2012年01月03日

日露戦争懐旧談 (36)

海軍主計特務大尉  古 林 忠 次

   一、戦争は恐くない

 私は二等下士官で 「浅間」 の先任筆記であった。 開戦前明治三十六年秋の頃呉を出て舞鶴方面に巡航した。 其の時艦長は 「未だ開戦とはなって居ないが何時露国の艦隊に襲撃されるかも知れぬ。 何時襲撃されても猿狽しない様に準備を整へて置け」 と云ふことを達せられた。 軍艦に乗って居るものも既にかくの如くで、一国挙つて既に開戦の已むなきことは皆覚悟をして居った。

 三十七年となってから艦隊は佐世保に集合したが、石炭も糧食も満載して教練等に出勒するときでも戦争が始ったのではないかと思はれることが度々あった。 又遺言書を認める様命ぜられたが、何を書いて良いか考へがつかぬ。 同僚と相談して書いた。 何んでも同僚は 「死後の総ての権利義務は父親に任す」 と云ふことを書いた。 妻もなければ子供もなく財産とてもない身には何にも書くことがないのには閉口した。

 頭髪や爪を紙に包みて、写真と共に之れも分隊長に出した。 写真は佐世保で撮ったが写真屋は大変な繁昌で門前市をなす有様。 平和克復後、写真は鎮守府から皆返して貰ったが、私は今に持って居る。

 こんな次第であるから国許の一家一族は大変に心配して戦争になれば直ぐに戦死でもするものとでも考へられるのか、神仏に祈願して沢山のお守りを送って来た。 安心な様な心配の様な気持ちとならざるを得なかった。 然るに愈々戦争となってからは恐いと思ふ様な事は皆無で面白い一方であった。 不都合ではあるが、私は戦争が長く続けば良いと思った。

 三十七年二月六日朝、私は主計長と共に金庫へ金を受取りに行った。 波止場に帰って見ると艦隊は朝から出港して港内は淋しくなって居る。 「浅間」 は一番後から出港した。

 港外に出ると艦長は総員を集めて、愈々露国と開戦、第一艦隊は旅順の敵艦を襲撃するの命を承け、我が 「浅間」 は第三戦隊 「浪速」 などと共に仁川に向ふ。 仁川には 「ワリヤーグ」、「コレーツ」 の二隻が居る。 これを撃破して陸兵三千を揚陸さす任務を有す。 陸軍運送船三隻は港外で待って居るとの事であった。

 出港迄は或は開戦するのではないかと思はれぬ事もなかったが、何時もの出港と余り変りがないのに此の御達しは実に若人の血を湧き立てしめた。

 仁川の戦には敵艦二隻は健けにも錨地を出て戦ったが、間もなく錨地に引き返へし遂に二艦共自分から爆破して終りを告げた。

 吾軍は一兵をも損せず 「浅間」 はかすり傷一つも負はずに、二艦を葬って仕舞った。 此れが私の戦争の手始めである。 恐くないのも無理はない、此の印象が戦争の終りまで続いたからである。

 戦争は進展して 「金州丸」 の撃沈、「龍田」 の遭難、「初瀕」、「八島」 の沈没等不詳事は続いたが恐れたからと云って禍を転じて幸とする事は出来ぬ。 御国に捧げた身命は恐るべきでない。


   二、己の手当は後でよい

 第二回閉塞決行の時である。 「浅間」 は旅順港口近く進んで決死隊収容の任に当った。 私の戦闘配置は後部治療所である。 負傷者は幾人であったか慥には記憶しないが重傷者が数名あった。 其の内の一人は非常に苦痛を訴へて見る目も誠に気の毒であった。 駆逐艦で応急手当をするとき服も靴も帽子も剥ぎ取られてあるから士官か兵か一向に解らない。

 之等と共に正木指揮官 (注) も来られたが、軍装の儘、顔面の傷から鮮血点々悽愴の気溢れ鬼神を避けしむるの概があった。

 手島軍医長は直ちに駈け寄りで耳朶に其の儘なる弾片あるを除かんとせられしに、「己の手当は後でよい。 彼れを助けよ」 と呼ばれた。 生死の巷にありて此の一言、部下を愛するの情が溢れてゐる。 洵に吾々の為めに良き教訓である。


   三、配置を離れるな

 日本海大海戦の時である。 敵影をかすかに認むるとき戦闘配置に就かしめられた。 段々戦酣なるに及んで伝令は敵何番艦火炎、何番艦傾斜、何番艦沈没、露兵マストに鈴なりなどと伝ふ。 拱手治療室に在るは遺憾千萬である。 此の戦を見ずして終ることは出来ぬ。 上甲板に行かんとしたる者があったが手島軍医長は 「配置を離れて犬死すな」 と厳達された。 私は遂に戦争の有様を見ずして職を終った。
(続く)


(注) : 正木義太 海兵21期、第2回閉塞作戦時の第4閉塞隊 「米山丸」 指揮官、当時海軍大尉、本職は 「高砂」 砲術長、本作戦での負傷により佐世保鎮守府付となる。



posted by 桜と錨 at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/52756594
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック