著 : 日辻常雄 (兵64期)
第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)
第5話 飛行艇かく戦えり (承前)
その9 ハワイ第二次攻撃
16年12月8日開戦第一撃のハワイ攻撃は空前の出来事であり、今や全世界に知れ渡っているが、その3か月後の17年3月4日に行われた二式大艇2機によるハワイ第二次攻撃に関しては、ごく一部のものにしか知られていない。
総航程約4千浬を飛翔して、大艇2機がなんらの護衛も受けず丸裸で、真珠湾を攻撃して帰還したという事実は数多くの教訓を産んでいる。 少なくとも航空部隊に生を受けている者ならば、この事実を頭の中に叩き込んでおいてもらいたいと思う。
第二次攻撃の計画実施者、橋爪寿夫大尉 (海兵60期) とはどんな人であったのかを知る必要がある。
(1) 橋爪大尉の人となり
一言で言うならば、飛行機乗りらしからぬ紳士であり、まさに海軍士官の模範的人物である。 飛行学生を恩賜で卒業した秀才であり、飛行艇運用に関しては海軍の権威者でもあった。
私が最初に接したのは昭和12年、候補生の航空実習時の指揮官をされていた時である。 その後16年に私が飛行艇に転向し、東港空に着任前、本隊が南洋行動中のため横浜空で待機中、新人操繰士官一同は合同で橋爪大尉の指導を受けることになった。 私にとってはこれが、私の飛行艇運用の基礎を築く重要な出発点となったのである。
当時飛行艇操縦に関しては、空技廠方式と、橋爪方式の二方式があった。 もちろん私は橋爪方式で、着実な理論的な離着水法を身につけたのである。
橋爪大尉は当初 「神川丸」 飛行士として支那事変に活躍し、艦長有馬大佐 (後の特攻提督) (正文、兵43期) の下に勤務していたが、その後両者とも揃って横浜航空隊に転勤し、飛行艇乗りとなられたのである。
昭和15年頃から、橋爪大尉は有馬司令の特別許可をうけ実戦的な訓練を続行していた。 訓練飛行中といえども、ちょっとした離島があると予報もなく島陰に着水をしたり、外洋離着水を試みる等積極的に行動し、対潜訓練時は、引き続き潜水艦相手に洋上燃料補給訓練の実施、食料を艦船から支給をうけて長時間の耐久訓練 (30時間) をやるのが常道であった。 しかもこの間克明に記録をとってその後の研究資料としていたのである。
一方、長距離行動においては飛行艇の天測航法は有名であるが、橋爪大尉は常に、指揮官、操縦員、偵察員の3名一組の同時天測で機位の精度向上に心掛けていた。
常人ではまねの出来ない努力を続ける一方、15年の夏にはわずかな休暇を利用して健全な盲腸を切りとって不安を除去し、南洋行動に万全を期する等、飛行艇の運用に関しては身命を賭して取り組んでおられたのである。 この辺に飛行艇乗りとしては大いに学ぶべきところがあると思う。
16年に二式大艇が誕生すると、当然のことながら選ばれて横須賀航空隊分隊長となり、ひたすら性能実験に専念し、海軍から大きな期待をかけられたのである。
(続く)