2012年02月09日

日露海戦懐旧談 (43)

海軍機関特務中尉 沖  四 市

日露戦争懐旧録 (承前)

 惟ふに海戦ではいざ開戦と在り砲火を交ふれば僅か数時間にして勝敗は決るのであるが、其の時前に於ける作戦と兵員訓練如何により戦闘の勝負は決せられるのである。

 当時艦隊は未明に至れば旅順口に近く肉眼にて見得る位置迄進みて警戒し、夕方より微速カにて沖合に去るのを例とした。 是れは夜中敵の騙逐艦襲撃を避けるものにして、昼夜共毎日同じ行動を繰り返し数ヶ月間投錨したる事なく、時々御用船を横付けして洋上にて清水糧食石炭の搭載を行ふ。

 此れが乗員の楽しみであり、苦しみであった。 夫れは、日常の兵食はビスケット缶詰が主とされ、野菜魚類は御用船来航なくば味ふ事が出来ぬので乗員は首を長くして御用船の来るのを待ち、内地よりの通信及新鮮の副食物は譬へ難き愉快を与へられたのである。

 然し一方では其の都度英炭の叺久を満載するのであるから随分困難もあったが、度重在るに徒ひ漸次巧者になると同時に作業も早く行はれる様になった。

 黄海は大概浪高く御用船横付けに危険も件うたのでありますが、此の作業には艦員一同分秒を争ひ早く本艦上甲板に積み込む事に満身の努力を払ったのである。

 之が英炭の極めて乾燥したもので其の粉末にて炭庫内作業の困難は呼吸さへ出来ぬ。 戦争で倒れるよりも寧ろ石炭庫内及罐前で倒れる者が機関部員では多かった。

 尚封鎖中昼間旅順沖にて事なければ漂泊し、主機械滑動部調整及増締を時機のある毎に行ったものである。 之れが矢はり航海状態から機械を停止し直後施行されるのであるから室内温度一〇〇度以上の所、而かも六、七キロの大槌をふるのであるから屡々目まいがして倒れる者あり。 倒れた者には海水を頭より濯いで介抱したものです。

 偖て戦争といへば何時でも日本軍は連戦連勝であったかの如く感するものが多いが決して左にあらず、日露戦争に於ても幾度か苦戦苦境に陥り又惨憺たる浮目に遇ひ、将来我が国は如何に成り行くかと不安の念に馳られた事が海陸軍共幾度かあったのである。

 今海軍の一例を揚ぐれば、時は明治三十七年五月十五日、我が第三戦隊旅順口封鎖任務より根拠地に帰還途中、午後五時頃第一戦隊 「初瀬」、「八島」 は敵の機雷に罹り 「初瀬」 は直ちに爆沈、「八島」 は僚艦により救助中なる悲報に接し、艦内至る所憂色暗憺さなきだに、厳重なる哨戒の下に憂欝な無燈航行で航海中僚艦が敵の魔手に倒されたる報に接しては尚一層の恐怖心と敵愾心は沸然として起り、見張り哨戒は令せずして峻厳の度を加ふ。

 時は同日午後十一時半、自分の眼を覚まして正子より午前四時に至る機械室当直に着く為ビスケットと砂糖の夜食を済まし (戦役中は釣床に安眠する事能はず中下甲板に帆布を戴き、各自携持毛布を着てゴロ寝に過ぎず) 前当直者よりの引継を得、午後十一時四十五分交代。

 例により吸鍔式三段膨脹機械 (右舷) 中圧の所迄来り今や曲肱に触れて検せんとする刹那、俄然大音響と共に振動あり。 通信器は機械停止の指標を示す。 又しても敵の機械水雷かと思はず声を発す。 「艦底を見よ」、「排水準備をなせ」 と当直機関官令す。 速力通信器は後進全速を示す。 時に零時十分過。

 茲に於て痛切に感じたるは、吾々は時と処を問はず事あるときは戦闘配置に就くは当然なり。 然るに一、二人上甲板に馳け上りたるものありと聞く、誠に慨はし。 中には下甲板に眠れる非番直員、時を移さず機雷よと襦袢の儘飛び下り排水喞筒の準備をなせり。

     事なくは何のそのことあらはれて
                   人の心のおくぞ知らるゝ

 機械停止、投錨、探海燈使用。 始めて 「吉野」 と衝突なること判明す。 嗚呼哀れなるかな 「吉野」 は沈没す。

 乗員の大部は艦と運命を共にし、一部は各艦に収容、或一部は急流の為め押し洗され救助も意の如くならず。 当夜は濃霧深くして一寸先は闇黒なり、探海燈の光も唯舷側を照すのみ可なり。

 風波あり、上甲板は戦闘準備完成し重要の個所は釣床にて包囲し、尚ホーサーを以てコントレッドを作ってあった為短艇も容易に卸す事能はず、漸くにして救助艇を卸すことを得たるも濃霧と急流風波の為め本艦に漕ぎ寄するに数時間を要し、為めに僅かの人命を救助し得たるに過ぎず。 本艦の舷側には縄梯子及索を垂れ、洗されて来る者を救ふ一助とす。

 何と云ふ海軍の危日であらう。 神仏に見放されたのか、斯くの如く重ね々々の不幸悲惨事に乗員一同憂に鎖され艦内は寂として声なし。 密かに思ふ、我々の責任は一層重大にして前途益々多難であると。
(続く)


posted by 桜と錨 at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)
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