2012年03月22日

日露海戦懐旧談 (49・完)

海軍特務少尉 古 川 甲 七

日露戦争中日本海海戦に就て (承前)


 午後の一時半頃、敵の煤煙を見、一同小踊して喜び勇んだ。 二時過敵より砲火を開き、三笠の信号に依り 「皇国の興廃此の一戦にあり」 を伝へられ勇気百倍、既に覚悟せることゝて初陣なるも更に演習と異なることなし。

 斯くて試し打方より始まり二時四十分過ぎ激戦となりたるとき、我が命中弾のため敵は火災を起し、水雷の命中に依り艦首より或は艦尾より逆立となりて沈没するを見て萬歳々々と小踊するを、艦橋より艦長は制して 「今から敵の一隻や二隻沈んだとて萬歳とは何だ、戦争はこれからだ」 と大剣突。

 時に激戦中主砲の旋同度の過大と且つ急射撃の砲声と空気の圧力に依り、此の時既に両耳の聴力は〇となりたり。

 遅れながら私の戦闘配置を申せば、一番十五糎砲揚弾機員として一生懸命弾丸薬莢を交互に当時の三番四番に渡したものだ。

 耳は聾でも未だ両眼あり。 耳側にありて如何なる大声を発するも蚤の庇程も通せず然れども、目は口程にものを云ふ。 口の動き方で察しつゝ動作して何等支障も来たさず、且つ完全に任務を完うした。

 此に於て 「浅間」 の列位を申上れば、二戦隊の三番艦で別働隊とされてあつたが海上模様の都合で途中変更になり、三番艦で戦闘し左舷戦闘で二、三発々射、又は右舷戦闘、同航戦で一時間余りに渉り大激戦を行つた。

 砲廓の扉の穴より投げ出した薬莢は通路と云はず、足の踏む所もなき迄に山と積み上げられた。 打方控へも待てもなく、連続七十六発打ったことは今に物凄く覚えてゐる。

 此の激戦で本艦は後部水線下に十二吋砲弾二発命申した。 痛手に隊列を離れて防水作業に全力を尽し、戦死者、負傷者の手当をしたが、此の時初めて我に帰り恐ろしくもあり哀れにも感じた。 然れども敵を前に控へて応急作業防水装置は完全に施され、更に排水にと全力を傾注した。

 斯くして此の日も没し日没後より本艦は特別任務、夜襲隊の総指揮官の旗艦として任務に就いたが、排水と哨兵との交互勤務で眠る暇もなし。

 九時頃より襲撃は開始され、多数の収獲ありて二十七日の夜も明け二十八日の朝となつたが、昨日昼に最後の飯を食つたきり米も麦も一粒も口にすることさへ出来ず、艦長始め夕も朝も又乾麺麭ばかり。

 然かも兵員の御渡り茶腕の奇麗な奴を持ち来りて之を艦長の食器とし (之れは爆裂のため准士官以上の食器室も公室も一物も残されないからだ) 艦長も食事には艦橋でビスケットをかじる事より外に食物としてはなく、上は艦長より下は若水兵に至る迄之が本統の寝食を共にする云ふのかと始めて思った。

 それは糧食衣服庫は海水に浸され、米麦を得んとせば水中より取り入れざれば他に一物もなきが為めなり。

 斯くして排水は片時も怠りなく二十八日午前竹島沖にて残艦を捕獲し、「朝日」 と共に 「アリヨール」 を護衛して舞鶴に回航することになつた。

 破損浸水其の他の関係上速力が出ないので止むを得ず途中四日を費し、大歓狂喜で久し振りに日本の面影に接した。 又戦勝の喜びと戦友の棺を送る哀しみと喜悲交々とは、ほんとに此の事かと思はされた。

 時に予め無線電信で依頼しありしものならん、入港入渠と同時に心から温かき麦飯を五日目に口にした。 其の美味なる事は永久に忘れる事の出来ない味で、今に物が不味とか何とか云へば此の時の蓼飯の味を思ひ出し決して贅沢はしない様になつたのも、基は皆此の戦争の賜で、之を子女の教育の資料にして教訓しつゝある。

 而して此の時迄釣床へ入つて温き夢を結ぶことはろくろくなかつたのである。 数日にして聴力も回復し、昼夜兼行の応急修理も完成して再び出征準備を整へ出港した。

 此の戦に於ける二十七日、二十八日を回顧してつくづく思ふことは、負け戦は決してなすべきものでない、戦をすれば必ず勝たなくてはならぬと云ふことである。

 敗戦の悲惨をまざまざと見せ付けられた私は、子孫に戦争には決して敗くべからずと遺言したいと思ふ。 我は戦勝の喜に引き換へ、彼の敗軍の痛ましさよ。

 此戦勝が因をなし遂に平和克復となり、東京湾凱戦に於ける歓迎の又壮大なることよ。

 斯くて曠古の大戦を終へた其の熱未ださめざる内に、之れを永久に記念すべき何物か企がなくてはならぬで大に斡旋するものありて、浅間戦友会が生れ今猶存在しあることを一寸付言して置きたい。

 日露開戦と同時に乗員は毎月俸給の二十分の一を積立て戦死者の遺族の救助其の他慰問費に当てゝ居たのが、戦後其の金額も相当に蓄積せられて其の処置は協議の結果 「浅間」 の記念館として下士卒家族共励会の発展の為め洋館建築一棟と同記念塔を砲身を以て造き永久に残すことになつた。 (注)

 之れ当時の乗員が艦長の徳を慕ひ戦友和親むの至情の迸であつて、当時の戦友は毎年記念日に戦死者の冥福を祈ると共に茶話会を催して当時の旧懐談に耽り、其の都度現存せる厳父八代大将の健康を祈る就電を発しつゝ戦友は同大将の写真を皆記念として永久に保存し居れり。

 世人には知られざるさゝやかなる会なるも、斯く永続し温みあるものは他にあらじと自ら誇りとする所なり。 幸多かれよ、浅間戦友会員。

( 完 )

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(注) : ここに出てくる 「浅間」 の記念館及び記念塔について、その所在地及び状況などについては寡聞にして判りません。 もしご存じの方がおられましたらご教示下さい。


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2012年03月15日

日露海戦懐旧談 (48)

海軍特務少尉 古 川 甲 七

日露戦争中日本海海戦に就て


 当時私は若水兵で而かも田舎の山出しで、入団する迄は海軍の事情も解らず軍艦の外形も見た事のないものでした。

 卒業後軍艦 「浅間」 に乗組み、同艦は修理完成後三十七年末呉を出港、厳寒の津軽海峡、宗谷海峡の警戒に従事し、二月末召電で鎮海湾に勢揃ひし、明けても、暮れても装填砲と内筒砲射撃。

 一寸暇があるかと思へば、砲側に貼付けてある敵の艦形と艦名を覚えさせられたもので、砲術長始め砲員迄が人の名を呼ぶにも敵艦名にて呼ぶと云ふ工合で、知らず知らずの内に艦型と艦名も覚えました。

 其の緊張振りは到底今の平和、否、表面平和の今日に於ては想像も及ばぬことで、昼の教練の疲れも夜の哨兵の睡眠不足も一人としてこぼす者もなく、不平顔すらする者なく、今の若い下士官兵に其の頃の我々先輩の爪の垢でも煎じて呑ましたらと思ふて居ます。

 百日の隠忍自重の効ありて二十七日午前四時五十分頃、丁度私は取次の当直で早起して上甲板洗方準備をして跣足になり腕をまくるや否や 「取次ぎ」 と呼ばれ、驚いて電信室に飛込むや否や大剣突 「何にをしているんだい」、、、「駈歩で当直将校へ持つて行け」

 見れば紙片に 「−・ −・ −・ −・」 と同じ様な符号が連続印されてある。 これぞ哨艦「信濃丸」よりの敵艦見ゆとの暗号警報で、其の電報を始めて握つたのは、此の我輩である。

 当直将校に届ける間もなく総員起し、一服する間もなく至急点火で罐前は大騒ぎ、旗艦の信号に依り続いて総艦隊出港、総員礼服即ち其の当時我々がドテラと云つて袖の長い一番上等服に着替え、褌から襦袢靴下に至るまで垢の付いた物は一物も残らず脱ぎ棄て、上から下まで新品ばかりとした。 是は負傷したとき、傷が化膿せぬ為めである。

 所が有難く無いのは、我等は此の大礼服の儘で前後甲板及中部甲板に満載せられたる石炭を捨てねばならぬので、「手空き総員上甲板、石炭捨て方」 此の号令には、いさゝか面喰らはざるを得なかつた。

 二、三日前の石炭補給で二十噸、三十噸と積み込んだものを今更出港して航海中に皆拾てるとは自分のものではないが惜しいなーと思つた。 然かも猶予なく皆礼服の儘で海中投棄の作業に掛つた。

 而して甲板を洗ひ清め其の上へ上甲板一面に砂を撒き終つて休憩、何んの事だか薩張り判らん。 後で聞けば弾片に依る損害を少くすると、甲板の血糊其の他で辷らない様にとの細心の注意だそーな。

 其の内に総員集合。 有名な尺八艦長八代六郎大佐の重苦しい口調で訓示が始った。 元来乗艦当時より艦長のお考へで頭髭と爪を状袋に入れ姓名を記入し艦長の自宅へ送り届けてあつた。 夫人は之に向ひ毎日乗員八百の武運長久を祈願せられつゝあつたと後になつて知りました。 若し萬一戦死せば之を記念に残すお考へであつたらしい。

 当日の訓示の一節に、心配することは更にない筈、予ての遺言は所轄長の手元に保管しあり、愈々本日は本艦と共に艦長始め乗員一同は国に殉ずる充分なる覚悟をせよと。

 夫れから各戦闘配置に秘密箱と云ふを備へてあり、戦死せば之を郷里に送り届くべく予て定めてあつたが、之に入れるべく手紙を認むるあり、琵琶を弾ずるあり。 艦長は尺八を吹奏し士気を鼓舞し、暫くして各戦闘配置に就きたる儘俗に云ふ戦争飯とて白飯の拳骨、即ち握り飯を十時半頃食事喇叭にて最後の飯とし、刻々敵艦隊に近付きつゝあり。

 一時間余りの後には開戦する予定だからとて、茲に予め勝軍を祝ひ併せて士気を鼓舞する意味に於て艦長も共に軍歌を奏し終つて 陛下の萬歳を三唱し、腕を扼して敵艦に近付く。

 一同雑談にふけり時を待ち居る内刻々と時は移る。 砲には装填の儘砲後にありてビスケットをかぢるものあり。 寝ころぶものあり。
(続く)


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2012年03月07日

日露海戦懐旧談 (47)

海軍特務少尉 内 山 虎 夫

日露戦争半ばより従軍の感想 (承前)


 二十七日の戦闘に於て命中弾九発、其の中にて一番損害の大なりしは後部砲塔の命中弾なり。

 常時は現今の如き通信装置はなく砲術長の示す距離苗頭は艦橋の示教盤に調へられ、砲台長は之れを見て修正し各砲に号令す。 伝令員は之を各砲にメガホン又は伝声管に依りて伝ふ。

 自分は軽砲を使用せざる間は上甲板瓦斯抜口より中甲板四番十五糎砲に伝令の任あり。 砲門よりロ−リングの烈しき度毎に海水は瀧の如く浸入す。

 然れども照準器はH字型なるを以て望遠鏡の如く使用困難ならず、四番六吋砲の如きは七十六発発射し砲身は焼けて塗具は全部脱落せり。 斯くの如き発砲に故障の一つだになかりしは実に砲員が如何に不断砲機の整備に細密な注意を払ひ居りしかゞ伺はれる。

 自分等の八糎砲は最も近距離にある仮装巡洋艦等に対し発射弾数三十八発、命中炸裂する我が砲弾を手に取る如く見るを得た時愉快禁ずる能はず。

 敵艦は我が射弾に依り致命傷を受け傾き始めると、艦員先を奪うて檣によぢ昇る。 然れどもそれも暫く経てば前後或は左右舷に傾きて赤き船腹を見せるものあり。 沈没と共に上甲板以上に居りしものは蜘蛛の子を散らしたるが如く水上に浮びつ沈みつ、浮標、木片其の他の浮物に身を託するものあり。 所謂 「溺るゝものは藁をも摘む」 の譬の通り我が艦隊が附近に接近すれば手を挙げて救助を求むる等実に悲惨の極である。

 日没前 「スワロフ」 は前部より沈みつゝありしにも拘らず発射速度緩慢ながらケビン砲は尚射撃を継続しつゝあり。 「スワロフ」、「オスラビヤ」、「ボロジノ」、「アレキサンダー」 等の主力は遂に相前後して我正義の弾丸に海底深く撃沈せられたり。

 波浪高き為め、今朝より竹敷に待命中なりし我が水雷艇隊は通報艦 「八重山」 に率ひられ戦場に来たるを以て、我が主力艦隊は日没頃より駆逐艦、水雷艇隊に攻撃を譲り戦場を後に速力十五節にて鬱陵島方面に向へり。

 駆逐艦、水雷艇隊は朝まだきより骨肉の嘆をもらしつゝ待つて居りし事故すわと計りに攻撃を開始した。 故に敗残の敵艦は処々に探海燈を点じて之に応照し昼をも欺くばかりなり。 砲声は一段と物凄く唸りを生じ凄惨の気漲る。 昼の戦闘に身はへとへとに疲れながらも其の夜は二直哨戒なり。

 正子を過ぐる頃探海燈の光も一つ消え二つ消え、今はそれさへ見えず砲声もやみ、音するものは唯機関の軋と舷側に砕けては散る潮の音のみ。

 戦時治療所に傷ける戦友を見舞へば昨夜までバルチック艦隊の来航を今や遅しと待ちわびし友も今は真白き繃帯を朱に染め昏々として呼べども更に答なし。 之が戦場の常とはいへ束の間にまざまざと見せつけられた有為転変様々只感無量であつた。

 斯くて二十八日の夜は明け放れたが渺々たる海原に敵の片影だになく只木片等の漂流を見るのみなりき。 其の中に右舷艦首の方向水平線上に薄き煤煙を発見したれども、次第に遠く薄く遂に視界を離れた。 之敵艦高速カを利用して浦塩に遁走したのであつた。

 漸次にして右舷正横前に又数條の煤煙を発見せり。 是れ後の 「石見」、「壱岐」、「見島」、「沖ノ島」 の四艦であつた。 我が艦隊は之を砲撃しつゝ刻々接近すれども応戦の模様見えず、能く見れば昨日の戦闘旗に替ふるに白旗を以て降伏の意を示せり。

 此処に於て我が艦隊はこれを前後左右より包囲して各艦より捕獲員を編成して之を捕獲し、初めて日本軍艦旗を掲揚せられ、捕虜は各艦に収容する事となり 「富士」 はネボカトフ司令官以下二百名を迎へた。

 昨日までは司令官と仰がれたネ少将も今は捕虜の身の哀れさ、乗艦にも舷側に下げられし索梯子を挙ぢ登る見すぼらしさ。 見れば頭部に負傷し繃帯をなし居れり。

 准士官以上は士官病室、其の他は中甲板第一区に収容して番兵を附し、佐世保入港まで上甲板に上ると許さゞりき。 捕虜の中には愛妻の写真をポケットより出し、なつかしみ且喜ぶ者もありき。

 斯くの如くにして遂にバルチック艦隊は全滅したのである。

 今静かに過ぎし当時をしのび現在の世相と比較するに国民一般が軍隊に対する後援の程度、社会の期待、国防に関する熱意等に於て格段の差異なきやに思考せなる。

 今や世界は挙つて口に筆に平和を叫ぶも、其の裏面に於て互に何を考へ何をしつゝある。 平和果して何時迄続くか。 現在の状況にて進んだならば一朝平和は破れ、国難襲ひ来るの時、果して日露会戦当時の如く困苦欠乏に堪へ、隠忍持久の大勇猛ありや否や大に心すべき事である。
(続く)


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2012年02月28日

日露海戦懐旧談 (46)

海軍特務少尉 内 山 虎 夫

日露戦争半ばより従軍の感想 (承前)


 午前五時突如哨艦信濃丸より 「敵艦見ゆ」 との警報に接し一同大に勇躍。 「総員上れ、水雷防御網収方」 誰言ふともなく 「収め方も之が最後だ速にやれ」 といふ意気込みにて、戦はざるに巳に敵を呑むの概がある。

 午前六時戦隊順序に威風堂々海を圧して出港した。 ( 「富士」 の第一艦載水雷艇は昨夜荒天のため鎮海に避難したるにより出港に間に合はず。 残念ながらそのまゝとなりぬ。 指揮中島中尉 )

 出港後晴衣の軍装に着替へ、「当直石炭を海に捨て方。 非番直は合戦準備、マンドレット作方」の令あり。

 偶々自分は六時より七時迄を前檣楼見張の配直にありしため聯合艦隊出港の状況を手に取る如く見るを得、まことに仕合せなりき。 一、二戦隊は早く陣形整ひたれども、旗艦 「三笠」 は昨夜鎮海に在りしため出港が少しおくれて戦隊の右舷側を最大速力を以つて通過先登の定位置に入れり。 此の光景は勇壮を通り越して形容すべき言葉もない。

 九時頃甲板も片付き戦闘準備も整備し茲に初めて休憩となる。 時に同郷出身の金田一水 (後部砲塔砲員) 来りて日く 「貴様等は何んの防禦もなき露天甲板で便りにするものは只三吋のホーサーのマンドレットのみではないか。 戦闘開始になれば第一に敵弾に見舞はれるぞ。 俺は十二吋もある鋼板の防禦内にあるを以て如何在る敵弾が命中しても大丈夫故、若し戦死の場会郷里への遺言及貴重品等あれば俺のところへ持って来い」 など冗談を交へながら御互に戦闘配置についた。

 正午少し前に総員後甲板に集合。 松本艦長より戦闘中に於ける各自の覚悟職責等について訓示。 終つて掌砲長たる兵曹長寺西益治郎氏と後部砲塔長たる山本上等兵曹を総員の前に出して 「今日の戦闘間は掌砲長は後部砲塔長、後部砲塔長は掌砲長の職を執れ」 と申渡された。 其の理由は常時砲塔長は右砲射手を兼ねて居たが寺西兵曹長は日本海軍で射撃が第一位であつたとの事で適材を適所に使はれたのである。 終つて 天皇陛下の萬歳を三唱して解散。 酒は後甲板に準備しあるを以て戦闘に先立つて祝盃を奉げよと申渡され、各自自由に杓飲した。

 斯くして午後一時四十分遥かに西方水平線上に数條の煤煙棚引くを見。 次で黄土色の煙突が濛気の中から一つ、二つ、三つと次第に多く列んで見え始めた。

 一時五十五分頃旗艦 「三笠」 の楼頭に一流の信号旗が掲げられた。 之が有名な 「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」 との信号である。

 直ちにこ此の信号は艦内隈なく伝へられた。 砲員は砕けよとばかり砲弾を抱き締めた。 石炭をすくふ十能は破れよと計り舞ひ初め汽罐は真紅に燃え機械は唸りを生じて回転する。 将卒の噛み締めた唇からは血も滴らん計り。 全艦の将卒、声なく燃ゆるが如き眼と眼とを見合すのみで、物凄いばかりである。

 敵は二列より単縦陣に陣形を改めた。 我が艦隊も回転した。 此の時第一戦隊の附近に巨弾の雨注ぎ水煙と爆煙にて艦影を蔽ひかくす程であった。 本艦は打方開始の非らざるに、早くも敵弾は右舷側後部の外板を貫き中甲板の水槽に命中爆発して火災を起し、為に非戦闘側砲員三名負傷せり。

 斯くて午後二時過ぐる頃戦機熟し果然 「打方始め」 の号音は鳴り渡つた。 いざとばかり射撃は開始され、茲に日本海海戦の幕は切つて落された。 私は初陣なるが故に若干落付を欠く恐れがあつた。 然し全身血湧き肉躍り言ひ知れぬ緊張を覚えた。

 海上は彼我発砲の砲煙と砲弾炸裂の爆煙と各艦の煤煙とで天日為に暗し、敵の先登に居りし 「スワロフ」、「オスラビア」 は我が猛射に堪えずして逃げ始めたが忽ち両艦共火炎を起し大損害を蒙り、煙突は裂け檣は折れ、遂に居たゝまらず戦列外に出た。 而して敵艦隊は遂に四分五裂となつた。

 其の間本艦は (午後四時頃) 左舷戦闘距離三千五百の時大激動あり。 瞬間機雷に見舞はれたと思ふ間もなく、後部の砲塔火炎の報あり。 見れば主砲は左舷に旋回したるまゝ動かず、二砲身の中間楯 (厚さ十二吋) を十二吋の敵弾にて打貫かれ、後部の楯は海中に打込まれて片影だになし (後部の楯に命中の際爆発したるものならん)。 天蓋下のビームは全部落ち、予備装薬も共に爆発し、火薬庫に及べり。

 此の一弾にて左砲射手を除く外寺西砲塔長以下砲塔員全部倒されたり。 実に其の惨状目も当てられず。 負傷せる寺西砲塔長は高松候補生が救助して塔外に出し、其の他のものも全部戦時治療所に収容せり。 火傷のため触れば全身の皮膚がとれ誰が誰やら定かならず。 中には足を失ひし者が露助奴、露助奴と呼んで階段に手をかけよぢ登らんとする如き悲壮極まる光景もありき。

 其の中にて午前雑談を交へし砌り我に郷里への遺言あらば伝へ呉れんなど冗談交へし当の本人同郷の金田二水も此の一弾にて名誉の戦死を遂げた。

 時間不明なるも上甲板左舷艦長予備室に積載しありし石炭に敵弾が命中し、更に中甲板電線倉庫に入り其処に格納したる味噌樽に中りて爆発 (六吋砲弾ならん)、味噌樽のタガ破壊して味噌は全部飛び散れり。 敵弾の破片も味噌には困らしものと見え人員に損傷はなかりき。
(続く)


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2012年02月23日

日露海戦懐旧談 (45)

海軍特務少尉 内 山 虎 夫

日露戦争半ばより従軍の感想


(管理人注) : 本稿では作戦行動などに関することについては特に内容にコメントは付さず、原文のままで掲載します。

 浅学且又年を経ること二十有余年にして記憶も薄らぎ従つて日時其の他に於ても多少の前後もあらん、唯々頭に浮び来る事を其の儘に記す。

 回顧すれば二十有余年前、時恰も日露の風雲急なるとき遠大なる希望を抱いて海軍に身を投じ首尾よく甲種合格となり、三十七年六月一日呉海兵団に入団す。

( 昔時の新兵分隊の編成及教育は区割長一、二曹一名、教員は予備無章一水、助手は二号に一名の割、受持員数各号二十名宛にして硬教育を実施せられ現今の教育の比にあらず。)

 此の年十二月二十七日、「第二十六号観音丸」 に便乗佐世保に向ふ。 其の途次、機雷にかゝり舵機故障を生じた為戦地から帰還の途にある運送船が、「名古浦丸」 と下関海峡に於て衝突し両船とも約三、四十度の傾斜をなせるを見て、茲に初めて海上の危険を痛感せり。

 二十九日午前佐世保に入港。 次いで 「富士」 に乗艦、直に入渠、艦の状況作業不明のため徒らに焦慮するのみにて其の心労一方ならず。 かくして午後愈配置は決した。 第三分隊の八番八糎砲に而も砲員に配置されたことは無上の喜びであった。

 常時の艦長は大佐松本和 (7期) 、副長中佐土師勘四郎 (20期) 、分隊長中尉松本匠 (27期) 、分隊士少尉平本栄 (平山? 31期) 、砲台附兼先任下士官一曹木藤源太 (綽名が鬼源太)、砲長一水菅原文吉であつた。

 午後四時頃なりしならん、新乗艦者は四番砲廓ケースメートに集合を命ぜられた。 木藤先任下士官日く 「本日貴様等が乗艦するため開戦以来数次の戦闘に参加したる勇士を涙をのんで退艦せしめたのである。 只今より貴様等は本日退艦したるもの同様に働け。 艦の様子が判るまで上陸禁止」 と。

 越えて三八年二月八日、佐世保抜錨鎮海に向け回航。 日課は日曜、祭日の区別なく、航泊を問はず、殆んど毎日の様に合戦準備、戦闘教練、内筒砲射撃、装填教練、小口径砲員は十五糎砲以上の弾薬運搬及伝令等に日も尚足らざるの有様であった。

 四五日後石炭船 (運送船) が横付けられ載炭作業があった。 我々兵員にこの載炭が最も困難とする所である。 英炭なるが為に全身は真黒となる。 漸く積み込み終れば未だ顔も洗はざるに最早何直哨兵交替用意の令がかゝる。 粉炭まみれの事業服その健に外套を着用哨兵配置につく。

 斯くの如き訓練を繰り返し繰り返し待つ中、三月、四月と過ぎ敵は漸次近付いて来た。

 上は艦長より下は吾々に至るまで烈しい訓練にその身はへとへとに、それこそ文字通り綿の如く疲れ乍らも、其の心中には偉大なる希望の光を輝かして居たのである。

 夜更けて哨兵が水の如き月光を浴びつつ佇めるも、ただただ皇国へ御奉公の一念あるのみ。 砲に一点の曇りもなく、故郷の老いたる父母より吾が子可愛さに真心こめて送り来りし御守札も我が身よりも砲が大切と砲架に結び付けられ、筒中は銀色に輝いて八糎砲ながらも 「怨敵御参なれ」 と言はぬ許りに装填を待うてゐる。 上下には一点の蟠もなく士気はいやが上にも充溢して居た。

 三月中旬頃より清津方面に上陸すべき陸軍を載せたる運送船は鎮海湾に集合。 其の数二十余隻となり、三月二十四日運送船は順次抜錨単縦陣を制りつゝ登舷礼式を行ひ出港。 我が第一戦隊は之を護衛して清津に向ふ。

 当時清津方面は降雪甚だしく、山谷の積雪白皚々たり。 碇泊後掃海終つて陸軍は直ちに揚陸を開始した。 「日進」、「春日」 は此の地に碇泊、「三笠」、「敷島」、「富士」、「朝日」 の四艦は浦塩港外に至り威嚇砲撃をなしたれども、敵方よりは梨の礫の音沙汰もなし。 斯くて第一戦隊は此の任務を路へて鎮海に帰港す。

 是れより先、露国は大小三十八隻より成る艦隊を編制しロヂエストウエンスキー中将長官として之を統べ、本国を出発し印度洋を経て我が台湾の南方に近付いて来たとの報あり、我が軍の一部は哨戒に従事し主力は鎮海湾にありて来敵を待つて居た。

 五月二十六日第一、第二艦隊は出動当目は甚しき荒天なるにも係らず堂々艦隊運動を施行せられた。 碇泊後直ちに運送船を横付けし載炭す波浪高さため本艦と運送船との防索切断危険此の上なかりき。

 炭庫満載はもとより上甲板にも所せまきまで載炭し運送船横付け離し方、水雷防禦網入れ方、哨兵配備等と目まぐるしき袖に五月二十六日の夜は過ぎ明くれば、二十七日吾々の永へに記念すべき日本海海戦の当日となった。
(続く)


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2012年02月17日

日露海戦懐旧談 (44)

海軍機関特務中尉 沖  四 市

日露戦争懐旧録 (承前)


 放順口に封鎖されて居る敵東洋艦隊は我艦隊の隙を伺ひ浦塩艦隊と併合せんことを企画し、浦塩艦隊は当時の濃霧期を利用し常に日本海に出没、我が上村艦隊を苦境に陥らしめたが、遂に八月十日の黄海海戦及八月十四日蔚山沖海戦となるに至れり。

 「初瀬」、「八島」 爆沈後 「日進」、「春日」 は第一戦隊に編入され旅順封鎖任務に当れり。 殊に当時両艦の主砲は遠距離砲として重要され、封鎖中昼間は本隊に分れ旅順沿岸近くに進み、最大仰角を以て間接射撃を行び敵を威嚇す。

 八月十日も早朝常の如く旅順沖合に来り、本隊と分れ両艦は十二節の速力を以て旅順口陸岸近くに航行例により間接射撃と思ひしに、何時迄経るも射撃せず。 暫くして敵は港内に於て出動を準備するものゝ如く数條の煤煙立ち昇り、既に敵艦 「ツエザリウヰツチ」 は港外に表れたる。

 「三笠」 よりは両艦に宛て至急本隊に合せよとの信号あり。 予め用意の全力汽醸高速カを以て午前九時頃本隊に急行す。 本日は波静かなれども淡霧あり、視界漠然とした而かも真夏の蒸暑い天候で、殊に戦闘準備を為したる事とて機械室上部の天窓は全閉され、通風装置不完全にして力量微弱なる通風電動機及ベンチレーター通風筒に依り換気するのみなれば、室内温度一二〇度以上に達せるものと記憶す。

 時々呼吸の苦しさ時は主機械曲肱腕の煽り風を利用し、室内には殆んど中腰になり、時には海水を頭より浴びつゝ擦熟の憂ある各滑動部を手にて触れ又は注油しつゝ、今日こそ機関全能発揮に遺憾なからしめ日頃訓練の効果を現はさんと満身の努力を尽したのである。

 昼食は此の高温度の機械室で握り飯と梅干にて、正月より外に見ない白飯を油手にて食した。 其の美味さ今尚ほ頭に浮ぶ。

 未だ火蓋を切らないので上甲板に上り彼我の模様を見れば、敵は戦艦六隻、巡洋艦四隻、駆逐艦数隻、皆戦闘旗を翻して東北方向へ約十五節の速力を以て急航、勢力は我と殆ど伯仲せるものゝ如し。

 戦術の事は批評の限りにあらねど、是の戦争中我が艦隊は常に太陽を非戦闘側に負ひ、敵は戦闘側に光線を受けて戦った事は如何なる操縦の妙用により斯くの如き陣形を得たものか、少くとも此の点に関しては有利の対勢を得たものと素人考へにも合点せり。

 零時四十分戦端は開かれ午後二時半一時休戦、夫れ迄の戦に於ては彼我共に著しき損害なかりしも、午後六時頃より再び砲戦を開始し戦闘速力十五、六節、我が東郷司令長官には何か一大決心ありたるものと聞く。

 機関長入澤機関中監機械室にあり汽醸運転の指揮を司る。 本艦は第五番艦なるため艦橋より絶えず速力変更及敵艦隊の状況、彼我の戦闘距離等伝令あり。

 接戦酣となる頃は距離五千米より三千五百米まで近づき乱射乱撃、各砲側には薬莢の打穀小山を築く。 僅か一時間を越えざるに彼我の損害甚しく、旗艦 「三笠」 及六番艦 「日進」 を主とし各艦に敵弾命中し相当なる損害を蒙りたるも、未だ陣形乱るゝことなく依然として単縦陣を作り迫撃す。

 敵は我が砲撃により甚だしき損害を蒙り、旗艦 「ツエザリウヰツチ」 は司令長官参謀長即死し、殊に舵機を破壊されて針路を転じ、之が為各艦陣形を乱し四分五裂となる。 此の時午後七時過ぎなり。 敵は死力を尽して遁走せんとす。

 既に日は没し我が駆逐隊に夜襲の命下る。 我が艦隊にも相当命中弾を蒙りしと雖も何れも重要部を外れ、殊に幹部の死傷は司会官旗艦に一、二あれども、艦の行動作戦に影響なく、彼の暑熱に際し機関の故障故損なく乗員一同の士気は益々旺盛なりき。

 此れは唯作戦計画の適良と常時の熱烈なる訓練とに因るのみならず、何か眼に見えぬ偉大なる力の導きに依るならん。

 本艦に於ても敵弾数発を蒙りたるも、二番六吋砲々身切断されたのみ。 其の他は後甲板士官室、機械室通風筒破壊位にて、総て重要部を外れ死傷者僅か四名に過ぎず、何んと云ふ幸運であらう。

 我が帝国は神代ながらの血の流れが結晶したる国民で、殊に皇統連綿たる皇室を戴きたる大和民族は偉大なる力と国体擁護の紳仏の加護に依る者と信ずるのである。
(続く)


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2012年02月09日

日露海戦懐旧談 (43)

海軍機関特務中尉 沖  四 市

日露戦争懐旧録 (承前)

 惟ふに海戦ではいざ開戦と在り砲火を交ふれば僅か数時間にして勝敗は決るのであるが、其の時前に於ける作戦と兵員訓練如何により戦闘の勝負は決せられるのである。

 当時艦隊は未明に至れば旅順口に近く肉眼にて見得る位置迄進みて警戒し、夕方より微速カにて沖合に去るのを例とした。 是れは夜中敵の騙逐艦襲撃を避けるものにして、昼夜共毎日同じ行動を繰り返し数ヶ月間投錨したる事なく、時々御用船を横付けして洋上にて清水糧食石炭の搭載を行ふ。

 此れが乗員の楽しみであり、苦しみであった。 夫れは、日常の兵食はビスケット缶詰が主とされ、野菜魚類は御用船来航なくば味ふ事が出来ぬので乗員は首を長くして御用船の来るのを待ち、内地よりの通信及新鮮の副食物は譬へ難き愉快を与へられたのである。

 然し一方では其の都度英炭の叺久を満載するのであるから随分困難もあったが、度重在るに徒ひ漸次巧者になると同時に作業も早く行はれる様になった。

 黄海は大概浪高く御用船横付けに危険も件うたのでありますが、此の作業には艦員一同分秒を争ひ早く本艦上甲板に積み込む事に満身の努力を払ったのである。

 之が英炭の極めて乾燥したもので其の粉末にて炭庫内作業の困難は呼吸さへ出来ぬ。 戦争で倒れるよりも寧ろ石炭庫内及罐前で倒れる者が機関部員では多かった。

 尚封鎖中昼間旅順沖にて事なければ漂泊し、主機械滑動部調整及増締を時機のある毎に行ったものである。 之れが矢はり航海状態から機械を停止し直後施行されるのであるから室内温度一〇〇度以上の所、而かも六、七キロの大槌をふるのであるから屡々目まいがして倒れる者あり。 倒れた者には海水を頭より濯いで介抱したものです。

 偖て戦争といへば何時でも日本軍は連戦連勝であったかの如く感するものが多いが決して左にあらず、日露戦争に於ても幾度か苦戦苦境に陥り又惨憺たる浮目に遇ひ、将来我が国は如何に成り行くかと不安の念に馳られた事が海陸軍共幾度かあったのである。

 今海軍の一例を揚ぐれば、時は明治三十七年五月十五日、我が第三戦隊旅順口封鎖任務より根拠地に帰還途中、午後五時頃第一戦隊 「初瀬」、「八島」 は敵の機雷に罹り 「初瀬」 は直ちに爆沈、「八島」 は僚艦により救助中なる悲報に接し、艦内至る所憂色暗憺さなきだに、厳重なる哨戒の下に憂欝な無燈航行で航海中僚艦が敵の魔手に倒されたる報に接しては尚一層の恐怖心と敵愾心は沸然として起り、見張り哨戒は令せずして峻厳の度を加ふ。

 時は同日午後十一時半、自分の眼を覚まして正子より午前四時に至る機械室当直に着く為ビスケットと砂糖の夜食を済まし (戦役中は釣床に安眠する事能はず中下甲板に帆布を戴き、各自携持毛布を着てゴロ寝に過ぎず) 前当直者よりの引継を得、午後十一時四十五分交代。

 例により吸鍔式三段膨脹機械 (右舷) 中圧の所迄来り今や曲肱に触れて検せんとする刹那、俄然大音響と共に振動あり。 通信器は機械停止の指標を示す。 又しても敵の機械水雷かと思はず声を発す。 「艦底を見よ」、「排水準備をなせ」 と当直機関官令す。 速力通信器は後進全速を示す。 時に零時十分過。

 茲に於て痛切に感じたるは、吾々は時と処を問はず事あるときは戦闘配置に就くは当然なり。 然るに一、二人上甲板に馳け上りたるものありと聞く、誠に慨はし。 中には下甲板に眠れる非番直員、時を移さず機雷よと襦袢の儘飛び下り排水喞筒の準備をなせり。

     事なくは何のそのことあらはれて
                   人の心のおくぞ知らるゝ

 機械停止、投錨、探海燈使用。 始めて 「吉野」 と衝突なること判明す。 嗚呼哀れなるかな 「吉野」 は沈没す。

 乗員の大部は艦と運命を共にし、一部は各艦に収容、或一部は急流の為め押し洗され救助も意の如くならず。 当夜は濃霧深くして一寸先は闇黒なり、探海燈の光も唯舷側を照すのみ可なり。

 風波あり、上甲板は戦闘準備完成し重要の個所は釣床にて包囲し、尚ホーサーを以てコントレッドを作ってあった為短艇も容易に卸す事能はず、漸くにして救助艇を卸すことを得たるも濃霧と急流風波の為め本艦に漕ぎ寄するに数時間を要し、為めに僅かの人命を救助し得たるに過ぎず。 本艦の舷側には縄梯子及索を垂れ、洗されて来る者を救ふ一助とす。

 何と云ふ海軍の危日であらう。 神仏に見放されたのか、斯くの如く重ね々々の不幸悲惨事に乗員一同憂に鎖され艦内は寂として声なし。 密かに思ふ、我々の責任は一層重大にして前途益々多難であると。
(続く)


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2012年02月07日

日露海戦懐旧談 (42)

海軍機関特務中尉 沖  四 市

日露戦争懐旧録

 軍艦 「春日」 ! 鳴呼懐へば、懐かしき軍艦 「春日」、二十三年の昔、日露戦争には小官一等機関兵として乗組み、三等機関兵曹に進級し、爾来機関部員として戦争中永く運命を共にした軍艦 「春日」 !

 日露の風雲急を告げた当時伊国ゼノア、「アンサルド」 会社にて建造のアルゼンチン国 「アルゼン」、「タイン」 即ち 「日進」、「春日」 の二隻、危く敵国の手に移らんとしたものを、駐英公使及英、仏、伊の駐在武官監督官等の闇中飛躍により終に我が有に来した歴史ある軍艦で、而も戦役中、常に第一線に活躍し武勲を奏したので、国民に忘るゝ事の出来ない深い印衆を与へたからである。

 尤も本艦は未成艦の儘回航したので途中種々困難に遇ひ、殊に機関部回航員は主として印度人を使役した関係上、二月十六日横須賀に到着した時の有様は中、下甲板は石炭の粉末渦高く足を踏み込む事さえ出来ない。

 殊に下甲板機械室の上にあるチリオン喞筒の如きは粉炭を掻き分け此虞にも機械らしきものがあると云って発見した様な始末で、艦内到る処缶詰の穀、パンの残片、空瓶等実に目も当てられぬ乱雑振りであった。

 然し一方戦端は開かれ、仁川に旅順口外に海戦の幕は切って落され、号外は頻に其の情報を伝へるときであるから、乗組員は緊張して昼夜の分ちなく艦内の整理作業に全カを尽す、工廠よりは造機、造船、兵器の職工来りて一日も早く完成する様努力した。

 間もなく呉に回航主として兵器の修理及弾薬、燃料、糧食其の他の軍需品を満載し、不用品は全部陸揚して茲に臨戦準備も完整した。

 其の間乗員は大車輪の活動、殊に機械室には長途の同航中、各滑動部の手入がしてなかった為め摩耗摩損の箇所甚だ多く高速力発揮に懸念されたので、機械部分隊長、野口大機関士 (興国) を始め、機械部員は団結して出征後萬遺算なきを期するための準備として自発的に上陸を止め、昼夜兼行不良箇所全部を完成した。

 素より本艦乗員は横須賀各学校から解散せる教員練習生が主として定員になったのであるから、勿論各所轄の兵員混乗して居たのである。

 本艦の従軍は少し後れて慥か三十七年四月九日我が聯合艦隊の根拠地、裏長山列島に到着した様に記憶して居ります。 防材を廻らした湾内に旗艦 「三笠」 が檣頭高く中将旗を翻したる英姿は今尚脳裡に深く残って居り、此の広い湾内に第一、第三戦隊及駆逐艦、御用船、特務艦が処狭い程碇泊して居る。

 私共は軍艦と云へば白色塗と考へて居たのでありますが、一年計りの陸上勤務 (今の機関学校練習科の前身たる海軍機関術練習所) より飛び出したのであるから、艦体全部の鼠色を見て如何にも戦争気分の漲りとも申しませうか、勇気横溢の感がした。

 内地に居た時出征を希うた本望は斯くの如くして達したのであるが、今は早や敵と出合って砲火を交へる時が待ち遠くて堪へられなくなりました。

 愈々聯合艦隊は根拠地抜錨、旅順に向ふ日が来た。 第一戦隊旗艦 「三笠」 を先頭に 「初瀬」、「朝日」、「富士」、「八島」、「敷島」 及び第三戦隊 「高砂」、「吉野」、「春日」、「日進」、駆逐艦を率いて威風堂々黄海の波を蹴て十節の原速力にて航行。

 四月十二日夕刻旅順口遥か沖合に到りし頃、駆逐艦、特務船に分れを告げる為め登舷礼式の号笛艦内に響き渡る。 何事かと上甲板に上れば、彼等は夜陰に乗じ重大任務を帯び旅順口外に向ひ出発するなりと。

 艦隊は 「三笠」 を始め全艦隊漂泊して、各艦乗員は登舷礼により見送りの位置に就く。 見送らるゝ両艦はしとしと降る春雨の中に白波切って旅順方面に消え失せた。

 本隊は微速カを以て翌十三日午前七時頃円島沖合に来り。 暫時にして敵艦隊出動せりとの喧声聞えました。 時午前九時年頃、旗艦 「ペトロパブウスク」 を先頭に敵艦隊は旅順口外に表はれ出動するものゝ如し。 我が旗艦 「三笠」 よりは戦闘速力を出し得る準備をなせの信号あり。

 各艦時を移さず、整備を報告。 我等は待ちに待ちたる初陣で、今こそ敵御参なれと艦内の同士は血湧き肉躍る。 刻一刻と今や火蓋を切るか砲声聞ゆるかと機械室にて戦闘速力の命来ると待ち兼ねて居る。

 余り長いので機関長入澤機関中監より上甲板の模様を見て来いとの伝令役を命ぜられた自分は上甲板に出て敵艦隊の方向に眼を注いだ其瞬間、一発の爆音と共に山の如き水柱立ち昇り、今迄敵旗艦の主檣に翻って居た中将旗は水煙薄らいで見れば既に其の影を没し、此の時我が艦隊の将卒は異口同音に萬歳の声を八方に挙ぐ。

 是ぞ昨夕重大任務を帯びて出発せる駆逐艦及特務船の勇敢なる活動により敵前に沈置せる機雷の奏功せるなり。

 世界海軍の名将と唱はれしマカロフ将軍も東洋艦隊司令長官に新任され、一回の戦もなさず旅順口外の海底に葬られしは、敵ながら哀悼せずには居られぬ。
(続く)


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2012年01月31日

日露海戦懐旧談 (41)

海軍特務大尉 佐 竹 玉 吉

   三、五月二十八日の降伏艦

 翌二十八日には敗残の敵艦の北上するのに対し、我が艦隊は網を張って待って居た様に思はれ、敵は思ふ壷にはまって来た。 「ニコラス一世」、「アリヨール」、「アプラキシン」、「セニヤヴイン」、「イズムルド」 の五艦が夫れである。

 我が艦隊は四方に包囲した。 能く々々見れば旗琉信号が揚げられ降伏してゐる事が分って各艦から萬歳の声が揚った。

 間もなく捕獲隊員の編制が行はれ 「アリヨール」 へは 「朝日」、「春日」 から捕獲隊員が出ることになり、自分もそれに加はることが出来て 「アリヨール」 に向ふことになった。

 春日からの指揮官は中川繁丑砲術長 (19期) で約百名勇みに勇んで出発した。 行く々々配置を定められ、自分と他の戦友二人は弾薬庫巡規を命ぜられ乗艦すると直に其の配置に就いた。

 ボートが舷側に着いた時露将校は前艦橋に集合してゐたが、胸間の勲章をもぎ取り海中に投棄するのを見受けた。 祖国の辱しめを残念に感じたものと思はれた。 実に戦敗して降伏の憂き目を見る程哀れなものはないと感じられた。

 先づ弾薬庫にも別に異状なく、装薬類の出し放し等は全部海中に投棄し夫々始末を付けた。 次の自力航海に就ての艦内調査で下甲板等にも三十拇以上の貫通孔が各所にあるのを発見、水線附近のものは釣床円材等で相当に防水装置を行った。

 揚錨装置は電動式で電線がめちゃめちゃに切断せられ、各所にスパークを発してうかうか歩行も出来なかった。 艦内は乱雑極まりなく足の踏み場もない位い。 

 最も大きな損害は兵員便所と艦載水雷艇 (現在兵学校にあるもの) で、上甲板の隔壁には節分の豆撒きをした様に小弾片のあとが一面に付いて居た。

 甲板の火炎のあとは不思議に思ふ程一方から整然と燃へて行って居るのが各所にあった。 如何に下瀬火薬の威力の甚しかったか想像せられる。 之れでは上甲板に生きた者は居ない筈だと思った。

 兎に角機関員の努力で微速ながらも航海に堪へ、「浅間」、「富士」 に護られ佐世保に回航することになったが、其の夜露将校の海水弁開放漲水騒ぎ等で一方ならぬ心痛があったが、露兵自発的の労働申出等で思ひの外順調になり遂に舞鶴に回航することゝなって、翌二十九日無事入港、港務部に引渡し、回航員は陸路佐世保の各自艦に帰艦した次第である。

 茲に一言したいのは国情の異なる点で不思議に思はれた事で、同艦々長は大負傷でベットに苦悶して居られ、砲術長顔面大火傷で自室に治療して居られた。 其の他澤山の負傷者があったが、所栓快復の見込なき者には一人の附添人もなく、快復の見込ある砲術長には常に二、三人の附添人が居た。

 艦長の室は士官室の隣りで、士官の同室に出入するものを呼んで何か欲する所ある如く見えても誰も掛り合はない。 餘り気の毒に思ひ一杯の水を与へたら非常に喜ばれたのを見受けた。

 同夜艦長は遂に逝去せられ、舞鶴入港前沖合で十餘人の水葬が行はれた。 宣教師の読経、乗員一同の告別式があって吾等も全部之に列したが、此の時にはさすがに儀礼は厳正に行はれたのを感じた事である。

 余は今も日露戦役の好記念品を肌につけて持って居る。 それは出征間際に買った小型の時計である。 爾来二十四年間終始時を測って余の為めに尽して呉れる。 余も老ひ彼れも老ひたれど、日々彼を見る毎に猶当時の事を想ひ浮べて止まない。 余は常に彼の囁きを聞くの感がある。 「働け、なくなる迄働こうぞ」 と。
(続く)


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2012年01月28日

日露海戦懐旧談 (40)

海軍特務大尉 佐 竹 玉 吉

   二、日本海々戦

 黄海海戦後の約十ケ月の間練りに練り磨きに磨いた其の伎倆は実に素晴しいものであった。 併し又一方千載一遇の此の大海戦を控へて海上各種の任務に就いてゐる十ヶ月の間の敵を待つ日の永かったこと。

 脾肉の嘆をしみじみ感じた次第で、明けても暮れても内筒 ( 「月」 偏に 「唐」 ) 砲射撃と、海上の石炭積みと乾燥無味な生活であった。 併し日々の訓練作業は誰一人ずるける者もなく上下一致働いたもので、石炭積の時など分隊長自身から石炭俵を担はれたものだった。

 尤も 「日進」、「春日」 は遠距離射撃の花型艦であった為め我陸軍を悩ます敵艦を砲撃し、旅順の砲台からは亦 「日進」、「春日」 を射撃する等相当愉快な日もあったが、何しろ海洋に於ての此長時日こそ本当に大事な長い戦闘であったと思はれる。

 黄海海戦での苦しい経験と苦痛とは実に日本海海戦に振古未曾有の戦勝を得た因をなしたもので何から何せで実に遺憾なく準備は整ってゐた。 照準器にも初めて望遠鏡が取付けられ、無線電信も段々立派なものになり、信管や発射電路の改造、砲身冷却の方法等微細な注意を払って居た。

 自分は今度の戦事で決して生きて帰るとは思はないが、戦は確に勝ちだと思ふてゐた。 それは各艦ともやって居た事であるが敵の艦型を小型に書き並べて其の艦型と艦名を誰も覚えてゐた。 其の速力や武器の状態や艦齢等も知ってゐて、そうして我が伎倆の上ってゐた事を確信して居たからであらう。

 愈々開戦の当日五月二十七日、総員起床時釣床を納めに上甲板に上った時待ちに待った敵艦見ゆの信号が上ってゐた。 全艦隊直ちに出動 ( 「浅間」 は後れて出港した。 それは病院船から軽い患者を全部収容したため)、釣床で防弾装置を作るやら石炭投棄作業やら (各艦共上甲板には山なす石炭を積んで居て之を海中に捨てたのである)、十時頃には一切の準備を整へ兵員は緩くり休憩した。

 昼食の時には下士卓で揃って食事をしたが (夕食は握飯で戦闘配置で勝手に喰べた) 明日の朝は揃って喰べるかと思った。 果して一人欠けた。

 追々時間も迫るとの通知があるので肌着を新らしく着換へ身仕度して父母妻子の写真にも訣れの挨拶をして戦闘配置に就いた。

 之れより先き、我が艦隊の進路は時々変換され漸時に敵に接近しつゝある事を聞かされた。 午後になって濛気は稍々散じて展望も好くなり敵艦隊の発見を待ち焦れた。 折々濛気の内に五戦隊、六戦隊などをちらちら見受けて、速力も十五節に増された。 最早近いぞと思った。

 二時少し前有名なる 「皇国の興廃此の一戦に在り各員一層奮励努力せよ」 の信号が揚げられ頗る緊張した。

 間もなく左舷艦首に方って遠来の珍客は濛気の裏に髣髴として現はれた。 ずらりと並んだ三十余隻の大艦隊の其の雄姿は敵ながらも実に堂々たるものであった。 其の煙突は皆黄色に塗られ絶好の照準目標となった。

 気候は良し元気は充溢して居る。 前の経験で度胸は坐って居るし、誰の顔を見ても実に落付いたものであった。

 戦闘は始った。 発射の状態は至極良好調子を揃へて打出す有様は実に見事であつた。 砲台長は 「命中」、「近 (遠) 弾」 等と砲手に知らされた。 壮快とも愉快とも例へ様もない有様であった。

 時々砲眼口から敵状を見た。 開戦後約三十分で、はや敵の苦み抜いて居る様が見えて、もう占めものだと思った。 益々落ち着きは出る元気は加はる訳で気楽な愉快な戦争であった。

 而して開戦後間もない時砲塔後部の入口から我が隊の状況が見えた。 ずらりと列んだ我が艦隊の両舷に落ち来る敵弾の盛んな事、又其の有様の猛烈な事に驚いた。 其の割合に命中する弾の少ないのも不思議な様に思はれた。

 心を落付けて居ると敵弾がゴウゴウゴウ、シュツ、ピューウと様々な唸りを立てゝ聞える。 シュウと鳴るのが一番近くでゴウゴウゴウが一番遠い。 そこで考へて見た、自分に命中する弾丸には音はあるまいと。 こう考へると音の聞えるのは怖るゝに足らぬと。

 只砲眼口の隙間から見える敵艦のピカッと打出す弾丸が何だか其処から這入て来る楼に思はれる。 こうなると何んとなく心が乱れ、胸に掛けて居る御守をじっと押へて心を鎮めると又勇気が湧いて出る。 実際怖くないものは無かったであらう、自分も実は嬉しいとは思はなかった。

 敵旗艦の沈没の時等実に悲壮なもので、煙突、檣等皆打倒され火災を起した儘単艦漂流の状態で、千米計りの位置を我が艦隊が通過の時、各艦より打出す弾九の命中で黒煙に包まれ漸時射撃を中止し、消煙と共に各艦更に一斉に打出し、斯様な状態が三回計りで黒煙中に艦型は見失はれた。 ヤードなぞの浮流物に取縋って激浪にもまれつゝある敵兵を見ては実に悲惨の極みであった。

 敵乍らも実に勇敢で且つ悲壮に威じたのは、進退自由を失って将に沈没の状態にあり乍ら後部ケビン砲の十二听砲一門が緩徐なる礼砲発火の如く間断なく発火しつゝあった事で、最後の一人になるまで戦った実状とも見えて武士の最期を飾る奥床しい有様は感に堪へなかった。

 午後四時休戦の時中部甲板に出て見た。 マストの根元は蜂の巣の様になってゐた。 其処、此処に血が流れマンドレットに沢山なる肉片が喰付いてゐた。 やられたなと思った。

 聞いて見ると右舷前方のステイに命中して炸裂した三十拇の砲弾で信号甲板附近の兵員を倒し、マストを壊し、甲板をえぐり ( 「春日」 上甲板には甲板ありしため中甲板の損害を免れた) 弾片は反対舷に飛び出たものである。

 此の処で戦死者七名、重軽傷者十三名を出した。 それから数日の後にも思ひも寄らぬ所から肉片が発見された。

 一寸負傷者を見舞って見度くなって治療室に行った。 治療室では盛に荒療治が行はれつゝあった。 中に一人の戦友が真裸体で甲板をのた打廻って居た。 負傷の個所は見えなかったが、内臓をやられたものと見えて苦しみつゝも陛下の萬歳を称へてゐた。

 自分は思はず傷は見えない、しっかりせよと呼んで見た。 戦友は早く麻薬を麻薬をと言った。 苦痛から免れたいのであったらうと思ふ。 戦ひ終って見舞った時には彼の霊は安らかに昇天してゐた。
(続く)


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2012年01月23日

日露海戦懐旧談 (39)

海軍特務大尉 佐 竹 玉 吉


 私は日露戦争常時は一等兵曹で軍艦 「春日」 で戦役に徒事致しました。 明治三十七年五月十五日軍艦 「吉野」 の不幸な事件がありまして、「春日」 は損傷個所の修理のため一時呉に帰港しました。 私は其の時 (六月五日) 兵学校教員から 「春日」 に乗艦、間もなく出港、裏長山列島の根拠地に居た第一艦隊に会しました。

 当時旅順根拠地に居た敵の東洋艦隊は露国の精鋭を集めたものでありました。 旗艦の爆沈、名将マカロフ並にキール大公の戦破等其の他相当の損害は被って居たが未だ中々の勢力で、殊に我が軍でも 「初瀬」、「八島」、「吉野」 等を失ひ実は侮り難き有様でありました。

 六月二十三日に敵艦隊は全部脱出を試みましたが、我艦隊の追撃急でありました為め敵は間もなく転回して全部港内に入りました。


   一、黄海々戦

 越て八月十日黄海の海戦となりました。 当時の艦長は故加藤定吉大将、副長鈴木貫太郎大将でした。 此の戦闘は彼我の勢力殆んど伯仲して居たため仲々の大海戦で、とても日本海々戦の様に立上り三十分で勝負がついた様な愉快な戦争ではなく、一時はどうなることかと思ふ様な有様で、殊に日光直射の炎天で午後一時頃から始まって日没まで引き続き、主に左舷戦闘でありました。

 私は後部八吋砲塔左砲の一番砲手 ( 「日進」、「春日」 はアルゼンチンより購入せられたもので、各学校、練習所、等の教員が大部沢山乗艦したもので後任一曹は斯様な配置であった) でありました。 先づ此の海戦の砲塔内の状態を御話したいと思ひます。

 物事は準備が大事と云ふことは申すまでもありませんが、実際に当って見ると中々思ふ様に行かないのです。 此の日は予備品等皆下甲板の倉庫内に置きまして事ありたるとき運ぶ事にしてありました。

 凡そ十二、三発々射後から段々尾栓の開閉が困難になりました。 二番砲手は色々苦心して居ました。 それでもまた五、六発々射しましたが遂に閉鎖不能となりました。 時恰も距離は接近して四千米突以内に入り実に気が気でない。

 尾栓頭に紐状火薬の燃滓が焼け石の様に固く喰っ付く状態は日頃の教練の尾栓頭拭ひ抔では何んの役にも立ったものでなく、必ず之が禍をなし居るものと思払込んで居たのであったが、良く々々調査して見ると石綿環の一部損傷が原因でしたので、是れはいけないと 「石綿環を換へ」 をやった。

 七番砲手は倉庫に走り、塔内では直ちに分解に掛る。 やっとの事で出来上って又打ち初めたが、大事な距離は遂に遠ざかって実に々々残念に堪へなかった。

 之等も日頃予想せざる出来事で、後日の為めには実に良き参考となったのである。 或る程度の石綿環破損ならば破損の部分を切り取り火門環牝螺を緊縮して発射すれば敢て差支なきものとの経験を得たのである。

 此の日砲塔内は炎天と砲身の熱気とで百度以上にも昇ったと思はれます。 実に焦熱地獄も斯くやと思ふ計りで非常な苦しみでした。 夫でも千載一遇の戦争であるから一同勇気を出して奮励努力したのでした。

 偶に砲眼口から敵情を見れば、いつ迄やっても敵の陣形も変らないと云ふ有様。 運弾盤で弾を運び装填杖で装填するにも腕も萎える有様で、大角度の仰角になっては時々とんでもない近距離に弾丸の落ちる事もあって互に激励し合ってゐましたが、遂に敵旗艦のマストを打折り陣形乱れたるを見て、それ勝ち戦さだと一同勇気百倍し、段々と落ち付きも出て愈々精確な射撃も出来た訳である。 実に勝利は最後の五分間であるとの言葉が今以て頭の中に浸み込んでゐる次第であります。

 此の日 「春日」 に命中した敵弾は十五糎砲弾以下八発位であったと思ふ。 後部砲塔の両砲身の間から甲板を貫いて士官食器室に入り、士官室も大分損害を被って運弾員が負傷しました。

 此の敵弾の来た時バチンと云ふ様な音がして甲板を木片が飛散したのが砲眼口から見えました。 先づ第一発が来たなと思うと、それから大いに心が落付いた様に感じた。 所謂敵弾の洗礼を受けた次第である。

 戦闘中止の時中部甲板に出て見たら、艦橋通路附近にあった端艇用の浮標が敵弾の為に打揚げられマストの中腹に引掛ってゐた。 艦内誰言ふとなく 「武威」 を揚げたと云ふ洒落で持切った。

 つまらぬ事の様ではあるが、かゝる場合のことゝて如何にも武威を発揚する前兆とも思ほれて嬉しかった。 次の接戦には必らず大勝利と勇み立った次第で、果して近距離の戦闘となり敵は大混乱に陥って大勝利を奏した訳であった。
(続く)


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2012年01月12日

日露海戦懐旧談 (38)

海軍軍楽特務中尉 河 合 太 郎

祖国を守れ

 日本海海戦当時旗艦 「三笠」 の前部砲塔伝令員であった。

 私には今尚ほ髣髴として目前に見る心地のする事が沢山ある。 其れは水平線上に見え始めた敵艦無数の煤煙、皇国興敗の信号、沈み行く敵艦、砲煙中の旭日旗、夕陽の中の追撃、敵艦の捕獲、捕虜となった敵将の来艦、死に行く兵員の萬歳等恰も絵巻物を広げた様に限りないが、最も深い印象として忘れられないものは戦の首途に於て対馬海峡上勇ましくも又悲壮なる艦長の訓示であった。

 五月二十七日の朝 「敵の大艦隊対馬海峡を通過せんとす、全艦隊直ちに出動せよ」 と云ふ命命が出た。 何んといふ嬉しい命令だろう。 満載して居た石炭を惜しげもなく海に捨てゝ艦足を軽めつゝ対馬海峡へと向った。

 「敷島」、「富士」、「朝日」 以下帝国艦隊の精鋭ずらりと単縦陣に並んで波を蹴る勇ましさ、旭日旗燦として、威風堂々敵を圧するものがあった。

 全員の身体には褌に至るまで新らしいものが着け換へられた。 原籍と戦闘配置を記した木札を肩から脇に掛け、少量の毛髪と爪とを手箱に納めた。 言はば戦に臨む覚悟と晴衣が出来上った。

 天気は晴朗なれど浪の高い対馬海峡を南下しつゝあったが、丁度正午頃 「総員後甲板に集合」 と云ふ号令が出た。 一同最後の告別と感じ異様の緊張で集合した。

 伊地知艦長は一段高い所から、「一同に訓示する」 と其の顔にも既に決死の色が見える 、、、 しばらく無言 、、、 艦は怒涛に揺られ波は上甲板をかすめる。 咳一つするものがない。 決死の将卒は踏みしめる足にも既に敵を呑むの概があった。 艦長は軈て声を新にして

 「 諸子も既に知って居る様に一、二時間の後には愈々バルチック艦隊と雌雄を決せんとするのである。 吾等は今日あらんが為めに困苦欠乏臥薪嘗胆を久しうして居た。 明けても暮れても根拠地で訓練ばかりして居たが其の手練を示す時が今来たのである。

 敵艦隊は吾に比し有力である。 然し我々には祖先伝来の大和魂がある。 如何にしても敵艦隊を全滅しなくてはならない。 殊に我が 「三笠」 は数隻を引き受けなければならない。 其の責任の甚だ大なると共に此の上ない名誉である。

 畏くも 陛下は吾等を股肱と仰せられ国民は吾等に信頼して居る吾等にして万一不覚を取ることがあるとしたら、 上陛下に対し奉り、下国民に対して何の面目があるであらう。

 祖先伝来汚された事のない我が帝国である。 祖国を守れ 、、、 墳墓の地を守れ 、、、 一死報国己が本分に全力を尽くして貰ひたい。」

 艦長の眼には熱い涙が滲んで居る。 誰一人として感涙せぬ者はない。 艦長は更に声を大にして

 「 本日諸士の命は本職が貰ったから左様承知ありたい。 本職も亦諸士と生死を共にする。 吾々は今こそ本分を尽くして大御心を安じ奉り、祖先の霊に対へる時である。

 今より遥かに聖壽の無窮を祈り、帝国の隆盛と戦の首途を祝すべく諸士と共に帝国海軍の萬歳を三唱したい。」

 「 天皇陛下萬歳! 大日本帝国萬裁! 帝国海軍萬歳!」

 喉も裂けよと祖国に向って最後の訣別をした。 泣かぬ者は一人もない。 悲しいのではない。 嬉しいのでもない。 只名状し難い一種異様の涙であった。 松村副長は一歩を進めて艦長に向ひ

 「 御訓示身にしみました。 吾等一同は粉骨砕身、決して敵に敗けない事を誓ひます。 艦長は実に吾等の生命であり吾等の士気を握られる大切な御身体でありますから、自重自愛御武運の長久を祈りせす。 我等は只今より艦長の武運を祈るべく一同と共に艦長の萬歳を三唱致します。」

 「 「三笠」 艦長萬歳! 萬裁! 萬歳!」

 熱烈な声は天地も裂けむばかり大海原に響き渡った。

 古今に稀な日本海海戦の大勝利は素より御稜威に因るものではあるけれど、此の決心が全艦隊の将卒にあったからだと私は信じて居る。 私は日本海海戦の記念日にはいつも此の訓示を思ひ浮べて精神教育の一端にして居るのであります。
(続く)


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2012年01月07日

日露海戦懐旧談 (37)

海軍特務中尉 上 田 安 治

 私に何か戦争の思出を話せと云ふことでありましたが、私は漸く十二听砲の一番 (今の射手) でありました。 艦は第三艦隊の第五戦隊 「橋立」 で、帯に短したすきに長しとでも云ひたい使い道の少ない足の遅い攻防共に薄弱なものでありましたから、合戦と云ふ花々敷場面へ臨みません処へ、私は旅順開城後一時帰朝しました時砲術練習所が再開始になりまして練習生になりましたので、八月十日の海戦に取残の数隻の敵と交戦を致しました丈けでありますから面白い話もありせせん。

 何しろ十二听砲では如何に距離が近くても効力は殆どありません。 私は十七発程発射しましたが、二発位は命中した様に思ひました。 指揮法等も今から見ますと御話になりません。 只指揮する人は目標の敵艦と距離を示す丈けで、横尺なぞは示さんのであります。 横尺は射手が自分の判断で整へるのでありました (判断と申しましても練習所で敵速と角度に依り公式的のものを教授を受けました)。

 私の配置が艦橋直下でありましたから敵の状況も良く見えましたし、又艦橋の話もよく聞えました。

 四時頃と思払ますが、参謀が司令官に 「今少し近寄りませう」 と申しましたが、司令官は 「いや本隊の邪魔になるから不可」 と申されました。 成程自艦許りのことには行かぬものだと思ひました。

 其れから一時間以上も過ぎましてから司令官がもう少し近寄ると云はるゝのを聞きましたから、又射てると思ひましたが距離が遠いので副砲以下は発射しません。

 三十二糎を二、三発発射しまして一発は爆煙を挙げて敵艦を覆ひ要したので、艦長始め拍手をして喜びました。 其れで砲戦はやめになりました。

 此の時の合戦に下甲板十二珊砲射手の一人が発射するとき、右足の位置が悪ったゝめ砲の退却の時膝に当ったので撃たれたと思ひ 「やられた ・・・・ 」 と倒れたと云ふ滑稽もありました。

 又開戦以前から敵の艦形から要目を全部各砲の而も射手の見易い所に列記してありましたので、兵員は皆要目即ち敵の力量を知って居るのであり、皆落付いて居た様に思ひました。

 其の後は封鎖任務でありますから旅順の沖に許り居りました。

 其の頃から強行偵察として、戦艦の艦載水雷艇に各艦から交互に艇員を選抜して機雷を搭載して港口に接近し、偵察並びに沈置を実施されましたので、十月下旬に私も二回従事しました。

 艇員としては下士官一名 (操舵員)、掌水雷兵一名、掌砲兵一名 (四十七耗砲があるので) 指揮一名と機関部員であります。 機雷は六個積んで行きました。 出港するときには登舷礼式で送られ中々壮快でありました。

 港口近くなりますと煙突を倒し成るべく波を立てぬ様前進します。 私は掌砲兵でありましたから艇首の艇砲に就て居りましたが、第一回には何事もなく帰りました。

 第二回目にも同じ要領で出て行きましたが、港口近くなりますと黄金山の探照燈に照され光芒の真中に入りました。 皆一様にやられたと云ふ感じが致しましたが、其の中に他方に旋回しましたので無事に任務を果して帰艦致しました。

 第三回目に本艦から出ました人達は艇諸共行方不明になりまして、戦争が済んだ時に戦死と云ふことになりました。 皆私共より先輩の人許りでありました。

 又其の頃は浮流水雷を一個発見するか或は強行偵察に一回行きますと直ちに特別善行章を授与されるので、浮流水雷を発見しますと善行章が流れて居ると云ふ様な戯談が流行しました。

 つまらない御話を申し上げましたが、此れ位で御許しを願って置きます。
(続く)


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2012年01月03日

日露戦争懐旧談 (36)

海軍主計特務大尉  古 林 忠 次

   一、戦争は恐くない

 私は二等下士官で 「浅間」 の先任筆記であった。 開戦前明治三十六年秋の頃呉を出て舞鶴方面に巡航した。 其の時艦長は 「未だ開戦とはなって居ないが何時露国の艦隊に襲撃されるかも知れぬ。 何時襲撃されても猿狽しない様に準備を整へて置け」 と云ふことを達せられた。 軍艦に乗って居るものも既にかくの如くで、一国挙つて既に開戦の已むなきことは皆覚悟をして居った。

 三十七年となってから艦隊は佐世保に集合したが、石炭も糧食も満載して教練等に出勒するときでも戦争が始ったのではないかと思はれることが度々あった。 又遺言書を認める様命ぜられたが、何を書いて良いか考へがつかぬ。 同僚と相談して書いた。 何んでも同僚は 「死後の総ての権利義務は父親に任す」 と云ふことを書いた。 妻もなければ子供もなく財産とてもない身には何にも書くことがないのには閉口した。

 頭髪や爪を紙に包みて、写真と共に之れも分隊長に出した。 写真は佐世保で撮ったが写真屋は大変な繁昌で門前市をなす有様。 平和克復後、写真は鎮守府から皆返して貰ったが、私は今に持って居る。

 こんな次第であるから国許の一家一族は大変に心配して戦争になれば直ぐに戦死でもするものとでも考へられるのか、神仏に祈願して沢山のお守りを送って来た。 安心な様な心配の様な気持ちとならざるを得なかった。 然るに愈々戦争となってからは恐いと思ふ様な事は皆無で面白い一方であった。 不都合ではあるが、私は戦争が長く続けば良いと思った。

 三十七年二月六日朝、私は主計長と共に金庫へ金を受取りに行った。 波止場に帰って見ると艦隊は朝から出港して港内は淋しくなって居る。 「浅間」 は一番後から出港した。

 港外に出ると艦長は総員を集めて、愈々露国と開戦、第一艦隊は旅順の敵艦を襲撃するの命を承け、我が 「浅間」 は第三戦隊 「浪速」 などと共に仁川に向ふ。 仁川には 「ワリヤーグ」、「コレーツ」 の二隻が居る。 これを撃破して陸兵三千を揚陸さす任務を有す。 陸軍運送船三隻は港外で待って居るとの事であった。

 出港迄は或は開戦するのではないかと思はれぬ事もなかったが、何時もの出港と余り変りがないのに此の御達しは実に若人の血を湧き立てしめた。

 仁川の戦には敵艦二隻は健けにも錨地を出て戦ったが、間もなく錨地に引き返へし遂に二艦共自分から爆破して終りを告げた。

 吾軍は一兵をも損せず 「浅間」 はかすり傷一つも負はずに、二艦を葬って仕舞った。 此れが私の戦争の手始めである。 恐くないのも無理はない、此の印象が戦争の終りまで続いたからである。

 戦争は進展して 「金州丸」 の撃沈、「龍田」 の遭難、「初瀕」、「八島」 の沈没等不詳事は続いたが恐れたからと云って禍を転じて幸とする事は出来ぬ。 御国に捧げた身命は恐るべきでない。


   二、己の手当は後でよい

 第二回閉塞決行の時である。 「浅間」 は旅順港口近く進んで決死隊収容の任に当った。 私の戦闘配置は後部治療所である。 負傷者は幾人であったか慥には記憶しないが重傷者が数名あった。 其の内の一人は非常に苦痛を訴へて見る目も誠に気の毒であった。 駆逐艦で応急手当をするとき服も靴も帽子も剥ぎ取られてあるから士官か兵か一向に解らない。

 之等と共に正木指揮官 (注) も来られたが、軍装の儘、顔面の傷から鮮血点々悽愴の気溢れ鬼神を避けしむるの概があった。

 手島軍医長は直ちに駈け寄りで耳朶に其の儘なる弾片あるを除かんとせられしに、「己の手当は後でよい。 彼れを助けよ」 と呼ばれた。 生死の巷にありて此の一言、部下を愛するの情が溢れてゐる。 洵に吾々の為めに良き教訓である。


   三、配置を離れるな

 日本海大海戦の時である。 敵影をかすかに認むるとき戦闘配置に就かしめられた。 段々戦酣なるに及んで伝令は敵何番艦火炎、何番艦傾斜、何番艦沈没、露兵マストに鈴なりなどと伝ふ。 拱手治療室に在るは遺憾千萬である。 此の戦を見ずして終ることは出来ぬ。 上甲板に行かんとしたる者があったが手島軍医長は 「配置を離れて犬死すな」 と厳達された。 私は遂に戦争の有様を見ずして職を終った。
(続く)


(注) : 正木義太 海兵21期、第2回閉塞作戦時の第4閉塞隊 「米山丸」 指揮官、当時海軍大尉、本職は 「高砂」 砲術長、本作戦での負傷により佐世保鎮守府付となる。



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2011年12月27日

日露海戦懐旧談 (35)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   二十、敵艦護衛と本艦損所修理のため内地に帰る

 斯くして二十九日には東郷長官の破損個所検視の上本艦の露艦 「アリヨール」 を曳航して舞鶴に向ふことゝなった。

 後部下甲板以下浸水に拘らず艦長八代大佐は前部バウ、ケーブルを切断して後部砲塔に捲き露艦 「アリヨール」 曳航の準備をされしも、捕獲員の信号により八節位の速力を出し自力にて航行出来得るとの報に依り先づ一安心。

 「薄雲」 を先頭に次に 「アリヨール」、之に本艦並に敵艦の護衛として 「朝日」 が後に続き事なく三十日の午前十時頃と思ひます頃芽出度舞鶴に帰港しました。


   二十一、久し振りの握飯

 早くも内地の各地には此の大海戦の戦捷が報ぜられたるものか舞鶴軍港外まで (常時舞鶴は軍港として盛なり) 歓迎の汽艇を差向けられ、入港して見れば遥か市中は煙花を揚げ宛ら御祭の如くでありました。

 艦も一時も早く入渠せしめ船台に据えねば安心出来ぬので、入渠しある雑役船急遽引出し 「浅間」 を入れたのです。

 偖て二十七日以来完全なる食事もせぬので、入渠と同時に鎮守府命令で炊出しの大きな握飯をどしどし運ばれ一同盛に頬張ったものです。 人間が久しく常食に離れたら大人も斯く迄小供らしくなるものかと心恥かしく御座居ました。


   二十二、戦捷後初めての上陸と捕虜収容

 其の日半舷上陸。 地上に足の着くのを知らぬ程雀躍して上陸、到る処で大賑ひ大勝の催物あり、其の日は千載一遇の記念の日として各自郷里へ向け舞鶴への無事帰港を電報した。

 遥々面会に押しかける者、舞鶴は唯二艦の入港と捕獲艦見物に入り来れる者とで其れは其れは上を下への大騒動でありました。

 露艦の捕虜をシャラン船に乗せ本艦の捕虜将校に二名の露兵も之と共に海上より宮津へ送ったものです。 当時宮津には捕虜収容所がありました。


   二十三、至急修理と跡片付

 本艦では一刻を奪うて破損個所の修理と軍需品の積み換へを急ぎつゝも乗員の半数宛上陸を許され、残員総掛りで各倉庫の諸物件を担出し昼夜兼行で働いた。

 ここに苦痛と思うたことは、三、四日の間海水の浸潤の為倉庫内が非常なる臭気を帯びてゐたことゝ、缶詰類は別として他の悉く変色腐敗、紙顔の如きは跡形もなく解けて居たること、中でも一番臭気の甚しきは革製品でとても鼻持ちならぬ程でありました。

 総員は日課手人にしてもただ食卓附近の拭掃除位に止め、夜は十時頃迄此の激務に服して軍需品を元々通り満載す。 工廠側も特に職工を督励し昼夜兼行、唯舷側外板丈けを済まして数日後には早や出港艦隊集合地に向ひ再度長官の巡視を受けしも、時期既に海戦の終局を告げんとするときとて再度構須賀に帰港の上徹底的の修理をすることになりました。
(続く)


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2011年12月23日

日露海戦懐旧談 (34)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   十六、敵艦愈々降伏す

 「砲員砲に就け」 との慌しき伝令の声に夢破られて梯子も一飛びの勢で我が砲につきますと、早や弾薬は装填され、将に発砲準備が出来て居る。 楯の後から外を眺めますと、露艦数隻白旗を揚げて居る。

 敵艦降伏と知られたれども尚厳重なる警戒の下に命を待つ。 艦橋からは決して発砲してはならぬとの艦長からの命令

 暫くすると 「敵艦捕獲員整列」 があり、短艇を卸して捕獲員出発す。


   十七、戦後の朝食

 残る砲員半数宛は朝食の飯がなくてメリケン粉と若布汁一杯に舌鼓を打って食事を済ませ、艦は漂泊のまゝ砲員の半数宛甲板を片付け装填弾薬を抜出したるは午前九時過であったらうと考へます。

 斯くして最早勝戦は決定し、敵艦四隻の他は如何なったかと古参兵に聞きますと何れも撃沈したとのことなり。

 噫! これで戦の局は結べたと思はれましたが、打続く浸水に船匠員や応急員は防水に努めて居た。 恰度我が艦隊の漂泊は本艦にとってはもっけの幸でありました。 それは速力低下の為浸水量は減じた為です。


   十八、本艦負傷者の概略

 親友二氏を初め艦員の安否を尋ねました処に同じパートの尾崎三等兵曹 (今の尾崎予備特務少尉) は踵をとられ、親友古谷四水も右踵をとられてはケビン砲員は仙波四水 (今の仙波特務少尉) 外全部が負傷、其の他知人の負傷も相当あり前後部戦時負傷者収容所を往ったり来たり、負傷者容態を心配してやる瀬なき胸を押へありしが、古谷とは永久の別れとなりました。


   十九、捕虜将校来る

 午後に至り捕獲員帰艦後甲板には朱髪の捕虜将校を迎へることになり、初めて敵将校を後甲板スクリーンバルクヘットで見た時、鳴呼! 気の毒であると思ひました。

 夕方近く駆逐艦の何かが横付して軍需品の一部を積み込んだ時、沈没敵艦よく駆逐艦が拾ったといふ露兵下士官兵三名を本艦に移すことゝなったが、其の中の一名は衰弱甚だしく間もなく死亡し、残る二名は上甲板中部に居た。

 艦長が訊ねられた処何れも露国の予備海兵にて、一人は無章二等兵曹、現に郷里には三人の子あり、敵ながら救はれし御恩は忘れぬと言って居たとの事です。

 一人は一等水兵であった。 其の濡れたる服を脱がしめ一等兵曹の服を与へられましたが (昔時二等兵曹が漸く詰襟に変った時代であったが官給品不足のため殆んど水兵服を着て居たり) 手入れの悪しき頭髪に眼光のみ鋭く、恐怖の念に慓えたる様は捕はれた鳶の如くでありました。

 未だ日本海の冷い海水に長時間漂流の疲労と救はれた安心とにがっかりした様であった。 之れに番兵を附し右舷弾薬通路に伴ひ行きたるが、中には自分の小型鏡を彼に与へて其の姿の変りしを眺めさせるものあり、又或者は酒保で食物を購ひ与へるやら伸びた髭をかってやるやら、溢るゝばかりの熱情を示したのです。
(続く)


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2011年12月15日

日露海戦懐旧談 (33)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   十四、小憩時の艦内巡硯

 「暫く時間がある」 との通報があって、砲長から艦内を一廻り見物に行けと許さる。

 先つ直後部隣の種兼君の大砲の肩当が敵弾で飛んで居る。 第二煙突のケーシングを右舷から左舷迄打抜き、其の敵弾は奇蹟にも左舷ウオーターウエーに転がって居ます。

 そして右舷後部では目も当てられぬ様。 七番三吋砲の周囲にありしハンモックマントレットのベットの裂けたのもあり、十一番砲廓外内舷には血潮が附着してゐるやら。

 後甲板はモグラの穴の如く左舷から右舷に甲板上面に近く通ってゐる弾痕幾條あるや知れぬ程であり、スタリンオークは海中に没し士官ハッチ、ケビンハッチのドアーは大破、ケビンも爆破。

 左舷水準線に二、三十吋の大孔二個、スチヤレージ全部浸水、ケビンやスチヤレージのドア−は大破し効力更になし、スチヤレージは艦動揺につれ海水が甲板に打揚ぐる様になってゐる。

 堀田中尉分隊長 (予備海軍中佐子爵堀田正路) (29期) の正装の写真が浮きつ沈みつして居ます。 其の他浸水に浮んだ諸物件が艦動揺と共に中甲板に打揚ぐるのは凄惨の極みである。

 庶務室並に士官食器室は爆破、前部燈具室は数弾を受け中孔三個、一、二番三吋砲は砲門より二発程這入つとか、艦は全体として後部に傾きラマは浮きスタルンは没して居ました。

 今まで何も知らずも我が戦闘配置に就いて居たが、斯様に敵弾が当って居やうとは少しも気付かずに居たのです。 斯く我が配置を懸命に盡す艦員なればこそ十二分に威力を発揮し得るのでありませう。

 夕日は傾き、何時艦は沈み我等も艦と共に運命を共にするやも知れぬと覚悟して居ました。

 夕食は全部誰かに奪はれ、臨時焚出しを仕様にも烹炊室では茶鍋も汁鍋も弾が当り (当時浅間はざる鍋で米をざるで蒸したものでした) 蒸鍋さへも破損して之が修理に全力を注ぎつゝあるので御座います。


   十五、飴二、三本にて夕食を済す

 米倉は御承知の通り後部最下甲板なる為め全部浸水し、小出し糧食庫も左舷から受けた敵弾のために米俵も飛散し埃混りの米が少しあるも到底乗員の粥さへ炊きかねる程であるので、ただ酒保の朝鮮飴二、三本に依って夕食を済ます。

 夜間は二直哨兵配備、他の一ケ直の水兵は後部の排水にかゝる。 滲水喞筒は不具合だしラオンドポンプは破損し、少しく速力を掛くれば舷側後部を圧する海水の強圧が内部よりチエストや毛布、ハンモック等を当てがった防水手段もコリジョンマットも何等功を奏せず、瀧つ瀬の如く奔流する様はとても御話になりませぬ。

 船匠長と掌帆兵とは必死となって防水に努めてゐる。 各部各ハッチの上にはシーヤスを立て、一廻半もあらうと思ふドラバケツを急造して之を艦外に引張り出す様な次第で、排水カの微々たる到底浸水の速さには及びませぬ。

 随って本檻は列外に出て速力を止め鬱陵島附近で殆んど漂泊同様にて防水作業に艦員全力を盡し、やっとハンドポンプを直しケビンの後部からスタルンウオークに通ずる扉を開放し之れよりホ−スを出し之を急転する。 又一方上甲板では 「張れ」、「引け」 の掛声でバケツ一杯の水でも汲み捨てんとあせりますが、他にせん術も御座いません。 疲弊と空腹とによりへとへとになりつゝも一生懸命であった。

 暫く休めと言はれて准士官室前の通路でゴロ寝したのは確か午前四時過であったろうと思ひます。
(続く)


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2011年11月30日

日露海戦懐旧談 (32)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   十三、敵は火死を免れんとマストに登る

 一番哀れなのは工作船らしき一艦が大火災を起して焔に包まれ時々上る火焔に目を据えて見て居ますと、マスト、ヤード、ガーフまで一杯敵兵が火死を免れる為挙ぢ登って居る。 やがてはマスト、ヤードが落ちる。 海中に飛び込むハンモックや木材を抱へて泳ぐものあり、又敵艦沈没のため其の渦の中に捲き込せるゝもある。

 人の事として見て居るものゝ之が反対なら如何であらうと思へば、敵ながらも哀れを催さずには居られませぬ。 思はず皆は目をうるほして居ました。

 打ち続く発射の為砲身が高熱を生ずる為、数発毎には砲底より清水を手動ポンプで注ぎ、砲身も外面から湿ったソーブで拭ひ、時々フワイヤメン (消火海水管) で水をかけたものです。

 かくて生死如何の分れ目寸秒を争ふ此の危機にも砲員挙って剛気沈着砲身冷却に努めつゝ、午後四時過迄射撃を続けました。

 勿論此の間には左舷戦闘の時には私は打殻薬莢を片付け甲板を処理して居りましたが、激しい発射のため打殻がたまり致方なくどしどし海中に投棄しました。

 段々射距離も近付き 「山之内砲員砲に付け」 の命令がありました。 それで始めて近距離に接近して居た事に気付きました。

 射撃に熱中しつゝも上甲板第二煙突のケーシングから上甲板一面蒸気の噴出したること三度、大音響の爆音を開きましたことは未だに記憶に残って居ます。

 戦闘側が右舷左舷と変るにつれ、烹炊場と鍛冶工場との間の通路から漏出する蒸気を避けつゝ戦闘側についたのであります。

 射撃中は何が何やら少しも耳に這入りませんでしたが、砲台附の生田候補生 (矢一、後ち寺島姓、32期) が 「永尾兵曹、もー五十米上げろ」 と言はれるに 「いけません私の弾は私が見て居ります、砲台長の号令通りにやります」 と、又命中弾が目につくと 「万歳! 俺の弾が当った」 と喚声を立てるなど、射撃軍紀上は如何かとも思はれるが、各砲手の自信の程が思ひ出されます。

 四時を廻つた頃 「打方待て」 の号令があり、次回発射の準備をなし各部を調査整頓に掛りました。
(続く)


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2011年10月07日

日露海戦懐旧談 (31)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   十、いざ海戦

 時も時、信号兵の慌しき旗旒信号の掲揚あり、続いて戦闘旗の展開さるゝや戦闘ラッパが鳴り響いて各員配置に付きました。

 次から次へと変り行く号令に戦況の推移を察しつゝ初めて実弾の音を聴く。 そして大砲の発射に依りて如何様な変動があるや皆目解らず、落付かざる気持で号令さるゝ通りに動作して居ましたが、距離六千幾百と号令された時楯の隙間から射腺を見れば微かに見ゆるは山なす敵艦褪せたる黄土色の太き長き怪物が我れと平行に海波を蹴って進んで居ました。

 「何んと太いものだな」 と思ひました。 それも其の筈敵と我とは形式が異り、我が艦は水上に現はるゝ目標面を小にし、敵は唯頑丈のみを旨とせる為外貌上多大の差異あるに依る。 其れを知らざる私等の目には犬を予想した眼に獅子を見るが如く感ぜられたのであります。

 本艦は未だ発射せぬに敵弾我が艦上をかすめ、近弾は跳弾と変じてリュン、リュンとうなりをたて我等が頭上をかすめますので、初めは私の身を楯に潜める様にしましたが、砲長から注意されてやっと我に返るのでありました。

 私は右舷前中部の五番砲側に居た為確実なことは云へませぬが、何んでも本檻は主隊と離れ艦尾に駆逐艦を率いて居ました。


   十一、我れ先づ一発

 右舷に 「三笠」 を見て本艦の艦首が 「三笠」 より少し前に出た位な所で先づ一発を発射しました。 その時確か取舵に過って居たと思ひます。 艦長の慌しき声で 「舵故障ハンドホイールに就け」 と叫ばれたので、中甲板応急員補作員等が人力ホイールに就いた様でした。

 吾等は懸命な時であり何時故障が復旧したか分りません。 厳めしき射撃命令は次から次へとかゝり、打つは打つは十発も打たぬ間に旗艦 「スワロー」 ( 「スワロフ」 のこと) 撃沈との艦内伝令の知らせあり、万歳の声も揚る。

 激しき射撃が続けられ不発が屡々起る、直に撃発に移る、初は左照準器の望遠鏡で打って居ました。


   十二、嶄新の兵器も可惜効無し

 海水飛沫のため照準望遠鏡の鏡面くもり到底打てぬので、望遠鏡を脱してH字型照準器で打つことにした。 如何に嶄新兵器も可惜効をなさずに終った。

 不発毎に私は電路員の中川兵曹を呼びに行けと (一) の命令。 リュン、リュンと飛び来る敵弾の中を走り廻りつゝ何れに居らるゝや皆目目当もつかぬを探し廻ってはやっと来て貰ひ、電路に短絡あるを見出しては直し又電気打方をなす。

 戦は愈々酣になり御承知の通り敵艦の火災、我が弾丸の炸裂する凄惨極まる模様、続いて船体傾きマスト折れ、幽かながら敵艦の舷窓から吹き出す火焔、さながら阿嗅叫喚其のものでありました。
(続く)


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2011年09月30日

日露海戦懐旧談 (30)

海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎

日本海海戦砲後の感想 (承前)

   九、海戦の朝

 私は釣床掛で総員より十五分前に起され、釣床を格納し終るや上甲板に上りますと両舷直は出港配置に。 残る総ては昨日まで苦心惨憺して満載せし石炭の叭積みを海中に投棄せよとの命令。 艦内は物すごき迄勇み立ちて居る。 私等も前部砲塔両舷後部に積んである石炭を海中に投棄し、中部に至り砲廓入口のものを他に移しました。

 折しも艦は平常の艦足より一層の速力を加へ、我が第二艦隊定位置に続行しました。

 総員で手早く甲板を流し洗面を急いで朝食、中甲板の拭掃除も終らぬ中に総員手足顔洗へ、最上の軍服に着換への号令下る。 戦友は言ひ交した様に嬉し涙の語合ひ。 今日この最後だ、女々しい振舞ひ断じてない様に、取り分け有延は初陣だ、何事も古参者のなす所を見て沈着剛気をもって戦ふ様との激励の言葉を受けました。

 其れより間もなく合戦準備があり、各受持ちに就いて違算なきを期する為合戦準備に物足らざる所を完成に努めました。

 程なく総員を後甲板に集合せしめられ、愈々本日は大海戦が来た必戦の自信を持つべきことゝ慎重なる用意ある様との艦長の訓示がありました。

 続て酒保貯蔵の日本酒菰冠りを上甲板中部に運び鏡を脱、柄杓を付けて各自随意に戦勝前祝ひの縁起酒を飲ましめらる。 誰一人として酩酊する者なく無言の儘顔を見合すばかり。 中には柄杓に酌みたる酒を天に捧げて勝を上天に祈るものあり。

 気早やの者は恰も四十七義士の打入の如く晒木綿で鉢巻をなす者さへありました。 過ぎし八月十日の海戦に八代艦長より令された晒木綿の合戦鉢巻とも称へられたるもので (是れは負傷の場合繃帯代りに用ふ、便利あればなり)、誰しも守護神の守袋を身につけて足袋を穿ち上衣を脱ぎ、凛々しく装束したものです。 遇ふ人毎に戦の門出を祝福し不事の備へに後事を頼む。

 さて自分々々の受持に最善を盡して待ちましたものの、敵艦隊が如何に航進しあるや私等四等水兵の知るところではありません。

 恰度此の日は濛気がありて四面の視通を妨げられ、飛散る海波の飛沫と共に物凄さを加へて居ました。 此の朝東郷長官が大本営に打たれた電報 「天気晴朗なれども波高し」 とは後の世迄も名文として伝へられて居りまするが其の通りでありました。

 午前十一時に昼食をなし後片付を急ぎましたが、古参者の話に依れば、あの前檣楼に巻き上げられたるは戦闘旗なり之が開くと戦闘ラッパがなると云ふことでした。(注)

(注) : 当時の 『海軍旗章條例』 ではまだ戦闘旗の規定がありませんが、船乗りの慣習・伝統の一つとして 「大檣頭」 に戦闘旗の掲揚するものとされ、2檣艦で前後の檣楼が同じ高さ場合は後檣を大檣頭とすることとなっていました。 当時の 「浅間」 の艦型からすればそのとおりであるはずですが、もし本回想の前檣頭が正しいとすると、おそらく後檣頭に装備された無線アンテナ用ガフの為ではなかったかと考えられます。

なお、本回想にあるように戦闘旗などの掲揚は、旗甲板での通常の旗旒の格納状態のように畳んでその掲揚索で巻き止められたまま揚旗線に付けて檣頭に上げて準備しておき、戦闘開始とともに揚旗線を引いてパッと開くようにする場合がありました。 掲揚時の見栄えを良くするためで、これも船乗りの “スマートネス” の一つです。


(続く)


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