2012年01月28日

日露海戦懐旧談 (40)

海軍特務大尉 佐 竹 玉 吉

   二、日本海々戦

 黄海海戦後の約十ケ月の間練りに練り磨きに磨いた其の伎倆は実に素晴しいものであった。 併し又一方千載一遇の此の大海戦を控へて海上各種の任務に就いてゐる十ヶ月の間の敵を待つ日の永かったこと。

 脾肉の嘆をしみじみ感じた次第で、明けても暮れても内筒 ( 「月」 偏に 「唐」 ) 砲射撃と、海上の石炭積みと乾燥無味な生活であった。 併し日々の訓練作業は誰一人ずるける者もなく上下一致働いたもので、石炭積の時など分隊長自身から石炭俵を担はれたものだった。

 尤も 「日進」、「春日」 は遠距離射撃の花型艦であった為め我陸軍を悩ます敵艦を砲撃し、旅順の砲台からは亦 「日進」、「春日」 を射撃する等相当愉快な日もあったが、何しろ海洋に於ての此長時日こそ本当に大事な長い戦闘であったと思はれる。

 黄海海戦での苦しい経験と苦痛とは実に日本海海戦に振古未曾有の戦勝を得た因をなしたもので何から何せで実に遺憾なく準備は整ってゐた。 照準器にも初めて望遠鏡が取付けられ、無線電信も段々立派なものになり、信管や発射電路の改造、砲身冷却の方法等微細な注意を払って居た。

 自分は今度の戦事で決して生きて帰るとは思はないが、戦は確に勝ちだと思ふてゐた。 それは各艦ともやって居た事であるが敵の艦型を小型に書き並べて其の艦型と艦名を誰も覚えてゐた。 其の速力や武器の状態や艦齢等も知ってゐて、そうして我が伎倆の上ってゐた事を確信して居たからであらう。

 愈々開戦の当日五月二十七日、総員起床時釣床を納めに上甲板に上った時待ちに待った敵艦見ゆの信号が上ってゐた。 全艦隊直ちに出動 ( 「浅間」 は後れて出港した。 それは病院船から軽い患者を全部収容したため)、釣床で防弾装置を作るやら石炭投棄作業やら (各艦共上甲板には山なす石炭を積んで居て之を海中に捨てたのである)、十時頃には一切の準備を整へ兵員は緩くり休憩した。

 昼食の時には下士卓で揃って食事をしたが (夕食は握飯で戦闘配置で勝手に喰べた) 明日の朝は揃って喰べるかと思った。 果して一人欠けた。

 追々時間も迫るとの通知があるので肌着を新らしく着換へ身仕度して父母妻子の写真にも訣れの挨拶をして戦闘配置に就いた。

 之れより先き、我が艦隊の進路は時々変換され漸時に敵に接近しつゝある事を聞かされた。 午後になって濛気は稍々散じて展望も好くなり敵艦隊の発見を待ち焦れた。 折々濛気の内に五戦隊、六戦隊などをちらちら見受けて、速力も十五節に増された。 最早近いぞと思った。

 二時少し前有名なる 「皇国の興廃此の一戦に在り各員一層奮励努力せよ」 の信号が揚げられ頗る緊張した。

 間もなく左舷艦首に方って遠来の珍客は濛気の裏に髣髴として現はれた。 ずらりと並んだ三十余隻の大艦隊の其の雄姿は敵ながらも実に堂々たるものであった。 其の煙突は皆黄色に塗られ絶好の照準目標となった。

 気候は良し元気は充溢して居る。 前の経験で度胸は坐って居るし、誰の顔を見ても実に落付いたものであった。

 戦闘は始った。 発射の状態は至極良好調子を揃へて打出す有様は実に見事であつた。 砲台長は 「命中」、「近 (遠) 弾」 等と砲手に知らされた。 壮快とも愉快とも例へ様もない有様であった。

 時々砲眼口から敵状を見た。 開戦後約三十分で、はや敵の苦み抜いて居る様が見えて、もう占めものだと思った。 益々落ち着きは出る元気は加はる訳で気楽な愉快な戦争であった。

 而して開戦後間もない時砲塔後部の入口から我が隊の状況が見えた。 ずらりと列んだ我が艦隊の両舷に落ち来る敵弾の盛んな事、又其の有様の猛烈な事に驚いた。 其の割合に命中する弾の少ないのも不思議な様に思はれた。

 心を落付けて居ると敵弾がゴウゴウゴウ、シュツ、ピューウと様々な唸りを立てゝ聞える。 シュウと鳴るのが一番近くでゴウゴウゴウが一番遠い。 そこで考へて見た、自分に命中する弾丸には音はあるまいと。 こう考へると音の聞えるのは怖るゝに足らぬと。

 只砲眼口の隙間から見える敵艦のピカッと打出す弾丸が何だか其処から這入て来る楼に思はれる。 こうなると何んとなく心が乱れ、胸に掛けて居る御守をじっと押へて心を鎮めると又勇気が湧いて出る。 実際怖くないものは無かったであらう、自分も実は嬉しいとは思はなかった。

 敵旗艦の沈没の時等実に悲壮なもので、煙突、檣等皆打倒され火災を起した儘単艦漂流の状態で、千米計りの位置を我が艦隊が通過の時、各艦より打出す弾九の命中で黒煙に包まれ漸時射撃を中止し、消煙と共に各艦更に一斉に打出し、斯様な状態が三回計りで黒煙中に艦型は見失はれた。 ヤードなぞの浮流物に取縋って激浪にもまれつゝある敵兵を見ては実に悲惨の極みであった。

 敵乍らも実に勇敢で且つ悲壮に威じたのは、進退自由を失って将に沈没の状態にあり乍ら後部ケビン砲の十二听砲一門が緩徐なる礼砲発火の如く間断なく発火しつゝあった事で、最後の一人になるまで戦った実状とも見えて武士の最期を飾る奥床しい有様は感に堪へなかった。

 午後四時休戦の時中部甲板に出て見た。 マストの根元は蜂の巣の様になってゐた。 其処、此処に血が流れマンドレットに沢山なる肉片が喰付いてゐた。 やられたなと思った。

 聞いて見ると右舷前方のステイに命中して炸裂した三十拇の砲弾で信号甲板附近の兵員を倒し、マストを壊し、甲板をえぐり ( 「春日」 上甲板には甲板ありしため中甲板の損害を免れた) 弾片は反対舷に飛び出たものである。

 此の処で戦死者七名、重軽傷者十三名を出した。 それから数日の後にも思ひも寄らぬ所から肉片が発見された。

 一寸負傷者を見舞って見度くなって治療室に行った。 治療室では盛に荒療治が行はれつゝあった。 中に一人の戦友が真裸体で甲板をのた打廻って居た。 負傷の個所は見えなかったが、内臓をやられたものと見えて苦しみつゝも陛下の萬歳を称へてゐた。

 自分は思はず傷は見えない、しっかりせよと呼んで見た。 戦友は早く麻薬を麻薬をと言った。 苦痛から免れたいのであったらうと思ふ。 戦ひ終って見舞った時には彼の霊は安らかに昇天してゐた。
(続く)


posted by 桜と錨 at 12:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)
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