傭の数知れぬ人夫の群の出入するを見て其の内容の程も伺はれるばかり。 之に加へて構内道路の広さが田舎者の肝っ玉を驚かせました。
(続く)


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2011年08月30日

日露海戦懐旧談 (23)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

  十、我が艦隊より発せし弾丸の命中率

 午後二時過約六千米の距離に近くや旗艦三笠先づ火蓋を切り各艦之に倣ひて百雷の一時に落下するが如し。

 射撃開始後二三十分にして左翼先頭たりし 「オスラビヤ」 は我が猛撃のために大火炎を起し進退の自由を失ひて戦列を脱す。

 又旗艦 「クニヤージスワロフ」、二番艦 「アレキサンダー三世」 も大火炎を起し之亦戦列より離るゝに至る。

 当日の天候は浪高くして駆逐隊の如き航行困難を来すが如き天候なりしに、殆んど百発百中到底、平時平穏なる日の射撃にても未だ見たることなし。 之れ全く天佑としか思はれませんでした。


  十一、伊地知艦長戦死者に戦況を知らす

 二十七日も日没となり直に哨戒配備に移る。 配備終りし後艦長は副長の先導に依り下甲板後部の負傷者を見舞ひ、次いで戦死者を安置せる兵員浴室に至り総員集合を命じ、全員の集合を待ちて艦長は戦死者太田兵曹より順次抱き起し涕涙して恰も生ける人に物言ふが如く、「太田々々天晴名誉の戦死じゃ、汝等の勇戦に依り戦は勝ったぞ云々」と。 聞く者皆袖を絞らざるはなかった。

 斯くて戦死者の官等姓名を記したる新しきハンカチーフに其の洗血を附して之を木製の箱に納め、八月十日黄海海戦々死者と共に艦長公室に安置し、艦長は毎月十日及二十七日には必ず神酒を之に捧げて英霊を祭られました。


  十二、翌二十八日敵艦隊の降伏

 敵艦降伏して我が軍の為めに捕獲せられたる場面を眼前に見たる時は何んとも言ひ難き愉快さを感じたると同時に、一方露艦の将卒は祖国のために遠く二万哩の海路を辿り来たりて今日斯る運命に陥るとは恐らく彼等も予期せざりしところなるべし。

 其の心情を想び至れば一掬の涙なしには居られん様な感が致しました。


  十三、敵艦隊降伏の挿話

 敵の旗艦 「ニコライ一世」 が降伏信号を揚げし時、敵の各艦上に起ちし悲痛の出来事は実に筆を以て盡すべからざりしと言ふ。

 或る者は茫然として起立したる儘一言も発せず、或者は絶望の極艦橋に倒れ小児の如く慟哭し、又或者は尚ほ胆力を持して艦長に向って勧告し信号を揚ぐべからず命命に徒ふべからずと主張し、或は自爆若くはキングストン弁 (注) を開くべしと主張し、又中には続いて戦闘を続行すべしと呼ぶものあり。

 艦長は手を以て之を制しながら答へて日く 「降伏の不可なるは我等も能く之を知る、されど信号は苟も是れ我が提督の命令なり。 我等艦長たるもの此の命令を奉ぜざれば 「ニコライ一世」 を砲撃すべし云々」 と。 此の争論間に兎に角降伏の信号を揚げたりと。

 二十七八両日の戦闘に於ての三笠の損害は他艦に此すれば相当大なりしも、戦闘航海には大なる影響なし。

   戦死者     七名
   負傷者   八三名
(続く)

(注) : キングストン弁についてはこちら ↓ の (注5) をご参照下さい。
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2011年08月26日

日露海戦懐旧談 (22)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

  七、五月二十七日日本海海戦に従事

 二十七日午前五時五分哨艦 「信濃丸」 より敵艦隊来航の警報あるや直に至急点火を命ぜられ、同時に総員作業服に着換へ連日搭載せし石炭の一部 (砲旋回動作にさまたげになる部) を海中に投棄し終て合戦準備をなし、各自最上の服に着換へ命を待ちました。

 一方艦は六時三十四分鎮海湾を抜錨、「三笠」 は例の如く先頭に立ちて進航し、八時過には檣頭高く戦闘旗翻る (注) 、各艦皆之に倣ふ。

(注) : 「三笠」 が戦闘旗を掲げたのは、バルチック艦隊視認後の午後1時44分のことです。 この 「三笠」 の戦闘旗掲揚を以て連合艦隊としての戦闘開始の合図と規定されていました。


 やがて艦長は総員を甲板に集め敵と合戦すべき時刻及各員の決心を訓示されました。


  八、伊地知艦長の訓示

 総員に告ぐ。 予てより一日千秋の思ひを以て待ちたる敵の第二、第三艦隊は愈々本日を以て浦塩へ向って当対馬海峡を通過せんとす。

 乃ち我が聯合艦隊は今より之が滅撃に向ひ、凡そ一時間を経れば彼我相見ゆるを得べし。 無線電信の伝ふる所に依れば、敵の序列は先頭 「ゼムチユーグ」 型一隻、其の後に二列をなし右翼列に 「ボロヂノ」 型四隻、左翼列は 「ゼネナルアプラツキシン」 型三隻にして、其の後方に仮装巡洋艦続航するものゝ如し。

 但し此の陣列は戦闘の進行上の状況に従ひ種々変化を来すは勿論なりと雖も吾等が雌雄を決せんとする敵勢カは大略此の如きものなる可し。

 想ふに今日の戦は実に邦家の安危に関する海戦なり。 我等は此の重要なる戦に於て天佑を稟けて平素錬磨を重ねたる鉄腕を揮ひ、必ずや敵を全滅せしめざればやまざらんとす。 願はくば諸子と共に協力一致して光輝ある成功を得んことを切望す。

 本日は風波穏かならずして射撃に困難を感ずるは聊か遺憾とする所なり。 依て照準は極めて慎重に行ひ号令は最も明瞭に伝へ、沈着にして毫も狼狽する事なく百発百中を期すべし。 予は此期に臨み是以上更に何等言ふべきものなし。 唯諸子と共に奮励努力、以て少くも敵艦隊の二分の一を撃破せんことを誓はむ。

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( 防衛研究所保有保管史料の 『三笠戦時日誌』 より )

 天皇陛下万歳!
 大日本帝国万歳!
 聯合艦隊の全捷を祈り万歳!

 と艦長の発声にて総員万歳を三唱す。

 然して一同に代って松村副長は 「艦長の御無事を祈ります」 と、艦長は有難うと一言を残して前艦橋を指して急ぎ去られました。

 終って総員は十時半午餐を喫し命の下るを待ちましたが、一刻千秋と申すのは此の時のことであらうと思ひます。


  九、敵影を認む

 午後二時頃左舷南方五哩位を距れ濛気の中に敵影を認む。 最初は十分其の艦型を識別し得ざりしも、時の移るにつれて続々敵の艦型は水平線上に現はる。

 是に於て 「気ヲ附ケ」 の号音が下り総員は戦闘部署に就て間もなく、前艦橋にある伊地知艦長は 「勝敗の決此の一戦にあり砲員は沈着百発百中を期せよ」 と令す。 伝令は高声にて之を艦内に伝ふ。

 間もなく東郷聯合艦隊司会長官は視界内にある全艦隊に信号を似て有名なる彼の 「皇国の興廃此の一戦にあり各員一層奮励努力せよ」 と令せられ、各艦の将士意気大に昂りました。
(続く)


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2011年08月22日

日露海戦懐旧談 (21)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

  六、三笠損害及死傷

 午後一時年頃敵の三十糎砲巨弾後部セルターデツキ司令塔右舷側の稍前方に命中、同甲板を斜に貫通して右舷機室通風筒に近き下部にて炸裂之を大破し、更に左舷機室通風筒を破壊して士官厠の一部及附近甲板を破壊す。

 大檣も亦根本に於て僅かに其の全周の四分の一を余す迄に破損し甚だ危険なるを以て、第一次戦闘後八糎砲員等にて六吋スチールワイヤロープを以て後部司令塔と共に十数回捲廻し其の転倒を防止しました。

 之がため、

   戦 死   二名
   重 傷   三名 (小倉参謀、准士官一名、市川五分隊長) (注)
   軽 傷   十一名 (内、吉村主理一名)

(注) : 「三笠戦闘詳報」 によれば、小倉参謀は伊地知艦長負傷と同じ時午後6時半頃に前部艦橋において植田参謀と共に負傷とされています。
なお、以下の被害や戦死傷者の発生状況などについては原文のままとし、戦闘詳報などとの照合によるコメントは省かせていただきます。


 午後二時頃敵三十糎砲巨弾後部砲塔左舷側甲板に命中炸裂、上甲板を貫通して中甲板士官室、主計長室、清水缶を破壊す。 人命に損害なし。

 午後三時半頃彼我の距離益々接近し砲戦愈々激烈を加ふるや、敵の巨弾後部檣楼上にある重四十七密砲に命中炸裂し砲身は数十尺の高さの檣楼より甲板に墜落し砲楯は粉砕して海中に飛散せり、唯此の時檣楼砲員は既に大檣大破し居たるを以て其の部署に居らざりし為危害を免れたり。

 之が為 戦死  品川三分隊士、畑五分隊士、下士兵三名。 品川中尉は初瀬の生残者にして戦死の際は弾丸のため腹部全部を奪はれ凄牡の有様は言語に絶す。
   重 傷   高辻候補生、以下四名

 午後四時敵三十糎巨弾第四号清水缶外側水準線下約五呎の所に命中、七吋鉄板を貫通して其の位置に止せる。

 午後六時頃砲戦最も酎なる時、敵の一弾は第三分隊長 伏見宮博恭王殿下指揮の下にある後部三十糎砲右砲身中央部に命中し炸裂するや輪環部より切断し砲身は海中に墜落し、同時に砲塔は右舷側に同時して再び旋廻すること能はず。

 又砲塔内部は防水鍔及揚弾機右砲駐退機を破損し、激動したる空気と砲丸炸裂の発生瓦斯の為め一時真暗となる。

   重 傷   伏見宮殿下以下五名
   軽 傷   八澤砲塔長以下十三名

 然して塔内は鮮血迸り凄惨を極む。 指揮官少佐の宮は此の時胸部に打撲傷を負れ、軍服右袖及ヅボンの大腿部より膝下に至るまで甚しく裂け、軍帽、望遠鏡等は破損し、宮殿下には火薬瓦斯のため圧迫を受けさせられ、戦時治療所に当てられたる下甲板中部ネツチング上百度以上の所に板を敷きて一般兵員と共に御休みあらせらる。

 午後六時過敵三十糎巨弾兵員病室に命中、中甲板を貫通し反対側にて炸裂し径約一米半の破孔を生ず。 此の際下甲板に整列し防火の命を待ち居たる機関科防火隊員十四名中戦死二名、重傷五名、軽傷六名を出す。

 牛後六時半頃敵十五糎弾前艦橋セマホア信号機に命中炸裂し、前艦橋左舷甲板の一部其の他海図室附近を破壊す。

   戦 死   藤瀬航海士以下 十一名
   重 傷   植田参謀外一名 (植田参謀佐世保海軍病院入院後死亡)
   軽 傷   伊地知艦長以下二名

 危い哉、此の時コンパスブリツチにて東郷司令長官を初め島村参謀長其の他の参謀及伊地知艦長等八名相集まりて敵状を観望しつゝありし際なり。

 伊地知艦長の傷は膝下に弾片突入し鮮血淋漓たるも、従容として看護手を呼び其の傷にて仮繃帯をせしめ、艦の指揮を継続せられました。

 同時刻頃敵三十糎巨弾中甲板参謀長室と士官室との隔壁に命中炸裂、同室を粉砕す(死傷者なし)。

 午後七時頃敵の巨弾左舷兵員厠を貫通、掌帆要具庫、潜水器格納庫を破損す。
   重 傷   四名
   軽 傷   六名

 同七時過敵十五糎弾十四番八糎砲々楯に命中爆発し、其の上部を切断し砲身を墜落せしめ、後方にありたる準備弾薬約二十発を誘発せしめ、附近上甲板は凹陥の上部にありし第三カツターを粉砕し揚艇機大破して砲員を全滅せしめ、身首を辨せざるもの多数ありました。

   戦 死   澤本候補生以下四名
   重 傷   小山田水雷長以下十二名
   軽 傷   六名

 にして実に此の一弾にて二十二名の死傷者を出しました。

 同時刻頃敵十五糎弾十番十五糎砲廓上部に命中貫通し、砲廓内に墜落し重軽傷五名を出しました。

 午後七時半頃敵十五糎弾十四番十五糎砲砲門下部六吋鋼飯に命中炸裂し、砲門の下縁及側方を内方に屈曲せしめ、弾片は砲各部を破壊し、尚ほ弾片の一個は砲廓天上を通過せる士官厠の鉄管を破り糞汁上方よリ漏れ、砲員は背頭より汚物を被りたるも躊躇することなく発砲を継続し、戦闘緩なるを見て漸く応急処置を採りました。

 此の戦闘中後部三十糎砲発射不能と在りました為後部の弾丸を前部砲塔に移すことゝなり、上甲板八糎砲員十二三名にて後部三十糎弾庫より前部三十糎弾庫迄数十分の間に十一発運搬しました。

 又後部砲塔右砲二番砲手二水百坂清助は、戦闘半に尾栓腕毀損して之を交換することゝなり栓腕軸も同時に交換する必要を認められしが、該栓腕軸は砲塔弾庫に格納しありしを彼は直に弾庫に下り、単身該軸を担ぎ砲室に昇り来り一同を驚嘆せしめたり。

 之等は何れも平時に在りては到底出来得ざる作業なるも、斯る場合には何程力が出るものか想像が出来ません。

 斯くては八月十二日、戦死者藤瀬中尉以下三十一名を裏長山列島海浜に於て火葬に附し、翌十三日上甲板後部に祭壇を設け荘厳に戦友の英霊を慰めたり。
(続く)


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2011年08月19日

日露海戦懐旧談 (20)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

   五、八月十日旅順沖に於て敵艦と交戦に従事

 哨艦 「千歳」 より敵艦隊は大挙して出動するの報に接し、午前七時二十分根拠地裏長山列島に仮泊中なりし我主力艦は旗艦 「三笠」 の信号に依り急速旅順を指して進発す。

(注) : 当時第1戦隊は8月2日に裏長山泊地を出港し、旅順沖、円島付近において警戒航行を続けていました。


 正午を過ぐる頃我が第一艦隊は 「日進」、「春日」 を加へ遇岩の西南西に向ひしが、やがて旗艦 「三笠」 檣頭高く戦闘旗の翻るや諸艦之に倣ふ。

 此の時敵は旅順を去る三十哩計りの沖合に出て益々南航し、旗艦 「ツヱザレヴヰツチ」 を先頭に単縦陣をなし最後に病院船一隻を従ふ。

 我艦隊は之を洋中に誘致せんと欲し八点回頭に依って横陣隊形を作り更に南々西に進航す。

 敵は一意南東に向って逸去せんとするものゝ如くなるを似て、我が艦隊は更に左八点回頭して逆番号単縦陣となり、「日進」 の嚮導に依り漸次東方に転首し以て敵の先頭を圧迫す。

 旗艦 「三笠」 に於ては午後一時十五分伊地知艦長より 「勝敗の決此の一戦に在り砲員は沈着百発百中を期せよ」 との命会あり、伝令は高声にて各砲台に伝へしが、間もなく射撃開始の令下り 「三笠」 先づ砲火を開く。 各艦之に次で砲撃を開始す。 敵又之に応ず。

 砲火漸く猛烈となり彼我の巨弾雨霰の如く飛び爆煙海上を鎖す。 幾何もなくして敵は針路を右転し南方に向ひ我が後方に出んとするものゝ如し。 仍て我が艦隊は右十六点一斉回頭を行ひ、約六千乃至八千米に近き敵の先頭に向って猛烈なる射撃を行ふ。

 敵は我が砲弾炸裂の都度黒煙を噴出し光景頗る凄惨を極む。 殊に 「アスコルド」 の如きは午後二時年頃我が砲弾命中炸裂のため爆煙全艦を包み艦型だに認むるを得ざるに至れり。

 旗艦 「ツエザレヴヰツチ」 は午後六時頃我より放てる三十糎巨弾司令塔に命中、ために司令長官ウヰツトゲフト中将は粉砕せられ僅かに一脚を残したるのみにて悲壮なる戦死を遂げ、又其の傍に在りし参謀其の他の数名の士官戦死、参謀長、艦長は重傷、其の他にも重傷を受けたるもの多しと言ふ。

 斯くて同艦は舵機破損し俄に左方に転回せしため、敵艦隊の陣形は一時に動揺し次で混乱するに至れり。

 此の時 「レトヴイザン」 は隊列を離れ我が艦隊に向って進み来りしが、我が艦隊の猛撃を受け多大の損害を蒙り退却せり。

 敵は愈々潰乱し各自思ひ々々西方に逃れんとす。 此の時第三戦隊は 「八雲」 を先頭とし、第五戦隊は 「浅間」 を先頭として戦場に到達し、直に敵の北方に出て之を挟撃す。

 続いて第一戦隊は梯陣を作り東方より、第三戦隊は南東方面より敵に迫る。 是に於て敵は三面包囲に陥る。

 我艦隊は終始整々の陣形を以て敵に対し全力を挙げて猛撃を加ふ。 敵に集中せる弾丸は恰も迅雷の如く間断なく落下し、幾何もなく敵艦隊は四分五裂し、「アスコリド」、「ノーウヰツク」 及駆逐艦数隻は先づ血路を南西に開きて逃走せんとす。

 予てより待ち設けたる第六戦隊は直ちに其の前路を遮りて猛撃を加ふ。 敵は多大の損害を蒙り愈々陣形乱れ、各艦空しく右往左往するのみ。

 時既に日没となりしを以て主力艦隊は砲火を収め、東郷司令長官、駆逐隊、水雷艇隊に敵艦襲撃の命を下さる。

 斯くて敵艦隊は昼間の砲撃と夜間水雷攻撃のため全く逃げ迷ひ、或るものは旅順に、或るものは南方又は東方に遁れ去った様な有様でありました。

 此の戦に於て我が艦隊の損害は 「三笠」、「日進」 の外は軽微でありましたが、「三笠」 は最も苦戦を致し敵弾の命中するもの数多く、指揮通信装置は破壊され、伝令員は死傷し、殊に後部砲塔分隊長及後部副砲分隊長は負傷し砲台附将校は戦死し、候補生之に代れば又負傷し、全く砲台の指揮者を失ひたるため各砲は隣砲台に走りて苗頭距離を聞くもの、或は独断距離を整へ射撃する等惨憺たる有様なりしも、砲員は終始沈着射撃を継続しました。

 戦闘後駆逐隊乗員の言に依れば、「三笠」 は一時敵全砲火の集弾を受け水煙の為め艦形を認めることは能はざる程にて、今にも沈没せしかと思はるゝ程なりしと言ふ。 亦戦闘後上甲板の有様は火災場の後の如く、鉄片木片散乱し実に目も当てられぬ惨状でありました。
(続く)


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2011年08月15日

日露海戦懐旧談 (19)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

   二、二月六日佐世保軍港出港

 二月六日の空は快く晴れ渡り、凜烈の潮風は将卒の意気を熾ならしむる様に思はれました。

 午前八時に艦長は乗員を後部に集め、前日賜はりました御勅語を奉読し、次で激励の訓示をされました。(注)

(注) : 「三笠戦時日誌」 では総員集合は2月6日夕刻のこととされております。

 同九時三十分 「三笠」 の後檣ヤードに出動の信号が挙り、先づ第一駆逐隊より出港を始め、午後一時には第一艦隊が出港致しました。

 又第四戦隊は陸軍第一軍の最先鋒たる歩兵第二十二旅団長たる、陸軍少将木越安綱の率うる大村、福岡両聯隊の将卒数千名の分乗せる運送船三隻を護衛して出港致しました。

 斯くの如く朝来薄暮に至る迄大小の艦艇舳艫相啣みて出港するのを佐世保鎮守府司令長官鮫島中将は麾下幕僚を従へ汽艇に乗じて港外に見送らる。 長官夫人は海軍将校夫人と共に海兵団軍楽隊を搭載せる汽艇に乗じて嚠喨たる奏楽の裡に各艦艇の間を巡航して其の行を壮にす。

 又佐世保鎮守府各艦団部隊軍人、軍属等は短艇に乗じ又は陸岸各所に在りて帽子を翳しハンカチーフを振り其の行を送り別意を表す万歳の声幾度か湧き艨艟幾十隻軍容堂々として進発する有様は既に眼中敵無きの感が致しました。

 此日の晩から艦内哨戒を始め一年有半之を継続しました。 軍医官は各哨兵を見廻り何くれと無く衛生に就き注意をされました。


   三、露国商船 「ロシヤ号」 拿捕

 二月七日午前十一時頃朝鮮八口浦沖に於て一汽船の黒煙を吐きつゝ針路を我に向って直進するあり、直ちに 「台中丸」 をして拿捕せしむ。 是ぞ露国商船 「ロシヤ号」 なり。(注)

(注) : 正確には 「ロシア号」 を拿捕したのは 「龍田」 で、これを 「台中丸」 が引継ぎ八口浦に回航して臨検し、その後八口浦から佐世保まで同船の引致の任に当たりました。
なお、八口浦についていは、以前ご紹介しておりますのでそちらをご参照下さい。


 東郷司会長官は各艦に報せしめて曰くロシヤを獲たりと、将卒雀躍して悦び万歳の声一斉に起り、露西亜と戦ふに当り先づ其の国名の船を捕獲す幸先良しと将卒何れも欣喜致しました。


   四、二月九日旅順港外に於て敵艦隊及砲台砲撃に従事

 此の戦闘は何分臍の緒切って始めての戦闘でありますので多少恐怖の念にかられつゝ臨みましたが、弾丸と言ふものは案外中らぬものと確信を得ました。

 我が艦隊の旅順沖に顕はるゝや先づ敵は黄金山砲台より砲撃を開始し数分の後敵艦隊も砲撃を始む。

 我が艦隊は距離次第に接近し凡そ九千米近くとなるや旗艦 「三笠」 先づ前部三十糎砲より第一弾を送り各艦之に倣ひ全砲火を敵に集中しました。

 敵は前夜我が駆逐隊の夜襲に不意を打たれ既に三艦を傷けられ無念遣る方なきにや殊更に乱射乱撃、敵味方の間は砲弾雨の如し、然れども照準を失して空しく海中に落つるのみ。

 我が艦隊は益々接近猛撃を加へたる為め敵艦は周章して砲撃愈々乱れるのみでありました。 我が艦隊は飴り接近せずして引上げました。

 此の戦闘に於ける敵の損害
 巡洋艦 「ポベター」 に我が三十糎砲命中、火薬庫爆発其の他数隻大火災を起す。

 「三笠」 の損害
 敵の一弾大檣を擦過し其の揚旗索を切断し檣頭に揚げたる戦闘旗を海中に落す。 新に揚げたる戦闘旗も亦次の一弾のため大孔を穿てり。 軽傷者八名出したる外損害なし。

 二月九日以後八月十日の海戦迄の期間に於て数回戦闘に徒事せしも之を略します。
(続く)


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2011年08月12日

日露海戦懐旧談 (18)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

   一、開戦迄

 私は開戦当初一等水兵で 「三笠」 乗組十五番八糎砲射手として終始戦役に従事しました。 戦闘部署が短艇甲板に在りました関係上戦況を見ることが出来ましたから記憶に残って居るところを記述致さうと思ひます。

 先づ順序として開戦前の模様から述べることに致します。

 日露外交の危機切迫し世論漸く其の危急を伝へたる明治三十六年八月の頃から佐世保軍港は次第に艦艇の出入頻繁を加へ形勢何んとなく緊張し、軍港は艦艇を以て充満せられ大小の煙突は不断に黒煙を吐き林なす檣は旭日旗をひるがへし、或は五島列島の実弾射撃、玄海洋上の演習、伊万里湾内の仮泊或は島原湾、天草灘に於ける実弾射撃等各々訓練に寧日なき有様。

 又軍港内にありては船体兵器の修理及糧食、弾薬、炭水等の補給、戦時不用品の陸揚、艦艇の塗替 (此時まで軍艦は上甲板以上は白色以下は黒色、駆逐艦、水雷艇は全部白色在りしを鼠色に塗替) (注) に忙はしかりしが、三十七年一月半ば頃より召集令下り俄かに緊張したのである。

 斯くして二月一日には在港艦艇乗員の連合大運動会があり、又烏帽子岳の登山、佐世保海兵団に於ける武術競技等大に士気を鼓舞しました。 「千歳」 艦長東伏見宮殿下、「八雲」 分隊長山階宮菊磨王殿下及 「三笠」 分隊長伏見宮博恭王殿下より夫々酒肴料を賜はり将卒深く感激しました。

 当時海軍部内は元より国民も共に開戦の避くべからざるを期し、骨鳴り肉躍るの概がありました。

 然して二月四日より各艦艇は機関に点火し、又夜間は最上甲板に哨兵を配し教門の砲に砲員を配し警戒することゝなり、命令一下直ちに出動し得るの準備をなし数日来乗員の上陸を禁止せられ居りましたが、五日突然佐世保に家族を有する者に限り午後八時より十時迄上陸し家族及知己に別れを告ぐることを許可せられました。

 時は短く情は尽きず風寒く月暗き如月の暮夜幾千の老幼婦女が手に手に提燈を携へ、奉公の念義勇の心に家をも身をも忘れて勇み立つ其の子其の父其の夫を見送る為桟橋に殺到したる悲壮なる場面は到底言葉に尽すことは出来ません。
(続く)

(注) : 連合艦隊の艦艇が戦時塗装としたのは、聯隊機密第28号に基づく明治37年1月10日からのことです。


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( 元画像 : 防衛研究所保有保管資料より )

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2011年08月10日

日露海戦懐旧談 (17)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一五、高砂の沈没 (承前)

 艦は次第に艦首より沈み、舷側にある我等は腰を没する様になったのでマストに取付いたまゝ本艦を離れたが、海水温度は以外に低く、身体急に凍りつく思ひに又もや本艦の方へと戻った時は最早や足もとどかず、何時の間にかマストを離れて泳いで居た。

 折しも近く探照燈を照らされたので、思はず振り向いて見ると、艦は僅かに後部の舷側を水面に現し、排気のためにすさまじき音をたてゝ噴水しつゝ、哀れ、スクリューを上に沈没した。

 海面には艦長始め四百数十名は首から上を水面にあらはし、君が代を唱へるもの、軍歌を謳ふもの、苦しき聲で救ひを求めるもの、おぼれつゝあるもの、惨憺たる光景は筆紙のよく盡す処でない。

 此の時、ボートは三、四隻現はれ、しきりに溺者は救ひ上げられて居た。 僕はライフジヤケツトの御蔭で泳ぎは大変楽であったが、防寒用の腹巻はとけて足にまきつき、足の動作を妨げたから之を取のけ、徐かに泳いで居た。

 すると、二間も離れた所で戦友の桑田二等水兵は漸く顔のみを水面に現はし苦しんで居たので、「桑田ではないか ・・・ ・しっかりせーい、今直ぐ助けて呉れるぞっ」 と、言ふと之に聊かカを得たものと見え 「ウン」 と大きく返事して暫くは泳いで行くが、間もなくもとの如く苦しむ聲がするので助けてやらうかと思って後振り返って見たが、頭上を打ち越す二、三の波で遂に姿は見えなかった。

 此の時眼前にボートのオールが一本流れて来たので、これ幸とすがり付き泳いでゐると、突然横合から 「南村! あゝー 苦しい」 と言ひつゝ僕のオールへ手をかけた。 見れば先任下士官吉村一等兵曹であった。

 「おゝー 吉村兵曹ですか ・・・・ 之を上げやう、ボート迄はすぐ其処です、しっかりしなさい」 といってオールを渡し、自分も一生懸命泳ぎを続けて居ると、前と横から二隻のボートが近付いて来て、前なるボートより 「おい ・・・・ 之れを持て ・・・・」 といひつゝオールを差し出された。

 僕はこれに取付くと直ぐ引寄せられたが、人並優れた大の男である僕はライフジヤケツトをつけてゐるので思ふ様にならず、三人掛りで漸く艇内に引揚げられヂヤケツトをぬがせ艇尾に移されて、誰かが外套を被せてくれた。

 其の時既に艇内には、十数名も救助され、一つ所に折り重って只 「うーんうーん」 とうなって居る。 僕もこれに賛成した訳ではないが、共にうなって居ると、何時の間にか救ひの神とも仰ぐべき僚艦 「音羽」 の舷門に来て間もなく、我々兵卒一同はボイラーの上部防禦甲板へと運ばれ、毛布にくるまり暖をとって居た。

 そうしてゐる中に次第に元気付き、我に帰ったときの嬉しさは又格別で生涯忘れることは出きぬ。

 又折角救助されて 「音羽」 まで収容された航海長、軍医長、甲板士官を始め数名の下士官と兵は、人事不省に陥り殆んど息が絶えて居たのを人工呼吸の方法に依りカを盡されたが、何れも蘇生しなかった。

 後にて聞けば、「高砂」 の水雷にかゝつたのは、十二日午後十一時五十五分で沈没したのは、翌十三日午前一時十分であった。

 乗員は総計四百三十六名で、其の中死亡者副長中山中佐以下二百八十三名で、此の二百八十三名中一旦救助され亡死亡したるもの九名で、死体となって拾得された者五名を除き他は皆海底の藻屑と消えた。

 而して残りの百五十三名は九死に一生を得た幸運児で、総員の約三割五分に当り、一、二等兵の元気盛の者が比較的多かった。


   一六、末  尾

 当時 「高砂」 の沈没は戦略上極秘にされて居た。 軍艦 「音羽」 は其の翌日、大連に回航して生存者艦長以下百五十三名は御用船 「臺北丸」 に収容され、死体を焼いて跡始末を行ひ、同月三十日補充交代の名義の下に、呉海兵団に入り暫く休養することゝなった。

 僕は三十八年一月一日附を以て三等兵曹に任ぜられ、二月五日新兵教員を命ぜられ、更に四月十五日砲術教員教程練習生として横須賀へ入所し、五月二十七、八日の日本海海戦当時は練習中であって、之に参加し得なかったことを今尚遺憾に思ふ次第である。
(続く)


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2011年08月08日

日露海戦懐旧談 (16)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一五、高砂の沈没 (承前)

 僕が丈夫な洗濯桶を待って居ることを知って、誰であったか忘れたが 「南村ではないか、好いものを持って居るなオレにも仲間入りさして呉れ」 と云ひつゝ桶に手をかけた。

 尚其の附近に居る者二、三名、無言のまゝで近く寄って来たので、これでは駄目だと思ひ、今度は自分一人の所有物となすべく小の桶一個を引き出して来たが、之れにも人が目をつけて居る様に思はれて不安の下に時を移して居たが図らずも眼前に救命袗二個が釣下げられて居るのを発見したので、桶を打捨て飛びつく思ひで其の一着を身にまとひ、他の一着を手にもち親友唐津摩一等水兵に渡すべく名を呼び捜して見たが、何等の答もなく行先不明であったのと、且艦の沈没は迫って居たので傍に居った船匠兵白石某に与へた。

 艦は益々傾斜して上甲板中央まで波が洗ふ様になったが、それでも尚ピンネース、第一カッターを下すべく一生懸命働いて居るものがあった。

 僕も亦カッターの方に行き共に働いたが、艦の傾斜甚だしき為め、遂に其の目的を達すにことを得なかったのみならず、ピンネースを卸さんとして之に従事したる者、釣上げられたる瞬間に其の艇の舷側と煙突にはさまれ、即死又は負傷した不運な者も数名あった。

 僕は戦友四五名と共にカッターのマストを便りに右舷々側中部に移り、金比羅様を念じて居た。

 其の時水雷長川添大尉は来られ、「ボート長じやーないか」 と僕に問はれたので 「はい、私です」 と答へた。 「一緒に行かう、其のマストに何人居るか」、「貴官とも五人です」 と答へた。

 折しも艦長より軍歌及煙草を許された。 君が代を唱へるもの、軍歌を歌ふ者、中には俗歌 「死んで花實が咲くならば生きて苦労はすまいもの」 と、しゃれて居る者もあり或は悲観の餘りしくしくないて居る下士官も目撃した。

 此の時 「水雷長、煙草一本願ひます」 と言ふ者もあった。 水雷長は 「此の危急の場合煙草か ・・・・」 と言ひつゝポケットを探り 「おー、一本残って居る ・・・・」 とて彼に与へた。

 彼はマッチをとさがし漸くこれに火を付け、美味しさうに吸ふて居たが、傍に居た者 「僕にも一寸吸はして呉れ」 と頼み込み、一本の煙草を四五人で吸うて居た。

 其の時艦は全く横転して舷側は殆んど平になり、波は足元まで襲ふて来た。 僕は沈没の刹那、艦と共に捲き込せるのむ恐れ 「水雷長もう行きませう ・・・・」 と促すと 「いや急ぐな」 と云はれたが、其の時巳に多数の人は飛び込み泳いで居るもの、或はおぼれつゝあるものも見へた。

 水雷長は何んと思はれたか突然 「艦長! 艦長!」 とさけび 「左様なら ・・・・」 といひ終るや海に入り暫く泳いで居たが、間もなく暗黒の海に姿を消した。

 折しも雪降りで寒さは強く、空は益々暗黒にして、僕も心細く次第に悲観に傾いて来た。

 是れより先き本艦水雷にかゝるや、直ちに無線電信を以て危急を各艦に通知し、探照燈を點じて上空を照らし、尚時々発光信號をなして艦の位置を知るに便ならしめた。

 此の時又、大聲にて 「艦長! 左舷バウに航海燈が見えます」 と報告するものがあった。 自分も其の光を認めて大に元気づき上衣はそのまゝ袴下を脱いで泳ぐ用意をした。
(続く)


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2011年08月03日

日露海戦懐旧談 (15)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一五、「高砂」 の沈没

 本艦は十二月十二日午後六時、僚艦 「音羽」 と共に旅順沖を退き、夜間の地点に至り 「音羽」 と約十二浬をへだてゝ漂泊し、四直哨兵を配備して警戒に任じてゐた。

 当時僕は士官室の徒兵長であったので、哨兵勤務に服せず巡検後夜食の準備をとゝのへ、常直従兵を残して十時過寝についた。

 処が夜半突如として轟然たる爆聲は夜の寂を破り、烈しく艦は震動すると同時に少しく左舷に傾いた。 「あらッ ・・・・ 水雷にやられたな !」 と直感して釣床より飛び下りた。

 間もなく 「水雷に罷ったなー」 と呼ぶ者があった。 僕は下着其の儘にて上甲板にかけ上って見た。 時は十二時過ぐる真夜中で、電燈消した闇黒の裡に右に走り、左にかけ行き 「ドタソ、バタン」 の聲ものすごく、艦内は俄かに騒々しくなった。

 此の時、艦長、艦橋にありて 「防水閉鎖」 のラッパが聞えて来た。 僕は殊更心を落ちつけて上衣を着け、受持配置について働いた。

 続いて 「防水蓆出し方」 の号令がかゝり、各員必死となって之が当て方に努めたが艦の傾斜と少しく速力を出して前進して居るので、艦底索は容易に衝角を替らず、防水席は遂にぶら下げた儘其の位置に当てたが、破孔大にして吸払込まれ其の用をなさなかった。

 其の他手あきの者機関部に於ては左舷の石炭を右舷に移し、上中甲板に居るもの誰彼の区別なく左舷側応急弾台に備へた弾丸も、其の他の重量物は皆海中に投げ込み、極力艦体傾斜の防止に努めたかひもなく、次第に傾斜の度を増して三十度以上に及び殆ど救助の見込みはなくなった。

 やがて艦長は、前艦橋にあって大聲で上甲板の暗を破り、総員に対し悲壮極まる訓示をされた。 茲に、我等は唯運を天に任し、艦長の発聲にて天皇陛下の萬歳を三唱し、次で海軍及「高砂」の萬歳を唱へた。

 其の時、航海長小倉少佐は大聲を奉げ 「本艦の沈没する位置は大竹山島の東方十五浬、旅順を去る約三十浬の所である。 乗員の内若し生残った者あれば此の事を伝へて貰ひたい」 といはれ、稍暫くしてボートやーい ・・・・ と呼ぶ聲も何となく哀調を帯びて心細く今尚耳底に残ってゐる。

 其の時巳に第二カッター及通船一隻は卸されて居たがこれには負傷者及休業患者の如き働けない者ばかり乗艇せしめ、艦の後方遥に遠く押し流されて居たのであった。

 僕は乗艇配置はないので、艦長の訓示に従ひ、何か浮力のあるものはないかと考へて居たが、ふとメンジャー (注) に洗濯桶の格納してあるに気付き、甲板を這ひつゝ其の場所に行き大中小の三個の内、中のもの一個を引き出し、自分の受持五番八糎砲々門の所まで持って来て此処から飛び込む決心をした。


 そして附近の様子を闇にすかして見れば釣床を抱へたるもの、手箱を携へたるもの或はバケツ、板片など持って居る者多数集まった。

 中にも機雷爆発のため、両足ははとんど目茶々々になった負傷者に看護兵一名が附き添ひ、両手にバケツを結び付け 「之で大丈夫だ気を確に持て」 と云はれて居たのを見たときは、衷心気の毒でならなかった。
(続く)

(注) : 「メーンジャー」 については本家サイトの 『船体各部の名称及び構造一般』 をご参照下さい。



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2011年07月23日

日露海戦懐旧談 (14)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一三、黄海海戦の成果

 黄海に於ける八月十日の海戦は酷烈なる暑熱の中に戦闘約一昼夜の長きに亘ったが遺憾ながら撃沈する痛快在る光景を見ることは出来なかった。

 然しその間充分に敵を悩まし遂に逸出の目的を捨てゝ再び旅順に引き返すの已むなきに至らしめた事は我が軍の大捷利にして充分の成果を収め得たものと確信した。

 其の後彼我の情報を綜合するに、我が軍に於ては 「三笠」 の損害最も甚だしく 「日進」、「八雲」 之に次ぎ其の他の艦艇亦多少の損害を蒙りしも戦闘航海に支障なく、死傷者総数二百二十八名なかしが本艦の如きは只一人の死傷者もなく何等の損害も受けなかった。

 敵の死傷三百四十七名にして旗艦 「ツエザレウヰツチ」 と駆逐艦三隻は膠州湾に、巡洋艦 「アスコリツド」 及び駆逐艦一隻は上海に、巡洋艦 「デヤナー」 は西貢に、其の他駆逐艦三隻は威海衛に逃れて何れも武装を解除し、軽巡洋艦 「ノーヴイツク」 は遠く北海に航してコルサコフ港に入り、芝罘に遁げ込んだ。 駆逐艦 「デシーテリヌイ」 は我が駆逐隊に捕獲された。


   一四、其の後の経過

 八月十四日、第二艦隊は浦鹽艦隊と蔚山沖に邂逅して激戦大に之を破り内巡洋艦 「リユーリツク」 を撃沈し、陸軍又連戦蓮捷して旅順の包囲攻撃も日を追ふに従ひ益々急となり、悪戦苦闘、幾度か全滅に近き犠牲を払ひ死力を盡して二〇三高地を占領したる後、我が重砲隊の砲撃に依り敵艦隊を港内に撃滅し、僅かに餘命を保ちし戦艦 「セバストポリー」 は港外に避泊せしも、我が駆逐隊の夜襲に依り、魚雷命中して廃艦となった。

 茲に於て海軍の戦局に大変化を来たし、来航しつゝあるバルチック艦隊に備ふべく各艦交代して内地に帰り、艦体、兵器の修理に著手した。

 本艦は十一月九日旅順沖を発し、呉軍港に帰り入渠の上必要なる修理を施し、新兵八十餘名を補充して十二月三日錨を抜き、同七日早朝旅順沖に於て封鎖哨戒の任務に就いた。

 而して昼間は旅順港を去る十四、五浬沖を東西に遊弋し、夜になれば遠く南下して漂泊警戒に任じた。

 蓋し其の頃、浮流水雷は一日幾つとなく発見され、其の都度撃沈処分にされて居たが、夜間の航海は特に危険を感じたからである。
(続く)


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2011年07月19日

日露海戦懐旧談 (13)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一二、黄海の大海戦

 以上の如く海陸両方面よりする攻撃は益々激烈となり、港内にありては自滅する外途なきを悟りたる敵艦隊は、八月十日に至り決然大挙して出港したので、茲に黄海に於ける大海戦の幕を開くことになった。

 是れより先僚艦 「吉野」 を喪ひたる我が第三戦隊は、装甲一等巡洋艦 「八雲」 を加へて勢力を増し (注) 、此の日も港口近くに進出して敵艦隊の動静を採り、逐一之を我が主力艦隊に報告し、敵と接触を保ちつゝ黄海に誘致した。

 敵は掃海艇及快速巡洋艦 「ノーヴイツク」 を先頭に、主力戦艦六隻は中堅となり、四隻の巡洋艦之に次ぎ、八隻の駆逐艦は側方を警戒しつゝ病院船を従へ、陣形頗る堂々たるものがあった。

 我が艦隊は旗艦 「三笠」 を先頭に、「朝日」、「富士」、「敷島」 の四戦艦と 「日進」、「春日」 之に次ぎ、十五隻より成る駆逐隊を引き連れ、敵の針路を横切りつゝ次第に敵に接近し、午後一時過より互に砲火を開き砲戦次第に激烈となった。

 折しも出港に遅れし 「浅間」 は来りて列に入り、第五戦隊は敵の後方に占位して、退路を阻止する形となった。

 「八雲」 を旗艦とする我が遊撃隊は第一回の戦ひに参加せざりしも、午後二時過より本隊に合し、第二回の接戦に加り敵の殿艦にして常におくれ勝ちなる戦艦 「ポルタワー」 に向って砲撃を加へたが、敵は時々応射するのみにして、砲火は主に旗艦 「三笠」 に集中し、砲声天に轟き飛弾は霰の如く艦の周囲に落下し、之れが水柱のため彼我の艦形は殆んど認め難く我等は 「三笠」 の悪戦苦闘の状況を察し大に心を痛めて居たが、午後五時半頃に至り、敵の旗艦 「ツエザレウヰツチ」 は司令塔に我が砲弾を受けて舵機を損じたので艦首を俄かに右に廻転しつゝ味方の列中に突入した。

 之れがため敵の陣形忽ちにして乱れた。 我が軍此の機に乗じ、敵を包囲猛撃して大に之を破り、敵の艦隊は四分五裂の有様となった。

 時、正に日は西海に傾き、我が第三戦隊は敵の巡洋艦 「アスコリツド」 を南方に追撃したが、敵の逃走案外早く、夜に入るに及んで姿を見失ひ残念ながら長蛇を逸した。

 翌朝更に索敵行動を執りつゝ旅順沖に迫ったが遂に敵影を怒めなかった。
(続く)

(注) : 実際には4月23日付の 「聯隊法令第49号」 をもって既に 「八雲」 「浅間」 の2隻は第3戦隊に編入 (臨時) されています。 なお、第3戦隊旗艦が 「八雲」 に指定 (臨時) されたのは 「聯隊機密719号」 による6月2日のことですが、「八雲戦時日誌」 よると実際には6月1日に既に移乗しています。



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2011年07月14日

日露海戦懐旧談 (12)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   十一、我が艦隊の災危

 五月十二日、第三艦隊掩護の下に旅順港外に於て、敵機雷の掃海作業中 「四十八号艇」 は不幸敵の機雷に罹りて爆沈し、次で其の日の午後五時頃通報艦 「宮古」 も触雷轟沈した。

 其の後三日を経たる十五日午前一時四十分、草木も眠る真夜中に僚艦 「吉野」 は山東角の北方に於て軍艦 「春日」 に衝突されて沈没した。

 五月十五日、此の日は我等の忘れんとして忘るゝこのと出来ない大厄の日であった。 第一戦隊の二小隊 (初瀬、敷島、八島) の三戦艦は 「笠置」、「龍田」 と共に旅順沖にあって封鎖の任務に従事中、敵の沈置せる機雷に罹り遂に 「初瀬」、「八島」 の二艦を喪ひ多数の犠牲者を出して大なる打撃を受けた。

 此の時、本艦は旅順港より芝罘に至る敵の海底電線切断の任務を帯び単独之に従事中、午前十一時四十分頃、突然 「初瀬」、「八島」 を救助せよとの電命に接し、一同大に驚き取るものも不取敢急いで旅順港口に向った。

 近付くに従ひ望見すると、「敷島」 を先頭に 「八島」 は右舷に傾斜し、砲撃しつゝ来航するに遭うた。 「初瀬」 は遠く遅れて居たが午後一時年頃再び爆発して濛々たる黒煙に包まれ僅か一分余にして雄姿を海面より消した。

 艦長は総員を中部甲板に集め此の大不幸について悲壮なる訓示をされた。

 折しも敵の駆逐艦十六隻は機に乗じ、我が艦隊を襲撃せんと猛進して来た。 本艦は第六戦隊の 「明石」、「千代田」、「秋津州」及 「龍田」 の諸艦と協力して之を撃攘した。

 中にも 「龍田」 は第一戦隊の司会官梨羽少将を 「初瀬」 より救助し檣上高く少将旗をひるがへし、単独敵の駆逐隊に突進したる其の勇猛なる勒作は恰も野猪の荒れ狂ふるが如く、之れには敵艦大いに恐れ、先を争ひ港内深く遁込んだ。

 其の夜の中に 「八島」 は円島附近に沈没し、砲艦 「大島」 又沈み、「明石」、「千代田」 も機雷に触れて傷き、「済遠」 及び駆逐艦 「暁」 を喪ひ、「龍田」 は坐洲するなど不幸は頻々として続いたが、我が軍之に屈せず更に海軍重砲隊を編成し、陸軍と共同して旅順を包囲し、海陸両方面より攻め立てた。

 敵の艦隊も此の圧迫に堪え兼ね、六月二十三日浦塩に向け脱出を計ったが我が艦隊の為めに破られ空しく旅順に引き返した。
(続く)


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2011年07月06日

日露海戦懐旧談 (11)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   十、名将マカロフ提督戦死

 四月十三日、敵艦隊の脱出する微候があったので、第一遊撃隊たる第三戦隊は 「常磐」 と 「浅間」 を加へ、午前六時旅順沖に達し、敵の装甲巡洋艦 「バーヤン」 を撃退しつゝ港に近付き強行偵察を行ふた。

 果して敵艦は黒煙を天に漲らしつゝ午前八時大挙出動した。 即ち快速巡洋艦 「ノーヴイック」 を先頭に六隻の戦艦は巡洋艦隊を従へ、単縦陣を以て悠々我に接近して砲撃を開始した。 我が艦隊も之に応戦して且つ戦ひ且つ退き、巧に敵を誘致して我が主力艦隊の近くまで引寄せた。

 敵艦、勢に乗じ益々出でて迫ひ来りしが遥かに遠く我が主力艦隊の来航するを見て、俄かに艦首を転じ旅順口に向けて退却した。

 我が艦隊之を追撃中、十時半先頭にありし旗艦 「ぺトロパヴロフスク」 は俄然我が沈置せる機雷に触れ轟然たる爆音と共に濛々たる黒煙に包まれ僅々数分間にして沈没した。 我が艦隊の乗員之を見て大いに悦び、万歳を唱へて引揚げた。

 後にて聞けば世界の戦術家として我も許し、人にも許された名将マカロフ提督は艦と運命を共にし、僚艦 「ポベーター」 も水雷に触れ進退の自由を失ひ多大の損害を蒙りたりと。
(続く)

(注) : 「ペトロパブロフスク」 の触雷沈没について、これと日本側の機雷敷設との関連は先にお話ししたことがあります。


     「機械水雷 (機雷) の基礎」 (7) − 「ペトロパブロフスク」 撃沈 (前編)

     「機械水雷 (機雷) の基礎」 (8) − 「ペトロパブロフスク」 撃沈 (後編)

     現在までのところ日本側の敷設機雷によるとの説が一般的ですが、実際にはロシア側の浮流機雷による可能性も捨てきれません。 しかしながら、正確な位置データなどの記録が日露双方に残されていない以上、今日に至ってはその真相解明はおそらく不可能なことでしょう。


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2011年06月30日

日露海戦懐旧談 (10)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   九、旅順ロの封鎖

 三月十日頃より数回に亘り、昼間我が主力戦隊は老鉄山の背面より砲台及港内市街の区別なく巨砲の間接射撃をなして敵を苦しめ、夜は駆逐艦の襲撃、仮装砲艦、艦載水雷艇の機雷敷設、或は第二回、三回の港口閉塞等昼夜を分たぬ攻撃に敵をして港外に出で戦ふの勇気をなからしめたが、其の後の敵は沿岸防禦にカを尽くし、尚夜陰に乗じて我が航路に無数の機雷を敷設し、老鉄山の中腹に新しく砲台を築いたので、我が軍の近寄る事は頗る危険となり、港内の偵察陸上の攻撃は困難となった。

 是に於て、兵器糧食等の供給の道を絶つべく旅順の沖を警戒、封鎖を厳にし海上の交通を遮断した。

 爾来戦時禁制品を積み込み旅順に入らんとする支那帆船ジャンクを捕へ、大連に抑留した数は数十隻に及び、物品は全部没収し、食糧品は概ね各艦船に分配された。

 お陰を以って鶏卵、果物、氷砂糖等時ならぬ御馳走に乗員大いに悦んだが、其の反対に喰ひなれぬ牛肉の塩漬を時々副食物として与えられたのには少なからず閉口した。

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( 臨検・引致される中国ジャンク   『日露戦役海軍写真集』 より )
(続く)

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