2011年05月21日

日露海戦懐旧談 (1)

 これから連載いたします本資料 『特務士官の語れる日露海戦の思ひ出話』 は、昭和10年に海軍省教育局より 『思想研究資料号外』 として、「其の一」 「其の二」 の2分冊として海軍部内に配布されたものです。

 その目的とするところは、編纂者の一法師大佐の序に記されているとおりですのでこれをご覧いただくとして、日本海海戦を始めとする日露海戦に於ける将校などの体験談などは水交社のものなどを始め数多く出されているところですが、当時一兵卒として戦った人達のものはほとんど無いと言って過言ではないと思います。

 本資料は作成当時の昭和初期には特務士官となっていた者達の手になるものですが、既に四半世紀の時が流れた後のものであり、多少の記憶違いなども含まれているであろうことは致し方ないものの、実戦体験の赤裸々な談話集として今尚貴重なものであることは変わりないと考えます。

 今年は年末に私もお手伝いをしているNHKスペシャルドラマ 「坂の上の雲」 の第3部が放映予定であり、その第3回 (第12話) 及び最終第4回 (第13話) にて日本海海戦が一つの目玉となります。

 また、横須賀にある 「記念艦三笠」 も今年は修復50周年を迎え、今月末にはその記念行事も行われるようです。

 これら良き機会ですので、ここにご来訪の皆さんのご参考として本資料の全文をご紹介してみたいと思います。 

 なお、ブログ連載に当たり、読みやすいように旧漢字を新漢字に改め、また句読点の挿入や、文節、段落などに適宜改行を入れたことを予めお断りしておきます。

 管理人 桜と錨
     
========================================


『 特務士官の語れる日露海戦思ひ出話 』


WO_cover_01_s.jpg


 本書は数年前の旧稿にして久しく編輯者一法師大佐の筐底に埋もれ居たるものなるも素朴なる従軍勇士の赤裸々なる告白として下士官兵の指導上適当なる参考資料と認め広く一般に薦むることゝせり。

  昭和十年六月

               海 軍 省 教 育 局

----------------------------------------------------------

      序

 日露戦役に従軍せる諸勇士も時の推移と共に現役を退き貴重なる戦訓も世に出ずして湮滅せられんとす諸将軍の懐旧談は有終会発行の懐旧録に其の一部を収録すと雖も直接砲後罐前等に在りて奮闘せる状況の世に伝へられざるは頗る遺憾とする所なり。

 然るに本団に於ては日露戦役に参加せる幾多戦士の残存するあり畏友尾崎篤四郎中佐と諮り同戦役に於ける実況、感想等を録し以て実戦場裡に立たざりし後進の為め活教訓を残さんとその材料の蒐集に力めしが補助員の勉励努力により四閲月の日子を費して漸く之れが完成を見るに至れり。

 録するものは何れも赤裸々の実状にして常時の状況を髣髴たらしめ真に吾人の好教訓となすに足るものと認む。

 治に居て乱を忘れざるは武人不断の心掛なり本書此の意味に於て諸士の好参考となるべきものと信じ之を同好の士に頒たんとす希はくは斯の教訓をして永久の生命あらしめられんことを聊か記して序とす。

  昭和三年十一月十日
            呉 海 団  一 法 師 少 佐

(続く)
posted by 桜と錨 at 14:29| Comment(3) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年05月22日

日露海戦懐旧談 (2)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』

   一、開戦前の概況

 明治三十六年の八、九月頃より日露交渉の成行に対して国内の与論は次第に八釜敷くなり、東洋の風雲は確かでなかった。

 常時僕は海軍一等水兵で、普通科掌砲のマークを着け、軍艦 「高砂」 に乗組み、六番十二糎砲の一番砲手であったが、途中三番八糎砲の射手の配置に変更された。

03-03-takasago_s.jpg
( 二等巡洋艦 「高砂」  光村利藻 『日本海軍』 より

 「高砂」 は四千三百噸の二等巡洋艦で、之が姉妹艦たる 「千歳」 「笠置」 及 「吉野」 と共に第三戦隊に編入せられ、時の司令官海軍少将出羽重遠 (海兵5期) は、「千歳」 を旗艦として第一遊撃隊の勇名を天下に現はしたこと普く人の知る所である。

 我が第三戦隊は十月上旬、艦隊運動や射撃訓練を行ひつゝ鎮海湾に廻航した。 其の時露国東洋艦隊の一隊も亦鎮海に入るべく来航したが我が艦隊の入港しあるを見て、何れへか姿を消したと云ふ事を耳にし小気味よく感じた。

 碇泊は僅か一日にして其の翌朝錨を抜き、第一、第二戦隊と共に寺島水道を経て佐世保に帰港した。

 常時外舷は従来黒色であったのを各艦一様に鼠色に塗り替へられ、戦時不要と認めらるゝものは、両舷直員で毎日の事業として陸揚をすると同時に糧食石炭を満載し、防寒具を積み込み、弾丸には信管を取付けられた。

 其の後続々として大小の艦艇は集り、大型商船も多数来港して、さしもに広き佐世保の軍港も是等の碇泊艦船が港口より早岐の沖に溢れ壮観を極めた。

 斯くして其の年は多忙の裡に暮れて希望に満ちた三十七年の新春を佐世保の軍港で迎へた。 各艦は今や臨戦準備を完成し、只時々少量の炭水補充を行ふのみで、出動を待ち構へて居たのであった。

 而して二月一日頃、聯合艦隊の乗員は第二艦隊司令長官上村中将 (彦之丞、海兵4期) 指揮の下に陸上大運動会を催し、烏帽子嶽に登山競争を行ひ、一同其の頂上に於て、天皇陛下の万歳を三唱し、大日本帝国及海軍の万歳を唱へて大に気勢を挙げ意気天を衝くの有様で眼中既に敵はなかった。

 所が不思議にも、新聞記事も俄かに平凡となり世間の噂も穏かで人心漸く落着いて見えたが思へば是れも正に暴風前の小康であったのである。

 常時乗員の一般上陸は禁止されて居たが、二月四日の事であった、当地に家族を有するものに限り午後六時より十時迄特別上陸を許された。 是等の人々は短時間の裡に別れを惜しみ、如月の寒夜を物ともせぬ家族の人達に波止場迄見送られて帰艦の際ボートが陸岸を離れんとする時の情景は勇ましくも亦哀れであった。

 五日の夕刻、旗信に依り艦長以上は旗艦 「三笠」 に集まる。 雨か風か艦内では種々の噂に花が咲いた。 やがて夜の十時も過ぎて甲板の人形も次第に薄らぐ頃、艦長石橋大佐 (甫、海兵10期) は帰艦された。

 舷門に迎へし当直将校に対し微笑を浮べ、「愈々日露の談判は破裂した。 明朝九時三十分出港」 と云はれて元気よく 「ケビン」 に入られたが、間もなく准士官以上を集められて何事か訓示があった。

 此の事が忽ち艦内に知れ渡り折角寝て居た者まで起きて来て又もや艦内は騒がしくなった。 自分も実は其の一人で只嬉しく、初めて遠洋航海にでも出て行く様な気持になって夜もろくろく眠れなかった。
(続く)
posted by 桜と錨 at 13:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年05月26日

日露海戦懐旧談 (3)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   二、聯合艦隊の出動

 明くれば六日、総員起床のラッパも一入勇ましく、上甲板に上って見ると各艦の煙突より黒煙もうもうとして立昇り、出港時刻を待つ光景は実に勇壮であった。

 此の日上甲板も洗はず両舷直は出港準備の一部を整へた。 朝食が済んで暫くすると、総員後甲板に集合のラッパが艦内に響き渡ると一同は元気よく駈け付けた。

 艦長は徐ろに口を開かれ国交断絶した事を簡単に語り、聯合艦隊に賜はった勅語を奉読され、而して後左の如き奉答文を読み聞かされた。

 「優渥なる勅語を下し賜はり臣等感激の至りに堪へす、臣は麾下の将卒と共に本日佐世保軍港を発し聖旨を奉体して犬馬の労を盡し、以て聖恩の万分の一に報い奉らんことを期す。 出師に臨み誠恐誠徨謹んで奏す。」

 次で勇壮なる訓示があつて乗員一同益々感激勇躍した。

 午前九時三十分第一駆逐隊は先発し、次で我が三戦隊も錨を抜いた。 各艦何れも登舷礼式を行ひ、見送る人と送らるゝ者、陸に海に人出を築き、国旗や帽子や又は半月布を打ち振りつゝ萬歳の声は各所に湧き起る。

 佐世保海兵団よりは軍楽隊を派遣し、勇ましき軍艦マーチの奏楽を以て威風堂々たる艦隊出征の首途を祝福した。
(続く)

posted by 桜と錨 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年05月29日

日露海戦懐旧談 (4)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   三、敵商船ロシヤ号外三隻を拿捕

 七日朝、旗艦 「三笠」 の通報に依れば朝鮮南岸に於て敵の商船四隻を捕獲し、其の中一隻は船名 「ロシヤ号」 なりと。 出陣の初めに当りロシヤを獲たるは最先きよしと一同大に喜び萬歳の声一斉に起る。

 聯合艦隊は午後二時頃、第一根拠地八口浦に集合勢揃ひをした。

hachikouho_01_s.jpg
( 八口浦   図上 : Google Map より   図下 : 古い海図#302より )

 夕刻、予定の作戦に基き、司令官瓜生少将 (外吉、海兵期外) は 「浪速」 「高千穂」 「新高」 「対馬」 の第四戦隊と、別に 「浅間」 「明石」 の二艦を加へ、陸軍を載せたる運送船三隻を護衛して敵の巡洋艦 「ワリヤーグ」 及 「コレーツ」 を撃沈すべく仁川に向った。 (注)  各艦登舷礼式を以て送り、其の行を壮ならしめた。

(注) : ここでは原文のままとしておりますが、正しくは当時の第4戦隊は 「浪速」 「明石」 「高千穂」 「新高」 の4隻で、これに第2戦隊の 「浅間」 が瓜生少将の指揮下に置かれています。 「対馬」 は開戦時にはまだ就役しておりませんで、明治37年2月14日呉海軍工廠で竣工、翌15日に第2艦隊に編入され、第4戦隊編入は2月26日のことです。


 次で我が第三戦隊は大同江より旅順方面の偵察任務を帯び、先発して鎮南浦に向ひ本隊と分離した。 折しも寒気は急に激烈となり、白皚々たる朝鮮の連峰を右に遠望しつゝ貸与された防寒具 (スコッチ製の襦袢、頸巻き、手袋、フランネルの袴下、半長靴及フランネルの裏を附けたる外套) に身を包み、戦闘準備を整へ三直哨兵配置にて北上した。
(続く)

posted by 桜と錨 at 12:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年06月04日

日露海戦懐旧談 (5)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   四、敵船 「マンチユリー」 を捕獲

 途中何事もなく九日早朝旅順口沖に達し、遥かに遠く老鉄山の前方に横たはるを望見した。 近付くに従ひ黄金、威遠の砲台は視界に入り港口近く数隻の軍艦遊弋し、且つ昨夜我が駆逐隊の襲撃を蒙りた大艦三隻は正しく傾斜しておることも確認された。

 我が艦隊は戦闘旗を朝風に靡かせつゝ、各員受持部署に就き距離一万米突より八千米突まで突進して偵察任務を遂行しつゝ旅順の港を後に見て大連沖にさしかゝった。 其の時遥かに遠く一隻の商船を発見した。

 本艦は命に依り隊列より離れ、得意の速力を利用して之に近付けば敵の商船なることが判明したので万国信号に依り停船を命じた。

 彼は知らざる真似をして速力を増し舵を転じて遁げんとするので、艦長命じて八糎砲の空砲を連続三発御見舞した。 彼は其の威嚇に狼狽し、直に機械を停止した。

 そこで其の船を捕獲する旨を告げ 「本艦の航跡に従へ」 と命じた。 彼は図々しくも 「運転自由ならず」 と信号した。

 是に於て艦長大いに怒り、前後八吋砲に装填を命じ、左舷発射管、魚雷発射用意の号令がかゝると共に 「我汝を撃沈す、乗員は今より十分の間に退去すべし」 と告げた。

 流石に横着者の彼も今は到底逃るゝ途なしと覚悟したものゝ如く 「我故障復帰せり、貴艦の命に従ふ」 と云ふ意味の信号が来たので一同万歳を三唱し、彼を後方に従へ意気揚々として本隊に合すべく南方に向った。

 途中通報艦 「龍田」 が来たので之が回航護衛の任務を引継いだ。 此の船は敵の御用船 「マンチュリー号」 にして駆逐艦の材料其の他兵器を満載し旅順に向け航行中の途中であった。 是が其の後特務艦 「関東」 (注) と名乗り、我が帝国の為め忠勤を尽くした功績多い船である。

34-kantou_s.jpg
( 特務艦 「関東」  本家サイト所蔵 『帝国海軍艦船写真帳』 より )

(注) : 特務艦 「関東」 は、日露戦争中は仮装巡洋艦兼工作艦として活躍し、その後は輸送艦、測量艦、工作艦等として使われましたが、先に連載しました 『運用漫談』 にも出てきましたとおり、大正13年12月12日佐世保から舞鶴に向かう途中悪天候のため福井県の越前糠浦海岸に座礁、船体全損に加え、死亡・行方不明者計96名という旧海軍事故史上に1頁を記してその最後を迎えました。


(続く)

posted by 桜と錨 at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年06月09日

日露海戦懐旧談 (6)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   五 旅順攻撃

 本艦は首尾よく任務を果して本隊と合し、午前十一時旗艦 「三笠」 を先頭に第一戦隊、第二戦隊 ( 「浅間」 欠)、我が第三戦隊之に次ぎ、十五隻より成る精鋭は威風堂々単縦陣の戦闘序列を作り、大連方面より針路を西に旅順に向ひ、総攻撃を決行することになった。

 此の日は、昼食も時刻を繰上げ特別の献立で御馳走があった。 自分も人の真似して上から下まで新らしき衣服と着替へ、花々しく奮闘して戦死の覚悟をした。

 合戦準備も出来てゐる。 やがて十一時四十分頃勇ましい 「戦闘」 の号音で各艦の檣上には一斉に戦闘旗が翻る。 各員受持配置に就いた。 敵の艦隊十余隻は砲台掩護の下に港口近く遊弋しつゝあった。

 彼我の距離漸く一万米突に迫るや、黄金山砲台にて閃々たる砲火一斉に起ったので 「今打ったな」 と見て居る裡に轟々たる砲撃と共に旗艦 「三笠」 の近くに数条の水柱が上った。

 続いて老虎尾砲台よりも砲撃を開始し、敵弾頻りに飛来して艦側近くに落下し、水柱高く立昇ってゐる。

 距離は次第に接近して八千米突になった時、敵の艦隊先づ砲火を開き、午後十二時十二分、旗艦 「三笠」 の十二吋砲一斉射撃を合図として各艦之に倣ひて火蓋を切った。 敵の艦隊健気にも砲台の掩護射撃と協力して烈しく発砲し、砲声天に轟き飛び交ふ弾は霞の如く、茲に凄壮なる修羅場は眼前に展開された。

ryojun_battle_m370209_01_s.jpg
( 第1次旅順口攻撃運動略図   防衛研究所所蔵史料より )

 僕は対舷砲五番十二糎砲に至り照尺改調の任に当って居た。 砲台長森永大尉は此の砲の後方舷側にあって指揮を執り、敵の巡洋艦 「バーヤン」、「ノーウヰック」 を相手に激烈な砲撃を加へたが、各艦各砲台とも独立打方のため弾着は混乱して照尺量の修正は頗る困難に陥り、始んど改調するの遑なく無我無中の有様で射撃を継続された。

 今日より之れを見れば随分幼稚な射撃の方法であるが、敵の射撃も亦同様、頗る拙劣にして乱射狂撃、飛び来る弾丸雨の如くなれども、近く落ち、遠く去り、或は右に左に偏して艦体に中らず、只砲台から放つ巨砲の一斉射撃は照準稍正確にして大部分は艦側近くに爆裂し、之が水柱の為め我等が戎衣を濡らし、頭上を飛び越す弾丸に肝をひやした事も幾度かあった。

 斯くて激戦奮闘約三十分にして打方を止め、堂々と凱歌を奏して引上げた。

 翌十日午後、牙山の沖に投錨す。 此の時仁川に向ひし瓜生艦隊も来り会す。 「ワリヤーグ」、「コレーツ」 の二艦を撃沈したるを聞き之が戦捷を祝した。

gazan_01_s.jpg
( 牙山錨地   図上 : Google Earth より  図下 : 古い海図#301より ) 

 二月九日の攻撃に於て、本艦には敵の巨砲一弾後檣をかすめて僅かに之を傷け他の二弾はリギンを折断したのみで、乗員には誰一人の死傷者も出さず互に無事を悦んだ。 情報に依れば、我が軍の死傷者総数僅かに五十八名に対し、敵の死傷者百二十九名なりと。
(続く)

posted by 桜と錨 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年06月13日

日露海戦懐旧談 (7)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   六 裏長山列島占領

 二月十一日、我が聯合艦隊は牙山にあって、午前八時満艦飾を施し、紀元節の祝意を表す。 乗員一同は 御真影を奉拝して更に忠節を誓ひ、武運の長久をった。 正午に各艦、旗艦 「三笠」 に倣ひ二十一発の皇礼砲を発射し、同十分満艦飾を撒し出動準備を完成す。

 夕食の終るや間もなく、我が第三戦隊先づ抜錨し、各隊之に続いて出動予定の作戦に基き索敵行勒を執りつゝ北上した。

 確か其の翌日であった様に思はれる。 我が第三戦隊と駆逐隊の一部は穏かな海面を滑るが午前十一時頃裏長山列島に達し、敵の建設せる望楼を破壊するの目的を以て陸戦隊を上陸せしめたが、露兵一人も居なく無抵抗にて之を占領した。

 或る小隊が番人の支那人三十才位の男をとらへ屋外に引き出し、裸体として厳しく迅問する場面を目撃したが、番人が恐れ戦き掌を合せて号泣助命を乞ふ光景は可笑しくも亦可愛想にも思はれた。

 島内の露兵は巳に引上げ、誰一人も残り居らざるを以て貯蔵の石炭は鹵獲品として之を駆逐艦に積み込み、残りの山なす石炭に石油を振りかけて火を点じて焼燼した。

 尚支那人の家屋より牛、豚、鶏等を手当り次第に徴発し、午後四時頃陸戦隊の帰艦するや直ちに抜錨本隊に合し、旅順沖を遊弋して威圧を加へ、無事第二根拠地に引上げた。(注)

(注) : 明治37年2月12日前後の第3戦隊は、11日付の 「聯隊機密第124号」 に従って円島方面において敵船及び戦時禁制品輸送の中立国商船捜索のために行動しており、少なくとも本記事はこの時の事ではありません。

おそらくここで出てくる 「高砂」 の行動のうち、前半の望楼及び貯蔵石炭の件については2月26日付 「聯隊機密第166号」 に基づく同27日の海洋島付近の敵情偵察時のこと、また家畜の徴発の件は3月12日付 「聯隊機密第213号」 に基づく同13日の裏長山列島偵察時のことと考えられます。


richouzan_01_s.jpg
( 裏長山列島付近   図上 : Google Earth より  図下 : 古い海図#392より )

     当時の 「高砂戦時日誌」 が残されておりませんが、これらのことは 「千歳戦時日誌」 などによって確認できます。


(続く)

posted by 桜と錨 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年06月17日

日露海戦懐旧談 (8)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   七、旅順口閉塞決死隊の募集に応ず

 敵艦隊は我が軍、数次の攻撃に多大の損害を蒙り、港内深く蟄伏して専心修理を急いで居ることを知るや、我が東郷司令長官は予て計画しつゝありし旅順口閉塞の壮挙を決行することゝなり、二月十八日各艦に於て之が決死隊の志願者を募られ、之を聞くもの皆先を争うて願書を提出した。 而して僕は長男なる故を以て御採用にならなかった。

 本艦より、新上 (卯太郎) 一等水兵及舟上 (まま、舛山金藏) 、荘 (喜蔵) 二等機関兵 (まま、両名とも一等機関兵) の三人は選ばれて七十七士の中に加はり、特に艦長主催の別宴に招かれ、翌十九日総員の見送りを受け、万歳の声を浴びつゝ勇士の名誉を一身に集め意気揚々として、閉塞船 「武州丸」、「武揚丸」 に分乗した。

 翌二十日午前九時、我が第三戦隊は五隻より成る閉塞船隊を護衛し、八口浦を抜錨した。 在泊の各艦登舷礼式を行ひ、互に万歳をとなへてその行を壮にし成功を祈った。

 二十三日朝主力隊と合した。 夕刻、円島附近に達し、茲に再び登舷礼式を行い閉塞船隊に別れを告げた。 其の後数日を経て右三名の者は無事帰艦した。

entou_01_s.jpg
( 元図 : 防衛研究所保管史料より )

 此の壮挙は、天候の不良と敵の砲撃、防材及探照燈に妨げられ、所期の目的を達する事を得ざりしは遺憾なりしも、而も此の勇敢なる動作に依り敵の心胆を寒からしめ、我が軍の士気を振興したる精神的効果の多大なる事は言ふまでもない。
(続く)

posted by 桜と錨 at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年06月23日

日露海戦懐旧談 (9)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   八、敵駆逐艦一隻を鳩湾に迫ひて撃沈

 其の後我が第三戦隊は屡旅順に迫り、敵の哨艦と戦ひ、或は敵砲台より砲火を受けたる事枚挙に遑はない程であった。

 或日 (2月25日) 、我が主力艦が旅順砲台を攻撃するに際し、我が第三戦隊は港口近く南方にありて敵艦隊の動静を監視しつゝあったが、午後一時頃敵の駆逐艦二隻港口に向ひ航海して居るのを認めたので、殿艦たる 「吉野」 は旗信に依り隊より離れ突進、之を砲撃した。

 敵艦大に驚き、中一隻は 「吉野」 に追はれつヽ辛うじて港内に遁げ込んだが他の一隻は舵を転じて西方に向つて遁げ出したので本艦は 「千歳」、「笠置」 と共に全速力を以て之を追跡した。

 敵は周章狼狽老鉄山を右に廻り鳩湾に入りて陸岸に乗り上げた。 而して乗員は皆海に飛び入り陸上目がけて遁げて居る有様がよく見えた。

hatowan_01_s.jpg
( ロシア駆逐艦 「ウヌシーテリヌイ」 座礁沈没位置             
 図左 : 防衛研究所保管史料より、図右 : 1956年の米軍地図より )

 我が戦隊は敵砲台の射撃を冒して接近し砲撃暫くにして、破壊沈没せしめ凱歌を挙げて引上げた。
(続く)

posted by 桜と錨 at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年06月30日

日露海戦懐旧談 (10)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   九、旅順ロの封鎖

 三月十日頃より数回に亘り、昼間我が主力戦隊は老鉄山の背面より砲台及港内市街の区別なく巨砲の間接射撃をなして敵を苦しめ、夜は駆逐艦の襲撃、仮装砲艦、艦載水雷艇の機雷敷設、或は第二回、三回の港口閉塞等昼夜を分たぬ攻撃に敵をして港外に出で戦ふの勇気をなからしめたが、其の後の敵は沿岸防禦にカを尽くし、尚夜陰に乗じて我が航路に無数の機雷を敷設し、老鉄山の中腹に新しく砲台を築いたので、我が軍の近寄る事は頗る危険となり、港内の偵察陸上の攻撃は困難となった。

 是に於て、兵器糧食等の供給の道を絶つべく旅順の沖を警戒、封鎖を厳にし海上の交通を遮断した。

 爾来戦時禁制品を積み込み旅順に入らんとする支那帆船ジャンクを捕へ、大連に抑留した数は数十隻に及び、物品は全部没収し、食糧品は概ね各艦船に分配された。

 お陰を以って鶏卵、果物、氷砂糖等時ならぬ御馳走に乗員大いに悦んだが、其の反対に喰ひなれぬ牛肉の塩漬を時々副食物として与えられたのには少なからず閉口した。

inchi_02_s.jpg
inchi_01_s.jpg
( 臨検・引致される中国ジャンク   『日露戦役海軍写真集』 より )
(続く)

posted by 桜と錨 at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年07月06日

日露海戦懐旧談 (11)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   十、名将マカロフ提督戦死

 四月十三日、敵艦隊の脱出する微候があったので、第一遊撃隊たる第三戦隊は 「常磐」 と 「浅間」 を加へ、午前六時旅順沖に達し、敵の装甲巡洋艦 「バーヤン」 を撃退しつゝ港に近付き強行偵察を行ふた。

 果して敵艦は黒煙を天に漲らしつゝ午前八時大挙出動した。 即ち快速巡洋艦 「ノーヴイック」 を先頭に六隻の戦艦は巡洋艦隊を従へ、単縦陣を以て悠々我に接近して砲撃を開始した。 我が艦隊も之に応戦して且つ戦ひ且つ退き、巧に敵を誘致して我が主力艦隊の近くまで引寄せた。

 敵艦、勢に乗じ益々出でて迫ひ来りしが遥かに遠く我が主力艦隊の来航するを見て、俄かに艦首を転じ旅順口に向けて退却した。

 我が艦隊之を追撃中、十時半先頭にありし旗艦 「ぺトロパヴロフスク」 は俄然我が沈置せる機雷に触れ轟然たる爆音と共に濛々たる黒煙に包まれ僅々数分間にして沈没した。 我が艦隊の乗員之を見て大いに悦び、万歳を唱へて引揚げた。

 後にて聞けば世界の戦術家として我も許し、人にも許された名将マカロフ提督は艦と運命を共にし、僚艦 「ポベーター」 も水雷に触れ進退の自由を失ひ多大の損害を蒙りたりと。
(続く)

(注) : 「ペトロパブロフスク」 の触雷沈没について、これと日本側の機雷敷設との関連は先にお話ししたことがあります。


     「機械水雷 (機雷) の基礎」 (7) − 「ペトロパブロフスク」 撃沈 (前編)

     「機械水雷 (機雷) の基礎」 (8) − 「ペトロパブロフスク」 撃沈 (後編)

     現在までのところ日本側の敷設機雷によるとの説が一般的ですが、実際にはロシア側の浮流機雷による可能性も捨てきれません。 しかしながら、正確な位置データなどの記録が日露双方に残されていない以上、今日に至ってはその真相解明はおそらく不可能なことでしょう。


posted by 桜と錨 at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年07月14日

日露海戦懐旧談 (12)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   十一、我が艦隊の災危

 五月十二日、第三艦隊掩護の下に旅順港外に於て、敵機雷の掃海作業中 「四十八号艇」 は不幸敵の機雷に罹りて爆沈し、次で其の日の午後五時頃通報艦 「宮古」 も触雷轟沈した。

 其の後三日を経たる十五日午前一時四十分、草木も眠る真夜中に僚艦 「吉野」 は山東角の北方に於て軍艦 「春日」 に衝突されて沈没した。

 五月十五日、此の日は我等の忘れんとして忘るゝこのと出来ない大厄の日であった。 第一戦隊の二小隊 (初瀬、敷島、八島) の三戦艦は 「笠置」、「龍田」 と共に旅順沖にあって封鎖の任務に従事中、敵の沈置せる機雷に罹り遂に 「初瀬」、「八島」 の二艦を喪ひ多数の犠牲者を出して大なる打撃を受けた。

 此の時、本艦は旅順港より芝罘に至る敵の海底電線切断の任務を帯び単独之に従事中、午前十一時四十分頃、突然 「初瀬」、「八島」 を救助せよとの電命に接し、一同大に驚き取るものも不取敢急いで旅順港口に向った。

 近付くに従ひ望見すると、「敷島」 を先頭に 「八島」 は右舷に傾斜し、砲撃しつゝ来航するに遭うた。 「初瀬」 は遠く遅れて居たが午後一時年頃再び爆発して濛々たる黒煙に包まれ僅か一分余にして雄姿を海面より消した。

 艦長は総員を中部甲板に集め此の大不幸について悲壮なる訓示をされた。

 折しも敵の駆逐艦十六隻は機に乗じ、我が艦隊を襲撃せんと猛進して来た。 本艦は第六戦隊の 「明石」、「千代田」、「秋津州」及 「龍田」 の諸艦と協力して之を撃攘した。

 中にも 「龍田」 は第一戦隊の司会官梨羽少将を 「初瀬」 より救助し檣上高く少将旗をひるがへし、単独敵の駆逐隊に突進したる其の勇猛なる勒作は恰も野猪の荒れ狂ふるが如く、之れには敵艦大いに恐れ、先を争ひ港内深く遁込んだ。

 其の夜の中に 「八島」 は円島附近に沈没し、砲艦 「大島」 又沈み、「明石」、「千代田」 も機雷に触れて傷き、「済遠」 及び駆逐艦 「暁」 を喪ひ、「龍田」 は坐洲するなど不幸は頻々として続いたが、我が軍之に屈せず更に海軍重砲隊を編成し、陸軍と共同して旅順を包囲し、海陸両方面より攻め立てた。

 敵の艦隊も此の圧迫に堪え兼ね、六月二十三日浦塩に向け脱出を計ったが我が艦隊の為めに破られ空しく旅順に引き返した。
(続く)


posted by 桜と錨 at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年07月19日

日露海戦懐旧談 (13)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一二、黄海の大海戦

 以上の如く海陸両方面よりする攻撃は益々激烈となり、港内にありては自滅する外途なきを悟りたる敵艦隊は、八月十日に至り決然大挙して出港したので、茲に黄海に於ける大海戦の幕を開くことになった。

 是れより先僚艦 「吉野」 を喪ひたる我が第三戦隊は、装甲一等巡洋艦 「八雲」 を加へて勢力を増し (注) 、此の日も港口近くに進出して敵艦隊の動静を採り、逐一之を我が主力艦隊に報告し、敵と接触を保ちつゝ黄海に誘致した。

 敵は掃海艇及快速巡洋艦 「ノーヴイツク」 を先頭に、主力戦艦六隻は中堅となり、四隻の巡洋艦之に次ぎ、八隻の駆逐艦は側方を警戒しつゝ病院船を従へ、陣形頗る堂々たるものがあった。

 我が艦隊は旗艦 「三笠」 を先頭に、「朝日」、「富士」、「敷島」 の四戦艦と 「日進」、「春日」 之に次ぎ、十五隻より成る駆逐隊を引き連れ、敵の針路を横切りつゝ次第に敵に接近し、午後一時過より互に砲火を開き砲戦次第に激烈となった。

 折しも出港に遅れし 「浅間」 は来りて列に入り、第五戦隊は敵の後方に占位して、退路を阻止する形となった。

 「八雲」 を旗艦とする我が遊撃隊は第一回の戦ひに参加せざりしも、午後二時過より本隊に合し、第二回の接戦に加り敵の殿艦にして常におくれ勝ちなる戦艦 「ポルタワー」 に向って砲撃を加へたが、敵は時々応射するのみにして、砲火は主に旗艦 「三笠」 に集中し、砲声天に轟き飛弾は霰の如く艦の周囲に落下し、之れが水柱のため彼我の艦形は殆んど認め難く我等は 「三笠」 の悪戦苦闘の状況を察し大に心を痛めて居たが、午後五時半頃に至り、敵の旗艦 「ツエザレウヰツチ」 は司令塔に我が砲弾を受けて舵機を損じたので艦首を俄かに右に廻転しつゝ味方の列中に突入した。

 之れがため敵の陣形忽ちにして乱れた。 我が軍此の機に乗じ、敵を包囲猛撃して大に之を破り、敵の艦隊は四分五裂の有様となった。

 時、正に日は西海に傾き、我が第三戦隊は敵の巡洋艦 「アスコリツド」 を南方に追撃したが、敵の逃走案外早く、夜に入るに及んで姿を見失ひ残念ながら長蛇を逸した。

 翌朝更に索敵行動を執りつゝ旅順沖に迫ったが遂に敵影を怒めなかった。
(続く)

(注) : 実際には4月23日付の 「聯隊法令第49号」 をもって既に 「八雲」 「浅間」 の2隻は第3戦隊に編入 (臨時) されています。 なお、第3戦隊旗艦が 「八雲」 に指定 (臨時) されたのは 「聯隊機密719号」 による6月2日のことですが、「八雲戦時日誌」 よると実際には6月1日に既に移乗しています。



posted by 桜と錨 at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年07月23日

日露海戦懐旧談 (14)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一三、黄海海戦の成果

 黄海に於ける八月十日の海戦は酷烈なる暑熱の中に戦闘約一昼夜の長きに亘ったが遺憾ながら撃沈する痛快在る光景を見ることは出来なかった。

 然しその間充分に敵を悩まし遂に逸出の目的を捨てゝ再び旅順に引き返すの已むなきに至らしめた事は我が軍の大捷利にして充分の成果を収め得たものと確信した。

 其の後彼我の情報を綜合するに、我が軍に於ては 「三笠」 の損害最も甚だしく 「日進」、「八雲」 之に次ぎ其の他の艦艇亦多少の損害を蒙りしも戦闘航海に支障なく、死傷者総数二百二十八名なかしが本艦の如きは只一人の死傷者もなく何等の損害も受けなかった。

 敵の死傷三百四十七名にして旗艦 「ツエザレウヰツチ」 と駆逐艦三隻は膠州湾に、巡洋艦 「アスコリツド」 及び駆逐艦一隻は上海に、巡洋艦 「デヤナー」 は西貢に、其の他駆逐艦三隻は威海衛に逃れて何れも武装を解除し、軽巡洋艦 「ノーヴイツク」 は遠く北海に航してコルサコフ港に入り、芝罘に遁げ込んだ。 駆逐艦 「デシーテリヌイ」 は我が駆逐隊に捕獲された。


   一四、其の後の経過

 八月十四日、第二艦隊は浦鹽艦隊と蔚山沖に邂逅して激戦大に之を破り内巡洋艦 「リユーリツク」 を撃沈し、陸軍又連戦蓮捷して旅順の包囲攻撃も日を追ふに従ひ益々急となり、悪戦苦闘、幾度か全滅に近き犠牲を払ひ死力を盡して二〇三高地を占領したる後、我が重砲隊の砲撃に依り敵艦隊を港内に撃滅し、僅かに餘命を保ちし戦艦 「セバストポリー」 は港外に避泊せしも、我が駆逐隊の夜襲に依り、魚雷命中して廃艦となった。

 茲に於て海軍の戦局に大変化を来たし、来航しつゝあるバルチック艦隊に備ふべく各艦交代して内地に帰り、艦体、兵器の修理に著手した。

 本艦は十一月九日旅順沖を発し、呉軍港に帰り入渠の上必要なる修理を施し、新兵八十餘名を補充して十二月三日錨を抜き、同七日早朝旅順沖に於て封鎖哨戒の任務に就いた。

 而して昼間は旅順港を去る十四、五浬沖を東西に遊弋し、夜になれば遠く南下して漂泊警戒に任じた。

 蓋し其の頃、浮流水雷は一日幾つとなく発見され、其の都度撃沈処分にされて居たが、夜間の航海は特に危険を感じたからである。
(続く)


posted by 桜と錨 at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年08月03日

日露海戦懐旧談 (15)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一五、「高砂」 の沈没

 本艦は十二月十二日午後六時、僚艦 「音羽」 と共に旅順沖を退き、夜間の地点に至り 「音羽」 と約十二浬をへだてゝ漂泊し、四直哨兵を配備して警戒に任じてゐた。

 当時僕は士官室の徒兵長であったので、哨兵勤務に服せず巡検後夜食の準備をとゝのへ、常直従兵を残して十時過寝についた。

 処が夜半突如として轟然たる爆聲は夜の寂を破り、烈しく艦は震動すると同時に少しく左舷に傾いた。 「あらッ ・・・・ 水雷にやられたな !」 と直感して釣床より飛び下りた。

 間もなく 「水雷に罷ったなー」 と呼ぶ者があった。 僕は下着其の儘にて上甲板にかけ上って見た。 時は十二時過ぐる真夜中で、電燈消した闇黒の裡に右に走り、左にかけ行き 「ドタソ、バタン」 の聲ものすごく、艦内は俄かに騒々しくなった。

 此の時、艦長、艦橋にありて 「防水閉鎖」 のラッパが聞えて来た。 僕は殊更心を落ちつけて上衣を着け、受持配置について働いた。

 続いて 「防水蓆出し方」 の号令がかゝり、各員必死となって之が当て方に努めたが艦の傾斜と少しく速力を出して前進して居るので、艦底索は容易に衝角を替らず、防水席は遂にぶら下げた儘其の位置に当てたが、破孔大にして吸払込まれ其の用をなさなかった。

 其の他手あきの者機関部に於ては左舷の石炭を右舷に移し、上中甲板に居るもの誰彼の区別なく左舷側応急弾台に備へた弾丸も、其の他の重量物は皆海中に投げ込み、極力艦体傾斜の防止に努めたかひもなく、次第に傾斜の度を増して三十度以上に及び殆ど救助の見込みはなくなった。

 やがて艦長は、前艦橋にあって大聲で上甲板の暗を破り、総員に対し悲壮極まる訓示をされた。 茲に、我等は唯運を天に任し、艦長の発聲にて天皇陛下の萬歳を三唱し、次で海軍及「高砂」の萬歳を唱へた。

 其の時、航海長小倉少佐は大聲を奉げ 「本艦の沈没する位置は大竹山島の東方十五浬、旅順を去る約三十浬の所である。 乗員の内若し生残った者あれば此の事を伝へて貰ひたい」 といはれ、稍暫くしてボートやーい ・・・・ と呼ぶ聲も何となく哀調を帯びて心細く今尚耳底に残ってゐる。

 其の時巳に第二カッター及通船一隻は卸されて居たがこれには負傷者及休業患者の如き働けない者ばかり乗艇せしめ、艦の後方遥に遠く押し流されて居たのであった。

 僕は乗艇配置はないので、艦長の訓示に従ひ、何か浮力のあるものはないかと考へて居たが、ふとメンジャー (注) に洗濯桶の格納してあるに気付き、甲板を這ひつゝ其の場所に行き大中小の三個の内、中のもの一個を引き出し、自分の受持五番八糎砲々門の所まで持って来て此処から飛び込む決心をした。


 そして附近の様子を闇にすかして見れば釣床を抱へたるもの、手箱を携へたるもの或はバケツ、板片など持って居る者多数集まった。

 中にも機雷爆発のため、両足ははとんど目茶々々になった負傷者に看護兵一名が附き添ひ、両手にバケツを結び付け 「之で大丈夫だ気を確に持て」 と云はれて居たのを見たときは、衷心気の毒でならなかった。
(続く)

(注) : 「メーンジャー」 については本家サイトの 『船体各部の名称及び構造一般』 をご参照下さい。



posted by 桜と錨 at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年08月08日

日露海戦懐旧談 (16)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一五、高砂の沈没 (承前)

 僕が丈夫な洗濯桶を待って居ることを知って、誰であったか忘れたが 「南村ではないか、好いものを持って居るなオレにも仲間入りさして呉れ」 と云ひつゝ桶に手をかけた。

 尚其の附近に居る者二、三名、無言のまゝで近く寄って来たので、これでは駄目だと思ひ、今度は自分一人の所有物となすべく小の桶一個を引き出して来たが、之れにも人が目をつけて居る様に思はれて不安の下に時を移して居たが図らずも眼前に救命袗二個が釣下げられて居るのを発見したので、桶を打捨て飛びつく思ひで其の一着を身にまとひ、他の一着を手にもち親友唐津摩一等水兵に渡すべく名を呼び捜して見たが、何等の答もなく行先不明であったのと、且艦の沈没は迫って居たので傍に居った船匠兵白石某に与へた。

 艦は益々傾斜して上甲板中央まで波が洗ふ様になったが、それでも尚ピンネース、第一カッターを下すべく一生懸命働いて居るものがあった。

 僕も亦カッターの方に行き共に働いたが、艦の傾斜甚だしき為め、遂に其の目的を達すにことを得なかったのみならず、ピンネースを卸さんとして之に従事したる者、釣上げられたる瞬間に其の艇の舷側と煙突にはさまれ、即死又は負傷した不運な者も数名あった。

 僕は戦友四五名と共にカッターのマストを便りに右舷々側中部に移り、金比羅様を念じて居た。

 其の時水雷長川添大尉は来られ、「ボート長じやーないか」 と僕に問はれたので 「はい、私です」 と答へた。 「一緒に行かう、其のマストに何人居るか」、「貴官とも五人です」 と答へた。

 折しも艦長より軍歌及煙草を許された。 君が代を唱へるもの、軍歌を歌ふ者、中には俗歌 「死んで花實が咲くならば生きて苦労はすまいもの」 と、しゃれて居る者もあり或は悲観の餘りしくしくないて居る下士官も目撃した。

 此の時 「水雷長、煙草一本願ひます」 と言ふ者もあった。 水雷長は 「此の危急の場合煙草か ・・・・」 と言ひつゝポケットを探り 「おー、一本残って居る ・・・・」 とて彼に与へた。

 彼はマッチをとさがし漸くこれに火を付け、美味しさうに吸ふて居たが、傍に居た者 「僕にも一寸吸はして呉れ」 と頼み込み、一本の煙草を四五人で吸うて居た。

 其の時艦は全く横転して舷側は殆んど平になり、波は足元まで襲ふて来た。 僕は沈没の刹那、艦と共に捲き込せるのむ恐れ 「水雷長もう行きませう ・・・・」 と促すと 「いや急ぐな」 と云はれたが、其の時巳に多数の人は飛び込み泳いで居るもの、或はおぼれつゝあるものも見へた。

 水雷長は何んと思はれたか突然 「艦長! 艦長!」 とさけび 「左様なら ・・・・」 といひ終るや海に入り暫く泳いで居たが、間もなく暗黒の海に姿を消した。

 折しも雪降りで寒さは強く、空は益々暗黒にして、僕も心細く次第に悲観に傾いて来た。

 是れより先き本艦水雷にかゝるや、直ちに無線電信を以て危急を各艦に通知し、探照燈を點じて上空を照らし、尚時々発光信號をなして艦の位置を知るに便ならしめた。

 此の時又、大聲にて 「艦長! 左舷バウに航海燈が見えます」 と報告するものがあった。 自分も其の光を認めて大に元気づき上衣はそのまゝ袴下を脱いで泳ぐ用意をした。
(続く)


posted by 桜と錨 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年08月10日

日露海戦懐旧談 (17)

海軍特務中尉 南 村 鶴 太 郎

『 日露戦争の従軍を憶ひて 』 (承前)

   一五、高砂の沈没 (承前)

 艦は次第に艦首より沈み、舷側にある我等は腰を没する様になったのでマストに取付いたまゝ本艦を離れたが、海水温度は以外に低く、身体急に凍りつく思ひに又もや本艦の方へと戻った時は最早や足もとどかず、何時の間にかマストを離れて泳いで居た。

 折しも近く探照燈を照らされたので、思はず振り向いて見ると、艦は僅かに後部の舷側を水面に現し、排気のためにすさまじき音をたてゝ噴水しつゝ、哀れ、スクリューを上に沈没した。

 海面には艦長始め四百数十名は首から上を水面にあらはし、君が代を唱へるもの、軍歌を謳ふもの、苦しき聲で救ひを求めるもの、おぼれつゝあるもの、惨憺たる光景は筆紙のよく盡す処でない。

 此の時、ボートは三、四隻現はれ、しきりに溺者は救ひ上げられて居た。 僕はライフジヤケツトの御蔭で泳ぎは大変楽であったが、防寒用の腹巻はとけて足にまきつき、足の動作を妨げたから之を取のけ、徐かに泳いで居た。

 すると、二間も離れた所で戦友の桑田二等水兵は漸く顔のみを水面に現はし苦しんで居たので、「桑田ではないか ・・・ ・しっかりせーい、今直ぐ助けて呉れるぞっ」 と、言ふと之に聊かカを得たものと見え 「ウン」 と大きく返事して暫くは泳いで行くが、間もなくもとの如く苦しむ聲がするので助けてやらうかと思って後振り返って見たが、頭上を打ち越す二、三の波で遂に姿は見えなかった。

 此の時眼前にボートのオールが一本流れて来たので、これ幸とすがり付き泳いでゐると、突然横合から 「南村! あゝー 苦しい」 と言ひつゝ僕のオールへ手をかけた。 見れば先任下士官吉村一等兵曹であった。

 「おゝー 吉村兵曹ですか ・・・・ 之を上げやう、ボート迄はすぐ其処です、しっかりしなさい」 といってオールを渡し、自分も一生懸命泳ぎを続けて居ると、前と横から二隻のボートが近付いて来て、前なるボートより 「おい ・・・・ 之れを持て ・・・・」 といひつゝオールを差し出された。

 僕はこれに取付くと直ぐ引寄せられたが、人並優れた大の男である僕はライフジヤケツトをつけてゐるので思ふ様にならず、三人掛りで漸く艇内に引揚げられヂヤケツトをぬがせ艇尾に移されて、誰かが外套を被せてくれた。

 其の時既に艇内には、十数名も救助され、一つ所に折り重って只 「うーんうーん」 とうなって居る。 僕もこれに賛成した訳ではないが、共にうなって居ると、何時の間にか救ひの神とも仰ぐべき僚艦 「音羽」 の舷門に来て間もなく、我々兵卒一同はボイラーの上部防禦甲板へと運ばれ、毛布にくるまり暖をとって居た。

 そうしてゐる中に次第に元気付き、我に帰ったときの嬉しさは又格別で生涯忘れることは出きぬ。

 又折角救助されて 「音羽」 まで収容された航海長、軍医長、甲板士官を始め数名の下士官と兵は、人事不省に陥り殆んど息が絶えて居たのを人工呼吸の方法に依りカを盡されたが、何れも蘇生しなかった。

 後にて聞けば、「高砂」 の水雷にかゝつたのは、十二日午後十一時五十五分で沈没したのは、翌十三日午前一時十分であった。

 乗員は総計四百三十六名で、其の中死亡者副長中山中佐以下二百八十三名で、此の二百八十三名中一旦救助され亡死亡したるもの九名で、死体となって拾得された者五名を除き他は皆海底の藻屑と消えた。

 而して残りの百五十三名は九死に一生を得た幸運児で、総員の約三割五分に当り、一、二等兵の元気盛の者が比較的多かった。


   一六、末  尾

 当時 「高砂」 の沈没は戦略上極秘にされて居た。 軍艦 「音羽」 は其の翌日、大連に回航して生存者艦長以下百五十三名は御用船 「臺北丸」 に収容され、死体を焼いて跡始末を行ひ、同月三十日補充交代の名義の下に、呉海兵団に入り暫く休養することゝなった。

 僕は三十八年一月一日附を以て三等兵曹に任ぜられ、二月五日新兵教員を命ぜられ、更に四月十五日砲術教員教程練習生として横須賀へ入所し、五月二十七、八日の日本海海戦当時は練習中であって、之に参加し得なかったことを今尚遺憾に思ふ次第である。
(続く)


posted by 桜と錨 at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年08月12日

日露海戦懐旧談 (18)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

   一、開戦迄

 私は開戦当初一等水兵で 「三笠」 乗組十五番八糎砲射手として終始戦役に従事しました。 戦闘部署が短艇甲板に在りました関係上戦況を見ることが出来ましたから記憶に残って居るところを記述致さうと思ひます。

 先づ順序として開戦前の模様から述べることに致します。

 日露外交の危機切迫し世論漸く其の危急を伝へたる明治三十六年八月の頃から佐世保軍港は次第に艦艇の出入頻繁を加へ形勢何んとなく緊張し、軍港は艦艇を以て充満せられ大小の煙突は不断に黒煙を吐き林なす檣は旭日旗をひるがへし、或は五島列島の実弾射撃、玄海洋上の演習、伊万里湾内の仮泊或は島原湾、天草灘に於ける実弾射撃等各々訓練に寧日なき有様。

 又軍港内にありては船体兵器の修理及糧食、弾薬、炭水等の補給、戦時不用品の陸揚、艦艇の塗替 (此時まで軍艦は上甲板以上は白色以下は黒色、駆逐艦、水雷艇は全部白色在りしを鼠色に塗替) (注) に忙はしかりしが、三十七年一月半ば頃より召集令下り俄かに緊張したのである。

 斯くして二月一日には在港艦艇乗員の連合大運動会があり、又烏帽子岳の登山、佐世保海兵団に於ける武術競技等大に士気を鼓舞しました。 「千歳」 艦長東伏見宮殿下、「八雲」 分隊長山階宮菊磨王殿下及 「三笠」 分隊長伏見宮博恭王殿下より夫々酒肴料を賜はり将卒深く感激しました。

 当時海軍部内は元より国民も共に開戦の避くべからざるを期し、骨鳴り肉躍るの概がありました。

 然して二月四日より各艦艇は機関に点火し、又夜間は最上甲板に哨兵を配し教門の砲に砲員を配し警戒することゝなり、命令一下直ちに出動し得るの準備をなし数日来乗員の上陸を禁止せられ居りましたが、五日突然佐世保に家族を有する者に限り午後八時より十時迄上陸し家族及知己に別れを告ぐることを許可せられました。

 時は短く情は尽きず風寒く月暗き如月の暮夜幾千の老幼婦女が手に手に提燈を携へ、奉公の念義勇の心に家をも身をも忘れて勇み立つ其の子其の父其の夫を見送る為桟橋に殺到したる悲壮なる場面は到底言葉に尽すことは出来ません。
(続く)

(注) : 連合艦隊の艦艇が戦時塗装としたのは、聯隊機密第28号に基づく明治37年1月10日からのことです。


rentaikimitsu_28_s.jpg
( 元画像 : 防衛研究所保有保管資料より )

posted by 桜と錨 at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年08月15日

日露海戦懐旧談 (19)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

   二、二月六日佐世保軍港出港

 二月六日の空は快く晴れ渡り、凜烈の潮風は将卒の意気を熾ならしむる様に思はれました。

 午前八時に艦長は乗員を後部に集め、前日賜はりました御勅語を奉読し、次で激励の訓示をされました。(注)

(注) : 「三笠戦時日誌」 では総員集合は2月6日夕刻のこととされております。

 同九時三十分 「三笠」 の後檣ヤードに出動の信号が挙り、先づ第一駆逐隊より出港を始め、午後一時には第一艦隊が出港致しました。

 又第四戦隊は陸軍第一軍の最先鋒たる歩兵第二十二旅団長たる、陸軍少将木越安綱の率うる大村、福岡両聯隊の将卒数千名の分乗せる運送船三隻を護衛して出港致しました。

 斯くの如く朝来薄暮に至る迄大小の艦艇舳艫相啣みて出港するのを佐世保鎮守府司令長官鮫島中将は麾下幕僚を従へ汽艇に乗じて港外に見送らる。 長官夫人は海軍将校夫人と共に海兵団軍楽隊を搭載せる汽艇に乗じて嚠喨たる奏楽の裡に各艦艇の間を巡航して其の行を壮にす。

 又佐世保鎮守府各艦団部隊軍人、軍属等は短艇に乗じ又は陸岸各所に在りて帽子を翳しハンカチーフを振り其の行を送り別意を表す万歳の声幾度か湧き艨艟幾十隻軍容堂々として進発する有様は既に眼中敵無きの感が致しました。

 此日の晩から艦内哨戒を始め一年有半之を継続しました。 軍医官は各哨兵を見廻り何くれと無く衛生に就き注意をされました。


   三、露国商船 「ロシヤ号」 拿捕

 二月七日午前十一時頃朝鮮八口浦沖に於て一汽船の黒煙を吐きつゝ針路を我に向って直進するあり、直ちに 「台中丸」 をして拿捕せしむ。 是ぞ露国商船 「ロシヤ号」 なり。(注)

(注) : 正確には 「ロシア号」 を拿捕したのは 「龍田」 で、これを 「台中丸」 が引継ぎ八口浦に回航して臨検し、その後八口浦から佐世保まで同船の引致の任に当たりました。
なお、八口浦についていは、以前ご紹介しておりますのでそちらをご参照下さい。


 東郷司会長官は各艦に報せしめて曰くロシヤを獲たりと、将卒雀躍して悦び万歳の声一斉に起り、露西亜と戦ふに当り先づ其の国名の船を捕獲す幸先良しと将卒何れも欣喜致しました。


   四、二月九日旅順港外に於て敵艦隊及砲台砲撃に従事

 此の戦闘は何分臍の緒切って始めての戦闘でありますので多少恐怖の念にかられつゝ臨みましたが、弾丸と言ふものは案外中らぬものと確信を得ました。

 我が艦隊の旅順沖に顕はるゝや先づ敵は黄金山砲台より砲撃を開始し数分の後敵艦隊も砲撃を始む。

 我が艦隊は距離次第に接近し凡そ九千米近くとなるや旗艦 「三笠」 先づ前部三十糎砲より第一弾を送り各艦之に倣ひ全砲火を敵に集中しました。

 敵は前夜我が駆逐隊の夜襲に不意を打たれ既に三艦を傷けられ無念遣る方なきにや殊更に乱射乱撃、敵味方の間は砲弾雨の如し、然れども照準を失して空しく海中に落つるのみ。

 我が艦隊は益々接近猛撃を加へたる為め敵艦は周章して砲撃愈々乱れるのみでありました。 我が艦隊は飴り接近せずして引上げました。

 此の戦闘に於ける敵の損害
 巡洋艦 「ポベター」 に我が三十糎砲命中、火薬庫爆発其の他数隻大火災を起す。

 「三笠」 の損害
 敵の一弾大檣を擦過し其の揚旗索を切断し檣頭に揚げたる戦闘旗を海中に落す。 新に揚げたる戦闘旗も亦次の一弾のため大孔を穿てり。 軽傷者八名出したる外損害なし。

 二月九日以後八月十日の海戦迄の期間に於て数回戦闘に徒事せしも之を略します。
(続く)


posted by 桜と錨 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)

2011年08月19日

日露海戦懐旧談 (20)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

   五、八月十日旅順沖に於て敵艦と交戦に従事

 哨艦 「千歳」 より敵艦隊は大挙して出動するの報に接し、午前七時二十分根拠地裏長山列島に仮泊中なりし我主力艦は旗艦 「三笠」 の信号に依り急速旅順を指して進発す。

(注) : 当時第1戦隊は8月2日に裏長山泊地を出港し、旅順沖、円島付近において警戒航行を続けていました。


 正午を過ぐる頃我が第一艦隊は 「日進」、「春日」 を加へ遇岩の西南西に向ひしが、やがて旗艦 「三笠」 檣頭高く戦闘旗の翻るや諸艦之に倣ふ。

 此の時敵は旅順を去る三十哩計りの沖合に出て益々南航し、旗艦 「ツヱザレヴヰツチ」 を先頭に単縦陣をなし最後に病院船一隻を従ふ。

 我艦隊は之を洋中に誘致せんと欲し八点回頭に依って横陣隊形を作り更に南々西に進航す。

 敵は一意南東に向って逸去せんとするものゝ如くなるを似て、我が艦隊は更に左八点回頭して逆番号単縦陣となり、「日進」 の嚮導に依り漸次東方に転首し以て敵の先頭を圧迫す。

 旗艦 「三笠」 に於ては午後一時十五分伊地知艦長より 「勝敗の決此の一戦に在り砲員は沈着百発百中を期せよ」 との命会あり、伝令は高声にて各砲台に伝へしが、間もなく射撃開始の令下り 「三笠」 先づ砲火を開く。 各艦之に次で砲撃を開始す。 敵又之に応ず。

 砲火漸く猛烈となり彼我の巨弾雨霰の如く飛び爆煙海上を鎖す。 幾何もなくして敵は針路を右転し南方に向ひ我が後方に出んとするものゝ如し。 仍て我が艦隊は右十六点一斉回頭を行ひ、約六千乃至八千米に近き敵の先頭に向って猛烈なる射撃を行ふ。

 敵は我が砲弾炸裂の都度黒煙を噴出し光景頗る凄惨を極む。 殊に 「アスコルド」 の如きは午後二時年頃我が砲弾命中炸裂のため爆煙全艦を包み艦型だに認むるを得ざるに至れり。

 旗艦 「ツエザレヴヰツチ」 は午後六時頃我より放てる三十糎巨弾司令塔に命中、ために司令長官ウヰツトゲフト中将は粉砕せられ僅かに一脚を残したるのみにて悲壮なる戦死を遂げ、又其の傍に在りし参謀其の他の数名の士官戦死、参謀長、艦長は重傷、其の他にも重傷を受けたるもの多しと言ふ。

 斯くて同艦は舵機破損し俄に左方に転回せしため、敵艦隊の陣形は一時に動揺し次で混乱するに至れり。

 此の時 「レトヴイザン」 は隊列を離れ我が艦隊に向って進み来りしが、我が艦隊の猛撃を受け多大の損害を蒙り退却せり。

 敵は愈々潰乱し各自思ひ々々西方に逃れんとす。 此の時第三戦隊は 「八雲」 を先頭とし、第五戦隊は 「浅間」 を先頭として戦場に到達し、直に敵の北方に出て之を挟撃す。

 続いて第一戦隊は梯陣を作り東方より、第三戦隊は南東方面より敵に迫る。 是に於て敵は三面包囲に陥る。

 我艦隊は終始整々の陣形を以て敵に対し全力を挙げて猛撃を加ふ。 敵に集中せる弾丸は恰も迅雷の如く間断なく落下し、幾何もなく敵艦隊は四分五裂し、「アスコリド」、「ノーウヰツク」 及駆逐艦数隻は先づ血路を南西に開きて逃走せんとす。

 予てより待ち設けたる第六戦隊は直ちに其の前路を遮りて猛撃を加ふ。 敵は多大の損害を蒙り愈々陣形乱れ、各艦空しく右往左往するのみ。

 時既に日没となりしを以て主力艦隊は砲火を収め、東郷司令長官、駆逐隊、水雷艇隊に敵艦襲撃の命を下さる。

 斯くて敵艦隊は昼間の砲撃と夜間水雷攻撃のため全く逃げ迷ひ、或るものは旅順に、或るものは南方又は東方に遁れ去った様な有様でありました。

 此の戦に於て我が艦隊の損害は 「三笠」、「日進」 の外は軽微でありましたが、「三笠」 は最も苦戦を致し敵弾の命中するもの数多く、指揮通信装置は破壊され、伝令員は死傷し、殊に後部砲塔分隊長及後部副砲分隊長は負傷し砲台附将校は戦死し、候補生之に代れば又負傷し、全く砲台の指揮者を失ひたるため各砲は隣砲台に走りて苗頭距離を聞くもの、或は独断距離を整へ射撃する等惨憺たる有様なりしも、砲員は終始沈着射撃を継続しました。

 戦闘後駆逐隊乗員の言に依れば、「三笠」 は一時敵全砲火の集弾を受け水煙の為め艦形を認めることは能はざる程にて、今にも沈没せしかと思はるゝ程なりしと言ふ。 亦戦闘後上甲板の有様は火災場の後の如く、鉄片木片散乱し実に目も当てられぬ惨状でありました。
(続く)


posted by 桜と錨 at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)