2012年08月08日

大空への追想 (10)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第2章 支那事変の巻 (承前)

    第1話 特設水上機母艦神川丸 (承前)

        その3 「神川丸」 に着任

 台北海軍武官府に挨拶に立ち寄ると、奇しくも緒形少将が待っておられた。 緒形武官は64期在学中の生徒隊監事であり、教え子の壮途を喜んで激励をいただいた。(注)

 5月7日高雄港着。 灰色の巨艦にギッシリと水上機を搭載し、後部マストに軍艦旗をへんぽんとなびかせながら岸壁に横着けされた 「神川丸」 は形こそ貨物船ではあるが堂々たる威容を示していた。

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( 1945年版米軍地図より当時の高雄港 )

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( 現在の高雄港  Google Earth より )

 既説のとおり川崎汽船からの徴用船であるが、川崎汽船には “神聖君国” と称する4隻の大型貨物船があった。 すなわち 「神川丸」 「聖川丸」 「君川丸」 「国川丸」 で、そのいずれも太平洋戦争では海軍徴用船となり、特設水上機母艦として活躍したのである。 「神川丸」 がその第一船として昭和12年頃から支那事変に参加していた。

 着任してみると、支那から今朝入港したところで、艦内は当直関係者のみを残し、ひっそりとしていた。 江口飛行長 (英二、兵52期) が当直将校でおられ、いろいろと歓待してくれた。 歴戦の海鷺指揮官とも思われぬやさしい紳士である。

「 みんな待っていたぞ。 今夜搭乗員会があるので、その席で飛行隊着任の紹介をやろう。」


 と言われた。 歓迎されるのは有難いが、第一撃を体験してない私には、ともかく早く戦場へ行きたい気持ちだけが先行していた。

 南支作戦中の 「神川丸」 は、月平均20回、延べ120機が出動していた。 特別の戦闘がない限り、45日ごとに補給、休養のために高雄に入港し、4日間の整備を終えて再び戦線に復帰するのが慣例となっていた。

 援蒋ルート (蒋介石に対する援助物資の流入ルート) を断ち切ることが目的であり、上海から雷州半島、海南島に及ぶ約一千浬の南支沿岸の封鎖作戦が主要任務である。

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( 原著より ) ( 細部については改めてその都度お話しします )

 このためには支那方面艦隊所属の陸戦隊による主要港湾、都市への上陸急襲作戦、陸軍部隊の進撃戦が実施されるが、これらに協力するための航空攻撃は 「神川丸」 水上機隊が一手に引き受けていたのである。

 連合艦隊水上機隊の外洋行動とは、およそ畑違いの戦闘行動であり、精神的にも肉体的にも飛行隊の労度は大きかった。 地上砲火を除き当時支那空軍の反撃がほとんどなかったことが、せめてもの気休めであったろう。

 搭乗員も乗組員も、高雄入港は戦地勤務者として唯一の楽しみとしていた。 高雄市もまた、「神川丸」 乗組員に対しては、南支の英雄として実に行き届いた歓迎をしてくれた。

 ただ初陣を目前に控えている私にとっては、獲物に飛びかかろうとしながら鷹匠に抱えられている鷹のような状態にあったと記憶している。 この気持ちだけは戦闘経験のない者には分かってもらえないであろう。
(続く)

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(注) : 原著及び 「今日の話題社」 版でも 「緒形少将」 とされています。 著者が兵学校入校時の昭和8年〜10年の生徒隊監事は 「緒方眞記」 (兵41期) ですが、本記事の昭和15年5月当時氏は 「羽黒」 艦長で、かつまだ大佐でした。 著者在校時の監事長・監事、あるいは「緒方」 「緒形」 姓を含み他に該当するような海兵出身者は見あたりませんので、詳細は不明です。


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