2011年08月12日

日露海戦懐旧談 (18)

海軍特務中尉  中 村 芳 蔵

   一、開戦迄

 私は開戦当初一等水兵で 「三笠」 乗組十五番八糎砲射手として終始戦役に従事しました。 戦闘部署が短艇甲板に在りました関係上戦況を見ることが出来ましたから記憶に残って居るところを記述致さうと思ひます。

 先づ順序として開戦前の模様から述べることに致します。

 日露外交の危機切迫し世論漸く其の危急を伝へたる明治三十六年八月の頃から佐世保軍港は次第に艦艇の出入頻繁を加へ形勢何んとなく緊張し、軍港は艦艇を以て充満せられ大小の煙突は不断に黒煙を吐き林なす檣は旭日旗をひるがへし、或は五島列島の実弾射撃、玄海洋上の演習、伊万里湾内の仮泊或は島原湾、天草灘に於ける実弾射撃等各々訓練に寧日なき有様。

 又軍港内にありては船体兵器の修理及糧食、弾薬、炭水等の補給、戦時不用品の陸揚、艦艇の塗替 (此時まで軍艦は上甲板以上は白色以下は黒色、駆逐艦、水雷艇は全部白色在りしを鼠色に塗替) (注) に忙はしかりしが、三十七年一月半ば頃より召集令下り俄かに緊張したのである。

 斯くして二月一日には在港艦艇乗員の連合大運動会があり、又烏帽子岳の登山、佐世保海兵団に於ける武術競技等大に士気を鼓舞しました。 「千歳」 艦長東伏見宮殿下、「八雲」 分隊長山階宮菊磨王殿下及 「三笠」 分隊長伏見宮博恭王殿下より夫々酒肴料を賜はり将卒深く感激しました。

 当時海軍部内は元より国民も共に開戦の避くべからざるを期し、骨鳴り肉躍るの概がありました。

 然して二月四日より各艦艇は機関に点火し、又夜間は最上甲板に哨兵を配し教門の砲に砲員を配し警戒することゝなり、命令一下直ちに出動し得るの準備をなし数日来乗員の上陸を禁止せられ居りましたが、五日突然佐世保に家族を有する者に限り午後八時より十時迄上陸し家族及知己に別れを告ぐることを許可せられました。

 時は短く情は尽きず風寒く月暗き如月の暮夜幾千の老幼婦女が手に手に提燈を携へ、奉公の念義勇の心に家をも身をも忘れて勇み立つ其の子其の父其の夫を見送る為桟橋に殺到したる悲壮なる場面は到底言葉に尽すことは出来ません。
(続く)

(注) : 連合艦隊の艦艇が戦時塗装としたのは、聯隊機密第28号に基づく明治37年1月10日からのことです。


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( 元画像 : 防衛研究所保有保管資料より )

posted by 桜と錨 at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露海戦懐旧談(完)
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