海軍特務少尉 古 川 甲 七
日露戦争中日本海海戦に就て
当時私は若水兵で而かも田舎の山出しで、入団する迄は海軍の事情も解らず軍艦の外形も見た事のないものでした。
卒業後軍艦 「浅間」 に乗組み、同艦は修理完成後三十七年末呉を出港、厳寒の津軽海峡、宗谷海峡の警戒に従事し、二月末召電で鎮海湾に勢揃ひし、明けても、暮れても装填砲と内筒砲射撃。
一寸暇があるかと思へば、砲側に貼付けてある敵の艦形と艦名を覚えさせられたもので、砲術長始め砲員迄が人の名を呼ぶにも敵艦名にて呼ぶと云ふ工合で、知らず知らずの内に艦型と艦名も覚えました。
其の緊張振りは到底今の平和、否、表面平和の今日に於ては想像も及ばぬことで、昼の教練の疲れも夜の哨兵の睡眠不足も一人としてこぼす者もなく、不平顔すらする者なく、今の若い下士官兵に其の頃の我々先輩の爪の垢でも煎じて呑ましたらと思ふて居ます。
百日の隠忍自重の効ありて二十七日午前四時五十分頃、丁度私は取次の当直で早起して上甲板洗方準備をして跣足になり腕をまくるや否や 「取次ぎ」 と呼ばれ、驚いて電信室に飛込むや否や大剣突 「何にをしているんだい」、、、「駈歩で当直将校へ持つて行け」
見れば紙片に 「−・ −・ −・ −・」 と同じ様な符号が連続印されてある。 これぞ哨艦「信濃丸」よりの敵艦見ゆとの暗号警報で、其の電報を始めて握つたのは、此の我輩である。
当直将校に届ける間もなく総員起し、一服する間もなく至急点火で罐前は大騒ぎ、旗艦の信号に依り続いて総艦隊出港、総員礼服即ち其の当時我々がドテラと云つて袖の長い一番上等服に着替え、褌から襦袢靴下に至るまで垢の付いた物は一物も残らず脱ぎ棄て、上から下まで新品ばかりとした。 是は負傷したとき、傷が化膿せぬ為めである。
所が有難く無いのは、我等は此の大礼服の儘で前後甲板及中部甲板に満載せられたる石炭を捨てねばならぬので、「手空き総員上甲板、石炭捨て方」 此の号令には、いさゝか面喰らはざるを得なかつた。
二、三日前の石炭補給で二十噸、三十噸と積み込んだものを今更出港して航海中に皆拾てるとは自分のものではないが惜しいなーと思つた。 然かも猶予なく皆礼服の儘で海中投棄の作業に掛つた。
而して甲板を洗ひ清め其の上へ上甲板一面に砂を撒き終つて休憩、何んの事だか薩張り判らん。 後で聞けば弾片に依る損害を少くすると、甲板の血糊其の他で辷らない様にとの細心の注意だそーな。
其の内に総員集合。 有名な尺八艦長八代六郎大佐の重苦しい口調で訓示が始った。 元来乗艦当時より艦長のお考へで頭髭と爪を状袋に入れ姓名を記入し艦長の自宅へ送り届けてあつた。 夫人は之に向ひ毎日乗員八百の武運長久を祈願せられつゝあつたと後になつて知りました。 若し萬一戦死せば之を記念に残すお考へであつたらしい。
当日の訓示の一節に、心配することは更にない筈、予ての遺言は所轄長の手元に保管しあり、愈々本日は本艦と共に艦長始め乗員一同は国に殉ずる充分なる覚悟をせよと。
夫れから各戦闘配置に秘密箱と云ふを備へてあり、戦死せば之を郷里に送り届くべく予て定めてあつたが、之に入れるべく手紙を認むるあり、琵琶を弾ずるあり。 艦長は尺八を吹奏し士気を鼓舞し、暫くして各戦闘配置に就きたる儘俗に云ふ戦争飯とて白飯の拳骨、即ち握り飯を十時半頃食事喇叭にて最後の飯とし、刻々敵艦隊に近付きつゝあり。
一時間余りの後には開戦する予定だからとて、茲に予め勝軍を祝ひ併せて士気を鼓舞する意味に於て艦長も共に軍歌を奏し終つて 陛下の萬歳を三唱し、腕を扼して敵艦に近付く。
一同雑談にふけり時を待ち居る内刻々と時は移る。 砲には装填の儘砲後にありてビスケットをかぢるものあり。 寝ころぶものあり。
(続く)