2012年01月31日

日露海戦懐旧談 (41)

海軍特務大尉 佐 竹 玉 吉

   三、五月二十八日の降伏艦

 翌二十八日には敗残の敵艦の北上するのに対し、我が艦隊は網を張って待って居た様に思はれ、敵は思ふ壷にはまって来た。 「ニコラス一世」、「アリヨール」、「アプラキシン」、「セニヤヴイン」、「イズムルド」 の五艦が夫れである。

 我が艦隊は四方に包囲した。 能く々々見れば旗琉信号が揚げられ降伏してゐる事が分って各艦から萬歳の声が揚った。

 間もなく捕獲隊員の編制が行はれ 「アリヨール」 へは 「朝日」、「春日」 から捕獲隊員が出ることになり、自分もそれに加はることが出来て 「アリヨール」 に向ふことになった。

 春日からの指揮官は中川繁丑砲術長 (19期) で約百名勇みに勇んで出発した。 行く々々配置を定められ、自分と他の戦友二人は弾薬庫巡規を命ぜられ乗艦すると直に其の配置に就いた。

 ボートが舷側に着いた時露将校は前艦橋に集合してゐたが、胸間の勲章をもぎ取り海中に投棄するのを見受けた。 祖国の辱しめを残念に感じたものと思はれた。 実に戦敗して降伏の憂き目を見る程哀れなものはないと感じられた。

 先づ弾薬庫にも別に異状なく、装薬類の出し放し等は全部海中に投棄し夫々始末を付けた。 次の自力航海に就ての艦内調査で下甲板等にも三十拇以上の貫通孔が各所にあるのを発見、水線附近のものは釣床円材等で相当に防水装置を行った。

 揚錨装置は電動式で電線がめちゃめちゃに切断せられ、各所にスパークを発してうかうか歩行も出来なかった。 艦内は乱雑極まりなく足の踏み場もない位い。 

 最も大きな損害は兵員便所と艦載水雷艇 (現在兵学校にあるもの) で、上甲板の隔壁には節分の豆撒きをした様に小弾片のあとが一面に付いて居た。

 甲板の火炎のあとは不思議に思ふ程一方から整然と燃へて行って居るのが各所にあった。 如何に下瀬火薬の威力の甚しかったか想像せられる。 之れでは上甲板に生きた者は居ない筈だと思った。

 兎に角機関員の努力で微速ながらも航海に堪へ、「浅間」、「富士」 に護られ佐世保に回航することになったが、其の夜露将校の海水弁開放漲水騒ぎ等で一方ならぬ心痛があったが、露兵自発的の労働申出等で思ひの外順調になり遂に舞鶴に回航することゝなって、翌二十九日無事入港、港務部に引渡し、回航員は陸路佐世保の各自艦に帰艦した次第である。

 茲に一言したいのは国情の異なる点で不思議に思はれた事で、同艦々長は大負傷でベットに苦悶して居られ、砲術長顔面大火傷で自室に治療して居られた。 其の他澤山の負傷者があったが、所栓快復の見込なき者には一人の附添人もなく、快復の見込ある砲術長には常に二、三人の附添人が居た。

 艦長の室は士官室の隣りで、士官の同室に出入するものを呼んで何か欲する所ある如く見えても誰も掛り合はない。 餘り気の毒に思ひ一杯の水を与へたら非常に喜ばれたのを見受けた。

 同夜艦長は遂に逝去せられ、舞鶴入港前沖合で十餘人の水葬が行はれた。 宣教師の読経、乗員一同の告別式があって吾等も全部之に列したが、此の時にはさすがに儀礼は厳正に行はれたのを感じた事である。

 余は今も日露戦役の好記念品を肌につけて持って居る。 それは出征間際に買った小型の時計である。 爾来二十四年間終始時を測って余の為めに尽して呉れる。 余も老ひ彼れも老ひたれど、日々彼を見る毎に猶当時の事を想ひ浮べて止まない。 余は常に彼の囁きを聞くの感がある。 「働け、なくなる迄働こうぞ」 と。
(続く)


posted by 桜と錨 at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)
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