海軍特務少尉 有 延 芳 太 郎
日本海海戦砲後の感想 (承前)
六、初航海と寄港地函館の事共
一月五日北海の海は何れの山も雪に被ほれて、銀世界そのものでありました。
乗員は半舷短時間の散歩上陸を許されしも、重大事を前に控へて居る事とて何をおいても艦長御命令通りの形見の写真を撮り、出港後昼夜の航海にも堪へ得る如く日用品等を先輩の人から聞いては買ひ求めたものです。
忘れませぬが、支那鞄の小さいのを買って帰ってゐる先輩の人があるに其の用法を聞きますと、今は艦内に日用品を入れる手箱さへないから此れを手箱代りにするといはれるに、私も古参者の言の通り一個買ひ求めてこれを海戦のある迄用ひました。
函館寄港は只故郷への手紙を認める位が唯一の慰安で、此れから軍港地に入る迄一回の泊り上陸なく、古き下士官も我々四等卒も同じく短時間の散歩のみ、夜間は内地何れに居るも厳重なる哨兵配備を行はれ、洋中石炭搭載は漂泊のまゝ商船横付けで英炭 (当時練炭は未だ常用して居りません) を満載するのでした。
七、初寄港地より艦隊集合時期迄何れに居たか又何うしたか
函館も四五日の碇泊で出港 (碇泊も余程沖に居て外筒砲射撃訓練、夜間は哨兵配置警戒す) (注1) 、千島諸島を巡航警備して山なす氷山大氷原を突破してその任務を遂行して居る中、氷の為めにラムより二三枚後部のアーマーが脱出して一時函館へ引き返して函館の船渠に入渠したこともあり、千島の或島では有線電信に依り発電す可くレースクリューに依り電報使を差遣した処が夜八時九時になっても帰って来ず、日没後直ちに結氷した為帰路を氷に杜絶されやっと氷上を滑らしてボートを運んだ奇談もありました。 (注2)
(注1) : 「浅間戦時日誌」 によれば、「浅間」 の函館寄港は1月5日〜1月18日で、18日に青森湾に移動、19日夜緊急出港し宗谷海峡での密航船等の監視に当たっています。
(注2) : 「浅間」 は、宗谷海峡方面の行動から一旦函館に戻った後、1月31日〜2月13日に国後方面へ行動しておりますが、本項に出てくるエピソードについては 「浅間戦時日誌」 にも記載が無く、詳細は不明です。
漂泊中艦は結氷のため一時進退の自由を失った事もあります。 又夜間は商船が無燈のまゝ航行し船名又は国籍を尋ねても応答なく過ぎ去らんとするものある為、探照燈を照射し、停船命令の空砲を発射して商船臨検を行ひ、疑はしきは拿捕し若干の廻航員を派して横須賀軍港に回航、廻航員は陸路復帰したこともありました。
当時横須賀のメス紐ステップ (注3) と云って捕獲船廻航員は横須賀土産に買って帰って親味なものに分ったものです。 又当時は漂泊のまゝ外筒砲の射撃を致しました。
(注3) : 水兵は常に作業用の折りメス (折り畳み式ナイフの一種) を携帯し、左胸ポケットに入れていましたが、これを首にかけるための紐に各自の好みがありました。 何と言っても丈夫で手触りの良いのが一番ですが、当時横須賀にこれの良い業者のものがあり、水兵達は口伝てに聞いては横須賀寄港の機会などを捉えて買い求めていました。
余談ですが、現在でも例えば 「サンドレッド」 に付ける投擲用の紐は各艦ごと術科競技用に特別のものを揃えるのが通例で、私も艦艇勤務の時には、時には多少のポケットマネーを出して掌帆長に買いに行かせたものです。 これも横須賀某所の業者でした。
ハンドレールに手が氷結する位の寒さでありましたが、こんな寒さでも元気旺盛なもので大砲を大事にすることを忘れず、如何様な寒さにも屈せぬ砲術長三輪少佐 (修三、17期) の厳なる当直振りに砲員挙って之に見習ひましたものです。
当時北海の寒さはとてもお話にならない。 私の砲員の神谷二水は、舌の暖みでは結氷する様なことはなからうと思って自分の舌をハンドレールに当てゝ見た処舌が凍りついて脱れず大怪我をして永く休んだ実例があります。
恰度三月の中頃と思って居りますが、聯合艦隊は例の鎮海湾に集合しました。 (注4) それまでは単独で北海の警備配置につき訓練を重ねて居ました。 其れ迄に 「八雲」 に一度遭ったばかりと憶えて居ます。
(注4) : 第2艦隊派遣艦艇による北海方面警備は4月14日に終結、「浅間」 は同日夕刻函館を出港、4月17日鎮海湾に入港しています。
(続く)